月隈公園神社付近の防空壕
大分県日田市の戦跡
戦跡の声を聴くシリーズ
2023年3月 大分県日田市を訪ねました。観光スポットでもある月隈公園には、横穴古墳が残されています。太平洋戦時下、その古墳が防空壕に使われていたのです。民間だけでなく、軍事壕として使われてもいたらしいのです。また、古墳以外にも、掘削されています。もちろん、軍事機密ですから、公にはされていませんが、証言などで、その可能性が大きいと思われます。
関連資料
壕
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壕
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由緒
月隈神社
御祭神
大宮賣神他六柱
菅原大神
稲荷大明神
祭典
夏季大祭(風止鎮疫)七月土用入三日目
秋季天領祭 十月第三土曜日
初午大祭 旧二月初午
由緒
当社は、日田市北豆田一番地に鎮座し、大宮賣神、猿田彦神、武甕土神、経津主神、天児屋根命、比賣神、崇徳天皇を主祭とし、創立年代は不詳。
慶長六年(一六〇一)日田代官小川壱岐守光氏城主が月隅山に丸山城を築き元和二年(一六一六)石川主殿守総輔六万石の領主として居城し領民の繁栄と豊穀祈願の為社殿を創設し諸神を鎮祭する。
後に永山城として日田都代が永山布政所を置く。
歷代の西国郡代及び代官の崇敬厚し、延亨二年(一七四七)代官岡田庄太夫御陣屋御門前に天満宮を歓請せしも大正年間本社に合祀する。
寬政五年(一七九三)西国郡代羽倉権九郎が伏見稲荷の分霊を歓請し合祀した。
後世本社は、代官稲荷又は、権九郎稲荷とも称せられ初午の祭祀には近郷よりの参拝特に多く御神徳、明かなり。
明治六年村社に列した。
平成十八年十月吉日
宗教法人 月隈神社
帰安碑
帰安碑
文化十五年春、咸宜園塾主広瀬淡窓(名は簡)は日田代官塩谷正義に召されて、「帰安碑」の碑文を撰するよう命ぜられた。
これは、前年に着陣した新任の塩谷代官が、金比羅社建立のため永山城址を整備した時、山腹にいくつもの横穴が見出された。人夫に掘らせたところ中に古い人骨が散乱しており、少しの土器のほかには何のしるしもない。
代官はその骨を集めて山の下に改葬し、その上に碑を建ててみずから「帰安碑」と名づけたものである。
淡窓は漢文でこの経緯を記した後に人骨への弔慰の詞を述べて
文化十五年戊寅四月 丙辰 広瀬簡誌 とした。
いうまでもなくこの穴は古墳時代の横穴墓であった。碑は山の下から現在場所に移されたが、後年多くの勒石を残した淡窓先生の、記念すべき最初の碑文である。
日田市
関連地図