前期17「イギリス文化論」(2021/ 6/17 + 6/24) 英国の大学年表と女権(第二次世界大戦後からブレグジット国民投票直前まで)

https://www.bbc.co.uk/sounds/play/w3cszmrl (英語吹替版、音声のみ)

1962年 教育法(Education Act 1962)が制定される。

(外部サイト)

前の年表( https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline3 )から続く。日本の大学年表についてはウェブページ6種( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline1 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline2 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline3 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline4 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline5 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline6 )を参照のこと。

1945年9月16日(日) 三年九ヶ月前の1941年12月25日(木)以来、軍事占領・統治を続けてきた香港駐留日本軍の岡田梅吉(おかだ うめきち, 生歿年不詳)陸軍少将と藤田類太郎(ふじた るいたらう, 生歿年不詳)海軍中将が香港総督府(Government House)にて降伏文書に署名し、英国海軍(Royal Navy)のハーコート少将(Rear-Admiral Sir Cecil Harcourt, 1892-1959; 中文名 夏慤)へ提出。これ以後、英国による香港統治は1997年6月30日(月)まで続くことになる。

当時の映像

Hong Kong Surrender 1945

https://www.youtube.com/watch?v=V8_G5ECDTUs

1946年7月15日(月) 英米ローン合意(Anglo-American Loan Agreement)により、戦争ですっかり疲弊(ひへい)していたイギリス政府は、アメリカ政府から膨大な借金をする。期日は六十年後の年末である2006年12月31日(日)に設定される。期日が迫る中、英国政府は遂(つい)に2006年銀行最終営業日である2006年12月29日(金)、アメリカ政府に対して約束通り最後の返済を終えることになる。その額は4200万ポンド(£42m; 42,000,000 pounds)≒2006年末当時の為替レートで約92億円に及ぶ。因(ちな)みに馬渕睦夫(まぶち むつお, b.1946; 京都大学中退、英ケイムブリヂ大学卒、学寮名不詳)元日本国特命全権大使キューバ国駐箚(ちゅうさつ)・元駐ウクライナ兼モルドヴァ日本国大使・元防衛大学校教授・吉備国際大学客員教授著 『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』(ワック Wac Bunko, 2014年)によると、日本が日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)で借金した戦費は八十年余りの期間、イギリスのユダヤ系財閥に分割返済され、完了したのは昭和61年=1986年とのこと。

1947年8月15日(金) 対日戦勝記念日(VJ Day: Victory over Japan Day)のこの日、イギリスが英領印度(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ)から撤退。なお、独立の立役者の一人、ガンディー(Mahatma Gandhi, 1869-1948)は、インド独立から半年も経ていない翌年(1948年)1月30日(金)にヒンドゥー教過激派のナートゥーラーム・ゴードセー(Nathuram Godse, 1910-49)の兇弾に倒れて絶命することになる。

当時の映像(無音)

Indian Independence Day 1947

https://www.youtube.com/watch?v=4ZXCiKqAzoc

1947年11月20日(木) ウェールズ女大公エリザベス王女(Elizabeth, Princess of Wales, b.1926)=後の女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)=25歳が、五歳(厳密には四つ半)年上のドイツ系のデンマーク王子兼ギリシア王子だったフィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)=30歳と結婚。このロイヤルカップルは二人ともヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の玄孫(やしゃご: great great grandchildren)に当るため、みいとこ(third cousins)同士ということになる。2017年11月20日(月)は結婚七十周年記念日=プラチナ婚式だった。

当時の映像

後のエリザベス英女王とフィリップ殿下、1947年のロイヤル・ウェディング

2021年4月10日(土)

https://www.bbc.com/japanese/video-56693436

1948年1月4日(日) イギリスが英領ビルマ(現在のミャンマー)と英領セイロン(現在のスリランカ)から撤退。

1948年6月22日(火) 429人のジャマイカ人を乗せたエンパイヤー・ウィンドラッシュ号(MV Empire Windrush: 「帝国風迫」の意)がカリブ海の西インド諸島(West Indies)から英国に上陸。これ以後、多くの黒人カリブ系移民(Afro-Caribbean immigrants)がイギリスに流入。歴史の転機となる。

1948年6月30日(水) 1948年普通選挙法(Representation of the People Act 1948)の勅裁・施行で大卒者の複数投票権が廃止され、学歴に拘(かか)わらず一人が一票となり今日(こんにち)に至る。

1948年7月5日(月) 六年前の1942年の『社会保険と関連サービス』(Social Insurance and Allied Services)、通称『ベヴァリッジ報告書』(Beveridge Report)に基づく「1946年国民健康保険法(National Health Service Act 1946)」の効力発揮により、国民健康保険の運営が開始され、国民皆保険・無償の医療が始まる。なお、イギリスを参考にした日本の国民健康保険はイギリスに遅れること十三年後の1961年開始。

1948年7月29日(木)~8月14日(土) 第十四回オリンピック大会(Games of the XIV Olympiad)がロンドン開催される。同地での開催は四十年前の1908年以来二度目。四年前の1944年に第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)のため実現できなかった幻の大会を、同大戦での戦勝から僅(わず)か三年後の1948年7月29日(木)~8月14日(土)に決行。日本は敗戦国で非独立国(米進駐軍による被占領国)だったため参加できず。参加国・地域数は59で、四十年前のロンドン大会に比べて2.6倍以上増えた。

1948年10月 ロンドン大学の分校として1881年に創立されたユーネヴアセティ・コレッヂ・ノッティンガム(University College Nottingham)が独立し、ノッティンガム大学(University of Nottingham)として正式に認可される。1869年に開学した女子学寮(College for Women)が、ケイムブリヂ大学の女子学生専用学寮のガートン学寮(Girton College, Cambridge)となる(この学寮は1977年に男性研究員を初めて入寮許可し、男子学部生については1979年に許可)。ケイムブリヂ大学でこの年から女性が初めて正規学生として勉学が認められる(但し、聴講生としては1870年から部分的に許可)が、女子専用の学寮以外は相変わらず女子学生の入寮を拒み続けたので、女子のケイムブリヂ大学に入学する際の実際の難易度は男子の十倍だったと言われる。

1949年2月1日(火) 戦時中から続いていた衣服配給制度(rationing of clothes)が終わる。

1949年4月18日(月) 十年余り前の1938年12月29日(水)に英国王 (British monarch)を国家元首(Head of State)として戴(いただ)く立憲君主制(constitutional monarchy)の国家であることをやめ、大統領制(presidency)の共和国(republic)であるエール(Éire)、または英語でアイァランド(Ireland)に成っていたアイルランド(愛蘭)が英連邦(British Commonwealth)を離脱し、完全に独立した共和制国家に成る。

1949年12月16日(金) 「1911年議会法(Parliament Act 1911)」を一部改正した「1949年議会法(Parliament Act 1949)」の勅裁・施行により、貴族院(上院)が庶民院(下院)で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮される。

1950年代~’90年代中盤 「ケイムブリヂの五人組」(Cambridge Five ケイムブリヂ・ファイヴ)と呼ばれる英国人売国奴によるソ連側スパイ集団の存在が露見する。そのメンバーはフィルビー(Kim Philby, 1912-88; 暗号名 Stanley スタンリー)、マクリーン(Donald Maclean, 1913-83; 暗号名 Homer ホーマー、つまり古代ギリシアの詩人ホメロスのこと)、バージェス(Guy Burgess, 1911-63; 暗号名 Hicks ヒックス)、ブラント(Anthony Blunt, 1907-83; 暗号名 Johnson ジョンソン)、ケアンクロス(John Cairncross, 1913-95; 暗号名 Liszt リスト、つまりハンガリー生まれのドイツ系ピアニスト・作曲家の名)の5人だった。この内、ブラントとバージェスとケアンクロスの3人は、1930年代に 同大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)と同大学国王学寮(King’s College, Cambridge)の知的秘密結社である「使徒たち」(Apostles アストゥルズ)の会員だった。彼らは同時に同大学に於いて共産主義(Communism)を信奉するようになり、ソ連のスパイ当局(NKVD エヌカーヴェーデー、後のKGB カーゲーベー)の新人勧誘担当からの誘いに乗ってソ連側スパイとして活動するようになった。英国外務省やMI6(マイ・シックス: 英国政府の対外向け諜報(ちょうほう)機関)などの職員であったメンバーは、二重スパイ(double agents)としてイギリスとその同盟国(特にアメリカ)の外交・軍事・諜報などに関する大量の情報をソ連側に引き渡した。彼らのスパイ活動は1950 年代に徐々に露見し、その内、マクリーンとバージェスが1951年5月に、フィルビーが1963年に、ソ連に亡命した。グループ最年長で、1930年代当時は既に学生ではなく同大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)研究員(a fellow)の肩書きを得ていたブラントは親玉的存在であったが、1964年4月23日(木)にMI5(マイ・ファイヴ: 英国政府の国内向け諜報機関)に全てを白状し、仲間を売った。この事実上の司法取引で英国政府はブラントの罪を赦(ゆる)し、一切の訴追(そつい)を免除し、以後十五年間はブラントがソ連スパイだったという事実を公開しないと約束した。そして十五年後の1979年11月15日(木)と同月21日(水)の英国議会衆議院(庶民院)本会議で、首相になってまだ半年しか経ていなかったサッチャー(Margaret Thatcher, or Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90)がブラント(この時点では美術史家で女王陛下の個人藝術アドバイザー)のソ連スパイの過去を暴露した。この暴露によってブラント はマスコミに追い回され、女王はブラントのあらゆる肩書きや称号や勲章を剥奪(はくだつ)した。その三年四ヶ月後にブラントはロンドンの自宅にて心臓発作で死んだ。長年正体不明とされた第五の男(the Fifth Man)の存在が一般社会で明るみ出たのは1990年のことだが、英国政府は1951年の段階で既にケアンクロスがソ連側のスパイであることをつきとめ、一切の公職から追放していた。上記のブラントによる1964年4月の告白でもこのことが再確認されている。ケアンクロスは自身の過去が一般に知れ渡ってか ら五年後の1995年に、長いフランスでの生活から帰国し、アメリカ人オペラ歌手と結婚したが、その年のうちに脳梗塞で死去した。

(参考文献)

マッキンタイアー(Ben Macintyre)[著], 小林朋則[訳] 『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』(中央公論新社, 2015年)

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4120047199/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1

(原著)

Ben Macintyre, A Spy among Friends: Kim Philby and the Great Betrayal (Bloomsbury Publishing, 2014)

http://www.amazon.co.uk/gp/product/1408851725?keywords=Ben%20Macintyre%2C%20A%20Spy%20among%20Friends%3A%20Kim%20Philby%20and%20the%20Great%20Betrayal&qid=1441353109&ref_=sr_1_2&sr=8-2

1951年10月26日(金) 七十七歳の誕生日を一ヶ月後に控えたチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)が前日の総選挙で雪辱を晴らしたことで組閣。人生二度目の総理大臣を務める(1955年4月7日(木)まで)。そして1945-51年にアトリー、後の初代アトリー伯爵(Clement Attlee, 1st Earl Attlee; 首相在任1945-51; オクスフオッド大学ユーネヴアセティ学寮卒)による労働党(Labour Party)内閣が推し進めた基幹産業の国有化をやめさせ、1953年に再度民営化する。なお、スペイン継承戦争(西 Guerra de Sucesión Española; 英 War of the Spanish Succession, 1701-14)で軍才を発揮して公爵(Duke)にまで上り詰めた初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 1650-1722)は、ウィンストン・チャーチルの先祖に当たる。また、故ダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)こと、旧姓スペンサー伯爵令嬢(Lady Diana Spencer, 1961-97)も初代マールバラ公爵の子孫に当たる。

1952年2月6日(水) 国王ジョージ六世が満56歳で病歿。新国王には英領ケニア訪問中の長女(当時25歳)エリザベスが女王エリザベス二世として即位(但し、戴冠式は翌年)。エリザベス一世の治世(1558-1603年)とヴィクトリア女王の治世(1837-1901年)のように女王が長く君臨すると国が栄えた前例があるため、長生きしてくれそうな若い女王に国民は新しい明るい時代の息吹を感じ、大いなる期待を寄せた

1952年5月2日(金) 史上初の実用ジェット旅客機として、英国のデ・ハヴィランド(de Havilland Aircraft Company Limited: 1964年解散)のコメット(DH.106 Comet)機が、英国海外航空(BOAC: British Overseas Airways Corporation)、現在の英国航空(BA: British Airways)のロンドンと南アのヨハネスブルク(Johannesburg, South Africa)を結ぶ便に就航。所要時間は従来の旅客機に比較して半減され、ジェット旅客機の優位性を広く世に示したが、二年後の1954年に深刻な航空機事故を度々(たびたび)起こし、多数の死者を出したため、米国のボーイング社(The Boeing Company)やダグラス航空機社(Douglas Aircraft Company )やロッキード社(Lockheed Corporation)などとの競争に敗れ、デ・ハヴィランド社自体も1964年には姿を消すことになる。

1952年10月3日(金) チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)内閣が大国・戦勝国の威信をかけて英連邦豪州のモンテベロ諸島(Montebello Islands)で「ハリケーン作戦(Operation Hurricane)」と名づけられた原爆実験に成功。英国が米ソに続く第三の核保有国に成る。

1952年12月5日(金)~9日(火) ロンドンの大スモッグで当時の推定で約4,000人が死亡。但し、現在の算定では1万2千人がスモッグ関連の呼吸疾患で死んだとされている。英国史上最悪の環境災害(人災)。

1953年4月27日(月) 皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)=後の平成時代の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor,, b.1933; 在位1989-2019)=後の令和時代の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)が、米領ハワイ=後のハワイ州と、カナダ横断鉄道と、米東海岸ニューヨーク港を経由して、イングランド南部のサウサンプトン(Southampton, Hampshire, England)港に到着。現地メディアの前で英語による声明文を読み上げる。第二次世界大戦中に日本軍によって虐待された元捕虜たちが抗議運動を展開。

(動画)当時のニュース映像「明仁親王到着」

https://sites.google.com/site/xapaga/home/akihitopathe1953

http://www.britishpathe.com/video/prince-akihito-arrives

1953年4月30日(木) 英国内の反日感情(anti-Japanese sentiments; Japanophobia)に苦慮するチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)首相=78歳が、ダウニング街10番地(10 Downing Street)の首相官邸での非公式な昼食会(luncheon)に、満19歳の皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)=後の平成時代の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor,, b.1933; 在位1989-2019)=後の令和時代の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)を招待。同時に招かれたのは、野党労働党(Labour Party)の党首(Head)、労働組合幹部(trades union leaders)ら、新聞社主(newspaper company owners)たちといった反日強硬派の面々だったが、これら反日強硬派も明仁親王も、同じ場に引き合わされることは事前に知らされておらず、チャーチル首相の計略だったという。チャーチルはここでスピーチをし、それは「英国人は激しく意見を戦わせるが、最終的にはどんな違いも乗り越えて合意に達する。英国らしさの根底にあるのが立憲民主制(constitutional democracy)です。」という主旨だったという。この言葉に感銘を受けた明仁親王は翌日(1953年5月1日(金))側近を通じてチャーチル首相への謝意を伝えたという。

【外部サイト】

ぼやきくっくり時事ネタぼやきと番組書き起こし

両陛下ご訪英と日英友好秘話(チャーチル首相とフォール卿の尽力)

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1194.html

なお、上記の「フォール卿」は、英勲爵士サム・フォール氏(Sir Sam Falle, 1919-2014)の誤記。

1953年6月2日(火) ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)にて女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)の戴冠式(たいかん しき: Coronation)が挙行され、日本からは当時まだ満19歳半だった皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)=後の平成時代の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor,, b.1933; 在位1989-2019)=後の令和時代の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)が、昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89) の名代(みょうだい)として出席。当時イギリスでは第二次世界大戦で残忍な敵国だった日本国の記憶が根強くあり、対日感情が頗(すこぶ)る悪かったため、 戴冠式に於いて13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられ、女王との対面まで長時間待たされた。女王は明仁親王と握手は交わしたが視線は交わさなかったという。西川恵(にしかわ めぐみ, b.1947)著 『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮社, 2019年)によると、当時敗戦国の日本に対する英国社会のまなざしは厳しく、明仁親王に用意されたのは末席だったが、それを見かねて最前列の自分の席の近くに呼び寄せたのが、後にサウジアラビア王国のファイサル(فيصل بن عبد العزيز آل سعود‎ = Faisal bin Abdulaziz Al Saud, 1906-75; 在位1963-75)国王となるファイサル王子(Prince Faisal)だったという。その十八年後の1971年にファイサル国王は国賓(State Guest)として日本に招かれている。

1953年 ケイムブリヂ大学(University of Cambridge)のフランシス・クリック(Francis Crick, 1916-2004)博士と米国人科学者ジェイムズ・ワトスン(James Watson, b.1928)博士とニュージーランド出身の科学者(Maurice Wilkins, 1916-2004)博士が共同でデオキシリボ核酸(DNA: deoxyribonucleic acid)の二重螺旋構造(the double helix)を発見。三人はこの世紀の大発見で九年後の1962年にノーベル生理学・医学賞(典 Nobelpriset i fysiologi eller medicin; 英 Nobel Prize in Physiology or Medicine)を受賞。しかし彼らは仲が悪かったユダヤ系女性科学者ロザリンド・フランクリン(Rosalind Franklin, 1920-58)博士が撮影に成功したX線回折写真を無断で盗んだためにDNAの二重螺旋構造を発見したとも言われている。

1954年7月4日(日) 戦時中の1940年1月8日(月)から延々と続いていた食糧品配給制度(food rationing)が、十四年半にして公式に終了。

1954年秋 ケイムブリヂで3番目の女子専用学寮として新寮(New Hall, Cambridge)、現在のマリー・エドワーヅ学寮(Murray Edwards College, Cambridge)が開寮。この学寮は今日(こんにち)に至るも同大学で男子学生の受け入れを拒否し続ける2学寮のうちの一つである。

1955 年7月9日(土) ロンドンに於(お)いて、1950年ノーベル文学賞受賞者の英人バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)こと第3代ラッセル伯爵バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell, 1872-1970; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)と、1921年ノーベル物理学賞受賞者でドイツ生まれのユダヤ系帰化米人アインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955; チューリッヒ工科大学卒)博士(チューリッヒ大学)と連名で「ラッセル=アインシュタイン宣言」(Russell-Einstein Manifesto)を発表し、核兵器廃絶と科学技術の平和利用を訴える。アインシュタイン自身は同年(1955年)4月18日(月)に既に死去していたので、アイン シュタイン博士の遺言とも見做(みな)された。この宣言に日本からも1949年ノーベル物理学賞受賞者で京都大学基礎物理学研究所初代所長の湯川秀樹(ゆ かわ ひでき, 1907-81; 京都帝國大學卒)博士が署名。

1956年6月3日(日) 当時の英国国鉄(British Railways)が従来の等級制(一等、二等、三等の3等級)の中から中等級に相当する二等(second class)を廃止する。尤も1844年鉄道規制法(The Railway Regulation Act 1844)が必ず三等車を運行することが法的に義務づけたこともあり、二等は事実上ほぼ残っていない状態だったが。英国国鉄は残った三等(third class)の名を二等(second class)へと詐称(さしょう)的に改称する。

1956年10月29日(月)~11月7日(水) 八十一年前の1875年以来、英国政府が筆頭株主としてフランスと共にスエズ運河の事実上の支配を続けてきたが、エジプトのナーセル(جمال عبد الناصر حسين‎ = Jamāl ʻAbdu n-Nāṣir Husayn; Gamal Abdel Nasser, 1918-70; 大統領在任1956-58)大統領が1956年7月26日(木)にスエズ運河のエジプト国有化を宣言。イギリスとエジプトの関係悪化でスエズ危機(Suez Crisis)が勃発(ぼっぱつ)。イギリスはフランスとイスラエルとの密約でエジプトを軍事攻撃し(陸ではイスラエルが侵攻、空からは英仏が空爆)、十六日間に亘(わた)ってエジプトと軍事衝突。英国政府はアメリカの介入を期待するもアメリカは不介入を貫(つらぬ)き、第三次世界大戦(the Third World War; World War III)の勃発を恐れる国際社会(international community)の批判を受けて英軍は苦戦。

1956年12月 同年(1956年)秋に勃発(ぼっぱつ)したスエズ危機(Suez Crisis)で英軍はエジプトから最終的に撤退。イギリスの事実上の敗退で第三次世界大戦は回避される。英国の国際政治に於ける発言力・影響力が大いに後退し、もはや大国ではないことを思い知らされる。保守党のイーデン(Anthony Eden, 1st Earl of Avon, 1897-1977; 首相在任1955-57; オクスフオッド大学基督教会学寮卒)内閣総理大臣(後の初代エイヴォン伯)は、翌年(1957年)1月9日(水)に引責辞任。

1957年10月10日(木) イングランド北西部の湖水地方国立公園に程近いセラフィールド(Sellafield)、別名ウィンドスケール(Windscale)、別名ワイトヘイヴン(Whitehaven)で深刻な火災=原発事故(INES基準でレベル5)が発生。保守党のマクミラン(Harold Macmillan, 1st Earl of Stockton, 1894-1986; 首相在任1957-63; オクスフオッド大学ベァリオル学寮卒)内閣総理大臣(後の初代ストックトン伯)は詳細の隠蔽(いんぺい)を指示するも、事故があった事実は隠すことができなかった。最終的に英国政府が当時の極秘書類を公開し、事故の被害を公式に認めたのは、事故から三十年も経過した1988年1月のこと。

1957年11月9日(土) 英国政府が上記の原発事故に関する白書を発表。

(参考)昭和32年=1957年12月15日(日)付の日本の原子力産業新聞(第56号)の第4面の記事「原子炉事故と世論 ”ウィンズケール”の経験」

http://benzaiten.dyndns.org/img/gensanshimbun_19571225_windscale_fire.jpg

1957年12月25日(水・祝) 四半世紀前の1932年12月25日(日・祝)以来、祖父ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の代から続く毎年恒例グリニッヂ標準時15時(15:00 GMT; fifteen hours Greenwich Mean Time)の聖誕祭メッセージ(Christmas message)を1952年以来欠かさず継続している女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が、テレビ(開始当時はまだ白黒)を通じた動画( https://sites.google.com/site/xapaga/home/queenxmas1957 )でも上記メッセージ放送するようになる。それは恰(あたか)もヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の時代に舞い戻ったような、女性君主(a female monarch)ならではの家庭的な雰囲気の演出に成功している。

1958年8月30日(土)~9月5日(金) ロンドンのノッティングヒル(Notting Hill)地区で人種暴動(race riot)が発生。白人の若者300~400人が十年前の1948年6月から流入している黒人カリブ系移民(Afro-Caribbean immigrants)に対して人種的憎悪(racial hatred)を燃やし、彼らの人家を襲撃。140人を超える逮捕者が出て、その内の108名が起訴されたが、72人が白人で36人が黒人だった。多くの怪我(けが)人が出たが、死者は確認されていない。

1958年 チャーチル元首相(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55)の名に因(ちな)んだケイムブリヂ大学チャーチル学寮(Churchill College, Cambridge)が男子専用の学寮として開寮。なお、この学寮は1972年に女子学生の受け入れを開始し、完全共学化した。

ここまでが古き大学(ancient universities)6校と、ウェールズ大学(University of Wales)の複数キャンパスと、ロンドン大学(University of London)の複数キャンパスと、イングランド北部のダラム大学(University of Durham)と、赤煉瓦大学(red brick universities)6校の時代

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これ以降、英国各地に男女共学の板ガラス大学(plate glass universities)が登場、中産階級に混じって労働者階級の中から優秀な若者が初めて大学に進学、これらの大学の一部は二十一世紀の現在、「ラッセル・グループ(Russell Group)」と呼ばれる新興有力大学群24校の一角を為(な)す

1960年代 アフリカでの独立運動の高まりを受けて、イギリスは英国殖民地を次々に独立させる。英国社会がビートルズをはじめとするロック音楽とともに、かつて ないほどの急激な変化を経験する。学生運動(students’ revolt)が激化。特に悪名高いのは1961年創立のサセックス(つまり南のサクソン人の土地)大学と1964年創立のエセックス(つまり東のサクソ ン人の土地)大学。キャンパスの建物があまりにも醜悪なので若者の心が荒廃するという議論も。

1960年12月31日(土) 徴兵制度(兵役)廃止。以後は志願兵制に。

1961年 サセックス大学(University of Sussex)の設立。連合王国(UK: United Kingdom)が当時の欧州経済共同体(EEC: European Economic Community)、後の欧州連合(EU: European Union)に加盟申請。経口避妊薬(ピル; COCP: combined oral contraceptive pills)が解禁される(日本では大きく遅れて1998年解禁発表、翌’99年6月解禁)。国民健康保険の対象になり2シリング(当時の1ポンドの10 分の1)という安価で購入できるようになる(現在は無償配布)。

日本のピル事情を振り返る、国連加盟国で最も遅い承認だった

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2021年7月7日(水)

https://www.bbc.com/japanese/video-57744673 (日本語版、動画付)

2020年5月13日(水)

1962年 九年前の1953年にケイムブリヂ大学(University of Cambridge)のフランシス・クリック(Francis Crick, 1916-2004)博士と米国人科学者ジェイムズ・ワトスン(James Watson, b.1928)博士とニュージーランド出身の科学者(Maurice Wilkins, 1916-2004)博士が共同でデオキシリボ核酸(DNA: deoxyribonucleic acid)の二重螺旋構造(the double helix)を発見したことが評価され、1962年ノーベル生理学・医学賞(瑞 Nobelpriset i fysiologi eller medicin; 英 Nobel Prize in Physiology or Medicine)を受賞。しかし彼らは仲が悪かったユダヤ系女性科学者ロザリンド・フランクリン(Rosalind Franklin, 1920-58)博士が撮影に成功したX線回折写真を無断で盗んだためにDNAの二重螺旋構造を発見したとも言われている。フランクリン博士は盗まれた自分の写真が基(もと)で、自分と仲が悪かった三人の男性研究者がノーベル賞を受賞するなどとは夢にも思わず、1958年に満37歳で死亡していた。

1963年 二年前の1961年に加盟申請した欧州経済共同体(EEC: European Economic Community)、後の欧州連合(EU: European Union)では、フランスのド・ゴール(Charles de Gaulle, 1890-1970; 大統領在任1959-69)大統領が英国の加盟に強硬に反対し、拒否権(veto)を行使。ヨーク大学(University of York)とイースト・アングリア大学(University of East Anglia)が開学。前者(ヨーク大学)は1960年代の所謂(いわゆる)「板ガラス大学」でありながら、「ラッセル・グループ(Russell Group)」と呼ばれる新興有力大学群24校の一角を為(な)している。

1964年2月7日(金)~2月22日(土) イギリスの人気バンド、ザ・ビートルズ(The Beatles)がニューヨークJFK空港(John F. Kennedy International Airport; 通称 JFK)に到着。初のアメリカ横断ツアーを開始。これを含めて通算4度のアメリカ横断ツアーを決行することになる。

1964年8月13日(木) 英国最後の死刑執行(2件)。

1964年8月19日(水)~9月21日(月) 僅か半年前に初のアメリカ横断ツアーを成功裡に終えたばかりのザ・ビートルズ(The Beatles)が二度目のアメリカ横断ツアーをサンフランシスコ(San Francisco, CA)で開始。

1964年秋 エセックス大学(University of Essex)とランカスター大学(University of Lancaster)が開学。

1964年10月16日(金) 前日の総選挙で勝利した労働党(Labour Party)の党首ハロルド・ウィルソン(Harold Wilson, 1916-95; 首相在任1964-70 & 1974-76; オクスフオッド大学イエス基督学寮卒)が内閣を組閣。1967年には鉄鋼や運輸の基幹産業を再国有化することになる。

1965年1月24日(日) 二度に亘って首相を務めたチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)元首相が満九十歳で死去。勅令により遺体は国会議事堂内のウェストミンスター・ホールに三日間安置される。なお、スペイン継承戦争(西 Guerra de Sucesión Española; 英 War of the Spanish Succession, 1701-14)で軍才を発揮して公爵(Duke)にまで上り詰めた初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 1650-1722)は、ウィンストン・チャーチルの先祖に当たる。また、故ダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)こと、旧姓スペンサー伯爵令嬢(Lady Diana Spencer, 1961-97)も初代マールバラ公爵の子孫に当たる。

1965年1月30日(土) 六日前に満九十歳で亡くなったチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)元首相のための当時としては史上最大級の国葬(state funeral)が、ロンドン市(現大ロンドン市)シティー区内の聖パウロ主教座聖堂(St Paul’s Cathedral)にて執(と)り行なわれる。

(動画)当時の記録映像

https://www.youtube.com/watch?v=87Xkr8z3lEo

1965年8月15日(日)~9月1日(水) 対日戦勝から二十年の日に、ザ・ビートルズ(The Beatles)が三度目のアメリカ横断ツアーをニューヨークで開始。

1965年10月 ケント大学(University of Kent)とウォリック大学(University of Warwick)が開学。後者(ウォリック大学)は1960年代の所謂(いわゆる)「板ガラス大学」でありながら、「ラッセル・グループ(Russell Group)」と呼ばれる新興有力大学群24校の一角を為(な)している。ケイムブリヂ大学で開学当初から男女共学である学寮としては初の学寮として、ダーウィン学寮(Darwin College, Cambridge)が開寮ケイムブリヂ大学で4番目の女子専用学寮としてルーシー・キャヴェンディッシュ学寮(Lucy Cavendish College)が開寮。この学寮は今日(こんにち)に至るも同大学で男子学生の受け入れを拒否し続ける3学寮のうちの一つである。三度のアメリカ横断ツアーを成功裡に終えたビートルズ(The Beatles)の四人全員に、国家元首(Head of State)である女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)からイギリス帝国勲五等勲章(MBE: Member of the British Empire)が授与されるが、ジョン・レノン(John Lennon, 1940-80)だけは四年後の1969年に英国のビアフラ戦争(Biafran War, 1967-70)、別名 ナイジェリア内戦(Nigerian Civil War, 1967-70)への介入に抗議する目的で直筆の手紙を添えて返却。

1965年11月8日(月) 「1965年殺人(死刑廃止)法(Murder (Abolition of Death Penalty) Act 1965)」の勅裁が下りる。

1965年11月9日(火) 「1965年殺人(死刑廃止)法(Murder (Abolition of Death Penalty) Act 1965)」の施行。

1966年3月5日(土) 14:15頃 英国海外航空(BOAC: British Overseas Airways Corporation)、現在の英国航空(BA: British Airways)の世界周遊便であるボーイング707型機を使った911便(BOAC Flight 911)が、東京国際空港(羽田空港)を発って英領香港に向かうも、富士山(Mount Fuji)附近の上空約4,500メートルで乱気流(air turbulance)に巻き込まれて空中分解。乗客113人+乗員11人=計124人全員が死亡。世界の航空史(world aviation history)に残る大惨事となる。なお、前日(1966年3月4日(金))にはカナダ太平洋航空402便(Canadian Pacific Air Lines Flight 402)着陸失敗事故により東京国際空港(羽田空港)で64人の死者が出ていて(生存者は8人のみ)、その更に一ヶ月前の同年(1966年)2月4日(金)には全日空60便(All Nippon Airways Flight 60)羽田沖墜落事故で乗客126人+乗員7人=計133人全員が死亡している。

1966年6月29日(水)~7月3日(日) ザ・ビートルズ(The Beatles)が最初で最後の来日公演のために東京国際空港(羽田空港)に到着。6月30日(木)、7月1日(金)、同2日(土)に日本武道館(在東京都千代田区)にて三日連続の公演を行ない、7月3日(日)に東京国際空港から香港経由でフィリピンに向けて離日。当時多くの中学校や高等学校ではビートルズは「不良の聴く音楽」とされ、武道館に行かないよう教員たちが生徒を指導していたが、学校に隠れてこっそり聞きに行った生徒もいたし、発覚すれば停学等の処分が加えられた。武道の聖地とされた日本武道館を外国の大衆音楽バンドの公演に貸すことについて、国内では議論が沸き起こり、右翼団体を中心とする脅迫事件もあったため、警視庁は最大の警戒態勢で臨んだが、大事に至らずビートルズは四泊五日の滞日を終えて去っていった。

1966年7月上旬 ザ・ビートルズ(The Beatles)が日本の次に訪問したフィリピンで、独裁者マルコス(Ferdinand Marcos. 1917-89; 大統領在任1965-86)の妻イメルダ(Imelda Marcos, b.1929)との面会を拒否したため、当局の妨害を受けることになり、同地(フィリピン)でのコンサートは大失敗に終わる。

1966年7月8日(金) ザ・ビートルズ(The Beatles)が極東ツアーから凱旋帰国。

1966年7月30日(土) 四年に一度開催されるFIFAワールドカップの1966年イングランド大会で、開催国のイングランド代表ティームが決勝で西ドイツを破って初優勝(今のところイングランドにとって最初で最後の優勝)。

1966年8月11日(木)~29日(月) ザ・ビートルズ(The Beatles)が四度目にして最後のアメリカ横断ツアー「マジカル・ミステリー・ツアー」(The Magical Mystery Tour)のためにロンドンのヒースロウ空港を出発。同年(1966年)4月にジョン・レノン(John Lennon, 1940-80)がインタビューに応じた時の発言、「キリスト教はなくなるさ。それは消えて縮みあがるだろう。それについて論じるまでもない。僕は正しいし、正しいと証明されるだろう。僕ら(=ビートルズ)は今ではイエス・キリストよりも人気がある。僕には分からないよ、どっちが先になくなってしまうのか、ロックンロールなのかキリスト教なのか。イエス・キリストはいいとしよう。でも彼の使徒たち(しとたち: キリストの弟子12名のこと)は愚鈍で平凡だったのさ。奴らこそそれ(=キリスト教)を捻(ね)じ曲げてぶち壊したんだよ、僕にしてみればね。」(Christianity will go. It will vanish and shrink. I needn’t argue about that. I’m right and will be proved right. We’re more popular than Jesus now. I don’t know which will go first—rock ’n roll or Christianity. Jesus was all right, but his disciples were thick and ordinary. It’s them twisting it that ruins it for me.)が同年(1966年)7月29日(金)に米国のティーン(13~19歳)向けの『デイトブック』誌(Datebook)に転載されて、全米のキリスト教原理主義者たち(Christian fundamentalists)が合法・非合法を問わず厳重抗議と不買運動と脅迫行為を開始していたため、米マスコミのインタビューは敵意や悪意に満ちたものとなる。

1967年7月27日(木) 「1967年性犯罪法(Sexual Offences Act 1967)」の勅裁・施行により、同性愛者の性行為がイングランド&ウェールズでのみ合法となる(スコットランドでの合法化は1981年2月1日(日)、北アイルランドでの合法化は1982年12月8日(水))。

1967年10月8日(日) 王位継承順位第一位のチャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)がケイムブリヂ市に到着し、その翌日(10月9日(月))にはケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)に入学し、勉学を開始。この三位一体学寮は皇太子の祖父で亡き国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)がまだヨーク公(Duke of York: つまり国王の次男)だった時代に1919年10月から1920年6月にかけて遊学した学寮でもあった。今回のチャールズ皇太子のケイムブリヂ大学への入学は、王位継承者が大学に正規入学した英国史上初のケースと成った。チャールズ皇太子は一年次(1967年10月~’68年6月)は考古学と自然人類学と社会人類学(archaeology and physical and social anthropology)を専攻した。なお、日本の皇位継承者(後の今上天皇)が大学に史上初めて正規入学したのは1952年4月のことだが、英女王の戴冠式(たいかん しき: Coronation)に出席するため二年次の半年以上も長期欠席したため、退学して聴講生になってしまった。

(参考)英国政府の皇太子公式サイト

http://www.princeofwales.gov.uk/the-prince-of-wales/biography/education

1967年10月27日(金) 「1967年堕胎法(Abortion Act 1967)」の勅裁が下りる。

1968年4月27日(土) 「1967年堕胎法(Abortion Act 1967)」が施行され、人工中絶が合法化される。先の兵役廃止(1960年末)と、ピル解禁(1961年)と、学生運動(1960年代全般)と、チャーチルの死(1965年初頭)と、死刑廃止(1965年)と、同性愛者の性行為の合法化(1967年)と、この人工中絶の合法化(1968年)で英国社会の大変革が本格化

1968年10月~’69年6月 チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)のケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)での勉学が二年目となり、専攻を歴史学(history)に替える。

1969年4月~6月 ケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)の正規学生であるチャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)が二年次三学期の期間を利用して、ウェールズのアベリストウィス(Aberystwyth)に在るウェールズ大学ユーネヴアセティ・コレッヂ(University College of Wales)、現在のアベリストウィス大学(Aberystwyth University)に留学し、ウェールズ語とウェールズ史を学ぶ。

1969年秋 ロンドンの北の郊外の新興都市(new town)であるミルトンキーンズ(Milton Keynes)に公開大学(Open University)が開学。従来までの大学と異なり、学生は専用のラジオ放送やテレビ放送を通じて受講し、学位が取得できる。なお、この大学は、1981年に開設され、’83年に認可され、’85年に本放送を開始した日本の放送大学(旧英称 The University of the Air; 現英称 The Open University of Japan)のお手本にもなった。

1969年10月~’70年6月 チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)のケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)での勉学が三年目(最終学年)となり、歴史学(history)の専攻を継続。

1970年6月23日(火) 王位継承順位第一位のチャールズ皇太子は、ケイムブリヂ大学三位一体学寮を卒業し、歴史学士(BA in History; Bachelor of Arts in History)の学位が授与されたことで、英国王位継承者として史上初めて大学の学位を得た

1970年7月1日(火) 王位継承順位第一位のチャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)がウェールズ北西部のカナーヴォン城(Caernarfon Castle)にて、母親である女王によるウェールズ大公(Prince of Wales)への任官式(investiture)が執り行われ、晴れて満二十一歳(欧米の伝統的な成人年齢)にしてウェールズ大公と成る。

1971年2月14日(日) 深夜24時 補助通貨シリング(shilling)が廃止される。12ペンス=1シリング(12 pence = 1 shilling)で、240ペンス=20シリング=1ポンド(240 pence = 20 shillings = 1 pound)という非英国人には大変分かりにくい制度が終わる。しかしながら、2人で飲みに行っても、3人で飲んでも、4人で飲んでも、5人で飲んでも、6人で飲んでも、簡単に割り勘ができた昔の貨幣制度の方が良かったと酒飲みが嘆く。また、以前は殖民地の原住民を惑(まど)わしたり騙(だま)したりするために故意に複雑な制度を維持していたが、今や殖民地の大部分を失ったので原住民をちょろまかす必要が無くなり、分かりやすい貨幣制度に換えたのだとする穿(うが)った見方もある。

1971年2月15日(月) 深夜零時 英貨ポンドが他国(北米や欧州大陸諸国)に倣(なら)って十進法を導入し1ポンド=100ペンスになる。

1971年9月27日(月)~10月14日(木) 昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が半世紀ぶりに(天皇即位後は初めてで、しかも在位中の天皇による外遊は歴史上初)西欧諸国7ヶ国を歴訪。皇后良子(こうごう ながこ; Empress Nagako, 1903-2000)、後の香淳皇太后(こうじゅん こうたいごう, 1903-2000)も同行。ベルギー王国、連合王国(イギリス)、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の3ヶ国は公式訪問で、デンマーク王国、フランス共和国、オランダ王国、スイス連邦の4ヶ国は非公式訪問。往路では米国時間の1971年9月26日(日)に米国アラスカ州アンカレッジ市(Anchorage, Alaska, USA)内のエルメンドルフ空軍基地(Elmendorf Air Force Base)アラスカ地区軍司令官邸に立ち寄り、首都ワシントン(Washington, District of Columbia, USA)から駆け付けたニクソン(Richard Nixon, 1913-94; 大統領在任1969-74; ウィッティア大学卒、デューク大学法科大学院博士課程修了)米大統領・法学博士(デューク大学)と面会。群衆の前で米大統領と天皇が交互にスピーチする。天皇は日本語でスピーチし、駐米日本大使が英訳版を読み上げる( https://www.youtube.com/watch?v=HbVWAjUPQDk )。英国では戦争の過去、特に日本軍の残虐行為を巡り議論が紛糾。半世紀前の1921年とは正反対に全体として冷淡な対応に終始。退役軍人の初代ビルマ伯爵マウントバッテン卿(Louis Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma, 1900-79; ケイムブリヂ大学基督学寮卒)は、チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)の大叔父(父方の祖母の弟)であり、同皇太子のメンター(mentor: 日本の辞書では通常「良き指導者」「恩師」と訳されるが、実際の意味合いは「魂の師匠であると同時に心の友で もある人物」)として知られた人物だが、1922年=大正十一年に英国皇太子(後の国王エドワード八世、退位後転じてウィンザー公)の随員として初来日を果たし、行く先々で大歓迎を受け、日本国皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)とも会見した。しかしその二十年後の1942年=昭和十七年には部下のパーシヴァル中将(Lieutenant-General Arthur Percival, 1887-1966)が英領シンガポールで日本軍に屈服して無条件降伏(英国史上最悪の敗北)したことを受けて、英領印度(British India)を拠点にビルマ戦線(1942-45年)で日本軍に対する反転攻勢に出て、最終的に勝利を収めた。マウントバッテン卿は昭和天皇との四十九年ぶりの会見の機会に際し、「部下を拷問し虐殺した日本軍の首謀者であるヒロヒトを歓迎することなど私にはできない。」としてバッキンガム宮殿での女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)主催天皇皇后両陛下歓迎晩餐会への招待を蹴った。マウントバッテン卿はそれまでは傲慢(ごうまん)な人物として英国民の受けは良くなかったが、晩餐会への招待を拒否したことで英国民は拍手喝采し、マウントバッテン人気が急上昇した。実はマウントバッテン卿はマスコミを遮断して秘密裡 (ひみつり)には昭和天皇と四十九年ぶりに会見したことが後に判明しているが、殆(ほとん)ど何も言葉を交わさない冷淡な会見に終始したと伝えられている。そして同年(1971年)10月5日(火)夜のバッキンガム宮殿での晩餐会の席で昭和天皇は、「私(わたくし)どもは、貴国の空港に到着以来、貴国民の心の温かさを身にしみて感じております。それは今より五十年前、イングランド及びスコットランドに滞在中私(わたくし)に示された豊かな温情と全く変りがありません。当時私(わたくし)は初めて貴国民の生活に触れ、この宮殿を知り、地方の村々を知ったのでありました。それ以来、私(わたくし)は、貴国の社会制度及び国民、殊に陛下の御英明な祖父君に対し常に敬意をもち続けております。ジョージ五世陛下は王者の威厳と親子の愛情をもって私(わたくし)を御引見下さいました。当時私(わたくし)は同陛下から戴いた慈父のようなお言葉を胸中深くおさめた次第でありました。」とお言葉を述べたが、戦争についての言及が皆無だったことから英国社会から激しい非難の声が飛んだ。そのため翌日(1971年10月6日(水))にロンドン郊外(現大ロンドン市内)の王立キュー植物園(Royal Botanic Gardens, Kew)=通称 キュー庭園(Kew Gardens)にて天皇は日光産の杉(スギ: Japanese cedar)を植樹したが、その翌日(1971年10月7日(木))には何者かによって根元から伐()り倒され、根元に劇物の塩素酸ナトリウム(NaClO3: sodium chlorate)がかけられ、「彼らは無意味に死んだのではない」という趣旨のプラカードが残されているのが発見される。日本のことが許せない退役軍人の仕業(しわざ)と考えられているが、植物園職員の協力があった可能性もある。旧敵国オランダ王国の事実上の首都ハーグ市(蘭 Den Haag, of ’s‑Gravenhage, Nederland; 英 The Hague, The Netherlands)では天皇の乗った車に液体入りの魔法瓶が投げつけられ、フロントガラスに亀裂を生じさせる事態となる。その胸中を昭和天皇は「戦(いくさ)にいたでをうけし諸人(もろびと)のうらむをおもひ深くつゝしむ」と御製(ぎょせい)の歌に詠む。最後の訪問国で旧同盟国だったドイツ(当時は西ドイツ)の当時の暫定首都ボン市(独 Bonn, Deutschland; 英 Bonn, Germany)では約300名の学生による「日本帝国主義反対」「天皇の戦争犯罪へ抗議」のデモが決行される。こうして史上初の在位中の天皇による外遊は大失敗に終わり、この反省を受けて四年後の1975年9月30日(火)~10月14日(火)の天皇訪米の大成功が齎(もたら)されることになる。(辻田真佐憲(つじた まさのり, b.1984; 慶應義塾大学卒、同大学大学院修士課程中退)『天皇のお言葉 明治・大正・昭和・平成』(幻冬舎新書, 2019年)に依拠した上で加筆)

【動画】 Queen Meets Emperor Hirohito In London (ロンドンにて英女王が昭和天皇を出迎え)

https://www.youtube.com/watch?v=RF4JeyZbabQ

1972年1月30日(日) 北アイルランドのロンドンデリー(Londonderry)市、またはカトリック側の言い方でデリー(Derry)市で「血の日曜日事件」(Bloody Sunday (1972))。アメリカの黒人市民権運動に影響され た非武装・非暴力のデモ隊に対して英国陸軍落下傘連隊が発砲し、13人死亡、14人負傷(負傷者の内の1人も4ヶ月半後に死亡)。

1972年 吉田工業株式会社(現YKK株式会社; 英称 YKK Corporation)が産業革命の中心地マンチェスターに日本企業として初の工場を操業開始。

1972年10月 それまで男子専用の学寮だった1326年創立のケイムブリヂ大学クレア学寮(Clare College, Cambridge)と、1441年創立のケイムブリヂ大学国王学寮(King’s College, Cambridge)と、1958年創立のケイムブリヂ大学チャーチル学寮(Churchill College, Cambridge)の、ケイムブリヂの3学寮が女子学生の入寮を初めて認める

1973年1月1日(月・祝) 保守党(Conservative Party; 別称・蔑称 Tories)のヒース(Sir Edward Heath, KG, MBE, 1916–2005; 首相在任1970-74; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒)内閣の主導で、連合王国(UK: United Kingdom)がスペインと陸続きの英国海外領土(a British Overseas Territory)ジブラルタル(Gibraltar)と同時に、漸(ようや)く現在の欧州連合(EU: European Union)の前身である欧州共同体(EC: European Community; 資料によっては European Communities)に加盟。それまではフランス共和国のドゴール(Charles de Galle, 1890-1970; 共和国大統領在任1959-69; 聖シール陸軍士官学校卒)大統領が英国の加盟を強硬に阻止してきたが、ドゴールの死去を受けて加盟が可能となった。なお、デンマーク王国(及びデンマーク王国海外郡グリーンランド)とアイルランド共和国も同時に加盟したが、グリーンランドは1979年にデンマーク王国海外郡からデンマーク王国自治領に昇格し、加盟から約十二年後の1985年2月1日(金)に当時のEC(現EU)から脱退することになる。

1974年3月4日(月) 四日前の総選挙で勝利した労働党(Labour Party)のウィルソン(Harold Wilson, 1916-95; 首相在任1964-70 & 1974-76; オクスフオッド大学イエス基督学寮卒)内閣が組閣。1975年には自動車産業を国有化することになる。

1974年秋 オクスフオッド大学で男子のみの5学寮(Brasenose, Jesus, Wadham, Hertford and St Catherine’s)が女子学生の入寮を初めて認める

1975年2月11日(火) 1834 年結党の保守党(この時点では最大野党)の党首に初の女性(今のところ最初で最後)であるサッチャー(オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)が就任。この 四年後には保守党が総選挙で勝利して与党に返り咲くことでサッチャー党首が自動的に首相に就任することになるが、ここではまだ野党党首。

1975年5月7日(水)~同12日(月) 英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が夫のエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)とともに最初で最後の訪日を実現。東京で昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)と皇后良子(こうごう ながこ; Empress Nagako, or Empress Kōjun, 1903-2000)両陛下の歓待を受け、訪日初日に皇居宮殿で歓迎晩餐会が開かれる。ちなみに同宮殿では一ヶ月余り前の同年(1975年)4月4日(金)にルーマニア社会主義共和国(現在のルーマニア)の独裁者チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu, 1918-89; 大統領在任1974-89)大統領夫妻歓迎宮中午餐会が開かれている。その後、女王夫妻は京都と伊勢神宮と御木本(みきもと)真珠島(現在のミキモト真珠島)を訪問。5月12日(月)には国鉄(現在のJR東海)名古屋駅から国鉄(現在のJR東日本及びJR東海)東京駅まで新幹線ひかり100号の11号車に乗車し、当日は生憎(あいにく)の大雨で定刻より3分遅れて名古屋を11:58に発ったが、東京には13:56と30秒に着き、定刻通りの到着となった。英女王は「新幹線は時計より正確だと聞いています。」という名言を残す。なお、フィリップ殿下は九年後の1984年の鹿児島県奄美大島での自然環境調査と、十四年後の1989年に昭和天皇大喪の礼への出席のため、再来日を果たすことになる。

(外部サイト)

ニュース映像

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831142_00000&seg_number=001

連合王国エリザベス二世女王歓迎の宮中晩餐会のおことば(昭和50年5月7日)と連合王国エリザベス二世女王の答辞(和訳のみ)

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/nakanolib/choku/cs50.html#連合王国エリザベス二世女王歓迎の宮中晩餐会のおことば(昭和50年5月7日)

エリザベス二世女王の宮中晩餐会におけるスピーチ(原文)

http://sybrma.sakura.ne.jp/466queen.elizabeth.speech.html

1975年6月5日(木) 二年半前の1973年1月1日(月・祝)に加盟した現在の欧州連合(EU: European Union)の前身に相当する欧州共同体(EC: European Community; 資料によっては European Communities)への残留の是非(ぜひ)を問う国民投票(Referendum)を労働党(Labour Party)のウィルソン(Harold Wilson, 1916-95; 首相在任1964-70 & 1974-76; オクスフオッド大学イエス基督学寮卒)内閣が実施。賛成票67.23%、反対票32.77%、無効票0.21%の結果となり、残留派の圧勝となる。なお、これは英国全土で実施された史上初の国民投票(1975 United Kingdom European Communities membership referendum)であるが、地域限定の住民投票としては二年前の1973年5月8日(火)に実施された北アイルランド国境線住民投票(1973 Northern Ireland border poll)が英国史上初である。

1975年8月2日(土) チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)に対し、大学院で学んだわけでもないにも拘(かか)わらずオクスブリヂ(Oxbridge = Oxford + Cambridge)両大学の奇妙な風習として無試験・無論文で修士(MA: Master of Arts)の学位が卒業から五年後にして自動的に授与される。

1975年12月29日(月) 十七日前の同年12月12日(金)に勅裁されていた1975年性差別法(Sex Discrimination Act 1975)が施行される。これ以降は雇用、職業訓練、教育の場での性差別が禁止されたことで、求人広告で「男性求む」「女性求む」のような表現ができなくなる。なお、「性差別法」の和訳では誤解を招くため、日本では通常「性差別禁止法」と呼ばれている。

1976年4月 来(きた)るべき経済破綻を前にして、政権に就いたばかりの労働党(Labour Party)のキャラハン(旧ポーツマス北中等学校、現メイフィールド学校の出)内閣が、国際通貨基金(IMF: International Monetary Fund)に史上最大規模の23億ポンド(当時のレートで約1兆2650億円)の融資をヨーロッパ先進国として初めて受ける。同内閣は翌年(1977年)には航空宇宙産業を国有化することになる。

1977年4月 最大野党である保守党(Conservative Party; 蔑称 Tories)の党首だったサッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)が初来日して神奈川県座間市の日産自動車工場を視察。日産自動車はその十一年後の1986年にイングランド北西部のサンダーランドに工場を建設することになる。

1977年 ケイムブリヂ大学ガートン学寮(Girton College, Cambridge)で男性研究員の入寮が認められる(男子学生の入寮許可はその2年後)。これによってケイムブリヂ大学で女子専用(男子禁制)の学寮は、 1875年開寮のニューナム学寮(Newnham College, Cambridge)と、1954年開寮のマリー・エドワーヅ学寮(Murray Edwards College, Cambridge)と、1965年開寮のルーシー・キャヴェンディッシュ学寮(Lucy Cavendish College, Cambridge)の3学寮のみになる(今日に至る)

1978年7月25日(火) 23:47 イングランド北部のランカシヤ州オウルダム町(Oldham, Lancashire)=現在の大マンチェスター市オウルダム地区(Oldham, Greater Manchester)内のオウルダム総合病院(Oldham General Hospital)で、帝王切開(caesarean section)により世界初の試験管ベビー(the first test tube baby in the world; the world’s first IVF baby)であるルイーズ・ブラウン(Louise Brown, b.1978)ちゃんが誕生。英略称のIVFとは、in vitro fertilisation (体外受精)の略。ケイムブリヂ大学(University of Cambridge; 通称 Cambridge University)のロバート・エドワーヅ(Robert Edwards, 1925-2013; ウェールズのバンゴール大学卒、スコットランドのエディンバラ大学哲学博士)教授と、産婦人科医のパトリック・ステップトウ(Patrick Steptoe, 1913-88; ロンドン大学国王学寮卒、同大学聖ゲオルギオス病院医学部卒)医師と、女性看護師兼発生学者のジーン・パーディー(Jean Purdy, 1945-85; ケイムブリヂ女子中高=現在の長路第六学年学校の出)女史の三人が、十二年に及ぶ研究の末に完成させたもので、1977年11月10日(木)に母体から採取された卵子を体外受精させ、二日半後に受精卵を母体の子宮へ移し、その後は順調に胎児として成長したのだった。当時は世界が騒然とし、賛否両論を巻き起こした。ルイーズ嬢は2004年に結婚し、マリンダー夫人(Mrs Mullinder)となり、2006年12月20日(水)には自然分娩で男児を出産している。この功績によりエドワーヅ教授は2010年度のノーベル生理学・医学賞(典 Nobelpriset i fysiologi eller medicin; 英 Nobel Prize in Physiology or Medicine)を受賞するが、ノーベル賞は死後受賞が認められないため、パーディー看護師(1985年に満39歳の若さで悪性黒色腫で病歿)もステップトウ医師(1988年に満74歳で死去)も受賞を逃した。ルイーズ嬢を生んだ母親のレズリー(Lesley Brown, 1948?-2012)夫人は2012年6月6日(水)に満64歳で死去している。

1978年末~’79年初 労働党(Labour Party)のキャラハン(James Callaghan, Baron Callaghan of Cardiff, 1912-2005; 首相在任1976-79; 旧ポーツマス北中等学校、現メイフィールド学校の出)内閣のもと、「不満の冬(Winter of Discontent)」起こる。労働者のストライキ(スト)に次ぐストライキで英国中の機能が麻痺状態に。交通機関は止まり、街にはゴミが山積み、散乱 し、ネズミが繁殖。水不足や燃料不足も頻発。イギリスの国力はさらに衰退。労使紛争(労働者と資本家の間の紛争)の多さと経済成長不振のため、他のヨー ロッパ諸国から「ヨーロッパの病人(the sick man of Europe)」と呼ばれ、西ドイツのマスコミからは「英国病」(独 die englische Krankheit; 英 the English disease)と揶揄(やゆ)される。なお、「不満の冬(Winter of Discontent)」とはシェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)の史劇『リチャード三世(Richard III)』(1592年頃の執筆)の冒頭、グロウスター公リチャードの一人語りの最初の二行、“Now is the winter of our discontent / Made glorious summer by this sun of York;”(われらをおおっていた不満の冬もようやく去り、/ ヨーク家の太陽エドワードによって栄光の夏がきた。 小田島雄志訳)に由来する。

1978年12月~1979年11月 上記の「不満の冬(Winter of Discontent)」労使紛争により、英国最高峰の高級紙(a quality paper)とされるタイムズ紙(The Times)やサンデイ・タイムズ紙(The Sunday Times)が一年間も休刊。

1979年5月4日(金)~’90年11月28日(水) 保守党(Conservative Party; 蔑称 Tories)のサッチャー夫人(Mrs Thatcher)=53歳こと、マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)=政界引退後はサッチャー女男爵(Baroness Thatcher)=内閣が組閣し、イギリス経済の建て直しに着手。サッチャー夫人は英国史上初の女性首相(the first woman Prime Minister in British history)。サッチャー内閣は国有企業 の民営化、金融引き締めによるインフレの抑制、財政支出の削減、税制改革、規制緩和、労働組合の弱体化などの政策を推し進めたことにより、経済は活性化し たが貧富の格差が増大し、西欧一の平等社会が西欧一の格差社会に激変。サッチャーによる改革で大学への助成金が大幅削減される。困窮した各大学は非EU国 籍・非EEA国籍の留学生から欧州人学生の約3倍の学費を取ることで乗り切る。折からの経済発展を享受していた日本からの留学生が増加。

1979年6月18日(月) 英国政府が付加価値税(VAT: value added tax)という内税を15%で初めて導入。生鮮食料品(野菜や食肉等)や子供服や書籍は無税(税率0%)。

1979年8月27日(月) マウントバッテン伯爵元帥暗殺事件。チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)の大叔父(父方の祖母の弟)であり、同皇太子のメンター(mentor: 日本の辞書では通常「良き指導者」「恩師」と訳されるが、実際の意味合いは「魂の師匠であると同時に心の友で もある人物」)として知られたルイ・マウントバッテン卿(Lord Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma, 1900-79)が、アイルランド共和国北西部のドネゴール湾にて休暇中にヨットで出航直後、IRA暫定派の仕掛けた爆弾テロに遭い、14歳の孫と15歳 の船員と、長女の83歳の義母と共に死亡した(但し、長女の義母は翌日死亡)。なお、元 来マウントバッテン家は在英ドイツ人の名門貴族バッテンベルク家(das Haus Battenberg)だったが、第一次世界大戦(1914-18年)中の1917年(マウントバッテン伯が満十七歳の頃)、英国内の反独感情 (anti-German sentiments)を意識して、ドイツ語の Berg (ふク)=「山」を英訳して Mount (マウント)= 「山」とし、家名をマウントバッテン家(the House of Mountbatten)に改名した。その五年後の1922年=大正十一年には英国皇太子(後の国王エドワード八世、退位後転じてウィンザー公)の随員と して初来日を果たし、行く先々で大歓迎を受け、日本国皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)とも会見した。しかしその二十年後の1942年=昭和十七年には運命 のいたずらで、部下のパーシヴァル中将(Lieutenant-General Arthur Percival, 1887-1966)が英領シンガポールで日本軍に屈服して無条件降伏(英国史上最悪の敗北)したことを受けて、英領印度(British India)を拠点にビルマ戦線(1942-45年)で日本軍に対する反転攻勢に出て、最終的に勝利を収めた。マウントバッテン伯は1945年9月には勝 者として東南アジア各地に進駐し、日本軍の武装解除と身柄拘束と戦犯裁判に動いた。対日戦勝から四半世紀以上が経過した1971年、昭和天皇 (Emperor Hirohito, 1901-89; 在位1926-89)の半世紀ぶりの訪英に際してバッキンガム宮殿での女王主催天皇皇后両陛下歓迎晩餐会に招待されながら、マウントバッテン伯は「部下を 拷問し虐殺した日本軍の首謀者であるヒロヒトを歓迎することなど私にはできない。」として、その招待を蹴った。マウントバッテン伯はそれまでは傲慢(ごう ま ん)な人物として英国民の受けは良くなかったが、晩餐会への招待を拒否したことで英国民は拍手喝采し、マウントバッテン人気が急上昇した。実はマウント バッテン伯はマスコミを遮断して秘密裡(ひみつり)には昭和天皇と四十九年ぶりに会見したことが後に判明しているが、殆(ほとん)ど何も言葉を交わさない 冷淡な会見に終始したと伝えられている。それから約八年後の1979年8月27日(月)、マウントバッテン卿はアイルランド共和国北西部のドネゴール湾に て休暇中にヨットで出航直後、IRA暫定派の仕掛けた爆弾テロに遭い、満14歳の孫ニコラス(The Hon. Nicholas Timothy Charles Knatchbull, 1964-79)と15歳の船員と、長女の83歳の義母と共に死亡した(但し、長女の義母 は翌日死亡)。一緒に乗船していたマウントバッテン卿の長女で、チャールズ皇太子の名付け親(Prince Charles’ godmother)であるパトリシア(Patricia Knatchbull, 1924-2017)、後の第二代ビルマのマウントバッテン女伯爵パトリシア(Patricia Knatchbull, 2nd Countess Mountbatten of Burma, 1924-2017)は五男ニコラス(The Hon. Nicholas Timothy Charles Knatchbull, 1964-79)を殺され、自身も重傷を負ったが一命を取りとめ、事件から約三十八年後の2017年6月13日(火)に満93歳で死去するまで「子供との死別UK」(Child Bereavement UK)と「苦しみを共有する友人たち」(Compassionate Friends)という子供を亡くした親のための慈善団体(charities)を支援し続けた。マウントバッテン卿を含む4人爆殺のテロ実行犯は終身刑となったが、1998年、聖金曜日のベルファスト合意を受けて釈放された。

1981年7月29日(水) 大ロンドン市シティ区(City of London)の聖パウロ大聖堂(St Paul’s Cathedral)にて、ウェールズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)と名門貴族スペンサー伯爵家のダイアナ嬢(Lady Diana Spencer, later Diana, Princess of Wales, 1961-97; 皇妃としては珍しく両親ともにイングランド人、スイスの花嫁学校の出)の結婚式が挙行される( http://www.youtube.com/watch?v=jTamOWLySLE )。全世界にテレビ中継され、ダイアナ・ブームが起こる。日本からは皇太子殿下夫妻(後の天皇皇后両陛下)が参列。なお、スペイン継承戦争(西 Guerra de Sucesión Española; 英 War of the Spanish Succession, 1701-14)で軍才を発揮して公爵(Duke)にまで上り詰めた初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 1650-1722)は、故ダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)こと、旧姓スペンサー伯爵令嬢(Lady Diana Spencer, 1961-97)の先祖に当たる。また、故ウィンストン・チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)元首相も初代マールバラ公爵の子孫に当たる。

1982年4月2日(金)~同年6月14日(月) 南米アルゼンチンに近い南大西洋の英領フォークランド諸島(英 Falklands or Falkland Islands; 西 islas Marvinas o Marvinas; 仏 Îles Malouines)がアルゼンチンの軍事独裁政権下の軍隊に突如占領されたことから連合王国のサッチャー内閣は軍隊を派遣して交戦開始。フォークランド戦争(英 Falklands War; 西 Guerra de las Marvinas)が勃発。約十週間の戦闘で英軍が勝利し、フォークランド諸島の奪還に成功。イギリス側の戦死者255人、アルゼンチン側の戦死者649人。それまで低迷していたサッチャー人気が戦勝によって急上昇。政権が盤石(ばんじゃく)となり、サッチャーは様々な改革に着手することになる。一方、アルゼンチンの軍事独裁政権は敗戦の一年半後の1983年12月に崩壊し、民主政に移行する。両国の国交が回復するのは、七年後の1989年10月19日(木)のこと。

1982年5月28日(金)~6月2日(水) ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世(羅 Ioannes Paulus PP. II; 英 Pope John Paul II, 1920-2005; 在位1978-2005)がイギリスを初訪問。カトリック教会(Catholic Church)とイングランド教会(Church of England)が四百五十年ぶりに和解。翌29日(土)、教皇はイングランド教会の総本山カンタベリー主教座聖堂(Canterbury Cathedral)で説教を行なう。その後もイングランドのロンドン、コヴェントリー、リヴァプール、マンチェスター、スコットランドの都エディンバラ、ウェールズの都カーディフを回って数々の説教をし、多くの聴衆(大部分はカトリック信徒)を集めた。

ここまでが古き大学(ancient universities)6校と、ウェールズ大学(University of Wales)の複数キャンパスと、ロンドン大学(University of London)の複数キャンパスと、イングランド北部のダラム大学(University of Durham)と、赤煉瓦大学(red brick universities)6校と、板ガラス大学(plate glass universities)の時代

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英国初の私立大学が誕生

1983年 首相になる前の1976年にサッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)が事実上創立したユーネヴアセティ・コレッヂォヴ・バッキンガム(University College of Buckingham)が、英国初の私立であるバッキンガム大学(University of Buckingham)として正式に認可される。イングランド&ウェールズの他大学が学部三年制(スコットランドと日米は四年制)なのに対してバッキンガムは二年制を売りに途上国やアラブ諸国の金満学生を誘致。

1983年7月~1985年8月 日本国天皇の内孫の浩宮(ひろ の みや; Prince Hiro, b.1960; 学習院大学卒)、後の皇太子徳仁親王(なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960; 留学の後に学習院大学大学院博士前期=修士課程修了)がテムズ川(the River Thames)の水運史を研究するため英国オクスフオッド大学マートン学寮(Merton College, Oxford)に留学。最初の三ヶ月間(7月、8月、9月)は外国人向けの英語強化コースで学び、10月の新学年に間に合わせた。 帰国の八年後に学習院創立125周年記念の一環として留学生活を回顧したエッセイ本 『テムズとともに 英国の二年間』(学習院総務部広報課, 1993年)を刊行し、さらにその十三年後には元駐日英国大使のコータッツィ(Sir Hugh Cortazzi, b.1924)氏によって The Thames and I: A Memoir of Two Years at Oxford (Folkestone, Kent, UK: Global Oriental, 2006) として英訳刊行された。

1983年12月17日(土) ハロッヅ百貨店爆破事件。IRA暫定派(Provisional Irish Republican Army)によるロンドンのハロッヅ百貨店爆弾テロ事件で6人死亡。

1984~’85年 原発推進派のサッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)内閣による炭鉱閉鎖に反対する炭鉱労働者たちがストライキを敢行。警官隊と衝突。

1984年10月12日(金) ブライトン爆破事件(Brighton hotel bombing)。アイルランド・カトリック系のテロ組織であるIRA暫定派(Provesional IRA)によるサッチャー(Margaret Thatcher, or Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90)首相暗殺未遂事件(イングランド南海岸のブライトン市に在るグランド・ホテル爆破事件)で5人死亡・31人負傷。首相は偶然にも難を逃れ、翌日(土曜)に同じホテルで予定通り保守党の年次党大会を行なうことで支持率上昇。この事件に激怒したサッチャーはこれ以後、シン・フェイン(Sinn Féin: 1905年創設の組織でIRA暫定派の政治部門、上記も参照)のスポークスマンの声明をテレビやラジオで放送するのを禁止しようとしたが、言論の自由(freedom of speech)の原則に抵触(ていしょく)してしまうため、英国的な妥協(だきょう: compromise コンプろマイス)の産物として、シン・フェインのスポークスマンの生の声を放送することを禁止した。そのため英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)をはじめとした報道各社は、専属の声優を雇(やと)い、アイルランド訛りの吹替版を放送することで対処。

1985年7月19日(金) ソ連KGBエリート将校で、1974年以来英国諜報機関SIS=通称MI6(エマイ・シックス)の二重スパイを務めてきたオレーク・ゴルディエフスキー(Оле́г Анто́нович Гордие́вский; Oleg Antonovich Gordievsky, b.1938)が、イギリス側の協力を得て、ソ連から陸路でフィンランドとノルウェーを抜け、偽造パスポートを用いてノルウェー王国首都オスロ市(Oslo, Norway)から民間航空機で英国に亡命。英国側の名称はピムリコ作戦(Operation Pimlico)である。ゴルディエフスキーは、KGB第一総局(国外担当)の高官でありながら、ハンガリー動乱(1956年)やベルリンの壁の建設(1961年)やチェコスロヴァキアの「プラハの春」弾圧(1968年)などを見聞きして共産主義への幻滅を感じ、資本主義国の英国にソ連の機密情報を流していたのだった。この情報をサッチャー(Margaret Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)英首相=後のサッチャー女男爵(Baroness Thatcher)が活用し、ソ連との交渉を有利に進めた。ピムリコ作戦は、それが実行される七年前の1978年から周到に準備されていた。ゴルディエフスキーは、デンマークのKGBコペンハーゲン支局に勤務しているときにSISによってリクルートされた。1978年夏にゴルディエフスキーはコペンハーゲンでの勤務を終えてモスクワに戻ることになった。モスクワでの接触方法をSIS職員(諜報員)の偽名ヴェロニカ・プライス(Veronica Price)こと、本名ヴァレリー・ペティ(Valerie Pettit, 1929-2020)が立てた。ゴルディエフスキーが毎週火曜日の19:30に西側のスーパーマーケット・チェーン「セイフウェイ」(Safeway)のビニール製レジ袋を持ってパン屋のそばに立つ方法だった。セイフウェイのレジ袋には、赤くて大きなSの字が印刷されており、この一目で分かるロゴなら、モスクワのくすんだ景観の中でひときわ目立つ筈だった。ゴルディエフスキーは西側で生活して働いていたから、西側のレジ袋を持っていても特に可笑(おか)しいとは思われないだろうし、レジ袋は重宝されており、特に外国製の物は珍重されていた。当時のモスクワで外国製のレジ袋は闇市で人気があった。ロシア人が持っていても不思議ではない。これに加えて別の認識信号として、ゴルディエフスキーは購入したばかりのグレーのレザー帽をかぶり、グレーのズボンを履くこととされた。MI6の情報員は、ゴルディエフスキーが必須の信号であるセイフウェイのレジ袋を持ってパン屋のそばで待っているのに気づいたら秘密の信号を確認した証しとして、ロンドンの高級百貨店であるハロッヅ(Harrods)の緑のバッグを持ち、キットカット(Kitkat)かマーズ棒(Mars bar: チョコレートバー)を食べながら彼の前を通り過ぎるという段取りだった。英語で「手から口へ」(from hand to mouth)と言えば「一時しのぎ」という意味だが、これは文字通り「手から口への方法」だった。マーズ棒を食べるのに加え、英国情報員はグレーの衣服、つまりグレーのズボンとスカートとスカーフなどを身に着け、一瞬アイコンタクトを取るが、歩みを止めてはならないとされた。ロシア人が西側のチョコバーを入手することは難しかったが、外国人は通信販売でキットカットやマーズ棒を購入することができた。こうした菓子を食べながら歩いていても奇異ではない。ゴルディエフスキーは1982年6月末にロンドン支局に転勤した。ゴルディエフスキーのモスクワ不在時も英国SISのモスクワ支局員は毎週火曜日の19:30から20:00までの間に信号地点に立ち寄るようにした。KGBはSIS支局員を常時監視している。もしもゴルディエフスキーのモスクワ不在時にSIS支局員が信号地点の点検を怠るようになり、ゴルディエフスキーがモスクワに戻ると点検が再開されるようになれば、KGBが異状に気づく可能性があるからだ。1985年5月にKGBはCIA(米中央情報局)に潜入していた協力者オールドリッチ・エイムズ(Aldrich Ames, b.1941)の情報提供によってゴルディエフスキーの敵方への寝返りに気づき、ロンドンに勤務していたゴルディエフスキーをモスクワに呼び戻した。ゴルディエフスキーはKGBの尋問を巧みにかわした。そしていよいよ1985年7月19日(金)にピムリコ作戦(Operation Pimlico)が発令される。ゴルディエフスキーは普段通りにジョギングに出かけるが、KGBの尾行を巻いて、フィンランドとの国境に近いヴィーボルク(Выборг; Vyborg)行きの列車に乗り込み、ヴィーボルクにてKGBの車3台の追跡を逃れ、在ソ英国大使館が用意した車に乗り込む。フォード社の自動車シエラ(Ford Sierra)のトランク(英 boot; 米 trunk)に隠れ、ゴルディエフスキーはソ連からフィンランドへ密出入国することに成功する。SIS支局員が懸念したのはゴルジエフスキーの体臭だった。汗と安物の石けんとタバコとビールの混じった臭いが、車の後ろから臭っていたという。鼻のいい探知犬なら、車の後ろから、前に座っている旅行者とはまったく違う臭いがすることに気づく筈だったが、ソ連の探知犬が近寄ってきたとき、SIS支局員は赤ん坊のオムツを車のトランクの上で交換し、その悪臭でゴルディエフスキーの体臭を危機一髪で誤魔化したという。ソ連の探知犬は一杯食わされて退散した。その後はノルウェー経由で民間飛行機で英国へ入国して亡命する。ピムリコ作戦から六年後の1991年8月にソ連共産党守旧派のクーデターが失敗した1ヶ月後に崩壊寸前のソ連政府は、モスクワに留め置かれていたゴルディエフスキー夫人と娘2人の英国への出国を認める。しかしながら、夫婦関係は崩壊していて、二人は離婚し、娘は妻についていった。ゴルディエフスキーは、ソ連から脱出した後すぐに移り住んだイングランドの平凡な郊外の通りに面する一軒家に住み、偽名を使って暮らしているという。ゴルディエフスキーの自宅の周囲には高い生け垣が巡らされ、何者かが建物に近づくと目に見えないレーザー感知システムから警告音が響くという。ゴルディエフスキーは、被告人不在のままソ連軍の軍法会議(court martial)にかけられ、1985年11月14日(木)に死刑判決が言い渡された。ソ連の裏切者に対する死刑執行命令は取り消(rescind)されず、ソ連を引き継いだロシアは今後も執拗にゴルディエフスキーの命を狙う可能性が高いため、MI6は冷戦期のスパイを警護し続ける。インテリジェンス界(諜報の世界)に時効は無く、「裏切り者に死を」というのはロシアのインテリジェンス機関の不文律だからである。(マッキンタイアー(Ben Macintyre, b.1963)著、小林朋則(こばやし とものり, b.1967)訳 『KGBの男 冷戦史上最大の二重スパイ』(中央公論新社, 2020年6月)に基づく作家・元外務省主任分析官 佐藤優(さとう まさる, b.1960)の2020年9月16日(水)付のコラム「『KGBの男』から読み解く、ソ連の秘密警察と英国のスパイの戦い」(婦人公論.jp、ヤフーニュース)と、CIAの公式サイト内の2019年3月27日(水)付の書評 https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol-63-no-1/spy_and_traitor.html と、2020年3月24日(火)付の日刊メール紙の Emer Scully記者署名オンライン記事に依拠)

1986年10月27日(月) 金融市場のビッグバン(Big Bang of financial markets)。保守党のサッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)内閣の主導の下で、証券取引所の大改革が断行される。 宇宙創造時にあったとされる大爆発(ビッグバン)に準(なぞら)えて名づけられた。その特徴として、売買手数料の自由化、取引所会員権の開放による銀行資 本(特に海外系投資銀行)の市場参加、自己勘定で取引して売買差益を取る仲介人ジョバー(jobber)と投資家の注文をつなぐブローカー (broker)の兼業許可、株式取引税の1パーセントから0.5パーセントへの引き下げ、株式売買へのコンピュータの導入と無人化、取引所集中義務の撤 廃の6点が挙げられる。これによってウィンブルドン効果(Wimbledon Effect)と呼ばれるように、イギリス企業の姿は消えたまま、ロンドン市場は外国資本の参入で活況を呈す現象が生じた。テニスのウィンブルドン選手権 で英国人選手の活躍があまり見られず、イギリスは外国選手に単に場所貸しをしているだけという事態を揶揄(やゆ)した用語である。日本でも1996年から2001年度にかけてイギリスの先行例に倣(なら)って「金融ビッグバン」または「日本版ビッグバン」が断行されることになる。

1987年5月11日(月) 当時の英国国鉄(British Rail)が従前の二等(second class)の名を標準(standard)に改める。改名の理由は、時代の流れとともに second class という表現が「二流の」というような、人を馬鹿(バカ)にしたような含みを持つようになったから。一等(first class)の名は存続し、現在に至る。

1988年1月 三十年以上前の1957年10月10日(木)にイングランド北西部のセラフィールド(別名ウィンドスケール、別名ワイトヘイヴン)で発生した深刻な火災=原発事故 (INES基準でレベル5)の被害についてサッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)内閣が当時の極秘書類を公開し、事故の被害を公式に認める。

1988年 保守党のサッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)内閣が教育法を改定。教育界の反対を押し切り、全国共通カリキュラム(National Curriculum)で自虐史観を払拭し、全国共通学力テストを実施し、学校当局に地方教育委員会(LEA: Local Education Authority)からの離脱を認め、その場合は政府直轄とする内容の法改正を断行。

1988年 昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)危篤で、戦争の過去、特に日本軍の残虐行為をめぐる天皇たたき、日本たたきが英マスコミで相次ぐ。

1988年 五百六十年前の1428年に開寮し、最後の男子専用学寮として女子学生を拒み続けていたケイムブリヂ大学モードレン学寮(Magdalene College, Cambridge)が遂(つい)に女子学生を受け入れる。

1989年 同年1月7日(土)の昭和天皇崩御(ほうぎょ)を受けてもなお日本たたきが英マスコミで続く。

1989年2月24日(金) 昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の「大喪(たいそう)の礼(れい)」にベルギー王国、スウェーデン王国、スペイン王国といった一部の君主国から国家元首(国王)が参列し、米仏独伊といった共和制国家から国家元首(大統領)が参列したにも拘(かか)わらず、英国内に沸(わ)き起こった戦争の過去を巡る反日感情(anti-Japanese sentiments)を考慮して英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)は出席を断念。英国王室(the British Royal Family)としては代わりに夫のエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)を派遣するにとどめる。なお、英国政府(Her Majesty’s Government)としては首相の代わりにハード外相(Douglas Hurd, or Douglas Richard Hurd, Baron Hurd of Westwell CH, CBE, PC, b.1930)を派遣。ちなみにオランダ王室は、やはりオランダ国内の反日感情を考慮して誰ひとりとして「大喪の礼」には出席しなかった。

1989年10月19日(木) 七年前の1982年4月から6月にかけて約十週間戦ったフォークランド戦争(英 Falklands War; 西 Guerra de las Marvinas)以来外交関係が途絶えていた連合王国(イギリス)とアルゼンチン共和国が、スペイン王国首都マドリッド市にて共同声明(a joint statement)を発表することで国交を回復。

1989年11月9日(木) 分断国家の東西ドイツを残酷に分け隔て、しかも米英仏の戦勝三ヶ国の軍隊に占領された西ドイツ領の西ベルリン(独 West-Berlin; 英 West Berlin)を包囲して内陸の島のように孤立化させるべく、東ドイツの独裁政権が二十八年前の1961年に築いたベルリンの壁(独 Berliner Mauer; 英 Berlin Wall)を、抑圧された東ベルリン(独 Ost-Berlin; 英 East Berlin)市民たちが部分的に破壊。これ以後は、東西ドイツの行き来が自由になる。「ベルリンの壁の崩壊」という世界史的大事件。

1989年12月3日(日) 米ソ首脳会談を開催中の地中海の真ん中に位置する旧英領マルタ島(マルタ共和国)にて冷戦終結が宣言される。第二次世界大戦(Second World War; World War II, 1939-45)末期から続いていた米ソ両陣営による「冷たい戦争」こと、冷戦(Cold War, 1945-89)の終結をアメリカ合衆国(USA: United States of America)のブッシュ(George H. W. Bush, 1924-2018; 大統領在任1989-93)大統領=通称 パパ・ブッシュ(Papa Bush)と、ソヴィエト連邦(ソ連)のゴルバチョフ(Михаил Сергеевич Горбачёв = Mikhail Sergeyevich Gorbachov; 英 Mikhail Gorbachev, b.1931; ソ連最高指導者・ソ連共産党中央委員会書記長在任1985-91; 大統領在任1990-91)書記長=通称 ゴルビー(Gorby)が高らかに宣言。世界のマスコミは「ヤルタからマルタへ」(From Yalta to Malta)という語呂合わせで、1945年2月4日(日)から11日(日)にかけて開催されたヤルタ会談(Yalta Conference)で冷戦が開始されたが、四十五年近く後のマルタ会談(Malta Conference)で冷戦が終結したことを祝福した。

1989年12月15日(金) 国際連合(国連)総会で多国間条約「市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書」(Second Optional Protocol to the International Covenant on Civil and Political Rights)=日本での通称「死刑廃止条約」が、59対26の賛成多数で採択される。賛成に回ったのは英仏等の欧州諸国が目立ち、日米は先進国としては珍しく反対に回る。効力の発生は1991年7月11日(木)。二十年後の2009年12月15日(火)時点での加盟国数は72ヶ国。日本国は署名も批准もしていない。

1989年末 同年11月9日(木)のベルリンの壁の崩壊を受けて東欧諸国で独裁体制が連鎖(ドミノ)的に倒れ、米ソ両陣営の冷戦(Cold War, 1945-89)が事実上終結。

1990年3月31日(土) ロンドン中心部のトラファルガー広場(Trafalgar Square)に20万人超の抗議者たち(more than 200,000 protesters)が詰めかけ、サッチャー(Margaret Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90)=後のサッチャー女男爵(Baroness Thatcher, 1925-2013)=内閣が強権的に導入しようとしていた人頭税(poll tax: 各世帯の人数に応じて徴税する住民税だが納税能力に関係なく全ての国民に一定額を課すという金持ち優遇税)に対する抗議の声を上げる。サッチャーによって追い込まれた労働者階級が身体を張って戦うも騎馬警官隊が馬で群衆を踏みつける。同広場附近で改装中のビルが暴徒に放火され炎で包まれる。路上の車はひっくり返され、店の窓は割られて略奪が発生。群衆は路上の金属製のゴミ箱でバリケードを作り、各所で騎馬警察隊と睨み合うも騎馬隊は臆せず突入。バリケードには火が放たれる。群衆は逃げ散るも他所で集結。それまで絶大な権力を欲しいままにしてきたサッチャーに対しては与党保守党(Conservative Party; 通称・別称・蔑称 Tories)内部からも退陣要求が燻(くすぶ)ることになる。結局サッチャーは従来の共同体課税(Community Charge: 日本で言う都区民税や市県民税のような税金)を人頭税(poll tax)に置き換える計画を諦め、サッチャーの跡を継ぐことになるメイジャー(John Major, b.1943; 首相在任1990-97)=後の英勲爵士ジョン・メイジャー(Sir John Major, b.1943)=が導入することになる地方自治体税(Council Tax: 日本で言う都区民税や市県民税と固定資産税を併せたような税金)に置き換わる。人頭税導入失敗の一連の騒動がサッチャー退陣へと繋がる。

1990年10月3日(水) 前年(1989年)11月9日(木)のベルリンの壁の崩壊を受け、西ドイツが東ドイツを吸収合併する形で東西ドイツが統一。

1990年11月1日(木) 英国最大の発行部数を誇る右翼系の大衆紙ザ・サン(The Sun: 「太陽」の意)が一面トップに Up Yours Delors (アッピョーズ・ドゥローズ: 「くたばれドゥロール」の意 https://www.thesun.co.uk/archives/politics/116590/europes-dream-it-crumbled-and-died/ )という見出し(headline)を載せ、欧州委員会(European Commission)のジャック・ドゥロール(Jacques Delors, b.1925; 欧州委員会委員長在任1985-95; パリ大学卒)委員長を名指しで挑発。しかもサン紙は逆Vサイン(reverse V sign: 日本では誤って「逆ピースサイン」)の写真も併(あわ)せて掲載。英国や豪州の文化で逆Vサインは、北米(米国+カナダ)で中指を相手に対して突き立てる動作に相当し、喧嘩(ケンカ)を売る行為(相手に対する侮辱や威嚇や挑発など)とされている。

1990年11月22日(木) 仏独が中心となって推進している欧州統合(European integration)に冷や水を浴びせ続けたサッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)内閣総理大臣=後のサッチャー女男爵(Baroness Thatcher, 1925-2013)が、辞任を表明。前年(1989年)に正式名称「共同体課金」(Community Charge)=通称「人頭税」(じんとうぜい: poll tax or capitation tax)という時代錯誤した金持ち優遇の税金を導入して国民の反撥を買い、各地で暴動が起きていた。保守党内にもサッチャー続投では次の選挙で勝てないとする声が高まっていた。「共同体課金」(Community Charge)は1993年に「地方自治体税」(Council Tax)に置き換わるまで続いた。なお、この日はアメリカのケネディー(JFK: John Fitzgerald Kennedy, 1917-63; 大統領在任1961-63; ハーヴァード大学卒)大統領暗殺事件から二十七周年に相当。

1990年11月28日(水) サッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)内閣が退陣。後任には同じ保守党(Conservative Party; 通称・別称・蔑称 Tories)でサッチャーの忠実な部下だったジョン・メイジャー(Sir John Major, b.1943; 首相在任1990-97; 旧ラトリッシュ文法学校、現ラトリッシュ中等学校の出)による内閣が組閣。

1991年1月17日(木)~2月28日(木) 英軍が米軍らとともに多国籍軍としてクウェート救出のための湾岸戦争(Gulf War)の砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm)に参戦。イラク軍に圧勝するも、イラクの独裁者サダム・フセインの体制は存続。

1991年3月19日(火) 英国政府が付加価値税(VAT: value added tax)を従来の15%から17.5%に引き上げ。

1991年12月26日(木) 1922年に建国された実験国家であるソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が崩壊。

ここまでが古き大学(ancient universities)6校と、ウェールズ大学(University of Wales)の複数キャンパスと、ロンドン大学(University of London)の複数キャンパスと、イングランド北部のダラム大学(University of Durham)と、赤煉瓦大学(red brick universities)6校と、板ガラス大学(plate glass universities)と、私立大学(private universities)の時代

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これ以降は新大学(new universities)、または92年後大学(post-92 universities)、または嘲笑的に旧ポリ大学(former poly universities)の登場で大学の著しい大衆化が進行、二番目、三番目、四番目の私立大学も開学、現在に至る

1992年 サッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)の後継である保守党のメイジャー(John Major, later Sir John Major, b.1943; 首相在任1990-97; 旧ラトリッシュ文法学校、現ラトリッシュ中等学校の出)内閣の下で「1992年高等教育法(Further and Higher Education Act 1992)」が制定される。これ以降、新設大学の創立に国王の勅許状(Royal Charter)が不要になる。ポリテクニック(総合技術学校)やその他の教育機関が大学に昇格し、大学の数が一挙に倍増したことで、英国史上初めて100校を超え た。たとえば英国最古のポリテクニックで王立総合技術研究所(Royal Polytechnic Institution)として1838年に創立された中央ロンドン総合技術学校(Polytechnic of Central London)が、ウェストミンスター大学(University of Westminster)に昇格。オクスフオッド総合技術学校(Oxford Polytechnic)がオクスフオッド・ブルックス大学(Oxford Brookes University)に昇格。ロンドンの複数のポリテクニックが集まってグリニッヂ大学(University of Greenwich)を組織。その他、英国に長年住んでいても聞いたことのないような大学が異常な勢いで誕生。大学進学率は1992年改革前の約15%から2013年末には40%の大台を超える。大学教育全体の質の低下を懸念する声もあり。

1992年9月16日(水)~17日(木) 英貨ポンド(the pound sterling パウンターリン)の主要通貨に対する急落が止まらず、保守党のメイジャー(John Major, later Sir John Major, b.1943; 首相在任1990-97; 旧ラトリッシュ文法学校、現ラトリッシュ中等学校の出)内閣が欧州為替相場メカニズム(ERM: European Exchange Rate Mechanism)からの離脱を翌日(木曜)に発表。英国ではブラック・ウェンズデー(Black Wednesday: 「暗黒の水曜日」の意)と呼ばれ、日本ではポンド危機と呼ばれる。対日本円では危機前の1ポンド=240円台から190円台へと年末までに急落し、その調子で三年後の1995年の130円台まで下げ続けることになる。

1992年10月31日(土) カトリックのヴァティカン(バチカン)市国のローマ教皇庁(羅 Curia Romana; 英 Roman Curia)が、ガリレオ裁判(1616年の第一回異端審問所審査と1633年の第二回異端審問所審査)の判決が誤りだったこと(地動説が正しいこと)を認め、ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei, 1564-1642)の名誉が死後三百五十年と四十三週間にして回復される。なお、1633年に有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げさせられたが、その直後に呟(つぶや)いたとされる “E pur si muove”(エプるオーヴェ: それでもそれは動く)という言葉が人口に膾炙(かいしゃ)されて有名だが、状況からして事実とは考えにくく、おそらくはガリレオの地動説=太陽中心説(Heliocentrism)を信奉する弟子が後付けで加えたという説が有力である。異説としてはイタリア語ではなくギリシア語で呟いたと主張する者もある。

1992年11月 前年(1991年)4月19日(金)に第103代カンタベリー大主教(the 103th Archbishop of Canterbury)に就任していたジョージ・ケアリー(George Leonard Carey, b.1935; 大主教1991-2002; ビフロンズ中等近代学校の出)=後のクリフトン男爵ケアリー(Baron Carey of Clifton, b.1935)が主導してイングランド教会(Church of England)総会の席で、今後は男性に混じって女性も司祭(priest)に任用することを決定。これに反対する3千人以上の司祭(当然ながら男性しかいない)が反旗を翻(ひるがえ)すも、決定は覆(くつがえ)らず。

1993年4月30日(金) 四年前の1989年に欧州原子核研究機構 (CERN: European Organization for Nuclear Research; 元来は「欧州原子核研究理事会」を意味するフランス語 Conseil Européen pour la Recherche Nucléaire の略) に勤務する英人科学者ティム・バナーズ=リー(Sir Timothy “Tim” John Berners-Lee, b.1955)とベルギー人科学者ローベルト・カイリョー(Robert Cailliau, b.1947)が共同開発したワールド・ワイド・ウェブ(World Wide Web; 略称 www)を、CERN が無料で誰にでも開放すると発表。数年後のインターネット(the Internet)の爆発的普及の先鞭をつける。

1993年(日付不詳) 日本の幕末期の1864年と1865年に長州藩と薩摩藩から派遣された日本人19名全員を顕彰する記念碑がロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)の中庭に建立(こんりゅう)される。

1993年12月30日(木) カトリックのヴァティカン(バチカン)市国のローマ教皇庁(羅 Curia Romana; 英 Roman Curia)がユダヤ教と約二千年に及ぶ対立状態を解消し、歴史的和解に至る。

1994年 八十五年前の1909年に設立されていたMI6 (エマイシックス)の存在は公然の秘密だったが、英国政府が初めてその存在を世間に明かす。

1994年5月6日(金) アイディアそのものは十八世紀中盤にまで遡(さかのぼ)る海峡トンネル(英 Channel Tunnel チャヌルヌル; 仏 Tunnel sous la Manche テュネルスゥラマォーンシュ)が英仏間に開通。海底部の総距離37.9キロメートルは、日本の青函(せいかん)トンネル(1988年開業)を抜き世界最長。開通式には連合王国国家元首の女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)とフランス共和国国家元首のミッテラン(François Mitterrand, 1916-96; 大統領在任1981-95)大統領が出席。これを以(もっ)て「英国はもはや島国ではない」(Britain is no longer an island country.)と言われた。なお、NHKの言うユーロトンネル(Eurotunnel)は同トンネルの管理・運営を行なうフランス企業の名称なので誤り。

1994年6月1日(水) 英仏海峡トンネル(英 Channel Tunnel; 仏 Tunnel sous la Manche)で貨物輸送のル・シャトル(le Shuttle)が開通。

1994年秋 サッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)の母校であり、それまで女子専用だった1879年開寮のオクスフオッド大学サマヴィル学寮(Somerville College, Oxford)が115年の禁を破って男子学生の入寮を認める。これによって聖ヒルダ学寮(St Hilda’s College, Oxford)が同大学で唯一の女子専用(男子禁制)の学寮に。

1994年11月14日(月) 英仏海峡トンネル(英 Channel Tunnel; 仏 Tunnel sous la Manche)で旅客輸送のユーロスター(Eurostar)が開通。フランス国内での最高時速300キロ(300km/h)に対し、イギリス国内の全長109kmの区間での最高時速160キロ(160km/h)が問題となる。この日はチャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)の46歳の誕生日に当たる。

1995年秋 ロンドンの小さな学校が集まってミドルセックス大学(Middlesex University)を組織。

1995年11月 牛海綿状脳症(BSE: bovine spongiform encephalopathy)、通称「狂牛病(mad cow disease)」に罹患(りかん)した牛の肉を食べ続けることと、人間のクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD: Creutzfeldt-Jakob disease)との強い因果関係が、オクスフオッド大学(University of Oxford; 通称 Oxford University)の学者グループの研究結果によって指摘される。しかしそれでも英国政府は、「英国産牛肉は安全(British beef is safe.)」という空疎な声明を繰り返す。

1996年2月 牛海綿状脳症(BSE: bovine spongiform encephalopathy)、通称「狂牛病(mad cow disease)」が、人間にも感染し、クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD: Creutzfeldt-Jakob disease)となることを英国政府が公式に認める。結果として英国中がパニックに陥(おちい)り、食品売り場で牛肉が売れ残る。日本国を含む世界各国政府は英国産牛肉の輸入禁止措置を次々に発表。なお、クロイツフェルト・ヤコブ病とは、ドイツの神経学者2名の苗字を採った病名であり、日本のマスコミの言う「ヤコブ病」は誤り。

1996年3月13日(水) ダンブレイン小学校事件(Dunblane Primary School Massacre)。スコットランドの普段は長閑(のどか)な田舎町で小学校銃乱射事件が起こる。死者18名(5歳児の児童15名、6歳児の児童1名、 45歳の女性教師1名、43歳の犯人1名)、負傷者15名。元小売店主で失業中だったトマス・ハミルトン(Thomas Hamilton, 1952-96)が、合法的に所持していた9ミリ・ブラウニングHPピストル2丁と、スミス&ウェッソンM19の357口径マグナム回転式拳銃(リヴォル ヴァー)2丁と、743発の弾丸を持ってダンブレイン小学校(Dunblane Primary School)に乱入。児童に向けて合計109発を撃ったとされる。犯人は最後に体育館(gym)で自らの口に回転式拳銃2丁を突っ込んで自分の脳に向け て発射することで自殺を果たした。ハミルトンは過去に青少年クラブを率いていたが、そこで親の許可も得ずに少年たちのセミ・ヌード写真を撮っているとの苦 情があったため、解散を余儀なくされた。ハミルトンは既に1974年の段階でボーイ・スカウトの指導者をしていた際に、キャンプで少年たちと同じベッドで 寝ることを強要し、資格停止になった過去があった。1993年に自分の経営する店がつぶれたのは、人々が流す悪い噂(うわさ)の所為(せい)だとして、ハ ミルトンは地域社会に恨みを抱くようになった。ボーイ・スカウトや青少年クラブに復帰したがったが、それをすると起訴されると地元の議員などから警告さ れ、恨みは募るばかりだった。少年に対する異常な性的関心と、彼らに近づけない欲求不満から残虐な犯行に走ったと考えられている。この事件を受けて、拳銃 の規制を求める国民の声が高まり、「1997年銃火器(修正条項)法(Firearms (Amendment) Act 1997)」及び「1997年銃火器(修正条項)(第二)法(Firearms (Amendment) (No. 2) Act 1997)」が施行され、拳銃の個人所有が禁止されるようになった。なお、この事件から五年以上後の2001年6月8日(金)、大阪教育大学附属池田小学校で発生した包丁による児童無差別殺人事件(死者8名)はイギリスでも大きく報道され、「日本のダンブレイン」と称された。

1996年6月15日(土) 英国夏時間の11:20 BSTのこと、アイルランド・カトリック系のテロ組織であるIRA暫定派(Provisional IRA)が、英国で3番目に大きな都市マンチェスター中心街にて路上駐車したヴァン(van)に仕掛けた1,500kgの時限爆弾(a time bomb)でマンチェスター商業地区爆弾テロ事件(1996 Manchester bombing)を起こし、商業地区を壊滅させる。英国政府と結んでいた停戦合意を同年(1996年)2月に一方的に破棄していた同テロ組織は、その後4ヶ月の間に6回もの小さな爆弾テロ事件を起こしていたが、今回の7番目の炸裂(さくれつ)は比較にならないほど大規模で、しかも第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)後としても英国最大規模だった。事件直後の保険会社の見積もりで7億ポンド(£700m = seven hundred million pounds: 当時の為替レートで約1190億円)もの損害が出た。商業地区で店のショーウィンドー(イギリス英語で shop windows)が多く存在する地区であることから、爆風は半径半マイル(約800メートル)に砕(くだ)け散ったガラスの雨を降らせた。記録的な低温と日照不足という異常気象が続いていたイギリスで突然夏がやって来たのがこの日(1996年6月15日(土))であり、多くの人が週末ということもあって浮かれていて半袖の薄着だったため、腕に多くのガラスの切り傷を負った人が多かった。爆発の90分前に同テロ組織は警察に電話を入れ、いつものアイルランド訛りの暗号のような警告を与えていたため、現地警察はそのメッセージを正しく解読し、少なくとも7万5千人を中心街から避難させていた。しかしながら爆弾の特定には間に合わなかったため、事件そのものを防ぐことはできなかった。幸いにも死者は皆無(ゼロ)だったが、爆発の規模からすれば奇跡のようなものだった。マンチェスター商業地区では事件後に再開発が進み、イギリスにしては近代的な趣(おもむき)の繁華街に生まれ変わった。

1996年7月5日(金) スコットランドの都エディンバラ市に在るロズリン研究所(Roslin Institute)で世界初のクローン哺乳類である羊のドリー(Dolly the sheep)が誕生(六年半以上後の2003年2月14日(金)に死亡)。世界に衝撃を与える。

1996年10月23日(水) ローマ法王ヨハネ・パウロ二世(羅 Papa Ioannes Paulus II; 英 Pope John Paul II, 1920-2005; 在位1978-2005)率いるローマ・カトリック教会の総本山ヴァティカン(バチカン)が、百三十七年前の1859年に英国で刊行されたダーウィン(Charles Darwin, 1809-82)の通称『種の起源』(英原題 On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, 1859; 直訳 『自然選択による種の起源、或(ある)いは生存闘争に於(お)ける恵まれた種族の保存』; ウィキペディア日本語版では誤訳して『自然選択の方途による、すなわち生存競争において有利なレースの存続することによる、種の起原』と表記)について内容が科学的に妥当であるとして、ダーウィンの進化論(Darwin’s theory of evolution)を初めて認める。

1997年5月1日(木) 総選挙で労働党(Labour Party; 通称 Labour)が歴史的大勝利。これを受けて翌日(5月2日(金))、ブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣が発足。1979年に政権を保守党(Conservative Party; 蔑称 Tories)に奪取されて以来十八年ぶりの労働党内閣。新首相は組閣5日目に44歳の誕生日を祝うほどの若さ。「教育、教育、教育(Education, education, education.)」の標語(slogan)を掲げて教育改革に着手。児童・生徒一人 当たりに費やす国家予算を50%増額。教員数を約3万5千人増やし、しかも給与を18%も引き上げる。さらに17万人超の教育助手も新規雇用することで、 落ちこぼれや、いじめの根絶に取り掛かる。すべての国立総合中等学校(comprehensive school: 国民の大多数が通う学校)を専門系学校(specialist school)にすると宣言し、工学、科学、コンピュータ、藝術、スポーツなど十分野のいずれかに特化することで11万ポンド(当時のレートで約2180 万円)の追加予算を得られるようになるようにする。最終的に全体の約90%に相当する約三千校の国立総合中等学校が専門系学校になる。保守党のサッチャー内閣・メイジャー内閣の推し進めた学校間の競争激化、親による選択の自由という市場原理を維持しつつも、弱い学校に支援の手を差し伸べる策も導入。ブレア内閣は十年後の2007年6月27日(水)まで続く。

1997年7月1日(火) 英国政府が清帝国の正当な後継者と見なす中華人民共和国に1842年以来百五十五年ぶりに英領香港(厳密には租借地)を返還。香港は中華人民共和國香港特別行政區(英 Hong Kong Special Administrative Region of the People’s Republic of China)となる。返還式典の様子が最後の英領香港総督パッテン(Chris Patten, b.1944; オクスフオッド大学ベリオル学寮卒)、現パッテン男爵(Baron Patten of Barnes, b.1944)の涙とチャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)のスピーチともに全世界にテレビ中継される。なお、二年半後の1999年12月20日(月)にはポルトガル共和国が1557年以来四百四十二年ぶりに澳門(Macau or Macao)を返還し、マカオは中華人民共和國澳門特別行政區(葡 Região Administrativa Especial de Macau da República Popular da China; 英 Macao Special Administrative Region of the People’s Republic of China)となる。

1997年8月31日(日) チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)との離婚が既に成立していたダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97; 日本のマスコミの言う「ダイアナ元妃」は誤り)がエジプト人の遊び人アルファイド氏(ハロッヅ経営者のドラ息子、王立サンドハースト陸軍士官学校に一時在学)とともにパリ市を流れるセーヌ川のアルマ橋下のトンネル内にて三十六歳の若さで事故死。 王室の危機。

1997年9月6日(土) ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)でダイアナ妃の葬儀。英国政府は国葬(state funeral)とはせずに国民葬(national funeral)とした。泣きじゃくる沿道の人々とともに全世界にテレビ中継。ブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)首相が葬儀を仕切って成功させたことでブレア人気が頂点に。

1998年2月28日(土) 王立自由病院(Royal Free Hospital: 在大ロンドン市カムデン区)のアンドルー・ウェイクフィールド(Andrew Wakefield, b.1956: 他に1957年生誕説もある; 聖マリア病院医科大学卒)医師(後に医師免許剝奪)を主執筆者とする「新三種混合ワクチン(MMR vaccine = measles, mumps, and rubella vaccine)予防接種で自閉症(autism)になる」という内容の論文が、世界五大医学雑誌の一つである『ランセット』誌(The Lancet)に発表される。この論文は誤りだと指摘する研究者もいたが、子供に当該ワクチンを接種させない親が相次ぎ、英米加豪とNZといった英語圏諸国で接種が激減する要因となる。後に大騒動となり、英医事委員会(GMC: General Medical Council)は2010年1月28日(木)、ウェークフィールドらの研究は倫理に反する方法で行なわれていたとの裁定を下す。ランセットは論文掲載から十二年近くが経過した2010年2月2日(火)に同論文を撤回。(2010年2月3日(水)付のAFP=フランス通信社日本語版のRichard Ingham 記者署名オンライン記事に依拠)

1998年4月10日(金) 聖金曜日のベルファスト合意(Good Friday Agreement (GFA), or Belfast Agreement)。この合意を受けてアイルランド共和国政府は国民投票を行ない、北アイルランド6州(英国領)の領有権を放棄。テロ組織の武装解除も徐々に進み、1968年から続いた三十年にも及ぶアイルランド紛争(Irish Trouble, 1968-98)は、ほぼ終息。

1998年5月26日(火)~29日(金) 当時(平成時代)の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019)=後(令和時代)の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)が皇后美智子(こうごう みちこ; Empress Michiko, b.1934; 聖心女子大学卒)=後の上皇后美智子(じょうこうごう みちこ; Empress Emerita Michiko, b.1934)を伴って国賓として英国を公式訪問。但し、英国到着は5月25日(月)ながら、公式訪問の開始が26日(火)。 戦争の過去、特に日本軍の残虐行為を巡る日本たたき(Japan bashing)が英マスコミで相次ぎ、元捕虜や元民間人抑留者の団体が連日大規模な抗議運動を展開。

1998年9月 前年(1997年)5月に発足していた労働党のブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣によって、本国学生に対する大学教育の有償化が開始される。それまでは他の欧州諸国と足並みを揃えて無償にしていた国立大学に学費(tuition fee)1,250ポンド(当時のレートで約27万円)が導入される(大学院生と外国人留学生には以前から高額な学費あり)。但し、家計の収入に応じた授業料免除の仕組みが導入され、約30%の学生が学費免除措置を受ける。ま た、残り70%の学生(自国学生のみに該当)も在学時に直接大学に学費を納入するのではなく、授業料に相当する金額が英国政府から各大学に支払われ、英国 人学生たちは卒業後に年収が一定水準を超えた時点で毎月給与から天引きされる仕組みになっている。(刈谷剛彦『グローバル化時代の大学論② イギリスの大 学・ニッポンの大学 カレッジ、チュートリアル、エリート教育』中央公論新社 中公新書ラクレNo.430, 2012年に依拠)

1998年 百二十四年前の1874年に創立された英国初の女医養成のためのロンドン女子医学校(London School of Medicine for Women)がロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)に吸収され、同大学医学部(UCL Medical School)の一翼を担うようになる。

1999年1月1日(金・祝) 欧州連合(EU: European Union)加盟諸国の大部分が統一通貨ユーロ(the euro)を決済用仮想通貨として商取引で使い始めるも、英国は従来通りに自国通貨ポンド(the pound sterling)を使い続ける(現在に至る)。なお、EUの一般市民が、欧州中央銀行(ECB: European Central Bank)の発行するユーロの紙幣(banknotes)や硬貨(coins)を物理的に使い始めるのは三年後の2002年1月1日(火・祝)のこと。

2000年 三年前の1997年5月から政権に就いているブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣が、新たな教育改革に着手。弱い学校に支援の手を差し伸べるべく、業績の上がらない国立総合中等学校を地方教育委員会(LEA: Local Education Authority)から切り離し、大学やエリート私立学校や慈善団体や一般企業などの支援で運営するアカデミー(academy)という新種の学校に生まれ変わらせる。結果としてイングランドの国立総合中等学校の約3分の1がアカデミーになる。

2000年6月 英マスコミが「ローラ・スペンス事件」(the Laura Spence affair)または「ローラ・スペンス騒動」(the Laura Spence row)と呼ぶ事件が発生。当時18歳でイングランド北東部に在る国立モンクシートン共同体ハイスクール(Monkseaton Community High School)の二年制 Sixth Form (直訳: 「第六学年」)の生徒だったローラ・スペンス(Laura Spence, b.1982?)嬢が、他の生徒同様に全国大学入学資格試験であるA-Levelsを三科目受験したところ、結果はstraight A(和製英語で言う「オールA」)だった。イギリスのSixth Formの生徒が大学に出願するのはA-Levelsを受験する一年半前、つまり Sixth Form に入った最初の学期のことである。スペンス嬢はオクスフオッド大学モードレン学寮(Magdalen College, Oxford)に医学部志望で出願したが不合格となり、代わりに米私学名門ハーヴァード大学(Harvard University)には奨学金付で合格した。オクスブリヂ(Oxbridge = Oxford + Cambridge)の両大学に出願して不合格になる生徒は毎年数千人いるが、スペンス嬢のケースが話題になったのは、ブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣の財務大臣(後に首相)であるブラウン(Gordon Brown, b.1951; 首相在任2007-10; エディンバラ大学歴史学博士)氏が労働党お得意のストーリーに仕立て上げ、政治問題化したことに原因がある。ブラウン氏によると、スペンス嬢が国立学校(state school: 国民の約93%が通う学校)の出身であり、特権階級の集まりであるオクスフオッド大学モードレン学寮が私学(independent schools)出身者を贔屓(ひいき)したからとのことである。なお、この事件の三年近く後の2003年3月にはブリストル大学(University of Bristol; 通称 Bristol University)の入学考査でも似たような騒動が起きることになるが、その場合は私学出身者に厳しく国立出身者を贔屓(ひいき)したのではないかという逆差別が槍玉に挙がった。A-Levelsの成績がすべてAの生徒をアメリカの大学に取られるようではイギリスの先行きは暗いという意味の発言をブラウン氏はラジオやテレビで盛んに繰り返し、オクスフオッド大学の入試システムを調査すべきだとも言い放つ。英マスコミはスペンス嬢にインタビューし、アメリカのハーヴァード大学から奨学金の申し出があったことを大々的に報道。しかしオクスフオッド大学にしてみれば、「A-Levelsの成績がすべてAの生徒」は出願者の90%近くいるとのことであり、国立校の出身だから落としたわけではないと反論。しかしオクスブリヂ両大学に対する偏見に満ちたマスコミ各社は、オクスフオッド叩(たた)きの手を緩(ゆる)めず。期せずして騒動の中心になってしまったスペンス嬢は、ハーヴァード大学で生化学(biochemistry)の学士号を取得した後、ケイムブリヂ大学ウルフソン学寮(Wolfson College, Cambridge)大学院で、この騒動から八年後の2008年に医学(medicine; medical studies)を修め、医師免許を取得した。この際も英マスコミ各社は「スペンス嬢がオクスフオッドに復讐(revenge)を果たした」と書き立てた。

2000年 OB (old boys)やOG (old girls)の中から2名の首相と13名の閣僚を輩出(はいしゅつ)しているオクスフオッド大学保守党協会(OUCA: Oxford University Conservative Association)の4名(同大学学生)がナチス式敬礼(Nazi-styled salutes)をしたことで追放される。

2001年5月18日(金) 翌日(2001年5月19日(土))から始まる日英親善文化交流イベント Japan 2001 のためのハイド公園(Hyde Park, London, UK)に於ける翌々日(2001年5月20日(日))の開会式(Opening Ceremony)に出席するため、日本国皇太子徳仁親王(こうたいし なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito of Japan, b.1960)=後の令和時代の天皇(Emperor Naruhito, b.1960; 在位2019-; 学習院大学大学卒、同大学大学院修了、オクスフオッド大学マートン学寮留学)が、ロンドン西郊のヒースロウ空港(LHR: London Heathrow Airport)に到着後、車列を組んで英女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)夫妻の待つロンドン西郊のウィンザー城(Windsor Castle)を訪問。同親王はその足で金曜と土曜は同城で英女王の賓客として過ごす。

(外部サイト)ウィンザー城内でのやり取り

https://www.youtube.com/watch?v=Ui4dzTnqObA

2001年9月11日(火) アメリカ東海岸で同時多発テロ発生。合計2,977人の直接の死者には372名の外国籍の市民が含まれ、その内、67名の英国人が命を落とした(日本人の死者は24名)。これを受けて英軍は米軍とともにアフガン戦争(War in Afghanistan, 2001-14)、次いでイラク戦争(Iraq War, 2003-11)の泥沼へ。

2002年1月1日(火) 三年前の1999年1月1日(金・祝)から決済用仮想通貨として機能していた欧州単一通貨ユーロ(the euro)が初めて現金として市中に出回り、一般市民も欧州中央銀行(ECB: European Central Bank)の発行するユーロの紙幣(banknotes)や硬貨(coins)の使用を開始。 しかし英国は自国通貨ポンド(the pound sterling)に固執(現在に至る)。

2002年6月 日韓共催FIFAワールドカップの成功で、英国に於ける日本のイメージが好転。第二次世界大戦終結57年にして、そして奇(く)しくも日英同盟締結百周年の年に、漸(ようや)く日本は戦時中の悪しきイメージからの脱却に成功。

2003年3月 ブリストル大学(University of Bristol; 通称 Bristol University)の入学考査で騒動が起きる。富裕層しか入れない私学(independent schools)出身者に厳しく、国立学校(state school: 国民の約93%が通う学校)出身者を贔屓(ひいき)したのではないかという疑惑が浮上。

2003年3月20日(木)~5月1日(木) 国民の反対を押し切り、英軍は米軍とともにイラク戦争に参戦。首都バグダッドは僅か二十日で陥落するが、米英によるイラク進駐軍はテロの恰好(かっこう)の標的になり、対テロ戦争の泥沼へ。今やアメリカのブッシュ(George W. Bush, b.1946; 大統領在任2001-09; 私立イェイル大学卒、私立ハーヴァード大学大学院修士)政権のプードル犬(poodle)と化したブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣総理大臣の人気が急落。

2004年 日本の文部科学省中央教育審議会(中教審)大学分科会が英国の大学教育について「ポリテクニックをほとんど全て大学にしたの で、イングランドだけで100程度に達していると思う。その全てに教育経費は渡しているものの、研究経費は従来から大学として有名な20~30校にしか渡 していない。その意味では重点投資を行っているといえる。」と報告。

2004年5月1日(土) 欧州連合(EU: European Union)が東欧・南欧10ヶ国(北から順にエストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、スロヴェニア、キプロス、マルタ)を取り込み、史上最大の急拡大を実現すると同時に東西欧州市場が統合される。この歴史的大変革に際し、英国は独仏と異なり新規加盟国に甘い顔をしてしてしまう。つまり独仏が東欧労働移民を段階的に何年もかけて渋々受け入れたのとは対照的に、イギリスとアイルランドとスウェーデンは2004年の時点で彼らを大々的に受け入れる。このため不良分子がポーランドなどから英国に大量に入り込んで社会問題を引き起こす。2004年以降に英国に入って来た移民60万人の内、約半数はポーランド人である。 彼らは英国に合法的に好きなだけ居住でき、国民健保(NHS: National Health Service)も受診でき、労働許可証(work permit: たとえば日本国籍者には絶対に必要)も取得せずに勝手に英国内で働ける。

2005年2月4日(金) ウォリック大学(University of Warwick)の中国人替え玉入試事件。1965年創立の「板ガラス大学」(plate glass universities)の一つでありながら英国最難関校の一つとされるウォリック大学(University of Warwick)で行なわれた外国人向け英語試験で、中国人の男(当時24歳)が不正業者から400ポンド(当時のレートで約7万円)の現金を受け取って 別の中国人に成りすまして替え玉受験していた事件が発覚。英国の名門大学に巣(す)食(く)う、なり振り構わぬ中国人の問題が浮上。同大学の警備員が気づ いたため事件が発覚。事件を起こした中国人は同年5月に公文書不正使用の罪で半年の実刑判決を受けた。このような犯罪が組織的に行なわれていることが懸念 される。

2005年2月10日(木) ウェールズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)が、元妻ダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97; スイスの花嫁学校の出)の急死から約七年五ヶ月を経て、ロンドン西郊のウィンザー市役所(Windsor Guildhall)にて1歳年上で長年の不倫相手だった元パーカー・ボウルズ夫人(Camilla Parker Bowles, b.1947; スイスの花嫁学校の出、ロンドン大学パリ校聴講)と再婚。

2005年2月18日(金)、労働党のブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣がイングランド&ウェールズに於(お)いてキツネ狩り(fox-hunting)を禁止に持ち込む。これは犬の群れを使って狐(キツネ)や野兎(野ウサギ)や鹿(シカ)やミンクを追い込んで狩ることを禁じる目的で2004年11月に英国議会で可決された「2004年狩猟法(Hunting Act 2004)」が施行されたため。労働党の党首(当時)でありながら、ブレア氏自身は裕福な記号A(中の上)階級の出身。「禁止」とはいっても英国的な妥協(だきょう: compromise コンプろマイス)の産物としてのザル法(a law with loopholes)であるため、「害獣(vermin)を追い立てるだけで殺さないなら合法」とされている。したがって現在でも独特の衣装を着たキツネ狩りの集団を農村部で目にすることがある。

2005年7月6日(水) シンガポールで開かれた国際オリンピック委員会(仏称 CIO: Comité international olympique; 英称 IOC: International Olympic Committee)の総会で第三十回オリンピック競技大会(仏称 Jeux de la XXXe olympiade; 英称 Games of the XXX Olympiad)の会場にロンドンが選出される。夕刻のロンドンはお祭り騒ぎになる。

2005年7月7日(木) 朝のラッシュ時間帯に首都ロンドンの公共交通機関を狙った大掛かりなテロ事件が発生。地下鉄の3か所がほぼ同時に、その約1時間後に二 階建バスが爆破され、合計56名(自爆テロ実行犯4名を含む)の死者。前日(同年7月6日(水))からスコットランドの片田舎で第31回主要国首脳会議 (通称グレンイーグルズ・サミット)が開催されており、このテロは首都ロンドンでの警備が手薄になった間隙(かんげき)を衝(つ)いたものと考えられる。 テロを実行した4名は英国生まれでイングランド北部のヨークシヤ(Yorkshire)地方の産業都市リーヅ市(Leeds)在住のイスラム教徒の若者 だった(自爆テロのため全員が事件で死亡)。「国内育ちのテロリストたち(homegrown terrorists)」として英国社会に衝撃。

https://sites.google.com/site/xapaga/home/shockingcrimes

2006年6月 それまで女子専用だった1893年開寮のオクスフオッド大学聖ヒルダ学寮(St Hilda’s College, Oxford)が理事会決定で113年の禁を破って男子学生の入寮を認める(実際の共学化は2008年10月から)

2006年同月 エクセター大学(University of Exeter)のゴルフ部の新歓入門式(initiation ceremony イニシエイション・れモニィ)で死者を出す。

2006年秋 労働党のブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣が、八年前の1998年に導入した国立大学の学費1,250ポンド(当時のレートで約27万円)から3,290ポンド(当時のレートで約70万円)を上限とする値上げを断行。上限までの範囲で各大学が授業料を自由に設定できるとした。なお、日本人を含む非EU・非EEA学生の学費は従来通り高額。

2006年12月29日(金) 第二次世界大戦(1939-45年)勃発から18ヶ月後の1941年3月から続いていた武器貸与法(Lend-Lease Acts)でアメリカ政府から借りたカネと、終戦後の1946年7月15日(月)から続いていた英米ローン合意(Anglo-American Loan Agreement)でアメリカ政府から借 りたカネの期日である2006年12月31日(日)が迫る中、英国政府は遂(つい)に2006年銀行最終営業日であるこの日(12月29日(金))、アメ リカ政府に対して約束通り最後の返済を終える。その額は4200万ポンド(£42m; 42,000,000 pounds)≒2006年末当時の為替レートで約92億円に及ぶ。この最後の返済後、与党労働党(Labour Party)のトウニィ・ブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣の経済担当副大臣(Economic Secretary to the Treasury)エド・ボールズ(Ed Balls, b.1967; オクスフオッド大学キーブル学寮卒、ハー ヴァード大学大学院ケネディー・スクール政治学研究所留学)氏は、アメリカの戦時・戦後支援について公式に謝意を表明。因(ちな)みに馬渕睦夫(まぶち むつお, b.1946; 京都大学中退、英ケイムブリヂ大学卒、学寮名不詳)元日本国特命全権大使キューバ国駐箚(ちゅうさつ)・元駐ウクライナ兼モルドヴァ日本国大使・元防衛大学校教授・吉備国際大学客員教授著 『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』(ワック Wac Bunko, 2014年)によると、日本が日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)で借金した戦費は八十年余りの期間、イギリスのユダヤ系財閥に分割返済され、完了したのは昭和61年=1986年とのこと。

2007年6月27日(水) 十年前の就任時には絶大な人気を誇ったものの四年前に参戦したイラク戦争以来、悪評だらけのブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)首相がようやく退任。後継には同じ労働党のブラウン(Gordon Brown, b.1951; 首相在任2007-10; エディンバラ大学歴史学博士)内閣が当たるが、時すでに遅く、労働党政権の人気低迷に歯止めかからず。

2007年秋 イングランド北西部の小さな学校が集まってカンブリア大学(University of Cumbria)を組織。科学藝術学校がバッキンガムシヤ新大学(Buckinghamshire New University)として正式に認可される。

2007年10月14日(日) この日にサンデイ・タイムズ紙(The Sunday Times)の附録して発行されたサンデイ・タイムズ雑誌(Sunday Times Magazine)が、米国人科学者ジェイムズ・ワトスン(James Watson, b.1928)博士のコメントを掲載。自伝の刊行に合わせて英国縦断講演旅行をするためのプロモーションを兼ねたインタビューの筈(はず)だったが、その人種偏見に基づくような内容が波紋を呼び、多くの講演会場がワトスン博士を拒否し、博士自身もツアーの途中で米国に帰国した。その問題となったインタビューの中でワトスン博士はこう語っている。「アフリカの将来については本質的に悲観的だ」(I am inherently gloomy about the prospect of Africa)とし、「すべての社会政策はアフリカ人の知能が我々の知能と同じだという前提を基本にしているが、すべての研究は必ずしもそうではないとしている。」(all our social policies are based on the fact that their intelligence is the same as ours—whereas all the testing says not really)、「黒人労働者と交渉しなければならない雇用主なら、そうでないこと=アフリカ人の知能が我々の知能と同じではないことを分かっている。」(people who have to deal with black employees find this not true)と。なお、ワトスン博士は1953年にケイムブリヂ大学(University of Cambridge; 通称 Cambridge University)で研究生活をしており、その際に英人科学者フランシス・クリック(Francis Crick, 1916-2004)博士とニュージーランド出身の科学者モーリス・ウィルキンズ(Maurice Wilkins, 1916-2004)博士と共同でデオキシリボ核酸(DNA: deoxyribonucleic acid) の二重螺旋構造(the double helix)を発見した。そして九年後の1962年ノーベル生理学・医学賞(典 Nobelpriset i fysiologi eller medicin 1962; 英 Nobel Prize in Physiology or Medicine 1962)を受賞していた。

2007年11月14日(水) 日立製作所(Hitachi, Ltd.)の技術により、ユーロスター(Eurostar)のイギリス国内での高速化が実現。従来までのロンドン・パリ間2時間45分が2時間14分に短縮。これに伴い、国際列車のユーロスター以外でも、ハイスピード(High Speed)という名の日本製(日立製作所製造)新幹線がイングランド南東部を走行。日立製作所は車輛メインテナンスも一手に引き受ける。この日はチャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)の59歳の誕生日に当たる。

2008年9月 米大手証券会社リーマン・ブラザーズの倒産(和製英語でリーマン・ショック)に端を発する世界同時不況。金融立国でやって来た英国経済も大打撃。失業者が街に溢れる。

2008年10月 二年前の理事会で決定したことを受けて、オクスフオッド大学聖ヒルダ学寮(St Hilda’s College, Oxford)に初の男子学生が入学オクスフオッド大学の男女完全共学化が実現。一方、ケイムブリヂ大学では女子専用(男子禁制)3学寮体制が1977年以来存続(今日に至る)するため、今となってはケイムブリヂ大学は性別を理由に男子の入寮を拒否する学寮を抱える英国唯一の大学となっている。

2008年同月 グロウスタシヤ大学(University of Gloucestershire)の新歓入門式(initiation ceremony イニシエイション・れ モニィ)の様子が密かに録画されて動画サイトに投稿され、そのひどい内容に非難が殺到。数名の新入生がスーパーマーケットのビニール袋(plastic bags)を頭から被(かぶ)らされ、彼らを率いるナチス風制服の男1人が「吐(は)くまで飲め」と命じて本当に道端で次々に吐く映像。

2008年11月4日(火) ロンドン経済政治学院(LSE: London School of Economics and Political Science)の新しい建物の完成を祝いに国家元首としては1920年以来実に八十八年ぶりに訪れた女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が、二ヶ月前の2008年9月に起こった金融危機(日本で言うリーマンショック)について触れ、「なぜ誰もそれ(=金融危機)に気づかなかったのですか。」(Why did nobody notice it?)と、同学院経営学部のスペイン人教授であるガリカノ(Luis Garicano, b.1967)博士に尋ねる。これに対する博士の答えは、「あらゆる段階で人は別の人に頼っていて、皆が自分は正しいことをしていると思っていたのです。」だった。(At every stage, someone was relying on somebody else and everyone thought they were doing the right thing.)だった。(2008年11月5日(水)付の英日刊紙 The Daily Telegraph の記事に依拠)

2008年11月26日(水) 労働党のブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣の後を継いだ同じ労働党のブラウン(Gordon Brown, b.1951; エディンバラ大学歴史学博士)内閣が導入した2008年教育・技能法(Education and Skills Act 2008)が勅裁される。この新法では1997年9月1日(月)以降に生まれた者は義務教育期間が5歳から18歳までとなった。したがって実際に18歳まで義務教育を受けるようになったのは2015年のことであるが、2013年には移行期間として義務教育期間を5歳から17歳までとした。

2008年12月1日(月) 世界同時株安(日本マスコミの言う「リーマン・ショック」)による不況への対策として英国政府が付加価値税(VAT: value added tax)を一時的に17.5%から15%(1979年6月18日(月)から1991年3月18日(月)まで適用された過去の税率)に引き下げ。

2009年 ケイムブリヂ大学が創立八百周年を祝う。

http://www.cam.ac.uk/about-the-university/history/800th-anniversary

2009年秋 世界同時不況(和製英語でリーマンショック)の影響で緊縮財政を余儀なくされた労働党のブラウン(Gordon Brown, b.1951; 首相在任2007-10; エディンバラ大学歴史学博士)内閣は教育予算を削減。

2009年11月 イースト・アングリア大学気候研究ユニットのメール流出事件。英本国では、1972年から’74年にかけて米政界を揺るがしたウォーターゲート事件(Watergate scandal)に準(なぞら)えて Climategate (クライメットゲイト)とスキャンダラスに報道される。イースト・アングリア大学(UEA: University of East Anglia)の気候研究ユニット(CRU: Climate Research Unit)が外部から不正にアクセスされ、地球温暖化の研究に関連した電子メールと文書が公開されたことによって一連の事件が発生。同研究ユニットが地球 温暖化に対する懐疑論者の意見を封じ込めるために気候データを改竄(かいざん)していたとされる。その後、一部の研究者に殺害予告などの脅迫が行なわれ、 不正アクセスのみならず脅迫容疑でも警察が捜査に乗り出した。同年12月3日(木)、同大学は独立調査委員会を設立し、翌’10年春までにデータの操作や隠蔽があったのかどうかの調査、及びコンプライアンス(法令遵守 ほうれいじゅんしゅ)の点検、適切な手法の推奨を行なうとした。また、2010年3月22日(月)、UEAは外部の科学評価パネルを発足させ、CRUの科学研究の質の評価を依頼。英国気象庁(Met Office)は、人々の間での地球温暖化研究の信頼が損なわれたことを認め、「結果としてはおそらく結論は変わらないだろう」としながらも、自らの過去百六十年にも及ぶ気象データベースを洗い直すとした。同年4月14日(水)、科学評価パネルはCRUの科学研究には不正は認められないと報告すると同時に、事件に関して不当な批判が寄せられているとし、パネルは批判者を逆に批判した。こうして事件は一応の収束を見たが、国際社会に波紋を呼んだ。

2010年1月1日(金・祝) 英国政府が付加価値税(VAT: value added tax)を15%(2008年12月1日(月)から2009年12月31日(木)まで一時的に適用されていた税率)から再び17.5%に戻す。

2010年5月6日(木) 総選挙で労働党が敗退。5月11日(火)、保守党のキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16; オクスフオッド大学ブレイズノウズ学寮卒、在位1830-37年の国王ウィリアム四世の庶子の子孫)内閣が発足。十三年ぶりの保守党内閣ながら決定的勝利とは行かず、自由民主党のクレッグ(Nick Clegg, b.1967; ケイムブリヂ大学ロビンソン学寮卒)党首を副首相に迎えての連立内閣。組閣当時、首相は43歳7ヶ月、副首相は43歳4ヶ月の若さ。労働党の政権が推し進めていた専門系学校(specialist school)のプログラムを廃止。

2010年11月10日(水) 上記の新内閣が国立大学の学費を2012年度以降、年額9,000ポンド(当時のレートで約119万円)にまで値上げする計画を発表し、 各大学に通達。但し、授業料を9,000ポンドに値上げしても、大学に入ってくる収入は7,650ポンドであり、その差額分の1,350ポンドが英国政府 に還付され、政府はその金額を原資に低所得層の若者に大学教育の機会を拡大することを目論んでいる。日本の大学で譬(たと)えれば、東大生などの国立大生 に対して、「国の財政が苦しいのだから、君ら国大生も再来年度から私立なみの学費を払え」といきなり命じるような暴挙に相当。学費値上げ反対派がロンドン の保守党本部前で大規模デモ(偶然通りかかったチャールズ皇太子とカミラ夫人が乗った車が襲撃されるも怪我はなし)。BBCの報道によれば、オクスフオッ ド大学の学生だけでも約400人が抗議活動に参加したとのこと。

2011年1月4日(火) 不況に伴う政府の財源不足から、キャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16; オクスフオッド大学ブレイズノウズ学寮卒)内閣が付加価値税(VAT: value added tax)を従来の17.5%から20%に引き上げ(現在に至る)。

2011年4月29日(金) ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)にて女王の嫡孫で、皇太子の長男(将来の国王であり現在の王位継承順位第二位)であるウィリアム王子(Prince William, Duke of Cambridge, b.1982; スコットランドの名門センタンドルーズ大学卒)が、庶民出身のキャサリン(愛称ケイト)・ミドルトン嬢(Catherine Middleton, b.1982; 王子とはセンタンドルーズ大学の同窓生)と結婚式を挙げる( http://www.youtube.com/watch?v=schQZY3QjCw )。全世界にテレビ中継。日本からは皇太子徳仁親王(こうたいし なるひと しんのう, Crown Prince Naruhito, b.1960)=後の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Naruhito, b.1960; 在位2019-; 学習院大学卒、同大学大学院修士、オクスフオッド大学マートン学寮留学)と皇太子妃雅子(Princess Masako, b.1963)=後の皇后(Empress Masako, b.1963; ハーヴァード大学卒、オクスフオッド大学ベリオル学寮中退、東京大学中退)が参列する予定だったが、東日本大震災の影響で断念。

2011年5月17日(火)~20日(金) 英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)によるアイルランド共和国公式訪問が実現。英国国家元首(UK Head of State)による百年ぶりのアイルランド訪問。前回は1911年、現女王の祖父ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)によるものであり、当時アイルランドは連合王国(UK: United Kingdom)の一部だった。したがって独立したアイルランド共和国を英国の元首が訪れるは歴史上初のこと。訪問二日目(2011年5月18日(水))、約九十年前の1920年11月21日(日)に英軍が「血の日曜日事件」(Bloody Sunday (1920))を起こした現場、クローク・パーク競技場(Croke Park Stadium)を訪れて英愛両国の和解を演出し、同日夜には共和国大統領マッカリーズ(Mary McAleese, b.1951; 大統領在任1997-2011)女史による歓迎晩餐会の席で、英女王が冒頭だけながらアイルランド・ゲール語で「大統領とご友人の皆さん」とスピーチを始め( https://www.youtube.com/watch?v=xgLAHYMLs6s )、 周囲は驚きと感動に包まれる。大統領は全く予期しなかった展開に呆気(あっけ)に取られるも、それはすぐに心からの讃嘆と大きな拍手となる。この一件で アイルランド側の張り詰めていた緊張状態が解け、英女王による訪問が大成功に終わることを関係者全員に予感させる。英愛関係の改善(歴史的わだかまりの解消)を内外に印象づけ、訪問は成功裡に終わる。

2011年6月7日(火) オクスフオッド大学の評議員総会(Congregation)で、「オクスフオッド大学は、高等教育担当大臣の政策案に対し不信任を表明する」という声明を大学として公式に議決。投票結果は賛成283票、反対5票だった。翌日(2011年6月8日(水))付のガーディアン紙(The Guardian)が報道。

2011年8月6日(土)夜~11日(木) ロンドンをはじめイングランドの大都市で大規模な暴動。5名が死亡。同13日(土)までに暴動・放火・略奪の容疑で1,600人以上が逮捕され、さらに同25日(木)までに合計2,000人超が逮捕された。逮捕者の過半数は18歳未満だった。暴動がやっと収束した時点に於(お)いて保険会社の蒙(こうむ)った損失だけでも2億ポンド(250億円)超と推定された。

2011年秋 米国ニューヨークのウォール・ストリート不法占拠運動(Occupy Wall Street)と連動して、反貧困市民団体がロンドンの金融街であるシティ区(City of London)の一部を不法占拠。

2011年10月28日(金)~30日(日) 豪州西部のパース市(Perth, Australia)で第22回英連邦諸国首脳会議(22nd Commonwealth Heads of Government Meeting)が開催される。共通の王室である英国のウィンザー家(the House of Windsor)を戴(いただ)く英連邦の君主国16ヶ国間が「パース協定(Perth Agreement)」が締結。従来の王位継承が男子優先長子相続(male-preference primogeniture)だったのを改め、性別に依らない長子優先相続(absolute primogeniture)を定め、配偶者がカトリック信徒(a Roman Catholic)であれば王位継承欠格とする従来の規定を廃止し(但し、自身がカトリック信徒であれば欠格となる規定は維持)、結婚に際して君主の承認を必要とする王族の範囲を王位継承順位6位までに縮小するとした。英国内法では、このパース協定に基づく法改正として「2013年王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)」が、2013年4月25日(木)に勅裁され、2015年3月26日(木)に施行されることになる。周囲を見渡せば、1979年にスウェーデン王国が、1983年にオランダ王国が、1990年にノルウェー王国が、1991年にベルギー王国が、2009年にデンマーク王国が、従来の王位継承が男子優先長子相続(male-preference primogeniture)だったのを改め、性別に依らない長子優先相続(absolute primogeniture)へと法改正していた。英国(及び他の英連邦君主国15ヶ国)の動きは、北欧(Scandinavia)や欧州大陸(the Continent)の君主国の動向に呼応した形である。

2011年11月 2000年にも問題を起こしていた(上記参照)オクスフオッド大学保守党協会(OUCA: Oxford University Conservative Association)の会員たち(同大学学生)がユダヤどもを殺せという内容のナチスの党歌を歌ったことで人種差別の嫌疑がかかる。同大学と保守党の双方が調査を開始。

2012年7月27日(金)~8月12日(日) 第三十回オリンピック競技大会(仏称 Jeux de la XXXe olympiade; 英称 Games of the XXX Olympiad)、通称 2012年夏季オリンピックロンドン大会(仏称 Jeux olympiques d’été de 2012 à Londres; 英称 2012 Summer Olympics in London)がロンドンで開催される。六十四年ぶり三度目(1908年の第四回、1944年の幻の大会、1948年の第十四回、2012年の第三十回)のロンドン大会だが、日本にとっては自国が出場した初のロンドン大会である。参加国・地域数は204で、六十四年前の1948年ロンドン大会よりも3.4倍以上増えたし、百四年前の1908年ロンドン大会に比べれば9.2倍以上も増えたことになる。男性しか参加を許さなかった一部のイスラム教国が初めて女性選手を派遣したため、参加国のすべてから男女両性が出場した初の大会となる。なお、カメルーンの選手7人、コンゴの選手4人が行方不明になり、ギニアやコートジボワール(象牙海岸)の選手団でも行方不明者が確認される。アフリカ勢からは他にも独裁国家エリトリアの選手3人が正式な政治亡命を求める。

2012年8月29日(水) 既存の職業学校を統合して十年前の2002年に創立されながら毎年英国最低ランクに評価されているロンドン・メトロポリタン大学(London Metropolitan University)が、英国内務省(Home Office of Her Majesty’s Government)及び連合王国国境管理局(UKBA: United Kingdom Border Agency)によって非欧州圏留学生受け入れ免許を剥奪される。この処分は就労目的で入国した偽学生が就学査証(student visa)を不正に取得する違法行為が発覚したため。偽学生の国籍は直接言及していないが、近頃とみに増えている中国人が多数絡(から)んでいると推測できる。こ の処分の影響を受けるEU及びEEA域外出身の留学生の合計は約2,700名で、日本人留学生も約150名いるが、彼らは同年9月に始まる新学年度(実際 の授業は10月開始)で授業に出席できなくなる。他の教育機関を探すにしても、60日以内に転校先が見つからない場合は国外退去処分となるとのこと。(同日付のガーディアン紙の記事に依拠)

2012年8月29日(水)~9月9日(日) 第十四回パラリンピック大会(XIV Paralympic Games)がロンドンで開催される。参加国・地域数は164。

2012年秋 キャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16; オクスフオッド大学ブレイズノウズ学寮卒)内閣の指示で国立大学が年間学費の値上げを断行。 多くの大学でイギリス人学生の年間学費が9,000ポンド(当時のレートで約114万円)に。たとえばランカスター大学では、イギリス人学生の2010年 度の年間学費が3,290ポンド(当時のレートで約43万円)、2011年度が3,375ポンド(当時のレートで約41万円)だったのが、2012年度に はご多分に漏れず遂に9,000ポンド(当時のレートで約114万円、2015年5月のレートで約169万円)に跳ね上がった。日本人を含む非EU・非 EEA国籍の留学生の場合、2010年度の年間学費が10,500ポンド(当時のレートで約136万円)、2011年度が11,425ポンド(当時のレー トで約138万円)だったのが、2012年度には12,070ポンド(当時のレートで約153万円)に値上げされた。2015年5月現在は13,270ポ ンド(約249万円)。日本人留学生にとっては年間の学費だけで250万円、年間の生活費だけで150万円から200万円もかかるため、仮にロータリー財団などの奨学金を自力で勝ち取ったとしても家に十分な蓄えがないと英国留学はできない。

(比較参考外部サイト)「週刊新潮」2013年8月1日(木)号 「文部科学省が反日中国人留学生に使う血税180億円!」

http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/34ce3e928b7185852d9b89f75b511697

http://matome.naver.jp/odai/2137519319450547801

http://ameblo.jp/tekkanomaki/entry-11582755893.html

http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/30968030.html

http://www.youtube.com/watch?v=ml1T-Lnq7qE

2012年11月22日(木) 五十年前の1962年に創立されていた法科学院(The College of Law)が大学に昇格し、法科大学(The University of Law)に改名。英国第二の私立大学が誕生

2013年3月 二十九年前の1984年に創立されていた摂政学院(Regent’s College)が大学に昇格し、摂政大学(Regent’s University)に改名。英国第三の私立大学が誕生

2013年4月8日(月) サッチャー(Margaret Thatcher or Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)元首相・女男爵が満八十七歳で脳卒中のため歿。サッチャーの功罪(功績と罪科)について国論は二分。改めてサッチャー論争が起こる。

2013年4月11日(木) サッチャー歿から三日を経たこの日、「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ(Ding Dong! The witch is dead)」が英国ダウンロードサイトの第1位に上り詰め、人々はサッチャーの死去を祝う。

2013年4月13日(土) サッチャー死去直後の週末(weekend)であるこの日、ロンドン都心のトラファルガー広場(Trafalgar Square)に約3,000人が「魔女は死んだ!(The witch is dead!)」などと叫んでサッチャーの死に気勢を上げ、(おそらくは酔った上での)警官への暴行容疑などで16人が逮捕される。

2013年4月14日(日) 翌日(月曜)にサッチャー元首相・女男爵の国葬(state funeral)に準じる規模の手厚い葬儀が執(と)り行なわれようという日曜のBBCラジオ第1放送(BBC Radio 1)の番組で、英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)への聴取者(listeners)からのリクエスト(request)として「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ(Ding Dong! The witch is dead)」が殺到。BBCは苦渋の判断を迫られる。公共放送のBBCとしては、たとえ批判の多い死者であっても死者を嘲笑するような曲を全編に亘(わた)って流すことは拒否したが、他方、リクエストに対する検閲(censorship)を断行して、多くのリスナーが希望する曲を放送しないわけにはいかないというディレンマ(dilemma)に陥(おちい)った。そこで英国的な妥協(だきょう: compromise コンプろマイス)の産物として5秒だけの抜粋を流すことで解決を図ったのだった。

2013年4月15日(月) サッチャー元首相・女男爵の国葬(state funeral)に準じる規模の手厚い葬儀が、大ロンドン市シティー区(City of London, Greater London)内の聖パウロ主教座聖堂(St Paul’s Cathedral)にて執(と)り行なわれる。サッチャー本人の生前の希望から、保守党と自由民主党の連立だったキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)内閣は国葬にはせず、儀礼葬(ceremonial funeral)とした。そしてサッチャー本人の生前の希望から、現職の首相であるキャメロン氏が聖書の一部を朗読した。この葬儀にはサッチャーとほぼ同世代である女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)とその王婿(おうせい: Prince Consort)であるエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, b.1921)も出席したが、女王夫妻が元首相の葬儀に出席したのは、1965年1月30日(土)のチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55)元首相のための国葬(state funeral)以来まだ二度目のことであり、異例中の異例であった。

2013年4月25日(木) 約一年半前の2011年10月30日(日)に英連邦の君主国16ヶ国間で締結された「パース協定(Perth Agreement)」に基(もと)づき保守党のキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)内閣が議会で成立させた「2013年王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)」が勅裁される。実際の施行は二年近く後の2015年3月26日(木)。

2013年7月22日(月) ケイムブリヂ公ウィリアム王子(Prince William, Duke of Cambridge, b.1982; センタンドルーズ大学卒)とケイムブリヂ公爵夫人キャサリン(Catherine, Duchess of Cambridge, b.1982; センタンドルーズ大学卒)との間に待望の男子ジョージ王子(Prince George of Cambridge, b.2013)で将来の国王「ジョージ七世」候補が生まれる。

2013年8月 二十一年前の1992年に創立されていたBPP法律学校(BPP Law School)が大学に昇格し、BPP法律大学(BPP University)に改名。英国第四の私立大学が誕生イギリスの私立大学の数が史上最多の4校に

2013年12月2日(月)~4日(水) キャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16; オクスフオッド大学ブレイズノウズ学寮卒)英首相が120社を超える英貿易使節団を引き連れて中国を訪問。投資、科学技術開発、金融、司法、文化、衛生などの分野で10の文書に調印し、英中商工界サ ミットで多くの契約や覚書を交わし、56億ポンド(当時のレートで約9482億円)を超える取引を締結した。これまで冷え込んでいた英中関係が急速に回復したように見えたが、実は同時期に英国海軍(Royal Navy)のザンベラス(サウサンプトン大学卒)提督・参謀長が訪日し、東京都内で小野寺五典(旧東京水産大学、現東京海洋大学卒、東大大学院修士)防衛大臣と会談していた。その会談の中で、両者は尖閣諸島を含む東シナ海で中国が主張する防空識別圏(ADIZ: Air Defence Identification Zone)問題に協力して対応することで一致したため、中国メディアは「英国が二股外交をやっている」と指摘して不快感を表明。

2013年12月19日(木) BBCニュース( http://www.bbc.com/news/education-25432377 )が英国で19歳の時点でユーネヴアセティ(university)に学籍がある人の割合が史上始めて40%に達したと報道。しかしウィキペディア日本語版で「進学率」を調べると、2002年の段階でイギリスは既に63.1%で、それ以後のデータは未記入。ウィキペディアでは明記していないが、この数字は 高等教育コレッヂ(college of higher education)や継続教育コレッヂ(college of further education)を含めた数値。このウィキペディアのデータでは日本の大学進学率は、2005年の時点で47.3%だが、四年制大学だけでなく、短期 大学(短大)や高等専門学校(高専)を入れているので、イギリスと一概には比較できない。2004年では、通信制大学と放送大学と専修学校をも含めると、 日本の高等教育進学率は75.9%。

2014年2月10日(月) BBCが人気番組『パノラーマ(Panorama)』 の中で隠しカメラを使った映像2種を公開。ロンドンで留学ヴィザ希望者向けに実施されたTOEIC(Test Of English for International Communication: 国際コミュニケーションのための英語試験=トーイック)に於いて、試験監督が解答を読み上げる組織的不正行為や替え玉受験が行われていたが明らかになり、 英国の教育関係者や入国管理当局に衝撃が走る。BBCはハッキリ言わないが、隠しカメラ映像から聞こえてくるのはインド訛りまたはパキスタン訛りの英語。

(外部サイト)BBCの公式サイト

http://www.bbc.com/news/uk-26024375

2014年3月29日(土) イングランド&ウェールズで同性婚(same sex marriage)が法的に初めて認められる

2014年4月17日(木) 同年2月に放映されたBBC『パノラーマ(Panorama)』の内容を受けて、英国内務省(Home Office of Her Majesty’s Government)及び連合王国国境管理局(UKBA: United Kingdom Border Agency)は、米国ニュージャージー州に本部を置くETS(Educational Testing Service: 教育試験サービス)が運営する英語能力テスト2種、つまりTOEFL(Test Of English as a Foreign Language: 外国語としての英語試験=トーフル)とTOEIC(Test Of English for International Communication: 国際コミュニケーションのための英語試験=トーイック)を、ビザ申請時に提出する英語力証明として承認しないことを発表。同時に米国の ETS(Educational Testing Service: 教育試験サービス)も英国で「下請け業者による違法行為」を確認し、英内務省と結んでいた、英語力証明に使うための契約を更新しないと発表。

(外部サイト)ETS公式サイトの発表

http://www.ets.org/toeic/important_update/update_toeic_uk

2014年6月 中国の李克強(Li Keqiang, b.1955 ;首相在任2013-)首相が英国を訪問する直前に中国側が英女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)との面会を求め、叶わないなら訪英は中止だと英国側を脅す。英国側は降参してウィンザー城(Windsor Castle)で李首相夫妻と面会。この訪英で英中はインフラ整備事業など140億ポンド(当時のレートで約2兆4150億円)の契約を締結。

2014年9月18日(木) スコットランドのセンタンドルーズ(St Andrews: 「聖アンデレ」の意)に在り、1754年創立の「ゴルフの聖地」とされている通称「ジアーらンデイ(The R&A)」こと、古代聖アンデレ・ゴルフ倶楽部(The Royal and Ancient Golf Club of St Andrews)が会員の投票で女性会員の受け入れを決定。2015年から女性が実際に入会した。それ以前は男性しか会員になれず、女性は会員から呼ばれたゲストとしてのみプレイできた。

2014年同月同日(木) 三百七年前の1707年5月1日にイングランドと合併しているスコットランドで独立の是非を問う史上初の住民投票(Scottish independence referendum, 2014)が、満16歳以上のスコットランド住民を対象に実施される。接戦が予測されたが、蓋(ふた)を開けてみると、独立派が44.7%、連合王国存続派が55.3%で、スコットランドの独立は取り敢えずは否決された。

2014年11月14日(金) 約二ヶ月前の同年(2014年)9月18日(木)に独立が否決されたスコットランド住民投票(Scottish independence referendum, 2014)の責任を取り、スコットランド民族党(Scottish Nationalist Party; 通称 SNP)のアレックス・サモンド(Alex Salmond, b.1954; 自治政府首相在任2007-14; エディンバラ商科大学=現在のエディンバラ・ネイピアー大学卒、センタンドルーズ=聖アンデレ大学大学院修士修了)党首が辞任し、代わってニコラ・スタージョン(Nicola Sturgeon, b.1970; 自治政府首相在任2014-; グラーズゴウ大学卒)女史=44歳が党首に就任。スコットランド自治政府首相(First Minister of Scotland)の地位の移譲は翌週の議決まで持ち越し。

2014年11月20日(木) 前週の同年(2014年)11月14日(金)にスコットランド民族党(Scottish Nationalist Party; 通称 SNP)党首の地位に就いていたニコラ・スタージョン(Nicola Sturgeon, b.1970; 自治政府首相在任2014-; グラーズゴウ大学卒)女史=44歳が、スコットランド議会での議決を経てスコットランド自治政府首相(First Minister of Scotland)に就任。同自治政府5人目の首相だが、女性首相としては今のところ最初で最後。私生活でスタージョン女史は四年前の2010年に満39歳で七年越しの交際が実って当時45歳のマレル(Peter Murrell, b.1964?)氏と結婚した。同氏はSNP総務部長(SNP chief executive)という役職に就いているため、党内で妻の部下ということになる。夫婦別姓を推進していることもあり、マレル夫人(Mrs Murrell)を名乗らず、一貫して独身時代の苗字スタージョン(Sturgeon)を使って政治活動している。首相就任後の2016年になって五年前の2011年の流産(miscarriage)について英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)のラジオ番組「女性の時間」(Woman’s Hour)の中で初めて打ち明けた。そのため今でも子無しの状態が続いている。

2014年12月16日(火) イングランド&ウェールズに八ヶ月半遅れてスコットランドでも同性婚(same sex marriage)が法的に初めて認められる。結婚は届けを出してから15日が経過しないと認められないので、スコットランド初の同性による結婚式は同年12月31日(水)の未明に執り行なわれた。

2015年1月26日(月) イングランド教会(Church of England)のリビー・レイン(Libby Lane, b.1966; オクスフオッド大学聖ペトロ学寮卒)女史が女性初の主教(bishop)に任じられ、:ヨークの聖ペトロ首府主教座聖堂(The Cathedral and Metropolitan Church of St Peter in York)、通称ヨーク大聖堂(York Minster)にて叙任式(じょにんしき: consecration)が執り行われる。

2015年2月26日(木)~3月1日(日) 英国王位継承順位第二位のケイムブリヂ公ウィリアム王子(Prince William, Duke of Cambridge, b.1982; センタンドルーズ大学卒)が単独で初来日。妻のケイムブリヂ公爵夫人(Catherine, Duchess of Cambridge, b.1982; センタンドルーズ大学卒)は同年4月に第二子の出産を控えていたため(実際は5月2日(土)に出産)同行せず。26日(木)午後に羽田空港に到着すると東京都の舛添要一(ますぞえ よういち, 1948; 都知事在任2014-16; 東京大学卒、同大学元助教授、国際大学元教授)知事らが出迎え、ボートで浜離宮恩賜庭園へ向かい、その道中で船上から2020年東京オリンピック会場となる場所を視察。当日は激しい雨に見舞われたが、王子は「イギリスの悪い天気を持ってきて申し訳ない」と言って笑いを誘う。浜離宮恩賜庭園の茶室では、家元から茶の湯のもてなしを受 ける。同27日(金)には皇居の御所を訪問し、天皇皇后両陛下と昼の会食。両陛下が王子と会見したのは2012年6月のエリザベス女王即位六十周年記念行 事で訪英以来のこと。同日午後には赤坂の東宮御所を訪問し、皇太子徳仁親王(こうたいし なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960; 学習院大学卒、オクスフオッド大学マートン学寮留学、学習院大学大学院博士前期=修士課程修了)と雅子妃(Princess Masako, b.1963; ハーヴァード大学卒、東京大学中退、オクスフオッド大学ベァリオル学寮留学)と初めて接見し、約四十分間懇談。同28日(土)には、在東京都渋谷区の代官山蔦屋書店を訪問し、英国政府と在日英国大使館が主催して英国最新イノベーション・プロダクト25点を紹介するイベント「Innovation is GREAT展」を視察。同日午後には東日本大震災と津波で被災した福島県を訪れ、安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-7 & 2012-; 成蹊大学卒、カリフォルニア州立大学ヘイワード校遊学、南カリフォルニア大学中退)内閣総理大臣とともに同県本宮市の屋内遊び場「スマイルキッズパーク」で子供たちと交流し、見事なお手玉(juggling)の腕前を披露。震災被災地訪問は王子の強い希望であり、「被災者と会わないのでは訪日する意味がない」と側近に伝えていたという。施設の外で安倍首相は日本の国樹である桜の苗木を、ウィリアム王子は英国の国樹であるオーク(oak)の苗木を記念植樹。また、宮城県石巻市では子供3人を津波で亡くした夫妻と懇談。マスコミは懇談の場に入れなかったが、 夫妻が後にマスコミに明らかにしたところによると、王子は夫妻の話に、「私も若い頃(13歳時)に大切な母(故ダイアナ妃)を亡くし、少しはお二人の気持ちが分かります。母を思い出して辛い時は今日のことを思い出します。」と語ったという。英王室スポークスマンは「心を揺さぶられる会話が交わされた」とだけ述べた。その後、安倍首相とウィリアム王子は福島家郡山市内の磐梯熱海温泉の老舗旅館「四季彩一力」に入り、浴衣に着替えて、福島県産の食材で作られた 和食や地酒を味わいながら懇談した。同王子は外国の要人(VIP: very important person)としては初めて東北の被災地に宿泊した。

2015年3月4日(水) イングランド南東部のサンドウィッチ町に位置する1887年創立の王立聖ゲオルギオス・ゴルフ倶楽部(Royal St George’s Golf Club)が、それまでの方針を転換し、女性会員の受け入れを決定。2014年9月18日(木)のスコットランドの名門ゴルフクラブの動きに倣(なら)った形になった。

2015年3月26日(木) 約三年半前の2011年10月30日(日)に英連邦の君主国16ヶ国間で締結された「パース協定(Perth Agreement)」に基(もと)づき保守党のキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16; オクスフオッド大学ブレイズノウズ学寮卒)内閣が議会で成立させ、2013年4月25日(木)に勅裁を得ていた「2013年王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)」が、この日から効力を発揮。従来の王位継承が男子優先長子相続(male-preference primogeniture)だったのを改め、性別に依らない長子優先相続(absolute primogeniture)を定め、配偶者がカトリック信徒(a Roman Catholic)であれば王位継承欠格とする従来の規定を廃止し(但し、自身がカトリック信徒であれば欠格となる規定は維持)、結婚に際して君主の承認を必要とする王族の範囲を王位継承順位6位までに縮小するとした。周囲を見渡せば、1979年にスウェーデン王国が、1983年にオランダ王国が、1990年にノルウェー王国が、1991年にベルギー王国が、2009年にデンマーク王国が、従来の王位継承が男子優先長子相続(male-preference primogeniture)だったのを改め、性別に依らない長子優先相続(absolute primogeniture)へと法改正していた。英国(及び他の英連邦君主国15ヶ国)の動きは、北欧(Scandinavia)や欧州大陸(the Continent)の君主国の動向に呼応した形である。イギリスの王制(君主制)も最近までずっと男性優位で来たが、今後は男女の性別に関係なく君主の子供の中で最年長の者が王位を継承することになった。しかし今の女王の長子は男性(チャールズ皇太子)で、そのまた子供にも男性(ウィリアム王子とハリー王子、但し、日本のマスコミの呼び方ではヘンリー王子)、そのまた子供には上に男子(ジョージ王子)、下に女子(シャーロット王女)しかいないので、この法律が適用されるのは事実上、ウィリアム王子の孫(現女王の玄孫(やしゃご))の代からである。同時に「カトリック信徒を配偶者とした者は王位継承権を失うこと」とした三百十四年前の「1701年王位継承法(Act of Settlement 1701)」から続く条項も撤廃された。しかしながら相変わらず「イングランド教会信徒のみが王位継承権を持つこと」と「カトリック信徒は王位継承権を失うこと」の条項は残された儘(まま)である。そのため、ガーディアン紙(The Guardian)や英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)等の左派系マスコミはこれを非難している。

2015年5月2日(土) ケイムブリヂ公ウィリアム王子(Prince William, Duke of Cambridge, b.1982; センタンドルーズ大学卒)とケイムブリヂ公爵夫人キャサリン(Catherine, Duchess of Cambridge, b.1982; センタンドルーズ大学卒)との間に第二子(女児)が誕生。英王室では王位継承権(但し、順位はチャールズ皇太子、ウィリアム王子、ジョージ王子に次ぐ第4位)を持ったプリンセスの誕生は 1950年のアン王女以来六十五年ぶり。ケイムブリヂ公息女シャーロット(Princess Charlotte of Cambridge, b.2015)と命名された。

2015年5月7日(木) 英国議会(Houses of Parliament)下院(庶民院)の定数650議席を巡る総選挙が実施される(ちなみに日本の下院に当たる衆議院の定数は480議席)。なお、779名の議員が無給で働く上院(貴族院)に選挙は無い(日本の上院に当たる参議院の定数は242議席)。選挙前は決定的な勝者としての政党が無い所謂(いわゆる)「宙づり議会」(a hung parliament)になるとの見方が、マスコミや調査会社の大勢を占め、英国の政策決定に多大な障碍(しょうがい)が出るのではと危惧された。しか しいざ開票してみると与党である保守党(Conservative Party)が解散時より28議席も増やして単独過半数となる330議席(全議席の50.76%)を獲得。キャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16; オクスフオッド大学ブレイズノウズ学寮卒)党首の首相続投が固まる。その一方で、保守党と連立を組んでいた自由民主党(Liberal Democrats)は今回の総選挙の最大の負け組であり、48議席減の8議席(全議席の1.23%)しか獲得できず連立与党から離脱。最大野党の労働党(Labour Party)も奮わず、スコットランドを中心に24議席減の232議席(全議席の35.69%)を獲得。前年(2014年)9月18日(木)に 英国からの分離独立を問う住民投票を主導したスコットランド国民党(SNP: Scottish National Party; 日本のマスコミは故意に誤訳して「スコットランド民族党」と称す)が労働党の議席を奪い取った形で、解散時の6議席から9倍超増(一挙50議席増)の56 議席(全議席の8.61%)にまで大躍進した。SNPについては、グラーズゴウ大学の女子学生で弱冠20歳と237日のヴァーリ・ブラック(Mhairi Black, b.1994: 日本のマスコミ報道ではイングランド式発音で「マイリ」や「マリ」と表記)嬢が、1880年に21歳と67日で選出された男性下院議員の記録を破って最年少議員になったことも話題になった。しかし英国憲政史を繙(ひもと)くと、1667年に13歳で下院議員に選出された少年や、1806年に18歳で下院議員に選出された青年がいるので、ブラック嬢の場合は1832年の法改正以来の最年少と言わねばならない。 一方、欧州連合(EU: European Union)からの脱退と反移民を掲げて近年勢いづいてきた右派の英国独立党(UKIP: UK Independence Party)は、有権者の12.6%の支持を集めながら、二大政党に有利に働く「単純小選挙区制(FPP: first-past-the-post voting)」、通称「勝者総取り方式(winner-takes-all)」という選挙制度の犠牲になり、結局1議席(全議席の0.15%)しか獲得できず、ファラージュ(Nigel Farage, b.1964)党首も落選した。

2015年5月16日(土) 保守党の大勝から九日後のこの日、インデペンデント紙(The Independent) の報道によると、2005年2月18日(金)以来、労働党のブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣によってイングランド&ウェールズに於(お)いて禁止に追い込まれた上流階級伝統のスポーツ、キツネ狩り(fox-hunting)が十年ぶりに復活する可能性が出てきたとのこと。これは2004年11月に英国議会で可決された、犬の群れを使って狐(キツネ)や野兎(野ウサギ)や鹿(シカ)やミンクを追い込んで狩ることを禁じた「2004年狩猟法(Hunting Act 2004)」を保守党が数の力で廃止しようと目論(もくろ)んでいることを意味する。

2015年6月8日(月)または6月9日(火) ノーベル賞学者による女性科学者蔑視(べっし)発言の波紋。2001年にノーベル生理学・医学賞(瑞 Nobelpriset i fysiologi eller medicin; 英 Nobel Prize in Physiology or Medicine)を受賞したティム・ハント(Sir Tim Hunt or Sir Richard Timothy Hunt, b.1943)博士(ケイムブリヂ大学クレア学寮卒、同大学博士課程修了)が、大韓民国ソウル特別市(Seoul, Republic of Korea)で開かれた世界科学ジャーナリスト会議(World Conference of Science Journalists)の席で、「私は男尊女卑(chauvinist ショーヴィニスト)という評判があるのですが」と前置きした上で、男性参加者たちに向かって「私と女の子たちとの間でのトラブルについてお話しましょう。女の子が研究室にいると、次の三つのことが起こります。皆さんが女の子に恋してしまう。女の子が皆さんに恋してしまう。そして批判すると、女の子は 泣いてしまうのです。(Let me tell you about my trouble with girls … three things happen when they are in the lab … You fall in love with them, they fall in love with you and when you criticise them, they cry.)」と女性蔑視(べっし)発言したことを受けて、ツイッター(Twitter)上には連日数万件の投稿が寄せられる。ハント博士が所属する自然知識向上のためのロンドン王立協会の会長と委員会と研究員たち(The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)、通称 王立協会(Royal Society) も、博士の発言から距離を置き、科学に於(お)ける男女平等を強調した。博士は6月10日(水)にはロンドン大学ユーネヴアセティ学寮の生命科学名誉教授 (Honorary Professor with the UCL Faculty of Life Sciences)の職を辞任するまでに追い込まれ、同日には王立協会生物学賞委員会(the Royal Society’s Biological Sciences Awards Committee)の委員職も辞任した。また、欧州研究委員会(ERC: European Research Council)も辞任を迫っているという。日本の一部マスコミも「リケジョ侮辱」、「反理系女子発言」などという見出しで報じた。し かし王立協会の同僚で女性科学者のドナルド(Dame Athene Donald, b.1953)博士・ケイムブリヂ大学チャーチル学寮長は、「ハント博士はERCの男女平等に関する仕事について常に甚大(じんだい)な支持をしていた。(He was always immensely supportive of the ERC’s work around gender equality.)」として博士を擁護(ようご)した。そしてマンチェスター大学教授(物理学)のコックス(Brian Cox, b.1968)博士は、BBCラジオ第四放送(BBC Radio 4)の「1時の世界(The World at One)」という番組の中で、「ソーシャル・メディアによる人民裁判の、より広範な問題(wider problem of trial by social media)」として、ハント博士叩(たた)きの不当性を指摘した。(同年6月10日(水)付の英ガーディアン紙(The Guardian)の記事と、同年6月15日(月)付の女性をちょっと生きやすくするオンナ目線のニュースサイト「ウートピ(The Woman Topics)」に依拠)

2015年7月23日(木) マンチェスター大学(University of Manchester)は、高齢に伴い視野の中心部が見えにくくなる眼病「加齢黄斑変性」(AMD: age-related macular degeneration)を患(わずら)う地元の八十歳の英国人男性に対し、網膜に埋め込んだ電極を介して眼鏡に取り付けた小型カメラの映像を脳に伝える「人工眼」を装着させることにより、一部を残して失っていた視力の大半を世界で初めて回復させたと発表。小型カメラが捉えた映像を細かい電気信号に変換 し、網膜の表面に埋め込んだ電極に無線で送信し、残った健康な細胞を電極が刺激することで脳に光パターンを再生するため、患者がこの光パターンを完全に読み取れるようになれば、視力を取り戻せるという。(同日付のAFP=時事通信のオンライン記事に依拠)

2015年9月9日(水) 現女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)がヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の六十三年七ヶ月の在位記録を破り、英国史上最長在位記録及び女性君主としての世界最長在位記録を達成。その後は日々更新中。なお、現役の国王としてはタイ王国の通称プーミポン国王(Phumiphon Adunyadet; Bhumibol Adulyadej, 1927-2016; 在位1946-2016)こと国王ラーマ九世(Rama IX, 1927-2016; 在位1946-2016)が、英女王より1歳半以上も若いながら世界最長在位記録を日々更新していたが、2016年10月13日(木)に満88歳と10ヶ月で薨去(こうきょ)した。その在位期間は七十年四ヶ月にも及んだ。歴史的にはフランスの「太陽王」(Roi-Soleil ほワソレイユ)ことルイ十四世(1638-1715; 在位1643-1715)の在位七十二年三ヶ月半が「中世以降の記録の確かな国家元首の在位記録」としてギネス世界記録(Guinness World Records)に認定されていて、次いで墺太利(オーストリア)帝国のフランツ・ヨーゼフ一世(Franz Josef I., 1830-1916; 在位1848-1916)の六十七年十一ヶ月である。2018年中にはタイの国王がルイ十四世の世界記録を破ることが見込まれていたが、それは叶(かな)わなかった。

2015年10月20日(火)夜 バッキンガム宮殿の大広間で中国の習近平(习近平; Xí Jìnpíng, b.1953; 国家主席在任2013-)主席への歓迎晩餐会が執り行なわれる。その二十六年前の1989年6月4日(日)の天安門事件(Tiananmen Square Incident of 1989)では、民主化運動を繰り広げていた学生ら三百人余りを中国共産党(中共)独裁政府の人民解放軍が戦車を使って轢(ひ)き殺した。命からがら逃げ伸びた学生たちは日本やアメリカに亡命した。習政権は事件から二十六年が経過した今も自国民虐殺事件の真相究明を拒(こば)み続け、政権に批判的な知識人や弁護士やマスコミ関係者などを弾圧している。そうした中国に対して常日頃から批判的な言動を繰り返し、尚且(なおか)つ中共支配下のチベット(西蔵; Tibet)での人民虐殺について怒りの声を上げているチャールズ皇太子は晩餐会を欠席し、女王もそれを許した。また、バッキンガム宮殿の女王の家臣たち も、1989年物(中共政府が忌(い)み嫌う数字)の血のように赤いフランス南西部ボルドー(Bordeaux)地方のグラーヴ(Graves グはーヴ; 英語読みすると「グれイヴズ」となり、「複数の墓」を意味してしまう)産の超高級赤ワイン(市価は日本円にして一本約30万円)を供することで、習近平主席への当て付けをしてやったのだと、一部メディアが報じている。また、女王は習近平への不快感を表すために手袋のまま握手をしたと言われている。おまけに2016年5月11日(水)付のタイムズ紙(The Times)の報道によると、女王主催の園遊会の参加者に習近平一行について、「非礼だった」と発言をした。この発言には、訪英した中共首脳の一行が連れてきた多数の警備スタッフに護衛用銃器を携行させる許可と、反習近平政権デモの取り締まりを要求したが(そもそも外交上あり得ない要求)、当然ながら英警備当局はいずれも拒否したという背景がある。また、目先の利益にばかり拘(こだわ)って中国共産党(中共)独裁政府との友好関係を演出したがる当時の保守党(Conservative Party; 通称・別称・蔑称 Tories)キャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)内閣への女王側の精一杯(憲法上可能な限り)の抵抗だったとも言える。なお、中共政府への数字の当てつけという点では日本も負けていない。安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-20)前総理大臣が裏で動き、2021年6月4日(金) 14:40に臺灣桃園國際機場(TPE: Taiwan Taoyuan International Airport; 台湾桃園国際空港)着で、新型コロナウイルス(new coronavirus; novel coronavirus; WHO国際名称 Covid-19)への感染が急拡大する台湾に日本国政府が英アストラゼネカ(AstraZeneca)社製ワクチンを提供している。この14:40という時刻は、まさに三十二年前の1989年6月4日(日)に中共政府による自国民大虐殺「天安門事件」が発生した時刻である。しかも運搬した飛行機がJL809便であり、ここでも中共政府が嫌がる89を彷彿とさせる数字を選んでいる。

2016年3月18日(金) 日立製作所(英称 Hitachi, Ltd.; 本社在東京都千代田区)笠戸事業所が製造したヴァージン列車東海岸社(VTEC: Virgin Trains East Coast)用の車両「英国鉄道800形」(British Rail Class 800)が英マスコミ向けにお披露目される。ヴァージン社は日本文化と日本語に敬意を払い、「東」の和名に因(ちな)んで「ヴァージン・あずま」(Virgin Azuma)と命名。運転席の脇には大きな平仮名で「あずま」と、その下に英文字で AZUMA と書かれている。三文字の平仮名にしたのは、日本の旧国鉄時代から続く、JR東海の東海道山陽新幹線「ひかり」「こだま」「のぞみ」の習慣に敬意を払ってのこと。

2016年5月9日(月) 四日前の5月5日(木)の市長選挙で勝利した労働党(Labour Party)のサディク・カーン(Sadiq Khan, b.1970; 北ロンドン総合技術学校=現ロンドン・メトロポリタン大学卒、私立法律大学卒; ロンドン市長在任2016-)英国議会下院議員が、英国史上初のパキスタン系イスラム教徒のロンドン市長(Mayor of London)に就任。国会議員の職は同日辞職。大都市の市長にイスラム教徒が就任するのは欧州初のこと。

2016年6月16日(木) 連合王国(UK: United Kingdom)の欧州連合(EU: European Union)からの離脱の是非(ぜひ)を問う所謂(いわゆる) Brexit referendum (ブグジット・れファれンダム)なる国民投票が一週間後に迫ったこの日、EU残留派(the Remain side)として言論活動していた最大野党労働党(Labour Party)の下院議員ジョー・コックス(Helen Joanne “Jo” Cox, 1974-2016; ケイムブリヂ大学ペンブルック学寮卒、LSE=ロンドン政治経済学院大学院修了)女史がEU離脱派(the Leave side)の男によって路上で銃撃され殺害される。残留派への同情票(sympathy votes)が集まることが想定される。なお、Brexit (ブグジット)とは Britain (ブトゥン: 英国)と exit (グジット: 出ること)を組み合わせた新造語。

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