2016.6.20
無藤 隆 子ども学研究特論(10)
第23章 参与型アクション・リサーチ
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
本日は、参加型アクション・リサーチの解説をする。
23章のタイトルは、「ジャズ&バニヤン・ツリー ―参加型アクション・リサーチにおける根(roots)と繰り返し(riffs)」となっている。
即興のジャズとは、その場で一緒に考えるという意味合いであり、アクション・リサーチというのは、まるでジャズのようであるというアナロジーを用いて語られている。
1953年に、チャールズ・ミンガスとチャーリーパーカーらがMassey Hallに集まってジャズの即興演奏(improvisation)をした。
普段から綿密にトレーニングしているからこそ、互いに絡み合う。アクション・リサーチも、ジャズと同じように、普段の関係と自己訓練による即興、つまり、その場のやり取りで作り出していくものなのである。
アクション・リサーチに、具体的な方法があるわけではなく、相手次第でその時その時によって柔軟に対応するのでジャズの即興に似ており、リフ(riffs)は、リフレインする、何度も繰り返すという音楽用語。楽曲のサビみたいなもののことをリフという。
もう一つの例えが、バニヤン・ツリー(banyan tree)。ベンガル・ボダイジュで、今のバングラデッシュ、ガンジス川の下流に(多く)ある樹木(日本ではガジュマルの木とも言う)。たくさんの幹が枝分かれして、大きさは普通の家くらいある。上から気根が垂れ下がってきて、そこから株が増えていく。
巨大な樹なので、その下で、村の人が集まって話し合いなどをする。そのバニヤン・ツリーを、コミュニティの象徴として本章では使用している。
ヒンズー教や仏教では、この樹の下で瞑想などする。
本章ではタゴール(Tagore)の「モジャモジャ頭のガジュマルの木(shaggy-headed banyan tree)」という詩が紹介されている。タゴールは、バングラデッシュの詩人である。
インドの独立前に、母国語でも英語でも詩を書いた人で、1913年にアジアで初めてノーベル文学賞を受賞している。
詩のおおよその内容は、「頭がモジャモジャのガジュマルの木が池のほとりに立っていて、小鳥が歌っているよね。木の根っこに座っていたのを思い出さないかい。」というもの。
ガジュマルの木の下で、瞑想するという内容の詩である。
だが、本章では、瞑想ではなく、コミュニティの場としてのバニヤン・ツリーであり、村の中心となる樹木の話である。木の下で、いろんな問題になることを話し合う。
アクション・リサーチには、いろいろなタイプがあるが、本章では、参与型のアクション・リサーチを扱っている。英語では、Participatory Action Researchと言い、PARと略す。
参加は、コミュニティに参加するとか、相手と一緒に考えるとか、当事者と一緒になって問題解決すること、それを参加型アクション・リサーチと言う。actionは実際の行為のことを指す。当事者にとって、相手にとって役立つことを研究する手法である。
特に本章では、マイノリティの権利回復のための社会的正義(social justice)を目指す。
アクション・リサーチ全般でいえば、当事者にとって有益なことを一緒にやっていく研究手法である。
リサーチというのは、知識を生み出し、行為のもとで知見を示す。それらを組み合わせるということなので、アクションだけではなく、リサーチすること、反対に、リサーチだけではなくアクションもすることである。
さらに、当事者の人たち、つまり、コミュニティの人たちの生活をよりよくするための活動に参加しながら研究する。
参考文献としては、『質的研究用語事典』(翻訳版)北大路書房がある。
アクション・リサーチの解説の本は日本語で何冊も出ているが、それは必ずしも、PARではなく、広い意味でのアクション・リサーチ。
レヴィン(Kurt Lewin)は、ドイツの社会心理学者であり、ナチスドイツに追われて1930年代、アメリカに亡命した。そして、アメリカで、グループ・ダイナミクスという社会心理学を創設する。その際に、アクション・リサーチという用語を提唱した。研究が現実を変え、改善するために役立つべきであるという問題意識を持っていた。
1940年代、第二次世界大戦から戦後にかけて、ナチスドイツに追われて、かなり多くの学者がドイツからアメリカに移った。多くの人が、ナチスドイツと戦うために、アメリカ連邦政府の元で色々な仕事をした。
例えば、ロバート・ウィナーは、サイバネティクス。ウィナーは数学者であり、人工知能を研究して、ロケットを開発した。原爆の開発をした人たちもいる。いろいろな人たちがナチスドイツと戦うためにアメリカで研究した。
その中で、レヴィンは、産業をいかに効率よくするか、あるいは、いかに貧困を解決するかを研究し、「計画―実行―観察―省察→改善」のサイクルを提唱した。これが、のちに、PDCAと呼ばれるようになった。省察→改善することをアクションと言う。
ここからアクション・リサーチが出発し、第二次世界大戦後の1950年代にアクション・リサーチが広がっていく。
基礎的実験の研究スタイルの対立が起き、アクション・リサーチの中でも様々な研究スタイルが生まれてきた。
主流なのが、レヴィンの流れとプラグマティズムの考え方である。
プラグマティズムの集大成がジョン・デューイ(John Dewey)である。
デューイ学派の流れの中で一番有名な人たちが、アージリス(経営学者、企業の改革で展開)とドナルド・ショーンである。
ショーンが開発したのが、「省察→改善」の部分で、有名な反省的実践者(reflective practitioner)である。カウンセラーや教師の専門性が、行為の中に潜んでいるもので、
形式化された明快な知識ではなく、それを振り返るために省察する。
『反省的実践者』には翻訳がある。完訳の翻訳本を読むことをお奨めする。
教育界で見ると、学校教育や授業研究でアクション・リサーチも使うが、概ね元々はアージリスとショーンの取り組みであった。
一方で、PARでは、何が違うかというと、解釈実践の構築主義的アプローチであるという点である。
要するに、当事者と研究者が協働する立場があるという話は授業の中で何回かしたが、そちらの流れであるが、どちらかというと、アージリスとショーンは、専門家の知恵をどう取り出すかという研究手法であるため、参加型アクション・リサーチとはかなり異なる。
彼らは、専門家のトレーニング、現職の実践をどうするかという研究を展開しているが、参加型のアクション・リサーチは、コミュニティをどう良くしていくかというものである。
例えば、マイノリティの人たちのコミュニティ、アフリカン・アメリカ人の下層階級、女性の差別を改善するために、そういう人たちを対象にアクション・リサーチするものである。
その時に、研究というものが、何の役に立つのかを当事者側から問われる。あなた方の研究はどう役に立つのか。
つまり、豪州の研究者になって、豪州の原住民の生活を改善するかはひとつの問題となる。
マオリの生活改善をアクション・リサーチする際に、大学の研究者、中流階級の知的な人としてではなく、当事者の声を聞き出して、その人にとっての意味を考えていかないといけない。それが、参与型アクション・リサーチということなのである。
そこでは、専門性を追求するというよりも、普通の人がどうやって生活をよくするかを考えていくことに力点があり、まさに、バニヤン・ツリーの下で村の人たちが集って問題解決をする村のやり方を、近代的知見も使いながらも、当事者に理解してもらって参加型の研究が展開された。
参与型研究を最初に提唱した人は、Marja-Liis Swantzであった。彼女は、フィンランドの社会科学者であり、アフリカのタンザニアに行って、そこの大学の学生とともに、タンザニアの改善運動をした。
それとともに、並行して、ラテンアメリカ、中米南米における社会運動の中で、自分たちの生活、貧しいインディオの生活をどうするかという研究の流れの代表者が、パウロ・フレイレ(Paulo Freire)である。彼は、ブラジルで大人たちに読み書きを教える運動をした人である。それ以外にも、いろいろな国々で、参与型のアクション・リサーチが、特に成人教育運動の中でなされてきた。
その辺りが、以前の授業で紹介した批判的教育学と参与型アクション・リサーチが結び付く点である。
さらに、1989年、国連で子どもの権利条約が作られた。これが、各国で批准され、ただ単に、子どもの権利を大事にするだけではなく、子どもが権利主体であるということが大事にされるようになった。権利主体とは、難しい概念だが、子どもの声を聴くということである。子どもといっても、いきなり乳幼児ではなく、中高生以上の十代の人たちの声を聴くことから始める。
以上のように、参与型アクション・リサーチは、批判的教育学の視点からは、知識を作り出すことであるが、研究者と協力して当事者が作り出す知識が、そのコミュニティの生活を改善することに使われ、当事者自身が自分たちの生活をよくするようにそれらの知識を用いるようになった。
もう一つは、生活をよくするための社会運動の中で用いられてきた。社会運動とは、政治権力を自分たちのものとして使えるようにしていくことである。
そういう二つの流れを組み合わせていくのが、参加型アクション・リサーチ(PAR)である。
もう一度整理すると、PARの基本的な考え方は、単に社会運動でも単に研究でもない。
そこで展開されるビジョンは、実践によって豊かになる。そして、実践が理論に支えられてより豊かになる。理論と実践の相互の関係を作っていくことが大事であり、すぐにはうまくはいかなくても、目指すことが大切である。
そのためのやり方は、研究者と当事者が協働すること。ローカルな(地方的、局所的)コミュニティにおいて大切なことは何かを考えること。
さらに、参与型アクション・リサーチということは、社会的正義の実現を目指すことである。権力や資源をすべての人に平等に配分すること。さらに、その際、民主的なやりとりというものを尊重することによって、コミュニティの中での個人の成長・発展は可能になるということを信じようとすること。
その際、研究者としては、自らの立場を振り返る必要がある。そもそも研究者は、特権の中にある。つまり、通常、大学を出ているので暮らしのためにあくせくすることもないが、その特権を生かして、相手の立場に立ち相手の役に立てるかを、そこでの自分の立場を振り返りながら、当事者とのよりよい関係を作っていくのである。
その中で生まれた考えの一つが、境界研究(borderlands scholarship)である。境界研究とは、どちらにも属していないところを研究するという意味だが、制度も関連する理論も特定の枠があり、特に近代社会は国の枠や制度の枠があって、その枠から外れたり、制度の周辺にいる人たちに注目するというのが境界研究である。
枠から外れるとは、無視されたり差別されたり、典型的なのは難民である。あるいは、マイノリティ。
「難民やマイノリティは、その国の例外とはできない」ということを、各国は学びつつある。男性に対する女性、大人に対する子ども、国籍を持つ人に対して持たない人、国境によって分断されている人たちなど、いろいろなところに境界研究の対象はある。
次に、土着化研究(indigenism)について解説する。
土着的から派生してきた用語であり土着性のことである。土着的地域社会というのは、例えば、豪州におけるアボリジニ、米国やカナダにおけるアメリカ・インディアンやイヌイットなどが挙げられる。そういう人たちの立場に立って考えていくのが土着化研究である。
そこでは、研究者がエスノグラフィのような研究手法を用いて、19世紀から調べてきたが、
その知識が土着の人たちに有益なものになったのか、なにか、そこに研究で得られた知見を返すことができるのだろうか。そこで、実際に土着の人たちが、組織を作って、自分たちの考えに従って、いろんな研究をやってほしいと研究者に要求するようになった。
あるいは、公共人類学(public anthropology)という研究手法も用いられるようになってきた。
現代の人類学の流れの一つとして、そのコミュニティが、もっと大きな社会に対して、発言できるようにする力を持てるようにするための手法である。その目的のために、コミュニティの人たちとともに研究する。
そういう点ではPARだが、その時の研究方法は具体的には多様である。質的手法や量的手法をいろいろ組み合わせていけばいい。
大事なのは、当事者とコミュニケーションすること。一緒に作ること。その際、いわゆる論文に書くことが最も相応しい訳ではなく、写真を撮って示すなど様々な手法によって、分かってきたことを表現するのである。
ある研究では、地図を作って、その村の環境の中でどこが危険かを出しているような研究がある。そのような研究は、土地の人に非常に意味のある研究成果となる。
いずれにしても、そういう形で、社会的に抑圧されている人たちが、将来に対して主体的になり、社会的、政治的に希望を持てるようにするために研究する。
要は、プロセスであり、どういう問題を立てるか、その問題をどう解明していくか、解決方法はどうあるべきかを含めて、当事者と一緒に考えていくのである。
そういう当事者と研究者の関係を、契約的倫理(covenantal ethics)と言う。研究倫理のあり方や何が有益なのかを、当事者と共に考えること。それを取り決めていくことを契約的倫理という。
例えば、カナダのイヌイットの組織があるが、その組織の研究計画を出して、一緒にどういう研究をするべきかと考えていく。
どういう研究をしたらいいではなく、どういう研究をするかを、当事者と共に考える。それを契約的倫理という。
こういうものは、大学の研究倫理委員会のあり方とは異なる。大学は、研究前に申請して、それから研究に取り組むが、ここでいう倫理は、まず当事者と話すことから始めるため、ずいぶんと異なる。
次に、参加型アクション・リサーチの実例を紹介する。
p.391右
「招かれざる客を歓迎する-参加型アクションリサーチと自営業女性連合」というタイトルがついているが、サブロック(Sabhlok)の博士論文である。
西インドのある州で2001年に地震発生し、その地震の後の復興を調べるためにサブロックが調査に行った。さらに、2002年に、ヒンズーとイスラム系の大規模な衝突が起き、
5万人以上が難民キャンプに逃れた。主にマイノリティであるムスリムのコミュニティが逃れたということを調査した研究である。
論文からの引用では、サブロック自身は妊娠しているという状態で現地に調査に行った。現地では、地元の人たちが彼女を囲んで、すぐに受け入れてくれた。そして、向こうから彼女に対していろいろなことを尋ねた。
「なぜ、妊娠しているのにここに来たのか?」「夫はどこにいるのか?」「家族はどうして旅を許したのか?」「鼻になぜピアスしていないのか?」など。
研究する側と研究される側が逆転している。研究される側が研究する側に対して根掘り葉掘り聞いてきた。尋ねられたことに対して、いろいろ語っていって、研究が開かれていって、一方的な観察ではなく相手との対話の関係が作られた。たぶん、男性のグループと女性のグループ、分かれて生活していたのではないか。その女性のグループに入れてもらえたのではないかと考えられる。
このサブロックの専門は、被災して難民になった後にどう暮らすべきかを研究するものである。難民とのやりとりを通してわかったことについては、難民に対して与えられる量や数が問題なのではない。難民に対して与えられるお金ではなく実施にお金が使える状況にあるか、政治腐敗があるか、福祉の状況はどうであるか、宗教的イデオロギーなど、そのような複雑な事柄の関係の方が、難民キャンプの問題として重要である。
サブロックは、当事者との対話において、信頼が成り立つように、密接で親密な関係を作り出すことが大切だと述べている。
その後、参与観察をしたが、継続した研究としては、SEWAというインドの自営業の女性連合という世界最大の組合組織と共に研究を進めたものがある。
SEWAと協力し、研究組織のボランティアとして受け入れられた。SEWAアカデミーは30年の歴史がある研究部門である。主には、貧しい女性を訓練して、協同研究者にしており、はだしの研究者(barefoot researchers)と呼ばれている。
サブロックは、そこで働いている人たちに対するインタビューをした。SEWAの人たちと一緒に、村人たちに対してインタビューを繰り返し分析した。
そして、アメリカに戻る一日前に、経験の共有化のセッション(experience sharing session)を実施した。インタビューしたデータを示しながら、どういう意味があるかを一緒に考えた。
そういう平等の、かつ、集団的な知識の生成というものをやった。その後も、何年か論文を書いている間、断続的にやりとりをしながら進めた。
それを振り返ってみると、研究者として、コミュニティやSEWAでは、部外者(outsider)だったが、どうやって問題解決をするかに取り組んできた。その、SEWAのあり方が、バニヤン・ツリーのようなものである。
p.394
次の事例は、「私は心からこれをしている―イヌイットの自殺の予防と改善」である。
カナダの北部にあるヌナブトには、イヌイットが古来から住んでいる土地であるが、イヌイットの自殺率がもっとも高い地域であり、特に若者の自殺率が高い。26のコミュニティに2万7千人の人口が住んでいる。1950年代に入って大きな変化は、結核の流行があった。それに、イヌイットは、漁をして生計を立てているので獲物が得られない時には飢えてしまう。元々、イヌイットは、家族単位でばらばらに生活していたが、カナダ政府は、結核と飢餓からイヌイットを救済するために、彼らを集めた。子どもたちは、寄宿舎学校へ入れて、自分たちの言葉を話してはいけないと言われた。伝統的な部族のやり方が壊れていき、子どもは親元から離れて育てられた。
1980年代に、イヌイットの青年たちの自殺率が急激に上がっていく。1994年、自殺予防の会議がカナダのヌナブトで開催され、本事例の著者であるクラール(Kral)が出席した。
そして、彼は自殺予防の運動を始めた。
まず、いろいろな人に話を聞いた。その中で、長老の女性が、「我々の村は自殺が多いが、
私の親戚が住む村では自殺は少ない。我々はあちらの村から学ぶべきである。我々は健康であることについて尋ねなければならない。」と答えた。
そのプロジェクト3年続いた。4人のイヌイットと研究者とイヌイットの研究対象のトップが、一緒になって研究を進めた。その時に、最初の研究費がなくなってしまう。研究費から給与を払って研究協力してくれたが、経済的に難しくなった。しかしながら、相手方は、「この研究は自分の心からやっていることだ」と言ってくれた。これが持続的な精神なのであり、本気になってやろうとしていることが協働関係を作る。イヌイットが自分のやり方を自分たちで作り、そのプロセスにおける経験は、イヌイット側に推進力があり、同時に、共同研究者の関わりもある。ここに精神と心と文化の真の協働関係があるのである。
我々の研究は、生活・人々・コミュニティへの愛がある文化とイヌイットへの誇りを抱いて進んでいった。
最後にまとめると、インサイダーもアウトサイダーも含めて、さまざまな立場がある。相手と友情関係を結ぶが、コミュニティのあり方を変えていく存在でもある。
その研究から誰が得るか、誰がよく知っているかについて敏感でなければならない。
特にPARは、その土地について詳しくなければならない。
結果として、特定の行動を捉えて、そのコミュニティにとって有用なものになっていく。
そのためには、学問的な知識も持ってこなければならないし、他の学問での知見も必要となってくる。
その核となる部分が契約的倫理である。相互的、互いの利益を考えて、協働的な意思決定をし、権力の共有をする。つまり、何を決めるにしても一緒にやっていく。
PARというものは、客観的な実証主義的な立場に挑戦をしていくものであり、さまざまな人たちの間での対話と公的社会的変革を目指すものでもある。
だから、協働し発見し実践していく者は、理論的な面と方法的な面の両方をしっかり考える必要があるのである。