2016.4.11
無藤 隆 子ども学研究特論(1)
第1章・第3章 子ども学研究における質的方法論の概要と歴史
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
質的研究は、過去30年くらい前から盛んになってきた、アンケートをとったりするなどの量的研究法も学んだ方がよいが、本授業では、質的研究法について焦点を絞って扱う。本講義で扱うテキストはデンジンとリンカーン(Denzin & Lincoln)が編著者であるが、著者によって質的研究への力点の置き方が異なる。彼らは、インタビュー法や観察法の洗練したやり方や哲学的背景について紹介している。全43章あるが、本授業ではその中から15章分を紹介する。
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今日は第1章「導入(Introduction)」と第3章「歴史」を扱う。
おおざっぱにいえば、インタビューをする時にエピソードを使うとか、そのような手法を洗練させたものである。難しい議論が多いのは、哲学的議論が背景になっているためである。
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第3章は、フレデリック・エリクソン(Frederick Erickson)の質的研究の歴史という章である。
フレデリック・エリクソンは、もともとは文化人類学者であり、小学校の教室の研究、子どもと教師、などの分析。教室にビデオを持ち込んで分析することを世界で初めて取り組んだ人(のうちのひとり)。
ここでは、文化人類学、教育学の流れに即しながら、質的研究の歴史について述べている。
質的研究は、紀元前5世紀の古代ギリシャで始まった。
数量的研究方法が出てきたのは19世紀であり、それ以前のあらゆる研究は質的研究であった。17世紀には、ガリレオ・ガリレイ、ニュートンが、物理の分野では数量的にやってはいたが、広がり始めたのは18世紀で、確立したのは19世紀である。
だから、それ以前を質的とは誰も言わない。古代ギリシャ以前でも、プラトンやアリストテレスは、計算をしたが、それはきわめて例外的であった。
16世紀はルネッサンスの終わりの時期である。
数量的研究の始まりについては、数学者のパスカルが賭けについて論じた(「人間は考える葦だ」と「パンセ」の中で述べている)。デカルトも数学者であった。
数学的な扱いというのは、測定しないといけない。1700年前後くらいからで、19世紀まで続く。
一方で、19世紀の半ばというのは、実証的数量的にやろうとして、物理学ではニュートン力学、19世紀半ば、化学、そこに原子や分子が出てきた。
ダーウィンの「進化論」は1950年くらいである。
19世紀終盤、自然科学は全盛だが、人間の心や社会を考えるときには、数量的にはうまくいかないのだという主張が起こり、ほかに人の心を理解する方法が必要となり、現代にいたる。
その中で重要な役割を果たしたのが、エスノグラフィ(民族誌)。
世界中の異民族を研究する際、19世紀後半は、進化論が支配した。ダーウィンの「進化論」にヒントを得た人たちが、ダーウィンの進化論を民族の優劣をつける際に持ち込んだ。
そして、西洋の白人が最も進化しており、次に黄色人種、アメリカインディアンの赤色人、アフリカの黒人という考え方が流行した。さらに、白人と黒人では知能の差があるという実証的な証拠に基づく議論もなされた。
ちょうど、その頃日本では、明治時代で1868年、文明開化が起こり、社会が優劣を捉える世界になりつつあった。その中で、日本は、白人に比べて低い位置にあるから早く追いつかなければという機運が高まっていた。
対して、エスノグラフィは、もともとルネッサンス、主にキリスト教を布教する人や大西洋を航海する人などが、全部報告をまとめて記録を残した。
さまざまな航海をする人々が、世界中にいろんな民族がいることを見つけて、世界の民族誌みたいなものが作られた。ダーウィンも「進化論」を考えるきっかけになったのは、探検のための船に乗って航海した経験からであった。
19世紀半ば以降、いろいろな種族部族を訪ねて記録するという人たちが出始めた。
それが人類学の成立であり、アフリカ、アメリカ(アメリカ、カナダ)、南太平洋などに散らばって報告書にまとめた。その最初の人類学の報告書は、1899年、デュボア(DuBois)が、アメリカの都市の研究を「フィラデルフィアの黒人(The Philadelphia Negro)」という本にまとめた。
1600年に、アフリカの黒人奴隷をアメリカに持ち込んだ(カリブ海諸国も)。
1800年代~1900代半ばがもっとも盛んだった。リンカーン大統領の時に奴隷禁止令を出した。
そこでは、何をしているかを克明に事実として記録していった。
誰が記録していったかというと、インドではイギリスの植民地であったため、イギリスの官僚や牧師が記録している場合が多かった。つまり、支配者の記録であった。
現地の風習や習慣を記録することで、世界中の民族の記録が生まれた。
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次に、マリノフスキーについて述べる。
1922年に、マリノフスキーは「西大西洋の遠洋航海者(Argonauts of the Western Pacific)」を出版した。ポーランド人(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)で、ポーランドのヤギェウォ大学で数学と物理を学び、ドイツのライプツィヒ大学で民族心理学を学んだ後、イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学し人類学を学ぶ。
第一次世界大戦が1914年勃発したが、その直前に、西太平洋メラネシアのトロブリアンド諸島(西太平洋。ニューギニアの西側)(Trobriand Island)に住み着いて、大戦がはじまってしまって帰れなくなってしまった(正確には、オーストラリア旅行中に、大戦が勃発したため、イギリス領であるオーストラリアでは当時オーストリア国籍は敵国扱いだったためパプアニューギニアに脱出し、トリブリアンド諸島にたどり着いた)。
最初の滞在時は独身であったが、その後オーストラリア人のエルラー・ロザリン・メーソンと結婚し夫婦でトリブリアンド諸島に滞在した(原著p.50右には独身滞在中の日記に将来の妻のことをERMと略字で記載している)。
現地の言葉を学んで住み着いて仲間に入れてもらい、女性しか入れないところに、妻が入った(マーガレットミードなども同じである)。
当時、現地の言葉を学ぶ研究者は多くなかった。
アメリカインディアンも少しずつ言葉が異なる。
長くいる人は、植民地の官僚だったり牧師だったりするから立ち位置が特殊であり、現地の人々と接する場所が限定される。すると、接する人たちに偏りが出てくる。
マリノフスキーは、「西大西洋の遠洋航海者(Argonauts of the Western Pacific)」の中で以下のように述べている。
・現地人の視点をしっかりとらえることが重要である、そのためには住み込むべき
・現地の言葉や現地の生活に溶け込むこと
現地のネイティブ、その地域の文化事情を調べなければいけないとはっきりさせた。
そこで調べることは、社会的関係や儀式である。
その後、マリノフスキーはイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学し、
人類学者を育てた(第二次世界大戦後は、アメリカに渡りイエール大学の客員教授となった)。
それによって、新しい種類の社会科学が生まれた。
こういう風にやっていたというように、きわめて記述的であり、それは数量的な話ではない。
たとえば、多くの部族では、子どもが大人になるときに儀式がある。
ケニアの背が高い人たち(南スーダンのディンカ族ではないだろうか?)には通過儀礼があった。
そこでの信仰、宗教、いろいろと聞き出して記述した。
すると、研究者が住み着いて観察する、インタビューする、そして、トロブリアンド諸島の慣習や考え方はこうだ、バリ島は…、アフリカの○○は…、と報告書にまとめた。
これがだいたい著者によると、1950年代初頭~半ばくらいまで続く。
この時代を「リアリスト」の時代と呼ぶ。=実在主義。
文化というものが確かに存在していて、客観的にまとまりのあるものとして存在する。それを研究者が、記述すると、ひとつの文化としてまとまりをもって記述される。トリブリアンド諸島、など。
文化というものが存在していて、それが反映するものとして報告書の記述がある。
報告書にはミスなどもあるだろうが基本的には事実を記したものと考える。
マーガレットミードのサモア島での研究も有名である。
グレゴリーベイトソンという夫(文化人類学者)がいたが、すぐに離婚した(一生のパートナーではあったが)。
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もうひとつの流れとしては、社会学による都市の研究がある。
1920年代から30年代に始まり、1950年代まで続いたシカゴ大学のシカゴ学派である。人類学というよりも社会学であった。
特定の都市の地域を克明にし、そこでの生活を紹介する。
下層階級や中産階級や、いろいろな研究がある。
シカゴ学派の人たちは勇気があり、マフィア研究をしたりバーに入り込んだ人たちもいた。
その流れの一つが、「暴走族のエスノグラフィ」。京都の暴走族についての研究をした一橋大学の佐藤郁哉氏。
その流れをくみながら、1970年代には企業の研究(p.48 workplace study)が始まった。
リフレクション(省察)を広げたドナルド・ショーンは、元々経営学者であった。
企業現場の研究をした。トヨタ自動車の研究などもある。
この流れで機器が導入された。
1920年代にボアーズ(Boas)がサイレントビデオを導入した(カナダのクワキウトル族の記録がある)。
その後、1930年代に、ベイトソン&ミードは、バリのダンスを記録した。
コンパクト・カメラで写真を収め、マイクロフォーンで録音するようになった。
そういったことに対する反省が生まれた。
人類学者がいった地域にもう一度行ってチェックする。
ミードのサモアの研究は、インチキだと言った人もいる。
(そんなに間違ってはいないかとは思うが)かなり極端に書かれている。
同じところをチェックすると、かなり違っている。時間がたっていることもあるだろうが。
でも、嘘をついたわけではない。
都合のいいことを書いたのだろうか?
通訳が入っても十分じゃない時には端折ったり、相手によっては話すことを選ぶこともあるだろうし、話しを簡単にしすぎていることもあるだろう。
それと、いくら長期間滞在したとしても、見せてもらえないこともあるだろう。
現地の人たちが大学で学び始め、研究者になることもある。
バリで生まれた人たちが大学に行って自分たち(の祖先)の報告書を読むと、事実とは違うじゃないかという批判が起こる。
実存しているものを歪めているのなら、直せる範囲で修正すべきである。
しかしながら、ある特定の視点から見ているための歪みがある場合は、修正できない。
ある人がある記し、いやそれは違うという論争になるとしても、どちらが正答を持っているとも言えない。客観的な人なんていないし、どれが優越なんて言えないのである。
その議論に決定的な影響を与えたのは、マリノフスキーが亡くなった後に、トリブリアンド諸島に行って日記(1967年)が明らかになり、その中には正直にいろいろ書いてあった(P.50には、退屈さ、欲求不満、敵意、情欲について書かれていたとある)。
マリノフスキーは最初現地に一人で行った。
マリノフスキーは、現地の女性とセックスしたかどうかについては微妙である。それによって、記述がゆがめられるかどうかは微妙である。
つまり、そうなると、現地の女性を見る目が異なるかもしれない。
そういうわけで、現地調査で、恋人・夫婦一緒かどうかが関わってくる。
あらゆる社会において、性の問題は重要である。
一夫一婦制が決められている部族もあるし、ゆるやかな社会もある。
セックスの在り方もいろいろである。
それを克明に話してくれる部族もあるし、話さない部族もある。
データを積み上げても真実が明らかになるとは言えなくなってきた。
では、それに替わっては、何をすればいいか。
ひとつは、データが勝負だから、もっともっと積み上げて、よりよい証拠を示していく。これは、データ主義の人たちの考えである。
でも、現地の人たちと協働すればよい。フィールドの中で一つの役割をとる。
海外の研究者が、日本の学校を研究するために、日本の学校内で英語の教師をし、メモをとっていく。観察者というより英語教師としての役割を取りながら、チームとして研究する。
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1950年代
特定のアクションを志向する。
アクション=現状を変えること。
たとえば、貧困地域に潜り込んで調査する。
その研究が、スラムに住んでいる人たちにとってなんの益があるかを考える。
1920~1930年代には、調査されている人たちはあまり考えることもなかったが、
1980年代にはいると、調査される人たちが「自分たちは」と考え始めた。
1970~1980年「批判的立場(クリティカル)」で社会批判をするようになってきた。不正を正す研究が主流になり、そうすると、中立的はありえず、どちらの立場に立つのかを明らかにすることを求められた。特にラテンアメリカ中南米では革命運動の運動側につくことを求められた。
1961年、キューバではカストロ革命が起こり、1970~1980年代、南米中でチェ・ゲバラに憧れつつ革命が起こった。
こういう流れは今も健在ではあるが、1980年代に基本的な流れが変わった。
ベルリンの壁が壊れ、共産主義が壊れた。
どの立場も単純に真実が反映されるとしたが、ある程度悲惨な状況にしても、ともかくよくしたいという立場の人たちの考えに基づいている。
1970年代~1980年代。
★ポストモダンの考え方
フランス中心の思想で、真実があること自体を事態を考える。一つの真実を描き出すことをやめ、いろいろな考え方があるという文化的相対主義の考え方である。
データを積み上げて…という人たちは
★実証主義(Positivism)
★ポスト実証主義(Post Positivism)
真実に近いものを浮かび上がらせるために、観察しても見えない時にはインタビューし、記録し、観察し、たくさんのデータを集める。
西洋医学では、病気は免疫力の低下で病気になるというが、別な文化では死者の霊が祟るから病気になると考える。
どちらがいいとは言えない。
それがポストモダンの考え方。
ひとりひとりによっても考え方が違うという考え方である。
そして、現代にいたる。全部流派としてある。
自己エスノグラフィ…自分のことについて記述する。
私はこう考えこうしたと描く。自伝ではあるが、他の人にとっても、意義があり興味がもてるように書く。できる限り、その時の日記や日誌などのデータをもとに語る。
実践者の取り組みは、オートエスノグラフィに近い。
パフォーマンスエスノグラフィは、研究手法というよりも、発表手法である。
論文は文字で書いてある。
それを、パフォーマンス…の人たちは、アート、演劇などで表す。
いろいろな発見を演劇化して発表したり、写真、絵、ダンス、映像などで表現する。
第3章の著者であるフレディリック・エリクソンは、1970年代に、教室内の会話研究など教育の分野に入ってきた。保育の研究については1990年代に多くが始まった。
客観的なデータを積み重ねる手法としては、アクションリサーチという研究手法がある。
アクションリサーチは、結果をよくすることを考えて取り組む。駅前の自転車放置をどうするとか、ごみの収集などの研究もある。
現代社会を批判するクリティカルな手法もあるし、実践者が実践をもとに研究して論文を書くというものもあり、研究者と協働しコラボレーションする研究もある。
アクションリサーチと自己エスノグラフィを組み合わせることで、自分の実践をよくしていくこともできる。
教育や保育の立場の人にはさまざまな研究手法があるので、本授業で紹介していく。
参考として配布した「レジメ」にある文献、日本語に限ったもの。
① =まったくの入門書。
② ~④ は、大学院修士課程で読んだ方がいいもの。
② フリックは、非常に有名。ドイツの人。
新版は、付録に訳者が解説を載せている。
③ 質的・量的、両方について。
④ デンジン&リンカン 全4巻、非常に厚いもの…原著
翻訳があるのは第1版と第2版で、内容はオーソドックスである。
3版までは4版の倍くらいの分量があった。
④ は2013年出版で比較的新しく、コンパクトにまとまっている。
そのほかにもたくさん出版されている。たぶん数十冊~100冊はでているか。