26「イギリス文化論」(2022/ 1/18) 日英歴史的悪行比較

https://www.youtube.com/watch?v=3ZIuq3qULiE

【ベトナム戦争時のライダイハン問題】

日本の歴史的悪行41例

1)先住民のアイヌ人を関東平野から北へ北へと追い立てる。

2)豊臣秀吉(とよとみ ひでよし, 1537-98)の命で朝鮮を侵略して(1592-98年)、国土を荒らし、住民の虐殺や村の焼き討ちを行なう。朝鮮の腕のよい陶工を日本に拉致(らち)して、有田焼、伊万里焼、薩摩焼、九谷焼を作らせる。但し、朝鮮半島では 職人の地位が低いので、日本(職人に対して一定の敬意を表する国)に連行されて却(かえ)って良かったのだとする意見もあり。

ちなみに日本に連れて来られた陶工の末裔(まつえい)で、薩摩焼の朝鮮人集落「苗代川村」(現在の鹿児島県日置市東市来町美山)に生まれたパク・ムドク(朴茂德; 박무덕; Pak Mudǒk, 1882-1950)こと、東鄕茂德(とうごう しげのり, 1882-1950; 東京帝國大學卒)は日本国外務大臣にまで出世し、昭和十六年=1941年12月8日(月)には米英両国の駐日大使を外務省に呼び出し、対米英宣戦布告文を手交。また、昭和廿年=1945年8月14日(火)にポツダム宣言を受諾した際の外務大臣も東鄕茂德。戦後は極東軍事裁判(通称: 東京裁判)でA級戦争犯罪(戦争への共同謀議に参画)の容疑で被告人として裁きを受け、有罪となりA級戦犯として禁固20年の刑に処されたが、昭和廿五年=1950年に巢鴨プリズン(現在の東京メトロ東池袋駅近くの池袋サンシャインシティ)の獄中で病歿した。戦後も暫(しばら)く経()った昭和五十三年=1978年10月17日(火)、靖國神社(在東京都千代田区九段)は東鄕を「昭和殉難者」として他のA級戦犯とともに合祀(ごうし)して今日(こんにち)に至っている

なお、孫に双子の有名人がいて、兄の東郷茂彦(とうごう しげひこ, b.1945; 早稲田大学卒)氏は朝日新聞記者だった昭和五十一年=1976年、国会議事堂の見学に来ていた少女に対する痴漢容疑で逮捕され失職した。平成五年=1993年には皇太子徳仁親王(なるひと しんのう, b.1960)=現在の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Naruhito of Japan, b.1960; 在位2019-)と外務事務次官小和田恆(おわだ ひさし, b.1932)氏令嬢で外務省職員の小和田雅子(おわだ まさこ, b.1963)嬢(のちの雅子妃=現在の皇后)の御成婚のスクープを他社に先駆けて勤務先のワシントン・ポスト紙(The Washington Post)を通じて発表し、一躍時の人となったが、平成十年=1998年に成人女性に対する痴漢行為、平成十三年=2001年に女子高生に対する痴漢行為の容疑で逮捕され、失職し、実刑判決を受けて服役した。

その弟の東郷和彦(とうごう かずひこ, b.1945; 東京大学卒、蘭ライデン大学人文科学博士)氏は外務省に入省し、駐オランダ王国日本国全権大使にまで出世したが、自由民主党(自民党)の外務族議員として隠然たる力を発揮していた鈴木宗男(すずき むねお, b.1948; 拓殖大学卒)衆議院議員(当時)=後に新党大地代表とともに北方領土二島返還を主張した。これは日本国政府の主張する北方領土四島返還と対立する意見だった。平成十四年=2002年の鈴木宗男事件で失脚し、「特定職員の役割を過度に重視し、外務省内のロシア関係の専門家を事実上分断して混乱をもたらした結果、外務公務員の信用を著しく失墜させた」として失職した。現在は京都産業大学教授。

3)明治元年=1868年の一連の戊辰(ぼしん or つちのえ たつ)戦争の中の會津(あいづ)戦争の終戦直後、勝った官軍(薩長の西軍)の兵たちは戦死した會津藩士の衣服を剝()ぎ取り、男根(penis)を切断して遺体の口に咥(くわ)えさせ、遺体から睾丸(testicles)を抜く所業を戯(たわむ)れに行なった。最終的な遺体の処理については、徴用した「賤民(せんみん)ども」に大きな穴を掘らせ、莚(むしろ)や風呂桶に遺体を詰めて、まるでゴミのように穴に投げ込み、その穴を「罪人塚」と名づけた。「會津に處女(じょじょ)なし」という言葉が示す通り、會津城(通称 鶴ヶ城)下のみならず田舎に逃げた女性たちは悉(ことごと)く長州奇兵隊を中心とした西軍のならず者たちに強姦された。

以下、原田伊織(はらだ いおり, b.1946)こと、本名 原正和(はら まさかず, b.1946)[著] 『明治維新という過ち <改訂増補版>』(毎日ワンズ, 2015年)pp.264-6 を引用する。

前出の、会津戦争史を多面的に検証されている会津歴史研究会の井上昌威氏が、会津人群像二十六号会津にある小梅塚と題する一文を寄せておられる。氏は、膨大な文献を調査するだけでなく、会津各地に伝わる伝承、遺跡なども地道に調査し、会津戦争の実態を立体 [p.264/p.265] 的に整理されている点で、その成果は高く評価されるべきものである。[改行・中略] 彼ら(=奇兵隊)は、徒党を組んで山狩りと称して村人や藩士の家族が避難している山々を巡り、強盗、婦女暴行を繰り返した。集団で女性を強姦、つまり輪姦して、時にはなぶり殺す。家族のみている前で娘を輪姦するということも平然と行い、家族が抵抗すると撃ち殺す。中には、八歳、十歳の女の子が凌辱されたという例が存在するという。高齢の女性も犠牲となり、事が済むと裸にして池に投げ捨てられたこともあった。要するに、奇兵隊の連中にとっては女性なら誰でも、何歳でもよかったのである。[改行] 坂下、新鶴、高田、塩川周辺では、戦後、犯された約百人に及ぶ娘・子供のほとんどが妊娠していた。医者は可能な限り堕胎をしたが、それによって死亡した娘もいたという。月が満ちて生まれてきた赤子は、奇兵隊の誰の子かも分からない。村人たちは赤子を寺の脇に穴を掘って埋め、小さな塚を作って小石を載せて目印にしたのである。村人は、これを小梅塚とか子塚と呼んだ。乳が張ってきた娘や子供は、自分の小梅塚に乳を絞り(原文の儘(ママ): 正しくは「搾り」)与えて涙を流して [p.265/p.266] いたという。井上氏は、実際にこの被害に遭った八歳の女児の末裔の方にお会いして直接話を聞くなど、各地を回って伝承や記録を精査されて、奇兵隊の蛮行の一部を明らかにされたのある 。

(参考図書)

原田伊織 『明治維新という過ち <改訂増補版>』(毎日ワンズ, 2015年)

https://www.amazon.co.jp/明治維新という過ち-【改訂増補版】-~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~-原田伊織-ebook/dp/B018R7TBK2/

https://ddnavi.com/news/381999/a/

4)明治以降、アイヌ人の住む北海道を自国領土に編入し、アイヌの和人への同化政策を進める。

5)日清戦争(1894-95年)中の明治廿七年=1894年11月21日(水)から25日(日)にかけて、大山巌(おほやま いはほ; おおやま いわお, 1852-1916)大將率いる帝國陸軍第二軍が旅順攻略に際して住民虐殺事件を起こす。被害者数は現在中国共産党(中共)側が主張する2万名弱という数、日本側の研究で挙げている2千名弱~6千名、欧米メディアの言う500人という風にばらつきがある。500人でも虐殺は虐殺である。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/旅順虐殺事件

1910-45年

朝鮮人を飢餓と内乱から救った、大日本帝国

https://ccce.web.fc2.com/si/beforeafter.html

日韓併合時代の真実

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm

6)シベリア出兵中の1919年3月22日(土)、軽視していた敵軍(赤軍=ロシア革命軍)や抗日匪賊(パルチザン=非正規ゲリラ隊)の反撃による戦死が相次いでいた大日本帝國軍は厳寒の中で疲労困憊して神経過敏に陥り、暴徒と良民も区別せずに「村落焼棄」の方針が打ち出された結果、アムール州ブラゴベシチェンスク(Благове́щенск, Амурская область город = Blagovéshchensk, Amur oblast'; 英 Blagoveshchensk, Amur Region)郊外のイヴァノフスキー村(露 Ивановский район, Амурская область = Ivanovskiy rayon, Amurskaya oblast'; 英 Ivanovsky Village, Amur Region)で女性や子供ら、1歳半の乳飲み子から96歳の老人までをも含む計257人を銃などで殺害し、36人を小屋に閉じ込め焼殺。世に言う「イワノフカ事件」(露 Инцидент в Ивановке = Intsidyent v Ivanovskye; 英 Ivanovsky Incident)。

歩兵第十二旅団長山田四郎(やまだ しらう; やまだ しろう, 生歿年不詳)少将は、「師団長ノ指令ニ基キ」という布告を出し、「第一、日本軍及ビ露人ニ敵對スル過激派軍ハ附近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装ヒ變幻常ナキヲ以テ其實質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵對スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加擔スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ」としていた。アムール州で日本軍により焼き討ちを蒙(こうむ)った村落は他にもあるが、最大規模で残虐な被害を受けたのがこのイヴァノフスキー村であった。「見えない敵」であるゲリラに対し、ロシア白軍(反革命軍)と日本軍は神経を尖らしていたが、ゲリラを匿(かくま)った、或(ある)いは協力したと見られた村落を頻繁に襲撃し焼き尽くしていた。これはちょうど第二次世界大戦(World War II; the Second World War, 1939-45)中にナチス・ドイツがチェコやフランスの村でやったことを日本軍はシベリアで二十年も先取りし、ベトナム戦争(Vietnam War, 1955-75)中に米軍と韓国軍がベトナムの村落に対して行なったことを日本軍はシベリアで半世紀近く先取りしていたことになる。

日本軍はこの虐殺の事実を隠すどころか自軍の宣伝(propaganda)にも使い、「抵抗すればあの村の二の舞になるぞ」(原文: 赤衛軍ニ援助ヲ与エ若ハ日本軍ニ敵對セントスル村落ハ尽ク「イワノフカ」ト同一運命ニ遭遇スヘキヲ覺悟スヘシ)という脅しを他の村にもかけていた。

上記のような上層部からの原因の他に下からの原因もある。氷点下40度にも達するシベリアの極寒の地で戦争目標も見えない中に出兵していた部隊の軍規は著(いちじる)しく乱れていた。末端の兵士による上官への「歩兵隊式」という私刑(private punishment)が頻発していて、上官が少しでも横柄な態度や過大と思われる要求をしようものなら兵士同士が結託し、前線であることをこれ幸いにとばかりに士官を暴行して服従させていた。中には、「殴られるくらいはまだいい。戦場だったら何処(どこ)から弾(たま)が飛んで来るのかも分からんのだし。」と語った帰還兵もいる。こうした渾沌(こんとん)とした状態であったことから前線の指揮官は民間人への略奪・強姦・暴行・殺人に手を染める下級兵士を止められなかったばかりか、彼らに気兼ねしてご機嫌を取るといった行動も見られた。

僅(わず)か一年後には 1920年3月12日(金)~5月下旬の尼港事件(にこう じけん: Nikolayevsk Massacre)でニコラエスク(尼港)の日本人居留民がロシア人パルチザン部隊から「復讐」とばかりに虐殺されてしまう。

(外部サイト)

沿アムール地方 日本からの代表団が1919年事件の犠牲者を弔う

ラジオ ロシアの声(現在の「スプートニク」の前身)日本語版

2012年8月27日(月) 15:30

https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_08_27/amuuru-chihou-nihon-daihyoudan-1919nen-iwanofuka-jiken/ (リンク切れ)

上記のロシア語原典版

https://www.amur.info/news/2012/08/27/6052

歩み来て、未来へ--ニッポン近代考

炎の記憶を乗り越えて シベリアに残る二つの歌

共同通信社

日付不明

https://www.kyodonews.jp/activity/project/articl01.php

7)大正十二年=1923年9月1日(土)に起きた関東大震災のパニックの中で、「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が日本人婦女子に暴行を働いている」「朝鮮人が暴動を起こした」という流言蜚語(りゅうげん ひご)(=デマ)が飛び交い、東京市内(現東京都区内)に軍隊が出動したり、関東各地に自警団が組織され、私的制裁・私刑(private punishment)が相次ぎ、無実の朝鮮人が虐殺(lynch)されたとされる。犠牲者数には諸説あり、正確な数字は不明。虐殺ではなく地震や火災で亡くなった者もいる。また、異説として、実際に朝鮮人が多数暴れたのだから私的制裁に遭()うのも彼らの自業自得だとする説もあり、それは当時の様々な新聞記事が根拠になっている。

[当時の新聞記事]

焦土と化した東京市中は大混亂を呈し鮮人等の跋扈非常に橫暴を働いて居り無秩序の狀態にあり(後略)

『福岡日日新聞』號外第四

大正12年(1923年)9月2日(日)

http://stat.ameba.jp/user_images/20120226/20/nethaijin2010/39/70/j/o0800058011818112007.jpg

不逞鮮人

各所に放火

石油罐や爆彈を携へて

『小樽新聞』號外第一

大正12年(1923年)9月3日(月)

https://image.blog.livedoor.jp/otsu3/imgs/6/1/6152aea9.JPG

不逞鮮人益々擴大

王子橫濱に於て軍隊と衝突

『荘内新報』號外 第十八報

大正12年(1923年)9月3日(月) 17:00特報

https://image.blog.livedoor.jp/otsu3/imgs/1/4/141a8005.jpg

不逞鮮人一千名と

橫濱で戰鬪開始

歩兵一個小隊全滅か

鮮人の隱謀

震害に乘じて放火

東京に三千名蠢く

逮捕は頗る困難

『新愛知新聞』

大正12年(1923年)9月4日(火)

http://blog-imgs-24.fc2.com/k/o/r/koramu2/20090610103425a5f.jpg

屋根から屋根へ

鮮人が放火して回る

「これが命の親ですよ」と

ビスケツトの箱を示す

◇東京を脫出した明大生

(前略)鮮人が盛んに惡いことをして居るのは憎むべき事で屋根から屋根へ渡つて火を放つて居る樣な有樣で我々でも出遇ひ次第棍棒でナグつて軍隊や警官に引渡して居る樣な次第で死体はゴロ/\゛と到る処に橫たはつて居ると云ふ樣で全く原始時代にもどつた樣な有樣で(後略)

『新愛知新聞』

大正12年(1923年)日付不詳

http://blog-imgs-24.fc2.com/k/o/r/koramu2/20090610103508f25.png

震災の混亂に乘じ

鮮人の行つた兇暴

掠奪—放火—兇器—爆彈毒藥携帶

中には人凌辱もある

但し一般鮮人は順良—司法當局談

震災の混亂、人心恟々たる隙に乘じて行つた不平鮮人の惡事は、誇大に報ぜられ人はその眞相を知るに苦しんでゐた、しかも當局が新聞記事を差止めた爲、當時記載する事ができなかつたが事件は二十日やうやく報導の自由を得た。之について司法當局は「今度の變災に際し、鮮人中不法行爲をしたものありと盛に宣傳されたが今其筋の調査した所に依れば、一般鮮人は槪して順良であつたと認め得るが、一部不平の徒があつて幾多の犯罪を敢行したのは事實であると語つた

少女を凌辱

ピストルを

亂射して逃走す

▲氏名不詳鮮人四名(强姦) 九月二日午後十時過ぎ南葛飾郡本田町四ツ木荒川放水路の堤上に避難中の年齢十六七歳の氏名不詳の少女を輪姦した上殺害し荒川に投げ込み逃走した

▲氏名不詳鮮人一名(傷害) 九月二日午後十時頃南葛飾郡小松川町字新町四軒長屋の裏手で榎本豐吉が夜警中便所脇に擧動不審の男あり提灯を差付けると突然棍棒で同人の前頭部を毆打傷害し附近の池中に投げ込み群衆に取押へられ龜戸小學校内敎護所で手當中逃走した

▲炭先と金實睲(殺人未遂) 九月二日午後九時頃南葛飾郡晋鷄町●●京成電車の踏切で氏名不詳の鮮人からピストル一挺を受けとり附近警戒の在鄕軍人に一發発射し逃走した

『讀賣新聞』

大正12年(1923年)10月21日(日)

https://image.blog.livedoor.jp/yorogadi/imgs/f/2/f27d67cf.jpg

鮮人浦和高崎に放火

高崎にて十餘名捕はる

碓氷峠の上から

列車爆破を企つ

松井田驛で逮捕された

不逞鮮人の自白

新聞名不詳

大正12年(1923年)日付不詳

http://blog-imgs-24.fc2.com/k/o/r/koramu2/20090610103544728.png

(参考)外部サイト

朝鮮人の悪行による自業自得説及び虐殺否定説

https://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html

https://www.amazon.co.jp/関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実-工藤美代子/dp/4819110837/

https://www.amazon.co.jp/関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった-WAC-BUNKO-203-加藤康男/dp/4898317030/

上記の説を批判する説

http://01sep1923.tokyo/

http://synodos.jp/society/11601

http://synodos.jp/society/11601/2

8)昭和五年=1930 年3月27日(木)、日本統治下の台湾の霧社で先住少数民族タイヤル人が武装蜂起し、300人ほどが霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。これに対し日本側は大砲や機関銃、航空機、毒ガス弾のルイサイトといった近代兵器を用いて 暴動部族を制圧した。戦闘の中で、700人ほどの暴徒が死亡もしくは自殺し、日本側も兵士22人、警察官6人、味方蕃(日本軍に協力した原住民のこ と)21人が戦死した。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾霧社事件

9) 滿洲國(満州国)の建国から半年後の昭和七年=1932年9月16日(金)、南滿洲鐵道(満鉄)の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊がゲリラ掃討作戦を行なった際、近くの平頂山集落の中国人住民を大量虐殺。被害者数は400名から800名(日本側の説)、或(ある)いは3千名(中共側の説)と言われる。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/平頂山事件

10)昭和八年=1933年から昭和廿年=1945年の敗戦にかけて石井機関の七三一部隊と一六四四部隊が組織的に人体実験を行なった。犠牲者は数千人とされる。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/七三一部隊

731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」

2つの「日常」が重なった少年兵の記憶

現代ビジネス編集部

2020年8月15日(土)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74905

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74905?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74905?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74905?page=4

11)中華民國に対して宣戦布告なき支那事變(日中戦争, 1937-45年)の中で昭和十二年=1937年9月9日(木)、山西省の陽高で關東軍チャハル兵團(兵團長は後に首相になる東條英機)は戦闘が終わると老幼を問わず城内の男性を捕縛し、機銃掃射を浴びせて殺害した。被害者数は350名から500名と推定される。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/陽高事件#.E9.99.BD.E9.AB.98.E4.BA.8B.E4.BB.B6

12)同事変中の昭和十二年=1937年から昭和十三年=1938年にかけて、首都南京に雪崩(なだ)れ込んだ日本兵たちが現地女性を大量強姦し、住民を虐殺。世に言う南京大虐殺、または南京事件。日本側にしてみれば、中華民國軍兵士が敗走する際に軍服を脱いで南京の一般市民に紛れ込み、「便衣兵(べんいへい)」という名の不法ゲリラに成ったことに手を焼いて手当たり次第に住民を殺害したのであった。被害者の大まかな数は、完全否定説を含めて諸説あり不明。中国共産党(中共)の主張する死者三十万人説は水増しがひどすぎて根拠薄弱。日本政府の見解も、 「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である。」としている。現在中共側は「南京大屠殺」と称し、英米マスコミ各社は the Rape of Nanking (直訳「南京の凌辱(りょうじょく)」)としている。しかし1937年12月に起きた筈(はず)の事件だが、中華民國政府を率いた蔣介石(しょう かいせき; Chiang Kai-shek, 1887-1975; 國民政府主席1928-31 & 1943-48; 民國總統1948-75)は終戦までこの事件について日本を一度も非難したことはなく、米国政府が日本の戦争犯罪を徹底的に糾弾(きゅうだん)するつもりで調査した際にもまともな証拠を提示できなかった。

(参考)日本国外務省「歴史問題Q&A」問6

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/

(参考)月刊誌 『THIS IS 読売』 1994年8月号の記事「闇に葬られた皇室の軍部批判」より、大正天皇(たいしやう てんのう; たいしょう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)の四男(末っ子)で、昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の末弟であり、2016年10月27日(木)に満101歳の誕生日を5週間後にひかえて薨去(こうきょ)した三笠宮崇仁親王(みかさ の みや たかひと しんのう; Takahito, Prince Mikasa, 1915-2016)の発言を以下に引用。

[引用開始] 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。[引用終わり]

三笠宮はその十年前にも自叙伝 『古代オリエント史と私』(学生社, 1984年)に同内容のことを書いていた。曰く、

[引用開始] 今もなお良心の苛責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです。

ある青年将校―私の陸士時代の同級生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。

また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。

その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。

「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした。[引用終わり]

13)同事変中の昭和十三年=1938年4月、中国南部の三灶島(さんそうとう)=三竃島(さんそうとう)で日本海軍が中国本土爆撃用の秘密飛行場、第六航空基地を建設する際、島の平野部で口封じのためほぼ皆殺しの島民虐殺を行なう。中国側文献では犠牲者2,891人。大井篤(おほゐ あつし; おおい あつし, 1902-94)海軍大佐が後年、大日本帝國海軍軍令部第二復員省OBによる内密の会である第92回「海軍反省会」の席で録音機器を前にして語ったところによると、「昭和十三年三灶島事件というのがありましてね、私はそのあとで行ったんですけど、臭くて、死臭が。あの三灶島に海軍の飛行場をつくったんです。飛行場をつくるのに住民が居るもんだから、全部殺しちゃったんですよ。何百人か殺した。要するに支那事変の頃から人間なんてどんどん。作戦が第一なんだ、勝てばいいんだ、そういう空気でしたよ、あのころの空気は。こっちは負けてるんだから。いや、勝ってる時にもやってるんだ。勝ってる時やってるんだからね。我々は捕虜の人権なんてものは全く無視してるんですよ。市民にまでひどいことをしているわけですね。私は満州だとか日中戦争、あの頃にあの癖がついたんじゃないかという気が非常にするんですよ。」とのこと。その肉声を収めたテープは2009年8月11日(火)に終戦関連番組としてNHK総合テレビが放映した「日本海軍400時間の証言 第三回戦犯裁判 第二の戦争」で流れ、その国際法無視の凄惨(せいさん)な戦争犯罪の内容が少なからぬ反響を呼んだ。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/三竃島

14) 同事変中の昭和十三年=1938年12月4日(日)から1943年8月23日(月)にかけて断続的に計218回に亘り中華民國臨時首都の重慶(じゅうけい; 当時の英綴り Chungking; 現代のピンイン Chóngqìng; 簡体字では重庆)市を無差別爆撃し、死者約一万人を出す。後の米軍による日本への無差別爆撃(1942-45年)とは被害の規模に於いて比較にならず、知名度の点では1937年4月26日(月)のナチス・ドイツによるスペインのバスク地方ゲルニカ(Guernica or Gernika)村への空爆が、英仏米からの非難とピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)の大作絵画 『ゲルニカ』(Guernica, 1937)による効果で名高いが、1938年から’39年当時としては日本軍による重慶爆撃こそが世界初の空爆による都市住民大量殺戮として歴史的に位置づけられている。このため後の米軍による東京など日本の各都市への無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠としても利用されてしまうことになる。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/重慶爆撃

http://agora-web.jp/archives/1651012.html

15)同事変中の昭和十五年=1940年10月27日(日)、南京の一六四四部隊が寧波市でペスト蚤(のみ)を散布。この攻撃後から2ヶ月間でペストによる死者106名を出す。

16)同事変中、日本軍の一部士官や下士官たちが軍規を逸脱して支那(今で言う中国)の一般家庭から若い女性を拉致(らち)し、占領地の自分の居宅に監禁し、「現地妻」とする。日本軍による女性拉致の実態は、水木しげる(みずき しげる, 1922-2015)こと、本名 武良茂(むら しげる, 1922-2015)の書き下ろし短篇漫画 『姑娘(クーニャン)』(リイドコミック増刊, 1973年; 講談社文庫, 2010年)でも描かれているが、後半はやや美化して悲話としている。実態はもっとおぞましい内容だったことは想像に難(かた)くない。しかしこれらの女性拉致の性犯罪・人権侵害は、軍上層部の命令ではなく、士官や下士官個人が部下を使って個人的に犯した戦争犯罪行為である。

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17)同事変中の昭和十六年=1941年1月8日(水)、大日本帝國政府は内閣總理大臣東條英機(とうでう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44)の名で戰陣訓(せんぢんくん)を発表した。特に「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」の中の一節、「生()きて虜囚(りよしう)の辱(はづかしめ)を受()けず、死()して罪禍(ざいくゎ)の汚名(をめい)を殘(のこ)すこと勿(なか)れ。」が悪名(あくみょう)高いが、これは「降伏して捕虜になるより、潔(いさぎよ)く死ね」ということを意味した。軍国政府は国民を徹底的に洗脳し、国を挙げて玉砕(ぎょくさい: 全員戦死、降伏者ゼロ)を美化し、捕虜になることは絶対に認めず許さなかった。こうした強い国家意思を兵士たちのみならず、日本国民全員へ徹底したため、結果と して自軍の兵士たちや国民を大量に無駄死にさせた。仮に何らかの事情(気絶していた等)で敵の捕虜になったが最後、後に生きて日本へ帰ってきても、故郷で村八分にされた。日本の洗脳された人々は捕虜になった者の社会復帰は絶対に認めようとしなかった。

ところが事もあろうに東條本人は敗戦後に逮捕拘禁に来た米軍憲兵(MP: military police)に東京都世田谷區用賀の私邸を包囲された1945年9月11日(火)16時17分頃、拳銃自殺を図ったが失敗し、マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)総司令官の指示の下で米軍による最善を尽くした輸血手術と看護を施(ほどこ)されて九死に一生を得た。そして1946年5月3日(金)から1948年11月12日(金)にかけて開廷した連合国軍による所謂(いわゆる)「東京裁判」こと極東軍事裁判で死刑判決が言い渡され、皇太子(現在の今上天皇)15歳の誕生日に当たる同年12月23日(木)に巢鴨プリズン(現在の東京メトロ東池袋駅近くの池袋サンシャインシティ)にて絞首刑に処された。当人の理想とは裏腹に「生()きて虜囚(りよしう)の辱(はづかしめ)を受()け」た上に最も不名誉な刑死で世を去ることになってしまった皮肉な例であるが、戦後も暫(しばら)く経()った昭和五十三年=1978年10月17日(火)、靖國神社(在東京都千代田区九段)は東條をはじめとするA級戦犯たちを「昭和殉難者」として合祀(ごうし)して今日(こんにち)に至っている。

(参考)外部サイト

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https://ja.wikipedia.org/wiki/戦陣訓

https://www.youtube.com/watch?v=oXhgzUMZ0Mw

https://www.youtube.com/watch?v=SIk9DAMgKR8

https://ja.wikipedia.org/wiki/東條英機自殺未遂事件

18)大東亞戰爭(アジア太平洋戦争, 1941-45年)の最中に一部女性(日本人、琉球人、臺灣人、朝鮮人、滿洲人、支那人、比國人)を戦地の慰安所に囲って追軍売春婦として性的に搾取。但し、日本軍下士官の数十倍もの高給を支払ったため当時の考え方では合法的な高級娼婦。慰安婦の多くは日本国籍の日本人と同国籍の朝鮮人であり、多くは実父(じっぷ)によって女衒(ぜげん)や周旋人(しゅうせん にん)と呼ばれた朝鮮ヤクザ等に売り飛ばされた追軍売春婦たち(camp followers)であるため、日本軍や日本国政府の関与は薄い。

秦郁彦(はた いくひこ, b.1932)千葉大学元教授・日本大学元教授・元大蔵官僚(東京大学法学部卒・法学博士)によると日本人慰安婦は全体の約40%で、朝鮮人慰安婦は全体の20%程度とのこと。背景には日本兵による強姦事件が占領地での人心の掌握(しょうあく)に支障をきたし、自軍の中に性病が蔓延(まんえん)する危険性を日本軍が問題視していた事情があった。強姦事件の根絶と、無防備な将兵を敵側の間諜(かんちょう: 「スパイ」の意)から護る目的で日本軍は自軍の将兵に必要悪(necessary evil)として慰安所の利用を奨励した。

1990年代以降に韓国の元慰安婦たちが訴えを起こすようになったが、これは儒教文化の強い韓国では親(それが自分を売り飛ばした親であっても)を悪く言 うことができず、せっかく体を売ってコツコツ稼いだ郵便貯金ないしは軍票(ぐんひょう: 軍が発行した占領地での事実上の紙幣)が大日本帝国崩壊によってゼロに等しくなったことへの恨みを戦後の日本国政府にぶつけているに過ぎない。

「従軍慰安婦」なる呼称は戦時中には存在せず、作家の千田夏光(せんだ かこう, 1924-2000; 本名 千田貞晴)が自著 『従軍慰安婦』(双葉社, 1973年)の題名に用いたのが始まりである。同書には戦時中に関東軍後方担当参謀だった原善四郎(はら ぜんしろう, 生歿年不詳)元少佐に戦後インタビューしたような記述があるが、後になって捏造(ねつぞう)であることが発覚している。

また、朝日新聞による自虐史観・反日思想に基(もと)づく誤報・虚報が、「朝鮮人慰安婦=性奴隷」という誤ったイメージを世界に拡散した。騒動の発端(ほったん)は吉田清治(よしだ せいじ, 1913-2000; 本名 吉田雄兎)という自称・元山口縣勞務報國會下關支部動員部長という肩書の詐話師(さわし)が、 『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社, 1977年)と 『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房, 1983年)という著書を刊行したことに始まる。吉田氏によると済州島(さいしゅうとう; チェジュド; Jeju Island)で戦時中に軍令で日本軍兵士10人の応援を得て205人の朝鮮人婦女子を慰安婦要員としてアフリカの奴隷狩りのように強制連行したという。 三一書房の著書の「第三話 済州島の「慰安婦狩り」」(pp.107-110)にはこう書いてある。「翌日から徴用隊は慰安婦の狩り出しを始めた。徴用隊は谷軍曹以下十名の歩兵と共に、軍用トラック二両に分乗して、部隊本部の営門を出発して行った。[中略・改行] 兵隊たちは谷軍曹の前へ一列横隊に並んだ。私は直ちに部落内の狩り出しを命じた。路地に沿って石塀を張りめぐらせた民家は戸がし(p.107/p.108)まっていて、木剣を持った隊員と、銃を持った兵隊が戸をあけて踏み込んで女を捜しはじめた。[中略・改行] 女の悲鳴があがり、隊員と兵隊のどなり声が聞こえはじめると、静まりかえっていた近くの民家から、男(p.108/p.109)たちがとびだしてきて路地を走り、十数人の男たちがその民家の石塀の中に集まって騒ぎだした。隊員や兵隊たちは二人一組になって、泣き叫ぶ女を両側から囲んで、腕をつかんでつぎつぎに路地へ引きずりだしてきた。若い娘ばかり八人捕えていた。男たちが大声を上げて、朝鮮語で騒ぎ立てた。[中略・改行・改頁] 白い朝鮮服の胸がはだけすそがまくれて、娘は下ばきの足を大きくばたつかせて、隊員がてこずった。兵隊たちが笑い声を上げておもしろがり、まわりに立って見物した。[中略・改行] 慰安婦の徴用警備は、兵隊たちが役得をあてにしています。ここで三十分小休止して遊ばせてやります」[改行] 谷軍曹の小休止の号令は兵隊たちをよろこばせた。娘を積んだトラックから隊員たちが降りてくると、兵隊たちがいっせいに幌の中へ乗り込んで行った。娘たちの悲鳴があがると、隊員たちは笑っていた。この娘たちは徴用されるとすぐ、兵隊たちに慰安婦にされてしまった。」と。

こうした虚偽の告白証言と謝罪・贖罪(しょくざい)活動を朝日新聞社清田治史(きよた はるひと, b.1947)記者(当時の肩書; 後に同新聞社取締役)・帝塚山学院大学教授(朝日騒動で同大学に苦情が殺到し、2014年9月13日(土)付で急遽依願退職)が自社の紙面でスクープとして大きく取り上げ、「朝鮮人男性の抵抗に備えるため、完全武装の日本兵十人が同行した。集落を見つけると、まず兵士が包囲する。続いて吉田さんの部下九人が一斉に突入する。若い女性の手をねじあげ路地にひきずり出す。こうして女性たちはつぎつぎにホロのついたトラックに押し込められた。連行の途中、兵士たちがホロの中に飛び込んで集団暴行した。」と書いた。これは、上記の三一書房の著書の中の第三話に100%依拠していると考えられる。

上記の三一書房の著書刊行の翌年(1984年)には、松井やより(まつい やより, 1934-2002; 本名 松井耶依)朝日新聞社シンガポール・アジア総局員(当時)が1984年11月2日(金)付の朝日新聞夕刊に、「私は元従軍慰安婦 韓国婦人の生きた道」と題した記事を発表。記事の小見出しに「邦人巡査が強制連行 21歳故国引き離される」と書いた。

しかしその後の日韓双方の追跡調査から所謂(いわゆる)「慰安婦狩り」の話が、当時カネに困っていた吉田氏による創作・詐話(さわ)であることが判明した。吉田本人も週刊新潮1996年5月2日(木)・9日(木)合併号のイ ンタビューの中で、「まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もある。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない。」と語り、「慰安婦狩り」の体験談がつくり話だったことを暗に認めた。しかし吉田証言(実際には詐話)は、1992年7月31日(金)の韓国政府による「日帝下軍隊慰安婦實態調査中間報告書」(最終報告書はなぜか存在せず)や、1993年8月4日(水)の所謂(いわゆる)「河野談話(こうの だんわ)」こと「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」や、1996年1月4日(木)の国連人権委員会のクマラスワミ報告(Report of the Special Rapporteur on violence against women, its causes and consequences, Ms. Radhika Coomaraswamy, submitted in accordance with Commission on Human Rights resolution 1995/85)や、1998年8月のマクドゥーガル報告書(Systematic rape, sexual slavery and slavery-like practices during armed conflict—Final report submitted by Ms. Gay J. McDougall, Special Rapporteur)や、2007年6月26日(火)に可決されたアメリカ合衆国下院121号決議(United States House of Representatives House Resolution 121)でも慰安婦強制連行の証拠として採用された上、これらの報告はその後も修正されず、日本の残虐行為・非人道的行為の動かぬ証拠として韓国政府や韓国の反日団体によって世界に喧伝(けんでん)されている。

これに対して安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-20)首相は既(すで)に2012年12月の組閣前に「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった。」と言及していた。

1982年から2014年3月に朝日新聞を早期退社するまで同新聞社の社員(千葉支局、大阪本社社会部、テヘラン支局長、ソウル特派員、外報部デスク、北京特派員、朝日カルチャーセンター札幌教室講師、北海道放送センター函館支局長を歴任)だった植村隆(うえむら たかし, b.1958)記者(2015年現在、北星学園大学非常勤講師)が1991年8月11日(日)付の朝日新聞朝刊に「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀 重い口開く」と見出しを付けた記事を掲載したことも火に油を注(そそ)いだ。植村元記者は韓国留学の経験があり、上記の記事の約半年前に韓国人女性と結婚していたが、その義母(韓国人妻の母)は日本国政府に対する民事訴訟の原告団長で、尚且(なおか)つ韓国の太平洋戰爭犠牲者遺族會(現在の亞細亞太平洋戰爭犠牲者韓國遺族會)という反日団体の常任理事(後に会長)の梁順任(양순임; Yang Sun-im, b.1944?)女史である。梁専務理事(当時)は「日本国政府などから補償金を受け取ってやる」「動員犠牲者でなくても当時を生きた者なら誰でも補償を受け取れる」と言葉巧(たく)みに韓国人老婆約3万人(元慰安婦でない者も大量に含まれる)に持ち掛け、弁護士費用などの名目で合計15億ウォン(約1億2千万円)を騙 (だま)し取ったして、2011年5月に韓国国内で他の幹部38名とともに詐欺罪で逮捕起訴されたが、2014年2月に証拠不十分で無罪となった。ちなみにその息子(植村元記者の韓国人義弟)で同団体の事務総長(当時)も暴行罪で韓国国内で逮捕され、1年6月の懲役刑に処されている。同団体幹部(当時)の金學順(김학순; Kim Hak-sun, 1924-97)元慰安婦が1991年12月に日本国政府を提訴したときは、「母親に四十圓(当時としては大金)で売られ、義父(母の再婚相手)に妓生 (キーセン; gi-saeng)養成所へ連れて行かれた」と訴状に書いていたが、植村隆朝日新聞大阪社会部記者(当時)は「女子挺身隊(じょし ていしんたい)の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が名乗り出た」と意図的(いとてき)に虚偽の報道をした。

NHK元記者の経済評論家で株式会社アゴラ研究所の池田信夫(いけだ のぶお, b.1953)代表取締役社長によると、金學順元慰安婦の捏造(ねつぞう)証言には福島瑞穂(ふくしま みずほ, b.1955)弁護士(現在は参議院議員も兼務)が関与しているとのこと。つまり福島弁護士(現代議士)と植村元記者(現講師)による捏造(ねつぞう)が、「日本軍の強制連行」という偽史(ぎし: pseudo-history)を世界に拡散したのである。植村元記者は2014年4月から神戸松蔭女子学院大学に教授として着任する予定だったが、同大学が直前の2014年3月7日(金)付で雇用予定を白紙撤回した。不採用の理由は明らかにされていないが、従軍慰安婦問題を捏造(ねつぞう)したことへの批判が殺到したため、大学側が採用を見送ったと考えられる。

朝日新聞が日本軍の関与の証拠としてきたのは、中央大学吉見義明(よしみ よしあき, b.1946)教授・日本の戦争責任資料センター代表が防衛庁(現在の防衛省)防衛研究所史料閲覧室で発見したとされる文書だが、吉見教授は自身の求める適当な証拠がどうしても見つからないので、民間業者(朝鮮ヤクザ等)による悪質な慰安婦調達を取り締まるための日本軍文書を恰(あたか)も「軍が慰安婦狩りをした」かのように、その内容を正反対に捻()じ曲げて朝日新聞にタレ込んだ。しかも朝日新聞はこの捏造(ねつぞう)証拠を宮澤喜一(みやざわ きいち, b.1919-2007; 首相在任1991-93)首相の韓国訪問・日韓首脳会談の五日前という絶妙なタイミングで1992年1月11日(土)付の一面トップで「慰安所の経営に当たり軍が関与 大発見資料」として大々的に報じた。そのため宮澤首相(当時)は韓国で謝罪外交に明け暮れることになった。

ところが一連の騒動を引き起こした朝日新聞社は 2014年8月5日(火)と同6日(水)付の朝刊で遂に「読者のみなさまへ」と題して「吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断 し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。」と訂正記事を掲載。自社の三十二年にも及ぶ一連の慰安婦報道が一部誤報(実際には虚報)だったことを初めて認め、吉田証言(実際には偽証に関する記事16本を撤回した。一部誤報を認めながらも朝日新聞社は「強制連行はあった」との立場を相変わらず崩さず、植村元記者の捏造(ねつぞう)疑惑を否定し、「慰安婦問題の本質を直視せよ」と厚顔(こうがん)にも開き直り、一切の謝罪も、英文や朝鮮語(日本の一部大学では韓国語やコリア語、NHKではハングル)での訂正記事も拒否している。日本の国益を大きく損(そこ)ね、在米日本人や日系米人の子らがアメリカの学校で「強姦魔どもの子孫(descendants of the rapists)」などと言いがかりをつけられ不当な苛(いじ)めに遭()う原因を作ったことも詫びていない。

今回の慰安婦報道に関する問題は、朝日新聞社にとっては1989年4月から5月にかけての朝日新聞珊瑚記事捏造事件(「朝日新聞 KY事件」でグーグル検索: 1989年=平成元年4月20日(木)付の夕刊一面の連載企画「写’89『地球は何色?』」の中で沖縄県西表島の薊(アザミ)珊瑚(サンゴ)が傷つけられたとする六段抜きの大きなカラー写真を掲載したが、地元から疑いの声が上がり、朝日新聞社内で調査したところ、同社の本田嘉郎(ほんだ よしろう, b.1948)カメラマンが無傷の状態であったサンゴに文字を刻み付けたとの社内判断から虚偽報道であったことを認め、同年5月20日(土)付の朝刊で謝罪した不祥事)以来の、しかもその事件を超える一大不詳事になった。民間シンクタンクの一つである株式会社独立総合研究所(略称 独研)の青山繁晴(あおやま しげはる, b.1952)社長は「朝日新聞の終わりの始まり」と断言した。この年(2014年)の朝日新聞社採用試験に東京大学学生(東大生)の応募が皆無(かいむ)だったことからも事の重大さが伺(うかが)える。

安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-)首相は同年8月8日(金)に產經新聞の単独インタビューに応じ、朝日新聞が吉田証言の虚偽を認めて記事を取り消したことについて、「事実として報道されたことにより、日韓の二国間関係に大きな影響を与えた。全ての教科書にも強制連行の記述が載ったのも事実だ。」と指摘した。「報道によって多くの人たちが悲しみ苦しむことになったのだから、そうした結果を招いたことへの自覚と責任感の下、常に検証を行うことが大切ではないか。」とも述べた。その上で2007年3月 に第一次安倍内閣が「政府発見の資料の中には軍や官憲によるいわゆる強制連行を示すような記述は見当たらなかった。」とする答弁書を閣議決定したことに触れ、「この閣議決定は批判されたが、改めて間違っていなかったことが証明されたのではないか。」と強調した(同日付の產經新聞より)。安倍首相は同年10月3日(金)午前の衆院予算委員会でも朝日問題に関し、「誤報によって多くの人が悲しみや怒りを覚えたのは事実だ。日本のイメージは大きく傷ついた。」と強調。「国ぐるみで(女性を)性奴隷にしたとの、いわれなき中傷が世界で行われている。誤報によって、そういう状況が生み出された。」と 指摘。「政府としては客観的な事実に基づく、正しい歴史認識が形成され、正当な評価を受けるよう戦略的な対外発信を強化する。」と語った(同日付の夕刊フジに依拠)。

大阪市長・元大阪府知事の橋下徹(はしもと とおる, b.1969)弁護士は「言い訳じみた記事」で「(朝日新聞社は)事の重大さを全く分かっていない。」と指摘。日本在住の英国人フリージャーナリストであるストークス(Henry Scott-Stokes, b.1938)氏=芸能人ハリー杉山(ハリー すぎやま, b.1985)の実父(じっぷ)は、「木村伊量(きむら ただかず, b.1953)社長以下、朝日の関係者を国会に招致して、徹底究明すべきである。報道の自由に抵触(ていしょく)するとの意見もあるが、一連の報道が国家に与えた損害は甚大(じんだい)で、当然、その責任が追及されなければならない。記事を削除すれば済む次元の問題ではない。」 と述べた。

同年8月27日(水)、朝日新聞社は自社の一連の報道を批判する週刊文春と週刊新潮の広告掲載を拒否し、同年9月4日(木)には両誌の広告の一部を伏せ字で掲載した。このように自社を庇(かば)うあまり、他社の報道の自由を蔑(ないがし)ろにする朝日新聞社の態度は却(かえ)って火に油を注ぎ、更(さら)なる批判を招いた。

元NHK(日本放送協会)記者のフリージャーナリスト池上彰(いけがみ あきら, b.1950)氏は同年9月4日(木)付の朝日新聞朝刊の連載コラム「新聞ななめ読み」の中で「過ちがあったなら、訂正するのは当然。でも、遅きに失したのではないか。過ちがあれば、率直に認めること。でも、潔くないのではないか。過ちを訂正するなら、謝罪もするべきではないか。」と朝日新聞社の対応を痛烈に批判した。このコラムは元来同年8月29日(金)付朝刊に掲載される予定だったが、朝日新聞は自社に不利な内容の掲載を拒否していた。しかし最後には観念して方針転換し、六日遅れでの掲載となった。同年9月6日(土)付の朝刊で朝日新聞社は「間違った判断」とお詫び記事を掲載したが対応は後手に回った。自社に不利な内容でも最終的に掲載した事実を朝日新聞社は自画自賛したが、その様子を作家の百田尚樹(ひゃくた なおき, b.1956)氏は「店で万引きした商品を、元の棚に戻すだけで、誇りを感じるようなもんか。誇りのレベルが低すぎてw」とツイッター(Twitter) でツイート(tweet)して冷笑した。

讀賣新聞は英字紙 The Daily Yomiuri (現在の Japan News) を出していたが、その1992年2月から2013年1月まで計97本の記事の中で「性奴隷」を指す sex slave や、「奴隷状態」を表す servitude といった表現が使われていたことが社内調査で分かったと発表して2014年11月28日(金)朝刊に謝罪記事を掲載した。「性奴隷」にあたる単語を使っていたのが85本、「日本軍によって売春を強要された女性たち」などと表現したものは12本あったとい う。こうした表現を使った理由については、「慰安婦」の直訳である comfort women (コンフォトウィメン)という表現が外国人には分かりづらいと判断し、海外通信社の英文記事を参考にしたために誤解を招く説明をしてしまったとのこと。同社は Japan News にも同日付で英文による謝罪文を出し、その公式サイトでも対象記事のリストを公表した(2014年11月28日(金)付の時事通信の記事に依拠)。

2015年1月26日(月)、「朝日新聞社の従軍慰安婦報道によって日本国民としての人格権などを傷つけられた」として、学者や元国会議員ら8,749人が「朝日新聞を糺(ただ)す国民会議」を組織し、同社に謝罪広告の掲載と一人につき一万円(合計8749万円=JPY87,490,000)の損害賠償を求める集団訴訟(第一次・第二次訴訟)を東京地方裁判所(東京地裁)に起こした。訴状によると、原告(国民会議)側は朝日新聞社が昭和五十七年(1982年)から平成六年(1994年)にかけて掲載した計13本の記事を問題視している。「日本軍に組織的に強制連行された慰安婦というねじ曲げられた歴史を国際社会に拡散させ、わが国が故(ゆえ)なき非難を浴びる原因になった」と原告側は主張した(同日付の時事通信の記事に依拠)が、2016年7月28日(木)に東京地裁は「原告の名誉が毀損されたとは言えない」として訴えを棄却した。原告(国民会議)側は納得せず、「控訴はもちろんのこと、第三次訴訟も提起」するとのこと。

2015年3月12日(木)付の產經新聞電子版によると、ドイツのクレット(Klett)社が出版した中等教育用の歴史教科書に「日本の占領地域で二十万人の婦女子が軍の売春施設で売春を強いられた」とする記述があることを日本国外務省が自由民主党(自民党)の「日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会」で明らかにした。

米国のオバマ(Barack Obama, b.1961; 大統領在任2009-17)政権は一連の騒動を静観していたが、日韓間の歴史的蟠(わだかま)りが対北朝鮮の北東アジア安全保障に及ぼしかねない悪影響を懸念し、日本側に外圧をかけるに至った。2015年12月28日(月)、安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-)内閣の岸田文雄(きしだ ふみお, b.1957; 外相在任2012-17)外務大臣は大韓民国首都ソウル特別市へ飛び、韓国の尹炳世(Yun Byung-se, b.1954; 外相在任2013-17)外交部長官と会談し、「最終的且(か)つ不可逆的に解決されることを確認する。」とする慰安婦問題日韓合意を結んだ。岸田外相は「当時の軍(日本軍)の関与のもとに多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感している。」とし、「安倍晋三首相は日本国の首相として、改めて慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され心身にわたり癒(いや)しがたい傷を負われた全ての方々に心からお詫()びと反省の気持ちを表明する。」と語った。日本国政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団に10億円を拠出することも約束した。これについては、日本だけではなくアジアの史観を公正にするためにも再登板した筈(はず)の安倍首相が米国政府からの外圧に屈し、「日本軍の関与」や「慰安婦は性奴隷」などという嘘(ウソ)に基(もと)づいて謝罪してしまっては、日本国の名誉が永久に穢(けが)された儘(まま)になってしまうという危惧の声が聞かれた。

ところが2017年に入ると事態が急展開した。在大韓民国釜山(プサン: Busan)日本国総領事館前に市民団体が勝手に設置した慰安婦像(NHKほか日本の多くのマスコミでは「少女像」)をめぐり、慰安婦問題日韓合意に反するとして不快感を示した日本国政府が異例の強硬策に出た。2017年1月6日(金)、日本国政府は駐韓日本大使の長嶺安政(ながみね やすまさ, b.1954)氏を一時帰国させると発表し、同総領事館員(外務省在外職員)の釜山市の行事参加見合わせも韓国側に通告した。また、不安定な自国通貨である韓国ウォンの下支えとして韓国にとって喉から手が出るほど欲しい日韓通貨交換(スワップ)の取り決め協議も中断され、これは韓国にとって大きな痛手となった。政府の命令を受け、長嶺大使は同年(2017年)1月9日(月)にソウル(Seoul)から帰国した。「一時帰国」という名目の無期限の帰国となったが、同年(2017年)4月4日(火)には三ヶ月足らずで再帰任している。

なお、これら韓国・朝鮮人の問題とは全く別個に日本陸軍の一部の不良将校たちが性犯罪者軍属たちと結託して独断(時の日本政府も大本営も関与せず)で、蘭印(蘭領東印度=現在のインドネシア)の日本軍占領地で捕獲したオランダ人女性たちを短期間ながら性奴隷として強制売春させたことは歴史上特筆に値するが、この特定の事例を一連の朝鮮人慰安婦詐欺騒動と混同してはならない。(下記26番を参照)

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http://www.asahi-tadasukai.jp/

朝日新聞第三者委員会で特にひどいのが林香里東京大学大学院情報学環教授だ。

花田紀凱(はなだ かずよし, b.1942)月刊『Hanada』編集長、元『will』『週刊文春』編集長

ヤフーニュース(Yahoo! Japan News)

2015年3月15日(日)

https://news.yahoo.co.jp/byline/hanadakazuyoshi/20150315-00043859/ (リンク切れ)

「性奴隷」を否定した韓国人教授の勇気

JBpress

森清勇(もり せいゆう, b.1939)星槎大学(英称 Seisa University)非常勤講師

2016年11月22日(火)

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48443

https://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161122-00048443-jbpressz-kr (リンク切れ)

反対に朝日新聞を擁護し、産經新聞を貶すウェブサイト、LITERA (リテラ)

https://lite-ra.com/2015/09/post-1528.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1528_2.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1528_3.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1528_4.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1528_5.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1529.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1529_2.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1529_3.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1529_4.html

https://lite-ra.com/2015/09/post-1529_5.html

https://lite-ra.com/2015/10/post-1626.html

https://lite-ra.com/2015/10/post-1626_2.html

https://lite-ra.com/2015/10/post-1626_3.html

https://lite-ra.com/2015/10/post-1626_4.html

https://lite-ra.com/2015/10/post-1626_5.html

「慰安婦虐殺映像」のどこが証拠なんだ!? 韓国“お笑いサーカス団”また寸劇

夕刊フジ Zakzak

通称「テキサス親父」こと、トニー・マラーノ(Tony Malano, b.1949)署名記事

訳者名非公開

2018年3月7日(水)

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180307/soc1803070007-n1.html

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180307/soc1803070007-n2.html

「朝日ぎらい」な人々が世界各国で急増している理由

世の中は「リベラル化」しているのに…

現代ビジネス

橘玲(たちばな あきら, b.1959)

同氏著 『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論 』(朝日新聞社 朝日新書, 2018年6月)の宣伝

2018年7月11日(水)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56469

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56469?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56469?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56469?page=4

若者が「朝日新聞ぎらい」になった謎を考える

共産党が保守で自民党がリベラル?

現代ビジネス

元木昌彦(もとき まさひこ, b.1945)

橘玲(たちばな あきら, b.1959)

2018年9月11日(火)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57318

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57318?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57318?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57318?page=4

日本の汚点…国民を裏切り続ける朝日新聞に、正義は存在するのか

プレジデント・オンライン

鳶田真一郎(つただ しんいちろう)署名コラム

2020年5月28日(木)

https://president.jp/articles/-/35720

https://president.jp/articles/-/35720?page=2

https://president.jp/articles/-/35720?page=3

https://president.jp/articles/-/35720?page=4

https://president.jp/articles/comment/35720

https://news.yahoo.co.jp/articles/c0cb13d2f1d1c019d31f15bfc3ae1eeff8fb9d9d (リンク切れ)

慰安婦誤報で敗訴「植村記者」が「安倍前総理」に逆ギレ 「投稿を削除しなければ法的措置」

新潮社 デイリー新潮

『週刊新潮』2020年12月17日(木)号掲載

2020年12月17日(木)

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/12170556/?all=1

https://news.yahoo.co.jp/articles/80815485559321225a21405d8b8fb5e19ebe6671

https://news.yahoo.co.jp/articles/80815485559321225a21405d8b8fb5e19ebe6671/comments

朝日新聞、戦時中の写真めぐり謝罪。「工場に出勤する女子挺身隊」は合成、Twitterに掲載

BuzzFeed Japan (バズフィード・ジャパン)

朝日新聞元記者 籏智広太(はたち こうた, b.1989)記者署名記事

2020年12月21日(月)

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo

https://news.yahoo.co.jp/articles/becbb2310f6f78cf5c3f4963f6959045772d9443

https://news.yahoo.co.jp/articles/becbb2310f6f78cf5c3f4963f6959045772d9443?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/becbb2310f6f78cf5c3f4963f6959045772d9443/comments

慰安婦トンデモ判決で改めて浮き彫りになった韓国政府の大嘘

小学館 Newsポストセブン

2021年1月8日(金)

https://www.news-postseven.com/archives/20210108_1627006.html

https://www.news-postseven.com/archives/20210108_1627006.html/2

https://news.yahoo.co.jp/articles/681ea7d0891058f53cdbbaea30babb52cd4802a8

https://news.yahoo.co.jp/articles/681ea7d0891058f53cdbbaea30babb52cd4802a8?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/681ea7d0891058f53cdbbaea30babb52cd4802a8/comments

(前略・改行)

◆慰安婦は何人いたのか? 外国人の割合は?

韓国や中国では、何十万人もの現地女性が日本軍の性奴隷になったかのように学校でも教えているが、それは嘘である。旧日本軍では、兵士100人に1人の慰安婦を手当てすることを目標にしていたが、常に不足して募集をかけていた。日本軍の兵力は最大で800万人ほどであり、計画通りであっても慰安婦は8万人、日本大学・秦郁彦教授の論文によれば、実際には2万人程度だったとされる。そのうち国内で採用された日本人が約4割、海外での応募者が約3割、朝鮮人が約2割、中国人が約1割だった。いずれもほとんどが職業的な売春婦である(当時の日本には公娼制度があり、売春婦は合法の職業だった)。

◆強制連行はあったのか?

この説の元となった朝日新聞での自称元軍人の、いわゆる「朝鮮人狩り証言」は虚構であったことが本人の告白と日韓の研究者の現地調査で明らかになっている。慰安婦支援団体などは、のちに「本人の意思に反した就業があったのだから、“広義の強制性”があった」などと主張を変えた。そうした事例でも、朝鮮人慰安婦を集めていたのは主に現地の女衒たちだった。彼らは貧しい農村などで親にカネを渡して婦女子を集めるなど、人道に反するケースが当時の報道でも問題視されていたが、日本軍が強制連行したという証拠は見つかっていない。むしろ日本軍は、そうした不適切な慰安婦集めを取り締まるよう通達も出していた。

◆慰安婦証言の真実

2020年に公金流用などのスキャンダルにまみれた「韓国挺身隊問題対策協議会」が、登録する慰安婦40人に対して聞き取り調査をしたことがある。結果は、21名が自ら進んで慰安婦になっており、19名は意思に反して就業したと証言したが、そのうち15名は家が貧しくて親に売られたと話し、残り4人のうち2人は富山と釜山に強制連行されたと主張したが、どちらも戦地ではなかったので日本軍の慰安所はなかった。残り2人が日本でも何度も紹介された証言者だが、どちらの証言も二転三転しており、かつてはそれぞれ「養父に慰安所に連れて行かれた」「朝鮮人が私を送り出した」と話していたこともある。つまり、日本軍に強制連行されたとする信頼に足る証言はないのである。

以上のように、慰安婦問題とは、強制連行の問題でもなく、性的暴行の問題でもない(良し悪しは別として、当時は売春婦は正式な職業だったため)。元慰安婦たちの要求も、当初は「未払いの賃金を払え」というものだった。しかし、この点については、徴用工問題と同様、1965年の日韓基本条約とともに結ばれた請求権協定で「完全かつ最終的に解決されたこと」とされている。当時の日韓交渉の記録(1961年5月)も公開されているが、そのなかで日本側は賠償金について、「個人に対して支払ってほしいということか」と尋ねているが、韓国側は「国として請求して、国内での支払いは国内措置として必要な範囲でとる」と回答している。つまり、日本は個人賠償を提案したが、韓国が“国に対して払ってもらえれば、国内での支払いは自分たちでやる”として断ったのである。韓国の求めに応じ、日本政府は5億ドルを支払っている(ほかに民間借款が3億ドル)。それを今になって日本政府や日本企業に支払いを求めることは明らかに協定違反であり、国際法の原則に反している。

(改行・後略)

「慰安婦活動は巨大産業」「結局カネ」反日一辺倒から「文在寅批判」に転じる韓国メディア

デイリー新潮

羽田真代(はだ まよ)

週刊新潮WEB取材班編集

2021年1月30日(土)

https://www.dailyshincho.jp/article/2021/01300600/?all=1

https://www.dailyshincho.jp/article/2021/01300600/?all=1&page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/e4e9950ffb6e507b348bbd8730dc547853f55514

https://news.yahoo.co.jp/articles/e4e9950ffb6e507b348bbd8730dc547853f55514?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/e4e9950ffb6e507b348bbd8730dc547853f55514/comments

「慰安婦は売春婦」ハーバード大教授の論文が大波紋 韓国内では人格攻撃的な報道も

東京スポーツ

2021年2月25日(木)

https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/2807829/

https://news.yahoo.co.jp/articles/a196c2ea32f5d1706a2eda58d1526c994d751a33

https://news.yahoo.co.jp/articles/a196c2ea32f5d1706a2eda58d1526c994d751a33/comments

https://ceron.jp/url/www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/2807829/

韓国半狂乱! 「慰安婦=性奴隷」完全否定の米ハーバード大教授論文に「カネで論文書いた」と妄言 掲載予定の出版社に圧力も

夕刊フジ zakzak

室谷克実(むろや かつみ, b.1949)署名記事

2021年2月25日(木)

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/210225/for2102250001-n1.html

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/210225/for2102250001-n2.html

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/210225/for2102250001-n3.html

元朝日記者の敗訴確定 慰安婦報道訴訟 最高裁

時事通信社

2021年3月12日(金)

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031200973&g=soc

https://news.yahoo.co.jp/articles/ac16baab19e7405ce81c965d36a567abd56ba7ea

https://news.yahoo.co.jp/articles/ac16baab19e7405ce81c965d36a567abd56ba7ea/comments

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1615535006/

[まとめ動画]

(実話)慰安婦問題はなぜ起きたのか漫画にしてみた(マンガで分かる)

アシタノワダイ

2021年3月3日(水)公開

https://www.youtube.com/watch?v=AmzxUJiaCm4

(慰安婦は性奴隷ではない)さすがハーバード大学!理詰め論文の中身とは?韓国大激怒で抗議の嵐へ。ロジックで反論しないの?(ゆっくり解説)

Wonder Story (ワンダーストーリー)

2021年3月3日(水)公開

https://bunshun.jp/articles/-/39584

https://bunshun.jp/articles/-/39584?page=2

https://bunshun.jp/articles/-/39584?page=3

https://bunshun.jp/articles/-/39584?page=4

https://bunshun.jp/articles/-/39584?page=5

https://bunshun.jp/articles/comment/39584

https://news.yahoo.co.jp/articles/2a5c90abaa997655ae7ac2ee17b19105d46d6868 (リンク切れ)

「これはうまい。お代わりだ」硫黄島激戦の裏で、日本軍将兵はなぜ“アメリカ人将校の肉”を食べてしまったのか

文藝春秋 文春オンライン

小池新(こいけ あたらし, b.1947)共同通信元編集委員署名記事

2020年8月16日(月)

https://bunshun.jp/articles/-/39587

https://bunshun.jp/articles/-/39587?page=2

https://bunshun.jp/articles/-/39587?page=3

https://bunshun.jp/articles/-/39587?page=4

https://bunshun.jp/articles/-/39587?page=5

https://bunshun.jp/articles/-/39587?page=6

https://bunshun.jp/articles/comment/39587

https://news.yahoo.co.jp/articles/3435b06e3126d2f0da9ecd3c1e18b3da80c4fca0 (リンク切れ)

【動画】

【ゆっくり解説】戦争の闇!戦時中に起きた恐ろしい事件3選解説!

軍事ゆっくり解説

2021年8月11日(水)

https://www.youtube.com/watch?v=e5vzNvYho3g

韓国の戦争性犯罪「ライダイハン」問題、英団体が議会で追及へ

産経ニュース

2019年1月9日(水)

https://special.sankei.com/f/international/article/20190109/0001.html

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1547026218/

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1547038309/

【ロンドン=岡部伸】ベトナム戦争に派遣された韓国軍兵士による現地女性への性的暴行などで生まれた「ライダイハン」と呼ばれる混血児の問題を追及する英民間団体「ライダイハンのための正義」(ピーター・キャロル会長)は16日、英議会にイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)の性暴力を告発してノーベル平和賞を受賞したイラクのクルド民族少数派ヤジド教徒、ナディア・ムラド氏(25)らを招き、特別会合を開催する。同団体が産経新聞に明らかにした。韓国の戦争性犯罪であるライダイハン問題の実態を訴える。

(改行・後略)

韓国最大のタブー「ライダイハン」について解説!

フィフィ(Fifi, b.1976)

2019年12月22日(日)公開

https://www.youtube.com/watch?v=B54nFmxfDGo

ベトナム民間人虐殺、韓国政府提訴へ 「村人を1カ所に集めては手榴弾を……」残虐な加害の実態

韓国政府に突きつけられる歴史問題

文春オンライン

赤石晋一郎(あかいし いんいちろう, 生年非公開)署名記事

2020年4月30日(木)

https://bunshun.jp/articles/-/37448

https://bunshun.jp/articles/-/37448?page=2

https://bunshun.jp/articles/-/37448?page=3

https://bunshun.jp/articles/comment/37448

https://bunshun.jp/articles/comment/37448#ulCommentWidget

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200430-00037448-bunshun-int (リンク切れ)

小見出し1: 「ベトナム民間人虐殺」で韓国政府を初提訴

小見出し2: 「朝日新聞と同じ事が自国でもできないか」

小見出し3: 「はたして日本人だけが悪いと言えるのでしょうか」

小見出し4: 「村人を一カ所に集めては手榴弾を投げつけられた」

小見出し5: 戦争に関わった国すべてに問われるべき「歴史問題」

【世界が注目】韓国最大のタブー・ライダイハン。英国議員が韓国政府に対して、韓国軍の大罪をベトナムに謝罪するよう要求!

フィフィ(Fifi, b.1976)

2021年3月5日(金)公開

https://www.youtube.com/watch?v=66RxH21fYf4

(参考図書)

大沼保昭(おおぬま やすあき, b.1946)『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』(中央公論新社 中公新書 No.1900, 2007年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4121019008/

https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/102984.html

桜井誠(さくらい まこと, b.1972)=本名 高田誠(たかだ まこと, b.1972) 『反日韓国人撃退マニュアル』(晋遊舎 ブラック新書 No.014, 2009年4月)

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黄文雄(こう ぶんゆう; Huáng Wénxióng; N̂g Bûn-hiông, b.1938) 『改訂版「慰安婦問題」は韓国と朝日の捏造だ100問100答』(ワック WAC Bunko No.168, 2012年9月)

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室谷克実(むろたに かつみ, b.1949) 『悪韓論』(新潮社 新潮新書, 2013年4月)

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SAPIO編集部(さぴお へんしゅうぶ)[編] 『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』(小学館 ポスト・サピオムック, 2013年8月)

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酒井信彦(さかい のぶひこ, b.1943) 『虐日偽善に狂う朝日新聞 偏見と差別の朝日的思考と精神』(日新報道, 2013年8月)

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室谷克実(むろたに かつみ, b.1949) 『呆韓論』(産経新聞出版 産経セレクト新書, 2013年12月)

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山際澄夫(やまぎわ すみお, b.1950) 『すべては朝日新聞から始まった「慰安婦問題」』(ワック WAC Bunko, 2014年1月)

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黄文雄(こう ぶんゆう; Huáng Wénxióng; N̂g Bûn-hiông, b.1938) 『犯韓論』(幻冬舎 ルネッサンス新書 こ-4-1, 2014年3月)

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SAPIO編集部(さぴお へんしゅうぶ)[編] 『日本人が知っておくべき 嘘つき韓国の正体』(小学館 ポスト・サピオムック, 2014年3月)

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MONOQLO編集部(ものくろ へんしゅうぶ)[編] 『READ JAPAN 韓国を嫌うのが正しい50の理由』(晋遊舎 MONOQLO増刊, 2014年5月)

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別冊宝島編集部(べっさつ たからじま へんしゅうぶ)[編] 『日本人なら知っておきたい「反日韓国」100のウソ』(宝島社 別冊宝島 No.2180, 2014年5月)

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KAZUYA(カズヤ)=本名 京本和也(きょうもと かずや, b.1988) 『ここがヘンだよ「反日」韓国 彼らがウソをつくほど日本が得をする法則』(イースト・プレス 知的発見!Books No.022, 2014年8月)

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日本戦略ブレイン(にほん せんりゃく ぶれいん)[編] 『誅韓論 悪の反日国家はこうやって潰せ!』(晋遊舎新書 S18, 2014年8月)

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讀賣新聞編集局(よみうり しんぶん へんしゅうきょく)[編] 『徹底検証 朝日「慰安婦」報道』(中央公論新社 中公新書ラクレ, 2014年9月)

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文藝春秋(ぶんげい しゅんじゅう)[編] 『「従軍慰安婦」 朝日新聞vs.文藝春秋』(文藝春秋 文春新書, 2014年10月)

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室谷克実(むろたに かつみ, b.1949)、黄文雄(こう ぶんゆう; Huáng Wénxióng; N̂g Bûn-hiông, b.1938)、野村旗守(のむら はたる, b.1963) 『日本人なら知っておきたい反日韓国100のウソ』(宝島社, 2014年12月)

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但馬オサム(たじま おさむ, b.1962) 『韓国呪術と反日』(青林堂 Seirindo Books, 2015年1月)

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中杉弘(なかすぎ ひろし, b.1941) 『朝鮮人よ日本人に土下座せよ』(青林堂 Seirindo Books, 2015年6月)

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桜井誠(さくらい まこと, b.1972)=本名 高田誠(たかだ まこと, b.1972) 、山口敏太郎(やまぐち びんたろう, b.1966)=本名 間敏幸(はざま としゆき, b.1966) 『超嫌韓論』(青林堂, 2015年7月)

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高山正之(たかやま まさゆき, b.1942) 『歪曲報道: 巨大メディアの「騙しの手口」』(新潮社 新潮文庫, 2015年11月)

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長谷川熙(はせがわ ひろし, b.1933) 『崩壊 朝日新聞』(ワック WAC, 2015年12月)

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黒木頼景(くろき よりかげ, b.1967) 『教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の恥史』(成甲書房, 2016年11月)

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杉田水脈(すぎた みお, b.1967) 『慰安婦像を世界中に建てる日本人たち 西早稲田発→国連経由→世界』(産経新聞出版, 2017年3月)

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高山正之(たかやま まさゆき, b.1942) 『中国と韓国は息を吐くように嘘をつく』(徳間書店, 2017年5月)

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大高未貴(おおたか みき, b.1969) 『父の謝罪碑を撤去します 慰安婦問題の原点「吉田清治」長男の独白』(産経新聞出版, 2017年6月)

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百田尚樹(ひゃくた なおき, b.1956) 『今こそ、韓国に謝ろう』(飛鳥新社, 2017年6月)

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崔吉城(최길성; Choy Gil-seong, b.1940) 『朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実 文化人類学者が読み解く「慰安所日記」 』(ハート出版, 2017年11月)

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ワイルス蓉子(Yoko Wiles, b.1930) 『アメリカ各地で脚色されて語られている「慰安婦問題」 歴史の生き証人は訴える』(文芸社, 2017年11月)

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安濃豊(あのう ゆたか, b.1951) 『絶滅危惧種だった大韓帝国 朝鮮半島を国連信託統治とせよ』(展転社, 2018年7月)

https://www.amazon.co.jp/絶滅危惧種だった大韓帝国―朝鮮半島を国連信託統治とせよ-安濃-豊/product-reviews/4886564631/

ヨン(Michael Yon, b.1964) 『決定版・慰安婦の真実 戦場ジャーナリストが見抜いた中韓の大嘘』(扶桑社, 2018年11月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4594080901/

ヨン(Michael Yon, b.1964) 『歴史戦の真実 米国人ジャーナリストがただす本当の歴史と日本』(扶桑社, 2019年2月)

https://www.amazon.co.jp/dp/4594081622/ref=emc_b_5_t

19)同戦争中、日本軍占領地で敵性外国人として捕獲した連合国の一般市民を虐待。

20)同戦争中、日本軍占領地に居た中立国(スイス、スペイン、ポルトガル、ベルギー)の一般市民を不当に逮捕監禁。戦後に賠償金を払う羽目になった。

21)同戦争中、シンガポールで日本軍占領下(1942年2月15日(日)から’45年9月12日(水))の最初の1ヶ月に、帝國陸軍第二十五軍が親英的・反日的と目された中国系住民(華人; 華僑)を「粛清(Sook Ching)」と称して大量虐殺。被害者数は諸説あるが、6千人(東京裁判=極東国際軍事裁判)から2万人とされる。虐殺対象者を選別するに当たっては杜撰(ずさん)を極め、「こいつは眼鏡を掛けてゐるからインテリだ、インテリといふことは親英・反日に相違ない」などという言いがかりのような理由で多数の無実の住民が殺害された。日本敗戦後に河村參郎(かはむら さんらう, 1896-1947; 但し、国立国会図書館やウィキペディア日本語版では河村参郎(かわむら さぶろう))中將・元昭南島警備司令官・元印度支那駐屯軍參謀長が、この事件の責任を取らされ、英軍管轄下のシンガポール軍事法廷でBC級戦犯として有罪判決が言い渡され、同地のチャンギ刑務所にて絞首刑に処された。しかし実は河村中將は部下だった筈の辻政信(つじ まさのぶ, 1902-61?)中佐(終戦時は大佐としてタイ国に潜伏、戦後に衆議院議員、転じて参議院議員、秘密任務を帯びてラオスに入国したまま行方不明)の先導・煽動による犠牲者であった可能性が高いことが、豪州人ジャーナリスト、ウォード氏(Ian Ward, b.1938)著 The Killer They Called a God (Singapore: Media Masters, 1992) という著書で明らかにされている。現在シンガポール共和国の歴史教科書では、英人ラッフルズ(Sir Thomas Stamford Raffles, 1781-1826)の上陸(1819年)と、同国のマレー連邦からの離脱・独立(1965年)と並んで「粛清」(1942年)が最重要項目となっている。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/シンガポール華僑粛清事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争犯罪一覧

22)同戦争中、東南アジアの占領地で日本軍政当局は現地の土着民を二等市民として優遇し、それまでイギリスやオランダによって二等市民として優遇されてきた中国系市民を三等市民の扱いにする。

23)同戦争中、捕虜として捕獲した連合軍将兵に満足な食事も与えずに、ジュネーヴ条約(Geneva Convention)で禁止された奴隷労働を課す。日本の歴史に捕虜虐待の汚点を残す。日本軍が捕虜に取った米英蘭加豪及びNZ将兵15万人の多くが劣悪な環境、暴行、強制労働などで死亡した。死亡率は約28.5%。これが異常に高い数値であることは、同様の死亡率がナチス・ドイツにおける連合軍(東方戦線のソ連兵捕虜を除く)捕虜約7%の死亡率、ソ連領シベリアに戦後不法に拘留された日本人捕虜約10%の死亡率と比較すると歴然としている。

ナチスやソ連も真っ青な死亡率であったとも言えるが、実は独ソ戦(1941-45年)の現状は更にひどかった。ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945; 首相在任1933-45; 総統在任1934-45)は独ソ戦を世界観戦争であると規定した。すなわち「人種的に優れたゲルマン民族が劣等人種スラヴ人を奴隷化し支配する」という世界観である。そのためドイツ軍はソ連兵捕虜を人間として扱わず、食料も充分に配給せず、暖房も無い収容所に押し込め、重労働に駆り出した。大量のソ連兵捕虜が飢餓や凍傷や伝染病で死んでいった。570万人のソ連軍捕虜のうち、300万人が死亡したとされ、死亡率は53.63%。一方のソ連軍はそれに輪をかけてドイツ兵捕虜の処遇にあたったので、ソ連の捕虜収容所で生き残ったドイツ兵士はたったの5%に過ぎなかったというから死亡率は95%である。大木毅(おおき たけし, b.1961)著 『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波書店 岩波新書 No.1785, 2019年)に依拠。

(参考)外部サイト

https://www.independent.co.uk/voices/comment/the-japanese-torture-of-my-father-was-horrific--so-why-are-they-considering-watering-down-the-apology-for-their-wartime-past-10074720.html?origin=internalSearch

24)同戦争中の昭和十七年=1942年2月から’45年の敗戦まで、当時の同盟国タイ王国西部と英領ながら日本軍占領下のビルマ(現ミャンマー)とを結ぶ「泰緬鐵道(たいめん てつどう)」の建設工事に、大日本帝國陸軍は連合軍捕虜約6万2千人を強制投入。捕虜の虐待を禁じたジュネーヴ条約(Geneva Convention)を無視。過労と伝染病などで連合軍捕虜1万2千人超が死亡。他に募集で集まったタイ人数万(正確な数は不明)、ビルマ人=ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、インドネシア人(華僑含む)4万5000人の労働者もい た。建設現場の環境は劣悪で、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上った。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/泰緬鉄道

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310037_00000&seg_number=001

英連邦戦没捕虜追悼礼拝(The Annual Memorial Service for Commonwealth PoWs)

英連邦戦死者墓地(在神奈川県横浜市保土ヶ谷区狩場町)

毎年8月第一土曜日

https://pow-memorial-service.amebaownd.com/

http://powresearch.jp/news/wp-content/uploads/memorialservicepamphlet2016.pdf

https://m.facebook.com/hodogaya.reihai/videos/1017248825394726/

第19回英連邦戦没捕虜追悼礼拝開催される

英連邦戦死者墓地(在神奈川県横浜市保土ヶ谷区狩場町)

2013年8月3日(土)

http://powresearch.jp/news/wp-content/uploads/eirenpouboti-reihai.pdf

ミャンマーは本当に“親日国”なのか?両国の忘れてはならない歴史

WEDGE Infinity

根本敬(ねもと けい, b.1957)上智大学総合グローバル学部教授

2016年8月15日(月)

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537?page=2

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537?page=3

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537?page=4

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537?page=5

終戦から75年…旧日本軍が建設した“死の鉄道” 悲劇の現場で働いたタイ人とマレーシア人の証言

フジテレビ系 FNNプライムオンライン

FNNバンコク支局 武田絢哉記者署名記事

2020年8月12日(水)

https://www.fnn.jp/articles/-/72981

https://news.yahoo.co.jp/articles/3822f61813fd7d553868d7e390aaaa019804e1b4 (リンク切れ)

横浜の知られざる墓地で続く和解の礼拝 受け継がれ続ける元陸軍通訳の志

横浜に英連邦戦死者墓地という、あまり知られていない墓地がある。そこで例年8月、追悼礼拝が開かれる。26年続く礼拝は、戦時中に日本軍の通訳として捕虜の拷問に立ち会い、戦後を和解にかけた男性の思いから始まった。

BuzzFeed News (バズフィード・ニューズ)日本版

貫洞欣寛(かんどう よしひろ; Yoshihiro Kando) BuzzFeed News Editor, Japan 署名記事

2020年8月16日(日)

https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/yokohama75

戦争の悲惨さ訴え続ける…“死の鉄道”タイ

日テレNEWS24

2020年8月16日(日)

2020年8月28日(金) 再掲

https://www.news24.jp/articles/2020/08/16/10700829.html

https://news.yahoo.co.jp/articles/09758d35511580b74bf3ae808e7fa4dc2d796fb6

https://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20200816-00000201-nnn-int

https://news.yahoo.co.jp/articles/034b4aa8b3db6fdfb8e951f3d5e9336edf2452f1

https://news.yahoo.co.jp/articles/034b4aa8b3db6fdfb8e951f3d5e9336edf2452f1/comments

25)同戦争中の昭和十八年=1943年3月18日(木)、東部ニューギニアからラバウルへ約60名の外国人抑留者を移送中の駆逐艦「秋風」の乗組員(帝國海軍将兵)が、航行中に艦上で外国人全員を惨殺。被害者の内訳はカイリル島の26名(修道士12名、修道女11名、2歳から7歳の中国人児童3名)と、マヌス島の40名(神父と修道女各3名、ドイツ人宣教師夫妻2組と子供1名、ドイツ人農園主2名、中国人2名と原住民3名)。他に少なくともオランダ人5名、ハンガリー人1名、米国人1名が犠牲となった。駆逐艦「秋風」は1944年11月3日(金)に船団護衛中にルソン島サンフェルナンド西方で米潜水艦「ピンタド」(USS Pintado)の雷撃を受けて沈没し、乗組員が全員戦死したため、戦争犯罪人が裁かれることはなかった。「駆逐艦秋風虐殺事件」と呼ばれる。当時の同盟国ドイツの民間人までをも殺害した点は特筆に価する。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/秋風_(駆逐艦)#.E9.A7.86.E9.80.90.E8.89.A6.E7.A7.8B.E9.A2.A8.E8.99.90.E6.AE.BA.E4.BA.8B.E4.BB.B6

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争犯罪一覧

(参考図書)

常石敬一(つねいし けいいち, b.1943)、秦郁彦(はた いくひこ, b.1932)、佐瀬昌盛(させ まさもり, b.1934)[監修] 『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋, 2002年)

26)同戦争中の昭和十九年=1944年2月、蘭印(蘭領東印度=現在のインドネシア)の日本軍占領地にて、帝國陸軍南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が独断(当時の日本政府も大本營も関与せず)で、 オランダ人女性35人を民間人抑留所からスマランに在った慰安所に強制連行し、強制売春させ、毎日強姦した。朝鮮人売春婦の場合とは異なり、給与が支払わな かったため、完全な性奴隷(sex slaves)状態であった。自由意思の者だけを追軍売春婦にすることとした当時の日本軍の方針を第16軍は無視していたが、大本營は軍末端の犯行を掌握(しょうあく)できていなかった。しかし同年4月、自分の娘を不当に連れ去られた蘭人抑留者のリーダー格の白人男性が、軍令で抑留所視察に来ていた陸軍省俘虜管理部員兼俘虜情報局事務官の小田島董大佐に直訴(じきそ)した。同大佐はこれを聞き入れて実態調査を行ない、すぐさま慰安所閉鎖の勧告を出した。第16軍司令部は同年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。日本軍は穏便(おんびん)な幕引きを図(はか)り、事件関係者の処罰は躊躇(ちゅうちょ)してしまった。そのことが戦後に戦勝国オランダ側の怒りを招くことになる。戦勝国による戦後の国際軍事裁判(バタビア裁判・第106号事件)で関係者が有罪を宣告された。事件の首謀者だった大久保朝雄陸軍大佐は戦後オランダ軍による訴追を知り故郷の仙台市で自殺。池田省一陸軍大佐には懲役15年の判決。岡田慶冶陸軍少佐には死刑判決が下るも後に減刑。河村千代松陸軍少佐には懲役10年。村上類藏陸軍軍醫少佐には懲役7年。中島四郎陸軍軍醫大尉には懲役16年。石田英一陸軍大尉には懲役2年。古谷巌「スマラン倶樂部」軍屬には懲役20年。森本雪雄「日の丸倶樂部」軍屬には懲役15年。下田眞治「青雲莊」軍屬には懲役10年。葛木健次郎「將校倶樂部」軍屬には懲役7年。世に言う「白馬(しろうま)事件」または「スマラン事件」。朝鮮人慰安婦の問題は上記18番を参照。

(参考)外部サイト

https://sites.google.com/site/dlgnji4jp/programmas/conf14/4yok

https://w.atwiki.jp/kolia/pages/81.html

https://dj19.hatenadiary.org/entry/20120225/p1

https://nyankosensee.hatenadiary.org/entry/20090912/1252851787

https://blogs.yahoo.co.jp/miyasitama2000/folder/1465330.html (リンク切れ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/白馬事件

27)同戦争中の昭和十九年=1944年2月から7月にかけて、日本軍は太平洋トラック島の病院で米兵捕虜4人に対し生体解剖を行い、このうち2名がショック死。生き残った2人はダイナマイトで爆殺。さらに他の4名に葡萄(ぶどう)状球菌を注射し、全員を惨殺。

28)同戦争中の昭和十九年=1944年3月9日(木)、帝國海軍の重巡洋艦「利根」が英国商船ビハール号(Behar) を撃沈し、英国人女性2名を含む乗員約115名(白人32名、インド人80名、中国人3名)を捕虜にした。同年3月17日(金)、女性2名を含む約35名の捕虜をバタビアの陸軍俘虜収容所に送ったが、翌18日(土)未明スマトラ島とバンカ島間の海峡にて残りの80名の捕虜を利根の後甲板上に集め、全員斬首して惨殺した。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/ビハール号事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争犯罪一覧

29)同戦争中の昭和十九年=1944年7月12日(水)、日本軍は占領下のグアム島で島民への影響力が強かったデュエナス(Jesus Baza Dueñas, 1911-44; 実際のスペイン語発音ではドゥエニャス)神父を不当に逮捕。日本軍は神父を三日間に亘(わた)り拷問した上で、公衆の面前で彼の甥(おい)とともに斬首して公開処刑した。

(参考)外部サイト

https://en.wikipedia.org/wiki/Jesus_Baza_Duenas

https://www.nps.gov/history/history/online_books/wapa/hrs/hrsf2.htm (リンク切れ)

30) 同戦争中に大日本帝國陸軍が楮(コウゾ)を原料とする和紙を蒟蒻糊(コンニャクのり)で器用に接着した直径10メートルの気球に爆弾を搭載した兵器を開発し、昭和十九年=1944年11月に実用化。戦後に「風船爆弾」と呼ばれることになるが、戦時中の呼称は「氣球爆彈」であり、秘匿名(ひとく めい)は「風船」の「ふ」の字を採って「ふ號兵器」としていた。日本の茨城縣と千葉縣と福島縣(福島県)の太平洋岸から米国本土へ冬の偏西風=ジェット気流(jet stream)に乗せて放たれた約9,300発の気球爆弾のうち、米本土に到達したのは1,000発前後と推定され、アメリカ側の記録では285発が確認されている。

昭和廿年=1945年5月5日(土)、オレゴン州レイク郡レイクヴュー市(Lakeview, Lake County, Oregon, USA)近郊のギアハート山荒野(Gearhart Mountain Wilderness)内のブライ(Bly, Lake County, Oregon, USA)で風船爆弾の不発弾に触れたピクニック中(教会まで行くところとする資料もある)だった牧師の妻で満26歳の妊婦エルジー・ウィンターズ・ミッチェル(Elsie Winters Mitchell, 1919-45)さんと、一緒に車で移動中だった近所の子供たち5人、エドワード・エンゲン(Edward Engen, c.1932-45)君=13才、ジェイ・ギフォード(Jay Gifford, c.1932-45)君=13才、ジョーン・パッツキー(Joan Patzke, c.1932-45)ちゃん=13才、ディック・パツッキー(Dick Patzke, c.1931-45)君=14才、シャーマン・シューメイカー(Sherman Shoemaker, c.1934-45)君=11才の計6名が爆死した( https://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=11426932 )。この事例こそが、確認されている気球爆弾の唯一の戦果である。運転中の自家用車の駐車スペースを探しに行っていた夫で満27歳の牧師アーチー・エマスン・ミッチェル(Archie Emerson Mitchell, 1918-歿年不詳)氏だけが難を逃れ、戻って来た夫の腕の中で妻は息を引き取った。日本の戦況の悪化により、1945年3月を最後に日本軍は放球をやめていたが、上記のように同年(1945年)5月に民間人が爆殺されたのは、冬の間に飛来した気球が雪解けによって現れた可能性が指摘されている。

戦果こそ僅少だったが、気球爆弾による心理的効果は大きかった。アメリカ陸軍は同爆弾が生物兵器または化学兵器を搭載している可能性(実際には昭和天皇の裁可が下りなかったと言われている)を考慮し、着地した不発弾を調査するに際して担当者は防毒マスクと防護服を着用した。動員された細菌学者はアメリカ全土で約4,000人にも上ったと言われる。また、日本兵が気球に乗って米本土に侵入するという懸念を米当局は終戦まで払拭(ふっしょく)することができなかった。気球爆弾対策のために米政府は大きな努力を強()いられ、厳重な報道管制を敷き、同爆弾による被害を隠蔽(いんぺい)した。これは国民の士気(morale らー)維持のためと、日本側が自分らの戦果を確認できないようにするためだった。そのため最後まで日本軍は気球爆弾の効果が分からない儘(まま)だった。

気球爆弾は、ほぼ無誘導でありながら飛距離が約7,700キロメートルもあり、史上初めて大陸間を跨(また)いで使用された兵器(the first ever weapon possessing intercontinental range in history)であり、兵器の到達距離としては1982年に記録が破られるまで史上最長(the longest ranged attacks ever conducted in the history of warfare until 1982)だった。このことは特筆に値する。

なお、気球爆弾で妊娠中の妻を亡くしたミッチェル氏は戦後の1947年になって気球爆弾の被害者パッツキー兄妹(Patzke brother and sister)の長姉(eldest sister)であるベティー・パッツキー(Betty Patzke, 生歿年不詳)嬢と再婚し、その新妻ベティー夫人(Mrs. Betty Mitchell, 生歿年不詳)を伴って南ベトナムに宣教師として赴任した。ベトナム戦争(Vietnam War, 1955-75)中の1962年5月30日(水)に癩(ライ)病(leprosy: 現在で言うハンセン氏病)病棟から北ベトナムのベトコン(越 Việt Cộng; 英 Viet Cong)兵士たちに拉致(らち)されたまま今日に至るも消息不明である。1918年生まれの年齢(2018年で生誕百年)から考えても現在生存している可能性はほぼ無い。連れ去りの目的は自軍兵士の治療を強制することだったと考えられている。また、ギリギリのところでベトコンに連れ去られずに済んだベティー夫人は、1975年のサイゴン(現在のホーチミン市)陥落のどさくさの中で行方不明となり、今日に至るも消息不明である。

(参考図書)

足達左京(あだち さきょう, 1905-88) 『風船爆弾大作戦 アメリカを惑乱させた謎の紙気球』(学芸書林 Boa Books, 1975年)

鈴木俊平(すずき しゅんぺい, 1927-2006)こと、本名 鈴木俊一(すずき しゅんいち, 1927-2006) 『風船爆弾』(新潮社, 1980年; 新潮社 新潮文庫, 1984年)

吉野興一(よしの こういち, b.1957) 『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』(朝日新聞社, 2000年)

31)同戦争中の昭和廿年=1945年2月3日(土)から3月3日(土)のマニラの戦い(マニラ市街戦)で、日本軍は米側に協力的と疑いを抱いた地元住民を大量虐殺。犠牲者は約10万人に上る。但し、米軍による砲火で死亡した市民も多数いて、死者の約40%がそうだったとする説もあるが、解放者(liberators)としての米軍のことを悪く言うのはタブー視されている。フィリピンを敵(米軍及びフィリピン・コモンウェルス軍)の侵入から防御する日本側の最高司令官だった帝國陸軍の山下奉文(やました ともゆき; 有職読みで「ほうぶん」, 1885-1946)大將は首都マニラ(Manila)の市民の無駄な犠牲を避け、尚且(なおか)つ自軍の兵力を温存すべくマニラを無防備都市(an Open City)として宣言する方針だったが、帝國海軍の岩淵三次(いわぶち さんじ, 1895-1945)少將(手榴弾(しゅりゅうだん)での自決後に中將へ特進がこれに猛反発し、東京の大本營(Imperial Headquarters)も岩淵を支持したため、マニラには約1万人の海軍陸戦隊(英米で言う Marines = 海兵隊に相当)と、ルソン島(Luzon)北部への撤退に間に合わずマニラ市内に取り残された日本の陸軍兵約4千人がいた

市街戦のどさくさの中で日本軍は、当時裕福だったエルミタ(Ermita)地区の若い女性と少女の計400人の中から最も美しい者25名(その多くは12~14歳)を市内のベイヴューホテル(Bayview Hotel または資料によっては Bay View Hotel: 直訳「湾観ホテル」; 現在その名前のホテルは現存しないが、戦後に営業を開始した Bayview Park Hotel か、旧市街内に在る The Bayleaf という名のホテルがその後継ホテルなのか否かは不明)へ連行し、次々と輪姦(gang rape)し、しかも強姦後に乳首を刃物で切り取り、首から下は銃剣で切り付けて殺害した。日本軍による犯行現場は後にレイプセンター(rape center: 直訳「強姦中心」)と呼ばれることになる。

また、中立国のスペイン市民(フィリピンの旧支配階級)を200名以上も殺害したり、家屋を破壊したり、財産を奪うなどした。しかもスペイン人が築いた美しい殖民地様式(colonial style)の旧市街(Intramuros: スペイン語で「壁の内側」の意)とスペイン領事館も日米双方の攻撃で破壊され尽くした。遠くスペインでは激しい反日機運が盛り上がり、日本に対する「義勇軍」の結成や、対日宣戦布告すら提案された。スペインの独裁者フランコ(Francisco Franco, 1892-1975; 首相在任1938-73; 総統在任1939-75)将軍は、三年三ヶ月前の昭和十六年=1941年12月に義弟で外務大臣だったセラーノ(Ramón Serrano Suñer, 1901-2003)を通して真珠湾攻撃成功への祝電を日本に送るなど、それまで日本に好意的だったが、マニラの戦いのニュースを聞いて怒りに打ち震え、昭和廿年=1945年4月12日(木)には日本との国交を断絶した。日本への宣戦布告も検討したという。しかしながら、日本の傀儡国家かいらい こっか: puppet states)だった滿洲帝國及び汪兆銘(おう ちょうめい; Wāng Jīngwèi, 1883-1944; 中華民國總統在任1932-35; 南京國民政府總統在任1940-45)の南京政府との国交は維持された。

皮肉なことに、本来最も責任のある海軍の岩淵少將(自決後に中將へ特進は敵が迫ってくる中で無責任にも自決(自殺)してしまったため、市街戦を最も忌避(きひ)していた陸軍の山下大將が、怒りと復讐心に燃えるフィリピン人たちの格好の標的となり、翌年(1946年)2月23日(土)に戦争犯罪人(戦犯)裁判の結果として処刑された。山下大將は市民の虐殺を指示も支持もしていなかったため、正義感に燃える米国の著名弁護士たちが山下の助命嘆願行為に出たが、米国最高裁(US Supreme Court)が却下した。また、米国陸軍の最高司令官にしてフィリピンの初代米人統治者(総督)アーサー・マッカーサー(Arthur MacArthur Jr., 1845-1912)中将の次男マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)元帥も復讐裁判を放置した。山下自身は裁判で「私は知らなかつた。しかし、私に責任が無いとは言はない。」と述べ、最終的には司令官としての責任を受け入れ、処刑された。

(外部サイト)

https://ja.wikipedia.org/wiki/マニラの戦い_(1945年)

https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Manila_(1945)

https://ja.wikipedia.org/wiki/マニラ大虐殺

https://en.wikipedia.org/wiki/Manila_massacre

http://malacanang.gov.ph/battle-of-manila/

http://malacanang.gov.ph/75083-briefer-massacres-in-the-battle-of-manila/

https://globalnation.inquirer.net/99054/february-1945-the-rape-of-manila

https://www.gmanetwork.com/news/lifestyle/artandculture/437283/recounting-the-horrors-of-the-battle-of-manila/story/

https://battleofmanila.org/IG_Report/htm/IG_333_5_04.htm

https://corregidor.org/archive/manila_scrapbook/html/ms_02_02_Joe_%20Romero_02.htm

https://www.youtube.com/watch?v=zMnc_GQihEA

32)同戦争中の昭和廿年=1945年2月23日(金)から25日(日)にかけて、小笠原諸島の父島に配備されていた大日本帝國陸海軍の混成団の一部将校らが米軍の捕虜を殺害して人食した。事件は戦後に極東軍事裁判(通称: 東京裁判)BC級戦犯の公判で明らかになった。父島では陸海軍の高級将校達の酒盛りが連日行なわれた。戦争末期の物資不足の中、内地でも戦地でも貴重品だった日本酒を連日酌()み交()わしていたが、つまみが無いことを残念がった。そこで大日本帝國陸軍の立花芳夫(たちばな よしお, 1890-1947)少將・司令官(後に中將)らは米軍捕虜8名の肉を食べて敵愾心高揚・士気高揚を図(はか)ろうと軍医に捕虜の解体を命じた。針金で大木に縛りつけた米軍捕虜に立花が、「日本刀の凄みを披露する絕好の機會ぢや。」と言って、試し切りの希望者を募って殺害。その後、遺体を解体させて宴会の「つまみ」にした。 後の日本兵の証言によると、米兵の手足の肉や内臓を立花が食べると、「これは美味(うま)い。お代わりだ。」とはしゃいでいたという。戦後の東京裁判で立花中將、的場末勇陸軍少佐、吉井靜雄海軍大佐、伊藤(詳細不明)、中島昇(所属不明)大尉の5名が絞首刑、終身刑5名(このうち、大日本帝國海軍の森國造(もり くにぞう, 1890-1949)中將=事件の時点では少將=は終身刑ながら別途オランダによる裁判で刑死)、有期刑15名となった。立花中將と的場少佐は処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり、激しく虐待され続けたという。なお、後の第41代米国大統領ジョージ・ブッシュ(George H. W. Bush, 1924-2018; 大統領在任1989-93)=通称 パパ・ブッシュ(Papa Bush)の搭乗していた飛行機も小笠原諸島の附近で日本軍に撃ち落されたが、ブッシュ氏本人は米海軍潜水艦フィンバック(USS Finback)に救助されて助かった。もしこの時点で日本軍の捕虜になっていたら、殺害されて人肉食に供されていた可能性が高い。故ブッシュ氏自身、大統領になって訪日するまでは、戦友の肉を喰らった日本人及び日本が赦(ゆる)せなかったと自伝の中で述べている。世に言う小笠原事件。

(参考図書)

秦郁彦(はた いくひこ, b.1932) 『昭和史の謎を追う〈下〉』(文藝春秋 文春文庫, 1999年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4167453053/

James Bradley, Flyboys: A True Story of Courage (Back Bay Books, 2004)

https://www.amazon.com/Flyboys-Story-Courage-James-Bradley/dp/0316159433/

(参考)外部サイト

http://www.powresearch.jp/jp/activities/workshop/chichijima.html

https://en.wikipedia.org/wiki/Chichijima_incident

https://ja.wikipedia.org/wiki/小笠原事件

アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは

文藝春秋 文春オンライン

小池新(こいけ あたらし, b.1947)共同通信元編集委員署名記事

2020年8月16日(月)

33)同戦争の末期に、従来までの戦争のルールをかなぐり捨てた自殺攻撃である神風特別攻撃隊(神風特攻隊)や人間魚雷囘天(回天)を実戦に投入することで、日本軍司令部は部下に自殺を強要(但し、表向きは「志願」の形を採る)。結果として米国による原爆使用の正当化への道筋をつけてしまうことになる。

たとえば富永恭次(とみなが きよぅじ; とみなが きょうじ, 1892-1960)陸軍中将は、日本統治下の比島(現在のフィリピン共和国)にて帝國陸軍の第四航空軍司令官として指揮に当たり、特攻隊には「最後の一機には、この富永が乗って体当たりする決心である。安んじて大任を果たしてもらいたい。」や「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する。」と訓示していたが、マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)米陸軍大将の率いる軍勢がいよいよ迫ってくると、無許可で航空機にて日本統治下の臺灣(台湾)へ逃亡。戦後間もない1946年に制作された日本映画社の映画『日本の悲劇 自由の声』の中で「比島戰があやしくなるや、いち早く内地へ逃げかへった富永恭次」( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a8/A_Japanese_Tragedy_1946_film_(19)_wmplayer_2013-04-09_19-33-00-479_R.jpg )と名指しで批判される。しかしながら、戦後十年近くはソ連によってシベリア抑留の身となり、苛酷な日々を送る。帰国後の1960年に当時としては長寿の満68歳で歿する。

菅原道大(すがはら みちおほ; すがわら みちおお, 1888-1983)陸軍中将は、陸軍特攻の中心だった第六航空軍の司令官だったが、特攻隊を次々と送り出し、エンジン不調などで戻ってくると「貴官らは、どうして、生きて帰ってきたか!」「死ぬことができないのは、特攻隊の名誉を穢(けが)すことだ!」と罵(ののし)ったいう。また、これから出撃する特攻隊員に対しては、「決してお前たちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はお前たちの後を追う。」と訓示するも、敗戦時に部下から航空機による自爆(私兵特攻)を勧められると、「自分は、これから後(あと)の始末が大事と思う。死ぬばかりが責任を果たすことにはならない。それよりは、後の始末を良くしたいと思う。」などと特攻出撃を拒否する。戦後は埼玉県飯能市の掘っ立て小屋に死ぬまで住み続ける。1983年に満95歳で天寿を全うする。

倉澤清忠(くらさは きよたゞ; くらさわ きよただ, 1917-2003)陸軍少佐は、特攻隊を次々と送り出し、機体不良で戻ってきた搭乗員を振武寮(在福岡縣福岡市)に監禁しては、「死ねない樣な意気地(いくぢ)なしは特攻隊の面(つら)汚しだ。國賊(こくぞく)だ!」と罵倒(ばとう)し、竹刀(しない)で殴打しまくった。悔しさのあまり自殺した隊員もいるという。戦後は元特攻隊員や遺族からの報復を恐れて80歳まで護身用の拳銃(非合法に所持)と軍刀(非合法に所持)を手放せなかったという。晩年には拳銃や軍刀を手離すことを決心し、自ら神奈川県警保谷警察署に届け出るも警察には、「敗戦時に父に預けたものが遺品の中から偶然出てきた。」と虚偽の説明をし、銃砲刀剣類所持等取締法の容疑者として取り調べを受けたが、最終的に訴追されることはなかったという(林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』東方出版, 2007年)。2003年に満83歳の天寿を全うする。

黒島亀人(くろしま かめと, 1893-1965)海軍少将は、日本の敗色が濃厚となる1944年に自爆兵器である人間魚雷「囘天(くゎいてん)」を立案。「必ず脱出装置を付けます。」と嘘をついて海軍上層部の認可を得たという。敗戦時に満55歳で自決した宇垣纒(うがき まとめ, 1890-1945)海軍中将が認(したた)めた陣中日記『戦藻録』(原書房, 1996年)の貴重な手稿を「東京裁判(極東国際軍事裁判)に証人として出廷するため」(実際には出廷していない)として宇垣遺族から借り出し、自身に都合の悪い部分(1942年11月から1943年2月頃までの日記)を破棄。これによって貴重な資料の一部が永久に失われる。戦後は顕微鏡を扱う会社社長として何不自由ない暮らしを送る。当時としては長寿の満72歳で歿する。

大田正一(おほた しやういち; おおた しょういち, 1912-94)海軍少尉(敗戦直後に大尉)は、人間爆弾飛行機「櫻花(あうか; おうか)」の発案者。「自分が乗っていく。」「私が乗っていきます。」と海軍上層部に懇願して開発させたが、自身は「適性なし」として搭乗しなかった。搭乗員の人命を軽視する発言のため、報復を恐れ、敗戦直後の1945年8月18日(土)に零式練習戦闘機に乗り込んで遁走(とんそう)。「青木薫(あおき かおる)」の偽名を名乗り、当時国交の無かったソ連や中国と結ぶ密輸事業で稼いだ後、今度は「横山道雄(よこやま みちお)」の偽名を名乗って大阪府大阪市内で家庭を持ち、二人の子供を設けるも、無戸籍のため職を転々とした。1994年に満82歳の天寿を全うしたが、墓石には妻の姓のみ刻まれており、大田自身の名は偽名を含めて一切刻まれていないという。

34)同戦争の末期の昭和廿年=1945年6月に沖縄を捨て駒にして、本土戦を食い止める。沖縄県の一般市民には米兵に捕まる前の自決(自殺)を強要する(否定説もあり)。戦後は米軍基地の負担を沖縄県に押し付けたまま今日に至る。

35)同戦争末期の昭和廿年=1945年5月、撃墜で捕らえられた米陸軍航空隊B-29の搭乗員12名のうち8名が裁判を経ずして死刑宣告を受け、九州帝國大學(現在の国立大学法人九州大学)で生体解剖が1945年5月17日(木)から6月2日(土)にかけて行なわれた。企画者の病院詰見習士官小森卓軍医はその後の空襲で死亡し、石山福二郎主任外科部長(教授)は終戦後に獄中で自殺したため、1948年8月に横浜軍事法廷で首謀者5名(陸軍軍人2名と九大教員3名)が絞首刑を宣告され、 立ち会った医師18人が有罪となったが、1950年代初頭に恩赦(おんしゃ)で釈放された。この事件の直前に九州では米軍戦闘機が走行中の蒸気機関車の客車に向けて、まるでゲーム感覚のように機銃掃射し、日本民間人多数を殺戮する事件が起きていたため、米軍航空隊員への憎悪が最高峰に達していた。

(参考コラム)

「眼球取り出すため頭を押さえ…」戦争末期の生体解剖事件 立ち会った医師を生涯苦しめた“傷”【福岡発】

FNNプライムオンライン

2021年8月21日(土)

https://www.fnn.jp/articles/-/224768

https://news.yahoo.co.jp/articles/e4cd13831d43d3d956a38869bc4df5f11b6bd0e6

https://news.yahoo.co.jp/articles/e4cd13831d43d3d956a38869bc4df5f11b6bd0e6/comments

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/九州大学生体解剖事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争犯罪一覧

(参考図書)

上坂冬子(かみさか ふゆこ, 1930-2009) 『生体解剖 九州大学医学部事件』(毎日新聞社, 1979年 & 1980年; 中央公論社 中公文庫 M168-2, 1982年)絶版ながら本学図書館で所蔵

東野利夫(とうの としお, b.1926) 『汚名「九大生体解剖事件」の真相』(文藝春秋 文春文庫 376-1, 1985年)絶版ながら各地の公立図書館で所蔵

36)同戦争末期の昭和廿年=1945年7月、ビルマ(現ミャンマー)の南東部モールメン地方のカラゴン村(Kalagan: 当時の人口千人弱)で、日本陸軍第33師団歩兵第215連隊第3大隊が、村民の男性174人、女性195人(または196人)、子供266人(ま たは267人)の計637人を英軍への協力容疑で拷問尋問した上で殺害。村長の妻を含む約10人の女性を拉致して「慰安婦」なる性奴隷(sex slaves)にする。村長の妻は後に日本軍によって殺害される。世に言う「カラゴン事件」。日本敗戦後の翌年(1946年)3月から4月にかけて英領ビルマの都ラングーン(現ヤンゴン)の軍事法廷で戦争犯罪人裁判が開かれ、第3大隊の大隊長が絞首刑、実際の処刑にあたった3中隊の隊長3名が銃殺刑、大隊副官と連絡将校、村外で警備にあたっていた中隊長の3名が有期刑、殺害に関与しなかったと認定された軍医1名が無罪となった。憲兵関係者は、殺害には関係しなかったとして虐待の容疑のみを問われ、憲兵大尉ら3名が無罪、3名が5年から7年の有期刑となった。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/カラゴン事件

(参考文献)

林博史(はやし ひろふみ, b.1955) 『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』 (岩波書店, 1998年; 岩波書店 岩波人文書セレクション, 2014年)

岩根承成(いわね よしなり or しょうせい, b.1941) 「BC級戦犯裁判にみるビルマ・カラゴン村事件―裁かれた高崎215連隊―」、『共愛学園前橋国際大学論集』第7号(共愛学園前橋国際大学, 2007年3月)所収

https://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-07/iwane.pdf (リンク切れ)

37)同戦争末期の昭和廿年=1945年8月8日(水) 24:00、または同9日(木) 0:00、日本の傀儡(かいらい)国家(puppet state)だった滿洲帝國(現在は中共支配下の人民共和国東北部)に突如雪崩(なだれ)れ込んで来たソ連軍を迎え撃つ筈(はず)の關東軍(くゎんとぅぐん; 英称 Kwantung Army)という名の日本陸軍は、完全に劣勢に立たされ、もはや為(な)す術(すべ)も無く、後退を余儀なくされながら戦闘を継続した。ところが軍上層部は家族と共に貴重な航空機を使っていち早く逃走し、自分たちだけで安全な日本の本土に帰還した。まさにノブレス・オブリージュ(Noblesse oblige: フランス語で「高貴な者には責務が伴う」の意)の逆を行く無責任体質、同胞への裏切り行為であった。後(あと)に残された日本人たちはソ連軍占領下で塗炭(とたん)の苦しみを味わった。逃避行の邪魔になる赤子を自分の手で殺(あや)める母親や、中国人家庭に子供を託す者などが続出し、戦後の中国残留孤児問題に発展した。ソ連軍に見つかった日本人女性は老若(ろうにゃく)を問わず野獣のようなソ連兵たちの性欲処理道具として輪姦(gang rape)された。ソ連軍は同年春にドイツでやったことを滿洲で日本人に対しても実行したわけである。そしてソ連兵を案内したのは朝鮮人たちだった。強姦されて着の身着の儘(まま)生きて日本に辿(たど)り着いた日本女性たちは、着いた先の博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられた二日市保養所で堕胎手術が施(ほどこ)された。性病に感染した女性たちも保養所で匿(かくま)い、恢復(かいふく)するまで治療が行なわれた。堕胎は当時違法だったが、事情が事情なだけに当局も黙認した。一方、ソ連軍に捕らえられた日本人男性たちはソ連領シベリアへ拉致(らち)・強制連行され、最長で十一年間の国際条約違反の強制奴隷労働に従事させられた。因果應報と言ってしまえばそれまでだが、日本軍が1942年2月から’45年8月にかけて三年半もの間、米英豪加それにNZなどの捕虜に対して課した国際条約違反の奴隷労働(上記22番参照)を髣髴(ほうふつ)とさせる所業だった。しかしシベリアでの日本人の死亡率が約10%だったことに比べ、東南アジアの占領地や日本領台湾や日本本土での連合軍捕虜の死亡率が約28.5%という異常に高い数値(これも上記22番参照)だったことは、日本の歴史上の大きな汚点である。

(参考)外部サイト

封印された引揚女性の慟哭 「二日市保養所」70年目の記録

『月刊正論』8月号

元毎日新聞ソウル特派員 下川正晴(しもかわ まさはる, b.1949)記者署名記事

2016年7月15日(金)

https://seiron-sankei.com/9866

「二日市保養所」の悲劇を語り継げ~引揚げ女性への性暴行と中絶

Net IB News

元毎日新聞ソウル特派員 下川正晴(しもかわ まさはる, b.1949)記者署名記事

2016年12月7日(水)

https://www.data-max.co.jp/article/14330

ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白

満州・黒川開拓団「乙女の碑」は訴える【前編】

現代ビジネス

ノンフィクション作家 平井美帆(ひらい みほ, b.1971)

2017年8月23日(水)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608?page=4

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608?page=5

小見出し1: 託された詩

小見出し2: ソ連の侵攻、集団自決

小見出し3: ベニヤ板づくりの部屋で

小見出し4: 「独身のあんたらだけ頼む」

小見出し5: 引き揚げ後も続く苦しみ

小見出し6: ベルトを外す金属音がトラウマに

あの地獄を忘れられない…満州で「性接待」を命じられた女たちの嘆き

~開拓団「乙女の碑」は訴える【後編】

現代ビジネス

ノンフィクション作家 平井美帆(ひらい みほ, b.1971)

2017年8月24日(木)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52609

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52609?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52609?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52609?page=4

小見出し1: 口を閉ざす人々

小見出し2: 姉妹のきずな

小見出し3: 「途中で死ねばよかった」

小見出し4: どうしても納得できないこと

ソ連兵への“性接待” 73年間語られなかった乙女の犠牲 岐阜・白川町黒川地区

中京テレビ

報道局・遊軍

2018年12月6日(木)

https://www2.ctv.co.jp/news/2018/12/06/33084/

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(1)ソ連将校への見返り、未婚女性に「身預けて」

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7600.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(2)開拓女塾でたたき込まれた人生観

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7601.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(3)団幹部「みんなの将来は必ず責任を持つ」

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7602.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(4)病気や妊娠防ぐためうがい薬を消毒液に

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7603.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(5)中国人への「接待」団員は私を売ったんだ

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7604.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(6)引き揚げ時、「船渡す代わり」中国兵が要求

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7605.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(7)「将来を保障」団幹部ら約束果たさず

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7606.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(8)建立巡り対立、未完の「乙女の碑」

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7607.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(9)当時の大人たちの業を背負う

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7608.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(10)「接待」を報じた雑誌、関係者が買い占め

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7609.html

封印された記憶

岐阜・満州黒川開拓団の悲劇

(11)過去と向き合い「接待」を歴史の一部に

岐阜新聞

2019年8月21日(水)

https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/tokusyu/kurokawa/201001-7610.html

662人を日本に帰すため、ソ連兵の性的暴行に耐えた未婚女性15人の苦しみ

しかも帰国後は中傷と差別が横行

プレジデント・オンライン

作家 五木寛之(いつき ひろゆき, b.1932)署名コラム

2020年8月9日(日)

https://president.jp/articles/-/37750

https://president.jp/articles/-/37750?page=2

https://president.jp/articles/-/37750?page=3

https://president.jp/articles/-/37750?page=4

https://news.yahoo.co.jp/articles/d19fa52a14188814734c2add8f86b06b8491316a (リンク切れ)

小見出し1: 敗戦の混乱時、日本人女性が味わった性暴力の悲劇

小見出し2: ソ連軍の要求は「若い女性」の接待役だった

小見出し3: 「このままでは集団自決しかない」

小見出し4: べニア板張りの「接待場」で泣き叫ぶ女性たち

小見出し5: 帰国後に向けられた中傷、差別的な言葉

小見出し6: ようやく語られ始めた忌まわしい戦争の記憶

小見出し7: 無名の「乙女の碑」、記憶を未来に語り継げるのか

【戦後75年】秘密の中絶施設、二日市保養所(福岡県筑紫野市)

産經新聞

2020年8月12日(水)

https://www.sankei.com/region/news/200812/rgn2008120018-n1.html

https://news.yahoo.co.jp/articles/9e8521a779fffcb7e33c5f67da7b4385304366a6 (リンク切れ)

小見出し1: 引き揚げ女性襲う絶望 暴行、望まぬ妊娠に救いの手

小見出し2: 郷里を前に自殺

小見出し3: 400~500人を手術」

小見出し4: 人道行為伝える

【75年目の告白】岐阜・黒川開拓団 満州で性的な接待を強いられた女性たち「歴史の渦の中で引き回され、きょうまで生きるとは」

中京テレビ

取材: 加藤裕之(かとう ひろゆき)記者

2020年12月21日(月)

https://gogotamu2019.blog.fc2.com/blog-entry-18890.html

https://news.yahoo.co.jp/articles/1891bcd748733cc8aba27189bd1bc056b287399c (リンク切れ)

小見出し1: 開拓団として満州へ 敗戦で全てが変わった

小見出し2: 「体を張って頼む」強いられた性的な接待

小見出し3: 戦後75年目、始めての告白「銃でつつかれ、4人並べて強姦されたことも」

小見出し4: 妊娠・性病を防ぐため、手当てをした女性たち

小見出し5: 証言“性的な接待は繰り返された” 14歳少女まで

小見出し6: “戦争の深い傷跡” それでも「生きていかなきゃならん」

小見出し7: 連載「75年目の告白」

【75年目の告白】満州・性的な接待を強いられた女性たち “覚悟の告白”で“タブー”打ち破る「しゃべって残していくのが、人間の社会の歴史」

中京テレビ

取材: 加藤裕之(かとう ひろゆき)記者

2020年12月22日(火)

https://news.yahoo.co.jp/articles/89bde67c25214682bb83f1b61b3dbfe2a75c8c52

https://news.yahoo.co.jp/articles/89bde67c25214682bb83f1b61b3dbfe2a75c8c52?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/89bde67c25214682bb83f1b61b3dbfe2a75c8c52?page=3

https://news.yahoo.co.jp/articles/89bde67c25214682bb83f1b61b3dbfe2a75c8c52?page=4

https://news.yahoo.co.jp/articles/89bde67c25214682bb83f1b61b3dbfe2a75c8c52/comments

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/1891bcd748733cc8aba27189bd1bc056b287399c

小見出し1: 満州へ渡った黒川開拓団 敗戦で全てが変わった

小見出し2: 女性たちの犠牲 感謝も“にタブー”に

小見出し3: “タブー”を破る告白 しかし“燃やそう”

小見出し4: 公の場での、突然の告白

小見出し5: 添えられた思い「覚えていて欲しい」

小見出し6: 連載「75年目の告白」

帰国のための性接待、守った自負と忘れぬ傷 開拓団参加の96歳

毎日新聞

東京学芸大学在学中インターン記者 中尾聖河(なかお せいか, 生年不詳)

2021年7月28日(水)

https://mainichi.jp/articles/20210727/k00/00m/040/283000c

https://news.yahoo.co.jp/articles/e43d52ed851fab728399d7f44aa2ef74a7846bed

https://news.yahoo.co.jp/articles/e43d52ed851fab728399d7f44aa2ef74a7846bed/comments

知られざる満州の悲劇「葛根廟事件」…壕に入りソ連軍が発砲、母親がつぶやいた「どうしようかね」

讀賣新聞

2021年8月2日(月)

https://www.yomiuri.co.jp/national/20210802-OYT1T50166/

https://www.yomiuri.co.jp/national/20210802-OYT1T50166/2/

https://news.yahoo.co.jp/articles/69fc4fbcd91f3aa6972ae030231d2b7f758d3048

https://news.yahoo.co.jp/articles/69fc4fbcd91f3aa6972ae030231d2b7f758d3048?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/69fc4fbcd91f3aa6972ae030231d2b7f758d3048/comments

38)昭和廿年=1945年8月21日(火)、翌月(同年9月)に日本に進駐してくることになっている米兵による性犯罪防止のため、日本国政府自らが「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性を募集」と音頭をとって、特殊慰安施設協會(RAA: Recreation and Amusement Association)という名の慰安所を組織。内務省(現法務省)、外務省、大蔵省(現財務省)、運輸省(現国土交通省)、東京都、警視庁に飲食業と花柳界が協力。つい一週間前までは「鬼畜米英」などと呼んでいた旧敵国の兵隊に向けて大和撫子(やまと なでしこ)の肉体を提供する組織であった。翌日(8月22日(水))の朝刊には次のような広告が出た。「新日本女性に告ぐ! 戰後処理の國家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に參加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧當方支給。」と。この売春施設の目的は、米軍人・米兵らのための性の捌()け口を設けることによって、占領軍が良家の子女に対する強姦などの性犯罪を起こさないようにするために、庶民・貧民女性による「性の防波堤」を築くための物であった。終戦直後の混乱期で生活物資が不足していたにも拘(かか)わらず、建設資材や布団や衣服、 テーブルや茶碗などの生活什器(せいかつ じゅうき)など、それに約100万ダースのコンドームが用意された。

(参考図書)

岩永文夫(いわなが ふみお, b.1948) 『フーゾク進化論』(平凡社新書, 2009年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4582854567/

39)韓国の独裁者、李承晩(り しょうばん; イ・スンマン, 1875-1965; ラテン文字表記 Yi Sungman; 英名 Syngman Rhee; 大統領在任1948-60)が昭和廿七年=1952年1月18日(金)、日本海(韓国では「日本」の名称を嫌って「東海; 동해; Donghae; 英称 East Sea」と呼ぶ)と東シナ海に「李承晩ライン」(the Syngman Rhee line)なる韓国側水域線を設定することを一方的に宣言。それまで日本漁船の活動可能領域として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)が定めていた「マッカーサー・ライン」(the McArthur line)が来(きた)る日本独立(昭和廿七年=1952年4月28日(月))によって廃止される直前に、韓国が島根県の竹島(国際名称 Liancourt Rocks; 韓国名 獨島; 독도; Dokdo)を自国側に取り込んで盗み取る形で勝手に公海上に引いた境界線だった。前年の1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約で「竹島は日本領」と決定していたことを無視して韓国は竹島を不法占拠。1953年1月12日(月)、李大統領は「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示したため、「韓国の海域を侵犯した」「李ライン侵犯だ」という不当な理由で計328隻の日本漁船が拿捕(だほ)され、計3,929人もの日本人漁民が韓国当局に強制連行された。1953年2月27日(金)、アメリカが韓国の抗議を受け、自国軍の演習地から島根県の竹島周辺の海域を除くと発表したのをいいことに、同年(1953年)4月20日(月)、韓国の「獨島義勇守備隊」が島根県の竹島に不法上陸して駐屯を開始。日本人漁民抑留者たちは六畳ほどの板の間に30人も押し込められ、僅(わず)かな食料と、 30人が桶(おけ)1杯の水で1日を過ごさねばならなかった。韓国官憲によって殴る蹴るの暴行を受けて負傷した者は44名に上り、それら44名中、5名が命を落とした。韓国海軍は日本国海上保安庁の巡視船16隻をも銃撃した。敗戦後間もない日本国は巡視船に機関砲を搭載することを禁じられていたのを知っての上での犯罪行為であった。 日本漁民の家族・遺族の中には生活苦や精神的負担で発狂する者や自殺する者も出た。不法侵略国家である韓国は今日(こんにち)に至るまで一連の犯罪行為について日本国に対して一言の謝罪も賠償も補償もしていないどころか、竹島の帰属について国際法廷で決着をつけることも拒否している。それにも拘(かか)わらず日本国政府は韓国による国家ぐるみの犯罪行為に対して何の抗議もせず、自国民を見殺しにしてきた。そして素()知らぬ顔で「日韓友好」を唱(とな)える売国行為に邁進(まいしん)している。

(参考図書)

日本戦略ブレイン(にほん せんりゃく ぶれいん)[編] 『誅韓論 悪の反日国家はこうやって潰せ!』(晋遊舎新書 S18, 2014年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4801800491/

和田秀樹(わだ ひでき, b.1960) 『精神科医が診た「外交敗戦」』(光文社, 2011年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4334976573/

牛辺さとし(うしべ さとし, 生年不詳) 『新版 朝鮮かるた 韓国ことわざ100選』(青林堂, 2015年9月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/479260530X/

月刊WiLL編集部(げっかん うぃる へんしゅうぶ)[編] 『竹島問題100問100答』(ワック WAC, 2015年10月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/B016PPEEB4/

KAZUYA(カズヤ)、本名 京本和也(きょうもと かずや, b.1988) 『超日本人の時代 お花畑からの脱却』(アイバス出版, 2015年11月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/486113613X/

MSムック編集部(えむえす むっく へんしゅうぶ)[編] 『世界大嫌韓時代』(メディアソフト MSムック, 2016年1月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4864258783/

(外部サイト)

島根県Web竹島問題研究所

「石見タイムズ」が語る李承晩ライン

https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima-042401.html

和田秀樹(わだ ひでき, b.1960)国際医療福祉大学大学院教授

オフィシャルブログ「テレビで言えないホントの話」

2013年10月27日(日) 8:20

「民主主義と多数決の原理」

https://ameblo.jp/wadahideki/archive2-201310.html

同ブログ

2012年9月17日(月) 9:37

「風化していない李承晩」

https://ameblo.jp/wadahideki/entry-11356817423.html

※上記の和田秀樹(わだ ひでき, b.1960)氏は同じ東京大学(東大)卒でありながら、「植民地支配反省の表現として、日本は独島(竹島の韓国名)を韓国領土として認める」という韓国側に立った特異な主張を展開する和田春樹(わだ はるき, b.1938)東京大学名誉教授とは無関係。

1956 High School Exchange Students in USA Debate on Prejudice (2): Philippines, Japan, UK, Indonesia

(1956年の米国テレビ番組: インドネシアと英国と日本とフィリピンの高校から来た交換留学生が人種偏見についてディベート)

https://www.youtube.com/watch?v=TsL3HYz_TFw (3:47-4:17 of 25:15: 日本人交換留学生の Noriko Konishi がこの問題に言及)

40)大東亞戰爭(アジア太平洋戦争, 1941-45年)末期の昭和廿年=1945 年3月9日(金)深夜から10日(土)未明にかけて東京都民十万人超を焼き殺した東京大空襲等で日本民間人の大量殺戮(さつりく)を計画立案して実行したことで「鬼畜ルメイ」の異名(いみょう)を取ったカーティス・ ルメイ(Curtis LeMay, 1906-90)米空軍大将に対して、戦後の航空自衛隊(米式綴りの英称 JASDF: Japan Air Self-Defense Force)創設の際の功績を讃え、1964年に日本国政府が外国人として破格の勲一等旭日大綬章を授与。無防備な女子供などの命よりも宗主国アメリカの殺人鬼に尻尾を振ってしまう日本国政府の奴隷根性の一例である。

41)1970年代から’80年代にかけて活発に行われていた北朝鮮工作員による日本人の誘拐(ゆうかい)・拉致(らち)を日本国政府は長期に亘(わた)り放置し、国民の生命と財産を守るという国家の仕事を放棄。また、日本を代表するマスコミである朝日新聞は、「ありえない事件であり、日本政府の捏造(ねつぞう)だ」などとして北朝鮮を擁護(ようご)した。

1977年9月19日(月)、東京都三鷹市役所で警備員をしていた当時52歳の久米裕(くめ ゆたか, 1925-歿年不詳)氏が能登半島の宇出津(うしつ)海岸の旅館から北朝鮮に拉致された事件では、石川県警察は在日朝鮮人の実行犯1名、李秋吉(Yi Chu-gil, 生歿年不詳)を外国人登録法違反で翌日(1977年9月20日(火))別件逮捕した。李容疑者は警察に次のように供述した。「北朝鮮工作員から「52~53歳(45~50歳ぐらいという説もある)の日本人男性で身寄りのない者を北朝鮮に拉致すること。頭の程度は問わない。戸籍謄本を取らせて9月19日夜、能登町宇出津海岸で待っている工作員に引き渡せ」と指令を受け、金に困っていた久米さんに近づき、密貿易を手伝わないかと騙(だま)して戸籍謄本を取らせて宇出津海岸の旅館まで連れて行き、昨夜、海岸で待っていた北朝鮮の工作員に久米さんを渡した。」と。アジトに乗り込んで書類を押収した石川県警察警備部は乱数表から暗号解読に成功し、事件から二年後の1979年には警察庁長官賞を受賞している。警視庁公安部と石川県警察は主犯格の金世鎬(Kim Se-ho, 生歿年不詳)を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求した。日本国政府は今回の拉致事件が北朝鮮の工作員の仕業である事実を摑(つか)んだが、日本國憲法前文の後半部「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは,平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 」(英文 We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world. We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth. We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want. We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations. We, the Japanese people, pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.)という縛りの所為(せい)で、国家を相手とする犯罪追及には及び腰になり、せっかく確保した実行犯を起訴猶予処分として、しかも外国人登録法違反でも不起訴処分として釈放した。李は日本への帰化を許され、帰化日本人大山秋吉(おおやま あきよし, 生歿年不詳)として都内で自営業を営んだという。これに味を占めた北朝鮮は日本人の拉致作戦を継続し、当時13歳の女子中学生だった横田めぐみ(よこた めぐみ, b.1964)女史らが拉致されることとなる。

ところが2001年5月1日(火)に北朝鮮の独裁者金正日(김정일; Kim Jong-il, 1942-2011; 第2代最高指導者在任1994-2011)の長男である金正男(김정남; Kim Jong-nam, 1970 or ’71 - 2017)が新東京国際空港(現成田国際空港)で東京入国管理局成田空港支局に身柄を拘束される事件が発生したことで情勢は一変した。金正男は女性2人(うち1人は内縁の妻と目される)と実子1人を連れており、ドミニカ共和国の偽造パスポートを使用して中国人名の胖熊(Pàng Xióng パン・シオン: 「太った熊」の意)という偽名で入国を図(はか)ったところ偽装がバレて拘束・収容された。これは事前に英国の対外諜報機関 MI6 (エマイシックス)から日本の官憲に情報が齎(もたら)され日英連係プレイが功を奏したのだった。捕まった当人は密入国の目的を「東京ディズニーランド(TDL: Tokyo Disneyland)を訪れたかっただけ」としたが、闇資金の回収という目的があったとする説も存在する。二日後の同年5月3日(木・祝)に「金正男と見られる男性とその妻子の身柄拘束」という大ニュースがマスコミ各社によって報道された。日本国政府小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう, b.1942; 首相在任2001-06)内閣は、この事件が日朝間の外交問題に発展することと、当時北朝鮮を訪れていた日本人観光客の人命を危険に晒(さら)すことを恐れるあまり、政治的判断を余儀(よぎ)なくされ、金正男の一行に超法規的な強制国外退去処分を下した。その翌日(5月4日(金・祝))、二階席を貸し切り状態にした全日本空輸(ANA: All Nippon Airways) NH905便のボーイング(Boeing)747-400型機で金正男の一行は中華人民共和国の首都北京市に向けて出国した。

日本側が金正男に対して危害を加えず穏便(おんびん)な幕引きを図ったことで、北朝鮮の独裁者金正日は大いに感謝し、日本側に大きな借りを作ってしまったことを認め、2002年9月17日(火)に初めて実現した小泉純一郎首相と安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-20)内閣官房副長官による歴史的な訪朝に際し、金正日は遂(つい)に「我が共和国(北朝鮮)は日本人を拉致していた」という事実を正式に認めるに至った。そして北朝鮮に融和的な朝日新聞等による日本の売国マスコミの嘘(ウソ)も露(あら)わになった。日朝首脳会談の翌月の2002年10月15日(火)には拉致被害者のうち5名の帰国が実現した。

なお、金正男は十年後の2011年12月17日(土)に父親の金正日が歿したあと後継者にはしてもらえず、中華人民共和國澳門(Macau)特別行政區で主に暮らしていた。ところが2017年2月13日(月)にマレーシアのクアラルンプール国際空港(KUL; KLIA; Kuala Lumpur International Airport)で国際線に搭乗しようとしたところ、腹違いの末弟で現独裁者の金正恩(김정은; Kim Jong-un, b.1984; 第3代最高指導者在任2011-)の差し向けた北朝鮮工作員の下請けとして「日本のおバカなドッキリカメラのテレビ番組の撮影のため」と騙されて雇われた2人の東南アジア女(インドネシア人とベトナム人)に危害を加えられ、搬送先の現地病院で死亡が確認された。下手人(げしゅにん)となった2人とそれを操った北朝鮮人の化学者は現地警察に逮捕されたが、その上役として関わった現地北朝鮮大使館の外交官を含む5人の男たちは出国していて、その足取りは攫(つか)めていない。当初は女たちが毒針を使ったと報道されていたが、同年(2017年)2月24日(金)朝には現地警察の暫定分析結果として、猛毒のVXガスの液体が使われた可能性が高いことが報道された。しかしながら、VXガスで金正男のみを“殺害”し、周囲の人間(航空会社チェックインカウンター職員や他の旅客たち)に被害を出していないこと、犯人とされる女2人が同空港内公衆トイレの洗面台で手を水洗いしただけでピンピンしているという事実から、軍事専門家ならずとも「VXガスの使用」とやらが最初から茶番劇であることは明白である。液体VXガスとされた黒いドロドロの液体は、墨汁、黒絵具、イカ墨ソース、或(ある)いはそれらの混合物であろう。そして三年後の2020年、世界中が新型コロナウイルス(novel coronavirus; new coronavirus; WHO国際名称 Covid-19)騒動に明け暮れている中で犯人とされた女2人はひっそりとマレーシア当局から釈放されている。これが何を意味するかというと、現独裁者の金正恩と腹違いの兄の金正男は裏取引が出来ていて、弟に「暫(しばら)く死んだことにして隠れていてくれ」と頼まれた兄が茶番劇に応じただけのことである。

(外部サイト)

「北朝鮮の日本人拉致はない」 情報工作に加担したマスコミ

Zakzak by 夕刊フジ

2016年8月1日(月)

https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160801/dms1608011820006-n1.htm

https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160801/dms1608011820006-n2.htm

https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160801/dms1608011820006-n3.htm

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)がまとめた北朝鮮の海外での諜報活動

2017年2月14日(火)

https://www.bbc.com/news/world-asia-38974455

(参考図書)

ギルバート(Kent Gilbert, b.1952) 『米国人弁護士だから見抜けた日本国憲法の正体』 (株式会社KADOKAWA 角川新書, 2017年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4040821637/

【削除動画】アシタノワダイ 実話外国人がアナタとスリ替わる背乗りの恐怖とは?マンガで分かる

https://www.youtube.com/watch?v=Utt0jaSN_RY

イギリスの歴史的悪行39例

1)遅れて5世紀中盤にイングランドに侵入したアングロ・サクソン人が先住のケルト人を北へ西へと追い立てる。

2)1066年にイングランドの王朝の乗っ取りに成功したウィリアム征服王(William I or William the Conqueror, c.1028-87; 在位1066-87)がイングランド北部を服従させるために村々を焼き払い、村人を虐殺(1069-70)。 生存者が生活苦に喘(あえ)いで死ぬようにと、穀物や家畜も破壊し、作物が育たぬように土地に塩を撒いた。結果として約10万人が死んだとされる。これを世に「北部侵略(the Harrying of the North)」または「北部掠奪(the Harrowing of the North)」と呼ぶ。

(外部サイト)

https://en.wikipedia.org/wiki/Harrowing_of_the_north

3)1144 年、イングランド東部のノリッヂ市(Norwich)でユダヤ人が地元の子供を捕えて復活祭の前の聖金曜日にキリストの磔にならって殺害した、との容疑を かけられ、しかもこの儀式は、毎年キリスト教徒の子供を1人犠牲にしなければならないという、世界中のユダヤ人の間の約束事に基づいて行われたとのデマが広まったことで、地元住民によりユダヤ人の大量虐殺事件が発生。

4)1190年、イングランド北部のヨーク市(York)で反ユダヤ主義の思想に扇動された市民たちが、約150人のユダヤ人を虐殺。

5)1255年、イングランド北東部のリンカン市(Lincoln)で反ユダヤ主義の思想に扇動された市民たちによるユダヤ人虐殺事件が発生。

6)1575年、北アイルランドのラスリン島(Rathlin Island)を攻略し、相手方が降伏したにもかかわらず、敵兵は城主とその一家と人質1名を除いて捕虜にせず皆殺し。犠牲者の内訳は約200人の守備兵と約400人の民間人(女性と子供を含む)。

7)1577年、アイルランド島東部のマラマースト(Mullaghmast)で有力な家の者たち100名以上(一説には約400名)を召集して虐殺。

8)1580年、アイルランド島南西部のスメリック(Smerwick)で、スペイン人とイタリア人から成るローマ法王部隊を降伏させ、捕虜にも取らず兵士約600人を虐殺。士官クラスの命は助けてやったとされるが、異説あり。士官についてはカトリックの信仰を捨てることを強要し、拒否した者の手足を切断し、一日と一晩の 間、苦しませた挙句に絞首したとする説がアイルランド人から出されているが、真偽の程は不明。

9)女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)は、新大陸(南北アメリカ大陸)から略奪した財宝を積んだスペイン船を襲撃して宝を横取りするライセンスを私掠船(しりゃくせん privateers = 事実上の海賊船 pirate ships)に与え、豪商や貴族に出資させ、現在の感覚で言う「ベンチャー企業への億単位の投資」のような経済活動を奨励した。これは同時にスペイン船の乗組員の皆殺しをも意味した

10)十六世紀中盤のエリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)の治世の初期に、ポルトガルに倣(なら)ってアフリカに進出し、地元の王族や首長から黒人奴隷を買い集め、カリブ海の砂糖黍(サトウキビ)農園の白人農園主に売り渡すという奴隷貿易を始め、搾取・虐殺・差別の限りを尽くす。スペイン、ポルトガル、オランダが衰退した後で世界の覇権(はけん)を握ったイギリスが十六世紀中盤から十九世紀初頭の1807年に廃止するまでの約二世紀半もの間、奴隷制を維持。イギリス本国と西アフリカとカリブ海の西インド諸島、或(ある)いは北米大陸を拠点とする三角貿易(triangular trade)で 巨万の富を築く。ヨーロッパからアフリカへはガラス製品、銃、繊維製品を運び、荷を降ろして空いた船室に、奴隷狩りで捕らえられたアフリカ黒人たちが「黒い積荷」として載せられた。西インド諸島や北米に向かうに際して、黒人奴隷たちは頭髪を剃()られ、所有者や会社の焼印(brand)が体に捺()され、全裸で足首には鎖がつけられた。40日から70日を要した船旅では狭い船室に奴隷たちが詰め込まれた。不衛生な環境のために病気に罹(かか)った奴隷たちは、海に捨てられた。1200万から2000万人と見積もられる新世界(北米や西インド諸島)に着いた奴隷たちは、その場で砂糖黍(サトウキビ)や綿花の大規模農園(plantation)に売られ、空いた船室には砂糖や綿が「白い積荷」として載せられた。こうして政治的に独立した諸国から利益を上げるビジネスモデルが確立された。しかし十九世紀初頭に奴隷貿易禁止の機運の高まりを受けると、人道的な見地というよりも主に経済的な見地からイギリスは1807年に世界に先駆けてアフリカ人奴隷貿易禁止を打ち出す。この事実を後世に堂々と自慢。

(参考)外部サイト

ジャマイカ、英国に対し奴隷制への賠償金の支払い求める ー「ブラック・ライブズ・マター」デモから1年

ヤフーニュース(Yahoo! Japan News)個人

在英ジャーナリスト 小林恭子(こばやし ぎんこ, b.1958)署名コラム

2021年7月14日(水)

https://news.yahoo.co.jp/byline/kobayashiginko/20210714-00247906

11)1620年11月にメイフラワー号(the Mayflower)で米国北東部ニューイングランドに入殖してきたイングランド人ピューリタン信徒たち(Purintans)102名は、慣れない環境での寒さや飢えなどで、その冬に約半数が死んだ。しかし翌年(1621年)は白人から誤って「インディアン(印度人)」と呼ばれた北米先住民のワンパノアグ族(Wampanoag people)にトウモロコシを分けてもらって命をつなぎ、農耕や漁業の技術を伝授してもらうことで1621年から翌’22年にかけて冬の数ヶ月間を乗り切った。しかしピューリタン信徒たちが先住民ワンパノアグ族に直接感謝したのは三日間の祝宴の中だけで、あとはキリスト教のGodに感謝するのみだった。これが毎年11月第四木曜日から週末にかけて最低でも4日間に亘(わた)って(州によっては5連休で)祝われるアメリカの感謝祭(Thanksgiving)の始まりとされる。ところがピューリタン信徒たちは恩を仇(あだ)で返した。先住民女性や子供を奴隷として売りとばし、彼らの土地を奪い、未(いま)だに返していない。先住民は白人によって持ち込まれた疫病にも弱く、人口が激減した。

感謝の宴(うたげ)から半世紀が経過した1676年には白人たちから「フィリップ王(King Philip)」と呼ばれたメタコメット(Metacomet, 1639-76)酋長が、 白人の横暴に怒った部族の合議の結論として白人たちに戦(いくさ)を挑(いど)んだ。この戦いで先住民のニアンティック族(Niantic)、ペナクック 族(Pennacook)、ノーセット族(Nauset)、ケネベック族(Kennebec)、ピグワケット族(Pigwacket)、アロサグンタクック族(Arosaguntacook)もワンパノアグ族と同盟を結び参戦した。白人側も「敵の敵は味方」とばかりに、ワンパノアグ族らと敵対していたモヒカン族(Mohican)とモホーク族(Mohawk)を味方につけ、戦いを有利に進めた。結局、殆(ほとん)どのワンパノアグ族は白人入殖者に殺されたが、辛うじて約400名は生き延びた。酋長の妻と9才(8才とする資料もある)の息子は英領西インド諸島(West Indies)もしくは英領バミューダ諸島(Bermuda)に奴隷として売り飛ばされた。白人たちは酋長の遺体から首を刈り、首級(しゅきゅう)は鉾(ほこ: pike)の先に突き刺して白人のプリマス入殖地(Plymouth Colony)にその後二十年間も飾ったとされる。

時代が下って米国南北戦争(American Civil War, 1861-65)中の1863年にリンカン(Abraham Lincoln, 1809-65; 大統領在任1861-65)大統領が毎年11月最終木曜日を感謝祭の日に定めて全米の正式な祝日とした。しかしながら、更(さら)に時代が下って大恐慌(Great Depression, 1929-41)時代の1939年に景気対策として早めにお祝い気分を盛り上げるべく、フランクリン・ロウザヴェルト(FDR: Franklin D. Roosevelt, 1882-45; 大統領在任1933-45)大統領が最終の1つ前の木曜日(その年の場合は第四木曜日)に感謝祭を祝うよう大統領布告(a presidential declaration)を出した。当時の全米48州(当時はまだアラスカとハワイは正式な州に昇格していなかった)中、半分近い23州はロウザヴェルトの布告に従い11月23日(木)に祝ったが、22州は無視して従来通りに最終木曜の11月30日(木)に祝った。そして残り3州は決めかねて両方の木曜を祝日にし、2週連続で祝ってしまったという。1940年と1941年は11月最終木曜日が第四木曜日だったため、ロウザヴェルト大統領は第三木曜日に祝うよう大統領布告を出したが、上下両議会が1941年10月の時点でそれに反対し、伝統の通りに11月最終木曜日(1941年の場合は11月27日(木))を全米の祝日(a federal holiday)とする議決をするも、同年(1941年)12月に上院議会が修正案を出し、毎年11月第四木曜日を全米の祝日と定め、現在に至る。第四木曜日は多くの場合、最終木曜日となるが、最後から1つ前の木曜日になる年もあり、ロウザヴェルト大統領の顔を潰(つぶ)すことを避けた妥協案と見ることができる。

一方、メイフラワー号が上陸した11月21日はワンパノアグ族の末裔(まつえい)たちにとっては忌(いま)わしい日であるため、メイフラワー号上陸三百五十周年に当たる1970年11月以来、彼らは「全米哀悼の日(National Day of Mourning)」として抗議活動を行なっている。2020年には上陸四百周年となる

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/ワンパノアグ

https://en.wikipedia.org/wiki/Wampanoag_people

https://en.wikipedia.org/wiki/National_Day_of_Mourning_(United_States_protest)

12)1647-53年、クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)率いるイングランド議会派がアイルランド島を侵略し大量虐殺。アイルランド島南部のカッシェル(Cashel)の町をイングラ ンド議会派軍が攻め落とし、約600人の兵士と数百人の民間人を虐殺(1647年)。同島東部のドロヘダ(Drogheda; 資料によってはドロイーダ)の町をクロムウェル軍が攻め落とし、敗軍(イングランド王党派)の兵士、捕虜、アイルランドの民間人を合わせて3,000人近くを虐殺(1649)。その一ヶ月後には同島南東部のウェクスフオッド(Wexford)の町をクロムウェル軍が攻め落とし、敗軍(アイルランド・カトリック同盟軍とイングランド王党派)の兵士と捕虜を合わせた約2,000人と民間人約1,500人を虐殺し、町に火を放って破壊(1649年)。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/クロムウェルのアイルランド侵略

[関連コラム]

アイルランド遠征は神の正しい裁き――“虐殺者”クロムウェルが演説した「ダビデの歌」

『悪党たちの大英帝国』より#1

文春オンライン

君塚直隆(きみづか なおたか, b.1967)関東学院大学教授

2020年9月25日(金)

https://bunshun.jp/articles/-/40338

https://bunshun.jp/articles/-/40338?page=2

https://bunshun.jp/articles/-/40338?page=3

https://bunshun.jp/articles/-/40338?page=4

https://bunshun.jp/articles/comment/40338

https://news.yahoo.co.jp/articles/088dc8147490ef04fc3fcfba650885d5c4413f9f

https://news.yahoo.co.jp/articles/088dc8147490ef04fc3fcfba650885d5c4413f9f?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/088dc8147490ef04fc3fcfba650885d5c4413f9f?page=3

https://news.yahoo.co.jp/articles/088dc8147490ef04fc3fcfba650885d5c4413f9f?page=4

https://news.yahoo.co.jp/articles/088dc8147490ef04fc3fcfba650885d5c4413f9f/comments

13)産業革命に必要なランプの油を採るために世界中の鯨(クジラ)を乱獲。他に蘭仏米露も同罪。それでいながら二十世紀も後半になると、捕鯨国の日本やノルウェーを公然と非難。

14)1807年9月2日(水)~5日(土)、ナポレオン戦争(1803-15年)の一環として英国海軍(Royal Navy)が、14,000発を超える各種投射物を使用し、その内300発は燐(リン: phosphorus; 元素記号では P)を含み、水(water; 元素記号ではH2O)では鎮火できない新兵器コングリーヴ・ロケット弾(Congreve rocket)を用いて艦砲射撃を行ない、デンマーク王国の首都コペンハーゲン市街を焼打ち。市民の多くは事前に避難していて生命は助かったが、逃げ遅れた市民約二千人は命を落とした。近代市民社会を狙った史上初のテロ行為だとする歴史家もいる。この英国海軍による奇襲攻撃(preemptive strike)は、後の大日本帝國海軍が対ロシア太平洋艦隊の旅順口攻撃(1904年2月8日(月)夜)や、対アメリカ太平洋艦隊の真珠湾攻撃(現地時間 1941年12月7日(日)朝、日本時間では同月8日(月)未明)の際に模倣することになる。首都を焼き尽くされた苦い記憶がデンマーク政府や国民の脳裏に深く刻まれ、第二次世界大戦 (1939-45年)では強大な敵に抵抗するのを最初から諦(あきら)めて早々と降伏することになる。1940年4月9日(火)から’45年5月4日(金)までデンマーク王国の他の地域と同様に首都コペンハーゲン市はナチス・ドイツ占領軍の支配下に置かれた。

15) ナポレオン戦争(1803-15年)の最中の1812年、ポルトガルとの国境に近いスペインの城塞都市バダホス(Badajoz)に立て籠もったフランス軍をイギリスとポルトガルの連合軍が包囲し、3週間で陥落させる。勝った側の兵士たちは現地スペイン人の民家に押し入り、家にあった酒類を勝手に飲み干し、 窃盗や器物損壊を繰り広げた。挙句の果てには約72時間にも亘り、あらゆる年齢、あらゆる階層の一般市民約4千人が イギリス兵とポルトガル兵に虐殺された。強姦された女性も数知れず。スペイン貴族の姉妹が家族を殺され、家屋も破壊され、挙げ句には強姦される危険もあったため、駐留していた英軍司令官スミス(Sir Harry Smith, 1787-1860)のもとに庇護を求めた結果、当時14歳の妹の方がこの司令官とすぐに結婚したというレイディ・スミス(Lady Smith or Juana María de los Dolores de León Smith, 1798-1872)の逸話が美談として残る。

16)オーストラリアの先住民アボリジニを大量虐殺。彼らの土地を奪い、未だに返さず。

(参考図書)

清水馨八郎(しみず けいはちろう, 1919-2015)千葉大学名誉教授[著] 『侵略の世界史 この500年、白人は世界で何をしてきたか』(祥伝社, 1998年)に加えて、

平間洋一(ひらま よういち, b.1933)防衛大学校元教授[著] 『日露戦争が変えた世界史』(芙蓉書房出版, 2005年改訂新版)pp.23-24を下記に引用する。

[前略] 英国は、一七八八年に一一隻の船団に流刑囚一四七三名を乗せて、シドニーの近くのボタニー湾に送った。その後に続いた一般植民者も、本国では受け入れられない「ならず者」や「無法者」が多かった。これら入植者がレクリエーションとして、アボリジニを野獣や野良犬のように狩りの対象としたこともあり、最初の 船隊が来たときには数百万人いたのが現在では三〇万人にまで激減し[p.23/p.24]て いる。白豪主義(White Australia)政策が国是となり、「アボリジニ狩り」をしていたことを示すものとして、ニューサウスウェールズ州立図書館には、「今日の収穫二七匹」という記録がある。入植者にはアボリジニを殺害することへの罪の意識は全くなく、楽しいハンティングのようなものであった。しかしその後、「狩り」が 問題となると、ヒ素や水銀などを水飲み場に流し毒殺するなど、アボリジニ殲滅の方法は陰湿になっていった。

[改行・中略・改行] 一九三五年、国際連盟は原住民の虐殺や差別について、オーストラリア政府に釈明を求めた。しかし、オーストラリア政府はそもそもアボリジニを国民とみなしていなかったので、人口動態国勢調査対象からも外し続け、アボリジニを人口統計に入れたのは一九七六年の憲法改正以降であった。二〇〇〇年のシドニー・オリンピックの開会式では、アボリジニとの融和を演出しようとしたが、反発が強く一部が協力を拒否したため、白人がアボリジニに扮して友好和解を世界にア ピールするという演出をしたという(秦郁彦他編『世界戦争犯罪事典』)。

特に悲惨なのはタスマニア島の原住民で、当初は三万七〇〇〇人が住んでいたが、一八四七年には四四人となり、最後には絶滅してしまった(前掲『侵略の世界史』)。

17)ニュージーランドの先住民マオリを迫害。イギリスは勇猛果敢なマオリたちに手を焼き、1820-27年にかけて酋長たちを唆(そそのか)し、部族間の戦争を引き起こすことでマオリの力を弱体化することに成功。彼らの土地を奪い、大部分は未だに返さず。

18)南アジア全域(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ)と東南アジアの一部(マレーシア、シンガポール、パプア・ニューギニア、ビルマ=ミャン マー)とカリブ海の島々(ジャマイカ、ケイマン諸島、バハマ諸島、ヴァージン諸島、バミューダなど)と南太平洋の島々(フィジー、ナウル、クック諸島な ど)とアフリカ大陸の一部を殖民地にし、愚民化政策で搾取の限りを尽くす。東南アジアでは計算が得意な中国系住民を二等市民として優遇し、現地の土着民を三等市民の愚民として扱い、教育も施(ほどこ)さなかった。イギリスの殖民地支配は、別の殖民地人を外から連れてきて警察官や役人にし、彼らに行政の現場業務を任せる。こうすることでイギリスの白人、中間支配層、現地人の3層の身分が出来るが、現地人の為政者への批判や不満は中間支配層へ向かうため、イギリス白人への直接の恨みは育ちにくい。このため旧イギリス殖民地では旧中間支配層と土着の現地人との間の対立が起きやすい構造になっている。

19)十八世紀(1701-1800年)にヨーロッパの上流階級の間で喫茶の習慣が大流行し、イギリスは大量の茶葉を清国(大淸帝國)から輸入。イギリスは茶葉の代価として銀などの高級品を輸出するも大幅な貿易赤字に苦しむ。そこで茶葉の代金を麻薬の阿片(アヘン)で支払うことにする。具体的には、イギリスの東インド会社(EIC: East India Company, 1600-1874)のチャイナ部門を前身として、清国南部は廣州(Guangzhou)の英仏租借地沙面島(Shamian Island)に1832年に設立されたジャーディン・マセソン社(Jardine, Matheson & Company, or 怡和洋行; 現在のJardine Matheson Holdings Limited, or 怡和控股有限公司)が、英領印度(British India)で栽培した阿片を中国人に売り付けて麻薬中毒にし、暴利を貪(むさぼ)る。清国では阿片の輸入量が茶の輸出量を上回り経済危機に陥(おちい)る。そこで清の道光帝(Emperor Miánníng; the Dàoguāng Emperor, 1782-1850; 在位1820-50)が欽差大臣(きんさ だいじん: Imperial Commissioner)の林則徐(りん そくじょ; Lín Zéxú, 1785-1850)に命じて阿片の取締りを決行し、イギリスの貿易商から阿片を没収して処分。怒ったイギリスは英国海軍(Royal Navy)の軍艦を派遣し、清国の沿岸に艦砲射撃。戦争を仕掛けた側であるイギリスが近代的な装備に物を言わせて圧勝。世に言う「阿片戦争」(First Opium War, 1839 or 1840 - 42)。その後も1910年に阿片貿易を停止するまで、或(ある)いは1917年に絶対的に禁止されるまでイギリスはチャイナ(1912年までは大淸帝國、それ以降は中華民國)に阿片を輸出し続けた。

20)アイルランドを統治中の1845-52年にジャガイモ飢饉が起きても救済せず。非情にもアイルランド産の他の穀物を輸出に回す。英国政府の無為無策によって100万の餓死者と100万の国外移民を出した。それから一世紀半が経過した1997年5月31日(土)から6月1日(日)にかけてアイルランド共和国南西部のミルストリート(Millstreet)町で開かれた「大飢饉イベント(Great Famine Event)」の場で、当時英首相になったばかりのブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)氏の手紙がアイルランド人俳優によって朗読された。その文面は、「飢饉はアイルランドと英国の歴史の中で決定的な出来事でした。それは深い傷跡を残しました。百万人もの人々が当時世界一裕福で世界最強だった国の一地方で死なねばならなかったことは、今日(こんにち)それを省(かえり)みるにつけ今でも苦痛を齎(もたら)します。当時ロンドンに在()って国を統治していた者たちは人民の期待に背(そむ)いたのです。(The famine was a defining event in the history of Ireland and Britain. It has left deep scars. That one million people should have died in what was then part of the richest and most powerful nation in the world is something that still causes pain as we reflect on it today. Those who governed in London at the time failed their people.)」という実質的な謝罪だった。

(参考)外部サイト

https://www.independent.co.uk/news/blair-issues-apology-for-irish-potato-famine-1253790.html

21)英領印度のセポイの叛乱(Sepoy Mutiny, 1857-59)では、英国陸軍(British Army)は叛乱軍のインド人捕虜を大砲の砲口に縛りつけ、木製砲弾を発射して生きたまま体を四散させる見せしめの刑を執行。四半世紀後の1884年にロ シアの著名な戦争画家ヴェレシチャーギン(Васи́лий Васи́льевич Вереща́гин; Vasily Vasilyevich Vereshchagin, 1842-1904)が、その場面を恰(あたか)も見てきたかのように想像で描く。迫真に満ちた絵画ではあるが、英国陸軍の軍装が1880年代の物であり、1850年代の物ではないため、 記録としては信用できない。なお、ヴェレシチャーギン自身は日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)開戦二ヶ月後に、極東の旅順港(Port Arthur)で乗っていたロシア戦艦が日本海軍の仕掛けた機雷に触れて命を落とした。

(参考)外部サイト

https://en.wikipedia.org/wiki/Blowing_from_a_gun

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/be/Vereshchagin-Blowing_from_Guns_in_British_India.jpg

22)英国殖民地資本のジャーディン・マセソン社(Jardine, Matheson & Company; 怡和洋行; 現在の Jardine Matheson Holdings Limited; 怡和控股有限公司の前身)は阿片戦争(1839-42年)で獲得した香港に拠点を移し、その支店的な窓口を、開港して間もない1859年、長崎と橫濱(横浜)に開設する。長崎ではスコットランド人武器商人グラヴァー(Thomas Blake Glover, 1838-1911)の邸宅(現在の観光名所グラバー園)とその麓(ふもと)の香港上海銀行(HSBC: Hongkong Shanghai Banking Corporation)が、岩崎彌太郎(いわさき やたらう, 1835-85: 三菱財閥の開祖)や坂本龍馬(さかもと りょうま, 1836-67; 司馬遼太郎の小説では「竜馬」の表記)に資金提供して裏で操り、武器を売って日本に内戦(1868年の鳥羽・伏見の戦いや同年の会津戦争をはじめとした一連の戊辰戦争、1877年の西南戦争)を起こすことで巨万の富を得る。単なる脱藩浪士(現在の感覚では亡命者にして無国籍者)である坂本龍馬が亀山社中という日本人初の商社を起業して武器売買できたのは、武器商人グラヴァーというスポンサーが存在したからである。グラヴァーは欧州のロンドン、パリ、フランクフルト、ナポリを拠点とした独ユダヤ系のロスチャイルド家(the House of Rothschild: 本来のドイツ語発音は「ろートシルト」で「赤楯」の意)系列のマセソン社の極東代理店だった。薩長の倒幕勢力を巧みに操り、米南北戦争(American Civil War, 1961-65)で売れ残った武器を売り捌(さば)いて日本を明治維新に導き、維新後の日本経済を掌握し、欧州のポルトガル王国(現在のポルトガル共和国)のような間接的英殖民地にすることに成功。1904-05年には英露代理戦争としての日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)へと日本を駆り立て、極東に於けるロシア帝国の拡大・伸張を食い止めることにも成功。1908年に大日本帝國政府(明治政府)はグラヴァーに外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与。

(参考図書)

加治将一(かじ まさかず, b.1948)『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』(祥伝社, 2009年)=『あやつられた龍馬 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』(祥伝社, 2006年)の増補加筆版

23)1874年に南太平洋のフィジーを殖民地化するとすぐに大規模農園で働く労働力としてインド人を大量移送。同国の民族対立の原因を作った。イギリスの殖民地支配は、別の殖民地人を外から連れてきて警察官や役人にし、彼らに行政の現場業務を任せる。こうすることでイギリスの白人、中間支配層、現地人の3層の身分が出来るが、現地人の為政者への批判や不満は中間支配層へ向かうため、イギリス白人への直接の恨みは育ちにくい。このため旧イギリス殖民地では旧中間支配層と土着の現地人との間の対立が起きやすい構造になっている。

24)イギリスのビルマ(現ミャンマー)への侵略は執拗(しつよう)さを極め、三度(1824-26年と1852年と1885-86年)にも亘(わた)る侵略を経て勝利した後はビルマ国王夫妻を牛車に押し込めて城から追いたて、王家の財産をすべて没収した。ビルマ国王夫妻は4人の王女ともども英領印度のボンベイ(現ムンバイ)へ流刑に処され、貧困に喘(あえ)いでその地で客死した。王位継承権第一位にあった第一王女(国王夫妻の長女)は身分の低い現地インド人の軍人(しかも妻帯者)と結婚させられ、他の3人の王女たちは最下層の身分に落とされた。第一王女の娘(国王夫妻の孫)はボンベイの街角で造花を売って生計を立てたという。

イギリスは1886年にビルマの殖民地化に成功すると、まだ政情が不安定だった最初の四年間はどんな小さな反抗、反英的態度も断じて許さず、反抗が起こった地方の指導者・関係者・一族郎党を処刑した。その後はインドから異民族であるイスラム教徒ベンガル人のロヒンギャ族(Rohingya people; 英語読みでは「ろヒンヂャ」)を毎年十万人単位で大量入殖させ、彼らに英領ビルマを間接統治させることで、イギリスの白人が直接の恨みの標的にならないように工夫した。

1907年の第2回ハーグ万国平和会議(Hague Convention of 1907)で、拡張弾頭(expanding bullets: 命中すると人体内で破裂して体内を引き裂く英領印度製造の弾丸)=別名 ダムダム弾(Dum-dum bullets; dumdum bullets)は残酷だから禁止しようという動議(motion)に対しイギリスは、「文明国同士の戦争で禁止することには同意するが、殖民地での叛乱を抑えるのに有効だから」という理由で殖民地での使用は認めるよう要求し、その通りになった。ビルマ征服時の実戦経験から、このように主張したという。

殖民地化から半世紀が経過した1930年代にはビルマの国土の半分以上が外国人(イギリスを中心とした白人、インドのベンガル人、華僑=中国系住民)の所有となり、現地ビルマ人は小作農にならざるを得なくなっていた。こうした英国によるビルマに対する非道な処遇への憤(いきどお)りがあったため、1942年の日本軍によるビルマ侵攻を、アウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi, b.1945; ミャンマー国家顧問在任2016-21)女史の父親であるアウンサン(Aung San, 1915-47)将軍をはじめとしたビルマ知識階層は歓迎した。ところがアウンサン将軍は日本軍の敗色が濃厚となった1945年3月、敗走していく日本軍に対して突如として銃口を向け、自分たちがイギリスの側(連合軍側)についていることをしたたかにアピールした。日本軍をうまく利用してビルマ独立を果たそうとした国父(Father of the Nation)アウンサン将軍だが、二年後の1947年7月19日(土)に同じビルマ人の政敵(a political rival)によって暗殺(assassinate)された。したがって翌年(1948年)1月4日(日)のビルマ独立を見ることなく死んだことになる。大戦中に日本側に就()いたアウンサン将軍を許せなかったイギリスが、アウンサン暗殺の黒幕であるとする説があるが、証拠は闇の中である。

2017年8月から9月にかけて上記の少数派イスラム教徒ベンガル人ロヒンギャ族(Rohingya people; 英語読みでは「ろヒンヂャ」)の村々への多数派ビルマ人仏教徒による焼き討ちや虐殺事件が次々と起き、国際社会(international community)で問題となった。これを受け、上記のアウンサンスーチー国家顧問(State Counsellor of Myanmar)から1991年ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize 1991)を剝奪(はくだつ)すべきだとする意見がインターネット上のchange.orgで展開された。2017年10月6日(金)付の東京新聞朝刊によると、英オクスフオッド市議会(Oxford City Council)は、二十年前の1997年にミャンマーの「民主政への長い闘争」(long struggle for democracy)に敬意を表してスーチー女史に授与していた称号「当該都市の自由」(Freedom of the City)、通称「オクスフオッドの自由」(Freedom of Oxford)を剝奪(はくだつ)することを全会一致で決めた。そして2017年11月27日(月)付の英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)のオンライン記事( https://www.bbc.com/news/uk-england-oxfordshire-42145403 )によると、同日(2017年11月27日(月))に称号の永久剝奪が正式決定したとのことである。イスラム教徒少数民族ロヒンギャの迫害問題で、スーチー女史が「暴力から目を背けている」(turn a blind eye to violence)のが理由とのこと。スーチー女史はオクスフオッド市とは繋(つな)がりが深く、1964-68年にオクスフオッド大学聖ヒュー学寮(St Hugh’s College, Oxford)で学び、哲学・政治経済(PPE: Philosophy, Politics and Economics)の学士号(BA: Bachelor of Arts)、続いて政治学(Politics)の修士号(MA: Master of Arts)を取得し、2012年には同大学から名誉博士号(Honorary Doctorate)を受けていた。1991年にミャンマー民主化運動の功績でノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)を受け、六年後の1997年にはオクスフオッド市議会が上記の称号「当該都市の自由」(Freedom of the City)、通称「オクスフオッドの自由」(Freedom of Oxford)を授与していた。上記のオクスフオッド大学聖ヒュー学寮も1999年から玄関ホールに飾っていたスーチー女史の肖像画を2017年9月には理由の説明も無く外した。

2018年1月11日(木)付、バンコク発の時事通信社特派員報道によると、2018年1月10日(水)になって治安部隊が前年(2017年)9月にイスラム系少数民族ロヒンギャ10人を同国西部のラカイン州(Rakhine, Myanmar)で殺害したことをミャンマー国軍が初めて明らかにしたという。同国軍は声明を発表し、その中で治安部隊は2017年9月1日(金)、棒と刀で襲撃してきたロヒンギャの武装集団約200人のうち、10人を拘束し、翌日(9月2日(土))その10人を穴の中に並ばせ、家族を武装集団に殺害された仏教徒住民が刀で切り付けた上、治安部隊が銃撃したが、殺害に関与した治安要員や住民を法に基づいて今後処罰するとした。

2019年12月10日(火)~12日(木)、オランダ王国の事実上の首都ハーグ市(蘭 Den Haag, Nederland, of ’s‑Gravenhage, Nederland; 英 The Hague, Netherlands)に在る国際司法裁判所(英 International Court of Justice; 仏 Cour internationale de justice)にて公聴会(public hearing)が開かれた際には、スーチー国家顧問がミャンマー軍のロヒンギャ族に対する蛮行を擁護した。そのため国際社会ではスーチー女史に対する反発が一層高まった。また、かつての民主化運動の闘士で「正義の味方」だった筈の女性が、今ではまるで極悪な被告人のようになっていることが少なからぬ人に衝撃を与えた。

しかしながら、問題の本質はイギリスが齎(もたら)したと言える。イギリスの殖民地支配は、別の殖民地人を外から連れてきて警察官や役人にし、彼らに行政の現場業務を任せる。こうすることでイギリスの白人と中間支配層(たとえばイスラム教徒のロヒンギャ)と現地人(たとえばビルマ人仏教徒)の3層の身分が出来るが、現地人の反感は中間支配層へ向かうため、イギリス白人への直接の恨みは育ちにくい。これを分断統治(divide and rule)という。このため旧イギリス殖民地では旧中間支配層と土着の現地人との間の対立が起きやすい構造になっている。

こうしたイギリスの悪どい遣()り口について知識を持ち、ミャンマーの歴史的な立ち位置に同情する者の間では、「見て見ぬふりをしているのはスーチー女史よりもイギリスだ!」という声も上がっている。

(参考)外部サイト

http://www.tamanegiya.com/igirisunotouti19.10.15.html (リンク切れ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/英緬戦争

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世界の歴史まっぷ「イギリス=ビルマ戦争」

公開日 2018年8月1日(水)

最終更新日 2019年8月27日(火)

https://sekainorekisi.com/glossary/イギリス=ビルマ戦争/

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世界史の窓「イギリス=ビルマ戦争/ビルマ戦争」

https://www.y-history.net/appendix/wh1302-069.html

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ミャンマーは本当に“親日国”なのか?両国の忘れてはならない歴史

WEDGE Infinity

根本敬(ねもと けい, b.1957)上智大学総合グローバル学部教授

2016年8月15日(月)

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537?page=2

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537?page=3

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537?page=4

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7537?page=5

根本敬(ねもと けい, b.1957) 『物語 ビルマの歴史 王朝時代から現代まで』(中央公論新社 中公新書No.2249, 2014年1月)https://www.amazon.co.jp/物語-ビルマの歴史-王朝時代から現代まで-中公新書-根本/dp/4121022491/

中西嘉宏(なかにし よしひろ, b.1977) 『ロヒンギャ危機 「民族浄化」の真相』(中央公論新社 中公新書No.2629, 2021年1月)

https://www.amazon.co.jp/ロヒンギャ危機―「民族浄化」の真相-中公新書-2629-中西-嘉宏/dp/4121026292/

25)遠く南アフリカでダイヤモンド採掘場に加えて世界最大の金鉱脈が発見されるとイギリスは侵略を開始してボーア(ブール)戦争(1899-1902年)を起こす。ところが当時世界一の軍事力を誇っていた英軍が敵オランダ系農民(ボーア人またはブール人)のゲリラ戦法に対して予想外の苦戦を強()いられる。英軍は苦肉の策としてボーア人の農家を一軒一軒虱(しらみ)潰(つぶ)しに破壊していく焦土作戦(しょうど さくせん: scorched earth strategy)を実行。一家の主(あるじ)がボーア兵士として出征した後を預かるオランダ系の女子供に多数の難民を出す。その対策として、イギリスはボーア民間人の保護を口実に世界で初めて集中収容所(concentration camp コンセントれイションキャンプ: 通常の和訳では強制収容所」)を実用化。栄養失調に起因する病死者を出して世界から非難される。英軍に抑留されたボーア人の女子供約26,000人が死亡。その約80%は16才未満(15才以下)だった。後にナチス・ドイツ(独 Nazideutschland od. NS-Deutschland; 英 Nazi Germany, 1933-45)は、イギリスのやり方を模倣して1933年3月22日(水)、政治犯を収容するための集中収容所(独 Konzentrationslager コンツェントらツィオーンスラーガー: 通常の和訳では「強制収容所」)をミュンヘン(独 München; 仏 Munich ミュニック; 英 Munich ミューニック)市郊外のダッハウ(Dachau)に設け、1942年にはユダヤ人絶滅収容所を実用化した。しかしながら、ナチスはその少し前の1941年4月4日(金)に実はちゃっかりと反英宣伝映画(an anti-British propaganda film)『クリューガーおじさん』(南ア現地のアフリカーンス語を使用した原題 Ohm Krüger; 独直訳 Onkel Krüger; 英直訳 Uncle Krüger; 仏題のみ『クリューガー大統領』を意味する Le Président Krüger)を公開し、約四十年前に英国が南アで行なった暴虐非道を世界に向けて告発した。この反英プロパガンダ映画は約二年半後の1943年9月2日(木)にナチス・ドイツの同盟国の日本でも邦題 『世界に告ぐ』として公開された。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/強制収容所

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AB%E5%91%8A%E3%81%90

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/14/Ohm_Kr%C3%BCger_in_Japan_1943_IMG_4556.JPG

https://furuidoitsueiga.wordpress.com/2013/02/23/ドイツ映画『世界に告ぐ』と日本(1)黒澤明も/

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太田正利(おおた まさとし, b.1931)元駐南アフリカ共和国日本国全権特命大使[著] 『物語・「虹の国」南アフリカ』(時事通信社, 1999年)pp.139-144を下記に引用する。

[前略] ゲリラ戦は国内各地で起こったが、その根拠地は正式な陣営というものではなく、各地に散在している農村、民家にすぎなかった。ボーアたちはここに寝泊まりして食糧を得[p.139/p.140]て、また武器を民家に隠しておいて、ときを見てゲリラ戦に出撃し、帰ってきては民家に平気で隠れていた。だから、農村がしっかりしている以上、ゲリラ戦は永久に続く可能性があった。英軍はそこで、「ゲリラの根拠地になる可能性がある」との理由で各地の農場を破壊して家畜を殺し、家屋を焼き払った。大規模な焦土戦術で、特に食糧源を断つために家畜のみならず、野生動物をも殺し尽くすという挙に出たのである。

英国側にいわせれば、ボーアの農家はコマンドの安全な隠れ家であり、衣食の補給所であるのみならず、情報機関でもあった。戦った翌日には家の前に座って平然とパイプをくゆらせ英軍を欺き、農家の主婦や使用人などに英軍の情報を探らせていた。このような状態を打開するためには、焦土戦術が必要だというのが英側の考えであり、また理屈でもあった。

焦土戦術の開始に伴い、住民の逮捕は女性にも及んだ。不安に駆られた彼女たちは子どもや家財道具、食糧などを牛車に積み安全な場所に避難していた。[中略・改行]

この焦土戦術の結果、三万の農場が焼かれ、三六〇万頭の羊が殺されて、ボーアの両共和国はまった[p.140/p.141]くの荒野になってしまった。国際的な非難を浴びたのはもちろんのこと、四十年後のナチスにさえ宣伝に利用されることになり、さらに英国内でも批判の対象となった。[中略・改行・中略]

正確なデータはないが、約二万六〇〇〇人が収容所で死んだといわれる。トランスヴァールとオレンジ自由国の人口は四五万人と推定されるから、その犠牲の大きさは想像もつかぬほどであろう。この二万六〇〇〇人という数字は五・八パーセントにあたる。この人数の婦人・子どもが収容所で病死したのである。もちろん戦死者は含まない。

ボーア人の収容所、「Concentration Camp」設立の当初の目的は純然たる捕虜収容所であって、一九〇〇年九月にロバーツ将軍によりその設立が承認された。ところが、キッチナー将軍のときから非戦闘員[p.141/p.142]の強制収容所に変貌する。ゲリラ戦が激しさを増すにつれて、徹底的なせん滅作戦の一部として非戦闘員を強制的に収容する作戦に転じ、四〇以上の収容所に一一万六〇〇〇の婦女子を、他の六〇箇所には黒人のサーヴァントまでが強制収容されるようになった。中にはバラックが間に合わず、露天に電流を通じた鉄条網で厳重に囲まれた草地に、一枚の毛布もなく野宿を強制された家族もあったという。

[改行・中略] 黒人のサーヴァントの場合には、状況はさらに劣悪であった。[p.142/p.143] 彼らは自分たちのキャンプ内に忘れ去られたかのようで、死亡率も高まっていった。

[改行・中略・改行]

ただ当時でも、英国の良心のような婦人もいた。その名をエミリー・ホブハウスという。エミリーは英国のコーンウォール出身の女性である。人権擁護を趣旨とする南アフリカ融和委員会(South African Reconciliation Committee)の秘書であった。一九〇〇年六月、エミリーは南アにおける英国の政策に抗議するキャンペーンをはり、英国の急進派の支援を得てミルナー総督を説得し、一[p.143/p.144]九〇一年一月にいくつかの収容所を視察した。その結果は驚くべきものだった。収容所における死亡率は、三四・四パーセント、幼児死亡率に至っては四三・三パーセントという数字に照らして、想像を絶する悲惨さだったと考えてよかろう。

[改行・中略] キッチナーや英国陸軍省は、何とかして死亡率や収容所の実情を隠ぺいしようと努めたが、これも長続きしなかった。英国政府はついに圧力に屈し、改善の措置がとられることになった。[後略]

26)第一次世界大戦(1914-18年)に海軍卿(First Lord of the Admiralty)のチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55)率いる英国海軍(RN: Royal Navy)が敵のドイツ帝国及び同盟国の墺太利ハンガリー帝国に対し、国際法違反の海上封鎖(俗に言う飢餓封鎖)を実行。敵の軍事力ではなく敵国民の餓死を企図した新しい型の戦争形態である。ドイツや墺太利は四年間も耐え抜く。

具体的には、寒いアルプス以北でも育つ蕪(カブ)を食べて飢えを凌(しの)ぐ。肉なしデーを帝国政府が創設。残飯を餌に一般家庭のベランダで豚(ブタ)を飼育。烏(カラス)や雀(スズメ)まで食べる。豚の餌用に黄金虫(コガネムシ)を子供に集めさせる。サクランボの種も収集。豚は飼料代が嵩(かさ)むので結局は抹殺令が出て、ベーコンやソーセージが久しぶりに大量に店頭に並ぶことになるも、加工が間に合わず肉が大量に余って腐る。路上で倒れた馬に主婦が肉目当てに襲いかかったと報道される。

1918年11月11日(月)の停戦後も英国はドイツに対する海上封鎖を解除せず、結果として餓死者は76万人(当時のドイツの人口の1%超)にも上る。また、飢餓による障碍(しょうがい)を被(こうむ)った人々、また他の中欧同盟国の犠牲者を加えると餓死者の数は更に膨大。チャーチルと英国海軍による一般市民へのテロ行為に対し、ドイツ帝国政府の食糧政策は精彩を欠き、後にナチスの擡頭を招くことになる。「喰い物の恨み」があるためドイツ国民はナチスを積極的に支持するようになるが、その要因をつくったのがイギリスの海上封鎖とフランスが強硬に主張した敗戦国ドイツへの過酷な賠償金だったのである。

(参考図書)

藤原辰史(ふじはら たつし, b.1976) 『カブラの冬 第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』(人文書院 レクチャー第一次世界大戦を考える, 2011年)

27)第一次世界大戦中(1914-18年)にイギリスが敵オスマン・トルコ帝国を倒すため、なりふり構わぬ外交戦略を展開し、現在にも禍根(かこん)を残す。まず当時イギリスが支配していたエジプトに高等弁務官(High Commissioner)として派遣されていたマクマホン(Sir Henry McMahon, 1862-1949)がアラビア半島のメッカ首長(Sharif of Mecca)のフサイン(Hussein bin Ali; Hussein ibn Ali al-Hashimi, 1853 or ’54 - 1931)と1915年7月14日(水)から翌’16年1月30日(日)にかけて書簡をやり取りし、その中でイギリスはオスマン・トルコをアラビアから追い出した暁(あかつき)にはアラブ人の国家を樹立すると約束した。これが世に言う「フサイン・マクマホン書簡」(McMahon-Hussein Correspondence)である。これら一連の書簡の約三ヶ月半後の1916年5月16日(火)に英仏露連合国の三国で結ばれた密約では、現在のシリアとレバノンはフランスが統治しトルコのアナトリア半島東部はロシアが統治し、バグダッドからペルシア湾西岸までをイギリスが統治し、英仏の衝突を避けるための緩衝(かんしょう)地帯(buffer zone)を設けるとした。列強による勝手な国境画定はアラブ人には受け入れがたい内容だったので秘密協定とした。これが世に言う「サイクス・ピコ協定」または「サイクス・ピコ合意(Sykes-Picot Agreement)である。ところが1917年にロシア革命が起きた結果、新しく成立したロシアの革命政府が帝国主義者の悪行(あくぎょう)として早くも1917年11月23日(金)に秘密協定の内容を全世界に向けて暴露してしまったため、イギリスは窮地(きゅうち)に立たされた。そして話が少し前後するが、1917年11月2日(金)に英国政府(His Majesty’s Government)の外務大臣(Foreign Secretary)・元総理大臣(former Prime Minister)である初代バルファ伯爵(Arthur Balfour, 1st Earl of Balfour, 1848-1930; 首相在任1902-05)がユダヤ系英国貴族である第二代ロスチャイルド男爵(Lionel Walter Rothschild, 2nd Baron Rothschild, 1868-1937)に宛てた書簡の中で「パレスティナにユダヤ人のための民族の故郷を樹立すること」(the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people)に賛同し、支援を約束した。これが世に言う「バルファ宣言」(Balfour Declaration)である。なお、日本の教科書では発音を誤って「バルフォア宣言」としている( https://en.oxforddictionaries.com/definition/balfour,_arthur_james )。こうしてイギリスはアラブ人と仏露連合国とユダヤ人の三者に対して不誠実な三枚舌外交を行なったために現在にも続くパレスティナ問題や中東問題を引き起こした。百年を経た二十一世紀の現在にまでその影響は及んでいる。これに不満を持つ勢力がサイクス・ピコ協定の無効を訴え、一部アラブ人や欧米生まれのイスラム教徒二世・三世の狂信的な支持を受け、「イスラム国(英称 IS: Islamic State of Iraq and Syria, or Isis)」が設立され、米英仏露軍などの空爆にも屈せずテロ行為(周辺民族の虐殺、周辺民族の女性の性奴隷化、欧米人記者や援助関係者や日本人の拉致(らち)・身代金要求・斬首による殺害・動画公開、欧州都市での爆弾テロや車輛テロや刃物通り魔テロ)を繰り広げている。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/三枚舌外交

https://ja.wikipedia.org/wiki/サイクス・ピコ協定

https://ja.wikipedia.org/wiki/パレスチナ問題

https://ja.wikipedia.org/wiki/イスラーム国

28)アラブ世界を侵略して石油資源を盗む。米仏露とも結託。

29)1919年4月13日(日)のアムリットサル事件(Amritsar Massacre; Jallianwala Bagh massacre)で、英領印度のパンジャーブ地方のシーク教の聖地アムリットサルにて、英殖民地当局への抗議のために集まっていた非武装のインド人市民に対して、英人ダイヤー准将(Brigadier- General Reginald Dyer, 1864-1927)率いるグルカ族とイスラム教徒から成る英領インド軍部隊が女子供も含めて無差別射撃。少なく見積もっても379人が射殺されたが、インド側の数字では1,000人近くが犠牲になったとされる。ダイヤー准将の行動は英本国政府からも厳しく非難され、大佐(Colonel)への降格の上に罷免(ひめん)された。しかしながら、議会上院(=貴族院)保守派が庇(かば)ったことと、本人の健康状態の悪化によって訴追は逃れた。ダイヤー大佐は事件から八年後に死去。事件から九十四年近くが経過した2013年2月20日(水)、英首相として初めて事件の現場を訪れたキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)氏は花輪を捧(ささ)げ、訪問者名簿に「英国史上非常に恥ずべき事件であり、ウィンストン・チャーチルが当時正しく呼んでいたようにゾッとするようなことだ。我々はここで起こったことを忘れてはならないし、我々は連合王国が平和的抗議活動を擁護するよう保証せねばならない。(a deeply shameful event in British history, one that Winston Churchill rightly described at that time as monstrous. We must never forget what happened here and we must ensure that the UK stands up for the right of peaceful protests.)」と書き込み、遺憾の意を表明。しかし明確で充分な謝罪ではないとして、インドでは批判の声が上がった。そして事件から百年が経過した2019年9月10日(火)、インドを訪問中のイングランド教会(Church of England; 日本の教科書では「英国国教会」と誤訳し、ウィキペディア日本語版では「イングランド国教会」としている)の実務上のトップ(名目上のトップは英女王)であるカンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)ジャスティン・ウェルビー(Justin Welby, b.1956; カンタベリー大主教在職2013-)師が、個人の立場で謝罪の意を伝えるべく、事件現場でひれ伏した。そしてこう発言した( https://www.churchtimes.co.uk/articles/2019/13-september/news/world/welby-apologises-for-great-wickedness-of-1919-amritsar-massacre / https://www.theguardian.com/world/2019/sep/10/justin-welby-apologises-in-name-of-christ-british-massacre-amritsar / https://twitter.com/BBCRajiniV/status/1171379619125006341 )。「此処(ここ)は大いなる邪悪を記憶する場所です。殺傷された人々や遺族の方々の魂が、これらの石(=記念碑)から私たちに訴えかけてきて、私たちに権力と権力の濫用(らんよう)について警告しています。私は英国政府を代表することはできません。政府当局者ではないからです。でも私はキリストの名に於()いて話すことができ、此処(ここ)は罪過(ざいか)のみならず贖罪(しょくざい)の場所でもあると言えます。というのも、あなた方は彼ら(=犠牲者たち)が為()したことを記憶にとどめ、彼らの名は生き続け、彼らの記憶が神の前で生き続けるからです。そして私は此処(ここ)で犯されたこの、この(言い淀み)犯罪が及ぼした影響について恥じ入り、申し訳なく思っております。繰り返しますが、私は政府を代表して話すことはできません。それは政府がやるべきことです。私は宗教指導者であり、政治家ではありません。しかし宗教指導者として私は此処(ここ)で私どもが目にしている悲劇を悼(いた)む者であります。」(This is the place that commemorates a great wickedness. The souls of those who were killed and wounded, of the bereaved, cry out to us from these stones and warn us about power and the misuse of power. I cannot speak for the British government. I’m not an official of the British government. But I can speak in the name of Christ and say this is a place of both sin and redemption, because you have remembered what they have done and their names will live, their memory will live before God. And I am so ashamed and sorry for the impact of this, this crime committed here. As I say, I cannot speak for the Government. That is for the Government to do. I am a religious leader, not a politician. But as a religious leader, I mourn the tragedy that we see here.)と。一方でこの虐殺事件をめぐって英国政府が公式に謝罪したことは一度も無い。

30)アイルランド独立戦争(Irish War of Independence, 1919-21年)の騒乱の中で「1920年、血の日曜日事件(Bloody Sunday 1920)」を起こす。クローク・パーク競技場(Croke Park Stadium)にて、イギリスの警察組織である王立アイルランド警察(RIC: Royal Irish Constabulary)が無防備のアイルランド人観客に向けてライフル銃と回転式拳銃をいきなり発砲し、14人の死者と60人以上の負傷者を出す。英国政府も事件を重く見て2件の軍法会議を開き、RICによる発砲は命令なしに、状況の許す限度を超えて行なわれたと結論づけたが、法廷での評定は八十年間も秘密にされ、西暦2000年になるまで公表されなかった。2011年5月18日(水)に英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が和解のためにここを訪れたことが大きなニュースになる。

31)対日戦争(1941-45年)の勃発とともに、英領マレー(現在のシンガポールとマレーシア)に居住していた日本の民間人を敵性外国人として抑留し、一部は英領インドの砂漠地帯の強制収容所まで拉致(らち)。過酷な環境で衰弱し、病歿する日本人も出る。

(参考)外部サイト

http://www.tamanegiya.com/igirisunosyuuyoujyo19.10.8.html (リンク切れ)

32)上記戦争中の1942年8月、日本軍の支援を受けた印度国民軍(INA: Indian National Army)の影響を受けた一部のインド人民が「イギリスよ、出て行け!」と叫んで英領印度各地で反英デモを起こした。英領印度の司令部は武力による鎮圧を命じた。英軍は戦闘機を飛ばして空から地上に機銃掃射(strafing)を加えた。この容赦(ようしゃ)ない鎮圧によって940人を超えるインド人が死亡した。逮捕者は6万人を超えた。

33)上記戦争末期、赤痢などに罹患した病死者・餓死者の遺体や、辛うじて命がありながらもはや動けなくなった日本人敗残兵は病原菌や伝染病の温床(おんしょう)となり、戦う日本軍よりも衛生上むしろ危険であると判断した英国陸軍(British Army)は、追撃途上で無慈悲にも生死を問わずガソリンをかけて日本軍将兵を焼却処分にした。

(参考)外部サイト

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html

34)第二次世界大戦(1939-45年)中の欧州戦線末期の1945年2月13日(火)から15日(木)にかけて、ドイツのバロック文化都市ドレースデン(Dresden)を英国空軍(RAF: Royal Air Force)が徹底的に空爆して貴重な文化遺産を破壊。結果として非武装のドイツ人一般市民を少なく見積もって2万2千人、多く見積もって20万人も虐殺(正確な数字は不明とされる)。東から攻めてくるソ連軍を牽制(けんせい)する以外に戦略上不必要な作戦だった疑いが濃厚。米空軍も空爆に参加したが、中心的役割を果たしたのは英空軍。ソ連軍牽制のための一般市民大量虐殺という点では、同年8月9日(木)の米軍による長崎市への原爆投下にも性格が似ている。

35)同大戦末期の1945年3月25日(日)、英国陸軍(British Army)に所属していた鳥類学者・探検家・ジャーナリスト・放送作家・軍人・ゲリラ戦士・人類学者・博物館館長・考古学者・ドキュメンタリー映画監督・環境保護活動家・作家のハリソン少佐(Major Tom Harrisson, 1911-76)は、連合国混成のZ特殊部隊(Z Special Unit)、通称「Z隊(Z Force)」を率いてボルネオ島(別名カリマンタン島)のサラワク地方(現マレーシア連邦サラワク州)に上陸した。特殊任務の目的は、搭乗していた爆撃機の不時着で同島に潜伏していたアメリカ空軍兵救出のためだった。当時、島の原住民であるクラビ族(Kelabit people)は、日本兵上陸前まで世話になっていたアメリカ人神父や宣教師たちが日本兵に連行されて処刑された恨みの敵討ちとして、キリスト教徒から止めるように言われていた首狩りの習慣を復活させていた。彼らは村落を訪問する日本兵に対しハニートラップ(honey trap)的な計略を用(もち)い、村の若く美しい女性に全裸になってもらい、待ち伏せるなどして、不意打ちで殺害しては首切断・干し首加工をしていた。クラビ族とすっかり仲良くなったハリソン隊長のZ隊は、島上陸の本来の目的であるアメリカ兵捜索・救出の傍(かたわ)ら、クラビ族と一緒になって日本兵の首狩りに積極参加するようになり、多数の日本兵を惨殺した。終戦後、ハリソン少佐らの残虐行為は「戦勝国による戦争犯罪ではないのか」という疑念・批判が連合国内でも沸き起こったが、ハリソン自身は帰国後イギリスで英雄扱いされた。これらの出来事については、米公共放送サービス(PBS: Public Broadcasting Service)製作の米英合作ドキュメンタリーシリーズ番組 『死者たちの秘密』(Secrets of the Dead, 1999)の中の「航空兵たちと首狩り族たち」(“The Airmen and the Headhunters”)の回で詳細に描かれている。

(外部リンク)

https://www.pbs.org/wnet/secrets/the-airmen-and-the-headhunters-watch-a-preview/451/

36)第二次世界大戦(1939-45年)後の1952-61年の反英独立武装闘争「マウマウ団の乱」(Mau Mau Uprising)を英領ケニアで起こされたイギリスは、叛乱の中心にいたキクユ族(Kikuyu people)を強制連行し、1,090人超の容疑者を処刑。その数は、同時期フランスがアルジェリア戦争(1954-62年)で処刑した現地人の数を上回る。しかも処刑された者の過半数は後に叛乱とは無関係と判明。更(さら)には英国陸軍(British Army)は、「止まれ!(Halt!)」と命令しても停止しなかったというだけの理由で数千人のケニア人を殺害。英軍によって強制連行された上で強制収容所に抑留され、そこで虐待・拷問されたケニア人の中には、バラク・オバマ(Barack Obama, b.1961; 大統領在任2009-17)米前大統領の祖父フセイン・O. オバマ(Hussein Onyango Obama, c.1895-1979)氏も含まれる。英軍はオバマ氏の手の爪や尻や睾丸に拷問を加え、仲間2名を去勢したという。武装闘争から半世紀余りが経過した2013年、英殖民地当局による拷問などの人権侵害について英国政府は約5千人の被害者に計1990万ポンド≒約30億円を支払うと発表(2013年6月7日(金)付の米CNN日本語版の記事に依拠)。二年前の2011年に拷問の詳細を記録した文書が発見されたことが決定打となる。

(外部サイト)

https://en.wikipedia.org/wiki/Mau_Mau_Uprising#British_war_crimes

https://en.wikipedia.org/wiki/British_war_crimes

37)北アイルランドのロンドンデリー(またはデリー)市にて、アメリカ黒人市民権運動に影響された非武装・非暴力のデモ隊に対して英国陸軍落下傘連隊が発砲し(1972年1月30日(日))、13人の即死者と14人の怪我人(内、1人は4ヶ月半後に死亡)を出す。世に言う「1972年、血の日曜日事件(Bloody Sunday 1972)」。

38)世界中の財宝を盗み取り(但し、合法的に買い取った物も多数あり)、英国博物館(British Museum: 漢字文化圏では「大英博物館」の訳語)などで堂々と展示。他国からの返還要求を無視。

[イギリスだけの話ではないが、、、]

(外部サイト)

オランダ政府が略奪文化財を返還へ。植民地時代の不正を是正

美術手帖

2021年2月6日(土)

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/23546

https://news.yahoo.co.jp/articles/97a3e62dec56c5e710a8e177b98e39ed1bb3c7bd

https://news.yahoo.co.jp/articles/97a3e62dec56c5e710a8e177b98e39ed1bb3c7bd/comments

展示したいなら筋を通すべきだ!

奪ったモノを返せ─西洋の博物館から美術品を取り戻したいパン・アフリカ活動家

クーリエ日本版(Courrier Japon)

キム・ウィルシャー(Kim Willsher)記者署名記事

2021年3月3日(水)

https://courrier.jp/news/archives/235353/

植民地主義者によって奪われたアフリカの芸術品や工芸品は返すべきなのか?

クーリエ日本版(Courrier Japon)

キム・ウィルシャー(Kim Willsher)記者署名記事

2021年3月3日(水)

https://news.yahoo.co.jp/articles/a36c8034ccf8dc58f4ce368674131f8e3dda7bb5

https://news.yahoo.co.jp/articles/a36c8034ccf8dc58f4ce368674131f8e3dda7bb5?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/a36c8034ccf8dc58f4ce368674131f8e3dda7bb5/comments

39)上記日本編17番の従軍慰安婦問題に関連して、2015年8月の戦後七十周年に向けて英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)が韓国の反日団体の見解を世界に喧伝(けんでん)して物議を醸(かも)す。BBCは恰(あたか)も日本の歴史修正主義者ども(Japan revisionists)が歴史を歪曲(わいきょく)しているかの如(ごと)く報道し、日本に対する民族差別を正当化し、韓国の出鱈目(デタラメ)な言いがかりを鵜()呑()みにした。

(参考)外部サイト

https://www.bbc.com/news/world-asia-33754932

https://twitter.com/bbcnewsjapan/status/628350448978653184

http://agora-web.jp/archives/1650549.html

https://plaza.rakuten.co.jp/bx987/diary/201412040000/ (リンク切れ)

https://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1438706372/

40)最後に他人の著書からの受け売りだが、

髙山正之(たかやま まさゆき, b.1942)元產經新聞記者著 『スーチー女史は善人か』(新潮社, 2008年; 新潮社 新潮文庫, 2011年)所収連載コラム題名「変見自在」

コラム題名「朝日の記事は奥が深い」(文庫版から一部抜粋)

[前略]ナミビアやウガンダを植民地にしていた英国の対アフリカ債権はたった一千[p.105/p.106]万ドルで、その額をしのぐ二十億ドルもの武器商売をここでやっていることもストックホルムの国際平和研(SIPRI)の報告で分かっている。

武器代金は日本からの援助金で支払わせる。それが滞ると英国は日本に「アフリカ諸国の債務を帳消しにしてやりましょうと」と紳士を装(よそお)って言う。

日本が債務放棄をすると英国は少し余裕のできたそれらの国々から代金を回収し、新しい武器を売る。

[改行・中略]

[中略]フィナンシャル・タイムズに載ったマラウイ共和国のンタバ厚生相の寄稿文は実に重い。

[p.106/p.107]

東京とほぼ同じ人口のこの国では「一時間に十人がエイズで死んでいく」が、「それを治療する医師や看護婦があまりにも少ない」とンタバは書く。

なぜなら日本の援助で看護婦を養成しても「年収は四百ドル。それで英国などが高い給与でさらっていってしまう」からだと。

英国の性質(たち)の悪さはもはや世界遺産級だが、このHIVがアフリカ問題の根源だと彼は仄(ほの)めかす。

これまで欧米諸国はアフリカを格好の消費市場とみなして紛争を煽(あお)り、武器を売り込んできた。

ところがそこにHIVがはやり出し、罹患(りかん)した人々が英仏(えいふつ)など旧宗主国に流れ込みだした。

英国はそれでは社会保障費がパンクし、フランスも移民法を改めて旧植民地人の上陸阻止を図ってきた。

今はもっと積極的に紛争も患者もアフリカから出ないように封じ込め政策を採っている。

英国はここでもこす辛く、日本や米国など大口のODA提供国に「資金をプールしてアフリカにエイズ病棟を作ろう」といわゆるバスケット公式を説く。

[p.107/p.108]

それで現地に病院を作り罹患者がロンドンにこないようにする。ただし自分はカネを出さない。

(後略)

初出: 新潮社『週刊新潮』2005年9月1日(木)号=2005年8月25日(木)販売

文庫版から「解説」

西尾幹二(にしお かんじ, b.1935)電気通信大学名誉教授執筆(2011年)

[前略]日本の対アフリカ債権は九十億ドルなのに、ナミビアやウガンダをかつて植民地に持ったイギリスのそれはわずかに一千万ドル。しかもイギリスはそこで二十億ドルもの[p.241/p.242]武器商売をやっていて、代金は日本からの援助で支払わせる。それが滞ると、アフリカの債務帳消しを紳士面(づら)を装(よそお)って提言し、日本が債務放棄すると、それらの国々には余裕ができるので、そこを見計らってイギリスは代金を回収し、また新しい武器を売る。

アフリカはエイズに苦しんでいるが、治療する医師や看護婦が少ない。日本の援助で看護婦を養成すると、彼女らをイギリスなどが高い給料でさらって行っていまう。[後略]

【参考記事とツイッター動画】

「紅茶は英国製ではありません」。EU離脱でBBCの教育番組が強烈な皮肉(動画)

ヴィクトリア女王に扮した女性に次々と「不都合な真実」が突きつけられる動画は、290万回以上再生されています。

ハフポスト(Huffpost)日本版

中崎太郎(なかざき たろう)記者署名記事

2020年2月2日(日)

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story-bbc-britishthings_jp_5e368eb9c5b6f262332ac3b3

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1580708253/

イギリスの公共放送BBCが、子ども向けチャンネルであるCBBCの番組で、イギリスのEU離脱を揶揄したとして、注目を集めている。動画を投稿したTwitter上では、賛否の意見が飛び交っている。

話題になっているのは、CBBCの人気番組「Horrible Histories(おそろしい歴史)」。学校で教わらない歴史の側面を、面白おかしく紹介するコメディー番組だ。イギリスがEUから離脱した1月31日に、CBBCの公式アカウントで動画をTwitterに投稿。2月2日までに290万回以上再生されている。

https://twitter.com/cbbc/status/1223170327188058113

動画は、「イギリスはヨーロッパを去る。行け、イギリス!」と男性が呼びかけて始まる。ヴィクトリア女王に扮した女性が、「イギリスのもの、イギリスのもの」と歌いながら、紅茶を頼み、砂糖を入れようとする。すると、サーブしようとしたばとら(原田註: バトラーの誤植)男性が「紅茶はイギリスのものではなく、インドから持ってきたものです」「砂糖はカリブ海から輸入されました」と矢継ぎ早に、「不都合な真実」を女王に告げる。

ヴィクトリア女王は、世界中に植民地支配を広げた大英帝国時代を象徴する存在として知られる。紅茶の紹介では、インド支配の過程で多数の犠牲があったことや、カリブ海での砂糖生産は奴隷労働があったことなどにも触れられている。

(改行・後略)

【参考図書】

常石敬一(つねいし けいいち, b.1943)、秦郁彦(はた いくひこ, b.1932)[他監修] 『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋, 2002年)

竹田いさみ(たけだ いさみ, b.1952) 『世界史をつくった海賊』(筑摩書房 ちくま新書 No.888, 2011年)

西尾幹二(にしお かんじ, b.1935) 『GHQ焚書図書開封10 地球侵略の主役イギリス』(徳間書店, 2014年)

柴田賢一(しばた けんいち, 1902-82) 『米英の東亞侵略年譜』(都書房 大東亞戰爭硏究會, 1942年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276432

*上記の復刻版 『米英のアジア・太平洋侵略年表 1521-1939 復刻版』(国書刊行会, 2012年)

大川周明(おほかは しうめい; おおかわ しゅうめい, 1886-1957) 『米英東亞侵略史』(第一書房, 1942年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042284

*上記の復刻版 『大川周明「獄中」日記 米英東亜侵略史の底流 復刻版』(毎日ワンズ, 2009年)

佐藤優(さとう まさる, b.1960) 『日米開戦の真実 大川周明著 米英東亜侵略史を読み解く』(小学館文庫, 2006年)

*上記の文庫版 『日米開戦の真実 大川周明著 米英東亜侵略史を読み解く』(小学館文庫, 2011年)

清水馨八郎(しみず けいはちろう, 1919-2015) 『侵略の世界史 この500年、白人は世界で何をしてきたか』(祥伝社, 1998年)

*上記の文庫版 『侵略の世界史 この500年、白人は世界で何をしてきたか』(祥伝社 黄金文庫, 2001年)

平間洋一(ひらま よういち, b.1933) 『日露戦争が変えた世界史 「サムライ」日本の一世紀 改訂新版』(芙蓉書房出版, 2005年)

髙山正之(たかやま まさゆき, b.1942) 『スーチー女史は善人か』(新潮社, 2008年; 新潮社 新潮文庫, 2011年)

君塚直隆(きみづか なおたか, b.1967) 『悪党たちの大英帝国』(新潮社 新潮選書, 2020年)