佐伯城跡に生き延びた鳥居

大分県佐伯市毛利神社

2023年2月、佐伯市の佐伯城跡を訪ねました。戦時下、ここに毛利神社があったのです。祭神は毛利高政と毛利高標です。毛利高政は、豊臣秀吉の朝鮮出兵時(文禄・慶長の役)に水軍の将を務めた武断派でした。水軍は、海軍につながるものであり、海軍航空隊の置かれた佐伯にとって、重要な神社です。昭和20年4月26日の空襲で社殿などは破壊されましたが、この鳥居は残存しました。古き時代から、多くの戦いを見つめてきた鳥居です。

関連資料

鳥居

文禄の役の

碑文

見下ろした風景

碑文

城山還原之碑

慶長六年我祖 養賢公就封相攸於佐伯之邑築城於鶴谷之山名曰城山山拔海約百八十尺廣凢肆拾陸町周壹里前臨市街後臼潟東控灘山南則久部長瀬一帶平野屹爲邑巨鎮矣 公下世後傳十一代二百六十餘年至 温良公明治初年奉還藩籍山亦爲官有及余繼統以爲此山城址所存墳墓所一朝而失之雖時勢使然不今復之非所以敬 祖先之道且恐其草創之蹟終歸湮耳乃以二十二年九月具状於官請償還至三十四年二月始有准之命嗚呼城山一失而再得之 列祖在天之靈其喜可知也而余報本反始之念亦於是乎達矣因叙其梗概以諗來茲銘云

鶴谷之山 我祖所闢 欝乎蒼翠 有巍有奕

子々孫々 宜永保有 茲建豐碑 興山不朽

明治四拾四年九月

從三位子爵毛利高範撰並書 

解説

城山還原[1]之碑

慶長6年[2]我祖 養賢公[3]就封相攸於佐伯之邑 築城於鶴谷之山名曰城山山抜海約180尺[4] 廣凢(およそ?)40陸町周1里強 前臨市街 後負白[5] 東控灘山[6] 南則久部長瀬一帯[7] 平野屹[8]為邑巨鎮矣

公下世後[9]伝11代260余年至

温良公[10] 明治初年 奉還藩籍山亦為官有及余継統以為此山城址所存墳墓所[11]一朝而失之雖[12]時勢使然不[13]今復之非所以敬

祖先之道且恐其草創之蹟終帰湮[14]耳乃以22年9月具状[15]於官請償還至34年2月始有准之命 嗚呼城山一失而再得之

列祖在天之霊其喜可知也 而余報本反始之念 亦於是乎達矣因叙其梗概[16]以諗来茲銘云

鶴谷之山 我祖所闢[17] 欝[18]乎蒼翠[19] 有巍[20]有奕[21]

子々孫々[22] 宜[23]永保有 茲建豊碑 興山不朽

明治44年[24]9月

從3位子爵毛利高範撰並書


[1] 還元におなじ。もとにもどすこと

[2] 西暦1,601年

[3] 佐伯藩の初代藩主はキリシタン大名である毛利高政である。慶長6年に佐伯城の築城に着手した。養賢公とは毛利高政のことを指すと推測されるが詳細不明

[4] 約54.54m

[5] 詳細不明

[6] 大分県佐伯市の灘山のことだと思われる

[7] 詳細不明

[8] そばだつ。そびえたつ

[9] 下世(かせい)とは死ぬこと。養賢公が死んだ後も11代260年治世が続いたということ?

[10] 佐伯藩の最後の藩主は毛利高謙(もうりたかあき)。佐伯第12代藩主で、版籍奉還(明治維新に伴い土地と民を朝廷に返還すること)を行った。温良公とはこの毛利高謙のことかと思われるが詳細不明

[11] ひとつの、などの意味を持つ漢字のようだがここでの意味合いがわからない

[12] いえども。ただ~

[13] ふたい。行き届かないこと

[14] いんめつ。ことごとく消えてしまうこと

[15] ぐじょう。詳しく書き述べる文書

[16] こうがい。あらまし

[17] ひらく

[18] しげる

[19] そうすい。樹木が青々と茂る様子

[20] ぎ。山が高くそびえるさま

[21] えき。やく。かさなる、美しいなどの意味

[22] ししそんそん。末代まで

[23] よろしく~すべし?(当然、ぜひとも、必ずなどの意味?)

[24] 西暦1911年

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