向田天満宮日露戦役紀念

大分県国東市国見町

2023年3月 大分県国東市(くにさきし)を訪ねました。国見町向田に天満宮があります。ここに日露戦役紀念があります。1904年に始まった日露戦争は、その勝利によって、日本を一等国に押あげました。そして、その後、日本はさらに大きな戦争へと歩みを進めてしまうのです。そんな時代の転換期の足跡を感じさせる碑です。台座には兵士の名が刻まれています。陸軍中将・井上光の書です。

関連資料

台座

神社

碑文

日露之戰在討危東洋之平和欲併吞満州者日露之戰不能不起也明治卅七年二月十日宣戰海軍則始之於仁川海爲旅順攻撃爲閉塞封爲釜山沖激戰同卅八年五月廿七日遂殲滅敵艦隊於日本海々軍以此日爲記念陸軍則始之於鴨緑江渡河戰走九連城之敵進軍他軍則漸迫旅順攻圍彌月遂使敵將開城降伏實同年一月一日也自是全軍合擊占領遼陽大敗之於沙河遂奉天矣則是爲同年三月十日陸軍以此日爲記念其他大小數百戰于海于陸未甞一敗盖皆知有君國而不知有我躬故克濟艱難竟克復平和其忠魂義凛實日月偉勲鴻績光于古今於烈也夫爰當建碑記述日露交戰之梗槩云爾

明治四十年七月一日

城源常山誌

解説

日露之戦在討危東洋之平和欲併吞満州者日露之戦不能不起也

明治37年[1]2月10日 宣戦海軍則始之於仁川[2]海為旅順攻撃[3]為閉塞封鎖為釜山(プサン)沖激戦

同38年5月27日 遂(ついに?)殲滅(せんめつ)敵艦隊於日本海々軍以此日為記念 陸軍則(すなわち?)始之於鴨緑江渡河戦[4]走九連城[5]之敵進軍 他軍則(すなわち?)漸(ようやく?)迫旅順攻圍彌月遂使[6]敵将開城降伏 実同年1月1日也

自是全軍合擊占領遼陽[7]大敗之於沙河[8]遂陥(おとしいれる?)奉天[9][10]則是為同年3月10日[11]陸軍以此日為記念 其他大小数百戦 于海于陸[12]未甞(いまだかつて?)一敗[13]盖(けだし?)皆知有君國而不知有我躬[14]故克済艱難[15]竟(ついに?)克復平和其忠魂義凛実日月偉勲鴻績(こうせき?)光于古今於烈也 夫爰[16]当建碑記述日露交戦之梗[17]云爾

明治40年[18]7月1日

城源常山誌[19]



[1] 西暦1904年

[2] 韓国の仁川(インチョン)のことだろうか?

[3] 明治37年、ロシア帝国の要塞があった旅順(りょじゅん)を日本軍が攻囲した戦いのことと考えられる

[4] おうりょくこうとかせん。鴨緑江は中国の川。日露戦争時、満州に向かうため鴨緑江を渡ろうとした日本軍と阻止しようとするロシア軍との間で発生した戦闘

[5] くれんじょう。鴨緑江のほとりにある町で、鴨緑江戦蹟と呼ばれる忠霊塔が残っている

[6] ここでは、敵将をして開城降伏せしむと読む?

[7] 1904年 遼陽(りょうよう)会戦

[8] 1904年 沙河(しゃか)会戦

[9] 1905年 奉天会戦のこと?

[10] や。断定・疑問・感嘆などの意味の助詞?

[11] 日本軍が奉天を制圧したこの日は、翌年に陸軍記念日と定められた

[12] 詳細不明。漢字の読み取りが間違えているのかもしれない。海においても陸においても?

[13] 血に蜀という漢字だが、該当するものが見つからなかった

[14] みずから。み

[15] かんなん。困難にあい苦しむこと

[16] ここに?

[17] こうがい。あらすじのこと

[18] 西暦1907年

[19] 詳細不明

地図

googlemapより