大佐の戦後開墾(黒石原飛行場)

熊本県合志市の戦跡

2023年3月 熊本県合志市を訪ねました。豊岡地区の黒石原には、かつて陸軍西部教育隊が置かれました。最後の隊長は棚橋真作大佐です。彼は、戦後、いまだ戦いをやめぬ若手将校の「尊王義勇軍」を命がけで説得。決起を思いとどまらせました。また、戦後、この地を開墾し、新開地区と名付け、多くの復員兵などを飢餓から救い、復興のきっかけとしたのです。彼が創建した新開神社が地域に守られながら残っています。ちなみに、彼は、復興のめどが立つと、自決しました。

関連写真

扁額

碑文

由来

新開神社の由来

このお社(やしろ)は昭和十九年(一九四四年)、元西部軍管区教育隊長として赴任した棚橋眞作大佐が、戦地に散った部下の将兵の英霊を奉るとともに、国の将来に希望を託し、永久の平和と地域の発展と人々の幸せを願い、ここ新開(現 合志市須屋)の地に建立しました。

棚橋大佐は昭和十七年、歩兵第一一二連隊長(九亀部隊)としてビルマ(現 ミャンマー)戦線におもむき、英国、インドの連合軍と再三にわたり交戦。最後は食糧、兵器とも補給のないまま、最前線の「棚橋連隊」は兵力の半教以上を失う窮地に立たされました。大住はこれ以上無理な戦闘を続け戦死者を出すことは、日本軍、ひいては日本の将来にとって損失になるという大局的な見地から連隊の撤退という苦渋の決断をしました。

昭和十九年六月、軍命令で帰国した大佐は、四国・丸亀を訪れ一足先に帰国していた連隊副官が調達してくれた軍馬に乗って戦死した将兵の遺族を一軒づつ尋ね歩き、連隊長として尊い命を死に至らしめた不明を涙ながらに詫びるとともに、自らの責任を任じ、死をもって償うことを心に誓いました。

昭和二十年の終戦を機に自決を考えましたが、大佐にはその前にやっておきたい仕事がありました。戦争で荒廃した日本に復員する将兵や引揚者の食糧を確保する為、黒石原の教育隊演習場を開墾することでした。開拓の許可を熊本県から取るため日夜奔走し、許可がおりると、この地を「新開開拓地」と名づけました。

開拓への準備が整ったのを見届けた大佐は、かねてからの決意を胸に昭和二十一年二月十三日未明自決を決行しました。戦争という行為が、自国のみならず相手国にも悲惨な結果をもたらすことを自らの死をもって伝えたかったのでしょう。

辞世

「国破れ 何の命ぞ たらちねの 弓矢の道を 我は行くなり」

平成二十三年 九月 吉日 建立 

碑文

碑文

ここ新開区は、旧軍用地の跡地である。昭和二十年終戦になるや、復員や海外からの引揚げが開始された。当時我が国土は荒廃し、食料や生活物資も欠乏し国民生活は困窮していた。

西部軍教育隊隊長の棚橋眞作氏はこの実情を憂い、この演習場跡地の山林原野を開墾し食糧の生産をと志し、これに応じた者は空いた兵舎に移り住み共同農作業に参加した。昭和二十一年、政府の緊急開拓事業が実施され、同年四月黒石原開拓団として起耕式が行われ、ここ黒石原の原頭に立った開拓者達の鍬が、広漠たる大地を拓き始めたのである。昭和二十六年に黒石開拓農業協同組合を設立、当地区は二十余戸の開拓農家とその縁故家族等で里を構成する、三十数戸の居住区となり、新開区との地区名で呼称される集落となる、以後開拓は着々と進展し畜産農業を主体とした農村集落としての地域体制が確立された。

その後、移り行く時代の変遷に伴い、当地区も農業地区から混住地区へと、さらには住宅地区へと居住環境は様変わりした。住宅団地の造成により、此処を郷土と定めて居住する人々が増え、新開区の戸数も増え六百戸の大集落となるに到った。今般防衛庁基地周辺整備事業による新開街区公園の竣工にあたり、戦後の困窮時代に開拓者としてこの地区に入植し、営農に励んだ先人たちの偉功を偲び、今後とも当新開区が良好な地域社会を維持し、住み良い里となることを祈念し、此処に新開開拓記念碑を建立した。

平成十五年一月吉日 文 野田十三生

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