西曆2010年 8月 南アフリカ旅行記(文化創造学科公式ブログから転載)

※ 但し、エピソード10以降はシンガポール。

Episode 1 [2010年08月17日(火)]

世界を旅する原田先生による南アフリカ旅行記を連載します。第1回はステレンボッシュからのリポートですが、現地のインターネットカフェのパソコンで日本 語が打てなかったため、メール原文はローマ字です。さすがに読みづらいので日本語に直して掲載します。ブログ担当:田中 均

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Ajax IME: Web-based Japanese Input Method ( http://ajaxime.chasen.org/ 後にリンク切れ)というウェブサイトの助けを借りて日本語を打とうとしたのですが、今回はどういうわけか、まったく機能しません。

今のところ、Stellenbosch( http://ja.wikipedia.org/wiki/ステレンボッシュ )という地方都市でwine estate (アメリカ英語ではwinery ワイナリー) 巡り、および現地の大学(Universiteit van Stellenbosch; University of Stellenbosch; Stellenbosch University http://en.wikipedia.org/wiki/Stellenbosch_University )見学ぐらいしかやっていないので、学科ブログに書くことはまだあまりないです。

昨日南アフリカに着いて以来、明るいうちからワインばかり大量に飲んでいます。17歳や18歳の人の読むブログには向いていないですね。この町にはあと二 泊して、大都市 Cape Town ケープタウン(アフリカーンス語ではKaapstad カープスタット)に、向かいます。

2010/08/17 原田 俊明 ステレンボッシュ にて

Episode 2 [2010年08月20日(金)]

ようやく日本語が読めるのみならず書けるネットカフェを見つけました。

ワールドカップで一躍その名を馳せた南アフリカ共和国に休暇で来ています。気ままな一人旅ですが、今まで訪れた世界40ヶ国より格段に危険とされる国(殺 人率は日本の80倍)です。良い子の皆さんはパッケージ・ツアーを利用すべきですね。しかし着いてみれば良い国です。日本の猛暑と湿気を抜け出して、早春 の南半球に居る贅沢(ぜいたく)は実に素敵だ!、とばかりに不敵な笑みを浮かべるとしましょう。

ステレンボス(またはステレンボッシュ)という 豊かな歴史を誇る小都市で3泊し、ワイン・エステート(米語ではワイナリー)巡りと大学見学に勤(いそ)しみました。昼間からワインの飲み過ぎ状態だった ことは、内緒にするのも勿体無いのでこっそり明かしておきます(しかし未成年の皆さんは禁酒禁煙なのは言うまでもありません)。そして昨日(水曜)から岬 町(ケープタウン、またはオランダ語崩れのアフリカーンス語でカープスタット)に来ています。

Episode 3 [2010年08月20日(金)]

昨日買った2日間有効の切符を使って乗り降り自由簡易観光バスに乗って観光しようとしたところ、バスを逃しました。バスの色分けを純朴に、と言うか馬鹿正 直に信じていたのに、Blue City Tour Busとは、ロンドン風の赤い二階建てバスのフロントガラスに青いステッカーが貼ってあるだけという代物でした(ちなみにRed City Tour Busは全部真っ赤です)。実にトリッキーですな。ドイツ語書店の白人店主が見るに見かねて店から出てきて教えてくれました。しかし今や後の祭り。最終バ スは行ってしまい、私が走ったところで追いつきそうもありません。場所は治安にかなり難ありと言われるケープタウンの中央ビジネス街です。危険とは言え、 日が照っているうちは(あと30分ぐらいは)大丈夫でしょう。仕方なく今後の計画を練り直すべく、見知らぬインターネット・カフェに入ったところ、思いが けず日本語の読み書きができるパソコンに当たって人生「塞翁が馬」の気分です。嗚呼。

Episode 4 [2010年08月20日(金)]

今日の午前中はアフリカ大陸の最南端ではなく(皆さんよく間違えます)最南西端に位置する喜望峰(Cape of Good Hope; Kaap die Goeie Hoof)へ行く現地ツアーに参加しました。ミニヴァンに私を含めて4人しか客がいませんでした。そのせいか、かなり高いツアーでしたが、一生に一度はい いかも知れませんぞ。言語はすべて英語なので、英語の聞き取りや質問ができるようにする必要があります。文化創造学科では多彩な英語クラスで力になります よ。

さて、独特の南国風(シカレドモ熱帯風ニアラズ)の植物と、きれいな海と、浜辺や岩場に打ち上げられた海藻の情景に、7年前に訪れた英国南 西部コーンウォール半島を思い出しました。海辺で海藻を拾って齧ってみたところ、コーンウォールの海藻と同じくらい美味でした。しかしコーンウォール同様 に誰も食用に利用しないのが不思議です。食用海藻事業でも起こしたいですね。

Episode 5 [2010年08月20日(金)]

ケープタウン(カープスタット)に話を戻すと、私の最初の印象は、福岡市の高架式高速道路から博多港を見下ろしているような感じでした。冷たい雨が降りし きる中での到着です。私は生来の怠け者のため運転免許を取得した経験がなく、鉄道好きなのですが、南アの鉄道は危険なので、前もって個人的にミニヴァンを 手配しました。治安の悪い国では事前の計画が欠かせません。さて、雨がひとしきり降り終わると、街の向こうの食卓山(テーブル・マウンテン、またはアフリ カーンス語でターフェルベルク)を背景に見事な虹が見えました。まるでダイヤモンド・ヘッドを背景にしたホノルルの街のようでした。米国ハワイ州を訪れた のは、もう26年も昔のことです。しかし感傷に浸ってないで先へ行きます。

テーブル・マウンテンの南を回ると海を背景にゴツゴツした岩山(テー ブル・マウンテン自体も岩山ですが)がたくさん現れ(17の山だそうですが、地元ではなぜか「(キリストの)十二使徒(the Twelve Apostles; die Twaalf Apostels)」と呼ばれています)、景色は昨年訪れた英領ジブラルタル(スペインが領有権を主張)のようでした。とにかく様々な要素が混じって興味 深い街です。

これから英国エドワード朝イタリア様式の市庁舎(ネルソン・マンデラ氏の釈放直後のバルコニー演説で世界的に有名)にて岬フィル (Cape Philharmonic; Kaapse Filharmoniese Orkes)の定期演奏会を聴きに行きます。これまた危ない場所に在るので、中はともかく外では注意が必要です。

明日(金曜)は南アを離れ、新嘉坡(シンガポール)の日帰り旅行を楽しみます。おそらく7度目の新嘉坡ですが、これほど短い訪問は初めてです。

Episode 6 [2010年08月26日(木)]

日本語の打てるインターネット・カフェを後にして、演奏会前の腹ごなしをすることにしました。現地ガイドが非常に美味で健康にも良いからと、しきりに薦め ていた駝鳥(ダチョウ)を注文しようと、「ママ・アフリカ(Mama Africa)」なる、ケープタウンでは大変有名なアフリカ料理の店に入りました。

しかし店に入るや否や予約の有無を訊かれました。見たところ客は殆ど居らず空いていたのですが、これから予約客で満席になると言われました。カウンター席 でも良いかと訊かれ、私はむしろ喜んでカウンターで食べることにしました。カウンターはいろいろ質問したり注文したり頼んだりしやすいので、私はむしろカ ウンター席が好きです。

メニューを開くと、獲物類(game meat)の欄のダチョウ(ostrich)は何と時価でした。ウェイターに恐る恐る金額を尋ねると、116ランド(約1,400円)とのことでした。南 アフリカの感覚では少々割高な気がしますが、法外に高いわけでもありません。焼き加減を訊いてくるところなどは、まるで牛ステーキです。初めて食べるの で、無難なところでミディアムを選びました。

果たしてオストリッチ200gが運ばれてきました。見た目は鳥の肉には見えません。四足の肉のよう です。ナイフで切れ目を入れると、牛肉のような繊維っぽさはなく、それどころか白い脂身がどこにもありませんが、やはり中身はいわゆるレッド・ミート (red meat)で、とても鳥類の肉とは思えません。期待と不安が入り混じった気持ちで最初の一口を食してみました。するとどうでしょう。今までこんな旨い肉を 味わったことがあっただろうか! と狂喜乱舞するような素晴らしさでした。もっと早くからこの味を知っていたら、南アフリカ滞在中毎日食べたことでしょうに。惜しいことをしました。いつか またアフリカを訪れたら、脇目も振らずオストリッチのリッチな肉のテクスチャーを楽しみたいです。

ちなみにオストリッチをドイツ語では「シュト ラウス(Strauss)」と言いまして、奇(く)しくも複数の著名作曲家の苗字と同じです。ダチョウさんが典雅なワルツなどをいくつも作曲したなんて、 考えると面白いですね。また、ドイツ語に近似したオランダ語では「ストラウスフォーヘル(struisvogel)」(フォーヘルは鳥の意味)、オランダ 語が崩れた南アの現地語アフリカーンス語では「フォールストラウス(volstruis)」(フォールは鳥の意味)です。

Episode 7 [2010年08月26日(木)]

レストランを後にして、もうすっかり暗くなったビジネス街を歩きました。そうそう、このレストランではティップも含めてちょうど200ランド(約 2,350円)で済みました。予想外の安さです。(かつて「ドイツ帝国南西アフリカ」と呼ばれていた)隣国ナミビアのビールをジョッキで2杯呑んで、アフ リカの豆類のスープも飲んで、無料のパンも食べてこの価格ですから、人気があるわけです。時刻は午後7時40分を回ったところです。人通りは殆どないもの の、車のヘッドライトを反射するチョッキを着た警官や警備保障会社の人たちが小集団を組んで街の安全を守っています。現地ガイドの話では、ワールドカップ 中は良かったが、終わってみれば、また back to normal で危険な街に戻ってしまった、と自嘲気味に語っていましたが、どうしてどうして、実際には多くの人々の努力で治安が保たれていることが分かります。

Episode 8 [2010年08月26日(木)]

今回の演奏会は午後8時開始なので、道に迷いさえしなければ、ちょうど良い感じです。演奏会は日本では通常午後7時、欧米では大抵午後7時30分開始です が、南アではオランダの首都アムステルダムの午後8時15分開始の習慣にほぼ準じているようでした。演奏会場にしても外観こそ英国エドワード朝イタリア様 式(Edwardian Italianate style)ですが、中身は世界的に有名なアムステルダムのコンセルトヘバウ(Concertgebouw)によく似た構造です。ステージ裏側の階段状の 座席にいる聴衆が、その気になればいつでもステージに下りてくることが可能な、実に興味深い構造です。しかしオランダと違って指揮者が歌舞伎役者のように 客の間の花道を通って出てくるという演出はありませんでした。客も係員も楽団員も白人が圧倒的に多いです。黒人が多数派の街中とはえらい違いです。指揮者 もピアニストも白人です。ヨーロッパの演奏会場に迷い込んだような錯覚を受けました。今宵の演目はストラヴィンスキー(Igor Stravinsky)の「ナイチンゲールの歌」、ファリャ(Manuel de Falla)の「スペイン庭園の夜」、休憩を挟んでオランダの作曲家ペイペル(Willem Pijper)のピアノ協奏曲、最後にストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」でした。ストラヴィンスキーに始まり、ストラヴィンスキーに終わったわけ です。

もう午後10時を過ぎてしまいました。日本やヨーロッパと違い、南アでは公共交通機関があまり発達していないので、タクシーでホテルに帰 らねば。距離にして田園都市線の三軒茶屋駅から池尻大橋駅ぐらいなので、私には充分歩ける距離ですが、安全をカネで買うべく、タクシーで帰ることにしま す。

しかし他の国と違って、演奏会場の出口で待ち受けているタクシーの姿がありません。そこで片づけをしていた係員に向かって、図々しくもタクシーを呼んでくれないかと声をかけました。すると携帯電話で快くタクシー会社に電話してくれました。5分後に来るとのことでした。

これで一安心と思いきや、いつまで経っても来やしません。待っている間、白人男性係員の一人と世間話などして時間を潰しました。やはりタクシーが来ないの で、その係員が帰宅ついでにホテルまで送ってくれることになりました。既に雑談の中でお互いに身分を明かしていたので、怖いとかいうことはありませんでし た。

しかし女の人にはこのようなスタイルの旅はお勧めできません。とにかく宿まで安全に送ってもらって本当に大助かりでした。旅は道連れ。感謝感謝。

Episode 9 [2010年08月26日(木)]

翌朝はホテルを9時前に引き払い、あらかじめ手配しておいたピックアップ・ヴァンで空港まで送ってもらいました。 ところで申し遅れましたが、私がケープタウンで泊まったこのホテルは、ケープタウン大学経営学部大学院(Graduate School of Management, University of Cape Town)の敷地内にあり、部屋は私が昔留学していたイギリスの大学院生寮によく似ていました。なんだか学生に戻ったような懐かしさがありましたが、なん とこの大学院の建物そのものは、19世紀半ばに英国殖民地当局が築いた刑務所を、外観はそのままに内部を近代的に改装したものです。

刑務所だっ た過去を髣髴(ほうふつ)とさせるために、わざと鉄格子を残している箇所もあります。歴史好きの人には嬉しい宿です。しかし元刑務所というだけのことはあ り、部屋は狭く、治安良好な区域ということで宿泊料金はかなり割高です。しかし日本の常識は通じないので、安全をカネで買うのも致し方のないことです。

さて、南アと日本には直行便がないので、新嘉坡(シンガポール)行きの夜行便に乗り込みました。ケープタウンを発つのは午前中でも、新嘉坡に着くと早朝な ので、事実上の夜行便です。評判の良いシンガポール航空で飛びます。しかし評判が良いとは言え、エコノミークラスで一夜を過ごすのは本当に疲れます。私は 隣が男性客だと肩幅等の関係からか、体が時折ぶつかるのが不快この上なく、まず、まともに眠れたためしがありません。隣が女性客の場合でも、寝相の悪い人 だと、これまた迷惑します。今回はあいにく男性客が隣だったので、ろくに眠れませんでした。

Episode 10 (番外編:シンガポール途中降機) [2010年08月26日(木)]

新嘉坡には朝7時過ぎに着きました。5年振りの訪問ですが、今回は何とも慌しく日帰り旅行です。外はかすかに雨が降っているようにも見えましたが、もうや んだ模様でした。早春の南アから来ると赤道直下の新嘉坡は暑いですが、東京ほどではありません。MRT(Mass Rapid Transit; 直訳すると集団高速移動; 中国語で新加坡地鉄)という地下鉄兼高架式通勤電車に乗って中心街に出ました。MRTは路線を次々に増やしたせいか、7度目の訪問なのに、私は浦島太郎の 気分です。

中心街のドービーゴート(Dhoby Ghaut; 中国語福建方言の当て字で多美歌)駅で降りて散策を開始しました。Cathay Building (キャセイ・ビルディング)が取り壊されて、同名の全く新しい建物に建て替わっていることに気づきました。これは戦前の新嘉坡で最高層のビルであり、戦前 から映画館として有名でした。その高さゆえ、1942年2月15日に新嘉坡を占領支配した日本軍が敗軍の英軍に真っ先に日章旗を掲げさせたのが、このビル です。そして日本軍制下の3年半の間、大日本帝国の宣伝班がここを本拠に戦時プロパガンダ工作活動をしていました。

そしてその斜向かいに、私が かつて定宿(じょうやど)にしていたYMCA(Young Men’s Christian Association; 基督教青年団)が見えてきました。ここは日本軍制下には憲兵隊東部方面本部として機能していました。日本の敵だった英国に同情的で、尚且つ、蒋介石軍に資 金援助しているとされた中国系市民が次々に連行され、夜な夜な拷問を受けていた場所でもあります。迷信深い現地の人は、「YMCAには幽霊が出る」と囁 (ささや)き合っていますが、私は幽霊には遭遇していません。しかし憲兵隊の記念盤を撮影しようとしたところ、それまで晴れ渡っていたのに、その箇所だけ 急に妖しい白い霧が立ち込めて、撮影を諦めたことがあります。

YMCAそのものには用が無いので、続いて国立博物館(National Museum of Singapore; 新加坡国家博物院)の開館時間を確認しました。付近一帯は10年前に鳴り物入りで新設された私立シンガポール経営大学(SMU: Singapore Management University; 新加坡管理大学)の建物ばかりです。この10年間で附近の土地や建物を買収し、車道の流れまでも歪(いびつ)に変えて、新しい建物を次々に建てているの で、昔の様子を知っている私は、ここでも浦島太郎状態です。新嘉坡の変化するテンポには追いつけそうにありません。

Episode 11 (番外編:シンガポール途中降機) [2010年08月26日(木)]

さらに歩いて日本軍が1945年9月2日に英軍によって降伏文書に署名させられた堂々たるギリシア風の市庁舎や、20世紀初頭に亡くなったばかりのヴィク トリア女王を記念して建てられた白亜の殿堂、ヴィクトリア音楽堂(Victoria Concert Hall; 維多利亜劇院及音楽会堂)の辺りを散策しました。このまま歩いてマリーナ湾の向こうまで行って、出来立てほやほやで「山」という漢字を逆さにしたような風 変わりな外観をした巨大な高級ホテルを訪れてお茶でも飲もうと思いました。しかしちょうど折り悪く2010年青年オリンピック大会のせいで、道の殆どが鉄 のバリヤーで塞がれていて、通り抜けができません。警備も厳重です。歩こうにもタクシーを拾おうにも恐ろしく難儀するので、ホテル訪問は諦めました。

そこでまたMRT電車の乗客になり、郊外に出ました。ブキティマ(Bukit Timah; 中国語福建方言の当て字で武吉知馬)丘陵地帯の戦前のフォード自動車工場跡を訪れるためです。不便な場所に在るので、駅からタクシーが欠かせません。

ここは1942年2月15日に大日本帝国陸軍の山下奉文中将(後に大将)が、白旗を掲げてやって来た英国陸軍のアーサー・パーシヴァル中将(Lt. Gen. Arthur Percival)に対して「無条件降伏か、イエスか、ノーか」と詰め寄って、降伏文書に署名させたことで知られる場所です。10年以上前にタクシーで訪 れたときは、周りに草が生い茂った廃墟で、立ち入り禁止でした。当時は建物の老朽化が進み、いつ崩れてもおかしくない状態であり、おまけに草叢から毒蛇が 出てきそうな気配すらありました。今では高級分譲マンション(英語でcondominiums)が周囲を取り巻いていますが、この区域一体は日英両軍が激 しく衝突して多くの死傷者を出したこともあり、迷信深い現地の人は不吉な場所と考えています。そのためコンドミニアムに住むのは、そのような迷信を気にし ない白人が多いようです。

Episode 12 (番外編:シンガポール途中降機) [2010年08月26日(木)]

到着すると、新嘉坡流の真新しい清潔感が却って嘘臭く感じられました。私は戦時中のニュース・フィルムを何度も視聴し、戦後の廃墟だった頃の姿を知ってい るだけに、現在の博物館の姿はどこか他所他所(よそよそ)しくて残念でした。中に入ってみると、歴史上重要な山下・パーシヴァル会見のことは案外あっさり と扱うのみで、展示の殆どは日本軍の残虐行為、特に占領初期に行なった「粛清」と呼ばれる中国系住民虐殺事件に関することでした。

出口附近のコメント帳をめくると、Curse U Japs! (お前らジャップに呪いあれ)というのが最新のコメントでした。名前や字体からして白人、おそらくは豪州人のカップルのようでした。

The Japs were terrible! S’pore is lucky to have been freed from their cruelty. The Japanese suckz. Thankz to USA we are free. USA rox!! (ジャップの奴らはひどい。シンガポールは奴らの残虐性から解放されてラッキーだ。日本人はサイテーだ。米国のおかげでボクらは自由だ。米国はスゴい)と書いたのは、字体や名前からして現地の中学生ぐらいの子でしょう。

The Japanese should not have treated the British so badly. In the end, it was the British turn to harm the Japanese. The Ford Factory gives a lot of history about the past! It is very interesting. (日本人/日本軍は英国人をあんなにひ どい扱いにするべきではなかった。結局、今度は英国が日本人に危害を加えることになった。フォード自動車工場は、過去の歴史について多くのことを与えて (教えて)くれる。とても興味深い)と書いたのは、現地の小学生です(学校名が書いてあります)。なかなかしっかりした考えの子です。

中には唐突に I love Japanese.(日本大好き)と書いている子もいて微笑ましいです。

こうしたコメントに対する私のコメントは、Sorry to be a Nip/Jap (日本鬼子), really. This was the greatest victory in Japan’s military history—only to be tarnished by the subsequent events. If only we had had great statesmen and more civilised folk. The father of a friend of my father was hanged in 1946 as a Class B & C war criminal, incidentally…. I’m happy to say, though, that I have a close friend here in Singapore and good friends in England. (ニップ/ジャップ/日本鬼子で悪かったね、ホントに。これは日本の軍事史の中でも最大の勝利だったのだが、その後に起こった ことのために汚点を残してしまった。当時の我が日本に偉大な政治家やもっと文明的で教養のある民衆がいたらなぁと思う。ちなみに父の友人の父親は1946 年にBC級戦犯として絞首刑に処せられている。しかし私はここ新嘉坡に親しい友人が1人いるし、英国イングランドに複数の良き友がいることを喜んでお伝え しよう)です。

Episode 13 (番外編:シンガポール途中降機) [2010年08月26日(木)]

重苦しい歴史に別 れを告げ、また別のタクシーを拾ってMRTの最寄駅に戻り、電車で再び中心街に来ました。先ほど時間が早すぎて入れなかった国立博物館(National Museum of Singapore 新加坡国家博物院)を訪れました。ここは英国統治時代はRaffles Library and Museum、日本軍支配下では昭南博物館という名前でした。5年前に来たときは建物の大改装・拡張中で、仮住まいの小さな博物館にしか入れなかったこと を考えると、格段の違いです。ヴィクトリア朝建築の美しい古典様式の外観をきちんと維持しながら、裏庭だったところに壁や透明なガラス張りの天井を設け、 さらに最新の別館とそのままつなぐことで、床面積を極度に拡げました。本家本元の大英博物館(the British Museum)の大コート(Great Court)と呼ばれる場所の改修工事を思わせるやり方です。建物には感心しましたが、展示物に大した物はありません。それに暗すぎてよく見えないという こともあります。大きな潜在的可能性を秘めながら残念です。今後に期待しましょう。

Episode 14 (番外編:シンガポール途中降機) [2010年08月26日(木)]

そうこうするうちに英国留学時代に親しくしていた現地の友人と逢う時間が近づいてきました。約束の場所は歴史上名高いラッフルズ・ホテル(Raffles Hotel)の正面玄関です。しかし逢うにはまだ少々時間があるので、中庭を散策し、玄関近くの野外テラスのロビー(屋内ロビーは宿泊客しか入れません) の籐椅子(a rattan chair)に座っていたところ、旅の疲れが出て、眠り込んでしまいました。世界一危険とされる南アから、世界一安全な新嘉坡(統計上、日本より安全)に 来た安心感もありました。何か夢を見ていましたが、起こされて目を開けると友人がいました。

友人は中国系ですが、亡き父親がベートーヴェン崇拝 者だったため、かの大作曲家の名前ルートヴィク(Ludwig: 日本では北ドイツ式のルートヴィヒの発音が一般的)と名づけられました。南洋理工大学国家教育院(NIE: National Institute of Education)の専任講師をしていて、私より年下ながら既に言語学の著書を出すほどの業績があります。時計を見ると眠り込んだのは7分程度でした が、これで日本に帰ったら「ラッフルズ・ホテルで寝た」と自慢できるわけです。

そして早めに夕食を済ませて、2002年に開館したエスプラネイド(Esplanade; 濱海藝術中心)でシンガポール交響楽団(SSO: Singapore Symphony Orchestra)の定期演奏会を聴きました。

曲目はマルティヌー(Bohuslav Martinů)の交響曲第6番、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)のヴァイオリン協奏曲、そして休憩を挟んでドヴォルジャーク(Antonín Dvořák)の交響曲第8番でした。メンデルスゾーンは心地良すぎて、事前に懸念したように、やはり眠りに落ちてしまいました。休憩時間には当然ながら 珈琲を飲んで目を覚ますよう努めました。後半のドヴォルジャークでは、旧東独出身の指揮者が見事に説得力のあるテンポで指揮し、楽団員もそれによく応えて いました。

そして友人の運転するトヨタ・カムリで再びチャンギ空港に到着し、成田行きの夜行便に間に合うことができました。では、これにて。

オリジナルのリンク先

(ネット上の写真は早くに全てが消滅し、2014年3月末に短期大学部が閉鎖した暫く後に上記の文章自体がリンク切れとなった)

http://content.swu.ac.jp/bunka-blog/2010/08/ (リンク切れ)

http://content.swu.ac.jp/bunka-blog/2010/08/page/2/(リンク切れ)

http://content.swu.ac.jp/bunka-blog/category/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%85%88%E7%94%9F/page/2/ (リンク切れ)

http://content.swu.ac.jp/bunka-blog/category/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%85%88%E7%94%9F/ (リンク切れ)