投稿日: Mar 17, 2018 1:37:24 PM
今月は、無藤隆先生の2017年12月14日の記事をご紹介します。
学びは遅かったり早かったりするものだ。
幼児期の早期教育は大して長続きする効果がないとか、小学校の責任だというと、今度は、「先取りは学ぶ楽しさを奪う」、「聞く姿勢ができれば十分だ」みたいな意見が出されます。
私はその意見にも賛成しません。多くの子どもが字を読むし、そして多少は勝手に書こうとします(筆順はめちゃくちゃでも)。だから、ほぼ確実に、「変な癖をつけて」小学校にやってきます。それは幼児が学ぶことが避けられない以上、しょうがないことです。園で文字を教えなくても家庭でおしえる、園でも家庭でも教えなくても見たものを自分でも書きたくなる。その意味でも小学校はゼロから始まるわけではありません。
大事なことは文字を学ぶか否かの二者択一ではなく、環境は文化でもあり、そこに生きる以上、多くのことを子どもは学んでしまうということです。それはきれいな順序をなしたりしない。きれいな順序で、最初はものを知らず、教師が教えていくと、その順序で学び、喜びを持って先に進み、あるところで次の段階に移る、というのは、カリキュラムの理想かもしれないが、単なる幻想だということです。
学びは常に不完全で、常に中途半端で(それをポジティブには「芽生え」と呼ぶ)、子どもによって大きな違いがあり、多様でありつつも、おおむねは未熟なところから成熟した方向へと徐々には進むのだけれど、かなり行きつ戻りつし、試行錯誤しつつ、そして多種多様な出会いの中で多岐に広がりながら、発達していくものなのだ。
(記事はこちら)
小学5年生か6年生のときに、楽しみに見ているドラマがありました。毎週欠かさず見て、次の日に友達とドラマの話で盛り上がる・・・もし自分が主人公だったらこう行動すると言い合ったり、今後の展開を予想してみたりしていました。
大好きなドラマの主題歌も不思議と大好きになるもので、常に頭の中で流れている状態でした。ドラマの展開が気になりすぎた私は、ふと、「主題歌がこの歌に選ばれたということは、歌詞が物語に何か関係しているに違いない。歌詞を知れば今後の展開を知れるかもしれない!」とひらめきました。
ドラマの主題歌はイギリス出身のとても有名なロックバンドの歌で、もちろん歌詞は英語です。今だったら小学校で英語が学べる環境にあったかもしれませんが、13年ほど前の話なので私の通う小学校では英語の授業はありませんでした。
そこで、英会話にも通ったことのなかった小学生の私がとった行動はインターネットで歌詞を調べて、家にあった英和辞典で単語を1つずつ調べていくというものでした。その辞書は小さめのサイズで、字も小さくて、なんだか古臭くて、おそらく父親か母親が学生時代に使っていたものなのだろうなと感じるものでした。
Iは私
Wasってなんだ?
WasはBeの1人称および3人称単数過去形
Beってなに?
このような感じで一つひとつ単語を調べて、なんとか日本語に訳しました。訳し始めた当初は、あまりにも地道すぎる作業で目がチカチカすることもありました。しかし自分が興味をもったことだったので苦痛ではありませんでした。一度出てきた単語はもう調べなくてよかったし、英語は日本語と違って主語のすぐ後ろに述語がくるということも知れました。すごいことを発見した気分でした。
母親は私が何をしているのか気になっている様子でしたが、「まだ英語なんて習っていないのに」といったネガティブな声かけは一切なく、見守ってくれている様子だったことを覚えています。
この「歌詞を訳す」という作業が、中学校の英語の授業の課題でやらされたものだったら、私はここまで夢中に取り組んでいなかったかもしれません。しかし、英訳をしていた私は当時小学生で、学校の宿題のために取り組んでいたのではなく、自分の興味から始めたものでした。私にとっては「遊び」でした。その「遊び」は、それ以降の私の英語学習、さらには生き方のようなものにもつながっている気がします。
おそらく、我が家にテレビがなくてドラマを見ていなかったら、英語の歌に興味をもつこともなかったかもしれません。そして、たとえ歌に興味をもっていても、家に英語の辞書がなかったら、「まあいっか」となっていたかもしれません。家に辞書がなくても、すぐに行ける距離に図書館があったり、小学校の図書室に英語の辞書があったりしたら違っていたかもしれません。小学生に英語はまだ早いと言われていたら、このような経験はできなかったかもしれません。
このように考えていくと、子どもの周りの環境や大人の関わり方がいかに重要かということに改めて気づきます。
「遊び」は英語でplayですが、playには「試してみる」という意味もあるそうです。
この意味で子どものplayを捉えると、「早すぎる」も「遅すぎる」もないように思います。子どもたちは、やってみたい!と思ったからこそ、playしているのだから・・・。
子ども自らが興味に誘われてやり始めたことに「早すぎる」も「遅すぎる」もないのかもしれないと感じました。
目の前の子どもが「どうしてこうなるんだろう」「これってどうやってやるんだろう」「知りたい」「やってみたい」と感じている瞬間をキャッチし、知ることの喜びや楽しさ、できるようになったときの気持ちよさや達成感を経験することを援助し、子どもと一緒にその経験を喜び合えるような保育者になりたいと、無藤先生の記事を通して改めて考えました。
(執筆 2018年2月13日 清山莉奈)