陸軍大将・金谷 範三の奉納額

大分県豊後高田市若宮神社

2022年10月 大分県豊後高田市を訪ねました。呉崎砲台から4㎞程南の若宮神社の奉納額に陸軍大将・金谷範三の書があります。金谷は豊後高田出身です。満州事変の拡大を阻止しようとしたことでも知られています。その書「極天護皇基」は「天地のある限り、天皇の御統治をお護りする」の意味です。軍部と神社の結びつきを伺うことができる貴重な額です。多くの参拝者が目にし、軍が身近に感じられるようになっていきます。

関連資料

社殿

極天護皇基

鳥居

金谷範三

由緒

由緒記

一、祭神 大鷦鷯尊(仁徳天皇) 他十五柱

一、由緒 若宮八幡神社は宇佐八幡大神の御子、大鷦鷯尊他十五柱の神々をお祀りした旧県社なり。 淳和天皇の天長元年(八二四)豊前国宇佐郡大神朝巨蘊磨の母酒井門主女に「我を奉斉せよ」との託宣あり。文徳天皇の仁寿二年(八五二) 宇佐宮造営使正六位上藤原朝臣勝主人主典、正六位上香上宿祢永貞の両人に頼み、社殿を創営する。

ご祭神の内、天照大神、王祖神、品陀別尊の三柱は、元正天皇の養老二年(七一八)市内宇御玉に出し璞(あらたま)を御神体として祀ったものである元亀二年(一五七一)と天正七年(一五七九)の二度 大友義鎮、大友左兵衛衛督の兵火に遭い総ての財宝、牛馬を略奪されたが、文禄の頃(一五九二〜五)竹中伊豆守重隆が高田城に在り、再び社殿を造営して復旧した。 寛文九年(一六六九)松平主殿頭によって封内の宗祠と定められてより、 歴代領主の尊崇厚く、現在の神殿は天保四年(一八三三)松平忠候のご造営によるものである。 昭和三十年(一九五五)桂川河川改修のため、鬱蒼たる境内林を伐採、八十メートル東方に移転し現在に至る。 尚 旧暦十月半ばに執行される「川渡し神事」は、永保四年(一〇八四)に始められ、日本三大裸祭りの一つとして既に九百余年の伝統をもっている。

平成十八年十月

改修建立

【カタカナ→平仮名 意味整理】


由緒記

一、祭神 大鷦鷯尊 (仁徳天皇) 他十五柱

一、由緒 若宮八幡神社は宇佐八幡大神の御子、大鷦鷯尊他十五柱の神々をお祀りした旧県社 なり。

淳和天皇の天長元年(八二四) 豊前国宇佐郡大神朝巨蘊磨の母 酒井門主女に「我を奉斉 せよ」との託宣 あり。

文徳天皇の仁寿二年(八五二) 宇佐宮造営使正六位上藤原朝臣勝主人主典、正六位上香上宿祢永貞の両人に頼み、社殿を創営する。

ご祭神の内、天照大神、王祖神 、品陀別尊 の三柱は、元正天皇の養老二年(七一八) 市内宇御玉 に出し 璞 (あらたま)を御神体として祀ったものである

元亀二年(一五七一)と天正七年(一五七九)の二度 大友義鎮、大友左兵衛衛督の兵火に遭い 総ての財宝、牛馬を略奪されたが、文禄の頃(一五九二〜五) 竹中伊豆守重隆が高田城に在り、再び社殿を造営して復旧した。

寛文九年(一六六九) 松平主殿頭によって封内 の宗祠 と定められてより、 歴代領主の尊崇 厚く、現在の神殿は天保四年(一八三三) 松平忠候のご造営によるものである。

昭和三十年(一九五五) 桂川河川改修のため、鬱蒼たる境内林を伐採、八十メートル東方に移転し現在に至る。

尚 旧暦十月半ばに執行される「川渡し神事」は、永保四年(一〇八四)に始められ、日本三大裸祭 りの一つとして既に九百余年の伝統をもっている。

平成十八年十月

改修建立

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