投稿日: Sep 19, 2016 2:26:53 AM
諏訪哲二・河上亮二のこのグループは、学校の現場のあり方に根ざして公教育の使命を可能にするという問題設定を明確にして、(極論はあるにしても)鋭い論考を発表し続けてきました。今、その視野の広さは改めて注目できるでしょう。
中でも諏訪による論考が図抜けて面白い。後の人のものももっともな議論だけれど、学校でしっかりと考えている人なら言いそうなことだ。
学校は「学ぼうとする者」が商取り引きとして知識を買うところではない。子どもの欲望やニーズにかかわらず「学ぼうとする者」や「学ぶ者」に返信してもらうところである。したがって、子どもの持つすべての要素が学校で受け入れられるはずがない。一定の強制は避けられない。そうなってもらわなければならない理由が社会やおとなにはあるし、そうならなければ子ども本体も社会的に生きてゆくことはできない。社会的に生きていけなければ、いかに子どもや若者が自らの本体(自分)を大切にしようとしてもできるはずがない。
学校はだから知識のやりとりだけではなく、生活的な要素、行事的な要素、集団活動的な要素が組み込まれている。そういう学校の「知識を学ぶ」ではない、「人間形成」的な要素を考えずに、公立学校より塾が効率的に教えるし、いい教師がたくさんいると主張する人たちがいる。そして、どうして塾の教育がうまくいっているかと言えば、つねに消費者(生徒や親)の査定を受けていて日々努力しなければならないし、お互いに競争をしているからであると説明される。「競争・市場の論理」で塾は効率的であり、すぐれていると言う。
しかし、学校と塾とは対立しているのではないし、並立しているのでもない。実は、学校が一階でその二階に塾は乗っているのである。
「ゆとり・生きる力」教育は従来の教え込み主義と異なり、子どもの一人ひとりの興味や関心や意欲から学びを出発させようとする狙いを持っていた。つまり、もともとの子どもの「個」から直線的に社会的な個人を形成しようと考えていた。しかし、子どもの個体が「知」の世界に入ってゆくこと、言葉や法や規範を身につけることは、それまでの「自分」の否定であり、断念なのである。社会的個人は子どものありのままの延長線上にあるわけではない。
「九〇年代に入り、子ども・若者たちがおとなへの自己形成ができずに、むしろ、一人前の近代人としてのありようを忌避している気配が濃厚である。
そういう社会傾向のなかで、子どもの「ありのまま」をそのまま肯定し、そこから社会的自立へと向かわせようとする「ゆとり・生きる力」教育は明らかに非教育的であり、非現実的である。
私は賛成するところと必ずしも賛成できないところ、微妙な論点やそれは違うと思う点もある。ただ、私などが、「生きる力」的教育課程の整理と提案をするとして、そういった議論の方向についての検討を含めてのものだろうとは思う。
「プロ教師の会」は以前は極論も結構あったけれど、今は(これは2007年あたりのものですが)、現状認識が共有されたと思うようになってきたのか、議論の深刻さは増していても、同時に、現場での感覚に通じるものも増えたと思います。私が全部の議論に賛成するということではありませんが。
(紹介:無藤 隆,2014年12月14日)