2016.6.13
無藤 隆 子ども学研究特論(9)
第21章 グラウンディッド・セオリー
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
グラウンディッド・セオリーは、質的研究の中でもっとも有名な手法である。その後の研究への影響力という意味で最も顕著である。日本で使われている手法としても、グラウンディッド・セオリーのバリエーションが多いということと、すでにそこで開発された、いくつかの技法が質的研究の中で広がっているという意味でとても重要である。
同時に、グラウンディッド・セオリーが登場したのは1950年代。
その後、いくつかの流派があるが、それが非常にわかりにくいところである。
グラウンディッド・セオリーといっても、深く関わっていないとわかりにくい。また、それぞれの流派があるが、それぞれに考え方が違う。
グラウンディッド・セオリーは、グレイザーとストラウス(Glaser, B. & Strauss,A.)という社会学者によって提唱された。原著は1967年に出版され、その翻訳が『データ対話型理論の発見』という本である。
ストラウスとグレイザーは、この本では一緒にやっているが、その後それぞれ違うやり方を出している。グレイザー単独の本は翻訳がない。
日本では、木下康仁さんの『分野別実践編グラウンディッド・セオリー・アプローチ』という本が2005年に出版されており、木下さん自身が、修正型グラウンドセオリー(M-GTA)を提唱した人である。もう少し理論的に書いた本としては、2014年に出版された『グラウンディッド・セオリー論』がある。
戈木クレイグヒル滋子さんは、ストラウスの弟子で、元々は看護系の研究者であるが、グラウンディッド・セオリーについて何冊か書いている。
グラウンディッド・セオリーでは具体的に何をするかと言うと、観察あるいは、インタビューした「言語データ」をよく読んで分析するのである。
ここでは割と標準的な6つのステップが紹介されている。
1.文章化する。
2.客観的に細かく分析する(=切片化)。
昔でいえば、小さいカードに、意味の切れ目や話の切れ目を写し取っていく。それだけで分析するのが、グラウンディッド・セオリーである。
3.内容・言い方を適切に表現する簡潔なラベルをつくる。
具体的な名前をつける。すると、コードがたくさん出てくる。
4.オープン・コーディング
コードを似たもの同士でまとめていく作業をする。このレベルのまとめたものを、カテゴリーという。
5.アクシャル・コーディング(axial coding;軸足コーディング)
上位のカテゴリーとか下位のカテゴリーとの関連付けをし、まとめていく。
6.セレクティブ・コーディング
それを見直して、カテゴリー同士の関連付けを考える。その関係づけをすることが、理論化することになる。
これらの手法をきちっと踏襲するやり方と、省くやり方がある。
文章の中から一つ取り出すのは、「切片化(fragment)」という。
例として、p.368~369のBox 21.1a とBox 21.1bを用いて解説する。Box 21.1aは、最初のコーディング(イニシャル・コーディング)については常識的なコーディングだが、Box 21.1aは、グラウンディッド・セオリーの立場の人が、グラウンディッド・セオリーのアプローチとしてのコーディングをしたものである。両方とも中身は同じインタビューを用いている。
Box 21.1aは、フラグメント化(切片化)されていない。紅斑性狼瘡に罹った中年女性へのインタビューの中での語りであるが、インタビュー内容については要約を紹介する。中年女性が医者のところに行ったけど、たらいまわしにされて酷かったという話である。
Box 21.1a トピックとテーマのための最初のコーディング
コーディングの例 コード化するための語りのデータ(要約)
・友人のサポート
・入院
・医師との葛藤
・転院
・医者を選べない
・医師との葛藤
・医師のコントロール
・脅し
・無力感
・身体的ケアの不足
患者:友達が病院に電話してくれて、予約をとってくれる。
それで、病院に行ったのだけれど、ともかく入院することになった。でも、その医者がひどくて、その医者を起訴したが負けてしまった。
インタビュアー:医者はどうしたのですか?
患者:入院したが、この紅斑性狼瘡という問題を抱えているのに、60マイル(100km)も離れた他の病院を紹介されて移されてしまった。女性の医師がよかったが男性の医師しかいなくて選択の余地がなかった。紅斑性狼瘡の問題や、その他のことを説明したら、医者が怒った。蛍光灯がまぶしくて、サングラスをはずせない。すると、医師が怒ってしまった。自分はその医師に、このサングラスを作った、かかりつけ医者がいるので連絡してくれと頼んだが、サングラスを取り上げられてしまった。それから、グループ・セッションに通うことになった。そこでは誰とも話さず沈黙していた。隔離病棟に移すと脅されたので、命令に従わなければならなかった。相手に圧倒され、身体的に拘束された。それで、自分が非常に無力になって調子が悪くなってしまった。
自分は薬を必要としているのに、紅斑性狼瘡という病気であることも認められなかった。
Box 21.1aの語りでは、最初に、友達が助けてくれて、病院へ、病院を移った、医師とトラブル、自分は無力、というように、何について語っているかを表の左側に分類している。語りの内容を反映しているが、その人の語り方とか何を強調したいかについては十分に考えられていない。
それに対して、Box 21.1bのグラウンディッド・セオリーのコーディングでは、抽象度は高いが一行一行について非常に細かく書かれており、心情についても簡単に述べられている。
Box 21.1b グラウンディッド・セオリーの最初のコーディング
コーディングの例 コード化するための語りのデータ
・治療を探す友人の援助を受け入れる(receiving)
・投与計画の再受診を求める(requesting)
・医療を受ける(gaining)
・入院させられる(being admitted)
・悪い医者に会う(getting)
・医師に対して反発する(taking)
・病院を移される(being sent)
・女性医師を選択する余地がなくなる(preferring,dwindling)
・医師との関係が行き詰まる(getting)
・医師の行動を説明する(accounting)
・症状を説明する(explaining)
・聞いてもらえないまま(remaining)
・自己主張する(asserting)
・取引を試みる(attempting)
・誤診される(being misjudged)
・診断に反論する(countering)
・証拠を提供する(offering)
・強要された参加に直面する(facing)
・沈黙を保つ(maintaining)
・命令に従う(following)
・日常的な脅しを受け入れる(receiving)
・医師の脅し行動(acting)
・圧倒される(being overpowered)
・身体的拘束を経験する(experiencing)
・コントロールを失う(experiencing)
・悪化を発言する(witnessing)
・薬物治療を否定される(being denied)
・病気の訴えを医師が否定する(rejecting)
患者:(Box 21.1aと同じ)
インタビュアー:(Box 21.1aと同じ)
患者:(Box 21.1aと同じ)
後者のBox 21.1bの左側のコーディングを見てみると、ケアが必要なので友達の助けを受け、自分が通っている医師の診断とか治療方法について見直すべきだ、と記載されている。
医者が、病気の訴えを認めようとしない、というコーディングがなされており、詳しくて具体的である。インタビューで語られた言葉を忠実に反映させている。
前者のBox 21.1aでは、「友達のサポート」とだけコーディングされているが、それだけだと抽象度が高すぎる。後者のBox 21.1bでは、具体的に、新たなケアを受けるために友達が助けてくれるとか、病院の予約をとってくれるとか、一行ごとに細かく書いている。
この二つを比べることで、Box 21.1a割と常識的にわかる内容だが、Box 21.1bは、その人の心情やインタビューの中で言おうとしていることを、なるべく簡単に表現している。
もう一つは、Box 21.1bでは動詞、正確に言えば、動名詞が多い。友達の援助、ではなく友達の助けを得る(receiving friends’ help in seeking care)、沈黙ではなく、沈黙を維持する(maintaining silence)、など、全部動詞形の形をとっている。これが、特に著者のチャーマズ(Charmaz, K.)が強調しているところである。
簡単にいえば、自分が入院したのか、入院させられたのかで意味が変わる。そのため、できるだけ、動詞形でそのニュアンスを細かく書こうとしている。
それがイニシャル・コーディング、の部分である。イニシャルとは、「最初の」という意味だが、それをオープン・コーディングしてカテゴリーにまとめて少し整理している。たった一ページに数十のコーディングが出てくると多すぎるので少し整理しているのである。
次に、グラウンディッド・セオリーが、何を目指しているかについて述べる。
「グラウンド」というのは、運動場やグラウンドのグラウンドだが、「根付いている」という意味である。つまり、「データに根拠がある」ということで、日本語の翻訳は「データ対話型理論」となる。データに根付いた理論を生み出すこと。それを対話と訳しているのは、人ではなくデータと対話するからである。
ケースがもっている中核を取り出そうとしている。非常に具体的でありながら、具体性とのつながりを保持しながら抽象度を上げていく。
これは、ウィキペディアの解説にあるように、「この手法は、(中略)個人的な印象や直感でなく、データに基づいた確信に近いものを得ることを重要視する研究法である」。
このような手法は、1950~1960年代には、とても画期的だった。
1960~1970年代の社会学は極めて抽象度が高い枠組みであり、また心理学における親子関係の研究は見守るとか質問するとかの一般的概念的な分類でやることが多かったが、そういうものに対する批判である。
同時に、コーディングを重視し、最終的には、セレクティブ・コーディングでは、カテゴリーの間の因果的な関係を作っていくので、統計的手法や量的研究法に近い。そのため、質的研究の中では、量的研究法になじんでいるものである。
この授業の最初の回の方で、質的研究の分類を紹介したが、授業で解説しているハンドブックの編者の一人であるリンカーンは、グラウンディッド・セオリーが量的研究法に近いため批判的である。コーディングに無理があると考えている。それに対して、チャーマズは、グラウンディッド・セオリーの中心人物の一人として肯定的に書いている。
だが、世界的にいっても、グラウンディッド・セオリー・アプローチが、一番よく使われている。そのため、グラウンディッド・セオリー・アプローチについて、きちんと理解すべきであるが、自分自身がこの手法を採用するかどうかは選択の余地がある。
グラウンディッド・セオリーの中でもいくつかのやり方があり、どのアプローチを使ったのかが問題になる。
戈木さんは、日本のグランドセオリーを使うと称した研究のかなりがコーディングの手順を踏んでやってない点で問題があると述べている。例えば、論文査読の際に、どのようにコーディングしたかが書かれていない。コーディングを積み上げていくのであり、各々のところで丁寧にやる必要があるのに書かれていないのは駄目である。一行だけ、「グラウンディッド・セオリーでやりました」と書かれていてもいけない。
量的研究者の立場からは、客観性や評定者間の一致率を重視するが、この手法ではそのような発想はない。この手法ではコーディングの根拠を示すことが大事なのである。
それで、実際に困るのは、論文の枚数制約である。学会によって異なるが、400字で50枚などと、その中に全てを収めるのは難しい。
具体的に事例は出せるが、それ以外にもたくさんコーディングしないとならない。場合によっては、一人に数時間インタビューということもあり、それを10人とかそのまま文字化したら分厚い本ほどの文字量となる。それをそのままコーディングしたら、誰も読めないし、理解できない。
博士論文では、枚数制限がないため詳しく書くことができるが、学会誌論文では中心となる一番大事なコーディング、カテゴリー、コンセプトを、対応する事例と共に示すようにする。
p.361左
この手法では何をするか。
まず、データとやり取りする。次に、データとデータを比較していく。
さらに、データとコードを比較していく。この辺が難しいところだが、切片化し、よく読んでコード化していくが、その事態を知っている人が作業をする。
たとえば、病院を予約するという仕組みについては、友人が助けてくれて入院することになった。現実的には、すごいことである。本来、地域の医師を通さないとならないし、お金はかかる。
一つの「切片」が持つ独自性が大事であるので、「医者に行った時の症状」というコーディングと「心配な状況があったので友人に頼んで」と比較した場合、意味合いが違う。
次に、データとコードを比較する。仮のカテゴリーを設けて、何度も行き来して見直す。
そのカテゴリーをコンセプト(概念) にする。つまり、階層的因果関係を作る。概念にしたときにいろんなことを言っているが、中心的な話題は何だったろうと考える。
一つは、「医師との関係における、自分が患者として無力」という感覚が浮かび上がる。
その後、セレクティブ・コーディングをしていくが、ここで既存の研究を参照しながら、一番概念化を表すのは何がいいかを調べるため、コンセプト間の因果関係に類した関係を、多くは図式してみるとよい。
p.361右
社会的正義の調査で用いられるグラウンディッド・セオリーの方略について解説する。
ソーシャルジャスティスのジャスティスとは正義のことである。マイノリティが権利を剥奪された状態などのように不利な状態から回復を求めることであり、それに役立つことをしようとする研究である。
その社会的正義の調査にグラウンディッド・セオリーを用いる利点が以下の5つである。
1.プロセスを分析し位置づけるための手段を持っている。
例えば、入院したこと自体ではなく、入院にいたる経過、プロセスを分析することができる。入院を自分から頼んだのか、それとも入院させられたのか。
グラウンディッド・セオリーのロジックとしては6つある。①そこでのプロセスに注目する、②文脈を丁寧に考える、③プロセスが起こる条件を特定化する、④階層を概念化する、⑤安定または変化へ貢献することを明らかにする、⑥結論の概要を説明する。
③は、ある条件が起こった時に、次のコマに移るが、その逆パターンもあること。患者の意思をよく聞く医師、聞かない医師がおり、それによって、因果的流れを概念として取り出していくことが理論的である。それは、どういう場合にどうなるか、どういう条件のもとになるかを特定するのである。
2.暗黙の意味や行為を取り出す際に研究者の助けとなる。
暗黙の意味や行為を取り出すこととは、例えば、入院のことが患者の自発性なのか否か。
または、友人が心配してくれたのかどうかなど。そういうことが重要かもしれない。そこに注目することが大事である。
3.データから中範囲の理論(middle-range theory)を構築すること。
グラウンディッド・セオリーは非常に大きな理論にしようというわけではなく、例えば、慢性的な病を持った人が、どうやって治療を受けるかを分析する。
具体性を備えながらも抽象度を上げる。具体性というのは個別のケースから想像できる。
紅斑性という病気を特定したいわけではなく、何かメンタルな障害と合併する場合もあるだろうし、そういったものを含めて多少抽象度を上げる。
4.構築主義的グラウンディッド・セオリーは、文脈、位置、会話、意味、行為に注目し、権力、抑圧、不公平についての理解を促進する。
5.ソーシャルジャスティスを考えたときに、具体的な苦痛の経験と社会構造、文化、社会的慣習または政策の間の関連を明らかにする。
だが、上述したものは、グラウンディッド・セオリーの共通部分であるが、グラウンディッド・セオリーの理論の中にもいろいろな立場がある。
p.363
グラウンディッド・セオリーは一つの理論だが、具体的なやり方(方略)としてみると、①データ収集と分析を同時に行う、②帰納的コーディング、③メモを書くなどの方略があげられる。
① データ収集と分析を同時に行う
質的研究全体に広まったのは、データ収集と分析を同時にするという方略である。一人目の人に会って、分析して、二人目の人に会って、分析を試みて、三人目とデータの収集と分析という具合に、2つを平行していく。
他の方法論での研究では、10人とか20人とかの対象者を集めて、インタビューした後、テキスト文字を起こして、一気にまとめてデータを見て分析することもある。
②帰納的コーディング
コーディングをする際に、具体的事例から帰納的にコーディングし、インタビューの言い方やそこで言おうとしている力点をできるかぎり取り出すようにすることである。
例えば、「入院しようと思っていたのです」と「友人たちが心配で入院しなさいとさせられたのです」では異なる。医学的には「入院」であるが、心理的経験としては異なる。
③メモを書く
エスノグラフィの基本であるが、いろいろなところでメモを書くようにしたり、コーディングに注釈を入れる。コーディングする際に、その右側にメモ欄を設ける。今では当たり前に行われているが、1960年代においては画期的だった。
コーディングした時に、考えたことを書いておかないと忘れてしまう。コードを変えたりまとめたりしなくてはいけない時に、抽象的なコードだけだと、なぜそのようなコードにしたのか分からなくなる。
グラウンディッド・セオリーに関して次の3つの誤解がある。
①コーディング
なぜ、切片化し断片にするのか。
できるかぎりデータを細かく見る。できる限りニュアンスをくみ取り、一つ一つ丁寧に見る。最初に大雑把に見てしまうと、どこが重要なのかわからない。常識や先入観によって、こういう話であると分かってしまうこともある。データの微妙なニュアンスをくみ取りながら新たな概念を生み出す。いわば、ボトムアップの作業である。小さな部分こそが大事。これがグラウンディッドの基本的姿勢である。
②理論的サンプリング(theoretical sampling)
これも、グラウンディッドの顕著な特徴である。最初に一人会う、次に会う人は適当な人ではいけない。例えば、入院の話であるが、慢性病で入院し、普段から医師にかかっていて入院というケースと他のケースがある場合、違うケースの人を探し出してその人に聞くことが大事かもしれない。同じ病気であっても無気力にならずにやっているケースを探し出し、そういう患者さんに会ってみる。
つまり、次の人は、分析した結果として、その分析をいわば確証し、あるいは広げるような、何らかの対照的な人を選ぶといい。すると、考えている「コード」について修正が必要かもしれない。収集して分析しながら、次の人を探す。
② 理論的構築
最終的に図として、概念間の関係を描くことが理論構築である。グラウンディッドが目指すのは理論構築である。
ここで考えている理論とは、単に、現実がこうなっているではなく、そこから多少とも一般化すること。概念や変数を取り出し、因果的な関係を作ることを目指していく。
他の質的研究の手法は必ずしもそれを目指していない。解釈実践も含めて、それらの手法ではそれらを全く考えない。現実を記述することに止めるものも多い。
グラウンディッド・セオリーの研究者たちは、現実を記述しただけでは理論にならないと主張している
p.364 グラウンディッド・セオリーの研究者たちは、以下の行為においてさまざまな関わりを示している。
1.データの収集分析の繰り返し。
2.テーマではなくプロセスが具体的にどう行われているかを記述する。例えば、テーマとして「入院」などがあげられるだろうが、それを具体的な経験としてとらえ直す。
3.コードとコード、カテゴリーとカテゴリーを比較するために手法を用いる。
4.データから分析していくが、最終的には概念構想を作る。
だからグラウンディッドという立場とナラティブ分析は違う。質的研究の中で、ナラティブ・ストーリー分析と呼ばれているものとグラウンディッド・セオリーとは対立している。
5.帰納的カテゴリーを用いる。
帰納的とは、具体から始まって抽象化することである。
6.理論的構築を強調する。
記述で終わってはいけない
7.理論的サンプリング
8.さまざまなバリエーションを探す。
万が一変な医者がいたとしても、世の中全体の普遍ではないだろうというのも、グラウンディッド・セオリーの立場である。
9、カテゴリーを作っていく。
カテゴリーとは、全体を診断された入院したという主題的枠組みを記述することが重要ではなくて、患者が経験したことを中心としてカテゴリーを取り出す。
p.364
グランディッドの理論的立場には次の3つがある。
①構築主義(constructivist grounded theory)
本章の著者であるチャーマズは代表的な研究者であり、ストラウスはシンボリック行為論をグラウンディッド・セオリーに導入した。
②客観主義(objectivist grounded theory)
グレイザーの有名な本が1978年に出版された。一番重要なのは、データからカテゴリーが生み出されることを強調するか、研究者としてデータを作っていくかということである。できるかぎり、コンピュータ化していき、非常に量的な統計的手法に近づいていく。
有力な方法の一つである。
研究者の主観をいれながら解釈し作っていくのが「構築主義」で、研究者が客観的立場からデータを分析するのが「客観主義」である。
これら二つの理論が両極にある。グレイザーも、最後は立場を変えてきて客観主義的な立場を取っている。
③ ポスト実証主義(post positivist)
代表者はコービン(Corbin, J.)である。主観は入るが、客観性を維持するのも大事であるという考え方。常識的に理解しやすい。同時に研究者の主観が入っていくから、研究者の立場を明確にしていく必要がある。研究者の主観や立場を反省しながらやっていくことを自己回帰性(reflexivity)という。データの取り出し方の観点としての研究者みたいなことを強調。
チャーマズは構築主義の立場を取っている。患者を擁護し助けたいとしたら、救い上げる手がかりはどこにあるかで考える。
主観ではなくデータを取り出す観点が研究者としてのあり方である。
他の理論的立場を考えながらも、今は構築主義が有力である。構築主義的なグラウンディッド・セオリーがあって、特にストラウスの考えの流れをみながら、グラウンディッドの有力な立場として出てきたと本章では述べられている。
次にインタビューのやり方を紹介する。
例えば、患者の例に近いのは、虐待にあった人へのインタビュー。
その研究では、インタビューした人たちは、二つの方法をとっている。
一つは、自分を圧倒するような感情を和らげるのは、自分自身が感情を感じないやり方である。具体的には、自分が、そういう自分を脅かす場面にいて、圧倒されるが、いかに圧倒されないかを考え、その状況と自分を切り離す。
自分は無力であると考える。自分がコントロールを持てない、どう対処するかを考え、自分をそういうところから、情緒的苦痛から遠ざけるのである。
もう一つは、情緒的な苦痛を乗り越えていくために身体的苦痛を作り出すという方法である。例えば、リストカットである。
こういうような研究がグラウンディッド・セオリー・アプローチの中に出てきている。
また、一連の分析の中で、先行研究との関係をどうするか触れていない。特に、グランディッド・セオリー・アプローチなどでは顕著だが、質的研究では、データを素直に丁寧に見る、そのためには、先入観を持たずにやるということを大切にしている。
そのためには、先行研究を読まないほうがいいと主張する研究者もいるが、全然読まないわけにはいかないため、セレクティブ・コーディングの時などある程度理論化が進んできたころに、既存の先行研究を読み対比するようにと述べている。
p.373
比較的分析の例として、耳の聞こえない子どもの経験の事例を紹介している。
耳が聞こえない子どもは、仲間のやりとりから排除される。この事例に出ているのはある種のいじめである。耳が完全に聞こえないのではなく、周囲がわざと机を叩くなどして大きな音を立てると、何を言っているかわからなくなる。
そういうようなクラスの中でいかに排除されるか、その排除のやり方を生み出す。
すると、そういうことを扱った先行研究もある(例えば、ディクソン(Dixon), 2007)。
さらに新たな研究があるかどうかを調べる。
耳の聞こえない子どもがクラスにいて、排除するというやり方は、大きな音で妨害する、無視する、いくつかのやり方がある。もっと積極的にいじめがある。無視は消極的ないじめである。ちなみに、日本では、無視もいじめに分類されるが、英語圏では、いじめはbullyingであり、ガキ大将的ないじめ、ドラえもんに出てくるジャイアンのいじめなどである。英語圏では通常はbullyingと「無視」は分けられる。
最後に、グラウンディッドの特徴をまとめると、さまざまな特殊的な個別的事例を研究し、
ある種の一般性を備えた出来事として、かつ、重要な変数や因果関係を想定することを目的とした手法である。