小倉陸軍造兵廠・本部終焉の地

大分県日田市大原神社

2023年3月 大分県日田市を訪ねました。観光スポットでもある大原(大波羅)神社は、小倉陸軍造兵廠・本部終焉の地でもあります。東京にあった陸軍の工場・東京造兵廠が関東大震災で被災し、一部が福岡県の小倉に移されました。小倉に造られた陸軍工場(造兵廠)は約176,000坪もの敷地を誇った工廠で、小型戦車、小銃、機関銃、高射機関砲、砲弾、風船爆弾、化学兵器などを製造していました。40000人が従事していたそうです。太平洋戦争末期には、工場を疎開し、この日田にも工場が移転されたのです。(佐寺(さてら)地区にその一部の建物が残されています。また、秋山地区には地下工場も残されています)本部終焉の地がこの大原神社なのです。ここには造兵廠の守護神・錦春稲荷神社も移されています。

関連資料

錦春稲荷神社

碑と私

台座

漢文

縁起

錦春稲荷大明神略縁起

抑々稲荷大神は豊宇氣姫の神と申し衣食住の神として奉斎す

当錦春稲荷大明神は徳川五代將軍綱吉公時代に三代將軍の水戸家後楽園錦春門内の台地に兜一頭を埋め社を建て稲荷の大神を祭祀せらる。水戸邸が砲兵工廠となりても引続き祭祀を怠らず

昭和九年二月二十一日 東京より遷し奉り工廠の守護神とす

昭和十年四月十七日 遷座祭挙行

昭和二十年三月小倉造兵廠の主力を日田市に疏開すると共に 昭和二十年七月十日 日田市へ遷座さる

昭和二十年八月十五日終戦により軍の武装解除と共に造兵廠も亦解散することとなりたるによって 大原八幡宮の御高志に依り同境内に神殿を新築し遷座且祭祀を依託せり

昭和二十年九月識す

台座碑文

小倉陸軍造兵廠

本部終焉之地

 

日田市周辺

昭和二十年八月十五日

建立趣意書

明治 大正 昭和と国運隆昌期に於ける小倉陸軍造兵廠の功績と歴代從業員の鎮魂の誠意を含め且大原八幡宮の御厚志を青史の一頁に加えんが為に敢て建立す

元小倉陸軍造兵廠從業員有志

解説

小倉陸軍造兵廠[1]

本部終焉之地

 

日田市周辺

昭和20年8月15日

建立趣意書

明治 大正 昭和と国運隆昌(りゅうしょう)期に於ける小倉陸軍造兵廠の功績と歴代従業員の鎮魂の誠意を含め且(かつ)大原八幡宮の御厚志を青史[2]の一頁に加えんが為に敢(あえ)て建立す

元小倉陸軍造兵廠従業員有志


[1] ぞうへいしょう。兵器の製造などを担う役所もしくは工場の総称

[2] せいし。歴史

漢文

捧小倉陸軍造兵廠

栄枯一夢古城台

往事茫茫去不

龍爭虎闘雄図絶

恩讎千載使人哀

大分市明碩 住人 柳本百合夫(霊

解説

小倉陸軍造兵廠[1]に捧(ささ)ぐ

栄枯[2]一夢古城の台

往事[3]茫茫[4]去って回(かえ)らず

龍争虎闘雄図[5]絶ゆ

恩讎[6]千載[7]人をして哀しましむ

大分市明碩(あけがわら) 住人 柳本百合夫(霊


[1] ぞうへいしょう。兵器の製造などを担う役所もしくは工場の総称

[2] えいこ。盛衰のこと

[3] おうじ。昔

[4] ぼうぼう。はるかな・ぼんやりした

[5] 龍虎図のこと?竜闘虎争(りょうとうこそう)とは、力が拮抗した者同士が闘う様をいう

[6] むくいる?報復する・敵対する

[7] せんざい。千年・長い年月

関連地図