2016.7.25
無藤 隆 子ども学研究特論(14)
第32章 会話とテキストの分析
テキスト The SAGE Handbook of Qualitative Research, 4th ed. SAGE.
人の語りとテキストつまり文章の分析の方法である。本日扱う章の中心は、書かれた物語の文章と会話の分析を扱っている。これまでも扱ってきた面ではあるが、一つの言葉のまとまりややり取りを比較的構造的に分析するやり方を扱っている。
会話については、純粋に声に出して相手とやる取りする言葉だけでなく、沈黙や身振り、うなずきなども含む。
インタビューの文章を分析することもありうるし、観察して分析することもありうる。ある絵本のようなお話を分析することもあり、目的によってさまざまである。
このやり方は素朴には文章を何度も読んで中心となるテーマを見つけて分析することになるが、そういうインフォーマルなやり方に対してフォーマルなやり方がある。つまり、形式や構造を取り出していくやり方のことで、ここではいくつか紹介されている。
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一つは、記号学(Semiotics)の流れである。記号学は巨大な学問領域だが、その中で「記号学的ナラティブ(=物語)分析」と呼ばれる流れがある。その創始者がプロップ(Prop)というロシアの人で20世紀前半に活躍した人である(1895-1970 )。ここでは1968年の論文が紹介されている。特に、有名なのは昔話、おとぎ話、グリム童話などの構造分析を行って、何十種類にもその構造の種類を分けている。日本でもプロップの本の翻訳本として『昔話の形態学』がある。ここでは、プロップの流れを受け継ぐ人として、グレマス(Greimas)というフランスの記号学者・社会学者を取り上げている。彼は、リトアニア出身であるがフランス語で論文を書いている。日本では、『構造意味論』という翻訳本もある。グレマスの研究で特に有名で引用されるのは、各種の昔話や通俗的映画や小説を神話に類したものとして分析するものである。例えば、昔話のお姫様の物語の構造分析である。大雑把に言うと、昔話、テレビゲームなどのお姫様を救済するファンタジー、指輪物語のようなものの構造分析をした。グレマスの構造分析は、簡単な分析からだんだんと複雑な分析になっていったが、一番簡単なのは以下のような分析である。
送り手―対象―受け手 ・・・ <交換>
↑<欲望>
援助者→主体←敵対者 ・・・ <投影>
ドラゴンクエストなども同じであるが、主体というのは主人公のことである。主人公が何かを求める、例えば、幽閉されている王女、どこかに隠されている宝物など。すると、それを助けてくれる仲間、それを妨害する敵対者、すなわち敵のボスやドラゴンがいる。その王女の送り手は王様。それを本来もらう相手が受け手であり、主体と同じのときもあれば違う時もある。
日照りが続く村に水をもたらすというお話しでは、対象となるのは水で、送り手は天、受け手は農民、援助者は英雄などと、色々なバリエーションで分析することができる。
この関係を三つの軸で説明すると、主体が内面の欲望を見出し、実現するという精神分析的な発想から説明できる。これをどんどん図式化して複雑にしていく。
例えば、ファンタジーの物語の中に、最初は自分の正体に気づいていないという仕掛けがある。
ハリーポッターなども自分が選ばれた存在だと気付いていない。高貴な身分であるのにそれを剥奪された存在。本来の立場に目覚めて戦う。このバリエーションは色々なところに現れる。平凡な人間だと思っていたのが、ある日突然クモに噛まれてスパイダーマンになるなど。
これは、人類学者のレヴィ・ストロースの神話分析に習いながらやっている。一つのストーリーを分析することができて、ライフストーリーのようなものを聞き出すと、自分はいかにして頑張ってきたか、妨害されたときに誰かに助けてもらったかと記述することができる。物語の表面的なものは違っても深層的なところは類似している部分がある。これが記号的分析と言われるものである。
こういうストーリー分析というのは、これが自立した物語だとして分析するものである。目的としては色々なストーリーがある。世の中のストーリーの関係を調べながらその間の影響関係を取り出す。ともあれ、物語というものが自立したものとしてあると捉えている。
それに対して、自立してまとまったものではない、そうではなくて、ナラティブが社会的相互作用の中で成立していくものなのだという、実践的な社会的活動という立場がある。そのナラティブとは、自立し統合的なまとまりのあるものではなく、断片的なものが相互作用の中で形成されていくはずである。ナラティブの内部構造を取り扱うだけではなく、まわりとのやり取りを通して成り立つような外部的構造を取り扱う。つまり、文脈(context)と内部構造との相互作用や関係性を取り出すのである。
バンバーグ(Banberg)は、クラーク大学で質的研究をしている人である。彼の研究では、10歳の男の子について、色々な話をグループで話をさせる。例えば、女の子について語ってもらうという研究がある。
2つの対立するストーリーが表れている。一つの話の筋は、女の子に興味がある、もう一つの話の筋は女の子に興味がないというものである。10歳くらいの男の子のグループでは、異性関係というのは難しい。想像がつくと思うが、女の子に興味がありつつもそれを否定する部分もある。相対するナラティブの混じり合いが生じる。それを調和させながら自分たちの社会的アイデンティティをその場で作っていく。そういう中で、女の子に興味があるとか、ちょっとした話(small story)をする。そういうちょっとした話がつながりながら、その男の子にとっての自分というもの、あるいは自分たちという感覚を作っていく。
つまり、ちょっとした話が積みあがりながら人生の語り(life story)としてまとまっていくとバンバーグは言っている。前思春期の男の子が女の子のことを語る際には、昔話みたいには一貫していないナラティブが絡み合う。自立した語りではない相互作用の中の語りの分析である。
それに対して、談話分析(discourse analysis)というのは、大きなジャンルで、色々なアプローチがある。文や会話のことをディスコースという。意味を持った区切り目を持ったひとつの全体として意味を持つようなもの。一連の会話、新聞、映画もディスコースと呼ぶ。その中にはさまざまな立場がある。
例えば、社会心理学において、DAという最近では談論心理学(discursive Psychology)と言われるものがある。それは、人間の心理、考え、感じ方とか、談話を通して構成されていくという立場。感情や考え方というのが人とのやり取りの中で構成されているという立場。代表者はエドワース(Edwards)である。イギリスを中心とした、社会構成主義の一種である。
それに近いものとして、批判的談話分析(CDA; critical discourse analysis )がある。言語分析による社会分析、批判的教育学のようなものを合わせたもの。特に、権力とか不平等の問題を扱う。例えば、さまざまな談話や夫婦関係のセルフヘルプ・コミュニケーションのガイドブックなど。セルフヘルプは自立という意味で、一般の人向けの本がよく出版されている。そこには夫婦や恋人が仲良くするための方法が書かれている。そういう本を分析していて、夫婦間の問題で変わることが期待されているのは女性であって、男性は変わることを想定されていない。つまり、フェミニズムの問題である。
さらに別なものとして、哲学者のフーコーに見習ったアプローチ(Foucauldian approach)として、歴史的談話分析(HDA; historical discourse analysis)がある。この分析は、歴史的な文章をあるテーマに基づいて探し出し、どういう主題がどのように扱われているか、権力や権力に基づく支配関係を分析する。そのような分析の手法をフーコー流のアプローチと呼んでいる。
HDAの実例であるが、ミスクス(Meskus)というフィンランドの歴史研究者がいる。彼は、20世紀における遺伝研究として、妊娠、出産、中絶の問題を研究した。そこでは、優生学の問題、つまり母子衛生やリスクとかそれにかかわるところの技術の問題として分析した。こういうテーマは日本でも扱われている。妊娠、出産、中絶、避妊についての技術的な進歩と妊娠期の健康安全、子どもの障害について扱っていて、その時の出産前のスクリーニングの問題も扱っている。日本では20年くらい前から羊水検査をして生まれてくる子どもに障害があるかどうかが確定できるようになってきた。羊水検査や血液検査で障害があるかどうかが分かるが(発達障害については分からないこともあるが)、日本では任意である。そうすると、妊娠すると直面する問題としては、検査を受けるかどうか、子どもに障害が分かった時に中絶するかどうかである。厳密に言うと、障害が分かったからといって中絶するのは違法であるが、実際には母体保護という名目のもとで中絶が行われているのではないだろうか。スクリーニングによって出現率が低下している障害もあるようだ。(ある種の障害は発生率が上がってきている。それは高齢出産によるものである。)
これは、国によってさまざまな事情が違うが、フィンランドでは20世紀、特に1960年代まで、この時期はスウェーデンもそうだが、妊娠期の検査はまだなかった。障害がある人々については、特に男性に対して断種、つまり子どもが作れないように法律化までしていた。実は、北欧では、他の国々よりも、障害者が子孫を残せないようにするという優生学のアプローチが強かった。
ちなみに、『児童の世紀』の著者であるエレン・ケイは、優生学を主張した人である。子どもにとってよい環境を作るにはどうしたらよいかと考えたに過ぎないのだが、今見れば、子どもの世紀の明るい面と暗い面が存在している。
二番目の時期は、70年代、80年代である。そもそも産ませないという話から変わって、予防的な健康へのケアというものを国として行うようになり、健康診断を始めた。妊娠期の母体への健康診断と同時に染色体の検査で分かるようになってきた。妊娠に対するリスクというのは、母体のリスクとは限らず胎児の異常であるかもしれない可能性を診断するということであった。その頃は、40歳を超えた場合にこの検査を受けることになっていた。異常が見つかって、そのあとの判断は親に任せられ中絶を選ぶことができた。
90年代以降は、新しい検査によって、遺伝子の異常を見つけられるようになった。これが日本に入ってきた。遺伝子検査の問題にかかわって遺伝カウンセラーという分野がある。現在では、色々な病院でやっているが、遺伝子学会というところで資格を出している。医療とカウンセリングの勉強をする。検査を受けて悩む人たちへのカウンセリング。90年代に検査が始まった。フィンランドでは全ての妊婦に義務付けられた。スウェーデンでは、40歳以上のリスクのある母親に限定された。
診断結果の情報を元に判断するのは親であり、厳しい選択を迫られる。フィンランドでは全妊婦がそのテストを受けて、結果が知らされる。結果に応じて選択を迫られる。医療現場で許されているのはあくまで正しい情報を知る権利は親の権利である。検査を受けるのを断る権利も親にはある。中絶の権利も親にあるとみなす。胎児の権利を認めるか、親の権利を認めるかは大問題である。アメリカでは、中絶権が親にあるとされるが、州によっては違法である。胎児に生存権があるという考え方もある。法律的、生命倫理的にも難しい問題がある。ともあれ、スクリーニング検査が普通の実践として成り立つようになった。集団全体で障害のある人を減らしたい。そのために健康政策があり、それぞれのある親にとって障害のある子どもが生まれた場合どう引き受けるかということを親に迫る。選択の自由は、倫理的に難しい問題を引き起こしている。通常の倫理の考え方からすると解けない。通常の倫理では本人が選べるのであれば本人の自由であるとされる。胎児というものの権利は、親にとって辛い選択となりうる。そういう検査が可能になってきたところで、障害をもった子どもを育てる辛さが増してくる。技術の発明によって起こってしまう。母体や子どもの健康を考える政策、誰かが悪意を持って作った政策ではない。
さまざまな文章、インタビューを突き合わせながらテーマを追いかけていく。遺伝や健康など矛盾する対立する見方があることを見出す。どういう問題としてそこに現れるのか。つまり、遺伝的であるということは、20世紀の初めには遺伝子的な問題を抱えている親の子を作らないことによって断ち切るようにした。そこに、成長の難しさ、育てる難しさ、新たに遺伝というものが出てきた。出産前の検査、羊水検査によって遺伝子レベルの異常を見つける。新たな遺伝というものが障害のある人の子どもを作らないようにするというのは遺伝かどうかははっきりしないが、たぶん遺伝だろうと考えられている。障害があるという子どもの存在をなくしたり伝わらないようにしてきた。
遺伝を巡るある種の権利などのあり方を統治(government)の問題として扱う。フーコー流の分析として、研究者は批判的に考えてはいるのだが、研究としては客観的に事実として明らかにしようとしている。それは、さまざまな文章や習慣、実際のやり方など多様なデータを集めるやり方を用いている。
次が、成員カテゴリー化分析(MCA; membership categorization analysis)である。これは、だいぶ前に、エスノメソドロジーの一つのやり方として紹介したことがある。これは、記述をする際にカテゴリーを作るやり方である。例えば、ある人を男性と呼ぶこともあれば、夫と呼ぶこともある。
“The baby cried.
The mommy picked it up.”
これは、ある状況を記述した2つの文である。ハーベイ・ザック(Harvey Sacks)は交通事故で亡くなったためあまり多くの論文を書いていないが、その極めて有名な論文で扱っている。ここでは、いくつかのカテゴリーが使われた。赤ちゃんの母親が、”mommy”と呼ばれている人であり、赤ちゃんと母親と父親という家族というまとまりの単位で理解するという習慣がある。看護師が取り上げたとなると赤ちゃんは母親の子どもというのではなく、0歳代の赤ちゃんという意味になる。看護師だとちょっとした変化がある。母親とセットの意味がここでは使われている。
もう一つは、成員のカテゴリーと活動のアクティビティの種類である。カテゴリーに典型的な活動が想定される。例えば、赤ちゃんは泣くものである。すると、それに応じて母親はあかちゃんをあやす、慰める、ということが母親の活動である。そうすると”pick it up”というのは、つまむ、取り上げるという意味であるが、ここでは抱きかかえたという意味になる。ピックアップは汚いものをとるとき、自動車で誰かを迎えに行くときも使う。ここでは、慰めるために子どもを抱き上げたという文脈の中での了解がある。
次の研究例は、1996年のオーストラリアのタスマニアにおいて大量殺人事件が起きたものを扱っている。そのニュースの中で銃を乱射した人への形容詞はサイコ(精神異常者)、精神分裂病など精神障害者とされたり、他に若者という記述もある。どちらをそのニュースで使うかには、加害者への責任の問題がかかわってくる。精神障害者だと責任がないとされ、若者だと責任があるとされる。責任の持たせ方の違い。
アスペルガー症候群と思われる人の殺人が報道されるとき、障害がある人が殺したのかどこかの大学生が殺したのかによって意味合いが違ってくる。もっとも、知的に高い場合に、法的に責任を持たせられるかという問題がある。医学的、心理学的に難しい問題である。こういうカテゴリゼーション(判断)が現実的な意味を持つ。
次に、会話分析について述べる。これもエスノメソドロジーの章で扱った話しなので、会話分析(CA; conversational analysis)について詳しく解説はしないが、会話の細かい分析が540ページの付録に紹介されている。今は、コンピュータで分析できるので、0.1秒単位で計測されている。例えば、[ ]は会話の重なりの始めと終わりを示し、強調、小さい声、長い声、”.hhh”は吸う息、” hhh”は吐く息など さまざまな記号で示している。
乳幼児ではこのような分析はあまり役に立たない。乳幼児にとって、沈黙はよそ見しただけかもしれないし、意味なく沈黙することがある。大人の分析には使うことができる。
会話というものは、身振り、視線、相互作用の中で作られていると基本的には考えられている。
3つの大きな原則が挙げられている。
1.トークは行為である。
シュグロフ(Schegloff)は、話の始め方や終わらせ方を分析した。例えば、電話でいつ会話を切るかなどである。立ち話で話を終わらせたいとき、どうやって終わらせるのか。ちょっと時計を見る、話しの繰り返しは終わりのサイン。その種のことを色々な形で分析した。
2.行為は構造的に組織化されている。
一般な会話だけでなく、医師の診断場面やインタビュー場面において、言い誤りをどう直していくのか。行為というのは構造的に組織化されている。シュグロフは、シークエンス(sequence、系列、順序)と言っている。
隣接対(adjacency pairs)には、 招待されたら受け入れるか、断るかなど、微妙なバリエーションがある。例えば、挨拶では、A「さよなら」とB「さよなら」がペアだが、A「さよなら。」、B「あっ、まだいたんだ。さよなら。」 日常会話では、その間に色々なものが入る。挿入拡張(insert expansion)である。
または、挨拶をされたのに挨拶を返さないとか、招待される場合にそれを認める、認めない。招待されたときに、「うん、ダメ」というのは単純な拒否である。
他には、愚痴を言ったら慰めるというのも隣接対である。A「今日は大変だったんだ。」、B「そうだったんだね。」、A「だからね・・・・・」とくどくど言うのはBの慰めが足りないという意味であり、愚痴を繰り返すのは隣接対を完成させるもの。
拡張(expansion)では、A(いきなり)「ねえねえ、知ってる?」、B「え? 知らないけど」という会話では、「知らない」と答えているので、Aの側に知らせる権利が生まれる。それに対して例えば「知ってるよ」と言われると子どもは困る。対を完成する前の予備的なところ、対の後、A「さよなら」、B「さよなら」と言った後でちょっと見て手を挙げる。または、「さよなら」と言った後に、振り向く人がいる。そういうことを分析している。これは、後方拡張(post-expansion)である。前方拡張(pre-expansion)はたとえば、すれ違って挨拶をする前に相手を互いに認めてちょっとにっこりするとか会釈をしたりするなどがそうである。
3.トークが間主観的な現実を作って維持している。
日常場面では、トークによって間主観的な現実が作られていく。質問されたときに、分かるとか分からないと答えることによって、また次の発言が続き応答関係が作られる。サイコセラピー、授業場面とかで、教師が「この問題知っている人?」と尋ね、万一、生徒のはずの人間が「そんなの知るかよ」と答えると応答場面が崩れてしまう。教師と生徒との関係を別な新しい関係にしてしまう。たとえば、マジな男の対立になってしまう。
その実例が536ページから出てくる。微妙だが相手の情報に対して、最初の人が情報を提供したときに、次の人が情報を提供して、認識論的権利の評価についてどちらがその問題を良く知っているかの了解を作っていく。
5番の会話の例だと、1歳の犬の話しを扱っている。”Oh well”というと、「私の方が知ってるのよ」という意味で使っている。(イヌの名前はトリックシー(Trixie)といい、”Cuz”はBecauseの略語。)
教師と生徒関係では、知っている人が知らない人に教えるという権力関係。教師がものを知っている、生徒は知らないという関係を作り出している。やり取りを通して、あり方を作り出している。心的状態、社会的相互作用の中で作り出されている。
先ほどのように、歴史的な分析を通して権力の問題を扱う。歴史談話分析(HDA)は、精神障害、男女のあり方を扱っている。そして、会話分析はあまりにミクロな問題を扱っていて、外側の現実的な問題を扱っていないという批判がなされることがある。エスノメソドロジストは、あらゆるものは会話のやり取りに現れ社会的な関係を表していると述べている。しかしながら、会話にだけ現れるとは限らないという批判もあり、他の分析を組み合わせた方がいいという意見もある。社会的相互作用の分析を追加すべきという批判もある。社会的現実とは、会話のやり取りを通して社会的関係を作り出す中で成立し、同時にそれを超えた社会の中で形成される。つまり、教師生徒関係がそういう会話というプロセスの中で作られていくのである。