2016.6.6
無藤 隆 子ども学研究特論(8)
第20章 解釈的実践
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
本日解説する20章のタイトルは、直訳すると、「解釈的実践の構築主義的分析論」である。
コンストラクション(construction)というのは、構築主義、コンストラクショニスト(constructionist)だと、構築主義者となる。アナリティクス(analytics)とは、分析論・分析法という意味で使われる。
インタープリティブ・プラクティス(interpretive practice)というのは、直訳すると解釈実践となるが、要するにいろいろな場面でやっていることを広く実践と呼んでいるので、保育や教育というような専門家の話だけではなく、普通に子育てしている人にも当てはまる。
実践(やっていること)と解釈を与えていることが一体であるというのがその主旨。
本章で扱っているのは、非常に理論的な方法論。実例が紹介されていないので難しいところもある。
この構築主義というのはいろんな意味で使われ、構築主義のほか、構成主義と言われることもある。それぞれ、いろいろな人がいろいろな意味で使っているから、一致した見解はないが、ものごとを作り出している…その「現実」が固定されていなくて、誰かが作り出しているという考え方。
そのあり方については、社会学、心理学者などいろいろな分野で使われている。
一致した見解があまりないが、本章の著者であるホルスタインとグブリアム(Holstein, J.A. & Gubrium, J.F. )は、2つの研究アプローチを統合しようとしている。つまり、①エスノメソドロジーと②ミシェル・フーコーの理論である。
①エスノメソドロジー
解説書がたくさん出版されているが、たとえば、『キーワード エスノメソドロジー』(新曜社)がある。入門書だが、読んでも少し難解なところがある。
エスノメソドロジーというのは、会話分析(conversation analysis; CA)を通して、我々の社会的現実がどう作られていくかを解明しようとしている手法である。社会的現実の作られ方をミクロ(=人と人とのやりとり)に分析するやり方。ミクロな視点から世界の成り立ちを捉える手法で、社会学の一分野である。
本章では、エスノメソドロジーは、社会的現実(social reality)の「how」の部分、つまり、「どのように作られていくか(方法)」に焦点を当てた手法である。
「エスノメソドロジー」は、社会現象学(social phenomenology)から来ており、1960年代に、カリフォルニア大学に所属していたガーフィンケル(Garfinkel)とサックス(Sacks)によって、創始された。
ガーフィンケルの最初の本は、1967年に出版された”Studies in ethnomethodology”。日本でも翻訳されている。
サックスの方は、翻訳本はない。彼が最初に描いた有名な論文は、1974年に刊行された”A simplest systematics for the organization of turn-taking for conversation.”である。
ガーフィンケルトとサックスは、少し立場が違うが、サックスは、会話のメカニズムに注目した。サックスは早く亡くなってしまったため、著書があまりないが、大学の講義録がある。
そのサックスの最初の論文は、turn-taking、つまり「順番取り」についてのものであった。論文では、話者の交代の分析をしている。具体的には、どんな会話でもいいが雑談している時に、非常にあたりまえのことであるが、話者の会話にほとんど重なりがないことを指摘した。
(例)
A:|---------------|
B: |-------------------|
コンパで10人会話していたら、複数のグループに分かれて会話するから会話が重なるかもしれないが、一緒のグループで会話しているとほぼ重ならない。ほぼ、というのは、誰かが話し終わった時に、もう一人の人が話し出すし、わずかに重なる時にはどちらかが退く。
会話分析は、エスノメスドロジーの人がやっているが、社会心理学者は、ターン・テイキング(turn-taking)のやり方とそこに使われる手がかりに注目して研究している。例えば、話しながら声の調子が上がったり下がったり、ポーズをとるとか、ちょっと休止するとか、「そうだよね」と言ったり、「ね」という終助詞を用いたり、視線の動きなどである。
このように社会心理学者は、ターン・テイキングの際の相互作用上の手がかりに注目しているが、エスノメスドロジストが注目しているのは、会話のやり取りそのものがどう成り立つかということである。
エスノメソドロジストがターン・テイキングの研究で明らかにしたことは、話者が注意しながら交代していること。もう一つは、会話はほぼ重ならないが、その区切り目はどうやって整理するかということ。全くでたらめに区切られることはなく、文の切れ目、とか、
フレーズ(句)の切れ目、とか、間をあけるとか、そういうものがある。潜在的に区切られる可能性をもった場所がでてきている、ということである。
例えば、「ほらあの…、北海道…、の、どっか、だっけ?」など、会話を区切る。
場合によっては、「北海道の、ん?…、はこ?」とか、必ずしも文の区切りではないこともある。
あるところで区切られるのは、結果的に区切り目がつけられる。
「その…、えっと…」という時に、「あ、これね!」という時が区切り目となる。
でも、「えっと」という言葉がなければ、しゃべっている人が続ける。ターン・テイキングは、相互作用の中で起きていることである。
公式の会議で、「Aさん、Bさんお願いします」は、司会者など権限をもっている人が指名していくが、ほとんど通常の会話はそのように誰かが指名する権限は持っていない。
会話を続けるということは、相互の参加によって構築されていく。かつ、会話の現実は、交代の現実で作られる。ターン・テイキングは、Aさん、Bさん、Cさんが参加することによって、会話が成立する。
コンパ10人で、会話が重なるのは、会話のグループが分かれているから重なるのである。
整然と成立するというのが、会話という現実である。会話という現実によって、Aさん、Bさん、Cさんの関係性は成立する。
エスノメスドロジーでは、会話者の中の考え、思い、ためらい、動機づけについて考慮しないというのが特徴であり、それは後付けで作られるものとする。順番の交代の中で、それらの関係が作られ、現実が成り立ち、現実に参加することによって、それぞれの人のあり方が想定される。
例えば、レストランにぎごちない男女がいて、気まずい沈黙があるとする。
そういう二人を見ると、初めてのデートかな、そこまで好きではないのでは、2回目のデートはないかな、などと思うのではないだろうか。
それは、心理的動機づけで考えていることになるが、エスノメソドロジーでは、会話そのものがその人たちのあり方だと考える。
ターン・テイキングのあり方が、時に権力関係を表すこともある。
例えば、今、講義で私が話している時に、受講者は「そうですね」とか口を挟まない。それは、講義内での約束、教師対学生という社会的関係で成り立っている。その関係は、必ずしも固定的ではなく、質問できるとしたら、また、変わってくる。小学校1年生だったら授業中に勝手に答えるかもしれない。
たとえば、ターン・テイキングのありかたに、権力関係が見えてくるが、それは、権力関係が別にあるのではなく、ターン・テイキングに代表される会話が進行されることによって生じる。実態は、ターン・テイキングのあり方にある。
エスノメスドロジーで使われる会話の仕組みは、先ほど述べたターン・テイキング以外にもたくさんある。
サックスは、「成員のカテゴリー化装置(membership categorization devices)」という言葉を用いて会話の仕組みを分析した。
サックスが書いた最初の論文の中に、”A baby cried. The mother picked it up.”と言うエピソードが用いられている。「赤ちゃんが泣いた。母親が取り上げた」という意味である。
この文章から、この赤ちゃんと母親が一つの家族だということが了解できる。了解とは、社会的カテゴリーとして常識的に持っているという意味である。
赤ちゃんが泣いてお母さんが取り上げたという事実が、赤ちゃんと母親という関係を社会的に安定した当然のものとしている。
エスノメソドロジーに代表される人たちは、次の2点を重要視している。
★当然視される(taken-for-granted)
★説明可能性(accountable)
当然視とは、社会的現実はそういうもの、当然、当たり前とみなされることである。
でも、それは、そういうふうに会話のやりとりを通して当然であるかのように、当然を作っているから当然であり、本質的当然ではない。
赤ちゃんが母親に取り上げられたという文章も、きわめて当たり前のものとして提示されているから、われわれは当然の事態とみなす。
当然視されるということを体験させるために、1960年代、ガーフィンケルは、大学で学生に宿題をやらせた。人と会っても一切無視するという宿題であった。宿題をやることは簡単なはずだったが、どの学生も辛くて一日と持たなかった。知り合いとすれ違っても無視することは辛い。遠くなら知らないふりできるが、近くですれ違っても無視するのは、
相当辛い。5分と持たないだろう。変に思われるに違いないと感じることが辛い。
それを、親友とか家族とかにやったら、人間関係は一日で壊れる(あとで事情説明したら別だが)。
逆を言えば、目が合ったときに、にこっとするとか、「やぁ」とか、うなずくとか、どうでもいいように思うことが、われわれの社会経験からすると、きわめて強力なデバイス(仕組み)となっている。
日常的に当然と思われる現実は、会話を動かす仕組み(machinery)によっており、各種の装置(device)により可能となる。
その現実を一瞬にして壊すものは色々考えられる。
例えば、教室内で授業中に、誰かが大あくびを平然としたら変だし、この場の一種の規範というかルール(規範とかルールとか意識されていないが)、ここで期待されない範囲を超えると、整然とされているはずの現実が一気に混乱してしまう。
ちなみに、エスノメソドロジーは、1960年代、1970年代のカウンターカルチャーの産物。公共の場を裸の人間が走るストリーキングはカリフォルニアで流行した。だが、そのようなパフォーマンスは、ある時期が過ぎると、ああ、またかと思うし、あるいは、テレビ・カメラがどこかにあるのだろうなどとも思う。さらに、慣れてくると無視する。
東京でも同じような例がある。あきらかにミニスカートを履いて歩く男性がいても、周囲の人は遠巻きに見ている訳でもなく、普通にしている。そういう事態は、慣れとして新たな現実が構築されたのであって、いきなり、そういう異質なものをここに投じれば、現実が一気に変わってしまうだろう。
つまり、我々が持っている現実は、そういうものであり、一個外れると非常に不安定になる。
同時にそれは説明可能、アカウンタブルだといっている(説明責任は、アカウンタビリティと言う)。アカウンタブルは、「こういうもんだよねー」と落ち着かせること。
最近の東京だったら、女装してそういう人もいるよね、と説明ができる。そのような納得のさせ方。知的に処理しているというよりも、やり取りの中で表現され、実現している。
普通であることのように、女装した男性が新宿の街を歩く。興味すら今の世の中はもたない。「あれ?」と見ない。セーラー服のおじさんすら、一瞬見たとしても、みんな無関心である。
それは、秩序を保つようにできているということ。安定した秩序を絶えず編成している、という仕組みを我々は持っている。
Aさんがしゃべりかけて、Bさん、Cさんが同時に話し始めることはあるが、お互いにチラと見て、BさんかCさんが譲り合う。それもアカウンタブルで安定したものである。
エスノメスドロジーは、こういう形で50年間研究されてきた。
日本でも研究者はいるが、特に研究の焦点は、権力関係が明確にある場合とか、いじめ、差別、医師と患者関係などである。医師と患者の診察関係は、明らかに、医師は強く、患者は従うという関係。
しかしながら、様々な行為で社会秩序は動きうる。クレーマーなどは、通常の患者関係を壊すが、次の瞬間、次の秩序に組み込まれる。
エスノメソドロジストは、そのような分析をやっている。
それは、何度も言うが、会話のやり取りの中で、どのように差別的秩序が絶えず作られ、安定したものとなるようになる仕組を分析する。
「how」とは、どのようにという方法、安定した秩序のあり方を解析することであり、有効な考え方である。
幼稚園と小学校の関係で、小学校1年生で小1プロブレムがあるが、小学校の授業構造の中で席から離れるということは、きわめて秩序破壊的である。それをアカウンタブルにするスキルを教師は持っていない。席についてぼーっとしているなら構わないが、立ち歩くというのは、小学校の授業の前提を崩す行為である。
最近は、子どもがとりあえず、席についているようにと授業補助の大学生がついていたりするが(それが良いか悪いかではなく)、そういうことをエスノメスドロジーが解明してきた。
エスノメスドロジーは、いろいろな立場に分かれていくが、その場にいる人たちが秩序をどう作っていくかを極めてローカルに分析する。ローカルとは局所的とか、あるいは、地方的とかという意味である。
つまり、講義するとか小学校1年生とかは、やり取りの中にあって、やり取りが数回続くことを維持できて、それを可能にすることで秩序が作られる。
乱されると修復が必要になる。エスノドロジストは、修復も考えている。
ターン・テイキングは、絶えず修復している。結果として、整然とした秩序となっているような気になる。
ローカルな秩序の作り方を分析する研究では、会話を録音し、映像を撮って、1分とか5分とかを細かく分析する。それがこのような研究の本流である。
そういう分析をすると、沈黙は、0,5秒単位で分析され、それより短いと沈黙と感じないが、0.5秒よりも長いと、休止(ポーズ)と感じる。
沈黙の間は、沈黙が続くわけでその修復はどうするか(それを扱った研究はあると思うが)。
デートとは、仲のいい関係を表現するために修復するワーク。レストランでごはんを食べるなど、何のためにデートの時に食事にいくかというと、単純に言うと、しゃべらないで済むからである。しゃべらないことにより修復される。もう一つは、いかにどうでもいい話題をするかである。
今日は暑いね、とか、あの会話の大切さは、無意味であること。無意味なことをなぜするかというと、やり取りをするため。まさにターン・テイキング。
沈黙が続くと困るとどうなるかについては、エスノメスドロジストは、問題にしていない。
エスノメスドロジーでは、まさに、ローカル(局所的)な秩序を問題にしているのである。
p.343右
haecceityという言葉が出てくるが、辞書引くと、「是態」という意味がある(個性原理という訳もある)。平たく言うと、「あるものはある」、または、「まさしくこれというもの(just thisness)」。エスノメソドロジストは、「あるものはある」と考え、なぜかという理由は問わない。
デートしていて沈黙が長い。これは、二人の相性がよくないかなとか思うのは、個人の嗜好に還元しているが、関係はまさにそのやり取りの中にある。今起きているそのものが秩序であり全てであるとエスノメソドロジストは考える。
②ミッシェル・フーコーの理論
フランスの哲学者、歴史学者。参考文献として、重田園江(おもだ・そのえ)著『ミッシェル・フーコー』(ちくま新書)がある。著者の専門は、フランスの哲学史、思想史、フェミニズムである。
フーコーは、たくさんの本を書いており、どの本もおもしろいが難しい。そのため、要約しにくい。
フーコーに限った訳ではないが、彼の分析の主眼は「what」つまり「内容」に向けられている。
先ほどの「赤ちゃんが泣いたらお母さんが取り上げた」という話しが、なぜ容易に解釈されるかというと、近代の母親、母子関係的な捉え方を利用しているからである。
例えば、赤ん坊の面倒を見るのは母親だという、文化的な心理とか、概念、そういうものを利用しているからこそ、あの一文は容易に解釈できる。わかりやすく容易に理解できるのは、われわれの文化が価値づけられた、母子中心的イデオロギーを利用しているからである。
しかしながら、フーコーなら母子中心主義的イデオロギーではなく、イデオロギーの絡み合いを扱うであろう。それは、内容(what)とそのミクロな生成を問題にしているから。
先ほどの話しでは、「a」baby、で、次には「the」だから、二者間の緊密な関係を示していて、しかも、2文で終わっているから、文の形式的な特徴で解釈はできる。そこを、近代の西欧も含めた、母子関係の西欧的な捉え方の中で文化的信念を利用しているととらえる。
「赤ちゃんが泣いたら父親がとりあげた」となると、自然さが減る。あるいは、「男が取り上げた」となると、誘拐事件ではないかと思われてしまう。あるいは、「泣いているのが、ガール」または、「ウーマンが泣いている」という文章だと、不思議なストーリーを考えたくなる。2文の完成した形が崩れてくる。この文章は、エスノメスドロジストとしての分析もできるが内容としての分析もできる。
フーコーがやろうとしたのは、西欧近代の歴史全体に広げていくということである。フーコーは、先ほど上げた本では、医学や近代刑事司法制度において見られる、その時代の監視(surveillance)システムを分析した(「監獄の誕生」)。フーコー自身は学校教育を扱っていないが、監獄も学校も似ているのはある種の監視システムが存在することである。
フーコーが取り上げて有名になったのは、監獄に全ての部屋が見渡せる監視塔があって、
効率よく監視することと監視される関係がいろいろと仕組まれている。
日本の刑務所は、散歩の時間がある。運動場があって、そこを歩かないとならないが、そういう気分じゃないとしても許されない。行進し、休む時間も決められている。なぜかというと、監視しやすい、教育的意味があり、同時に、囚人の健康維持のための意味合いもある。そういう複雑なものを含みながら成り立っている。
フーコーの分析方法というのは、ある種のイデオロギーとか信念とかがあって、例えば、刑務所が設計されるのではなく、建築し、設計し、その具体的な場の中で、イデオロギーが作られ、再生産されると、考えている。
この点に関してはエスノメソドロジーと類似している。つまり、やり取りが作られている、構成されていることを強調している点である。
しかしながら、両者には相違点もある。
エスノメスオロジーは、極めてローカル(局所的)であり、観察されるところだけを分析し、裏側にあるものについては何も考えない。対して、フーコーのやり方は、場面、あるいは、別の場面、文章や小説、絵画、報告、通達、それぞれにどのようなイデオロギーがあるかを分析し、似たところがあるかを見つけ、それが全体へと貫く権力(power)となる。そういう意味での権力をフーコーは、「生権力」と言った。パワーというものが、誰か権力者が持っていてというのではなく、それぞれの社会的場面で、権力が再生産されているということを言う。
フーコーの理論は、エスノメソドロジーと同様、構築主義的だが、社会全体、むしろ歴史的であり、先ほどのものであるなら、フランス革命前後(18世紀から19世紀)のいろいろなものを取り出して分析している。
フーコーが難しいのは、母子関係でいえば、母子中心主義が支配とか言わずに、イデオロギーの絡み合いを取り出している点である。
フーコーのやり方は、古典的フェミニストとは違う。フェミニストの中に、フーコー的な人はいるが、基本的には男性が女性を抑圧するという単純な抑圧関係が、個別の社会実践の外にあって、強いて実践しているという見方をフーコーは否定する。個別の自体での生成を除いて、そういった抑圧関係は成り立たない。
本章の著者たちは、エスノメソドロジーとフーコーの手法を組み合わせていこうと言っている。
実は、質的研究は、たくさんの立場があって、相互に相手の立場を認めているということはあまりない。
具体的に言うと、フーコーの立場はエスノメソドロジーを取り上げないし、逆もまた同じである。派閥細分化的と言える。
彼らは、構築主義的な解釈(interpretive)という立場を守っているが、その立場では、二重意識を持ってやっていこうとしている。
分析者が二重意識を持つということは、「how」つまり、そのやりとりがどうつくられてきたかという「方法」と、その一方で、「what」、つまり、どういうイデオロギーがそこに立ち上がるかという「内容」を同時に扱うということである。
それを批判する人たちは、虻蜂取らずで一緒にしようとすると失敗するというのが、言い分である。
p.347左
“bracketing”とは「括弧入れ」と訳すことができる。どういう意味かというと、「how」への注目と「what」への注目の両方の分析を平行させる、あるいは、交代させる、とういうやり方である。「how」に注目する間は、「what」を括弧の中に入れておく。
「how」は、秩序がどう構築されていくか、やり方、仕組みを取り出すことであり、「what」は、さまざまなイデオロギーだが、具体的に言うと、「赤ちゃんを抱っこしたよ」という話のように、その前提となるのは何か、結果は何かということであり、違う場面と比較する。
「泣いた赤ちゃんを男が抱き上げた」というと誘拐みたいで危ない感じがする。つまり、単純なストーリーがあっても、「what(内容)」で見るかは、その結果何が起こるかという関係を想像していくことが大事。その結果として何が起こるかを検討する。
実証的に言えば、赤ちゃんを世話したとか、場面を観察したりとか、いろいろな場面をもってきて、取り出していく。
それによって、たぶん、赤ん坊という無力な存在とそれを囲む大人との関係がいろいろな形で浮き彫りになる。それは実際のやり取り、生のやり取りもある。
電車内で小さい子が泣いている場面で、大阪のおばちゃん的な人だったらいくらでもあやすことができる。でも、ある程度の年齢のおじさんは、特に相手が母親だと、小さい子に対して、話しかけにくい。いかにも、おじいさんというタイプだと大丈夫だろうが。
そういう場面に類した様々な資料を収集し、いろいろな場面を取り出せる。
例えば、映画「寅さん」。笠智衆なら、いかにもおじいさんだからできそう。
現代社会のある種の親子よりもっと広い子どもの関係が浮き彫りとなる。それは権力関係とは違うが、フーコー風の、権力関係、日常に浸透している関係性。その二重の分析をすることもできる。
p.349 右
次に、ナラティブワーク(narrative work)とナラティブ環境(narrative environment)の2つをみていく。
ワークとは、エスノメソドロジーから来ている。作業、つまり、仕組みを動かすことである。相互作用をどう進行させていくか。そこでどういう関係性を、相互作用を通して作り出すか、それがワークである。ナラティブは、ストーリーというか説明のことである。
おばちゃんが赤ちゃんに話しかけるのは、年配女性は赤ちゃんをあやすというストーリーがある、それを作り出している。
おばちゃんは、母親を通さず、いきなりあかちゃんに話しかける。それを周囲は変に思わない。当然視される現実である。
一方で、それが当然と成り立つようなナラティブ環境があり、いわゆる物理的環境がある。ここでの、環境とは、文化的信念、あるいは、ある種のやりとりの前後の文脈とか構造とかのことである。
例えば、小さい赤ん坊が泣いている、機嫌が悪い、母親が一人、そこにおばちゃんがあやし始める。
男性だって、自分の赤ちゃんを一人であやしつつ買い物をしているなど、父親性が明確だと違ってくる。赤ん坊に対して、おばちゃんが話しかけてくる。
そういうことが可能なのは、文化的社会的身体的(世話してる、抱っこしてる、明らかに赤ちゃんの父親)というような、さまざまな環境設定が必要となる。それを、ワークとエンバイロンメントの関係のなかで、説明可能にしていくのはナラティブである。
それは、それぞれがどういう関係で、ナラティブを作り出していくのかは、いろいろなところによって異なる。
例えば、北海道での置き去り事件などは、虐待なのか、愛情ある親子の不適切な出来事であるのか。子どものたくましさとか、同時に父親が涙ぐんで話すというような(メディアが意図的に作っているのかもしれないが)、いろいろな解釈があるが、まさにこれが解釈しているということである。
こういう中でいくつかのアプローチが出てきている。ここでは①ナラティブ実践のエスノグラフィ、②制度的エスノグラフィ、③言説的構築主義の3つを紹介する。
① ナラティブ実践のエスノグラフィ(Ethnography of Narrative Practice)
エスノグラフィは詳しい記述(thick description)で、べたな記述をしていく。その場合、そこのエスノグラファーにとっては社会があることが当然である。西太平洋にある島の文化がある、それは疑っていない。小学校の学校教育を扱う場合、小学校があることを疑っていない。それ自体が危うい。小学校が小学校であるというのは微妙なことである。
例えば、学校崩壊があると、いかに学校の授業は、権力的で堅牢と見えるが、子どもが一人二人逃げ出すとあっという間に崩れてしまう。
小学校のエスノグラフィは、いろんな場面を記述する。先生と子どものやり取りを記述するなど。ナラティブ実践のエスノグラフィは特定の小さな社会での各種の個別の場面のあり方を収集し、検討する。
p.350右
② 制度的エスノグラフィ(Institutional Ethnography)
特定の制度の中で起きている出来事をどう記述していくか。小学校の教室で、安定的にあるが、それが小学校という公的なシステムの中に、あるいは、校長とか教頭とか保護者という仕組みの中にあって、そういうことを問題にして、秩序のあり方が揺らぎ、どのように作り直されるかを見る。特に、制度的エスノグラフィは、制度の中にある秩序の記述をするものである。小学校には、授業があり、休み時間がある、というような小学校を規定するカリキュラムがある。それらは文書により規定され、またそれを確認する文書が再生産される。それを記述し分析し、具体的に作られているか、あるいは壊され再度作り直されていくかを見て検討する。
p.351右
③ 言説的構築主義(Discursive Constructinism)
辞書を引くと、“discursive“は「弁論的」という訳があり、ディスカッションから来ている。議論するとか、論理的というような意味合いがあるが、この研究分野では、「言説的」と訳されることが多い。”Discursive Construction”は、「言説的構築主義」と訳し、議論や話し合い、談話がどう構築されていくかという意味合いがある。
ここでも、「how」と「what」の関係を扱っている。ひとつの談話、まとまり、文章、会話があるが、それがどういう構造をもつかを分析する。それが安定的に成立し、それが秩序を乱すワークがあるはずで、それはどういうものか、という観点で分析する。
より大きな秩序の中で特定のやり取りを検討したり、小学校の教師と子どもとのやり取りを、大きな学校教育の中の仕組みの中で検討したり、あるいは、45分間の授業の中での教師と子どものやり取りを見て、授業らしく作るというワークがあるということを検討しようとするものである。
最後に、このような分析の目指すものとは、「安定した秩序が成り立っていると見えること、
それは、大きな社会を成り立たせるような部品、大きな社会を成り立たせるイデオロギーは、絶えず小さな部分で成り立ち、小さな部分を変えることができれば、大きな部分を変えることができる」と本章の著者たちは強調する。
当たり前のことを社会的現実として構成するが、我々が作っているとしたら、作っていることを変えること、別な作り方をすることは難しいが「あいさつしない実践は難しい」ということは、安定した秩序は強力だが、100%固定されている訳ではない、ことを示す。
それが、批判的教育学的発想にも通じる問題意識である。別な選択肢(オルタナティブ)な社会のあり方を示唆するという、クリティカルな立場にもなっている。