西曆2019年 4月24日(水)発行 日本ワーグナー協会季報「リング」156号 2019年春より

Subject: Re: 日本ワーグナー協会「リング」編集担当より(お願い)

Date: 2019年2月24日(日) 9:13 JST

日本ワーグナー協会

〇〇〇〇様

二週間もの沈黙、大変失礼をば申し上げました。どうかお赦しください。

メールを受け取った週は一般教養科目の採点に追われておりまして、それが終わると賃貸物件探しと引っ越し(但し、ごく小規模)準備に邁進して余裕が無くなっておりました。当方の勝手な都合で甚だご迷惑をお掛けしました。

『リング』のバックナンバーを幾つか再読(中には初見)し、その水準の高さに改めて圧倒されましたものの、小生のような胡散臭い者にも執筆の機会を与えてくださるご厚情は有難くお受けしたく存じます。拝見しますに、横35字×90行でちょうど見開き2ページといったところでしょうか。生まれて初めて楽都 Wien にて Wagner(執筆者によってワーグナーだったりヴァーグナーだったり、また中にはワグネルやヴァグネルもありかと)に触れた、否、「洗礼を受けた」1990年の述懐から書き起こそうと考えております。

ご参考までに(ドサクサ紛れですが)、自称「旅行オタク」として以下のような雑文を書いております(尤もちょっとひどすぎて、執筆お断りという事態にも成り兼ねませんが)。

https://sites.google.com/site/xapaga/home/southamerica2010

https://sites.google.com/site/xapaga/home/southafrica2010

ところで上記に「引っ越し」と書きましたが、無用な混乱を避けるべく、『リング』その他の郵便物は従来通り埼玉県さいたま市南区の実家に送付いただければ幸いに存じます。

原田俊明

Subject: Re: 日本ワーグナー協会「リング」編集担当より(お願い)

Date: 2019年2月24日(日) 9:16 JST

追伸(訂正)

以前のメールに

>>>字数 35字×82行=2870字

とあったのを見落としておりました。したがって、90行という早合点は修正したいと存じます。原田(xapaga)

Subject: 「リング」原稿

Date: 2019年3月31日(日) 11:47 JST

日本ワーグナー協会

季刊「リング」編集担当

〇〇〇〇様

大変遅くなりましたが、「リング」用の原稿が完成しました。字数は抑えたつもりですが、「85行くらいまでは、調整可能」というお言葉を真に受けて、若干字余り(83行)になっております。もし何かやらかしていたら、ご教示ください。その際は善処いたします。文中の「コンセルトヘバウ」は、通常日本で「コンセルトヘボウ」にされていますが、オランダ語の原音に近いカタカナ表記としました。文字数カウントの兼ね合いで、題名と執筆者名は敢えて末尾に載せました。

原田俊明

Subject: 【御礼】Re: 「リング」原稿

Date: 2019年3月31日(日) 17:38 JST

日本ワーグナー協会

〇〇〇〇様

今回の「リング」の件では大変お世話になっております。ちょっと字余りながら調整なしで済むとのこと、安堵いたしました。

原田俊明

季報「リング」156号 2019年春より巻頭エッセイ

題名: 熱帯に来て若き日を思う

本文:

春休みを利用してミャンマーに来ている。同国政府が昨秋から1年間の暫定措置として日本国籍者の入国査証を免除してくれている機会を捉え、我が人生で81番目の訪問国とした。ビルマ王朝最後の都Mandalayに遥々やって来たが、午前3時起きして英領ビルマ時代に開発された高原の避暑地まで日帰り鉄道旅行をした。

マンダレーを発つべく朝6時発の長距離列車に乗った。一路旧首都Yangon(旧称Rangoon)まで公称15時間のディーゼル機関車である。実際にヤンゴンに着いた時刻は21:35だった。凹凸激しい線路を走行し、冷房が無い上に、次から次へと売り子たちが通路を往復するので騒々しく、想定以上の苦行であった。尤も売り子の名調子を聴くのは耳には愉悦の時であったが。

振り返れば、小生が斯様な海外鉄道オタクに成ったのは、バブルたけなわの1990年春、今は亡き父にせがんで蘭英仏独墺の5ヶ国5週間の一人旅に行かせてもらったのを端緒とする。その後は自分で小金を貯めては欧州をちょくちょく訪問している。29年前の欧州初訪問時はまだ満21歳と若かったこともあり、見るものは何でも新鮮だった。

まず飛行機が着いた先がアムステルダムだったので、コンセルトヘバウにてデ・ヴァールト指揮のジークフリート牧歌で幸先よく欧州紀行を始めた。

楽都ヴィーンにては国立歌劇場の立見席に通い、色々と観たが、最高だったのは故ホルスト・シュタイン指揮『マイスタージンガー』(1975年オットー・シェンク演出の再演)だ。ほぼ5時間も立ちっぱなしで疲労困憊したが収穫は大きかった。終演後の拍手喝采の熱狂ぶりは忘れられない。この怪物のような作曲家のことが知りたくなった。それにしても、指揮、オケ、歌手、演出、観客のどれ一つを取ってもこれほど完璧だったことは後にも先にも無い。同指揮者の『マイスタージンガー』については、1984年バイロイトの綺麗な音と映像がユーチューブで二回に分けて視聴できる。いい時代になったものだ。

1990年のヴィーンに戻るが、一度だけ大奮発して(尤も父のカネだったが)ホルライザー指揮『ヴァルキューレ』の平土間3列目の座席を前以て入手した。『マイスタージンガー』の演出にも感動していたので、国境を越えてニュルンベルクの街を見に行った。その時はまだバイロイトへは足が向かなかった。

ヴィーンへの帰りの長距離列車のコンパートメントで同室した年配のドイツ人夫妻は「これからフォルクスオーパーで『マイ・フェア・レディー』を観るんです」と嬉しそうに話していた。小生が得意満面に「国立歌劇場で『ヴァルキューレ』を観るんです」と返したら、夫の方が顔を曇らせ、「ヴァーグナーは嫌いだ」と宣ったのを覚えている。戦争やナチス時代のことを鮮明に覚えている世代だと見受けられたが、ユダヤ人ならずともドイツ人の前でも迂闊に大作曲家Wの名を出すのは気をつけようと思った次第である。果たしてヴィーンで観た『ヴァルキューレ』では、ヴァイオリン・セクションの楽団員と演奏中に目が合ってしまい、気のせいかも知れないが、向こうがニヤっとしてくるのが妙に気になった。あまりピットに近い座席も考えものだ。

この時期はベルリンの壁が崩れて半年も経っておらず、世界の若者はベルリンを目指した。ドイツ統一はまだ不確定要素で、西と東の通貨統合も為されていなかったので、東で豪遊できた束の間の時代でもあった。ハノーファー発、西ベルリン・ツォー行きの長距離列車に小生は座席を予約していたので座ることができたが、乗ってみると欧州各国・南北米大陸・日本の若者で一杯で、通路にも人が溢れんばかりだった。列車が東独領内に入った時は張り詰めた空気が流れた。ナチスとソ連を足して2で割ったような軍服の兵士が乗り込んできて通行料として5ドイツマルクを徴収しては、パスポートに通過査証のスタンプを捺していった。

ベルリンの街に着いてみると、まだたくさん残っていたベルリンの壁に若者らが工具を当てて、土産用に壁の一部を削り取っていた。しかし小生はこんな血塗られた歴史を持つコンクリート片を持ち帰る気にはなれなかった。

東独の首都東ベルリンへはチェックポイント・チャーリーにて5ドイツマルクを東独当局に支払うことで、その日の夜半24時までに再びチェックポイント・チャーリー経由で西ベルリンへ帰るという条件つきながら、入域が認められた。ただ、東西ドイツ国民たちはブランデンブルク門を通って無料で行き来が許されていた。今まで不当に分断されてきたのだから、ここでドイツ人が優遇されるのも致し方なしと思った。

東ベルリンに入ってみると、元来の物価安に加えて通貨安とも相俟って、全てが信じ難いほど安かった。街角で飲んだ熊印の半リットル入りの瓶ビールは約30円だった。マルクスの100東マルク紙幣は相変わらず勝ち誇った顔をしていたが、ゲーテの20東マルク紙幣の顔は泣いているように見えた。

東ベルリンはオペラも安かったので、ドイツ国立歌劇場(現国立歌劇場ベルリン)にては立ち見の券を買う必要もなく、堂々と座って観劇できた。カール・オルフ『賢い女』を観た後のことだった。他に誰も居ないトイレで用を足していたところ、いきなり電灯が消されて鍵まで掛けられてしまった。慌てて鉄の扉をいくら叩いても誰も来てくれない。云わば戒厳令下の東ベルリンなので、夜半24時を越えての滞在は許されない。電気のスイッチを探索し、ひとまず電灯を再び点けることはできた。困り果てている冴えない顔がシンク上の鏡に映し出された。同じところを歩きに歩いて善後策を考え、セントラルヒーティングの上に乗って窓に手を掛けた。窓には古い白ペンキが固くこびり付いていた。それでも爪やコインで根気よくペンキを剝しにかかり、窓はどうにか開いた。下は果たして石畳の歌劇場広場であった。1933年5月にナチスがマン兄弟やケストナーの書籍や、メンデルスゾーンやマーラーの楽譜を焚書処分にしたという、あの歌劇場広場だ。閉じ込められたトイレは通常の建物の4階ぐらいの高さがあったので、翌朝シュタージにスパイ容疑で逮捕されるにしても、今ここで飛び降りる勇気は無かった。そこで通行人に助けを求めた。しかし酔っ払いと勘違いされているようで、うまく行かなかった。もう少し落ち着いたアプローチで行くことにした。どれほど時間を浪費したか覚えていないが、漸く親切そうな中年夫婦が近づいてきたので、かなりブロークンなドイツ語で小生の窮状をなんとか説明した。やがて重そうな鍵束をじゃらじゃら言わせた、くたびれたような初老の男が、「俺の同僚がやったんだ」とブツブツ言いながら小生を劇的に解放してくれた。シンデレラの如く夜半24時の門限前に辛うじて駆け込んだ西側の灯は思いのほか眩しかった。

(2019年4月24日(水)発行 日本ワーグナー協会(Richard-Wagner-Gesellschaft Japan)季報「リング」156号 2019年春より巻頭 pp.2-3)