2016.7.18
無藤 隆 子ども学研究特論(13)
第28章 観察法
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
本日は「観察法」について解説する。古典的・伝統的な意味での観察というのは客観性を追求するやり方である。
近年、特にここ15年くらいは実際の場面の中で観察していくというスタイルが出てきている。その場合には、その場に暮らしている人たちとの関係が問題になる。本章ではそのあたりを扱う。
今まで色々な章で研究者と研究対象者との関係が出てきたが、本章でもそのような問題を扱う。
観察というのは素朴な研究法である。実際に起きていることを記録する。その時に、ある限定した実験室的な場面設定の中で観察により行動を捉えるというスタイルは従来の心理学などにおいて伝統的に存在してきた。それに対して、質的研究の中でエスノグラフィ的な発想が観察法の中に入ってきた。
特定の文化集団の中でどのような暮らしをしているのかを克明に調べる。そこで暮らしている人たちにインタビューするとともに、活動のあり方を観察する。行動が起こる物理的・社会的場面を観察し記録する。
そういう観察のことを、自然主義的観察(naturalistic observation)と読んでいる。従来の心理学では特定の場面で観察がなされる。例えば、エインズワースのストレンジ・シチュエーション法では、実験室の中に母親と1歳くらいの子どもを置いて、どのようにふるまうのかを観察し、いくつかの基準で分類し、愛着が安定しているか安定していないかということで研究を進めるのであるが、それは自然主義的とは言えない。そうではなく、当人たちの普段の生活の場でできる限り普段の行動の仕方を観察するので自然主義的観察と呼んでいる。
文化人類学や社会学などでも伝統的に使われているが、比較的伝統的な観察スタイルは、できる限り相手の邪魔をしないということである。要するに、侵入的でない(unobtrusive)ということである。侵入的ではないということは、相手の生活を邪魔しない、変えない、普段のままを見るようにするということである。
つまり、研究者が知りたいのは相手がどう暮らしているか、活動しているかであるので、できる限り邪魔しないようにして客観的に観察し記録していく。すると、観察者はできるだけ相手から見えないようにしなければならない。
例えば、幼稚園や保育園で子どもの遊びを観察する際に、研究者が子どもたちが遊んでいるところに入っていくと、子どもたちが気にするなどして、遊びの仕方が普段と変わってくる。また、子どもたちがビデオを見て意識したり、観察者に見られていることを気にしたりする。観察することが子どもの遊びのやり方を変えてしまう。観察がいるかいないかということに関係なく、ありのままを観察するためには、子どもに話しかけないで近寄らず壁(のように、存在を消すようにたたずむ)になる。ビデオの存在が目立つようには撮影しないようにする。最近はビデオ機材も小さくなってきて目立たないようになってきた。観察している時に子どもを見ないようにしたり、ビデオのファインダーを露骨に子どもに向けたりしないようにする。非常に上手な人は、ビデオカメラのファインダーを腰のところにおいて、子どもを撮影することができる。以前はビデオカメラと録音が別々の機材であった時代があり大変だった。最近の子どもはビデオ慣れしてきて撮影されていることを気にしなくなってきた。そうは言っても観察者の視線を感じることはあるかもしれない。1歳くらいの人見知りする時期の子どもの観察は、子どもと目を合わさないようにして観察する。できる限り相手を邪魔しないようにすると普段の様子が見える。
それが、伝統的なやり方だが、本章で取り上げるのはそうではないやり方である。つまり、研究者が特定の立場として相手と関わるのは当然であり、相手と関わることによって観察することが大事で、相手と対話することも研究の中で位置づけていくというやり方である。 さらに強調すると、研究者が実践者と一緒に、または、研究者と実践者が同一人物である場合もある。例えば、保育者が観察・省察する場合である。そういう研究を推奨する人の中には、むしろ、客観的、第三者的な観察を否定する人たちもいる。
私(無藤)は、元々客観的な観察のやり方が好きであるが、保育者や教師が考えたりして記録することの意味はある。それぞれの立場は両極端がありながら混在している。
まずは、古典的なやり方を考えていく。いかにして研究者が観察に徹しながら、相手に影響を与えないようにしてきたか。客観性を担保するということは、どういう場面を切り取り、記録し、分析し、解釈するのか。観察者が事実を歪めていないかということが大事になる。観察の手法をとる研究者の多くは、古典的伝統的なやり方を否定はしない。第三者的なやり方が成り立つから、観察が成り立つ。
では、相手との関係を作るというやり方とどう組み合わせていくのか。
特に、自然主義的観察も含めて、研究者と相手との関係を考えてみると、次の4つの組み合わせがある。
参加 参加>観察 参加<観察 観察
両極の部分に、100%の完全な参加と100%の完全な観察という立場がある。その中間に観察者であるが参加するという立場がある。幼稚園の担任であるとか、園長、主任という立場は研究を離れて、その場における役割を持っている。コミュニティの住民も完全な参加者である。その場になじむことはいいことであるが、特定の立場の限界がある。どうしても主観的になることを避けられない。園長として普段の保育の様子を見ていても園長という立場で保育を見ている。担任は園長が見ているということを知りながら保育をしている。あるいはまた、担任であるなら、子どもは担任と関わりながら遊んでいる。担任から離れた関係のところで子どもがどのように遊ぶかは分からない。ましてや、その中で観察する記録の歪みがある。
例えば、「子どもが親しみを込めて挨拶を返してくれました」という記述があった場合、本当に子どもが親しみを込めたかどうかは分からない。そこに、その役割の中での歪みが入ってきている。
また、「幼稚園では子どもが生き生きと遊んでいる」というエピソードを担任が言っても、それは嘘ではないし間違っていないかもしれないが、毎日起こっていることか、たまに起きたことなのかを確かめる必要があるかもしれない。両者は大きく違う。どんな観察でも歪んでいるが、それをチェックする機能が働かなければいけない。完全な参加者になるほど難しくなる。担任と園長など、園内の複数の職員が観察し、浮かび上がらせる手法もあるが、実際には難しい。
以前の章で、三角測量について解説したことがあるが、担任と園長が観察して相互の重なりという意味で客観性を高めることはできるかもしれないが、純粋客観的な研究は可能かという問題が出てくる。隠しカメラで撮影したとしても、カメラに捉えられるのはごく一部であり、そこに歪みがでてくる。カメラに映らない部分もある。どのように取り出すかは、限定すればするほど難しい。多くの質的研究では、隠しカメラ的な研究はしていない。隠しカメラは、倫理的な問題をクリアすれば可能である。子どもが動かないごっこ遊び的な場面や砂場遊びではよい資料となる。だからと言って、そういうやり方だけになると資料の限界がある。やはり、生身の人間が観察すべきところはある。だから、生身の研究者がその場に入っていくしかない。
特に、相手の暮らし全般になると、幼稚園生活全体の観察となると、担任がいたり、園長がいたり、職員室でのやり取りはどうかとか、担任や園長が保育の計画をどのように立てるかを観察するのは隠しカメラでは無理があるので、職員室に入って観察するしかない。話し合っている傍らでテープレコーダを置いて録音させてもらうことがあるかもしれないが、目立つし侵入的(intrusive)である。
そう考えてみると、研究者がその場のあり方を全くいじることなく取り出そうとすることは難しい。ただ、文化人類学の分野ではそれに近いことはやってきた。マリノフスキーなどは、ある部族の中に入り込んで、そのコミュニティの一員となり、部族の人々の普段の様子を緊張せず自然な様子で記録することができている。
そのような伝統的なやり方というのは、①まず、あらゆるものを「記述的」に観察をし、次に、②「焦点化」する、つまり、自分の研究に関連したところを取り出すのである。そして、最後に、③「選択的」、つまり、特定の場面を選んでその中で特定の行動に注目して記録するのである。このように、エスノグラフィ的な観察というのが成り立っていく。
さて、古典的伝統的なやり方がいくつかの理由で困難になってきている。現代的なフィールドワークにおいては3つの新しい特徴が生まれてきている。
一つは、研究者がコミュニティに入っていくときのやり方が、周辺から中心的な役割を担うようになってきた。たとえば、幼稚園や小学校では園内研修の助言者として入ってきて、研究者の役割が変わってきており、コミュニティの1つの中心的役割を担うようになってくる。
二番目は、観察というのは、観察者の外側の見方と住民の内側の見方を取り出して調和させることが簡単に可能ではなくなったこと。以前の章で出てきた”etic”から”emic” へ…という考え方であるが、それが難しい。
三番目は、研究における協働研究者(collaborative partners)として相手を考えるように変わってきた。より当事者、住民の一人となり、同時に、観察によって詳しく客観的に記述するという立場、この二重の立場をどう成り立たせるか。当事者の目そのものではないが、当事者の見る見方に入り込んで行って、もう一人の当事者となって観察するというものでもある。研究者が当事者の中に入っていくとすると、必然的にある役割を与えられる。「状況的アイデンティティ」とは、研究しようとしているコミュニティの中にある役割を引き受けて位置づけられること。コミュニティの中では相手との協働性をいかに作っていくかが大事である。知識主体や知的パワーというのをもっぱら研究者側に置くのではなく、対等に共有し、協働しながら研究していく。
もう一つ重要な問題がある。古典的伝統的なエスノグラフィの観察が可能な時代から大きな社会的変化が起きたことである。つまり、文化とか社会とかコミュニティが安定して独立体として存在するというのが信じられなくなってきた。トロブリアンド諸島というのが西洋文化とは独立し安定している文化として研究されてきたが、そのような独立した完成体としての文化が現在存在するのか。現代社会では、コミュニティの中のメンバーは流動的で動いているし、他の組織に同時的に存在したりもする。
さらに、研究者が幼稚園などに入っていったときに、研究者として、その場のあらゆる場面に出入りして全部のデータを取ることはできない。つまり、データを取ることには限界があり、特定の見方しかできないのである。時間的にも空間的にも制限され、特定のやり方しかできない。
すると、フィールドワークといっても、そんなに安定して存在しているのだろうか。フィールドワークにおけるフィールドとは何なのか、むしろ多様に色々なものが混ざり合っている。
ローカリティ(locality)とは、地域性とか局所性という日本語に訳せる。例えば、日本のコミュニティというのが独立して孤立して存在するのか。行政区画としてのある市があったとして、朝から晩までその市内にいる人は少数でほとんどの人が移動している。そう考えていくと、ローカリティとは研究者のあり方に依存したものであり、文化として明確な枠組みを持ったものではない。10年単位で見ると、ここ50年はますます流動的になってきている。
例えば、生態学的システム論がある。子どもが生活する場は、家庭、保育園、学校がある。半ば本当だが、半ばごまかしてきた。どこまでが家庭なのか。自分の家に存在する時間はそれほど長くない。中学生、高校生はその家庭の中に本当に生きているのか。実際、彼らはラインやインターネットで外部の人とつながっている。安定して家庭の中に存在しているようには見えない。境界研究(borderlands scholarship)でも扱われている。安定したまとまりをもった存在というよりは、「隙間性(間隙性)」や「混成性」をもつ。
たとえば、大学というコミュニティには、教員、職員、学生がいるが、教員集団、職員集団、学生集団、それぞれが独立してコミュニティを作っているかというと、学科、サークル、出身高校などに分かれ、さらに他の大学との交流があり、等々で、ある大学の学生という集団そのものが消えていく。境目がぼんやりしていくのである。
さらに、教員組織も同様で、学部学科があって非常勤の先生もいるなど、教員は所属意識で動いているばかりではない。そう考えるとコミュニティは安定していない。対象が文化社会として安定しているというイメージ自体に無理がある。それをどう扱えばいいか。絶えず変化する存在としてのコミュニティを観察する。絶えず変化している当事者の関係を作っていく。
当事者も自明ではない。当事者と限定するのは難しい。さまざまな立場があり、当事者はこう考えると提示するのは難しい。当事者としてその人生すべてを生きているわけではない。家庭においては妻であり母であり、友達関係においては別の姿を見せる。
研究者がそこにかかわるとすれば、イメージとしてそこにしっかりとしたコミュニティがあり、研究者がだんだん外側から内側に入りながら、潜入カメラマンのように中に入って撮ってくるのではなく、協働的なイメージで内部の人との関係を作りながら研究していく。一緒に協働する相手も流動的に動いている。研究者はそこに入りこむ「私」という存在である。従来の伝統的なスタイルの研究者は、置き換え可能、代替可能な存在であるという前提で研究している。誰がそこに行っても同じ結果になるということを前提で研究している。同じ結果になるというのは、その文化が安定して確定的なものという想定で研究を行っているのだが、それは成り立っているのだろうか。
研究者がどういう人間で、どういう問題意識を持ってそのコミュニティの研究をするのかによって観察結果は変わるはず。その問題意識を明白に示していく。さまざまな意味が解釈されていく。複数の捉え方があり、それらを競わせながら組み合わせていくしかない。
研究というものは特定の立場を持った研究者と当事者が協働して作り上げるものという捉え方しかない。相互作用の交渉結果としてコミュニティのあり方を見出していく。特定の研究者が特定の場において特定の相手を対象とする。特定の場は万能ではないから、そういう限定の元でさまざまな知見と取り出していくしかない。
そういう中で、特定の固定的な文化社会は消えていく。人間の暮らしが流動し変化していく姿を見ることができる。
さて、今の研究がこのように変わってきたのだが、いくつかの問題点が提示されている。
以前取り上げたが、研究倫理委員会(IRB; institutional review board)との関係である。質的研究者に限ったことではないが、質的研究ではとりわけ困っている。相手に対して侵入的であってはいけないというのが研究倫理の大原則である。研究倫理委員会というのは、元々は医療研究から始まった。注射して血液を調べるなど、無用に侵入するなという前提がある。しかしながら、エスノグラフィは侵入しないと研究ができないところがある。町や村の住人になるから侵入的である。小さい子どもや自分の意思を表明できない障碍者や病人には注意が必要だが、その場合に承諾は代理の人から得る。健康面への害を与えないことははっきりしているにしても、難しい問題がそこにある。
次に、研究者とそこに暮らしている人たちとの関係である。相手のコミュニティに暮らしている人と、一緒に考えていく。IRBは研究に取り組む前に予想される結果を出すように言われるが、多くの文化人類学者にとってはなかなか困難である。相手の許可を慎重に得ることによって、認めていこうということになってきている。さらに、当事者との話し合いの中で研究の目的や計画自体を作っていく場合もあるだろう。医療分野とは審査基準を変えてきている。
研究者は研究者倫理を保持する必要がある。自分の研究の関心や目的を正直に相手と共有すること。途中で変わったら正直に話して協働していくこと。一緒にやっていき、当然ながら、そこで得られたデータを共有し、発表にあたっては協働していく。あらゆるものを当事者の許可を得なければならないと言っているのではない。当事者の都合の良いものに変えられてはいけないので、あらゆることの許可を得る必要はない。しかし、当事者の利益も考えた研究を目指さなければいけないところが難しい。
二番目は技術的な問題が取り上げられている。ビデオカメラなどで撮ることが非常に容易になってきている。そこで起きていることを技術的にとられることができるようになった。すべてがビデオや録音で捉えられるわけではないが、数十年まえからすると豊かなデータを得ることができるようになった。しかしながら、個人情報の漏えいを考えると、その音源データをそのまま公表してはいけない。また、ビデオ映像をそのまま使うと、知っている人がみたらどこの場所か分かってしまう。だから倫理的配慮や相手のプライバシーへの配慮をしっかりと考えていくことが大事。
三番目の問題が文化的変容の問題、つまりグローバリゼーションである。
コミュニティは、もやは、地理的な意味での場所であり、人工的な区切りというのが明確ではなくなってきた。東京における韓国人コミュニティ、中国人コミュニティ、インド人コミュニティというのは、実態としての意味はあるのか。いくつものコミュニティがありながら流動的に錯綜している。日本人と結婚している人もいる。二世三世もいる。研究者は目に見える相手を研究するしかなく、それはローカリティが強いとも言える。むしろ、そういうあり方を積極的に捉えていく必要がある。
たとえば、あるお店で最初に雇ったバングラディッシュ人がいい人で、その後も店のオーナーの采配で同じ国の人たちがその店で仕事をするようになったなど、東京におけるコミュニティを調べるとはそういう多種多様な可能性を含めて研究することを指す。
あるいはまた、アメリカのチャイナタウンにおいて、ある町のどこかで中国語だけでやっているという文化もあるかもしれないが少なくなってきて、他と入り混じってきて、新しい文化が形成されていく。横浜の中華街にいけば中国人のコミュニティがあるが、彼らは日本語も話せる。そうやって、絶えず変化していくものを調べていくことになる。
四番目の問題がバーチャルな世界(virtual worlds)の問題である。インターネットの世界は非常に大きくなってきた。バーチャルなコミュニティが定義できるようになってきた。興味関心によって集まってくるコミュニティは定義されなくもないが、実際に暮らしているコミュニティと比べると流動性が高い。そこで暮らしている人のアイデンティティはいくらでも偽ることができる。仮面をかぶることもできる。ある範囲のことしか語らない。ある範囲のことしかシェアしない。そこでしか語らないこともある。コミュニティと呼べるかどうかということも定かではない。変化が激しく数年で変わっていく。
どうしていくか。大きな研究上のチャレンジがある。そこでの調査をどうしていくか。インターネットの情報は文字であり書かれたものである。そのうち映像や音声も研究対象となるかもしれない。ラインのスタンプの意味は何を意味するのかは微妙である。昔風であれば二チャンネル用語というのがある。数ヶ月で変わっていくのをどうとらえるのかは難しい。研究倫理的に誰に許可を取るのかは難しい。そのまま引用することには許可が必要なのか。誰に対してアクセスするか。基本原則は、公開されているものは誰でも分析していいことになっているが、引用する場合は発言者に許可をもらう必要がある。メッセージを送っても読まない人もいる。研究倫理がいうレベルでの許可は難しい。
最後に、このような観察研究は相手との関係を作り上げながらやっていく際に、社会的正義(social justice)を高めるために研究をするという人たちが出てきている。声なき人たちをエンパワーする。道徳的倫理的なものを表面に出している人たちがいる。抑圧された人や周辺の人たちの声をどのように拾い上げていくのか。共感(empathy)の中で声をどうやって拾い上げていくのか。
そのコミュニティの中に入り込みながら、その人たちの力を引き上げていく。その人たちは気付いていないような、そのコミュニティにある資源を取り出せるようにしていく。他の人たちとの関係を作っていく。
代弁者(advocacy)になっていくのである。つまり、代わって権利擁護をすること。声が出せない人たちのために代わって権利を擁護していく。抑圧されている人たちの権利を回復していく。社会的な正義を求めていく。
それを大学教育の中でいかに教育していくか。本章の著者の専門はサービス・ラーニングである。サービスは奉仕であり、ボランティアを体験しながら学ぶことである。例えば、外国に行って奉仕しながら学ぶ。サービス・ラーニングは現地に赴き、観察しながら、相手との関係を作っていき、大学に戻って体験を意味づけるための理論を学び、討論をしていく。これが体験学習である。大学教育の中で、そういうものを広めることによって、社会的正義を広めることができる。
結論と今後の展望
観察というものは第三者として、対象となる安定したシステムとしての文化やコミュニティとそこでの活動を記録するということでは難しくなってきた。絶えず変化し流動する環境の中で様々な当事者と多様な協働的な関係を作り出しながら、相手の立場を改善していくようなやり方をしていく。
そこでは、確定的、決定的真実を専門家として下すというより、相手と協働しながら新しい知見を絶えず暫定的に交渉しつ取り出し、繰り返し考え直していくための知見を作り出していくのである。