征清紀念碑

大分県豊後高田市春日神社

2022年10月 大分県豊後高田市を訪ねました。春日神社に征清紀念碑があります。日清戦争の勝利を記念しての石碑です。明治30(1897)年4月の建立です。4mほどの高さの大きな石碑の文字は、陸軍中将・茨木惟昭(いばらき これあき)の書です。彼は、和歌山県出身で、西南戦争、日清日露の戦争を経験しています。近代戦で「眠れる獅子」と言われた清を破った日本は、その後、日露、第一次、第2次大戦と進んでしまうのです。軍部と神社との関係をうかがえる貴重な資料です。

関連資料

社殿

鳥居と私

中将・茨城惟昭

由緒

三笠山 春日神社 由緒

祭神 春日四柱大神

鎮座地 豊後高田市草地三笠山五二〇六番地

例祭 四月十五日(春日祭)

宝物 潮汲み神事絵巻、木造獅子形、翁面、龍虎図屏風

史跡 潮汲み神事祭場(大字呉崎)

境内社 八坂神社(祇園社) 厳島神社(弁天社)

由緒 いまから約一千二百年前の大同四年(八〇九年)、雷鳴と稲光のなかに白髪の老翁が白鹿にまたがって現れ、「我は三笠山に住める翁ぞ」と告げて南東に飛び去りました。これぞまさしく南都春日大明神の神霊であるとして、社殿を建立したのが当社のはじまりとされています。

以来、豊後守護職である歴代大友氏は当春日社を特別に崇敬し、獅子形一対や翁面などを奉納したり神幸祭を始めとした年中の祭事を整えました。途中、耶蘇教におぼれた宗麟の虐政により四殿並立の本殿ほか社殿社地は焼きはらわれてしまいましたが、氏子による宝殿一宇の再建を契機に、細川・小笠原・島原松平家等の藩主の庇護を受けて再び社勢を取り戻し、明治維新を迎えました。

明治六年に郷社に列格、同三十九年には神饌幣帛料供進神社の指定など、西国東を代表する神社の一つとして内外の崇敬を受けつつ大正十年に拝殿の改築や諸社殿の改修を行い、現在見るたたずまいとなりました。 またこの時代に、当地草地には川面学問所や涵養舎といった県北きっての教育施設があったことから、とりわけ学問をそして児童生徒を守護する教育の神として広く信仰されてきました。

しかしその後は、戦後の過疎高齢化や老朽化した社殿など厳しい運営が続いていましたが、平成十二年に奉賛会を結成して募金に着手、「平成大改修事業」として本瓦葺きでのお屋根替えや神輿の新調そして神社誌の刊行を行い、ご社頭の面目を一新しました。さらに引き続いて駐車場の整備や三笠山の植樹といった事業を実施するなど、県内最古の春日社である当社のご神威は益々高くご神徳の発揚は弥増しています。


【カタカナ→平仮名 意味整理】


三笠山 春日神社 由緒

祭神 春日四柱大神

鎮座地 豊後高田市草地三笠山五二〇六番地

例祭  四月十五日(春日祭)

宝物 潮汲み神事絵巻、木造獅子形、翁面、龍虎図屏風

史跡 潮汲み神事祭場(大字呉崎)

境内社 八坂神社(祇園社) 厳島神社(弁天社)

由緒 いまから約一千二百年前の大同四年(八〇九年)、雷鳴と稲光のなかに白髪の老翁が白鹿にまたがって現れ、「我は三笠山に住める翁ぞ」と告げて南東に飛び去りました。これぞまさしく南都春日大明神の神霊であるとして、社殿を建立したのが当社のはじまりとされています。

以来、豊後守護職である歴代大友氏は当春日社を特別に崇敬し、獅子形一対や翁面などを奉納したり神幸祭を始めとした年中の祭事を整えました。途中、耶蘇教 におぼれた宗麟の虐政により四殿並立の本殿ほか社殿社地は焼きはらわれてしまいましたが、氏子による宝殿一宇 の再建を契機に、細川・小笠原・島原松平家等の藩主の庇護を受けて再び社勢を取り戻し、明治維新を迎えました。

明治六年に郷社 に列格 、同三十九年には神饌幣帛料供進神社 の指定など、西国東を代表する神社の一つとして内外の崇敬を受けつつ大正十年に拝殿の改築や諸社殿の改修を行い、現在見るたたずまいとなりました。

またこの時代に、当地草地には川面学問所や涵養舎といった県北きっての教育施設があったことから、とりわけ学問をそして児童生徒を守護する教育の神として広く信仰されてきました。

しかしその後は、戦後の過疎高齢化や老朽化した社殿など厳しい運営が続いていましたが、平成十二年に奉賛会を結成して募金に着手、「平成大改修事業」として本瓦葺きでのお屋根替えや神輿の新調そして神社誌の刊行を行い、ご社頭の面目を一新しました。さらに引き続いて駐車場の整備や三笠山の植樹といった事業を実施するなど、県内最古の春日社である当社のご神威は益々高くご神徳の発揚 は弥増し ています。

関連地図(googlemap)

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