2016.7.11
無藤 隆 子ども学研究特論(12)
第25章 ナラティブ・インクワイアリー
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
本日のテーマは、「ナラティブの探究(Narrative Inquiry)」である。ナラティブとは、物語、語りのことである。
インタビューして、相手に語ってもらう営みを指す。それが代表的研究スタイルだが、それが次第に発展し多様になってきた。
ナラティブとは、一種のディスコースつまり談話(discourse)のことである。ことばのまとまりのこと。経験を語り、経験を整えたり、順序づけたりして、意味をつくりだす営みである。あるいは、自分の行為あるいは他者の行為を理解するやり方、出来事やものをひとつの意味ある組織化すること、行為を、時間を追って結び付け、その結果を見ることなどと定義される。
今、授業しているときに、大学院の授業が展開していると言ってもいいし、黒板に字を書いていると言ってもいいが、その中の一人の語り方として、一人の教師が何人かの学生にあれこれと筋を追って意味があるように語り、意味を作り出すこと。それがナラティブである。
会話の中で語ること自体に意味があり、そういう語り方を引き出すことがひとつの研究スタイル。
いろいろな種類のナラティブ研究が、過去数十年で発展してきた。
研究者によってさまざまな分類をしているが、本章では、系統だった紹介はしていないがいくつかの分野を取り上げている。
第1の分野は、ストーリーを語ることと人生との関係を扱うことであり、その中に以下の3点が含まれる。
1.人々のライフストーリー(人生物語)
文字通り、人生のすべてを語らなくても、その語りにおいて、その筋とか、どういう順番でそれが並べられているかを研究する(ライフは、人生だったり生活だったりする。自分たちの生きている有様を語るのがライフストーリー)。
一生涯を対象とする研究もある。「あなたの人生はこれまでどうでしたか」という振り返り。
あるいは、「あなたにとって大学院生活って何ですか」などのように小さい単位もある。
そういうときの語りは、できるだけ時間を追って語ってもらう。もちろん、すべてを物語的に語らなくてもいい。「私にとって大学院は生きがいです」のように、抽象論もあるだろうが、それをいつどのように思ったかを含めて語ることで、ナラティブとなる。
研究のひとつの目的は、研究者とやり取りすることで、物語を作っていくことで、その人の生活をよくしていくこと。最初に挙げているのは、相手と協力しながら経験の意味を明らかにすることとか、別の在り方を考えること。
2.ナラティブ・アイデンティティ
ライフストーリーと似ているけれども、そのようなストーリーとその人のアイデンティティを扱った研究である。つまり、ストーリーとウェルビーイングとの関係に焦点を当てた研究であり、有名なエリクソンのアイデンティティ発達の理論の流れのひとつである。
その人にとっての生き方や意味を語りの中で示す。重要なポイントとしては、具体的な語り以外にその人の人生の生きがいを語ることが難しいということである。もちろん、量的に、あなたの幸せを10段階で示すというのもあるかもしれないが、それを取り出すのは難しい。
たぶん、人生の語りがあるとしたら、人生の折々に語り直すということができるし、その時に、たとえばそういうストーリーがどのくらい統一的なのか、逆に、いろいろなものをその中に複数含んでいるものなのかを分析する。
例えば、50代の中年女性が、主婦として、母親として、仕事する人として、それがどう統一されているか。あるいは、自分と社会の要請にどう応えながらやっていくか、変化していくか、あるいは、安定するかを分析するのである。つまり、人間を対象に人生物語を用いて研究するという分野なのである。
3.ナラティブ・セラピー
ひとつの分野だが、そこにはいろいろな流派がある。簡単にいうと、人々が人はそれぞれ自分について、どう生きるかを語る。そのストーリー以外の語り方があるのだろうか。中年女性が母親として主婦として頑張ってきたというのは一つのストーリーだが、別に自分の生きがいを求めるとしたら、そこには別なストーリーがある。
そこで、子どもが大きくなってどこか虚しいという思いに対して、この経験はあなたが人生を考えるチャンスになるのだと助言するように、ナラティブ・セラピーでは、新しい方法を発見することによって問題を解決するように人々を助けるのである。
第二の大きな分野が、生きられた経験としてのストーリーの語りである。
つまりナラティブというのは、人々が語ったものを取り出して分析することであるが、ここでは、語ることそのものがひとつの大きな経験であるという考え方である。つまり、ひとつの社会的行為である。
この語りを誰がどういう場面で、誰に対して、いつ、語るかが重要となってくる。
語るということが、その語りを通して、意味のある現実や自己を構成していくひとつの実践なのだと考える。
この語りが作られている、生成されていくプロセスを分析するのである。
対象者が研究者に向けて考えながら語っていく語り方。
物語を作っているというよりは、その人の持っている何かが引き出されていき、その人のストーリーがはっきりしていく状態である。
そこでは、物語を語ることが、研究者と語る人(narrator)との間の相互作用で作り出されている。
そういう中では特に、このひとつの語りがどう構成されるかを分析するときに、ためらう、繰り返す、そういう類のことを手掛かりにする。口ごもることにも意味がある。
すらすらと語れる人は普段から考えているか、あるいは、型通りのことを言っているかということになる。型どおりとは、文化的ディスコース(cultural discourses)と言う。
例えば、「子どもがいて、夫も元気で働いてくれて、幸せで感謝しています」というのは、嘘とは言わないまでも、ある種のモデル的なものであり、すらすら出やすい。
これが本音か建前かというのはどちらでもよく、非常に個人的な意味づけが絡み合う。
同じように中年で主婦であり子どもが元気という語りをする人の中にも色々な人がいるはずである。
そこには矛盾が生じているかもしれない。ある種の、文化的ディスコースが支配しているところでは、その場にふさわしくない語りが抑圧される。
そういう、必ずしも型にはまったディスコースが嘘だとは言わないが、相手によっては当てはまらないものも出てくる。より個人的な感じ方があるのではないだろうか。
例がいくつか紹介されているが、例えば、精神障害の人が、患者の集まりに入って、仲間と一緒に支えあうという関係を作るという運動があるが、その分析をしていて、医療的な見方や語り方に対して、社会的人間関係的な語り方をぶつけていくというやり方、つまりストーリーの転換である。
第三の大きな分類は、ナラティブ実践(practices)とナラティブ環境(environments)である。
実践は、語ること自体をさす。社会的な場面で何かをすること。いろいろな場面で語ることだが、インタビューに答えるのもナラティブ実践である。インタビューの際には、それを囲む環境がある。それをナラティブ環境という。
幼稚園の先生にインタビューする際、幼稚園の先生の経験を聞くと、幼稚園の環境の中での語りになる。幼稚園という仕事をもっているとして語ってもらうことになるから、幼稚園の環境のあり方が、その人の語りに影響する。実践と環境は相互に影響しあう。
それらの関係を問題にするタイプの研究では、そのナラティブ環境の中に、ある種のナラティブ・リアリティ(ナラティブ的な現実)がある。つまり、幼稚園の先生にインタビューすると、幼稚園の先生らしい語り方があり、それをみな習得している。
嘘を言っているのではなく、本当のことを語っている。
そこで、語られることと語られないことがあり、相手によって場所によって違っていたり、その理由もさまざまである。
たとえば、幼稚園という物理的環境の中でインタビューすると、例えば、「担任としてどんなに楽しいか」と聞くと、特定の子どもに対するネガティブな発言は出てこないだろう。
しかしながら、高校の時代の親友にあって居酒屋で会ってしゃべっていると、幼稚園の環境では出てこなかった発言が出てくるかもしれない。
それは、ナラティブ環境が変化することによって、語りが変わるということである。
本音と建前とは違うが、ネガティブな発言が本音とは限らないし、どちらが本当か嘘かもわからない。
昔からの友人が会社の愚痴を言ったことに合わせて嫌なことを言っているのかもしれない。
そうであれば、それは、エスノグラフィの問題なので、そのナラティブ環境を取り出したい。
観察したり、インタビューしたり、その人を囲む環境とか人間関係など多様なものやどういう話をするかについて話してもらうことによって取り出すことができるだろう。
そういうことによって、一人の人が、こちらではこういう語り、こちらでこういう語り、と環境によって切り替える様子が見える。それが、ナラティブ実践とナラティブ環境のあり方である。
そのストーリーがどのように作り出されるか、他の人とやり取りするときに、どう作り出されるか、そこでの意味を展開していくなど、ナラティブの意味を巡って、どういう風に相手と協力したり争ったりしているのか、どのようにして、特定の人に対してアイデンティティを見せたりしているかといったことを研究する。
幼稚園の先生が特定の子どもへの対応の仕方に苦慮して、本を読んだり園長に相談すると、園長が、保育現場には必ずそういう子はいるわけだから、そういう子に対してふさわしい対応を考えるのが保育のプロなのだよと言われ、対応の仕方を変えたらその子がなついてきて保育が面白くなってきた、と語るとすると、そこに幼稚園の先生のアイデンティティが現れる。小さな挫折から立ち直るひとつのストーリー。その人の語りを通して、その人は幼稚園の先生であることを確立しようとしていることになる。
立ち直りのストーリーになる場合もあるし、ただただ保育が嫌だから辞めて、他の業種に移ろうと思うという話もあるし、相手とその状況次第で展開していくストーリー。
そこではつまり、環境によって何がそこで語るべき良い話かどうかが、ある程度固定化される。
すると、こちらの環境では愚痴をいうことがグッドストーリー(good story)かもしれない。
あるいは、別の環境では、建設的な話がグッドストーリーになるかもしれない。
研修会で、グループディスカッションをすると、たいてい建設的な内容になる。大体の人はその場の環境を察しながら話を出していく。難しいことではあるが、グッドストーリーになるように何とかしていくのである。
それは、家族団らんの時もそうだし、そういう様々な語り方を場面に応じて語る。
研究例として、精神病棟と病院の例が挙げられている。
ひとつは、薬物中毒の患者がいる病院において、なぜ、薬物中毒になったかを過去にさかのぼって尋ねている。
もうひとつは、その人が今後どう生きていくのかについて、プランを立てるような語りである。
こられは、対照的であるが、どちらを志向するかどちらが正しいかとは別に、それぞれの病棟のいわば文化としてありうる違いである。
第四の分類のタイプは、研究者にとってのストーリーを考えていくものである。
そこでは、研究者自身がそのストーリーの一部になっている。
たとえば、ひとつの研究では、研究者が、大工の弟子になり、日記に書いたことを分析している。自分の経験、同僚、ボスとのやり取りみたいなことの分析である。
それを記録し、そこでのさまざまな分析していくと、女性研究者が大工の弟子になった際に、階級的人種的ジェンダー的な違いが問題になってくる。
日本でもこういう研究がある。
大工や重機運転手の業界に女性が増えてきている。バスの運転手にも女性がいる。
そうなってせいぜい十数年しか経っておらず、元々男性社会だったため、女性用のトイレがないことがある。女性の着替える場所がないとか、男女別に分かれていないとか、それが普通の状態として存在する。
女性としての大変さを、語りとして取り出す。
このような研究は、研究者本人が、体験しながら参画することによって取り組む研究スタイルである。日記スタイルで記述していって分析する。あるいは、本人自身ではなくて、その人と密にかかわっていくのもそれに近い。
これは要するに、分野としては、オートエスノグラフィ(autoethnography)、つまり自己を対象にしたエスノグラフィである。
先ほど挙げた大工さんの弟子とか特定の女性と一緒に生活しながら記述していくような場合に対して、オート(auto)は、文字通り自分を意味する。自分の経験を対象とするのである。
子ども時代の思い出を語るとか、9.11のニューヨークの同時多発テロの経験を語るなども含まれる。
次に、ナラティブ探究における方法論的な課題について解説する。
特に以下の二つの問題を取り上げる。
一つは、インタビューの限界であり、もう一つは、映像的な語りである。
インタビューの限界には、まず、語ることの限界の問題がある。
典型的なナラティブ研究というのは、インタビュアーがいて、語る人がいて、当然インタビュー技術が必要となる。技術というのは、こういうことを質問しようという質問票をもっていることである。ナラティブ研究のための質問ガイドはあるが、「これまであなたはどう生きてきたのか」「あなたにとって主婦であるとはどういうことか」など大きな質問(big story)の場合、質問する側の経験とか成熟のようなものが重要となる。経験は必要であるが、言葉の端々の意味やニュアンスがわからないと、より深い意味が理解できない。
たとえば、大学生の女性が中年女性の話を聞いて動揺したり驚いたりしていては、インタビュアーとしてはダメである。逆に、平然としていてもだめで、相手もインタビュアーの様子を見ているのである。
もっと深刻な例では、家族がテロにあってというようなシビアな話題が出てきたときには、
共感的でありながらも、ある種穏やかに受け止めていかなければならない。
インタビューの限界における、二つ目の問題は、そこに研究倫理の問題が入ってくることである。
インタビューが深くなればなるほど、他の人には言わない話もしてしまうこともある。生育史を聞いた時に、実は親に殴られてみたいな話が出てくることもあるかもしれない。その場合、それを、どのように研究に生かすか、許可を得たとしても慎重な扱いが必要である。深刻な話をしてしまって、相手が後悔しているかもしれない。
また、相手に型通りの話をしてもらいたいわけでもない。「いい母親です」というのは文化的語りである。「子どもなんてしょうがないわよね」と気楽に語っている場合、いい母親とするか悪い母親とするかは、文化によってある種の像がある。
その声(voice)を聴きだす必要がある。
その人独自の語りをよく聞いていると、口ごもったり、声が外を向いている場合と内を向いている場合がある。その人らしさを引き出していくのが、ナラティブ研究では一番大事である。そこに、その人なりの、語りに託している意味というものがある。
つまり、その語りを解釈して、こういう意味をその人は述べていると解釈するためには、そのストーリーのテーマがそうなっているだけではなく、その人の声が表しているその語りをその人が生きている、生きられた経験として語られていることをインタビュアーが聞き取りながら証拠として引用できる形にして述べる。
そうすると、そこにインタビューの限界が出てくる。語られないものをインタビューでは全てが語られたものとして分析する。では、語られないものをどうやって取り出すのか。
そこに方法論的問題が出てくるのである。
どうするかというと、丁寧にニュアンスを聞き取る、それがナラティブ研究のオーソドックスなやり方である。
もう一つは、インタビュー以外の資料、日記、手紙、自伝、普段起きたことのフィールドノーツなども用いる。
幼稚園の先生がおやつ食べながら語っているときの様子をフィールドノーツにつける。または、帰り際に「疲れたなあ」とつぶやくさま、あるいは日誌などいろいろある。
ここで、インタビューを超えるものの一つとして、 大きな物語(big stories)について紹介する。
例えば、「あなたにとって幼稚園の先生とは」というのが大きな物語である。
ひとつの立場としては対話的パフォーマンス(dialogic/performance)がある。
その発話が誰に語られ、どのように発展していくかを分析する。つまり、会話分析である。
おやつの時間や帰りしななどのちょっとしたことについて語りのデータを集めたのがスモールストーリー(small story)である。
インタビューだけはなく、その場にいてちょっとした語りを集める。どういう場面で語られるか、どういう風に受け入れられるか、どういう風に否定されるか、みたいなことである。
帰りしなに同僚に「今日は疲れちゃった」「でも、明日もがんばろうよ」とか励ましのストーリーである。
インタビューを超えることのもう一つが、内容分析(content analyses)である。
長期にわたる事例研究、エスノグラフィ研究や、スモールストーリーを集める研究があるが、それらに対して、ある研究では、どこかの大学におけるジェンダーや性的志向性、特に人種的な偏見とGLBTに対する差別や特別扱いを記録し、それから、学生用の雑誌や新聞記事、その大学において差別をやめるための運動、そのありさまを分析する。
実際どういうことをしているかと言うと、特定の何人かに対するインタビューの分析をつなげている。
例えば、一人のアフリカン・アメリカンの女性にインタビューしたが、その人は、キリスト教信仰深い環境で育った人である。すると、人種差別には批判的で明快であるのに対して、GLBTに対して、自分が育ってきた宗教的環境では語りにくいという状況が生じる。
GLBTについて語ることもだめ、やり取りすることもだめ、そういう環境で育ってきた人は、偏見をなくすこととその人の信仰とが葛藤する。その時、この人は、GLBTについて、一般的に差別はいけないとは言うが、その語り、大学の新聞に書いてあることなど一般的なことしか述べなかった。ここで、さまざまな内容分析を通して、その人の沈黙している部分にアプローチする。
次は、書かれたテキストを超えていくことについて解説する。
インタビューは語られ得ることであるのに対して、写真やビデオは視覚的なものである。そのやり方をどうするか。映像記録で補うことができる。
もう一つは、そういった対象となる人自身が映像を構成することによって語りを補う。
10代で妊娠した女性のためのプログラムでは、コラージュしながら語ってもらったら、自由なイメージをもてた。日誌をめぐる、などいろいろ出てきた。
その次の問題は、語るということ、聞いてもらうことについての倫理的課題である。
社会的正義(social justice)にどう役立つかということである。
話すことの切迫性(urgency)とは、誰かに聞いてもらいたい、または、公共的に議論し対話したいという欲求のことである。
そういう欲求に応えるのが、ナラティブ研究の一つの役割である。
話すことの切迫性は、あることについて話すことを通して解放される。気分が楽になる、自分を見直す、あるいは、語りを新たに創り出すことで、自分についての新しい見方ができる。
また、摂食障害で悩んでいる人が語ることを通して、その人の悩みを自分の言葉で語りなすことを通して少しずつ自分を再発見する。
この代表例として、ナチの収容所がある。ホロコースト(大虐殺)から生き残った人たち、つまり、サバイバーの研究が戦後取り組まれた。
いつ語るかによって、意味が変わってくる。非常に悲惨な状況を見聞きしていても、自分のパーソナルな経験とは乖離している場合もある。
別な女性は、第二次大戦の50年後にアメリカ合衆国に移動した経験を語った。ホロコーストを乗り越えるというのは、それぞれの時期によって語り方が違うのである。
しかしながら、それぞれの時期の語りに意味がある。
二つ目は、聞かれることの緊迫性、つまり、誰かに話を聞いてもらいたいということである。
特に、抑圧されている人たちの話を聞き出す。ラテンアメリカで活発に研究されたものである。差別や搾取されるとか、さまざまな状況を生き延びた人々を記録している。
その中には、男性から女性、障害を持った子どもの親までさまざまで、基本的には、その人たちは沈黙を強いられた状況にいた人々であるか、あるいは、文化的な特定の語り方しか許されない人々であった。
だから、その人たちの声や証言を拾い上げていく。
そういう中の一人に、パトリック・デボア(Patrick Desbois)という人物がいる。1955年生まれのフランスのカトリックの神父であった。
彼は、第二次大戦中のナチの虐殺について、バチカンの命令で調べた。第二次大戦後のローマカトリックの役割は微妙であり、旧ソビエト支配地域におけるナチの犯罪について調べた。
2002年、ウクライナに行って調べ始めた。最初は住民から拒否されたが、調べていくと、ある村では一万人以上の村人が殺害されたことが分かった。
デボアによると、ウクライナには1200ほどの墓場があって、そこにナチに殺された人々100万人以上が眠っている。ウクライナでは1000万人が殺されたことが明らかになった。ソ連に食料を持ち去られたために飢餓となり、翌年も植える種がない、そのため2年間にわたって飢餓状態となった。
その他、ナチがウクライナにやってきて数百万人を殺した。1920年代~1945年の間に2000万人が死んだ。結局、ウクライナでは、極めて多数がソ連とナチに殺されたのである。
そういう状況を生き延びたサバイバーがたくさんの語りを並べる。分析はなされていないが、あまりに悲惨である。それらの語りを聞く人たちもある種の証言者である。聞くこと自体が辛い。それに耐えながら新たな証言、つまり二次的な証言者になっていくことを徹底的にやった。
次に、集団的ストーリー(collective stories)。
グループとして集団として差別されているときに、個別のストーリーを取り出すだけではなく、会話にしていくことを考えようというものである。
まず、集団的な記憶、もっと小さく、特定の病気を持った人たちに話しを聞く。それを集める。
最後に、ナラティブを公共的対話の場に持ちだしていくやり方がある。
政治的に結び付けて公共的な問題として扱う。
もっとも有名なものは、カウフマンの研究である。彼はそれをドラマにした。
元の事件は、ララミー・プロジェクトである。ララミーとは、ワイオミング市の中にある町である。
1998年。マシュー・シェパードが殺された。彼は同性愛者であった。同性愛者だから殺されたのかについて、関係者にインタビューして、ドラマのように仕上げた。
当時、憎しみの犯罪というものは、すでに禁止されていたが、その中に性的志向性は入っていなかった。
2009年、オバマ大統領が性的志向性を憎しみの犯罪に含める法案を通した。LGBTなどの人たちの人権を保障するものであった。
このように、ナラティブ研究というものは、さまざまな形で進んでいる。もっとアカデミックな研究、パーソナルな意味を追求するような展開もあり、まだまだ進化し続けている。