初の海軍軍神

大分県竹田市広瀬神社

2022年2月 大分県竹田市を訪ねました。ここに広瀬神社があります。実は、主神は広瀬武夫中佐です。彼は、日露戦争の英雄だったのです。旅順での作戦に指揮官として参加し、不明となった部下を探し、戦死したのです。(参考:日露戦争・報国丸マスト/大分県別府市 )彼はその行為や人柄から、文部省唱歌や教科書にも掲載される軍神とされたのです。竹田は彼の出身地です。

関連資料

碑銘

鳥居

カッター船

説明板

海軍中佐広瀬武夫

広瀬武夫こそ 真に九州男児の名にふさわしい人物の一人であろう。素朴な人柄は剛健・豪胆にして優しきを併せもち、さわやかな、知性あふれる文学青年であった。

彼は軍人となった。九州は古来、大陸に接するため攻防の前線として 度々外患 (1)に遭った。

即ち1019年、刀伊 (2)(女真)の侵攻あり、1274年蒙古・高麗 連合軍の侵入(文永の役)と、1281年、元軍(14万人・軍船1400艘)による第二次大襲来(弘安の役)は、対島 ・壱岐 ・北九州に上陸を許して激甚なる被害をうけた。弘安の役では2ヶ月余に及ぶ戦闘の後、幸いに大風雨起り辛うじて敵船を退けたものの、為に国力は大いに疲弊した。このとき北元州治岸に築いた長大なる石築地 (3)に多くの防人を集め、以後ますます備えをかためるに至った。自然、九州人は大陸と一衣帯水 (4)の国境にあって外に向って身構える。

幕末・明治に入り外国列強は競ってアジアに勢力を拡張し、小国日本の行方は大海の激浪にもまれる笹丹の如く、国際情勢は往時 (5)と比較すべくもなく激動の時代に入っていった。


明治の人・広瀬武夫は、元冠の役に善戦した筑紫菊池氏の流れをくむ。時代は変れ、先祖が元冠に備えて鍛造 (6)した菊造千本槍 (7)の穂身を改めて佩剣 (8)とし、常に護国の信念を固めたのであった。

広瀬武夫は日露開戦を阻止せんとして及ばず、開戦直後旅順口閉塞 作戦に二度までも死地におもむき、弾丸雨飛の洋上で沈みゆく福井丸の船中を部下杉野兵曹長を三度探し求め、遂に敵弾に散って還らぬ人となった。この人間愛と界敢にして沈着なる行動は、生前の人となりを物語る数々の書簡や遺品によって、さこそと容易に納得し得る。

広瀬武夫は独身にして36才10ヶ月の短い生涯ではあったが、「試」 一途のその豊かな人間性は時代を超越して永遠のテーマを我々に問 いかける。「愛」と「平和」と・・・。

(1)がいかん。外憂ともいう。外国から攻撃などを受ける心配→※内憂外患

(2) とい。外国の野蛮な民族等を意味する朝鮮語をそのまま用いたもので、女真族のことを指す

(3)いしついじ。石垣

(4)いちいたいすい。一筋の細い川くらいの隔たりしかないさま。間近に接しているさま

(5)おうじ。昔。過去

(6)たんぞう。金属を鍛えて何かしらつくること

(7)後醍醐天皇と足利尊氏が敵対した際、敗走する天皇軍のしんがりを菊池武重がつとめた。菊池軍は敵方に比べて少人数で不利だったが、周囲の竹で急遽こしらえた槍で対抗し敵を退けた。この戦いののち菊池氏は槍を大量につくらせるようになったが、これを菊造千本槍と呼ぶ。戦時中はこの槍を短刀にしてお守りとして使用することもあったという

(8)はいけん。腰に下げる刀剣

岡神社

時鐘記

此之地を彌五兵衛坂と稱せり

延寳三年(西歴一六七五)十月岡藩主中川四代久恒公此処に鐘楼を設けて此の鐘を備えて書夜十二刻を報じ併せて非常の戒とせり爾来春風秋雨二百五十余年に亘り鐘聲の絶える事なく嫋々たる余韻を詩の城下に響かしめたり。 鐘銘に曰く享保甲辰九歳二月六日鋳物師京堀河住嶋馬筑後大〇藤原氏重常味

昭和十年廣瀬神社創健に依り彌五兵衛坂の旧態を失うに至れり以後中川公縁りの当神社所管となる

郷社 岡神社

解説

時鐘記

此之地を弥五兵衛坂と称せり

延宝 (1)3年(西歴1,675)10月 岡藩 (2)主中川4代久恒公 此処に鐘楼を設けて此の鐘を備えて 書夜12刻 を報じ併せて非常の戒とせり

爾来 春風秋雨 (3)250余年に亘り鐘声の絶える事なく 嫋々 (4)たる余韻を詩の城下に響かしめたり。

鐘銘 (5)曰く 享保甲辰9歳 (6)2月6日 鋳物師京堀河住嶋馬筑後大〇藤原氏重常味

昭和10年 廣 瀬神社創健に依り 弥五兵衛坂の旧態を失うに至れり 以後中川公縁りの当神社所管となる

郷社 岡神社

(1)西暦1673年 ~1681年

(2)江戸時代、豊後国に存在した藩。竹田藩とも呼ばれる

(3)しゅんぷうしゅうう。長年

(4)じょうじょう。長々と低く響くさま

(5)しょうめい。鐘にしるした文章

(6) 享保9年(西暦1724年、干支は甲辰)のこと

GoogleMapより

関連動画

殉空の碑

日露戦争のマスト碑