米軍上陸後の沖縄県警察官の手記

太平洋戦争末期、米軍が沖縄へ上陸しました。地上戦が始まったのです。ここに、ある沖縄県警の警察官の手記があります。彼らは、任務を遂行しながら、住民とともに退避行動をとっていきます。しかしながら、ここに日本軍の兵士たちとの軋轢も生じたようです。その時の様子が書かれた手記です。また、その手記に残された警察官の一人は、私たちの事業団の創立者の父であり、機銃掃射により絶命しました。この手記を読んだ曽孫が感じたこともまとめています。ご覧ください。

沖縄戦殉職記

沖繩戰殉職記(二囘)いつ何處て最後をとけたか

山川 泰邦

 

元経濟保安課々僚 警部 長峰 義孝

元那覇警察署勤務 警部補 普久原朝章

右同 巡査部長 喜如嘉

右同 巡査 比が賀盛

殉職記

 

日ましに深まる優しゆうが沖繩全住民を重苦しく覆つていた。幾日かうつとうしい日が續いて、道路はぬかるみ、ごう内はじめじめしていた。艦砲の爆裂音が今日も又ビン一帶の山を振動させている。

その早朝シヨボ降る雨にぬれて長峰警部がひとりで豊見村のビン岳のごうにあつた那覇署の警備隊にやつて来た。

「繁多川からここまでひと晩かかつたよ。あちこちでボンボン打ち上げる照明彈が、道を照してくれたのはよかつたが、照らされるとうす氣味惡くて歩けるもんぢやない。それに地理不案内でどこをとほつていいかわからず、ごうからごうをたづねまわつてひどい目に遭った。おまけに馬麗に艦砲のはげしい晩で生きた心地はしなかった。これでぼくも死線をこえた様な氣がする。九州に陳開させた子供たちにもあえる日があるかもしれない。」

彼はぬれた上衣をぬぎながらこう言って眞底から喜んだ。

牛島司令官が最後の牙城と頼む首里の據が危機にひんしたので、繁多川のごうにいた荒井警察部長が各課長とわづかの要員をつれて島じりの南端にさがるになり、警察部員を各署に分散することになつて、彼は那覇署に配置されたのであつた。

ビン岳一帶のごうは日本軍の武部隊が米軍の瀬長島からの上陸に備へて築いた大規模のものであつたが、武部隊が中ぶ地區に移動して當時はーヶ分隊で留守番をしていた。彼はこの廣いごうに來て喜んでいたが、五月末ごろに日本軍の衛生隊、負傷兵等が續々おしかけて來て、しまひに退去を要求したので、那覇署員は波根に移動しなければならなかつた。

首里戰線崩壞後は、喜屋武、眞壁を指して落のびる民衆で、ここ城村一帶は混乱していた。一日も早く眞壁、ま文仁方面にごうを求めなければ七餘名の署ゐんが彈雨にさらされなければならない。こう言って具志堅署長は、六月二日ごろ、普久原警察補、喜如か部長、内間巡査の三名を派遣した。彼等は日に夜をついでごうを求めて艦砲と機銃の下をぐりながら山野をかけずりまわつて四日に然と歸つてきた。

「だめです。はおろか土手のかげまでいつぱいです。」こう言って普久原はたん息した。具志堅署長は「〇・・・・・・〇らなければなるまい。さあ設隊を派遣しよう。」

長峰警部を隊長に、普久原警ぶ補、喜如嘉ぶ長、外間現淸、内間安助、金城幸永、比が賀盛、金城榮哲の五巡査を加えて八名の設營隊いんが、全署いんの激勵に送られて、ま文仁眞壁方面へ出發したのはその晩のことであつた。彼等はごうを求めて奔走した。しかし、普くはらの報告どほりどんな小さなごうも日本軍が入りこんていた。まれに自分のごうの有る者も日本の敗殘兵から次々に銃をつきつけられて追ひ出されていた。こうして老じんや子供を引きつれて齒をくいしばりなからごうを出て行つた者がいくらいたことだろう。しかもそのごうは住民が營々として堀つたかけがへの無い辛苦のごうであつたのだ。

「えい、スパイ共戰争の邪魔だ。ぐづぐづするとブツタきるぞ。」こう言つておどした惡魔の様な聲が今も筆者の聞になまなましくきこえる。

避難民は林の中に、堤の陰に、あるいは民家の軒下に身を託してゐた。これはまだよい方で、自暴自棄になつた多くの者は、白晝死體のごろごろしてゐる太道を喜屋武さきへ、あるい喜やんから逆に米軍の中へ往く者で右往左往してゐる惨狀で、大世帶の那覇署いんを収容するごうなど思ひもよらない實情であつた。彼等は一時をしのぐために、眞壁村字榮平に小さいごうを堀り、そこを基地として懸命にごうを探しつづけた。

三日三晩のごう探しとごう堀りに疲れ切った長峰警ぶがためいきをもらして、

「署長がまだかまだかと首を長くして待ってゐるだろうなー。ぼく等の傳らくで本隊の行動を決することになつてゐる。署員みんなが待つてゐるに違ひない。」 普久原が答へた「なにはともあれこの況を傳らくしなければいけません。」

その七日に外間金城の巡査があ波根の署長のもとに派遣された。

しかし本隊はその前日に島じり南部に後退してゐた。やがて城村糸滿方面に米軍が殺倒して、ふたりの傳令は本隊の後を追ふことも、長峰警部の小隊にかへることも出來ず、住民と共にさ迷ふてゐるうちに捕虜になった。

眞榮平に居た長峰警部の一行六名は、米軍の前線がまぢかに迫ったので、十四日ごろ一慶喜屋武へさがつたが、食糧は缺乏するし、これ以上さがれば海に飛び込む外ないので、米軍の戰線を突ぱして玉城方面へ行くべく十八日ごろの晩喜屋武をたつた。その夜の十時ごろであった。同村宇山城附近で先頭を歩いてゐた内間巡査が米軍の警戒線にふれたと思ふや瞬間花火が揚り、猛烈な機銃掃射を浴せられて、一行はバラバラになつてしまつた。その時内間巡査は右足首を負傷してほふくで辛ふじて喜屋武みさきまで引返した。その後彼は米軍の暖い治療を受けて再起、目下首里署で活動してゐる。長峰、金城、ひがの三名も、機銃を逃がれて、喜屋武南端のそ鉄林中まで引返したが、普久原、喜如か、の行衛はその後皆目不明である。思ふに兩名は、あの時機銃掃射を浴びて倒れたのであらう。

翌十九日午前九時ごろ、長峰、金城、比がの三名が、そ鉄林の中に潜んでゐると、本隊と一緒のはずの濱忠七(巡査ぶ長)が妻子をつれてやつて來た。彼等のどの顔も生氣はなく、不安と焦燥の色が深く刻まれてゐた。生き延びる為に、頭へ山原の山奥へと、みんなこう思つてあせつているあゐだ、四めいはそ鉄の陰で悲壮な決意をして戰線突ぱを話し合つた。その時機銃の爆音にふと顔を上げたら米軍の前線が二百米前に接近してゐた「女はなぶり殺し、男はタンクの下敷にされる」といふ日本軍の宣傳を信じてゐたので米軍に對する恐怖は死の恐怖であつた。それ故なんとかしてのかれようとあせつた。彼等は地形を利用しながらやつと喜屋武みさきまで逃げ延びたが、ホツトしたのも束の間でまたもや上空から機銃掃射、艦艇からはりゆうさん彈の乱射を浴びて、進退きはまつてしまつた。午ぜん十一時ごろ再びものすごいりゆうさん彈に襲はれて一行はちりぢりになつた。暫くして濱、金城、比がの三名は、そう白な顔をして寄り合つたが、長峰警部の姿が見えないので、ひとしきりなまえを呼びながら探しまわつたがなんの答へもなかった。りゆうさん彈は益々激しく頭の上でさく裂して一刻も愚圖愚圖して居れなかつた。もう岩かけを求めて走る以外何も考える餘ゆうはなかつた。長濱は家族をせきたてて海岸にかけ降りた。金城と比がも「長峰警部殿」と呼んで飛び降りた。

ここまでの消息は生存した長濱君からしることができたが、その後の長峰警部、比が賀盛巡査兩名の行衛はようとして判らない。

察するに長峰警部はりゆうさん弾を浴びた地點で、比が巡査は海岸におりた後どこかで最後を遂げたのであらう。

そ鉄のかげで頭行を話し合つた時、長峰警部は家族の寫に黙とうして、警察毛帳と共に處分して、三名に向つて、「だれか生き残ることが出来たら自分の最後を家族に話してくれる様に」としみじみ語つた彼は子煩悩で長男が東京高等無線校を出たとか二男がどうだ子供のためにがんばつてゐるとかよく子供たちの話をしたものであつた。また仕事も熱心で晝となく夜となく素未な私服をまとうて奔走する姿を戰ぜんよく見受けたものである。一見村夫子に見へたが二十数の荒浪にもまれてしかも大半を特高畑で活躍しただけに、警事務だけでなく、政界、思想界、財界、あらゆる社會情勢に明るい先輩であつた。

普久原警部補は、眞和志村の産で、かつて名司法主任といはれ、戰争中はめい防主任でもあつた。思ひ起せば一〇、一〇空襲の折那覇署の警備隊の第一小隊長として西新町西本町つじ町方面の警備中、つじ町の防空ごうが火炎におうわれてごう内千餘の大衆が窒息の危機にひんしてゐる情を受け、空爆にさらされながらかけつけて引出にかかつたが、ごう内の大衆が爆彈と機銃を恐れてまごまごして應じないので、拔刀してしつた激勵を爲し漸く全員を安全地帝に誘導、一千餘名の人めいを救助して知事賞を授受されたばかりでなく世人の賞さんを博したことのあるしゆん敏果斷の警察官であつた。

更に喜如が部長は久米島の産で宮城ひろしぶ長とともに防空ごう造りの功勞者であつた。

ごう内で裸になつて汗と土にまみれて石を割り土を掘り起す彼の姿に鳥田知事も感心して、新に盆を下さつた事もある。柔道四段の大男が盆をもらつて子供の様に頭をかいてゐた微笑ましい場面が見える様である。彼は柔道家だけに剛胆であつたが反音樂を愛好し、音樂會で琴を彈いて、つじの美ぎ達をやんやといわしたいつ話もある。

 

次號には、大宜味朝昌警の殉職記を掲載致します 

解説

沖縄戦[1](※1)殉職記(2回)いつ何処で最後をとげたか

山川 泰邦

 

元経済保安課々僚[2](※2) 警部 長峰 義孝

元那覇警察署勤務 警部補 普久原朝章

右同 巡査部長 喜如嘉

右同 巡査 比が賀盛

殉職記

 

日ましに深まる優しゆうが沖縄全住民を重苦しく覆っていた。幾日かうっとうしい日が続いて、道路はぬかるみ、ごう内はじめじめしていた。艦砲の爆裂音が今日も又ビン[3](※3)一帯の山を振動させている。

その早朝ショボ降る雨にぬれて長峰警部がひとりで豊見村のビン岳のごうにあつた那覇署の警備隊にやって来た。

「繁多川からここまでひと晩かかつたよ。あちこちでボンボン打ち上げる照明弾が、道を照してくれたのはよかったが、照らされるとうす気味悪くて歩けるもんぢゃない。それに地理不案内でどこをとほっていいかわからず、ごうからごうをたづねまわってひどい目に遭った。おまけに馬麗に[4](※4)艦砲のはげしい晩で生きた心地はしなかった。これでぼくも死線をこえた様な気がする。九州に陳開させた子供たちにもあえる日があるかもしれない。」

彼はぬれた上衣をぬぎながらこう言って真底から喜んだ。

牛島司令官が最後の牙城と頼む首里の拠[5](※5)が危機にひんしたので、繁多川のごうにいた荒井警察部長が各課長とわづかの要員をつれて島じりの南端にさがるになり、警察部員を各署に分散することになって、彼は那覇署に配置されたのであった。

ビン岳一帯のごうは日本軍の武部隊が米軍の瀬長島[6](※6)からの上陸に備へて築いた大規模のものであったが、武部隊[7](※7)が中ぶ地区に移動して当時は1ヶ分隊で留守番をしていた。彼はこの広いごうに来て喜んでいたが、5月末ごろに日本軍の衛生隊、負傷兵等が続々おしかけて来て、しまひに退去を要求したので、那覇署員は波根[8](※8)に移動しなければならなかった。

首里戦線崩壊後は、喜屋武、真壁を指して落のびる民衆で、ここ城村一帯は混乱していた。1日も早く真壁、ま文仁方面にごうを求めなければ7余名の署ゐん[9](※9)が弾雨にさらされなければならない。こう言って具志堅署長は、6月2日ごろ、普久原警察補、喜如か部長、内間巡査の3名を派遣した。彼等は日に夜をついでごうを求めて艦砲と機銃の下をぐりながら山野をかけずりまわって4日に然と[10](※10)帰ってきた。

「だめです。はおろか土手のかげまでいっぱいです。」こう言って普久原はたん息した。具志堅署長は「〇・・・・・・〇らなければなるまい。さあ設隊を派遣しよう。」

長峰警部を隊長に、普久原警ぶ補、喜如嘉ぶ長、外間現清、内間安助、金城幸永、比が賀盛、金城栄哲の5巡査を加えて8名の設営隊いんが、全署いんの激励に送られて、ま文仁真壁方面へ出発したのはその晩のことであった。彼等はごうを求めて奔走した。しかし、普くはらの報告どほりどんな小さなごうも日本軍が入りこんでいた。まれに自分のごうの有る者も日本の敗残兵から次々に銃をつきつけられて追ひ出されていた。こうして老じんや子供を引きつれて歯をくいしばりなからごうを出て行つた者がいくらいたことだろう。しかもそのごうは住民が営々として堀ったかけがへの無い辛苦のごうであったのだ。

「えい、スパイ共戦争の邪魔だ。ぐづぐづするとブッタぎるぞ。」こう言っておどした悪魔の様な声が今も筆者の聞になまなましくきこえる。

避難民は林の中に、堤の陰に、あるいは民家の軒下に身を託してゐた。これはまだよい方で、自暴自棄になった多くの者は、白昼死体のごろごろしてゐる太道を喜屋武さきへ、あるい喜やんから逆に米軍の中へ往く者で右往左往してゐる惨状で、大世帯の那覇署いんを収容するごうなど思ひもよらない実情であつた。彼等は一時をしのぐために、真壁村字栄平に小さいごうを堀り、そこを基地として懸命にごうを探しつづけた。

三日三晩のごう探しとごう堀りに疲れ切った長峰警ぶがためいきをもらして、

「署長がまだかまだかと首を長くして待ってゐるだろうなー。ぼく等の伝らくで本隊の行動を決することになってゐる。署員みんなが待ってゐるに違ひない。」 普久原が答へた「なにはともあれこの況を伝らくしなければいけません。」

その7日に外間金城の巡査があ波根の署長のもとに派遣された。

しかし本隊はその前日に島じり南部に後退してゐた。やがて城村糸満方面に米軍が殺倒して、ふたりの伝令は本隊の後を追ふことも、長峰警部の小隊にかへることも出来ず、住民と共にさ迷ふてゐるうちに捕虜になった。

真栄平に居た長峰警部の一行6名は、米軍の前線がまぢかに迫ったので、14日ごろ一応喜屋武へさがったが、食糧は欠乏するし、これ以上さがれば海に飛び込む外ないので、米軍の戦線を突ぱして玉城方面へ行くべく18日ごろの晩喜屋武をたった。その夜の10時ごろであった。同村宇山城附近で先頭を歩いてゐた内間巡査が米軍の警戒線にふれたと思ふや瞬間花火が揚り、猛烈な機銃掃射[11](※11)を浴せられて、一行はバラバラになってしまった。その時内間巡査は右足首を負傷してほふくで辛ふじて喜屋武みさきまで引返した。その後彼は米軍の暖い治療を受けて再起、目下首里署で活動してゐる。長峰、金城、ひがの3名も、機銃を逃がれて、喜屋武南端のそ鉄[12](※12)林中まで引返したが、普久原、喜如か、の行衛はその後皆目不明である。思ふに両名は、あの時機銃掃射を浴びて倒れたのであらう。

翌19日午前9時ごろ、長峰、金城、比がの3名が、そ鉄林の中に潜んでゐると、本隊と一緒のはずの濱忠七(巡査ぶ長)が妻子をつれてやって来た。彼等のどの顔も生気はなく、不安と焦燥の色が深く刻まれてゐた。生き延びる為に、頭へ山原の山奥へと、みんなこう思ってあせっているあゐだ、4めいはそ鉄の陰で悲壮な決意をして戦線突ぱを話し合った。その時機銃の爆音にふと顔を上げたら米軍の前線が200米(メートル)前に接近してゐた「女はなぶり殺し、男はタンクの下敷にされる」といふ日本軍の宣伝を信じてゐたので米軍に対する恐怖は死の恐怖であった。それ故なんとかしてのがれようとあせった。彼等は地形を利用しながらやっと喜屋武みさきまで逃げ延びたが、ホッとしたのも束の間でまたもや上空から機銃掃射、艦艇からはりゅうさん弾[13](※13)の乱射を浴びて、進退きはまってしまった。午ぜん11時ごろ再びものすごいりゅうさん弾に襲はれて一行はちりぢりになった。暫くして濱、金城、比がの3名は、そう白な顔をして寄り合ったが、長峰警部の姿が見えないので、ひとしきりなまえを呼びながら探しまわったがなんの答へもなかった。りゅうさん弾は益々激しく頭の上でさく裂して一刻も愚図愚図して居れなかった。もう岩かげを求めて走る以外何も考える余ゆうはなかつた。長濱は家族をせきたてて海岸にかけ降りた。金城と比がも「長峰警部殿」と呼んで飛び降りた。

ここまでの消息は生存した長濱君からしることができたが、その後の長峰警部、比が賀盛巡査両名の行衛はようとして判らない。

察するに長峰警部はりゅうさん弾を浴びた地点で、比が巡査は海岸におりた後どこかで最後を遂げたのであらう。

そ鉄のかげで頭行を話し合った時、長峰警部は家族の写真に黙とうして、警察毛帳と共に処分して、3名に向って、「だれか生き残ることが出来たら自分の最後を家族に話してくれる様に」としみじみ語った彼は子煩悩で長男が東京高等無線校を出たとか二男がどうだ子供のためにがんばってゐるとかよく子供たちの話をしたものであった。また仕事も熱心で昼となく夜となく素未な私服をまとうて奔走する姿を戦ぜんよく見受けたものである。一見村夫子[14](※14)に見へたが20数の荒浪にもまれてしかも大半を特高[15](※15)畑で活躍しただけに、警事務だけでなく、政界、思想界、財界、あらゆる社会情勢に明るい先輩であった。

普久原警部補は、真和志村の産で、かつて名司法主任[16](※16)といはれ、戦争中はめい防主任[17](※17)でもあった。思ひ起せば10.10空襲[18](※18)の折那覇署の警備隊の第一小隊長として西新町西本町つじ町[19](※19)方面の警備中、つじ町の防空ごうが火炎におうわれてごう内1,000余の大衆が窒息の危機にひんしてゐる情を受け、空爆にさらされながらかけつけて引出にかかつたが、ごう内の大衆が爆弾と機銃を恐れてまごまごして応じないので、抜刀してしった激励を為し漸く全員を安全地帝に誘導、1,000余名の人めいを救助して知事賞を授受されたばかりでなく世人の賞さんを博したことのあるしゅん敏果断の警察官であつた。

更に喜如が部長は久米島の産で宮城ひろしぶ長とともに防空ごう造りの功労者であった。

ごう内で裸になって汗と土にまみれて石を割り土を掘り起す彼の姿に鳥田知事も感心して、新に盆を下さった事もある。柔道四段の大男が盆をもらって子供の様に、頭をかいてゐた微笑ましい場面が見える様である。彼は柔道家だけに剛胆であつたが反音楽を愛好し、音楽会で琴を弾いて、つじの美ぎ達[20](※20)をやんやといわしたいつ話もある。

 

次号には、大宜味朝昌警の殉職記を掲載致します



[1] 1 1945年(昭和20年)3月下旬~8月に行われた戦闘。組織的な戦闘は6月には終了するも、その後も掃討戦が続いた。大規模な地上戦により、一般住民10万人以上を含むおよそ20万人もの命が奪われた

[2] 2詳細不明。「々僚」は「同僚」のことだろうか?

[3] 3「ビン」は豊見城村の地名「保栄茂」のことではないかと考えられるが、その直後に出てくる「ビン岳」の詳細が不明

[4] 4詳細不明。「馬鹿に」と読むのだろうか?

[5] 5漢字の読み取りが難しく詳細不明。「拠点」のような意味合いの言葉が書かれているのではないかと思われる

[6] 6豊見城市の島

[7] 7沖縄守備軍であった第32軍配下の第9師団のこと。参照:沖縄タイムス(閲覧日2023年1月16日:https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/13972

[8] 8糸満市の阿波根(あはごん)

[9] 9人数の読み取りが難しかったが、「大所帯」ともあるので70余名ではないかと考えられる

[10] 10「悄然と」もしくは「しょんぼりと」?

[11]11機銃とは機関銃のことである。機銃掃射は戦闘機からの射撃など、機関銃で上から下に向けて撃つことを指す

[12] 12ソテツという樹木

[13] 13榴散弾のこと。散弾が詰まった砲弾の一種で、敵の殺傷などのために用いられた

[14] 14そんぷうし。田舎者の学者

[15] 15とっこう。特別高等警察の略称。1945年に廃止されるまで、治安維持法に基づいて国家体制に反するとみなした者の弾圧・取り締まりなどを行った

[16] 16戦前の警察制度において犯罪捜査などを行った警察官のこと

[17] 17調べてみたが詳細不明

[18] 181944年、大規模な空襲があり那覇市街の実に9割が消失した。

[19] 19辻町

[20] 20「美ぎ」は「美妓」か。辻町には遊郭が存在した


解説・感想

はじめに

沖縄戦についてご存知でしょうか?

第二次世界大戦において、沖縄は大規模な地上戦の舞台となりました。数カ月にわたって続いたこの戦いを沖縄戦と呼びます。

沖縄戦においては、多くの尊い命が失われました。私の曽祖父も、沖縄戦で亡くなった人物の一人です。

 

曽祖父である普久原朝章は、那覇市の警察署員でした。沖縄戦の前年に那覇市を襲った大規模な空襲の際は、果敢に指揮を執り市民およそ1,000名の命を救ったとも伝えられています。

彼は沖縄戦で命を落としましたが、現在もその亡骸は見つかっていません。他の多くの沖縄市民と同様、今なお地中に埋もれたままになっているのかもしれません。

 

曽祖父がどのように生き、どのように亡くなったのかは多くの謎に包まれています。

しかし、全く手がかりがないわけではありません。いくつかの記録などを通して、曽祖父の人生を断片的に知ることができます。

 

今回は山川泰邦氏が雑誌『』に掲載した「沖縄戦殉職記《2回》いつ何処で最後をとげたか」という記事をもとに、曽祖父の晩年の足取りを追ってみることにします。

山川氏の文章は、沖縄戦で殉職した警察官たちについて詳細に記録したものです。

連載の第2回目では、普久原朝章を含む警察官たちが日本軍から防空壕を追い出され、新たな壕を求めさまよい戦禍に倒れるまでが時系列に添って叙述されています。

 

「味方であるはずの日本軍が、なぜ警察職員を追い出すのか?」と、疑問に感じる方もいらっしゃるかもしれません。

実は、沖縄戦では日本軍が住民を追い出して壕を占拠する事例が多数あったといわれているのです。

自分たちを守ってくれるはずの兵隊に壕を追い出され、亡くなった住民たちの無念は想像するに余りあります。戦争のむごさを如実に示す悲劇のひとつといってもよいかもしれません。

壕を追われて戦禍に散った曽祖父の最期を知ることで、戦争の惨禍に今一度思いを馳せることができるのではと考えています。

 

今回の解説では、まず前半で山川氏の文章の概要をご紹介します。

そして後半では、普久原朝章のひ孫である私自身の想いを拙いながら書き記してみることにします。

 

この解説を書いている2023年は、戦後78年にあたる年です。

戦争は過去のものとして、関心が薄い方も多いのではないでしょうか?

実際、私自身も戦争について熱心に考えぬまま過ごしてきました。

しかし、我々の世代は悲しいかな決して戦争と無縁ではありません。

ウクライナ戦争をはじめとした世界の争いは今も絶えぬままです。また、国内に目をやれば格差や差別・偏見等による分断は深刻化し、政治のありようにもきな臭さが漂います。

気づかぬうちに、戦争へ向けた舵取りに自分自身が参加してしまう可能性も十分にあるのです。

 

今こそ過去の悲劇に目をとめ、これからの私たちの生き方を問い直す試みが必要ではないでしょうか。

今回の解説も、拙いながらその試みのひとつです。

 

山川泰邦氏「沖縄戦殉職記《2回》いつ何処で最後をとげたか」 概要

まず、山川泰邦氏「沖縄戦殉職記《2回》いつ何処で最後をとげたか」(以下、本記事とする)の概要をご紹介します。

本記事は沖縄戦で殉職した警察官たちの記録であり、日本軍によって壕を退去させされた彼らが新たな壕を探しまどう様子が克明に描かれています。

本記事に登場する主な人物および主な出来事について、以下にまとめました。

 

【主な人物】

殉職者として冒頭で名前を挙げられているのは長峰義孝警部・普久原朝章警部補・喜如嘉栄輝巡査部長・比が賀盛巡査の4名です。

また、上記の4名以外にも彼らと行動を共にした複数の警察官が登場します。

本記事では各人の役職・経歴などのほか、人となりが伺えるエピソードもいくつか挙げられています。

以下に、簡単にご紹介します。(以後、敬称略)

 

表1:主な人物

元経済保安課 警部 長峰義孝(殉職)

首里戦線崩壊に伴い警察部員が各署に分散されることになり、那覇署に配置された。

戦前は熱心な仕事ぶりで、しばしば粗末な私服を着たまま奔走する姿がみられた。また、子煩悩でよく我が子の話をしていた。

一見、学者風の人物に見えたが実は長年特高で活動した経歴を持ち、あらゆる社会情勢に精通していた。

1945年6月19日、喜屋武岬で榴散弾の乱射を受け亡くなったとみられる。

元那覇警察署勤務 警部補 普久原朝章(殉職)

真和志村出身。戦前は名司法主任[1](※1)といわれていた。

10.10空襲の際には、火災に襲われた辻町の防空壕から1,000余名の民衆を救助したとして知事賞を受賞した。爆弾・機銃への恐怖で壕外に出ることをためらい窒息の危機に陥った民衆を、抜刀して叱咤激励し全員安全な場所へ移動させたのである。

1945年6月18日、喜屋武村宇山城附近で機銃掃射を受け亡くなったとみられる。

元那覇警察署勤務 巡査部長 喜如嘉栄輝(殉職)

久米島出身。防空壕づくりの功労者であり、裸になって汗と土にまみれながら壕を掘っていた。その姿に感銘を受けた県知事から盆[2](※2)をもらったこともある。

柔道家で剛胆な人物だったが、音楽を好む一面もあり琴を弾くこともあった。

1945年6月18日、喜屋武村宇山城附近で機銃掃射を受け亡くなったとみられる。

元那覇警察署勤務 巡査 比が賀盛(殉職)

巡査 内間安助

巡査 外間現清

巡査 金城幸永

巡査 金城栄哲

巡査部長 長濱忠七巡査 

 

以上が、本記事に登場した主な人物です。

特に長峰義孝警部に関しては、その人柄を思わせる逸話が多く掲載されています。なかでも子煩悩な一面がしばしば描写されており、冒頭、死線をくぐり抜け那覇署がかまえていた壕に辿り着いた際には、

「これでぼくも死線をこえた様な気がする、九州に疎開させた子供たちにもあえる日があるかもしれない」山川 発行年:ページ数

と喜び、いよいよ追い詰められた際には家族の写真に黙とうし、「だれか生き残ることが出来たら自分の最期を家族に話してくれる様に」山川 発行年:ページ数

と伝えています。

 

【主な出来事】

さて、本記事では日本軍に壕を退去させられてからの警察官たちの奔走が詳しく描写されています。

以下に、主な出来事を時系列に添ってまとめました。別紙資料をご覧ください。

なお、表には各人の動向も記載しています。それぞれの足取りを追う際の参考にしていただければ幸いです。

 

参考資料 表2:本記事における主な出来事

 

【本記事に登場した主な地名等】

参考として、本記事に登場した主な地名等を以下の地図におおまかにまとめました。

なお、市町村合併等による地名変更が行われている場合があります。

 

図1:本記事に登場した主な地名等(地理院地図 / GSI Mapsを加工して作成)

 

「表2:本記事における主な出来事」とあわせてご利用ください。

[1] 1解説注:戦前の警察制度において犯罪捜査などを行った警察官のこと

[2] 2解説注:盆というのはお盆のことだろうか?詳細がわからなかった



【概要 おわりに】

ここまで、本記事で取り扱われている主な出来事について、各人物の動向などにスポットをあてながらまとめました。

本記事の一文一文から、壕を追われた署員たちの苦悩が生々しく浮かび上がってくるようです。

沖縄戦の悲劇を伝える、貴重な資料のひとつではないかと考えられます。


 

山川泰邦氏「沖縄戦殉職記《2回》いつ何処で最後をとげたか」 感想

 

ここまで、山川泰邦氏著の記事を題材に曽祖父の人生の一端を探ってきました。

私にとって、曽祖父はとても遠い人です。詳しいことはほとんど知りません。ただ、「曽祖父はたくさんの人を守って亡くなった。立派な人だった。」などと聞かされることがたまにある程度です。

 

立派な人。

そう聞くたびに、なぜでしょうか、私は心のどこかにひっかかりを感じてきました。

 

もちろん、曽祖父がたくさんの尊い命を救ったのは事実のようです。実際山川氏の記事にも、那覇空襲の折曽祖父が1,000余名を火災から救った出来事が記されていました。[1](※3)

また、彼の死も他者に捧げた犠牲に近いものがあります。なにせ壕を追い出された同僚たちが身を隠せる場所を探すべく、設営隊のメンバーとして奔走した果ての戦死なのですから。

 

それではやはり、人のために生き人のために死んだ「立派な人」ではないか。何にひっかかっているのだとお叱りを受けそうです。

複雑な気持ちになってしまう原因のひとつは、私が「立派な人」からはほど遠い人間だからでしょう。

曽祖父について、わけ知り顔で語る資格が自分にはないように思えるのです。山川氏の記事を読んでみて、改めてその思いが強くなりました。

私は曽祖父よりもむしろ、彼らを壕から追い出した日本兵の方に近い醜悪さを持った人間なのではないか?そのようにも思ってしまったのです。

 

山川泰邦氏の記録には、壕をめぐる人々の対照的な姿が描かれています。

一方では、他者のために奔走し自己犠牲も厭わなかった人々の姿があります。私の曽祖父普久原朝章は、火災の危険を顧みず壕から多くの人々を避難させました。彼と共に働いた喜如嘉巡査部長は壕作りの功労者として汗を流しました。さらに、那覇署員から選抜された設営隊は仲間たちのために壕を探し回り、数名が戦禍に散りました。これらの行動からは、利他的な精神が伺えます。

その一方で、人間の利己心や残酷さを如実に示す出来事も描写されています。日本兵が壕から住民を無慈悲に追い出す場面がそれです。その様は、筆者をして悪魔といわしめるほどです。

「えい、スパイ共戦争の邪魔だ。ぐづぐづするとブッタぎるぞ。」こう言っておどした悪魔の様な声が今も筆者の聞になまなましくきこえる。(山川 発行年:ページ数

「悪魔の様な声」で住民たちをスパイ呼ばわりした日本兵たち。彼らについて考えてみる時、私はぞっとします。彼らの凶行は、私自身の弱さとどこか地続きであるような気がするのです。

 

住民を追い出したとされる日本兵の中に、生来の悪魔は果たしてどれほどいたのでしょうか?

戦争の混乱の中で怯え狂い、我が身可愛さの一心で他者を排斥したのかもしれません。上官の命令を無批判に信じ込んで、あるいは疑念を抱きつつも逆らう勇気がなくて、凶行に及んだのかもしれません。

 

怯えに起因する他者の排除や、集団の決定を無批判に信じ込んでしまう部分は、残念ながら私にとっても身に覚えのあるところです。

私は小心者です。不安になると過度に防御的になり、他者に優しさを向ける余裕がなくなります。こと昨今のコロナ禍においてはその傾向が顕著になりました。ニュースのあれこれにヒステリックに反応し、時には他者に憎しみのような感情さえ覚えたりしたものです。また、私はどちらかといえば「いい子」を通してきました。人から褒められると気分がいいし、命令を守らないと不安になります。

 

こんなふうに自身のありようを振り返ってみると、沖縄戦における日本兵の残酷さを自分とは無関係のものだと思いなすことができないのです。

人間が持ちうる弱さ・醜さが最悪な形で現れたのが、沖縄戦における彼らの凶行だったのではないでしょうか?そしてその弱さ・醜さは決して私と無縁のものではありません。

 

利他と利己。敵と味方。

戦争という極限状態では、様々な要素がぱっきりと二極化・単純化してしまうのかもしれません。

しかし、本来私たちのすむ世界はもっと複雑なはずです。

曽祖父は「立派な人」として人命を救い、やがて戦禍に散りました。仮に戦争がもっと続いていれば、彼の殉職は戦意高揚のために利用されていたかもしれません。

しかし、曽祖父の本当の姿は謎に包まれています。彼は戦前どんな日常を送っていたのでしょうか?司法主任としてどんな業務をこなしていたのでしょうか?性格は?家族との関係性は?・・・彼にももしかしたら、立派でなくて、弱い一面があったかもしれません。

同様に、悪魔のようだと山川氏が表現した日本兵にも、戦前はささやかな日常があったことでしょう。

人間が本来持ち得るはずの複雑さを、ごっそりとそぎ落として単純化してしまうのが戦争なのかもしれないと思います。

 

曽祖父が殉職して間もなく、戦争は終わりました。

それから長い年月が経ち、2023年の今年は戦後78年を迎えます。

私たちが暮らす社会は、今どこへ向かっているのでしょうか?

 

便利な機器に囲まれ、スマホひとつで様々な情報にアクセスできる時代です。戦時中の人々がきっと想像だにしなかったであろう豊かさを、私たちは手に入れました。

過去に目を向ける余裕などなくて、戦争の惨禍に想いを馳せる機会のない方も多いことでしょう。私もその一人でした。戦争で命を落とした曽祖父のことも、どこか遠い存在のまま今日まで過ごしてきたのです。

 

しかし、戦争の記憶を過去のものと打ち捨てておくことのできないようなきな臭さが、私たちの社会に漂いつつあります。

人々の分断は深刻で、コロナ禍による不安や閉塞感もそれに拍車をかけています。対立を煽るような言説が巷にはあふれ、マイノリティへの攻撃も数え切れません。

インターネットなどの媒体を通じて濁流のごとく流れ込んでくる情報は、時として他者への憎悪を容易に煽る装置となります。

閉塞感の中で、戦争の足音がどこかで鳴り響いているような恐怖を感じずにはいられません。

 

戦争は、極悪人だけが引き起こすわけではありません。私たちひとりひとりがぼんやりと集団に流されているうちに、戦争に向かって取り返しのつかない一歩を踏み出してしまう可能性もあるのです。

戦禍に散った曽祖父自身も、少なくとも表立っては戦争に反対できなかった一人であったと思われます。

警察という組織の中で日々任務を遂行しながら、彼は戦争についてどう思っていたのでしょうか?もろ手を挙げて歓迎したのか内心気が進まなかったのかはわかりませんが、その点では、彼自身も戦争という悲劇を作動させた歯車のひとつであったといえるかもしれません。

 

正直、私にとって曽祖父の姿はまだまだ遠いままです。

しかし、「立派な人」というイメージの向こうで彼がどのように日々を生きていたのかについて思いを馳せる時、心がぐらりと揺れるような気持になることがあります。

 

私は、曽祖父らが体験した戦争の惨禍について知ったような口をきける人間ではありません。知識も経験も、圧倒的に不足しています。物心ついてから、いまだ沖縄の地に実際に降り立ったことさえないのです。

また、物事を検証する能力も悲しいほど足りません。与えられた情報をすぐに信じ込んでしまう自身の傾向は薄々自覚しています。曽祖父にまつわるエピソードについても、様々な資料にあたり多方面から事実を検証していく必要があるでしょう。

遠い道のりを思うと投げやりな気持になりかけます。それでも、少しずつでも彼の生に迫ろうと試みるほかないのでしょう。

 

まとまりのない文章になってしまいました。悩みながら筆を置きます。

戦禍に散った曽祖父のこと。彼を壕から追い出したとされる日本兵のこと。

自身の弱さに頭を抱えながらも、考え続けていきたいです。戦争の惨禍を繰り返さないためにも。

 

参考文献

沖縄タイムス社(1970)『鉄の暴風』沖縄タイムス社,19項.

 

山川泰邦(発行年)「沖縄戦殉職記《2回》いつ何処で最後をとげたか」『雑誌名』号数(何月号)項.



[1] 3沖縄タイムス社編『鉄の暴風』にも、該当の出来事のことではないかと考えられる記載があります。(以下引用)

  女たちや、警防団員を中心とした特設防衛団が、必死となって猛火を消そうと駆けま わったが、米機の執拗な攻撃に約一千近くのこれらの人々は、辻町の地下空洞に逃げ込んだ。これを危険と見た那覇署員が、抜刀して威しつけ、辛うじて大空洞から追い出した。集団蒸焼きの悲劇を未然に防いだのである。(沖縄タイムス社 1970年19


表2:本記事における主な出来事

沖縄戦殉職.pdf