殉国之碑

杵築市山香・立石・北部中跡

2022年10月、大分県杵築市を訪ねました。立石の北部中学跡に殉国の碑が残されていました。昭和34年の建立です。戦後、地域からの戦没者の慰霊で建立されました。地域における戦争の犠牲がどんなものであったかを考えるきっかけとなりえます。

関連資料

碑と私

碑文

台座

碑文

碑文

趣意書

我国は徳川三百年鎖国の殼を破って明治聖代の黎明から兹に九十二年国運隆々として飛躍的発展を遂げ卋界一等国の班に列することが出来たが大東亜の戰では我に利あらず昭和二十年八月遂に恨を呑んでポツダム宣言を受諾するに至った爾来十三ヶ年暗雲躍る混沌の世相を乗り越え今漸やく祖国本然の姿に返らんとする時白々と明け行く文化国家の息吹きと共に我々は兹に懷かしき人々の姿なき御霊の聲を聞くのである 是即ち遠くは日清日露より近くは今次の大東亜の戰に於て尊い生命を国に殉じた立石地区百五十余柱の英霊である

是等の勇士は何れも国民の代表として又国家の干城として勇躍征途に上り彈丸雨飛の中を陸に海に空に悪戰苦闘され華々しく散って新国家の礎石となられたので誠に御気毒であり更に還らぬ人を憶う御遺族の方々御心中如何ばかりかと実に悲痛哀惜の情に堪えない次第である

我等は思を兹に致し本年度公民館活動の第一行事として之を採択し同志相謀り地区内は固より地区出身有志並びに特志家各位の絶大なる御協力と更に町当局の御援助とに依つて本地区多年の宿願である殉国の碑を意義深い旧奉安殿の基盤を利用して建設し以て英霊の御霊の偉勲を稱え其の遺芳を永久に殆し併せて將来戰爭の惨過を繰り返すことを避け新日本の建設文化国家再建の象徴たらしめんとするものである

昭和三十四年四月五日

解説

趣意書(*1)

我国は徳川三百年鎖国の殼を破って 明治聖代(*2) の黎明から兹に(*3) 九十二年国運(*4) 隆々として飛躍的発展を遂げ 卋界一等国の班に列することが出来たが 大東亜の戰では我に利あらず 昭和二十年八月遂に恨を呑んでポツダム宣言を受諾するに至った

爾来(*5) 十三ヶ年暗雲躍る混沌の世相を乗り越え 今漸やく祖国本然の(*6) 姿に返らんとする時 白々と明け行く文化国家の息吹きと共に 我々は兹に懷かしき人々の姿なき御霊の聲を聞くのである 是即ち遠くは日清日露より近くは今次の大東亜の戰に於て 尊い生命を国に殉じた 立石地区百五十余柱の英霊である

是等の勇士は何れも国民の代表として 又国家の干城(*7) として 勇躍征途(*8) に上り 彈丸雨飛の中を陸に海に空に悪戰苦闘され 華々しく散って新国家の礎石(*9) となられたので誠に御気毒であり 更に還らぬ人を憶う御遺族の方々御心中如何ばかりかと 実に悲痛哀惜の情に堪えない次第である

我等は思を兹に致し 本年度公民館活動の第一行事として之を採択し 同志相謀り地区内は固より地区出身有志並びに特志家各位の絶大なる御協力と更に町当局の御援助とに依つて 本地区多年の宿願である殉国の碑を 意義深い旧奉安殿(*10) の基盤を利用して建設し 以て英霊の御霊の偉勲(*11) を稱え(*12)  其の遺芳 (*13)を永久に殆し  併せて將来戰爭の惨過を繰り返すことを避け 新日本の建設文化国家再建の象徴たらしめんとするものである

昭和三十四年四月五日


(*1) 行おうとすることの目的や理由を書き記した文書

(*2) 優れた天子の治世

(*3)ここに

(*4) 国の勢い

(*5) じらい。それ以来

(*6) 生まれつきの。もともとの

(*7)かんじょう。楯となり城となり、国家や君主を守る軍人

(*8) せいと。出征の道。戦争に出かけること

(*9) そせき。いしづえ

(*10)戦前、天皇皇后両陛下の写真と教育勅語を納めていた建物のこと

(*11) いくん。戦争などでの優れたてがら

(*12) たたえ

(*13) いほう。後世に残る名誉・業績

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