投稿日: Sep 23, 2016 6:10:20 AM
本書は、福祉の観点からで語られがちな障害について、身体(身体論)の観点から迫る著書である。まえがきにおいて、著者は以下のように書き出している。
人が得る情報の八割から九割は視覚に由来する・・・しかし、これは裏を返せば目に依存しすぎている・・・私たちはついつい目でとらえた世界がすべてだと思い込んでしまいます。本当は、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界もあっていいはずです。物理的には同じ物や空間でも、目でアプローチするのと、目以外の手段でアプローチするのでは、全く異なる相貌が表われてきます。けれども私たちの多くは、目に頼るあまり、そうした「世界の別の顔」を見逃しています。この「世界の別の顔」を感知できるスペシャリストが、目が見えない人、つまり視覚障害者です。たとえば、足の裏の感触で畳の目の向きを知覚し、そこから部屋の壁がどちらに面しているのかを知る。あるいは、音の反響具合からカーテンが開いているかどうかを判断し、外から聞こえてくる車の交通量からおよその時間を推測する。(本書5-6頁)
つまり、視覚障害者(以下、本書と同様に「見えない人」と記載する)は、見える人と比較すると制限あるが、視覚以外の感覚を用いて「目が見えることを前提としてつくられている世界」の中で生活している。本書は、見えない人は世界をどのように認識しながら、行動しているのかを解明することを目的としている。そして、本書は「身体論であり、見える人と見えない人との違いを丁寧に確認しようとするもの」(7頁)である。そして、著者は「障害者とは、健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人」だと言う。見えるからこそできることもあれば、できないこともある。逆もまた同様である。見えないことを欠落として捉えるのではなく、差異として捉え、その差異を面白がるのが本書の基本的立場である。
具体的には6名の見えない人へのインタビューやワークショップを通して、彼らの空間認識(1章)、感覚の使い方(2章)、体の使い方(3章)、コミュニケーションの仕方(4章)、生きるための戦略としてのユーモア(5章)などを分析している。なお、この6名は全員、視力を失った年齢はそれぞれ異なるが、見えていた時期があった人たちである。
第1章においては、見えない人の空間理解を取りあげている。見えない人の例として、著者の所属する東京工業大学がある大岡山での、木下氏(全盲)とのやりとりを紹介している。
私と木下さんはまず大岡山駅の改札で待ち合わせて、交差点をわたってすぐの大学正門を抜け・・・西9号館に向かって歩きはじめました。その途中、15メートルほどの穏やかな坂道を下っていたときです。木下さんが言いました。「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」。
私はそれを聞いて、かなりびっくりしてしまいました。なぜなら木下さんが、そこを「山の斜面」だと言ったからです。毎日のようにそこを行き来していましたが、私にとってはそれはただの「坂道」でしかありませんでした。つまり私にとってそれは、大岡山駅という「出発点」と、西9号館という「目的地」をつなぐ道順の一部でしかなく、曲がってしまえばもう忘れてしまうような、空間的にも意味的にも他の空間や道から分節化された「部分」でしかなかった。それに対して木下さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で空間全体をとらえるイメージでした。
確かに言われてみれば、木下さんの言う通り、大岡山の南半分は駅の改札を「頂上」とするお椀をふせたような地形をしており、西9号館はその「ふもと」に位置しています。その頂上からふもとに向かう斜面を、私たちは下っていました。(本書47-48頁)
目が見える著者は、ゆるやかな坂道だとしか感じていなかったが、木下氏は眼前のものが見えないからこそ、大岡山を俯瞰し、そこは「山」なのだと認識したのである。物理的には同じ場所にいても、その場所に与える意味によっては全く異なる経験をしているのである。このように、見えないことによって、生まれてくる見方もあることを、著者は繰り返し紹介している。
第2章では見えない人の感覚について言及しているが、見えない人に対するイメージも大きく変わると考えられる。第2章において、「視覚障害者は触覚が鋭い」は偏見であることを示している。例えば、点字が読める人に数枚のタオルを渡してその質感の違いを感じられるかと聞くと、必ずしも「はい」ではない。決まったパターンがある点字は、読むことができるが、無秩序なタオルの毛は読めないのだ。「点字=触覚」の構図は、見える人側の思い込みであり、見えない人にとって点字は読むものなのである。ちなみに、最近は点字そのものがマイナーで、見えない人の点字識字率は10%強だという。これは、テキストの電子化が進んだことで音声読み上げソフトを使う人が増え、点字離れが進行していることが背景にある。「目が見えない=点字が読める」も今では思い込みに過ぎない。
個人的には、教育とは「触る世界」(触覚、味覚、嗅覚)から「見る世界」(視覚、聴覚)への移行という、社会には、五感に対して順序付けをしていることを指摘する箇所が興味深かった。
第3章では見えない人の体の使い方、第4章では他人の目でみること(「ソーシャル・ビュー」という美術鑑賞は大変面白かった)、第5章ではユーモアについて取り上げているが、「視覚がないから死角がない」「見えなくなってから転ばなくなった」など一見矛盾しそうなことも含めて、目の見えない人が世界をどのように体験しているのかを追体験することができる。
本書は、保育には直接関連する文献ではない。しかし、保育において重視される五感などの子どもの身体感覚について、何かしらの示唆を与えたり、再考を促したりするものであると考えている。
(紹介:鶴 宏史,2016年9月5日)
目 次
まえがき
序 章 見えない世界を見る方法
第1章 空間―見える人は二次元、見えない人は三次元?
第2章 感覚―読む手、眺める耳
第3章 運動―見えない人の体の使い方
第4章 言葉―他人の目で見る
第5章 ユーモア―生き抜くための武器