西曆2006年12月11日(月) 個人電子書簡(コナン・ドイルの件で日本テレワークへ回答)

フジテレビ「トリ ビアの泉」製作スタッフ(一連の不祥事を経た2011年12月、株式会社NEXTEP(ネクステップ)に吸収合併されることになる日本テレワーク株式会社 の社員)から、「名探偵シャーロック・ホームズ物の作者コナン・ドイルは、自分も探偵になろうとして大失敗したことがある」という内容で放映して宜しいか と電話で打診があり、以下のようにメールで懇切丁寧に解説。しかしその後音沙汰が一切なく、結局ボツ(不採用)にされた模様。

Date: Mon, 11 Dec 2006 02:17:02 +0900

From: HARADA Toshiaki

Subject: Re: コナン・ドイルの件

To: "trivia"

日本テレワーク

杉浦寿紀様

ご質問の件ですが、残念ながらフジテレビさんの喜びそうな回答はできません。コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle, 1859-1930)に関わる憶測を含めた失敗談(或いは部分的成功談やその他の逸話)といえば次のものが挙がるでしょうが、3番目に挙げた冤罪事件での 活躍と8番目に挙げた「コティングリー妖精事件」に於ける失態を混同されて「実際の事件でホームズのように立ち振る舞い大失敗をした」という風評が一部で (おそらく日本でのみ)飛び交っているのではないでしょうか。

1) 劇作で失敗

1893年に『ピーター・パン』(Peter Pan)の作者 J. M. バリー(J. M. Barrie, 1860年5月9日生、1937年6月19日没)は病に倒れ、書きかけの喜歌劇『ジェイン・アニー』(Jane Annie)の台本を書けなくなったため、友人のアーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle, 1859年5月22日生、1930年7月7日没)が上演に間に合わせるために急遽バリーの台本に加筆して、これを完成させた。上演は大失敗だった。

2) 国政選挙での落選

南アフリカで英軍とオランダ系住民の間で第二次ボーア戦争(1899年10月11日-1902年5月31日)が勃発し、英国の露骨な帝国主義に対して世界 中から非難の声が沸き起こった。ドイルはこの戦争に於ける英国の大義を信じて従軍し、その体験を基に小冊子『南アでの戦争: 原因と行為』(The War in South Africa: Its Cause and Conduct)を執筆することで英国の立場を擁護した。この冊子は他国でも広く翻訳出版された。また、『大ボーア戦争』(The Great Boer War) と題した著書も刊行した。ドイルはこれらの功績により1902年にイングランド南部のサリー州副総監(Deputy-Lieutenant of Surrey)に任命され、また同年ナイト爵(knighthood)に叙せられ、サー・アーサー(Sir Arthur)となった。勢いに乗ったドイルは20世紀初頭にエディンバラ(Edinburgh)選出の国会議員とボーダー・バラズ(Border Burghs)選出の国会議員にそれぞれ立候補した。かなりの票を得たが2度とも落選に終わった。

3) 冤罪事件への介入

当時世間を騒がせた2つの事件で被疑者の無実を信じ、冤罪を晴らすために尽力した。また、冤罪を防ぐための控訴院(Court of Criminal Appeal)設立にも一枚絡んでいる。

・ジョージ・エダルジ事件

英国バーミンガム州議会のウェブサイト

http://www.birmingham.gov.uk/edalji.bcc (リンク切れ)

ウィキペディア英語版

http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Wyrley

1906年にスタフォード州(Stafford)大ワーリー村(Great Wyrley)で起こった冤罪事件。バールシー(パールシー; 巴斯人; Parsi; Parsee: 8世紀から10世紀頃、イスラム教への改宗を拒否し、ペルシアからインドへ逃れたゾロアスター教徒の子孫)を父親に、英国の白人を母親に生まれた弁護士 ジョージ・エダルジ(George Edalji, 1876年3月?日生、1953年6月17日没)は、脅迫文を送りつけ馬6頭の手足を切断した容疑で逮捕された。馬の手足切断がエダルジの逮捕後も続いた にもかかわらず、警察は人種的偏見と状況証拠に基きエダルジこそ犯人と決め付けた。このためエダルジは有罪となり、強制重労働つきの懲役7年の刑に処され た。この不正を見過ごすことができなかった英領バハマ諸島首席裁判官(Chief Justice in Bahamas)などの介入によりエダルジは同年釈放されるも、冤罪認定とはならず、釈放後もつねに警察の監視下に置かれた。この時点でコナン・ドイルは 探偵の役割を演じるようエダルジ支持者らから依頼を受け、エダルジの無実を証明するため独自に捜査に乗り出した。ドイルは8ヶ月間精力的に捜査し、その結 果エダルジは容疑が晴れて自由の身となったが、国家による慰謝料は支払われていない。 この体験を基にドイルは1907年に『ジョージ・エダルジ氏の物語』 (The Story of Mr. George Edalji)を刊行した。また、近年では2005年に英国の作家ジュリアン・バーンズ(Julian Barnes)がこれを長篇小説『アーサーとジョージ』(Arthur & George)として刊行して話題になった。

ドイルの推理では事件は単一犯による犯行であり、犯人を地元大ワーリー村の肉屋の小僧で、時に水夫の出稼ぎをしていたロイドゥン・シャープ(Royden Sharp)と断定した。しかし皮肉なことにドイルの推理は状況証拠のみに基くもので、警察によるエダルジ誤認逮捕の根拠と大した違いはない。この点が名 探偵ホームズ生みの親らしからぬ失態と言えば失態と言えるし、警察も「素人探偵の推理によるシャープ逮捕」には動かなかったようである。なお、ドイルが シャープによって名誉毀損で訴えられたという記録はない。この事件の真相はドイルの死後、1934年になって、ウェンズベリー町(Wednesbury) のイーノック・ノウルズ(Enoch Knowles)が問題の脅迫文を書いていたことが明らかになり、ノウルズ逮捕に至った。したがってドイルの推理はエダルジの冤罪については当たったが、 犯人についてはまったく見当違いだった。

・オスカー・スレイター事件

海外個人サイトに依拠

http://www.crimefiction.com/slater.htm (リンク切れ)

1908年12月21日、82歳の老嬢マリオン・ギルクライスト(Marion Gilchrist)がスコットランドはグラーズゴウ市(Glasgow)のアパートの自室で何者かによって撲殺された。使用人ヘレン・ランビー (Helen Lambie)が新聞を買いに出かけた僅か10分の間の出来事だった。アパートの下の階に住むアダムズ(Adams)家の人々はただならぬ物音を聞きつけ たため、一家の大黒柱アダムズ氏が上階を見に行った。その際、アダムズ氏とランビー嬢の2人は見知らぬ男がギルクライスト嬢の部屋を出て行くところを目撃 している。2人はギルクライスト嬢の部屋に入るや、暖炉の前に頭を鈍器で殴られたギルクライスト嬢の死体を発見した。後の警察の捜査で被害者の持っていた ダイヤモンドのブローチが盗まれていたことが判明した。

オスカー・スレイター(Oscar Slater)とフランス人の女友達が事件の約6週間前からグラーズゴウ市で同棲するようになった。スレイターは自らをダイヤモンド研磨工と称していた が、警察はこれを信用せず完全な悪党と決めつけた。それはスレイターがユダヤ系ドイツ人だったからである。ドイツに居た頃の名はオスカル・シュラハター (Oskar Schlachter)である可能性が高いが詳細不明。

事件の翌日12月22日になって、14歳の少女メアリ・バロウマン (Mary Barrowman)嬢が、凶行の時間帯に被害者のアパートを出て行く男にぶつかったと警察に語った。アダムズ氏とランビー嬢は目撃した男が身長5フィー ト6インチほど(約170センチ弱)で、肌の色は浅黒く、薄灰色のコートを着て、黒い帽子をかぶっていたと証言したが、バロウマン嬢は男が長身で、肌の色 は浅黒く、淡い黄褐色のマントを着て、丸い帽子をかぶっていたと証言した。

警察はスレイターが事件の4日後の12月25日にダイヤモンドのブ ローチを質に出していたこと、そしてスレイターとフランス人の同棲相手が米国に向けて旅立っていたことを突き止め、スレイターこそ犯人と断定した。グラー ズゴウ警察は米国の警察に電報を打ってスレイターの身柄確保を要請し、目撃者3人にスレイターの写真を見せた。するとランビー嬢とバロウマン嬢は目撃した 男とスレイターが一致すると証言したが、アダムズ氏は違うと言った。ランビー嬢とバロウマン嬢の2人は身柄引き渡しの手続きのため、急遽税金で米国に旅 立った。

1909年5月3日にエディンバラ高等法院で裁判が開始され、この時点で警察はスレイターが所持していた小型ハンマーを凶器と特定し た。また、警察は事件のあった時間帯に事件現場の近くでスレイターを目撃したとする証人を12人見つけてきたが、スレイターの住まいが事件現場に近かった ことを考慮すれば目撃したのは当然と言える。公判は初めから公正を欠いたもので、問題のブローチの質札が事件より1ヶ月も前に取り引きされていたことと、 スレイターが事件より6ヶ月も前に米国行きの手配をしていたことを弁護団が証明したにもかかわらず、裁判所はスレイターが「悪党」であると決めつけて有罪 にした。スレイターは事件のあった時間は自分がフランス人の女友達とその使用人と一緒に自宅に居たとするアリバイは、事実と異なるとして退けられた。陪審 は意見が割れたが、有罪にする意見が多数を占めたため、同年5月27日に絞首刑執行ということで刑が確定した。スコットランド法務総裁アレグザンダー・ユ ア(Alexander Ure)もスレイターを絞首刑に処す結論に至った。

その直後、スレイターへの寛大な処置を求める署名運動が起こり、約 2万人の署名が集まった。これを受けて死刑執行予定日前日の1909年5月26日にスレイターは終身刑に減刑された。この時点でコナン・ドイルはスレイ ターの冤罪を晴らすよう、スレイター支持者らから依頼を受けた。ドイルは事件に関する記録を読みこなし、スレイターが脆弱な状況証拠だけで犯人に仕立て上 げられたことに危惧を抱く。しかし当時の一般大衆はスレイターが犯人ではないにしろ、事件と何らかの関わりをもった悪党と見なしていた。ドイルは向こう3 年間にわたって事件を徹底的に調べ上げ、1912年に『オスカー・スレイター事件』(The Case of Oscar Slater)という著書を刊行することで、世間に一大センセーションを巻き起こした。スレイターの恩赦請求や再審請求が巻き起こったが、裁判所はこれを無視した。

それから15年の年月が経過する間に数々の事実が明らかになる。食料品商マクベイン(MacBrayne)がスレイターのアリバイを証明し、事件のあった 時間に自宅の玄関でスレイターを見たと証言した。バロウマン嬢とランビー嬢はその後の居所が突き止められ、スレイターを目撃したと証言するよう賄賂を受け 取っていたことを白状する。事件を担当した刑事のトレンチ(Trench)も、ランビー嬢の証言をはなから信用していなかったと打ち明けた。トレンチはこ の発言により警察内部でいじめを受けたばかりか証拠隠滅の罪で起訴され、懲戒解雇となった。こうした新事実が新聞に報じられると、スレイターは18年の服 役後、ようやく釈放された。新たに組織されたスコットランド控訴審(Scottish Court of Criminal Appeal)は、初審の判事が陪審を誤った方向に誘導したことを認め、スレイターを赦免した。スレイターに慰謝料が支払われたどうかは定かではない。

4) 事件捜査依頼

シャーロック・ホームズ物の甚大な人気ゆえにドイル自身が名探偵と思い込まれ、上記のエダルジ事件やスレイター事件の他にも実際の事件がドイルのもとへ持 ち込まれ、本人は非常に困惑したと言われている。が、無実の人が社会の偏見や司法の怠慢によって冤罪の被害者になることには黙っていられないという熱血正 義漢でもあった。これがまたドイル人気の一因とも言える。

5) 心霊学

後年ドイルは1906年の妻ルイーザ(Louisa)の 死や第一次世界大戦での息子キングズリー(Kingsley)や実弟や義理の弟2人や甥2人の戦死に絶望し、心霊学に傾倒していき、降霊会や心霊学に関す る講演や執筆を行なった。そして1926年には『心霊学の歴史』(The History of Spiritualism)を刊行している。冷静な推理と科学的捜査に基づいて事件を次々と解決する名探偵ホームズの生みの親が、後に超常現象に惹かれていったのは皮肉なことである。

6) ピルトダウン原人捏造事件

1912年にイングランド南部の東サセックス州(East Sussex)アックフィールド町(Uckfield)近郊のピルトダウン(Piltdown)村で、アマチュア考古学者チャールズ・ドーソン (Charles Dawson, 1864-1916)がヒト属の化石を発見した。発見された地名をとってピルトダウン原人(Piltdown Man)と名づけられた。

この頭蓋骨は、地層や一緒に発見された他の化石類などに基づく推定から旧石器時代のものとされた。同時代のヒト属であ るジャワ原人、北京原人などのホモ・エレクトス(Homo erectus)と比較すると、発見された頭蓋骨は大きく、内容物である脳が発達していると考えられた。この発見は、旧石器時代に脳が大きく賢かった人類 がヨーロッパに棲息していたことの証明であるとされた。特に英国ではそれまで旧石器人の化石が発見されていなかったため、マスコミや一般大衆はこの発見を こぞって歓迎した。しかし同年代のヒト属の化石と比較すると共通点が少ないことから、その真贋を巡って早くから学術上の論争が起こった。

捏造が 明らかになったのは第二次世界大戦後のことである。まず、1949年に大英博物館は化石に含有されるフッ素に基づく年代測定を行なった。結局この測定に よって、その骨はせいぜい多く見積もっても1500年しか経過しておらず、よって人類の祖先とは言えないと断定された。次いで、1953年にオックス フォード大学の本格的な年代測定によって、オランウータンの骨から取って加工した下顎が人骨に組み合わされたものと判明した。類人猿の下顎骨は本来人骨とは接合できないが、捏造者はその接合部分を巧妙に除去した上、さらに何らかの薬品で骨を着色していた。この調査により「ピルトダウン原人」は完全に捏造であると断定された。

捏造の犯人については現在まで諸説が飛び交っている。発見者ドーソンの単独犯説、ドーソンとその仲間による共謀説、或いは他 の研究者の陰謀説、さらにはドーソンの隣人だったコナン・ドイルという説もある。米国の科学史学者リチャード・ミルナー(Richard Milner)はコナン・ドイル犯人説を唱えている。ドイルは自分のお気に入りの霊媒師による降霊術が実際にはインチキであると科学的に暴露された腹いせ に、科学界にひとつ仕返しをしてやろうと企んだとのことである。ミルナー曰く、1912年刊行の小説『失われた世界』(The Lost World)には著者ドイルが化石捏造を仕組んだことを仄めかす暗号が含まれているというが、真偽のほどは未だに謎である。

しかしイギリスの科学雑誌『ネイチャー』(Nature)1996年5月23日(木)号は、大英博物館の動物学者マーティン・ヒントン(Martin A. C. Hinton, 生歿年不明)が真犯人であったとする説を、その遺品を根拠に掲載している。

7) 国家反逆罪に問われたかつての盟友ケイスメントの擁護失敗

英国の探検家ヘンリー・モートン・スタンリー(Sir Henry Morton Stanley, 1841-1904)はベルギー国王レオポルド二世(Leopold II, 1835-1909; 在位1865-1909)の委託を受け、1877年から'78年にかけてザイール川流域を探検し、各地の集落の族長に貢ぎ物を与えた。ベルギー国王の支援 のもとでの探検だったので、その成果は国王に帰属した。国王レオポルド二世は1882年にこの地域を「コンゴ国際協会」に委託支配させ、1885年のベル リン会議で公式にベルギー国王の私領地「コンゴ自由国」となった。ここでは耕地もすべてが国王の所有となり、住民は単に国王の私腹を肥やすためゴムの採集 や象牙の乱獲を強いられた。規定量に到達できないと手足切断という残虐な刑罰が情け容赦なく科された。

コンゴ自由国の圧政と搾取に各国は人道 主義の立場から非難の声をあげた。その先頭を切って英国政府がコンゴの実態調査に乗り出した。英国の海運会社の元事務員で新聞記者 E. D. モレル(Edmund Dene Morel, 1873-1924)は20世紀初頭、独自の調査に基づきベルギー国王の暴虐ぶりを暴く記事を英国の新聞に発表した。また、モレルの盟友で英国の外交官ロ ジャー・ケイスメント(Roger Casement, 1864-1916)は1904年に『コンゴ報告書』(Congo Report)を執筆し英国議会に提出した。英国政府はこの報告書をベルギー政府およびベルリン会議批准国の各国政府に送付して条約の見直しを迫った。新聞記者モレルはさらに1906年にその著書『赤いゴム』(Red Rubber)で、ベルギー国王による残虐な刑罰を白日のもとに曝け出した。正義漢コナン・ドイルも1908年に『コンゴの犯罪』(The Crime of the Congo)を刊行し、これに続いた。

ここに来て国際社会の非難の声は益々高まり、国王の恣意的な暴政にとうとうベルギー政府も黙っていられなくなった。1908年11月15日(日)、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金と引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。こうしてコンゴ自由国はベルギー国王の手を離れ、ベルギー政府直轄植民地「ベルギー領コンゴ」になった。これによって統治の実情は大幅に改善された。

コンゴの大義を介してモレルとケイスメントの両人と知り合ったドイルだったが、元来左翼的だったモレルが第一次世界大戦(1914年7月28日(火)-1918年11月11日(月); 但し英国の参戦は1914年8月4日(火)) 勃発に際して非愛国的な平和主義運動の主導者になったことを受けて、仲違いするようになった。また、大戦中の1916年4月24日(月)から29日(土) にかけて英領アイルランドで起こったイースター蜂起(the Easter Rising)に連座してケイスメントが国家反逆罪に問われると、ドイルはケイスメントが精神異常のため責任は問えないという論を展開してケイスメントの 死刑を回避しようとしたが失敗に終わった。結局ケイスメントは控訴もむなしく同年8月3日(木)、ロンドンのペントンヴィル刑務所 (Pentonville Prison)で絞首刑に処された。

8) コティングリー妖精事件

コティングリー妖精事件とは、イ ングランド北部ブラッドフォード(Bradford)近郊コティングリー村(Cottingley)に住む2人の従姉妹フランシス・グリフィズ (Frances Griffiths, 1907-86)とエルシー・ライト(Elsie Wright, 1901-88)が撮影したとされる妖精写真の真贋を巡って起きた論争や騒動のことをさす。第一次世界大戦中の1916年7月、9歳の誕生日が来る前のフ ランシスが妖精と居るところを15歳のエルシーが撮影した。こうして1916年から'20年にかけて、2人の少女は妖精たちの写真を合計5枚撮影した。写 真に写った妖精たちは絵に描いたような小さな人の姿だったが、当時は多くの人がこれこそ妖精の実在する証拠だと信じた。コナン・ドイルもその1人だった。 ドイルは少女たちに写真捏造の知識などあろう筈がないという擁護を行なって、1922年に『妖精の到来』(The Coming of the Fairies, 訳本に近藤千雄訳『妖精物語-実在する妖精世界』と井村君江訳『妖精の出現-コティングリー妖精事件』)と題した著書まで刊行している。写真を撮った当人 たちは1981年のインタビューの中で写真が捏造であることを初めて告白したが、その後フランシスは1枚だけは本物であると、1986年に歿するまで言い 張った。

以上

ネット上の無料百科事典「ウィキペディア」(英語版)

http://en.wikipedia.org/

日本語版

http://ja.wikipedia.org/wiki/

には信頼に足る情報が載っています。編集には私も匿名で関わっております。他に日本シャーロック・ホームズ・クラブ( http://www.holmesjapan.jp/ 事務局住所: 〒178-0062 東京都練馬区大泉町2丁目55-8)に問い合わせては如何でしょうか。私もこのクラブの新参会員ですが、昭和女子大学で図書館学を講じている同僚に古参会 員がおりまして、この先生のホームズやドイルに関する知識は私よりも数段上を行く詳しさです。

また何かありましたらメールでお問い合わせください(電話ですと聞き間違いや言い間違いの危険がありますので)。

日本シャーロック・ホームズ・クラブ会員

原田俊明

>Date: Fri, 8 Dec 2006 15:01:01 +0900 (JST)

>From: "trivia"

>Subject: コナン・ドイルの件

>To: HARADA Toshiaki

>

>原田俊明様

>

>お忙しいところ大変恐れ入ります。

>先ほどお電話いたしましたフジテレビ「トリビアの泉」

>を担当しております杉浦と申します。

>

>番組でシャーロックホームズの作者コナン・ドイルについて調べておりま

>す。

>内容は、コナン・ドイルは実際の事件でホームズのように立ち振る舞い

>大失敗をしたという事です。

>この内容の事実確認と詳細がわかればと考えております。

>また、書物等に記載されているものがあれば教えていただきたく思います。

>

>突然で大変失礼とは思いますが宜しくお願い致します。

>

>日本テレワーク「トリビアの泉」

>杉浦寿紀