妻垣神社の忠魂碑と戦没者墓地

大分県 宇佐市 安心院町

2022年10月 大分県宇佐市を訪ねました。安心院町の妻垣神社忠魂碑があります。10mの高さをもつ巨大な碑です。これは、地域から日清・日露・日中戦争・太平洋戦争で戦死した若者たちの碑です。戦後、1953年から工事が始まりました。これは、遺族の方々が参拝する場所が遠(大分市護国神社)参拝しにくいという理由から、建設が始まったものです。揮ごうは桂太郎・陸軍大臣(のちに総理)です。周囲には安心院出身の222人の墓碑があります。世界の様々な場所で、若者たちが散っていったことを感じさせられます。砲弾も奉納されています。

関連写真・資料

碑と私


忠魂

墓碑

奉納砲弾

戦跡写真部

鳥居扁額

江戸時代の鳥居柱

狛犬「あ」

狛犬「うん」

戦没者墓地砲弾奉納

戦没者墓碑

狛犬「あ」

狛犬「うん」

由緒

妻垣神社由緒

鎮座地 字佐市安心院町妻垣字大門二〇三番地

祭神 比咩大神(1)(玉依姫命) 八幡大神(2)(応神天皇) 神功皇后(3)

元宮(4) 足一騰宮(5) この妻垣の地は、我が国最古の歴史書「古事記」にも「日本書紀」にも神武天皇がこの地に立ち寄られたことが記されています。神武東征のおり、宇佐国造の祖、宇佐津彦命と字佐津姫命の兄妹がお迎えし、足一騰宮を建てて歓待申し上げたのです。

 比咩大神 神武天皇がこの地に滞在なさったおり天皇みずから祭祀を行われ、母后玉依姫命を、ここ共鑰山(別名―妻垣山)にお祀りし、そこを「足一騰宮」と名付けられました。このことより当社の主祭神は玉依姫命であり、比咩大神という神名で人々に称えられました。また天平五年(七三三)、比咩大神は宇佐宮二之御殿に祀られます。このことより当社は、宇佐宮二之御殿の元宮ともいわれています。

八幡大神 宇佐宮の「八幡字佐宮御託宣集」によれば天平神護元年(七六五)、八幡大神こと八幡大菩薩はこの地に神幸(6)し比咩大神と語り合われた、とあります。八幡大菩薩が御神託を下し、勅使石川朝臣豊成に命じて神殿を共鑰山麓に創建させ、比咩大神と八幡大神をお祀りしましたのが、妻垣神社のはじまりであります。

神功皇后 天長年間(八二四〜八三四)に宇佐宮三之御殿より神功皇后を勧請(7)しお祀り申し上げました。以来、当社は比咩大神、八幡大神、神功皇后の三柱の神を祀って八幡社と号し、宇佐宮八ケ社の一社となっております。

嘉暦三年(一三二八)、足利尊氏は武運の再興を願って宇佐宮に参籠(8)し、当社で流鏑馬の神事をとり行いました。

天正九年(一五八一)、豊後大友軍の兵火によって社殿、神宮寺のすべてを焼失しましたが、その後、中津城主黒田長政公によって社殿が再建されました。

明治十二年(一八七九)九月十七日、当社は縣社(9)に列せられ、宇佐両院の宗社(10)として今日に至っております。

(1)ひめおおかみ(たまよりひめのみこと)。ひめおおかみは特定の神名ではなく、地元で祀られる女神のことを全般的にこう呼称するようだ。たまよりひめのみことは神武天皇の母親とされている

  (2)はちまんおおかみ。応神天皇(第15代天皇)のことで、神仏習合により八幡大菩薩とも

 (3)じんぐうこうごう。応神天皇の母親

  (4)参拝に便利なように、もともとの本殿を麓に移すことがあり、この場合旧本殿を奥宮(元宮)と呼ぶことがあるようだ

  (5)あしひとつあがりのみや。宮の片側は川の中、もう片側は岸辺に位置するつくりであったことから、「片足が陸に上がっている」という意味合いの名称であるようだ

 (6)看板読み仮名では「みゆき」と記載されていた。神幸(しんこう)は、神体が他の神社に移動する、あるいは神が臨行するの意味

  (7)かんじょう。神仏の分霊を別の地にお迎えし祀ること

  (8)さんろう。神社などに籠り神仏に祈願すること

 (9)けんしゃ。旧制度における神社の社格のひとつ

 (10)そうしゃ。宗社は国家を意味する言葉のようだがここでは意味が異なるのではないかと思われる

忠魂碑説明文

忠魂碑

明治37〜38年(1904〜1905)にかけて、多くの戦死者を出した日露戦争においては、この旧宇佐郡の地からも約450名近くの兵士が出征し、数十名の戦死者を出した。亡くなった兵士たちは東京都の靖国神社、大分市の護国神社において、英霊として祀られることとなるが、この地に住む遺族たちは交通の便が悪いため、容易に参拝することが出来ない状況であった。

この状況を憂いた地元有志者たちは、この地で招魂祭を行うため、妻垣神社の隣接地に忠魂碑を建立する事を決意する。明治44年 (1911)4月、宇佐神宮宮司、妻垣神社宮司、妻垣神社総代、在郷軍人、旧宇佐郡10ヶ村の村長、地元有志が発起人となり、忠魂碑建設の寄付活動が始まる。同年9月には工事が着工し、同年10月21日に見事完成。12月18日には1000人をも超える参列者のもと、第一回目の招魂祭が盛大に斎行された。

その後は毎年8月に招魂祭を斎行し、遺族、在郷軍人を始め、地域全体で戦没者を慰霊してきた。戦後は各自治体で毎年、慰霊祭を斎行してきたが、少しずつ戦争を経験した者が減ってきたため、中断することとなる。忠魂碑建立より百年が経過した平成23年(2011)、妻垣神社主催による「宇佐両院戦没者慰霊祭」として復活し、今日に至っている。


忠魂碑概要

戦没者・・・建立当初は明治維新〜日露戦争までの旧宇佐郡出身の戦没者を祀る。

その後、日中戦争、太平洋戦争で戦死された御霊を加え、計1071柱となる。

(旧安心院町658柱 旧院内町413柱)

建立地・・・宇佐市安心院町妻垣字宮ノワキ一八一番

高さ・・・三丈一尺(約9m40cm)

広さ・・・一反五畝十一歩

寄付金額・・・3000円

発起人・・・宇佐神宮宮司、妻垣神社宮司、妻垣神社総代、旧宇佐郡の十ヶ村の村長、在郷軍人、地元有志

上段の穂石・・・妻垣神社本宮である共鑰山の中腹より氏子の手に よって搬出

揮毫者・・・陸軍大将公爵桂太郎


桂太郎が揮毫した経緯

碑を建立する際、揮毫に関しては地元出身の陸軍大将に依頼するのが通例である。しかしながら、この碑に関しては山口県出身の政治家桂太郎氏によるものである。桂氏はニコポン宰相として国民に親しまれた内閣総理大臣である。当時、地元出身の政治家、木下謙次郎氏が貴族議員・衆議院議員として中央政界に進出した際、桂氏と出会い親交を深めている。桂氏が病の際には安心院のスッポンを送っていたこともあり、木下氏から 桂氏へ忠魂碑の揮毫を依頼したと思われる。

平成27年8月吉日

宇佐両院の戦争遺産を守る会

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