日露出征の記念鳥居

福岡県 築上郡 築上町 金富神社


2022年2月 福岡県の東部、築上郡築上町の金富神社を訪ねました。金富神社は全国の八幡神社の総本山宇佐神宮の元宮です。八幡神は戦いの神でもあります。ここには、地域(湊区)の出征の記念鳥居が残されています。明治37年、つまり1904年は日露戦争開戦の年です。「神皇威徳服満韓」の刻字も見られます。地域から戦いに送られた若者たちの名が刻まれています。

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鳥居

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説明文

三世紀の頃、規矩、田川、京都、仲津、築城の五郡の地域に豊国があり、主祭神を息長大姫自命とも豊比咩玉依姫とも唱えて、辛島、長光、赤染等の同族によって斉き祀られていた。京都郡に栄えていた辛島族は三世紀の中頃に南下を始めて、当時下毛上毛の二郡の地域にいて海神を祭る山国族と接触しこれと融合して共同の祭神として「ヤハタノ神」を創祀した是れはヤマトヨ国の国魂の神であって、その地は綾幡郷(椎田町)の中央にあり、ヤバトヨ、ヤバタ、ヤハタと呼ばれた。此の社が矢幡八幡宮であって当金當八幡宮は、その古代宮趾である。其の後五世紀の頃、辛島族は矢幡の神を奉じて下毛郡髙瀬に停まった。此の社が髙瀬の矢幡八幡宮である。更に南下して宇佐郡辛国宇豆髙島に遷座した此の社が酒井泉社である此の故に金富社を第一次、泉社を第二次原始八幡神の創祀と呼んでいる。此の地に於て辛島族は三女神を奉ずる宇佐族と統合して一時期小椋山(小倉山亀山とも云う)に共通の族神を奉斉した。

此の新たに創祀の族神を比咩神と唱え第三次原始八幡神が是である。次で六世紀の末頃に大和の大神此義によって応神八幡神が発現され宇佐浜に上陸して茲に大神辛島宇佐族の統合がなされ八世紀に応神八幡神が小椋山(小倉山)に創祀された。降って人皇の時代となり貞観元年に石清水八幡宮の勧請のことがあり此時より始めて宇佐八幡宮と稱えられることになった、当社は宇佐八幡宮の元宮とも言う可き原始八幡神顕現の霊地であって他に類を見ないものである。

社伝に日く聖武天皇の神亀元年豊前守男人藤井連毛、人勅を奉じて字佐小倉山に神殿を造営す神託に依って築城郡安歧之水戸(一名赤坂湊)金富岡に神幸あり、三間の假殿を造り榊山御滞在の上斧立の行事ありそれより本庄村に於て杣立ありてまた当社還幸あり、その時より初めて大神首人字佐より耒ってこの聖地に社殿を建立して八幡神を勧請し奉る是「日本勧請之最初也」故に宇佐宮神殿再興の節は当社に行幸あること旧例なり宇佐宮斧立の事並に当社行幸の事は「往昔之神秘也」また、宇佐宮勅祭の行はるる年は、本宮より必らず当社に参向せらるる事「往昔之縁由」に依り永く恒例となすと謂ふ。当社の特殊神事に初卯祭あり毎年二月初卯の日に榊山の神籬台を奉じて村内を巡幸す。蓋し二月初卯と言へるは八幡神発現の日であり宇佐宮の最も尊重する日であってこの八幡神に縁因深い重要な日に榊の幣台を奉持して巡幸する事例は全国の神社には見られない床しい祭式である。是は原始八幡神の創祀せられた住古の祭祀の原始形態を留むる貴重な神事として今尚伝承されている。

本記は中野幡能著「八幡信仰史」による

寄贈 有田 健 安部晋司

平成二十七年十一月吉日

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