福岡連隊跡の

福岡市中央区城内

戦跡の声を聴くシリーズ  

2022年2月、福岡県福岡市中央区福岡城跡を訪ねました。戦時下、ここに福岡連隊(陸軍第24連隊)があったのです。その証として、「福岡連隊の跡」碑があります。また、当時は西部軍管区司令部や防空作戦室、弾薬庫、捕虜処刑地、陸軍病院などもありました。福岡城の二の丸石垣には空襲で焼かれたあとも残っています。現在は平和台と呼ばれる平和の証、憩いの場所となっています。

関連資料

都会の真ん中

案内板

競技場

桃の木の碑

福岡連隊の跡碑

陸軍用地碑

焼けた石垣

歩兵第12旅団の碑

碑文

かつて郷土の人々に福岡隊として親しまれた歩兵二十四隊は明治十九年八月十七日 明治天皇から軍旗の親援をうけてこの地福岡城跡に創設された部隊である 尓来明治二十七八年日清戦役三十七八年日露戦役その他の事変に出動し輝しい武功をたて 平時にあっては衛戌地の信頼を厚くし国運の伸張と社会の安寧とに多大の貢献をなした 大正の一次世界大戦においてはシベリヤに出征し 昭和の二次世界大戦においては部隊の主力は滿洲に駐屯中あったが 昭和十二年八月十八歩兵百二十四隊 同十四年四月十七歩兵二百二十六隊 同十五年七月五十六步兵百十三隊 同十九年五月百九步兵三百十二大隊同三百十四大隊等の諸部隊がつぎつきに編成され 郷土部隊は遠く中南支 マレー ボルネオ ガダルカナル ビルマ 雲南等の各地に転戦敢斗した 百九の硫竜島部隊 三十二軍の沖縄部隊は ついに名を後世に残して玉碎した また国土防衛のための部隊が編成され南北州等に赴いて護国の任に當った しかるに昭和二十年八月十五日終戦の詔勅下るにおよび 勇強を天下に誇った福岡隊も一切の軍備撤廃にともない 創設以来六十余年の歴史に終止符がうたれた そして兵営の跡には平和台競技場その他の体育施設があいついで完備し 兵営の俤はほとんど滅失して往時を偲ぶよすがとなるものはすでにして數株の樹木のみという有様となった まことに感慨無量なるものがある ここに有志相謀り 福岡隊の歴史を顧し国事に殉じた戦友の英霊を慰めるために 記念碑一基を建立し事跡の一端を刻んでこれを後世に伝えることにしたところ 幸にも郷土各位の賛同をえて目的を達成することができた 一同の感激これにまさるものはない 記して大方の厚意に甚深の謝意を表する次である

福岡隊跡記念碑建設会 昭和三十八年五月三日


解説

かつて郷土の人々に福岡連隊として親しまれた歩兵第24連隊は明治19年 (※1)8月17日 明治天皇から軍旗の親援をうけてこの地福岡城跡に創設された部隊である

尓来(じらい)明治27 (※2)・8年日清戦役37・8年日露戦役その他の事変に出動し輝しい武功をたて 平時にあっては衛戌地 (※3)の信頼を厚くし国運の伸張と社会の安寧とに多大の貢献をなした

大正の第一次世界大戦においてはシベリヤに出征し 昭和の第二次世界大戦においては部隊の主力は満州に駐屯中であったが 昭和12年8月第18師団歩兵第124連隊 同14年4月第17師団歩兵第226連隊 同15年7月第56師団步兵113連隊 同19年5月第109師団步兵第312大隊同314大隊等の諸部隊がつぎつきに編成され 郷土部隊は遠く中南支 (※4) マレー ボルネオ ガダルカナル ビルマ 雲南 (※5)等の各地に転戦敢斗(かんとう※敢闘)した

第109師団の硫竜島部隊 第32軍の沖縄部隊は ついに名を後世に残して玉砕した

また国土防衛のための部隊が編成され南北州等に赴いて護国の任に当った

しかるに昭和20年8月15日終戦の詔勅下るにおよび 勇強を天下に誇った福岡連隊も一切の軍備撤廃にともない 創設以来60余年の歴史に終止符がうたれた

そして兵営の跡には平和台競技場その他の体育施設があいついで完備し 兵営の俤(おもかげ)はほとんど滅失して往時を偲ぶよすがとなるものはすでにして数株の樹木のみという有様となった まことに感慨無量なるものがある

ここに有志相謀り 福岡連隊の歴史を回顧し国事に殉じた戦友の英霊を慰めるために 記念碑一基を建立し事跡の一端を刻んでこれを後世に伝えることにしたところ 幸にも郷土各位の賛同をえて目的を達成することができた 一同の感激これにまさるものはない 記して大方の厚意に甚深 (※6)の謝意を表する次第である

福岡連隊跡記念碑建設会 昭和38年5月3日

※1西暦1886年

  ※2西暦1894年

  ※3えいじゅうち。大日本帝国陸軍の軍隊が永久的に駐屯する土地のこと

  ※4かつて中国南部の事を南支と呼んだそうである

  ※5中国の雲南省のことか?

  ※6じんしん。奥深いこと

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