稙田小学校の二宮金次郎像

大分県大分稙田小学校


2022年9月 大分県大分市を訪ねました。市立稙田小学校に二宮金次郎像が残されています。ここは大分女子師範学校の付属校だったのです。この像は全国の小学校に設置されました。戦時中は奉安殿と金次郎像がどこの学校でも見られたのです。陸軍の山縣有朋もこの設置を進めた一人です。造られたのは日露戦争後や皇紀2600(1940)年がピークでした。日本が戦争へ向かい始めたころです。軍事予算は増大します。日本は不景気に突入し、人々の暮らしが困窮し始めます。金次郎その人は質素倹約、努力家です。しかし、軍部や政府により、軍事利用され、生活において我慢をする模範とされました。皮肉なことに銅製の像は太平洋戦争末期に金属類として供出されます。石像コンクリート製のものが残っているのです。また、取り壊された像も、戦後、地域の有志によって再建されたものもあります。これは、押し付けではなく、もちろん、軍事とはかかわりなく、新たなスタートとしての二宮金次郎像と言えるでしょう。稙田小の像は、後者です。1933年(昭和8年)に建立され、1948年(昭和23年)に再建されました。

関連資料

台座

台座

台座碑文

困難に微笑せよ 後藤文夫書

皇紀2593歳 昭和8年元旦建 稙田青年団青年訓練所 女子青年団 笠木金次郎作

参考碑

恩師佐藤磯八先生ハ明治七年七月九日東稙田村光吉芦刈家ニ生ル初メ三餘學舎ニ入リ漢學ヲ専修ス明治二十八年二月大分慈尋常師範学校ヲ卒業組合立稙田校訓導トシテ就任後稙田村田原佐藤家ヲ嗣く明治三十三年四月仝校校長ニ抜擢セラレ益々教育ノ振興ヲ圖リ大イニ成果ヲ収ム尓来大正十四年九月退職ニ至ル迄実ニ艹有九年郷土教育ノ為メ其ノ生涯ヲ捧ケラル終始一貫至ル誠ト温情トヲ以テ子弟ヲ導キ薫陶ヲ受ケシ教子ハ三千余名ニ達ス

先生ハ在職當時郡縣ノ教育会ヨリ教育功労者トシテ大正七年ニハ文部大臣ヨリ選奨セラレ仝九年ニハ帝國教育会ヨリ功牌ヲ受クル等幾多ノ栄誉ヲ擔ハレシハ何レモ先生ノ教育業績ノ偉大サヲ物語レリ昭和十五年五月推サレテ稙田村長ニ當選シ村政ニ尽サル

先生齢八十歳ヲ迎フ依テ茲ニ先生ノ髙風ヲ景仰シ師恩ニ報イン為稙田村ヲ眼下ニ九嶷ノ霊峰ヲ望ミ七瀬ノ清流ヲ前ニシテ髙燥ノ地一心園ニ碑ヲ建テ德ヲ頌シ以テ師恩ヲ永ク偲ハントス

昭和二十八年四月下浣

佐藤先生の碑

解説

恩師佐藤磯八先生は 明治七年(1) 七月九日 東稙田村光吉芦刈家に生る 初め三余(2) 学舎に入り 漢学を専修す 明治二十八年二月 大分慈尋常師範学校を卒業 組合立稙田校訓導(3) として就任後 稙田村田原佐藤家を嗣く 明治三十三年四月仝校校長に抜擢せられ 益々教育の振興を図り  大いに成果を収む

尓来(4) 大正十四年九月退職に至る迄 実に艹有九年 郷土教育の為め其の生涯を捧けらる 終始一貫至誠(5) と温情とを以て子弟を導き 薫陶(6) を受けし教子は三千余名に達す

先生は在職当時  郡県 の教育会より教育功労者として 大正七年には文部大臣より選奨 せられ 仝九年には帝國教育会より功牌 を受くる等幾多の栄誉を擔はれし(7) は 何れも先生の教育業績の偉大さを物語れり 昭和十五年五月推されて稙田村長に当選し 村政に尽さる

先生齢八十歳を迎ふ依て 茲に(8) 先生の髙風(9) を景仰(10) し 師恩に報いん為 稙田村を眼下に九嶷(11) の霊峰 を望み 七瀬の清流を前にして 髙燥(12) の地一心園に碑を建て 德を頌し(13)  以て師恩を永く偲はんとす

昭和二十八年四月下浣(14)

【意味・読み方】

(1) 西暦1874年

(2) 三余(読書に最も適した3つの時期の意)

(3)旧制小学校における正規職員の職名

(4) じらい。それ以来

(5) しせい。極めて誠実なこと。まごころ

(6) くんとう。感化すること。教え育てること

(7) になわれし

(8)ここに

(9)こうふう。優れた人格

(10)けいこう。仰いで慕うこと

(11)きゅうぎ。嶷は山の高くそびえるさま。九嶷山は中国にある山の名前のようだが詳細不明

(12)こうそう。土地が高くて湿気がないこと

(13)しょうし。褒めたたえる

(14)げかん。毎月二十一日~月末までの期間。下旬


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