西曆2019年 5月 5日(日・祝) 個人電子書簡(Re: 恐ろしい事件...)

Subject: Re: 恐ろしい事件...

Date: 2019年5月5日(日・祝) 22:06 JST

〇〇さん

遅れ馳せ乍ら「あけおめ」。時代は令和元年ですね。▢▢▢▢大学は今年度から▽▽大学などの一部他大学に倣(なら)って「祝日開講」というのを始めたため、連休は本日(5/5)で終わりです。これは私が既に十年前から当時の学長や副学長(現理事長や現学長)に直接提言していたこと(月曜代替日でお茶を濁らせ時間割を狂わすのは良くないという発想)ですが、十年も経過して漸(ようや)く分かっていただけたようです。

>私と関わってきた人はモンスターばかりで本当に恐ろしいです。

思えば私もまるで衣替えをするかのように友人を乗り換えたことが度々(たびたび)あります。なんと今でもそうです。後になって客観的に振り返ると、あの時なんであんなちっぽけな人間と仲良くしていたのだろう?と、過去の自分が信じられなくなることがあります。基本的にあまり日本人とは仲良くなれませんし、すぐ年齢や肩書に拘(こだわ)る他の東アジア人(特に中国人と韓国・朝鮮人)とも仲良くなれません。〇〇さんも、もしかするとカナダのようなキリスト教文化圏の方が居心地が良いのではないでしょうか。

以前にも紹介した英語の格言に、A man is known by the company he keeps. (但し、二十一世紀の「政治的に正しい(politically correct)」言い回しでは A person is known by the company he or she keeps. または A person is known by the company they keep. という具合に面倒くさい文体に変化)があります。つまり、その人の交友関係を見れば、どんな人物か分かってしまう、お里が知れてしまうということです。〇〇さんも、その元「親友ちゃん」から離れることができて良かったと思います。その当の元「親友ちゃん」もアメリカの元カレから非道い内容のメールを送り付けられていましたよね。そういう男と付き合っていたということは、つまりご本人にも相当問題があったのでしょうが、元「親友ちゃん」もあれで目が覚めて却って良かったのではないでしょうか。もう一つ受験英語で覚えさせられた格言に、You cannot be too careful when you choose a friend. または You cannot be too careful when choosing a friend. または You cannot be too careful in choosing a friend. (友達を選ぶ際はいくら気を付けても気を付けすぎることはない。)があります。

>昔の親友ちゃんが、わたしに物申したいことがあると。以下の文章が全てです。

>>〇〇さん、最後にあなたにラインを送ってから何の連絡もなく元気にしているかと心配していました。あなたを良い友人と思っていたという事もあり何かあなたの身に起こったのではないかと思い先日◇◇◇さんに連絡を取りました。あなたには色々と自分をオープンにして友人関係を築けてきた事もあり、今までの関係は一体何であったのだろうと感じる日々がずっと続いていました。お互いの生活環境は違って当然だし、合わない部分も出てくるのは当然だと思うけど、これだけ仲良くしていた友人に何の連絡もなく突然去っていくというのは大人の女性が取るべき行動ではないと思います。理由がどんな理由であれ友達であった事には変わりはないのだから、きっとあなたが私の立場に立てば、私がどのように感じ続けていたか想像がつくのでは? 自分がよければ親しくしてきた友人はどんなに傷ついても良いという考えはとても幼稚であり、失礼な行為であると思いますよ。社会人経験はなくてももう子供ではないのだから、自分を支えてきた友人の事も考えて生活していくというのができて当たり前だと私は思います。正直みんな人生は違うしどんな道を生きても良いと思っているけど、あなたの友人の切り方にはもう言葉がありません。自分の事しか考えられない事はとても悲しい事ですよ。社会人経験をしていないからこういう事が平気でできるんだと思います。あなたがカナダでどんな生活を送っていようが私は一切あなたに嫉妬するとか羨ましいとか感じないので、もし私があなたの自由気ままな人生に嫉妬しているとか思っているのならそれは大間違いです。あなたには英語も含め色々サポートしてきた部分がありましたが、まさかこういう形で切られるとは想像もしていませんでした。今後友達を作っていくのであれは、人がこういうことをされたらどういう気持ちになるとか考えてから行動に移した方がいいですよ。私はあなたにこういう事をされて、あなたと友人であったと感じていた自分をとても恥ずかしく思います、周りの人を気にせず自分の事だけを考える、カナダでの自由気ままな人生を楽しんでください。さようなら。

>それに加え、△△さんも元「親友ちゃん」を通じてわたしへの思いをぶつけてきました。

>>もし、私が嫌な事をしたなら謝ります。でも、友達だと思っていたのに急にラインをブロックしたりするのは、本当に性格悪いと思うし、とても嫌な気持ちになります。もう最後だから言わせてください。27になっても社会人経験が一度もないのはヤバいと思う。今まで話してても世間知らずだなと思う事が多かった。勉強嫌いだから英語も全く上達しないのにたくさん留学してて恥ずかしいと思いませんか?普通の27歳が経験している事をあなたは経験していないから、人とも関係をすぐに切るとか、私にしたような子供染みた行動をするんだなと思う。あなたと関わってきた時間は、本当に無駄だったなと思っています。さようなら。

>これを言われるのは実は初めてではありません。

元「親友ちゃん」や△△さん(クラス担任をしていた時いつも無表情で捉え所が無く苦手な学生さんでしたが)は近頃日本で問題になっているマウンティング(mounting)傾向が強いようです。一種のサイコ(psycho = psychopath)のような自分には無痛で他人には加虐的な傾向です。マウンティングはママ友仲間で一方が他方に対して優位に立ちたいという意識から、心無い言葉を次々に浴びせるなどと言われています。日本人の人間関係を考える上で興味深いです。だから日本は住みにくい。

ただ、元「親友ちゃん」や△△さんの言うことにも恐らくは一抹の客観的真実が込められているようにも思います。それは誰でも当然のことで、自分が主観的に認識している自己像(self-image or self-perception)と、他者(親族を含む)が客観的に(但し、偏見も含めて)見ている姿(objective perception)とはズレが生じるからです。やはり〇〇さんのように、いい年をして、朝から晩まできちんと働く就労体験が無いと、人の痛みも、お金を稼ぐことの大変さも、なかなか分からないのではないかと私も危惧します。

Every family has a skeleton in the cupboard.(直訳「どんな家庭でも箪笥(たんす)に骸骨(がいこつ)を持っている。」 ⇒ 意訳「どんな家庭にも他人に秘密にしたい過去がある。」)というイギリスの格言は、アメリカでは Every family has a skeleton in the closet. になっていますが、言いたいことは同じです。なお、skeleton=骸骨の発音は「スケルトン」ではなく「スラトゥン」であり、cupboard=箪笥の発音は「カップボード」ではなく「バッドゥ」です。

ここで a skeleton in the cupboard の喩(たと)えの如(ごと)く身内の恥を晒(さら)すようで恐縮ですが、就労経験が無いという点では、今月中に後期高齢者(私は勝手に末期高齢者と呼んでいますが)の仲間入りをしようとしている私の母を思い出します。母は地元のあまりパッとしないイチリツ(市立)高校を出てから就職も進学もせず、父親(私にとっては母方の祖父)の経営する幼稚園(在埼玉県さいたま市浦和区)で無資格の事務手伝いのようなことをやり、あとは親戚の薬剤師のコネで東大病院(在東京都文京区本郷)の薬剤部門に無資格で雑用をしに行った程度で4年間も親元でぶらぶらし、地元の田舎道で日野自動車の Contessa (イタリア語で「伯爵夫人」の意)を乗り回していました。その後、親の強い薦めで初めてお見合いをし、その初めての見合い相手(多数の見合い経験者)と婚約して1年後に満23歳で結婚し、さらに1年後に生まれた長子がこの私です。「多数の見合い経験者」とは、もちろん私の今は亡き父です。

地主だった祖父は第二次世界大戦の敗戦を機に、米占領軍から土地の多くを没収され、周辺の小作人から取り立てていた地代も絶たれてから、二十年程は残された土地で黙々と百姓仕事に従事していました。ところが気が付いてみると時代は高度経済成長期で、自分の没収された土地が宅地開発され、小さな一軒家が次々と建てられていくのを目にしました。新しい小さな一戸建てということは、若夫婦が次々と引越してくることを意味し、かつて山林だった新興住宅地は小さな子供たちで溢れ返るようになりました。そこで祖父が目を付けたのが幼稚園経営でした。二十一世紀の現在なら保育園かこども園ですが、当時は働くお母さんはまだ少数派だったので、幼稚園が一番儲かりました。しかしながら、祖父自身も家族も、誰も幼稚園教諭の資格を持っていなかったので、手っ取り早く名門のお茶の水女子大学(お茶大)出身のベテラン婆さんに外注してしまったのが命取りでした。このベテラン婆さんは一種のサイコ(psycho = psychopath)でして、お茶大の後輩や地元の埼玉大学(埼大)から新しい先生を連れてきて、父兄の一部も味方につけ、徒党を組んでやりたい放題に振舞いました。そして創業家(母の実家)は低学歴だとして徹底的にバカにしました。確かに母を含む三姉妹(私から見ると伯母と母と叔母)は皆地元のパッとしないイチリツ高校しか出ておらず、跡継ぎの伯父(母の兄)も同じ高校でしたが、高卒だと跡継ぎとして格好が付かないので、新宿駅西口の私立工学院大学へ行かされたそうです。

そんなこともあり学歴コンプレックスの塊(かたまり)の母から、私は15歳で西高(旧浦和市内で二番手の名門ながら学区内では四番手程度)に落ちた時と、18歳で私立上智大学(在東京都千代田区)に落ちた時には非道い言葉を浴びせられ、今でも恨みに思っています。母には学問全般に対する敬意(respect)も無く、ただ長男がいい学校に入ったということを自慢したかっただけだったことを私は冷徹な目で見極めています。母に罵倒されたその悔しさをバネにして、あまりパッとしない私立獨協大学(在埼玉県草加市)から、上智よりもずっと格上の英国国立ランカスター大学(在イングランド北西部ランカシャー州)大学院に進みましたが、英語や海外文化のことがちっとも分からない母にとっては「猫に小判」「豚に真珠」の状態です。

話の時空が色々前後するのですが、今から45年以上前に私は家から直線で8キロも離れ、駅からも遠い交通不便な祖父の幼稚園まで車に乗せられて通っていました。「リジチョー(理事長)先生のお孫さん」状態ですが、ちっとも楽しくなかったです。2~3人程度の友達はできましたが、偶(たま)に家に誘ってもらえるのが嬉しかったです。小さな一軒家で裏側に緑の庭があるという、今にして思えばイギリスのようなおうちでしたし、小さな幸せの感覚が羨(うらや)ましかったです。一方で私は友達を祖父の家(母の実家)である敷地一千坪のお屋敷に誘うことはどうしても出来ませんでした。子供心にとても「家」という感覚が持てなかったからです。私の本宅は敷地150坪で県都の旧浦和市としてはそこそこ広い家(母の実家のような茫漠(ぼうばく)さとは無縁な家)ですが、なにしろ直線で8キロも離れているので、友達を連れて帰るわけには行きませんでした。友達のおうちに誘ってもらえなかった時は、誰も園児の居ない幼稚園に残るわけにもいかず、祖父の家(母の実家)の広大な雑木林(その後、二十世紀末に家が更に没落して現在では庭の大部分は某ドラッグストア・チェーン店舗及び同ストアの広大な駐車場)で日がな一日、風に吹かれて独(ひと)りで過ごしました。当時その家(伯父夫婦も同居)には赤ちゃんが1人(その後、幼稚園の跡継ぎを放棄して現在は私立杏林大学病院勤務で過労死寸前レベルの産婦人科医)産まれただけで、遊び相手は居ませんでしたし、義理の伯母(伯父の妻)は赤ちゃんを連れて隣接する越谷市の実家へしょっちゅう帰ってしまっていました。祖父は幼稚園には偶(たま)にしか行かず、専(もっぱ)ら野良仕事ばかりしていましたし、祖母は家の中に篭(こも)りがちで一緒に遊んでもらった覚えがありません。ただ、一番の問題は私の母です。いつまで経っても迎えに来てくれませんでした。そして夕方になって漸(ようや)く、幼稚園の事務仕事をしている伯母(母の姉)が原田家に近い場所に住んでいるということもあり、車で送ってくれました。途中で別の幼稚園(やはり別の親戚が経営する幼稚園)に寄るなどして余計に時間がかかることも度々(たびたび)ありました。

このように幼少期にネグレクト(neglect)されて育った所為(せい)で、その後の人づき合いに多大な悪影響が出ています。大阪府枚方(ひらかた)市で精神科クリニックを経営している岡田尊司(おかだ たかし, b.1960)医師による愛着障害(attachment disorder)に関する一連の一般向け新書を読みましたが、そこに出てくる症例が「自分に当て嵌まってる!」と私は実感しています。こうしたトラウマ(trauma)を克服すべく、私は最近になって母に、「どうしてあの時はいつまで経っても迎えに来てくれなかったんだよ?」と問い質(ただ)したところ、毎日極度の貧血(英 anaemia; 米 anemia)で一歩も外へ出られなかったとのことでした。言外の意味を付加すると、当時同居していた姑(しゅうとめ=私から見ると父方の祖母)から執拗なイジメや嫌がらせを受けて精神的におかしくなっていた(少なく見積もっても鬱状態)ということです。この祖母は大変気の強い人で、孫にだけは優しかったのですが、人間的には相当問題があったようで、私が小学校低学年(おそらく2年生)のときに突如家出して、次男(私から見ると父方の叔父)夫妻の家に転がり込んでしまいました。当初はその家でも嫁イビリをしていましたが、やがて下剋上(げこくじょう)が起こって力関係が完全に逆転し、その下層階級出身の鬼嫁から徹底的にイジめられるようになりました。そして晩年は全く身寄りの無いJR新潟駅まで家出をし、新潟県警に保護されるという事件まで起こしました。祖母はその時はかなりボケていたので、一体どうやって新幹線の切符を買うことが出来たのか、一つ謎が残りました。祖母をイジめ抜いた鬼嫁は中卒の元非行少女でしたが、悪知恵は非常に発達していて、祖母(鬼嫁にとっての姑)が死ぬ直前に祖母の持っていた預貯金を全額せしめてしまいました。そして鬼嫁は葬儀の後に姑(私の祖母)が自分で書いたとされる「遺言書」を我が家(原田本家)に持って来ました。日付も捺印もない上に鉛筆書きだったので法的には何の拘束力もありません。父は自分の弟(私の叔父)を通して「現金はどうなってるんだ?!」と再三に亘って追及したということになっていますが、父にしては迫力に欠ける追及でした。やはり自分の母親(私の祖母)の面倒を死ぬまで約二十年間も弟夫婦(私の叔父夫婦)に診(み)させてしまった引け目があったように思います。自分の弟を形だけでも問い詰めたのは、自分の妻(私の母)へのパフォーマンス(performance)でしかなかったように思います。母に言わせると祖母の持っていた預貯金は推定1億円とのことですが、その後の叔父夫婦の金遣い(不動産関係及び車)を見てみると推定5千万円以上~1億円未満だったと思います。

1970年代後半~80年代に話を戻すと、祖母の突然ながら半永久的な家出のお蔭で我が家にはしばしの平和が訪れ、2歳半下(学年では3つ下)の弟と一回り年の離れた(学年でも12コ下の)妹にとっては頗(すこぶ)る良い生育環境が訪れました。「トシアキ(俊明)には失敗した!」というのが母の口癖であり、母はもはや下の子たちを直線で8キロも離れた実家の幼稚園に通わせることはやめました(長男の私はいつも実験台です、怒!)。私の幼稚園時代から十年以上が経過し、今度は妹が幼稚園児でしたが、家から500メートルほど離れた幼稚園の園庭に度々(たびたび)独りでネグレクト(neglect)されていました。しかしながら、当時高校生の長兄(私のこと)や中学生の次兄(私から見ると弟)が居たので、母の代わりに迎えに行ってやることは可能であり、妹にしてみれば少しラッキーだったと思います。

母の言う「トシアキ(俊明)には失敗した!」がまた始まって、弟と妹は私と違って公立ヤンキー中学に入学することを母によって禁止され、東京のカネのかかる私立中高に電車通学するようになりました。ただ、ここでひとこと付け加えると、私は当時の浦和市教育委員会に恨みを抱いています。というのも、私の住んでいた地区は幾分お上品な地区だったにも拘わらず、変てこな学区を編成され、旧浦和市内でも最下層に近いような地区の中学校に行かされていました。妹の頃にはこの意味不明な学区は改正され、なんと旧浦和市内のみならず埼玉県内でも2番に名門とされる公立中学校の学区に編入されていました。それでいながら妹は、母の言う「トシアキ(俊明)には失敗した!」の掛け声と共に私立中高を受験しました。同じ兄弟から見ても羨(うらや)ましい限りです。特に弟の場合は中高・大学の十年間も早稲田だったので、もう人生勝ち組になった気分で上から目線の塊(かたまり)です。それでも一度だけ逆風が吹いたことがあり、弟が就活を始めた頃に日本は急に就職氷河期に突入しました。相変わらず「早稲田だせ!」と強気な弟でしたが、まさかの重要な面接が重なった時期に突然麻疹(はしか)に罹患してしまいました。39度の熱を出して必死で家の固定電話から(当時は携帯もインターネットも無い時代です)面接予定の会社に電話しまくった弟でしたが、どこの会社も冷たく、「じゃあ来ないでください。」という返答ばかりでした。仕方なく第11志望の旅行会社(業界2番手ながら当時の売り上げでは日本一)に就職しましたが、給料が安い上に3年たっても後輩(新入社員)が1人も入社しないという状況に嫌気が差していた矢先、偶々(たまたま)見つけた新聞広告でその後の勝ち組人生(高所得と、弟より更に高給取りの結婚相手)が訪れたのです。確かに私から見ると中央大学(中大)出の年上の奥さん(私からすると義理の妹)=人事部長と一緒の大企業で途轍(とてつ)もない金額を稼いでいるようです。世田谷某所で安藤忠雄(あんどう ただお, b.1941)風のコンクリ打ちっぱなしの大豪邸に住み、BMW(ちょっと前まではメルツェーデス・ベンツ)を乗り回しています。

一方、私の妹は元々勉強嫌いで和洋女子大学の附属というパッとしない私学に通っていましたが、末っ子でしかも漸(ようや)く出来た女の子ということで亡き父には非常に甘やかされ、和洋女子大学の推薦を蹴って学費のバカ高い私立理系に進みました。しかし根が勉強嫌いなので、俗に「明星(みょうじょう)チャルメラ大学」と揶揄(やゆ)される明星(めいせい)大学にしか行けませんでした。「同じ多摩モノレール中央大学・明星大学駅なら中大だったら良かったのに!」などと言われるダメ大学です。妹はなぜか運よく関西系の大企業の埼玉支社に就職でき、通勤も下り電車でたったの3駅で楽ちんで通っています。会社員になって初めて勉強に目覚め、日商簿記2級の資格を取りました。(準1級は存在せず)1級はプロの会計士レベルと言われるので最初から挑戦するつもりは無いようです。

父が死んで6年が経過しましたが、父(母にとっては亡き夫)という歯止め・重石(おもし)・ストッパーが外れてしまった母は益々私(長男)の言うことを聴かなくなり、好き勝手に振舞っています(尤(もっ)も母も私について同じことを言っているので、似た者同士の同族嫌悪なのかも知れませんが)。車を運転すると人を殺してしまう恐れがあるから運転免許を返納するよういくら言い聞かせても、「駐車場の草取りができなくなるから無理」と言って危なっかしい運転を続けています。ちなみに私は以前から自動車(automobile)は欠陥商品であると確信し、更には自分の運動神経を全く信用していないため、車を運転したことが一度もありません。池袋の飯塚元院長(実質的には飯塚容疑者)のような事故(実質的には母娘殺人事件)を母が今後起こさないかと心配でなりません。上記の「駐車場」とは、母が亡き祖父から相続した土地のことですが、家から直線で8キロも離れ、駅からも遠い交通不便な所なので、確かに土地の管理に自動車は欠かせません。管理とは言っても車1台1ヶ月たったの6千円という破格の月極(つきぎめ)駐車場ですので、固定資産税を差し引けば収入は限りなくゼロに近いです。それでも土地の借り手(駐車場利用者)からは「雑草が伸びてきたので除去してほしい」と苦情の電話がかかってきます。「6千円しか払ってないくせに!」と内心思いますが、客の苦情に母は弱いです。そんなわけで毎年ゴールデンウィークになると、私と妹が駆り出されて一家総出の草取り大会になりますが、今年は天候不順のため雑草に勢いが無いようで、駆り出されないで済んでいます。「こんな不便な土地、管理しきれないから、さっさと売り払え!」といくら言っても無駄です。母が頑固なので、母が死なない限り売れないのですが、そうなると実は非常に厄介(やっかい)です。まず、死んだ人の名義にはできないので、一旦は司法書士を通して名義替えをせねばならず、これには五十万円以上かかります(父が死んだ時に経験済みです)。尤(もっと)も司法書士の取り分は七万円程度で、金額の殆(ほとん)どはお役所が持っていきます。役人は「濡(ぬ)れ手(て)に粟(あわ)」で無敵です。しかも名義を三兄弟(私と弟と妹)の誰にするか、或いは共同名義にするのかも頭の痛いところですし、弟(世田谷区経堂在住)も妹(さいたま市南区に母と同居)も自分で管理する気はさらさらありません。しかも月極駐車場はこの1箇所だけでなく、合計4つも母名義で持っています。

さてさて、実際なんの参考にも教訓にもならないでしょうが、a skeleton in the cupboard. =「他人に秘密にしたい過去」というものを曝(さら)け出してしまいました。働いて苦労してみないと人の痛みは分からないという反面教師的な一種の寓話(parable)です。世間的にはちょっとばかり恵まれた生まれや境遇に見えても、人生はそこそこキツいですね。〇〇さんから結構重い内容のメールを受け取ってしまったのが連休前の4月25日(木)のことでしたが、なんとそれより数十倍重い内容の(分量も多い)メールを返してしまいました。こんなメールを読まされて気分を害されたかも知れませんね。むちゃくちゃ正直(candid)に書くと、こんな感じです。

原田俊明

Subject: Re: 夏休み

Date: 2019年9月2日(月) 19:54 JST

〇〇さん

まだ〇山の実家に居ますか。

先ほど旧ソ連アゼルバイジャンに入国しました。日本国籍者のみ到着時即時発給査証(visa on arrival)が無料です。

「ならず者国家」(a rogue state)のイランにては、言語障壁や異文化の問題で2週間近くずっと悪戦苦闘しましたが、この早朝にカスピ海の畔、アゼルバイジャン共和国首都バクー(Baku)に着いたところです。早朝に着いてしまったがために、空港内と街中で暇つぶしをして、その間にはWi-Fiを利用して本日の宿を確保しました。首都は想像以上に近代化・西欧化されており、西洋かぶれした自分には頗る快適です。もはや「禁酒の無理強い」をされることはありませんし、Trumpの経済制裁の影響で三茶の会社のGmailアカウントの情報遮断という由々しき事態も、ここアゼルバイジャンでは生じません。早めのチェックインが認められたので、今はそのホテルの部屋から目の前の旧市街城壁と、遠方のテレビ塔(何やら東ベルリン風)と石油成金の象徴的存在 Flame Towers なるアサヒビール本社の俗称・蔑称「うんこビル」の巨大版(但し、外観はうんこ色に非ず)を眺めています。

〇〇さんにメールしてからシラーズを振り出しに長距離バスで8時間かけてイラン中部の古都イスファハン(Esfahan or Isfahan)へ移動しました。「イスファハンは世界の半分」という言葉にもあるように昔からイラン観光のハイライトであることに納得しました。もっと涼しい時期に訪れたいとも思いました。次にイスファハンからイラン北部は首都テヘラン(Tehran)まで長距離バスで6時間かけて移動しましたが、これは翌朝の列車に乗るためだけの移動でした。

昨日(水曜)は列車で5時間(公称6時間の筈がなぜか1時間も短縮)かけてカスピ海に近いラシュト(Rasht)駅まで行き、その先は公共交通が無いため、破れかぶれでタクシーに身を任せました。もちろん料金は乗車前に交渉済です。約75キロ(三軒茶屋から成田空港までぐらい)の道のりを2時間半かけて、憧れていた古めかしい大ホテルに着きました。タクシー代は150万リアルでしたが、後でXE( xe.com )という最も中立的な通貨レートサイトで調べたところ、3,776円(奇しくも富士山の標高の数字)でした。

イラン北部でカスピ海南岸のラームサル(Ramsar)を訪れました。今から半世紀近く前の1971年に世界の湿地・湿原の環境保全を目的としたラムサール条約(Ramsar Convention: 和訳条約名は「ラームサル」ならぬ「ラムサール」)が調印された地です。泊まったホテル西隣の敷地にはラムサール条約が結ばれたシャー(シャア専用ザクならぬ旧イラン皇帝)の離宮(現在の宮殿博物館)があります。隣のホテル自体もシャーの肝入りで建てられたといい、「昔日はさぞかし豪華絢爛だったのだろう」と思わせるものがありました。1979年のイスラム革命前は金持ちな米人が挙って宿泊していたとのことです。

ラームサルではイランに来て初めて雨が降ったり止んだりしました。そこはイラン離れしていて、旧ソ連と夏の北海道と旧ユーゴのアドリア海側を足して3で割ったような雰囲気があり、イランにしては涼しかったです。しかしながら、街に出てみるとインドのような混沌がありました。

そうしたイランの記憶は段々と薄れ、今はアゼルバイジャンに注力したいと思います。

と、ここまでは旅の報告ですが、○○さんの以前のメールがあまりにもひどかったので、返事を差し控えていました。すぐに返信すると怒りに満ちた文面になることが容易に想像できたからです。

>しかし、原田先生の100均で購入したような帽子のチョイスに笑ってしまいました。お高いものや思い出のものでしたらすみません。

あの帽子は「ねじ曲がった尖塔」(the Crooked Spire)の通称で有名なチェスタフィールド教区聖母マリア及び万聖教会(The Parish Church of St Mary and All Saints, Chesterfield: https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_St_Mary_and_All_Saints,_Chesterfield )が所在するイングランド中部地方ダービ州チェスタフィールド(Chesterfield, Derbyshire: https://en.wikipedia.org/wiki/Chesterfield )の街中で買い求めた物です。物価の高いイギリスのことなので、百均はあり得ません。まあ、客観的に言うと、私(xapaga)のようなみすぼらしい男は何を着ても何を被っても百均の商品にしか見えないということですね。

>そういえば、昨日久しぶりに美容院に行ってきました。新しいところへ行き、担当の赤髪の片耳にピアス10個ほどついた女性(40越え、ユーミン似)に希望のスタイルやあれこれを説明し終え、準備に取りかかっているときに事件は起きました。赤髪さんが"日本に住まれて長いですか?"とわたしに問いました。わたしはその人に海外に住んでる等一言もいった覚えはないぞ?と思い戸惑いました。そこで、あ!その女性はわたしがチャイニーズだと思っているんだ!と気付き、日本生まれ日本育ちです。と答えると大変申し訳ございませんと。その時は、笑って終わりましたが、時間が経つにつれ、悲しくなってきました。

私もそのような外見の人は男でも女でも基本的に好みません。しかしながら、あからさまに敵意を抱く理由もありません。

>赤髪さんはわたしの名前、見た目(今時の若者ではないストレートの黒髪、二重手術なし、化粧薄い)からわたしをチャイニーズと勝手に認識しその質問。珍しい名前ですね、からの話の入り方はよくあるのですが、早々とチャイニーズと決めつけるのはどうかと思います。

赤髪さんは別段人種差別を抱いてたり、実行したりしているわけではありません。純粋に〇〇さんがどう見てもチャイニーズに見えるから、そう質問しただけです。私も初対面だったらチャイニーズと間違えていたことでしょう。

>今まででいちばん悲しい人種差別でした。

それは違います。赤髪さんが人種差別主義者なのではありません。この文面からして、〇〇さんこそが真の人種差別主義者(a real racist)です。実は私も日本に仇(あだ)を為(な)す特亜(特殊アジア)三国(中韓朝)が大嫌いですが、だからといって差別するのは違うと思います。

現に私もイランでは約50%の確率でチャイニーズと間違えられましたが、「まあ、そんなもんだろう」と受け止めています。私を日本人と見破った人は30%程度で、残りは「国籍不明だから教えて!」または「イラン人だろ?!」とのことでした。

日本もいくぶん涼しくなったとヤフーニュース等で伝え聞いています。それでは体調に気を付けてお過ごしください。

バクー旧市街にて

原田俊明

Subject: Re: 夏休み

Date: 2019年10月23日(水) 17:40 JST

〇〇さんからメールを貰って3週間以上も経てしまいました。楽しい夏休みも終わり、ここ東京は颱風に次ぐ颱風でうんざりです。昨日(火曜・祝日)の新天皇即位礼も颱風から転じた温帯性低気圧による大雨で天気が悪く、令和という新時代の先行きが心配されましたが、なんと天皇が「お言葉」を述べたほんの僅かな間だけ東京の空に日光が差し込みました。26年前のご成婚のときもそれまでの大雨が嘘のように止んで晴れたので、当時の人は日本国政府が秘密兵器 cloudbuster を密かに使用したのではないかと噂したものです。真偽のほどは不明ですが。

今はこの新しいセメスターに慣れましたが、本日(水曜)と金曜の再履修クラスのやる気の無さは想像以上です。それに[中略]、学生の一部は私を心底から嫌っているように思われます。残念ですが認めざるを得ません。ああいう中身(知的内容)の乏しい英語の教科書は私としても大変苦痛です。

アホらしい英語のことは置いて措いて、先週は木金土日の四日連続で飯田橋駅附近のアンスティチュ・フランセ(フランス政府の言語・文化機関)に通い、フランス映画祭を堪能できました。しかも日替わりでフランス人監督がとっかえひっかえ姿を現し、私たち聴衆と対話するという絶好の機会を得ました。私は初日(木曜)から日頃のアホらしい英語の鬱憤を晴らすべく、挙手してフランス語で質問をし続けました。ただ、初日はまだ今ひとつ調子が上がらず、ちょっとたどたどしかったので、その反省から二日目(金曜)からは一旦メモ用紙に言いたいことを書きつけてから質問するようにしました。四日目=最終日(日曜)にはかなり流暢になっていて、自分でも嬉しい驚きでした。

今から青山一丁目駅附近のオーアーゲー(OAG)こと、ドイツ東洋文化研究協会にお邪魔し、講演会と立食パーティーに参加します。久しぶりにドイツ語を使うことになるので、最初はやはりたどたどしくなると思いますが、徐々に頭と体を慣らさねばなりません。

原田俊明