大砲製造の反射溶鉱炉

大分県 宇佐市 安心院町佐田神社


2022年10月 大分県宇佐市を訪ねました。安心院町の佐田神社反射炉の跡が残されています。この反射炉は主に鉄を作るための物です。幕末、海外からの圧力が強ま、外国船に対抗するための大砲が必要となりました。技術に劣っていた日本でも、研究開発がされていきます。その一つが、反射炉です。これは、燃料を燃焼させて生じた熱を反射させ、溶鉱炉へと送るシステムです。それは、日本と外国との接点が生んだ戦いの第一歩だったとも言えます。

関連写真・資料

碑と展示室


溶鉱炉の産出物

碑文

反射炉のレンガ

碑文

反射爐碑

有老樹焉欝荵劈碧空望之者徒嘆美其魁偉而忘有其曾播種植苗之人世間之事亦率類此嘉永之交外舶頻窺我邊境是以海防之論日盛巨砲之要盆迫我祖考惟熊篤志利用厚生以報効為念萬里帆足先生深信惟熊父子為人説之以反射爐之舉當時九州創此業者只有麑嶋佐賀二藩耳其他無可魷問之人惟熊憂之先生万薦同藩砲術家闗讃造〇千顧問讃造即赴長﨑介通事山本某問鑄砲術千蘭人適惟熊從弟賀来佐之為督官在嶋原為惟熊説千藩嘉永六年藩命惟熊鑄造大砲於是惟熊使長子惟寧主任経営次子惟準三子三綱分擔作業安政二年設工場於伏田営之臺瓶築反射爐村人欣躍援之初閐爐也成績不如豫期交復試験焦心凝恩遂不得其法仍使三綱赴佐賀請見爐藩秘不允三綱窃攀其後山俯〇之煤煙濃密有異臭三綱謂是用石炭也耳歸來斥木炭採石炭千田川郡始得鎔銷之術爾後三年之間以銃鐵鑄造六封度砲四門十二封度及十八封度砲各二門又應馬関之士大塚麓齋之嘱製六封度砲二門我反射爐之名聲漸喧傅於世諸藩

反射爐碑 (※1)

有老樹焉 欝荵 (※2)劈 (※3)碧空 (※4)望之者 徒 嘆美 (※5)其魁偉 (※6) 而 忘有其曾播種植苗之人 世間之事亦 率類此

嘉永 (※7)之交外舶 (※8)頻窺 (※9)我邊境 是以海防之論日盛 巨砲之要盆迫 我祖考 (※10)惟熊 (※11)篤志 (※12)利用厚生以 報効 (※13)為念 (※14)萬里帆足先生 (※15)深信惟熊父子為人説之以反射爐之舉

當時九州創此業者只有麑嶋 (※16)佐賀二藩耳 (※17)其他無可魷問之人惟熊憂之先生 (※18)万薦同藩砲術家闗讃造 (※19)〇千顧問 讃造即赴長﨑 介通事 (※20)山本某問鑄砲術千蘭人 (※21)

適惟熊從弟 (※22)賀来佐之 (※23)為督官在嶋原 (※24)為惟熊説千藩 嘉永六年 (※25)藩命惟熊鑄造大砲 於是惟熊使 長子惟寧主任経営 次子惟準三子三綱分擔作業

安政二年 (※26) 設工場於佐田営之臺 (※27) 瓶築反射爐 村人欣躍 (※28)援之 初閐爐也成績不如豫期 (※29) 交復試験焦心凝恩 遂不得其法 仍 使三綱赴佐賀請見爐 藩秘不允 (※30) 三綱窃攀 (※31)其後山俯〇之 煤煙濃密有異臭 三綱謂是用石炭也 耳歸來 (※32)斥木炭採石炭 千田川郡 始得鎔銷 (※33)之術

爾後三年之間 以銃鐵 鑄造六封度 (※34)砲四門 十二封度及十八封度砲各二門 又 應馬関之士 大塚麓齋之嘱製六封度砲二門 我反射爐之名聲 漸 (※35)喧傅於世 諸藩


(1)反射炉は鉄の精製などに用いられる炉である。佐田の反射炉については以下のサイトを参照(2022年11月9日閲覧)http://www.oct-net.ne.jp/sada_m/p05/p05_013.html

(2)欝(うつ)は草木などがしげるさま、荵(しのぶぐさ/にん)はすいかずらなどの植物の名  前。よって、「生い茂るかずら」のような意味

(3)へき。さく、つんざく

(4)青空

(5)たんび。ほめそやすこと

(6)かいい。大きくてたくましいさま

(7)かえい。江戸時代の元号。1848年~1854年

(8)がいはく。外国船

(9)うかがう、のぞき見る

(10)そこう。亡くなった祖父

(11)これたけ。賀来惟熊 (かく これたけ)は宇佐にて大砲鋳造を成功させた人物(1796年~1880年)

(12)あつい志を持つこと

(13)功を立てて恩に報いること

(14)念となす。記憶に留め続けるといった意味合いで使われているのか

(15)帆足萬里のこと。帆足萬里(1778年~1852年)は日出藩出身の高名な儒学者である。惟熊は帆足万里のもとで学び、彼の勧めによって大砲の鋳造に挑んだ

(16)佐賀に鹿島市という城下町があるが、当時反射炉があったのは九州では佐賀と鹿児島であったかと思うので、もしかしたら鹿児島のことだろうか?

(17)耳はここでは限定の「のみ」

(18)ここでは帆足万里のことだろうか?

(19)関讃造

(20)通訳。特に、長崎で通訳などの業務にあたった江戸幕府の役人のことを指す

(21)オランダ人

(22)いとこ

(23)かくすけゆき。蘭方医として活躍した。

(24)島原のことか?

(25)西暦1853年

(26)西暦1856年

(27)佐田のどこか小高い場所か?地名なのか?詳細不明

(28)きんやく。小躍りするほど喜ぶこと

(29)予期

(30)ゆるす?

(31)よじる。よじ登る?

(32)きらい。帰って来る

(33)ようしょう。銷は溶かすの意味

(34)ポンド

(35)ようやく、だんだん

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 立派な大木がある。盛んに茂り青空に伸び上がるかずら?葉?を見上げる人は、いたずらにその立派さをほめそやす。しかし、最初に木の種を蒔き苗を植えた人がいることを忘れている。世間のこともまた、これに似ている

 嘉永の時代、外国船が行き交い頻繁に我が国境?沿岸?を脅かした このため海防の重要性が盛んに唱えられるようになり、巨大砲の必要に迫られるようになった。我が祖父である惟熊は厚生を利用し、功を立てて恩に報いることを重視していた。

(※文章がきちんと読解できないため詳細不明だが、①嘉永の時代海防の必要性が増す。巨大砲が必要になった②惟熊およびその子、帆足万里の名前が登場 程度の情報は読み取れそうだ)

 当時、九州では大砲を造れるのは鹿島と佐賀の二藩だけだった。惟熊はこれを憂慮していた?帆足万里先生は同藩砲術家関讃造を〇〇顧問に推薦した。讃造はすぐに長崎に赴き、山本とかいう通事を介してオランダ人に鑄砲術について問うた。

(※こちらも文法等わからないため正しく読み取れていない可能性があるが、砲術家の関讃造という人物が長崎に行き、オランダ人から大砲を鋳造する方法を学んだといった内容が書かれているようだ)

 惟熊のいとこである賀来佐之は島原にいたが、惟熊のため藩にかけあった。嘉永6年、藩は惟熊に大砲の鋳造を命じた。惟熊は長男の惟寧に主任経営を任せ、次男惟準と三男三綱に作業を分担させた。

 安政2年、佐田の〇〇に工場を設立し、反射炉を築いた。村人たちは小躍りして喜びこの事業を応援した。しかし鋳造開始当初?成績は予期したようにならなかった。試験を繰り返し、やきもきしつつもうまく鋳造する方法が分からない。そこで三綱を佐賀に向かわせ、炉の見学をお願いしたが藩は秘密にして許可してくれなかった。三綱は後山?にこっそり登り山上から見下ろしてみた。すると、濃い煙が立ち上り異臭がした。これは石炭だと考えた三綱は、帰還し木炭による鋳造を中止、石炭を採用するようにした。〇〇郡は初めて鎔銷の方法を体得したのである)

 以後3年間、6ポンド砲を4門、12ポンド砲と18ポンド砲をそれぞれ2門鋳造した。また、〇〇である大塚麓齋に依頼され6ポンド砲2門も製造した。我が反射炉の名声は次第に世間に広まり、諸藩)

【参考】

「鋳造工学 第80巻8号 『江戸幕末における反射炉』」

(中野俊雄,2008,

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfes/80/8/80_494/_pdf/-char/ja

《2022年11月13日閲覧》)

に、本石碑の内容等が詳しく書かれており(p5参照)、参考にさせていただいた。

それによれば「諸藩・・・」以降にも石碑の文章は続いているようである。裏面だろうか?


戦跡写真部

反射炉説明板

案内板

社号標

亀の台座

耐熱煉瓦塀

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関連動画

解説