第10回の講義では、第14章"Conducting ethnographic research in early childhood research: questions of participation / K. Konstantoni & M. Kustatscher"を参考にしながら、エスノグラフィー研究法について論じる。第14章の標題を訳すと、「エスノグラフィー研究法を幼児期研究に活かす:参加の問題」となる。
本講義の内容は、幼児期のエスノグラフィーであるが、第1回目の講義でも説明したような子どもの参加や権利と絡めながら論じる。テキストには、エスノグラフィーについては詳しく述べていないので、詳しく知りたければ他の詳しい文献を読む必要がある。昨年度の講義の中で、エスノグラフィーの講義をしたので参照していただきたい(ときがたり質的研究入門の第7回「ナラディブ・エスノグラフィー」https://sites.google.com/site/hoikulab/home/studyandresearch/readarticles/tokigatari/07)。エスノグラフィー(ethnography)という用語の語源は、ギリシャ語で"ethnos"が民族、部族、人々、 "grapho”が、グラフ、記す、書く、述べるという意味からなっている。古い言い方だと、民族誌というが、最近はカタカナでエスノグラフィーと言っている。それは都市生活など民族以外のものも研究対象とするようになったからである。
エスノグラフィーがどこから始まったかというと、マリノフスキー(1922)とミード(1928)などの文化人類学者の研究からである。宣教師などが現地の様子を報告するというのはあったが、それは学問的なものとは違う。アメリカではネイティブ・インディアンの暮らし方を19世紀終わりから学問的に研究するようになってきた。その後に大きな影響を与えたのはマリノフスキーとマーガレット・ミードで、特にマリノフスキーの影響が大きい。ミードはサモア、マリノフスキーは西太平洋のトロブリアンド諸島に行って調べた。マリノフスキーは長期間に渡って現地に居住し、現地の人々と一緒に生活し、現地の言葉を学んで研究した。マリノフスキーは一人または夫婦で滞在したが、マーガレット・ミードは夫婦で滞在した。それまでの研究は、短期間訪問して記述したり、情報提供者に聞いて書いたり、植民地の統治者や役人のような人がその立場で書いたり、旅行者として書くというものはあったが、そのような人々は特別扱いされているので、現地の生活そのものを見ている保証はない。マリノフスキーは、現地の生活の仕方、ものの考え方、何を信じているかということを取り出していき、第一次大戦の時、イギリスに帰って論文にした。その後、イギリスで彼の後継者たちがエスノグラフィー研究法を構築していった。
並行して、1920年代にアメリカでシカゴ学派ができて、現在もその流れは続いている。やはり、現地の中に入り込むというアプローチを取っている。例えば、ギャング集団に入り込んで活動する研究や、移民のグループに一員として入って、何ヶ月も生活をして論文を書くというものもある。日本では佐藤郁哉氏が有名であるが、彼はシカゴに留学してシカゴ流の研究手法を学んだ。佐藤氏は、京都の暴走族に一緒に走ったりして暴走族の若者にインタビューをした。そういう流れが、特に1970年以降はさまざまな学問分野、例えば、心理学や人文地理学などに広がっていった。文化人類学者は、アマゾン、太平洋の小さな島などで研究することが多かったが、社会学者は現代の先進諸国においてフィールドワークをした。教育学や心理学が入ってくると、もっとミクロな世界、例えば幼稚園の生活などが対象となってきた。おおむね、研究者自身が人々の日常生活に一定時間参加し、生活をし、そこで起きていることを観察したり、語られることを聞いたり質問をする。そして、写真を撮ったり記録を集めたりする。全体として、その生活を深く見てみると探索的であり、記述がメインの研究法である。特定の場所ではどういう生活が行われているか、行動だけでなく、習慣、信念、信仰、言葉などを含めている。
日本でも、幼稚園、保育所の研究はあってもエスノグラフィーの研究は少なく、むしろ欧米の研究者が日本の幼稚園や保育所の研究をやっている。当事者にとっては当たり前のことを調べるから日本人が調べた研究が少ないのではないかと考えられる。確かに、欧米の研究者たちは当事者にとって守秘義務があることまで調べたりする。例えば、教育学の研究では、小学校の研究室で校長室や職員室、職員会議ではどのような話をしているか、休み時間に先生方は何をしているかなどを調べることはあまりない(欧米にはある)。調べたから、必ずいい研究になるわけでもないが、すでに知っている話かもしれないし、部外者は知らないことかもしれない。子どもの遊びを克明にビデオに撮ることはするだろうが、先生たちが指導計画を立て直すときに、園長や主任とどのような話をしているかなどはあまり研究対象にしていない。それは保育の裏側の話であるが、エスノグラフィーではそういうことも含めて記述していこうという考え方や志向をもっている。そういった事柄はどうでもいいではないかという考え方もあるが、エスノグラファーは日常生活こそが大事だと考えている。研究者が参与し入り込むということになる。純粋に客観的な研究ではない。実践者として入ったり、組織の一員として加わり、また観察者として壁の花的に入り込んだりするが、いずれにしても、その場にいるということが基本となる。そういう立場から、幼児の研究をしていくとはどういうことかというと、幼児を単に成長していく存在であるかとか、どう教育していくかという視点でなく、そこで幼児が生活を営んでいてどのように生活していくのかを記述することである。そこにいる子どもたちの世界、小さな文化ではあるがそれを調べるのである。
一昔前だと、地域に子ども集団があって、大人の監督、監視のないところで子どもだけで遊んでいる時、子どもだけの文化、子どもの社会を調べることができた。そういうことが小学校や幼稚園、保育所でもあるわけで、それをどういう風に取り出していくかが課題である。大人が子どもに与えたものであったとしても、子どもが積極的に能動的に生きていることに対して解釈を与えていく。子どもは大人が規定した通りに生きているわけではない。そのような関心のもと、小学校や幼稚園、保育所、子どもの集まりとか家庭生活とか、病院に行くとか、街で色々なことを勝手にしているとか、または、難民などの子どもたちがそこでどのように暮らしているかなどさまざまなことを調べることができる。
幼児教育に関するエスノグラフィーと限定してみてみると、その施設での経験、子どもにとっての遊びの経験がその施設においてどのようなものであるか、なんらかのプログラムの実施がどういうものであるかを探り出すことがなされている。つまり、そうすると、エスノグラフィーというのは生活の記述であるが、特に子どもに焦点を当てた際に、大人の視点から見るのではない。大人は子どもをしつけたりするが、子どもは違うやり方や受け止め方がある。子どもが大人によって与えられた物を作り変えていくことになる。たとえば、健康診断で並んで体重身長を測る際に、子どもたちが並んでいて、静かに待っていることはなくおしゃべりしたりふざけたりしているが、そういうことを調べている研究はない。調べて価値があるかどうかは分からないが、大人にとって健康診断は健康を維持するためにあり、大人はそれを必要なものであると思っているが、子どもにとっては退屈な経験かもしれないし、友達とふざける場、友達と身長や体重を競う場かもしれない。子どもがそれをどのように捉えているかを調べる場であり、子どもの視点や子どもの見方を調べる場であり、それをどのように取り出していくかが重要である。子どもの自然の会話を録音するか、または、子どもから直接聞き出すという方法がある。幼児はうまく語れないので、ふさわしいやり方を取り出していく。また、乳児の場合はさらに語れないため別のやり方を考える。子どもなりの見方に意味がある。単に未熟で色々なことができない存在ではなく、それなりには解釈を考えている存在であるとみていくことを進めようとしている。子どもたちの状況や文脈、子どもと子ども同士の意味づけがさまざまであり、一律にも言えず、大人が想定した通りにもならない。大人側の思い込みという想定に対して、研究者自身が自覚的になり、その通りではないかもしれないということを考えていかなければいけない。文化的な状況や文脈というのは、子ども側が当事者であるわけで、子どもがどう捉えるかが尊重されなければならないし、子どもは子どもとしての振る舞い方をするので、そこで子どもの力を見ていかなければいけない。子どもはきちんと並ぶことができないという見方があるが、5分くらいつまらない時間を過ごすためにふざけ合って過ごしていると見ることもできる。子どもにとっては健康診断を待っている時には静かに整然と並ばなければいけないという捉え方はしていない。大人の期待に従ってできていないことは子どもにとって問題ではないのである。
次の問題はエスノグラフィーを実際に進める際に、子どもが実際にどのように参加できるかということである。幼児がいる場面を観察する、調べる場合に、場面に入る許可を出す人をゲートキーパーや門番(gatekeeper)というが、出入りをコントロールして許可を与える人である。家庭では保護者であり、幼稚園では園長や担任である。そうすると研究倫理ということで言うと、園長や担任に許可を得ること、つまりインフォームド・コンセントということになる。そのこと自体はいいのだが、そこに子どもが入ってきた時に、子どもの参加はどのように考えたらよいかが難しい。子ども、特に、幼児に参加する権利があるとか、子どもの権利上の問題で、権利はあったとしても知識や判断はあるかどうかというと難しい問題である。6歳では大丈夫という考えもあるが、1歳の子どもならどうするかなどの問題が残る。幼児を相手に全てを説明して許可を得るのは不可能だが、保護者に代弁することでいいのかというと、そうではないというのが参加の問題である。それは子どもの見方を引き出したい、子どもがこの場において子どもなりに生活しているかを見いだしたいというのであれば、子どもがどのように見ているかを調べることが大切である。
子どもが研究に対して協力的であるかを確保していくのは研究上においても倫理上においても大事であろう。しかしながら、完全に許可を得るということは難しくてできない。その時に、研究者側の立ち位置というのは、エスノグラファーの場合、対象とする生活の場に入り込んで生活するという特徴があるのだが、幼稚園というのは厳密には外部の大人がそこで生活する場とはならない。そのため、その場の一員みたいな存在になるしかない。朝から晩まで一緒にいるというのはあるかもしれないが、通常は研究でそこまではやらない。そこで生活するとは、どういうことを意味するのか。生活するだけでなく、そこの場で調査もする。そのため、生活者として一員とはなっていない。担任になるとすれば、生活はしているが、担任としての視座や役割の中での生活であって、子どもの視点を取ることではない。一旦、担任の役割の視点から外れて、二重の視点を取らなければいけない。これは難しい問題で、担任だと子どものことがよく分かっていると思われがちだが、子どもは担任という役割の人に対して振る舞っているわけで、担任がいないところでは振る舞い方が違う。無藤が子どもを観察していたときに、ある子どもが他の子どもを軽く殴っている姿が見られた。担任は廊下の別の場所にいたためその状況を見ていない。無藤がそれを注意せずに知らないふりをしていたため、軽く殴るという行いが見られたのであろう。保育者との関係ではその殴ったことを伝えることが倫理的な行いかもしれないが、子どもとの関係ではそのことを伝えないのが倫理的なのかもしれず、そのことに結論を出すのは難しい。さらにもっと難しいケースもある。もっと喧嘩が激しい場合はどうかというとジレンマがある。ともあれ、研究する人間として、担任になることが生活者とは言えない。担任は担任の目で見ている。第三者的に見ることが正しいというわけではなく、子どもはどういう風に外界を見ているのかという視点で見ることが大事である。
子どもを観察したりインタビューをする方法がある。子どもが遊んでいる際に何を作っているのかなと尋ねることはできる。そういう誰ともしれない役割として場の中にいて、その場に影響を与える形で存在する。その場にいることが相手に影響を与える。それは、参与観察というが、相手に影響を与えたからと言って、決してそれは歪められたものではない。影響を与えていくのだが、研究者がその場にいなくても起きていく生活を再構成していく。それが古典的な意味でのエスノグラフィーである。その際、研究者の参与の度合いが問題になってくる。原則、色々な立場があるが、実証主義(positivism)は比較的にできるだけ観察対象を邪魔しない。現在でも有力な立場である。見ていればある程度の影響はあるが、その影響をできるだけ小さくしたいという立場である。なるべく観察対象には話しかけないで、控えめに行動する。子どもが話しかけてきたとしても関わりを最小にする。完全には観察対象から離れることはできない。例えば、マジックミラーや観察モニターを見ているわけではないから、その場や観察対象から完全に離れることはできない。そのため、子どもとの関係が多少は生じてしまう。
その時に自分のあり方について自覚していくことが、自己回帰性(reflexivity)である。そのことをフィールドノートにつけていくことが、今頃のエスノグラフィーでは強調される。観察者としての振る舞いや研究者として感じていたこともフィールドノートにつける。子どもに影響を与えたかどうかはわからないが、あとで覚えていてフィールドノートに書いたりなどやり方は色々ある。4歳くらいの子どもが観察者である無藤の名前をよく聞いてくることがあるので、子どもが気楽に受け止める言い方を考えてみた。「遊びに来たんだよ。」「遊びを見に来たんだよ。」という言い方もあるが、子どもとのやり取りを最小限にしたい。それで、先日は、「むとう先生だよ。」と言うと、「むとう?」と聞き返してきて、「うんこ先生!うんこ先生」と数名の子どもが騒ぎ出した。「園長先生のお友達だよ。」というのが一番子どもが気楽に受け止めてくれる説明の仕方かもしれない。
そこでの方法が色々あり、第1回目の講義の参加の方法のところで話したが、子どもから情報を得る方法は、観察だけでなく、絵を描いてもらう、写真をとってもらう、人形を使うなどの方法が提唱されている。子どもから単なる情報を提供してもらうだけでなく、研究への積極的な参加や、子どもが豊かな情報を提供できるようにしていく。そこでは、研究への参加の許可を子どもがどう出せるようにしていくかが重要になってくる。正式な研究の許可はゲートキーパーが出すが、実際の観察場面では、観察していいよとか調べてもいいよということを子ども自身が態度で示してくれる。このように、子どもが正規の許可をする場合もなくはないが、その逆もまたある。それは、子どもがこちらを見るなよと拒否するような場合である。観察者を子どもが殴ってくる場合もある。それをどの程度許容するのかは難しい。広い意味での子どもの許可を得るのである。子どもがごっこ遊びをしている時に、ちらっと観察者を見てその後気にしないようならばOKしているものとみなせるだろう。先日の観察では、ある子どもがあんずの実を細かく切って、周囲の子どもに切った実を渡していて、それを観察者にも渡しに来た。その実は綺麗なものではなかったがそのくらいで食中毒にはならないだろうと思って、食べたが。そこに一律の正解はないのである。なるべく観察対象者と関わらないようにしていても相手から話しかけてきたら拒否はできない。子どもの生活のあり方や生活の見方を探り出そうとしているのだから、子どもが提供してくれる情報は貴重な資料となる。そう見てみると、参加の問題とか、そこでのインフォームド・コンセントが一律に決まるわけではなく、フィールドの中でできていく研究者との関係の中で決まってくる。分析というのは研究者のあり方、担任の存在などを含めながら分析していくしかない。そこでは、観察者が透明な存在とは言えない。研究者が、どの程度能動的・積極的に行動するかはさまざまである。このように、子ども相手のエスノグラフィーや子どもの参加のあり方を考えた時に、そこでの関係のあり方、つまり、子どもがいて、保育者がいて、研究者がいて、という関係のあり方を含めて分析する必要がある。
そこには権力関係が存在する。例えば、そこでしていいこととしてはいけないことを保育者側が規定している。そこに研究者が入ったり入らなかったりしていて、それは流動的である。一律には決まっていない。研究者のあり方もそこで動いていく。例えば、ある研究では、大人としての役割を最小限(least adult role)にしてフィールドに入るという立場を主張するものもある。つまり、 子どもと一緒に遊ぶ、小学校の授業で生徒として参加する、授業中に挙手したり、子どもと一緒に座っているというような大人のあり方である。子どもと一緒にブランコをすることや鬼ごっこをすることが、子どもと完全に一緒かと言えるのか。大人が本気でやれば鬼に捕まらないし、担任なら鬼をする際に手加減をしているだろう。完全としての役割を取るものなのか、それは難しいところがある。大人が子どもになりきれるものではないだろう。しかしながら、これに近いものをやることはできるだろう。普通でない大人(unusual adult)という役割を支持する研究もある。これは、つまり子どものお友達になることを指している。これはうまくやれば可能であろう。子どもが自分のことを話してくれたり、友達扱いをしてくれたりする。友達と同じような語り方で接する。他には、無能な力のない大人(incompetent adult)という立場もある。例えば、大人が「このゲームのことを知らないな。このゲームはどうするの?」と知らないふりをして子どもに尋ねると、「おじさん知らないの?」と言って知っていることを教えてくれる。大人が「なわとびできないんだ。どうやってするの?」と尋ねれば、子どもは「こうするんだよ」とやり方を教えてくれる。知らないこと(not knowing)という大人の立場もある。例えば、大人が「すごいね。どこが面白いの?」「どうすれば上手になれるの?」「どうしたらそんなに高く積めるの?」と尋ねると、子どもは、得意げにそのやり方を教えてくれる。このように、大人としてのあり方には色々なやり方があるのである。複雑でその時の状況で動いていくものでもある。大人には、教える役、監督する役、正しいやり方、規範を守らせる役などがあるが、エスノグラフィーではそういう役割を取らずに、子どもの見方を取り出したりするために、子どもの遊びを止めたりせず、知らないふり、馬鹿なふり、友達みたいなふりをしてその場にいるのである。
その際に、どのような立場でその場にいるのかを振り返るのが自己回帰性である。純粋に客観的であるというよりは研究者のあり方とともに取り出される。自己回帰性とは、研究者のありようが影響を与えることを避けられないから自覚して、それを込みにして分析するものである。研究者側の思い込みや前例を自己吟味しなければいけないが、決定的に重要であるわけではなく、また、研究者の見方が全てを決めるわけではなく、研究者の思い込みを振り返ることが最も重要というわけでもない。一つはフィールドノートを作成する際に、子どもの側の様子を書き取るだけでなく、自分の様子や思いも書き入れていく。もう一つは、そこに出てきた子どもや先生の様子をその場の様子から一旦離れて見直したり遠くから見直して再分析することを組み合わせていく。その場の中で見たり、記録して、その場から外れて見直すとずれが生じるが、その両方を組み入れていく。
最後に、研究倫理の問題であるが、特に、個人情報を匿名化し、インフォームド・コンセントを守ることが重要である。ビデオや写真ではどうしても子どもの顔が出てくる。写真の掲載の許可を得た際に、子どもが大きくなった時に子どもがどう思うか、外部に向けて研究を公表する場合にどうするかまで考えていく。門番に一度許可を得れば大丈夫だが、研究の開始時に子どもに許可を取るのは難しいので、研究していく中で子どもが受け入れてくれているか嫌がっていないかどうか、子どもの様子に配慮しながらやっていくことが大切である。次に、倫理的な難しさとして、子どもの安全に関わる配慮を説明する時に、言葉で説明するのではなく、写真やビデオを見ながら許可を得ていく方法もある。または、嬉しい顔と悲しい顔の絵を用いて気持ちを表現してもらったり、ストップカードやクエスチョンマークのカードを置いておいて、止めたいときや分からないときに使用したりするものもある。そのようにして、状況に応じた判断や、子どもの気持ちが変わった時の意思表示を認めて、柔軟に対応する。子どもの嫌がる、泣く、逃げるなどの表情や動きに敏感になることが大切である。
現在、エスノグラフィーが子ども研究の主要な方法の一つになっているわけであるが、それは詳細な情報を与えてくれるからである。日常生活の細かい記述をしていくことができる研究法である。それは赤ちゃんであろうが幼児であろうが可能であろう。子どもの見方を取り出すことは、子どもの権利の尊重であるが、子どもの気持ちに添っていなければ、子どもの権利の侵害になる。
また、研究の偏りも存在する。例えば、幼稚園、学童保育、小学校など施設の中での子どもの行動はよく研究されているが、それは研究しやすいからであって、子どもが街で遊んでいる姿は研究しづらいためにほとんどない。しかしながら、そのような場面での研究も重要である。夜、ゲームセンターにいる子どもの姿を調べる際に、ゲームセンターの中で観察するのは難しいだろう。それでも、正規の生活以外に子どもがどのような行動をしているのかを調べるのは大事である。子どもの生活を捉えるということは、研究倫理の問題をクリアし子どもの参加の問題を実現していくことはもちろん、子どもと大人、子どもと研究者との関係、子どもと大人の権力関係に対しても敏感に柔軟に対応していく必要がある。その際に、自己回帰的であること、つまり、大人が自分のあり方に対して自覚的になることが大事なのである。
(執筆:無藤隆,2017年6月19日)
(まとめ:白川佳子・木村明子)