西曆2010年 3月 南米初訪問記(日本英語文化学会ニューズレターから転載)

待ちに待った2010年の春休み。それは3月19日(金)にようやく始まった。(中略)今回は旅行直前に卒業パーティーの仕事やら学生面談のことで心労が祟ったため(尤も仕事そのものは結局うまく行ったが)旅先で風邪をこじらせてしまった。米国経由、約30時間の旅は体力の限界に近く、今回ほどエコノミークラスを呪わしく思ったことはなかった。南米はアルゼンチンの首都Buenos Airesに到着したのが20日(土)の朝(日本時間で土曜の夜)だった。到着後の日曜はブェノサイレス散策中に大雨に遭ってずぶ濡れになった。喉が痛くて呼吸が苦しいため、当初は豪快な肉料理も濃厚な赤ワインも控え、軽めの食事とビールとコーヒーだけの日々だったが、途中からたっぷり栄養を摂る方向に転じた。わざわざ日付変更線と赤道を超えて来たのだから。

ブェノサイレスの薬局では嗽薬をスペイン語で何と言って良いやら分からず、英単語を唱えつつ嗽の真似をしてみたが、内服薬やトローチを出されて閉口した。こんな所でドイツ語のことが頭に浮かんでGurgelwasserからの直訳的な発想でスペイン語で「水(アグワ)」と言ってみた。しかしこれは失敗で、単なる水を勧められた。薬の処方を待っていた上品そうなご婦人に「¿アブラ・イングレス?」と訊いたら「ノ」と言われたが、それでもめげずに「¿コモセディセgurgleエネスパニョル?」と訊いたら、gárgarasという単語を教えられた。買った薬剤の取り扱い説明書にはgargarismoの単語があり、箱にはさらに別の単語colutorioが書いてある。スペイン語は難しい。この説明書は全文スペイン語だが、どのくらいの割合で薄めるのか、なかなか教えてくれない悪文だ。下の方にイグワル・アグワ(igual agua)、きっとつまりequal waterとあったので、要するに50%の割合で薄めろということらしい。さっさとそう書けばいいのに。要領を得ない説明書だ。

この地の3月は晩夏である。R. シュトラウスやA. トスカニーニゆかりの歴史的に重要な劇場がありながら、夏休み中とのことで演奏会もオペラもないのが残念であった。22日(月)には高速船でラプラタ川の対岸のウルグアイ東方共和国に上陸した。所要僅か1時間である。暇を見つけては世界を放浪している私にとって記念すべき40番目の訪問国である。まずはユネスコ世界遺産の町Colonia del Sacramentoに宿泊した。ポルトガルの鄙びた田舎に居るような錯覚を受ける歴史ある町である。泊まった宿はポルトガル流に「ポサダ」と名乗っていた。その後、第二次世界大戦初頭の独軍小型戦艦グラーフ・シュペー自沈事件で一躍その名を馳せた首都Montevideoや、東のリゾート地であるPunta BallenaとPiriápolis、さらに東のリゾート地Punta del Esteを訪れた。英国人ゆかりの地ばかりであるが、この時期は南米人しか見かけなかった。

咳は止まらないし、呼吸も苦しいので、心配になり、病院へ行こうか真剣に迷った。その結果、23日(火)に首都モンテビデオの英国病院(British Hospital; Hospital Británico)を訪れた。1912年に「亡き国王エドワード七世の思い出に」発足した歴史ある病院である。他にブェノサイレスの日本人共催病院(Hospital Japones)やドイツ病院(Deutsches Krankenhaus; Hospital Alemán)、さもなくばモンテビデオのイタリア病院(Ospedale italiano; Hospital Italiano)の選択肢もあったが、悩んだ末、旅程のこともあり英国病院を選んだ。ここならわざわざ苦手なスペイン語で症状を説明する必要もなさそうだし、4月以降に「イギリス文化論」の授業のネタにもなりそうだし、こりゃいいわというわけで、昼食もホテル探しも後廻しに、午後1時過ぎにバスターミナルに到着すると、早速徒歩で病院に乗り込んだ。しかし面食らったことに、聞こえてくるのはほぼ100%スペイン語だった。受付は完全に英語で平気だが、看護婦(平成日本語で女性看護師)は英語を解さず、スペイン語で説明する羽目になった。とは言え、私の症状は、持参したスペイン語会話集に全部載っていたので、必要な箇所をあれこれ殆ど棒読みで読み上げたら一応通じた。続いてやってきたのが、Dr Menoniというイタリア系の医師だった。イタリア系と言っても英国病院の医者は英語が堪能だ。フナコシという名の師範から空手を習っているという話だった。「すぐ近所にイタリア病院があるのに英国病院に勤務ですか」とツッコミを入れたら笑っていた。「抗生物質でも処方していただけると助かるのですが」と言うと、「まずは検査してウイルス性なのか細菌性なのか確認して、もし細菌性で陽性反応が出たら抗生物質を処方します」と言われた。検査の結果は陰性だった。確かに下痢はなかったので妥当な結果であろう。発熱もないのでウイルス性の可能性も低いとのことだった。鼻水や痰を抑える抗アレルギー内服薬と嗽薬だけを処方された。今度の嗽薬はドイツの会社が現地生産している代物で、箱には私にも分かるスペイン語でNO ES NECESARIO DILUIR、つまり英訳すればIt is not necessary to diluteと大書きしてある。ドイツ企業の説明は明快である。しかし診察と検査と薬剤はかなり高いものについた。しめて約1万5千円也。時間にして2時間。「イギリス文化論」のコストパフォーマンスは、教員の側からすると最悪であったが、大きな気休めを得ることができて一応満足した。

帰路はコロニアには戻らずに、直接ブェノサイレス行きの高速船に乗った。所要3時間であった。私の後ろの座席の客は年の差カップルだった。白髪(おそらく元は金髪)の爺さんの話し声はか細くて全く聞き取れないが、黒髪の若妻は強い南米訛のドイツ語を話していた。この老人は年恰好からして南米の中立国に抑留された元独国海軍少年水兵だったろうか。私は第二次世界大戦に於ける英国海軍最初の凱旋についてあれこれ想像を巡らせながら、モンテビデオ港の情景を目に焼き付けた。アールデコ全盛の1930年代当時の税関の建物が健在なのが嬉しい。独軍小型戦艦グラーフ・シュペーが自沈したのはこの辺りだったろうかと、茶色い大海原のようなラプラタ川に差し込む真昼の日光に目を細め、しばし感慨に浸るのであった。

2010年6月16日(水)付、日本英語文化学会(JSCE: Japan Society for Culture in English)会報第4号より転載

http://www43.tok2.com/home/nihoneigobunka/newsletter2010.pdf