日本の大学年表と女権と日英関係1(上代から昭和敗戦まで)

イギリスの大学年表についてはウェブページ6種( https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline1 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline2 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline3 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline4 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline5 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline6 )を参照のこと。

600年(推古天皇8年) 東アジアきっての大帝国だった隋(ずい; Suí dynasty, 581-618)の国の先進的な文化を摂取させるため、歿後名「聖德太子」(しやぅとく たいし; しょうとく たいし, 574-622)こと、厩戸皇子(うまやど の みこ; うまやど の わうじ, 574-622)が、小野妹子(おの ゝ いもこ, 生歿年不詳)を遣隋使として派遣したのを皮切りに留学制度が名目上ながら始まる(実質的な開始は七年後の607年とされる)。

604年(推古天皇12年) 歿後名「聖德太子」(しやぅとく たいし; しょうとく たいし, 574-622)こと、 厩戸皇子(うまやど の みこ; うまやど の わうじ, 574-622)が、推古天皇(すいこ てんのぅ, 554-628; 在位593-628)の治世12年目にして「和()を以(もつ)て貴(たうと)しと爲()し忤(さから)ふること無()きを宗(むね)とせよ」で始まる十七條憲法(じうしちでう の いくつしきのり; じゅうななじょう けんぽう)を制定したとされるが、これに疑義を挟(はさ)む学者もいる。

607年(推古天皇15年) 歿後名「聖德太子」(しやぅとく たいし; しょうとく たいし, 574-622)こと、厩戸皇子(うまやど の みこ; うまやど の わうじ, 574-622)が七年前の600年に名目上ながら始動させていた遣隋使の制度を本格的に開始。

618年(推古天皇26年) 隋(ずい; Suí dynasty, 581-618)の国が滅亡し、新たに唐(とぅ; Táng dynasty, 618-90 & 705-907)の国が建国されたため、遣隋使は遣唐使に名を変えて存続。

七世紀後半(年号不明) 天智天皇(てんち てんのぅ, 626-672; 在位668-672)の治世に官僚養成を目的とした大學寮が創設される(現存せず)。

663年10月4日~5日(和曆天智天皇2年8月27日~28日) 白村江の戦い(はくそんこう の たたかい; はくすきのえ の たたかい; 白江口之戰; 白江戰鬪; Battle of Baekgang)が勃発。三年前の660年に滅亡していた百濟(くだら; 백제 ペクチェ; Baekje/Paekche)を救済すべく、倭國(わこく; Japan)が百濟の遺民と組んだ連合軍が、大唐帝國(だいとう ていこく; Táng Empire)と新羅(しらぎ/しんら; 신라 シルラ; Silla)の連合軍を相手に朝鮮半島南西部の白村江(現在の大韓民國西部の錦江河口付近)で衝突。倭國軍は大敗を喫し、朝鮮半島から撤退。以後、倭國の指導層は改革を進め、国号を「日(ひ)の本(もと)」を意味する日本(にほん; にっぽん)と定め、王(おほきみ)を天皇(てんのぅ)とする。日本は二年後の665年には唐の和平の使者を迎え入れ、戦後処理を進め、その更に二年後の667年には唐から日本人捕虜が送り返され、戦後六年の669年には遣唐使を復活させ、唐王朝と関係を正常化している。

701年(大寶元年) 文武天皇(もんむ てんのぅ, 683-707; 在位)697-707)の治世に大寶律令(たいほぅ りつりやぅ; 英称 Taihō Code)が制定されたことで、上記の大學寮が本格的に官僚養成を開始したと考えられる。なお、大寶律令(江戸期の通称 文武帝之律)は千百八十四年後の1885年(明治18年)に内閣制度が創設された段階で正式に廃止される。

828年(天長5年) 眞言宗の開祖である弘法大師空海(こぅぼふ だいし くぅかい; こうぼう だいし; くうかい, 774-835)が綜藝種智院(現在の種智院大学の前身とされる教育機関)を開学。

894年(寛平6年) 菅原道眞(すがはら の みちざね; すがわら の みちざね, 845-903)が唐(とう; Táng dynasty, 618-90 & 705-907)の内部の混乱を理由に遣唐使の停止を進言したことを受け、西暦600年以来三百年近くも続いた大陸への留学制度がここに終わる。日本独自の國風文化が育つ下地となる。なお、唐の國は907年に滅亡し、五代十國時代となる。

1232年(貞永元年) 西暦604年に制定された聖德太子(しやぅとく たいし; しょうとく たいし, 574-622)の十七條憲法から六百二十八年ぶり、1215年にイングランド王国で制定された大憲章(羅 Magna Carta; 英訳 Great Charter)に遅れること十七年後、鎌倉幕府の第三代執權 北條泰時(ほうでう やすとき, 1183-1242; 執權在任1224-42)によって全五十一条(十七條憲法の三倍)から成る日本最初の武家法である御成敗式目(ごせいばい しきもく; 英訳 Formulary of Adjudications)、後世の名称として貞永式目(ぜうゑい しきもく; 英称 Formulary of the Jōei era)が制定される。

1549年8月15日(和曆天文18年7月22日)から’51年11月15日(和曆天文20年10月)まで二年三ヶ月に亘(わた)って滞日していたカトリック教会イエズス会宣教師ザビエル(Francisco de Xavier, 1506-52)が日本での高等教育機関(現在の上智大学に相当)の開設を構想する。しかし日本の後のキリスト教禁教により実現せず。なお、ザビエルの日本上陸記念日である8月15日は、聖母被昇天(Assumption (of the body and soul of the Virgin Mary into heaven))の日でもあり、多くのカトリック諸国で祝日となっている。

1587年(天正15年)11月4日 記録で確認できる日英の初接触。スペイン領カリフォルニア半島(現在のメキシコ合衆国の下(バハ)カリフォルニア半島)の聖ルカ岬(西 Cabo San Lucas, Península de Baja California; 英 Cape of St Luke, Lower California Peninsula)でイングランド人キャヴェンディッシュ(Sir Thomas Cavendish, 1560-92; ケイムブリヂ大学基督聖体学寮中退)船長の率いるイングランド私掠船「欲望」(Desire)号と同「満足」(Content)がスペインのガレオン船の聖アナ号(Santa Ana)=英訳 St Anne を襲撃略奪した際、20歳ぐらいのスペイン名クリスバル(Cristóbal)=ポルトガル名クリストヴァン(Cristóvão)=英名クリストファー(Christopher)と、16歳のスペイン名コスメ(Cosme)=ポルトガル名グスマン(Gusmão)=英名コスマス(Cosmas)と名乗る日本人切支丹(キリシタン)男性2名を保護し(スペイン側から見ると拉致し)、その後雇用した(スペイン側から見ると強制労働させた)という記録が残っている。この日本人男性2名は読み書きや計算の能力に長()けていたとも伝えられている。二人の日本人はキャヴェンディッシュ船長のもとで私掠船「欲望」の船員として働き、おそらくは日本人として史上初めて世界一周をし、記録は残っていないが、これまた日本人として史上初めてイングランドに上陸して三年程住んだ可能性がある。四年半後の1592年5月にキャヴェンディッシュ船長は南大西洋(South Atlantic)を航海中に31歳の若さで原因不明の死を迎えるが、日本人男性2名の消息もその辺りから不明となる

1600年(慶長5年)4月 オランダ船リーフデ号(de Liefde: オランダ語で「その愛」の意であり、ドイツ語の die Liebe (ディリーベ)、英語の the Love (ザヴ) に相当)が豐後國(ぶんご の くに)の臼杵(うすき)(現在の大分県臼杵市)の海岸に漂着。オランダを発ってから二年二ヶ月が経過していた。当初の乗組員110人のうち生存者は24名、辛(かろ)うじて歩くことができたのは10人足らずだった。彼らは地元の村民らに助けられた。生存者24名中22名は出国したのか否か詳細は不明。生存者の中にはイングランド人航海士ウィリアム・アダムズ(William Adams, 1564-1620)と蘭人航海士ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステエイン(Jan Joosten van Lodensteijn, 1556?-1623)がいた。彼らは暫(しばら)く大坂城(現在の大阪城)に留置されて取り調べを受けたが、時の最高権力者である德川家康(とくがは いへやす; とくがわ いえやす, 1543-1616; 征夷大將軍在任1603-05)はカトリックのイエズス会宣教師(スペイン人やポルトガル人)らの「殺してしまへ!」という忠告を聞かず、プロテスタントの英人アダムズや蘭人ヨーステンを罰するどころか江戸に招いて家来とした。同年、アダムズは家康の命令で伊東(現在の静岡県伊東市)に於いて80トン級の西洋式の木造船を建造した。

1601年12月26日(慶長6年閏11月2日) 江戸で記録された最初の大火で江戸全市を焼亡したという。被災状況は詳(つまび)らかでなく、死者数も不詳。

1603年(慶長8年)2月12日 後陽成天皇(ごやうぜい てんのう; ごようぜい てんのう, 1571-1617; 在位1586-1611)の朝廷より宣旨(せんじ: 「朝廷の命令文」の意)が下り、德川家康(とくがは いへやす; とくがわ いえやす, 1543-1616; 征夷大將軍在任1603-05)を征夷大將軍に任命する。家康は江戸に幕府を開く。

1605年(慶長10年) アダムズはまたしても德川家康(とくがは いへやす; とくがわ いえやす, 1543-1616; 征夷大將軍在任1603-05)の命令で百二十トン級の木造船を建造。家康はアダムズが気に入ったので、三浦半島の逸見(へみ: 現在の神奈川県横須賀市逸見)に二百五十石の領地を有する旗本の地位を与える。アダムズは三浦按針(みうら あんじん, 1564-1620)という日本名を名乗った。史上初の白人侍の誕生。ところがアダムズは英国イングランドに残してきた妻子があったので帰国を懇願したが、家康はこ れを許さなかった。英人ウィリアム・アダムズは既にこの世になく、新たに日本人「三浦按針」が生まれたのだと德川幕府は主張し、按針に日本の侍の娘と結婚させた。按針はその後、日本で一男一女をもうけることに。一方、蘭人ヤン・ヨーステンは耶楊子(やよす, 1556?-1623)という通名の侍になった。今日(こんにち)東京駅の東口を八重洲口(やえす ぐち)と呼ぶのは、その辺りに耶楊子の住まいがあったことに由来する。

1609年(慶長14) ポルトガル領マカオで日本の朱印船がポルトガル船マードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺害される。その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となる。500石積以上の大船建造が禁止され、諸藩が所有している大船は没収されることになる。

1609年(慶長14年) オランダ東インド会社(蘭 VOC: Vereenigde Oostindische Compagnie; 英訳名 Dutch East India Company, 1602-1799)が九州の平戸(現在の長崎県平戸市)に商館を設置(その三十二年後の1641年に長崎の出島に移転させられる)。

1612年(慶長17年) 家康は幕府直轄領に対して、キリシタン禁制を発令。三年前の1609年のポルトガルとのトラブルが契機になっている。

1613年(慶長18年)6月11日(12日とする資料もあり) ジョン・セイリス(John Saris, 1579 or 1580 - 1643)船長率いるイングランド商船クロウヴ号(the Clove)が九州の肥前國平戸(現在の長崎県平戸市)に到達。9月6日~12日、白人侍三浦按針(みうら あんじん, 1564-1620)こと、ウィリアム・アダムズ(William Adams, 1564-1620)を伴ない、長門國下關(現在の山口県下関市)、和泉國堺(現在の大阪府堺市)、大坂(現在の大阪府大阪市)、京(現在の京都府京都市)を経て、駿河國駿府(現在の静岡県静岡市葵区)に滞在。現役を引退して大御所(おほごしよ)と成っていた德川家康(とくがは いへやす; とくがわ いえやす, 1543-1616; 征夷大將軍在任1603-05)に謁見(えっけん)し、イングランド国王(兼スコットランド国王)ジェイムズ一世(James I, 15-1625; 在位1603-25)の親書を奉呈。9月14日~21日、相模國鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)を経て江戸(現在の東京都23区内中東部)に滞在。江戸城で二代将軍德川秀忠(とくがは ひでたゞ; とくがわ ひでただ, 1579-1632; 征夷大将軍在任1605-23)に謁見(えっけん)。9月29日~10月9日、再び駿河國駿府に滞在。10月16日~20日、再び京都に滞在。11月6日、瀬戸内海の海路で再び肥前國平戸に到着し、12月5日まで滞在。唐人貿易商の李旦(り たん; Lǐ Dàn, 生歿年不詳)の持家を借り、三浦按針ことアダムズの尽力でイングランドの東インド会社(EIC: East India Company, 1600-1874)が、オランダ東インド会社(蘭 VOC: Vereenigde Oostindische Compagnie; 英訳名 Dutch East India Company, 1602-1799)に遅れること四年で、平戸にイングランド商館を設置。商船クロウヴ号で同乗してきたリチャード・コックス(Richard Cocks, 1566-1624)を初代館長(結果として最後の館長でもある)として平戸の地に残す。11月6日に約五ヶ月の訪日を終え、交易を許す旨の家康からの朱印状と献上品を持って商船クロウヴ号で離日するが、イングランド南西部のプリマス(Plymouth, Devonshire)港に到着するのが翌年(1614年)9月のことであり、首都ロンドンに到着して書状(オクスフオッド大学ボードリアン図書館が現在も保管)や将軍秀忠から贈られた甲冑(ロンドン塔王立武具甲冑博物館が現在も保管)を含む献上品を国王ジェイムズ一世に献呈したのが同年(1614年)12月のことである。

1614年(慶長19年) キリシタン大名の追放が始まる。この時点で日本人の信徒数は少なく見積もっても20万人、多い場合は50万人ほどいたと見られている。当時の日本の人口が1200万人程度だったことを考慮すると、人口の2~4%がキリスト教徒だったことになる。ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100~200人程度いて、教会は200ヶ所もあった。

1616年6月1日(和曆元和2年4月17日) 英国との交易に熱心だった元征夷大将軍(この地位は死の十一年も前に二代将軍秀忠に譲渡済)の德川家康(とくがは いへやす, 1543-1616; 征夷大将軍在任1603-05)が静岡の駿府城にて満74歳で病歿。日英交易に翳(かげ)りが差す。

1620年5月16日(和曆元和6年4月24日) 白人侍の三浦按針(みうら あんじん, 1564-1620)こと、ウィリアム・アダムズ(William Adams, 1564-1620)が肥前國平戸(現在の長崎県平戸市)で病歿。日英交易に更(さら)なる翳(かげ)りが差す。

1623年2月23日~3月9日 現在のインドネシアの小島であるアンボイナ島(現在のアンボン島)でオランダ当局によるイングランド人と日本人傭兵たちの拷問・斬首・虐殺事件が勃発(ぼっぱつ)。世に言うアンボイナ事件(Amboyna Massacre)。2月23日の夜、イギリス側の日本人傭兵だった七藏(しちぞう, ? -1623)がオランダの衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねているのを不審に思ったオランダ当局が、七藏を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長ゲイブリエル・タワーソン(Gabriel Towerson, ? -1623)ら30余名を捕らえたオランダ当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、占領計画を企(くわだ)てていたことを自白させた。同年3月9日、オランダ当局はタワーソンをはじめイングランド人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島のイングランド勢力を排除。事件当時オランダの東インド総督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen, 1587-1629)は、オランダの東インド貿易独占を主張し、自国政府の対応を弱腰と非難していたため、事件はクーンの仕組んだ陰謀であるとする説もある。事件発生から三十一年後の1654年にオランダ政府が85,000ポンドの賠償金をイングランドに支払うことで決着。虐殺された日本人たちは德川幕府にとっては棄民(きみん)であったため、オランダ政府は日本には賠償金を払っていない。この事件をきっかけに、東南アジアでのイングランドの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めたが、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった東南アジア産香料の価格は次第に下落し、オランダの国力も下がって行った。反対に新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させたのは歴史の皮肉である。

1623年12月23日(和曆元和9年11月12日) 家康の死後7年、アダムズの死後3年で平戸のイギリス(当時はまだイングランド)商館が閉鎖。オランダとの競合に敗れ、僅か十年の業務を終えて日本から一方的に撤退。結果として最初で最後の館長になってしまったリチャード・コックス(Richard Cocks, 1566-1624)は帰国途中の1624年3月27日、南インド洋を航行中の船上で死亡した。以後、二百三十一年間も日英間の交易は途絶える。一方、耶楊子(やよす)こと、ヤン・ヨーステンは同年、幕府の貿易使節の一員としてのオランダ東インド会社バタヴィア支店(現インドネシア共和国ジャカルタ首都特別州北ジャカルタ市)に赴いた。そこで現地のオランダ当局に故国への帰国を申し込んだが、受け入れられず、 やむなく江戸へ帰ることになった。途中、南シナ海で船が沈没して溺死(できし)した。

1624年~’34年 オランダ東インド会社(蘭 VOC: Verenigde Oost-Indische Compagnie; 英訳名 Dutch East India Company, 1602-1799)が、日本の目と鼻の先である臺灣(Formosa; Taiwan)へ進出し、その島の南部(現在の臺南市安平區)を占領し、タイオワン(Taiowan: 現在の臺南市安平區)と名付ける。オランダ人勢力はゼーランディア堡塁(Fort Zeelandia; 熱蘭遮城)を建造し、この地に於ける交易で外国船に一律10%の関税をかけ始める。

1628年~’36年 タイオワン(Taiowan: 現在の臺南市安平區)事件。長崎の朱印船船長だった濱田彌兵衛(はまだ やひやぅゑ, 生歿年不詳)の一行がオランダ占領下の臺灣(Formosa; Taiwan)で関税10%の支払いを拒否し、オランダ人臺灣行政長官ピーテル・ノイツ(Pieter Nuyts, 1598-1655)を人質に立て籠もる。オランダ東インド会社(蘭 VOC: Verenigde Oost-Indische Compagnie; 英訳名 Dutch East India Company, 1602-1799)は、事件を起こした濱田彌兵衛ら日本人を包囲するも、人質が居るため手を出せず、膠着状態が続く。その後の交渉で互いに5人ずつ人質を出し合い、互いの船に乗せて長崎へ航行し、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで合意し、一路長崎港へ向けて船を出す。無事に長崎に着くとオランダ側は約束通り日本側人質を解放し、オランダ側人質の解放を求める。ところが長崎代官の末次平藏(すゑつぐ へいざう, c.1546-1630)はオランダ側人質を長崎で拘束し、大牢に監禁して、平戸オランダ商館の閉鎖という挙に出る。オランダ領東インド(蘭 Nederlandsch-Indië; 英 Dutch East Indies)のヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen, 1587-1629)総督(gouverneur-generaal)は、状況把握のためバタヴィア(現在のインドネシア共和国首都ジャカルタ首都特別州の港湾部)装備主任ヴィレム・ヤンセン(Willem Jansen, 生歿年不詳)を特使として日本に派遣するも、平戸藩主の松浦隆信(まつら たかのぶ, 1592-1637)と末次平藏はヤンセンが江戸幕府三代将軍德川家光(とくがわ いへみつ; 1604-1651; 征夷大将軍在任1623-51)に拝謁するため江戸(ゑど)へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙(かた)る返書を作成してヤンセンに手渡す。主旨として「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(Zeelandia)城を明け渡すこと。受け入れれば将軍はポルトガルを憎んでいるのでオランダが貿易を独占できるように取り計らう。」という内容のものでヤンセンは将軍に謁見できないままバタヴィアにこの返書を持ち帰る。ヤンセンがバタヴィアに戻ると総督クーンは病死しており、彼を迎えたのは新オランダ領東インド総督であり、かつて平戸オランダ商館で商館長(葡 Capitão; 蘭 Opperhoofd)を務めた経験のあるジャック・スペックス(Jacques Specx, 1585-1652)だった。長年日本で暮らし日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることを見抜きヤンセンを再び日本に派遣する。オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるためオランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇し日本に人質として差し出す。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、オランダが譲歩することで解決。オランダの態度が穏便だったことが幕府に好印象を与え、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなる。実際ノイツは1632年から1636年まで日本に抑留されることになる。なお、長崎代官として事件で暗躍した末次平藏は、幕府の重臣が禁止されていた貿易に手を出していたことが判明したため(密貿易の罪)、事件の二年後の1630年に江戸の牢獄に幽閉され、幕臣により斬殺されている。オランダ側の資料には将軍が閣老たちに貿易に関わる事を禁じていたが閣老は末次平藏に投資をして裏で利益を得ていたため切り捨てられたらしいことが噂されているとする記述がある。1632年には平戸のオランダ商館が再開。1636年にはオランダ商館長ニコラス・クーケバッケル(Nicolaes Coeckebacker or Couckebacker, 生歿年不詳; 平戸オランダ商館長在任1637-39)の代理として参府した亡命フランス人ユグノー信徒フランソワ・カロン(François Caron, 1600-73)は、拝謁の際に江戸幕府三代将軍德川家光に銅製の灯架(燈籠)を献上。家光はこれを非常に気に入り、返礼として銀300枚を贈る。以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよう頼まれていた老中の酒井忠勝(さかい たゞかつ, 1587-1662)がノイツの釈放を家光に願うとすぐに許可される。カロンが献上した灯架は日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている。

1632年 四年前の1628年に起きたタイオワン(Taiowan: 現在の臺南市安平區)事件の影響で閉鎖されていた平戸のオランダ商館が再開。

1633年3月1日(寛永10年1月21日) 相模國(現在の神奈川県)で寛永小田原地震が発生し、150人が圧死により死亡。

1637年12月11日(和曆寛永14年10月25日)~’38年4月12日和曆寛永15年2月28日) 島原の亂(らん)、別名 島原・天草一揆が勃発(ぼっぱつ)。キリシタン(カトリック信徒)の一揆軍に手を焼いた長崎奉行は原城に立て籠る一揆軍に向けて砲撃するよう平戸のオランダ商館長クーケバッケル(Nicolaes Coeckebacker or Couckebacker, 生歿年不詳; 平戸オランダ商館長在任1637-39)に要請した。要請を受けたオランダ側は1638年1月6日、船砲五門を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにデ・レイプ号(de Ryp; de Rijp: 「熟すこと」の意)を派遣し、ポルトガル国旗を掲げて海から原城に近づき、十五日間で約425発の艦砲射撃を行なった。しかし砲撃の目立った効果も見られず、オランダ人の見張り二名が一揆軍に殺され、また、細川忠利(ほそかは たゞとし, 1586-1641)などの諸将が外国人の助けを借りるのは日本の恥じだと批判したため、老中松平信綱(まつだひら のぶつな, 1596-1662)は砲撃を中止させた。しかし信綱はポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論した。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削(そ)ぐ効果はあったと考えられる。この当時のオランダはネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国とベルギー王国)となっていて、ポルトガルと一連の蘭葡戦争(1603-63)を戦っていた。日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあり、実際に翌年(1639年)にポルトガル人を日本から排除することに成功した。島原藩主の松倉勝家(まつくら かついへ, 1597-1638)は、領民の生活が成り立たないほど過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に大名としては異例中の異例である斬首となっている。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首刑に処せられたのは、この一件しか確認できない。つまり名誉を保つための切腹すら許されなかったわけである。(ウィキペディア日本語版の「島原の乱」の項目に依拠した上で加筆)

1639年(寛永16年) 江戸幕府がポルトガル船の入港を禁止し、鎖國(さこく)が完成。但し、「鎖國」という用語は蘭学者志筑忠雄(しづき ただお, 1760-1806)が、1801年成立の『鎖国論』に於いて初めて使用した。この和書は1690年から’92年にかけて来日したドイツ人医師ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651-1716; 実際の発音はケンプファー)が、帰郷後に日本に関する体系的な文章の執筆に取り組み、死後にその遺稿をグレートブリテン王国の出版社が英語で1727年に出版した The History of Japan (直訳 『日本の歴史』; 邦題 『日本誌』)に基づき、1777‐79年にはドイツ語版 Geschichte und Beschreibung von Japan (直訳 『日本の歴史と描写』; 邦題 『日本誌』)が出版された。そのオランダ語版第二版(1733年)の巻末附録の最終章に当たる 『日本国に於いて自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を上記の志筑(しづき)が訳出する際に題名があまりにも長いので、『鎖國論』とした。これこそが「鎖國」という言葉の初出であった。しかし本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖國」という語も広まらなかった。実際に「鎖國」という語が幕閣の間で初めて使われたのは米海軍(US Navy)のペリー代将(Commodore Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)が開国を求めて来航した1853年のこと、そして本格的に定着していくのは安政五ヶ国條約が結ばれた1858年以降とされている。

1640年(寛永17年)~1643年(寛永20年) 江戸時代の四大飢饉の一つ(最初)に数えられる天保の大飢饉(天保の飢饉)により、日本各地で推定約5~10万人が餓死。本格的に餓死者が出た1642年(寛永19年)を開始年とする資料もある。將軍は第三代の德川家光(とくがは いへみつ; とくがわ いえみつ, 1604-1651; 將軍在任1623-51)。

1641年3月10日か11日(寛永18年1月29日か30日) 桶町火事で江戸の死者400人以上。京橋桶町から出火し、烈風により延焼。焼失した町97・武家屋敷123。

1641年6月12日(寛永18年5月4日) 幕府の要請によりオランダ商館が平戸から長崎の出島(Decima)へ移転。出島は元来はポルトガル人を隔離するための人工島だったが、二年前の1639年にポルトガル人は日本から追放されていた。

1657年3月2日~4日(明暦3年1月18日~20日) 江戸の三大大火の一つ、明暦の大火=別名 振袖(ふりそで)火事が江戸の大半を焼き、江戸城は天守を含む大半が焼失。死者数については諸説あるが3万人から10万人とされる。

1662年 淸朝(Qīng dynasty)の勃興のため国(シナ大陸)を追われた明朝(Míng dynasty)の遺臣、鄭成功(てい せいこう; Zhèng Chénggōng, 1624-62)が、新たな拠点を構築するために臺灣(Formosa; Taiwan)のタイオワン(Taiowan: 現在の臺南市安平區)に居たオランダ人勢力を駆逐。ゼーランディア堡塁(Fort Zeelandia; 熱蘭遮城)を攻撃した結果、オランダ人勢力は台湾から一掃され、臺灣(台湾)史上初の漢人政権が樹立される。鄭成功は熱蘭遮城を安平城(Anping Old Fort)と改称し、鄭氏政権三代にわたって支配者の居城となる。

1673年7月9日(寛文13年5月25日) 五十年前の1623年に日本市場から完全撤退していたイングランドが、その名もリターン(the Return: 直訳「帰還」) という通商船を日本の長崎港に派遣し、日英間の貿易再開を求める。イングランド船は国王チャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)の親書を携(たずさ)え、長崎港に二ヶ月も留まる。しかし幕府は十一年前の1662年に提出された『阿蘭陀(オランダ)風説書(ふうせつがき)』などからイングランド国王が切支丹(キリシタン)=カトリック国ポルトガル王国三十四年前の1639年に日本から追放された国)の王女と結婚しているという聞き捨てならない情報を得ており、これを問題視し、また、五十年前に一方的に日本から撤退したことも併(あわ)せて非難し、イングランド側の要求を断固拒否したため、イングランド船は成果なく撤退。

1683年1月25日(天和2年12月28日) 天和の大火で江戸の死者830~3,500人。駒込大円寺から出火し、北西風により延焼。焼失した武家屋敷241・寺社95。

1684年(貞享元年) 江戸幕府が江戸に天文方(現在の国立大学法人東京大学の前身とも言える学問所)を設立

1691年(元祿4年)~1695年(元祿8年) 盛岡藩の四大飢饉の一つと言われる東北地方を襲った元祿(げんろく)の飢饉により、弘前藩領内津軽一円で推定約20万人が餓死。將軍は第五代の德川綱吉(とくがは つなよし; とくがわ つなよし, 1646-1709; 將軍在任1680-09)。資料によっては1695年(元祿8年)~1696年(元祿9年)。

1690年代(元祿年間)~1830年代(天保年間の初期) 日本全国に寺子屋が次々に開学される。日本人の読み書き・計算の能力向上に大きく貢献。明治以降の発展の礎(いしずえ)に。

1698年10月9日(元祿11年9月6日) 勅額火事で江戸の死者3,000人。京橋南鍋町から出火し、南風により延焼。焼失した町326・武家屋敷308・寺社232・町家1万8700。

1703年12月31日(元祿16年11月23日) 元祿地震で安房國(現在の千葉県南部)と相模國(現在の神奈川県)に壊滅的被害。死者数については諸説あり。被害は江戸にも及ぶ。

1704年1月6日(元祿16年11月29日) 江戸の小石川水戸屋敷から出火した水戸様火事で焼失した武家屋敷275・寺社75・町家2万。死者数不詳。

1708年10月(寶永5年9月)~1714年11月27日(正徳4年10月21日)は シドッティ(誤ってシドッチとも表記)の日本密入国事件。イタリア人司祭・宣教師のシドッティ(Giovanni Battista Sidotti, 1668-1714)がスペイン領マニラ(現在のフィリピン共和国マニラ首都圏)で四年間の宣教師生活をしたが、キリスト教の禁教令が出ている日本での布教活動こそが天職だと信じ、周囲の反対を聞き入れずに日本への密航を決意。1708年8月、シドッティ用に建造された船に乗り、日本に向けて出帆し、同年10月に髪を月代に剃り、和服に大小二本差しという侍の姿に変装して薩摩國の屋久島(やくしま)に上陸。島の百姓に見つかり、言葉が通じないことで怪しまれ、役人に捕らえられて長崎奉行所へ送られた。翌1709年に江戸へ護送され、時の幕政の実力者で儒学者であった新井白石(あらい はくせき, 1657-1725)の尋問を受けた。白石とシドッティは相手の学識に敬意を表して接し、二人は学問的対話を行なった。当時の日本では切支丹(キリシタン)、特に伴天連(バテレン: Padre=宣教師の音訳)は見つけ次第拷問し、転ばせる(キリスト教信仰を捨てさせて転向させる)ことが肝要であり、転ばなければ惨殺するのが常であったが、白石は上策としての本国送還、中策としての幽閉、下策としての処刑という3つの案を幕府に具申した。用心した幕府は中策を採用し、シドッティを江戸小石川茗荷谷(現在の東京都文京区小日向(こびなた); 東京メトロ丸の内線茗荷谷(みょうがだに)駅近く)にあった切支丹屋敷へ幽閉することに決定した。切支丹屋敷は捕らえた切支丹を収容するために六十二年前の1646年に設けられたが、鎖国と禁教政策の結果、シドッティが収容されるまで長きに亘(わた)って収容者がいなかった。茗荷谷の切支丹屋敷では宣教をしてはならないという条件で、拷問を受けないことはもちろん、囚人としての扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という厚遇を受けて軟禁された。屋敷でシドッティの監視役で世話係であったのは長助・はるという老夫婦であったが、彼らは共に切支丹の親を持ち、親が禁教令に背いて処刑されたため、子供の頃から切支丹屋敷で生涯を過ごしていた。1713年12月、木の十字架を着けていることを役人により発見された老夫婦は、シドッティに感化されてシドッティによる洗礼を受けていたことを告白した。そのためシドッティは老夫婦と共に切支丹屋敷内の地下牢に移され、その十ヶ月後の1714年10月21日に衰弱死した。なお、新井白石はシドッティ尋問の成果として西洋事情の書である『西洋紀聞』(1715年頃完成、1807年以降一般に流布)と、日本初の組織的世界地理書である『采覧異言(さいらん いげん)』を著(あらわ)した。

1717年3月4日(享保2年1月22日) 江戸の小石川馬場の武家屋敷から出火し、死者100人以上。

1732年(享保17年) 江戸時代の三大飢饉の一つ(一つ目だが四大飢饉としては二つ目)に数えられる享保(きょうほう)の大飢饉 により、推定約1万2千人が餓死。將軍は第八代の德川吉宗(とくがは よしむね; とくがわ よしむね, 1684-1751; 將軍在任1716-45)。

1745年3月14日(延享2年2月12日) 江戸の千駄ヶ谷から出火した六道火事で死者1,323人。

1754年(寶曆4年)~1757年(寶曆7年) 盛岡藩の四大飢饉の一つと言われる東北地方を襲った寶曆(ほうれき)の飢饉により、現在の岩手・宮城の両県にわたる範囲で推定約5~6万人が餓死。本格的に餓死者が出た1755年(寶曆5年)を開始年とする資料もある。將軍は第九代の德川(とくがは いへしげ; とくがわ いえしげ, 1717-61; 將軍在任1745-60)。

1760年3月22日(土)(寶曆10年2月6日) 江戸で寶曆(ほうれき)の大火が発生。神田旅籠町の足袋(たび)屋「明石屋」から出火し、北西風で延焼。日本橋、木挽町、深川、洲崎が焼失。460町、寺社80ヶ所焼失。死者数不詳。

1771年4月24日(水)(明和8年3月10日) 琉球で八重山地震が発生。30メートルを超える明和の大津波によって八重山諸島の人口の3分の1に相当する1万人以上が死亡。

1772年4月1日(水)(明和9年2月29日) 江戸の三大大火の一つ、明和の大火=別名 目黒行人坂大火が発生。江戸市中の3分の1が焼失し、死者は1万4700人、行方不明者4,060人。老中になったばかりの田沼意次(たぬま おきつぐ, 1719-88; 老中在任1772-86)の屋敷も類焼。

1779年11月7日(日)(安永8年9月29日)~11月10日(10月3日) 薩摩國(現在の鹿児島県)の桜島で安永大噴火が発生。海底噴火も伴ない、長崎や江戸でも降灰があったという。

1782年8月23日(金)(天明2年7月15日) 相模國(現在の神奈川県)で天明小田原地震が発生。民家約一千戸が倒壊し、江戸でも死者が出る。死者数不詳。

1782年(天明2年)~1788年(天明8年) 江戸時代の三大飢饉の一つ(二つ目だが四大飢饉としては三つ目)に数えられる天明の大飢饉により、餓死者・病死者は全国で90万人超で、日本近世に於ける最悪の飢饉と成る。將軍は第十代の德川家治(とくがは いへはる; とくがわ いえはる, 1737-86; 將軍在任1760-86)と、第十一代の德川家斉(とくがは いへなり; とくがわ いえなり, 1773-1841; 將軍在任1787-1837)。資料によっては1781年(天明元年)~1789年(天明9年・寛政元年)。

1782年(天明2年)12月~1793年(寛政5年)6月 伊勢國(現在の三重県)亀山藩の生まれで回船と呼ばれる運輸船の船頭をしていた大黑屋光太夫(だいこくや くゎうだゆふ, 1751-1828)の一行十八人が、1782年12月に江戸に向けて航海中、嵐に遭って漂流。その過程で一名はビタミン不足で死亡した。

八ヶ月後の1783年8月にアリューシャン列島(当時はロシア帝国領アラスカの一部で、現在の米国アラスカ州)のアムチトカ島に漂着。この島では飢えと寒さにより八名が病歿し、1785年1月の時点で当初の半分の九人になっていた。

1787年7月18日、生き残った九人と猫一匹はロシア商人らとともに流木を集めて船を造り、アムチトカ島を脱出し、ブリジニエ諸島、コマンドルスキー諸島を経て、8月23日にカムチャツカ半島のウスチカムチャツクに到着した。日本人九人は迎えに来たロシア軍の少佐と共にニジニ・カムチャツクに移動し、ロシア人の家に下宿した。食糧は現地の守備隊から配給され、ロシアの人々は親切だったが、冬になってオホーツクからの船舶輸送が滞(とどこ)るようになると深刻な食糧不足に襲われ、翌’88年の5月までに日本人三名が飢えと寒さのため壊血病で病歿し、生き残りは六名になった。強い帰国への意志から、光太夫は帰国願を同地の役人に提出したが良い返事は貰(もら)えなかった。同地には約二年滞在した。

残った一行六名は1788年6月15日にニジニ・カムチャツクを離れ、カムチャツカ半島を横断してチギーリに着き、ここから船に乗って同年8月30日にオホーツクに到着した。その後、六名はオホーツクを同年12月13日に発ち、1789年2月9日にシベリア随一の大都市イルクーツクに到着した。

この道中、庄藏(しゃぅぞぅ; ロシア名 Фёдор Степанович Ситников = Fyodor Stepanovich Sitnikov, 生歿年不詳)は凍傷にかかり、片足を切断した。不自由な身体となった庄藏はこのことが原因で、いち早くロシア正教(Russian Orthodox Church)の洗礼を受け、名前も改め、ロシアに帰化した。

イルクーツクではスウェーデン系ロシア人の博物学者キリル・ラクスマン(Кири́лл Гу́ставович Ла́ксман = Kirill Gustavovich Laksman; スウェーデン名 Erik Laxman, 1737-96)の世話になる。1791年1月、このラクスマンと光太夫は二人きりでイルクーツクから犬橇(いぬぞり)に乗って遂(つい)に6,200キロも離れたロシア帝国西端の帝都サンクト・ペテルブルクまで約三十日かけてやって来たが、帝都の役人たちに相手にされなかった。

漂流仲間の新藏(しんぞぅ; ロシア名 Никола́й Петро́вич Коротуигин = Nikolaj Petrovich Korotuigin, 1758-1810)も当初は帝都まで同行することになっていたが、直前にチフス性の熱病に罹(かか)り同行を断念した。新藏といえば、一行の中でもロシア語の習得が最も早かったこともあり、死期を覚悟してロシア正教の洗礼を受けて信徒となった。しかし病気から恢復(かいふく)し、光太夫とラクスマンの後を追ってロシア人の陸軍中尉と共に帝都サンクト・ペテルブルクに到着した。新藏は光太夫の居所が分からないので当初は教会に身を置いていたが、やがて光太夫と再会する。

光太夫とラクスマンの二人はこうなったら女帝エカチェリーナ二世(Екатерина II Алексеевна = Yekaterina II Alekseyevna, 1729-96; 在位1762-96)への直訴(じきそ)しかないと決めてかかり、同年6月に夏の離宮ツァールスコェ・セロー宮殿で女帝への謁見(えっけん)に成功した。光太夫はロシアの正装に身を固め、ロシア政府高官や宮廷女官が居並ぶ謁見の間で女帝の前に進み出た。女帝からこれまでの漂流の経緯(いきさつ)やロシアでの生活について尋ねられ、光太夫はロシア語で答えた。女帝は光太夫の身の上を憐れんだという。それから光太夫ら三人の帰国許可が下りたのは、初めての謁見から三ヶ月後のことだった。それは光太夫ら漂流民を連れ戻すことをきっかけに日本との通商を求める思惑もあったからである。光太夫は帝都サンクト・ペテルブルクを離れるまで、各地を見学したり、女帝からはメダルや時計などの土産物も下賜(げし)された。ロシアに帰化した新藏と庄藏には金貨五十枚が下賜(げし)された。

一行はイルクーツクに戻ることになり、同年11月26日までには帝都サンクト・ペテルブルクを出発したと考えられる。一行はモスクワ、ニジニ・ノヴゴロド、カザンを経由して1792年1月14日の夜中にイルクーツクに帰着した。新藏は現地のロシア女性と結婚し、現地イルクーツクで日本語教師として留(とど)まったため、光太夫とは永遠(とわ)の別れとなった。

1792年5月20日、光太夫、磯吉、小市の三名は帰国するためにイルクーツクを出発した。午前10時に光太夫とラクスマンの乗る馬車が先発し、夕方に磯吉と小市の乗る馬車が出発した。新藏も馬に乗り、次の駅逓のあるブキンまで一行に加わった。翌5月21日、光太夫を見送った新藏はブキンで磯吉と小市を待った。二人が到着すると新藏はあっと声をあげて泣き出し、磯吉の肩にすがったという。別れの挨拶を済ませて、磯吉と小市の乗った馬車が走り出すと、新藏はその馬車のことを馬に乗って追いかけた。日本人三人を見送った新藏はイルクーツクに戻り、当地の日本語学校の教師の職と家を与えられ、銀貨四十枚の俸給を受けるようになった。妻マリアンナとの間に二男一女をもうけた。

光太夫らは東進して、漂流から約九年半後の1792年9月にロシアで大いに世話になったキリル・ラクスマンの息子であるアダム・ラクスマン(Адам Кириллович Лаксман = Adam Kirillovich Laksman; スウェーデン名 Adam Laxman, 1766-1806)が、日本との交易を求める使節となり、1792年9月、光太夫ら日本人三名を連れて北海道東部の根室國(ねむろ の くに)に来航した。しかし前例の無いことに幕府は大混乱となって、ロシア使節と幕府役人の長い交渉をした。ラクスマンは江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉を行なうことを希望したが、老中松平定信(まつだいら さだのぶ, 1759-1829)らは、通商を望むならば日本唯一の貿易港である長崎に廻航させることを指示した。ラクスマンは幕府から信牌(しんぱい: 外国船の長崎への入港許可証)を交付されたが、目的は一応達成したとして長崎へは向かわずに帰国した。大黑屋光太夫ら日本人三名が遠く北海道南西部の松前藩で幕府側に引渡されたのは翌年(1793年)6月=漂流してから十年半後のことだった。当時はまだ幕府の鎖国政策が続いていたので、外国に渡った者は理由の如何(いかん)を問わず罪人とされ、光太夫と磯吉の二人は江戸まで護送された(あとの一人、小市の消息は不明)。

1793年9月18日、德川第十一代將軍の家斉(とくがは いゑなり, 1773-1841; 征夷大將軍在任1787-1837)と老中松平定信(まつだひら さだのぶ, 1759-1829)らが見守る中、江戸城吹上御物見所で「漂民御覧」が開かれた。様々な質問をされたが、キリスト教に関することだけは決して口にしなかったという。それから光太夫と磯吉の二人は江戸番町(現在の東京都千代田区一番町から六番町)の薬草園内の屋敷で幽閉生活を強いられることとなった。しかし外からの出入りは比較的自由で、桂川甫周(かつらがは ほしう, 1751-1809)や大槻玄澤(おほつき げんたく, 1757-1827)ら蘭学者たちが話を聴きに訪れ、交流を深めた。漂流やロシア事情は桂川甫周が『漂民御覧之記』として纏(まと)めて幕府に提出。その他種々の漂流記が書かれ、世間に流布された。また、甫周は光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂した。その後、光太夫と磯吉は江戸小石川(現在の東京都文京区小石川)の薬草園に居宅を貰(もら)って生涯を過ごした。ここで光太夫は新たに妻も迎えている。故郷から親族も訪ねて来ており、1986年に発見された古文書によって故郷の伊勢國(現在の三重県)へ一度帰国を許されていることが確認されている。

1783年8月5日(火)(天明3年7月8日) 淺間山の天明大噴火が発生。上野國鎌原村(こうずけ の くに かんばら むら: 現在の群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原)を中心に甚大な被害となる。この際の熔岩が固まり、現在の鬼押出しの奇景が完成。河道閉塞した吾妻川の天然ダムが決壊し、泥流が利根川や江戸川にも流れ下る。同年(1783年)にはアイスランドのラキ火山とグリムスヴォトン火山も噴火していたため、大量の噴出物によって北半球で猛暑、寒冷化、旱魃(かんばつ)、洪水、嵐などの異常気象が向こう五年に亘(わた)って続き、農作物が不作となって、貧困と飢饉が拡大。

1792年5月21日(月)(寛政4年4月1日) 「島原大變肥後迷惑」と呼ばれる火山性の大津波が九州で発生。雲仙岳普賢岳の噴火に伴なう火山性の地震によって眉山が山体崩壊。この土砂が有明海に流れ落ち、これによって発生した津波が島原や対岸の肥後を襲い、約1万5千人が死亡。

1793年(寛政5年)12月1日~1806年(文化3年)2月下旬 若宮丸という船の水主(かこ: 船乗りの意)をしていた津太夫(つだゆう, 1744-1814)ら十六名が四日前の11月27日に石巻港を出て江戸に向けて航海中、暴風雨に遭って漂流。翌’94年5月10日の朝にアリューシャン列島(当時はロシア帝国領アラスカの一部で、現在の米国アラスカ州)のウナラスカ島に漂着。同年6月12日、生き残った十五名は先住民のアリュート人の案内でロシア人のもとに案内された。それからの十一ヶ月間はロシア人の家で暮らし、ロシア本土に帰るロシア人と共に島を離れ、プリビロフ諸島の聖パヴェル(セントポール)島、大黑屋光太夫(だいこくや くゎうだゆふ, 1751-1828)の一行十七人が十二年前の1783年8月に漂着したアムチトカ島を経て、1795年6月27日にオホーツクに着いた。

ここで生き残った若宮丸漂流民十五名は籤(くじ)引きで三隊に分かれ、善六(ぜんろく; ロシア名 Пётр Степанович Киселёв = Pjotr Stepanovich Kisyelyov, 1769-1816)と辰藏(たつぞぅ; ロシア名 Андрей Александрович Кондратов = Andrej Aleksandrovich Kondratov, 生歿年不詳)と儀兵衛(ぎへえ, 1762-1806)の三人は、先発隊として同年8月18日にオホーツクを出発し、ヤクーツクを経て、1796年1月24日にシベリア随一の大都市イルクーツクに到る。

イルクーツクの地で大黑屋光太夫と一緒に到着して既にロシア人キリスト教徒として生活していた新藏(しんぞう; ロシア名 Никола́й Петро́вич Коротуигин = Nikolaj Petrovich Korotuigin, 1758-1810)と出会う。新藏は三人を自宅で世話することになり、俸給が銀貨四十枚から百二十枚に三倍増額された。この頃、既に妻マリアンナは死んでおり、新藏は光太夫の一行で一緒だった庄藏(しゃぅぞぅ; ロシア名 Фёдор Степанович Ситников = Fyodor Stepanovich Sitnikov, 生歿年不詳)と同居していたが、庄藏は望郷の念と自身の不自由な身体(凍傷で片足を切断済)に絶望して泣き言ばかり漏らすため、新藏からは疎(うと)まれていた。その一方で新藏は、この時引き取った三人のうち善六に目をつけた。新藏は日本語教師の職を得たものの、漢字を殆(ほとん)ど理解しておらず平仮名(ひらがな)しか読み書きできなかった。それに対して善六は漢字の読み書きに優れ、頭も良かったため、新藏は日本語通訳のトコロコフと共に、ロシアに帰化して日本語教師になるよう善六を説得した。その結果、善六は帰化を決意し、ロシア正教会(Russian Orthodox Church)の洗礼を受けた。洗礼を受けた善六は更に辰藏と儀兵衛に対しても洗礼を受けるように説得し、辰藏は洗礼を受けたものの、禅宗を篤(あつ)く信仰していた儀兵衛だけは洗礼を拒否したため、善六と辰蔵の正教徒と儀兵衛の仲は険悪になった。

1796年春頃、新藏は二番目のロシア女性と再婚した。そのため若宮丸漂流民三名と庄藏は、新藏の家を出て、善六と辰藏の組と、儀兵衛と庄藏の組とに別れて住んだ。庄藏は同年夏に儀兵衛に看取られて病歿するが、新藏も善六も葬儀に姿を現わさなかったという。

その後、若宮丸漂流民たちは、1796年11月に五名、1796年12月に津太夫や吉郎次ら六名がイルクーツクに到着した。新藏は新たに到着した計十一名の世話も引き受け、役所と漂流民の間に立って、漂流民たちに仕事を斡旋(あっせん)した。津太夫ら若宮丸の漂流民の生き残り十四名はイルクーツクで七年間も暮らしたが、新藏の説得によりロシア正教会(Russian Orthodox Church)の洗礼を受けた善六をはじめとする計四名は日本語学校の教師となり、何不自由なく暮らしたのに対して、洗礼を受けなかった津太夫ら十名は役所から必要最低限の銅貨が支給されたものの生活は苦しく、津太夫は漁網を縫う仕事をし、他の者も漁師や大工の手伝いや、自家製の麵麭(パン)や、麦を原料とするドブロクを売り歩いてなんとか生活費を稼いだ。このため漂流民たちの間で対立が激しくなった。津太夫ら十名は親切に世話をしてくれ、役所と漂流民の間を取り持ってくれる新藏とは親しく交流し続けた反面、善六ら改宗者四名に対しては憎しみを抱くようになった。改宗者たちも新藏とは親しく付き合った。1799年2月28日には津太夫同様に洗礼を拒否した阿部吉郎次(あべ きちろぅじ, 1726-99)が満七十三歳でイルクーツクで病歿している。

1803年3月6日、若宮丸漂流民の生き残りである十三人全員が役所に召集された。そこで役人から皇帝の命令書が届いたので、明日(3月7日)、皇帝の遣いとともに帝都サンクト・ペテルブルクに向けて出発するように通達された。この命令を聞いた若宮丸漂流民たちは、世話になった人たちに挨拶を済ませ、急いで旅支度をした。この一行に新藏も日露通訳として加わった。新藏の帝都行きは当初、役所から認められていなかったが、新藏が津太夫に力を貸してくれと頼み、それを快諾した津太夫が新藏の同行を役所に強く訴えたために実現した。命令通り3月7日、馬車七台に分乗し、一行はイルクーツクを出発した。しかし3月8日、イルクーツクから200kmほど行った場所で左太夫と清藏の2人が乗り物酔いのために脱落した。二人は回復次第、別便で追い駆けることになり、一行は再び帝都に向けて出発した。馬車は昼夜を問わず走り続け、一日に130キロから140キロも走った。一行はクラスノ・ヤルスク、トムスク、エカテリンブルクを過ぎ、ペルミに着いた。ベルミで銀三郎が麻疹(はしか)のような病気に罹(かか)ってしまい、病状の悪化からとても旅を続けられる状態ではなくなったため、銀三郎はペルミの病院に入院し、一行は先を急ぐことになった。

一行はこの後、カザン、モスクワを経由し、1803年4月27日に帝都サンクト・ペテルブルクに到着した。帝都では同年5月16日に皇帝アレクサンドル一世(Александр I = Aleksandr I, 1777-1825; 在位1801-25)に謁見(えっけん)し、帰国の許可を求めた。一行のうちで帰国を希望した津太夫と儀兵衛(ぎへえ, 1762-1806)と左平(さへい, 生歿年不詳)と太十郎(たじぅろぅ, 1771-1806)の四名の帰国が許可された。新藏は帰国組四名と行動を共にし、帝都を一緒に見物した。一方、新藏にとっては後輩日本語教師兼日露通訳に相当する善六は帝都滞在中にロシアの貴族外交官レザノフ(Никола́й Петро́вич Реза́нов = Nikolaj Petrovich Rezanov, 1764-1807)と知り合った。レザノフは日本との交易を開始したいと考えていたので、自分の船に津太夫ら帰国組四名と通訳としての善六を載せて長崎港に入港して幕府と交渉する計画を持った。十一年前の1792年に北海道東部の根室國(ねむろ の くに)に来航して交易交渉に失敗したラスクマンの轍(てつ)を踏むまいとして今回は正式な貿易港の長崎にしようと決めた。

1803年6月12日、新藏は帰国の途に就く四名とロシア使節に同行する善六に付き添って帝都を発ち、帝都近郊のクロンシュタット港で五人を見送った。見送ったあとの新藏は、妻子の待つイルクーツクに戻った。帝都まで日露通訳として漂流民に付き添った功として官衣・官帽を着用することが許され、俸給も銀貨二百四枚に加増され、更に薪や蠟燭も官給となり、日本語学校の生徒であった新藏の息子にも年に銀貨五十枚が支給されるようになった。新藏は後妻カテリーナとの間に一女を授かった。

レザノフのロシア船に乗り込んだ日本人五名はバルト海、大西洋、南米、マゼラン海峡、太平洋、ハワイ、ロシア領カムチャツカ半島を経由したが、善六は外交官のレザノフとクルーゼンシュテルン艦長との諍いや日本人同士の諍いに巻き込まれ、カムチャツカ半島のペトロパブロフスク港で下船させられてしまい、長崎まで同乗することができなくなった。

ナジェシダ号と僚船ネヴァ号は1804年9月に長崎に入港した。図(はか)らずも日本人として初めて世界一周を成し遂げたことになる津太夫ら四名は、すぐに身柄を日本側に引き取られることはなかった。そのため不安と苛立ちから発病した者や、自殺未遂を起こした者まで出たが、1805年3月10日(日)に正式に身柄が日本側へ引き渡された。四名は長崎奉行所により訊問を受け、キリシタン宗門の疑いが晴れた後、迎えに来た仙台藩士と共に長崎を出立し江戸へ向かった。江戸では仙台藩主伊達周宗(だて ちかむね, 1796-1812)に引見し、藩邸の長屋で『環海異聞』編集のための聴取が行なわれた。すべてが終了したのは1806年2月下旬で、津太夫ら四名は十三年ぶりに帰郷を果たした。

一方のレザノフは1792年9月に幕府から交付された信牌(しんぱい: 外国船の長崎への入港許可証)を携(たずさ)えて、交易と正式な国交を求めて幕府側を説得するが、半年間出島(当時のオランダ語綴りで Decima)に留め置かれた儘(まま)で前へ動かず、諦めて次の航海のためにロシア領カムチャツカへ向かった。

1797年(寛政9年) 昌平坂學問所(1871年に廃止されるが、現在の国立大学法人東京大学の前身の一つとされる)が創設される。

1804年7月10日(火)(文化元年6月4日) 出羽國(現在の山形県)で象潟(きさかた)地震が発生。死者366人。

1806年4月22日(火)(文化3年3月4日) 江戸の三大大火の一つ、文化の大火=別名 丙寅(ひのえとら)の大火が発生。江戸南東部の芝高輪から出火し、焼失家屋は12万6000戸、死者は1,200人を超える。

1806年10月22日(水)(文化3年9月11日)~’07年6月6日(土)(文化4年5月1日) 「文化露寇」(和曆文化年間に起こったロシアによる日本襲撃の意)と呼ばれる一連のロシアによる日本襲撃事件が発生。二年前の1804年9月に長崎でのロシアの貴族外交官レザノフ(Никола́й Петро́вич Реза́нов = Nikolaj Petrovich Rezanov, 1764-1807)による幕府側との国交開始交渉が不首尾に終わったロシアでは、武力で日本を捻(ね)じ伏せるべしという意見が強くなり、幕府の非礼に怒ったレザノフ自身が嗾(けしか)けて、その部下フヴォストフ(Никола́й Алекса́ндрович Хвосто́в = Nikolaj Aleksandrovich Khvostov, 1776—1809)が1806年に樺太(現在のロシア極東部サハリン島)の松前藩居留地を襲撃し、その後は択捉島(えとりふ とう)駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を司令官に、津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約3,000名の武士を徴集し、宗谷や斜里など蝦夷地(えぞ ち)の要所の警護にあたった。しかしこれらの軍事行動はロシア皇帝アレクサンドル一世(Александр I = Aleksandr I, 1777-1825; 在位1801-25)の許可を得ておらず、皇帝は1808年に全軍に撤退を命じた。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。

1808年10月4日(火)(文化五年8月15日)~17日(月)(文化五年8月28日) 世に言う「フェートン号事件」または「長崎湾事件(Nagasaki Harbour Incident)」が発生。ナポレオン戦争(Napoleonic Wars)の一環として英国海軍(Royal Navy)の木造フリゲート艦フィートン(HMS Phaeton: 日本の歴史教科書では転訛してフェートン)が国際法に違反してオランダ国旗を掲げて長崎湾に不法侵入。ナポレオン戦争(オランダが宿敵ナポレオンのフランスに屈服済)を口実に出島(当時のオランダ語の綴りで Decima)で突如海賊行為を働き、オランダ人商館員2名を拉致(らち)して人質に取り、薪水(しんすい)と食料(米・野菜・肉)の提供を要求。供給がない場合は長崎港内の和船を焼き払うと脅迫。長崎奉行所は地元の飲料水や、オランダ商館が長崎唐人屋敷から買い付けた生きた豚や牛を提供しつつも、戦艦フィートンを抑留もしくは焼き討ちするための準備を進め、援軍の到着を待つが、その間に戦艦フィートンは碇(いかり)を上げて長崎港外に逃げ去る。日本側に人的被害も物損もなく、人質にされたオランダ人2名も無事に解放されて事件は解決したが、侵入異国船の要求に応じざるを得なかったのは国辱的事態と見做(みな)された。英国艦が去った1808年10月17日(月)、海防を怠った責任を取って長崎奉行松平康英(まつだひら やすひで, 1768-1808)が切腹。ほかに平和ボケして海防兵力を幕府の許可なく十分の一にまで減らしていた佐賀藩(鍋島藩)の家老ら数人も責任を取って切腹した。翌月(1808年11月)には江戸幕府が肥前國佐賀藩第九代藩主鍋島斉直(なべしま なりなお, 1780-1839)に閉門(へいもん: 逼塞(ひっそく)より重く、蟄居(ちっきょ)より軽い刑罰で、門扉や窓を閉ざし、昼夜ともに出入りを許されない自宅軟禁刑)百日を命じた。

1809年(文化六年) 幕府が長崎のオランダ語通詞たちに英語とロシア語の研究を命じる。前者(英語)については前年の1808年に起きた「フェートン号事件」の影響、後者(ロシア語)については三年前の1806年に起きた「文化露寇」の影響。

1811年(文化8年)5月~’13年(文化10年)9月 世にいう「ゴローニン(正しくはゴロヴニン)事件」が発生。ペトロパブロフスクに寄港していたスループ船「ディアナ号」(Диана; Diana)の艦長ゴロヴニン(Василий Михайлович Головнин = Vasily Mikhailovich Golovnin, 1776-1831)海軍大尉(後に海軍中将まで昇進)は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。1811年5月に択捉島(えとろふ とう; ロシア名 Итуру́п = Iturup)の北端に上陸し、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行なっていた松前奉行所調役下役の石坂武兵衛(いしざか たけべゑ, 生歿年不詳)と出会った。ゴロヴニンが薪水(しんすい)の補給を求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)會所に行くよう指示し、會所宛の手紙を渡した。しかし逆風に遭遇したことに加えて、当時の西洋人にとっては未探索地域であった根室海峡にゴロヴニンは関心を持ち、穏やかな入江がある國後島(くなしり とう; ロシア名 Кунаши́р = Kunashir)南部に向かった。1811年5月27日、泊(とまり: 現在は「ゴロヴニンの町」を意味する Головнино = Golovnino)湾に入港した。湾に面した國後陣屋に居た松前奉行支配調役の奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃させると、ゴロヴニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り、日本側と接触した。同年6月3日、海岸で武装した日本側の役人と面会し、日本側から陣屋に赴くよう要請される。1811年6月4日、ゴロヴニン、ムール少尉、フレブニコフ航海士、水夫四名(シーモノフ、マカロフ、シカーエフ、ヴァシリーエフ)と千島アイヌのアレクセイは陣屋を訪問した。食事の接待を受けた後、補給して良いか松前奉行の許可を得るまで人質を残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛された。この「騙し討ち」を見て、ロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになったという。

ディアナ号副艦長のリコルド(Пётр Иванович Рикорд = Pjotr Ivanovich Rikord, 1776-1855)は、ゴロヴニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行なったが、大した損害を与えることができず、そして攻撃を続けるとゴロヴニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退した。オホーツクに着いたリコルドは、この事件を海軍大臣に報告し、ゴロヴニン救出の遠征隊派遣を要請するため、同年9月に帝都サンクト・ペテルブルクへ出発した。途中、イルクーツク県知事トレスキン(Никола́й Ива́нович Трескин = Nikolaj Ivanovich Treskin, 1763-1842)を訪問したところ、既に遠征隊派遣を願い出ているとの説明を受けたことからイルクーツクに滞在したが、ナポレオン戦争(Nopoleonic Wars)によるヨーロッパ情勢の緊迫化のため日本への遠征隊派遣は却下となり、リコルドは五年前の1806年の「文化露寇」の際に捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門(れぅざえもん)こと中川五郎治(なかがわ ごろぅじ, 1768-1848)を連行してオホーツクへ戻った。

國後島からディアナ号が去ると、ゴロヴニンらは縄で縛られたまま徒歩で陸路を護送され、1811年7月2日に遠く箱館(現在の北海道函館市)に到着した。そこで箱館詰吟味役の大島榮次郎(おほしま えいじろぅ, 生歿年不詳)の予備尋問を受けた後、同年8月25日に松前に移され監禁された。1811年8月27日から松前奉行の荒尾成章(あらお なりあき, 生歿年不詳)の取り調べが行なわれた。荒尾は五年前の1806年のフヴォストフ(Никола́й Алекса́ндрович Хвосто́в = Nikolaj Aleksandrovich Khvostov, 1776-1809)の襲撃がロシア政府の命令に基づくものではなく、ゴロヴニンもフヴォストフとは関係ないという主張を受け入れ、ゴロヴニンらを釈放するよう同年11月に江戸に上申したが、幕閣は釈放を拒否した。

1812年春、ゴロヴニンは監視付の散歩が許されるようになり、牢獄から城下の武家屋敷への転居が行なわれたが、このまま解放される見込みがないと懸念したゴロヴニンらは、脱獄して小舟を奪い、ロシア領カムチャツカ半島か沿海州方面へ逃げることを密かに企てた。当初はムールやアレクセイも賛同したが、結局は翻意した。3月25日にムールとアレクセイを除く六名が脱走した。松前から徒歩で北に向かって山中を逃げたが、同年4月4日、木ノ子村(現在の北海道上ノ国町)で飢えて疲労困憊となっているところを村人に発見され捕まった。松前に護送され、奉行の尋問を受けた後、徳山大神宮の奥にあるバッコ沢(現在の北海道松前町字神内)の牢獄に入れられた。

オホーツクに戻ったリコルドは、ゴロヴニン救出の交渉材料とするため、良左衛門こと中川五郎治や1810年にロシア領カムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号と補給船「ゾーチック号」の二隻で1812年夏に國後島へ向かった。同年8月3日に泊に到着し、國後陣屋でゴロヴニンと日本人漂流民の交換を求めるが、松前奉行調役並の太田彦助(おほた ひこすけ, 生歿年不詳)は漂流民を受け取るものの、ゴロヴニンらの解放については既に処刑したと偽(いつわ)り拒絶した。リコルドはゴロヴニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するため、1812年8月14日早朝、國後島沖で廻船業者の高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ, 1769-1827)の手船「観世丸」を拿捕(だほ)した。乗船していた嘉兵衛と水主(かこ: 船乗りの意)の金藏と平藏と吉藏と文治とアイヌ出身のシトカの計六名をペトロパブロフスクへ連行した。

ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年オリカと親しくなり、ロシア語を学んだ。嘉兵衛らは自由に行動することが許され、新年(1813年)には現地の人々に日本酒を振る舞い親交を深めた。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛も諸外国の商人と交流した。嘉兵衛は寝ているリコルドを揺り起こし、事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。嘉兵衛はゴロヴニンが捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、幕府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴロヴニンらは釈放されるだろうと説得した。1813年2月と3月に、ロシアに連行された文治と吉藏とシトカが病死した。嘉兵衛はキリスト教の葬式を行なうというロシア側の申し出を断り、自ら仏教、アイヌそれぞれの様式で三人の葬式を行なった。その後、自(みずか)らの健康を不安に感じた嘉兵衛は情緒が不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドはこのときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の提言に従い、カムチャツカ長官名義の謝罪文を書き上げ、日露交渉に赴いた。

幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフボォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴロヴニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴロヴニンに翻訳させ、ロシア船の来航に備えた。

1813年5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港し、國後島に向かった。同年5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金藏と平藏を國後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した。

ディアナ号の國後島到着の知らせを受けた松前奉行は、吟味役の高橋重賢(たかはし しげかた, 1758-1833)、柑本兵五郎(こぅじもと へいごろぅ, 生歿年不詳)を國後島に送った。二人はシーモノフとアレクセイを連れて國後島に向かい、1813年6月19日に到着した。しかしながらリコルドが日本側に提出した謝罪文は、リコルドが嘉兵衛を捕らえた当人であったという理由から幕府が採用せず、リコルドは他のロシア政府高官による公式の釈明書を提出するよう求められた。

日本側の要求を承諾したリコルドは、1813年6月24日に釈明書を取りにオホーツクへ向け國後島を発った。一方、高橋と嘉兵衛らは1813年6月29日に國後島を出発し、1813年7月19日に松前に着いた高橋は松前奉行の服部貞勝(はっとり さだかつ, 1761-1824)に交渉内容を報告。そして1813年8月13日にゴロヴニンらは牢から出され、引渡地である箱館(現在の北海道函館市)へ移送された。

リコルドはオホーツク港へ帰還すると、イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を入手した。若宮丸の漂流民でロシアに帰化していた通訳のキセリョフ善六(ぜんろく; ロシア名 Пётр Степанович Киселёв = Pjotr Stepanovich Kisyelyov, 1769-1816)と、歓喜丸漂流民の久藏(きぅぞぅ, 1787-1853)を乗せて、1813年7月28日にオホーツクを出港した。二十日後には蝦夷地を肉眼で確認できる位置まで南下し、1813年8月28日に内浦湾に接近したが、暴風雨に遭遇し、1813年9月11日に漸(ようや)く絵鞆(現在の室蘭市)に入港した。そこで水先案内のため待機していた嘉兵衛の手下である平藏がディアナ号に乗り込み、1813年9月16日夜に箱館(現在の北海道函館市)に到着した。入港直後には嘉兵衛が小舟に乗ってディアナ号を訪問し、リコルドとの再会を喜び合った。1813年9月18日朝、嘉兵衛がディアナ号を訪問し、リコルドはオホーツク長官の釈明書を手渡した。1813年9月19日正午、リコルドと士官二名、水兵十名、そして善六が上陸して、沖の口番所で高橋重賢らと会見し、イルクーツク県知事の釈明書を手渡した。この会談で善六はリコルドの最初の挨拶を通訳したが、以後の通訳は日本側の通訳である村上貞助(むらかみ さだすけ, 生歿年不詳)が行なった。松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、1813年9月26日にゴロヴニンらを解放し、日本人漂流民の久藏を引き取ったが、ロシアとの交易開始については拒絶した。

任務を終えたディアナ号は1813年9月29日に箱館(現在の北海道函館市)を出港し、同年10月23日にペトロパブロフスクに帰還した。

なお、ゴロヴニンはロシアに帰国後、日本での捕囚生活に関する手記を(Записки флота капитана Головнина о его приключениях в плену у японцев в 1811, 1812 и 1813 годах; 英直訳 Notes by Fleet Captain Golovnin of His Adventures in the Thrall of the Japanese in the Years 1811, 1812 and 1813; 日本語直訳 『1811年と1812年と1813年に日本人に幽閉された冒険に関する艦隊艦長ゴロヴニンの手記』; 江戸期1825年邦題 『遭厄日本記事』; 現代邦題 『日本幽囚記』)執筆し、1816年にロシア帝国の官費で出版した。三部構成で、第一部・第二部が日本に於ける捕囚生活の記録、第三部が日本及び日本人に関する論評である。

1816年 「夏の無い年」(英 the Year Without a Summer; 仏 l’année sans été; 伊 l’anno senza estate; 独 das Jahr ohne Sommer; 中文 無夏之年)として後代に末永く語り継がれることになる。前年(1815年)に蘭印(オランダ領東インド諸島)=現在のインドネシア中南部のスンバワ島(Pulau Sumbawa; 英訳 Sumbawa Island)に在(あ)るタンボラ山(Gunung Tambora; 英訳 Mount Tambora)の大規模噴火が原因で、北半球一帯が異常低温に見舞われたことが原因である。1815年から翌’16年にかけて作物の不作や食糧不足が欧米諸国や淸國や德川期日本で深刻な問題となる。

1819年8月2日(月)(文政2年6月12日) 15:00頃、北近江(現在の滋賀県北部)を震央とする推定マグニチュード7.7から7.5規模の巨大地震「文政近江地震」が発生。

1822年(文政5年) 五年前の1817年(文化14年)にインド東部のカルカッタ(現コルカタ)で発生し、世界中に感染を拡げたコレラ(cholera)渦が日本にも伝染。当時は鎖国状態であったが、国際交易都市である長崎から流行し、患者・死者数は十数万人と推計される。関所が多かったこともあり、江戸は伝染を免(まぬが)れる。コレラが江戸にまで達し、多くの死者を出すのは三十六年後の1858年(安政5年)のこと。

1825年 十七年前の1808年のフェートン号事件を受けて江戸幕府が異國船打拂令を発布。

1828年12月18日(木)(文政11年11月12日) 新潟で推定マグニチュード6.9規模の三条地震が発生。死者1,500人以上と考えられる。

1829年4月24日(金)(文政12年3月21日) 江戸で文政の大火が発生。神田佐久間町から出火し、北西風により延焼。焼失家屋37万。死者2,800人。

1830年8月19日(木)(文政13年7月2日) 推定マグニチュード6.9前後の文政京都地震が発生。この天変地異のため天保(てんぽう)への改元となる。即死280人と記録される。

1833年12月7日(土)(天保4年10月26日) 推定マグニチュード7.5規模の庄内沖地震が発生。最大8メートル程度の津波も発生し、溺死者計85人が記録される。

1834年3月16日(日)(天保5年2月7日) 江戸で甲午火事が発生。神田佐久間町から出火し、北西風により延焼。以後一週間に亘(わた)って火事が連続して発生し、死者4,000人。

1835年(天保4年)~1839年(天保10年) 江戸時代の三大飢饉の一つ(三つ目だが四大飢饉としては四つ目)に数えられる東北地方を襲った天保の飢饉により、津軽藩で推定約13万人が餓死。秋田藩に至っては人口の約4分の1が餓死。半世紀前の天明の飢饉と比較して、凶作対策が行われたため死者の数は少ない。將軍は第十一代の德川家斉(とくがは いへなり; とくがわ いえなり, 1773-1841; 將軍在任1787-1837)と、第十二代の德川家慶(とくがは いへよし; とくがわ いえよし, 1793-53; 將軍在任1837-53)。資料によっては1834年(天保3年)~1839年(天保10年)。

1837年3月25日(土)(天保8年2月19日) 大坂(現在の大阪府大阪市)の飢えた民(たみ)を救済すべく、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(おほしほ へいはちらう; おおしお へいはちろう, 1793-1837)が叛乱を起こすも鎮圧される。天下泰平の江戸時代(1603-1868)に旗本が出兵した戦(いくさ)としては寛永年間に起きた島原の乱(1637-38年)以来二百年ぶりの合戦。世に言う「大塩平八郎の乱」。

1839年6月24日(月)(天保10年5月14日) 鎖国を批判して開国を説いた蘭学者の渡辺崋山(わたなべ かざん, 1793-1841)や高野長英(たかの ちょうえい, 1804-50)らを罰する言論弾圧事件「蠻社(ばんしや)の獄」が起きる。後者の高野長英は1844年6月30日(日)に牢屋敷の火災に乗じて脱獄し、各地を転々としたのち、1850年10月30日(水)、江戸青山百人町(現在の東京都港区南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛され、護送中に絶命。

1841年(天保12年)~’52年(嘉永5年) 通称「ジョン萬次郎」(但し、直木賞作家井伏鱒二が昭和十三年=1938年に拵(こしら)えた名)の漂流。土佐國中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の半農半漁の家の次男に生まれた当時満十四歳の萬次郎(まんじろぅ, 1827-98)=後の中濱萬次郎(なかはま まんじろぅ, 1827-98)は、1841年に手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間四名と共に遭難。五日半の漂流後、奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島(とりしま)に漂着し、百四十三日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号(John Howland)に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者四名は寄港先のハワイで降ろされるが、ホイットフィールド(William H. Whitfield, 生歿年不詳)船長に頭の良さを気に入られた萬次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界の中の日本の小ささに驚いた。船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。

1841年、アメリカ本土東海岸に渡った萬次郎は、マサチューセッツ州フェアヘイヴン市(Fairhaven, Massachusetts: 直訳「美港」)でホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年にはオクスフオッド学校(Oxford School)、1844年にはバーレット・アカデミー(Barlett Academy)で英語、数学、測量、航海術、造船技術を学ぶ。寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席になった。民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験した。

学校を卒業後は捕鯨船フランクリン号(Franklin)に乗る道を選び、1846年から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として、ハワイやフィリピンに寄港しながら生活した。ハワイ王国の首都ホノルル(現在の米国ハワイ州州都ホノルル市)では土佐の漁師仲間と再会した。1849年9月にマサチューセッツ州ニューベドフオッド市(New Bedford, Massachusetts: 直訳「新床津」)に帰還した。1850年5月、日本に帰国するための資金を得るため、空前のゴールドラッシュ(gold rush)に沸くカリフォルニアのサンフランシスコへ到り、そこからサクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山間部へ入った。数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。そこで得た600米ドルの資金を持ってハワイ王国の首都ホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会し、1850年12月17日、今度は上海行きの商船に漁師仲間四名のうち希望者二名と共に乗り込み、購入した小舟アドベンチャー号(Adventure)も載せて日本へ向け出航した。

1851年2月2日、薩摩藩に服属していた琉球(現在の沖縄県)に小舟アドヴェンチャー号(Adventure: 「冒険」の意)で上陸し、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。日本本土から入るよりも琉球から入る方が容易に入国できそうだとの計算の上でのことだった。海外から鎖国の日本へ帰国した萬次郎らは薩摩藩の取調べを受けた。薩摩藩では萬次郎の一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩主島津斉彬(しまづ なりあきら, 1809-58)は自ら萬次郎に海外の情勢や文化等について下問(かもん)した。萬次郎は斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について藩士たちに教示し、薩摩藩はその情報に基(もと)づいて和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は萬次郎の英語や造船の知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校である開成所の英語講師として招いた。

薩摩藩での取調べの後、萬次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所で長期間の尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明され、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下に於いては吉田東洋(よしだ とうよう, 1816-62)らにより藩の取り調べを受け、その際に萬次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍(かはだ しゃぅりぅ, 1824-98)は萬次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』として纏(まと)めた。帰郷が許されたのは帰国から約一年半も経過した1852年、故郷に帰還した。漂流からは既に十一年も経っていた。

なお、帰郷後の萬次郎は特別待遇を受け、土佐藩の士分(武士の身分)に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。1853年、黒船来航への対応を迫られた幕府は、アメリカの知識を必要としていたことから、萬次郎は幕府に召聘(しょうへい)され江戸へ趣き、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられ、中濱萬次郎(なかはま まんじろぅ, 1827-98)となった。当時の日本では英語を話せるのは中濱萬次郎しかいなかったので、ペリー代将(Commodore Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)との交渉の通訳に適任とされたが、オランダ語を介しての通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局日米通訳の役目から下ろされてしまったが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をして協力したと言われている。

1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一員として、幕府のオランダ製軍艦咸臨丸(かんりんまる; オランダ語の旧称 Japanパン)に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟(かつ かいしう, 1823-99)が船酔いのためまともな指揮を執れなかったため、中浜萬次郎は代わって船内の秩序保持に努めた。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時には同行の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)と共に分厚いウェブスター英語辞典(An American Dictionary of English Language by Noah Webster)を購入し日本に持ち帰った。1866年、土佐藩が開成館を設立するにあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。明治維新後の1869年には明治新政府により開成学校(現在の東京大学)の英語教授に任命される。1870年、普仏戦争(Franco-Prussian War, 1870-71)視察団として大山巖(おほやま いわお, 1842-1916)らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けず、視察団が拠点としたロンドンで待機した。西回りでの帰国の途上、アメリカでの恩人ホイットフィールド船長と再会し、身に着けていた日本刀を贈った。

1842年 英国が阿片戦争で圧勝したことを「阿蘭陀(オランダ)風説書」から知った江戸幕府が、十七年前の1825年に発布した異國船打拂令を撤廃。

1845年3月2日(日)(弘化2年1月24日) 江戸で青山火事が発生。青山から出火し、北西風により延焼。焼失した町126・武家屋敷400・寺社187。死者800~900人。火消集団同士の乱闘で死傷者を出す。

1847年(弘化4年) 京都御所日御門前に公家(くげ)を対象とした教育機関、學習院(現在は東京都豊島区目白に在る学習院の前身)が開講。

1847年5月8日(土)(弘化4年3月24日) 信濃國長野(現在の長野県長野市)で善光寺地震が発生。善光寺の御開帳に重なったこと、山崩れで犀川に出来た堰(せ)き止め湖が決壊するなど不運が重なり、一万人を超す犠牲者を出す。

1853年3月11日(金)(嘉永6年2月2日) 相模國(現在の神奈川県)で嘉永小田原地震が発生。

1853年5月26日(和曆嘉永6年4月19日) 米海軍(United States Navy)東インド艦隊(East Indies Fleet)司令官ペリー代将(Commodore Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)率いるフリゲート艦4隻(内2隻が蒸気船「サスケハナ」と「ミシシッピ」で、残り2隻が旧式の帆船)が、琉球王國の那覇(なは)に来航し、無許可で海図を作成。後に「黑船(くろふね)」と呼ばれることになる。

1853年7月8日(金)(和曆嘉永6年6月3日)~14日(木)(和曆嘉永6年6月9日) 黒船来航。米海軍(United States Navy)東インド艦隊(East Indies Fleet)司令官ペリー代将(Commodore Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)率いるフリゲート艦4隻(内2隻が蒸気船「サスケハナ」と「ミシシッピ」で、残り2隻が旧式の帆船)が、相模國浦賀(現在の神奈川県横須賀市の東部地域)に突如来航。「サスケハナ」は全長78メートル、排水量2,450トン、船体を防水・腐食防止用のタールで黒く塗った木造船。その黒い船体から日本側は「黑船(くろふね)」と呼ぶ。帆走用の帆も備えているが、蒸気ボイラーの煙突があり、船体の両横には蒸気機関で回転する大きな外輪が備えられている。ペリーの米艦隊は圧倒的な軍事力を誇示して日本の江戸幕府に開国を迫る。幕府はペリーに長崎へ行くように伝えるも、ペリーはこれを拒否するばかりか、米艦隊の周りに纏(まと)わりついている和船がどかなければ攻撃を加えると脅しただけでなく、実際に艦砲射撃して見せて浦賀の建物の一部を焼き払うという蛮行にも出る (被害状況・死傷者数ともに不詳)。幕府はフィルモア(Millard Fillmore, 1800-74; 大統領在任1850-53; ニューホープ・アカデミー聴講)米大統領(但し、既に同年3月4日(金)に退任済)の親書を受け取ることを承諾し、ペリーの一行は相模國久里浜(現在の神奈川県横須賀市の南東部)に一旦上陸したが、また戻って来ると言い残し、中国沿海部へ退散。

1854年3月31日(金)(嘉永7年3月3日) 武藏國久良岐郡橫濱村字駒形(現在の神奈川県横浜市中区の横浜開港資料館所在地)にて、江戸幕府とアメリカ合衆国との間に日米和親条約(US-Japanese Friendship Treaty)が締結され、「鎖国」が終焉(しゅうえん)。但し、「鎖國」という用語は蘭学者志筑忠雄(しづき ただお, 1760-1806)が、1801年成立の『鎖国論』に於いて初めて使用した。この和書は1690年から’92年にかけて来日したドイツ人医師ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651-1716; 実際の発音はケンプファー)が、帰郷後に日本に関する体系的な文章の執筆に取り組み、死後にその遺稿をグレートブリテン王国の出版社が英語で1727年に出版した The History of Japan (直訳 『日本の歴史』; 邦題 『日本誌』)に基づき、1777‐79年にはドイツ語版 Geschichte und Beschreibung von Japan (直訳 『日本の歴史と描写』; 邦題 『日本誌』)が出版された。そのオランダ語版第二版(1733年)の巻末附録の最終章に当たる 『日本国に於いて自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を上記の志筑(しづき)が訳出する際に題名があまりにも長いので、『鎖國論』とした。これこそが「鎖國」という言葉の初出であった。しかし本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖國」という語も広まらなかった。実際に「鎖國」という語が幕閣の間で初めて使われたのは米海軍(US Navy)のペリー代将(Commodore Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)が開国を求めて来航した1853年のこと、そして本格的に定着していくのは安政五ヶ国條約が結ばれた1858年以降とされている。同年にはイギリスとの間に日英和親条約(Anglo-Japanese Friendship Treaty)も締結され、1623年(元和9年)以来、二百三十一年間にも亘る日英無交渉状態に終止符が打たれる。

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これ以降、西欧文化が流入

1854年7月9日(日)(嘉永7年6月15日) 現在の三重県で伊賀上野地震が発生。安政伊賀地震とも呼ばれる

1854年12月23日(土)(嘉永7年11月4日) 現在の静岡県で安政東海地震が発生。このとき、伊豆半島南部の下田港ではプチャーチン(Евфимий Васильевич Путятин = Jevfimij Vasil'jevich Putjatin; ; 蘭 Jevfimi Vasiljevitsj Poetjatin; 英 Yevfimiy Putyatin, 1803-83)提督と日露交渉が行なわれている最中で、戦艦ディアナ号が津波により大破。ディアナ号は修理のため伊豆の戸田に曳航(えいこう)中に沈没。その後、乗船していたモジャイスキーの指導で、日本の船大工が洋船「戸田号」を建造し、乗務員をロシアに帰国させる。日本側にとっては洋船の建造技術を学ぶ良い契機となる。翌年(1855年)には、日露和親条約が締結される。

1854年12月24日(日)(嘉永7年11月5日) 前日の安政東海地震の約32時間後に安政南海地震が発生し、高知や和歌山などが強い揺れと津波に見舞われる。大坂(現在の大阪府大阪市)でも津波によって河川を遡上した大型船により大きな被害が出る。

1854年12月26日(火)(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震が発生。死者数不明。

1855年2月7日(水)(安政2年12月21日) 伊豆國下田(現在の静岡県下田市)の長楽寺にてオランダ語を共通言語として使用し、日本國魯西亞國通好條約(蘭 Verdrag van handel en scheepvaart tussen Japan en Rusland; 露 Договор о торговле и мореплавании между Россией и Японией; 英 Treaty of Commerce and Navigation between Japan and Russia)=現在の通称「日露和親条約」が蘭露和漢の四言語で締結される。

1855年3月18日(日)(安政2年2月1日) 現在の岐阜県北部で飛騨地震が発生。死者12人。

1855年9月13日(木)(安政2年8月3日) 現在の岩手県東部で安政陸前地震が発生。

1855年11月11日(日)(安政2年10月2日) 現在の東京都23区東部で安政江戸地震が発生。日比谷の入江を埋め立てた大名小路や、隅田川の東側の沖積低地で大きな被害を出す。地震後、30数箇所で火災が発生し、遊郭街の新吉原(現在の東京都台東区)では千人以上が死亡。死者総数は4,500~2万6千人。また、小石川(現在の東京都文京区)に在った水戸藩上屋敷では屋敷が崩れ、常陸水戸藩の第9代藩主德川斉昭(とくがは なりあき, 1800-60)を支えた藤田東湖(ふじた とうこ, 1806-55)と戸田忠太夫(とだ ちゅうだゆう, 1804-55)が圧死。

1856年8月23日(土)(安政3年7月23日) 現在の青森県東部で安政八戸沖地震が発生。

1856年9月23日(火)(安政3年8月25日) 颱風(typhoon)が江戸を襲い、多くの建物が損壊。高潮も発生し、死者が10万人に及んだとの記録もある。

1857年10月12日(月)(安政4年8月25日) 藝予地震が発生。死者数不明。

1857年(安政4年) 百七十三年前の1684年に創設された天文方が蕃書調所(現在の国立大学法人東京大学の前身とも言える学問所)に改称して洋書精読の場に

1858年4月9日(金)(安政5年2月26日) 飛越地震が発生。死者426人。

1858年 江戸幕府が米露蘭英仏と安政五ヶ国條約(Ansei Treaties)と呼ばれる一連の不平等条約を結ぶ。7月29日(木)(和曆安政5年6月19日)の日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)、8月18日(水)(和曆安政5年7月10日)の日蘭修好通商条約(Japans-Nederlandse Vriendschap- en Handelsverdrag)、8月19日(木)(和曆安政5年7月11日)の日露修好通商条約(Русско-японская дружелюбие договор о торговле = Russko-yaponskaya druzhelyubiye dogovor o torgovle)、8月26日(木)(和曆安政5年7月18日)の日英修好通商条約Anglo-Japanese Treaty of Amity and Commerce)、10月9日(土)(和曆安政5年9月3日)の日仏修好通商条約(Traité d’amitié et de commerce entre la France et le Japon)。これを以(もっ)て日英間の公式な国交が開始されたと見るのが定説であり、日英の外務省もそのように見做(みな)す。

1858年10月 中津藩士の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)が江戸に蘭學所(現在の慶應義塾大学)を開学

1858年~59年(安政5年~6年) 長崎から始まったコレラ(cholera)の流行が東海道を通って江戸にまで達する。江戸だけで死者が3万人(一説では10万人)にも及び、『安政箇勞痢(コレラ)流行記』に当時の様子が記される。江戸の医者の私財によって神田お玉ヶ池種痘所(現在の国立大学法人東京大学医学部の前身)が設立される。また、この間には開国派の大老井伊直弼(いい なおすけ, 1815-60; 大老在任1858-60)と尊王攘夷派との対立が深まる。井伊直弼は開国反対派を弾圧し、常陸水戸藩の第9代藩主德川斉昭(とくがは なりあき, 1800-60)などを謹慎させ、通称 吉田寅次郎(よしだ とらじらう, 1830-59)こと、吉田松陰(よしだ しょういん, 1830-59)などを処刑。世に言う「安政の大獄」。

1860年(安政7年)2月~(萬延元年)11月 1860年2月9日(木)、萬延元年遣米使節が品川沖に停泊中の米艦ポーハタン号に乗船することで開始される。護衛目的で幕府のオランダ製軍艦咸臨丸(かんりんまる; オランダ語の旧称 Japan ヤパン)も同行。途中ハワイ王国(現在の米国ハワイ州)に立ち寄り、3月18日(日)に米国サンフランシスコ市に上陸。サンフランシスコでは中津藩士の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)が写真館に立ち寄り、近くに居たシオドーラ・アリス(Theodora Alice, 1845? - 歿年不詳)という十五歳の少女と一緒に写真に収まり、同行した中濱萬次郎(なかはま まんじろぅ, 1827-98)と共に分厚い『ウェブスター英語辞典』(An American Dictionary of English Language by Noah Webster)を購入した。一行は一挙に南下して中米のパナマ運河を通り、大西洋に到達すると、この地で一年以上も使節団の到着を待っていた米艦ロアノーク号(USS Roanoke)に乗り換え、北上して米国東海岸を目指した。東海岸では首都ワシントン、古都フィラデルフィア、最大都市ニューヨークを見物。ニューヨークを出発した一行は、北大西洋を横断してポルトガル領カーボヴェルデ(「緑岬」の意; 現カーボヴェルデ共和国)のサン・ヴィセンテ島ポルトグランデ(「大港」の意; 現ミンデロ港)に至り、そこから南下してアフリカのポルトガル領アンゴラ(現アンゴラ共和国)のルアンダ港を経由し、8月27日(月)には喜望峰を回ってインド洋に入り、東進してオランダ領バタヴィア(現インドネシア共和国ジャカルタ特別州)、英領香港(現中華人民共和國香港特別行政區)を経由し、11月9日(金)に品川沖に帰着した。

1860年3月24日(土)(安政7年3月3日) 安政の大獄で恨みを買った大老井伊直弼(いい なおすけ, 1815-60; 大老在任1858-60)が水戸藩や薩摩藩の脱藩浪士によって暗殺される。世に言う「桜田門外の変」。

1862年 麻疹(ましん; はしか; 蘭 mazelen; 独 Masern; 羅 morbilli; 英 measles; rubeola)が大流行し、江戸だけで24万人もの死者が出たとの記録もある。

1862年(文久元年)1月~1863年(文久2年)1月 1862年1月21日(火)、文久遣欧使節が英国海軍(Royal Navy)の蒸気フリゲート艦オーディン号(HMS Odin)で欧州に向けて品川港を出港。長崎港、英領香港(現在の中華人民共和國香港特別行政區)、英領シンガポール(現在のシンガポール共和国)、英領セイロン(現在のスリランカ民主社会主義共和国)、英領イエメン(現在のイエメン共和国)を経てエジプトのスエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリア港に出て、船で地中海を渡り英領マルタ(現在のマルタ共和国)を経て、同年(1862年)4月3日(木)にフランス帝国マルセイユ港に上陸。一行に加わった中津藩士の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)は、英領香港で英人が現地の中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けたという。一行はリヨンを経由して同年(1862年)4月7日(月)にナポレオン三世(Napoléon III or Louis-Napoléon Bonaparte, 1808-73; 共和国大統領在任 1848-52; 皇帝在位1852-70)統治下の帝都巴里(Paris)に到着し、当初の目的を果たすべく両港(新潟、兵庫)開港と両都(江戸、大坂)開市の延期交渉をするも相手にされず。同年(1862年)4月30日(水)、英京倫敦(London)に到着し、日本事情に詳しいオルコック(Sir Rutherford Alcock, 1809-97)初代駐日総領事の休暇帰国を待つ。その間に福澤諭吉はロンドン万国博覧会(London International Exhibition on Industry and Art 1862; Expo 1862)を視察し、蒸気機関車・電気機器・植字機に触れ、病院を見学し、幕府から支給された支度金400両を使ってイギリスで刊行された物理学や地理学の書物を買い込む。同年(1862年)6月6日(金)にオルコックの協力を得て兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を五年延期する倫敦(London)覺書の調印に成功。その後、同年(1862年)6月13日(金)にはオランダ王国とハーグ(den Haag)覺書を同年(1862年)7月18日(金)にはプロイセン王国(現在のドイツ連邦共和国)と伯林(Berlin)覺書を締結。樺太(現在のロシア極東部サハリン州)国境問題を討議するために帝都ペテルブルクも訪問。その地で澤諭吉は陸軍病院を訪れ、外科手術を見学。帰路に再び寄ったフランス帝国(現在のフランス共和国)とは巴里(Paris)覺書を調印することにも成功。一行は10月9日(木)にポルトガル王国(現在のポルトガル共和国)を訪れ、英領ジブラルタルを経由した後は往路とほぼ同じ行路を辿(たど)り、翌年(1863年)1月30日(金)、一年強の旅を終えて帰国。

1862年 九年前の1853年の黒船来航時に、オランダ生まれでアメリカ側通訳を務めたアントン・ポートマン(Anton L. C. Portman, 生歿年不詳)艦隊書記・参謀=後の駐日米国代理公使(1865-66年)を介し、オランダ語で交渉を行なったオランダ語通詞の堀達之助(ほり たつのすけ、1823-94)らが既存の英蘭辭典(洋書)を和訳して『英和對譯袖珍辭書』(英題 A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language; 語彙約2万語; 全953頁)を出版。

1862年 蕃書調所が洋書調所(現在の国立大学法人東京大学の前身)に名を変えて洋書精読の場となる。

1862年9月14日(日) 江戸(現在の東京)から橫濱(横浜)方面へ向かう途中の武藏國橘樹郡生麥村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で生麥事件が起こる。薩摩藩主島津茂久(しまづ もちひさ, 1840-97)=後の島津忠義(しまづ たゞよし, 1840-97)公爵の父、島津久光(しまづ ひさみつ, 1817-87)の行列に乱入した騎馬のイギリス人4名(男3名+女1名)を供回りの藩士が刀で斬りつけ、そのうち二十八歳の商人の男性1名(Charles Lennox Richardson, 1834-62)を殺害、男女各1名を負傷させる。

1863年1月9日(金) 英国議会が四ヶ月近く前の1862年9月14日(日)に起こった生麦事件への報復として薩摩藩に対する武力制裁を議決。

1863年1月31日(土) 英国公使館焼き討ち事件。長州藩士の高杉晋作(たかすぎ しんさく, 1839-67)を隊長とする奇兵隊十余名が、江戸品川御殿山(現在の東京都品川区北品川)で建設中の在日本國英國公使館(British Legation in Yedo, Japan)に放火して、これを焼き払う。火付け役には伊藤俊輔(いとう しゆんすけ, 1841-1909)=後の伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)がいた。奇兵隊は事件の十二日前には橫濱(横浜)の山手地区に居る欧米人たちを襲撃する計画もあったが、長州藩主毛利定廣(もうり さだひろ, 1839-96)の説得で中止していた。

1863年 洋書調所が開成所(現在の国立大学法人東京大学の前身)に名を変えて発展。

1863年 スコットランド教会の流れを汲む米国長老派教会の宣教師ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)とその妻が橫濱に男女共学の私塾ヘボン塾(現在の明治学院大学の前身)を開校。なお、ヘボンはヘボン式ローマ字(Hepburn romanization; the Hepburn system)の考案者。

1863年6月27日(木) 後に「長州五傑」や「長州ファイヴ(Choshu Five)」と呼ばれることになる長州藩士五人組が、長州藩主毛利定廣(もうり さだひろ, 1839-96)の藩命により国禁を犯して橫濱(横浜)港から英国資本ジャーディン・マセソン社(Jardine Matheson Holdings Limited; 怡和控股有限公司)の船「チェルズィック号」(Chelswick)に乗り込み海外へ密航。斡旋(あっせん)したのは在橫濱英國總領事館(British Consulate-General in Yokohama, Japan)のガワー總領事(Consul-General Gower)。当時世界一の先進国だった英国を目指すが、まずは英国が事実上統治する上海(Shanghai)へ向かう。五人組の内訳は、井上聞多(いのうへ たもん, 1836-1915)=後の井上馨(いのうへ かをる, 1836-1915)侯爵・外務卿・外務大臣・農商務大臣・内務大臣・大蔵大臣と、維新後に造幣局長に就任する遠藤謹助(ゑんどう きんすけ, 1836-93)と、維新後に子爵に叙せられ工部卿に就任する山尾庸三(やまを ようぞう, 1837-1917)と、伊藤俊輔(いとう しゆんすけ, 1841-1909)=後の伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)公爵・初代總理大臣と、野村彌吉(のむら やきち, 1843-1910)=後の井上勝(いのうへ まさる, 1843-1910; ロンドン大学卒)子爵・鐡道廳(鉄道庁)長官という具合に同年1月末に英国公使館焼き討ち事件を起こした者が3人も(井上馨、伊藤博文、山尾庸三)入っていた。

1863年7月20日(月)~8月14日(金) 長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた約半月後、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、 海峡封鎖を続行。イギリスをはじめとした欧米列強に経済的損失を与える。

1863年8月11日(火) 計7隻の英国艦隊が鹿兒島湾(鹿児島湾)に現れる。イギリス側の目的は戦争ではなく、前年(1862年)9月の生麦事件の賠償問題に対する直接交渉であり、英国海軍は改めて犯人の逮捕処罰と賠償金2万5千磅(ポンド)を要求。

1863年8月15日(土)~17日(月) 薩英戦争(Royal Navy’s bombardment of Kagoshima)が勃発(ぼっぱつ)。薩摩藩側が時間稼ぎを行ない、前年(1862年)9月の生麦事件の賠償問題に対して何ら回答を出さないことから、とうとう痺(しび)れを切らした英国海軍は薩摩藩の汽船3隻を拿捕するという強硬手段に出る。この時、後の英国留学生となる五代友厚(ごだい ともあつ, 1836-85)と寺島宗則(てらしま むねのり, 1832-93)の2人は英国海軍の捕虜(PoWs: prisoners of war)となり、橫濱(横浜)に連行される。続いて英国艦隊は薩摩國薩摩藩鹿兒島(現在の鹿児島県鹿児島市)の町を砲撃したが、薩摩藩も天保山砲台から大砲で応戦し、英国艦隊との間で激しい砲撃戦を展開。この戦闘で鹿兒島城下北部が焼かれ、諸砲台が壊滅的損害を受けた。英国側の死傷者は60余人に及び、思わぬ苦戦を強いられた英国艦隊は鹿兒島湾を去り、橫濱に戻っていく。その後、在橫濱英國總領事館(British Consulate-General in Yokohama, Japan)で3回に及ぶ講和交渉が行なわれ、薩摩藩が賠償金2万5千磅(ポンド)を幕府から借用して支払うことで和解が成立する。交渉中に薩摩側がイギリス側に軍艦購入の周旋を依頼したことから、以後、薩英の間に親密な関係が築かれていく。戦闘前は攘夷(じょうい)に傾いていた薩摩藩だったが、イギリスの力を思い知り、攘夷を断念し、以後の討幕運動ではイギリスの力を借りることになる。なお、五代友厚(ごだい ともあつ, 1836-85)と寺島宗則(てらしま むねのり, 1832-93)は一年七ヶ月後の1865年3月には薩摩藩遣英使節団の視察員となる。

1863年 薩英戦争の直前に英国に捉えられたいた五代友厚(ごだい ともあつ, 1836-85)と寺島宗則(てらしま むねのり, 1832-93)の2人は、幕吏や攘夷派から逃れるために長崎に潜伏していたが、ここで英国資本ジャーディン・マセソン社(Jardine Matheson Holdings Limited; 怡和控股有限公司)の差し金で、スコットランド人武器商人のグラヴァー(Thomas Blake Glover, 1838-1911)と親しくなる。

1863年11月4日(月) 四ヶ月と一週間前に国禁を犯して橫濱(横浜)港から海外へ密航していた「長州五傑」または「長州ファイヴ(Choshu Five)」なる長州藩士五人組の井上聞多(いのうへ たもん, 1836-1915)=後の井上馨(いのうへ かをる, 1836-1915)侯爵・外務卿・外務大臣・農商務大臣・内務大臣・大蔵大臣と、維新後に造幣局長に就任する遠藤謹助(ゑんどう きんすけ, 1836-93)と、維新後に子爵に叙せられ工部卿に就任する山尾庸三(やまを ようぞう, 1837-1917)と、伊藤俊輔(いとう しゆんすけ, 1841-1909)=後の伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)公爵・初代總理大臣と、野村彌吉(のむら やきち, 1843-1910)=後の井上勝(いのうへ まさる, 1843-1910; ロンドン大学卒)子爵・鐡道廳(鉄道庁)長官が、その目的地英京倫敦(ロンドン)に到着。一行はロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)に籍を置き、ウィリアムソン教授(Professor Alexander Williamson, 1824–1904)の分析化学(Analytical Chemistry)の講義を聴くなどして、様々な学問に触れる。

1864年(文久4年)4月中旬 前年(1863年)からの長州藩による海峡封鎖で経済的損失を受けていた英国は懲戒的報復措置をとることを決定。仏蘭米の三国に参加を呼びかけ、艦船17隻で連合艦隊を編成した。五ヶ月以上前に英京倫敦(ロンドン)に着いたばかりの「長州五傑」または「長州ファイヴ(Choshu Five)」は、英仏蘭米の四国連合艦隊による長州攻撃の可能性を示唆(しさ)するロンドンの新聞記事を読み、居ても立っても居られなくなり、話し合って5名中2名を緊急帰国させることにする。こうして井上馨(いのうへ かおる, 1836-1915)と伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)の2人が英国を発つ。

1864年6月頃 長崎に潜伏してスコットランド人武器商人のグラヴァー(Thomas Blake Glover, 1838-1911)から世界情勢を学んだ五代友厚(ごだい ともあつ, 1836-85)が薩摩藩に戻り、殖産興業や富国強兵や西洋への留学を提案する「五代才助上申書」を薩摩藩に提出。五代の提案に藩士たちが賛同し、薩摩藩遣英使節団が翌年(1865年)3月に実現。

1864年7月13日(月)頃 井上馨(いのうへ かをる, 1836-1915)と伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)の2人が、橫濱(横浜)港に到着。在橫濱英國總領事館(British Consulate-General in Yokohama, Japan)のガワー総領事(Consul-General Gower)と再会し、英仏蘭米の四国艦隊による長州攻撃の可能性が高いことを改めて聞かされる。ガワー総領事は他の三国(仏蘭米)との交渉を約束。

1864年7月21日(火) 井上馨(いのうへ かをる, 1836-1915)と伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)の2人が英国艦に載せられて豊後國(現在の大分県)姫島に上陸。この地には長州攻撃態勢を整えた英国艦隊が控えていた。

1864年7月27日(月) 井上馨(いのうへ かをる, 1836-1915)と伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)の2人が長州藩山口に着く。同31日(金)にかけて攘夷(じょうい)に傾く長州藩士たちに西洋文明の恐ろしさについて教え諭(さと)し、欧米列強との戦をやめるよう説得するが失敗。

1864年8月6日(木) 井上馨(いのうへ かをる, 1836-1915)と伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)の2人が長州藩主の命令で豊後國(現在の大分県)姫島の英国艦隊へ交渉に行くが、英国海軍から相手にされず。

1864年9月5日(月)~7日(水) 英仏蘭米の四国艦隊による下関砲撃事件。井上馨(いのうへ かをる, 1836-1915)と伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)の2人が長州藩主の命令で小舟に乗って四国艦隊との交渉をしようした矢先、約束の時刻が過ぎたため攻撃が開始された。同連合艦隊は2日間に亘(わた)って馬関(現下関市中心部)と彦島の 砲台を徹底的に砲撃、同7日(水)には各国の陸戦隊約2,000名が上陸し、これら砲台を占拠・破壊した。それまで攘夷(じょうい)に傾いていた長州藩士たちは欧米列強の力を思い知り、列強に対する武力での攘夷(じょうい)を断念。以後は欧米の新知識を吸収し、討幕運動へと舵(かじ)を切る。

1865年(元治2年)3月 薩摩藩遣英使節団(視察員4名+留学生15名)が薩摩藩主島津茂久(しまづ もちひさ, 1840-97)=後の島津忠義(しまづ たゞよし, 1840-97)公爵の命令で国禁を犯して英国へ向けて出発。

1865年5月 薩摩藩遣英使節団(視察員4名+留学生15名)が英国に到着。視察員4名は英国のみならず各国を回り、留学生15名のうち1名は幼すぎるため現地中等学校に入り、他14名の薩摩スチューデントたち(Satsuma Students)は同じく藩命で約一年半前の1863年11月に着いていた「長州五傑」または「長州ファイヴ(Choshu Five)」と同じロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)で学び、多くは大学至近のガワー街一〇三番地(103 Gower Street)のアパート(イギリス英語で flat)に暮らした。ロンドンのUCLに日本留学生が集まったのは、当時のイングランドではUCLだけが信仰や人種の違いを超えて、すべての学徒に門戸を開いていた大学だからである。百二十八年後の1993年、幕末薩長から来た日本人24人のうち視察員4名と現地中等学校に入った者1名を除く計19名を顕彰する記念碑がUCLの中庭に建立(こんりゅう)された。また、百十七年後の1982年に人口50万都市達成記念として鹿児島中央駅前に「若き薩摩の群像」と題された銅像モニュメントが建立されたが、初代文部大臣の森有禮(もり ありのり; 有職(ゆうそく)読みで「ゆうれい」, 1847-89)、実業家の五代友厚(ごだい ともあつ, 1836-85)、アメリカでワインの事業に成功して「葡萄王」と呼ばれた長澤鼎(ながさは かなゑ; ながさわ かなえ、1852-1934)など17人の像だった。しかしながら、2020年9月8日(火)朝のこと、新たに薩摩藩以外の出身者2人の像が追加された。2020年2月に森博幸(もり ひろゆき, b.1949; 横浜市立大学卒; 市長在任2004-)鹿児島市長は、国体などで多くの観光客が見込まれる中で「鹿児島が排他的だと思われかねない」と、銅像の追加を表明していた。薩摩出身でなくても薩摩と深い縁があり、ともに薩摩藩第一次英国留学生として旅立ったという事実を重く見たわけである。新たに追加されたのは、長崎(幕府直轄地)出身の堀孝之(ほり たかゆき, 18-19)と、土佐藩出身の高見彌一(たかみ やいち, 1831-96)の2人である。こうして英国に渡った19人全員が揃ったことになる。1982年の制作に続いて2020年の追加制作も手掛けたのは、彫刻家の中村晋也(なかむら しんや, b.1926; 東京高等師範学校=現在の筑波大学卒)鹿児島大学名誉教授、筑波大学名誉博士=94歳。前回(1982年)の制作費が1億4千万で、今回(2020年)の追加整備が7000万円とのこと。(2020年9月8日(火)付のヤフーニュースに転載されたMBC南日本放送のオンライン記事と、同転載のKTS鹿児島テレビのオンライン記事と、2020年9月9日(水)付のヤフーニュースに転載された南日本新聞のオンライン記事に部分的に依拠した上で加筆)

1866年(慶應2年)3月 「長州五傑」または「長州ファイヴ(Choshu Five)」の中の一人、維新後に造幣局長に就任することになる遠藤謹助(ゑんどう きんすけ, 1836-93)が留学先の英国から帰国。

1866年11月20日(火) 橫濱(横浜)の大火で外國人居留地の大半が焼失。

1867年4月29日(月) 駐日英国特命全権公使兼総領事(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary and Consul General of the United Kingdom to the Empire of Japan)パークス(Sir Harry Smith Parkes, 1828-85; エドワード国王文法学校中退)=39歳が德川慶喜(とくがは よしのぶ; とくがわ よしのぶ, 有職(ゆうしょく)読みで「けいき」, 1837-1913; 征夷大將軍在任1867-68)=29歳=後の公爵と面会。幕府からすれば謁見(えっけん)ながら、英国側は征夷大将軍を His/Your Majesty (陛下)と呼ばず、一段低い His/Your Highness (殿下)としたため、幕府は後に英国側に抗議するも、パークス公使は取り合わず。

1867年11月9日(土)(和曆慶應3年10月14日) 江戸幕府第15代将軍德川慶喜(とくがは よしのぶ, 1837-1913; 征夷大将軍在任1867-68)が京都の二條城(二条城)にて明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)に政権を返上(大政奉還)。

1868年4月6日(月)(和曆慶應4年3月14日) 明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)が天地神明に誓約する形式で「五箇條の御誓文」(但し、正式名称は単に「御誓文」)を宣言。条文には、「一 廣ク會議ヲ興(ヲコ)シ萬機(バンキ)公論ニ決スベシ」、「一 上下心ヲ一ニシテ盛(サカン)ニ經綸(ケイロン)ヲ行フヘシ」、「一 官武一途(ト)庶民(シヨミン)ニ至ル迄各其志ヲ遂(ト)ケ人心ヲシテ倦(ア)マサラシメン事ヲ要ス」、「一 舊來(キウライ)ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基(モトヅ)クヘシ」、「一 智識(チシキ)ヲ世界ニ求メ大ニ皇基(クハタキ)ヲ振起(シンキ)スヘシ」とあった。

1868年4月 中津藩士の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)が、十年前の1858年に江戸に開いていた蘭學所を英學塾に改め(これからは英学の時代だと悟ったため)、その際に当時の元号である「慶應」の名を採って名称を慶應義塾に改称。「義塾」とは、英語のパブリックスクール(public school)の和訳と言われる( http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/7.html )。

1868年5月3日(日)(和曆慶應4年4月11日) 江戸城無血開城または明け渡し。西鄕隆盛(さいごう たかもり, 1828-77)を中心とする倒幕勢力と、勝海舟(かつ かいしう, 1823-99)を中心とする幕臣が、慶應4年3月から4月にかけて薩摩藩江戸藩邸で交渉し、第十五代將軍の德川慶喜(とくがわ よしのぶ; 有職読みで「けいき」, 1837-1913; 日本史上最後の征夷大將軍在任1866-67)が無抵抗で江戸城を明け渡すことで合意。江戸の町は戦火を免れる。

1868年10月23日(和曆明治元年9月8日) 明治に改元。但し、改元の詔書(せうしよ; しょうしょ)に「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあるため、遡及(そきゅう)的に慶應4年1月1日(1868年1月25日(土))から連続的に明治元年だったと見做(みな)すこととなる。

1868年 五年前の1863年に江戸幕府が開所していた開成所を開成學校(現在の国立大学法人東京大学法学部の前身)として発展させ、同じく1863年に江戸幕府が開所していた医學所を医學校(現在の国立大学法人東京大学医学部の前身)として明治新政府が開校する。

1869年1月1日(水)(和曆明治元年11月19日) 「長州五傑」または「長州ファイヴ(Choshu Five)」の中の2人、子爵に叙せられ工部卿に就任することになる山尾庸三(やまを ようぞう, 1837-1917)と、子爵に叙せられ鐡道廳(鉄道庁)長官に就任することになる井上勝(いのうへ まさる, 1843-1910; ロンドン大学卒)が留学先の英国から帰国。これで5人全員が帰国したことになる。

1869年(明治2年) 上記の開成學校を大學南校(現在の国立大学法人東京大学法学部の前身)とし、医學校を大學東校(現在の国立大学法人東京大学医学部の前身)とする。この場合の大學は、天智天皇(てんち てんのう, 626-672; 在位668-672)の治世に官僚養成を目的として創設された大學寮の故事に基(もと)づく。

1869年8月29日(日) 西洋王族として史上初めて、英国のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の次男であるエディンバラ公アルフレッド王子(Prince Alfred, Duke of Edinburgh, 1844-1900)が英国海軍(Royal Navy)フリゲート艦ガラテア(HMS Galatea)艦長としての世界周遊旅行の一環として來朝(当時の言葉で来日の意)し、同年9月4日(土)には明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)に謁見(えっけん)する。なお、同王子はこの三十一年後の1900年に母親のヴィクトリア女王よりも半年早く歿してしまうことになる。橫濱(横浜)の山手地区に駐在していた英領アイルランド生まれで英国陸軍(British Army)第一大隊第十連隊軍楽隊長(Bandmaster of the 10th Foot Regiment, 1st Battalion)のフェントン(John William Fenton, 1828 or ’31 - 90)は、アルフレッド王子来日の準備段階で日本国歌の楽譜の提供を日本側に求めた。これは外交儀礼として日英双方の国歌を演奏する必要が生じたからである。ところが当時の日本には国歌という概念すら無く、英国王子一行の折伴掛(せつぱんかゝり: 当時の言葉で接待係の意)に任じられていた薩摩藩出身の原田宗助(はらだ そうすけ, 生歿年不詳)は鹿兒島(鹿児島)で愛唱されていた琵琶歌「蓬莱山(ほうらいさん)」の中に勅撰和歌集 『古今和歌集』(905年)巻第七の「賀歌」冒頭に初出した「君が代」が使われていることを思い出し、フェントンを呼んで「蓬莱山」の節で「君が代」を繰り返し歌い、それをフェントンが西洋の五線譜に西洋音階で書き起こしてフェントン作曲とした。これが事実なら厳密にはブラームスの『ハンガリー舞曲集』のような編曲に近いが、実際には根拠の無い自称「薩摩起源」だとするアンチ薩摩の側の説もある。フェントンの脳裏には自国の国歌である通称“God Save the Queen”(神よ女王を護り給へ)が念頭にあり、天皇を讃える歌を作ることに違和感は無かった筈(はず)である。フェントン直筆の楽譜には、「日本の国歌」(Japanese National Hymn: 直訳「日本の国の讃美歌」)とある。エディンバラ公アルフレッド王子の来朝にはなんとか間に合った「君が代」だったが、日本語のできない英国人が作った(厳密には編曲した)こともあり、「国歌はあるのに歌えない」という状態が生じたため、1879年3月に御雇(おやとひ)外國人として来日を果たしたドイツ人音楽家エッケルト(Franz Eckert, 1852-1916)に編曲を任せる羽目になった。そして1880年11月3日(水・祝)の天長節(現在で言う天皇誕生日)にはフェントン版は廃止され、新版(エッケルト版)が国歌となる。

1871年(明治4年) 岩倉具視(いわくら ともみ, 1825-83)男爵を正使とし、明治新政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された岩倉使節團に、当時満十四歳だった上田てい(うへだ てい, 1857?-歿年不詳)、後の上田悌子(うへだ ていこ, 1857?-歿年不詳)と、同じく満十四歳だった吉益りやう(よします りやぅ, 1857?-84?)、後の吉益亮子(よします りやぅこ, 1857?-84?)と、当時満十一歳の山川捨松(やまかは すてまつ, 1860-1919)、後に結婚して大山捨松(おほやま すてまつ, 1860-1919)と、当時満九歳の永井しげ(ながい しげ, 1862-1928)、後に結婚して瓜生繁子(うりぅ しげこ, 1862-1928)と、当時満七歳の津田うめ(つだ うめ, 1864-1929)、後の津田梅子(つだ うめこ, 1864-1929)という五人の少女も米国留学女学生として同行

1871年5月10日(水) 日本初の統一通貨「圓(ゑん; 英称 yen)」、現在の「円(えん; 英称 yen)」が発行される。1米ドル=1圓の固定相場。

1871年 幕末期にオランダ人から医術を学んだ「オランダおいね」こと、楠本イネ(くすもと いね, 1827-1903)、別名 失本イネ(しいもと いね, 1827-1903)が、東京の築地(現在の東京都中央区築地)に医院を開業。イネは鳴瀧塾(なるたき じゆく)のシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)の娘。

1871年 工部省工學寮(現在の国立大学法人東京大学工学部の前身)が開学。開設したのは、「長州五傑」または「長州ファイヴ(Choshu Five)」の一人として英国に渡り、ロンドン大学(University College London)とグラーズゴウ大学(University of Glasgow)で学んだ山尾庸三(やまを ようぞう, 1837-1917)子爵・工部卿。

1871年 共立學校(きようりつ がくかう; 現在の開成中学校・高等学校)が開学。校名の「共立」は福澤諭吉の「義塾」と同様に英語の public school の和訳だったが、十四年後の1885年に東京府(現在の東京都)の管轄に入る際、「東京府共立學校」という名に府(現在の都)から難色が示され、開成學校に改名した。その二十六年後の1901年には私学に復して今日(こんにち)に至っている。

1872年(明治5年) 明治政府が學制を公布。日本で初めて学校制度を定めた敎育法令。フランスの学制に倣(なら)って学区制を採用。

1872年6月12日(水)(和曆明治5年5月7日) 品川・橫濱(横浜: 但し、現在の桜木町駅の場所)間に日本最初の鐵道(鉄道)が仮開業。なお、「鐵道」という語は、ドイツ語の Eisenbahn (アイゼンバー)、但し、これ自体がフランス語の chemin de fer (シュマォンドゥフェーふ)の直訳を日本語に直訳した物と考えられ、英語の railway (れイルウェイ)や米語の railroad (れイルろゥド)には依拠しなかった。当時の日本の技術力や資本力では鉄道の敷設(ふせつ)は到底不可能だったため、明治政府は技術や資金を援助する国として英国を選定した。これは早くから日本に対する売り込みを行なっていた鉄道発祥国イギリスの技術力を日本が高く買ったからだった。後に「日本の鉄道の恩人」と呼ばれることになるロンドン大学国王学寮(King’s College London)卒の鉄道技師モレル(Edmund Morel, 1840-71)がイギリスから派遣され、1870年4月9日(土)に橫濱(横浜)港に来日し、日本初代の鉄道建設技師長として着任したが、約1年半後の1871年11月5日(日)、当時は不治の病(やまい)だった結核(TB: tuberculosis or consumption)のため鉄道の完成を見ること無く、三十一歳の誕生日を十二日後に控えて、橫濱で病歿した。日本側からは後に「日本の鉄道の父」と呼ばれることになるロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)卒の井上勝(いのうへ まさる, 1843-1910)が鉄道敷設に加わった。なお、軌間(きかん: 線路の幅)がロシアやスペインを除く欧米各国で採用されている標準軌(ひょうじゅんき: standard gauge)の1.435メートルに比べて狭い狭軌(きょうき: narrow gauge)の1.067メートルになってしまい、現在でも日本の鉄道が新幹線や京浜急行や京成電鉄を除く殆(ほとん)ど全てで乗り心地の悪い狭軌であることは、日本最初の鉄道路線が狭軌を採用したことが大きい。元総理大臣の大隈重信(おほくま しげのぶ, 1838-1922; 首相在任1898 & 1914-16)は、大正九年=1920年7月14日(水)の帝國鐵道協會新會長歡迎晩餐會(帝国鉄道協会新会長歓迎晩餐会)の席で狭軌を採用したことについて「一生(いつせう)の不覺(ふかく)であつた。」(当時の速記録に依拠)と述べている。これは大隈が英国出身のお雇い外国人ホレイショ・ネルソン・レイ(Horatio Nelson Lay, 1832-98; 漢文名 李泰國)から鉄道レールのゲージ(gauge: 軌間)をどうするかと問われたとき、ゲージの意味が分からず、諸外国ではどうなっているのかと訊くと、日本のような川や山が多く平地が少ないところでは、南アフリカに敷設されている所謂(いわゆる)「ケイプ・ゲイヂ」(Cape gauge)と呼ばれた3フィート6インチ(1067mm)が適当と勧められたことに端を発する。レイはしたたかな商人でもあり、同じケープゲージを採用していた英領印度の中古資材を輸入させて、その利ザヤで大儲けを企(たくら)んだためだったとも言われている。上述のエドモンド・モレルに、ケープゲージを導入することが承認されたと伝え、即刻インドの中古資材や機関車、客車、貨車などを発注した。レイは英国海軍(Royal Navy)の英雄ネルソン提督の末裔だと一部の日本政府要人に信じ込ませ、それら要人だけに承諾を得て、12%の高利で鉄道建設の公債を発行、うち3%を自分の懐に入れようとした。このことが日本政府内で大問題になり、結局、東洋銀行が年利9%で引き受けることになった。レイは解雇されるが、車両や機材は発注済みだったことから、新橋―横浜間の日本最初の鉄道は3フィート6インチ軌間にせざるをえなかった。1872年に開通した新橋―横浜間の鉄道で使用開始した機関車10両のうち、3両は中古品、残る7両も注文流れ品である。客車やレールその他も同様だった。日本初の鉄道は、ほとんど中古や注文流れの輸入品が使われていたのである。ただしイギリスのメーカー5社の記録としては新品になっている。(2020年9月4日(金)のヤフーニュースに転載されたダイヤモンド・オンラインの鉄道アナリスト・川島令三(かわしま れいぞう)署名記事に部分的に依拠した上で加筆)

1872年10月14日(月)(和曆明治5年9月12日) 新橋驛(現在の汐留シオサイトの場所)と橫濱驛(現在の桜木町駅の場所)の間の全長29kmに日本最初の鐵道(鉄道)が明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)の御召(おめし)列車を走行させて正式開業。この日を記念して、五十年後の大正十一年=1922年に日本國有鐵道(現在のJRグループ)が毎年10月14日を「鐵道記念日」として制定したが、平成六年=1994年に運輸省(現在の国土交通省)の提案により「鉄道の日」と改称し、旧国鉄のJRグループ以外の民間鉄道(私鉄各社及び第三セクター線)も含めての記念日となった。

1872年12月31日(火)(和曆明治5年12月2日) 日本が従来までの太陰暦(lunar calendar)をやめて西洋式のグレゴリオ暦(羅 Calendarium Gregorianum; 英 Gregorian Calendar)を採用するに当たり、明治五年がこの日(和曆では12月2日)で終わる。

1873年(明治6年)1月1日(水・祝) この日から西洋式のグレゴリオ暦(羅 Calendarium Gregorianum; 英 Gregorian Calendar)を採用し、明治6年1月1日(水・祝)となる。

1873年 二年前の1871年に開学していた工部省工學寮が工學寮大學校(現在の国立大学法人東京大学工学部の前身)に改称。スコットランドのグラーズゴウ大学 (University of Glasgow)卒の弱冠二十五歳、ヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer, 1848-1918)が教育全般を指揮した。

1874年(明治7年) イングランド教会の流れを汲む米国聖公会の宣教師が東京の築地に立敎學校(現在の立教大学の前身)を開校。

1874年10月11日(日) 鉄道敷設から二年にして新橋驛(現在の汐留シオサイトの場所)で日本初の鉄道事故が発生。橫濱驛(現在の桜木町駅の場所)を出発した列車が新橋驛到着の直前に脱線し、貨車と客車が倒れるも、怪我(けが)人は無し。

1874年11月16日 イングランド教会から別れた米国メソジスト派の宣教師が東京の麻布に女子小學校を開校。現在の青山学院大学ではこの日を創立の日と見做(みな)す。

1875年(明治8年) 醫術開業試験制度が始まる。この時点では女子に受験資格がなかったため、幕末期から明治初期にかけて女医として活躍していた「オランダおいね」こと、楠本イネ(くすもと いね, 1827-1903)、別名 失本イネ(しいもと いね, 1827-1903)は、医師資格を喪失。イネは鳴瀧塾(なるたき じゆく)のシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)の娘。

1875年 女子小學校が救世學校(現在の青山学院大学の前身の一つ)へ改称して東京の三田(みた)へ移転。

1875年 女性教員の養成を目的とした東京女子師範學校(現在の国立大学法人お茶の水女子大学)が開校

1875年(明治8年) 四年前の1872年に東京府豊島郡芝(現在の東京都港区芝公園)の増上寺内に開拓使假學校として設置されていた学校を北海道石狩國札幌郡札幌(現在の北海道札幌市北区)に移し、開拓使假學校札幌學校(現在の国立大学法人北海道大学の前身)が発足

1875年2月6日(土) 同年(1875年)9月に私塾「商法講習所」(現在の国立大学法人一橋大学の前身)を開設することになり、十年後の1885年12月22日(火)から1889年2月12日(火)に歿するまで初代文部大臣を務めることになる英米帰りの森有禮(もり ありのり; 有職(ゆうそく)読みで「ゆうれい」, 1847-89)=満27歳(当時の報道では数え年29歳)が、旧幕臣の旗本廣瀨秀雄(ひろせ ひでお, 生歿年不詳)の長女、廣瀨常(ひろせ つね, 1855-歿年不詳)=満19歳8ヶ月(当時の報道では数え年21歳)と、木挽町(現在の東京都中央区築地)に建てた洋館(森邸)内で結婚式を挙げる。日本における最初の契約結婚と言われる。百人以上の招待者が見守る中、洋装で腕を組んだ新郎新婦が現れ、「婚姻契約書」なるものが読み上げられ、夫婦で署名。その契約は3条(今後森有禮は常を妻とし、常は森有禮を夫とすること、二人とも約条を破棄しない限り互いに敬い愛すこと、共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと)から成り、東京府知事大久保一翁(おほくぼ いちをう, 1818-88)が立会人で、福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)が証人兼司会となる。当時は親同士が決める結婚が普通であり、カネや権力を持つ男性は側室=妾(めかけ)を持っても非難されない時代であっただけに「契約結婚」は驚きを以(もっ)て迎えられ、新聞記者まで押しかける騒ぎとなったという。しかしながら、結婚十一年目の1886年11月28日(日)には協議離婚したという。翌年(1887年)6月には早くも後妻として岩倉具視(いはくら ともみ, 1825-83)男爵の五女で出戻り娘だった、岩倉寛子(いはくら ひろこ, 1864-1943)と再婚したが、森が満41歳(当時の報道では数え年43歳)の時点で国粋主義者に短刀で脇腹を刺され歿したことから結婚生活は約一年七ヶ月。(2013年5月8日()付の産経ニュースの渡部裕明署名コラム「夫婦の日本史 第6回 森有礼と広瀬常」に依拠した上で加筆)

1875年9月24日(金) 十年後の1885年12月22日(火)から1889年2月12日(火)に歿するまで初代文部大臣を務めることになる英米帰りの森有禮(もり ありのり; 有職(ゆうそく)読みで「ゆうれい」, 1847-89)が私塾「商法講習所」(現在の国立大学法人一橋大学の前身)を開設。森は幕末期にロンドン大学に学び、のち初代米国代理公使としてワシントンに滞在した。英米両国では実業家が官僚や政治家に劣らず活動していること、国家独立の基礎は経済の富強にあって、そのためには経済人の育成が急務だと痛感したこと、そして現状では外国商社に独占されている貿易の利を日本に取り戻すための人材育成の必要性を痛感したこと、それらが学校設立の端緒となっている。ところが官営の講習所は財政難から許可されず、東京府知事の大久保一翁(おほくぼ いちをう, 1818-88)、東京會議所の澁澤榮一(しぶさは ゑいゝち, 1840-1931)、旧幕臣の勝海舟(かつ かいしう, 1823-99)伯爵・初代海軍卿、福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)らの後援により東京府東京市京橋區銀座尾張町(現在の東京都中央区銀座)の鯛味噌屋の二階に仮開所と相成る。

1875年11月29日(月) 米国帰りのピューリタン準宣教師の新島襄(にいしま じやう; にいじま じょう; Joseph Hardy Neesima, 1843-90)が自邸(現在は旧新島邸の名称)内に同志社英學校(現在の同志社大学の前身)を開校。教員2人、生徒8人。新島襄は1890年に療養先の神奈川縣淘綾郡大磯町(現在の神奈川県大磯町)で歿しているが、その時には同志社の生徒数は700人にもなっていた。百四十五年後の2020年(令和2年)、同志社大学は大学院生を含めて3万人近い学生と約800人の専任教員を擁するまでに成長する。

1876年2月(日付不明) 米国帰りのピューリタン準宣教師の新島襄(にいしま じやう; にいじま じょう; Joseph Hardy Neesima, 1843-90)が京都御苑の旧柳原邸内に女子塾(現在の同志社女子大学の前身)を開校。但し、正式開校は翌年(1877年)4月とされる。教員数不明、生徒9人。開校時期については諸説あり( https://www.dwc.doshisha.ac.jp/about/publicity/publication/125_years/chapter1_3 )。

1876年(明治9年)5月 私塾「商法講習所」(現在の国立大学法人一橋大学の前身)が東京府(現在の東京都)の所管になったことで府立商法講習所となる。

1876年 開拓使假學校札幌學校を札幌農學校(現在の国立大学法人北海道大学の前身)と改称。同年(1876年)7月に、マサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College)=現在のマサチューセッツ大学アマースト校(University of Massachusetts Amherst)第3代学長を務めたクラーク(William Smith Clark, 1826-86)博士が教頭に就任。同年(1876年)8月14日(月)に札幌農學校開校式挙行。このため現在、北海道大学開学記念日とされる。札幌農學校は日本で初めて卒業生に學士号(農學士)を授与した教育機関である。学士授与機関としては旧東京大学より約1年早く設立されたため、現在の北海道大学では札幌農學校を日本初の学士の学位を授与する近代的大学として位置づけている( https://www.hokudai.ac.jp/introduction/information/150150.html )。

1876年10月 明治新政府の目の届きにくい西日本で不平士族による叛乱が、10月24日(火)に熊本縣で「神風連(じんぷうれん)の亂(らん)」、同27日(金)に福岡縣で「秋月の亂」、同28日(土)に山口縣で「萩の亂」という具合に立て続けに起こるが、政府軍による鎮圧が成功。

1877年(明治10年)1月29日(月)~9月24日(月) 日本最後の内戦としての西南戦争(或いは西南の役(えき))が起きるが、西鄕隆盛(さいがう たかもり; 有職(ゆうそく)読みで「りゅうせい」, 1828-77)は政府軍に敗れて自害する。自害後も西鄕は賊軍(ぞくぐん)の将として遇されるが、十二年後の1889年2月11日(月・祝)の大日本帝國憲法発布に伴う大赦(たいしゃ)で赦(ゆる)され、正三位を追贈されて、名誉が回復された。

1877年4月12日(木) 東京開成學校(1684年に開学した幕府天文方を源流とする大學南校の後身)と東京醫學校(1858年に開所した種痘所を源流とする大學東校の後身)が合併して東京大學(1886年に帝國大學、1897年に東京帝國大學、1947年に再び東京大學、1949年に[新制]東京大学と改称)が、法學部、理學部、醫學部、文學部の4学部と、他に大學豫備門で発足。当初は学生数約1,600人の専門教育及び普通教育の機関であった。これは、日本初の近代的な総合大学(university)が設立されたことを意味する。現在の国立大学法人東京大学(東大)では、この1877年を創立年と看做(みな)し、毎年4月12日を「東京大学記念日」とし、他大学より遅れて入学式もこの日(4月12日)に挙行している。なお、南校と東校とは別に大學本校も存在したが、国学者と儒学者が抗争を繰り広げていたため、新たに発足(ほっそく)した総合大学にはお呼びがかからず消えていった。

1877年4月16日(月) 札幌農學校(現在の国立大学法人北海道大学の前身)の初代教頭クラーク(William Smith Clark, 1826-86)博士が僅(わず)か10ヶ月でその任を終え、札幌を去る。その際に学生たち(当時は男子学生のみ)に贈った言葉、「男子たる者、大志を抱け、この老人の如く。」(Boys, be ambitious like this old man.)の前半部の通常訳「青年よ大志を抱け」とその原文 Boys, be ambitious. が日本国内で有名になるが、クラークの母国アメリカでは誰も知らない。

1877年 六年前の1871年に工部省工學寮として開学し、その二年後の1873年に工學寮大學校に改称していた学校が工部大學校(現在の国立大学法人東京大学工学部の前身)に改称。豫科2年、專門科2年、實地科2年の六年制で、土木學科、機械學科、造家(建築のこと)學科、電信學科、化學々科、冶金(やきん)學科、採鑛學科の計7学科から成っていた。スコットランドのグラーズゴウ大学(University of Glasgow)卒のヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer, 1848-1918)が既に四年前の1873年の工學寮大學校の時代から教育全般を指揮し、スコットランドのグラーズゴウ大学とエディンバラ大学 (University of Edinburgh)を卒業したばかりの若者が英語で授業を行なった。

1877年 救世學校が海岸女學校(現在の青山学院大学の前身の一つ)へ改称し東京の築地へ移転。

1877年 東京一致神學校(現在の明治学院大学の前身)が開校。

1877年 華族學校學則制定により學習院が東京の神田錦町にて開業式(学習院大学の前身の創立と看做(みな)す)。

1878年(明治11年) 東京の外國人居留區だった築地に耕教學舎(現在の青山学院大学の前身の一つ)が開校。

1879年(明治12年) 横濱の山手地區に美會神學校(現在の青山学院大学の前身の一つ)が開校。

1879年 明治政府が七年前の1872年に出した學制を廃して敎育令を制定。

1880年(明治13年) ヘボン塾が築地大學校(現在の明治学院大学の前身)へ改称。

1880年 東京法學社(現在の法政大学の前身)が開校。

1880年 八年前の1872年から’76年にかけて中津藩士の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)が十七編に亘(わた)って出版した『學問のすゝめ』が一冊の本に合本されて刊行され、明治初期の空前のベストセラー本となる。推計300万部超売れたとされるが、現在の人口で換算すると1260万部も売れたことに相当する。ちなみに昭和女子大学(在東京都世田谷区)学長(後に同大学理事長・総長)の坂東眞理子(ばんどう まりこ, b.1946)著 『女性の品格』(PHP研究所 PHP新書, 2006年)も、累計300万部超も売れた。

1880年9月 アメリカ北東部の私立名門大学で法学や経済学を学んだ日本人エリート4人、相馬永胤(そうま ながたね, 1850-1924; コロンビア法律学校=現在のコロンビア大学法学部卒、イェイル大学大学院修了)、田尻稲次郎(たじり いなじらう, 1850-1923; イェイル大学卒、同大学院修了)、目賀田種太郎(めかた たねたらう, 1853-1926; ハーヴァード法律学校=現在のハーヴァード大学法学部卒)、駒井重格(こまい しげたゞ, 1852-1901; ニュージャージー州立ラトガース大学卒)が、私学としては日本最初の法律学校、專修學校(現在の専修大学の前身)を設立。日本語で英米法を勉強するのが主目的。同時に設置された經済科も日本初。(2020年9月25日(金)付の Urban Life Metro の教育ジャーナリスト中山まち子記者署名オンライン記事「私学で初の法律科を設置 米国留学のエリートが設立した「専修大学」とはどのような大学なのか」に依拠した上で加筆)

1880年9月20日(月) 明治維新から僅(わず)か十二年にして地方議会で女性参政権の先駆け。大日本帝國政府より區町村會法が発布され、區町村會選挙規則制定権が各区町村会で認められる。これにより、高知縣土佐郡上町(かみまち: 現在の高知県高知市の一部)町會にて日本で初めて戸主に限って女性参政権が正式に認められる。その後も隣村の小高坂村(こだかさ むら: 現在の高知県高知市の一部)でも女性参政権が同様に認められる。後に「民權婆さん」の異名(いみょう)を取ることになる、子なしの寡婦(かふ: a widow)である楠瀨喜多(くすのせ きた, 1836-1920)が、戸主(こぬし)として納税しているにも拘(かか)わらず、1878年の高知縣區會議員選擧で女性であることを理由に投票が認められなかったことを不服とし、抗議の意味を込め税金を滞納したところ、高知縣から督促状が届いたため、「戸主として納税しているのに、女だから選挙権が無いというのは可笑(おか)しい。義務と権利は両立するのが物の道理。選挙権が無いなら納税しない。」という主旨の抗議文「納税ノ儀ニ付御指令願ノ事」を高知縣廳(県庁)へ提出するも高知縣側が楠瀨の要求を拒否。楠瀨は諦めきれず大日本帝國政府の内務省(在東京府東京市)にまで意見書を提出。結果的に楠瀨が希望した1878年の選挙での投票は叶(かな)わなかったものの、楠瀨の抗議行動に高知縣令も遂(つい)に折れたのだった。しかしながら、大日本帝國政府は僅か四年後の1884年には區町村會法を改訂(実際には改悪)し、規則制定権を区町村会から取り上げ、女性を町村会議員選挙から排除してしまうことになる。楠瀬喜多は大正デモクラシーたけなわの1920年10月18日(月)に満84歳で死去。

1880年11月3日(水・祝) 天長節(現在で言う天皇誕生日)のこの日、僅(わず)か十一年前の1869年に作られたばかりのフェントン版の国歌「君が代」が廃され、新版(エッケルト版)に取って代えられる。但し、正式な国歌となるのは国旗国歌法が施行された1999年8月13日(金)のこと。

1881年(明治14年) 明治法律學校(現在の明治大学の前身)が開校。

1881年 東京職工學校(現在の国立大学法人東京工業大学の前身)が開校。

1881年 西周(にし あまね, 1829-97)や品川彌二郎(しながわ やじろう, 1843-1900)や加藤弘之(かとう ひろゆき, 1836-1916)らが獨逸學協會(ドイツがく けふくゎい; 現在の獨協中学・高等学校と獨協大学の前身)を設立。

1881年 薩摩藩士・帝國海軍々醫の高木兼寛(たかき かねひろ, 1849-1920; 鹿兒島醫學校=現在の国立大学法人鹿児島大学医学部卒、聖トマス病院医学校=現在のロンドン大学国王学寮医学部卒)=後に醫學博士・男爵が、成醫會講習所(現在の学校法人慈恵大学と東京慈恵会医科大学の前身)を設立。十年後の1891年には皇后美子(こうごう はるこ; Empress Haruko, 1849-1914)=後の昭憲皇太后(しょうけん こうたいごう; Empress Dowager Shōken, 1849-1914)の意向を受け、東京慈惠醫院醫學校と改称される。(2020年8月28日(金)付のヤフーニュースに転載されたアーバンライフメトロの教育ジャーナリスト中山まち子オンライン記事に依拠)

1881年 耕教學舎が東京英學校(現在の青山学院大学の前身)へ改称。

1882年(明治15年)4月30日(日) 伊勢神宮祭主を務める久邇宮朝彦親王(くに の みや あさひこ しんのう, 1824-91)の令達「今般林崎文庫ニ皇學館設置候条、此旨相達候事」により、林崎文庫内に皇學館(現在の皇學館大学の前身)が創設される。

1882年 明治政府が研究機関「皇典講究所」(現在の私立國學院大學の前進)を東京府東京市麴町區飯田町(現在の東京都千代田区飯田橋)に設置。明治維新で日本が欧米諸国を手本に近代化していく一方で、日本古来の神道や江戸時代に確立した國學が廃れないよう、この分野に精通した人材育成を目指す。初代総裁には「五箇条の御誓文」の原文を揮毫(きごう)した有栖川宮幟仁親王(ありすがは の みや たかひと しんのう, 1812-86)が就任。

1882年 美會神學校と東京英學校とが合同(現在の青山学院大学の前身)。

1882年 自由民権運動家で、後に政界復帰して総理大臣に就任することになる大隈重信(おほくま しげのぶ, 1838-1922; 首相在任1898 & 1914-16)が、政敵伊藤博文(いとう ひろぶみ, 1841-1909; 首相在任1885-88; 1892-96; 1898; 1900-01)との政争に敗れて下野(げや)していた際に、東京府南豊島郡(後の東京府豊多摩郡、現在の東京都新宿区の一部)の早稲田(現西早稲田)と呼ばれる水田地帯に東京專門學校(現在の早稲田大学の前身)を創立。「政治権力からの独立」と「外国語に頼り切った専門研究姿勢からの独立」、つまり母国語教育の推進」という二本柱の「学の独立」を謳う全く新しい学園だった。当時のエリート校が国文学や漢学以外のあらゆる分野で英独仏の言語を使って教育していたことに対抗し、すべての授業と教科書を日本語にすることを建学の目標とした。

1882年8月 薩摩藩士・帝國海軍々醫の高木兼寛(たかき かねひろ, 1849-1920; 鹿兒島醫學校=現在の国立大学法人鹿児島大学医学部卒、聖トマス病院医学校=現在のロンドン大学国王学寮医学部卒)=後に醫學博士・男爵が、有志共立東京病院(現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身)を設立。(2020年8月28日(金)付のヤフーニュースに転載されたアーバンライフメトロの教育ジャーナリスト中山まち子オンライン記事に依拠)

1883年(明治16年)4月28日(土) 一年前の1882年4月30日(日)に久邇宮朝彦親王(くに の みや あさひこ しんのう, 1824-91)の令達「今般林崎文庫ニ皇學館設置候条、此旨相達候事」により創設された皇學館(現在の皇學館大学の前身)で開學式が挙行される。

1883年 東京英學校が東京英和學校(現在の青山学院大学の前身)へ改称。

1883年 築地大學校が先志學校を合併して一致英和學校(現在の明治学院大学の前身)へ改称。

1883年 二年前の1881年に発足(ほっそく)していた獨逸學協會(ドイツがく けふくゎい)が、獨逸學協會學校(現在の獨協中学・高等学校と獨協大学の前身)を建学。

1883年11月28日(水) 条約改正交渉を期して井上馨(いのうへ かをる; いのうえ かおる, 1836-1915; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮留学)侯爵・外務卿の肝煎(きもい)りで東京府東京市麴町區日比谷(現在の東京都千代田区日比谷)の薩摩藩上屋敷跡地に完成した鹿鳴館(ろくめい かん)の落成祝宴が、約1,200名を招待して華やかに挙行される。鹿鳴館の名称は『詩經』(しきやう; Shī-jīng; Shī Jīng; The Classic of Poetry)の「小雅」(せうが; Xiǎo-yǎ; Xiǎo Yǎ; The Small Elegance)にある「鹿鳴詩」に由来する。ところが、僅か三年足らず後の1887年9月17日(土)に井上が失脚して辞任すると鹿鳴館は閉鎖され、1890年には宮内省(現在の宮内庁の前身)に払い下げられることになる。なお、2019年(令和元年)12月31日(火)まで続くことになる、日本人名を欧文(英文、仏文、独文等)=ローマ字=で表記する際に姓名をひっくり返す伝統は、鹿鳴館時代(1883-87)にまで遡(さかの)る。

1884年(明治17年) 學習院が宮内省(現在の宮内庁)所轄の官立學校となる。

1884年3月 八年半前の1875年9月に私塾「商法講習所」として開設され、翌年(1876年)5月には府立商法講習所となっていた学校が、官立(現在でいう国立行政法人)東京商業學校(現在の国立行政法人一橋大学の前身)に改称。

1884年9月 九年前の1875年に始まった醫術開業試験が女子にも門戸を開放。男子に混じり醫術開業試験前期試験を女性4人が受験。荻野吟子(おぎの ぎんこ; 戸籍上の本名 荻野ぎん, 1851-1913)一人のみ合格。幕末期から明治初期にかけて女医として活躍していた「オランダおいね」こと、楠本イネ(くすもと いね, 1827-1903)、別名 失本イネ(しいもと いね, 1827-1903)は既に満57歳に達し、当時の平均寿命を超えていたこともあり、受験を断念。

1884年12月4日(木) 李氏朝鮮で起こった「甲申政變」で大淸帝國(清国)と日本軍が朝鮮の地で戦火を交えたが、清国軍の圧勝に終わる。清国軍1500人が漢城(現、ソウル特別市)の朝鮮王宮を守る日本軍150人を攻略し、銃撃戦となったが、日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民婦女子30人以上は清国兵に陵辱(rape)された上に虐殺(massacre)された。

1885年(明治18年)3月 半年前の1884年(明治17年)9月に醫術開業試験前期試験に合格していた荻野吟子(おぎの ぎんこ; 戸籍上の本名 荻野ぎん, 1851-1913)が同試験後期試験を受験し合格。同年(1885年)5月、湯島に診療所「產婦人科荻野醫院」を開業。満34歳にして近代日本初の公許女医となり、当時の新聞や雑誌で「女醫第一號」として大きく扱われる。なお、日本の女医には、鳴瀧塾のシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)の娘である「オランダおいね」こと、楠本イネ(くすもと いね, 1827-1903)、別名 失本イネ(しいもと いね, 1827-1903)が1871年に東京の築地(現在の東京都中央区築地)に開業した例があるが、1875年に醫術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったため、医業を廃業し、以後は産婆(midwife)として開業した。

1885年3月16日(月) 慶應義塾の創立者、福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)が「時事新報」紙上に所謂(いわゆる)「脱亞論」を発表。その要旨は、「日本の不幸は中国と朝鮮だ。人種的に異なるのか、教育に差があるのか、日本との精神的隔たりは余りにも大きい。情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、過去に拘(こだわ)り続ける支那・朝鮮(China and Korea)の精神は千年前と違わない。国際的な紛争の場面でも悪いのはお前の方だと開き直って恥じることも無い。もはやこの二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。東アジア共同体の一員として、その繁栄に与(あずか)ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。ただ隣国だからという理由で特別な感情を持って接してはならない。この二国に対しても西洋的な常識に従い、西洋の国際法に則(のっと)って接すれば良い。私は気持ちにおいては、東アジアの悪友と絶交するものである。」というものだった。(原文は http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.html

1885年 薩摩藩士・帝國海軍々醫の高木兼寛(たかき かねひろ, 1849-1920; 鹿兒島醫學校=現在の国立大学法人鹿児島大学医学部卒、聖トマス病院医学校=現在のロンドン大学国王学寮医学部卒)=後に醫學博士・男爵が、有志共立東京病院(現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身)内に日本で初めての看護学校「看護婦敎育所」を設置。なお、高木は前年(1884年)に小麦が脚気予防に有効と考え、パン食の導入を計画したが、諸般の事情で麦飯が取り入れられた。練習航海で米(コメ)と麦飯を主食とする2隻の船を比較して、麦飯が脚気(かっけ: beriberi)の発生を抑制したことから、海軍には麦飯が導入され、脚気の予防に大いに役立ったという。作家森鷗外(もり おうがい, 1862-1922)こと、本名 森林太郎(もり りんたらう, 1862-1922; 第一大學區醫學校本科=現在の東京大学医学部卒)たちのドイツ学派が唱えていた細菌説は今日では科学的に誤りであることが判明している。鷗外らは脚気伝染病説を主張し、陸軍では脚気が多発した。しかしながら、帝國陸軍の鷗外との論戦に結果として勝利した帝國海軍の高木にしてもビタミン(vitamin)の存在に気づいておらず、米(コメ)に毒素が入っていると推測した。高木の栄養説は、蛋白質(タンパクしつ: protein)不足が脚気の原因と予想していたので、科学的には間違っていた。本当はビタミンBの欠乏が原因だったことが今日(こんにち)明らかになっている。ビタミンの発見は1910年の鈴木梅太郎(すゞき うめたらう, 1874-1943)と1911年のカシミール・フンク(Casimir Funk, 1884-1967)を待たねばならなかった。鈴木梅太郎は論文を日本語で発表するという致命的ミスを犯し、発見の功績は全て英語で論文を発表したポーランド人のフンクに持って行かれてしまう。(2020年8月28日(金)付のヤフーニュースに転載されたアーバンライフメトロの教育ジャーナリスト中山まち子オンライン記事と、吉村昭(よしむら あきら, 1927-2006; 学習院大学中退)『白い航跡』(講談社, 1991年)に依拠)

1885年 英吉利法律學校(イギリス はふりつ がくかう: 現在の中央大学の前身)が開校。

1885年12月22日(火) 英国に遅れること百六十四年にして、日本國初代総理大臣に伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職(ゆうそく)読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)公爵が抜擢される。

1886年(明治19年)3月 明治政府が最初の帝國大學令を制定。これにより東京大學が周辺の官立專門學校(たとえば上記1877年の工部大學校)を吸収合併して帝國大學(現在の国立大学法人東京大学の前身)へ改称。校名から一時的に「東京」の地名が消える(1897年6月まで)。

1886年4月 当時世界一の先進国だったイギリスが会計年度を4月開始としていることを聞きつけた明治政府が財政法を制定し、政府の会計年度が4月開始と定める。また、徴兵検査を受ける義務のある満20歳男子の軍隊入隊届が4月開始になる。それに合わせて文部省(現在の文部科学省の前身)は髙等師範學校(後の国立東京教育大学、現在の国立大学法人筑波大学の前身)と小中學校に新年度の4月開始を指示。

1886年 明治政府が七年前の1879年に制定した敎育令を廃して小學校令、中學校令、師範學校令を制定。

1886年 一致英和學校が明治學院(現在の明治学院大学の前身)へ改称。

1886年8月13日(金)~15日(日) 長崎清国水兵事件または長崎丸山事件が発生。十二日前の8月1日(日)に長崎港に入港していた大淸帝國(清国)北洋艦隊(英称 Beiyang Fleet)の戦艦「定遠」(Ting Yuen or Dìngyuăn)、戦艦「鎭遠」(Chen Yuen or Zhēnyuăn)、防護巡洋艦「濟遠」(Chi Yuen or Jìyuăn)、練習艦「威遠」(Wai Yuen or Wēiyuăn)の四隻の水兵たち(sailors)が長崎市内へ無許可で上陸を開始。遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、器物損壊や暴行を働き、長崎市内の商店に押し入って金品を強奪し、泥酔しては、市内で暴れ回り、婦女子を追い駆け回すなど乱暴狼藉の限りを尽くした。長崎縣警察部と清国水兵が互いに抜刀して市街戦にまで発展した。斬り合いの結果、双方併せて80人以上の死傷者を出し、水兵は逮捕された。二日後の8月15日(日) 13:00頃にも約300人の清国水兵が勝手に長崎に上陸し、交番の前でわざと放尿し、交番の巡査が注意すると、その巡査を袋叩きにした。300人の清国兵が3人の巡査に寄って集(たか)って暴行し、日本人巡査1人が死亡した。これを見ていた日本の人力車車夫が激昂し、清国水兵に殴りかかった。清国水兵の一団が加勢し大乱闘となった。止めに入った警察官と清国水兵が斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出した。清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人以上負傷。日本人警部3名負傷、巡査2名死亡、16名負傷。日本人住民も十数名が負傷した。これに対して清国側は自国が軍事的に優位に立っていることを自認しており、日本側に謝罪することはなかった。当時の明治政府はまだ本格的な対外戦争を経験しておらず、最新鋭軍艦を備えていた清国海軍を恐れていたため、清国側の非礼・傲慢不遜に対して毅然とした態度をとることができなかった。この屈辱が八年後の1894年に勃発することになる日淸戰爭(日清戦争)の遠因になったと見ることもできる。

1886年10月24日(日)~12月8日(水) 橫濱(横浜)港から雑貨と日本人乗客23名(資料によっては25名)を載せて神戶(神戸)港に向かっていた英国船籍の240トンの貨物船ノーマントン(Normanton)が、航行中に暴風のため和歌山縣沖で座礁沈没。イギリス人船長ドレイク(John William Drake, 生歿年不詳)の人種差別的な方針で、イギリス人、ドイツ人、印度(インド)人、支那(シナ)人(今で言う中国人)の乗組員39名のうち英独の計27名(資料によっては26名)だけが救命ボートで救助され、日本人乗客23名(資料によっては25名)全員と印度人と支那人の船員を溺死(できし)させた(但し、遺体が出てきていないため、公式には行方不明とされる)。なお、救命ボートに乗った英独の生存者たちは和歌山縣の住民たちに救助された。日本人乗客を見殺しにした容疑でドレイク船長の責任が問われたが、幕末に結ばされた不平等条約の所為(せい)で当時の日本には外国人被告に対する領事裁判権が無かった。在神戸英国領事(British Consul in Kobe, Japan)トゥループ(James Troup, 生歿年不詳)の下(もと)で行なわれた海難審判で、「船員たちは日本人乗客たちにできるだけ早く救命ボートに乗り移るよう促(うなが)したが、日本人は英語の指示を解さなかった。彼らは乗組員たちの望みに応じず、反対に船内に籠もって出ようとしなかった。乗組員たちは日本人を置いて救命ボートに移るよりほかに選択肢が無かった。(The crew urged the Japanese passengers to get to the lifeboats as quickly as possible, but the Japanese failed to understand the English instructions. In turn, they did not comply with the crew’s wishes but instead holed themselves up inside the ship and didn’t even try to come out. The crew had no choice but to leave the Japanese and take to the lifeboats.)」という陳述を認めて、同年11月5日(金)にドレイク船長は無罪(not guilty)とされたが、日本の国内世論はこれを不服として硬化した。井上馨(いのうゑ かをる, 1836-1915)外務大臣は同年11月13日(土)、內海忠勝(うつみ たゞかつ, 1843-1905)兵庫縣知事に命じてドレイク船長らの神戸出船を止め、翌14日(日)に兵庫縣知事名で横浜英国領事裁判所(British Court for Japan)に殺人罪で告訴させた。神戸での予審を受けて在横浜英国領事館(British Consulate in Yokohama, Japan)のハンネン(Sir Nicholas Hannen, 1842-1900)判事は同年12月8日(水)、ドレイクを有罪(guilty)、禁錮3月(さんげつ)とする判決を下(くだ)したが、賠償金は科されなかった。刑が軽すぎるとして日本の国内世論は大いに不満だったため、条約改正への機運が高まった。世に言うノルマントン号事件(Normanton Incident)。

1887年(明治20年) 皇學館が神宮皇學館(現在の皇學館大学の前身)に改称される。

1887年9月17日(土) 条約改正交渉に失敗した井上馨(いのうへ かをる, 1836-1915; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮留学)侯爵・外務卿が失脚して辞任に追い込まれる。井上の肝煎(きもい)りで開館した鹿鳴館は閉鎖され、鹿鳴館時代(1883-87)は僅か三年足らずで終わりを告げる。三年後の1890年には宮内省(現在の宮内庁の前身)に払い下げられることになる。なお、2020年(令和2年)1月1日(水・祝)まで続くことになる、日本人名を欧文(英文、仏文、独文等)=ローマ字=で表記する際に姓名をひっくり返す伝統は、鹿鳴館時代(1883-87)にまで遡(さかの)る。

1887年10月5日(水) 勅令第五十一號により圖畫(図画)取調掛を改称した東京美術學校(現在の東京藝術大学美術学部の前身)が設立される。同様に音樂取調掛を改称した東京音樂學校(現在の東京藝術大学音楽学部の前身)が設立される。

1887年同月同日 十二年前の1875年9月に私塾「商法講習所」として開設され、翌年(1876年)5月には府立商法講習所となり、1884年3月に官立(現在でいう国立行政法人)東京商業學校に改称していた学校が髙等商業學校(現在の国立行政法人一橋大学の前身)に改称

1888年(明治21年)4月 二年前の髙等師範學校(後の国立東京教育大学、現在の国立大学法人筑波大学の前身)に倣(なら)い、府縣立尋常師範學校(現在の府県立教育大学の前身)も新年度の4月開始に変更。当時の髙師と師範には20歳以上の新入生が多く、9月入学のままだと優秀壮健な人材が先に陸軍にとられてしまう危機感が4月開始の理由に挙げられる。

1888年5月7日(月) 前年の1887年に明治政府が公布した學位令(明治廿年勅令第十三號)に基(もと)づき、数学者の菊池大麓(きくち だいろく, 1855-1917)や、物理学者の山川健次郎(やまかわ けんじろう, 1854-1931)ら学者25名に日本初の博士號が授与される。種別は法學博士、醫學博士、工學博士、文學博士、理學博士の五種だった。なお、日本初の女性博士はこの三十九年後の1927年のこと。

1888年6月 十年前の1878年に帝國大學(現在の国立大学法人東京大学本郷地区キャンパス)構内に作られた理學部觀象臺を母体とし、帝國大學附属天文臺が東京府東京市麻布區板倉町(現在の東京都港区麻布台)に設置される。この天文台は設置から三十三年後の1921年11月24日(木)には内務省(現在の総務省、警察庁、国家公安委員会、出入国在留管理庁の前身)と海軍省(現在の防衛相の前身)の天文関係業務を統合し、東京天文臺と改称されるが、その僅(わず)か三年後の1924年に(前年=1923年の關東大震災を経て)、都会の明るさのために観測が困難になったことから、郊外の東京府三鷹村大澤(現在の東京都三鷹市大沢)に完全移転することになる(三鷹本館竣工は三年前の1921年)。設置から百年後の1988年には東京大学附属東京天文台から文部省(現在の文部科学省)附属の天文台に移管され、岩手県奥州市の文部省緯度観測所(現在の水沢VLBI観測所)と名古屋大学空電研究所の一部と同一組織に組み込まれ、国立天文台(英称 National Astronomical Observatory of Japan; 英略称 NAOJ)と改称。更には設置から百十六年後の2004年4月1日(木)には法人化し、大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台と改称。

1889年(明治22年)2月11日(月・祝) 紀元節(現在の建国記念の日)のこの日、大日本帝國憲法が発布される(施行は翌’90年11月29日(土))。そこで喜びを表す「萬歳(ばんざい)」という詞(ことば)が考案され、東京の青山練兵場での臨時觀兵式に向かう明治天皇(Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)の馬車に向かって万歳三唱した。最初の三唱は「萬歳、萬歳、萬々歳」と唱和する筈(はず)だったが、最初の「萬歳」で馬車の馬が驚いて立ち止まってしまい、そのため二声目の「萬歳」は小声となり、三声目の「萬々歳」は言えずじまいに終わったという。なお、十二年近く前の1877年に謀叛人として死んでいった西鄕隆盛(さいがぅ たかもり; 有職(ゆうそく)読みで「りゅうせい」, 1828-77)が憲法発布に伴う大赦(たいしゃ)で赦(ゆる)され、正三位を追贈されて、名誉が回復される。なお、約十三年半前の1875年9月24日(金)に私塾「商法講習所」(現在の国立大学法人一橋大学の前身)を開設していた森有禮(もり ありのり; 有職(ゆうそく)読みで「ゆうれい」, 1847-89)初代文部大臣が国粋主義者に短刀で脇腹を刺され、翌日(1889年2月12日(火))に大臣現職の儘(まま)死去。

1889年7月1日(月) 東京の新橋驛(現在の汐留シオサイトの場所)と関西の神戶驛(神戸駅)を結ぶ東海道本線が全線開通。新橋驛と橫濱驛(現在のJR桜木町駅の場所)間が開業した1872年から十七年を経て、関東と関西を結ぶ幹線600.2kmが鉄路で結ばれる。

1889年 日本法律學校(現在の日本大学の前身)が開校。四年前の1885年に開学していた英吉利法律學校が東京法學院(現在の中央大学の前身)へ改称。

1889年 この年までの御雇(おやとひ)外國人2,690人の内訳は、英人1,127名(約42%)、米人414名(約15%)、仏人333名(約12%)という具合に、英人が圧倒的多数を占めていた。

1890年(明治23年)7月1日(火) 日本史上初の国政選挙である第1回衆議院議員総選挙が実施される。選挙権は直接国税15円以上の納税者で満25歳以上の男性に限られ(但し、軍人や華族の当主は除外)、総人口の約1%のみが投票可能。投票率は驚異的な93.73%だったという。

1890年5月17日(土) 世に言うインブリー事件(Imbrie Affair)が発生。明治學院(現在の明治学院大学の前身)白金倶樂部(Shirokane Club)と官立第一高等中學校=通称「一中」(官立第一高等學校=通称「一高」=現在の国立大学法人東京大学教養学部駒場地区キャンパスの前身)の野球試合(baseball game)が本郷向ケ丘グラウンドで行なわれる。試合は六回の時点で6対0と明治學院が大量リードする展開となっていたところ、明治學院の米人宣教師ウィリアム・インブリー(William Imbrie, 1845-1928; ニュージャージー単科大学=現在のプリンストン大学卒、ニュージャージー神学校卒)が試合開始時間に遅れて到着し、垣根を越えてグラウンドに入ると、一中(一高)應援團に取り囲まれる。インブリーと乱闘を繰り拡げるうちに、一中(一高)の一生徒(氏名不詳)がペンナイフを兇器としてインブリーの顔面を刺し、重傷を負わせる。この事件は在日欧米各誌がインブリー事件(Imbrie Affair)として取り上げ、一時外交問題にまで発展しそうになるも被害者インブリー側の配慮で事件は収束する。なお、一中(一高)の応援席には当時一高生だった後の俳人、正岡子規(まさおか しき, 1867-1902)こと、本名 正岡升(まさおか のぼる, 1867-1902; 帝國大學國文科=現在の東京大学文学部国文科中退)が観戦しており、日記に事件の様子を書き残している。正岡子規は大のベースボール好きで、直訳の「塁球」とせずに、自らの本名の升(のぼる)にかけた洒落(シャレ)として「野球」(野ボール)という訳語を思いついたとされる。こうした野球をめぐる乱闘騒ぎこそが、二十一年半後の1911年秋に、東京朝日新聞と新渡戸稲造(にとべ いなざう; にとべ いなぞう, 1862-1933; 札幌農學校=現在の北海道大学卒、帝國大學=後の東京帝國大學=現在の東京大学中退)第一髙等學校(現在の東京大学教養学部の前身)校長、後の東京女子大學初代學長、後の國際聯盟(League of Nations; 現在の国連の前身)副事務総長を中心に沸き起こる「野球害悪論」へと繋(つな)がったと考えられる。(ウィキペディア日本語版の「インブリー事件」の項目と、西村眞(にしむら まこと, b.1939)著 『日本人、最期のことば』(飛鳥新社, 2018年)に依拠した上で加筆)

1890年7月 八年前の1882年に明治政府が設置した研究機関「皇典講究所」に教育機関「國學院」(現在の私立國學院大學の前進)を設置。

1890年 慶應義塾に大學部が発足したものの、幼稚舎と普通部を出た若者はそのまま実業界へ打って出たため、大学部で専門教育を受ける者が少なく、創立者の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)は苦戦を強(し)いられる。

1890年 九年前の1881年に開校した東京職工學校が東京工業學校(現在の国立大学法人東京工業大学の前身)に改称。

1890年10月30日(木) 敎育ニ關スル勅語(教育勅語)の発布(1948年6月19日(土)廃止)。

1890年11月25日(火) 第一回帝國議會が開会される。時の總理大臣は山縣有朋(やまがた ありとも; 有職(ゆうしょく)読みで「ゆうほう」, 1838-1922; 首相在任1889-91 & 1898-1900)

1890年11月29日(土) 前年(1889年)2月11日(月・祝)に公布されていた大日本帝國憲法が施行される(1947年5月2日(金)廃止)。

1890年12月4日(木) ドイツ帝国(現在のドイツ連邦共和国の前身)国立ベルリン大学にてローベルト・コッホ(Robert Koch, 1843-1910; ゲッティンゲン大学卒)に師事するエーミール・フォン・ベーリング(Emil von Behring, 1854-1917; ドイツ帝国陸軍医科専門学校卒)が、帝都ベルリンに留学中の北里柴三郎(きたざと しばさぶらう; Shibasaburo Kitasato, 1853-1931; 東京醫學校=現在の東京大学医学部卒)と連名で、「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」(„Über das Zustandekommen der Diphtherieimmunität und der Tetanusimmunität bei Thieren“; 英直訳 “On the Occurrence of Diphtheria Immunity and Tetanus Immunity in Animals”)と題したドイツ語論文を発表。ジフテリア(diphtheria)と破傷風(tetanus)の血清療法(antiserum)を確立した画期的な論文だったため、主要著者のベーリングは、「血清療法の研究、特にジフテリアに対するものによって、医学の新しい分野を切り開き、生理学者の手に疾病や死に勝利しうる手段を提供したこと」という理由で、十一年後の1901年に記念すべき第1回のノーベル生理学・医学賞(典 Nobelpriset i fysiologi eller medicin; 英 Nobel Prize in Physiology or Medicine; 独 Nobelpreis für Physiologie oder Medizin)を受賞しているが、日本人の北里は候補にこそ名前が挙がったものの実際には受賞できなかった。これは黄色人種に対する人種差別だとする憶測も日本側には有るが、人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない。北里が受賞できなかったのは、ベーリングがジフテリアに関する別の単著論文を発表していたこと、ノーベル委員会(典 Nobelkommitté; 英 Nobel Committee; 独 Nobelkomitee)や同賞の選考に当たったカロリンスカ研究所(典 Karolinska Institutet; 英 Karolinska Institute; 独 Karolinska-Institut)が北里は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリングが単独で創出したと見做(みな)したこと、当時は共同授賞という考え方が無かったことが要因として考えられる。これが二十一世紀の現代であれば北里も確実に受賞できた筈(はず)であり、現に受賞者のベーリング自身も受賞時に北里の功績を認めている。なお、師匠のコッホは弟子のベーリングに四年遅れて1905年に「結核に関する研究と発見」により第5回ノーベル生理学・医学賞を受賞することになる。北里は後に「日本細菌学の父」と呼ばれることになる。

1890年12月16日(火) 日本初の電話交換業務が東京・橫濱(横浜)限定で開始。

1891年(明治24年)10月~’93年(明治26年)4月7日(金) 久米邦武筆禍事件(くめ くにたけ ひっか じけん)が発生。日本の歴史学の先駆者として著名な久米邦武(くめ くにたけ, 1839-1931)帝國大學(現在の東京大学の前身)敎授兼臨時編年史編纂委員が「神道ハ祭天ノ古俗」(英訳 Shinto is an ancient heaven worshiping custom. または Shinto is a superstition of veneration of heaven)と題した論文を『史學雜誌』(但し、当時の表紙の表記は『史學會雜誌』)に1891年10月(資料によっては同年1月)に発表。1892年1月、同論文は田口卯吉(たぐち うきち, 1855-1905)が主宰する『史海』に転載されるが、主宰者の田口は「余ハ此篇ヲ讀ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシテ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サザルベカラズ」という文章を寄せ、世の神道家たちを挑発する。1892年2月28日(日)、神道家の倉持治休(くらもち はるやす?, 生歿年不詳)、本鄕貞雄(ほんがぅ さだを, 生歿年不詳)、藤野達二(ふじの たつじ, or とうの たつじ, 生歿年不詳)、羽生田守雄(はにうだ もりを, 生歿年不詳)が、論文寄稿者の久米邦武に詰め寄る。神道家たちは翌日(1892年2月29日(月))も久米に論文撤回を要求する。同年(1892年)3月3日(木)、久米は新聞広告を出し、その中で論文を取り下げる旨を宣言するも自身の主張は曲げず。その翌日(1892年3月4日(金)、久米は帝國大學敎授職を免職される。同年(1892年)3月5日(土)、『史學雜誌』第二編第廿三號、廿四号、廿五號、それに『史海』第八号が発禁処分となる。明けて1893年3月29日(水)、修史編纂事業の是非の議論が起こり、翌日(1893年3月30日(木))には史誌編纂掛の廃止が政府で決定され、同年(1893年)4月7日(金)に帝國大學の濱尾新(はまお あらた, 1849-1925)總長に通達したところで一応の落着を見る。この問題は、学問(特に歴史学)の自由と、天皇を中心とした國體(国体)との関わりについて一石を投じ、政治に対する学問の客観性を維持することの難しさを印象づけたが、第二次世界大戦での敗戦で大日本帝國と國家神道が滅ぶまではこの問題を真剣に論じた研究は出てこなかった。

1893年 十三年前の1880年に私学としては日本最初の法律学校として開学していた專修學校(現在の専修大学の前身)が、法曹界や政界の論争に巻き込まれ、法律科の生徒募集を停止。經済科を中心とする教育機関として継続。(2020年9月25日(金)付の Urban Life Metro の教育ジャーナリスト中山まち子記者署名オンライン記事「私学で初の法律科を設置 米国留学のエリートが設立した「専修大学」とはどのような大学なのか」に依拠)

1893年11月7日(火) 神戶(神戸)港と英領印度ボンベイ(現在のムンバイ)港を結ぶ航路が就航。日本としては初の遠洋航海定期航路となる。

1894年(明治27年) 東京英和學校が靑山學院(現在の青山学院大学の前身)へ改称。

1894年7月16日(月) 日英通商航海条約(Anglo-Japanese Treaty of Commerce and Navigation)が調印され、日本にとって悲願だった列強の日本に於(お)ける治外法権(extraterritoriality)の奪取に成功。

1894年7月19日(木) 朝鮮半島の実質的な支配権をめぐり対立を深めていた大清帝國(清国)に対し、大日本帝國が5日間の回答期限付きの最後通牒(さいご つうちょう: ultimatum)を突きつける。

1894年7月24日(火) 日本側が突きつけた最後通牒の回答期限日になるも清国からは無回答(無視された)。

1894年7月25日(水)早朝 朝鮮半島の実質的な支配権をめぐり、朝鮮を舞台にした豐島沖海戰(ほうたう おき かいせん; 英称 Battle of Pungdo)が大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)と大清帝國海軍北洋艦隊(Beiyang Fleet of Qing Dynasty China)との間で勃発。日本側は沈没艦も死傷者も皆無(ゼロ)だったが、清国側は砲艦「濟遠」が大破、砲艦「廣乙」と輸送船「高陞号」は撃沈され、輸送船「操江」と輸送船「秋津洲」は鹵獲(ろかく)され、戦死者と負傷者の合計は1,100人にも及んだ。日淸戰爭(日清戦争; 英称 First Sino-Japanese War, 1894-95)の実質的な開戦日となるも、正式な宣戦布告(Declaration of War)は1週間後の8月1日(水)。

1894年8月1日(水) この日の宣戦布告(Declaration of War)を以(もっ)て日淸戰爭(日清戦争; 英称 First Sino-Japanese War, 1894-95)が正式に勃発(ぼっぱつ)。

1894年9月8日(土) 明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)が有栖川宮熾仁親王(ありすがわ の みや たるひと しんのう; Prince Arisugawa Taruhito, 1835-95)奉請を受け、廣島縣廣島市(広島県広島市)に大本營進駐を発令。

1894年9月13日(木) 明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)が帝都東京市内の皇居を出門し、愛知縣名古屋市内に行在(あんざい)。

1894年9月14日(金) 明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)が兵庫縣神戶(神戸)市内に行在(あんざい)。

1894年9月15日(土) 明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)が廣島縣廣島市内廣島城内の大本營に入る。以後、明治天皇が翌年(1895年)4月27日(土)に発つまでの七ヶ月餘りの間、廣島縣廣島市が日本の事実上の臨時首都となる。

1894年11月24日(土) 官立東京音樂學校(現在の国立大学法人東京藝術大学音楽学部の前身)の奏樂堂(四年前の1890年竣工の木造二階建; 現在は東京都台東区所轄の国指定重要文化財「旧東京音楽学校奏楽堂」)で開かれた赤十字慈善演奏會(継続中の日清戦争の戦死者・戦傷病死者を悼む催し物)でグノー(Charles Gounod, 1818-93)作曲 『ファウスト』(Faust, 1859)から第一幕のみの抜粋がフランス語で原語上演される。ファウスト(Faust)役は駐日イタリア大使館員のブラッチャリーニ(Braccialini, 生歿年不詳)で、メフィストフェレス(Mephistopheles)役は駐日オーストリア=ハンガリー帝国代理公使のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー(Heinrich Coudenhove-Kalergi, 1859-1906)伯爵だった。そして指揮は国歌「君が代」を編曲したお雇い外国人(ドイツ人)のフランツ・エッケルト(Franz Eckert, 1852-1916)だった。これを以(もっ)て日本初のオペラ(opera: イタリア語で「作品」の意; 通常訳 「歌劇」)公演と見做(みな)し、尚且(なおか)つ11月24日は日本に於(お)いては「オペラの日」である。

1895年(明治28年)4月17日(水) 大日本帝國(Empire of Japan)と大淸帝國(Qing Dynasty China)が前年から続いていた日淸戰爭(日清戦争; 英称 First Sino-Japanese War, 1894-95)を終わらせるべく、両国の代表が山口縣赤間關市(あかまがせき し)=現在の山口県下関市にて外交交渉を進めていたが、遂にこの日に合意に達し、下關條約(下関条約; 中文では馬關條約)を締結。

1895年4月21日(日) 明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)が詔書(せうしよ; しょうしょ: 英称 Imperial Rescript)を公布し、日淸戰爭(日清戦争; 英称 First Sino-Japanese War, 1894-95)の終結を内外に宣言。

1895年4月23日(火) 下關條約(下関条約; 中文では馬關條約)締結から僅(わず)か六日後のこの日、日本の勢力拡大に警戒を強めるロシア帝国がフランス共和国とドイツ帝国を誘い、遼東半島(辽东半岛; Liáodōng Bàndăo; Liaodong Peninsula)の大淸帝國(Qing Dynasty China)への返還(handover)を求める勧告を行なう。世に言う三國干渉(英 Tripartite Intervention or Triple Intervention; 仏 Intervention tripartite, ou Triple intervention; 独 Tripel-Intervention od. Intervention von Shimonoseki; 露 Тройственная интервенция = Troystvennaya interventsiya)。伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職(ゆうそく)読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)公爵・内閣總理大臣は列国会議を開催することで問題を処理しようとするも、陸奥宗光(むつ むねみつ, 1844-1897)外務大臣は欧米列強による更(さら)なる干渉を招くとして列国会議に反対し、英米が露仏独を牽制(けんせい)してくれることを期待する。

1895年4月27日(土) 大本營を京都府京都市内へ移し、明治天皇は廣島縣廣島市を発つ。このことから前年(1894年)9月15日(土)から七ヶ月余り続いていた同市の事実上の臨時首都としての機能が解かれる。

1895年5月4日(土) 十日前の同年(1895年)4月23日(火)に露仏独から受けていた三國干渉(英 Tripartite Intervention or Triple Intervention; 仏 Intervention tripartite, ou Triple intervention; 独 Tripel-Intervention od. Intervention von Shimonoseki; 露 Тройственная интервенция = Troystvennaya interventsiya)で、日本は英米による露仏独の牽制(けんせい)を期待したものの、英米は局外中立の姿勢を崩さず。露仏独三国(特にロシア帝国)の軍事力を恐れる伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職(ゆうそく)読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01)内閣は遂に外圧に屈し、三国による勧告(三国干渉)を受け入れると通達。臥薪嘗膽(ぐゎしん しやぅたん; 臥薪嘗胆; がしん しょうたん; wòxīn chángdǎn: 「薪の上で寝ることの痛みで屈辱に思いを馳せ、苦い胆(きも)を嘗()めることで屈辱を忘れないようにすること」の意)なる漢文四字熟語が標語(slogan)として流行し、ロシア帝国への敵愾心が高まり、約九年後の1904年2月8日(月)に勃発(ぼっぱつ)することになる日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)へと繋(つな)がる。。

1895年5月8日(水) 下關條約(下関条約; 中文では馬關條約)が発効し、前年(1894年)8月1日(水)から続いていた日淸戰爭(日清戦争; 英称 First Sino-Japanese War, 1894-95)が正式に終結。日本は近代対外戦争で初勝利を収める。戦勝により日本は大淸國から臺灣(台湾)を獲得し(1945年の敗戦まで)、大淸國の属国としての歴史を歩んできた李王朝の朝鮮國(李氏朝鮮)の独立を承認させる。条文に「第一條 淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」([中文] 第一款 中國認明朝鮮國確爲完全無缺之獨立自主。故凡有虧損獨立自主體制、即如該國向中國所修貢獻典禮等、嗣後全行廢絕。; [英文] Article 1: China recognizes definitively the full and complete independence and autonomy of Korea, and, in consequence, the payment of tribute and the performance of ceremonies and formalities by Korea to China, in derogation of such independence and autonomy, shall wholly cease for the future.)とある。

(外部サイト)

https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84

https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%97%9C%E6%A2%9D%E7%B4%84

https://en.wikisource.org/wiki/Treaty_of_Shimonoseki

1895年5月29日(水)~10月21日(月) 三週間前の同年(1895年)5月8日(水)に発効した下關條約(下関条約; 中文では馬關條約)に基づき日本軍が臺灣(台湾)への進駐を開始するも、清朝の一部抵抗勢力が武力で抗戦。世に言う乙未戰爭(いつび せんさう; Japanese invasion of Taiwan, 1885)。

1895年11月18日(月) 乙未戰爭(いつび せんさう; Japanese invasion of Taiwan, 1885)の結果として樺山資紀(かばやま すけのり, 1837-1922)海軍大將・初代臺灣總督が臺灣全島平定宣言を発する。

1896年(明治29年) 長州藩出身の士族でプロテスタント信徒の成瀨仁藏(なるせ じんざう, 1858-1919; アンドーヴァー神学校、クラーク大学留学)が、高木嵩山堂から『女子敎育』を刊行し、「日本女子大學校創設ノ趣旨」を発表。女性を人間として育てること、特に女子への体育教育の必要を日本で初めて説く。成瀨はこの持論を基(もと)に五年後の1901年に日本初の総合的な女子高等教育機関として日本女子大學校(現在の日本女子大学の前身)を創立することになる。

1897年(明治30年) 前年(1896年)に『女子敎育』を刊行した成瀨仁藏(なるせ じんざぅ, 1858-1919; アンドーヴァー神学校、クラーク大学留学)の構想に基(もと)づく第一回創立委員會が開催される。十五年前の1882年に東京專門學校(現在の早稲田大学)を創立していた自由民権運動家で後の総理大臣の大隈重信(おほくま しげのぶ, 1838-1922; 首相在任1898 & 1914-16)が創立委員長に担(かつ)がれる。

1897年6月 帝國大學令に基づいて第三高等学校が京都帝國大學(現在の国立大学法人京都大学の前身)に昇格。帝國大學が二つになったことで、東京に以前からある帝國大學は東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学の前身)に改称することで、校名に「東京」の地名が十一年ぶりに復活。

1897年10月 二年前の1895年に締結された下關條約(下関条約)に基(もと)づき、大淸國の属国の立場を脱して独立した李王朝の朝鮮國が大韓帝國と改称(1910年まで)。

1898年(明治31年) 八年前の1890年に発足させながらそれまで不振だった慶應義塾大學部を晩年の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)が慶應義塾の本体とし、その下に従来の普通部と幼稚舎が附属するという今日(こんにち)の形、当時としては画期的な改革を断行。

1898年12月18日(日) 二十二年前の1877年の西南戦争(或いは西南の役(えき))で賊軍(ぞくぐん)の将として遇されながら、その十二年後の1889年2月11日(月・祝)の大日本帝國憲法発布に伴う大赦(たいしゃ)で赦(ゆる)され、正三位を追贈されて、名誉が回復されていた西鄕隆盛(さいがう たかもり; さいごう たかもり; 有職(ゆうそく)読みで「りゅうせい」, 1828-77)の銅像の除幕式が東京府東京市下谷區(現在の東京都台東区)内の上野恩寵公園=通称 上野公園で実施される。銅像は東京美術學校(現在の東京藝術大学美術学部の前身)彫刻科の高村光雲(たかむら くゎううん; たかむら こううん, 1852-1934)教授の作で、連れている犬ツンは後藤貞行(ごとぅ さだゆき, 1850–1903)の作。

1899年(明治32年)8月3日(木) 私立學校令が公布される。その主な内容は、私立学校は地方長官の監督に属し、設置・廃止や設立者の変更を監督庁に申し出ること(第1・2條)、私立学校の校長・教職員の欠格条項の規定(第4條)、監督庁の私立学校に対する閉鎖命令の規定(第10條)があった。制定の背景としては、条約改正によって在日外国人の内地雑居がこの年から開始されるに連れて外国人経営による私立学校が増加したが、これらの学校にはキリスト教の教団を設立母体とするミッション系の学校が多く含まれていた。教育勅語中心の教育の推進を企図する文部省(現在の文部科学省の前身)にとって、キリスト教系学校の拡張は危惧すべきものに感じられた。そのため宗教教育に枠をかけようとする動きが現れ始め、私立学校令も当初はそのような学校における宗教教育・活動の規制を意図した。部分的にはこの法令が足枷(あしかせ)となり、青山学院の大学昇格がこの五十年後の1949年までお預けとなった。

1900年(明治33年)5月10日(木) 皇太子嘉仁親王(くゎぅたいし よしひと しんのう; Crown Prince Yoshihito, 1879-1926)=満20歳=後の大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)が九條節子(くでう さだこ, 1884-1951)嬢(満15歳)=後の貞明皇后(ていめい くゎぅごう, 1884-1951)と、天照大御神(アマテラス おほみかみ)を祭る宮中三殿の賢所(かしこどころ)でご成婚。日本史上初の神前結婚式(神道式の婚礼)と成る。結婚後は父の明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫いた。大正天皇夫妻は四人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある。皇室における側室の制度が法的に廃止されるのは後の皇太子裕仁親王(くゎぅたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, 1901-89)=後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の時代であったが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。翌年(1901年)には日比谷に在った神宮奉齋會本院(じんぐう ほうさいくゎい ほんいん)=現在の東京大神宮(在東京都千代田区富士見の飯田橋駅附近)が神前結婚式の様式を定め、華族や庶民が模倣するようになる。

1900年(日付不詳) 二度の米国留学(1890年頃には一時的に英国のオクスフオッド大学聖ヒルダ学寮にも在籍)から戻った津田梅子(つだ うめこ, 1864-1929; ブリンマーカレッヂ卒)が東京府東京市麴町區一番町(現在の東京都千代田区一番町)に女子英學塾(現在の津田塾大学の前身)を開学。当初の入学者は10名だっという( https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html )。

1900年秋 帝國大學(現在の国立大学法人東京大学の前身)英文科卒の英語教師だった夏目金之助(なつめ きんのすけ; Kinnosuke Natsumé, 1867-1916)が、文部省(現在の文部科学省)の命令で英語教育法研究のため、9月8日(土)に橫濱(横浜)港を出港し、アジアの英領を転々とし、スエズ運河を通り。鉄道でフランスを縦断したのち、同年10月28日(日)に英国着。二年以上に及ぶ英国留学生活が始まる。なお、帰国後の夏目金之助は夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)の筆名(pen name; pseudonym)で日本の文壇で活躍した。

1900年12月5日(水) 女性医師、吉岡彌生(よしおか やよい, 1871-1959)によって東京府東京市麹町區飯田町(現東京都千代田区の飯田橋駅附近)の東京至誠醫院の一室に東京女醫學校(現在の東京女子医科大学の前身)が創立される。将来の女医を育成する世界でも珍しい学校だが、英国には既に二十六年前の1874年に創立されたロンドン女子医学校(London School of Medicine for Women)や1886年創立のエディンバラ女子医学校(Edinburgh School of Medicine for Women)の例がある。

1901年(明治34年)4月20日(土) 長州藩出身の士族で五年前の1896年に『女子敎育』を刊行していたプロテスタント信徒の成瀨仁藏(なるせ じんざぅ, 1858-1919; アンドーヴァー神学校、クラーク大学留学)が、「女子を人として、婦人として、國民として敎育する」という方針を掲げ、日本初の総合的な女子高等教育機関として日本女子大學校(現在の日本女子大学の前身; 英称 Japan Women’s University)を創立。入学者510名。開校当初は名ばかりの無認可大学だった(專門學校としての認可は三年後の1904年、新制大学としての認可は1948年)。

1901年5月 二十年前の1881年に東京職工學校として開校し、1890年に東京工業學校に改称していた学校が東京髙等工業學校(現在の国立大学法人東京工業大学の前身)に改称。

1902年(明治35年)1月30日(木) 英京倫敦はメイフェア(Mayfair, London: 日本で言えば舊東京府東京市麻布區のような大使館街・最高級住宅街)地区のランヅダウン館(Lansdowne House: 現在の Lansdowne Club)にて日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)が締結される(1923年8月17日(金)に失効)。調印したのは英側から第五代ランヅダウン侯爵(Henry Petty-Fitzmaurice, 5th Marquess of Lansdowne, 1845-1927)外務大臣(Secretary of State for Foreign Affairs; 通称 Foreign Secretary)と、日本側から林董(はやし ただす; Baron Tadasu Hayashi, 1850-1913)男爵(後に子爵、更に後に伯爵)・駐英日本國公使(Resident Minister of Japan to the UK)

1902年3月27日(木) 二十六年半前の1875年9月に私塾「商法講習所」として開設され、翌年(1876年)5月には府立商法講習所となり、1884年3月に官立(現在でいう国立行政法人)東京商業學校に改称し、1887年10月に髙等商業學校に改称していた学校が東京髙等商業學校(現在の国立行政法人一橋大学の前身)に改称。兵庫縣(県)神戸市にも髙等商業學校が開設されたため、区別するため東京の地名を冠する必要が生じた。

1902年 東京專門學校が「大學」を早くも名乗り、早稲田大學に改称(但し、正式な大学になるのは1920年)。

1902年12月5日(金) 文部省(現在の文部科学省)の命令で二年以上前の1900年9月8日(土)に橫濱港を出港し、同年(1900年)10月28日(日)から英国に滞在していた夏目金之助(なつめ きんのすけ; Kinnosuke Natsumé, 1867-1916)が、滞在先の英京倫敦(ロンドン)を発って歸朝(きてう: 当時の言葉で「帰国」の意)の途に就く。

1903年(明治36年)1月下旬 文部省(現在の文部科学省)の命令で二年以上前に英国に派遣されていた夏目金之助(なつめ きんのすけ; Kinnosuke Natsumé, 1867-1916)が船上で年を越し、橫濱港に歸朝(きてう: 当時の言葉で「帰国」の意)。なお、帰国後の夏目金之助は夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)の筆名(pen name; pseudonym)で日本の文壇で活躍することになる。

1903年5月22日(金) 当時としては恵まれた家庭の出身で、前日(1903年5月21日(木))から制服制帽のまま失踪していた官立第一高等學校(現在の国立大学法人東京大学教養部駒場地区キャンパスの前身)在学中の藤村操(ふじむら みさを, 1886-1903)=16歳が、栃木縣上都賀郡日光町(現在の栃木県日光市)の名勝「華厳の滝」で飛び込み自殺を遂げる。藤村が自殺現場の傍らの水楢(ミズナラ; 羅 Quercus crispula; 英 Mongolian oak)の木に彫りつけた遺書「巌頭之感(がんとう の かん)」が自殺後に発見される。全文引用すると、「悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て [改行] 此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の [改行] オーソリチィーを價するものぞ。萬有の [改行] 眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。 [改行] 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。 [改行] 旣に巌頭に立つに及んで、胸中何等の [改行] 不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は [改行] 大なる樂觀に一致するを。」とのこと。将来の日本を背負って立つエリートである一高生の自殺は、前述の遺書の内容と共に自殺から五日後の同年(1903年)5月27日(水)付の新聞各紙に報道されて大きな反響を呼び、当時のエリート学生やマスコミや知識人に波紋を投げかける。木に彫られた遺書「巌頭之感」を警察は間もなく削り落とし、ミズナラの木そのものも切り倒してしまう。しかしその前にマスコミが撮影した白黒写真が現在まで残される。藤村の遺体は五週間余り後の同年(1903年)7月3日(金)に発見されている。二十世紀初頭に起きたこの騒動は世間に大きな反響を齎(もたら)し、さながら十八世紀にゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832; ヴァイマル公国財務総監在任1782-84; ライプツィヒ大学退学、シュトラースブルク大学=現在のストラスブール大学卒)著 『若きウェルテルの悩み』(Die Leiden des jungen Werthers, 1774 u. 1787)を読んだヨーロッパの知的な若者が後追い自殺した「ウェルテル効果」(独 Werther-Effekt; 英 Werther effect)のように、日本でも藤村の例に倣(なら)った青年の自殺が相次いだため社会問題となる。特別警戒中の警察官に保護され未遂に終わる者が多かったものの、藤村の死後四年間(1903-07年)で同所で自殺を図(はか)った者は185名に上り、既遂が40名である。藤村の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになる。後に人気作家として文壇で活躍することになる夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)こと、本名 夏目金之助(なつめ きんのすけ, 1867-1916; 帝國大學文科大學卒)=36歳は、英国帰りのエリートとして官立第一高等學校で英語教師をしていたが、授業中に藤村に対し「君の英文學の考へ方は間違つてゐる!」と叱責(しっせき)していて、その直後に藤村は自殺している。

1903年6月1日(月) 東京府麴町區西日比谷町と内山下町二丁目に跨(またが)る土地 = 俗称 日比谷ヶ原(現在の東京都千代田区日比谷公園)に、日本最初の西洋式都市公園として日比谷公園(ひゞや こぅゑん)が整備され、この日から一般公開される。

1903年6月10日(水) 東京帝國大學の戸水寛人(とみず ひろんど, 1861-1935; 帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部の前身卒)東京帝國大學敎授・法學博士を中心とする七博士(seven doctorate holders)が、対ロシア開戦を求めた意見書を大日本帝國政府の桂太郎(かつら たらう; かつら たろう, 1848-1913; 首相在任1901-06, 1908-11 & 1912-13; ドイツ帝国への私費留学)内閣総理大臣・陸軍大將・伯爵(後に公爵)に提出。他の6人は、富井政章(とみい まさあきら, 1858-1935; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部の前身卒)東京帝國大學敎授・法學博士(仏リヨン大学法学部)・男爵、小野塚喜平次(おのづか きへいじ, 1871-1944; 東京帝國大學卒)東京帝國大學敎授、高橋作衞(たかはし さくえ, 1867-1920; 帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部の前身卒)東京帝國大學敎授、金井延(かない のぶる, 1865-19334; 東京帝國大學卒)東京帝國大學敎授、寺尾亨(てらお とおる, 1859-1925; 司法省法學校=現在の東京大学法学部仏法科卒)東京帝國大學敎授、中村進午(なかむら しんご, 1870-1939; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部の前身卒)學習院敎授。翌日(1903年6月11日(木))には東京日日新聞(現在の毎日新聞東京本社の前身)にも掲載。国民の間の主戦論を主導。世に言う「七博士意見書」「七博士建白事件」。なお、日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)開戦はこの八ヶ月後の1904年2月8日(月)のこと。

1903年7月23日(木) 東京音樂學校(現在の国立大学法人東京藝術大学音楽学部の前身)奏樂堂(現在は東京都台東区が管理する重要文化財旧東京音楽学校奏楽堂)にて日本初のオペラ公演が実現。演目はグルック(Christoph Willibald Gluck, 1714-87)作曲 『オルフェオ』(Orfeo)=正式には『オルフェオとエウリディーチェ』(Orfeo ed Euridice, 1762)だった。

1903年 專門學校令が発令され、「大學」を名乗る專門學校が誕生。たとえば東京法學院が東京法學院大學(現在の中央大学の前身)に、東京法學社が和佛法律學校法政大學(現在の法政大学の前身)に、明治法律學校が明治大學に、日本法律學校が日本大學にそれぞれ改称(但し、それぞれ正式な大学になるのは1920年)。

1903年 二十二年前の1881年に薩摩藩士・帝國海軍々醫の高木兼寛(たかき かねひろ, 1849-1920; 鹿兒島醫學校=現在の国立大学法人鹿児島大学医学部卒、聖トマス病院医学校=現在のロンドン大学国王学寮医学部卒)醫學博士・男爵が設立していた東京慈惠醫院醫學校(但し、設立時の名称は成醫會講習所)が、專門學校令の適用を受けて日本初の私立医学専門学校として東京慈惠醫院醫學專門學校となる。

1903年 三年前の1900年に創立されていた東京女醫學校(現在の東京女子医科大学の前身)が東京府東京市牛込區市ヶ谷河田町(現東京都新宿区)の陸軍獣醫學校の跡地に移転。

1903年 硬式野球の早稲田大學對慶應義塾大學の対戦試合(早慶戰)が始まるも、應援團(応援団)同士の過剰な応援合戦が問題になって三年後の1906年から’25年10月19日(月)迄の十九年間は中止となる。

1903年9月1日(火) 神宮皇學館(現在の皇學館大学の前身)が「神宮皇學館官制」(專門學校令によらない)に基づく内務省管轄(文部省管轄ではない)の官立專門學校として認定される。

1903年9月20日(日) 京都府京都市で日本初の乗合バスが走行開始。

1904年(明治37年)2月6日(土) 大陸に於ける領土問題を巡って日本が帝政ロシアに国交断絶を言い渡す。

1904年2月8日(月)夜 旅順口に停泊していたロシア太平洋艦隊を大日本帝國海軍駆逐隊が奇襲攻撃(preemptive strike)することで日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)が勃発。戦術(tactics)としては、後の真珠湾攻撃(現地時間1941年12月7日(日)朝、日本時間では同月8日(月)未明)と同様に、1807年9月2日(水)~5日(土)の英国海軍(Royal Navy)によるコペンハーゲン市街艦砲射撃(Second Battle of Copenhagen)の真似だった。

1904年4月 十四年前の1890年7月に設置された國學院が、專門學校令により專門學校「私立國學院」に昇格。

1904年 三年前の1901年に無認可の名ばかり大学として創立されていた日本女子大學校(現在の日本女子大学の前身; 英称 Japan Women’s University)が、專門學校令により專門學校として認可される。正式な大学新制大学)としての認可は四十四年後の1948年。

1904年12月5日(月) 日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)の旅順(りょじゅん; Lǚshùn; Lüshun; 英称 Port Arthur)攻囲戦で日本軍が203高地を占領。

1905年(明治38年)3月10日(金) 日本の帝國陸軍(IJA: Imperial Japanese Army)が奉天(ほうてん; Fèngtiān; 英称 Mukden)=現在の瀋陽(しんよう し; 沈阳; Shěnyáng)の会戦でロシア帝国軍に対して大勝利。3月10日は敗戦の1945年まで「陸軍記念日」となる

1905年4月4日(火) 日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)中に早稲田大學野球部が日本のスポーツ団として初の海外遠征に橫濱港から出帆。訪米して約3ヶ月の間に26試合を戦った結果、7勝19敗の成績を収め、本場の感触を得る。

1905年5月27日(土)~28日(日) 日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)の日本海海戦(英 Battle of Tsushima; 露 Цусимское сражение = Tsusimskoye srazheniye)で、英国商船学校ウスター協会(現テムズ海運訓練学校 Thames Nautical Training College)で学んだ東鄕平八郎(とうごう へいはちろう, 1848-1934; 英国商船学校ウスター協会=現テムズ海運訓練学校留学)大將=後に元帥(げんすい)率いる日本の帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)聯合艦隊(Combined Fleet)がロシア帝国海軍バルト海艦隊に対して決定的な勝利を収める。ロシアはこの海戦で戦艦8隻のうち6隻撃沈・2隻捕獲、巡洋艦9隻のうち5隻撃沈・1隻自沈・3隻武装解除、海防艦3隻のうち1隻撃沈・2隻投降という結果となり、自国のウラジオストク(Владивосто́к = Vladivostok: 「東を制覇せよ」の意)軍港に辿り着いたのは、仮装巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけだった。ロシア艦隊の戦死者は4,524人で捕虜は6,168人。これに対して日本の聯合艦隊は水雷艇3隻を失ったのみで、戦死者は116人で負傷者570人。世界海戦史上稀に見る完全勝利だった。東鄕提督(Admiral Togo)はちょうど百年前の1805年10月21日(月)にトラファルガー沖海戦(Battle of Trafalgar)でナポレオンに勝利しながら戦死したネルソン提督(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson, 1758-1805)に準(なぞら)えて「東洋のネルソン(the Nelson of the East)」と英マスコミから讃(たた)えられたが、日本の勝利の背後には、名目上「中立」を宣言しながら、日露開戦以来エジプトのスエズ運河をロシア海軍に通行させないなど徹底的な嫌がらせをしていた英国政府の助けと、日本政府にカネを貸し付けてくれた在ロンドン・ユダヤ系金融資本の存在があった。5月27日は敗戦の1945年まで「海軍記念日」となる。

1905年 東京法學院大學が中央大學に改称(但し、正式な大学になるのは1920年)。

1905年9月4日(月) T. ロウザヴェルト(Theodore “Teddy” Roosevelt, 1858-1919; 大統領在任1901-09; ハーヴァード大学卒)米大統領の執(と)り成しでアメリカ東海岸のリゾート地にて日露間が講和条約(ポーツマス条約)を締結することで、前年から続いていた日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)が終結(但し、条約発効は同年11月25日(土))。日本側代表の小村壽太郎(こむら じゅたろう, 1855-1911; ハーヴァード大学法科学院修了)は領土面では 劣勢のロシアから大きな譲歩を引き出すことに成功したが、賠償金を取ることには失敗。馬渕睦夫(まぶち むつお, b.1946; 京都大学中退、英ケイムブリヂ大学卒、学寮名不詳)元日本国特命全権大使キューバ国駐箚(ちゅうさつ)・元駐ウクライナ兼モルドヴァ日本国大使・元防衛大学校教授・吉備国際大学客員教授著 『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』(ワック Wac Bunko, 2014年)によると、日本が日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)で借金した戦費は八十年余りの期間、イギリスのユダヤ系財閥に分割返済され、完了したのは昭和61年=1986年とのこと。

1905年9月5日(火) 帝都東京で日比谷燒打ち事件。ロシアからの賠償金獲得に失敗した日本外交の弱腰ぶりに怒って日比谷公園に一旦結集した暴徒数万人が近在の交番や國民新聞社の社屋を焼打ちして、死者17名、負傷者約500名を出す。兇徒聚衆罪(きょうと しゅうしゅう ざい)の廉(かど)で逮捕起訴された311人の中には、こともあろうに山田喜之助(やまだ きのすけ, 1859-1913; 旧制東京大學卒)辯護士がいた。山田弁護士は1882年に大隈重信(おほくま しげのぶ, 1838-1922; 首相在任1898 & 1914-16)が東京專門學校(現在の早稲田大学の前身)を創立するのを助け、1885年には英吉利(イギリス)法律學校(現在の中央大学の前身)の設立者18人に名を連ね、大審院(現在の最高裁判所の前身)検事と同院判事を歴任し、東京代言人組合(現在の東京弁護士会の前身)會長に3度も選出され、1898年6月30日(木)から同年11月8日(火)までの4ヶ月と1週間ほど続いた第1次大隈重信内閣で司法次官を務め、衆議院議員を2期務め、東京法學院(現在の中央大学の前身)敎授や海軍主計學校敎授を歴任した法曹界の大物だったが、酒癖の悪さが祟(たた)ってしまった。奇(く)しくも日比谷焼打ち事件から百十一年後の2016年9月20日(火) 19:30から翌21日(水) 0:30頃までの間、千葉県千葉市中央区の居酒屋のトイレで女性1人を集団強姦(gang rape)して怪我(けが)を負わせた上、店を出た後、仲間の自宅に連れ帰り、更(さら)に集団強姦した容疑で山田弁護士の玄孫(やしゃご)である千葉大学医学部5年生、山田兼輔(やまだ けんすけ, b.1994?)容疑者が2016年11月22日(火)に逮捕されている(但し、氏名の公表は同年12月5日(月)のこと)。酒に酔っての犯行だった。

1905年12月2日(土) 同年9月に日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)に辛くも勝利(事実上の判定勝ち)した大日本帝國が、在外公館(an ODE: an overseas diplomatic establishment)として史上初の在外日本大使館(Embassy of Japan; 通称 Japanese Embassy)を英京倫敦(London, UK)に設置。旧来の在聯合王國日本國公使館(Japanese Legation in London, UK)を在聯合王國日本國大使館(Embassy of Japan in London, UK)に格上げした形である。五年前の1900年以来、駐英日本國公使(Resident Minister of Japan to the UK)を務め、三年と十ヶ月程前の1902年1月30日(木)に締結された日英同盟(Anglo-Japanese Alliance, 1902-23)の立役者である林董(はやし ただす, 1850-1913)子爵(後に伯爵)は、駐聯合王國日本國特命全権大使(英 Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary of Japan to the UK; 仏 Ambassadeur extraordinaire et plénipotentiaire du Japon au Royaume-Uni)に昇格。これと時を同じくして東京の在日英國公使館(British Legation in Tokyo, Japan)がロンドンの英本国政府の意向で在日英國大使館(British Embassy in Tokyo, Japan)に格上げとなる。五年前の1900年以来、駐日英国総領事兼特命全権公使(英 Consul-General and Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary of the UK to Japan; 仏 Consul général et envoyé extraordinaire et ministre plénipotentiaire du Royaume-Uni au Japon)を務めてきたクロード・マクドナルド大佐(Colonel Sir Claude Maxwell MacDonald, 1852-1915)は、駐日英国特命全権大使(英 Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary of the UK to Japan; 仏 Ambassadeur extraordinaire et plénipotentiaire du Royaume-Uni au Japon)に昇格。これを皮切りに列強各国も英国に倣(なら)い、公使館を大使館に軒並み格上げ。これは日露戦争に勝利した日本が極東の一大国として承認されたことを意味する。

1905年12月22日(金) 大日本帝國と大淸帝國(淸國)との間に北京条約(滿洲善後條約)が締結される。これは同年(1905年)9月4日(月)に露西亞帝國との戦争(日露戦争)を終わらせるための条約だったポーツマス条約で、淸國を差し置いて「東清鉄道の内、旅順・長春間の南滿洲支線と、附属地の炭鉱の租借権をロシアが日本へ譲渡する」や、「関東州の租借権をロシアが日本へ譲渡する」と勢力圏を決めていたのを淸國に呑ませるための秩序整理のための条約である。

1906年(明治39年) 三年前の1903年に開始された硬式野球の早稲田大學對慶應義塾大學の対戦試合(早慶戰)が應援團(応援団)同士の過剰な応援合戦が問題になって中止となる(十九年後の1925年10月19日(月)まで)。

1906年11月26日(月) 日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)戦勝から一年余りを経て半官半民の国策会社としての南滿洲鐵道株式會社(略称 滿鐵(まんてつ); 英称 South Manchuria Railway Co., Ltd.; 本社在大日本帝國租借地關東州大連市=現在の中華人民共和国遼寧省大連市)が設立される。初代總裁には臺灣總督府元民政長官の後藤新平(ごとう しんぺい, 1857-1929; 須賀川醫學校=現在の公立岩瀬病院卒)が抜擢されるも、二年後の1908年7月14日(火)に逓信大臣(ていしん だいじん; 現在の総務大臣にほぼ相当)に起用されて滿鐵を去ることになり、中村是公(なかむら よしこと; 有職読みで「なかむら ぜこう」, 1867-1927; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)が手腕を発揮することになる。最盛期には大日本帝國の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンと成る。

1907年(明治40年) 三十三年前の1874年に開学していた立敎學校が專門學校令により立敎大學と改称(但し、正式な大学になるのは1922年)。

1906年(明治41年)6月 文部省告示により、專門學校「私立國學院」が、私立國學院大學に改称。

1907年4月 「徴兵猶予願」の書類の締切が4月15日になる。それ以降の入学者は在学証明書を貰(もら)えない不都合が生じるため、專門學校(現在の私立大学の前身)も師範學校(現在の国立大学法人筑波大学や府県立教育大学の前身)に倣(なら)い、新年度のを4月開始とする。

1907年 東北帝國大學設置の勅令が公布されたことで、東北帝國大學(現在の国立大学法人東北大学の前身)が創立される。札幌農學校は札幌所在のまま東北帝國大學農科大學(現在の国立大学法人北海道大学の前身)となり、予科を付設。

1907年12月16日(月)~1909年(明治42年)2月22日(月) アメリカの「白船」の世界航海。アメリカがその大艦隊の世界周航を口実に対日示威行動を展開。二年以上前の1905年9月に日露間の講和を仲介した T. ロウザヴェルト(Theodore “Teddy” Roosevelt, 1858-1919; 大統領在任1901-09; ハーヴァード大学卒; 日本では誤ってルーズベルト)米大統領の肝(きも)煎(い)りによる白い大艦隊(GWF: Great White Fleet)十六隻が世界一周の航海に出る。米艦隊はその姿から、幕末に来航した「黒船」との対比で日本の報道界から「白船」と呼ばれるようになる。日本にとっては大きな脅威となったため、日本の首脳陣は戦々恐々として米艦隊を待ち受けた。実際、太平洋の向こう側で今や米国にとって最大の仮想敵国となりつつあった日本に心理的な揺さぶりをかけることに米側は見事に成功した。米艦隊の來朝(らいてう: 当時の言葉で「来日」の意)が近づくと、日本の新聞各紙は怖いが故(ゆえ)に連日歓迎記事を載せるという屈折した態度が見られた。1908年10月18日(日)、米艦隊は遂に日本に到達し、橫濱(横浜)港に入港。日露戦争(Russo-Japanese War, 1904年2月8日(月)~’05年9月5日(火))時の英雄で、三年前の1905年に「東洋のネルソン(the Nelson of the East)」と英マスコミから讃(たた)えられた東鄕平八郎(とうごう へいはちろう, 1848-1934; 英国商船学校ウスター協会=現テムズ海運訓練学校留学)伯爵・大將=後に元帥(げんすい)は、英国製の旗艦「三笠」の艦上に米海軍将校たちを招き、歓迎会を催した。三十三年後の1941年に大東亞戰爭(別名 アジア太平洋戦争, 1941年12月7日(日)~’45年8月15日(水))で対日戦を指揮することになる米艦隊司令長官たちもこの時に来日していて、後の米第三艦隊司令長官となるハルジー提督(Admiral William Halsey, Jr., 1882-1959; ヴァージニア大学中退、アメリカ海軍兵学校卒; 日本では誤ってハルゼー)は米戦艦カンザス(USS Kansas)の少尉(ensign)として東鄕大將の胴上げ(tossing into the air)に参加しており、また後の米第五艦隊司令長官となるスプルーアンス提督(Admiral Raymond Spruance, 1886-1969; アメリカ海軍兵学校卒)は米戦艦ミネソタ(USS Minnesota)の士官候補生(cadet)として園遊会(garden party)で東鄕大將の姿を見ているという。米水兵3,000人も日帰り上陸が許可され、東京に出て淺草や上野などの観光を楽しんだ。一週間に及ぶ歓迎ムードの中、10月25日(日)に米艦隊十六隻は橫濱港を出港して次の寄港地である清國へ向かった。

1908年(明治41年)3月31日(火) 勅令第六九號により、国が日本で二番目の女子髙等師範學校として、奈良女子髙等師範學校(現在の国立大学法人奈良女子大学)が奈良市内に設置される。京都市との壮絶な誘致合戦を制した奈良市に軍配が上がる。国立大学法人の女子大学は、この奈良女子大学とお茶の水女子大学の二校だけであり、日本の女子大学の双璧として知られる。

1908年~’09年 東京髙等商業學校(現在の国立行政法人一橋大学)の大学昇格の是非をめぐり、同校学生と文部省(現在の文部科学省)が衝突。日本の学生運動・学生叛乱の嚆矢(こうし: 始まりの意)としてのこの事件は、1908年の干支(えと)である戊申(つちのえさる; ぼしん)と1909年の干支である己酉(つちのととり; きゆう)から一字ずつ取って申酉事件(しんゆう じけん)と呼ばれる。

1909年(明治42年)5月1日(土) 日本で二番目の女子髙等師範學校として設置された奈良女子髙等師範學校(現在の国立大学法人奈良女子大学)が授業を開始。同大学ではこの日を開校記念日とする。

1909年10月26日(火) 伊藤博文(いとう ひろぶみ; 有職読みで「はくぶん」, 1841-1909; 首相在任1885-88, 1892-96, 1898 & 1900-01; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮留学)公爵・元首相が、ロシアのココフツォフ(Влади́мир Никола́евич Коковцо́в = Vladimir Nikolayevich Kokovtsov, 1853-1943; サンクトペテルブルク国立大学中退)伯爵・大蔵大臣と会談するため、当時ロシア帝国の管轄下に在った滿洲(満州、現在の中国東北部)北部の最大都市哈爾濱(ハルビン; Harbin)市を訪れ、哈爾濱驛(Harbin Station)一番線プラットフォームを歩いていたところ、朝鮮人テロリスト安重根(안중근; Ahn Jung-geun, 1879-1910)に銃撃されて死亡。テロリストの安は伊藤公爵が日本による朝鮮併合に反対の立場をとっていたことを知らず、勘違いして暗殺したが、現在の韓国では英雄として教科書に載っている(単なる勘違いテロリストだというのに)。ロシア官憲は安を現行犯逮捕し、その一味八名も逮捕した。安ら合計九名は在哈爾濱市ロシア公館に二日間拘留され、ロシア国境管区の取り調べを受けたが、身柄は日本側に引き渡され、旅順港(Lǚshùn; 英称 Port Arthur; 現在の中華人民共和国遼寧省大連市旅順口区)の關東都督府地方法院に移送され、その地で日本の裁判を受け、翌年(1910年)3月26日(土)に日本官憲によって合法的に処刑された。

1910年(明治43年)5月14日(土)~同年10月29日(土) 日英博覧會(Japan–British Exhibition)が英京倫敦(London, UK)で開催される。主催者は大日本帝國政府とイギリスの博覧会会社キラルフィー兄弟社(The Kiralfy Brothers)。日本としては初の国際相互博覧会(the first international mutual exposition)であり、二十世紀初頭の西洋に於ける日本に関する最大の催しとなる。なお、キラルフィー兄弟社とはハンガリー人の兄イムレ・キラルフィー(Imre Kiralfy, 1845-1919)と弟ボロシー・キラルフィー(Bolossy Kiralfy, 1848-32)の起こした会社である。

1910年8月22日(月) 韓國併合條約(Japan-Korea Annexation Treaty)が漢城(現在のソウル特別市)で寺內正毅(てらうち まさたけ, 1852-1919; 首相在任1916-18)總監・伯爵と韓國の李完用(이완용; Ye Wanyong, 1858-1926; 首相在任1906-10)首相により調印される。日韓併合に反対していた伊藤博文が暗殺されたことで併合が一挙に加速化した結果だった。

1910年8月29日(月) 一週間前の8月22日(月)に調印された韓國併合條約(Japan-Korea Annexation Treaty)が裁可公布により発効し、大日本帝國は大韓帝國を併合(1945年まで)。

1911年(明治44年)1月 京都帝國大學福岡醫科大學を母体とし、帝國大學令に基づき九州帝國大學(現在の国立大学法人九州大学の前身)が、東京、京都、東北の各帝國大學に次ぐ第四の帝大として設立される。

1911年2月21日(火) 筆名 夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)こと、本名 夏目金之助(なつめ きんのすけ, 1867-1916; 帝國大學=後の東京帝國大學=現在の東京大学卒)が、博士號を辞去する、世に言う「博士號拒否問題」が発生。事前に何の前触れもなく博士號を授与するとした文部省(現在の文部科学省の前身)の権威主義への漱石の抵抗だったと言われる

同年同月同日(火) 外務大臣の小村壽太郎(こむら じゅたろう, 1855-1911; ハーヴァード大学法科学院修了)がアメリカ政府との間に日米通商航海條約(Japan-US Commerce and Navigation Treaty)を結ぶ。この条約の発効は同年(1911年)4月4日(火)のこと

1911年4月 京都帝國大學福岡醫科大學が九州帝國大學醫科大學(現在の国立大学法人九州大学医学部の前身)と改名。これに伴ない、京都帝國大學福岡醫科大學附屬醫院は、九州帝國大學醫科大學附屬醫院(現在の九州大学病院の前身)と改名。

1911年4月4日(火) 外務大臣の小村壽太郎(こむら じゅたろう, 1855-1911; ハーヴァード大学法科学院修了)がアメリカ政府との間に同年2月21日(火)に結んだ日米通商航海條約(Japan-US Commerce and Navigation Treaty)が発効し、日本は関税自主権(tariff autonomy)を回復。日本は同様の改正通商航海条約を英仏独とも結び、外交上、列強と完全に対等の立場に立つ。

1911年6月1日(木) 平塚らいてう(ひらつか らいちょう, 1886-1971; 日本女子大學校=現在の日本女子大学卒)が靑鞜社(青鞜社: せいたふ しや)を設立(但し、僅(わず)か五年後の1916年に解散)。青鞜(せいとう)とは英語のブルー・ストッキング(blue stocking)の訳語であり、十八世紀のロンドンで絹の正式な黒い靴下(black socks)ではなく、深い青色の毛糸の長靴下を身に着けるのが、教養の高い、知性を尊重する女性グループの象徴として採用された故事に由来する。

1911年 五年前の1906年にローマ教皇ピウス十世(Pius PP. X, 1835-1914; 教皇在位1903-14)が要請していた内容に基づき、三年前の1908年から滞日していた3人のイエズス会士(独仏英の各1名)が東京に財團法人上智學院(現在の上智大学の前身)を設立。「上智」(Sophia)という名は羅典(ラテン)語による「聖マリアの連祷」の中にある Sedes Sapientiae (上智の座)から名づけられたとのこと。二年後の1913年には日本初のカトリック高等教育機関である上智大學(英称 Sophia University)が設立されることになる。

1911年8月29日 (火)~9月22日(金) 東京朝日新聞が「野球(やきう)と其(その)害毒(がいどく)」と題した記事を22回にわたって連載。早慶戦に代表される大学野球が国民的な関心を呼ぶ中での野球害毒論という一種のネガティブ・キャンペーン(negative campaign)だった。たとえば英文による著書 『武士道』(Bushido: The Soul of Japan, 1900)で知られるプロテスタント信徒の新渡戸稲造(にとべ いなざう; にとべ いなぞう, 1862-1933; 札幌農學校=現在の北海道大学卒、帝國大學=後の東京帝國大學=現在の東京大学中退)第一髙等學校(現在の東京大学教養学部の前身)校長、後の東京女子大學初代學長、後の國際聯盟(League of Nations; 現在の国連の前身)副事務総長は、東京朝日新聞に談話を発表し、「野球といふ遊戯は惡くいへば巾着切り(きんちゃく ぎり: 現代語で言う「掏摸(スリ)」のこと)の遊戯、對手(あいて)を常にペテンに掛けやう、計略に陷(おとしい)れやう、ベースを盗まうなどと眼を四方八方に配り神經を銳くしてやる遊びである。ゆゑに米人には適するが、英人やドイツ人には決してできない。野球は賤技なり、剛勇の氣なし。」と貶(けな)したが、新渡戸の妻は米国人メアリー・エルキントン(Mary Elkinton, 1857-1938; 日本名 萬里(マリ))だった。そして朝日新聞はと言えば、大阪朝日新聞が四年後の1915年に全國中等學校優勝野球大會(現在の全国高等学校野球選手権大会の前身)の第1回大会を開催したのを皮切りに、1919年に東京と大阪の朝日新聞が合併して株式會社朝日新聞社が発足した後も野球大会を開催し続け今日(こんにち)に至っている。1911年のネガティブ・キャンペーンは果たして何処(いずこ)へ。

1911年9月1日(金) 同年6月に靑鞜社(せいたふ しや)を設立していた平塚らいてう(ひらつか らいてう; ひらつか らいちょう, 1886-1971; 日本女子大學校=現在の日本女子大学卒)が生田長江(いくた ちょうこう, 1882-1936; 東京帝國大学文科大學卒)の勧めで日本初の女性による女性のための月刊誌 『靑鞜(せいたふ)』を創刊。靑鞜(せいたふ)とは英語のブルー・ストッキング(blue stocking)の訳語であり、十八世紀のロンドンで絹の正式な黒い靴下(black socks)ではなく、深い青色の毛糸の長靴下を身に着けるのが、教養の高い、知性を尊重する女性グループの象徴として採用された故事に由来する。平塚らいてうは、「元始女性は太陽であつた—靑鞜發刊に際して」と題した創刊の辭で「元始、女性は實に太陽であった。眞正の人であつた。[改行] 今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顏の月である。[改行] さてこゝに『靑鞜』は初聲を上げた。[改行] 現代の日本の女性の頭腦と手によつて始めて出來た『靑鞜』は初聲を上げた。[改行] 女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。[改行] 私はよく知つている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。」と高らかに謳(うた)い上げる。

1912年(明治45年)1月31日(水) 帝都東京市内を東西に走る國有鐡道(現在のJRグループの前身)中央線の日本初の郊外列車電化路線である中野・昌平橋驛(現在の秋葉原駅附近)間に、女学生の身辺保護(特に痴漢被害からの防犯)を目的とした婦人專用車輛(現在の女性専用車の元祖)が初導入される(但し、同年4月1日(月)に昌平橋驛は廃止され、近隣の萬世橋驛に移る)。

1912年4月 半年前の1911年9月に平塚らいてう(ひらつか らいてう; ひらつか らいちょう, 1886-1971; 日本女子大學校=現在の日本女子大学卒)が創刊していた月刊誌 『靑鞜(せいたふ)』第二巻四號が、姦通(かんつう: adultery)、現在で言う不倫(ふりん: extramarital affair)を扱った荒木郁子(あらき いくこ, 1888-1943)こと、本名 荒木郁(あらき みやこ, 1888-1943)の短篇小説「手紙」を載せたことで発禁となる。女子英學塾(現在の津田塾大学)創立者の津田梅子(つだ うめこ, 1864-1929; ブリンマーカレッヂ卒)は塾生が『靑鞜』に関わることを禁じ、日本女子大學校(現在の日本女子大学の前身)創立者の成瀨仁藏(なるせ じんざぅ, 1858-1919; アンドーヴァー神学校、クラーク大学留学)も『靑鞜』に代表されるような「新しい女」を批判。なお、平塚らいてうは成瀨が創立した日本女子大學校の卒業者である。

1912年4月14日(日)~15日(月) タイタニック号(RMS Titanic)沈没。四日前の同年4月10日(水)にイングランド南部のサウサンプトン(Southampton)港から処女航海(maiden voyage)に出て、フランス北部のシェルブール(Cherbourg)港と英領アイルランドのクィーンズタウン(Queenstown)港=現在のアイルランド共和国コブ(Cobh)港に立ち寄り、一路米国のニューヨーク(New York)港を目指していた豪華客船タイタニック号が、英連邦カナダのニューファウンドランド(Newfoundland)沖600キロメートルの公海上で現地時間23:40に氷山(iceberg)に衝突。翌日(15日(月))未明2:20に沈没。それから2時間もしないうちにカルパチア号(RMS Carpathia)が救助に駆けつけ、推定705人の生存者を救出したが、乗客・乗員合わせて約1,500人が命を落とした。船会社の過信のため、必要な数の救命ボートが備わっていなかったが、スミス(Edward Smith, 1850-1912)船長の命令により男性乗客や乗務員たちは女子供優先(women and children first)のルールを徹底させられ、自分たちは犠牲になることを余儀なくされた。それというのも、船員たちが武装し、男性たちを脅して救命ボートに近寄らせなかったからである。ところが日本人で唯一乗船していた鐵道院(現、JRグループ)主事の細野正文(ほその まさぶみ, 1870-1939; 東京髙等商業學校=現在の国立大学法人一橋大学卒)は「女子供優先」の西欧社会のルールを十分承知していたが、すぐそばの救命ボートから「二人分の空きができた」と声がかかった際、「闇夜だから男女の区別も分からないだろうと、短銃で撃たれる覚悟で」甲板からボートに飛び降りた。「自分がルール違反を犯している」と十分自覚していたという。無事帰国後は不名誉な日本人ということで、国内外からのバッシングの対象になった。細野正文はミュージシャンの細野晴臣(ほその はるおみ, b.1947; 立教大学卒)の祖父に当たる。全客室の女子供の合計は511名で、そのうち一等客室は150人中5名の死者(死亡率3.3%)、二等客室は117人中13名の死者(死亡率11%)、三等客室は244人中141名の死者(死亡率58%)という具合に階級によるあからさまな格差が見られた。

1912年(明治45年=大正元年)7月30日(火) 明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)の崩御(ほうぎょ)に伴ない、即日「大正」に改元。大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)の治世が始まる。

1912年 十二年前の1900年に創立されていた東京女醫學校が東京女子醫學專門學校(通称「東京女子醫專」: 現在の東京女子医科大学の前身)に昇格。

1913年(大正2年)3月28日(金) 專門學校令による上智大學(英称 Sophia University)の設立許可が文部省(現在の文部科学省の前身)より降りる(但し、正式な大学になるのは1928年)。

1913年4月21日(月) 專門學校令による上智大學(英称 Sophia University)が、哲學科、獨逸(ドイツ)文學科、商科の3科=男子学生15名で開校。

1913年8月21日(木) 東北帝國大學(現在の国立大学法人東北大学)が日本で初めて女性3人に入学を許可。東北大学の大隅典子(おおすみ のりこ, b.1960; 東京医科歯科大学歯学部卒、同大学大学院修了)副学長・教授・歯学博士(東京医科歯科大学)によると、8月16日という誤った日付が記事やインターネットで話題になることが気になっていたため、同大学は2020年6月に一般社団法人 日本記念日協会(英称 Japan Anniversary Association; 本部在長野県佐久市)に8月21日を「女子大生の日」として申請し、同年(2020年)7月に登録されたという。しかしながら、同大学の動きは世間に認知されず、行政文書を管理・保存する国立公文書館(英称 National Archives of Japan; 在東京都千代田)は同年(2020)8月16日(日)、「今日は女子大生の日」という誤った情報をSNS(social networking service の略だが、英語圏では通常 social media)に投稿してしまった。8月16日は飽くまでも東京朝日新聞(現在の朝日新聞の前身)が報道した日であり、朝日の当該記事も「入学許可が官報に掲載された日」を「8月16日」と誤報しているが、実際に掲載されたのは8月21日である。そして『記念日の事典』(東京堂出版, 1999年)も朝日の誤報に基づいて誤った情報を掲載していて、更には一部のカーナビ(car navigation system)がその日最初に起動したとき「今日は8月16日です。女子大生の日です。」と誤った音声案内をしているために一般に流布してしまったとのこと。(2020年8月21日(金)付のヤフーニュースに転載された河北新報のオンライン記事に依拠)

1914年(大正3年)5月23日(土)~9月26日(土) カナダへの移民を希望するインド人376人(内、シーク教徒340人)を載せて、英領香港から日本経由で、英自治領カナダ西岸のヴァンクーヴァー(Vancouver, British Columbia: 現地の発音は「ヴェーンクーヴァ」)港まで来た3,085トンの貨客船「駒形丸」が、カナダ自治政府によって接岸を許されず、二ヶ月間の交渉と支援運動と裁判の末に、乗客の大半である352人が上陸を認められず、駒形丸は彼らインド人を載せたまま太平洋に戻る。世に言う「駒形丸事件」。駒形丸は日本が実効支配する南滿洲大連港に籍を置く会社の船で、往路は話題にならなかったが、帰路に橫濱(横浜)、神戶(神戸)港に入港し、大きな話題となる。日本の大衆はインド人乗客に概ね同情的。インドのベンガル湾に戻った駒形丸は、目的地のカルカッタ(現在のコルカタ)港の近くのバッジ・バッジで、ベンガル州政府により停船を命じられ、乗客はパンジャーブ州行きの特別列車に乗るように要請されも、300人近くがこの要請を断って、徒歩でカルカッタへ向かって歩き出す。彼らは途中で警官隊と軍隊に阻止され、バッジ・バッジに戻ることになるも、発砲と乱闘が起き、乗客20人が死亡し、213人が英殖民地官憲に逮捕される。世に言う「バッジ・バッジ騒乱」。(秋田茂(あきた しげる, b.1958)大阪大学大学院教授、細川道久(ほそかわ みちひさ, b.1959)鹿児島大学教授共著 『駒形丸事件 インド太平洋世界とイギリス帝国』(筑摩書房 ちくま新書, 2021年)に依拠)

1914年夏 第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)勃発。6月28日(日)、墺太利(オーストリア)・ハンガリー二重帝国の推定皇位継承者とその妻が墺太利支配下ボスニアのサライェヴォ(サラエボ)でセルビア系青年テロリストに暗殺される(サラエボ事件)。7月28日(火)、サライェヴォ事件を契機に墺太利ハンガリー二重帝国がセルビアに宣戦布告することで戦争の口火が切って落とされる。同年7月31日(金)にセルビアの背後で糸を引く露西亜帝国が総動員令を布告。ドイツ帝国が同年8月2日(日)に対露宣戦布告、8月3日(月)に対仏宣戦布告。ドイツ軍が中立国ベルギーを侵略するのを確認したイギリスが8月4日(火)に対独宣戦布告し、味方であるフランスへの軍隊派遣を決定。また、イギリスの自治領だったカナダも、宗主国イギリスに従い参戦。同様に豪州やNZも後に参戦することとなる。日英同盟(Anglo-Japanese Alliance, 1902-23)を結んでいた日本の大隈重信(おほくま しげのぶ, 1838-1922; 首相在任1898 & 1914-16; 佐賀藩藩校弘道館中退; 東京專門學校=現在の早稲田大学の前身の初代總長)内閣もイギリスに呼応して8月15日(土)にドイツ帝国に対して最後通牒(さいご つうちょう: ultimatum オルティメイタム)、題して「獨國政府ニ與(アタ)ヘタル帝國政府ノ勸告」を突きつけるが、一週間の回答期限が過ぎても無回答だった(無視された)ため、8月23日(日)に対独宣戦布告。日本海軍は同年9月までに太平洋におけるドイツ帝国の殖民地だった南洋諸島のうち赤道以北の島々(ドイツ領マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)の守備隊を攻撃し、同地を占領。一方、日本陸軍は中国に在ったドイツ租借地の青島(独 Tsingtau; 中文ピンイン Qīngdǎo)要塞を英国陸軍と協力して一週間かけて攻略し、11月7日(土)、要塞陥落に成功。ヨーロッパのみならずアフリカやアジアをも舞台にした史上初の世界大戦が繰り広げられる。

(外部サイト)日英同盟軍がドイツ軍を攻略した青島(チンタオ)攻防戦の再現フィルム

https://www.youtube.com/watch?v=mfSGqlnvhxc

1914年10月29日(木) 十一年前の1903年に開始されたが、その三年後の1906年に應援團(応援団)同士の過剰な応援合戦が問題になって以降中止になっていた硬式野球の早稲田大學對慶應義塾大學の対戦試合(早慶戰)の伝統に明治大學が加わり、三大學野球リーグを結成。ところがこれは、或(あ)る時に明治大學が早稲田大學と対戦し、また別の時に明治大學が慶應義塾大學と対戦するリーグであり、早慶戦は実現しなかった。その三年後の1917年に明治大學と懇意にしていた法政大學が加盟し、その四年後の1921年に早稲田大學野球部の指導を受けていた立教大學が加盟し、その更に四年後の1925年春に東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学)が加盟したことで、東京六大學野球聯盟が成立することになる。また、1906年以来十九年も中断されていた早慶戦が復活したのも六大学の連盟が成立した1925年10月19日(月)のことである。今日(こんにち)では一般財団法人東京六大学野球連盟となっている。

1914年12月3日(木)~1915年5月25日(火) 日華間で對華二十一箇条の要求(英 Twenty-One Demands; 独 Einundzwanzig Forderungen; 中文繁体字では単に二十一條; 中文簡体字では単に二十一条; 実際にはごく常識的に「国際法を守れ」とした十四箇条の要求と七箇条の秘密条項・希望条項)の交渉。

1914年12月3日(木) 第一次世界大戦(World War I; the First World War; the Great War, 1914-18)中のこの日、日本の大隈重信(おほくま しげのぶ, 1838-1922; 首相在任1898 & 1914-16; 佐賀藩藩校弘道館中退; 東京專門學校=現在の早稲田大学の前身の初代總長)内閣の加藤高明(かとう たかあき, 1860-1926; 外相在任1900-01; 1906; 1913; 1914-15; 首相在任1924-26; 東京帝國大學法科大學卒)外務大臣が、日置益(ひおき えき, 1861-1926; 東京帝國大學法科大學卒)駐華公使に対し、新生国家中華民國への要求を訓令。中華民國独裁者である袁世凱(えん せいがい; Yuán Shìkǎi, 1859-1916; 大清帝國第二代内閣總理大臣在任1911-12; 中華民國第二代臨時大總統在任1912-13; 中華民國初代大總統在任1913-15 & 1916; 中華帝國皇帝在位1915-16)と直接交渉を開始。

1915年1月18日(月) 日本が對華二十一箇条の要求を中華民國に突きつける。日本の要求書を受け取った袁世凱は敢(あ)えて即答を避け、当時はまだ中立国だった米国の独系米人ラインシュ(Paul S. Reinsch, 1869-1923)公使や、日本の敵国に当たる独帝国のヒンツェ(Paul von Hintze, 1864-1941; 外務大臣在任1918)特命公使らと連絡を取り、彼らと相計って国内世論を沸騰させ、欧米列強諸国に対しては日本の要求を誇大に吹聴して列国の反日感情(anti-Japanese feelings)を喚起することに成功。

1915年4月26日(月) 日本が對華二十一箇条の要求の中から最後の七箇条の秘密条項・希望条項を改訂して再度突きつけていたが、この日、中華民國がこれを拒絶。日本側は七箇条の秘密条項・希望条項の削除に応じる。

1915年5月7日(金) 日本が對華二十一箇条の要求を十三箇条に減らした要求書を中華民國に突きつける。袁世凱が「最後通牒(さいご つうちょう: ultimatum オルティメイタム)という形にしないと私自身が反日派に暗殺されてしまうので、そういう形にしてください。」と日本側に懇願してきたため、実際に最後通牒とし、回答期限を二日後の同年(1915年)5月9日(日)とする。

1915年5月9日(日) 袁世凱が日本から突き付けられた對華二十一箇条の要求を受諾する。袁世凱は最後通牒という形を日本側に懇願していたため、この言葉を日本の外務省が真に受け、実際に最後通牒としたところ、当の袁世凱が掌(てのひら)を返し、「日本が脅迫状を送ってきた」と世界に向けて喧伝(けんでん)したことで、日本の国際的な立場が窮地に追い込まれる。この日、中国国民は怒り狂い、要求を受諾した日(5月9日)を「五九國恥」「國恥日」「國恥紀念日」と呼び続けた。

1915年5月25日(火) 日本が中華民國に突きつけた對華十三箇条の要求に日華両国が正式に署名。

1914年12月6日(日) 日本人が作曲した史上初の交響曲(symphony)である、山田耕筰(やまだ かうさく; Kósçak Yamada, 1886-1965)作曲の交響曲ヘ長調「勝鬨(かちどき)と平和(へいわ)」(独題 Symphonie in F-Dur, „Sieg und Frieden“; 英題 Symphony in F Major, “Triumph and Peace”)作品番号なし(1912年完成)が東京府東京市麹町區(現東京都千代田区)内の帝國劇場にて初演される( https://www.youtube.com/watch?v=sY7He5w_5cY )。

1914年12月18日(金) 第一次世界大戦(World War I; the First World War; the Great War, 1914-18)中のこの日、帝都東京市の玄関口たる東京驛が営業を開始。建設計画は1889年からあったが、日清戦争や日露戦争による影響によって建設工事が遅れ、1908年から六年の歳月をかけて工事を完了させた。「コンドルさん」と呼ばれた在日英国人建築家ジョサイア・コンダー(Josiah Conder, 1852-1920; ロンドン大学卒)の教えを受けた日本人建築家2名、早稲田大學建築學科と工手學校(現在の工学院大学の前身)の創設者でもある辰野金吾(たつの きんご, 1854-1919; 工部省工學寮=後の工部大學校=現在の東京大学工学部卒、ロンドン大学留学)と葛西萬司(かさい まんじ, 1863-1942; 東京帝國大學卒)によるネオ・ルネサンス(neo-Rennaisance)の英国アン女王様式(Queen Anne style: アン女王の治世は1702-14年)の赤煉瓦驛舍が有名。総工費は約280万円で、現在の金額に直すと約30億円超とされる。東京の玄関口が新橋駅(現在の汐留シオサイトの場所)ではなくなり、宮城(きゆぅじやぅ; きゅうじょう; 「皇居」を意味する当時の言葉)の目の前から続く行幸(ぎやぅかう; ぎょうこう)通りと一直線で繋がる東京驛に取って代わる。ここに大日本帝國の国力を誇示。約三十年半後の1945年5月25日(金)、米軍によ る猛爆で駅舎は炎上し、ドーム型天井屋根が吹き飛ばされたが、幸い全焼には至らずに済んだ。戦前の瀟洒(しょうしゃ)な外観が甦(よみがえ)るには、爆撃から約六十七年半後の2012年10月1日(月)の復原工事完成を待たねばならなかった。

1915年(大正4年)1月 三年半前に刊行されていた日本初の女性による女性のための月刊誌 『靑鞜(せいたふ)』の編集発行人の立場を、伊藤野枝(いとう のえ, 1895-1923; 上野髙等女學校=現在の上野学園卒)が平塚らいてう(ひらつか らいちょう, 1886-1971; 日本女子大學校=現在の日本女子大学卒)から引き継ぐ。伊藤は既に1912年11月発行の二巻十一號や、1913年8月発行の三巻八號に持論を発表していた。伊藤は時代を半世紀以上も先取りして、人工妊娠中絶(堕胎)、売買春の禁止(廃娼)、女性の自由恋愛と奔放な性生活(貞操からの脱却)、結婚制度の否定などを論じていたが、八年半後の1923年9月16日(日)に「甘粕事件(あまかす じけん)」で満28歳の若さで殺害されることになる(詳細は下記の1923年の項目へ)。

1915年4月26日(月) 第一次世界大戦(World War I; the First World War; the Great War, 1914-18)中のこの日、英仏露の三国が敵側の独墺土に対して単独不講和を宣言。これに元来は独墺土の側に居た筈(はず)のイタリア王国が独墺土を裏切って秘密裡に参加。

1915年11月19日(金) 半年以上前の同年(1915年)4月26日(月)に成立していた英仏露+伊の四ヶ国の単独不講和宣言に、日英同盟の誼(よしみ)で英仏露の側に就いていた日本が後れて参加。石井菊次郎(いしい きくじろう, 1866-1945; 外相在任1915-16; 東京帝國大學卒)外務大臣の主導で参加が決まったのだった。これによって四年後の1919年のパリ講和会議及びヴェルサイユ条約で日本も戦勝国側の一角として発言権を得る。

1916年(大正5年)2月 僅(わず)か四年半前の1911年9月に平塚らいてう(ひらつか らいてう; ひらつか らいちょう, 1886-1971)が創刊していた日本初の女性による女性のための月刊誌 『靑鞜(せいたふ)』が廃刊靑鞜社(せいたふ しや)も解散

1916年10月4日(水)~1917年12月2日(日) 二年前の1915年に早稲田大學々長(早稲田實業學校の元校長)に就任していた天野爲之(あまの ためゆき, 1861-1938; 東京大學卒)の派閥と、高田早苗(たかた さなえ, 1860-1938; 東京大學卒)法學博士の派閥が対立。創立者の大隈重信(おほくま しげのぶ; おおくま しげのぶ, 1838-1922; 首相在任1898 & 1914-16; 佐賀藩藩校弘道館中退)やマスコミをも巻き込む大騒動となる。世に言う早稲田騷動。大学教職員の多くが高田派であったのに対し、学生たちは天野に対して同情的だったと言われる。天野は1917年8月31日(金)に絶縁に近い形で同大學々長の職を辞す。同年(1917年)9月5日(水)と6日(木)の両日には天野派が文部省(現在の文部科学省に前身)に出頭し、大学組織変更の願いは虚偽であるから受理しないようにと訴えかける。この行為により天野派と目された教授5名と前学長秘書が解任され、学生6名が退学処分となる。同年(1917年)9月11日(火) 17:00、天野派は警視庁の正力松太郎(しやぅりき まつたらう; しょうりき まつたろう, 1885-1969; 東京帝國大學法科大學卒)臨監のもとで早稲田劇場にて高田派弾劾演説會を開催。会場には白バラの徽章をつけた約1,300名の学生が集結し、石橋湛山(いしばし たんざん, 1884-1973; 首相在任1956-57; 早稲田大學卒)や尾崎士郎(おざき しらう; おざき しろう, 1898-64)らが演説し、理事の解任要求決議を行なう。同日(1917年9月11日(火))深夜には約400名の革新團学生が校門を封鎖し、学生や教授を入れない騒ぎとなる。同年(1917年)9月12日(水)、大隈邸で行なわれた維持員會で5人の維持員が理事を退任して学生側の要求を受諾。革新團は正力らの説得により同年(1917年)9月13日(木)夜に封鎖を解き、天野邸や石橋邸などの前で「萬歳!」を唱和した。同年(1917年)12月2日(日)に天野は早稲田大學維持員會も退会し、かつて校長を務めた早稲田實業學校の校長に戻って残りの人生を同校の運営に傾ける。なお、「早稲田実業学校の早稲田大学系列下編入に関する合意書」が調印され、学校法人早稲田実業学校が早稲田大学の傘下に入るのは騒動から四十六年後の1963年12月のことである。

(参考リンク)

https://www.youtube.com/watch?v=XXa2FJtaqAc

1916年12月 同盟国イギリスから支援の要請を受けた大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)は、英領シンガポール港に駐留させていた第一特務艦隊(1st Detachment Squadron)を英領南アフリカのケープタウン港へ派遣し、インド洋の連合軍艦船の護衛に当たる。

1917年(大正6年)2月18日(日) 13:00 同盟国イギリスから支援の要請を受けた大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)の第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)が地中海へ向けて派遣されるに当たり、4隻の駆逐艦が長崎縣の佐世保を出港し、まずは英領シンガポールへ向かう。

(参考リンク)

日本帝国海軍、地中海に奮戦す

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog315.html

1917年 後に1968年ノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur 1968; 英 Nobel Prize in Literature 1968)を受賞することになる川端康成(かはばた やすなり; かわばた やすなり, 1899-1972)がこの年の3月に大阪府立茨木中学校を卒業し、9月に第一高等學校(現在の国立大学法人東京大学駒場地区キャンパスの前身)文科乙類(英文)に入学していることから、当時は入学月の過渡期だったことが分かる。

1917年4月 慶應義塾大学が私立大學(但し、この時点ではまだ正規の大學ではない無認可大學)として初めて醫學部(医学部)を設置。創立者の福澤諭吉(ふくざは ゆきち; ふくざわ ゆきち, 1835-1901)は1873年に慶應義塾醫學所を開設していたが、財政難で僅か七年後の1880年に閉鎖していた。医学から距離を置いた福澤諭吉だったが、ドイツ留学から帰国した医学者北里柴三郎(きたざと しばさぶらう; きたざと しばさぶろう, 1853-1931; 東京醫學校=現在の東京大学医学部卒、独ベルリン大学コッホ研究室留学)が古巣の東京帝國大學(東京帝大)から嫌われ、受け入れ先が無いことを知り、北里のために私財を投げうって1892年に私立傳染病硏究所(現在の東京大学医科学研究所の前身)を設立したのだった。ところが同研究所は1914年、時の大隈重信(おほくま しげのぶ; おおくま しげのぶ, 1838-1922; 首相在任1898 & 1914-16)内閣によって内務省(現在の総務省、法務省、厚生労働省、警察庁等の前身)管轄から文部省(現在の文部科学省の前身)管轄へと移行。それとともに、官立東京帝國大學に合併されることになり、これを不服とした北里柴三郎たちは職を辞し、福澤諭吉亡き後の慶應義塾が再び北里を學部長として救い上げたのだった。

1917年4月6日(金) これまで中立を表明してきたアメリカ合衆国が、国内の対独感情の悪化に伴い遂に連合国に加わって対独宣戦布告。米国議会では計50人の議員が対独宣戦布告法案に反対票を投じるが、そのうちの一人、共和党(Republican Party; 俗称 GPO = Grand Old Party)所属でモンタナ州選出の女性議員のジャネット・ランキン(Jeannette Rankin, 1880-1973)女史は二十四年半余り後の1941年12月8日(月)の対日宣戦布告法案にもたった一人で反対票を投じることになる。とにかくこの宣戦布告で第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)の勝機が英仏伊日の連合国側に訪れる。二年前の1915年5月7日(金)に起きていたルシタニア号撃沈事件が米国参戦の伏線(ふくせん)となったが、ルシタニア号よりもドイツ帝国外務大臣アルトゥール・ツィンメルマン(Arthur Zimmermann, 1864-1940)が同年(1917年)1月16日(火)にメキシコ政府に急送し、英国側に傍受・解読されてしまった電報、所謂(いわゆる)「ツィンマーマン電報(英 Zimmermann Telegram; 独 Zimmermann-Depesche)が引き金となった。その電報の内容は、仮にアメリカ合衆国が英国側について参戦するならば、ドイツはメキシコと同盟を結ぶという提案であり、アメリカへのメキシコの先制攻撃はドイツが援助し、大戦でドイツが勝利した場合には米墨戦争(米 Mexican War; 英 Mexican-American War; 西 Intervención estadounidense en México; 独 Mexikanisch-Amerikanischer Krieg, 1846-48)によってアメリカに奪われたテキサス州・ニューメキシコ州・アリゾナ州(Texas, Nuevo México y Arizona)をメキシコに返還するというものであった。また、メキシコにドイツと日本の仲裁と、日本の対米参戦の説得を促すものでもあった。

1917年4月13日(金) 大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)の第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)が、同盟国の英仏が管理するスエズ運河を経由し、地中海の連合軍艦船の護衛に当たるべく英領マルタ島のヴァレッタ(Valletta, Malta)港に到着。

1917年4月26日(木) 大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)と駆逐艦松(IJN Destroyer Matsu)が、兵員3,266名と武器弾薬を満載した同盟国イギリスの大型客船トランスシルヴァニア(SS Transylvania)の護衛任務を開始。

1917年5月1日(火) 東京府北多摩郡武蔵野村(現在の東京都武蔵野市)と東京府北多摩郡三鷹村(現在の東京都三鷹市)に跨(またが)る宮内省(現在の宮内庁の前身)御用林だった場所に井の頭恩賜公園(ゐのかしら おんし こぅゑん)=通称 井の頭公園(ゐのかしら こぅゑん)が日本最初の郊外公園として整備され、この日から一般公開される。なお、正式名称中の「恩賜(おんし)」とは天皇から賜(たまわ)ったことを意味するため、正式名称を敢(あ)えて英直訳すれば Inokashira Imperial Gift Park となる。

1917年5月3日(木) 兵員3,266名と武器弾薬を満載したイギリスの大型客船トランスシルヴァニア(SS Transylvania)が、同盟国フランスのマルセイユ(Marseille)から英領エジプトのアレクサンドリア(Alexandria)へ向け、日本の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)と駆逐艦松(IJN Destroyer Matsu)に護衛されて出港。

1917年5月4日(金) 兵員3,266名と武器弾薬を満載したイギリスの大型客船トランスシルヴァニア(SS Transylvania)が、同盟国イタリアのジェノヴァ湾(伊 Golfo di Genova; 英 Gulf of Genoa)のヴァードォ岬(伊 Capo di Vado; 英 Cape Vado)の南4kmの海域を航行中、敵ドイツ海軍(Kriegsmarine りークスマりー)のオットー・シュルツェ(Otto Schultze, 1884-1966)艦長率いる潜水艦 U-63 の発射した魚雷(torpedo)1本が左舷機関室(port engine room)に命中・被弾。日本の駆逐艦松(IJN Destroyer Matsu)はトランシルヴァニアの横に来て兵員の移乗作業を開始。一方、日本の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)は敵潜水艦の推定位置に爆雷を投下。最初に受けた攻撃の20分後、2本目の魚雷が駆逐艦松の前方でトランシルヴァニア左舷に命中し、松にも被害が生じる。この被雷後、トランシルヴァニアの傾斜が増大し、榊も救助作業に加わる。トランシルヴァニアは1本目の魚雷命中から1時間後に沈没。トランシルヴァニアの乗員10名、同乗していた英国陸軍(British Army)の士官29名と兵士373名が死亡したが、松と榊は友軍のイタリア海軍(Marina Militare りーナミリター)の駆逐艦と協同し、イギリス人乗員約3,000名を救助。護衛対象を撃沈されながらも多くの人命を救ったことに連合国は感謝し、駆逐隊司令の橫地錠二(よこち じようじ, 1878-1960)中佐(後に少将)、榊艦長の上原太一(うへはら たいち, 1881-1917)少佐(戦死後に中佐に特進)ら、大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)の将兵27名を英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)が叙勲。

1917年6月11日(月) 大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)と駆逐艦松(IJN Destroyer Matsu)は護衛任務を終え、英領マルタ島へ帰還の途に着くが、榊の見張員は敵墺太利ハンガリー帝國海軍(k.u.k Kriegsmarine カーウーカー・クりークスマりーネ)のローベルト・トイフル・フォン・フェルンラント(Robert Teufl von Fernland, 1885-1946)艦長率いる潜水艦 SM U-27 の潜望鏡をギリシアの多島海島のセリゴットォ(Cerigotto)島、別名 アンティキティラ(Antikythera)島の東方海域に発見。榊艦長の上原太一(うへはら たいち, 1881-1917)少佐(戦死後に中佐に特進)は回避命令と同時に砲撃を命じるも間に合わず、敵潜水艦の魚雷が命中・被弾。上原艦長は海中に投げ出され戦死。戦死者は艦長の他、駆逐隊機関長の竹垣純信(たけがき すみのぶ or 有職読みで「じゅんしん」, 1881-1917)少佐(戦死後に中佐に特進)以下59名に及ぶ。榊は航行を継続し、ギリシアのピレアス(Pireás)港で応急処置を受け、英領マルタ島で翌年(1918年)に完全に修理・復旧される。また、駆逐艦樫(IJN Destroyer Kashi)と駆逐艦桃(IJN Destroyer Momo)は、イギリス商船がUボートによる攻撃で大破した際に危険を顧みず、乗員を救出したことで、英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)から感謝状を授与された。

1917年8月 一年半前の1916年2月に日本初の女性による女性のための月刊誌 『靑鞜(せいたふ)』を廃刊し、靑鞜社(せいたふ しや)を解散していた平塚らいてう(ひらつか らいてう; ひらつか らいちょう, 1886-1971; 日本女子大學校=現在の日本女子大学卒)が雑誌 『日本評論』(第三巻九號=大正六年九月號)に自身の論考「避妊の可否を論ず」を発表。曰(いわ)く、「殊にその日暮しの勞働者など到底多くの子供を養育して行くだ けの資力のないのが明であるにも拘はらず、(中略)多産して(中略)無智な、無敎養な厄介者を、社會に多く送り出すことによつて、いよ/\貧乏と無智とそれに伴ふ多くの罪惡の種子とをあたりにまき散して居ります。しかも彼らの両親はそれに對して何の責任をも感じて居りません。また或者は、酒精中毒者であつたり、結核患者であつたり、癲癇病者であつたり、黴毒病者であつたり甚だしきは精神病者であつたりしながら、生殖の事に携はり、肉体的に又は精神的に、虛弱な、不健全な、到底普通の生活をなすに堪へないやうな子供をお構ひなしに社會に送り出して居ります。(中略)のみならず、國家も亦國家で、(中略)國民の生殖事業を全く個人の自由にのみ放任し、そこに法律をもつて一つの制限を加へることさへしない(中略)。それなら私共は、(中略)子供はその数の多きよりも質の勝れたるものを求むべきであり、社會に普通人としての生活を營む能力のないやうな虛弱な病氣勝な、馬鹿な、癇癪もちな、犯罪的傾向のある子供などを產むことは許しがたき罪惡であるといふことを自覺するやう、(中略)國法をもつて個人の自由を制限するに至るやうこの際努むべきでせう。(中略)最近文明國でやかましく唱へられ出したかの人種改良學若しくは善種學に關する知識の普及やそれが實行法の一つとして(中略)善種學者はもとより世の生物者や衞生論者や、醫者や或る種の新道德の主張者等によつて是認され、獎励され、贊美されてゐる避妊法も(中略)無論皆我國に於ても必要なことでなければなりますまい。」(太字箇所は実際の原典では傍点)と論ず。これは二十世紀前半に猛威を振るった優生思想(ゆうせい しそう: eugenics ユーヂェネクス)に基づく。

1917年11月7日(水) ロシア帝国でレーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин = Vladimir Ilyich Lenin, 1870-1924; ソ連人民委員会議議長在任1917-24)こと、本名 ヴラディーミル・イリイッチ・ウリヤーノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов = Vladimir Ilyich Ulyanov, 1870-1924)率いるボリシェヴィキ(большевики; bol'sheviki: 「多数派」を意味する革命派)によるロシア革命(Russian Revolution, 1917; 当時ロシアで使われていたユリウス暦ではまだ10月だったため「十月革命」とも呼ばれている)が起こされる。なお、皇帝一家が惨殺されるのは、同革命勃発から八ヶ月余りが経過した1918年7月17日(水)のこと。

1918年(大正7年)1月1日(火・祝) 第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)が続いているこの元日に、英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)が同盟国である日本の大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)に英国陸軍元帥(Field Marshall of the British Army)の名誉称号を贈る。

1918年4月 正式な大學として認可される以前の早稲田大學卒の詩人 人見東明(ひとみ とうめい, 1883-1974)こと、本名 人見圓吉(ひとみ ゑんきち, 1883-1974)が文化懇談會(現在の学校法人昭和女子大学の前身)を発足させる。発起人に妻の人見綠(ひとみ みどり, 1887-1961)、加治いつ(かぢ いつ, 生歿年不詳)、松本赳(まつもと きゅう, 1880-1948)、坂本由五郎(さかもと よしごろう, 1895-1984)。

1918年4月30日(火) 約十年前の1910年6月14日(火)から23日(木)にかけてスコットランドの都エディンバラで開催された萬國基督敎宣敎師大會(the 1910 World Missionary Conference, or the Edinburgh Missionary Conference)に於ける決議に基づいて、北米の基督教プロテスタント6教派による援助を受け、東京府豊多摩郡淀橋町字角筈(現在の東京都新宿区西新宿)で專門學校令による東京女子大學(英称 Tokyo Woman’s Christian University: 直訳「東京女の基督教大学」)が開学。但し、正式な大学(新制大学)に昇格するのは三十年後の1948年4月のこと。英文による著書 『武士道』(Bushido: The Soul of Japan, 1900)で知られるプロテスタント信徒の新渡戸稲造(にとべ いなぞう, 1862-1933; 札幌農學校=現在の北海道大学卒、帝國大學=後の東京帝國大學=現在の東京大学中退)第一髙等學校(現在の東京大学教養学部の前身)校長、後の國際聯盟(League of Nations; 現在の国連の前身)副事務総長が初代学長に就任。同大学は開学六年後の1924年に東京府豊多摩郡井荻村(現在の東京都杉並区善福寺)に移転して現在に至る。

1918年6月11日(火) 第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)で敵の雷撃(らいげき)を受けた大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)の戦死者59名と、その他の日本人戦死者19名とを合算した計78名を慰霊する「大日本帝國第二特務艦隊戰死者之墓」が、敵の雷撃からちょうど1年が経過し、一周忌となったこの日、英領マルタ島の都ヴァレッタ(Valletta)郊外のカルカーラ(Kalkara)村に在()るカルカーラ海軍墓地(Kalkara Naval Graves)、現在の英連邦戦争墓地(Commonwealth War Graves)に建立(こんりゅう)される。この墓碑には三年後の1921年4月25日(月)に当時の皇太子裕仁親王(ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, b.1901)、後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が慰霊に訪れ、また榊の被弾から百年が経()とうとする2017年5月27日(土)=かつての海軍記念日には安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-20; 成蹊大学卒、カリフォルニア州立大学ヘイワード校遊学、南カリフォルニア大学中退)内閣総理大臣が、日本の現職の首相としては史上初となる慰霊に訪れることになる。

http://yahoo.jp/box/GJe1Ps (リンク切れ)

https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS27H6W_X20C17A5000000/

https://www.nikkei.com/news/image-article/?R_FLG=0&ad=DSXMZO1697573028052017I00001&dc=1&ng=DGXLASFS27H6W_X20C17A5000000&z=20170528

https://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1495943029/

1918年 北海道札幌區に北海道帝國大學(現在の国立大学法人北海道大学の前身)が設置されたことで、東北帝國大學農科大學が北海道帝國大學に移管。

1918年~’19年(大正8年) 性と生殖をめぐる母性保護論争が勃発。與謝野晶子(よさの あきこ, 1878-1942; 堺市立堺女学校卒; 文化學院創設者)が『婦人公論』誌3月號で「女子の徹底した獨立」と題した論文を発表し、国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎないとして母性保護の否定を主張。すると七年前の1911年に女性による女性のための月刊誌 『靑鞜(せいたふ)』を創刊しながら1916年2月に六巻二號を以(もっ)て廃刊に追い込まれていた平塚らいてう(ひらつか らいてう; ひらつか らいちょう, 1886-1971; 日本女子大學校=現在の日本女子大学卒)がこれに噛()みつき、同じ『婦人公論』誌5月號で「母性保護の主張は依頼主義か」という反論を発表し、恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つという持論を展開し、国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきと主張。すると女性解放思想家、山川菊榮(やまかわ きくえ, 1890-1980; 女子英学塾=現在の津田塾大学卒)も論争に加わり、同じ『婦人公論』誌9月號で「與謝野、平塚二氏の論爭」と題した論文を発表し、與謝野と平塚の主張を部分的に認めつつも、真の母性保護、真の女性解放は差別のない社会主義国でのみ可能とした。他に山田わか(やまだ わか, 1879-1957; 神奈川縣三浦郡久里濱村=現在の神奈川県横須賀市久里浜の地元の尋常小學校卒)も論争に加わり、独立という美辞に惑(まど)わされず家庭婦人(専業主婦)も金銭的報酬は貰(もら)ってこそないが、家庭内で働いているのだから誇りを持つべきと主張。一連の論争は、母性保護論争と名づけられる。

1918年~’21年 当時「流行性感冒」(英語圏では Spanish flu こと、「スペイン・インフル」)と呼ばれた疫病のパンデミック(pandemic: 世界的流行)が日本にも上陸し、秋以降に本格的に流行。1918年5月の大相撲夏場所では休場力士が多数出てしまい、「角力風邪」なる名称も流布する。当時の内地(日本本土: Japan proper)人口5600万(56m = fifty-six million)人のうち実に推定45万人余りが死亡(over 450,000 deaths)。五年後の1923年に発生した関東大震災で推定10万人余りが死亡したこと(over 100,000 deaths)と較べ、約4.5倍もの猛威を振るったことになる。また、日本統治下の臺灣や朝鮮半島や満洲の關東州を併せると実に推定74万人余りが死亡(over 740,000 deaths)したと考えられる。全世界では4千万人~8千万人(40 to 80 million)が死亡したとされる。しかしながら、Niall Johnson, Britain and the 1918-19 Influenza Pandemic (Routledge, 2006) は、全世界で5千万~1億人の死者(50 to 100 million deaths)としていて、従来までの二倍余りに推定する。(速水融(はやみ あきら, 1929-2019)慶應義塾大学名誉教授著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店, 2006年)、岡田晴恵(おかだ はるえ, b.1963)白鷗大学教授編著『<増補新版> 強毒性インフルエンザの脅威』藤原書店, 2009年に依拠)

1918年7月22日(月)~9月12日(木) 富山縣下新川郡魚津町(とやま けん しもにいかわ ぐん うおづ まち: 現在の富山県魚津市)の主婦を中心に米(コメ)の価格急騰に伴う暴動事件「米騒動」(英称 Rice Riots of 1918)が発生し、他縣(他県)へも波及。大きな社会問題となる。前年(1917年)3月に起きていたロシア革命及び11月に成立した革命政府(ソヴィエト政権)に対して日本も出兵するだろうという期待から業者が売り惜しみや買い占めをした投機的取引が騒動に輪をかける。子供にひもじい思いをさせたくない母親たちが「女一揆」と呼ばれるほどの騒乱を起こし、全国で七十万(700,000)人が参加したと言われる。

1918年8月2日(金) 寺內正毅(てらうち まさたけ, 1852-1919; 首相在任1916-18; 陸軍戸山學校卒)内閣が対外政策としてシベリア出兵を宣言。この宣言により悪徳流通業者が戦争特需の物資高騰を狙い、折からの売り惜しみを加速させる。

1918年8月~’22年(大正11年)10月 前年(1917年)3月に起きていたロシア革命及び11月に成立した革命政府(ソヴィエト政権)に対する干渉戦争としての「シベリア出兵」に日本も欧米列強諸国に倣(なら)って軍隊を派遣。

1918年秋 帝國大學令に基づいて札幌農學校が北海道帝國大學(現在の国立大学法人北海道大学の前身)に昇格。

1918年9月29日(日) 寺內正毅(てらうち まさたけ, 1852-1919; 首相在任1916-18; 陸軍戸山學校卒)内閣が「米騒動」の責任を取って総辞職。原敬(はら たかし; 有職読みで「はら けい」, 1856-1921; 首相在任1918-21; 佛學塾中退)が首相に抜擢され、爵位を持たない平民宰相として持て囃(はや)される。

1918年10月17日(木) 第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)末期のこの日、教官役の英国陸軍将兵5名(少佐1名+兵士4名)と共に貨物船で遠く英国から運搬されてきた英国製戦車マーク・フォー(Mark IV)が、神戶(神戸)港に到着。これを以(もっ)て日本の戦車元年と見做(みな)す。戦争中だったこともあり最新型のマーク・ファイヴ(Mark V)は自国軍(英国陸軍)で必要とされたため譲ってもらえず、友好国の日本に対しては一つ前の型番であるマーク・フォー(Mark IV)戦車が引き渡されたのだった。内航船に積み替えられて1週間後の10月24日(木)には橫濱(横浜)港へ届けられ、陸揚げされると、鉄道に載せられて当時の新橋驛(現在の汐留シオサイトの場所)まで運ばれ、汐留から信濃町までイギリス人将兵の操縦で夜間に自走で移動し、靑山練兵場(現在の明治神宮外苑の場所)で皇族や高級軍人らにお披露目となる。(2018年10月19日(金)付の月刊PANZER編集部編「乗りものニュース」に依拠)

1918年11月11日(月) 午前11時 四年以上前から続いていた第一次世界大戦が停戦(但し、講和条約は翌’19年)。イギリス(連合王国)は当時の総人口4600万(46 million)人に対して戦歿者数は74万(0.74 million)人だったが、日本は当時の総人口5430万人(54.3 million)人に対して戦歿者数は僅(わず)かに415人(但し、各種資料により誤差あり)だった。日本は同盟国の英国に協力して独墺軍を相手に参戦したお蔭で戦勝国と成ったばかりか経済的にも「漁夫の利」を得て、結果として一等国として欧米列強と肩を並べるまでに成長。しかしながら、一次大戦後の不景気にも見舞われる。また、この大戦の結果、ロシア帝国、墺太利ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国という4つの大帝国が崩壊。

1918年12月6日(金) 高等教育拡張政策を推進していた原敬(はら たかし; 有職読みで「はら けい」, 1856-1921; 首相在任1918-21; 司法省法學校=現在の東京大学法学部の前身を中退)内閣が成立させた大學令が公布される。

1919年1月18日(土) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)の決着を着けるためのパリ講和会議(仏 Conférence de paix de Paris 1919; 英 Paris Peace Conference, 1919; 独 Pariser Friedenskonferenz 1919)が開始される。日本からは次席全権大使の牧野伸顯(まきの のぶあき; 有職読みで「しんけん」1861-1949; 東京大學中退)元外務大臣・男爵(後に子爵、転じて後に伯爵)が采配を振るう。高齢で名ばかり全権代表になっていた西園寺公望(さいおんじ きんもち, 1849-1940; 仏ソルボンヌ大学卒; 首相臨時代理在任1901; 首相在任1906-08 & 1911-12)元内閣総理大臣・侯爵(後に公爵)がパリに到着したのは同年(1919年)3月2日(日)のこと。五ヶ月以上の話し合いで通称 「ヴェルサイユ条約」(仏 Traité de Versailles; 英 Treaty of Versailles; 独 Friedensvertrag von Versailles, od. Versailler Vertrag)が調印されるのは、1919年6月28日(土)のこと。しかしながら、この講和会議が完全に終了するのは、ローザンヌ条約(仏 Traité de Lausanne 1923; 英 Treaty of Lausanne; 独 Vertrag von Lausanne)が締結される1923年7月24日(火)のこと。

1919年(大正8年)3月22日(土) シベリア出兵中、軽視していた敵軍(赤軍=ロシア革命軍)や抗日匪賊(パルチザン=非正規ゲリラ隊)の反撃による戦死が相次いでいた大日本帝國軍(IJA: Imperial Japanese Army)は厳寒の中で疲労困憊して神経過敏に陥り、暴徒と良民も区別せずに「村落焼棄」の方針が打ち出された結果、アムール州ブラゴベシチェンスク(Благове́щенск, Амурская область город = Blagovéshchensk, Amur oblast'; 英 Blagoveshchensk, Amur Region)郊外のイヴァノフスキー村(露 Ивановский район, Амурская область = Ivanovskiy rayon, Amurskaya oblast'; 英 Ivanovsky Village, Amur Region)で女性や子供ら、1歳半の乳飲み子から96歳の老人までをも含む計257人を銃などで殺害し、36人を小屋に閉じ込め焼殺。世に言う「イワノフカ事件」(露 Инцидент в Ивановке = Intsidyent v Ivanovskye; 英 Ivanovsky Incident)。歩兵第十二旅団長山田四郎(やまだ しろう, 生歿年不詳)少将は、「師団長ノ指令ニ基キ」という布告を出し、「第一、日本軍及ビ露人ニ敵對スル過激派軍ハ附近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装ヒ變幻常ナキヲ以テ其實質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵對スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加擔スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ」としていた。アムール州で日本軍により焼き討ちを蒙(こうむ)った村落は他にもあるが、最大規模で残虐な被害を受けたのがこのイヴァノフスキー村であった。「見えない敵」であるゲリラに対し、ロシア白軍(反革命軍)と日本軍は神経を尖らしていたが、ゲリラを匿(かくま)った、或(ある)いは協力したと見られた村落を頻繁に襲撃し焼き尽くしていた。これはちょうど第二次世界大戦(World War II; the Second World War, 1939-45)中にナチス・ドイツがチェコやフランスの村でやったことを日本軍はシベリアで二十年も先取りし、ベトナム戦争(Vietnam War, 1955-75)中に米軍と韓国軍がベトナムの村落に対して行なったことを日本軍はシベリアで半世紀近く先取りしていたことになる。日本軍はこの虐殺の事実を隠すどころか自軍の宣伝(propaganda)にも使い、「抵抗すればあの村の二の舞になるぞ」(原文: 赤衛軍ニ援助ヲ与エ若ハ日本軍ニ敵對セントスル村落ハ尽ク「イワノフカ」ト同一運命ニ遭遇スヘキヲ覺悟スヘシ)という脅しを他の村にもかけていた。こうした上から原因の他に下からの原因もある。氷点下40度にも達するシベリアの極寒の地で戦争目標も見えない中に出兵していた部隊の軍規は著(いちじる)しく乱れていた。末端の兵士による上官への「歩兵隊式」という私刑(lynch)が頻発していて、上官が少しでも横柄な態度や過大と思われる要求をしようものなら兵士同士が結託し、前線であることをこれ幸いにとばかりに士官を暴行して服従させていた。中には、「殴られるくらいはまだいい。戦場だったら何処(どこ)から弾(たま)が飛んで来るのかも分からんのだし。」と語った帰還兵もいる。こうした渾沌(こんとん)とした状態であったことから前線の指揮官は民間人への略奪・強姦・暴行・殺人に手を染める下級兵士を止められなかったばかりか、彼らに気兼ねしてご機嫌を取るといった行動も見られた。1920年3月12日(金)~5月下旬には尼港事件(にこう じけん: Nikolayevsk Massacre)でロシア人に復讐されてしまう。

(外部サイト)

沿アムール地方 日本からの代表団が1919年事件の犠牲者を弔う

ラジオ ロシアの声(現在の「スプートニク」の前身)日本語版

2012年8月27日(月) 15:30

https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_08_27/amuuru-chihou-nihon-daihyoudan-1919nen-iwanofuka-jiken/

上記のロシア語原典版

http://www.amur.info/news/2012/08/27/6052

歩み来て、未来へ--ニッポン近代考

炎の記憶を乗り越えて シベリアに残る二つの歌

共同通信社

日付不明

http://www.kyodonews.jp/activity/project/articl01.php

1919年4月1日(火) 前年(1918年)に公布された大學令が施行される。

1919年 私立國學院大學が國學院大學に改称。

1919年6月28日(土) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)の引き金となった1914年6月28日(日)のサラエボ事件からちょうど五年が経過したこの日、その大戦の決着をつけるためのパリ講和会議(仏 Conférence de paix de Paris 1919; 英 Paris Peace Conference, 1919; 独 Pariser Friedenskonferenz 1919)の一環としてフランスの首都パリ西郊のヴェルサイユ宮殿(仏 Château de Versailles; 英 Palace of Versailles; 独 Schloß Versailles)の鏡の間(仏 Galerie des Glaces; 英 Hall of Mirrors; 独 Spiegelgalerie)で、その名も「同盟及聯合國ト獨逸國トノ平和條約」(仏 Traité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l’Allemagne; 英 Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germany; 独 Friedensvertrag zwischen den Alliierten und den assoziierten Mächten und Deutschland)、通称 「ヴェルサイユ条約」(仏 Traité de Versailles; 英 Treaty of Versailles; 独 Friedensvertrag von Versailles, od. Versailler Vertrag)が調印され、第一次世界大戦が正式に終結。所謂(いわゆる)ヴェルサイユ体制が始まる。実際の発効は約半年後の1920年1月10日(土)。日本は英仏伊米と並ぶ戦勝五大国の一翼を担う。このヴェルサイユ条約で敗戦国ドイツには膨大な額の賠償金が課せられ、これをドイツが完全に処理し終えたのは、第一次世界大戦の停戦から九十二年近く(九十一年と十一ケ月)後の2010年10月のことだった。この過酷な賠償金が後にナチスの擡頭(たいとう)を招くことになる。イギリス(連合王国)は当時の総人口4600万(46 million)人に対して第一次世界大戦での戦歿者数は74万(0.74 million)人だったが、日本は当時の総人口5430万人(54.3 million)人に対して戦歿者数は僅(わず)かに415人(但し、各種資料により誤差あり)だった 。ちなみに戦勝国ながら国土が戦場となったフランスは当時の総人口3650万(36.5 million)人に対して戦歿者数140万(1.4 million)人。そして敗戦国のドイツは当時の総人口6700万(67 million)人に対して戦歿者数180万(1.8 million)人だった。日本の場合を除く各数値は、ハワード(Michael Howard)[著]、馬場優[訳] 『第一次世界大戦』(法政大学出版局, 2014年)の付録Ⅱ 戦争の被害(p.xix)に基づく。この大戦の結果としてロシア帝国、墺太利ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国という4つの大帝国は既に崩壊していたこのヴェルサイユ条約の締結でパリ講和会議(仏 Conférence de paix de Paris 1919; 英 Paris Peace Conference, 1919; 独 Pariser Friedenskonferenz 1919)が終了したかに見えたが、それは大物政治家にとってのことであり、実際には次官級の協議が向こう四年も続き、最終的には1923年7月24日(火)にローザンヌ条約(仏 Traité de Lausanne 1923; 英 Treaty of Lausanne; 独 Vertrag von Lausanne)が締結されることで終了。

1919年11月24日(月) 平塚らいてう(ひらつか らいちょう, 1886-1971)と市川房枝(いちかは ふさえ, 1893-1981)らが新婦人協會を設立。婦人參政權(女性参政権)を目指すも、平塚と市川は後に路線対立により決裂。

1920年(大正9年)1月10日(土) 約半年前の1919年6月28日(土)に調印された通称 「ヴェルサイユ条約」(仏 Traité de Versailles; 英 Treaty of Versailles)こと、「同盟及聯合國ト獨逸國トノ平和條約」(仏 Traité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l’Allemagne; 英 Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germany)が発効したことに伴い、二度と悲惨な大戦を繰り返すまいとする反省から國際聯盟(こくさい れんめい: 仏 Société des Nations; 英 League of Nations; 西 Sociedad de Naciones)がスイス連邦ジュネーヴ市(仏 Genève, Suisse; 英 Geneva, Switzerland; 西 Ginebra, Suiza)で発足。英仏日伊米の戦勝五大国が常任理事国(permanent members)になる予定だったが、モンロー主義(Monroe Doctrine)を振りかざす米議会上院(United States Senate)が承認せず、提唱者の米国は連盟そのものに不参加。したがって英仏日伊の四ヶ国常任理事国体制でスタート。当初の加盟国は常任理事国を含めて42ヶ国。

1920年2月2日(月) 日本初の「バスガール」が登場。乗合路線バスの車掌に初めて採用された職業婦人として活躍し、話題になる。なお、戦後に入口と出口がそれぞれ一つずつあって、車掌のいない、和製英語で言う「ワンマンバス」が登場する以前は、出入口が前に一つだけついていて、運転手の他に切符を扱う車掌が乗り込んでいた。

1920年2月14日(土)~15日(日) 第1回東京箱根間往復大學驛傳競走(現在の関東大学駅伝競走大会、現在の通称 箱根駅伝)が、早稲田大學、慶應義塾大學、明治大學、官立東京髙等師範學校(後の官立東京文理科大学、更に後の国立東京教育大学、現在の国立大学法人筑波大学)の4校の間で競われる。開催に先立って主催者は、東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学の前身)、中央大學、法政大學、立敎大學、日本大學、東京農業大學、東洋大學、專修大學などにも参加を呼び掛けたが、選手を10人も揃えることが可能な学校が少なく、早慶明と師範(現筑波大)の4校のみでの開催となった。当時は「學生の本分は勉學に在り」という考えが支配的だったので、土曜の午前中は通常授業を行ない、13:00開始とした。そのため往路が箱根でゴールしたときには夜になっていた。往路では明治大學が優勝したが、日曜7:00にスタートした復路では東京髙等師範學校(現筑波大)が逆転し、総合優勝を決めた。1921年の第2回大会からは毎年1月初旬(多くは正月明け、たまに三箇日明け)に実施していたが、大東亞戰爭(別名 アジア太平洋戦争, 1941年12月8日(月)~’45年8月15日(水))中から終戦直後にかけての一時期(1941年1月~’46年1月)は戦争の激化と国民生活の余裕の欠如により1943年第22回大会の一度しか開催できなかった。1955年第31回大会から交通事情を考慮して毎年1月2日往路と同月3日復路の開催に変更され、現在に至る。

1920年3月12日(金)~5月下旬 シベリア出兵中に尼港事件(にこう じけん: Nikolayevsk Massacre)が発生。アムール川の河口に在るニコラエフスク(当時の漢字表記で尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で、日本と敵対する赤軍(後のソ連軍)パルチザンが大規模な住民虐殺事件を起こす。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名または400~500名、中国人300名または900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・惨殺を行なうとともに日本軍守備隊に武器引渡しを要求し、これに対して抵抗した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅(せんめつ)すると、老若男女(ろうにゃく なんにょ)の別なく数千人の日本人とロシア人(赤軍派と敵対する白系)の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分の6,000名を超えると言われ、殺された日本人居留民の中には外交官である日本国領事一家までもが含まれていたため、赤軍は国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名に上り、ほぼ皆殺しだった。建築物は悉(ことごと)く破壊されニコラエフスクの町は廃墟となった。この事件は日本側の反発を招き、結果としてシベリア出兵は長引いた。十七年後の1937年7月には北京郊外で同様の性格を持つ通州事件(つうしゅう じけん; Tungchow Mutiny)が発生している。

1920年4月1日(木) 前年(1919年)に公布された勅令第71號の大學令に基づき、官立東京髙等商業學校が大學に昇格し、官立東京商科大學(現在の国立大学法人一橋大学の前身)に改称。慶應義塾大學、早稲田大學、明治大學、法政大學、中央大學、日本大學、國學院大學、同志社大學の八校が正式に大學として認可されたのを皮切りに26私立大學が誕生。

1920年4月15日(木) 十四年前の1906年6月に私立國學院大學を名乗り、前年(1919年)に國學院大學を名乗った教育機関が、大學令による正規の大學(旧制大学)に正式に昇格する。

1920年 後に1968年ノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur 1968; 英 Nobel Prize in Literature 1968)を受賞することになる川端康成(かはばた やすなり; かわばた やすなり, 1899-1972)がこの年の7月に第一高等學校(現在の国立大学法人東京大学駒場地区キャンパスの前身)文科乙類(英文)を卒業し、9月に東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学本郷地区キャンパスの前身)文學部英文學科に入学(1922年6月に國文學科に転科)していることから、当時の旧制高校や旧制大学は9月が入学月だったことが分かる。

1920年9月10日(金) 正式な大學として認可される以前の早稲田大學卒の詩人 人見東明(ひとみ とぅめい, 1883-1974)こと、本名 人見圓吉(ひとみ ゑんきち, 1883-1974)が二年半前の1918年(大正7年)4月に発足させていた文化懇談會を発展させ、私塾日本女子髙等學院(現在の昭和女子大学の前身)を東京府東京市小石川區西江戸川町21番地(現東京都文京区水道1丁目)の小石川幼稚園の一部に間借りして開講。教師5名、学生8名での開学。初代院長に文化懇談會の発起人の一人、加治いつ(かぢ いつ, 生歿年不詳)。一年半後の1922年4月1日(土)には間借り生活を解消し、東中野へ引っ越すことになり、その更(さら)に四年後の1926年6月5日(土)には中野區上高田の新校舎へ引っ越し。学校法人昭和女子大学では1920年を創立年とする。開学の際に原稿用紙に執筆した「開講の詞」を晩年に吹き込んだ2分45秒の録音( https://www.youtube.com/watch?v=MraaG13jjd4 )を昭和女子大学が2020年の創立百周年に先駆け、2017年12月14日(木)にユーチューブ(YouTube)で公開。なお、奇妙なことに同大学は大正期の創立ながら昭和を名乗り、9月に創立されたにも拘(かか)わらず、毎年5月2日を全学休講の創立記念日としている。

1920年10月1日(金) 帝國第一回國勢調査が実施される。この時点での日本の総人口は五千五百九十六万三千とんで五十三人(55,963,053人)であると八年後の1928年10月14日(日)発行の『大正九年 國勢調査報告』で内閣統計局(現在の総務省統計局の前身)によって発表される。

(外部サイト)

日本国政府統計の総合窓口 e-Stat

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020101.do?_toGL08020101_&tstatCode=000001036875&requestSender=search

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001026563&cycleCode=0&requestSender=search

1921年(大正10年)3月3日(木)~9月3日(土) 皇太子裕仁親王(くゎぅたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, 1901-89)=後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が、国内輿論(よろん)の反対にも拘(かか)わらず日本の歴史始まって以来の、それも六ヶ月にも及ぶ海外訪問を敢行。橫濱(横浜)港を出て、途中沖縄に立ち寄った後は、香港(現中華人民共和國香港特別行政區)、シンガポール(現英連邦シンガポール共和国)、セイロン島(現英連邦スリランカ民主社 会主義共和国)のコロンボ港、エジプト(現エジプト・アラブ共和国)のスエズ港、マルタ島(現英連邦マルタ共和国)のヴァレッタ港、ジブラルタル(現在も英国海外領土)という当時の英国領6箇所を転々として、遂(つい)に同年(1921年)5月7日(土)、同盟国イギリスのポーツマス港に到着。英国にて親王は行く先々で温かい歓迎を受け、英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)に理想の父親像・君主像を見る。同年(1921年)5月9日(月)には同国王から陸軍大将(General of the British Army)の名誉称号を贈られる( https://www.thegazette.co.uk/London/issue/32324/supplement/3917 )。英国を後にしてからはフランス、ベルギー、オランダ、再びフランス、イタリア、ヴァティカン(バチカ ン)を歴訪して戦争の爪痕(つめあと)をつぶさに観察し、帰国の途に就(つ)く。帝都東京への帰還は同年9月3日(土)。昭和天皇が1989年1月7日(土)に崩御したとき、その居間の机の引き出しから1921年6月21日(火)付のパリ地下鉄(Métro Paris)のパレ・ロワイヤル(Palais Royal: 「王宮」の意)駅発の切符が発見されたが、昭和天皇は満20歳の時分に生まれて初めてお忍びで乗った地下鉄に感動して、シャンゼリゼ大通りのジョルジュ・サンク(George V: 「英国王ジョージ五世」の意)駅で降りた際に切符を捨てずに持ち帰っていた(なお、パリの地下鉄は入場に際してのみ改札があり、出口での検札が無いため、切符を床に捨てて行く者が多い)。昭和天皇はその切符を生涯の宝物にしていたとのこと(なお、日本初の地下鉄である東京地下鐵道(現在の東京メトロ銀座線)の淺草(浅草)・上野間が開業するのは、その六年半後の1927年12月30日(金)のこと)

(外部サイト)

当時の動画(無音)

https://www.youtube.com/watch?v=tbIvEuqksSI

1921年(大正10年)4月1日(金) 最後まで欧米式の9月入学だった舊制髙等學校や舊制大學(現在の難関老舗(しにせ)国立大学法人の前身)も、舊制中學校と連携をとるため、新年度の開始を4月とする(現在に至る)。日本では1886年に会計年度が4月に改定された際に、4月入学が奨励されるようになり(当時は9月入学だった)、1901年に中學校が、1919年に高等學校が4月始業に移行していたが、大学も1921年度に4月始業に移行。9月始業から4月始業に移行するのに、実に三十年余りを要したことになる。

1921年(月日不明ながら当時の状況からして春か) 四十年前の1881年に薩摩藩士・帝國海軍々醫の高木兼寛(たかき かねひろ, 1849-1920; 鹿兒島醫學校=現在の国立大学法人鹿児島大学医学部卒、聖トマス病院医学校=現在のロンドン大学国王学寮医学部卒)醫學博士・男爵が設立していた東京慈惠醫院醫學專門學校(但し、設立時の名称は成醫會講習所)が、大學令に基づく正規の大学に昇格し、日本初の私立医科大学として東京慈惠會醫科大學と成る。

1921年4月25日(月) 正式な大學として認可される以前の早稲田大學卒の詩人 人見東明(ひとみ とうめい, 1883-1974)こと、本名 人見圓吉(ひとみ ゑんきち, 1883-1974)に遅れること半年で、人見の知己(ちき)でもあった歌人の與謝野鐵幹(よさの てっかん, 1873-1935; 慶應義塾大學卒)と與謝野晶子(よさの あきこ, 1878-1942; 堺市立堺女学校卒)の與謝野夫妻が建築家の西村伊作(にしむら いさく, 1884-1963; 廣島市立明道中學校卒)と、画家の石井柏亭(いしい はくてい, 1882-1958; 東京美術學校=現在の東京藝術大学中退)らとともに東京府東京市神田區駿河台(現東京都千代田区神田駿河台; 但し、現在の本部は東京都墨田区両国)に文化學院を創設。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学の高等教育機関を成立させる。「國の學校令に依(よ)らない自由で獨創的な學校」という新しい教育を掲げ、「小さくても善いものを」「感性豐かな人間を育てる」などを狙いとした教育を展開。しかしながら、「國の學校令に依らない」とする方針が大学化への道を自ら閉ざしてしまい、百年近く経ても専修学校の儘(まま)である。

1921年8月下旬~1923年12月 日英同盟の末期にスコットランド貴族の第十九代センピル男爵(William Forbes-Sempill, 19th Lord Sempill, 1893-1965; イートン校の出)英空軍大佐を団長とするセンピル使節団(Sempill Mission)が日本海軍の求めに応じて非公式に来日し、霞ケ浦飛行場へ赴く。同年9月1日(木)から第一次世界大戦(1914-18年)で著(いちじる)しい進歩を遂(と)げていた英国航空技術を日本に伝授。日露戦争(1904-05)時の英雄で「東洋のネルソン(the Nelson of the East)」と英国側から呼ばれた東鄕平八郎(とうごう へいはちろう, 1848-1934; 英国商船学校ウスター協会=現テムズ海運訓練学校留学)伯爵・元帥(げんすい)が一行を歓待。しかしながら、日本海軍はイギリス人を単なる相談役として用いようと画策(かくさく)し、その結果、センピル使節団の中に余剰人員が生じてしまう。そしてこともあろうに団長のセンピル卿自身も余剰(redundant)とされてしまい、1922年10月には離日した。センピル使節団の中でも順応性のある若手のみが日本に残ったが、その中で最後まで日本に残った一人は、日本初の航空母艦(空母)鳳翔(ほうしやう: Japanese aircraft carrier Hōshō)に日本人飛行士が着艦する瞬間を見届け、1923年12月に離日した。その僅か十八年後の1941年12月10日(水)に大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)機動部隊が航空兵力を投入し、開戦三日目にして英海軍(Royal Navy)の最新鋭戦艦2隻、レパルス(HMS Repulse)とウェールズ大公(HMS Prince of Wales)を英領マレー半島東海岸クアンタン(Kuantan; 關丹)沖で撃沈することになろうとは、当時は日英双方とも想像もしなかった。

(参考文献)

ベスト(Anthony Best, b.1964)著、武田知己(たけだ ともき, b.1970)訳 『大英帝国の親日派 なぜ開戦は避けられなかったか』(中央公論新社, 2015年)

1921年(大正10年)11月4日(金) 19:20、原敬(はら たかし; 有職読みで「はら けい」, 1856-1921; 首相在任1918-21; 司法省法學校=現在の東京大学法学部の前身を中退)内閣總理大臣=65歳が政友党京都支部大會に出席すべく東京驛乘車口(現在の丸の内南口改札)に向かっていたところ、改札外側にて鉄道労働者中岡艮一(なかおか こんいち, 1903-80; 高等小學校中退)=18歳に刃渡り五寸(約15cm)の短刀で右胸部を刺される。原首相はその場に倒れ、驛長室に運ばれた際には絶命していたという。犯人の中岡は無期懲役に服するも十三年後の1934年に恩赦(おんしゃ: amnesty)により出獄し、1980年に満77歳で当時としては長寿を全(まっと)うすることになる。

(外部サイト)東京駅の銘板

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1921年12月13日(火) 米国首都のワシントン海軍軍縮会議(Washington Naval Conference)にて英仏米日の間で四ヶ國條約(しかこく じょうやく; 英 Four-Power Treaty; 仏 Traité des quatre puissances)が調印されたことを受け、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)の廃止が決定。実際に失効するのは約一年八ヶ月後の1923年8月17日(金)のこと。

1922年(大正11年)2月6日(月) 米国首都にてワシントン海軍軍縮条約(Washington Naval Treaty)が調印され、米英日仏伊の戦勝五ヶ国の戦艦・航空母艦(空母)等の保有の制限が取り決められる。なお、ワシントン海軍軍縮会議(Washington Naval Conference)には華蘭白葡の四ヶ国の代表団も出席している。

1922年4月1日(土) 一年半前の1920年(大正9年)9月に開学していた私塾日本女子髙等學院が專門學校令による私立日本女子髙等學校(現在の昭和女子大学の前身)に昇格。五年制の附属髙等女學部を附設し、校舎を小石川から東中野へ移転。

1922年同月同日(土) 大學令に基づいて立敎大學が、他の主要私立大学より二年遅れて正式に大學として認可される。

1922年 四十二年前の1880年に私学としては日本最初の法律学校として開学していながら、その十三年後の1893年に法律科の生徒募集を停止し、經済科を中心とする教育機関として継続してきた專修學校(現在の専修大学の前身)が、大學令により專修大學(在東京府東京市神田區)という正規の大学と成る。(2020年9月25日(金)付の Urban Life Metro の教育ジャーナリスト中山まち子記者署名オンライン記事「私学で初の法律科を設置 米国留学のエリートが設立した「専修大学」とはどのような大学なのか」に依拠)

1922年4月 前年(1921年)の返礼として、後に一年足らず英国王を務めることになるエドワード八世(Edward VIII, 1894-1972; 在位1936)であり、さらに後のウィンザー公(Duke of Windsor, 1894-1972)になる英国皇太子(当時)エドワード(Edward, Prince of Wales, 1894-1972)が訪日。各地で大歓迎を受ける。歓迎晩餐会で会席者1人につき予算30圓(現在の価値で約30万円)という前代未聞の豪華料理を振る舞ったことからも、日本側が英国との良好な外交関係の維持に躍起になっていたことが窺(うかが)える。道中、東京の宿泊先の帝國ホテル(Imperial Hotel, Tokyo)で火災があり、エドワード皇太子とその一行の荷物(勲章を含む)が燃えてしまう不運もあったが、日英の友好関係が最高潮に達したところで、一行は奇(く)しくも五十九年前の1863年に英国海軍(Royal Navy)が砲撃していた鹿兒島(鹿児島)港から離日する。

1922年7月18日(火) 作家の有島武郎(ありしま たけお, 1878-1923; 札幌農學校=現在の国立大学法人北海道大学農学部の前身卒、ハバフォード大学、ハーヴァード大学留学)がロシアの文豪トルストイ(Лев Николаевич Толстой = Lev Nikolayevich Tolstoy; 英名 Leo Tolstoy, 1828-1910)に感化され、自身が所有する北海道狩太村(現在の北海道虻田郡ニセコ町)の有島農場を小作人に無償で開放。ところが有島自身は翌年(1923年)6月9日(土)には輕井澤(軽井沢)の別荘「淨月荘」で波多野秋子(はたの あきこ, 1894-1923; 實踐女學校=現在の実践女子大学の前身卒、女子學院英文科=現在の女子学院中学校・高等学校の前身卒、靑山學院英文科=現在の青山学院大学文学部英米文学科の前身卒)と心中自殺を遂げてしまう。

1923年(大正12年) 二年年の1921年9月から日本海軍に航空技術を伝授し、その途中の1922年10月に離日していた第十九代センピル卿(William Forbes-Sempill, 19th Lord Sempill, 1893-1965)が英国に帰国後、在聯合王國日本國大使館附海軍武官の豊田貞次郎(とよだ ていじらう, 1885-1961)大佐(後に大将)と秘密裡(ひみつり)に接触し、英国の軍事機密を日本側にたびたび漏らす。豊田大佐はセンピル卿に海軍機密費を渡す。1998年と2002年に英国政府の公共記録局(Public Record Office)が機密書類を公開したことで、センピル卿の対日協力売国活動が明るみに出る。当時から英国の当局はセンピル卿のスパイ活動を把握して追跡を続けていたが、英国側が日本の暗号を解読していたことを悟られないためと、センピル卿が名門貴族だったために逮捕に踏み切れなかったとのこと。

(参考)

【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

現代ビジネス

カメラマン・ノンフィクション作家 神立尚紀(こうだち なおき, b.1963)NPO法人「零戦の会」会長、東京工芸大学非常勤講師

2020年10月18日(日)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411?page=4

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411?page=5

https://news.yahoo.co.jp/articles/613e0982d1e880fb85a0ac097da249e10f9fedb4

https://news.yahoo.co.jp/articles/613e0982d1e880fb85a0ac097da249e10f9fedb4?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/613e0982d1e880fb85a0ac097da249e10f9fedb4?page=3

https://news.yahoo.co.jp/articles/613e0982d1e880fb85a0ac097da249e10f9fedb4?page=4

https://news.yahoo.co.jp/articles/613e0982d1e880fb85a0ac097da249e10f9fedb4?page=5

https://news.yahoo.co.jp/articles/613e0982d1e880fb85a0ac097da249e10f9fedb4?page=6

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1923年5月9日(水)~8月 東洋大學(在東京都文京区)で境野(さかいの)事件が発生。同年(1923年)3月末に東洋大學々長の境野哲(さかいの さとる or さとし, 1871-1933; 哲學館=現在の東洋大学卒)は大学幹部の田辺善知(たなべ or たべ よしとも or ぜんち, 生歿年不詳)から、鄕白嚴(ごう はくげん?)という会計役の幹事を解職させる提案を受ける。境野学長は10人の教授に相談したところ全員解職に反対であったにも拘(かか)わらず境野学長は同年(1923年)5月9日(水)に鄕幹事の解職を決定。鄕と親交のあった教授、和辻哲郎(わつじ てつろう, 1889-1960; 東京帝國大學文科大學卒)、島地大等(しまぢ だいとう, 1875-1927)、得能文(とくのう ぶん, 1866-1945; 東京大學文科大學卒)らは異議を申し立てて辞表を提出。特に和辻は文化學科の学生たちを前に「事情によって辞めることにしたから、これでお別れする」という「告別演説」を行なった。この演説がきっかけとなって学生たちの間に学長排斥運動が起こる。学生たちは盛んに集会を開き、同17日(木)には「学長の即時自決を期す」決議を行うなど、大学全体が一触即発(いっしょく そくはつ)の不穏な雰囲気に包まれる。同19日(土)、境野學長は幹部会を開き、同21日(月)から31日(木)までの全学休講と學長排斥運動グループの中心的人物34名の除名または停学を決定する。東洋大学OB(old boys)の集まりである校友會も反応し、反學長の立場をとる校友は「校友有志團」を結成し、同14日(月)には「東洋大學の根本革新を要望し、學長學監幹事等の處分を促す」という批判文書を境野學長に提出するも、學長が回答の必要なしと答えると、事件の顛末(てんまつ)を都下の新聞各社や校友に送付する。同18日(金)には教授團が境野學長に対して連名をもって事件の解決を維持員會に一任するよう勧告書を送る。同26日(土)に境野學長は顧問會に事態解決への援助を求める。第1回顧問會では、顧問の岡田良平(おかだ りょうへい, 1864-1934; 帝國大學文科大學卒)は境野を援助することを約束したが、数日後に開催された第2回顧問會で岡田顧問は豹変し、境野に対して學長職の辞職を強く迫る。同年(1923年)6月1日(金)、全学休講が明けたが、大学内の雰囲気は相変わらず険悪であり、同年6月25日(月)、岡田顧問は境野學長に再度學長辞職を迫る。これに怒った境野學長は、同日(1923年6月25日(月))、岡田顧問に対して調停拒否を通知し、翌26日(火)、反學長派の煽動に加担したとされる和辻哲郎、島地大等、中島徳蔵など6人の敎授に解職通知を送り付ける。通知を受けた教授たちは解職拒否を表明。學生たちの學長に対する不満は最高潮に達し、同27日(水)、學生たちは學長室に押し入り、境野學長を殴打して重傷を負わせる。二日後の同29日(木)、文部省(現在の文部科学省)は境野學長に対して異例の學長認可取消命令を下す。學長職は湯本武比古(ゆもと たけひこ, 1856-1925; 東京師範學校=現在の筑波大学卒)が一時代理を務め、同年8月になって顧問會顧問であった上記の岡田良平が第5代学長に就任した。今回の騒動は当時のマスコミを賑わせ、「東洋(とぅやぅ)大學ではなく動搖(どぅえう)大學だ」と揶揄(やゆ)された。同大學では五年近く前の1918年(大正7年)12月の大學令公布を受け、翌年(1919年)1月、「東洋大學基本金募集趣意書」を発表して大學昇格のための募金活動に取り組んでいたが、1923年8月の時点で申込額は約12万2千円、払込額は約2万8千円に過ぎず、目標額の250万円には遠く及ばなかった。このような状況下で學園紛争が発生し、校友會も二派に分かれて対立。また、敎授側と協力して募金活動を行なってきた昇格基金部も教授委員の脱退により殆(ほとん)ど解体状態となり、昇格運動は頓挫した。そのため同學学の昇格は大幅に遅れ、大學令公布から十年後の1928年(昭和3年)になって漸(ようや)く設立認可を受けることになる。

1923年8月17日(金) 二十一年前の1902年から続いていた日英同盟(Anglo-Japanese Alliance, 1902-23)が遂に失効。

1923年9月1日(土) 11:58頃、關東大震災が発生し、帝都東京市(現在の東京都区部の大部分)と神奈川縣橘樹(たちばな)郡川崎町(現在の神奈川県川崎市川崎区)と神奈川縣橫濱市(現在の神奈川県横浜市鶴見区・中区・西区)が壊滅。前夜の颱風(typhoon)で風が強く、炊事時の正午直前に起きたため、木造家屋が密集した東京府東京市や神奈川縣橫濱市で大規模な火災が起き、全焼・延焼が相次ぎ、死者の9割は火災で死亡。関東地震の死者等約10万5千人のうち約7万人は東京府内、約3万人は神奈川縣内で発生。残りの1割は強い揺れによる家屋倒壊が原因。経済被害は、日本銀行(日銀)の推計では約45億円とされ、当時の日本の名目GNPの3分の1、一般会計歳出額の3倍強に相当。震災のパニックの中で、「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が日本人婦女子に暴行を働いている」「朝鮮人が暴動を起こした」という流言(りゅうげん)蜚語(ひご)(=デマ)が飛び交い、東京市内に軍隊が出動したり、関東各地に自警団が組織され、私的制裁・私刑(private punishment)が相次ぎ、無実の朝鮮人が虐殺(lynch)されたとされる。犠牲者数には諸説あり、正確な数字は不明。虐殺ではなく地震や火災で亡くなった者もいる。

[当時の新聞記事]

焦土と化した東京市中は大混亂を呈し鮮人等の跋扈非常に橫暴を働いて居り無秩序の狀態にあり(後略)

『福岡日日新聞』號外第四

大正12年(1923年)9月2日(日)

http://stat.ameba.jp/user_images/20120226/20/nethaijin2010/39/70/j/o0800058011818112007.jpg

不逞鮮人

各所に放火

石油罐や爆彈を携へて

『小樽新聞』號外第一

大正12年(1923年)9月3日(月)

http://image.blog.livedoor.jp/otsu3/imgs/6/1/6152aea9.JPG

不逞鮮人益々擴大

王子橫濱に於て軍隊と衝突

『荘内新報』號外 第十八報

大正12年(1923年)9月3日(月) 17:00特報

http://image.blog.livedoor.jp/otsu3/imgs/1/4/141a8005.jpg

不逞鮮人一千名と

橫濱で戰鬪開始

歩兵一個小隊全滅か

鮮人の隱謀

震害に乘じて放火

東京に三千名蠢く

逮捕は頗る困難

『新愛知新聞』

大正12年(1923年)9月4日(火)

http://blog-imgs-24.fc2.com/k/o/r/koramu2/20090610103425a5f.jpg

屋根から屋根へ

鮮人が放火して回る

「これが命の親ですよ」と

ビスケツトの箱を示す

◇東京を脫出した明大生

(前略)鮮人が盛んに惡いことをして居るのは憎むべき事で屋根から屋根へ渡つて火を放つて居る樣な有樣で我々でも出遇ひ次第棍棒でナグつて軍隊や警官に引渡して居る樣な次第で死体はゴロ/\゛と到る処に橫たはつて居ると云ふ樣で全く原始時代にもどつた樣な有樣で(後略)

『新愛知新聞』

大正12年(1923年)日付不詳

http://blog-imgs-24.fc2.com/k/o/r/koramu2/20090610103508f25.png

震災の混亂に乘じ

鮮人の行つた兇暴

掠奪—放火—兇器—爆彈毒藥携帶

中には人凌辱もある

但し一般鮮人は順良—司法當局談

震災の混亂、人心恟々たる隙に乘じて行つた不平鮮人の惡事は、誇大に報ぜられ人はその眞相を知るに苦しんでゐた、しかも當局が新聞記事を差止めた爲、當時記載する事ができなかつたが事件は二十日やうやく報導の自由を得た。之について司法當局は「今度の變災に際し、鮮人中不法行爲をしたものありと盛に宣傳されたが今其筋の調査した所に依れば、一般鮮人は槪して順良であつたと認め得るが、一部不平の徒があつて幾多の犯罪を敢行したのは事實であると語つた

少女を凌辱

ピストルを

亂射して逃走す

▲氏名不詳鮮人四名(强姦) 九月二日午後十時過ぎ南葛飾郡本田町四ツ木荒川放水路の堤上に避難中の年齢十六七歳の氏名不詳の少女を輪姦した上殺害し荒川に投げ込み逃走した

▲氏名不詳鮮人一名(傷害) 九月二日午後十時頃南葛飾郡小松川町字新町四軒長屋の裏手で榎本豐吉が夜警中便所脇に擧動不審の男あり提灯を差付けると突然棍棒で同人の前頭部を毆打傷害し附近の池中に投げ込み群衆に取押へられ龜戸小學校内敎護所で手當中逃走した

▲炭先と金實睲(殺人未遂) 九月二日午後九時頃南葛飾郡晋鷄町●●京成電車の踏切で氏名不詳の鮮人からピストル一挺を受けとり附近警戒の在鄕軍人に一發発射し逃走した

『讀賣新聞』

大正12年(1923年)10月21日(日)

http://image.blog.livedoor.jp/yorogadi/imgs/f/2/f27d67cf.jpg

鮮人浦和高崎に放火

高崎にて十餘名捕はる

碓氷峠の上から

列車爆破を企つ

松井田驛で逮捕された

不逞鮮人の自白

新聞名不詳

大正12年(1923年)日付不詳

http://blog-imgs-24.fc2.com/k/o/r/koramu2/20090610103544728.png

(参考)外部サイト

朝鮮人の悪行による自業自得説及び虐殺否定説

http://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html

http://www.amazon.co.jp/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%80%8C%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%B7%A5%E8%97%A4%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90/dp/4819110837/ref=cm_cr_pr_product_top?ie=UTF8

http://www.amazon.co.jp/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%80%8C%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-WAC-BUNKO-203-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BA%B7%E7%94%B7/dp/4898317030/ref=cm_cr_pr_product_top?ie=UTF8

上記の説を批判する説

http://01sep1923.tokyo/

http://synodos.jp/society/11601

http://synodos.jp/society/11601/2

1923年9月16日(日) 約八年半前の1915年1月に月刊誌 『青鞜』の編集発行人の立場を平塚らいてう(ひらつか らいちょう, 1886-1971; 日本女子大學校=現在の日本女子大学卒)から引き継いでいた伊藤野枝(いとう のえ, 1895-1923; 上野髙等女學校=現在の上野学園卒)が、十五日前の9月1日(土)に発生した關東大震災の混乱の中、世に言う「甘粕事件(あまかす じけん)」で満28歳の若さで殺害される。伊藤は無政府主義者(anarchist)で愛人(内縁の夫)だった大杉榮(おほすぎ さかゑ, 1885-1923: 東京外国語學校=現在の東京外国語大学卒)と、大杉の当時満6才の甥(おい: 大杉の妹の長男で日米二重国籍者)、橘宗一(たちばな そういち, 1916 or ’17 - 23)とともに東京市内(現在の東京都区内)で憲兵(military police)に連行された。連行先の麴町(こうじまち)の憲兵隊司令部構内で甘粕正彦(あまかす まさひこ, 1891-1945; 陸軍士官學校卒)憲兵大尉が大杉と伊藤の両名をそれぞれ別室で扼殺(やくさつ: 手や腕で頸部を絞(し)めて殺すこと)し、6才の宗一は部下に扼殺を命じ、3名の遺体は司令部裏の古井戸に遺棄された。そして甘粕大尉は何も知らない人足(にんそく: 当時の言葉で肉体労働者の意)に指示して、古井戸は馬糞や煉瓦を投げ込んで埋められた。軍法会議で罪を認めた甘粕だったが、実は彼は身代わりだったとする異説も複数存在する。甘粕大尉は軍法会議で懲役十年の刑を宣告されるも、千葉刑務所で三年弱の刑に服しただけで、攝政宮(後の昭和天皇)の御成婚による恩赦による減刑で出獄している。

1923年12月27日(木) 震災復興も儘(まま)ならない帝都東京で攝政宮狙擊事件、通称 虎ノ門事件が発生。東京府東京市芝區虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)で第四十八回帝國議會の開院式に向かう攝政宮皇太子裕仁親王(せつしやう の みや くゎうたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, 1901-89)、後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の乗った自動車に、実業家・政治家の難波作之進(なんば さくのしん, 1865-1925)の四男で極左テロリストの難波大助(なんば だいすけ, 1899-1924; 早稲田髙等學院中退)が仕込み型のステッキ散弾銃を発砲するも暗殺は未遂に終わる。犯人の難波大助は「革命萬歳!」と叫び逃走を図るも、激昂した周囲の群衆の暴行を受け、警備の警官に取り押さえられ、現行犯で逮捕される。事件を受け、第二次山本權兵衛(やまもと ごんべい; やまもと ごんのひやうゑ、1852-1933; 首相在任1913-14 & 1923-24; 海軍兵学寮卒)海軍大將・伯爵内閣は警備の不手際の責任を取って総辞職し、関係諸官は警視總監から道路警備の警察官に至るまでが根こそぎ懲戒免官となって処罰された。その中には警視廳(警視庁)警務部長だった正力松太郎(しやぅりき まつたらぅ; しょうりき まつたろう, 1885–1969; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)、後の讀賣新聞社社主・読売ジャイアンツ創立者兼初代オーナー・日本テレビ初代社長・科学技術庁初代長官も含まれた。息子が大逆テロ事件を起こしてしまった実業家・政治家の難波作之進は、事件のその日に衆議院議會に辞表を提出。地元の山口縣熊毛郡周防村(やまぐち けん くまげ ぐん すおう そん: 現在の山口県光市(やまぐち けん ひかり し))へ帰り蟄居(ちっきょ)した。村民は「難波家を見れば目が汚れる!」と噂し、家の周囲に高い土手を築いた。周防村(すおう そん)は全村を挙げて正月の祝いを廃して喪に入り、犯人の卒業した小学校の校長並びに犯人を担当した訓導(現在で言う学級担任)も、「不逞(ふてい)の徒(と)を嘗(かつ)て敎育した責」を負って職を辞した。犯人の難波大助は公判の後に当時の刑法七十三條「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」に則(のっと)り、事件の翌年(1924年)11月13日(木)に大審院で死刑判決が下され、同15日(土)に死刑が執行されている。父親の難波作之進は遺体の引き取りを拒否し、息子は無縁仏と成る。作之進は自邸の門に青竹の竹矢来を張って全ての戸を針金で括(くく)り、三畳間に閉じ籠(こも)るや一切の食を断ち、約半年後の翌年(1925年)5月25日(月)、あと三週間足らずで満六十歳の誕生日を迎えるところで餓死したという。

1924年(大正13年)1月26日(土) 皇太子裕仁親王(くゎぅたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, b.1901)=後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が、久邇宮邦彦王(くに の みや くによし わう; Prince Kuni Kuniyoshi, 1873-1929; 陸軍士官學校卒)の長女良子女王(ながこ じよわう, 1903-2000)=後の香淳皇后(かうじゆん くゎぅごう; こうじゅん こうごう; Empress Kojun, 1903-2000)と御成婚。東京市上空には軍用機が飛び、大量の警官が導入されるなど物々しい警戒の中の式典だった。前年(1923年)9月1日(土)に発生した關東大震災の記憶が新しく、祝賀会も著しく縮小された。宮中某重大事件を乗り越えてのご成婚だった。約三年半前の1920年6月10日(木)に婚約が内定していたが、翌年(1921年)、元老の一人である長州藩出身の山縣有朋(やまがた ありとも, 1838-1922; 首相在任1889-91 & 1898-1900)が、お妃に内定していた良子女王の母方である島津家に色覚異常があるとして婚約破棄を迫った事件である。他の元老である西園寺公望(さいをんじ きんもち; 有職読みで「こうばう」, 1849-1940; 首相在任1906-08 & 1911-12)と原敬(はら たかし; 有職読みで「はらけい」; 1856-1921; 首相在任1918-21)内閣総理大臣は山縣元総理を支持したものの、大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)のお妃である貞明皇后(ていめい くゎぅごう, 1884-1951)や島津家が反山縣で結集し、政界を巻き込む騒ぎとなった。結局、皇太子本人が良子女王との結婚を強く望み、右翼の重鎮(じゅうちん)であった頭山滿(とうやま みつる, 1855-1944)らも反山縣に回り、婚約破棄の企ては潰れたのだった。更に翌年(1922年)2月10日(金・祝)の「良子女王殿下東宮妃内定の事に關し、世上の樣々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等變更なし。」の宮内省(現在の宮内庁)発表を経て、同年(1922年)6月20日(火)に大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)の勅許が下り、1923年中にも婚儀が執り行われる予定だったが、關東大震災の影響により延期されていた。

1924年3月 後に1968年ノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur 1968; 英 Nobel Prize in Literature 1968)を受賞することになる川端康成(かはばた やすなり; かわばた やすなり, 1899-1972)が東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学本郷地区キャンパスの前身)文學部國文學科を卒業していることから、4月入学・3月卒業の制度が高等教育機関にも及んだことが分かる。

1924年5月31日(土) 皇太子裕仁親王(くゎぅたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, 1901-89)=後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)のご成婚から四ヶ月以上が経過したこの日、宮中の大宴会場である豊明殿(ほうめいでん)にて結婚披露宴が開催される。政府要人や皇族に加え、英国をはじめとする在京外交団も招待される。英国王室に倣(なら)いメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809-47)の「結婚行進曲」(独 Hochzeitsmarsch; 英 Wedding March)が使われたという。

1924年(日付不詳) 日本統治下朝鮮の都に京城(けいじやぅ)帝國大學が設立される。なお、日本撤退の翌年(1946年)には大韓民國國立ソウル大學校(서울대학교; Seoul National University)と成るが、現在の韓国は公式にはこれを否定し、自分たちで設立した大学だと虚偽の主張している。京城帝大は日本本土の大阪帝國大學(略称 大阪帝大; 現在の国立大学法人大阪大学の前身)より七年早く、名古屋帝國大學(現在の国立大学法人名古屋大学の前身)より十五年も早くに設立されたことになる。

1924年12月13日(土) 後の参議院議員、市川房枝(いちかは ふさえ, 1893-1981; 愛知縣女子師範學校=現在の愛知教育大学卒)らが婦人參政權獲得期成同盟會を結成し、女性の参政権獲得を目指す。実際に女性(婦人)参政権を獲得するのは約二十一年後で敗戦後占領下の1945年秋のこと。

1925年(大正14年)1月6日(火)~7日(水) 第6回東京箱根間往復大學驛傳競走(現在の関東大学駅伝競走大会、現在の通称 箱根駅伝)の往路第3區で日本大學(日大)が4人抜きの大活躍を見せたが、実は走者として登録されていない人力車夫を選手として出場させていたことが発覚。日大の順位成績取消は免れたものの、同大学は翌年(1926年)第7回大会の参加を辞退。

1925年5月5日(火) 加藤高明(かとう たかあき, 1860-1926; 外相在任1900-01; 1906; 1913; 1914-15; 首相在任1924-26; 東京帝國大學法科大學卒)内閣で衆議院議員選挙法(明治33年3月29日法律第73号)改正(通称「普通選挙法」)が公布され、25歳以上の男性にのみ納税額に無関係の普通選挙権が与えられる(女性の参政権獲得はこの二十年後の1945年)。この法律に則(のっと)り普通選挙(男子のみ)が実施されるのは、1928年2月20日(月)のこと。

1925年5月12日(火) 加藤高明(かとう たかあき, 1860-1926; 外相在任1900-01; 1906; 1913; 1914-15; 首相在任1924-26; 東京帝國大學法科大學卒)内閣で治安維持法(英訳 Public Security Preservation Law or Peace Preservation Law)が大正14年4月22日法律第46号として制定される。八年前の1917年に発生したロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図された。ちょうど一週間前に公布された衆議院議員選挙法と抱き合わせで「飴(アメ)と鞭(ムチ)」の法律と理解される。

1925年5月21日(木) 東京帝國大學農學部(在東京府荏原郡上目黑村駒場)の上野英三郎(うへの えいざぶらう; 資料によっては「ひでざぶらう」の読みもあり, 1872-1925; 帝國大學農科大學=現在の東京大学農学部卒)教授・農學博士(帝國大學)が講義中に脳内出血で倒れ病院に運ばれるも満53歳で病歿。なお、同年(1925年)12月3日(木)に満68歳で歿することになる実業家の上野榮三郎(うへの ゑいざぶらう, 1857-1925)は縁も所縁(ゆかり)も無い別人。上野教授は自宅のある東京府豊多摩郡澁谷町大字中澁谷大向834番地(現在の東京都渋谷区松濤一丁目)から同大學同學部の正門まで愛犬ハチ(周囲の書生たちはハチ公と呼ぶ)と毎朝一緒に歩き、頭を撫でてやるとハチはひとりで家に帰って行き、夕方になるとハチが正門前で待っていて上野教授を見ると嬉しくなって飛びつくという生活を送っていた。未亡人となった上野八重子(うへの やゑこ; 戸籍上は「坂野八重」, 18??-1961)夫人は故上野教授の両親に認められなかったために入籍しておらず戸籍上は事実婚状態で財産の相続ができず、子供もおらず、借家だった上野教授宅を出ることを余儀なくされた。やがてハチは親戚の家を転々とする。日本橋大傳馬町や淺草の親戚へ預けられるが、不憫に思った上野教授の教え子たちが亡き師への恩返しとして八重子夫人に東京府荏原郡弦巻村(東京都世田谷区弦巻)の住処を用意する。こうして八重子夫人とハチは弦巻に移り住むが、ハチは毎朝出掛けて行き、夕方になると帰ってくる。夫人は駒場の農學部正門に行っているのだとせつなく思っていたが、或(あ)る日のこと、ハチを澁谷驛で見かけたと知人に告げられる。ハチは過去の体験から、なかなか帰って来ないご主人様は澁谷驛を利用して出張していると思っていたのだった。弦巻に引っ越してからは澁谷驛まで5キロ余りの距離になってしまったことを不憫に思った八重子夫人は、上野教授の死後約二年半後の1927年秋、上野家に出入りしていた植木職人、小林菊三郎(こばやし きくさぶらう, 生歿年不詳)にハチを預ける。菊三郎の家は東京府豊多摩郡代々木富ヶ谷(現在の東京都渋谷区富ヶ谷)にあり澁谷驛までは1.5キロほどである。小林家に引き取られてからも、ハチは主人の帰りを待ちわびて澁谷驛へ通う。続きは約五年後の1932年10月4日(火)へ。(東京大学 農地環境工学研究室公式サイト内の2016年5月19日(木)付の記事「八重子夫人の青山霊園への合祀が実現しました。」 http://www.land.en.a.u-tokyo.ac.jp/hachiko/ueno.htm と、個人サイト「東京坂道ゆるラン」内の2018年3月22日(木)付のYASS_ASAI(本名非公開)署名コラム「【忠犬ハチ公秘話】待っていたのは駒場⁈像は二代目⁈」 https://sakamichi.tokyo/?p=11733 に依拠)

1925年5月23日(土) 11時09分47秒、兵庫縣で北但馬地震が発生。死者428人。

1925年7月27日(月) エドガー・バンクロフト(Edgar Bancroft, 1857-1925; ノックス大学卒、コロンビア大学法科大学院修了)駐日アメリカ大使が静養中の輕井澤(軽井沢)で病歿。大日本帝國政府は二年前の關東大震災に際してのアメリカ側の好意に報い、日米親善の意を込めて、同大使の遺骸を1925年8月6日(木)から23日(日)にかけて輕巡洋艦「多摩」に載せて丁重に故国アメリカへ送り届ける。

1925年~1927年(昭和2年)1月 大正天皇(たいしやぅ てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)の第二皇子、秩父宮雍仁親王(ちゝぶ の みや やすひと しんのう; Prince Chichibu, 1902-53)がオクスフオッド大学モードレン学寮(Magdalen College, Oxford)に遊学。

1925年9月20日(日) 当時大人気だった大学野球の「東京六大學野球聯盟」=通称「東京六大學リーグ」(後年の英称 Tokyo Big6 Baseball League)が、早稲田大學、慶應義塾大學、明治大學、法政大学、立教大學、官立東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学の前身)で発足した直後の開幕試合「明治対立教戦」が駒澤球場で開催される。結果は明治大學が立教大學を7対1で下す。

1925年10月19日(月) 二十二年前の1903年に開始されたが、その三年後の1906年に應援團(応援団)同士の過剰な応援合戦が問題になって以降中止になっていた硬式野球の早稲田大學對慶應義塾大學の対戦試合(早慶戰)が震災復興中の帝都東京市で十九年ぶりに再開。

1925年12月13日(日) 東海道本線の一部区間で電気機関車(電車)の運行が始まる。長距離列車としては日本初の電車。

1926年(大正15年)5月24日(月) 北海道で十勝岳が大噴火し、融雪による火山泥流が発生。死者・行方不明者144人。

1926年6月5日(土) 六年近く前の1920年(大正9年)9月に私塾日本女子髙等學院として開学していた私立學校日本女子髙等學校(現在の昭和女子大学の前身)と五年制の附属髙等女學部が、同じ東京府中野區内の東中野地區から上高田の新校舎へ移転

1926年(大正15年=昭和元年)12月25日(土) 震災復興の中で大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)が崩御(ほうぎょ)。即日「昭和」に改元。昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の治世が始まる。大正時代の一般人は昭和の「昭」の字に馴染(なじ)みが無く、「照」の字から烈火(れっか: 下部の4つの点)が取れた漢字に奇異な感を抱いたというが、以後は約三十年に亘(わた)り昭雄(あきお)や英昭(ひであき)や昭子(しょうこ; あきこ)や昭惠(あきえ)などの人名漢字として静かなブームとなり、「昭和」の名を冠した企業や学校も増えてゆく。

1927年(昭和2年)2月 八年四ヶ月前の1918年10月に初めて英国製戦車を輸入してその構造や性能を研究していた大日本帝國陸軍(IJA: Imperial Japanese Army)が大阪砲兵工廠で1925年6月に設計に着手してから一年九ヶ月で国産戦車第一号、その名も「試製一號戰車」を完成させる。設計に到るまでに六年半以上もの時間を要したのは、1923年9月に起きた関東大震災の影響が大きいものと思われる。(2018年10月19日(金)付の月刊PANZER編集部編「乗りものニュース」に依拠した上で加筆)

1927年春 昭和に改元されて間もないこの時期、東京府東京市(現在の東京都23区)内ではインフルエンザ患者が37万人に達し、10日間で死者690人。

1927年3月7日(月) 18時27分39秒、京都府で北丹後地震が発生。約3千人が死亡。

1927年3月14日(月) 片岡直溫(かたおか なおはる, 1859-1934; 蔵相在任1926-27)大蔵大臣(現在の財務大臣に相当)が第五十二囘帝國議會(現在の国会の前身)衆議院豫算委員會への答弁で「東京渡辺銀行が到頭(たう/\)破綻(はたん)を致(いた)しました。」と誤報を撒く。この大失言が直接の引き金と成り、資金繰りの悪化していた東京渡辺銀行(旧称 第二十七國立銀行)では取り付け騒ぎ(bank run)が発生し、本当に破綻してしまう。

1927年 四十七年前の1880年に私学としては日本最初の法律学校として開学していながら、その十三年後の1893年に法律科の生徒募集を停止し、經済科を中心とする教育機関とし、五年前の1922年に大學令により專修大學という正規の大学と成っていた專修大學(在東京府東京市神田區)に法學部が復活。(2020年9月25日(金)付の Urban Life Metro の教育ジャーナリスト中山まち子記者署名オンライン記事「私学で初の法律科を設置 米国留学のエリートが設立した「専修大学」とはどのような大学なのか」に依拠)

1927年4月19日(火) 東京女子髙等師範學校(現在の国立大学法人お茶の水女子大学の前身)敎授の保井コノ(やすい この, 1880-1971)が学位論文「日本產の亞炭、褐炭、瀝靑炭の構造に就て」(主論文「日本產石炭の植物學的硏究」他8本)によって東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学の前身)から博士號を授与される。日本の大学初の女性博士が誕生。なお、日本初の男性博士の誕生はこの三十九年前の1888年のこと。

(参考リンク)

http://archives.cf.ocha.ac.jp/researcher/yasui_kono.html

1927年7月 七年近く前の1920年(大正9年)9月に開学していた日本女子髙等學校(現在の昭和女子大学の前身)が財團法人日本女子髙等學院(現在の学校法人昭和女子大学の前身)を設立し、五年余り前の1922年4月に附設していた附属髙等女學部を昭和髙等女學校に改称。つまりこの時点で初めて新元号であった「昭和」の名を名乗るようになる。初代理事長に創立者の詩人 人見東明(ひとみ とぅめい, 1883-1974)こと、本名 人見圓吉(ひとみ ゑんきち, 1883-1974; 早稲田大學卒)。

1927年12月30日(金) 東京地下鐵道の淺草~上野驛間(現在の東京メトロ銀座線の一部区間に相当する浅草~上野駅間)が日本初の地下鉄として開業。1863年1月10日(土)にロンドンで開業した世界初の地下鉄に遅れること六十四年十一ヶ月と二十日。

1928年(昭和3年)2月20日(月) 三年前に公布された通称「普通選挙法」に則(のっとっ)た第16回衆議院議員総選挙で初の普通選挙が実施されるが、女性は政治から締め出された儘(まま)だった(女性の選挙参加はこの十八年後の1946年)。

1928年3月16日(金) 日本統治下台湾の都に臺北(たいほく)帝國大學が設立される。なお、日本撤退後の1945年11月15日(木)以降は中華民國國立臺灣大學に成る。臺北(台北)帝大は大阪帝國大學(現在の国立大学法人大阪大学の前身)より三年早く、名古屋帝國大學(現在の国立大学法人名古屋大学の前身)より十一年も早くに設立されたことになる。

1928年 大學令による上智大學が設立される。

1928年6月4日(月) 「滿洲某重大事件」と呼ばれた張作霖(ちょう さくりん; Chang Tso-lin; Zhāng Zuòlín, 1875–1928)爆殺事件が発生。大日本帝國陸軍關東軍の河本大作(こうもと だいさく, 1883-1955)大佐が首謀者と考えられ、現在では定説化しているが異説もある。1929年6月27日(木)に昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)から「お前の最初に言つた事と違ふぢやないか。」と叱責(しっせき)された田中義一(たなか ぎいち, 1864-1929; 首相在任1927-29; 陸軍大學校卒)陸軍大將・總理大臣は涙を流して恐懼(きょうく)し、同年(1929年)7月2日(火)に内閣総辞職。田中は辞任から三ヶ月も経ていない同年(1929年)9月29日(日)に急性の狭心症で病歿。

1928年7月28日(土)~8月12日(日) オランダ王国の首都でアムステルダム夏季オリムピック(戦後は「オリンピック」のカタカナ表記が定着)大会が開催される。日本體育專門學校(現在の日本体育大学の前身)がオリムピック競技大会(八年後の1936年ベルリン大会以降は新聞の文字数制限に対応した「五輪」の漢字表記も登場)に初めて選手と役員を一人ずつ派遣。それ以降、敗戦直後のために参加できなかった1948年ロンドン大会と、アメリカに倣(なら)って参加をボイコットした1980年モスクワ大会を除いた全ての夏季オリンピック大会に、同大学は学生や卒業生や職員を派遣。

1929年(昭和4年)4月 四十八年前の1881年に東京職工學校として開校し、1890年に東京工業學校に改称し、1901年に東京髙等工業學校に改称していた学校が正式な大学に昇格し、東京工業大學(通称 東工大; 現在の国立大学法人東京工業大学の前身)に改称。五年半前の1923年9月1日(土)に起きていた関東大震災の影響で大学昇格が当初の予定より大幅に遅れた。

1929年 英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の第三王子(三男)であるグロウスター公ヘンリー王子(Prince Henry, Duke of Gloucester, 1900-74)が英国最高位のガーター勲章(Order of the Garter)を昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)に届けるために国賓(state guest)として訪日。

1929年10月24日(木) ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落(暗黒の木曜日)。世界恐慌へ。日本でも昭和恐慌。日本は軍國主義の道へ。

1930年(昭和5年)1月21日(火)~4月22日(火) 英首相マクドナルド(Ramsay MacDonald, 1866-1937; 首相在任1924 & 1929-35; ロンドン大学バーベック学寮卒)の提唱で、ロンドン海軍軍縮会議(London Naval Conference)が第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)の戦勝国である五大海軍国(当時の海軍力の順で英米日仏伊)の間で開催される。ロンドン海軍軍縮条約(Treaty for the Limitation and Reduction of Naval Armament)、通称 ロンドン海軍条約(London Naval Treaty)が締結される。

1930年3月27日(木)、日本統治下の台湾の霧社で先住少数民族タイヤル人が武装蜂起し、300人ほどが霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。これに対し日本側は大砲や機関銃、航空機、毒ガス弾のルイサイトといった近代兵器を用いて 暴動部族を制圧した。戦闘の中で、700人ほどの暴徒が死亡もしくは自殺し、日本側も兵士22人、警察官6人、味方蕃(日本軍に協力した原住民のこ と)21人が戦死した。

(参考)外部サイト

http://ja.wikipedia.org/wiki/台湾霧社事件

1930年~’31年 亡き大正天皇(たいしゃぅ てんのう; たいしょう てんのう, 1879-1926; 在位1912-26)の第三皇男子(三男)で、昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の弟にあたる高松宮宣仁親王(たかまつ の みや のぶひと しんのう; Nobuhito, Prince Takamatsu, 1905-87; 海軍兵學校卒)=25歳が兄・昭和天皇の名代(みょうだい)として14ヶ月に亘(わた)って欧米各国を周遊訪問。同年(1930年)2月に結婚したばかりの新妻、喜久子(きくこ, 1911-2004; 女子學習院本科卒)妃=20歳を伴なった新婚旅行としての側面もあった。同年(1930年)7月には英国ドーヴァー港(Dover, Kent)、続いて鉄道で英京倫敦ヴィクトリア駅(Victoria Station, London, UK)に到着。プラットフォームで待ち受けていたのは、英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の第二王子(次男)ヨーク公アルバート王子(Prince Albert, Duke of York, 1895-1952)=後の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)と、国王の第一王女(長女)メアリー王女(Mary, Princess Royal and Countess of Harewood, 1897-1965)と、国王の第四王子(四男)ケント公ジョージ王子(Prince George, Duke of Kent, 1902-42)である。前年(1929年)に国王の第三王子(三男)グロウスター公ヘンリー王子(Prince Henry, Duke of Gloucester, 1900-74)が英国最高位のガーター勲章(Order of the Garter)を昭和天皇に届けるためにわざわざ訪日したことに対する返礼の意味もあった。高松宮夫妻の訪英は国賓訪問(state visit)とされ、英王族から歓待を受ける。なお、喜久子妃は德川慶久(とくがは よしひさ; とくがわ よしひさ, 有職(ゆうしょく)読みで「けいきゅう」, 1884-1922; 東京帝國大學法科大學卒)公爵・貴族院議員の令嬢。つまりは十五代將軍德川慶喜(とくがは よしのぶ; とくがわ よしのぶ, 有職(ゆうしょく)読みで「けいき」, 1837-1913; 征夷大將軍在任1867-68)の孫娘が明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)の孫に当たる宮様に嫁入りしたということで、当時の日本では「公武合体(こぅぶ がつたい)」として話題になった結婚である。

(動画)当時のイギリス側のニュース映画 https://www.youtube.com/watch?v=EoLLrDo4z_U

1930年6月26日(木) 九年前の1921年に歓待してくれた英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)が、昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)に英国陸軍元帥(Field Marshall of the British Army)の名誉称号を贈る( https://www.thegazette.co.uk/London/issue/33619/page/4028 )。

1930年秋~’31年(昭和6年) 日本史上初とされる豊作飢饉である「昭和農業恐慌」が起こる。豊作飢饉とは、豊作であるにも拘(かか)わらず作物価格の下落などで飢饉時と同様に農家収入が大幅に減少することを指す。米価下落の原因には日本領朝鮮・臺灣(台湾)からの安価な米(コメ)が流入した影響もあった。前年(1929年)に起こった世界恐慌による米国民の窮乏化により、生糸の対米輸出が激減したことで生糸価格が暴落し、他の農産物も次々と価格が下落。井上準之助(いのうへ じゆんのすけ, 1869-1932; 帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)大蔵大臣(現在の財務大臣に相当)のデフレ政策と1930年の豊作による米価下落により農業恐慌は本格化。米(コメ)と繭(まゆ)の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入減を絶たれ、壊滅的な打撃を受けた。

1930年11月14日(金) 8:58、濱口雄幸(はまぐち をさち; はまぐち おさち, 1870-1931; 首相在任1929-31; 帝國大學法科=現在の東京大学法学部卒)内閣總理大臣が9:00発の特急「燕(つばめ)」の1号車に向かって東京驛第4プラットフォーム(ホーム)を移動中、玄洋社系右翼團体「愛國社」構成員で前科者の佐郷屋留雄(さごうや とめお, 1908-1972)に至近距離から狙撃される。しかしながら、驛長室に運び込まれた濱口首相は駆けつけた東京帝國大學醫學部外科學主任教授兼私立日本醫科大學々長の塩田廣重(しほた ひろしげ; しおた ひろしげ, 1873-1965; 東京帝國大學醫學部卒)の手によって当時は新奇だった輸血(blood transfusion)が施(ほどこ)され、様態の安定に伴ない、東京帝國大學醫學部附属病院に搬送され、同病院にて腸の30%を摘出する大手術を受けて一命を取り留める。世に言う「濱口首相遭難事件」。濱口の療養中は幣原喜重郎(しではら きぢゆぅらう; しではら きじゅうろう, 1872-1951; 首相在任1945-46)外務大臣が臨時首相を兼務。濱口は身体の極度の衰えから翌年(1931年)4月14日(火)に首相職を辞任し、8月26日(水)に死去。死因は狙撃事件で受けた傷口に細菌が侵入して化膿したことによる。犯人の佐郷屋(さごうや)は1933年に殺人罪により死刑判決を受けるも翌年(1934年)恩赦(おんしゃ: amnesty)で無期懲役に減刑され、1940年には仮出所している。そして1972年に満63歳で当時としては長寿を全(まっと)うすることになる。

1930年11月26日(水) 4時2分46.9秒、北伊豆地震が発生。死者・行方不明者272人。

1931年(昭和6年) 大阪醫科大學を母体に醫學部と理學部の僅か2学部から成る大阪帝國大學(現在の国立大学法人大阪大学の前身が設立される。

1931年5月18日(月) 東京六大学野球春季リーグの慶應義塾大學対明治大學2回戦で、世に言う「八十川(やそがは; やそがわ)ボーク事件」が発生。明治の二番手投手である八十川胖(やそがわ ゆたか, 1909-1990)の牽制球(けんせいきゅう)動作をめぐって両校の応援団の間で大乱闘と成る。八十川投手が8回裏一死一三塁で、 三塁に牽制すると見せかけて一塁に投げた。慶大の抗議でこれがボークにとられ、結局6-7で敗れたが、試合後に明大生が慶大の選手や、審判に乱暴したことから騒ぎが大きくなり、 明大はリーグ戦途中から出場を辞退する羽目になる。この問題で審判団も対立した挙句に全員が辞職したため、専属審判制度は廃止となる。約二年半後の1933年10月22日(日)の早慶戦で発生することになる「水原リンゴ事件」と並ぶ東京六大学野球二大不祥事として記録されている。(明治大学野球部史公式ウェブサイトに依拠)

1931年9月18日(金) 柳条湖事件を引き金に日本の關東軍(くゎんとぅぐん; 英称 Kwantung Army)と中華民國軍との間に宣戦布告なき滿洲事變(満州事変)が勃発。

1931年9月21日(月) 西埼玉地震が発生。死者11人。

1931年10月 官立東京商科大學(現在の国立大学法人一橋大学の前身の豫科・商學專門部を文部省(現在の文部科学省)が文教予算削減のために廃止する案が出ていることを同年10月1日(木)付の東京日日新聞(現在の毎日新聞)がスクープし、同大学学生たちによる籠城(ろうじょう)事件が発生。東京市神田區一ツ橋(現在の東京都千代田区一ツ橋)の校舎を学生たちが占拠し、抗議運動を展開。学生の中には警官と衝突して逮捕される者も出る。全学生2,000名が総退学を決議したため政府は遂(つい)に折れて、商大豫科・商學專門部の廃止を取りやめた。この事件は1908年から’09年にかけて同大学で起きた申酉事件(しんゆう じけん)に準(なぞら)えて「第二の申酉事件とも呼ばれる。

1931年11月30日(月) 国際世論の反応を気にした若槻禮次郎(わかつき れいじらう, 1866-1949; 首相在任1926-27 & 1931; 帝國大學法科大學=現在の国立大学法人東京大学法学部卒)内閣の命令で大日本帝國陸軍關東軍が錦州城への攻撃の手を止めて撤退。滿洲事變(満州事変)が収束に向かう。

1932年(昭和7年)1月23日(土) 日本女子大學校(現在の日本女子大学の前身)講堂で文藝會の英語劇を上演中、暗くなった会場に反帝國主義(反帝)ビラが撒(ま)かれる。この事件で数人の女学生が思想犯として警察に連行される。(日本女子大学『日本女子大学英文学科七十年史』(1976年)と、2020年12月20日(日)付の文春オンラインの小池新(こいけ あたらし, b.1947)立教大学兼任講師署名オンライン記事に依拠)

1932年1月28日(木)~3月3日(木) 第一次上海事變。上海共同租界(Shanghai International Settlement)周辺で日本軍(主に海軍)と中華民國軍の間で戦闘が続く。停戦交渉は同年3月24日(木)から5月5日(木)。

1932年2月9日(火) 自称「日蓮宗僧侶」井上日召(いのうへ につせう, 1886-1967; 早稲田大學中退)による「血盟團事件」で一人目の犠牲者が出る。前大蔵大臣(現在の財務大臣に相当)で野党第一党の民政党幹事長井上準之助(いのうへ じゆんのすけ, 1869-1932; 帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)が選挙の応援演説のため東京市本鄕區(現在の東京都文京区本郷)の駒本小學校を訪れた際、自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺部隊の一人である小沼正(おぬま しやう, 1911-78; 茨城縣の地元の尋常小學校髙等科卒)が近づいて懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上幹事長に背後から銃弾を3発(一説には5発)撃ち込んだ。小沼は駒込署員に現行犯逮捕され、井上幹事長は病院に急送されたが絶命した。

1932年2月18日(木) 滿洲の中華民國からの独立が、事実上日本によって宣言される。

1932年2月29日(月) 英国貴族のリットン卿(Lord Lytton)こと、第二代リットン伯爵ヴィクター・アレグザンダー・ジョージ・ロバート・ブゥルワー=リットン(Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton, 2nd Earl of Lytton, KG, GCSI, GCIE, PC, DL, 1876-1947; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)を団長とする日支紛争調査委員会(世に言う「リットン調査團」)が、帝都東京に到着(再度同年7月4日(月)にも東京着)。以後4ヶ月に亘(わた)り、日本本土(Japan proper)、滿洲(Manchuria)、支那(China)各地で実地調査に着手。滿洲國(Manchukuo)の建国宣言が出されたのは、調査団が満洲へ赴く直前の同年(1932年)3月1日(火)のことである。關東軍としては、占領政策を分離独立にすり替えるべく、その既成事実化を狙ってのことだった。調査団による報告書が國際聯盟(League of Nations)に提出されるのは同年(1932年)10月のこと。その内容は、關東軍の駐留は決して日本人居留民の自衛のためではないこと、滿洲國の建国はその地に暮らす現地人による自発的なものではないことを明らかにしたもので、國際聯盟に訴えた中華民國(ROC: Republic of China)側の主張を大筋で認めるものだった。しかしながら、同時に滿洲に日本がこれまで築き上げてきた権益や居住権などは認めるべきであり、日本が滿洲の近代化に果たす役割は大きいとし、日本の特殊権益を大いに擁護する内容でもあった。当時の日本は英仏伊と共に戦勝四ヶ国から成る國際聯盟常任理事国の一つであったことから、聯盟も日本の立場に譲歩していた。つまり關東軍を本来の鉄道附属地の警備という任務にだけ限定し、滿洲國などという主権を伴なう新生国家ではなく、飽(あ)くまでも日本が経済発展に寄与する形での相互補完的な国造りを担うならば、これまで同様に日本の特権的立場を認めるとする妥協的な判断であった。共産国家ソ連の脅威に対峙でき、日本の経済にも大きく寄与することができるという國際聯盟提案の妥協点を日本は受け入れることができなかった。

1932年3月1日(火) 日本の傀儡(かいらい)国家(puppet state)としての滿洲國(満州国; 英称 Manchukuo)が日本支配下朝鮮の北(現在の中国東北部)に正式に建国され、日本は国際的な非難を浴びる。滿洲國の執政として清朝最後の皇帝(所謂(いわゆる)“the Last Emperor”)の愛新覺羅溥儀(あいしんかくら ふぎ; Pu Yi of the Aisin Gioro clan, 1906-1967; 清朝皇帝在位1908-12 & 1917; 滿洲帝國皇帝在位1934-45)が日本の關東軍(くゎんとぅぐん; 英称 Kwantung Army)によって担ぎ出される。

1932年3月5日(土) 「一人一殺(いちにん いっさつ)」を唱える自称「日蓮宗僧侶」井上日召(いのうへ につせう, 1886-1967; 早稲田大學中退)による「血盟團事件」で二人目の犠牲者が出る。三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨(だん たくま, 1858-1932; 米マサチューセッツ工科大学卒)男爵が東京市日本橋區(現在の東京都中央区日本橋室町)に在る三井銀行本店(現在の三井本館)に出勤してきた際、玄関前で待ち伏せしていた戦後の茨城県議菱沼五郎(ひしぬま ごろう, 1912-1990; 岩倉鐡道學校、現岩倉高等学校卒)にピストルで射殺される。

1932年3月11日(金) 「一人一殺(いちにん いっさつ)」を唱え、同年2月9日(火)と3月5日(土)に起きた「血盟團事件」で指導的な役割を果たした自称「日蓮宗僧侶」井上日召(いのうへ につせう, 1886-1967; 早稲田大學中退)が警察に出頭し、その後、帝大七生社(ていだい しちせいしや)の四元義隆(よつもと よしたか, 1908-2004; 東京帝國大學中退)などの関係者14名が一斉に逮捕される。

1932年5月14日(土) 初来日した英国籍の喜劇王チャップリン(Sir Charles Spencer “Charlie” Chaplin, 1889-1977)を一目見ようと、東京驛の赤煉瓦驛舎に推定4万人の群衆が詰めかける。なお、チャップリンはその後も1936年3月(二・二六事件の直後)と5月、そして戦後の1961年7月にも来日したので、生涯に合計四度の来日を果たすことになる。

1932年5月15日(日) 五・一五事件が発生。17:30頃、海軍青年將校と陸軍士官候補生の一団が、ピストルを振りかざして總理公邸に乱入。内閣總理大臣犬養毅(いぬかひ つよし, 1855-1932; 首相在任1931-32; 慶應義塾中退)はピストルで撃たれたが、落ち着いた態度で、「話せば分かる。」と最後まで言論で説得しようとした。しかし同日23:26に絶命した。その日は来日中の英国籍の喜劇王チャップリン(Sir Charles Spencer “Charlie” Chaplin, 1889-1977)が首相官邸の歓迎会に出席することになっていた。海軍の謀叛人たちはチャップリンのことを「日本に頽廃(たいはい)文化を流した元兇」であるとし、また米国人と勘違いもしていたため、チャップリンの暗殺をも同時に企(くわだ)て、以(もっ)て日米関係を険悪にしようと画策(かくさく)した。ところがチャップリンは日本出身の個人秘書(元運転手)である高野虎市(たかの とらいち, 1885-1971)から青年将校どもの不穏な動きについて事前に聴き及び、歓迎会をキャンセルして、代わりに帝國ホテル(Imperial Hotel, Tokyo)で犬養首相の子息と会食していたため難を逃れた。秘書の高野はチャップリンに乗用車から降りて宮城(きうじやう: 皇居のこと)に向かって會釋拜禮(会釈拝礼)するよう要請し、チャップリンは不可解な要請だと思いつつも、高野の勢いに押され、車外に出て会釈した。これは突然の総理暗殺事件で緊迫した帝都東京でチャップリンの印象を良くしようと考えた高野の思いつきだった。首相自身は死亡したが、犬養内閣は同年(1932年)5月26日(木)まで存続した。

1932年9月15日(木) 日本が滿洲國(満州国; 英称 Manchukuo)を正式に承認。伊西独波洪など十八ヶ国が日本に続く。

1932年9月16日(金) 南滿洲鐵道(満鉄)の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊がゲリラ掃討作戦を行なった際、近くの平頂山集落の中国人住民を大量虐殺。被害者数は400名から800名(日本側の説)、或(ある)いは3千名(中共側の説)と言われる。

(参考)外部サイト

http://ja.wikipedia.org/wiki/平頂山事件

1932年10月4日(火)付の東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社の前身)朝刊が七年余り前の1925年5月21日(木)に満53歳で急死した上野英三郎(うへの えいざぶらう; 資料によっては「ひでざぶらう」の読みもあり, 1872-1925; 帝國大學農科大學=現在の東京大学農学部卒)教授・農學博士(帝國大學)の愛犬ハチ公のことを「いとしや老犬物語 今は世になき主人の歸りを 待ち兼ねる七年間」と見出しをつけ、忠君愛國の象徴として初掲載。この記事でハチ公は、たちまち全国区の人気者となり、これを軍部が利用。「忠犬ハチ公」の忠だけがひとり歩きし、「忠犬ハチ公物語」が尋常小學校國定敎科書に掲載される。ハチ公の銅像を作ろうという機運が一気に高まり、募金運動が開始され、日本各地から手紙と金銭が送られてくるようになる。ハチ公人気にあやかろうとする便乗商売が出てきて、ハチ公の木像を作るという詐欺まがいの輩が現れるが、これに対抗していち早く銅像を作ろうとハチの生前に銅像は完成し、新聞掲載から二年後の1934年4月21日(土)に澁谷驛前に設置され、当初から人気の待ち合わせスポットとなる。(個人サイト「東京坂道ゆるラン」内の2018年3月22日(木)付のYASS_ASAI(本名非公開)署名コラム「【忠犬ハチ公秘話】待っていたのは駒場⁈像は二代目⁈」 https://sakamichi.tokyo/?p=11733 に依拠)

1932年12月16日(金) 9:15頃~12:00過ぎ、日本初の高層ビル火災。世に言う「白木屋大火」。東京日本橋の白木屋(しろきや)百貨店で火災が発生し、死者14人、負傷者67人(軽傷者も含めれば約500人)を出し、大きな社会問題となる。開店前の点検でクリスマスツリー(Christmas tree)の豆電球の故障を発見し、開店直後に男性社員が修理しようとした際に誤って電線がソケットに触れたためスパーク(spark)による火花が飛び散り、クリスマスツリーに着火。出火と同時に店内に居た客や店員ら併せて約2千人は、急いで上階へ逃げるも煙に遮られて逃げきれない者も出る。警視庁消防部のポンプ車29台が出動し、梯子(はしご)車3台が梯子(はしご)を延ばすも4階までしか届かず、5~8階には役に立たず。7階の食堂に居た約70人の女給たち(waitresses: 当時多くは未成年)は、地上に張られた救助網を目がけて飛び降り、多くは助かる。火災は8階まで焼き尽くし、3時間後に漸(ようや)く鎮火する。計14人の死者のうち13人が店員で、そのうち7人が女性。女性たちは「腰巻き」をした和服姿だったことが高い死亡率の一因と言われている。猛火に追われ、5・6階の窓からロープを伝って逃げ降りる際、吹き上げる煙に巻かれて着物の裾がまくれ、下で見ていた野次馬に無防備な下半身を晒すのを潔しとはせず、慌てて裾を抑えようとして転落してしまったのだった。当の白木屋は大火から八日後の同年(1932年)12月24日(土)、全店員が「御同情御禮」の襷(たすき)をかけて営業を再開。白木屋の経営陣はこの大火を教訓として、女性店員に対してズロース(英単語 drawers (ドローワーズ)が転訛(てんか)した一般的なパンツより丈が長めで半ズボン型のゆったりとした作りの下着のこと)を履くよう厳命し、できるだけ和服ではなく洋服を着用するよう推奨。他企業に努める女性の間でも洋装化の波が押し寄せる。東京市下では女性のズロースが売れ出し、品薄になったとも言われるが、本当に売れに売れたのは戦後のことである。跡地には戦後長らく東急百貨店日本橋店が在ったが、2004年からは商業ビル「コレド日本橋」(Coredo Nihombashi)が営業している。(2020年9月27日(日)付のヤフーニュースに転載された Urban Metro Life のノンフィクション作家合田一道(ごうだ いちどう, b.1934)署名オンライン記事に依拠したうえで加筆)

1932年12月~1933年(昭和8年)5月 同年(1932年)2月から3月にかけて起きた「血盟團事件」の刑事裁判で、東京地方裁判所(東京地裁)で公判を12回開いていた酒巻貞一郎裁判長が健康上の理由で同年(1932年)12月9日(金)付で辞表を提出し、同年(1932年)12月13日(火)に藤井五一郎(ふじい ごいちろう1892-1969; 東京帝國大學卒)が新たに裁判長になり、向こう六ヶ月の間に公判を62回も開く。その様子が新聞やラヂオで報道されると、国民は被告人たちの主張に共感するようになり、東京地裁には被告人たちに対する減刑嘆願書が約30万通も寄せられた(ちなみに同年に起こった五・一五事件では117万通もの減刑嘆願書が、被告人たちは誰一人として死刑に処されなかった)。当時の日本国民の間にテロを容認・正当化する時代の空気が存在したとは、宗教学者の島田裕巳(しまだ ひろみ, b.1953; 東京大学卒、同大学修士、同大学博士満期退学)氏の言。これが判決に影響を与え、「一人一殺(いちにん いっさつ)」を唱えた首謀者の自称「日蓮宗僧侶」井上日召(いのうへ につせう, 1886-1967 早稲田大學中退)と実行犯の小沼正(おぬま しやう, 1911-78; 茨城縣の地元の尋常小學校髙等科卒)と菱沼五郎(ひしぬま ごろう, 1912-1990; 岩倉鐡道學校、現岩倉高等学校卒)には無期懲役、事件に連座した四元義隆(よつもと よしたか, 1908-2004; 東京帝國大學中退)と古内榮司(ふるうち えいじ, 1901-歿年不詳; 茨城縣師範學校=後の茨城師範學校=現在の茨城大学教育学部卒)には懲役十五年、他の被告については懲役三年から八年という具合に実に寛大な判決になった。被告人たちは感激に身を震わせ、頭を低く垂れた。藤井裁判長は最後に「若(も)し刑が決(きま)つて服罪(ふくざい)するならみんな體(からだ)を丈夫(じやうぶ)にして、、、」と言いかけたが、語尾がはっきりせず、唇を噛んで面を伏せて泣き崩れたという。判決から七年近くが経過した1940年2月11日(日・祝)の紀元二千六百年奉祝行事の恩赦(おんしゃ)で多数の受刑者とともに世に放たれたため、無期懲役の3人も僅(わず)かな刑期で出獄が許されてしまう

(参考書)

島田裕巳 『八紘一宇(はっこう いちう) 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』(幻冬舎新書, 2015年)

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4344983831/ref=cm_cr_dp_see_all_summary?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=helpful

1933年(昭和8年)2月 伊豆大島女学生投身自殺事件とその波紋

1933年(昭和8年)2月12日(日)の朝に元村(現在の元町港)に入港した東京灣汽船(現在の東海汽船の前身)菊丸から伊豆大島に上陸した私立實踐高等女學校專門部國文科(現在の実践女子大学文学部国文学科の前身)2年次在学中の2生徒が、その足で登山路を行き、同日昼頃そのうちの1人が三原山噴火口に飛び込み自殺を遂げるが、もう1人は噴火口監視員に発見され、元村へ一緒に下山し、警視廳大島分署に保護される。自殺を遂げたのは松本貴代子(まつもと きよこ, 1911?-33)嬢=21歳で、保護されたのは富田昌子(とみた まさこ, 1911?-歿年不詳)嬢=21歳である。自殺した貴代子は實踐高等女學校の文藝誌『祖思樹』や『草の實』に和歌を投稿し、李太白(り たいはく; Lǐ Tàibái; Li Po, 701-62)を模した松本太白(まつもと たいはく)の筆名で漢詩を作る文学少女だった。前日(1933年2月11日(土・祝))の紀元節の式典を学校で済ませて東京府東京市本鄕區駒込千駄木町14番地(現在の東京都文京区千駄木)の自宅に帰宅し、正午過ぎに「友人のもとへ行く」と言って出かける際に父親の松本市太郎(まつもと いちたらう, 1863?-歿年不詳)氏=69歳から「親に心配をかけないでくれ」と言われたところ、「雲のやうなものです」と答えていた。母親は死別しているのか離婚しているのか不明だが不在である。家出の数日前に父親に「三原山の煙を見たら私の位牌だと思つて下さい」と言っていたという。私立淑德高等女學校(現在の淑徳中学校・高等学校の前身)時代には「十九歳になつたら死ぬ」「自分の死體は人の前にさらしたくない」と言っていたとされ、極端な結婚否認論者でもあったという。そして年老いて足腰の立たなくなった同居人の乳母の姿を見るのが嫌で、自宅で朝食を摂るのもやめていたとのこと。

東京都大島町公式ウェブサイト「大島小史」( https://www.town.oshima.tokyo.jp/soshiki/seisaku/s2.html )の昭和8年(1933年)の項目に、「実践女学校生が1月と2月に相次ぎ三原山火口に投身自殺。2件に同じ同級生が立会ったことでセンセーショナルに報道され、この年だけで129人が火口へ投身自殺。」とある。しかしながら、同年(1933年)1月の事件については朝日新聞のデータベース「聞蔵(きくぞう)」で確認できないが、一つだけヒントはある。

「外(ほか)の新聞を見ると昌子(まさこ)といふ人(ひと)は、貴代子(きよこ)さんの前に、やはり親(しん)友が三原(みはら)山へ自殺(じさつ)に行(い)つたのに連立(つれだ)つてゐるやうですが、かうなるとなんだか探偵小說にでも登場しさうな性格破產者(註: 現代語で言う「性格破綻者」)みたいに思(おも)へさうですね。」と流行作家の古屋信子(ふるや のぶこ, 1896-1973)は東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社の前身)の取材に語っている。

この富田昌子に興味を持った作家の高橋たか子(たかはし たかこ, 1932-2013)=本名 高橋和子(たかはし たかこ, 1932-2013)は四十三年後の1976年6月に小説『誘惑者』(講談社, 1976年)を上梓することになる。文庫版(講談社文庫, 1983年)の惹句(じゃっく)には「噴煙噴き上げる春まだ浅い三原山。自殺願望のある若い女性に同行し、底知れぬ火口に向かって投身させた自殺幇助者の京大生・鳥居哲代。実際の事件をモチーフに、自殺者と自殺幇助者になっていく軌跡を描いた壮絶な魂のドラマ。」とある。戦前の事件を戦後間もない1950年に置き換えて書かれた小説であり、第4回(1976年度)泉鏡花文学賞(石川県金沢市主催)を受賞している。P+D Books版(小学館, 2019年)の惹句には、「実際の事件をモチーフに描く“自殺者と自殺幇助者”の魂のドラマ [改行] 噴煙噴き上げる春まだ浅い三原山に、女子大生がふたり登っていった。だが、その後、夜更けに下山してきたのは、なぜかひとりだけ—。遡ること一ヶ月前、同様の光景があり、ひとり下山した女子大生は同一人物だった。自殺願望の若い女性ふたりに、三原山まで同行して、底知れぬ火口に向かって投身させた自殺幇助者の京大生・鳥居哲代。生きていることに倦んだ高学歴の女学生たちの心理を精緻に描き、自殺者と自殺幇助者になっていく軌跡をミステリー風に仕立てた凄絶な魂のドラマ。高橋たか子の初期長編代表作で第4回泉鏡花賞を受賞。」とある。主人公は国立旧制京都大学文学部心理学科1年次在学中(関西風の言い回しで「1回生」)で、自殺する2人は私立同志社大学文学部英文科1年次在学中(関西風の言い回しで「1回生」)であり、3人は大学へ入る前に同志社女子専門学校(現在の同志社女子大学の前身)英文科で同級生だったという設定である。小説に描かれた戦後京都の学生生活は作者の高橋たか子自身が京大での学生時代に体験した出来事が色濃く反映されているようであり、実際に事件を起こした帝都東京の實踐高等女學校の学園生活とはかけ離れたものとなっている。

この長篇小説に基づき板谷全子(いたや ぜんこ?, 生歿年不詳)が脚色し、1977年2月4日(金) 21:05~22:00にはNHKラジオ第1放送でR1文芸劇場・現代日本文学シリーズ1「誘惑者」( http://mezala.la.coocan.jp/radiodrama/rd1977.html )が放送されている。主人公の鳥居哲世(とりい てつよ, b.1930)=20歳を演じたのは岸田今日子(きしだ きょうこ, b.1930-2006; 自由学園中等科・高等科女子部卒)=46歳である。奇(く)しくも小説の設定と同じ昭和5年(1930年)生まれであった。

この事件の翌日(1933年2月13日(月))10:00には三原山で心中願望のあった群馬縣の若い男女が保護されていて、同年(1933年)2月17日(金) 7:00頃には教員が吹雪の三原山で遭難死している。同年(1933年)2月18日(土) 10:00頃、東京府東京市澁谷區と淀橋區(現在の新宿区)在住の心中願望があった男女が保護され、同日(1933年2月18日(土))14:00頃には自動車運転助手で轢(ひ)き逃げ事件を起こして逃走中の男が三原山で自殺しようとしていたところ、身柄を拘束されている。同年(1933年)2月20日(月) 17:00頃には私立早稲田大學政經科專門部(現在の早稲田大学政治経済学部の前身)2年次在学中の21歳が神奈川縣葉山町長柄山腹で血塗れとなって苦悶しているところを発見され一命を取りとめているが、三日前の同年(1933年)2月17日(金)に三原山で自殺を果たそうとして出来ずにいて、葉山で発見された時には伊豆大島の椿油や羊羹(ようかん)等の土産物を所持していたという。同年(1933年)2月21日(火) 10:30頃には20歳の酒店雇人(barman; bar tender)が噴火口へ投身自殺を遂げ、同日(1933年2月21日(火))時刻不詳には29歳の食品店員が監視人に取り押さえられ警視廳大島署で保護されている。同年(1933年)2月22日(水)には私立獨逸學協會中學校(東京朝日新聞の報道では誤って「ドイツ協會中學」と「ドイツ學協會中學」; 現在の獨協中学校・高等学校の前身)生徒1人と私立本鄕中學校(現在の本郷中学校・高等学校の前身)生徒2人の計3人が男子だけで心中を企てて宿で話し合っていたところを立ち聞きされ保護されている。同年(1933年)2月25日(土) 11:30頃には東京府東京市王子區(現在の東京都北区)の職業不詳の24歳が自殺願望を抱いて火口附近に佇(たたず)んでいるところを見張り人に見つかり保護されている。同年(1933年)2月27日(月)朝には東京府東京市目黑區在住の19歳の京橋郵便局員が、同じく東京府東京市目黑區在住の幼馴染で右脚の無い18歳の女性と、それに往路の船中で若い男女に痛く同情した東京府東京市四谷區(現在の東京都新宿区)在住の17歳のホテル会計係と一緒に三原山噴火口へ3人で投身自殺を計ろうとして保護されている。郵便局員は兄から不具者(現代語で言う身障者)との交際を反対されたことを苦にしていたという。同年(1933年)2月26日(日) 10:00頃には官立浦和高等學校(現在の国立大学法人埼玉大学の前身)理乙1年次在学中の19歳生徒が三原山噴火口へ投身自殺している。同年(1933年)2月28日(火)には自殺の恐れがあるとして警視廳大島署で保護されていた神奈川縣都筑郡(現在の神奈川県横浜市都筑区)在住の25歳男性が、引き取りに来た実兄と義兄の2人に「折角(せつかく)遠い所へ船にまで乘つて來たのだから音に名高い御神火(ごじんか)を見物しよう」と提案し、3人で登山したところ、当人は噴火口へ蛙(カエル)のように跳んで投身自殺を遂げたという。同日(1933年2月28日(火))には明治製菓會社(現在の株式会社明治の前身)の26歳技術員の男性が数人の噴火口見物人が居る前で走り幅跳びして投身自殺を遂げている。脱ぎ捨てた上着のポケット内に同社の辞令が入っていたことから身許(みもと)が判明した。更(さら)に同日(1933年2月28日(火))には私立日本大學專門部醫學科(現在の日本大学医学部医学科の前身)2年次在学中の25歳学生が投身自殺を躊躇し、火口附近をうろついていたところをキリスト教信徒の男性に説諭され、下山後に警視廳大島署に保護されている。同年(1933年)3月2日(木)付の東京朝日新聞夕刊2頁の記事「三原山患者激増に大島署からSOS 警視廳へ增員を申請」には、「華(け)嚴(ごん)の瀧(たき)と淺(あさ)間(ま)山のお株(かぶ)を奪(うば)つて全く流(りう)行(こう)の死場(ば)所(しょ)と化した伊(い)豆(ず)の大(おほ)島三原(はら)山、便(びん)船(せん)毎に連(れん)日(じつ)一組(くみ)や二組(くみ)の自(じ)殺(さつ)病患(かん)者が押(お)しかけないことはなく、火口(こう)の監(かん)視(し)人(にん)も警(けい)戒(かい)の責(せき)任(にん)を持(も)つ大(おほ)島署(しよ)でも寸時も目がはなせずつひに大(おほ)島署(しよ)がSOSを發(はつ)し警(けい)視(し)廳(てう)警(けい)務(む)部(ぶ)に至(し)急增(ぞう)員(いん)を申(しん)請(せい)して來(き)た(後略)」とある。また、翌日(1933年3月3日(金))付の東京朝日新聞朝刊が伝えるところによると、同年(1933年)3月2日(木)朝の菊丸で上陸した約60人の訪問客が挙(こぞ)って三原山に登山し、その中でも年恰好が34~35位の洋服の男と、40歳位の和服の男の挙動が不審なため、見張り人が「余り火口に近づかぬやう」と注意を促したが、霧がかかった際に和服の男が火口に飛び込み自殺を遂げる。残していった羽織に名刺が見つかり、「世田谷區新町二ノ二二四 村松修一」とあり、「この羽織と紙いれを栗原へ渡して下さい」という文言が書かれた紙と、「淺草區吉原江戸町一ノ一二六 德金方 栗原きぬ」宛に「親樣を大切に」とあった。ところが実在の村松修一氏は自動車運転手であり、同日16:00には仕事から帰宅しており、自殺者とは別人と判明する。「栗原きぬ」とは、新吉原江戸町の德兼楼の娼妓「浦舟」のことであり、「村松といふ人は知りませんがそれは早稲田鶴巻町の笠原三郎といふ人ではないでせうか、笠原さんなら早稲田大學の事務員で最近縁談のため苦しんで一昨夜も三原山で一緒に死んでくれとしきりにいはれましたがなだめて歸したのですが—」と語る。これに対し東京朝日新聞は「尚早稲田大學に左樣な事務員はゐないと」と結んでいる。また、同日(1933年3月2日(木))朝の菊丸で上陸した22歳の堅紙職工は火口附近をさまよっているところを地元民に保護されている。

1986年4月5日(土)付の朝日新聞朝刊16面特集「昭和60年間の世相語 人それぞれの自分史・世間史」の昭和8年(1933年)の項目に、「「三原山自殺ブーム」に約1000人があの世へ。なのに「ヤートナ ソレ ヨイヨイ」の東京音頭にうつつをぬかす。」とある。戦後になると数はぐっと減り、朝日新聞のデータベース「聞蔵(きくぞう)」では、戦前の「三原山 自殺」で実に185件もヒットする。その嚆矢(こうし)がここに挙げた1933年2月14日(火)付の東京朝日新聞朝刊7頁の記事である(報道対象は1933年2月12日(日)の事件)。他方、戦後の自殺について同データベースでは1954年3月(長野県の農協書記の男女心中)に始まり’70年4月(日本橋女学館高等学校の女子高生2人の同性心中)に終わるが、10件に過ぎないし、最後の2件(1989年3月)は供養のための地蔵尊の同一の話題が別々にヒットしただけである。また、更に1件は1965年11月に慶大助手が失跡し、大島から「自殺する」と手紙が届いたため、三原山を捜索するも手掛りも無く、続報も無いため、三原山の自殺者に含めるべきか否かは不明である。そうなると戦後の「三原山 自殺」で確実なのは7件だけである。

なお、最初の報道の同じ紙面には、同年(1933年)2月12日(日) 13:00頃に神奈川縣鎌倉郡川口村(同年4月1日(土)以降は神奈川縣鎌倉郡片瀬町)江ノ島山中で遺体となって発見された男女が、私立東洋大學文學部倫理學科3年次在学中の木部常藏(きべ つねざう, 1908?-33)氏=24歳と、カフェー女給の馬籠すみ子(まごめ or うまかご すみこ, 1912?-33)=20歳と身許(みもと)が判明したとある。同年(1933年)には讀賣新聞社が三原山火口内探査用ゴンドラを設置し、探査中に自殺者の遺体を数体発見している。

(1933年2月14日(火)付の東京朝日新聞朝刊7頁の記事「三原山噴火口で 女学生同性心中 實踐女學校專門部の二生徒 一名は危うく救助」と同年2月15日(水)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「火を噴く三原山頂 親友・死の立會ひ 「自殺幇助も覺悟の上」 約束通り最期を見届く 女學生の猟奇自殺」と、同年2月16日(木)付の東京朝日新聞朝刊5頁の記事「女学生が投げたふたつの渦巻 三原山の自殺と亂醉事件を世人はどう見るか」と、同年2月16日(木)付の東京朝日新聞夕刊2頁の記事「死を望む彼女に諌言した一家 三原山自殺の余聞」と、同年2月15日(水)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「三原山をさ迷ふ 危うかった心中者」と、同年2月20日(月)付の東京朝日新聞朝刊7頁の記事「あぶない所で 三原山で死傷所探す男女」「大島へ自殺行 轢逃げ運轉助手」と、同年2月21日(火)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「早大生自殺(未遂) 三原山から葉山へ」と、年2月23日(木)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「文學靑年三名 三原山心中未遂 本鄕中学生等の一行」と、同年2月27日(月)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「三原山に又自殺志願者」と、同年2月28日(火)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「松葉杖の女と二靑年心中(未遂) 御神火を追ふ群」と、同年2月28日(火)付の東京朝日新聞夕刊2頁の記事「三原山で浦高生自殺」と、同年3月1日(水)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「三原山患者また二人 御神火見物が弟の自殺見物に 引取りに來た兄二人の不覺、一人は火口目がけて走幅跳び」と、同年3月2日(木)付の東京朝日新聞夕刊2頁の記事「三原山患者激増に大島署からSOS 警視廳へ增員を申請」「大自然に敗けて飛込み中止 危なかった日大生」と、同年3月3日(金)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「三原山の誘惑またも二人 一人は危く阻まる」と、同年4月2日(日)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事「身代り人形出發 貴代子さんの四十九日に 親友が抱き大島へ」と、 1986年4月5日(土)付の朝日新聞朝刊16面特集「昭和60年間の世相語 人それぞれの自分史・世間史」に依拠)

1933年2月13日(月)深夜、跡見高等女學校(現在の跡見学園女子大学の前身)5年次在学中の和装の生徒2人が東京府東京市牛込區神樂坂(現在の東京都新宿区神楽坂)のバーで連れの男とブランデーの飲み比べをやった挙句に相客に喧嘩を売って警視庁神樂坂署に身柄を拘束される。氏名・年齢の記載は無いが、未成年者の可能性大。懐中からは「全日本不良少女浮氣稼業團理事長ノッポのお梅」と記した名刺が出てきたとのこと。(1933年2月16日(木)付の東京朝日新聞朝刊5頁の記事「女学生が投げたふたつの渦巻 三原山の自殺と亂醉事件を世人はどう見るか」に依拠)

1933年2月22日(水) 二日前の1933年2月20日(月)に築地警察署内で拷問死したプロレタリア作家の小林多喜二(こばやし たきじ, 1903-33; 小樽高等商業学校=現在の国立大学法人小樽商科大学卒)の遺体解剖を葬儀委員長の江口渙(ゑぐち きよし; 戦後に「えぐち かん」, 1887-1975)が依頼するも、帝大分院(通称 小石川分院; 2001年に東京大学医学部附属病院に統合されて閉院)も慶應義塾大學病院も社團法人東京慈恵會附属東京病院(現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身)も拒絶。(1933年2月23日(木)付の東京朝日新聞朝刊11頁の記事に依拠)

1933年2月24日(金) 時の大日本帝國全權代表で後に外務大臣に就任することになる松岡洋右(まつおか ようすけ, 1880-1946; 米オレゴン大学卒)が、スイス連邦ジュネーヴ市に在る國際聯盟(こくさい れんめい: League of Nations)の議場で英語による脱退表明演説を行なう。この演説の一部、“Japan, however, finds it impossible to accept the report adapted by the Assembly.”(日本國は然(しか)し乍(なが)ら聯盟總會で採擇されし報告書を受入(うけい)るゝは不可能と認む。)は戦後のNHK総合テレビで繰り返し放送されることになる。松岡全権代表はスピーチ原稿もなくアドリブ(ad lib)で演説したという。実は松岡全権代表自身は聯盟脱退に反対していたが、上司である内田康哉(うちだ やすや; 有職読みで「こうさい」, 1865-1936; 外相在任1911-12, 1918-23 & 1932-33; 内閣総理大臣臨時代理1921 & ’23)外務大臣が脱退するよう訓令を発していたため脱退を余儀なくされた。

(カラー加工済動画)https://www.youtube.com/watch?v=ttGLrvr2VA4

1933年3月3日(金) 岩手縣上閉伊郡釜石町(現在の岩手県釜石市)の東方沖約200キロを震源とする昭和三陸地震と津波で死者・行方不明者合計3,064人。

1933年3月27日(月) 滿洲國(満州国; 英称 Manchukuo)が承認されないことに腹を立てた日本が常任理事国であるにも拘(かか)わらず國際聯盟(こくさい れんめい: League of Nations; 在スイス連邦ジュネーヴ市)からの脱退を正式に表明(上記の松岡演説からは三ヶ月と三週間が経過していた)。なお、聯盟脱退が正式発効するのは二年後の1935年3月27日(水)。

1933年~’45年(昭和20年) 石井四郎(いしい しらう, 1892-1959; 京都帝國大學卒)陸軍軍醫中將の率いる石井機關の七三一部隊と一六四四部隊が組織的に人体実験を行なう。犠牲者は数千人とされる。

(参考)外部サイト

http://ja.wikipedia.org/wiki/七三一部隊

1933年 二年前の1931年に設立された大阪帝國大學(現在の大阪大学)が大阪工業大學を吸収して工學部を設置。女子英學塾が津田英學塾(現在の津田塾大学の前身)に改称。上智大生靖國神社參拜拒否事件。事件を受けて上智大學と日本のカトリック教會は、軍國主義政府と國家神道に全面屈服。軍國主義化が進行。

1933年5月26日(金) 京大瀧川事件。京都帝國大學(本部在京都府京都市左京区)法學部敎授の瀧川幸辰(たきがは ゆきとき, 1891-1962; 京都帝國大學卒)が前年(1932年)10月に中央大學(本部在東京府東京市神田區)法學部で行なった講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法觀」の内容 (トルストイの思想について「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が無政府主義的な危険思想として文部省(現在の文部科学省の前身)と司法省(現在の法務省の前身)で問題視し、特に文部大臣の鳩山一郎(はとやま いちろう, 1883-1959; 首相在任1954-56; 東京帝國大學卒)が言論彈壓(言論弾圧)の先頭に立つ。この言論弾圧により、京大では免官と辞職が相次ぐが、お蔭で私学の立命館大學(本部在京都府京都市中京区)に優秀な学者が集まる。

1933年6月17日(土)~11月20日(月) 「ゴーストップ事件」

1933年6月17日(土) 11:40頃 大阪府大阪市北區の天神橋筋六丁目交叉点で、慰労休日に映画を見に外出した陸軍第四師團歩兵第八聯隊第六中隊の中村政一一等兵(当時22歳)が、市電を目がけて赤信号を無視して交差点を横断したのを見た交通整理中の大阪府警察部曽根崎警察署交通係の戸田忠夫巡査(当時25歳)は中村をメガホンで注意し、天六派出所(天神橋筋六丁目の派出所)まで連行。その際中村一等兵が「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務は無い」と抗弁して抵抗したため、派出所内で殴り合いの喧嘩となり、中村一等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は下唇に全治1週間の怪我を負う。騒ぎを見かねた野次馬が大手前憲兵分隊へ通報し、駆けつけた憲兵隊伍長が中村を連れ出してその場は収まったが、その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服着用の帝國軍人を侮辱したのは斷じて許せぬ」として曽根崎署に対して厳重抗議。 この後の事情聴取で、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出したのは中村一等兵である」と証言、逆に中村一等兵は「信号無視はしていないし、自分から手を出した覺へは無い」と述べ、両者は全く違う主張を繰り返す。この日は偶々(たまたま)第八聯隊長の松田四郎大佐と曽根崎署の高柳博人署長が共に不在であったため、上層部に直接報告が伝わって事件が大きくなった。 警察側は穏便に事態の収拾を図ろうと考える。

同年(1933年)6月21日(水) 事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わる。世に言う「ゴーストップ事件」、別名「進止事件」(英語の Go Stop の直訳から)、「天六事件」(天神橋筋六丁目という地名から)として世間を騒がせる。

同年(1933年)6月22日(木) 第四師団参謀長の井関隆昌大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信に關(かゝ)はる重大な問題である。」と声明し、警察に謝罪を要求。対して粟屋仙吉(あわや せんきち, 1893-1945; 東京帝國大學法學部卒)大阪府警察部長(十二年後の1945年8月6日(月)に廣島市長として被曝死)も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要は無い。」と発言。

同年(1933年)6月24日(土) 第四師団長の寺內壽一(てらうち ひさいち, 1879-1946; 陸軍大學校卒)伯爵・中將(後に元帥(げんすい))と縣忍(あがた しのぶ, 1881-1942; 東京帝國大學法科大學卒)大阪府知事の会見が決裂。

一方、帝都東京では問題が軍部と内務省との対立にまで発展。陸軍大臣の荒木貞夫(あらき さだお, 1877-1966; 陸軍大學校卒)陸軍大將(後に男爵)は、「陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる。」と息巻くが、警察を所管する山本達雄(やまもと たつお, 1856-1947; 三菱商業學校の後進=明治義塾卒)内務大臣と松本學(まつもと がく, 1887-1974; 東京帝國大學法科大學卒; 旧姓 片岡)内務省警保局長(現在の警察庁長官に相当)は陸軍の圧力に対して一歩も譲らず、「謝罪など論外。その一等兵こそ逮捕起訴さるべきである。」との意見で一致。

同年(1933年)7月18日(火) 中村一等兵は戸田巡査を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害罪)、同第206条(名誉毀損罪)で大阪地方裁判所検事局に告訴。

戸田巡査には私服の憲兵が、中村一等兵には私服の刑事が尾行し、憲兵隊が戸田巡査の本名は中西であること(結婚した際に妻の中西家に入籍)を暴くと、警察は中村一等兵が過去に7回もの交通違反を犯していることを公表し、陸軍対警察の泥仕合となる。 新聞各紙は「陸軍と警察の正面衝突」、「ゴーストップ事件」と興味本位に報道。

同年(1933年)8月24日(木) 事件目撃者の一人であった一般市民の高田善兵衛が、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐えかねて、國鐡吹田操車場内で自殺、轢死体(れきしたい)となって発見される。

同年(1933年)11月18日(土) 事態を憂慮した昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の特命により、寺内中將(後に元帥(げんすい))の友人であった白根竹介(しらね たけすけ, 1883-1957; 東京帝國大學法科大學卒)兵庫縣知事が調停に乗り出す。天皇が心配していることを知った陸軍は恐懼(きょうく)し、事件発生から5ヶ月にして和解が成立。井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表。歩兵第八聯隊にて増田曽根崎警察署長と松田四郎歩兵第八聯隊長が握手を交わす。

同年(1933年)11月20日(月) 当事者の戸田巡査と中村一等兵が和田良平検事正の官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引く。陸軍と警察の和解内容は非公開だが、一般には警察が譲歩したと考えられている。

1933年7月10日(月) 早稲田大學戸塚球場(現存せず)にて日本初の野球(baseball)の夜間試合(night game)「早大二軍対早大新人戦」が実施される。「ナイター」という表現は十七年後の1950年『週刊ベースボール』誌上が初出。(早稲田大学野球部公式サイト「概要、年表」に依拠)

1933年10月22日(日) 東京六大学野球の早慶戦で大乱闘事件、世に言う「水原リンゴ事件」が発生。慶應義塾大學野球部3塁選手だった水原茂(みずはら しげる, 1909-82)は後年プロ野球の巨人軍に入団し、選手として監督として巨人の黄金期に貢献したことで知られるが、当時は「ミスター慶應」と呼ばれ、人気ナンバーワンの選手だった。早慶3回戦の9回表のこと、3塁の守備についた水原に向かって早稲田側の応援スタンドから様々な物が投げ込まれ、足元に転がってきた食べ残しのリンゴ(梨の説もあり)の芯を水原が投げ返したことが乱闘の端緒と成る。その日の試合は序盤から激しい点の取り合いとなり、審判の判定を巡ってのトラブルが重なっていた。早稲田1点リードの2回には早稲田の悳宗弘(いさお むねひろ, 生歿年不詳)投手の投球が一旦はストライク(strike)と判定されるも慶應側の抗議によって死球(hit by pitch)とされ、それを足がかりに慶應が4点を入れて逆転。さらに早稲田が再逆転し、2点リードで迎えた8回には慶應の岡泰蔵(おか たいぞう, 生歿年不詳)選手の2塁盗塁に対するセーフ(safe)の判定が早稲田のアピールでアウト(out)になると3塁コーチャーズボックス(third base coacher’s box)に居た水原が2塁塁審の元に駆け寄り猛抗議。判定は覆(くつがえ)らなかったが、二転三転のシーソーゲーム(see-saw game)に早慶両校の應援團(応援団)は一触即発の雰囲気だったという。最終回に慶應が2点を奪い逆転サヨナラ勝ちをしたところで、収まりがつかなくなった早稲田の学生がグラウンドに乱入し、危険を感じた水原をはじめとする慶應の選手たちが一目散に逃げると、今度はサヨナラ勝ちで盛り上がる慶應の応援席へと雪崩(なだれ)込んで行き、あろうことか慶應の応援団長が手にしていた、慶應義塾の林毅陸(はやし きろく, 1872-1950; 慶應義塾大學卒; フランス国立パリ政治学院留学)塾長・教授・法学博士(慶應義塾大學)から授与された全長六尺(約180センチ)余りの指揮棒を奪い去るという狼藉(ろうぜき)を働く。指揮棒は樫材の先端に岩の上で羽ばたく金色の鷲が彫刻され、岩には同塾長の揮毫(きごう)した「自尊」の文字が彫ってあった。なお、この指揮棒は戦後になって滿洲で発見されている。騒動はグラウンド内だけでは収まらず、勝利を祝って銀座に繰り出していた慶大生を早大生が襲い、銀座の街のあちこちで両校入り乱れての乱闘が発生。特に新橋驛付近では早慶合わせて百人以上が揉(も)み合い、興奮した学生が交番を襲撃するなど事態は益々エスカレート。警官の制止に応じなかった10数名の学生が逮捕され、騒ぎは漸(ようや)く収束したものの、翌日(1933年10月23日(月))の新聞各紙が社会面で大きく取り上げるなど一大騒動と成る。この前代未聞の不祥事に慶應側は早稲田の東京六大学連盟からの除名処分(曰く「スポーツ精神を冒瀆(ぼうとく)した早稲田はリーグを去るべし」)を求める声明を同日22:30に早くも発表。早稲田側もほぼ同時刻に反論し、騒動のきっかけは慶應側にあり、審判の判定に激しく抗議する態度は学生としてあるまじきものだとし、飽(あ)くまでも水原の謝罪を要求。慶應は断固これを拒否。両者は歩み寄ることはなく、結論は東京六大学連盟に委(ゆだ)ねられることとなる。ところが、連盟でも意見が纏(まと)まらず、遂(つい)には再度の早慶戦中止もしくは早稲田の除名という最悪の事態を迎えつつあったが、事件から1ヶ月以上が経過した同年(1933年)11月22日(水)、早大野球部創設者の安部磯雄(あべ いそを, 1865-1949; 同志社英学校=現在の同志社大学卒、米ハートフォード神学校卒、独ベルリン大学卒)教授が早稲田側の非を潔(いさぎよ)く認め、慶應及び連盟に謝罪することで事態は沈静化する。慶應側は水原を謹慎させると発表し、リンゴ事件は一応の解決を見る。なお、水原は同年(1933年)12月3日(日)に麻雀賭博で検挙され、翌日(1933年12月4日(月))に慶應義塾野球部を除名されている。この事件が契機となって、慶早戦に限り塾の応援席は三塁側、早稲田の応援席は一塁側という方式が定着したという。この事件は、約二年半前の1931年5月18日(月)の慶明戦で発生した「八十川(やそがは; やそがわ)ボーク事件」と並ぶ東京六大学野球二大不祥事として記録されている。 (2020年8月15日(土)付のヤフーニュースに転載されたデイリー新潮の清水一利(しみず かずとし, b.1955)署名オンライン記事と、慶應義塾大学応援指導部公式サイト「75年通史」に依拠)

1933年12月23日(土) 昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)に待望の長男、皇太子明仁親王(あきひと しんのう, b.1933)=後の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 天皇としての在位1989-2019; 学習院大学中退)が誕生し、大日本帝國(英称 Empire of Japan)と滿洲國(満州国; 英称 Manchukuo)は奉祝ムードになる。この12月23日という日付は平成時代の1989年から2018年にかけて天皇誕生日という国民の祝日と成る

1934年(昭和9年)3月1日(木) ちょうど二年前の1932年3月1日(火)に日本の傀儡(かいらい)国家(puppet state)として建国されていた滿洲國(満州国; 英称 Manchukuo)の執政を務めてきた愛新覺羅溥儀(あいしん かくら ふぎ; Pu Yi of the Aisin Gioro clan, 1906-1967; 清朝皇帝在位1908-12 & 1917; 滿洲帝國皇帝在位1934-45)が皇帝に即位したことで、滿洲國は滿洲帝國(満州帝国; 英称 Empire of Manchukuo)と成る。

1934年3月21日(水) 函館大火で2千人余りが死亡。

1934年4月21日(土) 日本犬保存會の依頼を受けた彫刻家の安藤照(あんどう てる, 1892-1945; 東京美術學校=現在の東京藝術大学美術学部卒)による忠犬ハチ公像が澁谷驛前廣場に設置され、当初から人気の待ち合わせスポットとなる。九年近く前の1925年5月21日(木)に満53歳で急死した上野英三郎(うへの えいざぶらう; 資料によっては「ひでざぶらう」の読みもあり, 1872-1925; 帝國大學農科大學=現在の東京大学農学部卒)教授・農學博士(帝國大學)の愛犬ハチ公を象(かたど)った像であるが、当のハチ自身は一年近く後の1935年3月8日(金)まで生き延びる。生前に動物の像が完成して世間の目に触れるようになるのは異例のことで、除幕式にはハチ自身も立ち会ったという。しかしながら、ハチ公像は戦争の激化で1941年8月30日(土)に勅令第835號として公布され、1943年8月12日(木)に勅令第667號として全面改正された金屬類回収令に則(のっと)り、1944年10月12日(木)に日本國旗の襷(たすき)をかけるなどの出陣式が行なわれ撤去され、敗戦の玉音放送の前日に当たる1945年8月14日(火)に鐵道省(現在の国土交通省とJRグループの前身)濱松工機部で溶解されてしまい、機関車の部品と成る。また、作者の安藤照は十一年後の1945年5月25日(金)の米軍による山の手大空襲で満54歳にして戦災死することになる。(個人サイト「東京坂道ゆるラン」内の2018年3月22日(木)付のYASS_ASAI(本名非公開)署名コラム「【忠犬ハチ公秘話】待っていたのは駒場⁈像は二代目⁈」 https://sakamichi.tokyo/?p=11733 に依拠)

1934年9月7日(金) 岡田啓介(をかだ けいすけ; おかだ けいすけ, 1868-1952; 首相在任1934-36; 海軍兵學校卒)内閣が、「現下國民の熾烈なる要望」により、十二年半余り前の1922年2月6日(月)に締結・調印していたワシントン海軍軍縮条約(Washington Naval Treaty)を同年(1934年)内に廃棄すべく閣議決定。対米関係及び対英関係が悪化の一途へ。

1934年9月21日(金) 室戸颱風で3千人余りが死亡。

1935年(昭和10年)2月18日(月) 天皇機關說事件。男爵・陸軍中将の菊池武夫(きくち たけを, 1875-1955; 陸軍大學校卒)貴族院議員が貴族院本会議の演説で、美濃部達吉(みのべ たつきち, 1873-1948; 東京帝國大學卒)貴族院議員・東京帝國大學名譽敎授・帝國學士院會員の天皇機關說を國體(国体: 戰前日本語で「天皇制」の意)に背く学説であるとして非難。翌々年に文部省(現在の文部科学省)は全国に配布した『國體の本義』の中で天皇機關說は一部知識人による西洋思想の無批判導入であると断定。天皇絶対化に拍車がかかる。

1935年3月8日(金) 6:00過ぎ、主人の上野英三郎(うへの えいざぶらう; 資料によっては「ひでざぶらう」の読みもあり, 1872-1925; 帝國大學農科大學=現在の東京大学農学部卒)教授・農學博士(帝國大學)が満53歳で急死してから十年近くが経過したこの朝、忠犬ハチ公が澁谷川に架かる稲荷橋附近、瀧澤酒店北側路地の入口(現在の渋谷ストリーム駐車場入口附近)で死んでいるのを発見される。ここは澁谷驛の反対側で、普段はハチが立ち寄らない場所であった。四日後の1935年3月12日(火)には澁谷驛前廣場でハチ公の告別式が行なわれ、上野教授の内縁の妻だった上野八重子(うへの やゑこ; 戸籍上は「坂野八重」, 18??-1961)夫人や、ハチ公の最後の八年間を世話した東京府豊多摩郡代々木富ヶ谷(現在の東京都渋谷区富ヶ谷)の小林夫妻、澁谷驛や町内の人々など多数参列。また、澁谷驛東側の宮益坂に在った妙祐寺の僧侶など16人による讀經(読経)も行なわれ、花環25基、生花200束、手紙弔電180通、清酒1樽、金貮佰圓を超える香典など、人間さながらの葬儀が執り行なわれたという。なお、澁谷驛前の忠犬ハチ公像はハチの詐欺師たちとの攻防の末、既に生前の1934年4月21日(土)に建立されていた。

1935年3月22日(金) 平賀讓(ひらが ゆずる, 1878-1943; 東京帝國大學總長在任1938-43; 東京帝國大學卒、英グリニッジ王立海軍大学校造船科卒)工学博士(東京帝國大學)、男爵、海軍造船中將(後に法令改正により海軍技術中將)が船体抵抗実験を纏(まと)めた論文が英国造船協会に評価され、外国人(非英国人)初の1934年度金牌(Gold Medal 1934)を授与されることが決定。

1935年3月27日(水) 二年前の1933年に表明していた日本の國際聯盟(こくさい れんめい: League of Nations; 在スイス連邦ジュネーヴ市)からの脱退が正式発効。

1935年4月6日(土)早朝、滿洲帝國皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ; アイシンギョロ・プーイー; Aisin Gioro Puyi; Puyi, 1906-67; 在位1908-12 & 1917 & 1934-45)が橫濱港に到着。国賓としての初訪日を開始。お召列車で東京驛に溥儀一行が到着した際には、両国の友好関係を表すべく昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が直々に駅のプラットフォームまで賓客を迎えに行くという異例中の異例の歓待を行なう。

1935年7月 第一高等學校(現在の東京大学教養部の前身)と東京帝國大學農學部(現在の東京大学農学部)の敷地交換により、第一高等學校(一校)は東京府東京市目黑區(現在の東京大学駒場地区キャンパス)へ、帝大農學部は東京府東京市本鄕區(現在の東京大学弥生キャンパス)へ相互移転。

1935年11月3日(日・祝) 明治節(明治天皇誕生日)のこの日、世に言う「日大生殺し事件」が起きる。母親が保険金目当てに実の息子を殺害した事件で、日本初の保険金殺人事件とされる。

1935年12月9日(月)~’36年3月25日(水) 五年前の1930年4月22日(火)に締結されたロンドン海軍軍縮條約(Treaty for the Limitation and Reduction of Naval Armament)、通称 ロンドン海軍条約(London Naval Treaty)の改正を目的とした第二次ロンドン海軍軍縮会議(Second London Naval Conference)が英米日仏の間で開催される。前回出席していたイタリアはエチオピア侵攻のため国際的な非難を浴びて本会議を脱退し、軍縮に不満を持つ日本も1936年1月15日(水)に本会議を脱退したため、第二次ロンドン海軍軍縮条約(Second London Naval Treaty)に調印したのは英米仏の三国にとどまった。

1936年(昭和11年)2月26日(水)~29日(土) 二・二六事件が発生。四年近く前の1932年5月15日(日)に起きた五・一五事件に続く軍人による要人暗殺事件が発生。陸軍の青年将校らが1,483名の下士官兵を率いてクーデター未遂事件を起こすが、二月末には鎮圧される。叛乱の中で松尾傳藏(まつお でんぞぅ, 1872-1936; 陸軍士官學校卒、陸軍戶山學校卒)陸軍大佐と、高橋是清(たかはし これきよ, 1854-1936; 首相在任1921-22; ヘボン塾=現明治学院大学に学ぶ)大蔵大臣(現在の財務大臣に相当)・元首相と、齋藤實(さいとぅ まこと, 1858-1936; 首相在任1932-34; 海軍兵學校卒)内大臣・元首相・元海相・元外相・元文相と、渡辺錠太郎(わたなべ ぢやうたらう; わたなべ じょうたろう, 1874-1934; 陸軍大學校卒)陸軍大將・陸軍敎育總監の四要人が暗殺されるも、襲撃の対象になっていた岡田啓介(をかだ けいすけ; おかだ けいすけ, 1868-1952; 首相在任1934-36; 海軍兵學校卒)内閣總理大臣・退役海軍大將は女中(じょちゅう)部屋の押入に隠れて難を免れ、代わりに上記の松尾傳藏陸軍大佐(岡田首相の妹婿・義理の弟)が人違いで暗殺される。後に終戦内閣の首相になる鈴木貫太郎(すゞき かんたらう; すずき かんたろう, 1868-1948; 首相在任1945; 海軍大學校卒)侍従長も襲撃されて瀕死の重傷を負うが、一命を取りとめる。なお、上記の渡辺錠太郎の末っ子・次女に、後のキリスト教カトリック修道女でノートルダム清心学園理事長の渡辺和子(わたなべ かずこ, 1927-2016; 聖心女子大学卒、上智大学大学院修士、米ボストン・カレッヂ哲学博士)がいるが、成蹊小学校3年生で満九才の時に二・二六事件に遭遇し、満六十一歳の父が東京府東京市杉並區上荻窪(かみ おぎくぼ)=現在の東京都杉並区上荻(かみおぎ)二丁目に在った自宅の居間で青年将校たちに襲撃され、43発の銃弾で命を落とすのを、僅(わず)か1メートルほどの距離から目(ま)の当たりにしたと、『文藝春秋』2012年9月号(pp.320-323)に寄せた渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記で証言している。また、事件で暗殺された高橋是清の、東京府東京市赤坂區=現在の東京都港区赤坂七丁目に在った邸宅は、移築され、都立小金井公園(在東京都小金井市)内の江戸東京たてもの園(1993年開園)で公開されている。旧高橋邸の約2,000坪の敷地は赤坂御所と対面する青山通り沿いに在って、高橋是清翁記念公園(たかはし これきよ おう きねん こうえん)として事件後僅か五年後の1941年(昭和16年)に一般公開された。隣接している在京カナダ大使館(英 Embassy of Canada in Tokyo, Japan; 仏 l’Ambassade du Canada au Japon, à Tokyo)の青山通り沿いのビルも往時は高橋邸の一部であったし(但し、奥の木立に囲まれたカナダ大使公邸は当時から高橋邸の隣家)、青山通り南側の広い歩道も戦後の道路拡張までは同記念公園の一部であった。重臣が殺害されたことにつき昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の震怒(しんど: 「激怒」の意)は甚(はなは)だしく、本庄繁(ほんじやう しげる; ほんじょう しげる, 1876-1945; 陸軍士官學校卒、陸軍大學校中退)侍従武官長・陸軍大將正三位勲一等功一級男爵の日記によると、「朕(ちん)が股肱(ここう: 「腹心」の意)の老臣(ろうしん)を殺戮(さつりく)す。この如(ごと)き兇暴(きよぅぼぅ)の將校(しやうかう)ら、その精神(せいしん)に於(おひ)ても何(なん)の恕(ゆる)すべきものありや。」「朕(ちん)自(みずか)ら近衞師團(このゑ しだん)を率(ひき)い、此(これ)が鎭定(ちんてい)に當(あた)らん。」と言ったとされる。他に首相官邸警備の警察官4名、湯河原で牧野内大臣の警護に当たっていた警察官1名の計5名が叛乱軍の兇弾によって殉職し、高橋蔵相邸の警備に当たっていた警察官1名が重傷を負っている。殉職者は千代田区北の丸公園の一角に在る弥生慰霊堂に祀られている。

1936年8月11日(火) 椙山女學校(すぎやま じょがっこう; 現在の椙山女学園大学)出身の前畑秀子(まへはた ひでこ, 1914-95; 翌’37年の結婚後は兵頭秀子)が日本女性としては五輪史上初の金メダルを獲得。 ナチス・ドイツで開催された第11回オリンピック競技大会(ベルリン五輪)の200メートル平泳ぎに出場し、開催国ドイツ代表のマルタ・ゲーネンガー (Martha Genenger, 1911-95)とゴールを争い、0.6秒差で勝利。この大勝負を実況したJOAK(ジェイ・オウ・エイ・ケイ)ラヂオ(現在のNHKラジオ第1放送の前身)アナウンサーの河西三省(かさい さんせい, 1898-1970)は興奮のあまり実況中継の途中から「前畑がんばれ! 前畑がんばれ!」と24回も連呼・絶叫し、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させる。

(参考リンク)

http://www9.nhk.or.jp/a-room/jidai/04.html

1936年11月25日(水) ドイツ國首都伯林(Berlin ベルリン)にて共產「インターナショナル」ニ對スル協定及其ノ附属議定書(独 Abkommen gegen die Kommunistische Internationale. Die Regierung des Deutschen Reiches und die Kaiserlich-Japanische Regierung; 英 Agreement against the Communist International: The Government of the German Reich and the Imperial Japanese Government)、通称 日獨防共協定(独 Antikominternpakt 1936 zwischen dem Deutschen Reich und dem Japanischen Kaiserreich; 英 Japan-Germany Anti-Comintern Pact)が日本とナチス・ドイツの間で結ばれる。ソ連を仮想敵国とする協定だったが、結果として米英との敵対を招いてしまうことになる。

1937年(昭和12年)2月11日(木・祝) 紀元節式典で同志社大學(在京都府京都市上京区)の湯淺八郎(ゆあさ はちろう, 1890-1981; 米カンザス農科大学卒、米イリノイ大学博士、東京帝國大學理學博士)總長・敎授が「勅語誤讀」事件を起こす。軍部や学外右翼団体による標的とされ、同志社そのものの存廃さえ危惧される事態に直面する。愛国団体の代表が日本刀を持って総長室に押しかけて湯淺總長の退陣を迫り、学内では狂信的な配属将校草川靖が「同志社通則」第3条の改正を総長に迫り、学生を前にして同志社のキリスト教主義、自由主義の排撃を公然と叫ぶ。

1937年3月16日(火)~8月12日(木) 同志社大學(在京都府京都市上京区)にて一部の教員が國體明徴問題で湯淺八郎(ゆあさ はちろう, 1890-1981)總長・敎授に上申書を提出。具島廉三郎(詳細不詳)と田畑忍(たばた しのぶ, 1902-94; 同志社大學卒)らが解職処分。世に言う同志社大學事件。

1937年4月5日(月) 防空法が公布される。

1937年4月6日(火)~9日(金) 朝日新聞社が所有するプロペラ機「神風號」が東京・ロンドン間を94時間強の世界新記録で飛行に成功。

1937年4月9日(金) 國粋主義の高まりを受けて、東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学)と京都帝國大學(現在の国立大学法人京都大学)と東京文理大學(現在の国立大学法人筑波大学)と廣島文理大學(現在の国立大学法人広島大学)の四官立大學に日本精神に関する講座が設置される。

1937年5月12日(水) ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)で国王ジョージ六世(George VI, 1895-52; 在位1936-52)の戴冠式が執り行なわれる。日本からは大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)の第二皇子で昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の弟、秩父宮雍仁親王(ちゝぶのみや やすひと しんのう; Prince Chichibu, 1902-53; オクスフオッド大学モードレン学寮遊学)が出席。英国側の秩父宮への礼を尽くした対応に、日本側では日英関係楽観論が起こる。

1937年5月20日(木) ジョージ六世戴冠記念観艦式がイングランド南海岸スピットヘッド(Spithead)沖で挙行される。カナダ(Canada)や豪州(Australia)を含む英帝国(British Empire)の艦艇145隻と特別招待された18ヶ国(アルファベット順で、Argentina, Cuba, Denmark, Estonia, Finland, France, Germany, Greece, Japan, Netherlands, Poland, Portugal, Rumania, Spain, Sweden, Turkey, USA, USSR)の艦艇18 隻が参列。大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)からは八年後の1945年6月8日(金)にバンカ海峡(Bangka Strait: 現インドネシア共和国領海)北側出口で英国海軍(Royal Navy)の潜水艦トレンチャント(HMS Trenchant)が発射した魚雷8本の内4本が右舷(starboard)に命中して沈没することになる重巡洋艦足柄(Ashigara)が参加した。足柄が英マスコミから「餓(う)えた狼(the hungry wolf)」と呼ばれたことを日本側は喜んだが、実は英国の軍艦に比べて居住性が悪いことを揶揄(やゆ)しただけだった可能性が大きい。

1937年5月31日(月) 文部省(現在の文部科学省の前身)が『國體の本義』と題した國粋主義的な冊子約20万部を日本全国の学校や社会教化団体等に配布。

1937年7月7日(水) 北平(現在の首都北京)南西郊外で日本軍が中華民國軍と衝突。世に言う「盧溝橋事件」(Marco Polo Bridge Incident)。この事件を引き金に日本と中華民國との間に宣戦布告なき支那事變(日中戦争, 1937-45)が勃発。

1937年7月 上記の「盧溝橋事件」の直後、東京帝國大學の矢內原忠雄(やないはら たゞを; やないはら ただお, 1893-1961; 東京大学総長在任1951-57; 東京帝國大學法科大學卒)敎授が、『中央公論』誌上で「國家の理想」と題する評論を寄せ、国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないことなどを説く。この戦後民主主義を先取りするような論考は、國家主義派(革新派)の土方成美(ひじかた せいび, 1890-1975; 東京帝國大學法科大學卒)經濟學部長・敎授などから激しく攻撃され、同年(1937年)12月には事実上追放される形で東大を辞任に追い込まれる。なお、この騒動の急先鋒だった土方敎授は僅か一年半後の1939年3月には別の騒動で東大から追放されることになる。

1937年7月22日(木) 日本基督敎聯盟が「時局に關する宣言」を発表し、國策協力を約束。

1937年7月29日(木) 通州事件(つうしゅう じけん: Tungchow mutiny)が発生。中国の北平(現在の首都北京)近郊の通州(Tōngzhōu: 現在の北京市通州区)に合法的に暮らす日本人居留民約380人に対し、冀東防共自治政府(きとう ばうきよう じち せいふ: East Hebei Autonomous Anti-Communist Council)を名乗る政権の支那(シナ)人(当時の日本語で中国人の意)の部隊がこの日の未明午前2:00に日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦・惨殺の限りを尽くした。翌日(7月30日(金))午後になって漸(ようや)く通州に駆け付けた日本陸軍はその惨状に驚愕した。旭軒(あさひけん)という名の飲食店では上は40歳から下は17歳か18歳ぐらいまでの日本人女性7~8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4~5名は陰部を銃剣で刺されていた。陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った女性の遺体もあった。日本人男子の死体は殆(ほとん)ど全員が首に縄をつけて引き回された跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶する光景だったという。近水楼(きんすいろう)という名の旅館の入口では女将(おかみ)と思しき女性の遺体があり、着物が剝(は)がされ、銃剣で突き刺され、また陰部は刃物で抉(えぐ)られていた。同じ旅館の帳場配膳室では男性の遺体が目玉を刳(く)り貫(ぬ)かれ、上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた。斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供の遺体もあった。カフェー(カフェのこと)では女給(ウェイトレスのこと)の生首が並べられていた。目撃者の証言によれば、支那(シナ)人=中国人の部隊は胎児を妊婦の腹から引きずり出し、その父親を数人がかりで殺して腸を引きずり出し、切り刻んで妻である妊婦の顔に投げつけたという。これらは通州市民の面前で行なわれた虐殺であったが、市民はそれに対し無反応であり、虐殺後の日本人を見ても同情の念を示すのではなく、身に着けていた物を剝(は)ぎ取るばかりであった。一週間後の8月5日(木)の日本の陸軍省の調査によると、死者184名(男性93名、女性57名、損傷がひどく性別不明の遺体34名)、生存者は134名(内地人77名、半島人57名であったが、同日の在天津日本國總領事館北平警察署通州分署の発表では、死者合計225名(内地人114名、鮮人111名)となっている。この事件が日本で報道されると、「暴戻支那膺懲(ぼうれい しな ようちよう)」(「怪しからんチャイナを懲らしめろ」の意、後に略して「暴支膺懲(ぼうし ようちよう)」)という輿論(よろん)が巻き起こり、支那(シナ)人=中国人に対する敵愾心(てきがいしん)が強化された。これは十七年前の1920年3月から5月にかけてロシア極東部で起こった日本人居留民虐殺事件である尼港事件(にこう じけん: Nikolayevsk Massacre)を思い起こさせた。なお、当時の居留日本人も、その保護のための駐留日本軍も、すべて北京議定書(Boxer Protocol)に基づいて合法的にそこに居たのであった。それは1901年に当時の大淸帝國(Qīng Dynasty)と列強諸国、つまり大日本帝國とロシア帝国とイギリス帝国とフランス共和国とドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国とイタリア王国とアメリカ合衆国との間(仲介役にスペイン王国とオランダ王国とベルギー王国)で調印された一種の条約である。そこに居た日本人は二十一世紀の現在で譬(たと)えれば、さながら海外駐在員と自衛隊 PKO (peace keeping operation: 「平和維持活動」の意)に相当する。したがって日本人や日本軍を侵略者と見做(みな)すのは見当違いである。惨劇のあった通州だが、2017年現在は何事もなかったかのようにビル群が建設されている。中国共産党(中共)政府は再開発の名目で開発業者に任せて虐殺の記録や記憶を破壊しようと努めている。そして通州事件の日本人被害者の写真を「南京大虐殺の証拠写真だ!」だとして流用し、全世界に嘘(ウソ)を撒き散らしている。

(参考文献)

石平 『日本被害史 世界でこんなに殺された日本人』(オークラ出版 オークラNEXT新書, 2012年12月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4775519808/ref=acr_dpproductdetail_text?ie=UTF8&showViewpoints=1

藤岡信勝 『通州事件 目撃者の証言』(自由社ブックレット, 2016年8月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4915237931/ref=acr_dpproductdetail_text?ie=UTF8&showViewpoints=1

加藤康男 『慟哭の通州 昭和十二年夏の虐殺事件』(飛鳥新社, 2016年10月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4864105146/ref=acr_dpproductdetail_text?ie=UTF8&showViewpoints=1

広中一成 『通州事件 日中戦争泥沼化への道』(星海社新書, 2016年12月)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4061386077/ref=acr_dpproductdetail_text?ie=UTF8&showViewpoints=1

1937年8月13日(金)~10月26日(火) 第二次上海事變。上海共同租界(Shanghai International Settlement)周辺で日本軍(主に海軍陸戦隊)と中華民國軍の間で戦闘が続く。五年以上前の1932年1月28日(木)~3月3日(木)に勃発した第一次上海事變に二の舞なので、「第二次」の呼称が付く。

1937年8月15日(日) 近衞文麿(このゑ ふみまろ, 1891-1945; 首相在任1937-39 & 1940-41; 京都帝國大学卒)内閣が「(支那の)國民政府を斷固膺懲」と声明し、同年(1937年)7月7日(水)から断続的に続いていた支那事變(日中戦争, 1937-45)がいよいよ本格化する。同日には日本の海軍機が初の渡洋爆撃に成功し、中華民國首都南京市を空爆。一方で中華民國(支那)の國民政府は對日抗戰總動員令を発令。

1937年8月26日(木) 「日本アルプス」(the Japanese Alps)の名付け親である聖公会宣教師の英人ウォルター・ウェストン師(The Reverend Walter Weston, 1860-1940; ケイムブリヂ大学クレア学寮卒)の円型レリーフ像(relief plaque)が長野県内の上高地(かみこうち)の梓川(あずさがわ)の畔(ほとり)の清水屋ホテルの北東近くに設置される。ウェストン師は従来まで山岳信仰の対象だった山々に対しスポーツ登山(mountaineering; mountain climbing)という概念を日本人に教えたことで知られることから、「日本山岳登山の父」「日本近代登山の父」という異名(いみょう)を持つ。しかしながら、このレリーフ像は五年後の1942年、英国を敵国とした戦争の中で撤去されてしまい、日本山岳會(現在の公益財団法人日本山岳会; 英称 The Japan Alpine Club)に保管されていた際に米軍による空襲で一部が焼損してしまう。レリーフの修復が終わり、除幕式を伴う再設置は、更に五年後(初回の設置から十年後)で敗戦を経ていた1947年6月14日(土)まで待たねばならない。但し、現在の円型レリーフ像は1965年に再制作された物である( https://www.kamikochi.or.jp/learn/spot/ウェストン碑 )。

19379月9日(木) 山西省の陽高で關東軍チャハル兵團(兵團長は後に首相になる東條英機)は戦闘が終わると老幼を問わず城内の男性を捕縛し、機銃掃射を浴びせて殺害。被害者数は350名から500名と推定される。

(参考)外部サイト

http://ja.wikipedia.org/wiki/陽高事件#.E9.99.BD.E9.AB.98.E4.BA.8B.E4.BB.B6

1937年9月28日(火) 國際聯盟(League of Nations; 在スイス連邦ジュネーブ市)の總會(General Assembly)にて日本軍機による中国諸都市への空爆に対する非難決議が満場一致の採択(unanimous approval)に至る。なお、当事者の日本は既に二年半前の1935年3月27日(水)に國際聯盟からの正式脱退が発効していた(脱退の表明は更に二年前の1933年のこと)。

1937年10月1日(金) 約半年前の同年(1937年)4月5日(月)に公布されていた防空法が施行される。

1937年10月9日(土) 北京の南方の正定(現在の中華人民共和国河北省正定市)で、支那事變に於ける支那敗残兵10名がカトリック白人神父9人を縄で縛り拉致。被害者の遺体が1ヶ月後に焼死体で発見される。世に言う「正定事件」。事件から七十五年後の2012年10月13日(土)~14日(日)にオランダでシュラーフェン神父の殉教七十五周年を記念する追悼行事が開かれ、式典に招待された日本カトリック司教協議会会長の池長潤(いけなが じゅん; Leo Jun Ikenaga, b.1937)大阪大司教・イエズス会士は書簡を送り、代理出席した日本人司教(氏名不詳)が代読。その手紙には、「正定という所にある女子修道院に、日本軍の迫害を逃れた大勢の中国女性が身を寄せていました。そこに日本軍が侵入し、『慰安婦として二〇〇人を出せ!』と要求してきたのです。シュラーフェン司教は『あなた方は私を殺すがいい。しかし私はあなた方の要求を拒否します』と答え、女性たちの引き渡しを拒んだのです。その夜、日本軍の兵隊がオランダ人のシュラーフェン司教らヨーロッパの宣教師九人を拉致し、火刑によって虐殺したのです。」とあったことが2012年11月4日(日)付のカトリック新聞で報道されて問題となる。内容に不審を抱いた一部の日本人カトリック信徒の有志らが調査を開始し、事件から八十年後の2017年(平成29年)に峯崎恭輔(みねさき きょうすけ, b.1980)著 『「正定事件」の検証 カトリック宣教師殺害の真相』(並木書房, 2017年)として結実。(宮脇淳子(みやわき じゅんこ, b.1952)、倉山満(くらやま みつる, b.1973)、藤岡信勝(ふじおか のぶかつ, b.1943)共著 『昭和12年とは何か』(藤原書店, 2018年)に依拠)

1937年11月8日(月) 京都帝國大學(現在の国立大学法人京都大学)の中井正一(なかい まさかず, 1900-52; 京都帝國大學卒)=後の相愛女子専門学校(現在の相愛女子短期大学・相愛大学)講師、新村猛(しんむら たけし, 1905-92; 京都帝國大學卒)=後の名古屋大学名誉教授・橘女子大学学長=らの「世界文化」グループが治安維持法違反容疑で検挙される。

1937年11月21日(土) 支那事變(日中戦争, 1937-45)で日本軍に対して敗色濃厚な中華民國の蔣介石(しやう かいせき; Chiang Kai-shek, 1887-1975; 國民政府主席1928-31 & 1943-48; 民國總統1948-75; 保定陸軍軍官學校卒; 東京振武學校留学)が、首都を南京(Nanking; Nánjīng)市から内陸部の重慶(Chungking; Chóngqìng)市へ移すことを決定。

1937年12月1日(水) 日本軍が侵攻する中、中華民國(支那)の國民黨政府が首都を南京(Nanking; Nánjīng)市から内陸部の重慶(Chungking; Chóngqìng)市へと遷都。中華民國の蔣介石(しやう かいせき; Chiang Kai-shek, 1887-1975; 國民政府主席1928-31 & 1943-48; 民國總統1948-75; 保定陸軍軍官學校卒; 東京振武學校留学)の重慶市への脱出は同年(1937年)12月7日(火)のこと。重慶は臨時首都として機能する。

1937年12月11日(土) 日中戦争の南京攻略戦の際、日本陸軍が中国籍の船と誤認して英国海軍(Royal Navy)の砲艦2隻、レイディバード(HMS Ladybird: 「てんとう虫」の意)と同型艦ビー(HMS Bee: 「蜂(ハチ)」の意)に砲撃を加え被害を与えるという事件を起こす。事件を受けて外交ルートを通じて日本がイギリスに陳謝。

1937年12月12日(日) 首都南京上流約45kmの揚子江上で日本海軍機が中国籍の船と誤認して米国アジア艦隊揚子江警備船パナイ(USS Panay)を攻撃、沈没させ、乗務員に対し機銃掃射を行なう事件が発生。3人死亡、43人負傷。当時のマスコミの表記で「パネー号事件」。事件を受けて日本は外交ルートを通じてアメリカに陳謝。日本側は事件を重く見て、廣田弘毅(ひろた こうき, 1878-1948; 首相在任1936-37; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)外務大臣が在京米国大使館に赴き、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew, 1880-1965; ハーヴァード大学卒)に謝罪し、更にはワシントンの斎藤博(さいとう ひろし, 1886-1939; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)駐米大使へコーデル・ハル(Cordell Hull, 1871-1955; カンバーランド大学法律学校卒)国務長官への謝罪を訓令する。斎藤大使は訓令を待たずにラジオ放送枠を買い取って、全米中継で日本側の謝罪を表明。

1937年12月13日(月) 同年7月7日(水)に発生した盧溝橋事件から僅(わず)か五ヶ月超で中華民國首都南京が日本軍に陥落する。中華民國の蔣介石(しやう かいせき; Chiang Kai-shek, 1887-1975; 國民政府主席1928-31 & 1943-48; 民國總統1948-75; 保定陸軍軍官學校卒; 東京振武學校留学)は、同年(1937年)11月21日(土)以来、内陸部の重慶に臨時首都を置いていて、日本軍への抵抗を続けた。南京陥落の際に約六週間もしくは最大で二ヶ月に亘(わた)って日本軍が中国軍将兵や南京城(南京市)内の一般市民に対して戦時国際法に違反した略奪・暴行・強姦・殺傷等を行なった。世に言う南京大虐殺、または南京事件。日本側にしてみれば、中華民國軍兵士が敗走する際に軍服を脱いで南京の一般市民に紛れ込み、「便衣兵(べんいへい)」という名の不法ゲリラに成ったことに手を焼いて手当たり次第に住民を殺害したのであった。被害者の大まかな数は、完全否定説を含めて諸説あり不明。中国共産党(中共)の主張する死者三十万人説は水増しがひどすぎて根拠薄弱。日本政府の見解も、 「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である。」としている。現在中共側は「南京大屠殺」と称し、英米マスコミ各社は the Rape of Nanking (直訳「南京の凌辱(りょうじょく)」)としている。しかし1937年12月に起きた筈(はず)の事件だが、中華民國政府を率いた蔣介石は終戦までこの事件について日本を一度も非難したことはなく、米国政府が日本の戦争犯罪を徹底的に糾弾(きゅうだん)するつもりで調査した際にもまともな証拠を提示できなかった。

(参考)日本国外務省「歴史問題Q&A」問6

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/

(参考)月刊誌 『THIS IS 読売』 1994年8月号の記事「闇に葬られた皇室の軍部批判」より、大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)の四男(末っ子)で、昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の末弟であり、2016年10月27日(木)に満101歳の誕生日を5週間後にひかえて薨去(こうきょ)した三笠宮崇仁親王(みかさ の みや たかひと しんのう; Takahito, Prince Mikasa, 1915-2016; 陸軍士官學校卒; 東京女子大学講師)の発言を以下に引用。

「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。」(引用終わり)

三笠宮はその十年前にも自叙伝 『古代オリエント史と私』(学生社, 1984年)に同内容のことを書いていた。曰く、

「今もなお良心の苛責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです。

ある青年将校―私の陸士時代の同級生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。

また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。

その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。

聖戦のかげに、じつはこんなことがあったのでした。」(引用終わり)

1938年(昭和13年)2月15日(火)~17日(木) 半年以上前から本格的な戦時体制になっていたことを受け、警視庁が東京市内(現東京都区内)の繁華街で遊び回る若者たちを「非國民」として一斉取り締まり。約三千五百人が検挙される。

1938年3月15日(火) 後に吉田茂(よしだ しげる, 1878-1967; 首相在任1946-47 & 1948-54; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)内閣総理大臣を首班とする第二次吉田内閣で文部大臣(現在の文部科学大臣に相当)を二年間(1950-52年)だけ務めることになり、更に後の1964年4月には旧制獨協中学校の高等教育部門である獨協大学(在埼玉県草加市)を創設し、初代学長を務めることになる天野貞祐(あまの ていゆう, 1884-1980; 京都帝國大學卒、独ハイデルベルク大学留学)京都帝國大學教授・文學博士(京都帝國大學)が約八ヶ月前の1937年7月10日(土)に出版していた『道理の感覺』が、軍部を暗に批判している疑いを掛けられ、絶版に追い込まれる。

1938年4月1日(金) 前年(1937年)7月から続く支那事變(日中戦争, 1937-45)のため、あらゆる物資が不足していた中で國家總動員法が公布される。施行は同年(1938年)5月5日(木)。

1938年4月 中国南部の三灶島(さんそうとう)=三竃島(さんそうとう)で日本海軍が中国本土爆撃用の秘密飛行場、第六航空基地を建設する際、島の平野部で口封じのためほぼ皆殺しの島民虐殺を行なう。中国側文献では犠牲者2,891人。大井篤(おほゐ あつし, 1902-94; 東京外國語學校=現在の東京外国語大学卒、陸軍大學校卒)海軍大佐が後年、大日本帝國海軍軍令部第二復員省OBによる内密の会である第92回「海軍反省会」の席で録音機器を前にして語ったところによると、「昭和十三年三灶島事件というのがありましてね、私はそのあとで行ったんですけど、臭くて、死臭が。あの三灶島に海軍の飛行場をつくったんです。飛行場をつくるのに住民が居るもんだから、全部殺しちゃったんですよ。何百人か殺した。要するに支那事変の頃から人間なんてどんどん。作戦が第一なんだ、勝てばいいんだ、そういう空気でしたよ、あのころの空気は。こっちは負けてるんだから。いや、勝ってる時にもやってるんだ。勝ってる時やってるんだからね。我々は捕虜の人権なんてものは全く無視してるんですよ。市民にまでひどいことをしているわけですね。私は満州だとか日中戦争、あの頃にあの癖がついたんじゃないかという気が非常にするんですよ。」とのこと。その肉声を収めたテープは2009年8月11日(火)に終戦関連番組としてNHK総合テレビが放映した「日本海軍400時間の証言 第三回戦犯裁判 第二の戦争」で流れ、その国際法無視の凄惨(せいさん)な戦争犯罪の内容が少なからぬ反響を呼んだ。

(参考)外部サイト

http://ja.wikipedia.org/wiki/三竃島

1938年5月5日(木) 同年(1939年)4月1日(金)に公布されていた國家總動員法が施行される。

1938年5月 日本の主導で建国した滿州國の首都新京市(現在の中華人民共和国吉林省長春市)にその名も滿州國立建國大學が開学。日本敗戦の翌年(1946年)に跡地は長春大学(Changchun University)と成る。

1938年7月2日(土)~9月25日(日) 日獨防共協定の成立から1年半以上が経過した折、ナチス・ドイツのヒトラー靑少年團(Hitlerjugend トラーユーゲント)、略称 HJ (ハーヨット)より一足早く大日本聯合靑年團がフランス共和国首都パリ(Paris)市を経て、ドイツ国のケルン(独 Köln コェルン; 仏 Cologne コローニュ; 英 Cologne ロウ)市に到着。ドイツ各地で熱狂的な歓迎を受ける。

1938年7月3日(日) 阪神大水害で700人余りが死亡。

1938年7月15日(金) 近衞文麿(このゑ ふみまろ, 1891-1945; 首相在任1937-39 & 1940-41; 京都帝國大学卒)内閣の閣議決定により、第12回夏季オリムピック1940年東京大会の開催権を正式に返上。フィンランド共和国首都ヘルシンキ市(芬英 Helsinki; 典 Helsingfors)に開催権を譲渡。二年前の1936年の国際オリンピック委員会(IOC: International Olympic Committee)のカイロ総会でアジア初の開催が決まりながら翌’37年7月7日(水)の支那事變(後に日中戦争と呼ばれることになる戦闘行為)の勃発と戦況の悪化により、国内では「オリムピック競技場よりも軍艦を建造せよ!」という論調、海外からは「日本の支那(China)での軍事行動は怪(け)しからん!」という論調が目立つようになり、アジア初の大会が幻に終わった。開催都市が自ら大会を返上した初のケース(そして今のところ最初で最後のケース)として不名誉な記録が残ったが、仮にこの時点で返上しなかったとしても、1939年9月1日(金)に勃発した欧州戦線(後に第二次世界大戦と呼ばれることになる戦争)のため、IOCが開催中止を勧告していただろうと推測できる。早めに開催権を返上したことで日本にとっては損害を軽減することができた。東京で実際にオリンピックが実現したのは、その幻の大会から二十四年後の第18回夏季オリンピック1964年東京大会(参加国・地域数:93)のこと。

1938年8月16日(火)~11月12日(土) 日獨防共協定の成立から1年半以上が経過した折、ナチス・ドイツからヒトラー靑少年團(Hitlerjugend トラーユーゲント)、略称 HJ (ハーヨット)の代表団30名を乗せたドイツの客船グナイゼナウ(SS Gneisenau)が約1ヶ月の船旅を経て橫濱(横浜)港に入港。ドイツの若者たちを一目見ようと、港は数千人の群衆で埋め尽くされる。上陸した一行は横須賀線で帝都東京に入り、東京驛に降り立つと、驛前廣場で待ち構えていた金管バンドの吹奏で熱烈歓迎を受ける。東京市内(現在の東京都区内)では明治神宮と靖國神社を參拜(参拝)し、在京ドイツ大使館(現在の国立国会図書館の位置)でティータイムを過ごし、官立第一髙等學校、通称 一校(いちこう: 現在の国立大学法人東京大学駒場地区キャンパスの前身)と獨逸學協會學校(現在の獨協中学校・高等学校の前身)を友好訪問する。一校では生徒の多くが去って行くヒトラー靑少年團に向かって「バカヤロー! 二度と來るなよー!」と日本語で罵声を浴びせたという。東京を出てからは日本の靑少年團代表百餘名と共に富士山頂まで登り、淺間神社で旭日(御來光)を仰ぐ。同靑少年團は約3ヶ月間、北は北海道から南は九州まで日本各地を訪問し、行く先々で熱烈歓迎を受ける。本州では伊勢神宮も参拝したが、一行の参拝態度は外国人としては珍しく敬虔な態度で人々を驚かせたという。ヒトラー靑少年團は同年11月12日(土)に神戶(神戸)港を出港し、ドイツへ向けて離日。

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http://hexagon.inri.client.jp/floorB1F_hss/b1fha506.html

1938年12月4日(日)~1943年(昭和18年)8月23日(月) 日本軍が断続的に計218回に亘り中華民國臨時首都の重慶(じゅうけい; Chóngqìng)市を無差別爆撃し、死者約一万人を出す。後の米軍による日本への無差別爆撃(1942-45年)とは被害の規模に於いて比較にならず、知名度の点では1937年4月26日(月)のナチス・ドイツによるスペインのバスク地方ゲルニカ(Guernica or Gernika)村への空爆が、英仏米からの非難とピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)の絵画 『ゲルニカ』(Guernica, 1937)による効果で名高いが、1938年から’39年当時としては日本軍による重慶爆撃こそが世界初の空爆による都市住民大量殺戮として歴史的に位置づけられている。このため後の米軍による東京など日本の各都市への無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠としても利用されてしまうことになる。

1939年(昭和14年)1月14日(土) 東京の華族會館で、貴衆兩院(現在で言う衆参両院)の有志と愛國婦人會など44婦人團体の代表が集まり廃娼運動促進協議會を組織。

1939年1月~3月 東京帝國大學の平賀讓(ひらが ゆずる, 1878-1943; 東京帝國大學總長在任1938-43; 東京帝國大學卒、英グリニッジ王立海軍大学校造船科卒)總長・敎授・工学博士(東京帝國大學)、男爵、海軍技術中將が、同大學經濟學部敎授會議に諮(はか)らず同學部の自由主義派(純理派)の河合榮治郎(かはひ ゑいぢらう; かわい えいじろう, 1891-1944; 東京帝國大學法科大學卒)敎授と、國家主義派(革新派)の土方成美(ひじかた せいび, 1890-1975; 東京帝國大學法科大學卒)敎授を喧嘩両成敗の立場から休職処分にすることを荒木貞夫(あらき さだを, 1877-1966; 陸軍大學校卒)文部大臣(現在で言う文部科学大臣に相当)、男爵、陸軍大將、法政大學元顧問に具申。前者(河合敎授)については「學說表現の欠格」、後者(土方敎授)については「大學の綱紀(かうき)の紊乱(びんらん)」と「東大再建の障碍(しやぅがい)」がその理由として挙げられている。学部の自治と思想の自由に介入したこの処分に抗議し、両派の教授らも辞表を提出、13名が經濟學部に辞表を提出するという一大騒動に発展。助教授以下の辞職撤回と教官の補充により事態が収拾するのは三年後の1940年のこと。世に言う「平賀粛學」(Hiraga Purge)。

1939年2月26日(日) 斎藤博(さいとう ひろし, 1886-1939; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)駐米大使が在任中に病歿。同大使は1934年に着任して以来、1937年12月12日(日)に起きたパネー号事件に際し、直接ラジオの全米中継で平和的解決を訴えるなど、日米関係の改善に努めたことで知られていた。アメリカ政府は同大使の死を悼(いた)み、またエドガー・バンクロフト(Edgar Bancroft, 1857-1925; ノックス大学卒、コロンビア大学法科大学院修了)駐日アメリカ大使(当時)の死に際し、日本政府が同大使の遺骸を1925年8月6日(木)から23日(日)にかけて輕巡洋艦「多摩」によって故国アメリカへ送り届けたことへの返礼の意味を込めて、巡洋艦「アストリア」(USS Astoria)に遺骨を丁重に載せて日本に送り届ける。同年(1939年)4月17日(月)、橫濱港山下棧橋に於いて受領式が行われ、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew, 1880-1965; ハーヴァード大学卒)が夫人と共に列席。

1939年4月 帝國大學令に基づいて名古屋醫科大學を帝國大學醫學部に改組し、名古屋帝國大學(現在の名古屋大学)が創設される。朝鮮と臺灣(台湾)を含む9帝大体制の確立。

1939年5月1日(月) 14時58分26.5秒、男鹿地震が発生。死者27人。

1939年5月11日(木)~9月16日(土) ノモンハン事件の勃発(ぼっぱつ)。ソ連側では「ハルヒン・ゴル=ハルハ河での(複数の)戦闘」(Бои на Халхин-Голе = Boi na Khalkhin-Gole)と呼び、英語でも同様に Battles of Khalkhin Gol としている。日本が実質的に支配していた満洲國とモンゴルとの国境紛争が、遂には日本の關東軍対ソ連軍・モンゴル人民共和国軍の連合との間の秘密戦争に発展。事件は第一次ノモンハン事件(1939年5月11日(木)~5月31日(水))と第二次ノモンハン事件(同年6月27日(火)から9月16日(土)にかけて)の二期に分けられる。第一次の戦闘は日ソ間で五分五分だったが、第二次で日本軍は壊滅的な敗北を喫することになる。

1939年6月16日(金) 國民精神總動員委員會で定められた官製標語として「堅忍持久」、「ぜいたくは敵だ」、「日本人ならゼイタクはできない筈だ」、「パーマネントはやめませう」などの標語が出され、学生の長髪や店舗のネオンと並んで女性のパーマネント(パーマ)が実質的に禁止になる。「パーマネントはやめませう」の標語は子供にまで浸透し、街中で連呼されるようになる。

1939年7月26日(水) アメリカ側が一方的に日米通商航海条約(Japan-US Commerce and Navigation Treaty)の破棄を日本側に通告。日本軍の支那(現在の中国)での軍事行動に抗議してのこと。その半年後の1940年1月26日(金)に当該条約が失効。

1939年8月20日(日)~21日(月) 同年(1939年)6月27日(火)に始まった第二次ノモンハン事件でソ連軍が日本の關東軍に総攻撃を加え、壊滅的損害を与える。

1939年8月23日(水) ノモンハンで日ソ両軍(厳密には他にソ連側に就いたモンゴル軍)の戦闘が続く中、ナチス・ドイツが仇敵のソ連と独ソ不可侵条約(独 Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt; 露 Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом = Dogovor o nenapadenii mezhdu Germaniyey i Sovetskim Soyuzom; 英 German-Soviet Nonaggression Pact)を締結。

1939年8月28日(月) 五日前の同年(1939年)8月23日(水)に結ばれた独ソ不可侵条約(独 Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt; 露 Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом = Dogovor o nenapadenii mezhdu Germaniyey i Sovetskim Soyuzom; 英 German-Soviet Nonaggression Pact)の一報が日本にも届く。日独防共協定を締結して日独の軍事同盟を積極的に推進してきた大日本帝國陸軍(IJA: Imperial Japanese Army)に大きな衝撃が走り、日独同盟の是非を議論していた日本は動揺。平沼騏一郎(ひらぬま きいちらう, 1867-1952; 首相在任1939; 帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒、慶應義塾大學教授、日本大學總長、大東文化學院=現在の大東文化大学總長、皇典講究所=現在の國學院大學副総裁)男爵・内閣總理大臣は、「鷗洲の天地は複雜怪奇なる新情勢を生じ」と声明を発表。

1939年8月30日(水) 二日目の同年(1939年)8月28日(月)に独ソ不可侵条約(独 Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt; 露 Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом = Dogovor o nenapadenii mezhdu Germaniyey i Sovetskim Soyuzom; 英 German-Soviet Nonaggression Pact)の一報に衝撃を受けた平沼騏一郎(ひらぬま きいちらう, 1867-1952; 首相在任1939; 帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒、慶應義塾大學教授、日本大學總長、大東文化學院=現在の大東文化大学總長、皇典講究所=現在の國學院大學副総裁)男爵・内閣が総辞職。その僅(わず)か二日後の9月1日(金)にはナチス・ドイツがソ連との密約の通りに、突如としてポーランドに侵入することになる。

1939年9月1日(金) ナチス・ドイツの軍隊がポーランドを侵略。電撃戦(独 Blitzkrieg ブリッツクりーク: 「稲妻戦争」の意)の開始。同盟国の日本としても寝耳に水。

1939年9月3日(日) 二日前の9月1日(金)にポーランドに侵入していたナチス・ドイツに対して英仏の両国が宣戦布告。ところが1940年4月までこれといった動きが無かったため、「まやかし戦争」(英 Phoney War フォウニィウォー)や「座り戦争」(独 Sitzkrieg ジッツクりーク; ナチス独お得意の「電撃戦」(Blitzkrieg ブリッツクりーク)の捩(もじ)り=パロディー)や「おかしな戦争」(仏 Drôle de guerre ドゥほール・ドゥゲーふ)などと各国のマスコミに揶揄(やゆ)される。

1939年9月15日(金)~16日(土) 同年(1939年)5月11日(木)から続いていた日ソ両軍の軍事衝突「ノモンハン事件」をめぐり東鄕茂德(とうごう しげのり, 1882-1950; 外務大臣在任1941-42 & 1945)駐蘇聯(ソ連)日本國特命全権大使がモスクワでソ連と停戦協定を成立させ、二日目(1939年9月16日(土))に日ソ共同声明が発表されて戦闘終結。一連の戦闘での日本軍将兵の死傷者は、約17,700人、多い見積もりでは2万3千人にも上り、戦車30両、航空機180機を失うという日本軍創設以来の大損害を被(こうむ)る。しかしながら、1991年12月25日(水)のソヴィエト連邦(ソ連)崩壊を受け、これまで秘密にされてきたソ連側文書が公開されるに伴ない、実はソ連側被害の方が甚大(じんだい)だったことが判明している。二度にわたるノモンハン事件のソ連軍死傷者は、1998年のロシア連邦の発表では、少なくとも25,655人、戦車などの装甲車両400両、航空機350機が破壊されていたのだった。しかしながら、結果的にハルハ河の国境線はソ連の望み通りに決したことからすれば、ソ連の戦勝=日本の敗北である。したがって日本では1945年の終戦(帝國消滅の敗戦)まで事件は秘匿(ひとく)された。ソ連はこれらの戦闘で日本軍が採用した様々な戦術を後に取り入れ、兵器にも改良を施して、二年後の1941年6月22日(日)に始まる独ソ戦に応用した結果、その四年後の1945年5月9日(水)にはドイツに対して勝利を収めることになる。一方の日本はノモンハンでの敗北を封印することに腐心し、帰還した将兵には箝口令(かんこう れい)を敷き、日ソ捕虜交換で帰還した元捕虜の将校たちに自決(=自殺)を強要した。日本は失敗から得られた筈(はず)の教訓を生かすことができなかった。

1939年9月17日(日) 前日(1939年9月16日(土))に日本との間のノモンハン事件を解決したソ連がポーランドの東半分とバルト三国へ侵攻し、瞬(またた)く間(ま)に占領。ナチス・ドイツと密約で結託した結果ながら、ドイツと同じことをしたソ連に英仏は宣戦布告せず。

1939年10月18日(水) 二年以上前の1937年7月7日(水)に勃発していた支那事變(日中戦争, 1937-45)の長期化により物資不足が目立ってきた中、前年(1938年)4月1日(金)公布、同年(1938年)5月5日(木)施行の國家總動員法に基づく勅令として、價格(価格)等統制令が公布される。施行は二日後の同年(1939年)10月20日(金)。

1939年10月20日(金) 二日前の同年(1939年)10月18日(水)に公布されていた價格(価格)等統制令が施行される。政府は経済統制のために価格を据え置いて値上げを禁止し、同年(1939年)9月18日(月)現在の価格を以(もっ)て上限とする公定価格制を実施。商品価格のみならず、運送費、保管料、損害保険料、賃貸料など殆(ほとん)どすべての価格を据え置いた。当時の帝國政府はインフレ(inflation)を抑え、国民生活を守るため、良かれと思って公定価格を定めたが、業者たちは表だって値上げできなくなる代わりに闇価格が世の中に横行することになり、本来の需要と供給によって決まる価格よりも法外に高い価格となったことで、結果としてこの法令は国民生活を苦しめた。当初は1年間の期間限定だった筈(はず)が終戦半年後の1946年3月3日(日)まで引き伸ばされる。

1939年12月 アメリカが日本への航空機とその装備品、航空機製造機械、ガソリン精製装置を禁輸に。

1940年(昭和15年)1月15日(月) 12:08頃、靜岡縣靜岡市(現在の静岡県静岡市葵区と駿河区)で靜岡大火が発生。死者1名。

1940年1月21日(日) 日本の豪華貨客船、淺間丸(Asama Maru)が米領ハワイのホノルル港から横濱港に向けて航行中、千葉縣房総半島沖の公海上で英国海軍(Royal Navy)の軽巡洋艦リヴァプール(HMS Liverpool)により臨検され、当時日本と同盟関係にあったドイツ人乗客51名のうち、兵役に就くことのできる年齢の21名が戦時捕虜の名目で拉致(らち)される事件が起きる。当時関係が悪化していた日英間で「淺間丸事件」として大きな国際問題にまで発展。この年は日本各地で反英集会が開かれる。

1940年1月26日(金) 二十九年前の1911年に日米間で調印され、日本にとって悲願だった関税自主権(tariff autonomy)の奪還に成功した日米通商航海条約(Japan-US Commerce and Navigation Treaty)が失効。多くの戦略物資を米国に依存していた日本では、資源を東南アジアに求める南進論が強まる。欧州では既にフランスとオランダがナチス・ドイツによって軍事占領されていたため、日本がフランス領インドシナ(佛印)やオランダ領東インド(蘭印)に進出して、石油資源その他を確保しようという火事場泥棒的な戦略を立案。

1940年2月11日(日・祝) 昭和十五年紀元節(現在の「建国記念の日」)のこの日、日本各地で紀元二千六百年奉祝行事が執り行なわれ、多数の受刑者が恩赦(おんしゃ)で世に放たれる。

1940年4月1日(月) 皇紀2600年を記念して、官立專門學校神宮皇學館が大學令による官立神宮皇學館大學(現在の皇學館大学の前身)に昇格。

1940年6月22日(土) 滿洲帝國皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ; アイシンギョロ・プーイー; Aisin Gioro Puyi; Puyi, 1906-67; 在位1908-12 & 1917 & 1934-45)が首都新京(現在の中華人民共和国吉林省長春市)をお召列車で出発し、一路友好国の日本へ向かう。

(外部サイト)

https://www.youtube.com/watch?v=yvV_joJ-IHw

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300388_00000&seg_number=001

1940年6月26日(水) 滿洲帝國皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ; アイシンギョロ・プーイー; Aisin Gioro Puyi; Puyi, 1906-67; 在位1908-12 & 1917 & 1934-45)が橫濱港に到着。1935年4月6日(土)から五年ぶり二度目の国賓としての訪日を開始。天皇の弟宮である高松宮宣仁親王(たかまつ の みや のぶひと しんのう; Nobuhito, Prince Takamatsu, 1905-87; 海軍兵學校卒)が港に出迎え。お召列車で東京驛に溥儀一行が到着した際には、両国の友好関係を表すべく昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が直々に駅のプラットフォームまで賓客を迎えに行くという異例中の異例の歓待を行なったのは前回(1935年)と同じ。同年(1940年)7月6日(土)に帰国の途に就く。なお、三度目にして最後の訪日は、1946年8月のことで、東京裁判で検察側証人として出廷することになる。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300388_00000&seg_number=006

1940年7月7日(日) 一定以上の価格のメロンや苺(イチゴ)や背広や腕時計といった「高級品」を買ってはならないとする省令が布告される。掟(おきて)破りがいないか否か、隣組や國防婦人會が巡回。國防婦人會は華美な服装やパーマネント頭(今で言うパーマ)の女性を捕まえ、隣組は「お宅からすき焼きのにおいが漂ってますけど、このご時世にすき焼きを食べるのですか」などと監視するようになる。世に言う「七・七禁令」。

1940年7月 アメリカが日本への屑鉄を禁輸に。日本が国内の英人をスパイ容疑で大量検挙。その過程で英ロイター通信社(Reuters)の東京特派員(Tokyo correspondent)コックス(James Cox, 19?? - 40)が警視庁の取り調べ中に拷問に耐えられず、窓から飛び降り死亡。警視庁は「被疑者自殺」として処理したが、時の英外相の初代ハリファックス伯爵(Edward Wood, 1st Earl of Halifax, 1881-1959)は重光葵(しげみつ まもる, 1887-1957)駐英日本国大使を英外務省(Foreign Office)に呼び出して厳重抗議。外交問題に発展。

1940年8月 アメリカが日本へのガソリン輸出制限を課す。

1940年9月21日(土)~10月6日(日) 幻となった東京オリンピックの開催予定日程。

1940年9月23日(月) 日本による「北部佛印進駐」。フランスが同年6月の時点でナチス・ドイツに敗戦し、占領されたドサクサに紛れた火事場泥棒的行為として、日本がフランス領インドシナ北部(当時の用語で北部佛印、現在のベトナム北部)へ進駐して同地を軍事占領。

1940年10月12日(土) 既成政党が大連立を組んで大政翼贊會を組織。以後、敗戦直前まで日本政治を支配(翼賛体制)。

1940年10月27日(日) 南京駐留の大日本帝國陸軍一六四四部隊が寧波(にんぽう; Níngbō)市でペスト蚤(のみ)を散布。この攻撃後から2ヶ月間でペストによる死者106名を出す。

1940年11月10日(日) 紀元二千六百年式典が宮城外苑(現在の皇居外苑)で天皇皇后臨席のもとで挙行され、JOAK(ジェイ・オウ・エイ・ケイ)ラヂオ(現在のNHKラジオ第1放送の前身)で実況中継される。近衞文麿(このゑ ふみまろ, 1891-1945; 首相在任1937-39 & 1940-41; 京都帝國大学卒)内閣総理大臣の壽詞に続いて昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が勅語を読むが、その箇所でラジオの音声が中断される。日本国民が昭和天皇の肉声をラジオで聞くのは、五年近く後の1945年8月15日(水)正午にポツダム宣言受諾を伝える玉音放送まで待たねばならない。ラジオ音声が途絶えたのは意図的であり、当時のラジオ聴取者がどのような姿勢・体勢で放送を聴いているかが当局には見えないため、不敬とされる状況が生じるのを避けるための措置だったという。

1940年11月11日(月) 紀元二千六百年奉祝會が宮城外苑(現在の皇居外苑)で天皇皇后臨席のもとで挙行され、奉祝會總裁代理の高松宮宣仁親王(たかまつ の みや のぶひと しんのう, 1905-1987; 海軍兵學校卒)海軍大佐と第13代駐日アメリカ合衆国大使ジョセフ・グルー(Joseph Grew, 1880-1965; ハーヴァード大学卒)による奉祝詞奏上、平城京風の奉祝舞楽「悠久」の演舞、高松宮による「聖壽萬歳三唱」などが行なわれる。参列者には祝いの食饌が用意されたが、日本酒・パン・果物など簡素な食品だったという。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300408_00000&seg_number=001

1941年(昭和16年)1月8日(水) 支那事變(日中戦争)中のこの日、大日本帝國政府は内閣總理大臣東條英機(とうでう ひでき; とうじょう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44; 陸軍大學校卒)の名で戰陣訓(せんぢんくん)を発表。特に「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」の中の一節、「生(い)きて虜囚(りよしう)の辱(はづかしめ)を受(う)けず、死(し)して罪禍(ざいくゎ)の汚名(をめい)を殘(のこ)すこと勿(なか)れ。」が悪名(あくみょう)高いが、これは「降伏して捕虜になるより、潔(いさぎよ)く死ね」ということを意味した。軍国政府は国民を徹底的に洗脳し、国を挙げて玉砕(ぎょくさい: 全員戦死、降伏者ゼロ)を美化し、捕虜になることは絶対に認めず許さなかった。こうした強い国家意思を兵士たちのみならず、日本国民全員へ徹底したため、結果と して自軍の兵士たちや国民を大量に無駄死にさせた。仮に何らかの事情(気絶していた等)で敵の捕虜になったが最後、後に生きて日本へ帰ってきても、故郷で村八分にされた。日本の洗脳された人々は捕虜になった者の社会復帰は絶対に認めようとしなかった。

ところが事もあろうに東條本人は敗戦後に逮捕拘禁に来た米軍憲兵(MP: military police)に東京都世田谷區用賀の私邸を包囲された1945年9月11日(火)16時17分頃、拳銃自殺を図ったが失敗し、マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)総司令官の指示の下で米軍による最善を尽くした輸血手術と看護を施(ほどこ)されて九死に一生を得た。そして1946年5月3日(金)から1948年11月12日(金)にかけて開廷した連合国軍による所謂(いわゆる)「東京裁判」こと極東軍事裁判で死刑判決が言い渡され、皇太子(現在の今上天皇)15歳の誕生日に当たる同年12月23日(木)に巢鴨プリズン(現在の東京メトロ東池袋駅近くの池袋サンシャインシティ)にて絞首刑に処された。当人の理想とは裏腹に「生(い)きて虜囚(りよしう)の辱(はづかしめ)を受(う)け」た上に最も不名誉な刑死で世を去ることになってしまった皮肉な例であるが、戦後も暫(しばら)く経(た)った昭和五十三年=1978年10月17日(火)、靖國神社(在東京都千代田区九段)は東條をはじめとするA級戦犯たちを「昭和殉難者」として合祀(ごうし)して今日(こんにち)に至っている。

(参考)外部サイト

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/戦陣訓

http://www.youtube.com/watch?v=oXhgzUMZ0Mw

http://www.youtube.com/watch?v=SIk9DAMgKR8

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F%E8%87%AA%E6%AE%BA%E6%9C%AA%E9%81%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1941年4月1日(火) 國民學校令が施行され、尋常小學校と高等小學校が國民學校に改称される。この事態は六年後の1947年3月31日(月)まで続く。

1941年7月26日(土) イギリスが在英日本資産凍結令を公布。また、四十七年前の1894年7月16日(月)に日英間で調印され、日本にとって悲願だった列強の日本に於(お)ける治外法権(extraterritoriality)の奪還に成功した日英通商航海条約(Anglo-Japanese Treaty of Commerce and Navigation)をイギリスが破棄。日英関係は極めて険悪に。

1941年7月28日(月) 日本による「南部佛印進駐」により、仏印進駐が完了。十ヶ月前の1940年9月の北部仏印進駐に続き、日本軍がフランス領インドシナ南部(当時の用語で南部佛印、現在のベトナム南部)へ進駐して同地を軍事占領。フランスがナチス・ドイツに敗戦したドサクサに紛れた日本の火事場泥棒的行為に激怒した米国が翌月(1941年8月)に在米日本資産を凍結し、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止(対日石油禁輸)。

1941年9月6日(土) 御前会議(ごぜん くゎいぎ: 天皇の臨席を賜(たまわ)った閣議のこと)の席で、もし日本の要求が認められない場合、同年(1941年)10月下旬にも対米開戦の準備を進めるという「情勢の推移に伴ふ帝國々策遂行要領」が決定される。内心では日米戦争に反対だった昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)は、懐(ふところ)から紙を取り出し、祖父明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)御製(ぎょせい)の和歌「四方(よも)の海(うみ) 皆(みな)同胞(はらから)と思(おも)ふ世(よ)に など波風(なみかぜ) 立(た)ち騒(さは)ぐらむ」と詠(よ)んだ。しかしながら、この歌はロシアと交戦状態に入ってから明治天皇が詠んだ歌だったので、側近には昭和天皇が日米開戦を渋々認めたものと解釈された。

1941年10月16日(木) 近衞文麿(このゑ ふみまろ, 1891-1945; 首相在任1937-39 & 1940-41; 京都帝國大學卒)内閣が二度目の総辞職を表明。

1941年10月18日(土) 上記の近衞文麿に代わり、対米戦争回避を願う昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の意を受けた陸軍大臣・陸軍大將の東條英機(とうでう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44; 陸軍大學校卒)が組閣。東條新内閣は外交交渉による対米戦争回避の再検討を開始。

1941年11月27日(木) 支那(China)及び佛印(French Indochina)からの撤兵や、日独伊三国同盟の廃棄を要求するハル(Cordell Hull, 1871-1955; 国務長官在任1933-44)米国務長官の覚書である「合衆國及日本國間協定ノ基礎概略」(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)=通称「ハル・ノート」(Hull note)の内容が日本側に齎(もたら)される。東條英機(とうでう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44; 陸軍大學校卒)内閣は、その覚書に書かれた最後通牒(さいご つうちょう: ultimatum オルティメイタム)に呆然とし、外交交渉よりも武力で決着をつける方向で固まる。その内容を考えたのが、米政府内のソ連側スパイであるハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White, 1892-1948)だったことが現在では明らかになっている。米側は冷戦期のヴェノナ計画(Venona project)によってホワイトのスパイ活動の詳細を摑んでいたが、ソ連の暗号を解読している事実を秘匿するため公表しなかった。しかしながら、ソ連崩壊(1991年末)後の1995年になって公開した。この事実から、日米両国はソ連のスパイに踊らされて無駄な戦争を戦ってしまったことになる。

1941年12月1日(月) 御前会議(ごぜん くゎいぎ: 天皇の臨席を賜(たまわ)った閣議のこと)の席で、東條英機(とうでう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44; 陸軍大學校卒)内閣が対米開戦を最終決定。昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)は黙認。

1941年12月7日(日) 昼頃 東條英機(とうでう ひでき; とうじょう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44; 陸軍大學校卒)内閣總理大臣が宮城(きうじやう: 現在の皇居のこと)で昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)と面会。翌日(1941年12月8日(月))未明に敢行されることになる戦闘行為の説明をしたと考えられる。

1941年12月8日(月)未明の2:15=英領極東部の現地時間では3:15=グリニッヂ標準時(GMT: Greenwich Mean Time)では12月7日(日) 17:15 大日本帝國陸軍(IJA: Imperial Japanese Army; 当時の日本軍自身の英文表記では Imperial Nipponese Army イムピーりオゥニッポニーザーミィ)が英領馬來(現在のマレーシア本土のマレー半島)に侵攻。大日本帝國が米英に宣戦布告。日本軍は英領馬來(現在のマレーシア本土のマレー半島)攻略のため、国際法に違反して中立国だった泰國(タイ王国)領内にも一旦侵入し、タイ軍と三日間だけの戦火を交える。タイ側は183人が死亡、日本側は141人が死亡。英領マレーにも雪崩(なだれ)込む。時差の関係で見過ごされがちだが、英領への侵攻は真珠湾奇襲攻撃より一時間以上早く(資料によっては二時間も早く)実行されたのだった。英米日等の管理下にあった上海共同租界(Shanghai International Settlement)を日本が軍事占領し、米英国籍の敵性外国人を抑留。上海の日本海軍は投降命令に従わなかった英国海軍(Royal Navy)の河川砲艦(river gunboat)ペトレル號(HMS Peterel)を撃沈。米国海軍(US Navy)の河川砲艦ウェイク號(USS Wake; 当時の日本の表記で「ウェーキ號」)は戦わずに日本軍に投降。日本軍は遠く英領シンガポール、それに米領フィリピンのダヴァオ港、ウェイク島(日本の表記で「ウェーキ島」)、グァム島の米海軍基地を空襲。マレー半島の日本軍は銀輪部隊と名付けた自転車を使った兵力が驚異的な速度で南下を開始。皮肉なことに英殖民地当局が戦前に敷設(ふせつ)していた良質な舗装道路が日本軍の進撃を助けてしまう。僅(わず)か二ヶ月と一週間後の1942年2月15日(日)には英帝国東亞の牙城で「極東のジブラルタル」とも称された英領シンガポールが日本軍の軍門に下ることになる。

1941年同月同日(月)未明の3:19=米領ハワイの現地時間では12月7日(日)朝の8:19=グリニッヂ標準時(GMT: Greenwich Mean Time)では12月7日(日) 18:19 大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)機動部隊が米領ハワイ(現在の米ハワイ州)ホノルル郊外の眞珠灣(しんじゅわん: Pearl Harbor)を奇襲攻撃(preemptive strike)。日本軍の航空機と潜航艇による攻撃で米軍人に死者2,345人に米民間人に死者68人を出す。米民間人の犠牲者は米軍の誤射によるものだったが、結果として民間人にも死者を出すことは日本軍の計画には入っていなかった。戦術(tactics)としては、日露戦争開戦時の旅順口攻撃(1904年2月8日(月)夜)と同様に、1807年9 月2日(水)~5日(土)の英国海軍(Royal Navy)によるコペンハーゲン市街艦砲射撃(Second Battle of Copenhagen)の真似であり、尚且(なおか)つ1940年11月11日(月)~12日(火)の同海軍による対イタリア海軍のターラントォ軍港空襲 (Battle of Taranto)をも模倣したものだった。米側は十九世紀中盤の米墨戦争(Mexican-American War, 1846-48)で叫ばれた「アラモ砦を忘れるな!」(Remember Alamo!)や十九世紀末の米西戦争(Spanish-American War, 1898)で叫ばれた「メイン号を忘れるな!」(Remember the Maine!)の捩(もじ)りで、「真珠湾を忘れるな!」(Remember Pearl Harbor!)の標語(slogan)で戦意高揚に成功。なお、毎年12月8日はカトリック教会で聖母の無原罪の御宿り(Immaculate Conception of the Virgin Mary)の日となっていて、後の終戦の日となる8月15日が聖母被昇天(Assumption (of the body and soul of the Virgin Mary into heaven))の日及びザビエルの日本上陸(Francisco Xavier’s landing in Japan)の日であることと並んでカトリックとの強い因縁を感じさせる。

1941年同月同日(月) 6:00 JOAK(ジェイ オウ エイ ケイ)ラヂオ(現在のNHKラジオ第1放送の前身)臨時ニュースが大本營陸海軍部發表「大本營(ダイホンエイ)陸海軍部(リク カイグン ブ)發表(ハツピヤウ)。本八日(ホン ヤウカ)六時(ロクジ)。帝國陸海軍(テイコク リクカイグン)は本八日(ホン ヤウカ)未明(ミメイ)、西太平洋(ニシ タイヘイヤウ)ニ於(オヒ)テ米英軍(ベイ エイ グン)ト戰鬪(セントゥ)狀態(ジヤウタイ)ニ入(イ)レリ。」( http://www.youtube.com/watch?v=Axip22Btbmc )をそのまま放送。

1941年同月同日(月) 開戦の日に日本女子髙等學院(現在の昭和女子大学の前身)では創立者にして当時の理事長人見圓吉(ひとみ ゑんきち, 1883-1974)、筆名 人見東明(ひとみ とうめい, 1883-1974; 早稲田大學卒)が女子のみで構成された全校生徒を東中野の狭い校庭に集め、「米英との戦争が始まったが、本学では今後も英語教育を続ける。英米人の先生方にも失礼のないように。」という内容の訓示を垂れる。その後で、「必勝を祈願して松蔭神社まで歩いてお参りに行こう。」と言ったのは時局がら致し方なし。なお、英米国籍の教員たちは「敵性外國人」という理由で間もなく警察に連行されてしまう。

1941年同月同日(月) 開戦の日に宮澤・レイン(当時の表記でレーン夫妻)冤罪事件。北海道帝國大學工學部電氣工學科2年生の宮澤弘幸(みやざわ ひろゆき, 1920?-47)と、彼と親交が深かったアメリカ人の豫科英語教師ハロルドとポーリンのレイン夫妻(Harold Lane, ?-1963 and Pauline Lane, ?-1966)が軍機保護法違反の容疑で特別髙等警察(特髙警察)に逮捕され、懲役に処される。レイン夫妻は1943年に日米抑留者交換船でアメリカへ送 還。宮澤弘幸は終戦後釈放されるが 過酷な懲役による罹病のため1947年2月に早世。

1941年同月同日(月) 12:20 大日本帝國が「帝國政府聲明」を発表し、翌9日(火)の夕刊各紙に掲載される。その最終部には、「而(しかう)して、今次帝國が南方諸地域に對(たい)し、新(あらた)に行動を起(おこ)すの已(や)むを得ざるに至る、何等(なんら)その住民に對し敵意を有するものにあらず、只(たゞ)米英の暴政を排除して東亞を明朗本然の姿に復し、相(あい)携(たずさ)へて共榮の樂を頒(わか)たんと祈念(きねん)するに外(ほか)ならず、帝國は之等(それら)住民が、我が眞意を諒解(りゃぅかい)し、帝國と共に、東亞の新天地に新(あらた)なる發足(ほつそく)を期(き)すべきを信じて疑はざるものなり、今や皇國の隆替(りゅぅたい)、東亞の興廢は此の一擧に懸(かゝ)れり、全國民は今次征戰の淵源(ゑんげん)と使命とに深く思(おもひ)を致し、苟(いやしく)も驕(おご)ることなく、又(また)怠(おこた)る事なく、克(こ)く竭(つく)し克(こ)く耐(た)へ、以(もっ)て我等祖先の遺風を顕彰(けんしゃぅ)し、難關(なんくゎん)に遭(あ)ふや必ず國家興隆の基(もと)を啓(ひら)きし我等祖先の赫赫(かっかく)たる史績を仰ぎ、雄渾(ゆうこん)深遠(しんゑん)なる皇謨(くゎぅぼ)の翼贊(よくさん)に萬(ばん)遺憾なきを誓ひ、進んで征戰の目的を完遂し、以(もっ)て聖慮を永遠に安(やす)んじ奉(たてまつ)らむことを期(き)せざるべからず」(一部に振り假名を補充)とあった。

(参考) http://livedoor.blogimg.jp/giranbarekanjya/imgs/0/b/0b958ff8.jpg

1941年同月同日(月) 13:00 JOAK(ジェイ オウ エイ ケイ)ラヂオ(現在のNHKラジオ第1放送の前身)臨時ニュースで、館野守男(たての もりお, 1914-2002; 東京帝國大學卒)アナウンサーが「(準國歌「海(うみ)行(ゆ)かば」の音)/ (チャイムの音)/ 臨時(りんじ)ニュースを申上(まうしあ)げます。臨時(りんじ)ニュースを申上(まうしあ)げます。大本營(ダイホンエイ)陸海軍部(リク カイグン ブ)十二月八日(ジウニガツ ヤウカ)午前六時(ゴゼン ロクジ)發表(ハツピヤウ)。帝國陸海軍(テイコク リクカイグン)ハ本八日(ホンヤウカ)未明(ミメイ)、西太平洋(ニシ タイヘイヤウ)ニ於(オヒ)テアメリカ、イギリス軍(グン)ト戰鬪(セントゥ)狀態(ジヤウタイ)ニ入(イ)レリ。/ (チャイムの音)/ 臨時(りんじ)ニュースを申上(まうしあ)げます。臨時(りんじ)ニュースを申上(まうしあ)げます。帝國海軍(ていこく かいぐん)は布哇(ハワイ)方面(ほうめん)のアメリカ艦隊(かんたい)並(なら)びに航空兵力(かうくう へいりよく)に對(たい)し決死(けつし)の大空襲(だい くうしう)を敢行(かんかう)し新嘉坡(シンガポール)其他(そのた)をも大爆擊(だいばくげき)しました。/ 大本營(ダイホンエイ)海軍部(カイグンブ)ケフ午後一時(ゴゝ イチジ)發表(ハツピヤウ)。/ 一(イチ)、帝國海軍(テイコク カイグン)ハ本八日(ホン ヤウカ)未明(ミメイ)、布哇(ハワイ)方面ノアメリカ艦隊(カンタイ)並(ナラビ)ニ航空兵力(カウクウ ヘイリヨク)ニ對(タイ)シ決死(ケツシ)ノ大空襲(ダイクウシウ)ヲ敢行(カンカウ)セリ。/ 二(ニ)、帝國海軍(テイコク カイグン)ハ本八日(ホン ヤウカ)未明(ミメイ)、上海(シヤンハイ)ニ於(オヒ)テイギリス砲艦(ハウカン)ペトレル號(ガウ)を擊沈(ゲキチン)セリ。アメリカ砲艦(ハウカン)ウェイク號(ガウ)ハ同時刻(ドゥ ジコク)我(ワレ)ニ降伏(カウフク)セリ。/ 三(サン)、帝國海軍(テイコク カイグン)ハ本八日(ホン ヤウカ)未明(ミメイ)、新嘉坡(シンガポール)ヲ爆擊(バクゲキ)シテ大(ダイ)ナル戰果(センクヮ)ヲ収(オサ)メタリ。/ 四(ヨン)、帝國海軍(テイコク カイグン)ハ本八日(ホン ヤウカ)早朝(サウテウ)、ダバオ、ウェーク、グアムノ敵軍事施設(テキ グンジ シセツ)ヲ爆擊(バクゲキ)セリ。/ (行進曲「軍艦」、通稱「軍艦マーチ」の音)」と、同日(月) 6:00の時点での対米英開戦及び同日(月) 13:00の時点での緖戦の華々しい戦果を伝える大本營發表ニュース原稿( https://www.youtube.com/watch?v=TgkkMgXWDLE )を読み上げる。なお、同アナウンサーは1945年8月14日(火)、昭和天皇の玉音放送を阻止しようと東京都麴町區内幸町(とぅきやう と かうじまち く うちさいはひ ちやう)=現在の東京都千代田区内幸町に在った東京放送會館(跡地は日比谷シティ)に押し寄せた叛亂(反乱)軍から録音盤を守ることになる。

1941年同月同日(月)(日本時間の12月9日(火)) 前日(1941年12月7日(日))の大日本帝國海軍による真珠湾の米海軍基地への奇襲攻撃を受け、米国議会が対日宣戦布告(declaration of war on Japan)を決議。それまで中立を宣言していたアメリカ合衆国(USA: United States of America)が、遂(つい)にイギリスの側で第二次世界大戦に参戦することになる。共和党(Republican Party; 俗称 GPO = Grand Old Party)所属でモンタナ州選出の女性議員ジャネット・ランキン(Jeannette Rankin, 1880-1973)女史がたった一人で宣戦布告法案に反対票を投じる。その直後ランキン女史はマスコミや怒り狂った群衆から逃れるために議会内の電話ボックスに避難し、警察に保護される。ランキン議員は二十四年半余り前の1917年4月6日(金)にも他の49人と共に対独宣戦布告法案に反対票を投じていた。とにかくこの宣戦布告がイギリスのチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)首相を大喜びさせる。

1941年12月10日(水) マレー沖海戦。大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)機動部隊(陸上攻撃機部隊)が84機の航空兵力を投入し、開戦三日目にして英海軍(Royal Navy)の1916年就役の旧型艦ながら高速で大口径の38.1センチ砲6門を搭載する巡洋戦艦(battlecruiser)レパルス(HMS Repulse)と、同年(1941年)1月に竣工したばかりの35.6センチ砲10門を搭載する新鋭戦艦(the latest battleship)ウェールズ大公(HMS Prince of Wales)を英領マレー半島東海岸クアンタン(Kuantan; 關丹)沖で撃沈。両艦あわせて840名の英軍将兵が艦と運命をともにする。英首脳部に衝撃が走る。対する日本側の損害は軽微で、3機撃墜、21名戦死。航空機の群れが魚雷や爆弾を投下しただけで巨大な戦艦が沈むことを実証したこの戦果は、世界の戦史(history of war)を塗り替えるような大事件だったが、当の日本軍はこの成功体験から何も学ばなかった。このマレー沖海戦の後、米英の戦艦は対空火器を強化し、機動部隊を航空機の攻撃から守ることに絶大な威力を発揮したため、日本軍の航空機が航行中の戦艦を撃沈できたのは、これが最初で最後の機会となる。この歴史的事件から最も多くを学んだのが米海軍(US Navy)であり、1944年10月24日(火)に航空機を徹底的に活用して日本海軍の誇る不沈戦艦「武藏(むさし)」をフィリピンのレイテ湾の海戦(Battle of Leyte Gulf)で、1945年4月7日(土)には同型艦「大和(やまと)」を鹿兒島縣(鹿児島県)沖で撃沈することに成功する。

(外部サイト)大本營海軍部發表

https://www.youtube.com/watch?v=vVDvVCeCO1s

(参考)高橋掬太郎作詞「英國東洋艦隊潰滅」對譯

https://sites.google.com/site/xapaga/home/horobitari

外部サイトもう一つの開戦 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog270.html

(外部サイト)

武田邦彦 音声:最期の一撃 第六話 大英帝国海軍旗艦プリンス・オブ・ウェールズ撃沈

https://www.youtube.com/watch?v=KVmCaDPCHCE

1941年12月11日(木) ナチス・ドイツとイタリアが日本に同調して対米宣戦布告(英国とは既に交戦中)。

1941年12月21日(日) 泰國(タイ王国)首都バンコク(Bangkok, Thailand)で日本國「タイ」國間同盟條約(通称 日泰攻守同盟條約; 通称英訳 Japan-Thailand Offence and Defence Alliance Pact)が締結される。タイ王国政府は日本への戦争協力を内外に示した格好になる。

1941年12月25日(木) 日本軍によって英領香港が占領統治され、1945年9月16日(日)まで続くことになる。英首脳部に衝撃が走る。チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)英首相曰く、「人生最悪のクリスマス」。皮肉なことにその僅(わず)か十一ヶ月前の同年(1941年)1月25日(土)にイギリスが香港(Hongkong or Hong Kong)進駐百周年を祝ったばかりだった。

(参考リンク)

戰時中の國策映畫 『帝國海軍勝利の記錄』の中の「支那方面 香港攻略」10:28-14:24

https://www.youtube.com/watch?v=nabPH5DJlo0

1942年(昭和17年)1月8日(木) 十八日前の1941年12月21日(日)に日本と同盟条約を結んだ泰國(タイ王国)の首都バンコク(Bangkok, Thailand)を英軍が空爆。

1942年1月25日(日) 十七日前の同年(1942年)1月8日(木)に英軍の空爆を受けた泰國=タイ王国(Kingdom of Thailand)のピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram, 1897-1964; 首相在任1938-44 & 1948-1957)陸軍元帥(げんすい)・首相は、第二次世界大戦でのそれまでの中立政策を翻(ひるがえ)し、英米に対し宣戦布告。タイは日独伊と運命を共にする枢軸国と成る。しかしながら、三年半後の日本敗戦時にタイ王国新政府(ピブーンソン元首相は一時的に失脚)が日本國「タイ」國間同盟條約(通称 日泰攻守同盟條約; 通称英訳 Japan-Thailand Offence and Defence Alliance Pact)は「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた条約である」として、その違法性を連合国に訴える。その主張が連合国に認められ、タイ王国は連合国による「勝者の裁き」を免(のが)れることになる。

1942年2月15日(日) イギリス帝国の東南アジア方面軍のパーシヴァル(Arthur Percival, 1887-1966; 私立ラグビー校出)中将がシンガポールで日本軍の山下奉文(やました ともゆき; 有職読みで「やました ほうぶん」, 1885-1946; 陸軍士官學校卒)に無条件降伏(英国史上最悪の敗北)。シンガポールは日本軍によって占領統治され、昭南特別市(せうなん とくべつ し; Syonan Tokubetu-si)と改称 される。イギリス帝国東亜の牙城が瓦解。英首脳部に衝撃が走る。チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)英首相曰く、「英国史上最大の惨事」。ここで捕虜となったイギリス帝国軍将兵約85,000名の内、日本主導の印度國民軍 (INA: Indian National Army)に加わった印度人将兵約22,000名を除く、白人将兵とイギリスに最後まで忠誠を誓った印度人将兵の合計約63,000人には終戦まで日本軍の残虐行為という過酷な運命が待ち受けた。

(外部サイト)

戰時中の國策映畫 『マレー戰記 進擊の記錄』

https://www.youtube.com/watch?v=EkkpA3EENuc

ナチスドイツ週刊ニュースが報じた日本軍

https://www.youtube.com/watch?v=Rm0__fuHMHQ

オーストラリア制作、シンガポールの陥落

https://www.youtube.com/watch?v=Dm6zNg0zY7I

https://www.youtube.com/watch?v=Rm0__fuHMHQ

1942年2月~’45年(昭和20年) 当時の同盟国タイ王国西部と英領ながら日本軍占領下のビルマ(現ミャンマー)とを結ぶ「泰緬鐵道(たいめん てつどう)」の建設工事に、大日本帝國陸軍は連合軍捕虜約6万2千人を強制投入。捕虜の虐待を禁じたジュネーヴ条約(Geneva Convention)を無視。過労と伝染病などで連合軍捕虜1万2千人超が死亡。他に募集で集まったタイ人数万(正確な数は不明)、ビルマ人=ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、インドネシア人(華僑含む)4万5000人の労働者もい た。建設現場の環境は劣悪で、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上った。

(外部サイト)

https://ja.wikipedia.org/wiki/泰緬鉄道

http://powresearch.jp/news/wp-content/uploads/eirenpouboti-reihai.pdf

1942年4月18日(土) 米陸軍(US Army; United States Armyのドゥーリトル(Jimmy Doolittle, 1896-1993; ロサンゼルス市短大卒、カリフォルニア大学バークリー校卒)中佐(一年九ヶ月後には米空軍中将に、四十三年後には米空軍大将に昇進)を隊長とする米陸軍航空隊のB-25爆撃機の16機編隊によるドゥーリトル空襲(Doolittle Raid)が初めて日本本土(東京府東京市、栃木縣西那須野驛、新潟阿賀野川橋梁附近、神奈川縣川崎市、同縣橫須賀市、愛知縣名古屋市、三重縣四日市市、兵庫縣神戶市で敢行され、日本の民間人に計87名の死者を出す。米軍は戦死1名、行方不明2名。帝都東京を空爆した6番機は中華民國東岸沿岸の日本軍占領区域に不時着し、搭乗員8名が日本軍に捉(とら)えられた。米搭乗員8名は、都市の無差別爆撃と非戦闘員に対する機銃掃射を実施した戦時国際法違反であるとして、正規の捕虜ではなく戦争犯罪人として扱われ、日本軍占領下の上海市で開かれた軍事法廷で死刑判決が出されたが、実際には3名(操縦士2名と銃手1名)のみが戦前の英国人の社交場だった上海競馬場で処刑された。死刑執行を猶予(ゆうよ)された5名のうち1名は栄養失調で亡くなり、残り4名は日本の敗戦後に解放された日本の大本營は「敵機九機を擊墜。損害輕微。」「我が空地上両航空部隊の反擊を受け、逐次退散中也。」と虚偽の発表をしたが、撃墜を見た市民は一人もなく、大本營發表に対する疑念が生じた。敵国アメリカによる史上初の日本本土空襲は、戦争末期の焼夷弾空襲に較べれば被害は軽微だったが、日本史上初めて宮城(きゅうじょう: 「皇居」の意)上空に敵機が飛来した事実は、日本の戦争指導部と軍民双方に大きな精神的打撃を与えた。この攻撃で受けた焦りが引き金となり、同年6月のミッドウェイ海戦(Battle of Midway)での大失態へと繋(つな)がる

1942年5月6日(水) フィリピン攻防戦で米陸軍(US Army; United States Army)のウェインライト(Jonathan M. Wainwright, 1883-1953; アメリカ陸軍士官学校卒)中将が大日本帝國陸軍(IJA: Imperial Japanese Army)の本間雅晴(ほんま まさはる, 1887-1946; 陸軍大學校卒)中將に無条件降伏。米側の上司である最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)は大統領命令で豪州に退避。

1942年5月15日(金) 東京帝國大學の平賀讓(ひらが ゆずる, 1878-1943; 東京帝國大學總長在任1938-43; 東京帝國大學卒、英グリニッジ王立海軍大学校造船科卒)總長・敎授・工学博士(東京帝國大學)、男爵、海軍技術中將の尽力と支援により、東京府町田町(現在の東京都町田市)の財團法人玉川學園(現在の学校法人玉川学園の前身)の敷地内に興亞工業大學(現在の千葉工業大学の前身)が一種の国策大学として設置される。

1942年5月28日(木)~30日(土) 滿洲國建国十周年の慶祝行事に出席すべく天皇の弟宮である高松宮宣仁親王(たかまつ の みや のぶひと しんのう; Nobuhito, Prince Takamatsu, 1905-87; 海軍兵學校卒)が首都新京(現在の中華人民共和国吉林省長春市)に到着し、滿洲帝國皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ; アイシンギョロ・プーイー; Aisin Gioro Puyi; Puyi, 1906-67; 在位1908-12 & 1917 & 1934-45)と握手を交わす。29日(金)には首都の帝宮にて慶祝の盛儀をこなし、30日(土)に滿洲國政府協和會主催の奉迎式に御臺臨(ごたいりん: 「殿下」と呼ばれる皇族が出席すること)。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300489_00000&seg_number=001

1942年5月31日(日) この日までに日本軍は英領ビルマ(現ミャンマー連邦共和国)のほぼ全域を占領。

1942年6月4日(木)(日本時間では既に6月5日(金))~7日(日) 太平洋のほぼ中央に位置する米領ミッドウェイ環礁(Midway Atoll: 「中途環礁」の意)の周辺を舞台にしたミッドウェイ海戦(Battle of Midway)で、大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)が米海軍(US Navy)に対して初の大敗北を喫(きっ)する。前々月(1942年4月)の米軍による日本本土初空襲で焦燥感(しょうそう かん)に駆(か)られた日本海軍は無謀な作戦に走る。日本は海軍機動部隊の航空母艦(空母)加賀、蒼龍、赤城、飛龍の4隻と重巡洋艦三隈の1隻と多数の空母艦載機を沈没で喪失し、3,057名が戦死する大損害を被(こうむ)った。一方、米軍は307名が戦死し、航空母艦(空母)ヨークタウン(USS Yorktown)の1隻と駆逐艦ハンマン(USS Hammann)1隻を沈没で失った。「ミッドウェー沖に大海戰 / 米空母二隻擊沈 / わが二空母、一巡艦に損害」と昭和17年(1942年)6月11日(木)付の朝日新聞が虚偽報道。

1942年10月28日(水) 大本營陸軍報道部長の谷萩那華雄(やはぎ なかを; やはぎ なかお, 1895-1949)大佐(のちに少將)が、1942年10月19日(月)付の布告をニュース映画で発表。「布告[改行] 大日本帝國領土を空襲し我が[改行]權内に入れる敵航空機搭乘員[改行]にして暴虐非道の行爲ありた[改行]る者は軍律會議に付し死又は[改行]重罰に処す 滿洲國又は我が[改行]作戰地域を空襲し我が權内に[改行]入りたる者亦同じ[改行] 昭和十七年十月十九日[改行] 防衞總司令官」とする。これは半年前の同年(1942年)4月18日(土)に米陸軍航空隊の空襲を受け、日本の民間人に計87名の死者を出したことに対する報復である。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300510_00000&seg_number=001

1943年(昭和18年)1月13日(金) 米英との開戦から十三ヶ月以上が経過したが、戦局が不利になる一方の大日本帝國政府はこの日以降終戦まで、敵性音楽(米英音楽)の生演奏とレコード鑑賞と放送を禁止する。1,000曲以上の楽曲が禁止音楽に指定され、特にジャズ(jazz)が全面禁止となる。

1943年2月17日(水) 19:55、東京帝國大學の平賀讓(ひらが ゆずる, 1878-1943; 東京帝國大學總長在任1938-43; 東京帝國大學卒、英グリニッジ王立海軍大学校造船科卒)總長・敎授・工学博士(東京帝國大學)、男爵、海軍技術中將が満65歳に僅かに足りず現職の總長として同大學醫學部附属病院にて嚥下性肺炎(aspiration pneumonitis; deglutition pneumonia)により死去。六日後の同年(1943年)2月23日(火)、同大學安田講堂で大學葬が挙行される。總長現職のまま死去し、大學葬まで執り行なわれたのは、これが最初で最後。

1943年3月2日(火) 戦局が激化する中で大日本帝國政府は野球用語に敵性語である英語を使うことを禁じる。たとえば従来までの「セーフ!」(Safe!)は「よし!」になり、「アウト!」(Out!)は「引け!」となる。

1943年3月18日(木) 東部ニューギニアからラバウルへ約60名の外国人抑留者を移送中の駆逐艦「秋風」の乗組員(帝國海軍将兵)が、航行中に艦上で外国人全員を惨殺。被害者の内訳はカイリル島の26名(修道士12名、修道女11名、2歳から7歳の中国人児童3名)と、マヌス島の40名(神父と修道女各3名、ドイツ人宣教師夫妻2組と子供1名、ドイツ人農園主2名、中国人2名と原住民3名)。他に少なくともオランダ人5名、ハンガリー人1名、米国人1名が犠牲となった。駆逐艦「秋風」は1944年11月3日(金)に船団護衛中にルソン島サンフェルナンド西方で米潜水艦「ピンタド」(USS Pintado)の雷撃を受けて沈没し、乗組員が全員戦死したため、戦争犯罪人が裁かれることはなかった。「駆逐艦秋風虐殺事件」と呼ばれる。当時の同盟国ドイツの民間人までをも殺害した点は特筆に価する。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/秋風_(駆逐艦)#駆逐艦秋風虐殺事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争犯罪一覧

(参考図書)

常石敬一(つねいし けいいち, b.1943)、秦郁彦(はた いくひこ, b.1932)、佐瀬昌盛(させ まさもり, b.1934)[監修] 『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋, 2002年)

1943年 津田英學塾(現在の津田塾大学の前身)が「この時局に英學とは何ごとか!」という圧力に屈して津田塾專門學校に改称。

1943年7月1日(木) 東京市と東京府の二重行政を解消するために両自治体が統合され、新たに東京都が発足(現在に至る)。

1943年9月10日(金) 17時36分54秒、震源がきわめて浅いマグニチュード7.2の鳥取地震が発生。死者1,083人。戦時下で情報統制されたことと、終戦時に資料を失ったため、被害の全体像には不明な点が多い。

1943年10月21日(木) 戦局の悪化による兵力不足で東條英機(とうでう ひでき; とうじょう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44; 陸軍大學校卒)陸軍大將内閣が在學徴集延期臨時特例を公布したことで、大学等の高等教育機関に在籍する文科系学生による「學徒出陣」となり、土砂降りの雨の中、明治神宮外苑競技場(後の国立霞ヶ丘陸上競技場、通称 国立競技場)にて東條英機(とうでう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44)總理大臣・陸軍大將や岡部長景(おかべ ながかげ, 1884-1970)文部大臣臨席のもと、文部省學校報國團本部の主催による出陣學徒壮行會が執り行われる。天皇は臨席していない。入場行進の順番は当時の東京都区内の大学の序列を露骨に反映していた。1番手として東京帝國大學(現在の東京大学)、2番手として東京商科大學(現在の一橋大学)、3番手として東京文理科大學(現在の筑波大学)という具合に東京の官立三大學が続いた。次に4番手として慶應義塾大學、5番手として早稲田大學という具合に「私学の雄」早慶(厳密には慶早)の2校が続き、次に6番手として明治大學、 7番手として法政大學、8番手として中央大學、9番手として日本大學、10番手として専修大学という具合に明治期からの私立五大法律學校が続き、その次に11番手として立敎大學が続いたことで戦後に「東京六大学」と呼ばれることになる大学が出尽くした。次に12番手として拓殖大學、13番手として駒澤大學、14番手として立正大學、15番手として東京農業大學、16番手として日本醫科大學、17番手として大正大學、18番手として上智大學、19番手として國學院大學、20番手として東洋大學、21番手として二松學舍大學が続いた。

1943年11月5日(金)~6日(土) 日本が主導して大東亞會議(Greater East Asia Conference)を東京會舘(在東京都麴町區=現在の東京都千代田区丸の内三丁目; 但し、1942-45年の間は一時的に大東亞會舘の名称)で開催。同年(1943年)5月31日(月)に御前會議(ごぜん かいぎ: 天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議)で決定された大東亞政略指導大綱に基づく。日本のアジアに於ける同盟国や、日本が旧宗主国を放逐したことにより日本の指導で独立したとされたアジア諸国の親日的な指導者を招聘(しょうへい)して開催。出席した各国代表者は、日本から東條英機(とうでう ひでき; とうじょう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44; 陸軍大學校卒)内閣總理大臣・陸軍大將、滿洲國から張景惠(ちょう けいけい; Chang Ching-hui or Zhang Jinghui, 1871-1959; 第二代國務總理大臣在任1935-45; 奉天講武堂卒)、中華民國南京國民政府から汪兆銘(おう ちょうめい; Wang Ching-wei or Wang Jingwei, 1883-1944; 中華民國首相1932-35; 南京國民政府首班1940-44; 和佛法律學校法政大學=現在の法政大学の前身に留学)、ビルマ国からバー・モウ(Ba Maw, 1893-1977; 英領ビルマ初代殖民地政府首相1937-39; ビルマ国初代内閣総理大臣兼ビルマ国初代大統領在任1943-45; 仏ボルドー大学博士)、タイ王国からワラワン殿下こと、ワンワイタヤーコーン親王(Wan Waithayakon or Prince Vanna Vaidhayakara, the Prince Naradhip Bhongseprabhan, 1891-1976; オクスフオッド大学遊学、パリ大学遊学)、フィリピン共和国からホセ・ラウレル(José Laurel, 1891-1959; 共和国第三代大統領在任1943-45; フィリピン大学卒)、インドからチャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose, 1897-1945; インド国民会議派議長在任1938-39; 自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官1943-45在任; ケイムブリヂ大学フィッツウィリアム学寮留学)だった。会議二日目に大東亞共榮圏(Greater East Asia Co-Prosperity Sphere)の綱領(こうりょう)とも言うべき大東亞共同宣言(Joint Declaration of the Greater East Asia Conference)が採択された。言語の異なる国の代表たちの国際会議となったため、皮肉なことに当時日本が「敵性語」に指定していた英語が実質的な会議運用言語となってしまった。そこへ日英通訳を介して参加した議長国日本の東條首相などは大いに悔しがったという。

1944年(昭和19年)1月 『主婦の友』昭和十九年=1944年新年號が「アメリカ人をぶち殺せ!」という標語(slogan)を掲げる。

1944年2月 蘭印(蘭領東印度=現在のインドネシア)の日本軍占領地にて、帝國陸軍南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が独断(当時の日本政府も大本營も関与せず)で、 オランダ人女性35人を民間人抑留所からスマランに在った慰安所に強制連行し、強制売春させ、毎日強姦した。朝鮮人売春婦の場合とは異なり、給与が支払わな かったため、完全な性奴隷(sex slaves)状態であった。自由意思の者だけを追軍売春婦にすることとした当時の日本軍の方針を第16軍は無視していたが、大本營は軍末端の犯行を掌握(しょうあく)できていなかった。しかし同年(1944年)4月、自分の娘を不当に連れ去られた蘭人抑留者のリーダー格の白人男性が、軍令で抑留所視察に来ていた陸軍省俘虜管理部員兼俘虜情報局事務官の小田島董大佐に直訴(じきそ)した。同大佐はこれを聞き入れて実態調査を行ない、すぐさま慰安所閉鎖の勧告を出した。第16軍司令部は同年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。日本軍は穏便(おんびん)な幕引きを図(はか)り、事件関係者の処罰は躊躇(ちゅうちょ)してしまった。そのことが戦後に戦勝国オランダ側の怒りを招くことになる。戦勝国による戦後の国際軍事裁判(バタビア裁判・第106号事件)で関係者が有罪を宣告された。事件の首謀者だった大久保朝雄陸軍大佐は戦後オランダ軍による訴追を知り故郷の宮城縣仙台市で自殺。池田省一陸軍大佐には懲役15年の判決。岡田慶冶陸軍少佐には死刑判決が下るも後に減刑。河村千代松陸軍少佐には懲役10年。村上類藏陸軍軍醫少佐には懲役7年。中島四郎陸軍軍醫大尉には懲役16年。石田英一陸軍大尉には懲役2年。古谷巌「スマラン倶樂部」軍屬には懲役20年。森本雪雄「日の丸倶樂部」軍屬には懲役15年。下田眞治「青雲莊」軍屬には懲役10年。葛木健次郎「將校倶樂部」軍屬には懲役7年。世に言う「白馬(しろうま)事件」または「スマラン事件」。

(参考)外部サイト

https://sites.google.com/site/dlgnji4jp/programmas/conf14/4yok

http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/81.html

http://d.hatena.ne.jp/dj19/20120225/p1

http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20090912/1252851787

http://blogs.yahoo.co.jp/miyasitama2000/folder/1465330.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/白馬事件

1944年2月~7月 日本軍は太平洋トラック島の病院で米兵捕虜4人に対し生体解剖を行い、このうち2名がショック死。生き残った2人はダイナマイトで爆殺。さらに他の4名に葡萄(ぶどう)状球菌を注射し、全員を惨殺。

1944年3月9日(木) 帝國海軍の重巡洋艦「利根」が英国商船ビハール号(Behar) を撃沈し、英国人女性2名を含む乗員約115名(白人32名、インド人80名、中国人3名)を捕虜にした。同年3月17日(金)、女性2名を含む約35名の捕虜をバタビアの陸軍俘虜収容所に送ったが、翌18日(土)未明スマトラ島とバンカ島間の海峡にて残りの80名の捕虜を利根の後甲板上に集め、全員斬首して惨殺。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/ビハール号事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の戦争犯罪一覧

1944年6月15日(木) 日本軍対米軍によるサイパンの戦いが始まる。なお、彩帆島(サイパン島)は1565年から1898年までの実に三百三十三年間はスペイン領、1898年から1914年の十六年間はスペインから買い取ったドイツ帝国の領土(流刑地)、1914年から’20年は日本軍がドイツから奪って占領、1920年から’44年は日本が國際聯盟から正式に委任を受けて統治(日本統治は合計三十年)、第二次世界大戦中の1944年に米軍が日本から奪って以来現在に至るまで七十年以上に亘って米領。

1944年7月9日(日) サイパン陥落。サイパンの戦いが終わり、米軍がサイパン島の占領を宣言。日本軍の戦死者約25,000人、自決約5,000人、投降者921人。日本人の民間死者8,000人~10,000人。米軍の戦死者約3,500人、負傷者13,160人。米軍が日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人の計14,949人の民間人を保護。日本の絕對防衞圏(絶対防衛圏)だったサイパン島が米軍の手に陥ちたことで、米軍の日本本土への爆撃が容易になる。

1944年7月12日(水) 日本軍は占領下のグアム島で島民への影響力が強かったデュエナス(Jesus Baza Dueñas, 1911-44; 実際のスペイン語発音ではドゥエニャス)神父を不当に逮捕。日本軍は神父を三日間に亘(わた)り拷問した上で、公衆の面前で彼の甥(おい)とともに斬首して公開処刑。

1944年7月22日(土) 対米英戦前の1941年10月18日(土)から二年九ヶ月続いていた東條英機(とうでう ひでき; とうじょう ひでき, 1884-1948; 首相在任1941-44; 陸軍大學校卒)陸軍大將内閣が、サイパン陥落により米軍による日本本土爆撃が容易になったことの責任を取って総辞職。後継は小磯國昭(こいそ くにあき, 1880-1950; 首相在任1944-45; 陸軍大學校卒)陸軍豫備役大將内閣。しかしながら、これは八ヶ月半しか続かないことになる。

1944年9月26日(火) 東京商科大學が文部省(現在の文部科学省)の命令で東京產業大學(現在の国立行政法人一橋大学)に改称。

1944年9月29日(金) 戦況の悪化により帝都東京が度々空襲を受けるようになり、大日本帝國海軍聯合艦隊司令部が慶應義塾大學日吉校舎(在神奈川縣橫濱市)寄宿舎に転居。地下に防空壕が掘られ、聯合艦隊司令長官の豊田副武(とよだ そえむ, 1885-1957; 海軍大學校卒)大將がそこから指令を出すようになる。中枢部の使用が開始されたのは二ヶ月後の同年(1944年)11月頃とされる。聯合艦隊司令部からは參謀・士官約70人と下士官・兵卒約350人の合計約420人が勤務。終戦時には司令部の人員は1,000人近くになっていたという。(2021年8月16日(月)付のヤフーニュースオリジナル特集フリーライター神田憲行(かんだ のりゆき, b.1963)署名記事に依拠)

1944年10月12日(木) 十年前の1934年4月21日(土)に澁谷驛前廣場に設置されていたハチ公像が、戦争の激化で1941年8月30日(土)に勅令第835號として公布され、1943年8月12日(木)に勅令第667號として全面改正された金屬類回収令に則(のっと)り、日本國旗の襷(たすき)をかけるなどの出陣式が行なわれ撤去される。作者の安藤照(あんどう てる, 1892-1945; 東京美術學校=現在の東京藝術大学美術学部卒)は約半年後の1945年5月25日(金)の米軍による山の手大空襲で満54歳にして戦災死することになる。敗戦の玉音放送の前日に当たる1945年8月14日(火)、ハチ公像は鐵道省(現在の国土交通省とJRグループの前身)濱松工機部で溶解されてしまい、機関車の部品と成る。

1944年10月24日(火) 三年近く前の1941年12月10日(水)に大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)機動部隊が航空兵力を投入し、英海軍(Royal Navy)の最新鋭戦艦2隻、レパルス(HMS Repulse)とウェールズ大公(HMS Prince of Wales)を英領マレー半島東海岸クアンタン(Kuantan; 關丹)沖で撃沈したことを教訓にした米海軍(US Navy)が航空機を徹底的に活用して、日本海軍の誇る不沈戦艦「武藏(むさし)」をフィリピンのレイテ湾の海戦(Battle of Leyte Gulf)で撃沈することに成功する。

1944年11月11日(土) 11:00、本土決戦に備えた松代大本営(在長野縣長野市)建設のための最初のダイナマイトが仕掛けられる。長野市松代地區に在る象山、舞鶴山、皆神山に地下壕を掘り、そこに最高軍事意思決定機関である「大本営」を始めとする政府機関、JOAK(現在のNHKラジオ第1放送R1の前身)、さらには天皇の居室をも移転しようと画策。同年(1944年)の年初に大日本帝國陸軍の井田正孝(いだ まさたか, 1912-2004; 陸軍大學校卒)中佐が進言して実行されることになった。日本人・朝鮮人合わせて1万人ほどの作業員が三交代制で工事を進め、終戦時には全体の八割も完成していたという。トンネルの長さの総計は約5.9キロ。候補地は他にもあったが、松代は東京から遠すぎず、山に囲まれていて空襲されにくい、空襲に耐えられるほどの岩盤が強い、さらに地名の信州と神州不滅をかけて縁起も良い、ということでここに決まったと、NPO法人松代大本営平和祈念館のガイド、松樹道真(まつき みちざね, b.1954?)氏=67歳は説明する。終戦後に壕の視察に来た米軍は、「マッシュルームの栽培に適しているな」と皮肉を言い、戦後に長野を訪れた昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)は長野県知事に「この辺に戦時中、無駄な穴を掘ったところがあるというが、どの辺か。」と尋ねたという。「松代大本営」を計画した井田中佐は翌年(1945年)8月に後輩を煽ってクーデター(宮城事件)を首謀しながら恰(あたか)も事件の終結に尽力したかのように戦後振舞っている。井田が焚きつけた将校は全員自決した。後輩たちに自決させておいて、自身は戦後のうのうと生き延び株式会社電通(本社在東京都港区)に入社して余生を謳歌した。井田自身は宮城事件の責任を取って自決しようとしたが陸軍大臣(陸相)の阿南惟幾(あなみ これちか, 1887-1945; 陸軍大學校卒)大將に止められたのだと周囲に吹聴した。戦後は大手広告代理店電通に入社して会社員としての人生を歩んだ。(2021年8月16日(月)付のヤフーニュースオリジナル特集のフリーライター神田憲行(かんだ のりゆき, b.1963)署名記事に依拠)

1944年11月24日(金) 米軍による日本本土空襲で新型大型戦略爆撃機であるボーイングB-29超要塞(Boeing B-29 Superfortress)が東京空襲で初めて導入される。サイパン島のマリアナ基地を発進した80機のB-29が東京を爆撃。

1944年12月7日(木) 13:36 アメリカ側から見ると日米開戦三周年のこの日、志摩半島南南東沖約20キロメートルを震源としてマグニチュード7.9の昭和東南海地震が発生。この地震による津波は高さ15メートルにも達し、志摩半島南岸の村々を壊滅させた。愛知縣、三重縣、静岡縣の三縣などで計1,223人の死者・行方不明者が出たが、戦時下で情報統制されたため、被害の全体像には不明な点が多い。敵国アメリカの新聞各紙は、「観測史上最大規模の大地震」、「大阪から名古屋にわたる軍需工業地帯に大損害」と報じた。この当時は大阪から名古屋にかけて三菱重工業、安立電気、中島飛行機などの軍需工業が乱立していて、それらは連日連夜に亘って米軍機の空襲を受けていた。大地震が起こったのがちょうど軍需工業地帯とは、如何(いか)にも出来すぎた話だと日本の一部民衆は噂し合った。また、米軍機から捲かれた傳單(でんたん: 「ビラ」の意; 英 fliers or flyers)に「次は何をお見舞ひしませうか。」と挑発的な日本語が書かれていたことから、米軍による人工地震の噂が今日(こんにち)でも消えていない。

1945年(昭和20年)1月13日(土) 未明3時38分23秒 前年(1944年)12月7日(木)の昭和東南海地震の被害に追い打ちをかけるように、愛知縣で直下型マグニチュード6.8の三河地震が発生。死者2,306人、行方不明者1,126人。戦時下で情報統制されたため、被害の全体像には不明な点が多い。

1945年2月3日(土)~3月3日(土) マニラの戦い(マニラ市街戦)で、日本軍は米側に協力的と疑いを抱いた地元住民を大量虐殺。犠牲者は約10万人に上る。但し、米軍による砲火で死亡した市民も多数いて、死者の約40%がそうだったとする説もあるが、解放者(liberators)としての米軍のことを悪く言うのはタブー視されている。フィリピンを敵(米軍及びフィリピン・コモンウェルス軍)の侵入から防御する日本側の最高司令官だった帝國陸軍の山下奉文(やました ともゆき; 有職読みで「ほうぶん」, 1885-1946)大將は首都マニラ(Manila)の市民の無駄な犠牲を避け、尚且(なおか)つ自軍の兵力を温存すべくマニラを無防備都市(an Open City)として宣言する方針だったが、帝國海軍の岩淵三次(いわぶち さんじ, 1895-1945)少將(手榴弾(しゅりゅうだん)での自決後に中將へ特進がこれに猛反発し、東京の大本營(Imperial Headquarters)も岩淵を支持したため、マニラには約1万人の海軍陸戦隊(英米で言う Marines = 海兵隊に相当)と、ルソン島(Luzon)北部への撤退に間に合わずマニラ市内に取り残された日本の陸軍兵約4千人がいた市街戦のどさくさの中で日本軍は、当時裕福だったエルミタ(Ermita)地区の若い女性と少女の計400人の中から最も美しい者25名(その多くは12~14歳)を市内のベイヴューホテル(Bayview Hotel または資料によっては Bay View Hotel: 直訳湾観ホテル」; 現在その名前のホテルは現存しないが、戦後に営業を開始した Bayview Park Hotel か、旧市街内に在る The Bayleaf という名のホテルがその後継ホテルなのか否かは不明)へ連行し、次々と輪姦(gang rape)し、しかも強姦後に乳首を刃物で切り取り、首から下は銃剣で切り付けて殺害した。日本軍による犯行現場は後にレイプセンター(rape center: 直訳「強姦中心」)と呼ばれることになる。また、中立国のスペイン市民(フィリピンの旧支配階級)を200名以上も殺害したり、家屋を破壊したり、財産を奪うなどした。しかもスペイン人が築いた美しい殖民地様式(colonial style)の旧市街(Intramuros: スペイン語で「壁の内側」の意)とスペイン領事館も日米双方の攻撃で破壊され尽くした。遠くスペインでは激しい反日機運が盛り上がり、日本に対する「義勇軍」の結成や、対日宣戦布告すら提案された。スペインの独裁者フランコ(Francisco Franco, 1892-1975; 首相在任1938-73; 総統在任1939-75)将軍は、三年三ヶ月前の昭和十六年=1941年12月に義弟で外務大臣だったセラーノ(Ramón Serrano Suñer, 1901-2003)を通して真珠湾攻撃成功への祝電を日本に送るなど、それまで日本に好意的だったが、マニラの戦いのニュースを聞いて怒りに打ち震え、昭和廿年=1945年4月12日(木)には日本との国交を断絶した。日本への宣戦布告も検討したという。しかしながら、日本の傀儡国家かいらい こっか: puppet state)だった滿洲帝國及び汪兆銘(おう ちょうめい; Wāng Jīngwèi, 1883-1944; 中華民國總統在任1932-35; 南京國民政府總統在任1940-45)の南京政府との国交は維持された。皮肉なことに、本来最も責任のある海軍の岩淵少將(自決後に中將へ特進は敵が迫ってくる中で無責任にも自決(自殺)してしまったため、市街戦を最も忌避(きひ)していた陸軍の山下大將が、怒りと復讐心に燃えるフィリピン人たちの格好の標的となり、翌年(1946年)2月23日(土)に戦争犯罪人(戦犯)裁判の結果として処刑された。山下大將は市民の虐殺を指示も支持もしていなかったため、正義感に燃える米国の著名弁護士たちが山下の助命嘆願行為に出たが、米国の最高裁が却下した。また、米国陸軍の最高司令官にしてフィリピンの初代米人統治者(総督)アーサー・マッカーサー(Arthur MacArthur Jr., 1845-1912)中将の次男マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)元帥も復讐裁判を放置した。山下自身は裁判で「私は知らなかった。しかし、私に責任が無いとは言わない。」と述べ、最終的には司令官としての責任を受け入れ、処刑された。

(外部サイト)

https://ja.wikipedia.org/wiki/マニラの戦い_(1945年)

https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Manila_(1945)

https://ja.wikipedia.org/wiki/マニラ大虐殺

https://en.wikipedia.org/wiki/Manila_massacre

http://malacanang.gov.ph/battle-of-manila/

http://malacanang.gov.ph/75083-briefer-massacres-in-the-battle-of-manila/

http://globalnation.inquirer.net/99054/february-1945-the-rape-of-manila

http://www.gmanetwork.com/news/lifestyle/artandculture/437283/recounting-the-horrors-of-the-battle-of-manila/story/

http://battleofmanila.org/IG_Report/htm/IG_333_5_04.htm

http://corregidor.org/archive/manila_scrapbook/html/ms_02_02_Joe_%20Romero_02.htm

https://www.youtube.com/watch?v=zMnc_GQihEA

1945年2月23日(金)~25日(日) 小笠原諸島の父島に配備されていた大日本帝國陸海軍の混成団の一部将校らが米軍の捕虜を殺害して人食した。事件は戦後に極東軍事裁判(通称: 東京裁判)BC級戦犯の公判で明らかになった。父島では陸海軍の高級将校達の酒盛りが連日行なわれた。戦争末期の物資不足の中、内地でも戦地でも貴重品だった日本酒を連日酌(く)み交(か)わしていたが、つまみが無いことを残念がった。そこで立花芳夫(たちばな よしお, 1890-1947; 陸軍戶山學校卒)司令官らは米軍捕虜8名の肉を食べて敵愾心高揚・士気高揚を図(はか)ろうと軍医に捕虜の解体を命じた。針金で大木に縛りつけた米軍捕虜に立花が、「日本刀の凄みを披露する絕好(絶好)の機會ぢゃ。」と言って、試し切りの希望者を募って殺害。その後、遺体を解体させて宴会の「つまみ」にした。 後の日本兵の証言によると、米兵の手足の肉や内臓を立花が食べると、「これは美味(うま)い。お代(かは)りだ。」とはしゃいでいたという。戦後の東京裁判で立花、的場、吉井、伊藤、中島昇大尉ら5名が絞首刑、終身刑5名(このうち、森は終身刑ながら別途オランダによる裁判で刑死)、有期刑15名となった。立花と的場は処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり、激しく虐待され続けたという。なお、パパ・ブッシュこと後の第41代米国大統領ジョージ・ブッシュ (George H. W. Bush, b.1924; 大統領在任1989-1993; イェイル大学卒)の搭乗していた飛行機も小笠原諸島の附近で日本軍に撃ち落されたが、ブッシュ氏本人は米海軍潜水艦フィンバック(USS Finback)に救助されて助かった。もしこの時点で日本軍の捕虜になっていたら、殺害されて人肉食に供されていた可能性が高い。ブッシュ氏自身、大統領になって訪日するまでは、戦友の肉を喰らった日本人及び日本が赦(ゆる)せなかったと自伝の中で述べている。

(参考書)

秦郁彦(はた いくひこ, b.1932) 『昭和史の謎を追う〈下〉』(文藝春秋 文春文庫, 1999年)

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4167453053/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1

James Bradley, Flyboys: A True Story of Courage (Back Bay Books, 2004)

http://www.amazon.com/Flyboys-Story-Courage-James-Bradley/dp/0316159433/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1439755240&sr=8-1&keywords=fly+boys

(参考)外部サイト

http://www.powresearch.jp/jp/activities/workshop/chichijima.html

http://en.wikipedia.org/wiki/Chichijima_incident

http://ja.wikipedia.org/wiki/小笠原事件

1945年3月9日(金)夜~10日(土)未明 米軍による東京大空襲で帝都東京が壊滅。敵国アメリカは、日本家屋が木と紙で出来ていることに注目して、日本本土空襲専用の焼夷弾を開発し、米国テキサス州の砂漠に日本家屋を建ててその焼夷弾の効果を事前に確認していた。江戸時代の大火が春先の強風が吹く時期に集中しているという歴史的データに基づき大空襲決行日を3月10日の「陸軍記念日」(ちょうど四十年前の日露戦争中の1905年3月10日(金)に日本軍が奉天の会戦でロシア帝国軍に対して大勝利した日)に定めた。アメリカは最初に空爆目標地の外周である隅田川や荒川の堤防沿いに焼夷弾を落として炎の壁を作り人々の退路を断った上で、2時間余りのうちに300機以上のB29爆撃機で計33万発超(1平方メートルあたり3発の割合)の総重量2,000トンもの焼夷弾を地上に落とした。焼夷弾の命中精度を上げるため低空飛行を行なったが、敵が低空飛行で攻撃してくるとは想定していなかった日本軍の高射砲は暗闇の中、B29の遥(はる)か上で無意味に炸裂した。空襲警報はその日に限って空爆開始後に出され、既に被害が甚大となった午前0:15になって漸(ようや)く警報が発令され、最後のB29が去ったのは、午前2:32であった。当時の警視廳(警視庁)の調べで死者8万3793人とされるが、民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上とされる。その内、縁者が引き取った遺体は約2万体、無縁仏・行方不明者は約88,000人とされる。また、罹災家屋は約27万戸。なお、日本民間人大量殺戮(さつりく)の計画立案者カーティス・ ルメイ(Curtis LeMay, 1906-90; オハイオ州立大学卒)米空軍少将(戦後に大将に昇進)に対して、1964年に戦後の航空自衛隊(JASDF: Japan Air Self-Defense Force)への功績を称え、日本国政府が外国人として破格の勲一等旭日大綬章を授与している。

1945年3月10日(土) 19:20 小磯國昭(こいそ くにあき, 1880-1950; 首相在任1944-45; 陸軍大學校卒)陸軍豫備役大將・内閣總理大臣がJOAKラヂオ(現在のNHKラジオ第1放送の前身)で国民に向けて演説し、「敵は、今後ますます空襲を激化してくると考へます。敢然として空襲に耐へることこそ勝利の近道であります。」と述べる。

1945年3月12日(月) 米軍による名古屋空襲で名古屋市街地が壊滅。当時國寶(国宝)に指定されていた名古屋城も消失。

1945年3月13日(火) 米軍による大阪空襲で大阪市街地が壊滅。

1945年3月19日(月) 米軍による名古屋空襲で名古屋駅が炎上。

1945年3月26日(月) 米軍が沖縄の慶良間諸島の座間味島など数島へ上陸。沖縄戦が開始。

1945年4月1日(日)朝 米軍が沖縄本島に上陸。沖縄戦が本格化。

1945年4月3日(火) 米軍による東京空襲で、昭和女子大学の前身である昭和髙等女學校(在東京都中野區上高田)の校舎が炎上し、蔵書3万5千冊余りが灰燼(かいじん)と化す。なお、翌週には全校舎を、翌月には(1945年5月)には寮舎をも焼失。

1945年4月7日(土) 戦況の悪化に伴い、小磯國昭(こいそ くにあき, 1880-1950; 首相在任1944-45; 陸軍大學校卒)陸軍豫備役大將の内閣が八ヶ月半で総辞職。後継には鈴木貫太郎(すずき かんたろう, 1868-1948; 首相在任1945; 海軍大學校卒)男爵・海軍大將内閣が即日組閣。満77歳2ヶ月での就任は、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢記録。敗戦の二日後の同年(1945年)8月17日(金)に総辞職することになる。

1945年同月同日(土) 沖縄特攻作戦に派遣された世界最大の戦艦「大和(やまと)」が米海軍艦載機の攻撃により鹿兒島縣(鹿児島県)沖に沈没。これは三年と四ヶ月程前の1941年12月10日(水)に大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)機動部隊が航空兵力を投入し、英海軍(Royal Navy)の最新鋭戦艦2隻、レパルス(HMS Repulse)とウェールズ大公(HMS Prince of Wales)を英領マレー半島東海岸クアンタン(Kuantan; 關丹)沖で撃沈したことを米海軍(US Navy)がよく学習したことに起因する。

1945年4月12日(木)~13日(金) 昭和女子大学の前身である昭和髙等女學校(在東京都中野區上高田)の校舎がこの木曜日に入学式を挙行するも、その夜に米軍機から放たれた焼夷弾により70平方メートルの全校舎を焼失。なお、翌月(1945年5月)には寮舎も焼失。

1945年同月同日(木) 敵国アメリカの戦争指導者ロウザヴェルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945; 大統領在任1933-45; ハーヴァード大学卒; コロンビア大学法科大学院修了)が大統領在任中に病死。合衆国憲法の規定に基づき、副大統領のトゥルーマン(Harry S. Truman, 1884-1972; 大統領在任1945-53)が大統領に就任。

1945年4月30日(月) 日本の同盟国ドイツの首都ベルリンがソ連軍の猛攻を受けて陥落。ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945; 首相在任1933-45; 総統在任1934-45)総統は、前日に結婚したばかりの新妻エーファ(エーヴァ)・ブラウン(Eva Braun, 1912-45)とともにシアン化物(cyanide)と拳銃の併用によって自殺。ヒトラーの部下たちが両人の遺体にガソリンをかけて焼却。ヒトラー亡き後のナチス・ドイツ首脳部はデンマーク国境近くのフレンスブルク(Flensburg)市に移転。同盟国日本からドイツに派遣されていた邦人外交官(日本大使館員)や軍人(駐在武官)や民間人(在外勤務や留学生)は「ソ連軍に捕まるぐらいなら米軍に捕まった方が数倍ましだろう」という情勢判断から、米軍が侵攻中のドイツ南部へ既に疎開済。

1945年5月4日(金) 米軍による沖縄攻略を助太刀(すけだち)すべく英国海軍(Royal Navy)の4隻の空母(four aircraft carriers)と4隻の巡洋艦(four cruisers)と10隻の駆逐艦(ten destroyers)に守られた英海軍艦国王ジョージ五世(HMS King George V)が、琉球諸島に在(あ)った日本の航空基地へ45分間の艦砲射撃を敢行。

1945年5月14日(月) 米軍による名古屋空襲で日本は國寶(国宝)名古屋城を焼失。

1945年5月中旬~6月初頭 九大事件。撃墜で捕らえられた米陸軍航空隊B-29の搭乗員12名のうち8名が裁判を経ずして死刑を宣告され、1945年5月17日(木)から6月2日(土)にかけて九州帝國大學(現在の九州大学)で生体解剖を実施される。企画者の病院詰見習士官小森卓(こもり たく, 19??-45)軍医はその後の空襲で死亡し、石山福二郎(いしやま ふくじろう, ????-1946)主任外科部長(教授)は終戦 後に獄中で自殺したため、1948年8月に横浜軍事法廷で首謀者5名(陸軍軍人2名と九大教員3名)が絞首刑を宣告され、立ち会った医師18人が有罪と なったが、1950年代初頭に恩赦(おんしゃ)で釈放された。

1945年5月25日(金) 約三十年半前の1914年12月18日(金)に開業した東京驛の英国アン女王様式の赤煉瓦(レンガ)驛舍(駅舎)が、米軍による猛爆で炎上し、ドーム型天井屋根が吹き飛ばされる。しかしながら、幸い全焼には至らずに済む。戦前の瀟洒(しょうしゃ)な外観が甦(よみがえ)るには、爆撃から約六十七年半後の2012年10月1日(月)の復原工事の完成を待たねばならなかった。また、昭和女子大学の前身である昭和髙等女學校(在東京都中野區上高田)の葵寮と桂寮と橘寮も米軍機の焼夷弾で焼失。

1945年6月6日(水) 20時16分 海軍特別根拠地隊の一つである沖縄方面根拠地隊司令官の大田實(おほた みのる, 1891-1945; 海軍兵學校卒)少將(死後に中將へ昇進)が東京の海軍次官宛に最後の電報を送信。文面の最後に「沖縄縣民斯ク戰ヘリ [改行] 縣民ニ對シ後世特別ノ御髙配ヲ賜ランコトヲ」(現代語訳: 沖縄県民はこのように戦った。[改行] 県民に対し、後ほど特別のご配慮をお願い申し上げる。)とある。大田司令官は一週間後の6月13日(水)に島尻郡(しまじり ぐん)豊見城村(とみぐすく そん)(現豊見城市)の海軍壕司令官室(現海軍壕公園内の旧海軍司令部壕)で拳銃自殺した。

1945年6月8日(金) 八年前の1937年5月20日(木)にイングランド南海岸スピットヘッド(Spithead)沖で挙行された英国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)戴冠記念観艦式(Coronation Naval Review for George VI)に特別招待された大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)の重巡洋艦足柄 (Ashigara)が、バンカ海峡(Bangka Strait: 現インドネシア共和国領海)北側出口で英国海軍(Royal Navy)の潜水艦トレンチャント(HMS Trenchant)に魚雷を撃ち込まれて沈没。

1945年6月23日(土)午前4:00頃(他にも20日(水)や22日(金)とする説もある) 日本軍沖縄守備軍最高指揮官の第三十二軍司令官、牛島滿(うしじま みつる, 1887-1945; 陸軍大學校卒)中将と、參謀長の長勇(ちょう いさむ, 1895-1945; 陸軍大學校卒)中将が、沖縄縣摩文仁村(まぶに そん: 現在の沖縄県糸満市の一部)の軍司令部で自決。沖縄駐留日本軍による組織的抵抗が終わったことで、沖縄戦が日本の敗北で事実上終結。沖縄縣民死者・行方不明者122,228人(内民間人は約94,000人)、沖縄縣外出身者死者・行方不明者65,908人(縣民と縣外出身者を併せた日本軍の死者・行方不明者は94,136人)、米軍の死者・行方不明者12,520人、負傷者72,012人という甚大な人的損害を出した。戦後は6月23日が「沖縄慰霊の日」となる。

1945年6月25日(月) 東京の大本營が沖縄戦の終結と日本軍の玉砕(ぎょくさい)を公式に発表。

1945年7月6日(金) ノルウェー王国が国連へ参加する条件として対日参戦。日本上陸作戦に派兵協力する予定もあったが、翌月の日本降伏により実現せず。

1945年7月中旬 米海軍(US Navy)による攻撃を助太刀(すけだち)すべく英国海軍(Royal Navy)の英海軍艦国王ジョージ五世(HMS King George V)が、茨城縣日立市へ14インチ砲(14-inch guns)から267発の砲弾を発射し、艦砲射撃を敢行。

1945年7月24日(火) 敗戦国ドイツの首都近郊で開かれていた欧州戦勝国のポツダム会談(Potsdam Conference)の席で、英国の戦争指導者チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)内閣総理大臣が、トゥルーマン(Harry S. Truman, 1884-72; 大統領在任1945-53; ミズーリ大学カンザス市法科学院中退)米大統領に「日本に対して警告なしで原子爆弾を使用すべきだ」と迫る。

1945年7月25日(水) トゥルーマン(Harry S. Truman, 1884-72; 大統領在任1945-53; ミズーリ大学カンザス市法科学院中退)米大統領が日本への原爆投下指令を承認し、自軍に投下命令を出す。

1945年7月26日(木) 日本と交戦する連合国(Allied Powers)である米英中の首脳が、降伏勧告としてポツダム宣言(Potsdam Declaration)を発表するも、日本の帝國政府はこれを黙殺すると連合国側に伝える。

1945年7月29日(日)夜と30日(月)夜 米海軍(US Navy)による攻撃を助太刀(すけだち)すべく英国海軍(Royal Navy)の英海軍艦国王ジョージ五世(HMS King George V)が、靜岡縣濱松市(静岡県浜松市)へ14インチ砲(14-inch guns)から砲弾を発射し、夜間艦砲射撃を敢行。

1945年8月1日(水) 22:30~2日(木) 0:10 新潟縣長岡市上空に米軍のB-29爆撃機の編隊が飛来して1時間40分に亘って焼夷弾を投下。1,486人が死亡し、一地方都市が壊滅。新潟縣最大の都市である新潟市が難を逃れ、第二の都市である長岡市が狙われたのは、当時米軍が原子爆弾(原爆)投下予定地として京都市・廣島市・新潟市・小倉市・長崎市の5都市を選んでいて、新潟市への焼夷弾攻撃が行なわれなかったため。長岡市の公式ウェブサイトにもウィキペディア日本語版にも言及がなく、ウィキペディア英語版ではその可能性を否定しているが、長岡市は1941年12月7日(日) 朝(日本時間では既に12月8日(月))の米領ハワイの眞珠灣(しんじゅわん: Pearl Harbor)奇襲攻撃を計画立案・実行した山本五十六(やまもと いそろく, 1884-1943; 海軍兵學校卒)海軍大將(戦死後に元帥(げんすい)に特進)・聯合艦隊司令長官の出身地だったという事実がある。したがって長岡空襲は真珠湾(パールハーバー)の報復(ほうふく: retaliation or vengeance)としての側面が考えられる。まさに“Remember Pearl Harbor!”(真珠湾を覚えてろ!)を地で行くような攻撃であった。

1945年8月6日(月) 8:15 廣島縣廣島市(広島県広島市の中心部に米陸軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」がウラニウム(ウラン)型原子爆弾「小さな少年(Little Boy)」を投下。史上初の核兵器による市民大虐殺で、廣島市の当時の推定人口35万人の内、9万から16万6千人が被曝から4ヶ月以内に死亡。特殊爆弾で廣島市は壊滅したという社團法人同盟通信社(現在の一般社団法人共同通信社とその子会社である株式会社共同通信社と、株式会社時事通信社の前身)の一報が軍部に入り、夕方には侍従武官を通じて昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)に伝えられる。

1945年8月7日(火) 10:13~10:39 愛知縣豊川市に在った豊川海軍工廠(とよかは かいぐん こうしやう; とよかわ かいぐん こうしょう)への米軍の空襲で女子挺身隊ら2,417人が殺害される。死者の中には勤労動員されていた中學生、女學生、國民學校兒童の447人が含まれる。死者数の合計を2,544人、2,672人、2,818人とする異説もある。

1945年同月同日(火) 廣島市に特殊爆弾が投下されたが現在調査中であるという旨の大本營發表が帝國臣民に向けて為(な)される。同日にはトルーマン(Harry S. Truman, 1884-1972; 大統領在任1945-53; ミズーリ大学カンザス市法科学院中退)米大統領が原子爆弾(an atomic bomb)を投下したとラジオで発表し、これを大日本帝國の呉鎮守府が傍受。

1945年8月8日(水) 理化學研究所の仁科芳雄(にしな よしを; にしな よしお, 1890-1951; 東京帝國大学卒、英ケイムブリヂ大学キャヴェンディッシュ研究所研究所留学、独ゲッティンゲン大学留学、丁コペンハーゲン大学ニルス・ボーア研究所留学)理学博士(東京帝國大学)をはじめとした学者たちが政府調査團として帝國陸軍によって爆撃被害調査のために廣島市へ派遣される。

1945年同月同日(水) 17:00(日本時間23:00) 既に4ヶ月前の同年4月5日(木)に日ソ中立条約の破棄を通告(但し、条約は1946年4月24日(水)まで有効)していたソ連が、「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」と因縁をつけて対日宣戦布告。

1945年8月9日(木) 0:00 ソ連軍が滿洲帝國(当時日本の事実上の傀儡(かいらい)国家; 現中国東北部)及び当時日本領だった南樺太(現サハリン島南部)、千島列島(現クリル諸島)、北方領土(現クリル諸島最南部)への攻撃・侵略を開始。日本の戦局は最悪の事態に。

1945年同月同日(木) 11:01 長崎縣(長崎県)長崎市中心部から3キロ離れたカトリック信徒が多く居住する地域に米陸軍の爆撃機B-29「ボックスカー(Bockscar)」がプルトニウム型の原子爆弾「デブ男(Fat Man)」を投下。中心地は天候不良のため爆心地とはならなかった。投下レバーを引いたビーハン(Kermit Beahan, 1918-89; ライス大学卒)大尉(後に大佐に昇進)はアイルランド系カトリック信徒だった。当時の長崎市の推定人口24万人の内、約7万3,884人が死亡。重軽傷者7万4,909人。建物の約36%が全焼または全半壊した。当初の計画では福岡縣小倉市(現在の福岡県北九州市小倉区)に原爆投下することになっていたが、当日は天候不順で視界が悪いため断念し、長崎市に標的(target)を移したのだった。

1945年8月10日(金) 二日前の1945年8月8日(水)に帝國陸軍によって廣島市へ派遣されていた理化學研究所の仁科芳雄(にしな よしを; にしな よしお, 1890-1951; 東京帝國大学卒、英ケイムブリヂ大学キャヴェンディッシュ研究所研究所留学、独ゲッティンゲン大学留学、丁コペンハーゲン大学ニルス・ボーア研究所留学)理学博士(東京帝國大学)が、レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾(an atomic bomb)であると断定し、東京の陸軍上層部にも伝えられる。既に2発の原子爆弾(原爆)を落とされた大日本帝國政府は、連合国側から降伏勧告として突き付けられたポツダム宣言(Potsdam Declaration)を条件付きで受諾する方針を連合国側に伝える。これを受け、米軍は空襲を一部停止。

1945年8月13日(月) 滿洲國帝都新京(現在の長春)からの日本人避難民を乗せた列車が暴徒に襲撃され、強姦(rape)を逃れようとした100人を超える日本人女性が崖から飛び降り自殺(小山克(しょうさんこく)事件)。

1945年8月14日(火) 滿洲帝國北西部の興安(こうあん)から避難していた約1,200人の日本女性と子供たちがソ連軍戦車部隊の急襲を受け、その内の1,000人超が虐殺される(葛根廟(かっこん びょう)事件)。

1945年同月同日(火) 日本の鈴木貫太郎(すずき かんたろう, 1868-1948; 首相在任1945)男爵・海軍大將内閣が天皇を前にした御前会議でポツダム宣言の受諾を決断。

1945年8月15日(水) 午前0:23~1:39 埼玉縣(県)熊谷(くまがや)市が米軍による最後の空襲を受け、市街地は壊滅。死者は234人とも266人とも言われる。熊谷市の他にも8月14日(火)夜から15日(水)未明にかけて米軍は日本の都市に対して所謂(いわゆる)「最後の空爆(the last air raids)」を敢行したが、それらは熊谷を含めて主なものだけでも7市(北から秋田縣秋田市で250人超殺害、群馬縣伊勢崎市で29人(40人説も)殺害、神奈川縣小田原市で12人殺害、大阪府大阪市で500人超殺害、山口縣岩國市で517人殺害、山口縣光市で738人殺害、愛媛縣大洲(おほず)市で2人殺害)に及び、2,300人超が殺害される。8月10日(金)から空襲を一部停止していた米軍だったが、ポツダム宣言の受諾条件を巡って日本政府が揺れていると判断した米軍は14日(火)夜から15日(水)未明にかけての空襲を断行したのだった。

1945年同月同日(水)正午 昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が前日(1945年8月14日(火))にレコードに吹き込んだ玉音放送がJOAK(ジェイ・オウ・エイ・ケイ)ラヂオ(現在のNHKラジオ第1放送の前身)で流れ、国民は深く頭(こうべ)を垂れ天皇の声を初めて耳にする。天皇は「降伏」や「敗戦」という用語は一度も発していないが、国土は荒廃し、日本の歴史上初の外国軍による占領を受けることになる。第二次世界大戦(日本にとっては主に日米戦争と日英戦争)の終結。1815年のナポレオン戦争での勝利の時と同様に、イギリスは辛くも戦勝国にはなったが、過剰な戦費調達に疲弊し、政府債務が対GDP比で約230%に達した。同様に敗戦国の日本 も政府債務が対GDP比で約230%に達した。敗戦に伴う韓国独立と台湾の中華民国編入により、日本は現地の2帝大を失う。国内7帝大体制へ。戦歿者数は イギリス軍人27万1千(0.271 million)人+イギリス民間人6万1千(0.061 million)人=33万2千(0.332 million)人に対して、日本軍人230万(2.3 million)人+日本民間人80万(0.8 million)人=310万(3.1 million)人。(世界実情データ図録 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5227.html に依拠)。なお、後に日本では「終戦の日」と呼ばれることになる8月15日は、イギリスで対日戦勝記念日(VJ Day; Victory over Japan Day)となっていて英国政府主催の式典があり、また多くのカトリック諸国では「聖母被昇天の日」の祝日であり、イエズス会から布教のために派遣されたザビエルが1549年に日本に上陸した記念日でもある。この戦争の開戦の日となった12月8日が「聖母の無原罪の御宿りの日」であることと並んで偶然ながらカトリックとの因縁を感じさせる。

(外部リンク)玉音放送

http://ja.wikipedia.org/wiki/玉音放送

http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/017/017tx.html

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPUS/index45-60.html

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19450814.O1J.html

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19450814.O1E.html

http://www.youtube.com/watch?v=AT_sMRoiXHs

1945年8月17日(金) 鈴木貫太郎(すずき かんたろう, 1868-1948; 首相在任1945; 海軍大學校卒)男爵・海軍大將内閣が総辞職。後継は皇族の東久邇宮稔彦王(ひがしくに の みや なるひこ わう; ひがしくに の みや なるひこ おう, 1887-1990; 首相在任1945; 陸軍士官學校卒、陸軍大學校卒、仏サン・シール陸軍士官学校留学、仏エコール・ポリテクニーク留学; 興亞工業大學=現在の千葉工業大学の創設者)内閣。しかしこれも二ヶ月足らず後の1945年10月9日(火)に総辞職することになる。

1945年8月20日(月) 敗戦=終戦から五日後のこの日、灯火管制が解除される。

1945年8月21日(火)(資料によっては8月22日(水)) 翌月(同年9月)に日本に進駐してくることになっている米兵による性犯罪防止のため、日本国政府自らが「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性を募集」と音頭をとって、特殊慰安施設協會(RAA: Recreation and Amusement Association)という名の慰安所を組織。内務省(現法務省)、外務省、大蔵省(現財務省)、運輸省(現国土交通省)、東京都、警視庁に飲食業と花柳界が協力。つい一週間前までは「鬼畜米英」などと呼んでいた旧敵国の兵隊に向けて大和撫子(やまと なでしこ)の肉体を提供する組織であった。8月22日(水)の朝刊には次のような広告が出る。「新日本女性に告ぐ! 戰後処理の國家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に參加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧當方支給。」と。この売春施設の目的は、米軍人・米兵らのための性の捌(は)け口を設けることによって、占領軍が良家の子女に対する強姦などの性犯罪を起こさないために、庶民・貧民女性による「性の防波堤」を築くための物であった。終戦直後の混乱期で生活物資が不足していたにも拘(かか)わらず、建設資材や布団や衣服、 テーブルや茶碗などの生活什器(せいかつ じゅうき)など、それに約100万ダースのコンドームが用意された。しかしながら、日本政府の思惑とは裏腹に、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した。同年(1945年)9月1日(土)には横浜市内の野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された。同年(1945年)9月19日(水)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)がプレスコードを発令して以後は連合軍を批判的に扱う記事は一切報道されなくなった。その後も東京都武蔵野市では小学生が集団強姦され、東京都大森區(現在の大田区北部)では病院に推定200~300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦たちが強姦されている。

(参考文献)

岩永文夫 『フーゾク進化論』(平凡社新書, 2009年)

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4582854567/ref=cm_cr_dp_see_all_summary?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=byRankDescending

貴志謙介(きし けんすけ, b.1957) 『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』(NHK出版, 2018年6月)

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4-%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB-%E8%B2%B4%E5%BF%97-%E8%AC%99%E4%BB%8B/dp/4140817488/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&linkCode=sl1&tag=gendai_biz-22&linkId=50bafcf0f6871a1f750b37b074a0eb89

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4-%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB-%E8%B2%B4%E5%BF%97-%E8%AC%99%E4%BB%8B/product-reviews/4140817488/ref=cm_cr_dp_d_show_all_btm?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews

終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた

「次から次へ、体じゅう痛くて…」

講談社現代メディア

NHK元ディレクター・プロデューサー 貴志謙介(きし けんすけ, b.1957)署名記事

2018年8月15日(水)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962?page=4

小見出し1: ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実

小見出し2: 日本政府がつくった「性の防波堤」

小見出し3: 「からだじゅうが痛くて…」

小見出し4: 女とみると、手あたりしだい

小見出し5: いまも残る「東京ブラックホール」

1945年8月28日(火) 進駐軍と呼ばれることになる日本占領のための連合国軍の先遣部隊150名が、輸送機ダグラスC54(Douglas C54)により米軍占領下の沖縄基地から神奈川縣厚木飛行場に到着。先遣部隊は米陸軍のテンチ大佐(Colonel Tench)の指揮下に日本本土への第一歩を印す。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300384_00000&seg_number=001

1945年8月30日(木) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)元帥(げんすい)が専用機バターン号(Bataan)で神奈川縣(神奈川県)の厚木海軍飛行場に、サングラスをかけてコーンパイプを咥(くわ)えた姿で辺りを睥睨(へいげい)するかのように降り立つ。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300384_00000&seg_number=002

1945年9月2日(日) 東京湾に現れた米海軍艦ミズーリ(USS Missouri)甲板上で日本側代表団が連合国に対する降伏文書に署名・調印。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)元帥(げんすい)が用意してきたスピーチの中で、「一つのより良い世界が過去の血と殺戮から姿を現すのです。信仰と理解の上に築かれた一つの世界で、人間の尊厳と人間の最も大切にしている望み、つまり自由と寛容と正義の達成に捧げられる一つの世界です。」(a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past — a world founded upon faith and understanding — a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish — for freedom, tolerance and justice.)と述べる。マッカーサー元帥の後ろには、1942年2月15日(日)のシンガポール防衛戦での英軍無条件降伏以来、日本の捕虜になっていた英国陸軍(British Army)のパーシヴァル(Arthur Percival, 1887-1966; 私立ラグビー校の出)中将と、1942年5月6日(水)のフィリピン防衛戦での米軍無条件降伏以来、マッカーサーの身代わりとなって日本の捕虜になっていたウェインライト(Jonathan M. Wainwright, 1883-1953)中将が立って見守る。ここに米軍による占領統治が正式に始まる。英海軍艦国王ジョージ五世(HMS King George V)なども米戦艦ミズーリに随行する。二年後の1947年11月20日(木)に英国王室(the British Royal Family)のエリザベス王女(Princess Elizabeth, b.1926)=後の英女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)の夫=後の王婿(お うせい: Prince Consort)に成るフィリップ殿下(Prince Philip, 1921-2021)=後のエディンバラ公(Duke of Edinburgh)も、英国海軍(Royal Navy)の職業軍人として同式典を米戦艦附近に停泊中の英海軍艦ウェルプ(HMS Whelp: 「仔狼」の意)から見守る( https://www.forces.net/news/vj-day-prince-philip-recalls-watching-japans-1945-surrenderこれにて天皇を名目上の中心・頂点とする大日本帝國が崩壊。(ダワー(John W. Dower, b.1938)マサチューセッツ工科大学名誉教授著、三浦陽一(みうら よういち, b.1955)中部大学教授他訳 『敗北を抱きしめて<上巻・下巻>』(岩波書店, 2001年)の原著 Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (New York City, NY: W.W. Norton & Co., 1999) に依拠した上で加筆)

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300384_00000&seg_number=006

敗戦後の大学年表は続編( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline2 )へ。