投稿日: Mar 26, 2017 2:34:24 AM
今月は、無藤隆先生の2つの投稿をご紹介します。
①3月7日の投稿
乳幼児という文化。
子ども文化というとき、おおむね、小中学生を指している。乳幼児については子育ての文化として扱われる。では、乳幼児はそれ以前のものとして、可愛らしいペットか、うるさい邪魔するものかの扱いになっている。
では、乳幼児が作り出す文化はないのか。それを生み出すのが乳幼児の保育であり教育なのではないか。その発信を行い、地域社会に乳幼児の能動的なあり方を位置づける。
それは、
・子どもの作品を美しく、また迫力あるように展示する。(「可愛い」ではなく、「素敵」)
・ビデオや写真で可愛さより、その興味や活動を描き出す。(すごい。」、「ここまでできるんだ。」)
・発達していく姿の面白さを提示する。(「不思議だ」「面白い」)
それをいかにして、園の中にとどめず、地域の様々な人に見える場に出していき、その良さを分かってもらうか。
レッジョ・エミリアの保育の革新はそこにあると思うのですね。
(本文はこちら)
②2月18日の投稿
乳幼児の未熟さが大人にとってもつ価値。
乳幼児の教育(保育)は子どもの将来のためにその基礎を育てることと、今の幸せを保障することからなるとよく言われる。それに対して、2つを結びつけるものとして、乳幼児の未熟さがあり、その未熟さが世界のあり方の新鮮さを回復することとして大人にとって、乳幼児教育・保育や子育ての根源の価値が成り立つのではないだろうか。それを活動として組織することが文化としての乳幼児教育・保育や子育ての中核であり、そういったことが可能になるような街であることを目指すべきなのではないだろうか。
それは、街の園(幼稚園・保育園・認定こども園)としてのあり方を見直すことでもある。園庭が狭いとか確かに不利な条件である。だが、その代わり、街がある。その「道(小路・路地」や「広場・中庭・公園」で人々がすれ違い、出会い、やりとりをする。その中で街にとってまた大人にとって、小さな子どもがいる価値とはそういうものなのではないか。
子どもの作品を展示する。それが大人にも魅力的である。それは未熟さが、子どもが世界と出会い、発するところの表現となっているからである。その未熟な作品まがいは世界の新鮮さを露わにする営みの表れなのである。
だから、子どもも、子どもの作品も、ともに未熟さの価値を体現するのである。一歩歩くことの喜び、段を一段降りるときの不安と歓喜。5歳になっても、積み木を高く積んだときに満足感。それはそうしている子どもの気持に大人が共感するだけでなく、その共感が世界の有り様を見直す瞬間を大人に提供してくれるのである。1つの小石を拾う、それが宝物になる時代。そこに大人が感動するとすれば、そこが大人にとっての子どもの未熟さの価値だ。
(本文はこちら)
保育に関わる仕事がしたいと思ったきっかけは、子どもって可愛い!でした。しかし、小学生の頃の私でも、0歳の近所に住んでいた子どもと関わることで、子どもってすごいな、こうやって成長していくんだなと感じていたことを今でも覚えています。
最近では、SNSで自分の子どもの様子を写真や動画で共有している人も多くなっており、何万人もフォロワーがいるアカウントも存在しています。子どもの「かわいさ」を発信し、「いいね」をもらう。実際私の周りにも、その写真や動画を見て、「いいね」をおして、「子どもって可愛い、癒やされる、子どもほしい」と言っている人たちもいます。
子どもはかわいい。確かに、子どもたちを見ていると癒やされることだってある。でも、それだけじゃないと、時々むずむずする時があります。この「それだけじゃない」という部分をきちんと言葉にして発信していくことも、園や一人一人の保育者の、専門職としての役割の一つであるのかもしれません。
空を見て、雲が動いているのを見て、「すごい!地球が動いてる!!」と笑顔で叫んでいる姿。
落ちていた大きな枝を、箒に見立てている姿。
お店屋さんごっこで八百屋さんをすることになり、野菜の細かい特徴をとらえて画用紙などでつくろうとしている姿。
竹馬や鉄棒を一生懸命練習する姿。
土の状態や一日前の天気を踏まえて育てている野菜に水をやるかどうかやあげる水の量を考えたり、葉っぱに虫がついていないかじっくり観察したりして、大事に野菜を栽培している姿。
子どもたちの言葉や行動によって、私自身も「なんでなんだろう?」と疑問に思い、子どもたちと一緒に調べることで知ったことがたくさんありましたし、コマも回せるようになりましたし(5歳児さんが、初心者の私にも分かりやすいように、見本を見せてくれたり、時にはコマ回しに関する本をもってきてくれたりして教えてくれました)、苦手だった虫も少しだけ可愛いなと思えるようにもなりました。子どもたちとの関わりによって、私の世界はぐんと豊かなものになったように感じます。
子どもたちの世界も、同じなのではないかなと思います。
お店屋さんの参考にするために町の商店街に行ってみると、いろんな仕事をしている大人に出会う。お店によって、商品の展示の仕方が違うことに気づく。お店の人がどんな風にお客さんに声をかけているのか、じっくり聞いてみる。レジってこんなふうにボタンが並んでたよ、お金は種類ごとに分けて入れていたよ、と友達が自分の気づかなかったことに気づいていた。そうやって、いろんな人や物などに出会って、考えて、自分の世界を広げていっている姿にたくさん出会いました。
そして逆に、たとえば、お店屋さんごっこの本番の日に商店街の方々など地域の人たちを招くと、自分の働いている姿は子どもたちにこんな風に見えていたんだという発見もあるかもしれません。子どもたちの観察力、観察したものを実際に形にする力への気づき、驚きもあるかもしれません。
このように、子どもと大人の間の「やりとり」のようなものが、お互いの世界をより豊かなものにする瞬間があるということを、目に見える形で発信する力が今後ますます必要になってくるように感じました。
(執筆:清山莉奈,2017年3月23日)