第8回の講義では、第12章"Ethics in early childhood research / Ann Farrell"を参考にしながら、研究における倫理の問題について論じる。
本章では、比較的オーソドックスな解説が述べられている。後で詳しく述べるが、ニュルンベルク綱領が研究倫理綱領の始まりである。現在は、研究に関わる研究機関では、研究倫理審査委員会が組織され、論文を投稿する際にはその審査を受けておくことが必須となってきた。本章では学会の中心的な研究倫理の考え方を述べている。
研究倫理の考え方には、インフォームド・コンセント(informed consent;日本語では説明による同意、正しい情報を得たうえでの同意、納得診療という意味になる)、匿名性(confidentiality)、つまり、研究協力者の名前や情報など公開したくない情報を勝手に公開しないというものである。幼児期を考えた時に本人がどこまで同意することができるのかという問題がある。第1回の子どもの権利について扱った授業で述べたように、幼児期というのは理解し同意ができないから幼児と呼ばれている。しかし、本章では機械的に幼児と分類されることに異議を唱えている。前者の考えでは、保護者の同意があればよいとしており、保護者は子どもの意見を代理する人とみなしている。子どもがある程度大きくなり、例えば中学生であれば、本人の同意を求めるとするかもしれないが、小学生であればどうするかなど微妙なところがある。幼稚園等で調査する場合には、A幼稚園とすれば匿名性が保てるだろうが、特殊な疾病の人が研究対象となった場合、匿名にするのは難しいところがあるかもしれない。例えば、性転換をした人を対象とする場合や、ある事件の当事者、有名な○○祭りなどを対象とするなどは匿名にしようがないだろう。特定の固有名詞を持った幼稚園の問題を扱う場合、例えば、お茶の水女子大学の附属幼稚園で倉橋の思想をいかに生かしているかを調べたいとして(そういう研究はないと思うが)、幼稚園を匿名にするのは難しい。子どもを対象にする場合に、親が同意すれば何でもよいかというと、その子どもが大人になった時に嫌だと思うことがあるかもしれない。例えば、身体障害の子どもの裸の写真を載せた時に、当人が大人になって嫌だと思うかもしれない。だが写真を載せることによって研究上は意味のあることかもしれない。
ささやかな例で言えば、子どもの写真をSNSで公開をする人がいるが、子どもが大きくなったときにどう思うかということを考えると、保護者であれば何でも公開してよいという訳ではない。世界的に見てみると、お金を得るために何でもしてしまう保護者もいるのである。インフォームド・コンセントについては、子どもが手術をする場合に、子どもにどこまで説明するのかという問題もある。8歳くらいなら丁寧に説明するかもしれないが、5歳なら、3歳なら、それ以下の年齢の子どもならどうするか。子どもに、手術をすれば痛いけど治ると説明すればよいだろうか。大人の場合であれば、この治療方法をとると治癒率が70%になるなどとエビデンスを知らせるだろうが、子どもの場合は難しい(チャイルド・ライフ・スペシャリストのように、3~5歳児くらいの子どもに対して、遊びを通じて手術内容を説明するなどしている例もある)。離婚の場合などで子どもが親権を選ぶなどにも同様の難しさがある。難しさはあるが、基本的には、なるべくなら同意を求め、またコンフィデンシャリティーを守らなければいけないし、守れないときには別の方法を考えなければいけない。どういう形かはさまざまな文化や社会の中で、さまざまな現場とか子どもを囲む状況の中でどの程度明確にするかは決めていかなければならない。
例えば、テレビ番組で、密かに子どもをカメラで撮っていて、おつかいの途中で泣き出しそうになったりする場面が出ることがある。それは研究倫理的な発想からすると駄目ではないかと思う。大人の娯楽のために子どもを泣かせているのはおかしいと思うからである。おつかいという経験を通して、子どもは自信を得ると弁明をすることはできるだろうが、自信を得るために、それほどに辛いことをしなければいけないのかという問題が残る。これがOKだと言うのであれば、ヨットスクールで水に飛び込ませて鍛えるというのもOKになってしまうというのは強弁だろうか。幼児がスキー教室に行って、転ぶことを繰り返して滑れるようになるのはOKなのか。安全を確保したうえで幼児を高いところから飛び降りさせるのはOKなのか。実際には程度問題だとは思うが。そういうあたりが、それぞれ機械的、普遍的に分けられるものではない。この手の倫理というのはすぱっと割り切れるものではないのである。
では、この点に関して、ニュルンベルク綱領に基づいて考えてみたい。ニュルンベルク綱領とは、1947年にナチによるユダヤ人虐殺等の裁判を通して作られた研究倫理綱領である。ドイツ在住のユダヤ人を収容所に入れて殺すというのは、戦争そのものとは別の人類への人道に対する罪についての裁判である。
ナチスドイツでは生体解剖にユダヤ人を使っている場合等々、研究活動の中で虐待を行った事例があり、それが例えば研究上の倫理違反であるとされている。20世紀においての大虐殺には、ナチスの他に、毛沢東やスターリンがあげられるが、ナチスドイツの場合は、戦争や内乱等における虐殺などとともに、ユダヤ人を医学的実験に使ってどうなるかということを調べており、そういった類いのことに科学者や医師が協力している。その辺をどう考えていくか。
そこから、研究が倫理的であるために最低限の条件があるとされた。それが以下の10箇条である(付録参照)。
10箇条の概要を簡単に示すと、1.自発的同意(インフォームド・コンセント)、2.社会の福利、3.計画、4.苦痛を避ける、5.死亡・障害を起こさない、6.危険が人道上の利益を上回るべきではない、7.保護のための準備、8.有資格者、9.中止させる自由、10.中止する心構え、である。
1.インフォームド・コンセントというのは、対象者に「参加します」と明確に同意してもらわなければいけないというものである。1970年以降にこういうことが広まった。実験に参加の同意を得ないで強制的にだまして実施したり、これはナチスドイツだけでなく世界的にもあった。自発的であるということは断る自由があり、断っても何らかの不利益を被らないということである。大学生相手の実験でも、研究に協力しないと単位がもらえないというのはだめである。調査協力の負担には、苦痛を伴うこと、実施の時間の提供、薬の副作用などを事前に説明をしなければいけない。
2.その実験が他の手段では実施が可能ではなく社会の福利のためにプラスであるということ。全体として、調査協力者に負担がかかる。調査に30分つきあうことなどを超えて苦痛があるかもしれないが、それを通して社会のために役に立つなど良いことがなければいけない。「○○病が治るかもしれないのでやらせてください。」というものであったり、自閉症の子どもの細胞、血液、遺伝子を研究する中で、自閉症が治るわけではないが、その後の治療につながるかもしれない。あるいは、その人の治療にはつながらなくても、後続の人たちには有益になるかもしれない。
3.いい加減な実験ではだめで、十分な計画のもとで実施されなければいけない。疾患などに関する専門知識に基づいて可能性などを調べて十分に計画する。
4.苦痛をゼロにはできないが、医療的実験で考えたら、薬を注射する時の痛み、熱が出るとか、食欲が減るなどできるだけ不必要な苦痛は避けた方がよい。これも十分な準備のもとでやっていくことが大事である。
5.この実験によって死んでしまったり永続的な障害が引き起こされたりすることが予想されるような場合には、その実験は実施できない。他の手段が全くなければ治療を試すというのは仕方ないが、周到な準備がなされるべきである。自分や自分の子どもに種痘を打つのはOKだろうか、種痘を打つことは危険なことではないが、現代において自分の子どもといえども、死亡の危険があるものを打つのはだめであろう。
6.実験によって起こる危険とベネフィットを考えた時に、人道上のベネフィットの方が大きいかを考える。研究計画には危険を超えて研究のよさがどの程度あるのかということが必ず入る。研究倫理としては、相手への危険をゼロにすることを目指す。負担がゼロというのはほとんどないが、ビッグデータの類いで買い物情報を解析しているのはお客さんに危険も負担もない。客が研究に参加していることを知らないという問題はある。危険についての説明としては、実施に時間を30分使ってしまうという所要時間といった最小限の負担であろうと、説明しなければいけない。
7.万が一の危険の可能性から保護するための周到な準備をしておく必要がある。
8.実験というのは科学的に十分な資格を持った人が、十分な技術のもとに行わなければいけない。
9.対象者の側で実験が辛くなったときに実験を中止する自由を有するべきである。
昨年度の授業の第2回「倫理の問題」で、ミルグラム(Milgram, 1974)のアイヒマン実験を紹介したが、内容は保育Labの「ときがたり質的研究入門」に詳しく述べている。
https://sites.google.com/site/hoikulab/home/studyandresearch/readarticles/tokigatari/02
アイヒマン実験とは、1960年代に、ミルグラムが、被験者が上からの指示でどこまで残酷なことができるかを実験したものである。実験室では、被験者が実験協力者(サクラ)に電気ショックを与える。実は電気ショックというのは嘘であるが、実験協力者(サクラ)は演技をしている。アイヒマンというのは、ヒットラー時代に、上司からの指示で、ユダヤ人を強制収容所に送る任務を担っていたが、普通の人間であった。そのため、この実験では、普通の人間がどこまで残酷なことができるのかを検証した。相手に痛みを与えていると思うと辛くはなるが、段々とエスカレートしていくという結果が見られた。実は、演技であったということを被験者に知らせるが、最終的に種明かしすれば実験してもよいのか倫理が問われることになる。被験者はサクラに対して罰を与える人であるが、心理的苦痛があったのではないかという問題がある。後で説明されたとしても苦痛が残るのではないだろうか。現在はこのようなアイヒマン実験はできないであろう。当時は研究倫理があいまいだったのである。
10.実験が危ないと思ったらいつでも中止しようとする心構えでいなければいけない。
研究倫理の問題が広がって色々な動きが出てきた。ニュルンベルク綱領を受けて、1964年と2000年に世界医師会(WMA)においてヘルシンキ宣言が採択された。基本原理は、以下の5つである。1.患者・被験者福利の尊重。2.本人の自発的・自由意思による参加。3.インフォームド・コンセント取得の必要。4.倫理審査委員会の存在。5.常識的な医学研究であること。最初は、医学研究、人間を対象とする生物学研究に適用された。現在では動物研究にまで広がってきた。厳密に言うと、苦痛を与えることを不必要にやってはいけないということになってきている。少なくとも哺乳類も爬虫類も苦痛は感じるだろうが、魚類ではどうかというと微妙な問題がある。実験の練習で苦痛を与えてはいけない。例えば、以前は、カエルの解剖を中学校ではしていたが、現在ではほとんどの学校でやめている。解剖をして気持ち悪くなる生徒側の権利やカエルを子どもの学習くらいで不用意に殺してよいのかということが問題である。では、昆虫はいいのか、ザリガニはいいのか、ダンゴムシはいいのか、これらの問題は難しい。ザリガニを飼ってきて大量に死なせてしまうのは倫理的にだめだろう。ダンゴムシを大量に捕ってきて下の方のダンゴムシが重さで死んだとしたら担当の教師としてまずいのではないだろうか。ゴキブリはよいのか。文化や宗教によってはだめな国もある。
研究倫理は、生物学的な研究に広がり、人間相手の全ての研究に広がった。ここ20年くらいの間に、学会で研究倫理の綱領が作られたり、大学などの研究機関で研究倫理審査会が設置されたりするようになった。一方で、ローカルには特定の地域や分野では研究倫理を気にせずに実施したりしている。それでも、年々厳しくなりつつある。テレビ番組のバラエティで昔やっていたことができなくなるのはある種の研究倫理に近い問題として扱われている。
次に、幼児期の流れとして以下の3つ議題設定(agenda)について述べる。
1.スターティング・ストロング・アジェンダ(Starting Strong agenda)
2.アカウンタビリティ・アジェンダ(Accountability agenda)
3.子どもの権利・アジェンダ(Children’s rights agenda)
1.スターティング・ストロングとは、「人生の始まりこそ力強く」という意味である。OECD(経済協力開発機構)がスターティング・ストロングのスローガンのもと、世界的な幼児教育を盛り立てていこうとするものである。これに従いながら、幼児期の研究をするとともに政治的な施策にも活かしていく。2.アカウンタビリティとは説明責任のことである。きちんとした研究の成果をあげながら、エビデンスを説明していく。3.子どもの権利とは、特に、子どもの参加と保護の権利のことを指している。その研究への予算が有効に使われているのかというのがアカウンタビリティで、子どもの公共の利益に見合ったものであるのかを説明していく。医学研究、生物学研究、心理学研究、人間を対象とする研究に倫理の問題が広がってきた。子どもの権利を考え、子どもの意見を聴取していくか、など子どもを巡る決定に子ども自身が当事者としてどう加わってもらうかということが重要になってきた。子どもの参加の問題というのは以前1回目の講義で話をしたが、子どもが研究にどう参加するか、教育のあり方にどう参加するか、子どもへの相談、コンサルテーションの問題であり、子どもの参加を含めた研究、子どもに対する研究、子どもについての研究から、子どもと共に行う研究になっていく。それをどうしていったらよいのだろうか。伝統的な理解では、幼児というのは未熟、まだ能力がない、未発達であると定義されている。あるいは途中段階、発展途上、十分な能力を持っていないとも考えられている。どこまで参加に対して子どもの権利を保障できるのか。伝統的な考え方に基づくと子どもの権利を保障することはできない。以前は、親や教師が代わって同意するという考えだったが、現在では、子どもと研究者の間の新たな関係を対話的な関係として作っていかなければいけない。これをどうすればできるのか。子どもに説明するといっても学会用語を並べて同意を求めるのは学問的権威で相手にプレッシャーを与えて抑圧していることになる。
幼児教育において、いかに子どもの了解を得ていくかを考えなければいけない。このことは研究倫理としてだけではなく、教育の中身そのものについて、教師や親が提供するものなのか、子どもの考えや意向はどこまで入るのだろうか。実際、幼稚園や保育園、小学校の教育には、子どもの意向はそれほど入っていない。例えば、学校に行きたくないといっても簡単にその意向は受け入れられないのが実情であろう。子どもが同意し、理解し納得したうえで自発的に参加するようにするにはどうしたらよいのか。子どもが幼稚園や小学校に通っている場合、子ども本人がプールやピアノの習い事に行きたいと言い出して半年で辞めたいと言った時に習い事を辞めさせないというのはいいのか。高いピアノを買ってしまったからピアノ教室を辞めさせないと言っても、子どもには辞めたい権利はあるだろう。実際には子どもに最終的な決定をさせるのは難しくても、子どもの思いを聞き出すテクニックが大事である。第1回の授業の子どもの参加のところで話をしたが、パペットを使って子どもの考えや意向を知るという方法がある。または、子どもの頭にカメラをつけて、子どもの視線や子どもが何を話しているのかを調べて、子どもの視点を拾い出すという研究がある。幼児であるので、自律的にインフォームド・コンセントができるとは言っていないが、できるだけ子どもの思いや意向を聞き出すようにしようということが述べられている。教師や保育者が実践者として研究するとしても意見や発想を尊重しながらそこに組み入れることができるかを考えてみる。教育、保育、それにかかわる研究を考える時に、対象である幼児を無視して、教師や保育者の思いだけで進めるのではなく、子どもの気持ちを聞き出していく。子どもの同意を求めていくことは、普通の研究ではそれほど大事ではなく、苦痛を与える実験であれば子どもは喜んでやってくれる。そうではなく、子どもが困難な状況、例えば、難民、災害、虐待にあった子どもを対象にする時に、子どもの気持ちをかなり配慮しながら、保護者の許可があったとしても、子どもの同意に近い子どもの気持ちの尊重が必要であるし、調査の子どもに与える苦痛や危険、子どもや家族にとっての利益、社会に対する利益、研究上の利益を考えていくことが大事である。これはシビアで、東日本大震災に多くの人が調査に入ったが、当事者にとって利益となり、社会的文脈として意味があったのかは考えなければいけない。
最後に、匿名性の問題であるが、これは最終的には対象者本人に尋ねる。実を言うと、名前や内容を公表してほしいという人もいる。自分の考えを世の中に伝えたい、世の中の役に立てたいという人もいる。しかしながら、裸になっている写真などは、本人が望んでいるかどうかとともにも、社会に出た場合の別のリスクを考えないといけない。利益や危害があることとは別に、プライバシーを守りたいという子どもや家族の気持ちを尊重しなればいけない。あらゆる研究は個人のプライバシーを侵害するが、どこまでを配慮すればよいのかということを考える。小さい子どもにとっての最善の利益は本人には分からないだろうが、その子の理解できる範囲で子どもに伝えて子どもの気持ちを引き出すことが大事である。子どもが未熟で大人が決めなければという伝統的な考えの一方で、子どもは何でもできるというロマン主義的な考えがある。その二者間にはさまざまな子どもの状況があり、丁寧に子どもの状況を考えながら探っていくことが必要なのである。
(執筆:無藤隆,2017年6月5日)
(まとめ:白川佳子)
【付録】ニュルンベルク綱領(1947年)について
http://www.med.kyushu-u.ac.jp/recnet_fukuoka/houki-rinri/nuremberg.html