第2回の授業では、第6章の"Where am I? Position and Perspective in Researching Early Childhood Education / Peter Moss"を参考にしながら、幼児教育における研究者の位置を論じる。第6章の標題を訳すと、「私はどこにいるか?幼児教育を研究する場合の位置と視点」となる。positionは、立場、位置、後で出てくるpositionalityは位置性(立場性)、perspectiveは視点、地平、展望と訳すことができる。
本章の著者のPeter Mossは、幼児教育の世界ではトップ10に入るほど有名な研究者である。
幼児教育の世界は90年代以降、実証的で客観的証拠を元に議論するようになり、エビデンスを重視するように大きく変化してきた。そして、幼児教育が子どもの将来に役立つということが実証されてきた。それによって幼児教育の世界が大きく変わったのである。多くの国々において、幼児教育が施策の中心となってきた。例えば、ヨーロッパでは、イギリス、フランス、ドイツ、北欧四カ国、オランダ、ルクセンブルグ、スペイン、ポルトガル、スイス、ハンガリーなど、ほかにアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アジアでは、日本、中国、台湾、香港、韓国、ベトナム、インドネシアなどのOECD加盟国である先進諸国やそれに追いつこうとする国々で幼児教育が教育施策の大きな中心となってきた。日本では、幼児教育に2兆円前後が支出されてきたが、この3年で8千億円も予算が増えた。日本は就学前教育への私費負担が大きいが、国の補助も少なからずある。それは、待機児童問題に加えて、幼児教育に投資することが将来に有益であることが実証されたからでもある。しかしながら、これらのエビデンスに批判をする人たちがいて、その中の中心がPeter Moss(ピーター・モス)である。医学の世界で、エビデンス・ベイスド(evidence based)というときに、エビデンスに基づくという意味で、EBM(Evidence Based Method)という。医学の研究では、80年代から使われるようになってきて、現代ではエビデンス・ベイスドに基づかないものには保険はきかない。どのような治療も何%のリスクがあるかが説明される。エビデンス・ベイスドは医学から始まり教育の分野にも広がってきた。
医学の世界においてもEBMには批判があるものの、やはり医療ではエビデンスの影響が大きい。そうは言っても、明確なエビデンスでない場合もある。例えば、精神的障害であるうつ傾向などは自然治癒することもあり、半分くらいの確率で何をしても軽癒するため、薬の効き目と言ってもあいまいなところがある。教育分野について言えば、エビデンスがさらに曖昧な部分を含んでいたり、その効果がさほど大きなものでなかったり、一つのやり方でなくてもよかったりする。そのため、教育界ではエビデンスで割り切れないこともあるという批判がなされている。そこに質的研究が出てくる理由がある。量的なしっかりした研究が主流で、質的研究というのはそれを補完する役目であると捉える考え方が多い。質的研究をする人たちの全員ではないが、量的研究が確かなものではないという批判をしながら研究している人たちもいる。幼児教育の分野でも、ピーター・モスや何人かがそのような主張をしている。ピーター・モスとダールバーグ(Dahlberg)が著した“Beyond quality: Ethics and Politics in Early Childhood Education”という有名な本があり、日本ではまだ翻訳が出版されていない。その本の中では、幼児教育分野における質的研究の必要性が述べられている。
すべての経験を通して得られる知識は特定の立場や視点の中で形成されて使われている。positionalityとperspectiveはほぼ同じ意味で用いられている。性別、国籍、階級、障害、国籍、言語などさまざまな立場があり、さまざまな視点があるという意味で用いられている。研究者の見方が正しくて普遍的なのかというとそうでもない。科学者と実践者との間で議論の精密さで違いはあるかもしれないが、それほど大きな差ではない。生み出されているところのポジションや視点による違いの方が大きい。
さらに、研究者と研究される相手との関係性でもあり、人間の研究なので研究する人と研究される人が存在する。研究される人がある程度の年齢になると意見を聞くことができる。大人になれば、自分の意見や考えを持って生活しているので、くみ取って研究することが大事である。質的研究について詳しく知りたければ、保育Labの「ときがたり質的研究」を参照していただきたい。
研究する側と研究される側の関係性というのが一番大きい。病気になった人を医療の分野から考えると、医療的な手の施しようがないという場合がある。医療的な限界の先に援助する手立てはあるかと考えると、看護や心理的カウンセリングや福祉的な関わりがあるだろう。そこでの明確なエビデンスを出すのは難しい。例えば、ホスピスというのを考えたときには、一人ひとりの個別性が強いので難しい。そこでは、一人ひとりの特性を考えた支援がなされている。当事者の思いをどうくみ取るか、どうしていくかは難しい問題である。しかし、それをやらざるを得ない。他の例で言うと、文化人類学者が1910年くらいから過去100年の間、世界中の民族を調査してきたが、1930年くらいからそれらの調査が論文化されてきた。そして、1970年代くらいからそれらの研究が批判されるようになってきた。事実と違うのではないかという批判である。調査される側の人が大学教育などの高等教育を受けるようになり、調べる側に変わっていき、自分たちを調査した論文を読んだときに、事実と違うのではないかという批判するようになってきた。個別の事実は合っているとしても、それが何の意味があるのかという問題があげられるようになってきた。文化人類学者たちは、西洋的な見方が一番良いという訳ではないということを研究を通して批判をすることが目的の一つであったが、それは調査される側にとって必ずしもメリットがあるわけではい。田舎の調査をして珍しいことがあるとわかってもいいが、その風習を維持することが住民の望みなのか、それとも文化的な生活をするのが望みなのかを知ることによって研究は変わってくる。幼児教育についても同じである。調べたことが何の役に立つのかと園から尋ねられることがあるかもしれない。色々な人が調査することによって、データが積み重なって、幼児教育をよくすることにつながると答えても間違いではないだろうが、園側としてはそのような目的にメリットを感じないかもしれない。
あることを調査する際に、相手との関係を問題にしなければならない。研究者の立場も事実も固定されている。価値ある事実というのは研究者また研究者を含む学会、つまり研究者集団がそれを決めている。今まで批判されてきたように、ジェンダー、人種、階級、または、障害のある人を調べる際に、調べる側に障害がある人がどの程度含まれるのかによって、全く障害者が含まれないのであれば、研究に歪みがでてくる可能性もある。研究者の立ち位置が変わってくる。幼児教育の研究ですぐ出てくる問題で、研究者がある場面を観察する場合と、実践者が自分のクラスの実践場面を観察する場合では、研究で見えることが変わってくる。第三者の研究が客観的で、当事者の研究が主観的というものではなく、知識というものは、ハンドブックの90ページにあるように、状況的(situated)であり、局所的(local)であり、部分的(partial)、予備的(provisional)、条件的(conditional)、随伴的(contingent)、文脈的(contextual)である。実証的(positivistic)という研究手法は、普遍的で、数量的で、神の視点(God's view)だと言われ、どの国でも当てはめることができると一般的に考えられている。
ジェームス・ヘックマンが再分析して有名になったペリーハイスコープ(Perry High/Scope)や、アベシダリアン(Abecedarian)、シカゴ親子センター(Chicago Child-Parent Centers)などの縦断研究がある。ペリーハイスコープの研究は1962年に始まったものである。アメリカのNICHDとイギリスのEPPIの大規模調査が有名である。ピーター・モスは、縦断研究の結果は大したものではなく一貫した研究結果ではないという点を批判している。ペリーハイスコープの研究では、社会性の発達への影響、例えば、高校卒業率、逮捕率、定職についている割合などには効果が見られたが、知的な意味での効果はなかった。アベシダリアンとシカゴ親子センターについては、知的な効果は見られている。ヘックマンは非認知能力の重要性を主張したが、学ぶ姿勢、学校のルールを守れるかなどが影響していると考えられる。研究によって違いがあり、数量的に測れるところを見たものである。非認知的能力についても直接的に測定しておらず論文の中で議論しているだけという問題点がある。ペリーハイスコープのプログラムは貧しい層が対象で、そもそも比較群の子どもたちは幼児教育を受けていない。つまり、それぞれの国の地域事情がさまざまであり、アメリカの研究はアメリカ固有の歴史的、地域的な条件に影響されている。中流家庭であれば幼児教育に行かなくても、それほど違いはないかもしれない。これに対して、イギリスのEPPIでは中流家庭でも幼児教育の効果があることは実証されてはいる。
最初の問題に戻るが、立場性や位置性(positionality)の問題が入ってくるだろう。どういう場に研究者がいるかが影響してくる。ハンドブックの93ページに述べられているが、ヨーロッパの3つの国を比較した研究がある。デンマーク、イギリス、ハンガリーを比較し、それぞれの国の保育の実践の場面をビデオに撮り、保育者に見せて研究者が分析する。それぞれの国の保育のやり方が違っているというだけでなく、それぞれの国でやっている保育実践の見方が違ってくる。つまり、こういう実践が良いという理屈立てが違ってくるのである。デンマークの人たちがビデオを見たときの反応から分析している。デンマークは、子ども期(childhood;遊び中心の保育がなされている)、イギリスはプレスクール(preschool;先生が一斉保育的に文字や算数を指導している)、ハンガリーは家庭志向(home/family;静かに規則正しい生活を重視している)という特徴がある。それらは、それぞれの国において幼児教育としてそれぞれに良いとされているものである。何が良いとするかは国によって異なる。知的によいとされるのは国語と算数の成績を指しており、アメリカやイギリスではそこを強調するが、その点について北欧や日本では同じではない。テキストにsocial pedagogyという用語が出てくるが、養護・ケアと教育、あるいは福祉と学校教育を統合し包括的なアプローチをとる幼児教育という意味合いがある。
OECDのStarting Strongは現在まで4巻が出版されており、第2巻は日本では『OECD保育白書』という翻訳版が出版されている。”Starting Strong”でも前述したsocial pedagogyがよく出てくるが、ピーター・モスはそれらの用語の違いについても指摘している。つまり、英語を使う国なのか、違う言語を使う国なのかによっても異なるのではないかと批判している。アメリカ、イギリスなど含む全体の8割くらいは英語を使った国の研究である。デンマークやハンガリーの国で使われている言葉の中には英語に訳せないものもあるのではないかというのである。日本の保育についても英語に訳せないものもあるだろう。英語を使うということは、ある特定の言い方をするしかない。social pedagogueを英語に訳すとsocial educatorまたはteacherとなる。英語に訳すと少しニュアンスが違ってくるだろう。イタリアのレッジョ・エミリアの保育では、ペダゴジスタという存在があるが、ペダゴジーとは少しニュアンスが違うだろう。日本の保育は、daycare center、childcare centerと訳すと少しニュアンスが違い、英語圏では少しランクが下という意味合いになってしまう。英語に訳せないことをどうしていくかが大事であるとピーター・モスは述べている。
位置性(positionality)として、研究へのとらえ方が国によって違うのである。実証的な立場とそれ以外の立場を、96ページにポスト基盤主義(post-foundationalism)を用いて述べられている。これは、普遍的なものを見つければ土台となるという考え方ではうまくいかないという考えであり、常に変更可能性があり、主観的な解釈の余地がある。知識というのは社会的に作られていき、社会的関係の中で動いていく。それぞれの立場で何が本当なのかというのはとらえ方が変わるが、確定できないものである。では、そのうえで、確定できないとすれば、あらゆるものは相対的で何でもありかというと、そうではなく、対話が大事である。それぞれの立場の人たちがそれぞれの考えを出して、永遠の対話が続く。色々な見方があることを前提として、それぞれの考え方を出していく。研究の善し悪しがないというわけではなく、信頼できるものもあれば、怪しいものもある。データの善し悪しは一つに決まるわけではなく、色々なとらえ方がある。保育する人の主観や保護者の主観もある。それらを突き合わせながら丁寧に考えていくことが大事である。色々な見方があり、そして対立もある。
デンマークの経済地理学者Flyvbjerg(2006)は、実践知理論(phronetic model)を提唱した。実践者や市民が社会的に重要なものを自己決定する。民主的な決定とは一人の意見や科学的なデータで決めるわけではなく、それらを参考にしながら一緒に考えていく。研究者が研究することも含めて一緒に考えていくというものである。実践者が自分たちの考えを外に出していくことを教育的ドキュメンテーション(pedagogical documentation)という。これはレッジョ・エミリアの考え方からきている。教師が写真を撮ったり、子どもが絵を描いたりして、実践の記録を残していく。保育者と子どもと保護者が一緒に考えていくものであり、具体的な実践の一コマ一コマを見ながら実践のあり方を丁寧に考えていこうとするものである。そこから発して、大きな政策であっても、具体的な実践場面でどうなのかということを考えていき、エビデンスですべてが決定されるものではないということを強調している。
(執筆:無藤隆,2017年4月17日)
(まとめ:白川佳子)