2016.6.27
無藤 隆 子ども学研究特論(11)
第24章 質的健康研究
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
本日の授業は、質的な健康研究について解説する。
今までの講義では、質的研究法の方法論を紹介してきたが、今回は、医療・看護の分野で研究を進めるための難しさや、実際どのような研究がなされているかが述べられている。
この分野の質的研究は、健康研究もたくさんなされてきたが、本章で紹介されているのは、病院や医療施設、クリニックなどでの研究である。
歴史についても質的な立場からの研究が多少紹介されているが、そのような先駆的な研究の中で、特に画期的なのは、グラウンデッドセオリーの提唱者であるグレイザーとストラウス(Glazer & Strauss)が1965年に出版した『死への気づき(Awareness of Dying)』である。彼らは、社会学者だが、病人の研究を実証的に行った。その流れが現在まで続いている。
ちなみに、日本でも、本格的に質的研究方法が入ったのは、看護の分野であり、現在でも、看護領域は質的な研究をする人たちが多いと思う。
アメリカの研究者の流れとしては、1980年代半ば以降、本格的に質的研究が入ってきて、グラウンドデッドセオリーとかエスノグラフィとか現象学とか、あるいは、ミクスドメソッドなどいろいろな方法論があり、そして、現在に至る。
ちょうどその頃に、エビデンス重視というものが本格化する。
特に医療領域はエビデンスについて厳しい領域である。
エビデンスについて簡単に説明すると、コクラン(Cochrane)のデータベースが1970年代、本格的には1990年代にスタートした。インターネットで検索すると、コクラン・ライブラリーのデータがたくさん出てくる。あらゆる病気にかかわる世界中の研究が検索できる巨大なデータベースである。
世界中の医師は、このコクランのデータベースを使用しており、そこにはエビデンスの要約が記載されている。それに基づいて、標準的な治療法が開発されている。
標準的な治療法は、コクランのデータベースを元にしながら、各国の医師会で作る。
多くの人は、アメリカ(英語圏)の医師会の標準があるのでそれを用いる。
そのコクランのグループが設定したのがエビデンスの階層(a hierarchy of evidence)、つまり、エビデンスのはしご(ladder)である。エビデンスのレベルには、高いものから低いものまであり、一番信頼性の高いものが臨床実験(clinical trial)で、一番低いものが単なる意見(mere opinion)である。
エビデンスで言う「臨床実験」とはランダム化実験という最も信頼性が高い研究手法である。ある治療をする際に、従来的な治療Xに対して、新しい治療法Yを比較するのだが、それぞれに患者をランダムに割り当てるのが決定的なポイントとなる。従来の治療法Xと新しい治療法Yとを比較する際に、A病院が元々Xを続けてやっており、B病院に来ている患者に新たなYを適用するとしたら、どの病院や治療法を選ぶかは患者に任されており、そのの自己選択効果が働くため、厳密には病院間では比較できない。病院ごとに患者の層が異なるため、治療法の純粋な効果を検討することができないのである。
さらには、治療群と治療しない群とを比較する場合もある。
通常の風邪の治療法というものは、有効ではないことがたくさんの研究でわかっている。
正確に言うと、薬がない。風邪というのは通常、数日休んでいれば治る。
その正しさは、今は、このランダム化実験で検証されている。
インフルエンザであっても治療法がない。熱を下げて早めに症状を和らげることにより、少し楽になるだけである。インフルエンザについても治る人は1週間程度で治る。
そういうことを示したものが、ランダム化実験である。遡れば、19世紀から存在するが、本格化したのは1990年くらいからで、現在、ランダム化実験しない治療法は、医学的には信頼性の高い治療法とは言えない。
この次に高いランクに属しているのは、幼児教育で多い縦断研究などである。例えば、経済学者のヘックマンによる分析の元のデータは、ヘッドスタート(ペリー・プログラム)にある貧困地域の子どもをランダムに割り当て、その地域の幼児教育を割り当てを受けない群と比較しており、強力なエビデンスであるとみなされた。
この階層で一番低いのは、意見(mere opinion)である。意見というのは、学識者の意見のことで昔は、学識者が長年の実践経験で判断することが重用された。意見より少しレベルが高いのが、さまざまな事例である。質的研究は、事例が少ないため、この階層では意見と同レベルに扱われる。
1990年代~2000年にかけて、質的研究は盛んになるが、エビデンスに値しないとみなされ、一方で厳しい時代になる。
欧米では日本よりも厳しく、エビデンス・ベースドの研究でないと研究費がもらえなくなる。研究費がもらえないと論文が書けないため、投稿しても論文が認められず、いい大学に就職できないという問題が生じる。
ただ、2010年ごろになってきて、質的研究はエビデンスを補完するものとして認められてきて、仲間に入るようになってきた。とはいっても、医学領域では、圧倒的に量的研究が多い。
ただ、医療の世界も広いので、患者さんにとってどのような病院にしたらいいかなどについては、量的研究だけでは捉えられない。日本でも、量的研究は医療の世界で重視されるが、看護は、ケアであるから、特定の人との人間関係が非常に大事であり、その点に関してはアンケート調査では捉えられないし、ランダム化実験には向いていない。そのため、この分野では質的研究が結構盛んである。
研究の世界では、量的研究が8割くらいを占めるが、保育・教育の世界では、量的・質的が半々であり、質的研究もそれなりに占めている。
p.403
次に、2009年に刊行された『質的健康研究(Qualitative Health Research)』という月刊の研究雑誌から論文を紹介する(Table 24.1参照)。
第一の分類は、「健康のケアのニーズを見出すこと」である。例えば、オレゴン州の田舎と都会の食べ物の安全性に対する認知の研究や女性の閉経への対処方略の研究がある。
例えば、閉経の研究だが、成人女性の発達では極めて大事なことであり、閉経した女性は人によって、さまざまな身体的心理的症状を表出するが、その対処方略は、非常に効果的なやり方で対応できる人、不安を抱え葛藤が非常に大きい人、非常に楽観的でアクティブな人など、3タイプの反応スタイルに分類された。
第二の分類は、「健康治療を求める場合の医師のやり方」である。がん患者がどのように治療の選択肢を選ぶか、NZのサモアの人がどのような治療を好むか、オランダにおいて子どもをもうけない不本意な手術をさせられたトルコ移民の経験についての研究など、さまざまな研究がある。多くはエスノグラフィかインタビューの手法を用いた研究である。
医療を簡単に受けられる条件は、国や階層によって違うが、日本は比較的容易に医療が受けられる。日本の健康保険システムはその点は素晴らしく、ほぼ誰でも高度医療を受けられる。ただ、自己負担はあるが、生活保護の場合は制限があるが料金がかからないシステムである。
アメリカの場合は、オバマ大統領になり、貧しい層も健康保険制度が始まった。以前は、そのような制度がなく、各人が民間の健康保険に入っていた。貧困層は民間の健康保険に入らないと治療も受けられない。
イギリスは、日本と同じ健康保険制度だが、基本的には地域ごとにかかりつけ医師、なんでも診てくれる総合治療医(general practioner)がいて、まずそこにいって、次に症状によって専門医へ回される。ただ、時間がかかる。裕福な人はお金を使って早く治療を受けられるが。
日本もそうしようとしている。紹介状がないと総合病院では受け付けないようになっている。そうしないと、日本の医療は破綻してしまう危険性がある。
ここでは、NZのサモアの人々がどのような治療を求めるのかについての研究が紹介されている。治療法には、二つの選択肢がある。西欧流の医療と伝統的な医療のどちらかを選ぶか両方を組み合わせるかである。
質的研究者は、どのように治療法を選んでいるのかに興味を持つ。その治療法を決めるのは個人よりも家族であり、これは大事な結果である。どうしてかというと、欧米では、患者個人が選択権を持つという枠組みを作っていて本人に説明する。患者は医師から説明されてどちらの治療法にするのかを問われる。しかしながら、サモアでは家族が重要な決定権を持つ。
あるいは他の研究では、西欧的な医療と代替治療(complementary systems)の組み合わせを患者それぞれが選んでいることを明らかにしている。
代替治療は、日本でいうと、鍼とかマッサージとか、特殊な水を飲むとか祈るとかを指す。
まともな医師はエビデンスがあるもの以外には代替治療を認めないが、患者はいろいろ試そうとする。
コンプライアンス(compliance)の問題と絡んでくる。規則に従うという意味で使われている。
医療の世界では、医師の処方通りに決まりを守るかということである。
日本の研究では、医師に処方された薬を半分くらいは捨てられていることが明らかになっている。風邪の場合、治ったら薬を捨ててしまう。日本の医療費は大量な薬代によってかなり嵩んでいるにもかかわらず、その多くが捨てられているという現実がある。日本以外の国では、風邪程度では医者に行かない。いきなり病院に行っても医者に診てもらえない。コンプライアンスの問題として、半分くらいの薬が捨てられていると分かってきたが、なぜ、患者はそうするのか。
例えば、高齢者の場合、飲まなくてはならない薬を忘れてしまうというのが、質的研究により、自宅での薬の飲み方を調べていく中で分かってきている。それ以外にも患者の心理面の影響がある。薬は飲まない方がいいのだから、ちょっと飲んでよくなったらやめるというような文化的信念をどう変えていくか、という問題である。
しかしながら、途中でやめても構わない薬とやめてはだめな薬がある。高血圧などの薬は、半端にやめるといけない。身近な例でいうと、抗生物質は飲み始めたらウィルスが死ぬまでずっと飲み続けないと耐性菌ができてしまう。このように、コンプライアンスを守らないと治らない、または副作用があるという問題もある。
三番目の分類は、「病気ということの経験」である。病気をすることは、その人にどういう経験となるか。深刻な病、慢性的な病というのは、その人にとって極めて深刻だし、生活が変わらざるを得ない。
例えば、HIVの問題。病気が発症した段階をエイズと言い、HIVはウィルスのことで、まだ発症していない段階で治療を開始する。健康を維持し、発症しても症状を抑える薬は開発されており、その場合、薬は飲んでもらわないとならない。だが、薬を飲むこと自体が辛い。薬を飲むたびに、自分がHIVであると思い出させられる、だから、飲まないようにするということがある、と分析している。
これは治療にあたる医師に伝わらない情報である。患者は、医師から問われたら「はい、飲んでいます」と答えてしまう傾向がある。だから、患者に立ち入って聞き出さないと分からない。
深刻な病気としてのはガンがある。不安、恐れがある。まして、治療に入れば、辛い症状も出てきて、無力感に陥るが、そういうことの経験について研究する。ただ、熱が出るなどの医学的な症状だけではなく、ある程度心理的な状況を明らかにする。生きられないかもしれない、通常の生活が営めないという状況、あるいは、乳がんであれば女性としての悩みとか、自分は、なぜ、病気になったか、自分が患者としてのアイデンティティとして、患者としてどのように生きていくかというような情報を調査から得る。
四番目の分類は、「ケアを与える側の経験と実践」である。
例えば、子どもが生まれると、ケアする人がいるわけであるが、ケアをする人が分娩第二期の女性へなぐさめの語り(comfort talk)をすることが意味を持つことがある、というような研究も紹介されている。
他に、患者さんが亡くなってしまったことによって、看護する側が受ける影響やターミナルケアにあたる配偶者のケアについてなど、いろいろな研究があり、患者研究とともに増えている。
五番目の分類は、「リハビリをする時」である。
リハビリが比較的短い期間で治る場合もあるし、長い場合もあるし、リハビリしても治らない場合もあり、患者それぞれに経験が異なる。例えば、精神病の場合にそれを本人が受け入れて、それに対してどう対応していくかということを聞き出す研究がある。
六番目の分類は、「看護その他の専門職の、その専門性の向上のための研究」である。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは、災害や犯罪、事件、にあった時に心が傷つき、
それが続く場合の症状をさす。典型的にPTSDであると診断されて本人もそう思う場合と、
あいまいな場合がある。PTSDは診断があいまいで、境目がはっきりしない。
大震災を経験しても、肉親がなくなった場合はその後かなり辛いだろうけれど、東京で2~3週間停電が続いたり、帰宅するのが大変だったり、いろいろな意味での不安があっただろうが、そういうあいまいなケースは、PTSDにはつきものだが、医療側からすると診断をどうするかは境界線がはっきり示されていない。
七番目の分類は、「患者を知る」である。
患者の状況を診断して介入援助しなければならない。PTSDなどあいまいな場合はどうしたらいいのか。精神障害はあいまいさがあるがどうしたらいいのかについて、症状や兆候をさらに理解するために研究する。
八番目の分類は、「健康ケアの実態把握」である。健康の治療やケアには、いろいろなやり方があるが、それについての実態を把握することである。特に、エスノグラフィを使って、実際の場面を把握する。
例えば、タイの北部における幼児の下痢の病気の研究。日本でいう「赤痢」であるが、それを母親がどう見ているかを調査した。多くの母親は、赤痢は体を軽くするので必要だと考えている。赤ちゃんが、下痢の時期を経て座ったり歩いたりするようになると信じている。だから、赤痢の予防にあまり配慮しないということがあることが明らかになった。赤痢を含む下痢を予防するには、そういう信念を変えていかなければならない。
この問題は、赤痢を含む下痢が途上国における乳児の死亡率と関係していることである。一番の原因は、水が汚れていることなので、きれいな水道を作るとか、それに代わるやり方として、井戸水をきれいに使うとかがある。ガンジス川のような清潔ではない水でミルクを作っていたら下痢する。排せつの場所と水をくむ場所を分離しないといけない。下痢が続くと死亡率が上がるのだが、途上国では公衆衛生がなかなか普及しない。
九番目の分類は、「医学教育」である。
医師とか看護師の教育をどうするかということを研究している。
以上を受けて、次は質的健康分野の研究を行う際の問題点を挙げている。
実は、保育・教育分野でも似たような問題がたくさんある。
第一の問題点は、質的研究の多くが、研究対象の生活に侵入的(invasive)であること。
それが質的研究の宿命であるが、患者の考えていることやることを丁寧にみることは、患者の生活や人生に入り込むことであり、時に侵入的となってしまう。
それに対して、アンケート調査などは、研究目的に沿って得られる情報が限定されている。エスノグラフィや観察は、研究目的に沿って限定的に情報を得るが、それ以外に見たり聞いたりする部分があるため侵入的となる。
研究倫理審査委員会(institutional review boards)がこの「侵入」を認めるかどうかが大事である。医療分野は特に、審査委員会が厳しい。質的研究が審査を通らないことがよくある。その辺の問題があるのでかなり丁寧にやらなければならない。研究の手順を説明するとともに、質的研究をやる意義を明確にすべきである。質的研究が一般的に意味があるとしても、研究に参加する人にとっての意義も打ち出したほうがいい。
例えば、患者さんがインタビューでいろいろ話すことで楽になるとか、振り返る経験になるとか、そのことが、患者さんや研究に参加する人の価値になるということを記載する。参加者にとって価値があるのであれば質的研究も意味があるものとなる。
ただ、そういうことをいちいち聞けないこともある。例えば、緊急ケアの状況を調べる場合は、いちいち患者に聞けないので、習慣として、患者の同意の代わりに、治療に携わる医師二人の同意があればいい、とされている。それが質的研究でOKかは問題である。
二番目の問題としては、医療分野で関わる人が多いことと、関わりが複雑であること。
病院に入院した患者に関わる人はいろんな職種がある。医師、看護師、それ以外の職種、掃除をする人など。それを全部観察するとしたら、全員から同意を得ないとならない。
実際にした研究では、ビデオ記録をとったが、ドアに「観察中」と書いて、「これからあなたは撮られる」と説明した。特に、患者でも誰でも、いやだと思ったらビデオを止められるとしたが、それは研究をするうえで、きわめて大変である。
三番目の問題としては、非常に弱い、傷つきやすい立場の患者(vulnerable participants) である。例えば、入院中の患者に対して調査をする際に、担当医師が調査をさせてほしいとなったら患者は嫌とは言えない。この点について、倫理委員会から指摘されるが、研究対象者は断る権利を持っている。圧力を与えてはいけないのである。これは難しいところで、アンケートくらいならいいが、立ち入ったことを調査するのは問題がある。
そのため、どうすればよいか。研究の許可を得る人は実際の医療にかかわっていない人がやるべきである。携わっている担当の医師が頼んではいけない。もちろん、医師も調査に同意していなければならないが。
四番目の問題としては、個人情報保護法である。
特定の病気を持った人について調査することになったら、特定の病気を持っていることについて情報がなければならないから、その病院のスタッフでなければならない。そして、患者に接触するためには、病院から依頼することになる。
その際の必要な手順であるが、勝手に病院から患者の情報をとることは許されていない。
次に、五番目の問題は、どのようにゲートキーパー(門番)に許可を得るかである。
研究を認めるかどうかの最初の責任者は、院長など病院のトップである。治療にあたっている医師とか看護師など、何段階にもわたって許可を得て、関わるスタッフ全員にも許可を得る必要がある。
施設の中の人の調査をする際には、スタッフ全員の名前を覚える、スタッフミーティングに参加するために時にはドーナツを持っていく、お別れの時にはケーキを持っていくなどの助言が述べられている。
六番目の問題は、患者を励ますこと。
慢性病で長く暮らしている患者に調査する際には、患者による自治委員会の委員長に研究の説明をして、許可を得るようにする。
七番目の問題点は、記録に対する恐怖である。
スタッフ側の実践記録をとりたいと依頼すると、スタッフ側が、自分たちが評価されるのではないか、それによって、自分の成績がつけられるのではないかと恐れてしまうことが考えられる。あるいは医療だったら訴えられるか、などと考えることもある。そのため、信頼関係を作り、守秘義務や匿名性を重視することを伝える。
幼稚園や小学校でもよくあるが、付属幼稚園などは観察されることに慣れているが、普通のところだと、他者にビデオを撮られたりメモを取られたりすると非常に気にする人もいるだろう。
医療の場合は、色々と問題がある医療行為をしている場合に介入するかどうか。
文句を言うとか便宜を図るだけではなく、当局に訴えることもあるかもしれない。
研究者の第一の責務は患者の利益を守ることである。内部告発すると研究させてもらえなくなるので、実際には難しい問題である。
ある研究では、老人ホームでケアを受けるアルツハイマーの患者への待遇がよくないことが明らかになった。例えば、施設で水が飲めないとか、栄養が不足していることが分かった。そのため、研究者たちは医学的に体重測定などをしているが、患者から求められたら患者に水などを提供し、データの一部として記録した。
さらに、その問題をホームの責任者と討論して改善を求め、さらに報告書を作成し当局に証拠を提出した。
八番目の問題点は、データの所有権の問題である。
データを見せてほしいと対象者から求められることがある。特定のスタッフや患者に対して、インタビューそのものを見せることはある。それは、相手の権利であるが、分析した結果を見せてほしいということもある。最終的な報告は公開されるが、途中の段階で、そのデータを自分たちで使わせてほしいとか、記録の不備をチェックさせてほしいとか、論文のチェックをさせてほしいというケースがあるが、それらを認めてはいけない。
データ全体については、研究者が保管して、他の人に見せてはならない。
データの二次利用は別だが、論文の検閲はだめである。
このようなことはたまにある。特定の幼稚園などを調査して、園側から分析して解釈した結果をチェックしたいという申し出があるケースがあるが、それは許可できない。だが、結果をチェックさせないなら研究を続行させないと相手が言ってきたら、もう研究はできなくなってしまう。
データの中身が相手にとって微妙な問題をもっていることがある。相手にとって裁判沙汰になることもあり、そのデータを使って患者が医師を訴えたいなどの場合も、研究者はデータを第三者に渡してはいけない。
少し話が変わるが、深刻な病気にある人や、死にゆく人の研究する場合には困難さがある。
病気のために、話せない人については、質問しても回答が聞けない。その場合は、別なやり方をしないといけない。急激に病気が悪化する場合は、相手に自分の状況が話せないため、不安定で混乱している場合などは、別なやり方をしなければならない。
また、手術の場面など、研究者が気を失うようなことになったら研究はできない。
最後にまとめであるが、今のような深刻な場合を含めてだが、病気の場合は、回顧的に経験したことを振り返る研究はいい。病気については鮮明な記憶を持っているので。落ち着いてきたところでは、記憶が新たなうちに話せることもある。
ある、特定の瞬間に注目することもある。がんの告知の場面に立ち会うことはできるかもしれない。
または、それを改めてのちにインタビューして語ってもらうことはできる。特に、治療にあたる人…医師や看護師を共同研究者として一緒にやっていく。患者の親戚や家族、世話をする人たち、たとえば、痴呆の人を介護する人にインタビューすることはできるであろう。
最後に最も重要なアドバイスが述べられている。「時間をかけろ(take your time)」ということである。
その病院など臨床場面に長く過ごす努力をして馴染み、スタッフや患者とよく知り合えるようになること。これは、保育でも学校でも、質的研究の基本である。初対面でしてはいけないということではないが、十分相手を知ったうえで、何か月か滞在したり、通ったり、信頼関係を築くことが一番大事である。