第12回の講義では、第16章"A conversation analytic approach to research on early childhood / Jack Sidnell"を参考にしながら、会話分析的な研究手法をどのように幼児期研究に活かしていくのかについて論じる。
会話分析(Conversational Analysis)というのは、会話をただ単に分析するというのではなく、アプローチの立場を指している固有名詞であり、主としてエスノメソドロジーの研究手法を用いるものである。(会話分析とエスノメソドロジーの本はたくさん出ているが、新曜社からワードマップシリーズとして「エスノメソドロジー」「会話分析・ディスコース分析」が出版されているので、興味がある人は参照していただきたい。)
1950年代後半から1960年代にかけて、社会科学と行動科学の分野の開拓者としてゴフマン(E. Goffman)とガーフィンケル(H.Garfinkel)が有名である。ゴフマンは、社会学、特にミクロ社会学の研究者で、通常無視されている状況を多く扱った。日本でも翻訳本がたくさんある。例えば、やり取りの分析の研究では、ゴフマン自身が、精神病院に患者として入って、病院で、患者の言うことは本当でないという扱いを受けるなどの経験が本に書かれている。ゴフマンの本ではやり取りについて述べられているが、例えば、挨拶をするという行為は複雑なことで、前もって計画できないので、相手とのやり取りの中でおこなわれる。相手との距離が離れている時に相手を認知したとしても、どこから挨拶を始めるかなど難しい。相互作用の中で、日常的なことがきわめて微妙なやり方として作り上げられている。例えば、自閉傾向の子どもに挨拶を教えると道行く人全てに挨拶をするようになる。そのため、「挨拶する相手を選ぶんだよ」と教える。知っている人には挨拶するけど、知らない人には挨拶しなくてよいと教えると、知っているのか知らないのかを選別しがたい微妙な人が出てくる。また、私たちは知っている人に対してでも無視することもある。スーパーで知り合いを見かけても無視するなどである。
ガーフィンケルは現象学的社会学のシュッツに影響を受けた。社会生活は「実践的推論」(practical reasoning)によって構成されるというアプローチを提示して、エスノメソドロジー(ethnomethodology)に大きな影響を与えたが、サックス(H. Sacks)はゴフマンと共にバークレーで学び、ガーフィンケルと共同研究を始めた(およびシェグロフとジェファーソン)。エスノメソドロジーとは、普通の人が実践的に使っている方法には相互作用している時のやり方があり、それが社会を作り出す元になっているということを明らかにする研究手法である。最初に有名になったのは、ターン・テーキング(turn-taking)つまり順番交代という意味である。サックスを中心としたエスノメソドロジストは、会話というのは重なりが少ないと言っている。当たり前であるが、会話の際に重なりがないように気をつけているからである。比較的簡単なルールで説明をすることができる。誰か一方が言い始めたらもう一方が会話から降りて聞く側にまわる。話し始めの時に、「あのー」「えーと」とか、話し始める前に相手の人を見るなど前振りがある。簡単なルールで重なりを少なくしている。そして、会話が重なっても取り消すようなやり取りを会話する際に使っている。意識しているか意識していないかは問題ではない。お互いに気をつけながら会話している。そのうえで権力の上下が関係していて、教師生徒の関係では教師が上とか、医者と患者の診察場面なら医者が一方的にしゃべったり、医者が患者に話していいという許可を与えている。このように社会的な場面が分析できる。
例えば、小学1年生というのは、順番交代を教える時期である。先生が「答えは勝手に言わないで、手を上げて指名された人だけが答えなさい」「他の人は待っていなさい」「発表者が間違っても勝手に正答は言わないようにしなさい」と教室内のルールを決める。一回に一人が話し、重なりがないように教室の中ではなっている。こういう分析は色々なところでできる。みんなで懇親会をしている時に、一人の人が話した時にみんながその話を聞く場合と、2,3人がそれぞれのグループで話している時がある。人数や物理的条件で違う。そういうことがどうやって起こるか。同時発話が起こってグループが分裂するので、難しい問題であり、そこには個人差がある。やたらに隣の人に語りかける人、みんなに語りかける人など色々いる。簡単なメカニズムを分析しているが、複雑な現象を分析する枠組みになっていく。順番交代のルールでは話者が次の話者を指定する。例えば、「だよね?」と相手に念を押すと、話しかけられた相手が次の話者ということがわかる。視線や終助詞の「だよね?」やイントネーションなどが重要になる。他にも色々なやり方がある。「ねえねえ、知ってる?」と言われると、必ず答えなければいけないという雰囲気がある。
順番交代は社会を構成する単位である。ガーフィンケルは理論社会学者として活躍した人であるが、彼の本は理解するのは難しい。初期の本は大学の講義で、大学生に宿題を出して、一週間でいいから会った人全員に対して無視し挨拶しないし、ニコニコもしないという課題を出した。無反応な状態を一日も続けることができる人は誰もいない。この実験を試すと友達を失ってしまうだろう。ほんの一瞬でも難しい。向こうから明らかによく知っている同級生がやって来て、向こうがにこっと「こんにちは」と言ってくる時に、無視して通り過ぎると辛いだろう。なぜそんなに辛いかというと、挨拶というのはマナー程度ではなく、もっと根本的に社会的関係を作るものだからである。
会話するという関係の中で、ある種の規範(norm)が働き、それを守らざるを得ない。規範というものは、絶えずそれに志向することで守っていかなければならないものである。順番交代もそうだが、よく分析されてきたものは、質問と答え(question & answerまたはresponse)である。これも、きわめて強力な社会的な規範である。これについては、ある程度実験で明らかにすることができる。街を歩いている人に何時ですかと尋ねると、ほとんどの人がその問いに答えてくれる。当たり前のようであるが、見ず知らずの人に質問されて答えるというのは不思議なことである。駅の少し前で「駅どこですか?」と尋ねると答えてくれるだろう。親切かどうかは問題ではない。親切な人なら駅まで案内してくれるであろう。尋ねられた時に、全く無視するということはないだろうが、分からないと答える人はいるだろう。分からない場合も結構理由を加える人は多い。観光で来ているから知らないと答える人もいるだろう。別なやり方もあり、質問に対して無視するという場合に、その場に何人かいて、他の人に話しかけているだろうという素振りをして無視したりする。それは、不親切ということもあるし、危険から自分の身を守るためであったりするだろう。しかしながら、質問する人と目が合ってしまったら答えざるを得ないし、何らか反応せざるを得ない。「そこのおじさん、お姉さん」と言われたら反応するだろう。尋ねられたら無視できないという強い規範として働いている。そこから逃れたり規範から外れることもできるが、外れるなりの理由を作らないといけない。私に言われていると思わなかった、聞こえなかった、相手の言っていることが自分に対しての質問だと認識していないなどの理由である。このようにQ&Aに従わないなりの理由を作らないといけない。
そういう風に言葉で述べなくても、アカウンタビリティ、つまり説明可能性(accountability)が必要である。それは、身振りや表情で表したり、聞かれた瞬間に走り出すなど。例えば、駅前のチラシ配りをどのように無視するかを観察してみると、チラシ配りのそばを通る際に、下を向いたり、どこかを向いたり、チラシを差し出すことに気づかないという姿勢を取っている。アカウンタビリティとは、ある規範があってそれを守る。守れない場合には、守れないなりの理由を出して、規範は尊重しているが、ちょっと急いでいる、聞こえなかった、答えを知らないなどと弁解をする。社会において有能であるとか一人前であるというのは、アカウンタブルであるということ、つまり、責任があるということ。責任の度合いというのは、社会的カテゴリーによっても変わる。それは、子どもの問題でもある。あるいは、教師と生徒、医者と患者の関係ではアカウンタビリティが変わってくる。お医者さんや看護師さんが健診をして、「飲み過ぎないようにやっていますか」と尋ねてきた時、「そんなの知ったことか」と答える患者はほとんどいなくて、まあまあやっているということを答える。医者対患者という役を担っているのである。本章にはたくさんの会話の事例が紹介されている。
まず、258ページの事例1の会話文をご覧いただきたい。会話分析の手法では、文字に直すうえでの研究上のルールがある。それは、英語と日本語で少し違う。話し手であるErika、Jude、Tinaの3名の4歳児が積み木で遊んでいる。話し手の3名の名前は、E、J,Tの頭文字でそれぞれ記されている。コロン(:)は伸ばす印、yerは話し手の発音に近い形で記されており、意味としてはyourである。声が小さいときは、(me)のように括弧でくくっている。"you are making (me) knock it down"というのは、「おまえのせいで倒してしまっちゃったじゃない。」という意味になる。(0.4)というのは、0.4秒経過という意味を指し、0.1秒単位で刻んでいる。パソコンでタイムが計れるようになっている。0.1秒くらいでは休止という感じがしないが、0.5では間があいた感じがする。"be more careful next time"は「次は気をつけてよ」とErikaが言ったのに対して、Judeが"I will. I will."と何度も言っている。we:llというのは恐らくwillのことであろう。「するよ、するよ」と言っているのである。そばにいたTinaが、「赤ちゃんみたいに振る舞っているよ」とJudeの振る舞いについてからかっている。Hhhは呼吸音や笑い声を示すことが多い。ふざけて言う時に笑い声が入りながら発音した感じ。”ss”は、「す」という発音の感じ。?は末尾があがるということ、”heha”は笑い声を指している。((大人の研究者を見ている))と二十括弧になっているのは動作である。一人の子どもが相手の子どもを赤ちゃんみたいだねとからかっている。”Iwill(わかったよ)”と繰り返す言い方が子どもっぽく感じられたのであろう。これは、からかった子どもが相手の子どもを「子ども」ではなく「赤ちゃん」という社会的カテゴリーに入ると言っていることになる。赤ちゃんだから、ちゃんとした言葉を使えない。4歳児は子どもであるが、Judeは赤ちゃんに含まれるとカテゴリー化しているのである。会話分析では、相互作用の中でなされたやり取り、すなわち、発音された言葉、身振り、表情、笑い声など全てが入っている。だから、互いにやり取りの中で聞こえたり見えたりするわけである。
しかしながら、相手から見えないようにしたり、相手に分からないようにするということもあり得る。これについては、259ページには、Natalie(24ヶ月)がJessica(14から18ヶ月)をおもちゃのトカゲで叩いたというエピソードが紹介されている。観察者がいて、二人の子どもの行動を観察している。叩かれたJessicaが保育者がいる方を見ると、保育者は別な子どもと庭で話をしている。Natalie は、Jessicaの保育者を探す視線を追っていき、園庭にいる保育者の姿を見つけて、叩いた腕を下ろした。そして、保育者が他の子と話していてこちらを見ていないことが分かり、今度はJessicaに肘鉄をした。Jessicaは大きな声で泣き出した。Natalieは保育者を見ながらJessicaのそばを離れて、数フィートの距離があるところにある木を叩いた。Jessicaを叩いたことが見つかると保育者から怒られるから、泣き出したときに離れて、おもちゃを手に持っているから、ジェシカを叩いたのではなく、木を叩いたと言いたいのではないか。保育者が見ているか見ていないかに対して子どもは敏感である。2歳くらいで言葉のやり取りはまだちゃんとできないが、視線や姿勢には敏感に反応している。そして、相手の視線の動きに応じてこちらの位置ややり方を変えている。これは、そういった事例として挙げられているが、やり取りというものが一つの会話の順番であるとか、シークエンス(sequence)、つまり、系列、つながりとなっているのである。
1歳から1歳半くらいの年齢になると、何かモノを相手に見せて、また取り返すことがある。この見せる、見せびらかすなどの「提示」(showing)という現象が見られる。そうすると、何かを持って見せて、相手に反応してほしい。そばにいる大人に1歳の子どもが何かを差し出せば見るだろう。挨拶の時に視線が合うと挨拶が成立するのと同じである。モノを渡されると視線が合うので知らないふりができない。素朴な意味でのやり取りで、1歳前後から1歳半くらいの言葉が出ない子どもが相手に働きかける時のやり方である。これに関する研究はたくさんある。261ページの左側にある事例2には、子どものJuanitaとカメラで撮っている大人のSarahのやり取りが紹介されている。Juanitaがカメラを持っているSarahにそれぞれの靴を持って走って来てSarahを見る。靴を持ち上げて1.5秒見せる。Sarahは大人なので、「あなたの靴ね」と言う。JuanitaはSarahの方をしっかり見る。靴をもっと高く上げて、靴の一つをSarahに見せて、もう一つも高くして見せる。Sarahがもう一度、「これらはあなたの靴ね」と言うと、靴を下ろして、うなずいて立ち去る。靴に相手の興味を引きつけるという相互作用として捉える。これは結構複雑な行為である。相手を選び、相手の注意を見せるモノに引きつけなければいけないし、そのためには、物を目立たせなければいけない。例えば、靴を持ち上げる。Sarahの反応は適切で、すぐに反応を示した。子どもは、相手が気づかないと何度も繰り返し、接近し、もっと目立つ行為をする。
この分析は以下の通りである。このようにして、”showing”は1歳くらいの子どもが相互作用を開始する時によく見られる場面である。応じる側との相互作用を通して”showing”を実現していく。微妙なところである。保育園で観察するとよく分かるが、0・1歳児クラスで、保育者が忙しくて十分に子どもの遊ぶ姿を見られないでいると、子どもは音を出したり、そばに寄ったりするなど色々なことをやる。1歳初めだと、子どもがクッキーを差し出した時に、「クッキーなのね」など言ってあげないと満足しない。結構、複雑なやり取りである。そういう”showing”は、大抵は相手にモノをあげるのではない。これは、ある種の会話の始まり、社会的相互作用の始まりでもある。4、5歳になれば、「ほら、おじさん見て、これあげるよ」などと言えるようになり、モノをもらう方も区別できるし、子どもがモノをあげるという時に断ることもある。間違えて見せるだけのモノをもらってしまうと、子どもは泣いたりすることもある。逆に言えば、見せられる側のやり取りも様々であろう。
次に、262ページの「要求をする(Making Requests)」について解説する。要求すると、何らかの反応がある。例えば、スーパーやコンビニで、小さい子どもがクッキーがほしいと要求を親に言っているようなもの。または、1歳くらいの子どもがおやつ、ジュース、ミルクと要求すること。リクエストに対してどう応答するのかというのは複雑である。相手が応ずるかどうかは色々なバリエーションがある。スーパーに2、3歳の子どもがいて、何かお菓子をほしがる際に、それに対して、母親はさまざまなテクニックを使っている。スーパー側はそのテクニックを破るテクニックを用意していて、レジのそばにお菓子を置いていたりする。親はスーパーのカートの椅子に子どもを座らせているが、それは、勝手に歩かせないようにしたいという目的である。つまり、勝手にお菓子を触ったり破いたりしないようにしているのである。ほしがる子どもにどう応じていくのかは難しい。あっさりあげてしまう親もいるが、多くの人は何とか相手の要求を断ったり、要求に何らかの応答をする。母親が聞こえないふりをすることもある。相手が小さい子どもだと聞こえないふりをすることもある。
そういった分析を本章の著者たちがしている。最初は2歳から始めて4歳まで分析したものが262ページに紹介されている。最初は、命令形で”give me ” と言い、次に、”I want X”と言う。相手が拒否している時にもう一度言うというやり方である。ちょうだいって言って断られた時に、チョコほしいなあと言う。さらに、相手がためらったり、迷っているときに、”Can I X”(チョコ食べていい?)というのは、希望があり許可を求めているのである。”May I”だと明らかに許可の意味であるが、”Can I”だと少し許可の意味は弱い。相互作用の中で相手の様子を見ながら言っているニュアンスである。相手がどう出てくるかによって使い分けている。これが、2歳から4歳くらいの発達である。2歳台で「パパだっこして」(Lift out now)と言っているが、“I want”” I like”だと要求が弱くなる。何とかしてと言って、それを嫌と言われると困る。メンツ(face)が失われると思うだろう。いわばそういう意味合いなのである。これは2歳から4歳まで発達していき、相手とのやり取りの中で決まっていく。独立して獲得して使うというのではない。もちろん個人差が大きいが、親とのやり取りの中での差も大きい。デパートのおもちゃ売り場で癇癪を起こす子どもがたまにいるが、その時の親の反応には色々ある。そこには、親と子どものやり取りの歴史が関係してくる。「お母さんは知らないわ」「そんなことをするのはうちの子ではないわ」などと言ったりする。これは、一種の規範(norm)が想定され、それに志向して、個々の行動があり、逆に個々の行動がそういう規範を露わにし、参加者に意味あるものとしていくのである。そういうものを知識として持っているわけではないが、やり取りの中で自ずと使えるようになってくる。
265ページには、質問に対する応答(Responding to Questions)として、たくさんの例が示されている。
子ども同士、大人と子ども、大人同士のやり取りが紹介されている。「何時ですか?」と尋ねて答えるのは単純なやり取りであるが、質問した後に間があく場合がある。明らかに聞いているけど、向かい合って相手がすぐに反応しなくて、会話の中で1秒、1.5秒くらいあく。2秒あくと長く感じる。講義で10秒あくと少しあいた感じがある。漢字が思い出せないかなと思われたりする。講義の初めに1、2分待っていると静かになる。日常会話の中で、「ねえねえ、ジュース買って」と言うと、相手が1秒間だまっている。そうすると、もう一度要求を繰り返す。さらに要求が強くなる。そして、相手が要求に応答する。反応が答えでない時については、例えば「わからない」という応答などがある。それ以外の時には別の何かが必要となってくる。スーパーでおやつを買ってとせがむ子どもに対して、「おやつは家に帰るとあるよ」「お金がないの」「だめ」と反応する。あえて無表情だったり、うなるような時、大人の会話において、「だめ(no)」には説明が必要である。「映画に行かない?」「ごめん、ちょっとゼミの準備があるし」などと理由を言う。断るには理由が必要である。そういうものに対して要求する側は手を変え、品を変える。または、別のやり方を考える。「お願い(please)」とつける。以上の説明は、大人の会話についてであるが、子どもの場合は、そんなに様々な交渉のやり方を持っていない。そのため、通常は「ほしい、ほしい」と永遠に繰り返す。少し大きくなるとやり方が少し高尚になる。「お誕生日のプレゼントちょうだい」、「少し早めプレゼントをちょうだい」、「ジュースを買ってくれたらお手伝いする」などというかもしれない。ただ、4、5歳児でも特徴的なのは、多くが「だめ(no)」に理由をつけないということである。5歳では理由をつける場合もあるかもしれない。どうしてと尋ねても理由をつけない場合が多いが、お母さんごっこで遊んでいるところに入りたいと思って行って、「ダメ、いっぱいだから」、「お父さんとお母さんと子どもでいっぱいだから」と理由らしきものを言う場合もある。そういった答えるべき規範があることが分かる。要求に従えない場合にそれなりの理由を出すようになってくる。単純な理由もある。「貸して」、「ダメ」、「どうして」、「だってダメだから」など。そこに、「今、使ってるから」、それ以上の理由はない。
これらについては、細かい研究成果が出ているが、言いたいポイントは最初から同じで、要するに質問に対する要求に対する反応は、それに従う必要がある。要求というのは理不尽なことは言わないという想定がある。「それを取ってくれる?」などはあっても、「100万円ちょうだい」などはない。「千円貸してくれない?」というのはあるかもしれないが、ドラえもんのジャイアン的に、「漫画貸してくれない?」などは要求がささやかだから応じないわけにはいかない。要求というのは合理性を持っているという前提があり、応じられない時に、聞こえないふりをするとか色々なやり方がある。それなりにできない理由を言う。そして、もう一度頼む、別なやり方で言う。2、3、4歳でも結構複雑な相互作用を大人と同じようにすることができるが、もちろん大人と違うところもある。
本日の講義の内容は、会話分析の話であったが、子どもたちの社会的関係がどういう風にできあがっていくかというときに、言葉だけでなく、会話のメカニズム、やり取りが崩壊することも含めてのメカニズム、要求に対する答え、社会の中で多く使われる要求など、質問しない人はいないので、色々なところで学ぶであろう。会話をやり取りする中で自ずと身につける。そこを細かく見ていくと、視線、身振り、表情、などを駆使してやり取りしていることが分かる。
(執筆:無藤隆,2017年7月3日)
(まとめ:白川佳子・木村明子)