中村圭志コラム「聖書の神の道徳性を診断する エリザベス・アンダーソンの診断」より抜粋

中村圭志(なかむら けいし, b.1958) 『西洋人の「無神論」 日本人の「無宗教」』(ディスカヴァー・トゥエンティワン ディスカヴァー携書 No.214, 2019年4月)からpp.247-252

コラム「聖書の神の道徳性を診断する エリザベス・アンダーソンの診断」

聖書は愛を説く有難い書だとお思いの方も多いと思うが、内容はもっと複雑である。哲学者エリザベス・アンダーソンは「神が死んだらあらゆることが許されるというのは[p.247/p.248]本当か?」(L・M・アンソニー編 Philosophers without Gods 第一七章、ヒチンズ編 The Portable Atheist 所収)の中で、もしファンダメンタリストのように聖書を無謬とし、その記述を字義通りに受け取ったら混乱や道徳的破綻を招くであろう箇所を書き出している。論点を再整理して、議論の一部を紹介しよう。

【民族浄化】旧約聖書の神は異民族の虐殺を正当化している。アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い散らせ、とヤハウェは命じる(出エジプト記三四章)。ホルマの町とバシャンの民(民数記二一章)、ヘシュボンの民(申命記二章)、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人(ヨシュア記三章)など、都市民や部族を虐殺しなければならない。憐みの目を向けてはならぬ(申命記七章)。息のある者を一人として生かすな(同二〇章)。殺戮の目的は、敵の土地(ヨシュア記一章)や女・子供・家畜・物品(申命記二〇章)の強奪と心得よ。

【同族殺戮】神は民族内部においても、場合によっては虐殺を命じる。イスラエルの民に属するベニヤミン族の一部の者が別の支族の側女を強姦して殺害したときには、ベニヤミン族全体の虐殺を命じている(士師記二〇章)。神はまた、アビヤ王を助けてイスラエル人五〇万人を殺害させ、アサ王を助けてクシュ人百万人を殺害させた(歴代誌下一三章、一四章)。[p.248/p.249]

【追放や死刑】旧約聖書は今日の保守主義者の主張よりも極端な懲罰を定めている。安息日に働く者は死刑である(出エジプト記三五章)。鳥や家畜の血を食べた者、特定の皮膚病の者、生理中の妻と交わる者は追放される(レビ記七章、一三章、二〇章)。姦淫した者や同性愛行為を行なった男は死刑に処し、祭司の娘が淫らなことをしたならば焼き殺し、神の名をそしる者は会衆全体の石打ちにより殺されなければならない(同二〇章、二一章、二四章)。

【聖書が許容するもの】原理主義的に理解するならば、以下の行為が許容される。奴隷制はOKである(レビ記二五章、エフェソ書六章)。父は娘を奴隷に売ってもよい(出エジプト記二一章)。二日間生きている限りは奴隷を打ってもよい(同)。女性の戦争捕虜は強姦するなり妻にするなりしてよい(申命記二一章)。不服従な若者は杖で打ってよい(箴言二三章)。男性は好きなだけの数の妻とめかけをもってよい(他人の妻あるいは婚約者と寝ることだけはいけない。これらは姦淫である)(レビ記一八章、申命記二二章)。戦争捕虜は崖から落としてよい(歴代誌下二五章)。戦勝祈願するため(列王記下三章)あるいは飢餓を止めさせるために(サムエル下二一章)子供を人身御供にしてよい。

【家庭の道徳?】ファンダメンタリストは「聖書の遵守は家庭の道徳を護る」と主張す[p.249/p.250]るが、聖書の規定する家庭の道徳とは次のようなものである。身内よりもイエスを愛さなければならない。家族どうしを敵対させるのがイエスの使命である(マタイ福音書一〇章)。イエスの弟子は自分の親、兄弟姉妹、妻、子供を憎まなければならない(ルカ福音書一四章)。親をののしる子供は殺されるべきである(レビ記二〇章、マタイ福音書一五章など)。妻は神に仕えるように夫に仕えよ(エフェソ書五章)。保守派の教会でも今日では女性が積極的に説教しているが、聖書によれば、女性は男性を自分のボスと心得て、教会で発言してはいけない(第一コリント書一一章、一四章)。

【神は性格が悪い?】アンダーソンは、聖書の神の道徳的キャラクターにも問題点があると見ている。もちろん、神話的な比喩でも寓話でもなく、ファンダメンタリストの言うような無謬の道徳的源泉と捉えたときの話である。

ヤハウェはいつも人間を本人以外の他人の罪ゆえに罰している。エバの罪ゆえにあらゆる母に陣痛という罰を与え、アダムの罪ゆえに全人類に労働の罰を科す(創世記三章)。腹立ちまぎれに地上に洪水をもたらし、大量殺害と生態系破壊を行なう(同六章)。出エジプトに際しては、エジプト王の心を操作して頑なにしておきながら、その罰として(王の決定とは無関係の)エジプト国民の間に疫病をもたらし、子供たちを殺害する(出エジプト記前半)。神は自分以外の神を崇拝した者の子供も孫もその他の子孫も罰す[p.250/p.251]る(同二〇章)。イスラエルの民の一部が異邦人と性交渉をもったために、イスラエル人二万四千人を疫病で殺す(民数記二五章)。ユダヤ教徒になりきらないサマリア人を非難し、彼らの「子どもらは打ち砕かれ、妊婦は引き裂かれる」べしと告げる(ホセア書一三章)、などなど。

新約聖書の神も、終末においてはいろいろ無謀なことを行なう予定である。福音書や黙示録の終末の記事は陰惨なものである。キリストを受け入れないあらゆる都市を破壊する。地上に洪水をもたらす。地を焼き払う。戦争や飢饉や疫病で人類の四分の一を殺し、地獄をもたらす。神の罰は集団的なものであるし、殺戮の数を合計すると、誰しも複数回殺されねばならないようだ。不信仰であれば死に際して拷問も伴う。しかも大多数の者には死後の永遠の断罪——地獄——が待っている。

【救済論の矛盾】救済と地獄行きに関する新約聖書のロジックには一貫性がないと、アンダーソンは言う。エフェソ書によれば、救済は神が気まぐれに決めるプレゼントであり、人間側ではなすすべがない(いわゆる予定説。エフェソ書一章)。福音書によれば、家族を棄ててキリストに従った者、あるいは貧者を助けるなど正義を行なった者には救済が約束されている(マタイ一九章など)。ともあれ、神は人々の判断に干渉するものと考えられており、また、信仰もまた神与のものとされているのだから、信仰ある者が[p.251/p.252]救われると言ったところで、それ自体があなた個人の主体性や責任の届かない世界の話なのだ……。

[改行・後略]