前期16「イギリス文化論」(2021/ 6/17 + 6/24) 英国の大学年表と女権(ナポレオン戦後から第二次世界大戦終結まで)

前の年表( https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline2 )から続く。日本の大学年表についてはウェブページ6種( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline1 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline2 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline3 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline4 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline5 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline6 )を参照のこと。

1816年 前年(1815年)にナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-15)が片付いて欧州には漸(ようや)く平和が訪れたが、その喜びも束(つか)の間(ま)のこと、「夏の無い年」(英 the Year Without a Summer; 仏 l’année sans été; 伊 l’anno senza estate; 独 das Jahr ohne Sommer; 中文 無夏之年)として後代に末永く語り継がれることになる異常気象が発生。前年(1815年)に蘭印(オランダ領東インド諸島)=現在のインドネシア中南部のスンバワ島(Pulau Sumbawa; 英訳 Sumbawa Island)に在(あ)るタンボラ山(Gunung Tambora; 英訳 Mount Tambora)が大規模噴火を起こしたことで、北半球一帯が異常低温に見舞われる。1815年から翌’16年にかけて作物の不作や食糧不足が欧米諸国や淸國や德川期日本で深刻な問題となる。英文学史では、タンボラ山の噴火こそがフランケンシュタインの怪物(Frankenstein’s monster)を産んだと言っても過言ではない。詳しくは、本ウェブサイト( https://sites.google.com/site/xapaga/home/bunkaisan09 )内の「フランケンシュタイン物語の誕生」の項目と、外部サイト動画( https://www.youtube.com/watch?v=LhSI-GYV5qQ 1:12-2:37 / https://www.youtube.com/watch?v=_2BmIhxfl_I 7:14-8:52 )

1817~’18年 連合王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインドのマラーター同盟及びマラーター王国軍との間でインドのデカン地方などを舞台に第三次マラーター戦争(Third Anglo-Maratha War, 1817-18)が勃発。今回は英国側の完全勝利。英国はインド最大の政治勢力であるマラーター同盟を滅ぼしたことにより、広大なインドの領土を支配することとなり、英国によるインド殖民地化が大きく進展。英国に対抗しうる残る勢力はインド北西部のシーク帝国だけとなる。この戦争の副産物として、インド東部のカルカッタ(現コルカタ)で流行したコレラ(cholera)渦がインド国内に拡散され、更(さら)には中近東や東アジアなど世界に伝染する。コレラ渦によるイスラム世界のダメージは大きく、オスマン・トルコ帝国(現在のトルコ共和国の前身)の衰退にも繋がる。感染は欧州と北米と中南米にも拡大し、死者は全世界で数千万人に及ぶ。蒸気船や蒸気機関車などが感染速度を速め、工場労働者の過酷な労働環境や飲み水の衛生状態が感染を拡大させたという。

1821年5月5日(土) フランスの元皇帝ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)が流刑先の英領聖ヘレナ(Saint Helena)島の長木館(Longwood House)にて胃癌(stomach cancer)のため満五十一歳で病歿。英国が猛毒の砒素(ひそ: arsenic; 元素記号 As)を盛って暗殺したとの噂(うわさ)が絶えないが、真偽のほどは不明。少なくとも英国の殖民地当局がナポレオンの住まいを劣悪な環境に保っておくことで死期を早めたことだけは確実視されている。

ここまでが広義(広い意味)での古き大学(ancient universities)の時代、恵まれた生まれの特権階級(男子のみ)が主に進学

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十九世紀初頭に連合王国(UK: United Kingdom)が成立してから初めて首都ロンドンを含む英国各地に古き大学(ancient universities)以外の大学ができ始め、特権階級以外から益々多くの若者が大学に進学、高等教育への女子学生の進出開始、そうした大学の大部分は二十一世紀の現在、「ラッセル・グループ(Russell Group)」と呼ばれる新興有力大学群24校の中核を為(な)す

1822年 ウェールズ初の大学として聖ダヴィデ学寮ランピーター(St David’s College, Lampeter)、現在のウェールズ大学ランピーター校(University of Wales, Lampeter)が創立される。但し、国王の勅許状(Royal Charter)を授かるのは1828年。

1824年3月5日(金)~’26年2月24日(金) 連合王国(UK: United Kingdom)が第一次英緬戦争(First Anglo-Burmese War, 1824-26)を起こし、ビルマ帝国領土を侵略。英領印度(British India)を東に拡大することに成功。

1824年3月17日(水) 英蘭条約(Anglo-Dutch Treaty of 1824)が英京倫敦(London, UK)で締結される。

1824-25年 1770年代後半に発明されたクロンプトン(Samuel Crompton, 1753-1827)とデイル(David Dale, 1739–1806)のミュール紡績機(spinning mule)を、ウェールズ生まれのロバーツ(Richard Roberts, 1789–1864)が改良し、自動式ミュール紡績機(self-acting spinning mule)を発明。翌年に特許を取得。これによって糸の大量生産(mass production)が可能になり、労働者は単純労働のみに従事する時代が到来。

1825年9月27日(火) スティーヴンソン(George Stephenson, 1781-1848)によって、イングランド北東部のストックトン(Stockton)とダーリントン(Darlington)の間に世界初の鉄道輸送(railway transport)が実用化されるも、旅客輸送(passenger transport)の開始は更に五年の歳月を要した。

1826年 首都にユーネヴアセティ・コレッヂ・ランドゥン(UCL: University College London; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮)が創立される。但し、国王の勅許状(Royal Charter)を授かるのは1836年。

1828年 1828年聖餐審査法(Sacramental Test Act 1828)が議会で可決され、勅裁(Royal assent)を得て成立したことで、1673年審査法(Test Act of 1673)が廃止となる。これによりカトリック信徒(Roman Catholics; papists)及び非国教徒(non-conformists)が公職(public office)に就けない状態が解消される。

1828年 二年前の1826年に首都に創立されたユーネヴアセティ・コレッヂ・ランドゥン(UCL: University College London; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮)が女子の聴講を認める。なお、正規の学生として女子を受け入れるのは半世紀後の1878年のこと。

1829年4月13日(月) アイルランド人下院議員オコンネル(Daniel O’Connell, MP, 1775-1847)の尽力により1829年カトリック信徒解放法(Roman Catholic Relief Act 1829)が勅裁(Royal assent)を得て成立。

1829年 首都にキングズ・コレッヂ・ランドゥン(King’s College London)が創立される。国王の勅許状(Royal Charter)を授かるのも1829年。1495年から実に三百三十四年の時を経て、イングランドとスコットランドの大学数が同数(ともに4大学)になる。

1830年9月15日(水) 世界初の鉄道輸送(railway transport)がスティーヴンソン(George Stephenson, 1781-1848)によって実用化されたのが五年前の1825年のことだったが、今度は同じスティーヴンソンとその息子ロバート(Robert Stephenson, 1803-59)による史上初の旅客用鉄道(passenger railway)が実現。イングランド北西部で産業革命の中心地マンチェスター(Manchester)と国際貿易港リヴァプール(Liverpool)の間に旅客用鉄道が運行され、大量輸送が可能となる。途中のパークサイド駅(Parkside station)にて地元選出の議員で元閣僚のハスキソン(William Huskisson, 1770-1830; アップルビー文法学校の出)が、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェレスリー(Arthur Wellesley, the 1st Duke of Wellington, 1769-1852; 首相在任1828-30 & 1834; イートン校中退、フランス王立陸軍士官学校の出)内閣総理大臣に儀礼的に挨拶に出かけたが、車内で挨拶すれば良いものを、わざわざ線路に降りてしまい(地下鉄を除く欧州のプラットフォームは低いため簡単に降ることが可能)、反対側からやって来た蒸気機関車に轢(ひ)かれて死亡。史上初の鉄道乗客の人身事故となった。なお、乗客以外の死亡事故としては、既に十五年前の1815年に蒸気機関車のボイラーが破裂して鉄道労働者が事故死していて、これが史上初の鉄道での人身事故とされる。その後も1821年と1827年に蒸気機関車の接触が原因で鉄道労働者が事故死している。

1830年代 アイルランド人の小作化が進む。

1832年 「1832年人民代表法(Representation of the People Act 1832)」が法制化され、イングランド&ウェールズの中産階級に選挙権が与えられ、腐敗選挙区が一掃される。

1832年 八年前の1824年に英京倫敦(London, UK)で締結された英蘭条約(Anglo-Dutch Treaty of 1824)に基づき、連合王国(UK: United Kingdom)がペナン(Penang)島とマラッカ(Malacca)=現在のムラカ(Melaka)とシンガポール(Singapore)島を海洋殖民地化。

1832年 イングランド北部初の大学としてダラム大学(University of Durham)が創立される。但し、国王の勅許状(Royal Charter)は1837年。1495年から実に三百三十七年の時を経て、イングランドの大学数(5大学)がスコットランドの大学数(4大学)を抜く。

1833年8月23日(金) 二十六年前の1807年3月25日(水)の1807年奴隷貿易法(Slave Trade Act 1807)に続き、1833年奴隷制度廃止法(Slavery Abolition Act 1833)が成立し、英帝国全土に於ける奴隷制度を違法と定める。この8月23日という日付は、後に「奴隷貿易とその廃止を記念する国際記念日」(International Day for the Remembrance of the Slave Trade and its Abolition)と成るが、1791年8月22日から23日の夜にかけて、当時フランスの植民地だったサン=ドマング(Saint-Domingue)=現在のハイチ共和国に於いて、大西洋奴隷貿易の廃止の基となった反乱=ハイチ革命(仏 Révolution haïtienne; 英 Haitian Revolution, 1791-1804)が始まったことに因(ちな)むとされる。しかしながら、英国議会が奴隷制廃止を可決したとき、奴隷の所有者約4,000人に賠償金を支払ったが、その合計金額は当時のGDPの約5%に相当し、現在の貨幣価値に換算して15兆6000億円超となり、奴隷の所有者一人につき40億円弱が支払われた計算になる。百七十七年後の2010年に歴史研究の一環として、これら4,000人の名前がインターネット上で公表されることになる。この賠償金で資産を築いた一族の子孫が現在もその恩恵を受けていて、たとえばデイヴィッド・キャメロン(David Cameron, b.1966; オクスフオッド大学ブレイズノウズ学寮卒)元内閣総理大臣の従兄弟がその一人に当たるという。(2021年7月29日(木)付のクーリエ日本版=Courrier Japon=に転載された仏LOBS誌のエリック・エシマン(Eric Aeschimann)記者によるトマ・ピケティ(Thomas Piketty, b.1971; 仏国立高等師範学校卒)パリ経済学院教授単独インタビュー記事に依拠)

1834年8月1日(金) 前年(1833年)8月23日(金)に成立していた英帝国内の全奴隷が解放される。しかしながら、年季奉公制度で元の主人に仕える者は残る。この年季奉公も四年後の1838年には廃止されることになる。

1836年 上記の首都2大学がユーネヴアセティ・アヴ・ランドゥン(University of London)、つまり「ロンドン大学」というゆるやかな集合体を組織非国教会信徒(つまり非特権階級)の学生の受け皿になり、また1878年以降は英国で初めて女子学生を受け入れて正規の学位を与えた

1837年6月20日(火) 英国史上最長(六十三年と七ヶ月)の在位記録が女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)によって2015年9月9日(水)に破られることになるヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)による治世がここに始まる。

1838年 首都ロンドンに英国最古のポリテクニック(総合技術学校)として王立総合技術研究所(Royal Polytechnic Institution)が創立される。この学校は1970年に中央ロンドン総合技術学校(Polytechnic of Central London)に改名し、1992年以降はウェストミンスター大学(University of Westminster)に昇格。

1839年3月18日(月)~1842年8月29日(月) 連合王国(英国)が大清帝国(清国)に第一次阿 片(アヘン)戦争(First Opium War, 1839-42)を仕掛け、英国側が圧勝。南京条約(Treaty of Nanking)に基づき香港が英領に(但し、1941年12月25日(木)から’45年9月16日(日)までは日本軍の占領統治。1997年7月1日(火) 0:00に中国に返還)。

1839年3月下旬~1842年9月 ロシア帝国の脅威を押しのける目的で連合王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)が国境を越えてアフガニスタンに侵攻し、第一次アフガン戦争(First Anglo-Afghan War, 1839-42)が勃発。両者互角で英国側はアフガンから撤退。

1840年2月10日(月) ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)が同年齢(厳密には3ヶ月ほど年下)のドイツ貴族ザクセン・コーブルク・ウント・ゴータ家(das Haus Sachsen-Coburg und Gotha)のアルバート公(Prince Albert, 1819-61)を夫=王婿(おうせい: Prince Consort)として迎え、まるで漫画のサザエさんのように自らの姓を夫の姓に合わせるが、その際に少し英語風にしてサックス・コーバーグ・アンド・ゴーサ家(the House of Saxe-Coburg and Gotha)に変える。この姓は孫の代の国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)が1917年7月17日(火)にウィンザー家(the House of Windsor)に改名するまで続く。

1840年5月1日(金) 連合王国(英国)が世界初の郵便切手(postage stamp)を発行(但し、実際の使用開始は同年5月6日(水)から)。ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の横顔(profile プろウファイル)が図柄になっていて、発行国名の表記はなく、額面の1ペニーについても万国共通のアラビア数字の記載は無かった(上部に POSTAGE =郵便料金、下部に ONE PENNY =壹ペニーの額面 https://en.wikipedia.org/wiki/Penny_Black )。額面と全体的に黒い色彩と相俟(あいま)って、この切手はペニーブラック(Penny Black)と呼ばれた。なお、英国の切手は現在でも発行国名の表記がないが、これは英国が世界最初の切手発行国であることに世界が敬意を表し、英国のみは君主の横顔(profile)または横影絵(silhouette シルエット)を国名の代わりとすることを許されているからである。しかし現在では額面を示すアラビア数字を記載している。

1840年5月8日(金) 世界初の郵便切手(postage stamp)が発行された一週間後に、再びヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の横顔(profile プろウファイル)を図柄にした額面2ペンスの切手を英国が発行。1ペニー切手同様に発行国名の表記はなく、額面の2ペンスについても万国共通のアラビア数字の記載は無かった(上部に POSTAGE =郵便料金、下部に TWO PENCE =貮ペンスの額面 https://en.wikipedia.org/wiki/Two_penny_blue )。額面と全体的に青い色彩と相俟(あいま)って、この切手はトゥーペニーブルー(Two Penny Blue)またはタペンスブルー(Two Pence Blue or Tuppence Blue)と呼ばれた。

1841年1月25日(月) 第一次阿 片(アヘン)戦争(First Opium War, 1839-42)中に英国が香港(Hongkong or Hong Kong)を占領。以後、1997年6月30日(月) 24:00まで英国領(但し、1941年12月25日(木)から’45年9月16日(日)までは日本軍の占領統治)。

1841年 ガヴァネス(governess: 住み込み女家庭教師)の供給過剰により相対的価値の下がったガヴァネスの女性たちがガヴァネス互恵協会(Governesses’ Benevolent Institution)を設立する。

1842年8月29日(月) 連合王国(英国)が大清帝国(清国)と南京条約(Treaty of Nanking)という名の不平等条約(an unequal treaty)を締結し、第一次阿 片(アヘン)戦争(First Opium War, 1839-42)が正式に終結。約七ヶ月前から占領してきた香港(Hongkong or Hong Kong)をイギリスは正式な租借地として百五十年後の1997年6月30日(月)まで借り受ける取り決めをする(但し、1941年12月25日(木)から’45年9月16日(日)までは日本軍の占領統治)。

1844年 1844年鉄道規制法(The Railway Regulation Act 1844)が制定され、旅客用列車には必ず三等車を運行することが法的に義務づけられる。当時は私鉄のみ存在していたイギリス(英国国鉄が存在した期間は二十世紀後半1948-97年の四十九年間)で鉄道各社はこの法律を嫌々ながら受け入れ、船車連絡列車(boat train: 船と連絡を図る目的で港へ乗り入れて運行された列車)以外から二等車が次々と消えてゆく。

1845-46年 連合王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインド北西部(現在のパキスタン領を含む)のシーク帝国との間に第一次シーク戦争(First Anglo-Sikh War, 1845-46)が勃発。英国は英国は自国に対抗しうる唯一の勢力となったシーク帝国を叩くべく侵略を開始。英国側の勝利に終わり、講和条約によりシーク帝国は重要な領土を英国に割譲。

1845-52年 英国統治下のアイルランドでジャガイモ飢饉(ききん)が発生。英国政府の無為無策によって百万人を超える餓死者と百万人を超える移民を出す。移民たちは着のみ着の儘(まま)で英本土ブリテン島や北米大陸や遠く豪州へと移り住んだ。それから一世紀半が経過した1997年5月31日(土)から6月1日(日)にかけてアイルランド共和国南西部のミルストリート(Millstreet)町で開かれた「大飢饉イベント(Great Famine Event)」の場で、当時英首相になったばかりのブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)氏の手紙がアイルランド人俳優によって朗読された。その文面は、「飢饉はアイルランドと英国の歴史の中で決定的な出来事でし た。それは深い傷跡を残しました。百万人もの人々が当時世界一裕福で世界最強だった国の一地方で死なねばならなかったことは、今日(こんにち)それを省 (かえり)みるにつけ今でも苦痛を齎(もたら)します。当時ロンドンに在(あ)って国を統治していた者たちは人民の期待に背(そむ)いたのです。(The famine was a defining event in the history of Ireland and Britain. It has left deep scars. That one million people should have died in what was then part of the richest and most powerful nation in the world is something that still causes pain as we reflect on it today. Those who governed in London at the time failed their people.)」という実質的な謝罪だった

1848年 ガヴァネスのための教授資格を付与する学校としてクィーンズ・コレッヂ(Queen’s College)=現在のロンドン大学女王学寮(Queen’s College, London)が開学。

1848-49年 連合王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインド北西部(現在のパキスタン領を含む)のシーク帝国との間に第二次シーク戦争(Second Anglo-Sikh War, 1848-49)が勃発。英国側の完全勝利に終わり、シーク帝国は解体されて崩壊。

1848年7月29日(土) 青年アイルランド党(Young Irelander)による武装蜂起が鎮圧される。

1849年 首都ロンドンに英国初の女子学生専用の高等教育機関としてベドフオッド学寮(Bedford College, London)が社会改革家のリード夫人(Elizabeth Jesser Reid, 1789-1866)によって設立される。なお、このコレッヂは1900年にロンドン大学(University of London)を構成する学寮(colleges)の一つになり、1960年代には完全共学化された。1985年にはロンドン大学王立ホロウェイ学寮(Royal Holloway College, University of London)と統合され、王立ホロウェイ及びベドフオッド新学寮(RHBNC: Royal Holloway and Bedford New College, University of London)となったが、あまりにも長い正式名称のため日常会話ではロンドン大学王立ホロウェイ(RHUL: Royal Holloway, University of London)の名で通っている。

1851 年5月1日(木)~10月15日(水) ロンドンのハイドパーク(Hyde Park)内に鋳鉄(ちゅうてつ: cast iron)と板ガラス(plate glass)で建てられた水晶宮(the Crystal Palace)で、後に「1851年ロンドン万博」と日本語では呼ばれることになる世界初の万国博覧会(万博)である万国産業製作品大博覧会(the Great Exhibition of the Works of Industry of all Nations)が開催される。世界一の強国となった英国の国力を内外に誇示。なお、水晶宮は1936年11月30日(月)に火災で失われた。

1852年4月5日(月)~’53年1月20日(木) 連合王国(UK: United Kingdom)が第二次英緬戦争(Second Anglo-Burmese War, 1852-53)を起こし、ビルマ帝国領土を侵略。英領印度(British India)を更に東に拡大することに成功。

1853年11月30日(水) スィノープの海戦(露 Синопское сражение = Sinopskoye srazhenye; 土 Sinop Baskını; 英 Battle of Sinop)で帝政ロシア海軍がオスマン・トルコ帝国の軍港スィノープを急襲してオスマン艦隊を撃沈するのみならず港湾施設を徹底的に破壊。ロシア側の人的損害は戦死者37名・負傷者229名だったのに対し、トルコ側は戦死者2,960名・捕虜150名という具合に一方的な戦果だった。「スィノープの虐殺」(Massacre of Sinop)と各国マスコミに喧伝(けんでん)され、特に英仏両国ではロシア脅威論が強硬に叫ばれるようになり、両国が僅(わず)か四ヶ月後の1854年3月28日(火)にオスマン・トルコの側に就きクリミア戦争(英 Crimean War; 仏 Guerre de Crimée; 土 Kırım Savaşı; 露 Крымская война = Kr'mskaya voyna, 1853-56)に参戦する直接のきっかけとなる。

1854年3月28日(火) 英仏両国がオスマン・トルコ帝国の側に就き対露宣戦布告することで前年(1853年)から続いていたクリミア戦争(英 Crimean War; 仏 Guerre de Crimée; 土 Kırım Savaşı; 露 Крымская война = Kr'mskaya voyna, 1853-56)に参戦。海戦用の炸薬入り砲弾、蒸気船、鉄道路線、電報、新聞社特派員、写真術(explosive naval shells, steam powered ships, railways, telegraphs, newspaper correspondents and photography)が初めて本格投入された近代戦争とされ、戦争の歴史を変えた。

1856年3月30日(日) パリ条約(仏 Traité de Paris 1856; 英 Treaty of Paris of 1856; 土 Paris Antlaşması 1856; 露 Парижский мирный договор = Parishkiy mirn'y dogovor)の締結により、露土両国にとっては三年前の1853年から、英仏両国にとっては二年前の1854年から、続いていたクリミア戦争(英 Crimean War; 仏 Guerre de Crimée; 土 Kırım Savaşı; 露 Крымская война = Kr'mskaya voyna, 1853-56)が終結。人的損害はトルコが約45,400名、フランスが135,485名、イギリスが40,462名(多くはアイルランド兵)の戦死者を出した。対するロシアは敵側の土仏英側の合計の二倍以上の530,125名もの戦死者を出した。他にも土仏英の側に就いたサルデーニャ王国(後のイタリア王国、現在のイタリア共和国の前身)の2,166名の戦死者がいた。

1856年6月28日(土)~1860年8月 連合王国(英国)がフランス共和国と組んで大帝國(清国)に対して第二次阿片(アヘン)戦争(Second Opium War, 1856-60)とも呼ばれることになるアロー戦争(Arrow War, 1856-60)を仕掛け、英仏連合軍が圧勝。英仏は1858年に天津条約(英 Treaty of Tientsin; 仏 Traité de Tianjin)を、1860年に北京条約(英 Convention of Peking; 仏 Convention de Pékin)を結ばせ、英国は香港の北に在る九龍半島南部を獲得し、巨額の賠償金も得る。

1857年5月10日(日)~1859年6月20日(月) 英国の東インド会社(EIC: East India Company)によるインド支配に対してセポイの叛乱(Sepoy Mutiny, 1857-59)が起きる。英国陸軍(British Army)は叛乱軍のインド人捕虜を大砲の砲口に縛りつけ、木製砲弾を発射して生きたまま体を四散させる見せしめの刑を執行。四半世紀後の1884年にロ シアの著名な戦争画家ヴェレシチャーギン(Васи́лий Васи́льевич Вереща́гин; Vasily Vasilyevich Vereshchagin, 1842-1904)が、その場面を恰(あたか)も見てきたかのように想像で描く( http://en.wikipedia.org/wiki/Blowing_from_a_gun / http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/be/Vereshchagin-Blowing_from_Guns_in_British_India.jpg )。迫真に満ちた絵画ではあるが、英国陸軍の軍装が1880年代の物であり、1850年代の物ではないため、 記録としては信用できない。なお、ヴェレシチャーギン自身は日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)開戦二ヶ月後に、極東の旅順港(Port Arthur)で乗っていたロシア戦艦が日本海軍の仕掛けた機雷に触れて命を落とした。

1857年 セポイの叛乱(Sepoy Mutiny, 1857-59)の中で英国がインドに殖民地エリート(英殖民地政府と印度庶民の間を取り持つ中間層)の育成を目的としてカルカッタ(現コルカタ)とボンベイ(現ムンバイ)に大学を創立

1858年 セポイの叛乱(Sepoy Mutiny, 1857-59)の責任が英国東インド会社(EIC: East India Company)にあるとして、印度統治法に基づき印度亜大陸を連合王国の直接支配下に置く。

1859年11月24日(木) 博物学者(自然科学者)・地質学者・生物学者であるチャールズ・ダーウィン(Charles Darwinm 1809-82)の通称 『種の起源』(英原題 On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, 1859; 直訳『自然選択による種の起源、或(ある)いは生存闘争に於(お)ける恵まれた種族の保存』; ウィキペディア日本語版では誤訳して『自然選択の方途による、すなわち生存競争において有利なレースの存続することによる、種の起原』と表記)という著書がイギリスで刊行される。著書は「全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、自然選択プロセスを通して進化してきたこと」と「生物は常に環境に適応するように変化し、種が環境に応じて分岐していくことで、多様な種が生じること」を説き、欧米の言論界・学界に一大センセーションを巻き起こす。

1860年7月9日(月) 上記のクリミア戦争(英 Crimean War; 仏 Guerre de Crimée; 土 Kırım Savaşı; 露 Крымская война = Kr'mskaya voyna, 1853-56)に於ける献身的な看護で名を馳せたフローレンス・ナイティンゲイル(Florence Nightingale, 1820-1910)がロンドンの聖トマス病院の付属として世界初の非宗教系看護学校であるフローレンス・ナイティンゲイル看護産婆学校(The Florence Nightingale School of Nursing and Midwifery) を設立。現在はロンドン大学国王学寮(King’s College London)の一部を形成し、フローレンス・ナイティンゲイル看護産婆学部(The Florence Nightingale Faculty of Nursing and Midwifery) となっている。

1862年1月~1863年1月 1862年1月21日(火)、文久遣欧使節が英国海軍(Royal Navy)の蒸気フリゲート艦オーディン号(HMS Odin)で欧州に向けて品川港を出港。長崎港、英領香港(現在の中華人民共和國香港特別行政區)、英領シンガポール(現在のシンガポール共和国)、英領セイロン(現在のスリランカ民主社会主義共和国)、英領イエメン(現在のイエメン共和国)を経てエジプトのスエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリア港に出て、船で地中海を渡り英領マルタ(現在のマルタ共和国)を経て、同年(1862年)4月3日(木)にフランス帝国マルセイユ港に上陸。一行に加わった中津藩士の福澤諭吉(ふくざは ゆきち, 1835-1901)は、英領香港で英人が現地の中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けたという。一行はリヨンを経由して同年(1862年)4月7日(月)にナポレオン三世(Napoléon III or Louis-Napoléon Bonaparte, 1808-73; 共和国大統領在任 1848-52; 皇帝在位1852-70)統治下の帝都巴里(Paris)に到着し、当初の目的を果たすべく両港(新潟、兵庫)開港と両都(江戸、大坂)開市の延期交渉をするも相手にされず。同年(1862年)4月30日(水)、英京倫敦(London)に到着し、日本事情に詳しいオルコック(Sir Rutherford Alcock, 1809-97)初代駐日総領事の休暇帰国を待つ。その間に福澤諭吉はロンドン万国博覧会(London International Exhibition on Industry and Art 1862; Expo 1862)を視察し、蒸気機関車・電気機器・植字機に触れ、病院を見学し、幕府から支給された支度金400両を使ってイギリスで刊行された物理学や地理学の書物を買い込む。同年(1862年)6月6日(金)にオルコックの協力を得て兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を五年延期する倫敦(London)覺書の調印に成功。その後、同年(1862年)6月13日(金)にはオランダ王国とハーグ(den Haag)覺書を、同年(1862年)7月18日(金)にはプロイセン王国(現在のドイツ連邦共和国)と伯林(Berlin)覺書を締結。樺太(現在のロシア極東部サハリン州)国境問題を討議するために帝都ペテルブルクも訪問。その地で福澤諭吉は陸軍病院を訪れ、外科手術を見学。帰路に再び寄ったフランス帝国(現在のフランス共和国)とは巴里(Paris)覺書を調印することにも成功。一行は10月9日(木)にポルトガル王国(現在のポルトガル共和国)を訪れ、英領ジブラルタルを経由した後は往路とほぼ同じ行路を辿(たど)り、翌年(1863年)1月30日(金)、一年強の旅を終えて帰国。

1862年9月14日(日) 江戸(現在の東京)から橫濱(横浜)方面へ向かう途中の武藏國橘樹郡生麥村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で生麥事件が起こる。薩摩藩主島津茂久(しまづ もちひさ, 1840-97)=後の島津忠義(しまづ たゞよし, 1840-97)公爵の父、島津久光(しまづ ひさみつ, 1817-87)の行列に乱入した騎馬のイギリス人4名(男3名+女1名)を供回りの藩士が刀で斬りつけ、そのうち二十八歳の商人の男性1名(Charles Lennox Richardson, 1834-62)を殺害、男女各1名を負傷させる。

1863年1月9日(金) 英国議会が四ヶ月近く前の1862年9月14日(日)に起こった生麦事件への報復として薩摩藩に対する武力制裁を議決。

1863年1月10日(土) ロンドンで交通渋滞緩和のために世界初の地下鉄が開業(パディントン~ファリンドン駅間)。当時は瓦斯燈(ガス灯)で内部を照らした木製の客車を牽引(けんいん)する蒸気機関車が地下を走行したが、開業初日だけで四万人もの利用者があったという。(なお、日本で東京地下鐵道の淺草~上野驛間(現在の東京メトロ銀座線の一部区間に相当する浅草~上野駅間)が開業するのは、そのほぼ六十五年後(六十四年十一ヶ月と二十日後)の1927年12月30日(金)のこと)。

1863年8月15日(土)~17日(月) 薩英戦争(Royal Navy’s bombardment of Kagoshima)が勃発(ぼっぱつ)。薩摩藩側が時間稼ぎを行ない、前年(1862年)9月の生麦事件の賠償問題に対して何ら回答を出さないことから、とうとう痺(しび)れを切らした英国海軍は薩摩藩の汽船3隻を拿捕するという強硬手段に出る。この時、後の英国留学生となる五代友厚(ごだい ともあつ, 1836-85)と寺島宗則(てらしま むねのり, 1832-93)の2人は英国海軍の捕虜(PoWs: prisoners of war)となり、橫濱(横浜)に連行される。続いて英国艦隊は薩摩國薩摩藩鹿兒島(現在の鹿児島県鹿児島市)の町を砲撃したが、薩摩藩も天保山砲台から大砲で応戦し、英国艦隊との間で激しい砲撃戦を展開。この戦闘で鹿兒島城下北部が焼かれ、諸砲台が壊滅的損害を受けた。英国側の死傷者は60余人に及び、思わぬ苦戦を強いられた英国艦隊は鹿兒島湾を去り、橫濱に戻っていく。その後、在橫濱英國總領事館(British Consulate-General in Yokohama, Japan)で3回に及ぶ講和交渉が行なわれ、薩摩藩が賠償金2万5千磅(ポンド)を幕府から借用して支払うことで和解が成立する。交渉中に薩摩側がイギリス側に軍艦購入の周旋を依頼したことから、以後、薩英の間に親密な関係が築かれていく。戦闘前は攘夷(じょうい)に傾いていた薩摩藩だったが、イギリスの力を思い知り、攘夷を断念し、以後の討幕運動ではイギリスの力を借りることになる。

1863年11月4日(月) 四ヶ月余り前に国禁を犯して橫濱(横浜)港から海外へ密航していた「長州五傑」または「長州ファイヴ(Choshu Five)」なる長州藩士五人組が、その目的地英京倫敦(ロンドン)に到着。一行はロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)に籍を置き、ウィリアムソン教授(Professor Alexander Williamson)の分析化学(Analytical Chemistry)の講義を聴くなどして、様々な学問に触れる。

1864年8月8日(月)~23日(火) 英領アイルランドの都ダブリン(Dublin)の中心地でアイルランド人下院議員、故オコンネル(Daniel O’Connell, 1775-1847)の銅像の除幕式があり、それを見物しに北アイルランドのベルファスト(Belfast)からカトリック信徒たちがダブリンを訪れる。ところがベルファストに帰ると、オレンジ男たち(Orangemen)を名乗る約5,000人のプロテスタント系過激派が鉄道駅で待ち構えていて、カトリック信徒への暴力を開始。地元の警察は見て見ぬふりをするも、一部のカトリック信徒が反撃すると、それには銃撃で応じる。犠牲者の数は不明。

1865年5月 薩摩藩遣英使節団(視察員4名+留学生15名)が英国に到着。視察員4名は英国のみならず各国を回り、留学生15名のうち1名は幼すぎるため現地中等学校に入り、他14名の薩摩スチューデントたち(Satsuma Students)は同じく藩命で約一年半前の1863年11月に着いていた「長州五傑」または「長州ファイヴ(Choshu Five)」と同じロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)で学び、多くは大学至近のガワー街一〇三番地(103 Gower Street)のアパート(イギリス英語で flat)に暮らした。ロンドンのUCLに日本留学生が集まったのは、当時のイングランドではUCLだけが信仰や人種の違いを超えて、すべての学徒に門戸を開いていた大学だからである。百二十八年後の1993年、幕末薩長から来た日本人24人のうち視察員4名と現地中等学校に入った者1名を除く計19名を顕彰する記念碑がUCLの中庭に建立(こんりゅう)された。

1865年11月26日(日)~’67年 オクスフオッド大学基督教会学寮(Christ Church, Oxford)の数学講師チャールズ・ラトウィッヂ・ドヂスン(Charles Lutwidge Dodgson, 1832-98)が、自らのファーストネームとミドルネームであるチャールズ・ラトウィッヂ(Charles Lutwidge)を羅典(ラテン)語にしたカろルス・ルゥドォウィクス(Carolus Ludovicus)を英語風にしたルイス・キャロル(Lewis Carroll, 1832-98)の筆名で、さらにはジョン・テニエル(Sir John Tenniel, 1820-1914)の挿絵を付けて Alice’s Adventures in Wonderland (直訳 『不思議の国に於けるアリスの冒険』; 邦題 『不思議の国のアリス』)をロンドンで刊行。初刷2千部は挿絵を描いたテニエルが印刷の質を問題視したため撤回し、翌月(1865年12月)に1866年の年号を入れた初版として再販。大人も子供も夢中になると大変な評判となり、ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)も愛読者となった。有名な逸話として、ヴィクトリア女王に「あなたの次の著書を献辞付でいただきたい」と要求されたため、1867年に本名のチャールズ・L・ドヂスン(Charles L. Dodgson, 1832-98)の名で書いた 『行列式に関する基礎論文: 同時線形方程式と代数幾何学への応用付』(An Elementary Treatise on Determinants: With Their Application to Simultaneous Linear Equations and Algebraical Geometry)という数学の専門書を贈ったと言われているが、これについてルイス・キャロルは強く否定し、「それはあらゆる細部にわたって完全に虚偽であり、それに類似したことすら起こっていない [後略]」(It is utterly false in every particular: nothing even resembling it has occurred...)と語った。

1866-67年 産婦人科医(英 obstetrician-gynaecologist; 米 obstetrician-gynecologist)でイングランド王立外科医師会(Royal College of Surgeons of England)会員(a Fellow)で、しかもロンドン医師会(Medical Society of London)会長のアイザック・ベイカー・ブラウン(Isaac Baker Brown, 1811-73)が、On the Curability of Certain Forms of Insanity, Epilepsy, Catalepsy, and Hysteria in Females (直訳 『女性の狂気や癲癇(てんかん)や強硬症(カタレプシー)やヒステリーの或る種の形態の治療可能性について』)と題した専門書の中で、女性の自慰行為(masturbation)はヒステリー、脊髄の炎症、癲癇病質の発作またはヒステリー性の発作、強硬症(カタレプシー)の発作、癲癇(てんかん)の発作、痴呆(ちほう)、躁(う)状態、死(hysteria, spinal irritation, epileptoid fits or hysterical epilepsy, cataleptic fits, epileptic fits, idiocy, mania, death)の順に8つの段階を追って病苦と死が襲うと主張。ブラウン医師はこの悲劇を防ぐ最も効果的な方法は陰核と小陰唇の外科的切除(excision of the clitoris and nymphae)、二十一世紀の現在で言う女性器切除(FGM: female genital mutilation)だとし、実際に数えきれないほどの陰核切除(いんかく せつじょ: clitoridectomy)手術を実施。後にこの理論は根拠が無いことが同業者たちから指摘され、しかも患者の同意なく勝手に手術していたことも明るみに出たため、1867年にブラウンはロンドン産科学会(Obstetrical Society of London)から除名され、陰核切除手術はイギリスでは実施されなくなる。しかしながら、アメリカでは二十世紀(1901-2000年)に入ってもこの誤った理論を信じる者が多く、1930年代にもこの不幸な手術が行われていた形跡がある。

(外部サイト)

J. B. Fleming, “Clitoridectomy -- the disastrous downfall of Isaac Baker Brown, F.R.C.S. (1867)”

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12278329

Sally Frampton, “How To Make a Victorian Villain (or the Tale of Isaac Baker Brown) Part 2”

https://uclhistoryofmedicine.wordpress.com/2013/01/26/how-to-make-a-victorian-villain-or-the-tale-of-isaac-baker-brown-part-2-2/

“The rise and fall of FGM in Victorian London”

http://theconversation.com/the-rise-and-fall-of-fgm-in-victorian-london-38327

1867年3月5日(火) 英領アイルランドでアイルランド共和兄弟会(IRB: Irish Republican Brotherhood)によるフィーニアン蜂起(Fenian Rising of 1867)が鎮圧される。

1867年 男性でありながらフェミニストの論陣(ろんじん)を張った最初の人物で、経済学者・哲学者・センタンドルーズ大学学長(1865-68)・国会議員(1865-68)のJ. S. ミル(John Stewart Mill, 1806-73)が前年の1866年に1,499人(資料によっては1,498人)の女性参政権要求の署名とともに英国議会に提出していた「第二改革法案」(The Second Reform Act)が他の議員の反対に遭い否決される。この法案否決の1867年を女性参政権運動の元年と一般に見做(みな)す。その翌年の’68年にはミル自身が選挙で落選して議員の資格を失う。

1867年11月 オクスフオッド大学(University of Oxford; 通称 Oxford University)でタウン&ガウン(town and gown: 「町 の住民と大学関係者とのいざこざ」の意)が嵩(こう)じて緊迫した状況になったため、軍隊が出動。

1869年 J. S. ミル(上記1867年の項を参照)が八年前の1861年に既に執筆していた著書『女性の従属』(The Subjection of Women, 1869)を刊行し、その中で社会に於(お)ける女性の活躍を阻(はば)む3つの物とは、社会と性差の構築、教育、婚姻(society and gender construction, education, and marriage)であるとした。

1869年10月16日(木) ロンドンの北、ハートフォドシヤ(Hertfordshire)に英国で2番目の女子学生専用の高等教育機関として女子学寮(College for Women) が開校。 但し、居住型の高等教育学寮としては英国初とされる。なお、このコレッヂは1948年にケイムブリヂ大学に吸収されてケイムブリヂ大学ガートン学寮 (Girton College, Cambridge)となる。1976年11月の理事会決定で男子学生の受け入れを認め、翌’77年1月に男性研究員を迎え、翌’78年には男子大学院生の受け入れを開始し、1979年10月に男子の学部生も入学してきたことで完全共学化した。

1869年11月4日(木) ロンドンにピアレビュー(peer review: 「同業者による査読」の意)方式の科学誌『ネイチャー』(Nature: 『自然』の意)が創刊される。

1869年11月17日(水) 8:00 フランス貴族・外交官・実業家のフェルディナン・ド・レセップス子爵(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps, 1805-94)が中心となって設立されたスエズ海運運河万国会社(Compagnie universelle du canal maritime de Suez; 略称 Compagnie de Suez; 通常和訳 スエズ運河会社)が、大部分はフランスの民間投資家から出資を募って十年前の1859年から開削してきたスエズ運河(仏 le canal de Suez; 英 Suez Canal)が遂に開通する(なお、小規模な工事は二年後の1871年まで続く)。これにより西欧からインド亜大陸やシナ(現在の中国)へのアクセスが大幅に改善される。英国はスエズ運河が「英国の国益を損なう物」として運河の開削そのものに当初から反対し、あの手この手で妨害工作を行なってきたが、遂に開通してしまった。運河の北の玄関口であるポートサイド(Portside: 「港湾側」の意)では開通式(Inauguration)が、オスマン・トルコ帝国(現在のトルコ共和国)のイスマーイール・パシャ(Isma'il Pasha; İsmail Paşa, 1830-95; )エジプト総督と、フランス帝国(現在のフランス共和国)の皇后ウジェニ(Eugénie de Montijo, 1826-1920)=前述のレセップス子爵の従妹(いとこ)を主賓として華々しく挙行される。招待された各国の王族や名士も参列。皇后ウジェニを乗せたフランス帝国の帆船レグル(L’Aigle: 「鷲(ワシ)」の意)が、スエズ運河を通行する最初の船団総勢48隻の先頭という手筈になっていたが、英国海軍(RN: Royal Navy)のジョージ・ネーズ(Sir George Strong Nares, 1831-1915)中佐(退役時は中将)の指揮する軍艦ニューポート(HMS Newport: 「新港湾町」の意)が、ネーズ中佐自身の独断専行で開通式前夜(1869年11月16日(火))に密かに船団の行列の先頭、つまりフランス帆船レグルの前にまんまと位置を占めたのだった。夜が明けるとフランス海軍は英国海軍に先を越されたことに気づき、うろたえ、すっかり面目を失ってしまう。こうしてネーズ中佐の軍艦ニューポートは開通式の行なわれる朝、堂々と最初の船としてスエズ運河を通行したのだった。英国海軍省(Admiralty)は独断専行のネーズ中佐に対し、公式には叱責(an official reprimand)しながらも非公式には感謝決議(vote of thanks)を送るという離れ業(わざ)をやってのけている。感謝とは、英国の国益に資する行ないをしたことと、夜の闇に潜(ひそ)んでの困難な航行を無事故で成し遂げたことに対してである。これによりネーズは年内にも海軍中佐(Commander)から海軍大佐(Captain)へと昇進した。上述したオスマン・トルコ帝国のイスマーイール・パシャ総督は1875年に財政危機に陥ったため、スエズ海運運河万国会社(スエズ運河会社)の持ち株を四百万ポンド足らず(£3,976,582)で英国政府に売却してしまう。皮肉なことに当初から一貫して反対してきた英国政府がスエズ運河の株式44%を保有する筆頭株主と成る。株式の買い取りの是非を英国議会(Parliament)にも諮(はか)らず独断専行で実行したのは、保守党のユダヤ系政治家ディズラエリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, 1804-81; 首相在任1868 & 1874-80; ハイアム丘学校の出)内閣総理大臣(後の初代ビーコンズフィールド伯)であり、ユダヤ系資本のロスチャイルド(Rothschild: ドイツ語で「赤盾」の意だが、元来のドイツ語発音は「ろートゥシルトゥ)家からの借金で賄(まかな)った。これについて野党自由党のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94; オクスフオッド大学基督教会学寮卒)党首が「憲法違反」(unconstitutional)として議会で激しく攻撃した。英国は1956年秋のスエズ危機(Suez Crisis)まで八十一年間もスエズ運河の事実上の支配者となるが、その後はエジプト(Egypt)が国有化することになる。

1870年2月17日(木) 当時二大政党制の一翼を担っていた自由党(Liberal Party)のフォースター(William Forster, 1818-86)議員の主導により、同じ自由党のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94; オクスフオッド大学基督教会学寮卒)内閣の下(もと)で1870年初等教育法(Elementary Education Act 1870)、通称 フォースター法(Forster Act)が導入され、5歳から13歳までのほぼ全児童の教育が始まる。この法律が制定される前は、教会等が慈善(charity)活動の一環として学校を 運営する場合と、富裕層向けの私立学校しか存在しなかったため、貧しい家の子は教育を受ける機会に恵まれなかった。しかしこの法律のお蔭で地方自治体が公 的な初等教育を始めることが可能となった。資金は国から出るので、国立学校(state schools; state-funded schools)の扱いとなる。

1870年8月1日(月) 自由党のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94)内閣がアイルランド人の小作権を保障する1870年地主・小作人(アイルランド)法(Landlord and Tenant (Ireland) Act 1870: 日本の世界史教科書では「第一次アイルランド土地法」)を議会で通したことを受け、勅裁(Royal Assent)が下りて成立。

1870年 ケイムブリヂ大学で初めて女子聴講生を受け入れ

1871年 ケイムブリヂ大学の女子学生専用の学寮としてニューナム学寮(Newnham College, Cambridge)が開寮。この学寮の創立者の1人に穏健派女性参政権活動家ミリセント・フォーセット(Millicent Fawcett, 1847-1929)。この学寮は今日(こんにち)に至るも同大学で男子学生の受け入れを拒否し続ける2学寮のうちの一つである。

1873年5月頃 経済学者・歴史家・下院議員・女権運動家トロルド・ロヂャーズ(Thorold Rogers, 1823–90; オクスフオッド大学ハートフオッド学寮卒)の長女アニー・ロヂャーズ(Annie Mary Anne Henley Rogers, 1856–1937)がイニシャルのA. M. A. H. R.の名でオクスフオッド地域年少・年長試験(Oxford Local Junior and Senior Examinations)を受験し、トップの成績を収める。オクスフオッド大学ベァリオル学寮(Balliol College, Oxford)と同大学ウスター学寮(Worcester College, Oxford)が奨学金(scholarship)と入学許可を申し出たが、入学直前になって大学当局はアニーが女性だと気づき入学は破談となる。ベァリオル学寮はお詫びの印にと、ホメーロス(希 Ὅμηρος = Hómēros; 羅 Homerus; 英 Homer, the late 8th or early 7th century BC)の6巻本を贈ることでお茶を濁し、ウスター学寮はもっと成績の劣る男子を入学させてしまう。ウスター学寮は冗談でアニーを選出し、その後で男子を受け入れたとする説もある。同時代の新聞はアニーが学寮のオファーを拒絶したと書いたが、実際には男子しか居ない所なので断らざるを得なかったのが真相だ。

(外部リンク)

http://www.hurleyskidmorehistory.com.au/annie-mary-anne-henley.html

https://www.bodleian.ox.ac.uk/oua/enquiries/first-woman-graduate

1874年6月1日(月) 創業1600年の英国東インド会社(EIC: East India Company)が1857-59年にインドで起きたセポイの反乱(Sepoy Mutiny)の責任を取って、インドの行政権をヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)に譲渡して解散。二百七十四年の歴史に終止符。

1874年 英国初の女医養成のためのロンドン女子医学校(LSMW: London School of Medicine for Women)が創立される。百二十四年後の1998年にロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)に吸収され、現在では同大学医学部(UCL Medical School)の一翼を担っている。なお、日本では二十六年後の1900年に東京女醫學校(現在の東京女子医科大学)が創立されている。詳しくは、香川せつ子 「イギリスにおける女性医師要請の嚆矢─ロンドン女子医学校 1874年~1884年─」(永原学園西九州大学・佐賀短期大学 『西九州大学・佐賀短期大学紀要』2007年/第37号、 http://www.nisikyu-u.ac.jp/nagahara/uploads/ck/adminmini/files/%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8/%E7%B4%80%E8%A6%81/%E6%B0%B8%E5%8E%9F%E5%AD%A6%E5%9C%92%E8%A5%BF%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%83%BB%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9F%AD%E6%9C%9F%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%B4%80%E8%A6%81/%E7%AC%AC37%E5%8F%B7%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%88%9018%E5%B9%B4%E5%BA%A6/37-05.pdf )へ。

1875年 六年前の1869年11月17日(水)にフランスが開通させながら経営危機に陥っていたエジプトのスエズ運河(仏 Canal de Suez; 英 Suez Canal)の株券を大量に買い付けることで、英国政府が運河の株44%を保有する筆頭株主となり、事実上の支配権を獲得。

1875年 ケイムブリヂ大学の女子学生専用のニューナム学寮が学生の受入を開始。女子学生は正規学生としては認められず聴講生としての待遇。この学寮は今日(こんにち)に至るも同大学で男子学生の受け入れを拒否し続ける2学寮のうちの一つである。

1877年1月1日(月) 英領印度帝國の成立により、英国東インド会社(EIC: East India Company)は解散。ヴィクトリア女王が印度女帝(Empress of India)を兼務。英領印度(British India)の殖民地化が完了。

1877年5月頃 四年前の1873年に優秀な女子を門前払いしたオクスフオッド大学(University of Oxford; 通称 Oxford University)が、その時の騒動を反省し、当事者の女性アニー・ロヂャーズ(Annie Mary Anne Henley Rogers, 1856–1937)が学士(bachelor’s degree)相当の卒業試験、その名も「女性のための試験」(Examinations for Women)を受けることを許可する。アニーは羅典(ラテン)語及び希臘(ギリシア)語(Latin and Greek)の卒業試験を受け、見事に第一級合格(achieves first-class honours)する。しかしながら、この当時のオクスフオッド大学では女性に正式な学位を与えていなかったため、学位授与は四十三年後の1920年10月26日(火)まで持ち越し

(外部リンク)

http://www.hurleyskidmorehistory.com.au/annie-mary-anne-henley.html

https://www.bodleian.ox.ac.uk/oua/enquiries/first-woman-graduate

1878年 四十二年前の1836年に創立されていたロンドン大学(University of London)というゆるやかな集合体が英国で初めて正規の学位を授与する目的で女子学生を受け入れ。なお、聴講生としては半世紀前の1828年から女子学生を受け入れていた。

1878年9月~1880年9月 ロシア帝国の脅威を押しのける目的で英領印度帝国の軍隊が三十六年ぶりに国境を越えてアフガニスタンに侵攻し、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan War, 1878-80)が勃発。両者互角で英国側はアフガンから撤退。

1879年5月頃 二年前の1877年にオクスフオッド大学(University of Oxford; 通称 Oxford University)の羅典(ラテン)語及び希臘(ギリシア)語(Latin and Greek)の学士(bachelor’s degree)相当の卒業試験、その名も「女性のための試験」(Examinations for Women)を受け、見事に第一級合格(achieves first-class honours)していた女性アニー・ロヂャーズ(Annie Mary Anne Henley Rogers, 1856–1937)が、今度は古代史(Ancient History)の卒業試験を受け、見事に第一級合格(achieves first-class honours)する。しかしながら、この当時のオクスフオッド大学では女性に正式な学位を与えていなかったため、学位授与は四十一年後の1920年10月26日(火)まで持ち越し

(外部リンク)

http://www.hurleyskidmorehistory.com.au/annie-mary-anne-henley.html

https://www.bodleian.ox.ac.uk/oua/enquiries/first-woman-graduate

1879年 三十年前の1849年にカルカッタ女子学校(Calcutta Female School)として創立されていた女子専用のベトゥーン学校(Bethune School)が学位授与機関に格上げされ、しかも二十二年前の1857年に創立されていた英領印度のカルカッタ大学(University of Calcutta; 通称 Calcutta University)の傘下(さんか)に入り、ベトゥーン学寮(Bethune College)と改称される。この学寮は現在も女子専用である。

1879年秋 オクスフオッド大学に初の女子学生専用の寮としてレイディ・マーガレット寮(LMH: Lady Margaret Hall, Oxford)と聖アン学寮(St Anne’s College, Oxford)とサマヴィル学寮(Somerville College, Oxford)が開寮するも女子学生は正規学生としては認められず聴講生としての待遇。前者2校(LMHと聖アン)は創立百周年の1979年に男子学生の受け入れを開始し、後者(サマヴィル)は1994年に男子学生の受け入れを開始し、完全共学化した。

1879年秋 首都ロンドンに英国で3番目の女子学生専用の高等教育機関として王立ホロウェイ学寮(Royal Holloway College)が企業家・人道主義者のトマス・ホロウェイ(Thomas Holloway, 1800-83)によって設立される。但し、ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)による正式な開学は七年後の1886年のこと。なお、このコレッヂは1900年にロンドン大学(University of London)を構成する学寮(colleges)の一つになった。1945年に大学院生のみ男子学生も受け入れを開始し、1965年には学部レベルでも男子学生を受け入れるようになったため、この時点で完全共学化。1985年にロンドン大学ベドフオッド学寮(Bedford College, University of London)と統合され、王立ホロウェイ及びベドフオッド新学寮(RHBNC: Royal Holloway and Bedford New College, University of London)となったが、あまりにも長い正式名称のため、日常会話ではロンドン大学王立ホロウェイ(RHUL: Royal Holloway, University of London)の名で通っている。

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これ以降は各地方商工都市の中産階級市民が自治的に建学した赤煉瓦(レンガ)大学(red brick universities)6校の登場により特権階級以外から益々多くの若者が大学に進学、赤煉瓦大学の6校すべては二十一世紀の現在、「ラッセル・グループ(Russell Group)」と呼ばれる新興有力大学群24校の中核を為(な)す

1880年 自由党(Liberal Party)のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94; オクスフオッド大学基督教会学寮卒)内閣の下(もと)で1880年初等教育法(Elementary Education Act 1880)が勅裁・施行される。この法律のお蔭で初めて義務教育(compulsory education)という概念が導入され、その年限を5歳から10歳までとした。十三年後に改定した1893年初等教育(学校出席)法(Elementary Education (School Attendance) Act 1893)では義務教育年限を5歳から11歳までとした。

1880年 産業都市マンチェスターに男女共学のヴィクトリア大学(Victoria University)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可される。但し、同大学は1903年にヴィクトリア大学マンチェスター(Victoria University of Manchester)として組織改編され、2004年に近在のUMISTと統合して、マンチェスター大学(University of Manchester)に改称。

1880年8月~12月1日(水) ボイコット事件。英領アイルランドの領地管理人(land agent)で英国陸軍(British Army)に所属するボイコット大尉(Captain Charles Boycott, 1832-97)を排撃する運動(ボイコット事件)が起きる。主導したのはアイルランド国民土地連盟(Irish National Land League)で、小作料の引き下げを要求し、立ち退きに反対しボイコット大尉の使用人たちに労働を拒否するよう説く。拒否運動は近在の商店にも及び、ボイコット大尉は店で買い物もできなくなる。なお、現代英語の動詞 boycott (ボイコット: 「不買運動する」「抗議して参加を拒否する」「ボイコットする」の意)は、このボイコット大尉に由来する。同年12月1日(水)にボイコット大尉はアイルランドを去る。

1881年8月22日(水) アイルランド人下院議員でアイルランド国民土地連盟(Irish National Land League)会長のパーネル(Charles Stewart Parnell, 1846-91)が尽力し、自由党(Liberal Party)のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94)内閣がアイルランド人の土地購入権を認めるべく議会で通した1881年土地法規(アイルランド)法(Land Law (Ireland) Act 1881)、通称 第二次アイルランド土地法(Second Irish Land Act)に勅裁(Royal Assent)が下りて成立。

1881年 ロンドン大学の分校としてイングランドのノッティンガムの地にユーネヴアセティ・コレッヂ・ノッティンガム(University College Nottingham)が開学。

1882年 七年前の1875年に英国政府が筆頭株主となったエジプトのスエズ運河(英 Suez Canal; 仏 Canal de Suez)に英国軍がこれ以降たびたび軍事介入し、エジプトを事実上の保護国(a de facto protectorate)にする。1956年のスエズ危機(Suez Crisis)の結果による撤退まで英軍は七十四年もスエズ運河に居座り続ける。

1883年 マフディー戦争(Mahdist War or Anglo-Sudanese War, 1881-99)で隣国スーダンと戦うエジプトにイギリスが加勢。

1885年8月14日(金) 保守党(Conservative Party)のソールズベリー(Robert Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury, 1830-1903; 首相在任1885-86, 1886-92 & 1895-1902)内閣が上記のパーネル(Charles Stewart Parnell, 1846-91)の気を引いて議会で多数派を形成すべく、1885年土地購入(アイルランド)法(Purchase of Land (Ireland) Act 1885)、通称 アッシュボーン法案(Ashbourne Act)を議会で可決したことを受け、これに勅裁(Royal Assent)が下りて成立。この法律が成立したことで、アイルランドの小作人が英国から年利4.0%という低金利で借金して土地を獲得することが可能になる。

1885年11月7日(土)~29日(日) 連合王国(UK: United Kingdom)が第三次英緬戦争(Third Anglo-Burmese War, 1885)を起こし、ビルマ帝国を完全に制圧することに成功。これ以降は英領印度(British India)の一部と成る。第一次英緬戦争(1824-26年)、第二次英緬戦争(1852-53年)と併せて計三回にも亘(わた)る侵略を経て勝利した後はビルマ国王夫妻を牛車に押し込めて城から追いたて、王家の財産をすべて没収した。ビルマ国王夫妻は4人の王女ともども英領印度のボンベイ(現ムンバイ)へ流刑に処され、貧困に喘(あえ)いでその地で客死した。王位継承権第一位にあった第一王女(国王夫妻の長女)は身分の低い現地インド人の軍人(しかも妻帯者)と結婚させられ、他の3人の王女たちは最下層の身分に落とされた。第一王女の娘(国王夫妻の孫)はボンベイの街角で造花を売って生計を立てたという。イギリスは1886年にビルマの殖民地化に成功すると、まだ政情が不安定だった最初の四年間はどんな小さな反抗、反英的態度も断じて許さず、反抗が起こった地方の指導者・関係者・一族郎党を処刑した。その後は異民族であるインド人を毎年十万人単位で大量入殖させ、彼らに英領ビルマを間接統治させた。殖民地化から半世紀が経過した1930年代にはビルマの国土の半分以上が外国人(イギリスを中心とした白人、インド人、華僑=中国系住民)の所有となり、現地ビルマ人は小作農にならざるを得なくなっていた。

(参考)外部サイト

http://www.tamanegiya.com/igirisunotouti19.10.15.html (リンク切れ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/英緬戦争

1886年4月8(木)~6月8日(火) 自由党(Liberal Party)のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94)内閣が1886年アイルランド政府法案(Government of Ireland Bill 1886)、通称 第一次自治法案(First Home Rule Bill)を議会で通そうとするも反対多数で否決される。

1886年 オクスフオッド大学に4番目の女子学生専用の学寮として聖ヒュー学寮(St Hugh’s College, Oxford)が開寮するも女子学生は正規学生としては認められず聴講生としての待遇

1886年 十二年前の1874年のロンドンに続いて、スコットランドの都でエディンバラ女子医学校(Edinburgh School of Medicine for Women)が開学。しかし僅(わず)か十二年後の1898年に資金難のため廃校。

1887年 十七年前の1870年以来、聴講生として女子を受け入れてきたケイムブリヂ大学で、女子にも正規の学位を授与しようという動きが起こるが、男子学生たちの猛反撥により実現せず

1889年末~’90年初 上記の1881年土地法規(アイルランド)法(Land Law (Ireland) Act 1881)、通称 第二次アイルランド土地法(Second Irish Land Act)の成立に当たって活躍した下院議員パーネル(Charles Stewart Parnell, 1846-91)が不倫関係を暴露されて失脚。パーネルは翌’91年に満45歳の若さで病歿。

1892年 オクスフオッド大学基督教会学寮(Christ Church, Oxford)の分校としてレディングの地にユーネヴアセティ・コレッヂ・レディング(University College, Reading)が開学。

1893年4月21日(金)~9月1日(金) 自由党(Liberal Party)のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94)内閣が1893年アイルランド政府法案(Government of Ireland Bill 1893)、通称 第二次自治法案(Second Home Rule Bill)を通そうし、下院(庶民院)では賛成多数で可決するも上院(貴族院)で否決され失敗に終わる。

1893年 ウェールズの首都カーディフに男女共学のウェールズ大学(University of Wales)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可される。

1893年 オクスフオッド大学に5番目の女子学生専用の学寮として聖ヒルダ学寮(St Hilda’s College, Oxford)が開寮するも女子学生は正規学生としては認められず聴講生としての待遇。オクスフオッド大学で最後まで男子禁制を貫(つらぬ)いたが、2006年6月の理事会決定で男子学生の受け入れを認め、2008年10月に男子学生が入学してきたことで完全共学化した。

1893年11月7日(火) 英領印度ボンベイ(現在のムンバイ)港と日本の神戶(神戸)港を結ぶ航路が就航。日本としては初の遠洋航海定期航路となる。

1895年2月18日(月)~11月23日(土) オスカー・ワイルド事件(Wilde versus Queensberry + Regina versus Wilde)

事件の発端は、英領アイルランド(現在のアイルランド共和国)の都ダブリン市(Dublin, Ireland)生まれの詩人・劇作家・小説家・批評家オスカー・ワイルド(Oscar Wilde, 1854-1900; ダブリン大学三位一体学寮卒、オクスフオッド大学モードレン学寮卒)が、1895年2月18日(月)に受け取った一枚の訪問カード(英 a calling card; a visiting card; 仏 une carte de visite)であった。送り主は、ワイルドと性的に親密な関係にあったとされる16歳年少のアルフレッド・ダグラス=後のダグラス卿(Lord Alfred Douglas, 1870-1945; オクスフオッド大学モードレン学寮中退)の父親である第九代クィーンズベリ侯爵ジョン・ダグラス(John Douglas, 9th Marquess of Queensberry, 1844-1900; ケイムブリヂ大学モードレン学寮中退)だったが、息子とワイルドとの仲を快く思っておらず、このような行動を起こした。このカードに書かれていたのは「男色家を気取るオスカー・ワイルドへ」(For Oscar Wilde posing Sodomite https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Somdomite.jpg )という挑発的な文言(もんごん)だった。なお、第九代クィーンズベリ侯爵は、このオスカー・ワイルド事件の三十年前の1865年に近代ボクシングのルールが定められた際に保証人(the endorser)となったため、それ以後のボクシング公式試合では彼の名を冠して「クィーンズベリ侯ルール」(Marquess of Queensberry Rules)と呼ばれるようになっている( https://sites.google.com/site/xapaga/home/sport2 )。

これを見たワイルドは送り主のクィーンズベリ侯を名誉棄損罪(libel)で訴えた。その結果、1843年名誉棄損法(1843 Libel Act)に基づいてクィーンズベリ侯は同罪で逮捕された。クィーンズベリ侯が無罪(not guilty)を勝ち取るには自分の訴えが真実であること(that his accusation was in fact true)を司法の場で証明せねばならない。そこでクィーンズベリ侯は私立探偵たち(private detectives)を雇ってワイルドの同性愛関係の証拠を集めさせた。

同年(1895年)4月3日(水)に開始された民事裁判でクィーンズベリ侯側のカーソン勅撰弁護士=後のカーソン男爵(Edward Henry Carson, QC, or Baron Carson, 1854-1935; ダブリン大学三位一体学寮卒)が、当時違法だった「男性同士の性行為」(sodomy)という線でワイルドを徹底的に追い詰めた。ワイルドの雇ったクラーク勅撰弁護士(Sir Edward Clarke, QC, 1841-1931; ロンドン大学国王学寮卒)は、ワイルドが恋人(男性)のダグラスに書いてクィーンズベリ侯の側に渡ってしまった2通のきわどい手紙(two suggestive letters)について原告ワイルドに質問するという奇策に出たが、ワイルドはそれらが「詩的言語」(poetical language)で書かれていて、法廷では奇妙に見えるかも知れないが、無垢(innocent)な内容の物であるとした。カーソン勅撰弁護士は選択型質問(closed-ended questions)という手法でワイルドを問い詰め、ワイルドの機知(wit)に富んだ回答は法廷の笑いを誘ったが、裁判での獲得点数(legal points)にはならず、ワイルドは見る見るうちに不利な情勢に追い込まれていった。

著名な貴族であるクィーンズベリ侯の雇った勅撰弁護士が、これまた著名な中産階級文化人ワイルドの不道徳な言動(特に男娼=売春夫との交わりや、同性愛者用娼館への出入り)を法廷で執拗に強調したことでマスコミの報道が過熱し、有名な裁判事件(a cause célèbre)と成った。確かにワイルドは男性同士の肉体関係を伴う親密な交友関係を築いていることや、その自由奔放な言動などから裁判前から世間の耳目(じもく)を集めていたため、今で言う芸能人(a show biz person)のような人物だった。クィーンズベリ侯側のカーソン勅撰弁護士は過去のワイルド語録や行状(ぎょうじょう)を強調することで、ワイルドは不道徳で堕落した(immoral and decadent)人物だと主張した。

はたけば埃(ほこり)が出るという状態で満身創痍(まんしん そうい)の原告ワイルドは、自分の雇ったクラーク勅撰弁護士の助言に従い、クィーンズベリ侯に対する名誉棄損の訴えを取り下げた。そしてクィーンズベリ侯は無罪放免となった。一方のワイルドはクィーンズベリ侯の裁判費用を全額負担することになり、自己破産した。

上記の民事裁判で明らかにされた数多くの証拠から、1885年刑法改正法第11条(Section 11 of the Criminal Law Amendment Act 1885)の定める「著(いちじる)しい猥褻(わいせつ)行為」(gross indecency)に抵触(ていしょく)したとして、同年(1895年)4月6日(土)にワイルドは逮捕された。この法律は、通称「ラブゥシェール修正条項」(Labouchère Amendment)として知られ、「公的な場であろうと私的な場であろうと、他の男性と著しい猥褻行為を行なった男性、またその行為に参加した男性、或いはその行為を斡旋した男性、または斡旋しようとした男性は、すべて軽犯罪を犯したとして有罪であり、裁判所の裁量に於いて二年以下の禁錮刑と重労働、或いは二年以下の禁錮刑のみに処す。」(Any male person who, in public or private, commits, or is a party to the commission of, or procures, or attempts to procure the commission by any male person of, any act of gross indecency with an other male person, shall be guilty of a misdemeanour, and being convicted thereof, shall be liable at the discretion of the Court to be imprisoned for any term not exceeding two years, with or without hard labour.)と書かれている。なお、ラブゥシェールとは、この法案(bill)を起草したヘンリー・ラブゥシェール(Henry Labouchère, or Henry Du Pré Labouchère, 1831-1912; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)議員=自由党(Liberal Party; 通称 Liberals; 別称・蔑称 Whigs)所属=の苗字に由来し、フランス語で「その肉屋のおかみさん」(英直訳 the butcher’s wife or the wife of the butcher)または「その女性の肉屋」(英直訳 the female butcher)を意味する。ラブゥシェール家(the Labouchères)は、フランスに於けるプロテスタント弾圧という宗教的迫害を逃れ、イギリスに渡来・帰化したユグノー(Huguenots)の家系である。

この1885年の刑法改正(修正条項)は、元来は同姓愛そのものを取り締まるための法規ではなく、当時市中で屡々(しばしば)見られた未成年者の売春行為(prostitution)を規制することを目的としたものである。年端(としは)の行かない少年少女(特にカネに困った下層階級を想定)を無節操な男(特に富裕層を想定)の情欲から救うことが目的だった。しかしながら、この法が施行された時点で少年売春や少女売春の取り締まりだけではなく、当時の遠回しな言い方で「男同士の親密さ」(male intimacy)が顕在していると判断されれば、それを犯罪行為として取り締まることが可能になったのだった。「ラブゥシェール修正条項」によって裁かれた最初の有名な事件が、この刑法改正から四年後の1889年に起きたクリーヴランド街醜聞事件(Cleveland Street scandal)である。これはロンドン中心街メリルボン地区に在るクリーヴランド街19番地(19 Cleveland Street, Marylebone, London)に男娼館(a homosexual male brothel)が密かにオープンし、関係した男たちが「ラブゥシェール修正条項」に抵触したとして逮捕され、有罪となった事件である。しかしながら、時の英国政府(Her Majesty’s Government)が上流階級(upper class)=王侯貴族の顧客の存在を隠蔽(いんぺい: cover up)したとして、世間から非難を浴びた。このクリーヴランド街醜聞事件がオスカー・ワイルド事件(Wilde versus Queensberry + Regina versus Wilde)の前触れ・先ぶれ(precursor; prelude)になったと今日(こんにち)では言われている。

公判中、ワイルドは未決囚(a prisoner awaiting trial)としてロンドンのニューゲイト刑務所(Newgate Prison)に収監された。そして今度は刑事裁判の被告人と成り、同年(1895年)4月26日(金)に刑事裁判が開始されたが、ワイルドは無罪(not guilty)を主張(plead)した。前回に引き続きワイルドが雇った弁護人はクラーク勅撰弁護士である。

ワイルドが不道徳で堕落した(immoral and decadent)人物であるという事実が既に民事訴訟の法廷で明らかにされていたため、今回の刑事訴訟でもこうした印象が更(さら)に強調された。法廷内のみならず、世間一般の人々もワイルドに対して批判的な目を向けるようになった。当時の一般大衆にとってワイルドの行動は風俗を紊乱(びんらん)するものであるという考えが根強かった。

斯()くしてワイルドは同年(1895年)5月25日(土)に有罪判決(guilty verdict)を言い渡され、当初はロンドン北部の女王陛下のペントンヴィル刑務所(HM Prison Pentonville)、後にロンドン南東部の女王陛下のウォンヅワース刑務所(HM Prison Wandsworth)、更に後にロンドン西郊のレディング監獄(Reading Gaol)にて、即日(1895年5月25日(土))から1897年5月18日(火)迄の二年間の重労働(two years’ hard labour)の刑に服した。同年(1895年)11月23日(土)に鉄道でレディング監獄に移送された際には、駅のプラットフォームに居た群衆に囃(はや)し立てられ、唾(つば)を吐きかけられたと伝えられている。

なお、レディング監獄は後に女王陛下のレディング刑務所(HM Prison Reading)と改名し、2014年の年頭に閉鎖された。閉鎖から七年後の2021年3月1日(月)に謎の覆面アーティストであるバンクシー(Banksy)=本名・生年ともに非公開=のグラフィティ(grafitti)が跡地の壁に出現し、話題になっている( https://www.bbc.com/news/uk-england-berkshire-56231364 )。そのグラフィティには一人の受刑者(a prisoner)がシーツ(bedsheets)で出来たロープ(rope)を使って脱獄(escape)する様子が描かれている。ロープの先に結び付けられたタイプライター(typewriter)はかつての受刑者オスカー・ワイルドを表している可能性が高い。

破産して心身ともにボロボロになった作家ワイルドは、1897年5月19日(水)にレディングから出所した(バンクシーが示唆する脱獄ではない)。服役中に母親は死亡し、妻と2人の息子たちとは会えなくなっていた。その後はイギリスに居られなくなり、セバスチャン・メルモス(Sebastian Melmoth)の偽名を使った自発的亡命者(a voluntary exile)の生活が始まった。そして隣国のフランス共和国首都パリ(Paris, France)の安宿オテル・ダルザス(Hôtel d’Alsace: 「アルザスのホテル」の意)で暮らし、どんなに落ちぶれても最後まで友人であり続けてくれた少数の者たちの慈悲に縋(すが)って何とか飲食を続けることができた。

三年半後の1900年11月30日(金)、ワイルドは満46歳の若さで同ホテルの2階(但し、フランス語やイギリス英語では「1階」と言う)の部屋にて髄膜炎(meningitis)により死去した。本当は梅毒(syphilis)だったという実(まこと)しやかな俗説がかつて存在したが、現在では否定されている。辞世の言葉は、「僕は身分不相応に死んでいく。」(I am dying beyond my means.)だったと伝えられているが、これは live beyond one’s means (身分不相応な暮らしをする)という慣用句を捩(もじ)った言葉=パロディー(parody)である。ワイルドが息を引き取った安宿は現在ではロテル(L’Hôtel: 「そのホテル」の意で、英訳すると The Hotel https://www.l-hotel.com/ )と名を変え、安宿だった時代の面影はそこには無く、今や高級ブティックホテルとして人気が高い。

ワイルドの死去から117年後、2017年治安維持・犯罪法(Policing and Crime Act 2017)=俗に言うアラン・チュアリング法(Alan Turing law)に基づき、約5万人の男性が過去の有罪判決を撤回され、特赦(pardon)が与えられた。もちろんその名簿(list)には満41歳で(42歳の誕生日の16日前に)自殺したと考えられている(他の説もあり)天才数学者アラン・チュアリング(Alan Turing, 1912-54)と共に、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde, 1854-1900)の名も記載されている。

1896年8月27日(木) 9:02~9:40 アフリカ東部の島国でイギリスの保護国ザンジバル(現在のタンザニア連合共和国の一部)で、イギリス・ザンジバル戦争(Anglo-Zanzibar War, 1896)が勃発(ぼっぱつ)するも40分足らずで終結。現在では世界最短戦争(the shortest war in world history)としてギネス世界記録に登録される。ザンジバルの当時のスルタン(sultan: イスラム国家の最高権力者)ハマド・ビン・トゥーワイニ(Hamad bin Thuwaini Al-Busaid, 1857?-96; スルタン在位1893-96)は英支配層当局に協力的だったが、国内にはこれを快(こころよ)く思わない勢力が存在し、その代表格がスルタンの従弟(甥という説もあり)のカリド・ビン・バルガシュ(Khalid bin Barghash Al-Busaid, 1874?-1927)の勢力だった。現政権に不満があったカリドが開戦二日前(1896年8月25日(火))11:40にハマドを毒殺(但し、証拠は無い)して政権を奪取し、自らが新たなスルタンを名乗る。イギリスはカリドを新スルタンとは認知せず、ハムード・ビン・ムハンマド(Hamoud bin Mohammed Al-Said, 1853-1902; スルタン在位1896-1902)をスルタン候補として擁立し、ハムードの名でカリドにスルタン退位を命令。この命令をカリドが聞き入れず、イギリスが設定した最後通牒(さいご つうちょう: ultimatum オルティメイタム)をカリドが無視し、最後通牒の期限9:00が到来したため、二分後の9:02に英国海軍(RN: Royal Navy)が艦砲射撃を開始することで開戦の火蓋(ひぶた)が切られる。スルタン宮殿(sultan’s palace)は瞬(またた)く間に灰燼(かいじん)に帰し、後宮(harem)も大きく損傷。多くのカリド側兵士が逃亡し、カリド自身もドイツ領事館(独 deutsches Konsulat ; 英 German consulate)に逃げ込んだことで、イギリス・ザンジバル戦争は僅か38分(40分説や45分説もあり)で終結。カリド軍は約500人の死傷者(死者限定の数字は不詳)を出すが、対する英軍は一人の死者も出さず、海軍下士官が一人負傷しただけだった。カリドは独領東アフリカ(現在のタンザニア連合共和国の一部)に政治亡命するも、第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)中の1916年に独領に攻め込んできた英軍に捕縛され、インド洋の英領セイシェル諸島(現在のセイシェル共和国)、続いて南大西洋の英領セントヘレナ島への流刑(るけい)の憂き目に遭い、1927年に漸(ようや)く東アフリカへの帰還が許され、英領ケニアのモンバサ港に着いたところで客死。満52歳または53歳であった。

1896年 スコットランドの古き4大学(the four ancient Scottish universities)である、1410年創立のセンタンドルーズ大学(University of St Andrews: 直訳「聖アンデレ大学」)と、1451年創立のグラーズゴウ大学(University of Glasgow)と、1495年創立のアバディーン大学(University of Aberdeen)と、1582年創立のエディンバラ大学(University of Edinburgh)が、殆(ほとん)どの学科で男女共学化

1897年 十年前の1887年に続いて、ケイムブリヂ大学で女子にも正規の学位を授与しようという動きが再び起こるが、男子学生たちの猛反撥がケイムブリヂ中心街での暴動にまで発展し、またしても実現せず

1897年 全国女性参政権協会連合NUWSS: National Union of Women’s Suffrage Societies)がミリセント・フォーセット(Millicent Fawcett, 1847-1929)によって組織される。フォーセットは、これに先立つ二十六年前の1871年に女子教育のためのケイムブリヂ大学ニューナム学寮を創立した人物の1人。

1898年 エセル・チャールズ(Ethel Charles, 1871-1962)が王立英国建築家協会(RIBA: Royal Institute of British Architects)に迎えられ、英国史上初の女性建築家となる。

1898年 十二年前の1886年にスコットランドの都で開学したエディンバラ女子医学校(Edinburgh School of Medicine for Women)が資金難のため廃校

1898年9月18日(日)~11月3日(木) ファショダ事件(英 Fashoda Incident)またはファショダ危機(仏 Crise de Fachoda)が発生。現在の南スーダン共和国上ナイル州に位置するファショダ(英 Fashoda; 仏 Fachoda)村=現在のコドック(Kodok)町またはコトック(Kothok)町にて、南部アフリカのケープタウン(Cape Town)から北部アフリカのカイロ(Cairo)までの大陸縦貫政策(north-south axis)を採るイギリスの軍勢と、アフリカ西部のセネガル(Senegal)からアフリカ大陸北東に位置する紅海(Red Sea)まで大陸横貫政策(east-west axis)を採るフランスの軍勢が一触即発となる。しかしながら、英軍の司令官キッチナー(Sir Herbert Kitchener, 1850-1916)、後の初代キッチナー伯爵(Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener, 1850-1916)がフランス軍の司令官マルシャン(Jean-Baptiste Marchand, 1863–1934)とフランス語で会見を行ない、事態の処理をロンドンとパリの本国政府に委(ゆだ)ねるとすることで一応の合意に至る。フランスの新任外務大臣デルカッセ(Théophile Delcassé, 1852-1923; 外相在任1898-1905)の考えでは、イギリスとの軍事衝突は得策ではなく、当時急速に勢力を伸長していたドイツとの軍事衝突に備えてイギリスとの関係改善を急務としたことから、フランス側はあっさりと譲歩。同年11月3日(木)、フランス政府がマルシャン将軍に撤退を命じたことで戦端が開かれることなく終わる。フランス政府はマルシャンが理性的に行動しイギリスとの無為な戦闘を回避したことを高く評価。英仏殖民地保有国勢力の間で「金持ち喧嘩せず」(英 The wealthy do not fight. 仏 Les riches ne se battent pas.)の談合が成立したとも言える。

1899年 十八年前の1881年に勃発したマフディー戦争(Mahdist War or Anglo-Sudanese War, 1881-99)で英埃側の勝利に終わり、スーダンがイギリス・エジプトの共同主権(英埃領スーダン)となる。

1899年10月11日(水)~1902年5月31日(土) 南アフリカで金やダイヤモンドが発見されるとイギリスは侵略を開始してボーア(ブール)戦争(Second Boer War, 1899-1902)を起こす。ところが世界一の軍事力を誇っていた英軍が敵オランダ系農民(ボーア人またはブール人)のゲリラ戦法に対して予想外の苦戦を強いられたため、英軍は苦肉の策としてボーア人の農家を一軒一軒虱(しらみ)潰(つぶ)しに破壊していく焦土作戦(しょうど さくせん: scorched earth strategy)を実行。一家の主(あるじ)がボーア兵士として出征した後を預かるオランダ系の女子供に多数の難民を出す。その対策として、イギリスはボーア民間人の保護を口実に世界で初めて強制収容所(concentration camp コンセントれイションキャンプ)を実用化。栄養失調に起因する病死者を出して世界から非難される。英軍に抑留されたボーア人の女子供約26,000人が死亡。その約80%は16才未満(15才以下)だった。後にナチス・ドイツ(独 Nazideutschland od. NS-Deutschland; 英 Nazi Germany, 1933-45)は、イギリスのやり方を模倣して1933年3月22日(水)、政治犯を収容するための強制収容所(独 Konzentrationslager コンツェントらツィオーンスラーガー)をミュンヘン(München; 英 Munich ミューニック)市郊外のダッハウ(Dachau)に設け、1942年にはユダヤ人絶滅収容所を実用化した。

(参考)外部サイト

https://ja.wikipedia.org/wiki/強制収容所

1899年11月2日(木)~1901年9月7日(土) 北清事變=別名「義和團事件」が発生。英語圏では「ボクサー謀叛」を意味する Boxer Rebellion と呼ばれ、これを直訳した中文で「拳亂」と呼ぶ。「義和團運動」=簡体字で「义和团运动」=ピンインで Yìhétuán Yùndòng とも呼ぶ。

1900年2月27日(火) 保守党と自由党の二大政党に対抗する第三勢力として労働党(Labour Party)が結党される。

1900年 男女共学のバーミンガム大学(University of Birmingham)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可される。

1901年1月22日(火) 二十世紀の幕開けとともに1837年以来、六十三年と七ヶ月続いた(当時としては英国史上最長)のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の治世がその薨去(こうきょ)とともに終わる。死の床で女王の手を握っていたのは、外孫のドイツ皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世(Kaiser Wilhelm II., 1859-1941; 在位1888-1918)だったが、ヴィルヘルム二世は約十三年半後の1914年夏に英仏を相手に第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)を事実上引き起こすことになる。

1902年1月30日(木) 英京倫敦はメイフェア(Mayfair, London: 日本で言えば舊東京府東京市麻布區のような大使館街・最高級住宅街)地区のランヅダウン館(Lansdowne House: 現在の Lansdowne Club)にて日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)が締結される(1923年8月17日(金)に失効)。調印したのは英側から第五代ランヅダウン侯爵(Henry Petty-Fitzmaurice, 5th Marquess of Lansdowne, 1845-1927)外務大臣(Secretary of State for Foreign Affairs; 通称 Foreign Secretary)と、日本側から林董(はやし ただす; Baron Tadasu Hayashi, 1850-1913)男爵(後に子爵、更に後に伯爵)・駐英日本國公使(Resident Minister of Japan to the UK)。

1902年5月31日(土) 三年前の1899年10月11日(水)から続いていた南アフリカに於けるボーア(ブール)戦争(Second Boer War, 1899-1902)の終結。イギリス帝国の威信に陰り。

1902年 保守党(Conservative Party; 蔑称 Tories)の初代バルファ伯爵アーサー・バルファ(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour, 1848-1930; 首相在任1902-05)内閣の下(もと)で1902年教育法(Education Act 1902)、通称 バルファ法(Balfour Act)が勅裁・施行される。なお、日本の歴史資料では発音を誤って「バルフォア法」としている( https://en.oxforddictionaries.com/definition/balfour,_arthur_james )。この法律によって地方自治体が中等学校(secondary school: 直訳「第二学校」)を開学することが可能となる。しかし資金は国から出るので、国立学校(state schools; state-funded schools)の扱いとなる。小学校が従来までの elementary school (直訳「初級学校」)から primary school (直訳「第一学校」)に名称変更となったことで、アメリカ英語との違いが生まれる。また、中等学校が従来までの higher elementary school (直訳「高等初級学校」)から secondary school (直訳「第二学校」)に名称変更となる。このため、primary (第一)から secondary (第二)という具合に分かり易くなった。ちなみに大学教育のことを tertiary education (直訳「第三教育」)または higher education (直訳「より高度な教育」; 通常和訳「高等教育」)と英語(米語を含む)では呼んでいる。

1902年 イングランド北部のヨークシヤ(ヨーク州)で約3千人の女性織物労働者が女性参政権獲得のための嘆願書に署名。

1903年7月19日(日)~27日(月) 英国王エドワード七世(Edward VII, 1841-1910; 在位1901-10)がその妃アレクサンドラ妃(Queen Alexandra, 1844-1925)を伴なって英領アイルランド島を訪問。英国国家元首による史上初のアイルランド島訪問が実現。

1903年 二十二年前の1881年にコレッヂとして創立され、翌’82年から男女共学として学生を受け入れてきたリヴァプール大学(University of Liverpool)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可される。

1903年 二十三年前の1880年 に産業都市マンチェスターにヴィクトリア大学(Victoria University)として国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可されていた大学が組織改編され、男女共学のヴィクトリア大学マンチェスター(Victoria University of Manchester)として新たに出発。なお、この大学は2004年に近在のUMISTと統合して、マンチェスター大学に改称。

1903年 三百十一年前の1592年にイングランド王国の事実上の属国だったアイルランド島に創立されていたダブリン大学(University of Dublin)の中でも特に名門とされる三位一体学寮(Trinity College, Dublin)が男女共学化

1903年10月10日(土) 女性社会政治連合WSPU: Women’s Social and Political Union)が、過激派女性参政権運動家(suffragette サフらヂェット)であるエメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst, 1858-1928)らによって組織される。これは1897年に組織されたNUWSS(全国女性参政権協会連合)から過激派が袂(たもと)を分かってできた組織である。当時の連合王国には女性建築家が6名、女性獣医が3名、女性会計士が2名しかおらず、女性参政権が認められていなかったため女性政治家は皆無(ゼロ)の状況だった。

【関連動画】

The Making of Modern Britain (Part 1 of 6)

Written & produced by Andrew Marr (b.1959)

BBC 2009

https://www.youtube.com/watch?v=rr22U2610TA (47:30-51:56 of 1:04:20)

1904年4月8日(金) 英仏間にフランス語で「友好的な相互理解」を意味する Entente Cordiale (アォンタント・コふディアル)という事実上の同盟条約が結ばれる。これを日本の歴史教科書では「英仏協商」と称する。

1904年 三百十二年前の1592年に創立された英領アイルランド随一の名門であるダブリン大学三位一体学寮(Trinity College, Dublin)で学位の取得を目的とした正規の女子学生の受け入れ開始。

1904年 男女共学のリーヅ大学(University of Leeds)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可される。

1904-07年 ヴィクトリア大学マンチェスター(Victoria University of Manchester)、現在のマンチェスター大学(University of Manchester)でマリー・ストウプス(Marie Stopes, 1880-1958)が女性初の講師として採用される。

1905年4月上旬 ザンジバル(現在のタンザニアの一部)の偽皇族によるケイムブリヂ市訪問事件(The Sultan of Zanzibar hoax)。ケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)の学生ホレス・ドゥ・ヴィア・コウル(Horace de Vere Cole, 1881-1936)と友人で後の医師エイドリアン・スティーヴン(Adrian Stephen, 1883-1948)とその仲間3名による大掛かりないたずら(practical joke)事件が起きる。ザンジバルの本物のスルタン(回教君主) が英国訪問中であることを新聞で知ったコウルらは英国政府(His Majesty’s Government)の役人が書いたと信じ込ませるような電報(telegram)をケイムブリヂ市の市長(Mayor)、本業は薬剤師・薬局経営のキャンプキン氏(Mr Algernon S. Campkin, 生歿年不詳; 市長在任1904-05)宛に送りつけ、その日の16:27到着の列車でのスルタンによるケイムブリヂ市訪問という偽情報を流す。一味は再度電報を送り、「17:43まで到着延期になるため夕食はご一緒できない」旨(むね)を告げる。一行5名は顔に煤(すす)を塗り、ターバンで頭を覆(おお)った異国的な出(い)で立ちで、ケイムブリヂ駅に到着。但し、内1名は英国人通訳ヘンリー・ルーカス(Henry Lucas)という設定のため、普通の白人姿。待ち構えていた市の助役(Town Clerk)に迎えられた際に、「スルタンご自身は来られなくなり、代わりに叔父のムカサ・アリ王子(Prince Musaka Ali)を遣(つか)わした。」と告げ、大歓声の市民が見守る中、用意された特別馬車で市長の待つ市役所(Guildhall ル ドホール)に案内される。市長主催の歓迎パーティーやチャリティーバザーが開かれ、ワインを勧められるが、「厳格なカースト制度があるため、たとえ市長の面前でも飲み食いする姿は見せられない。」と言って断る。実際には飲み食いすることで顔に塗った煤(すす)が落ちてしまうことを恐れたからだった。また、ザンジバルでかつてキリスト教宣教師をしていた老婦人に現地語で話しかけられるという危うい一幕(ひとまく)もあったが、「スルタンの後宮(harem)に入りたい場合に限り、現地語で直接話ができる」という出鱈目(デタラメ)な内容をコウルが咄嗟(とっさ)の機転で伝えることでこのピンチを切り抜けた。市内の名所へ案内され、大学の聖ヨハネ学寮(St John’s College, Cambridge)や三位一体学寮(Trinity College, Cambridge: つまりコウル一味の学寮)の視察訪問などをして、ケイムブリヂ駅で市長に見送られてから一味は逃走。コウルはこの冒険譚(ぼうけんたん)をロンドンの日刊メール(Daily Mail)紙に 売りつける。新聞記事を見た市長はカンカンに怒り、コウル一味の逮捕を要求したが、ケイムブリヂ大学副学長(イギリスの学長は名ばかりの名誉職のため、事実上の学長に相当)が介入し、「そんなことをしたら、市長さんの評判が更に下がりますよ。」と警告したため、逮捕には至らず。この事件は、街の住人と大学側の対立(town and gown)が背景に在(あ)ったと考えられる。なお、2000年の法改正でイングランドの一部の自治体が他の先進国に倣(なら)って有権者(一般市民)の直接投票で市長を選ぶようになったが、ケイムブリヂ市議会の市長は市民による選挙を経ておらず、現在も1年任期の持ち回り制であり、政治的な実権は無い。

(外部サイト)ドゥ・ヴィア・コウル一行の変装写真、サイン入り

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/4/4e/The_Sultan_of_Zanzibar_hoax_at_Cambridge.jpg

1905年6月28日(水) 米国東部の名門私立大学であるイェイル大学(Yale University: 在コネティカット州ニューヘイヴン市)が英国の作曲家エルガー(Sir Edward Elgar, 1857-1934)に名誉博士号(honorary doctorate)を授与。同大学の応用音楽学教授(Professor of Applied Music)のサンフオッド(Samuel Sanford, 1849-1910)の尽力によって実現した。式典の最後で楽団がエルガーの「威風堂々」行進曲第1番(‘Pomp and Circumstance’ March No.1)を演奏したが、これが端緒(たんしょ)となって後に全米の大学と高校が模倣して卒業式(米語で commencement コメンスメント)で演奏するようになり、今日(こんにち)に至っている。しかしながら、イギリス本国にこのような伝統は無い。

1905年 男女共学のシェフィールド大学(University of Sheffield)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可される。

1905年 北アイルランド初の大学として男女共学の女王大学ベルファスト(Queen’s University Belfast)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可される。

1905年10月13日(金) 二年前の1903年10月10日(土)に母親の過激派女性参政権運動家(suffragette サフらヂェット)であるエメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst, 1858-1928)らが組織した女性社会政治連合WSPU: Women’s Social and Political Union)に入っていた長女でヴィクトリア大学マンチェスター(現在のマンチェスター大学)法科学生のクリスタベル・パンクハースト(Christabel Pankhurst, 1880-1958)とその新しい友人アニー・ケニー(Annie Kenney, 1879-1953)の二人が当時二大政党の一翼を担っていた自由党(Liberal Party)の大会に乱入して逮捕される。前者(クリスタベル)は中産階級(middle class)で、後者(アニー)は労働者階級(working class)であったが、階級の垣根を越えた同志となった。場所はマンチェスター中心地の自由貿易講堂(Free Trade Hall)で、そこには後に首相になるチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)もいた。二人は椅子の上に乗って立ち、「自由党は女性に投票権を与える気はあるのか。(Will the Liberals give women the vote?)」と叫んだが、返答は貰えなかった。そこで二人は「女性に投票権を(Votes for Women)」と書かれた横断幕を掲げた。「黙れ!(Shut up!)」と叫ぶ者もいたが、「女性たちに喋らせろ!(Let the women speak!)」と言ってくれる者もいた。クリスタベルは党大会の警備に当たっていた警察官に唾(つば)を吐き、顔を平手打ちしたため、アニーともども抱きかかえられて往来へ連れ出されたが、逮捕はされなかった。そもそも逮捕されることで世間の注目を集めることが目的だったので、逮捕されないことは大いに不満だった。そこで往来でも警官に唾を吐き、顔を平手打ちした。そして今度は漸(ようや)く逮捕された。二人は刑事裁判にかけられ有罪判決を受けるが、禁固刑か罰金刑か、どちらを欲するかと判事に問われると、二人は喜んで禁固刑を選んだ。主犯のクリスタベルは禁固6日の刑、共犯のアニーは禁固3日の刑に服したが、マンチェスターのストレインヂウェイ刑務所(Strangeway Prison: 直訳「奇道刑務所」)を出所する際は、事件のことを聞きつけた支持者たちで出入口前は溢(あふ)れかえった。

【関連動画】(自由党党大会乱入事件)

The Making of Modern Britain (Part 1 of 6)

Written & produced by Andrew Marr (b.1959)

BBC 2009

https://www.youtube.com/watch?v=rr22U2610TA (49:04-51:56 of 1:04:20)

1905年12月2日(土) 同年9月に日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)に辛くも勝利(事実上の判定勝ち)した大日本帝國が、在外公館(an ODE: an overseas diplomatic establishment)として史上初の在外日本大使館(Embassy of Japan; 通称 Japanese Embassy)を英京倫敦(London, UK)に設置。旧来の在聯合王國日本國公使館(Japanese Legation in London, UK)を在聯合王國日本國大使館(Embassy of Japan in London, UK)に格上げした形である。五年前の1900年以来、駐英日本國公使(Resident Minister of Japan to the UK)を務め、三年と十ヶ月程前の1902年1月30日(木)に締結された日英同盟(Anglo-Japanese Alliance, 1902-23)の立役者である林董(はやし ただす, 1850-1913)子爵(後に伯爵)は、駐聯合王國日本國特命全権大使(英 Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary of Japan to the UK; 仏 Ambassadeur extraordinaire et plénipotentiaire du Japon au Royaume-Uni)に昇格。これと時を同じくして東京の在日英國公使館(British Legation in Tokyo, Japan)がロンドンの英本国政府の意向で在日英國大使館(British Embassy in Tokyo, Japan)に格上げとなる。五年前の1900年以来、駐日英国総領事兼特命全権公使(英 Consul-General and Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary of the UK to Japan; 仏 Consul général et envoyé extraordinaire et ministre plénipotentiaire du Royaume-Uni au Japon)を務めてきたクロード・マクドナルド大佐(Colonel Sir Claude Maxwell MacDonald, 1852-1915)は、駐日英国特命全権大使(英 Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary of the UK to Japan; 仏 Ambassadeur extraordinaire et plénipotentiaire du Royaume-Uni au Japon)に昇格。これを皮切りに列強各国も英国に倣(なら)い、公使館を大使館に軒並み格上げ。これは日露戦争に勝利した日本が極東の一大国として承認されたことを意味する。

1907年8月31日(土) 「英露相互理解(英 Anglo-Russian Entente; 露 Англо-русское соглашение = Anglo-russkoye soglasheniye)」という名の事実上の同盟条約を締結。これを日本の歴史教科書では「英露協商」と称する。日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)ではロシア艦隊に徹底的な嫌がらせをすることで日本を助けたイギリスだったが、もはやロシアの脅威はなくなり、ロシアを敵視する必要がなくなっていたため、代わってドイツの脅威に対処することになる。既に以前から仏露間に同盟関係があったため、これを以(もっ)て三国間の相互理解(Triple Entente: 日本の歴史教科書では「三国協商」)が成立し、独墺伊(但し、イタリア王国は第一次世界大戦時に独墺を裏切り英仏側に寝返ることになる)の三国同盟と対立することになる。

1908年4月27(月)~10月31日(土) 第四回オリンピック大会(Games of the IV Olympiad)が英帝都ロンドンで開催される。本来はイタリアの首都ローマで開催される予定だったが、二年前の1906年にヴェスヴィオ山が噴火し、その被害がローマ市にも及んだため、急遽ロンドンでの 開催となった。日本は第5回夏季オリンピック1912年ストックホルム大会で初参加したため、このロンドン大会の出場は逃した。参加国・地域数は22。マラソン競技の走行距離は当初は明文化されておらず、第1回から第3回の大会では約25マイル(メートル法で約40km)としていた。しかし時の英国王エ ドワード七世(Edward VII, 1841-1910; 在位1901-10)のデンマーク生まれの妃アレクサンドラ(Queen Alexandra, 1844-1925)が、「スタート地点はウィンザー城(Windsor Castle)で、ゴール地点は大会競技場(Great White City Stadium)のボックス席の前に」と注文をつけたために26マイル385ヤード(メートル法で42.195km)という半端な数字になったとする真偽不明の逸話がある。ウィンザー城と競技場の距離からこうなったのは真実だが、そこに王妃の我儘(わがまま)が介在していたか否か真偽のほどは定かではない。1908年ロンドン大会で定められた距離が、1921年にマラソンの正式な距離とされ、今日に至っている。

1909年7月5日(月)~8日(木) スコットランド出身で女性社会政治連合(WSPU: Women’s Social and Political Union)の過激派女権運動家(suffragette)であるマリオン・ウォレス・ダンロップ(Marion Wallace Dunlop, 1864-1942)が、「通常の犯罪者としてではなく政治犯として」(as a political prisoner instead of as a common criminal)遇されない限りは食事の摂取を拒否すると獄中で宣言し、91時間のハンスト(hunger strike)を敢行。三日後に衰弱(ill health)を理由に釈放される。これを機に他の過激派女権運動家たち(サフらヂェッ)も模倣して収監中にハンストを実行するようになるが、官憲側(当局側)もこれに負けじと強制供食または強制給餌または食餌強制(force-feeding or forced feeding)という過激な実力行使に打って出るようになる( https://www.google.com/search?q=force-feeding+for+suffragettes&source=lnms&tbm=isch )。

1909年 男女共学のブリストル大学(University of Bristol)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり正式に認可される。赤煉瓦大学6校(the six red brick universities)が出揃(でそろ)う。

ここまでが赤煉瓦(レンガ)大学(red brick universities)6校開学の時代であり、各地方商工都市の中産階級市民が自治的に建学したことにより特権階級以外から益々多くの若者が大学に進学、これら赤煉瓦(レンガ)大学6校すべては二十一世紀の現在、「ラッセル・グループ(Russell Group)」と呼ばれる新興有力大学群24校の中核を為(な)す

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1909年11月30日(火) H. H. アスクィス、後の初代オクスフオッド及びアスクィス伯爵(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒、法曹院法学校=現在のロンドン大学シティ法科大学院修了)首相率いる自由党(Liberal Party; 通称 Liberals)内閣が福祉バラマキ予算を議会に提出していたが、議会上院=貴族院に否決される。

1909年12月3日(金) 三日前の同年(1909年)11月30日(火)に議会上院=貴族院で予算を否決されていた H. H. アスクィス、後の初代オクスフオッド及びアスクィス伯爵(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒、法曹院法学校=現在のロンドン大学シティ法科大学院修了)首相が、「予算の否決は憲法習律違反である」として議会下院=庶民院を解散。与党自由党(Liberal Party; 通称 Liberals)は貴族院改革を、野党保守党(Conservative Party; 蔑称 Tories)は予算反対を争点に年明けに総選挙(general election)が実施されることが決定。

1910年1月15日(土)~2月10日(木) 総選挙(general election)で H. H. アスクィス、後の初代オクスフオッド及びアスクィス伯爵(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒、法曹院法学校=現在のロンドン大学シティ法科大学院修了)首相率いる与党自由党(Liberal Party; 通称 Liberals)は104議席も減らしたが、アイルランド国民党(Irish Nationalists)と組み、野党に対して46議席差の優位で多数を維持。予算は通ったが、議会上院=貴族院に対する議会下院=庶民院の優位を明記した議会法をめぐり、政権与党自由党(Liberal Party; 通称 Liberals)と野党保守党(Conservative Party; 蔑称 Tories)+貴族院(House of Lords)の対立が深まる。

1910年2月7日(月)~同月末頃 戦艦ドレッドノートいたずら訪問事件(Dreadnought Hoax ドゥれッドノート・ホウクス)または偽アビシニア皇族事件。四年前の1906年建造の英国海軍(Royal Navy)の最新鋭戦艦ドレッドノート(HMS Dreadnought)を舞台にしたいたずら訪問事件が起きる。なお、ドレッドノートとは、「怖いものゼロ」、「何も恐れない」、「怖いもの知らず」の意味であり、当時の常識を超えた巨大さや破壊力から世界の政府関係者や職業軍人を震え上がらせ、明治末期から大正初期の日本語表現「弩級(どきゅう)戰艦(せんかん)」や大正期から昭和戦前期にかけての日本語表現「超弩級(ちょうどきゅう)戰艦」や、平成日本語の「超ド級」の基(もと)になった名前でもある。五年前の1905年に「ザンジバルの偽スルタンによるケイムブリヂ市訪問事件」(上記参照)という重大ないたずら事件を起こした、あのケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)出身の悪名(あくみょう)高いホレス・ドゥ・ヴィア・コウル(Horace de Vere Cole, 1881-1936)の一味が、またしても更に大掛かりな事件を起こす。このいたずらには五年前にも共犯だった後の医師エイドリアン・スティーヴン (Adrian Stephen, 1883-1948)、その姉ヴァージニア(Virginia Stephen; 後の著名女性作家ヴァージニア・ウルフ Virginia Woolf, 1882-1941)、後の上級弁護士ガイ・リドリー(Guy Ridley, 1885-1947)、後の作家アントニー・バクストン(Anthony Buxton, 1881-1970)、後の画家兼デザイナーのダンカン・グラント(Duncan Grant, 1885-1978)も加わり、総勢6名となった。事件の背景には戦前期(the prewar period, or pre-1914)の英国海軍(Royal Navy)内部の馬鹿げたライバル関係(rivalry)が在(あ)った。当時の海軍士官たちは、味方でありながら対立している艦の士官を騙(だま)して楽しんでいた。平和ボケした時代のことである。コウルは戦艦ドレッドノート(HMS Dreadnought)と対立関係に在った戦艦ホーク(HMS Hawke)の士官たちと懇意(こんい)にしており、彼らがコウルに悪戯(イタズラ)を依頼したという経緯がある。まずコウルの共犯者の1人が戦艦ドレッドノートの副官であるウィリー・フィッシャー中佐、後のサー・ ウィリアム・ワーズワース・フィッシャー提督(Commander Willie Fisher, later Admiral Sir William Wordsworth Fisher, 1875-1937: 実はスティーヴン姉弟の実の従兄(いとこ)に相当)の上官ウィリアム・メイ提督(Admiral of the Fleet Sir William Henry May GCB GCVO DL, 1849-1930; イーストマン王立海軍兵学校の出)宛に、「英国訪問中のアビシニア(現在のエチオピア)の皇帝ご一行を艦内に案内すべし」という内容の電信電報(a telegramme)を恰(あたか)も外務次官(Permanent Under-Secretary of State for Foreign Affairs)チャールズ・ハーディング(Charles Hardinge, 1st Baron Hardinge of Penshurst, KG, GCB, GCSI, GCMG, GCIE, GCVO, ISO, PC, DL, 1858-1944; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)の差出人名入りに偽装して1910年2月7日(月) 10:30に送った。次にコウルたちはロンドンのパディントン駅(Paddington station)に向かい、外務省(Foreign Office)の要請だとして、イングランド南海岸のポートランド鉄道駅(Portland railway station, Dorset, England: 現存せず)までのお召し列車を仕立てるよう駅長に要求し必要経費(現在の貨幣価値にして数百万円から一千万円超)を支払うと、駅長はそれに従った。エイドリアン・スティーヴンが白人の「通訳」(an interpreter)、コウルが外務省職員(an official from the Foreign Office)という役割を演じた以外は、4人が当時著名な舞台衣装係だったウィリー・クラークソン(Willy Clarkson, 1861-1934)の助けを借りて顔を劇場のメイキャップ係に浅黒く塗ってもらってアフリカ人に化け、オペラの舞台衣装でカフタン(kaftan)とい うトルコの民族衣装(モーツァルト作曲の歌劇『後宮からの逃走』などに使われる衣装)を借りて着て、五年前の1905年のケイムブリヂの事件(上記参照)の時のように頭にターバンを巻いた。ポートランド駅までの車中で一行は片言のスワヒリ語と羅典(ラテン)語と古典希臘(ギリシア)語を混ぜて部外者にはアムハラ語(エチオピアの現地語)らしく聞こえるように俄(にわか)仕込みの練習をした。偽アビシニア皇族の一行が予定通り同日(1910年2月7日(月))14:17にポートランド駅に着くと、英国海軍 (Royal Navy)による恭(うやうや)しい出迎えを受けた。英国海軍軍楽隊は誤ってザンジバル(現在のタンザニアの一部)の国歌を演奏してしまうヘマを犯したが、誰も間違いに気づかなかった。コウルの一行は、英国海軍が用意した小型艇で沖合の最新鋭戦艦に乗り込むと、アビシニア(現在のエチオピア)では使用されていないスワヒリ語のカードを手渡した。とてもアビシニア人には見えないお粗末な変装姿であったが、偽者とはバレずに済んだ。海軍には1人だけアビシニア事情に通じた将校がいたが、長期出張中で不在であることをコウルの一行は事前に調べ上げていた。一行は往路の列車内で練習していた偽アビシニア語で話し、艦内ではあらゆるものを指さして嬉しそうに「ブンガ、ブンガ!(Bunga, bunga!)」と叫び、士官たちに偽アビシニア勲章を授与した。一行で唯一の女性だったヴァージニア(後の大作家ヴァージニア・ウルフ)は何も知らない副官(実の従兄(いとこ))と握手したが、吹き出しそうになったので、バレないように「チュック・ア・チョイ、チュック・ア・チョイ(Chuck-a-choy, chuck-a-choy.)」と意味不明な相槌(あいづち)を打ったという。一行は頓珍漢(トンチンカン)な挨拶をしていたが、最後まで正体はバレなかったし、副官も6名中2名が自分の従妹弟(いとこ)たちだとは思いも寄らなかっ た。一行は付け髭(ひげ)が飛ぶと困るので、21発の礼砲を断り、顔に塗った煤(すす)が取れるのも困るので、豪勢な昼食やお茶菓子の接待も断り、最新鋭艦ドレッドノートから辞去した。一行がロンドンへ戻ると、首謀者のコウル自身が日刊ミラー(Daily Mirror: 直訳「日刊鏡」)紙に自分らの冒険譚・自慢話を語り、偽皇族の写真を渡し、得意げにネタ晴らしをした。そのため翌日(1910年2月8日(火))付の同紙の報道となった。そして1910年2月12日(土)付の新聞各紙も面白がってこのネタに飛びついたため、面目を失った英国海軍はコウルらの処罰を求めた。コウルは海軍大臣室に呼び出されたものの、英国の法律に抵触(ていしょく)したわけではなかったので、処罰は不可能だった。事件は翌週には国会でも取り上げられたが、英国には罰する法律が存在せず、議会としても何もできなかった。道を行く子供たちには「ブンガ、ブンガ!(Bunga, bunga!)」と揶揄(からか)われ、世間の笑い者になって怒りが収まらない英国海軍は、海軍将校2名(内1名は見事に騙されたフィッシャー中佐)をコウルのもとに送り、鞭(むち)打ち(caning ケイニング)の私刑をしてやろうと凄(すご)むが、コウルは「鞭で打たれるのは君たち海軍の方だ、我々に簡単に騙されたのだから。」と言って躱(かわ)してしまったとしている文献もあるが、真相は違うとする説もある。コウルはその時に病(や)み上がりであったが、自分も同じだけお返しができるならという条件付で鞭で打たれることに同意し、海軍将校から尻をごく軽く象徴的に6回叩かれたという。そしてコウルも同じように海軍将校たちの尻をごく軽く象徴的に6回叩いたと伝えられている。痛くない程度に互いを叩くことで両者のプライドが一応満たされ、英国紳士然として握手で別れたという。海軍が世間の笑い者になるという事態を受けても新たな法整備は無く、代わりに英国海軍は方針を変えた。外国の高位高官(foreign dignitaries)が訪英しても軍艦の内部まで案内することをやめたのである。これは四年後に迫りつつあった第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)への準備対応として奇(く)しくも正しい方向性となった。イタズラ者のコウルによる怪我(けが)の功名(こうみょう)と言える。後日談(ごじつだん)として第一次世界大戦(1914-18年)の最中(さなか)、この事件から五年が経過した1915年3月18日(木)、英戦艦ドレッドノートが独潜水艦(ユーボート) SM U-29 に対して決死の体当たりを敢行(かんこう)して撃沈に成功したニュースが英国に届くと、「ブンガ・ブンガ(BUNGA BUNGA)」という祝電がロンドンの海軍省(Admiralty アェドミらルティ)宛に送られてきたという。誰が送りつけたのかは定かではない。

(参考文献)

種村季弘(たねむら すえひろ, b.1933-2004) 『詐欺師の楽園』(学芸書林, 1975年; 白水社, 1985年; 岩波書店 岩波現代文庫, 2003年)

橋口稔 (はしぐち みのる, 1930-2020)『ブルームズベリー・グループ』(中央公論社 中公新書No.916, 1989年)

窪田憲子(くぼた のりこ, b.1946)[編著] 『ダロウェイ夫人』(ミネルヴァ書房, 2006年)の第1章(編著者自身の執筆)、ドゥ・ヴィア・コウル(コール)のカタカナ表記と日刊ミラー紙の記事掲載について一部誤りあり。

(外部サイト)コウルの一行の変装写真

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/Virginia_Woolf_in_Dreadnought_Hoax.jpg

「偽エチオピア皇帝事件」とは…カズレーザーが教える“ガセネタ”の真実――てれびのスキマ「テレビ健康診断」

文春オンライン

2020年11月2日(月)

https://bunshun.jp/articles/-/41198

https://news.yahoo.co.jp/articles/17eec941f708e607e058afc581e1a9cf18aadbd2

https://news.yahoo.co.jp/articles/17eec941f708e607e058afc581e1a9cf18aadbd2/comments

1910年5月6日(金) 国王エドワード七世(Edward VII, 1841-1910; 在位1901-10)が薨去(こうきょ)し、長男のジョージ皇太子(George, Prince of Wales, 1865-1936)が自動的に新国王ジョージ五世(George V, 1865-36; 在位1910-36)と成る。これを受け、議会の与野党から4人ずつの代表を出し合い、八人会議で議会上院=貴族院に対する議会下院=庶民院の優位を明記した議会法をめぐる憲法問題を協議。

1910年11月16日(水) 議会上院=貴族院に対する議会下院=庶民院の優位を明記した議会法をめぐる憲法問題の協議の決着がつかず、自由党の H. H. アスクィス、後の初代オクスフオッド及びアスクィス伯爵(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒、法曹院法学校=現在のロンドン大学シティ法科大学院修了)首相が僅か1年足らずで再び議会下院=庶民院を解散。総選挙(general election)へ。

1910年12月3日(土)~19日(月) 総選挙(general election)で議席は殆(ほとん)ど変化しなかったが、H. H. アスクィス、後の初代オクスフオッド及びアスクィス伯爵(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒、法曹院法学校=現在のロンドン大学シティ法科大学院修了)首相の率いる与党自由党(Liberal Party; 通称 Liberals)は多数派を維持。

1911年4月27日(木)~28日(金) H. H. アスクィス、後の初代オクスフオッド及びアスクィス伯爵(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒、法曹院法学校=現在のロンドン大学シティ法科大学院修了)首相の率いる自由党(Liberal Party; 通称 Liberals)内閣が新貴族制度創設を盛り込んだ議会法の改正案を議会に通す。アスキス首相の進言で新貴族が創設されると議会上院=貴族院は自由党が多数派になる。

1911年8月18日(金) 「1911年議会法(Parliament Act 1911)」の勅裁・施行により、貴族院(上院)に対する庶民院(下院)の優越が法制化される。

1912年3月1日(金) 午後 首都ロンドンの繁華街であるウェステンド(West End: 「西端」の意)地区に約150人の過激派女性参政権運動家(suffragettes サフらヂェッツ)が集結し、一斉にポケットからハンマーと石を取り出すと、附近の商店や政府庁舎の窓を割り始め、推定124人の女が現行犯逮捕される。活動の宣伝のためであり、逮捕されることも作戦の内であった。これ以後は警察も態度を硬化させ、武力を用いてでも女性参政権運動を粉砕するようになる。

1912年4月14日(日)~15日(月) 英国郵船タイタニック号(RMS Titanic)沈没。四日前の同年4月10日(水)にイングランド南部のサウサンプトン(Southampton)港から処女航海(maiden voyage)に出て、フランス北部のシェルブール(Cherbourg)港と英領アイルランドのクィーンズタウン(Queenstown)港=現在のアイルランド共和国コブ(Cobh)港に立ち寄り、一路米国のニューヨーク(New York)港を目指していた当時としては最大の英国郵船(RMS: Royal Mail Steamer)豪華客船のタイタニック号が、英領ニューファウンドランド(Newfoundland: 後の英連邦カナダ領ニューファウンドランド)沖600キロメートルの公海上で現地時間23:40に氷山(iceberg)に衝突。翌日(15日(月))未明2:20に沈没。それから2時間もしないうちに英国郵船カルパチア号(RMS Carpathia)が救助に駆けつけ、推定705人の生存者を救出したが、乗客・乗員合わせて約1,500人が命を落とした。船会社の過信のため、必要な数の救命ボートが備わっていなかったが、スミス(Edward Smith, 1850-1912)船長の命令により男性乗客や乗務員たちは女子供優先(women and children first)のルールを徹底させられ、自分たちは犠牲になることを余儀なくされた。それというのも、船員たちが武装し、男性たちを脅して救命ボートに近寄らせなかったからである。ところが日本人で唯一乗船していた鐵道院(現、JRグループ)主事の細野正文(ほその まさぶみ, 1870-1939; 東京高等商業学校=現一橋大学卒)は「女子供優先」の西欧社会のルールを十分承知していたが、すぐそばの救命ボートから「二人分の空きができた」と声がかかった際、「闇夜だから男女の区別も分からないだろうと、短銃で撃たれる覚悟で」甲板からボートに飛び降りた。「自分がルール違反を犯している」と十分自覚していたという。無事帰国後は不名誉な日本人ということで、国内外からのバッシングの対象になった。この細野正文はミュージシャンの細野晴臣(ほその はるおみ, b.1947; 立教大学卒)の祖父に当たる。全客室の女子供の合計は511名で、そのうち一等客室は150人中5名の死者(死亡率3.3%)、二等客室は117人中13名の死者(死亡率11%)、三等客室は244人中141名の死者(死亡率58%)という具合に階級によるあからさまな格差が見られた。

1912年7月18日(木) メアリー・リー(Mary Leigh, 1885-1978)という過激派女性参政権運動家(suffragette サフらヂェット)が、アイルランド島の都ダブリン訪問中の H. H. アスクィス、後の初代オクスフオッド及びアスクィス伯爵(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒、法曹院法学校=現在のロンドン大学シティ法科大学院修了)首相が乗った馬車に手斧(ておの)を投げつけ、馬車に一緒に乗っていたアイルランド人政治家レドモンド(John Redmond, 1856-1918)が軽い怪我(けが)を負う。

1912年12月18日(水) ピルトダウン原人捏造事件。ロンドン地質学会(Geological Society of London)の例会の席にアマチュア考古学者ドーソン(Charles Dawson, 1864-1916)が出席し、四年前の1908年にイングランド南部の東サセックス州アックフィールド町(Uckfield, East Sussex)近郊のピルトダウン(Piltdown)村で作業員からヒト属の化石を譲り受けたと話した。この化石は考古学上の「世紀の大発見」とされ、発見された地名をとってピルトダウン原人(Piltdown Man)と名づけられた。この頭蓋骨は、地層や一緒に発見された他の化石類などに基づく推定から旧石器時代(Palaeolithic Age)のものとされた。同時代のヒト属であるジャワ原人(Java Man)や北京原人(Peking Man)などのホモ・エレクトゥス(Homo erectus)と比較すると、発見された頭蓋骨は大きく、内容物である脳が発達していると考えられた。この発見は、旧石器時代に脳が大きく賢かった人類がヨーロッパに棲息(せいそく)していたことの証明であるとされた。特に英国ではそれまで旧石器人の化石が発見されていなかったため、マスコミや一般大衆はこの発見を挙(こぞ)って歓迎した。しかし同年代のヒト属の化石と比較すると共通点が少ないことから、その真贋(しんがん)を巡(めぐ)って早くから学術上の論争が起こっ た。捏造が明らかになったのは第二次世界大戦(1939-45年)後のことである。まず、1949年に英国博物館(British Museum; 漢字文化圏では大英博物館)は化石に含有されるフッ素(fluorine)に基づく年代測定を行なった。結局この測定によって、その骨はせいぜい多く見積もっても千五百年しか経過しておらず、よって人類の祖先とは言えないと断定された。次いで、1953年にオクスフオッド大学(University of Oxford; 通称 Oxford University)の本格的な年代測定によって、オランウータン(orang-utan)の骨から取って加工した下顎が人骨に組み合わされたものと判明した。類人猿の下顎骨は本来人骨とは接合できないが、捏造者はその接合部分を巧妙に除去した上、さらに何らかの薬品で骨を着色して いた。この調査により「ピルトダウン原人」は完全に捏造(ねつぞう)であると断定された。捏造の犯人については現在まで諸説が飛び交っている。発見者ドーソン(発見の四年後に死去)の単独犯説、ドーソンとその仲間による共謀説、或(ある)いは他の研究者の陰謀説がある。更(さら)には七年半以上前の1905年4月に「ザンジバルの偽スルタンによるケイムブリヂ市訪問事件」(上記参照)、そして二年半以上前の1910年2月に「戦艦ドレッドノートいたずら訪問事件」(上記参照)で一大騒動を巻き起こしていた、あのホレス・ドゥヴィア・コウル(Horace de Vere Cole, 1881-1936)の仕業(しわざ)とする説も一時期は信憑性(しんぴょう せい)を帯びた。他にはドーソンの隣人だった名探偵ホームズ連作小説(the Sherlock Holmes series)の原作者コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle, 1859-1930)という説もある。米国の科学史学者ミルナー(Richard Milner, 生年不詳)はコナン・ドイル犯人説を唱えている。ドイルは自分のお気に入りの霊媒師(spirit medium)による降霊術(necromancy)が実際にはインチキ(fake)であると科学的に暴露された腹いせに、科学界にひとつ仕返しをしてやろうと企(たくら)んだとのことである。ミルナー曰(いわ)く、1912年刊行のドイルの小説 『失われた世界』(The Lost World)には著者ドイルが化石捏造を仕組んだことを仄(ほの)めかす暗号が含まれているというが、眉唾(まゆつば)物である。イギリスの科学雑誌 『ネイチャー』(Nature)1996年5月23日(木)号は、英国博物館(British Museum; 漢字文化圏では大英博物館)の学芸員で動物学者のヒントン(Martin Hinton, 1883-1961)が真犯人であったとする説を、その遺品を根拠に掲載した。ところが2016年10月、王立協会(Royal Society)の論文誌に掲載された自然史博物館(Natural History Museum)などの研究が、コンピューター断層撮影装置(CT: computed tomography)などを使ってピルトダウン原人の骨を詳細に解析した。発掘された骨の加工方法が同様で、すべてに関与できたのは発掘者のドーソンだけだったという理由で、捏造者をドーソンと特定した。

1913年2月19日(水)午前6:10頃 ロンドン南郊サリー州ウォルトン(Walton-on-the-Hill, Surrey)で爆弾テロ事件。当時はまだ財務大臣(Chancellor of the Exchequer)で後に首相(Prime Minister)となるロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor, 1863-1945; 首相在任1916-22; 地元の教会系小学校出)の完成間近の夏の別荘が何者かによって部分的に爆破される。使用人の部屋になる部分の天井が破壊され、窓やドアが吹き飛ばされていた。爆弾は原始的な物であり、缶の中に火薬を詰め、ボロ布にパラフィンを垂らした上に火を点(つ)けた蝋燭(ろうそく)を置いて時限発火装置にしていた。被害総額は五百ポンド(£500)≒現在の貨幣価値で五万五千ポンド(£55,000)≒約730万円(JPY7,300,000)。犯行現場には女性用の帽子ピン2本(two hatpins)と婦人靴の片方(a woman’s shoe)が落ちていたが、犯人は特定できなかった。今ではエミリー・デイヴィスン(Emily Wilding Davison, 1872-1913; 現在のロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校中退)という過激派女性参政権運動家(suffragette サフらヂェッの仕業(しわざ)だったと言われている。デイヴィスン嬢は爆弾テロ事件の僅か四ヶ月足らず後の同年(1913年)6月8日(日)に自ら起こした大事件のため死亡している。同日(1913年2月19日(水))夕刻には女性社会政治連合WSPU: Women’s Social and Political Union)のパンクハースト夫人(Mrs Pankhurst)こと、エメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst, 1858-1928)がウェールズの都カーディフ(Cardiff, Wales)の集会にて犯行声明を出す。そして六日後の同年(1913年)2月25日(火)(資料によっては2月24日(月))にパンクハースト夫人はロンドンの自宅にて扇動(incitement)の容疑で警察に逮捕される。警察としては誰が爆弾を仕掛けたかについては重要視せず、誰が事件の黒幕かを重視した結果だった。パンクハースト夫人を被告人とする刑事裁判(criminal trial)は同年(1913年)4月2日(水)~3日(木)の二日間にかけて行なわれ、パンクハースト夫人は「無罪」(not guilty)を主張。パンクハースト夫人曰く、「もし自分が投票権の無い女性たちを扇動した廉(かど)で起訴されるのであれば、投票権の賦与(ふよ)を拒否している為政者こそ女性たちを煽(あお)っているのであり、彼らこそ裁判にかけられるべきだ!」とのこと陪審(jury: 十二人の一般人から成る裁判員たち)は有罪(guilty)の判決を下すも、「寛大な措置を強く奨める」(with a strong recommendation to mercy)という条件つきとする(現代日本の裁判員制度とは異なり、イギリスの陪審は量刑を決めることはできない)。続いて判事(Judge)が「禁固三年」(three years penal servitude)の刑を言い渡す。傍聴人の大半がWSPUのメンバーや支持者の女性だったため、「恥を知れ!」(Shame!)という叫び声が沸き起こったという。パンクハースト夫人は女性専用のホロウェイ刑務所(Holloway Prison)に収監されるとすぐさまハンガーストライキ(hunger strike: 抗議するため、或(ある)いは要求を認めさせるために公然と長時間の絶食を行うこと、略してハンスト)を強行するも、そのすぐ後に英国議会(Parliament)で「1913年囚人(健康不良による一時的釈放)法」(The Prisoners (Temporary Discharge for Ill Health) Act 1913)=俗称「猫とネズミ法」(Cat and Mouse Act)≒日本的に訳すと「イタチごっこ法」が取り急ぎ可決され、同年(1913年)4月25日(金)には勅裁されたことで、この法に基づきパンクハースト夫人はすぐさま釈放される。そして爆弾テロ事件からほぼ五年後の1918年2月5日(火)に「1918年普通選挙法」(Representation of the People Act 1918)が英国議会(Parliament)で可決され、制限つきながら女性に投票権を認めた時の総理大臣(Prime Minister)こそが今回被害に遭ったロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor, 1863-1945; 首相在任1916-22)であった。( https://history.blog.gov.uk/2013/07/04/mrs-pankhurst-lloyd-george-suffragette-militancy/ / https://www.exploringsurreyspast.org.uk/themes/subjects/womens-suffrage/the-womens-suffrage-movement-in-surrey-new/activism-and-militant-suffragettes-in-surrey/lloyd-george-and-the-suffragette-bomb-outrage/ / https://www.youtube.com/watch?v=DMv85CHrDq0 )。

1913年6月4日(水) エミリー・デイヴィスン(Emily Wilding Davison, 1872-1913; 現在のロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校中退)という過激派女性参政権運動家(suffragette サフらヂェッ)が、上流階級や労働者階級の集うエプソム(Epsom)競馬の最中に、国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)所有のアンマー(Anmer)という名のビリから三着で疾走中の競争馬に身を投げ出し、四日後の6月8日(日)に死亡。デイヴィスンは競馬場での命がけの事件で一躍有名になったが、多くの英国人は馬と騎手(jockey)の安否を気にかけた。デイヴィスンの死去から六日後(事件から十日後)の6月14日(土)に女性社会政治連合(WSPU: Women’s Social and Political Union)によって主催された葬儀では数千人の女性参政権運動家が棺を見守り、野次馬を含む数万人の群衆が詰めかけた。

【関連動画】(エミリー・デイヴィスン事件)

The Making of Modern Britain (Part 2 of 6)

Written & produced by Andrew Marr (b.1959)

BBC 2009

https://www.youtube.com/watch?v=Zf5JEruJ_2M (40:30-46:30 of 1:09:26)

1913年10月 英領印度の詩人・作家タゴール(Rabindranath Tagore, 1861-1941; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮中退)がアジア人初のノーベル賞(典 Nobelpriset; 英 Nobel Prize)受賞者と成ることを瑞典アカデミー(典 Svenska Akademien; 英 Swedish Academy)が発表。ノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur; 英 Nobel Prize in Literature)の授賞式は同年(1913年)12月。翌年(1914年)に宗主国イギリスの政府が騎士階級=ナイト爵(knighthood)に叙すも、五年後の1919年4月13日(日)に英殖民地当局が英領印度で起こしたアムリットサル大虐殺(Amritsar Massacre)に抗議してナイト爵を返上。

1914年3月10日(火) カナダ生まれの過激派女性参政権運動家(suffragette サフらヂェット)、「めった斬りのリチャードソン(Slasher Richardson)」ことメアリー・リチャードソン(Mary Richardson, 1889-1961)がロンドンの国立絵画館(National Gallery)に入っていき、スペインのベラスケス(Diego Velázquez, 1599-1660)の名画『鏡のヴィーナス』(西題 Venus del espejo ベヌス・デレスペホ; 仏題 Vénus à son miroir ヴェニュサソンミほワーふ; 英題 Rokeby Venusを持っていた肉切り包丁で切り付ける事件を起こす。絵は後に修復される。

1914年(大正3年)5月23日(土)~9月26日(土) カナダへの移民を希望するインド人376人(内、シーク教徒340人)を載せて、英領香港から日本経由で、英自治領カナダ西岸のヴァンクーヴァー(Vancouver, British Columbia: 現地の発音は「ヴェーンクーヴァ」)港まで来た3,085トンの貨客船「駒形丸」が、カナダ自治政府によって接岸を許されず、二ヶ月間の交渉と支援運動と裁判の末に、乗客の大半である352人が上陸を認められず、駒形丸は彼らインド人を載せたまま太平洋に戻る。世に言う「駒形丸事件」。駒形丸は日本が実効支配する南滿洲大連港に籍を置く会社の船で、往路は話題にならなかったが、帰路に橫濱(横浜)、神戶(神戸)港に入港し、大きな話題となる。日本の大衆はインド人乗客に概ね同情的。インドのベンガル湾に戻った駒形丸は、目的地のカルカッタ(現在のコルカタ)港の近くのバッジ・バッジで、ベンガル州政府により停船を命じられ、乗客はパンジャーブ州行きの特別列車に乗るように要請されも、300人近くがこの要請を断って、徒歩でカルカッタへ向かって歩き出す。彼らは途中で警官隊と軍隊に阻止され、バッジ・バッジに戻ることになるも、発砲と乱闘が起き、乗客20人が死亡し、213人が英殖民地官憲に逮捕される。世に言う「バッジ・バッジ騒乱」。(秋田茂(あきた しげる, b.1958)大阪大学大学院教授、細川道久(ほそかわ みちひさ, b.1959)鹿児島大学教授共著 『駒形丸事件 インド太平洋世界とイギリス帝国』(筑摩書房 ちくま新書, 2021年)に依拠)

1914年6月28日(日) 墺太利(オーストリア)・ハンガリー二重帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世(独 Kaiser Franz Josef I.; 英 Emperor Franz Joseph I, 1830-1916; 在位1848-1916)の甥で推定皇位継承者(heir presumptive)であるフランツ・フェルディナント大公(独 Erzherzog Franz Ferdinand; 英 Archduke Franz Ferdinand, 1863-1914)と、その妻のホーエンベルク公爵夫人ソフィー(独 Sophie, Herzogin von Hohenberg; 英 Sophie, Duchess of Hohenberg, 1868-1914)が墺太利支配下ボスニアのサライェヴォ(サラエボ)を公式訪問中、中心街のラテン橋の前でセルビア系愛国者テログループの一員ガヴリロ・プリンツィップ(Гаврило Принцип; Gavrilo Princip, 1894-1918)のピストルから僅(わず)か1.5メートルの至近距離で放たれた兇弾に斃れ暗殺される(サラエボ事件)。プリンツィップはその場で逮捕されるも、当時の墺太利・ハンガリー帝国の法律では犯行時二十歳未満の者を死刑に処すことができず(プリンツィップは二十歳の誕生日まであと27日だけ不足)、死刑を免(まぬが)れ、未成年者に課される最高刑だった懲役20年の判決を受ける。しかしながら、大戦勃発で刑務所の待遇が益々悪化し、大戦最後の年(1918年)の4月に満23歳で獄中死した。

(外部サイト)プリンツィップ逮捕の瞬間

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Gavrilo_Princip_captured_in_Sarajevo_1914.jpg

(事件現場の現在の様子)

https://www.youtube.com/watch?v=s4qFk7Xiirs

https://www.youtube.com/watch?v=LBZrbHk1ZKY

1914年7月28日(火) サライェヴォ(サラエボ)事件から一ヶ月後のこの日、墺太利ハンガリー二重帝国がセルビアに宣戦布告することで第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)の口火が切って落とされる。

1914年7月31日(金) セルビアの背後で糸を引くロシア帝国が総動員令を布告して臨戦態勢に入る。

1914年8月2日(日) ドイツ帝国が対露宣戦布告。

1914年8月3日(月) 18:45 GMT ドイツ帝国が対仏宣戦布告。初代ファロドン子爵グレイ(Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon, 1862-1933)英外相が駐英ドイツ大使をロンドンの外務省(Foreign Office)に召喚し、もしドイツ軍が中立国ベルギーを侵略するのであれば、英国はドイツに宣戦布告すると警告。

1914年8月4日(火) 23:00 GMT ドイツ軍が中立国ベルギーを侵略するのを確認したイギリスが対独宣戦布告し、友好国であるフランスへの軍隊派遣を決定。イギリスは国を挙げての総力戦態勢になり、多くの男性が軍務に就いたため各職場は労働力不足となる。イギリスの自治領だったカナダも宗主国イギリスに従い参戦。同様に豪州やNZも後に宗主国イギリスに従い参戦することとなる。

1914年8月10日(月) ドイツ帝国との戦争が開始されて六日後のこの日、女性社会政治連合(WSPU: Women’s Social and Political Union)の女囚が釈放されると、パンクハースト夫人(Mrs Pankhurst)こと、エメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst, 1858-1928)は全ての活動の中止を宣言。多くの男性が軍務に就いたため各職場は労働力不足となり、多くの女性がこれまで経験したことのない仕事をこなすようになる。過激派女性参政権運動家たち(suffragettes サフらヂェッ)は、それまでの破壊活動等とは決別し、戦争遂行(war efforts)に於いて英国政府(His Majesty’s Government)の方針に従うよう全面的に方針転換。終戦の年である1918年までに百万人の女性(1 million women)が新しく仕事に就いたという。

1914年8月15日(土) 日英同盟を結んでいた日本もイギリスの動きに呼応してドイツ帝国に最後通牒(さいご つうちょう: ultimatum アォルティメイタム)を突きつけるも一週間経っても回答なし(無視される)。

1914年8月23日(日) 日本が対独宣戦布告。ヨーロッパのみならずアフリカやアジアや広く太平洋島嶼(とうしょ)地域をも舞台にした史上初の世界大戦(World War; 但し、英国ではもっと単純に the Great War の呼称で広く知られる)が繰り広げられる。

1914年9月18日(金) 自由党(Liberal Party)のアスキス(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16)内閣が二年半前の1912年4月11日(木)に議会に提出していた1914年アイルランド政府法案(Government of Ireland Act 1914)、通称 第三次自治法(Third Home Rule Act)が議会で可決されたことを受けて、これに勅裁(Royal Assent)が下りて成立。しかしながら一ヶ月半前に勃発していた第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)のため延期され、その儘(まま)執行されずに新たな法律が成立することとなる。

1914年11月5日(木) イギリスがオスマントルコ帝国(Ottoman Empire)に宣戦布告。イギリスの戦線はトルコ領のバルカン半島、更(さら)には遠く中東へと拡大。

1914年12月16日(水) 20:00 ドイツ海軍(独 Kaiserliche Marine カイザリッヒェマりー; 英 Imperial German Navy)の軍艦8隻がイングランド北東部のスカーバラ(Scarborough)市に艦砲射撃し、127人の男女と子供が犠牲になる。自国の市民を守れなかった英国海軍(Royal Navy)にとっては屈辱となり、他方では敵国ドイツの野蛮さ(barbarity)が浮き彫りとなる。

1914年12月25日(金・祝) 英独両軍、そして仏独両軍の間に歴史的に名高いクリスマス休戦(英 Christmas truce スマストゥるー; 独 Weihnachtsfrieden ヴァイナハツフりーデン; 仏 Trêve de Noël トゥへーヴ・ドゥノエル)が実施される。塹壕に籠っていたドイツ軍が「きよしこの夜」を原語(ドイツ語)で歌い出し、その返事に英軍が「牧人ひつじを」を原語(英語)歌い、最後に「神の御子は」を両者が原語(ラテン語)で合唱。但し、英仏独の戦争指導部が認めない非公式な休戦。上層部からの指示や命令も無しに銃撃が止(や)んで英独の兵士たちは両軍の間の無人地帯(英仏 No Man’s Land ノウマェンラェンドゥ; 独 Niemandsland ニーマンツラントゥ)で初めて邂逅(かいこう)し、写真が撮影され、贈り物が交換されたという。

1915年1月19日(火)夜~20日(水)未明 ドイツ帝国航空隊(die Fliegertruppen des deutschen Kaiserreiches ディフリーガートゥるッペン・デスドイチェンカイザーライヒェス; 英訳 the Flying Troops of the German Empire)のツェッペリン(Zeppelin)飛行船2機がイングランド東部のグレイト・ヤーマス(Great Yarmouth)とシェリンガム(Sheringham)とキングズ・リン(King’s Lynn)の三都市を空襲し、一般市民から4名の死者と16名の負傷者を出す。これは兄ウィルバー(Wilbur Wright, 1867–1912)と弟オーヴィル(Orville Wright, 1871–1948)のライト兄弟(the Wright brothers)がアメリカ東海岸で初飛行(first flight)に成功して、人類も熱気球以外の手段で空を飛べるようになった1903年12月17日(木)から僅(わず)か十一年と一ヶ月後のこと。しかしながら、史上初の空爆はドイツ軍によるものではなく、意外なことにイタリア軍によるものであった。1911年11月1日(水)に伊土戦争(伊 Guerra italo-turca; 土 Trablusgarp Savaşı; 英 Italo-Turkish War or Turco-Italian War, 1911-12)の中でイタリア王国陸軍のジューリオ・ガヴォッティ(Giulio Gavotti, 1882-1939)中尉が、北アフリカのリビア(Libya)の砂漠に展開する敵のオスマン・トルコ軍に対して敢行したのが史上初である。当時の華奢な飛行機を操縦しながら爆弾を手で投げ落としたという。

1915年3月18日(木) 五年前の1910年2月に「戦艦ドレッドノートいたずら訪問事件」(上記参照)で一大騒動を起こされてしまった英国海軍(Royal Navy)の戦艦ドレッドノート(HMS Dreadnought)が、独潜水艦(ユーボート) SM U-29 に対して決死の体当たりを敢行(かんこう)して撃沈に成功。そのニュースが英国に届くと、「ブンガ・ブンガ(BUNGA BUNGA)」という祝電が、何者かによってロンドンの海軍省(Admiralty アェドミらルティ)宛に送られてくる。

1915年4月25日(日)~1916年1月9日(日) 海軍大臣(First Lord of the Admiralty)のチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)が主導したガリポリの戦い(Battle of Gallipoli)、別名 ダーダネルス戦役(Dardanelles Campaign)がオスマン帝国(現トルコ共和国)のガリポリ半島(現在のゲリボル半島)を舞台に英仏連合軍とオスマン帝国軍の間で繰り広げられる。連合軍は陸海空の三軍の勢力を投入した大規模上陸作戦に失敗して撤退。オスマン帝国軍8万6千人超(資料によっては5万6千人超)、英軍2万1千人超(資料によっては3万4千人超)、仏軍約1万人(資料によっては約9,700人)、英連邦豪州軍8,700人超、英連邦NZ軍2,700人超、英領印度軍1,700人超(資料によっては1,300人超)、英領ニューファウンドランド軍(現在の英連邦カナダ軍の一部)49人の死者を出す。これらに加えて長い塹壕戦(ざんごう せん: trench warfare)のため約14万人の連合軍兵士が腸チフスや赤痢で病死したと推定される。

1915年4月26日(月) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)中のこの日、英仏露の三国が敵側の独墺土に対して単独不講和を宣言。これに元来は独墺土の側に居た筈(はず)のイタリア王国が独墺土を裏切って秘密裡に参加。日英同盟の誼(よしみ)で英仏露の側に就いていた日本は石井菊次郎(いしい きくじろう, 1866-1945; 外相在任1915-16; 東京帝國大學卒)外務大臣の主導で同年(1915年)11月19日(金)に単独不講和の同盟に後れて加入。

1915年5月7日(金) ルシタニア号(RMS Lusitania)撃沈事件。米国ニューヨーク(New York)港から英国のリヴァプール(Liverpool)港に向かっていた英国の客船ルシタニア号が、ドイツ軍の潜水艦 U-20 の魚雷(torpedo)攻撃によって英領アイルランド南岸沖で沈没。乗客1,266人と乗員696人の計1,962人のうち計1,198名が犠牲になる(生存率38.9%)。生存者764人のうち3人は救出後に怪我(けが)のために死亡した。赤ん坊31人を含む子供94人も犠牲になった。この船の場合も三年前のタイタニック号(RMS Titanic)の時と同様に船長が女子供優先(women and children first)のルールを布告したにも拘(かか)わらず、2010年3月2日(火)付の英ガーディアン紙(The Guardian)によると( https://www.theguardian.com/science/2010/mar/02/titanic-lusitania-women-children-survival )、タイタニック号(氷山への衝突から沈没まで2時間40分)の時とは大きく異なり、ルシタニア号の場合は沈没するまでの時間が僅(わず)か18分と短すぎたため、「女子供優先」を実施している時間が無く、結果として16歳から35歳までの健康な男女ばかりが高確率で助かるという適者生存(survival of the fittest)になってしまったとのこと。なお、この新聞記事は、全米学術アカデミー(NAS: National Academy of Sciences)に掲載されたスイスと豪州の3人の共著による英語論文 Interaction of natural survival instincts and internalized social norms exploring the Titanic and Lusitania disasters (直訳: 「タイタニック号とルシタニア号の海難事故の探査をめぐる生まれ持った生存本能と内在化された社会的規範」)に依拠している。犠牲者の大多数は英国人とカナダ人だったが、中立国のアメリカ市民が128人も含まれていて、しかも各界の著名人4名も犠牲になったことから、アメリカの国民感情は一挙に反独的(anti-German; Germanophobe)になった。この事件が二年後の1917年4月6日(金)のアメリカ合衆国による対独宣戦布告の伏線(ふくせん)となる。船が到着することになっていたリヴァプールの一般市民は怒り狂い、在英ドイツ人の経営するパン屋や肉屋や飲食店や一般家屋に襲い掛かり放火するなどした。

1915年5月17日(月) 上記のガリポリの戦い(Battle of Gallipoli)、別名 ダーダネルス戦役(Dardanelles Campaign)が予想外の苦戦を強(し)いられ、その作戦を主導した海軍大臣(First Lord of the Admiralty)のチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)が大臣職を解任され、ランカスター公爵領大臣(Chancellor of the Duchy of Lancaster)という閑職(かんしょく: sinecure)に追い込まれる。なお、スペイン継承戦争(西 Guerra de Sucesión Española; 英 War of the Spanish Succession, 1701-14)で軍才を発揮して公爵(Duke)にまで上り詰めた初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 1650-1722)は、ウィンストン・チャーチルの先祖に当たる。また、故ダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)こと、旧姓スペンサー伯爵令嬢(Lady Diana Spencer, 1961-97)も初代マールバラ公爵の子孫に当たる。

1915年5月30日(日)夜~31日(月)未明 同年(1915年)1月にイングランド東部の三都市(Great Yarmouth, Sheringham and King’s Lynn)を空爆して英民間人計4名を殺害していたドイツ帝国航空隊(die Fliegertruppen des deutschen Kaiserreiches ディフリーガートゥるッペン・デスドイチェンカイザーライヒェス; 英訳 the Flying Troops of the German Empire)がツェッペリン(Zeppelin)飛行船を用いて今度は首都ロンドンに最初の空爆を敢行し、ロンドン市民から7名の死者と35名の負傷者を出す。これ以降、ツェッペリン飛行船は赤ん坊殺し(baby killer)と呼ばれることになる。

1915年11月15日(月) ランカスター公爵領大臣(Chancellor of the Duchy of Lancaster)という閑職(かんしょく: sinecure)に追い込まれていたチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)が大臣職を辞任。

1916年1月 大戦勃発から約一年半が経過した時点で兵士不足を補うために英国史上初の徴兵制(conscription)が敷(し)かれる。但し、非公式な強制徴募 (impressment)は国王エドワード一世(Edward I, 1239-1307; 在位1272-1307)の治世からナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-15)時代の1814年まで散発的に続いていた。

1916年1月5日(水) 海軍大臣(First Lord of the Admiralty)、ランカスター公爵領大臣(Chancellor of the Duchy of Lancaster)と立て続けに大臣職を辞めたチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)が下院議員(an MP; a member of Parliament)の肩書を有した儘(まま)、陸軍中佐(a lieutenant colonel)として英国陸軍(British Army)に入隊し、西部戦線(Western Front)にて数ヶ月に亘(わた)って王立スコット・フュージリアーズ連隊所属の第六大隊(the 6th Battalion of the Royal Scots Fusiliers)の指揮を執()る。

1916年2月21日(月)~12月18日(月) ヴェルダンの戦い(Battle of Verdun)がフランス東部にて仏独間で繰り広げられる。仏軍16万2千人、独軍10万人の死者を出し、独軍のパリへの進撃は阻止される。

1916年4月24日(月)~同29日(土) 英領アイルランドの都ダブリン(Dublin)市にて十一年前の1905年に組織されたシンフェイン党(Sinn Féin: アイルランド・ゲール語で「我ら自身」の意)の率いるアイルランド独立派が英軍に対するイースター蜂起(Easter Rising)を決行。アイルランド共和軍が、第一次世界大戦で忙しい英国のスキを衝いて独立を勝ち取ろうとした武装蜂起だったが、ドイツ帝国(イギリスの敵国)の本格的な協力を得ることに失敗し、僅か一週間で鎮圧されて投降。首謀者の一部が英当局に処刑され、また別の一部首謀者は英国本土の刑務所に収監されて事件は収束。

1916年5月21日(日) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)中のこの日、軍需物資の増産のため、世界で二番目の夏時間(Summer Time)、別名 日照節約時間(DST: daylight saving time)が実施される。当時の敵国ドイツはイギリスより三週間早く1916年4月30日(日)から実施していたが、イギリス側の認識としては、ドイツを真似たわけではないとのこと。

1916年7月1日(土)~11月18日(土) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)の中でも最大規模の141日にも及ぶ戦闘、ソンムの戦い(Battle of the Somme)が英仏連合国軍とドイツ軍との間でフランス北部を舞台に繰り広げられる。初日(7月1日(土))だけで英軍19,240名が戦死。一連の戦闘で英軍49万8千人、仏軍19万5千人、独軍42万人という膨大な死者を出したが、いずれの側にも決定的な戦果が無く、英仏連合軍が11キロ余り東進するにとどまる。

1916年9月2日(土)夜~3日(日)未明 英軍の飛行機がロンドン上空で独軍ツェッペリン(Zeppelin)飛行船に対して新兵器である焼夷弾(しょういだん; incendiary)を打ち込むことで撃墜に成功。ツェッペリン飛行船は火を噴いてロンドン郊外(現大ロンドン市内)のカフリー(Cuffley)村の鋤宿(the Plough Inn ザプラウイン)という名のパブ(pub: 「公衆家屋」を意味する public house の略)の近くに墜落。ツェッペリン飛行船炎上の様子にロンドン市民は拍手喝采。9月3日(日)は日曜ということもあり、自転車や手押し車や徒歩で約一万人の野次馬がパブに詰めかけたため、売り物が無くなったパブは出入口に鋲(びょう)を打って野次馬の流入を避けたという。

【関連動画】(戦時体制下での女性労働者の動員)

The Making of Modern Britain (Part 3 of 6)

Written & produced by Andrew Marr (b.1959)

BBC 2009

https://www.youtube.com/watch?v=x9OKKzosjQg (17:42-20:45 & 21:14-24:50 of 1:06:21)

1916年9月15日(金) 英仏連合国軍とドイツ軍によるソンムの戦い(Battle of the Somme)の中で、これまで英国が極秘裏に開発してきたタンク(敵を攪乱させるため「水槽」の意ながら後の日本での意訳「戦車」)が実戦で史上初めて使用される。

1916年11月28日(火)朝 ドイツ海軍(Kriegsmarine リークスマりー)航空隊が英京倫敦の官庁街ワイトホール(Whitehall: 米語読みで「ホワイトホール」、日本で言う霞が関に相当)に在る英国海軍省(Admiralty アェドミらルティ)を攻撃目標に設定し、固定翼機(独 Starrflügler シュターるフリュークラー; 英 fixed-wing aircraft)による史上初のロンドン爆撃を敢行。ドイツ占領下ベルギー王国ヘント(蘭 Gent ヘントゥ; 仏 Gand ガォン; 英 Ghent ゲントゥ)近郊の飛行場から飛び立った二人乗りの双発機 LVG (Luftverkehrsgesellschaft トゥフェアケーアスゲルシャフト: 「航空交通社」の意)がドーヴァー海峡(Straits of Dover)を越え、186マイル≒300キロ西へ飛行し、11:15から連続して操縦士でない兵士の手で6発の爆弾をロンドン市街地へ投下。目測での攻撃だったためドイツ軍は標的を誤認し、英国海軍省から1マイル≒1.6キロ西のナイツブリッヂ(Knightsbridge: 「騎士の橋」の意)地区とベルグレイヴィア(Belgravia)地区へ爆弾を投下していた。1発目の爆弾は住宅を直撃し、民間人女性1人が負傷。2発目の爆弾はロンドン牛乳協会(London Milk Association)の建物を直撃し、民間人女性1人が負傷。3発目の爆弾は住宅の屋根を破壊。4発目は路上に落下し、男性4人と女性1人が負傷し、周囲の窓ガラスが破損。5発目は飛び散った窓ガラスで女性2人が負傷。6発目はヴィクトリア宮殿音楽堂(Victoria Palace Music Hall)の屋根と更衣室を破壊し、清掃婦1人が負傷し、隣の建物に火災を起こす。イギリスの当局は被害に遭ったことに一時間も気づかず。英国側が逃げて行くドイツ軍機を追うが時すでに遅し。しかしながら、ドイツ軍機もエンジントラブルのため友軍の陣地に戻ることが叶(かな)わず、フランス軍支配下のフランス領内に緊急着陸(独 Notlandung; 英 emergency landing)し、フランス軍に投降(独 kapitulieren; 仏 capituler; 英 surrender)することで命を長らえる。ドイツ軍側は自分らのLGV航空機がフランスに捕獲されて利用されることのないよう、フランス軍が来る前に焼却してしまう。(Mark Felton Productions https://www.youtube.com/watch?v=fYz8T8B_nh8 に依拠)

1916年12月6日(水) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)中のこの日、それまで財務大臣(Chancellor of the Exchequer)と軍需大臣(Munitions Minister)を歴任してきたロイド・ジョージ、後の初代ドワイフォー伯爵(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor, 1863-1945; 首相在任1916-22; 地元の教会系小学校出)が総理大臣(Prime Minister)に就任し、ロイド・ジョージ内閣(Lloyd George government; Lloyd George cabinet)が組閣。

1917年1月16日(火) ドイツ帝国外務大臣アルトゥール・ツィンマーマン(Arthur Zimmermann, 1864-1940)が電報、所謂(いわゆる)「ツィンマーマン電報(英 Zimmermann Telegram; 独 Zimmermann-Depesche)をメキシコ政府に急送するも、英国側に傍受・解読されてしまう。その電報の内容は、仮にアメリカ合衆国が英国側について参戦するならば、ドイツはメキシコと同盟を結ぶという提案であり、アメリカへのメキシコの先制攻撃はドイツが援助し、大戦でドイツが勝利した場合には米墨戦争(米 Mexican War; 英 Mexican-American War; 西 Intervención estadounidense en México; 独 Mexikanisch-Amerikanischer Krieg, 1846-48)によってアメリカに奪われたテキサス州・ニューメキシコ州・アリゾナ州(西 Texas, Nuevo México y Arizona; 英 Texas, New Mexico and Arizona)をメキシコに返還するというものであった。また、メキシコにドイツと日本の仲裁と、日本の対米参戦の説得を促すものでもあった。ツィンマーマン自身は「英国による捏造(ねつぞう)」を主張して電報の内容を否定することも可能だったが、同年(1917年)3月に事実であると認めてしまう。これによって米国では参戦論が高まり、電報から三ヶ月もしない同年(1917年)4月6日(金)に対独宣戦布告することになる。

1917年1月31日(水) 英国への武器供与を止めない自称「中立国」のアメリカ合衆国に業(ごう)を煮やしたドイツ帝国が、英国へ向かう船舶が戦争海域に入れば無制限攻撃すると宣言。

1917年2月1日(木) 前日(1917年1月31日(水))に宣言した通り、ドイツ帝国海軍(独 Kaiserliche Marine カイザリッヒェマりー; 英 Imperial German Navy)が、英国へ向かうあらゆる船舶が戦争海域に入ったことを確認した場合、その船舶の船籍に関わりなく無制限攻撃を開始。中立国である筈(はず)の米国の世論は、益々「ドイツ討つべし!」へと傾く。

1917年4月2日(月) 米国のウィルソン(Woodrow Wilson, 1856-1924; 大統領在任1913-21; プリンストン大学卒、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院博士)大統領・プリンストン大学元学長が、米議会で対独宣戦布告の容認を求める演説をする。欧州問題(European affairs)への不介入(non-intervention)を国是としてきた米国のモンロー主義(Monroe Doctrine, 1823-1917)が、ここに終わる。

1917年4月6日(金) これまで中立を表明してきたアメリカ合衆国が、国内の対独感情の悪化に伴い遂に連合国に加わって対独宣戦布告。米国議会では計50人の議員が対独宣戦布告法案に反対票を投じるが、そのうちの一人、共和党(Republican Party; 俗称 GPO = Grand Old Party)所属でモンタナ州選出の女性議員のジャネット・ランキン(Jeannette Rankin, 1880-1973)女史は二十四年半余り後の1941年12月8日(月)の対日宣戦布告法案にもたった一人で反対票を投じることになる。とにかくこの宣戦布告で第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)の勝機が英仏伊日の連合国側に訪れる。二年前の1915年5月7日(金)に起きていたルシタニア号撃沈事件が米国参戦の伏線(ふくせん)となったが、ルシタニア号よりもドイツ帝国外務大臣アルトゥール・ツィンメルマン(Arthur Zimmermann, 1864-1940)が同年(1917年)1月16日(火)にメキシコ政府に急送し、英国側に傍受・解読されてしまった電報、所謂(いわゆる)「ツィンマーマン電報(英 Zimmermann Telegram; 独 Zimmermann-Depesche)が引き金となった。その電報の内容は、仮にアメリカ合衆国が英国側について参戦するならば、ドイツはメキシコと同盟を結ぶという提案であり、アメリカへのメキシコの先制攻撃はドイツが援助し、大戦でドイツが勝利した場合には米墨戦争(米 Mexican War; 英 Mexican-American War; 西 Intervención estadounidense en México; 独 Mexikanisch-Amerikanischer Krieg, 1846-48)によってアメリカに奪われたテキサス州・ニューメキシコ州・アリゾナ州(Texas, Nuevo México y Arizona)をメキシコに返還するというものであった。また、メキシコにドイツと日本の仲裁と、日本の対米参戦の説得を促すものでもあった。

1917年4月13日(金) 大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)の第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)が、同盟国の英仏が管理するスエズ運河を経由し、地中海の連合軍艦船の護衛に当たるべく英領マルタ島のヴァレッタ(Valletta, Malta)港に到着。

1917年4月26日(木) 大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)と駆逐艦松(IJN Destroyer Matsu)が、兵員3,266名と武器弾薬を満載した同盟国イギリスの大型客船トランスシルヴァニア(SS Transylvania)の護衛任務を開始。

1917年5月3日(木) 兵員3,266名と武器弾薬を満載したイギリスの大型客船トランスシルヴァニア(SS Transylvania)が、同盟国フランスのマルセイユ(Marseille)から英領エジプトのアレクサンドリア(Alexandria)へ向け、日本の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)と駆逐艦松(IJN Destroyer Matsu)に護衛されて出港。

1917年5月4日(金) 兵員3,266名と武器弾薬を満載したイギリスの大型客船トランスシルヴァニア(SS Transylvania)が、同盟国イタリアのジェノヴァ湾(伊 Golfo di Genova; 英 Gulf of Genoa)のヴァードォ岬(伊 Capo di Vado; 英 Cape Vado)の南4kmの海域を航行中、敵ドイツ海軍(Kriegsmarine りークスマりー)のオットー・シュルツェ(Otto Schultze, 1884-1966)艦長率いる潜水艦 U-63 の発射した魚雷(torpedo)1本が左舷機関室(port engine room)に命中・被弾。日本の駆逐艦松(IJN Destroyer Matsu)はトランシルヴァニアの横に来て兵員の移乗作業を開始。一方、日本の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)は敵潜水艦の推定位置に爆雷を投下。最初に受けた攻撃の20分後、2本目の魚雷が駆逐艦松の前方でトランシルヴァニア左舷に命中し、松にも被害が生じる。この被雷後、トランシルヴァニアの傾斜が増大し、榊も救助作業に加わる。トランシルヴァニアは1本目の魚雷命中から1時間後に沈没。トランシルヴァニアの乗員10名、同乗していた英国陸軍(British Army)の士官29名と兵士373名が死亡したが、松と榊は友軍のイタリア海軍(Marina Militare りーナミリター)の駆逐艦と協同し、イギリス人乗員約3,000名を救助。護衛対象を撃沈されながらも多くの人命を救ったことに連合国は感謝し、駆逐隊司令の橫地錠二(よこち じようじ, 1878-1960)中佐(後に少将)、榊艦長の上原太一(うへはら たいち, 1881-1917)少佐(戦死後に中佐に特進)ら、大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)の将兵27名を英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)が叙勲。

1917年6月11日(月) 大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)と駆逐艦松(IJN Destroyer Matsu)は護衛任務を終え、英領マルタ島へ帰還の途に着くが、榊の見張員は敵墺太利ハンガリー帝國海軍(k.u.k Kriegsmarine カーウーカー・クりークスマりーネ)のローベルト・トイフル・フォン・フェルンラント(Robert Teufl von Fernland, 1885-1946)艦長率いる潜水艦 SM U-27 の潜望鏡をギリシアの多島海島のセリゴットォ(Cerigotto)島、別名 アンティキティラ(Antikythera)島の東方海域に発見。榊艦長の上原太一(うへはら たいち, 1881-1917)少佐(戦死後に中佐に特進)は回避命令と同時に砲撃を命じるも間に合わず、敵潜水艦の魚雷が命中・被弾。上原艦長は海中に投げ出され戦死。戦死者は艦長の他、駆逐隊機関長の竹垣純信(たけがき すみのぶ or 有職読みで「じゅんしん」, 1881-1917)少佐(戦死後に中佐に特進)以下59名に及ぶ。榊は航行を継続し、ギリシアのピレアス(Pireás)港で応急処置を受け、英領マルタ島で翌年(1918年)に完全に修理・復旧される。また、駆逐艦樫(IJN Destroyer Kashi)と駆逐艦桃(IJN Destroyer Momo)は、イギリス商船がUボートによる攻撃で大破した際に危険を顧みず、乗員を救出したことで、英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)から感謝状を授与された。

1917年7月17日(火) 英国王室が1840年2月10日(月)のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の結婚以来名乗っていた家名のサックス・コーバーグ・アンド・ゴーサ家(the House of Saxe-Coburg and Gotha)ではあまりにもドイツ的な名であり、第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)で反独感情(anti-German sentiments; Germanophobia)が高まる中で不都合になったため、国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)がウィンザー家(the House of Windsor)に改名し、今日(こんにち)に至る。

1917年11月7日(水) ロシア帝国でレーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин = Vladimir Ilyich Lenin, 1870-1924; ソ連人民委員会議議長在任1917-24)こと、本名 ヴラディーミル・イリイッチ・ウリヤーノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов = Vladimir Ilyich Ulyanov, 1870-1924)率いるボリシェヴィキ(большевики; bol'sheviki: 「多数派」を意味する革命派)によるロシア革命(Russian Revolution, 1917; 当時ロシアで使われていたユリウス暦ではまだ10月だったため「十月革命」とも呼ばれている)が起こされる。なお、皇帝一家が惨殺されるのは、同革命勃発から八ヶ月余りが経過した1918年7月17日(水)のこと。

1918年(大正7年)1月1日(火・祝) 第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)が続いているこの元日に、英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)が同盟国である日本の大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)に英国陸軍元帥(Field Marshall of the British Army)の名誉称号を贈る。

1918年2月5日(火) 「1918年普通選挙法」(Representation of the People Act 1918)が英国議会(Parliament)で可決される。

1918年2月6日(水) 「1918年普通選挙法」(Representation of the People Act 1918)の勅裁・施行で男性にのみ資産の額に関係の無い普通選挙権が与えられる(1792年のフランス革命政府、1848年に再導入のフランス第二共和 制、1867年の北ドイツ連邦、1870年のアメリカ、1879年のブルガリアに次ぐ五ヶ国目)。しかし居住地以外に資産を保有する男子は複数の選挙権を 得たため、いまだに不平等な選挙だった。女性には資産に応じた制限選挙権が与えられたので、これが英国に於(お)ける女性参政権の一応の始まりとされる。

(外部サイト)

BBC World Service

2018年2月6日(火)

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3csvtx5

1918年 1918年教育法(Education Act 1918)、通称 フィッシャー法(Fisher Act)の導入によって、5歳から11歳までの小学校(primary schools)の学費が無料となり、義務教育年限を5歳から14歳までとした。

1918年3月3日(日) ロシアの革命政権がドイツ帝国とブレスト・リトフスク条約を結び、第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)から戦線離脱。独墺勢力は東部戦線の兵力を別の戦線へ向けることが可能となる。

1918年4月1日(月) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)中のこの日、従来までの英国陸軍航空隊(Royal Flying Corps)と英国海軍航空隊(Royal Naval Air Service)が統合され、世界初の独立した航空兵力(air power)である英国空軍(RAF: Royal Air Force)が組織される。なお、五年後の1923年にはイタリアが空軍を創設することになる。日本でも1920年に設置された「陸海軍航空委員會」で空軍の新設が検討されるも時期尚早として沙汰止みになってしまう。イタリアに遅れること十二年後の1935年にドイツが再軍備宣言と共に空軍を発足させるのを見て、日本でも再び空軍新設が議論の対象となる。官僚組織としての海軍の立場からは、権限や予算を自ら減じるに等しいとして、空軍新設の議論を認められず。アメリカ軍でもアメリカ参戦後の1942年に陸軍航空軍という形で陸軍の地上軍から独立しての運用が始まるも、完全な独立空軍として本格的な運用が始まるのは第二次世界大戦後の1947年のこと。アメリカでも陸軍と海軍の関係は決して良好ではなく、両者の鬩(せめ)ぎ合いから空軍の創設が遅れた。そこへいくと、英国空軍の先見性が際立つ。結局日本では大東亞戰爭(Greater East Asia War, 1941-45)=英側呼称 対日戦争(the War against Japan, 1941-45)または極東戦争(the War in the Far East, 1941-45)=米側呼称 太平洋戦争(Pacific War, 1941-45)での敗戦後に米空軍(US Air Force)の指導の下(もと)に航空自衛隊(米称 JASDF: Japan Air Self-Defense Force)が組織されるまで独立した航空兵力は存在しなかった。

1918年6月11日(火) 第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)で敵の雷撃(らいげき)を受けた大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)第二特務艦隊(2nd Detachment Squadron)の駆逐艦榊(IJN Destroyer Sakaki)の戦死者59名と、その他の日本人戦死者19名とを合算した計78名を慰霊する「大日本帝國第二特務艦隊戰死者之墓」が、敵の雷撃からちょうど1年が経過し、一周忌となったこの日、英領マルタ島の都ヴァレッタ(Valletta)郊外のカルカーラ(Kalkara)村に在()るカルカーラ海軍墓地(Kalkara Naval Graves)、現在の英連邦戦争墓地(Commonwealth War Graves)に建立(こんりゅう)される。この墓碑には三年後の1921年4月25日(月)に当時の皇太子裕仁親王(ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, b.1901)、後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が慰霊に訪れ、また榊の被弾から百年が経()とうとする2017年5月27日(土)=かつての海軍記念日には安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-20; 成蹊大学卒、カリフォルニア州立大学ヘイワード校遊学、南カリフォルニア大学中退)内閣総理大臣が、日本の現職の首相としては史上初となる慰霊に訪れることになる。

http://yahoo.jp/box/GJe1Ps (リンク切れ)

https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS27H6W_X20C17A5000000/

https://www.nikkei.com/news/image-article/?R_FLG=0&ad=DSXMZO1697573028052017I00001&dc=1&ng=DGXLASFS27H6W_X20C17A5000000&z=20170528

https://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1495943029/

1918年~’21年 当時日本では「流行性感冒」と呼ばれ、英語圏では Spanish flu (スペイン・インフル)と呼ばれた疫病がパンデミック(pandemic: 世界的流行)と成って世界を襲い、4千万人~8千万人(40 to 80 million)が死亡したとされる。しかしながら、Niall Johnson, Britain and the 1918-19 Influenza Pandemic (Routledge, 2006) は、全世界で5千万~1億人の死者(50 to 100 million deaths)としていて、従来までの二倍余りに推定する。1918年7月の時点で全員が感染したケイムブリヂ大学国王学寮(King’s College, Cambridge)では後の流行に対して免疫(immunity)を持つことになる。(速水融(はやみ あきら, 1929-2019)慶應義塾大学名誉教授著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店, 2006年)、岡田晴恵(おかだ はるえ, b.1963)白鷗大学教授編著『<増補新版> 強毒性インフルエンザの脅威』藤原書店, 2009年に依拠)

1918年10月17日(木) 第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)末期のこの日、教官役の英国陸軍将兵5名(少佐1名+兵士4名)と共に貨物船で遠く英国から運搬されてきた英国製戦車マーク・フォー(Mark IV)が、神戶(神戸)港に到着。これを以(もっ)て日本の戦車元年と見做(みな)す。戦争中だったこともあり最新型のマーク・ファイヴ(Mark V)は自国軍(英国陸軍)で必要とされたため譲ってもらえず、友好国の日本に対しては一つ前の型番であるマーク・フォー(Mark IV)戦車が引き渡されたのだった。内航船に積み替えられて1週間後の10月24日(木)には橫濱(横浜)港へ届けられ、陸揚げされると、鉄道に載せられて当時の新橋驛(現在の汐留シオサイトの場所)まで運ばれ、汐留から信濃町までイギリス人将兵の操縦で夜間に自走で移動し、靑山練兵場(現在の明治神宮外苑の場所)で皇族や高級軍人らにお披露目となる。(2018年10月19日(金)付の月刊PANZER編集部編「乗りものニュース」に依拠)

1918年11月3日(日) ドイツ北部のキール(Kiel)軍港で水兵の叛乱が発生。英仏等の連合国には情勢が有利に働く。

1918年11月10日(日) ドイツで左派勢力による暫定政権が誕生。皇帝ヴィルヘルム二世(Wilhelm II., 1859-1941; 皇帝在位1888-1918)は中立国だったオランダ王国へ亡命。ドイツ帝国が崩壊。

1918年11月11日(月) 午前11時 四年以上前から続いていた第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)が停戦(但し、講和条約は翌’19年)。英国はドイツ軍やトルコ軍などを相手に多数の戦死者を出し(特に上流階級の若者多数)、国の将来に暗い影を落とす。イギリス(連合王国)は当時の総人口4600万(46 million)人に対して戦歿者数は74万(0.74 million)人だったが、日本は当時の総人口5430万人(54.3 million)人に対して戦歿者数は僅(わず)かに415人(但し、各種資料により誤差あり)だった 。ちなみに戦勝国ながら国土が戦場となったフランスは当時の総人口3650万(36.5 million)人に対して戦歿者数140万(1.4 million)人。そして敗戦国のドイツは当時の総人口6700万(67 million)人に対して戦歿者数180万(1.8 million)人だった。日本の場合を除く各数値は、ハワード(Michael Howard)[著]、馬場優[訳] 『第一次世界大戦』(法政大学出版局, 2014年)の付録Ⅱ 戦争の被害(p.xix)に基づく。イギリスは1916年1月以来続いていた徴兵制(conscription)を解除。また、この大戦の結果、ロシア帝国、墺太利ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国という4つの大帝国が崩壊。

1918年12月14日(土) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)での戦勝直後に実施された総選挙(general election)が事実上の自由党分裂選挙と成る。ロイド・ジョージ、後の初代ドワイフォー伯爵(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor, 1863-1945; 首相在任1916-22; 地元の教会系小学校出)首相と H. H. アスクィス、後の初代オクスフオッド及びアスクィス伯爵(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16; オクスフオッド大学ベイリオル学寮卒、法曹院法学校=現在のロンドン大学シティ法科大学院修了)前首相の党内対立で自由党が徐々に力を失い、代わって労働党(Labour Party)が二大政党制の一翼を担う下地が出来上がる。

1919年1月18日(土) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)の決着を着けるためのパリ講和会議(仏 Conférence de paix de Paris 1919; 英 Paris Peace Conference, 1919; 独 Pariser Friedenskonferenz 1919)が開始される。五ヶ月以上の話し合いで通称 「ヴェルサイユ条約」(仏 Traité de Versailles; 英 Treaty of Versailles; 独 Friedensvertrag von Versailles, od. Versailler Vertragが調印されるのは、1919年6月28日(土)のことしかしながら、この講和会議が完全に終了するのは、ローザンヌ条約(仏 Traité de Lausanne 1923; 英 Treaty of Lausanne; 独 Vertrag von Lausanne)が締結される1923年7月24日(火)のこと。

1919年1月21日(火)~1921年7月11日(月) アイルランド独立戦争(Irish War of Independence, 1919-21)、または英愛戦争(Anglo-Irish War, 1919-21)。第一次世界大戦の戦火が停止されて僅か二ヶ月十日後、アイルランド共和軍がイギリスの支配者に対して独立戦争を起こした。二年半に及ぶ戦闘の後、アイルランド独立の願いは英愛条約を結ぶことで不完全ながらも達成された。

1919年4月13日(日) アムリットサル事件(Amritsar Massacre; Jallianwala Bagh massacre)。英領印度(British India)のパンジャーブ地方のシーク教の聖地アムリットサルにて、英殖民地当局への抗議のために集まっていた非武装のインド人市民に対して、イギリス人のダイヤー准将(Brigadier- General Reginald Dyer, 1864-1927)率いるグルカ族とイスラム教徒から成る英領インド軍部隊が女子供も含めて無差別射撃。少なく見積もっても379人が射殺されたが、約千人が犠牲になったとする説もある。ダイヤー准将の行動はイギリスの本国政府からも厳しく非難され、大佐(Colonel)への降格の上に罷免(ひめん)された。だが、議会上院(貴族院)保守派が庇(かば)ったことと、本人の健康状態の悪化によって訴追は逃れた。ダイヤー大佐は事件から八年後に死去。事件から九十四年近くが経過した2013年2月20日(水)、英首相として初めて事件の現場を訪れたキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)氏は花輪を捧(ささ)げ、訪問者名簿に「イギリスの歴史上非常に恥ずべき事件であり、ウィンストン・チャーチルが当時正しく呼んでいたようにぞっとするようなことだ。我々はここで起こったことを忘れてはならないし、我々は連合王国が平和的抗議活動を擁護するよう保証せねばならない。(a deeply shameful event in British history, one that Winston Churchill rightly described at that time as monstrous. We must never forget what happened here and we must ensure that the UK stands up for the right of peaceful protests.)」と書き込み、遺憾の意を表明。しかし明確で充分な謝罪ではないとして、インドでは批判の声が上がった。そして事件から百年が経過した2019年9月10日(火)、インドを訪問中のイングランド教会(Church of England; 日本の教科書では「英国国教会」と誤訳し、ウィキペディア日本語版では「イングランド国教会」としている)の実務上のトップ(名目上のトップは英女王)であるカンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)ジャスティン・ウェルビー(Justin Welby, b.1956; カンタベリー大主教在職2013-)師が、個人の立場で謝罪の意を伝えるべく、事件現場でひれ伏した。そしてこう発言した( https://www.churchtimes.co.uk/articles/2019/13-september/news/world/welby-apologises-for-great-wickedness-of-1919-amritsar-massacre / https://www.theguardian.com/world/2019/sep/10/justin-welby-apologises-in-name-of-christ-british-massacre-amritsar / https://twitter.com/BBCRajiniV/status/1171379619125006341 )。「此処(ここ)は大いなる邪悪を記憶する場所です。殺傷された人々や遺族の方々の魂が、これらの石(=記念碑)から私たちに訴えかけてきて、私たちに権力と権力の濫用(らんよう)について警告しています。私は英国政府を代表することはできません。政府当局者ではないからです。でも私はキリストの名に於()いて話すことができ、此処(ここ)は罪過(ざいか)のみならず贖罪(しょくざい)の場所でもあると言えます。というのも、あなた方は彼ら(=犠牲者たち)が為()したことを記憶にとどめ、彼らの名は生き続け、彼らの記憶が神の前で生き続けるからです。そして私は此処(ここ)で犯されたこの、この(言い淀み)犯罪が及ぼした影響について恥じ入り、申し訳なく思っております。繰り返しますが、私は政府を代表して話すことはできません。それは政府がやるべきことです。私は宗教指導者であり、政治家ではありません。しかし宗教指導者として私は此処(ここ)で私どもが目にしている悲劇を悼(いた)む者であります。」(This is the place that commemorates a great wickedness. The souls of those who were killed and wounded, of the bereaved, cry out to us from these stones and warn us about power and the misuse of power. I cannot speak for the British government. I’m not an official of the British government. But I can speak in the name of Christ and say this is a place of both sin and redemption, because you have remembered what they have done and their names will live, their memory will live before God. And I am so ashamed and sorry for the impact of this, this crime committed here. As I say, I cannot speak for the Government. That is for the Government to do. I am a religious leader, not a politician. But as a religious leader, I mourn the tragedy that we see here.)と。一方でこの虐殺事件をめぐって英国政府が公式に謝罪したことは一度も無い。

1919年5月6日(火)~8月8日(金) ロシアの脅威を押しのける目的で英領印度帝国の軍隊が三十九年ぶりに国境を越えてアフガニスタン(アフガン)に侵攻し、第二次アフガン戦争(Second Anglo-Afghan War of 1919)が勃発。両者互角で勝負がつかず、英国側はアフガンから撤退。

1919年6月28日(土) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)の引き金となった1914年6月28日(日)のサラエボ事件からちょうど五年が経過したこの日、その大戦の決着をつけるためのパリ講和会議(仏 Conférence de paix de Paris 1919; 英 Paris Peace Conference, 1919; 独 Pariser Friedenskonferenz 1919)の一環としてフランスの首都パリ西郊のヴェルサイユ宮殿(仏 Château de Versailles; 英 Palace of Versailles; 独 Schloß Versailles)の鏡の間(仏 Galerie des Glaces; 英 Hall of Mirrors; 独 Spiegelgalerie)で、その名も「同盟及聯合國ト獨逸國トノ平和條約」(仏 Traité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l’Allemagne; 英 Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germany; 独 Friedensvertrag zwischen den Alliierten und den assoziierten Mächten und Deutschland)、通称 「ヴェルサイユ条約」(仏 Traité de Versailles; 英 Treaty of Versailles; 独 Friedensvertrag von Versailles, od. Versailler Vertrag)が調印され、第一次世界大戦が正式に終結。所謂(いわゆる)ヴェルサイユ体制が始まる。実際の発効は約半年後の1920年1月10日(土)。日本は英仏伊米と並ぶ戦勝五大国の一翼を担う。このヴェルサイユ条約で敗戦国ドイツには膨大な額の賠償金が課せられ、これをドイツが完全に処理し終えたのは、第一次世界大戦の停戦から九十二年近く(九十一年と十一ケ月)後の2010年10月のことだった。この過酷な賠償金が後にナチスの擡頭(たいとう)を招くことになる。イギリス(連合王国)は当時の総人口4600万(46 million)人に対して第一次世界大戦での戦歿者数は74万(0.74 million)人だったが、日本は当時の総人口5430万人(54.3 million)人に対して戦歿者数は僅(わず)かに415人(但し、各種資料により誤差あり)だった 。ちなみに戦勝国ながら国土が戦場となったフランスは当時の総人口3650万(36.5 million)人に対して戦歿者数140万(1.4 million)人。そして敗戦国のドイツは当時の総人口6700万(67 million)人に対して戦歿者数180万(1.8 million)人だった。日本の場合を除く各数値は、ハワード(Michael Howard)[著]、馬場優[訳] 『第一次世界大戦』(法政大学出版局, 2014年)の付録Ⅱ 戦争の被害(p.xix)に基づく。この大戦の結果としてロシア帝国、墺太利ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国という4つの大帝国は既に崩壊していた。このヴェルサイユ条約の締結でパリ講和会議(仏 Conférence de paix de Paris 1919; 英 Paris Peace Conference, 1919; 独 Pariser Friedenskonferenz 1919)が終了したかに見えたが、それは大物政治家にとってのことであり、実際には次官級の協議が向こう四年も続き、最終的には1923年7月24日(火)にローザンヌ条約(仏 Traité de Lausanne 1923; 英 Treaty of Lausanne; 独 Vertrag von Lausanne)が締結されることで終了。

1919年10月~’20年6月 まだヨーク公(Duke of York: つまり国王の次男)だった後の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)がケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)に遊学(その四十八年後の1967年10月には孫のチャールズ皇太子が同学寮に正規入学することになる)

1919年11月28日(金) アメリカ生まれのアスター子爵夫人ナンシー(Nancy Astor, Viscountess Astor, 1879-1964)が英国史上初の女性国会議員として議会下院(庶民院=衆議院)に登院。厳密にはマルキエヴィッチ伯爵夫人コンスタンス(Constance Markievicz, Countess Markievicz, 1868-1927)が前年(1918年)に議席を獲得していて女性国会議員第一号とて登院している筈(はず)だったが、所属していたシンフェイン党(Sinn Féin: アイルランド・ゲール語で「我ら自身」の意)の議会ボイコット方針に従ったため、英国憲政史に名を残すことを逃した。

1920年1月10日(土) 約半年前の1919年6月28日(土)に調印された通称 「ヴェルサイユ条約」(仏 Traité de Versailles; 英 Treaty of Versailles)こと、「同盟及聯合國ト獨逸國トノ平和條約」(仏 Traité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l’Allemagne; 英 Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germany)が発効したことに伴い、二度と悲惨な大戦を繰り返すまいとする反省から國際聯盟(こくさい れんめい: 仏 Société des Nations; 英 League of Nations; 西 Sociedad de Naciones)がスイス連邦ジュネーヴ市(仏 Genève, Suisse; 英 Geneva, Switzerland; 西 Ginebra, Suiza)で発足。英仏日伊米の戦勝五大国が常任理事国(permanent members)になる予定だったが、モンロー主義(Monroe Doctrine)を振りかざす米議会上院(United States Senate)が承認せず、提唱者の米国は連盟そのものに不参加。したがって英仏日伊の四ヶ国常任理事国体制でスタート。当初の加盟国は常任理事国を含めて42ヶ国。

1920年10月 オクスフオッド大学で女性が初めて正規学生として勉学が認められる(但し、聴講生としては1870年代から徐々に部分的に許可)。

1920年10月26日(火) オクスフオッド大学で女性が初めて学位を取得。その第一号として特筆すべき人物はアニー・ロヂャーズ(Annie Mary Anne Henley Rogers, 1856–1937)といい、四十七年前の1873年にイニシャルのA. M. A. H. R.の名でオクスフオッド地域年少・年長試験(Oxford Local Junior and Senior Examinations)を受験し、トップの成績を収め、オクスフオッド大学ベァリオル学寮(Balliol College, Oxford)と同大学ウスター学寮(Worcester College, Oxford)から奨学金(scholarship)と入学許可を貰うことになっていながら、入学直前になって大学当局がこれは女性だと気づいたため入学が破談となり、その四年後の1877年に学士(bachelor’s degree)相当の卒業試験、その名も「女性のための試験」(Examinations for Women)を受けることを許可され、羅典(ラテン)語及び希臘(ギリシア)語(Latin and Greek)の卒業試験を受け、見事に第一級合格(achieves first-class honours)しながら正式な学位を授与されず、その二年後の1879年にも古代史(Ancient History)の卒業試験を受け、見事に第一級合格(achieves first-class honours)しながら正式な学位を授与されなかったのだった。このアニーほどには有名なケースではないが、同時に40人以上もの女性が学位を授与されたので、第一号はこれら40数人の女性全員ということになっている。

(外部リンク)

https://www.hurleyskidmorehistory.com.au/

https://www.bodleian.ox.ac.uk/oua/enquiries/first-woman-graduate

1920年11月21日(日) 英領アイルランドの都ダブリン(Dublin)市で「血の日曜日事件」(Bloody Sunday (1920))。アイルランド独立戦争(Irish War of Independence; Anglo-Irish War, 1919-21)中、クローク・パーク競技場(Croke Park Stadium)にて、イギリスの警察組織である王立アイルランド警察(RIC: Royal Irish Constabulary)が無防備のアイルランド人観客に向けてライフル銃と回転式拳銃をいきなり発砲し、14人の死者と60人以上の負傷者を出す。英 国政府も事件を重く見て二件の軍法会議を開き、RICによる発砲は命令なしに、状況の許す限度を超えて行なわれたと結論づけたが、法廷での評定は八十年間 も秘密にされ、西暦2000年になるまで公表されなかった。2007年2月、クローク・パーク競技場でのラグビー・シックス・ネイションズの国際試合、アイルランド対イングランド戦が平穏に行なわれる。イギリス国歌の演奏に当たりアイルランド側から一つのブーイングもなく、イギリスとアイルラン ドの歴史的和解の象徴となった。2011年5月18日(水)には、エリザベス女王が和解のためにここを訪れたことが大きなニュースになる。

1920年12月23日(木) 自由党(Liberal Party)の初代ドワイフォー伯ロイド・ジョージ首相(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor, 1863-1945; 首相在任1916-22)首相が議会に提出した1920年アイルランド政府法(Government of Ireland Act 1920)、通称 第四次自治法案(Fourth Home Rule Bill)が可決されたことを受け、これに勅裁(Royal Assent)が下りて成立。

1921年(大正10年)3月3日(木)~9月3日(土) 皇太子裕仁親王(くゎぅたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, 1901-89)=後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が、国内輿論(よろん)の反対にも拘(かか)わらず日本の歴史始まって以来の、それも六ヶ月にも及ぶ海外訪問を敢行。橫濱(横浜)港を出て、途中沖縄に立ち寄った後は、香港(現中華人民共和國香港特別行政區)、シンガポール(現英連邦シンガポール共和国)、セイロン島(現英連邦スリランカ民主社 会主義共和国)のコロンボ港、エジプト(現エジプト・アラブ共和国)のスエズ港、マルタ島(現英連邦マルタ共和国)のヴァレッタ港、ジブラルタル(現在も英国海外領土)という当時の英国領6箇所を転々として、遂(つい)に同年(1921年)5月7日(土)、同盟国イギリスのポーツマス港に到着。英国にて親王は行く先々で温かい歓迎を受け、英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)に理想の父親像・君主像を見る。同年(1921年)5月9日(月)には同国王から陸軍大将(General of the British Army)の名誉称号を贈られる( https://www.thegazette.co.uk/London/issue/32324/supplement/3917 )。英国を後にしてからはフランス、ベルギー、オランダ、再びフランス、イタリア、ヴァティカン(バチカ ン)を歴訪して戦争の爪痕(つめあと)をつぶさに観察し、帰国の途に就(つ)く。帝都東京への帰還は同年9月3日(土)。昭和天皇が1989年1月7日(土)に崩御したとき、その居間の机の引き出しから1921年6月21日(火)付のパリ地下鉄(Métro Paris)のパレ・ロワイヤル(Palais Royal: 「王宮」の意)駅発の切符が発見されたが、昭和天皇は満20歳の時分に生まれて初めてお忍びで乗った地下鉄に感動して、シャンゼリゼ大通りのジョルジュ・サンク(George V: 「英国王ジョージ五世」の意)駅で降りた際に切符を捨てずに持ち帰っていた(なお、パリの地下鉄は入場に際してのみ改札があり、出口での検札が無いため、切符を床に捨てて行く者が多い)。昭和天皇はその切符を生涯の宝物にしていたとのこと(なお、日本初の地下鉄である東京地下鐵道(現在の東京メトロ銀座線)の淺草(浅草)・上野間が開業するのは、その六年半後の1927年12月30日(金)のこと)。

(外部サイト)

当時の動画(無音)

https://www.youtube.com/watch?v=tbIvEuqksSI

1921年 前年(1920年)のオクスフオッド大学での動きを受けて、ケイムブリヂ大学でも女性を正規学生として受け入れようという機運が起こるが、投票により否決される。

1921年12月6日(火) アイルランド独立戦争(Irish War of Independence; Anglo-Irish War, 1919-21)を正式に終結させる英愛条約(Anglo-Irish Treaty)に英国とアイルランドの代表団が調印。但し、条約発効は翌年(1922年)12月5日(火)のこと。

1921年12月13日(火) 米国首都のワシントン海軍軍縮会議(Washington Naval Conference)にて英仏米日の間で四ヶ國條約(しかこく じょうやく; 英 Four-Power Treaty; 仏 Traité des quatre puissances)が調印されたことを受け、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)の廃止が決定。実際に失効するのは約一年八ヶ月後の1923年8月17日(金)のこと。

1922年2月6日(月) 米国首都にてワシントン海軍軍縮条約(Washington Naval Treaty)が調印され、米英日仏伊の戦勝五ヶ国の戦艦・航空母艦(空母)等の保有の制限が取り決められる。なお、ワシントン海軍軍縮会議(Washington Naval Conference)には華蘭白葡の四ヶ国の代表団も出席している。

1922年4月 前年(1921年)の返礼として、後に一年足らず英国王を務めることになるエドワード八世(Edward VIII, 1894-1972; 在位1936)であり、さらに後のウィンザー公(Duke of Windsor, 1894-1972)になる英国皇太子(当時)エドワード(Edward, Prince of Wales, 1894-1972)が訪日。各地で大歓迎を受ける。歓迎晩餐会で会席者1人につき予算30圓(現在の価値で約30万円)という前代未聞の豪華料理を振る舞ったことからも、日本側が英国との良好な外交関係の維持に躍起になっていたことが窺(うかが)える。道中、東京の宿泊先の帝國ホテル(Imperial Hotel, Tokyo)で火災があり、エドワード皇太子とその一行の荷物(勲章を含む)が燃えてしまう不運もあったが、日英の友好関係が最高潮に達したところで、一行は奇(く)しくも五十九年前の1863年に英国海軍(Royal Navy)が砲撃していた鹿兒島(鹿児島)港から離日する。

1922年12月6日(水) 前年(1921年)12月6日(火)に調印された英愛条約(Anglo-Irish Treaty)の発効を受けて、カトリック信徒が多数派を占める26州(アイルランド島の大部分)が連合王国から離脱して新国家、アイルランド自由国(Irish Free State)を形成。しかしプロテスタント信徒が辛うじて多数派を占める北部6州は、今日に至るも連合王国(UK)の一部であり続け、北アイルランドとして知られている。

1923年(大正12年) 二年年の1921年9月から日本海軍に航空技術を伝授し、その途中の1922年10月に離日していた第十九代センピル卿(William Forbes-Sempill, 19th Lord Sempill, 1893-1965)が英国に帰国後、在聯合王國日本國大使館附海軍武官の豊田貞次郎(とよだ ていじらう, 1885-1961)大佐(後に大将)と秘密裡(ひみつり)に接触し、英国の軍事機密を日本側にたびたび漏らす。豊田大佐はセンピル卿に海軍機密費を渡す。1998年と2002年に英国政府の公共記録局(Public Record Office)が機密書類を公開したことで、センピル卿の対日協力売国活動が明るみに出る。当時から英国の当局はセンピル卿のスパイ活動を把握して追跡を続けていたが、英国側が日本の暗号を解読していたことを悟られないためと、センピル卿が名門貴族だったために逮捕に踏み切れなかったとのこと。

(参考)

【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

現代ビジネス

カメラマン・ノンフィクション作家 神立尚紀(こうだち なおき, b.1963)NPO法人「零戦の会」会長、東京工芸大学非常勤講師

2020年10月18日(日)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411?page=4

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76411?page=5

https://news.yahoo.co.jp/articles/613e0982d1e880fb85a0ac097da249e10f9fedb4 (リンク切れ)

1923年7月24日(火) ローザンヌ条約(仏 Traité de Lausanne 1923; 英 Treaty of Lausanne; 独 Vertrag von Lausanne)が締結される。これを以(もっ)て四年半前の1919年1月18日(土)から延々と続いたパリ講和会議(仏 Conférence de paix de Paris 1919; 英 Paris Peace Conference, 1919; 独 Pariser Friedenskonferenz 1919)が終了。

1923年8月17日(金) 二十一年前の1902年から続いていた日英同盟(Anglo-Japanese Alliance, 1902-23)が遂に失効。

1924年1月22日(火) 国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)による議会開会宣言(King’s Speech at the State Opening of Parliament)が議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(House of Commons)で否決される。スピーチは保守党(Conservative Party; 別称・蔑称 Tories)のボールドウィン(Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, KG, PC, JP, FRS, 1867-1947; 首相在任1923-24, 1924-29 & 1935-37; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒、メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)内閣が書いたものであるため、この否決を受けてボールドウィン内閣は即時総辞職する。そしてボールドウィンの推挙を受け、国王ジョージ五世は二十四年前の1900年に結党された比較的新しい党である労働党(Labour Party)のマクドナルド(Ramsay MacDonald, 1866-1937; 首相在任1924 & 1929-35; ロンドン大学バーベック学寮卒)党首に組閣を要請。ここに英国憲政史上初の労働党内閣が組閣。

1924年11月4日(火) 同年1月22日(火)に発足したばかりの英国史上初の労働党政権が総選挙(General Election)に敗れ、十ヶ月強で下野(げや)。政権は再び保守党(Conservative Party; 蔑称 Tories)のボールドウィン(Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, 1867-1947; 首相在任1923-24; 1924-29; 1935-37; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒、メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)内閣総理大臣へ。

1925年10月13日(火) 約五十三年半後の1979年5月4日(金)に英国史上初の女性首相(the first woman Prime Minister in British history)マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90)=政界引退後はサッチャー女男爵(Baroness Thatcher, 1925-2013; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)と成ることになる雑貨商の娘マーガレット・ロバーツ(Margaret Roberts, 1925-2013)嬢が、イングランド北部のリンカン州グランサム(Grantham, Lincolnshire)市内の商店を兼ねた自宅の二階で生まれる。

1926年4月21日(水) 約二十六年後の1952年2月6日(水)から英国史上最長の君主(女王)として君臨することになるエリザベス王女(Princess Elizabeth Alexandra Mary, b.1926)=後の女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が、首都ロンドンのメイフェア(Mayfair: 東京で言う麻布に相当)街区のブルートン街17番地(17 Bruton Street, Mayfair, City of Westminster, London)に在った母方の祖父である第14代ストラスモア伯爵クロード・ボーズ=ライアン(Claude Bowes-Lyon, 14th Earl of Strathmore and Kinghorne, 1855-1944)名誉大佐の私邸で生まれる。生まれた時点では国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の次男であるヨーク公アルバート(Albert, Duke of York, b.1895)=後の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)の長女(国王から見ると三人目の孫で、初の内孫)という位置づけであり、君主になるとは誰も想像していなかったため、宮殿ではなく高級住宅街の民家での誕生となった。

1926年5月3日(月) 23:59~5月12日(水) 九日に及ぶ全面ストライキ(General Strike: 和製表現で「ゼネスト」)が全英規模で発生。炭鉱産業(mining industry)が国内最大の産業であったにも拘(かか)わらず、石炭の国際競争に負けつつあった英国で、炭鉱労働者=炭鉱夫(miners)の賃金が下がり続け、労働時間が増え続ける現状に憤(いきどお)った労働組合会議(TUC: Trades Union Congress)が労働者にゼネストを指示。これに対して英国政府は翌日(1926年5月4日(火))軍艦や戦車を含む軍隊を出動させる。既に政府は裕福な上流階級(upper class)と上層中産階級(upper middle class)と中産階級(middle class)とから成る有志(volunteers)を臨時労働者として確保しており、ゼネストが終わるまでの間、金持ちが働いて仕事の穴を埋める。ここで一時的に働いた紳士淑女たちは、肉体労働者の仕事の大変さを初めて実感する。スト5日目(1926年5月8日(土) )には小麦粉とパンの不足が深刻化したため、軍隊が軍用車輛でロンドン波止場(London Dock)の倉庫からそれらを強制的に徴用して街の店に運んだ。スト9日目(1926年5月12日(水) )正午にTUCの議長がボールドウィン(Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, 1867-1947; 首相在任1923-24, 1924-29 & 1935-37; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒、メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)首相と面会し、ストは直ちに(forthwith)終了すると宣言。

1926年 既に1892年に創立されていたユーネヴアセティ・コレッヂ・レディング(University College, Reading)が、レディング大学(University of Reading)として正式に認可される。

1927年4月12日(火) 四年四ヶ月前の1922年12月5日(火)にアイルランドの大部分が既に連合王国から離脱していた実態を反映させるべく、国号をグレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)からグレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)へと若干の変更を加える。つまり「北」を表すNorthernという単語が新たに加えられた。

1928年4月19日(木) 七十一年前の1857年に編纂が開始されていた牛津(オクスフオッド)大学出版局(OUP: Oxford University Press)によるオクスフオッド英語辞典(OED: Oxford English Dictionary)全10巻完全版が遂に刊行される。ギネス・ブック(Guinness Book of World Records)によれば、約六十万語を収録する同辞典は、世界で最も包括的な単一言語辞書(the most comprehensive single-language dictionary)とのこと。

(外部サイト)

http://customessaysservice.com/blog/oxford-dictionary/#.T7izGlJ9Mz

1928年7月2日(火) 1928年普通選挙法(Representation of the People (Equal Franchise) Act 1928)の勅裁・施行(同年3月29日(金)に法案が提出され、同年5月23日(木)に上下両院で法案可決済)で英国初の男女平等の普通選挙権。女性も男性同様、資産の額とは無関係に政治参加する権利を勝ち取る。ここまで中心的な役割を果たしてきたパンクハースト夫人(上記1903年の項を参照)は同年(1928年)6月14日(金)に既に他界していた。

1928年9月30日(日) 世界初の抗生物質(antibiotics)であるペニシリン(penicillin)がスコットランド人細菌学者アレグザンダー・フレミング(Sir Alexander Fleming, 1881-1955; 王立科学技術学院=現ウェストミンスター大学卒、ロンドン大学セント・メアリーズ病院医学校卒)博士によって発見される。アオカビ(青黴: Penicillium notatum)の培養液(culture)中からブドウ球菌(staphylococcus)の発育を阻止する物質を見つけ、アオカビの学名ペニシリウム(Penicillium)に因(ちな)み、ペニシリン(penicillin)と命名。医学史上最重要な発見の一つと言われる。当時どんな薬でも治せなかった肺炎(pneumonia)や破傷風(tetanus)などの伝染病をすぐさま治療することができ、多くの人々の命を救った。現在では百種類超の病気を治療する効果があることが判明している。

1929年 英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の第三王子(三男)であるグロウスター公ヘンリー王子(Prince Henry, Duke of Gloucester, 1900-74)が英国最高位のガーター勲章(Order of the Garter)を昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)に届けるために国賓(state guest)として訪日。

1929年6月5日(水) 五年前の1924年に十ヶ月強の間だけ政権に就いていた労働党のマクドナルド(Ramsay MacDonald, 1866-1937; 首相在任1924 & 1929-35; ロンドン大学バーベック学寮卒)内閣が政権に復帰(1935年6月7日(金)まで)。

1929年6月8日(土) 上記のマクドナルド(Ramsay MacDonald, 1866-1937; 首相在任1924 & 1929-35; ロンドン大学バーベック学寮卒)内閣の英国史上初の女性閣僚としてマーガレット・ボンドフィールド(Margaret Bondfield, 1873-1953)が起用される(1931年8月24日(月)まで)。

1929年10月24日(木) 暗黒の木曜日(Black Thursday)。ニューヨーク証券取引所(NYSE: New York Stock Exchange)で株価が大暴落。世界恐慌へ。英国は金本位制(gold standard)の撤廃とブロック経済(bloc economy)で対処。

1930年1月21日(火)~4月22日(火) 英首相マクドナルド(Ramsay MacDonald, 1866-1937; 首相在任1924 & 1929-35; ロンドン大学バーベック学寮卒)の提唱で、ロンドン海軍軍縮会議(London Naval Conference)が第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)の戦勝国である五大海軍国(当時の海軍力の順で英米日仏伊)の間で開催される。ロンドン海軍軍縮条約(Treaty for the Limitation and Reduction of Naval Armament)、通称 ロンドン海軍条約(London Naval Treaty)が締結される。

1930年~’31年 亡き大正天皇(たいしゃぅ てんのう; たいしょう てんのう, 1879-1926; 在位1912-26)の第三皇男子(三男)で、昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の弟にあたる高松宮宣仁親王(たかまつ の みや のぶひと しんのう; Nobuhito, Prince Takamatsu, 1905-87; 海軍兵學校卒)=25歳が兄・昭和天皇の名代(みょうだい)として14ヶ月に亘(わた)って欧米各国を周遊訪問。同年(1930年)2月に結婚したばかりの新妻、喜久子(きくこ, 1911-2004; 女子學習院本科卒)妃=20歳を伴なった新婚旅行としての側面もあった。同年(1930年)7月には英国ドーヴァー港(Dover, Kent)、続いて鉄道で英京倫敦ヴィクトリア駅(Victoria Station, London, UK)に到着。プラットフォームで待ち受けていたのは、英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の第二王子(次男)ヨーク公アルバート王子(Prince Albert, Duke of York, 1895-1952)=後の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)と、国王の第一王女(長女)メアリー王女(Mary, Princess Royal and Countess of Harewood, 1897-1965)と、国王の第四王子(四男)ケント公ジョージ王子(Prince George, Duke of Kent, 1902-42)である。前年(1929年)に国王の第三王子(三男)グロウスター公ヘンリー王子(Prince Henry, Duke of Gloucester, 1900-74)が英国最高位のガーター勲章(Order of the Garter)を昭和天皇に届けるためにわざわざ訪日したことに対する返礼の意味もある。高松宮夫妻の訪英は国賓訪問(state visit)とされ、英王族から歓待を受ける。なお、喜久子妃は德川慶久(とくがは よしひさ; とくがわ よしひさ, 有職(ゆうしょく)読みで「けいきゅう」, 1884-1922; 東京帝國大學法科大學卒)公爵・貴族院議員の令嬢。つまりは十五代將軍德川慶喜(とくがは よしのぶ; とくがわ よしのぶ, 有職(ゆうしょく)読みで「けいき」, 1837-1913; 征夷大將軍在任1867-68)の孫娘が明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)の孫に当たる宮様に嫁入りしたということで、当時の日本では「公武合体(こぅぶ がつたい)」として話題になった結婚である。

(動画)当時のイギリス側のニュース映画 https://www.youtube.com/watch?v=EoLLrDo4z_U

1930年6月26日(木) 九年前の1921年に歓待してくれた英国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)が、昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)に英国陸軍元帥(Field Marshall of the British Army)の名誉称号を贈る( https://www.thegazette.co.uk/London/issue/33619/page/4028 )。

1930年10月 英領印度の物理学者の C. V. ラーマン(C. V. Raman, 1888-1970)こと、チャンドラセカール・ラーマン(Sir Chandrasekhara Venkata Raman, 1888-1970; マドラス管区大学卒)カルカッタ大学教授がノーベル物理学賞(典 Nobelpriset i fysik 1930; 英 Nobel Prize in Physics 1930)を受賞することが決定。アジア人としては1913年ノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur 1913; 英 Nobel Prize in Literature 1913)を受賞した印度詩人・作家タゴール(Rabindranath Tagore, 1861-1941; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮中退)に次いで二人目。

1931年 労働党のマクドナルド(Ramsay MacDonald, 1866-1937; 首相在任1924 & 1929-35; ロンドン大学バーベック学寮卒)首相とその側近閣僚たちが世界恐慌(Great Depression)の処理をめぐり、自らが所属する労働党(Labour Party)と対立し、同年(1931年)8月24日(月)に辞任。マクドナルドと側近閣僚たちはすぐさま労働党から除名される。ところが時の国王ジョージ五世(George V, 1865-36; 在位1910-36)の要請により、野党だった保守党(Conservative Party; 蔑称 Tories)と自由党(Liberal Party; 通称 Liberals)の協力が得られたことから、マクドナルド内閣は連立内閣(coalition government)・挙国一致内閣(national cabinet)として維持される。マクドナルド内閣は次に議会下院=庶民院を解散して国民に信を問い、同年(1931年)10月27日(火)に実施された総選挙(general election)で連立与党は圧勝し、中でも連立内の保守党は単独で過半数を制す。これまでの慣習通りなら保守党の党首ボールドウィン(Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, KG, PC, JP, FRS, 1867-1947; 首相在任1923-24, 1924-29 & 1935-37; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒、メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)が首相に任命されるべきだが、国王ジョージ五世は独自の判断でマクドナルド内閣の継続を指示。世論も国王の判断を支持。マクドナルド自身は四年後の1935年まで内閣を維持した上で、本来の第一党である保守党に政権を返上することになる。

1932年12月25日(日・祝) 毎年恒例となる聖誕祭メッセージ(Christmas message)の第一回放送( https://www.youtube.com/watch?v=Bf30P_PbcZo )が始まる。1922年10月18日(水)に設立されて間もない英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)が翌年(1923年)の聖誕祭祝日(Christmas Day)=1923年12月25日(火・祝)に国王の肉声を全国民及び全殖民地に向けて放送しましょうと提案したものの、当の国王ジョージ五世自身の反対に遭い実現せず、九年後に同国王の側が妥協したことで漸(ようや)く実現したという事情があった。なお、日本の一般国民が天皇の肉声をラジオで初めて聞いたのは、イギリスより十三年近く遅れた1945年8月15日(水) 正午の所謂(いわゆる)「玉音(ぎょくおん)放送」である

1935年12月9日(月)~’36年3月25日(水) 五年前の1930年4月22日(火)に締結されたロンドン海軍軍縮条約(Treaty for the Limitation and Reduction of Naval Armament)、通称 ロンドン海軍条約(London Naval Treaty)の改正を目的とした第二次ロンドン海軍軍縮会議(Second London Naval Conference)が英米日仏の間で開催される。前回出席していたイタリアはエチオピア侵攻のため国際的な非難を浴びて本会議を脱退し、軍縮に不満を持つ日本も1936年1月15日(水)に本会議を脱退したため、第二次ロンドン海軍軍縮条約(Second London Naval Treaty)に締結したのは英米仏の三国にとどまった。

1936年 王室の危機の年、または三人の国王の年。国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の薨去(こうきょ)に伴ない、1936年1月20日(月)に新国王になったエドワード八世(Edward VIII, 1894-72; 在位1936)がアメリカの人妻シンプソン夫人(Wallis Simpson, 1896-1986)=後のウィンザー公爵夫人ウォリス(Wallis, Duchess of Windsor, 1896-1986)と道ならぬ恋に落ちていたことから、保守党(Conservative Party; 別称・蔑称 Tories)のボールドウィン(Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, 1867-1947; 首相在任1923-24, 1924-29 & 1935-37; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒、メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)内閣総理大臣はエドワード八世に対して、英国政府、国内世論、自治領(現英連邦諸国)の世論のいずれも、新国王エドワードがシンプソン夫人と結婚することを望まないと、きっぱりと申し入れる。また、当時のイングランド教会(Church of England)は離婚経験者の再婚を認めない立場だった。翌年(1937年)5月に予定されていた戴冠式(たいかんしき: Coronation コロネイション)も挙行しないうちに、同年12月11日(金)にエドワード八世は退位。同日(金)夜に元国王のエドワードは国民や海外領土の臣民に向けて ラジオでスピーチを行ない( https://www.youtube.com/watch?v=wBn06A-sdok 1:54-2:20)、王位を弟のヨーク公アルバート(Albert, Duke of York, b.1895)=新国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)に譲ると宣言した。その時の言葉「しかし私を信じてください、私が次のように言う際に、私は不可能だと悟りました、責務の重荷を背負い、且(か)つ国 王としての務めを自分の望むように遂行するのが、私の愛する女性の助けと支援なしでは、と。」(But you must believe me when I tell you that I have found it impossible to carry the heavy burden of responsibility and to discharge my duties as king as I would wish to do without the help and support of the woman I love.)はあまりにも有名。この話は「王冠を賭(か)けた戀(こひ)」として当時世界中の女性の心をときめかせた。翌日(1936年12月12日(土))にはエドワード 元王にウィンザー公(Duke of Windsor)という新しい身分が与えられることが決まった。ここで兄から王位を受け継いだ弟とは、現女王の父親であり、英国映画 The King’s Speech(直訳 『国王の演説』2010年、邦題 『英国王のスピーチ』)でもお馴染(なじ)みの言語障碍(げんご しょうがい)の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)だった。新国王の満10才の長女で、それまで比較的無名だったエリザベス王女(Princess Elizabeth Alexandra Mary, b.1926)=後の女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が、次世代の王位継承者(heiress apparent)として俄(にわ)かに注目を浴びる。

1936年 チャンス(Janet Chance, 1886–1953)夫人らによって中絶法改正協会(ALRA: Abortion Law Reform Association)が設立される。強姦(rape)により肉体的精神的健康に危険があるとき、深刻な病気が子供に遺伝するときに中絶が合法化されるべきと主張。しかしながら、中絶問題は第二次世界大戦後まで解決は見送られる。

1936年9月5日(土) 第一次世界大戦(the Great War; World War I; the First World War, 1914-18)の戦争指導者ロイド・ジョージ元首相こと、初代ドワイフォー伯爵(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor, 1863-1945; 首相在任1916-22; 地元の教会系小学校出)が、ドイツ最南部ベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)近郊のオーバーザルツベルク(Obersalzberg)村の山荘ベルクホーフ(Berghof: 「山廷」の意)にヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945; 首相在任1933-45; 総統在任1934-45)総統を訪ねて会見( https://www.youtube.com/watch?v=c9QLJa1vmDI / https://link.springer.com/chapter/10.1057/9780230511484_5 )。ヒトラーを高く評価。

1937年4月1日(木) 印度統治法が施行され、州政府が発足。改正ビルマ統治法が施行され、ビルマ(現在のミャンマー)は英領印度から分離され、直轄殖民地と成る。

1937年5月12日(水) ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)で国王ジョージ六世(George VI, 1895-52; 在位1936-52)の戴冠式。日本からは大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)の第二皇子で昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の弟、秩父宮雍仁親王(ちゝぶのみや やすひと しんのう; Prince Chichibu, 1902-53; オクスフオッド大学モードレン学寮遊学)が出席。英国側の秩父宮への礼を尽くした対応に、日本側では日英関係楽観論が起こる。戴冠式の様子はラジオで実況中継され、史上初めて大西洋を越えて米国ニューヨーク市(New York, NY, USA)で受信される。

1937年5月20日(木) ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)戴冠記念観艦式(Coronation Naval Review for George VI)がイングランド南海岸スピットヘッド(Spithead)沖で挙行される。カナダ(Canada)や豪州(Australia)を含む英帝国(British Empire)の艦艇145隻と特別招待された18ヶ国(アルファベット順で、Argentina, Cuba, Denmark, Estonia, Finland, France, Germany, Greece, Japan, Netherlands, Poland, Portugal, Rumania, Spain, Sweden, Turkey, USA, USSR)の艦艇18隻が参列。二十七年前の1910年2月に「戦艦ドレッドノートいたずら訪問事件(Dreadnought Hoax ドゥれッドノート・ホウクス)」(上記参照)で従妹弟(いとこ)2名を含むケイムブリヂ大学三位一体学寮の六人組にまんまと騙(だま)された当時のウィリー・フィッシャー中佐(Commander Willie Fisher, 1875-1937)が、英国海軍(Royal Navy)内で大出世してサー・ウィリアム・ワーズワース・フィッシャー提督(Admiral Sir William Wordsworth Fisher, 1875-1937)になっていて、今回の戴冠記念観艦式の総指揮を執った。大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)からは八年後の1945年6月8日(金)にバンカ海峡(Bangka Strait: 現インドネシア共和国領海)北側出口で英国海軍(Royal Navy)の潜水艦トレンチャント(HMS Trenchant)が発射した魚雷8本の内4本が右舷に命中して沈没することになる重巡洋艦足柄 (Ashigara)が参加した。足柄が英マスコミから「餓(う)えた狼(the hungry wolf)」と呼ばれたことを日本側は喜んだが、実は英国の軍艦に比べて居住性が悪いことを揶揄(やゆ)しただけだった可能性が大きい。なお、観艦式で総指揮を執ったフィッシャー提督は疲労が祟(たた)ったのか、観艦式から僅(わず)か五週間後の同年6月24日(木)、現職の儘(まま)、田舎で休暇中に歿した。満六十二歳だったが、一年以内に退役(たいえき)する予定だった。

1937年6月3日(木) 元国王エドワード八世(Edward VIII, 1894-1972; 在位1936)こと、ウィンザー公エドワード(Edward, Duke of Windsor, 1894-1972)が、英国社交界で最悪の噂(うわさ)にまみれたアメリカ女シンプソン夫人(Wallis Simpson, 1896-1986)=後のウィンザー公爵夫人ウォリス(Wallis, Duchess of Windsor, 1896-1986)とフランス中部の都市トゥール(Tours)近郊のカンデ城 (Château de Candé)で結婚式を挙げるも、弟の新国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)は英国王族が結婚式に参列することを禁じる。

1937年12月29日(水) アイルランド憲法(Constitution of Ireland)の発効を受け、十五年前の1922年12月5日(火)に独立していたアイルランド自由国(Irish Free State)は、遂(つい)に英国王(British monarch)を国家元首(Head of State)として戴(いただ)く立憲君主制(constitutional monarchy)の国家であることをやめ、大統領制(presidency)の共和国(republic)であるエール(Éire)、または英語でアイァランド(Ireland)に成る。

1938年6月25日(土) 連合王国(英国)から独立したばかりのエール(Éire)、または英語でアイァランド(Ireland)で、ハイド(Douglas Hyde, 1860-1949; 大統領在任1938-45)が初代大統領が就任。

1938年9月29日(木)~30日(金) イギリスのチェンバレン(Neville Chamberlain, 1869-1940; 首相在任1937-40; メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)首相が、二度目の世界大戦を何としても回避するため、人生初の航空機搭乗体験をしてドイツのミュンヘン市(独 München, Deutschland; 英 Munich, Germany)へ赴く。ミュンヘンにてナチス・ドイツ(独 NS-Deutschland bzw. Nazideutschland; 英 Nazi Germany)のヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945; 首相在任1933-45; 総統在任1934-45)と、イタリアのムッソリーニ(Benito Mussolini, 1883-1945; 首相在任1922-43; 首席宰相在任1925-43; フォルリンポーポリ師範学校卒の元教員)と、フランスのダラディエ(Édouard Daladier, 1884-1970; 首相在任1933, 1934 & 1938-40; アンペール中高出身)との四者会談に臨む。このミュンヘン会談にて英仏独伊の欧州主要四ヶ国(=米ソ日を除く列強諸国)の間でミュンヘン協定(英 Munich Agreement; 独 Münchner Abkommen)が結ばれる。独伊両国が要求するチェコスロヴァキアからのズデーテン地方等のドイツへの割譲を英仏両国は弱腰にも吞んでしまうが、このドイツに対する宥和政策(ゆうわ せいさく: 英 Appeasement; 仏 la politique d’apaisement; 独 Appeasement-Politik od. Beschwichtigungspolitik)が一年後には非常に高くつくことになる。ロンドンのヘストン飛行場(Heston Aerodrome)に到着したチェンバレン首相は待ちかまえていたマスコミや熱狂的な群衆に向かって、「チェコスロヴァキア問題の解決は、今まさに達成されたわけですが、私が思うにまだほんの序曲に過ぎず、全欧州が平和を見出すであろう、もっと大きな解決に繋(つな)がるものであります。今朝私はドイツ首相のヒトラー氏と再度会見を持ちまして、そしてここに我が名と並んで彼(=ヒトラー氏)の名が記(しる)された文書があります。皆さんの中にはひょっとすると何が書かれているか聞き及んでいる方もおられるでしょうが、私は今ここであなた方に読み上げたいと思います。」(The settlement of the Czechoslovakian problem, which has now been achieved, is, in my view, only the prelude to a larger settlement in which all Europe may find peace. This morning I had another talk with the German Chancellor, Herr Hitler, and here is the paper which bears his name upon it as well as mine. Some of you, perhaps, have already heard what it contains but I would just like to read it to you.)と言って、その文書を右手で掲げ、文面を読み上げた。そしてバッキンガム宮殿に向かい、国王ジョージ六世(George VI, 1895-52; 在位1936-52)とその王妃エリザベス(Elizabeth the Queen Mother, 1900-2002)にミュンヘン協定について報告し、その足でダウニング街10番地(10 Downing Street)の首相官邸に戻り、二階(イギリス英語では first floor)の窓から熱狂的な群衆に向かって、「我が良き友らよ。我が国で史上二度目にして英国首相が平和と名誉を携(たずさ)えてドイツから帰国しました。私が信ずるに、それは我らの時代の平和なのです。私どもは心の奥底からあなた方に感謝申し上げます。家に帰ってぐっすりお休みなさい。」(My good friends, for the second time in our history, a British Prime Minister has returned from Germany bringing peace with honour. I believe it is peace for our time. We thank you from the bottom of our hearts. Go home and get a nice quiet sleep.)と演説した。演説の中にあった「我らの時代の平和」(peace for our time)は当時の流行語にもなった。なお、文中の「我が国で史上二度目にして」(for the second time in our history,)とは、初代ビーコンズフィールド伯ディズレイリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, 1804-81; 首相在任1868 & 1874-80)が1878年6月から7月にかけてドイツの首都で開催されたベルリン会議(英 Congress of Berlin; 独 Berliner Kongreß)で独墺仏伊露との間に平和を構築した史実に、今回のミュンヘン協定を準(なぞら)えたのである。ドイツとの戦争を回避できたように見えたチェンバレン(Neville Chamberlain, 1869-1940; 首相在任1937-40)だったが、それから一年も経たぬうち1939年9月3日(日)には自分の内閣で対独宣戦布告をせざるを得なくなり、1940年5月10日(金)には戦争遂行が思わしくないため議会の支持が得られず首相を辞任し、同年(1940年)11月9日(土)に失意のうちに病歿した。

1939年3月31日(金) イギリスのチェンバレン(Neville Chamberlain, 1869-1940; 首相在任1937-40; メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)首相が議会下院(Lower House of Parliament)=庶民院(House of Commons)で演説し、ポーランドに独立保障を既に与えたことを明かす。

1939年4月6日(木) イギリスのチェンバレン(Neville Chamberlain, 1869-1940; 首相在任1937-40; メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)首相が、ドイツによるポーランドへの軍事攻撃があった場合、英国は軍事援助するとポーランド側に正式に約束。僅か半年前に回避に成功した筈(はず)の対独戦争は、今や避けられないものとなる。

1939年5月 同盟国フランスからの要請で、第二次世界大戦(1939-45年)が勃発(ぼっぱつ)する寸前のところで、18歳から40歳までの男子に対し第一次世界大戦(1914-18年)以来の徴兵制(conscription)をイギリスが復活させる。

1939年8月25日(金) 第二次世界大戦(1939-45年)が勃発(ぼっぱつ)する寸前のところで、チェンバレン(Neville Chamberlain, 1869-1940; 首相在任1937-40)内閣の英国がポーランドとの間に相互援助条約を結ぶ。その条約がナチス・ドイツのヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945; 首相在任1933-45; 総統在任1934-45)を刺激しないよう内容は秘密にされた。

1939年9月1日(金) ナチス・ドイツの軍隊がポーランドを侵略。電撃戦(独 Blitzkrieg ブリッツクりーク: 「稲妻戦争」の意)の開始。

1939年9月3日(日) ドイツ軍が二日前の9月1日(金)にポーランドを侵略したことを受けて、英仏の両国が対独宣戦布告。英国政府は日曜9:00に最後通牒(さいご つうちょう: ultimatum オルティメイタム)をドイツ側に手交(しゅこう)したが、ナチス・ドイツは回答せず、11:00に最後通牒の期限が切れ、17:00に宣戦を布告した。こうして第二次世界大戦(Second World War; World War II, 1939-45)が勃発(ぼっぱつ)。英国からの独立を果たしていたアイルランドは中立を宣言。最初の犠牲になったのは英国の客船アシーニア号(SS Athenia)で、英独間で戦闘状態が開始された2時間40分後の19:40に北アイルランド沖で独潜水艦 U-30ウー・ドゥらイシッヒ)による戦時国際法違反(戦争犯罪)の魚雷攻撃を受け、航行不能となって公海上に浮いていたが、日付を跨(また)いで約14時間後に沈没した。981名の乗客は偶然周囲を通りかかった英米ノルウェー・スウェーデンの船に救助されたが、乗客・乗員併せて128人が命を落とした。一方、ナチス・ドイツは瞬(またた)く間にポーランドの西半分を占領。

1939年9月17日(日) 前日(1939年9月16日(土))に日本との間のノモンハン事件を解決したソ連がポーランドの東半分とバルト三国へ侵攻し、瞬(またた)く間(ま)に占領。ナチス・ドイツと密約で結託した結果ながら、ドイツと同じことをしたソ連に英仏は宣戦布告せず。

1939年9月28日(木) 独ソ友好条約で東欧に於ける独ソ間の国境を取り決め。

1940年1月8日(月) 海外(特に英領や英自治領)からの輸入品に頼るイギリスで食糧品配給制度(food rationing)が開始される。そして戦後の1954年7月4日(日)まで延々と十四年半も続く。

1940年4月 七ヶ月前の1939年9月に勃発した第二次世界大戦(Second World War; World War II, 1939-45)の西部戦線で初めて本格的な戦闘開始。これまでは動きが乏しかったため、「まやかし戦争」(英 Phoney War フォウニィウォー)や「座り戦争」(独 Sitzkrieg ジッツクりーク; ナチス独お得意の「電撃戦」(Blitzkrieg ブリッツクりーク)の捩(もじ)り=パロディー)や「おかしな戦争」(仏 Drôle de guerre ドゥほール・ドゥゲーふ)などと各国のマスコミに揶揄(やゆ)されていた。

1940年4月9日(火) ドイツ軍が北欧のノルウェーへの侵攻を開始。半年前の1939年9月に英仏と独の間の戦争(第二次世界大戦)が勃発した際、ノルウェー王国は中立を宣言していたが、実はイギリスもノルウェーを侵略して対独攻撃の基地にしようと作戦計画(R4計画)を発動しており、ドイツ軍がそれを阻止するため、そしてスウェーデン産鉄鉱石のドイツへの輸送路を確保するために先に動いて短期間のうちに首都オスロをはじめとする複数の都市を占領することになる。ノルウェー軍も英軍の支援を受けて抗戦を試みるも、同年(1940)6月に完全にドイツ支配下に入り、五年後の1945年4月まで解放されることはなかった。1945年7月6日()にノルウェー王国は国連へ参加する条件として対日参戦することになる。

1940年5月10日(金) 戦争による国難のため、チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)による挙国一致(大連立)内閣が組閣。なお、スペイン継承戦争(西 Guerra de Sucesión Española; 英 War of the Spanish Succession, 1701-14)で軍才を発揮して公爵(Duke)にまで上り詰めた初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 1650-1722)は、ウィンストン・チャーチルの先祖に当たる。また、故ダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)こと、旧姓スペンサー伯爵令嬢(Lady Diana Spencer, 1961-97)も初代マールバラ公爵の子孫に当たる。

1940年5月26日(日)~6月4日(火) 「発電機作戦(Operation Dynamo)」という秘匿名(ひとくめい: code name)で名づけられた作戦で、敗走中の英海外派遣軍(BEF: British Expeditionary Force)とフランス軍の多くが、フランス北部のダンケルク(仏 Dunkerque; 英 Dunkirk)市の砂浜から撤退・敗走。この九日間に860隻の船舶(様々な貨物船、漁船、遊覧船、王立救命艇協会の救命艇などの民間船)が急遽手配され、331,226名の将兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を載せてドイツ空軍(独 Luftwaffe フトヴァッフェ)の空爆の中で決死の救出を断行。救出に参加した船舶は「ダンケルクの小さな船たち (little ships of Dunkirk)」と呼ばれ、救出劇そのものは「ダンケルクの精神(Dunkirk spirit)」と名づけられ語り草となり、国民が団結して逆境を克服しなければならない際に用いられた。

1940年6月10日(月) フランスの敗色が濃厚になる中、独裁者ムッソリーニ(Benito Mussolini, 1883-1945; 首相在任1922-43; 首席宰相在任1925-43; フォルリンポーポリ師範学校卒の元教員)率いるイタリアがちゃっかりと英仏に対して宣戦布告。

1940年6月13日(木) 上記のダンケルクの敗走から九日後のこの日、フランスの首都パリ市がナチス・ドイツの猛攻の前に無防備都市(open city)を宣言。

1940年6月14日(金) ドイツ軍が整然と凱旋門(がいせん もん: Arc de Triomphe アふクドゥトゥひオンフ; 英直訳 Arch of Triumph)を潜(くぐ)ってパリ市内へ入城。

1940年6月21日(金) 首都パリが陥落してから七日後のこの日、フランス政府(仏 le Gouvernement français)がナチス・ドイツ(独 NS-Deutschland; Nazideutschland; 仏 l’État allemand nazi; 英 Nazi Germany)に講和を申し込む。

1940年6月22日(土) 前日にフランス政府が申し込んだ講和(フランスが降伏して戦線離脱)をナチス・ドイツが受諾。フランスは敗戦国となり、イギリスは一国でドイツと戦うことになる。

当時の映像(無音)

French surrender

https://www.youtube.com/watch?v=ADUcjRc5p3k

https://www.youtube.com/watch?v=txlve5Ws07E

1940年7月10日(水)~10月31日(木) 三ヶ月と三週間に及ぶブリテン島の戦い(Battle of Britain)。ナチス・ドイツはフランス降伏後の次の標的として、イギリス侵略への前哨戦として空軍対決を挑(いど)むも、目的を達成できず。但し、同年(1940年)11月1日(金)以降もドイツ空軍(Luftwaffe フトヴァッフェ)による攻撃は続く。

1940年10月13日(日) 満14歳のウェールズ女大公エリザベス皇太女(Princess Elizabeth, or Elizabeth, Princess of Wales, b.1926)=後の女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が、4つ下の妹マーガレット王女(Princess Margaret, 1930-2002)=後のスノウドン伯爵夫人マーガレット(Princess Margaret, Countess of Snowdon, 1930-2002)と共に疎開中の子供たちに向けて「子供たちの時間」(“Children’s Hour”)としてラジオで話しかける。これこそが英女王の声をイギリス庶民が初めて聴いた歴史的瞬間である。

当時の放送

Children’s Hour Broadcast

https://www.youtube.com/watch?v=VJI9LPFQth4 (ラジオ音声のみながら全文)

https://www.youtube.com/watch?v=txlve5Ws07E (動画付)

1940年11月9日(土) 僅(わず)か二年強前にヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945; 首相在任1933-45; 総統在任1934-45)との間に平和協定を結んで国民から熱狂的に歓迎されたチェンバレン(Neville Chamberlain, 1869-1940; 首相在任1937-40; メイソン・コレッヂ=現在のバーミンガム大学卒)元首相が、連日連夜ドイツ軍の爆弾が空から降ってくる中で国民から忘れられ、失意の中で病歿。満71歳だった。

1940年11月14日(木) 夕刻のドイツ空軍(Luftwaffe フトヴァッフェ)によるコヴェントリー市徹底空爆で市は崩壊。800人超が死亡。ナチス・ドイツの空軍大臣ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring, 1893-1946)は、„Koventrieren ausradieren!“ (コヴェントりーれン・アウスらディーれン: 英訳 ‘People of Coventry eradicated!’; 和訳 「コヴェントリー人、根こそぎ!」)と洒落(シャレ)のめして戦果を誇示。

1941年 徴兵制(Conscription)が改定され、イギリスは20歳から30歳までの独身女性をも徴募した。そのためイギリスは第二次大戦で女性を徴兵した唯一の国となっている。また、翌年(1942年)には19歳の独身女性も徴募された。

(外部サイト)英国政府の国民資料館

http://www.nationalarchives.gov.uk/education/homefront/women/armed/Default.htm

1941年1月25日(土) イギリスが香港(Hongkong or Hong Kong)進駐百周年を祝う。ところがその僅(わず)か十一ヶ月後の同年(1941年)12月25日(木・祝)には日本軍が占領統治を開始し、1945年9月16日(日)まで続くことになる。

1941年3月 第二次世界大戦(1939-45年)勃発から18ヶ月後にして、まだ中立国だったアメリカの議会で武器貸与法(Lend-Lease Acts)が可決されたことを受けて、戦費調達に困っていたイギリス政府はアメリカ政府から膨大な借金をすることに成功。戦後間もない1946年7月15日(月)の英米ローン合意(Anglo-American Loan Agreement)と併せて膨大な額になり、その期日は六十年後の年末である2006年12月31日(日)に設定されるが、期日が迫る中、英国政府は遂(つい)に2006年銀行最終営業日である2006年12月29日(金)、アメリカ政府に対して約束通り最後の返済を終えることになる。因(ちな)みに馬渕睦夫(まぶち むつお, b.1946; 京都大学中退、英ケイムブリヂ大学卒、学寮名不詳)元日本国特命全権大使キューバ国駐箚(ちゅうさつ)・元駐ウクライナ兼モルドヴァ日本国大使・元防衛大学校教授・吉備国際大学客員教授著 『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』(ワック Wac Bunko, 2014年)によると、日本が日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)で借金した戦費は八十年余りの期間、イギリスのユダヤ系財閥に分割返済され、完了したのは昭和61年=1986年とのこと。

1941年5月 前年(1940年)10月31日(木)でブリテン島の戦い(Battle of Britain)が一応終了したと考えられる中、ドイツ空軍(Luftwaffe フトヴァッフェ)の英本土への攻撃は続いていたが、英国空軍(RAF: Royal Air Force)が最終的にドイツの進撃を粘り強く食い止める。

1941年6月22日(日) イギリス侵略を諦(あきら)めたナチス・ドイツは、ソ連(露 Сове́тский Сою́з = Sovetsky Soyuz; 独 Sowjetunion; 英 Soviet Union)と結んでいた秘密協定を一方的に破棄し、「バルバロッサ作戦」(独 Unternehmen Barbarossa; 英 Operation Barbarossa: 「赤髭作戦」の意)と称し、ソ連占領地域へ進撃を開始。イギリスとしては奇妙なことにソ連という、それまであり得なかった味方ができる。

1941年8月9日(土) 英国の戦争指導者チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)内閣総理大臣が、英海軍(Royal Navy)の最新鋭戦艦ウェールズ大公(HMS Prince of Wales)に乗船し、カナダ領ニューファウンドランドに到着。二日前の8月7日(木)に到着していたロウザヴェルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945; 大統領在任1933-45; ハーヴァード大学卒; コロンビア大学法科大学院修了)米大統領と顔を合わせる。

1941年8月10日(日)~12日(火) 英国の戦争指導者チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)内閣総理大臣と、ロウザヴェルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945; 大統領在任1933-45; ハーヴァード大学卒; コロンビア大学法科大学院修了)米大統領が米海軍(US Navy)の重巡洋艦オーガスタ(USS Augusta)の艦上で三日連続会見をし、大西洋憲章(Atlantic Charter)に調印。戦後の国際連合(UN: United Nations)の土台を築く。なお、チャーチルが乗ってきた最新鋭戦艦ウェールズ大公(HMS Prince of Wales)は、僅(わず)か四ヶ月後の同年12月10日(水)に大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)機動部隊の航空兵力によって撃沈されてしまうことになる。

1941年12月5日(金) ナチス・ドイツと同盟したフィンランドとルーマニアに対しイギリスが宣戦布告。しかしながら、フィンランドについてはソ連軍の侵攻を受けて苦肉の策として敵の敵であるナチスと組んでいることをイギリス側も承知してるため実際の攻撃は手控える。半年前の同年(1941年)6月にソ連という従来あり得なかった同盟国を得たイギリスが、ソ連への友好的態度を示したまで。

1941年12月8日(月)未明の2:15=英領極東部の現地時間では3:15=グリニッヂ標準時(GMT: Greenwich Mean Time)では12月7日(日) 17:15 大日本帝國陸軍(IJA: Imperial Japanese Army; 当時の日本軍自身の英文表記では Imperial Nipponese Army イムピーりオゥニッポニーザーミィ)が英領馬來(現在のマレーシア本土のマレー半島)に侵攻。大日本帝國が米英に宣戦布告。日本軍は英領馬來(現在のマレーシア本土のマレー半島)攻略のため、国際法に違反して中立国だった泰國(タイ王国)領内にも一旦侵入し、タイ軍と三日間だけの戦火を交える。タイ側は183人が死亡、日本側は141人が死亡。英領マレーにも雪崩(なだれ)込む。時差の関係で見過ごされがちだが、英領への侵攻は真珠湾奇襲攻撃より一時間以上早く(資料によっては二時間も早く)実行されたのだった。英米日等の管理下にあった上海共同租界(Shanghai International Settlement)を日本が軍事占領し、米英国籍の敵性外国人を抑留。上海の日本海軍は投降命令に従わなかった英国海軍(Royal Navy)の河川砲艦(river gunboat)ペトレル號(HMS Peterel)を撃沈。米国海軍(US Navy)の河川砲艦ウェイク號(USS Wake; 当時の日本の表記で「ウェーキ號」)は戦わずに日本軍に投降。日本軍は遠く英領シンガポール、それに米領フィリピンのダヴァオ港、ウェイク島(日本の表記で「ウェーキ島」)、グァム島の米海軍基地を空襲。マレー半島の日本軍は銀輪部隊と名付けた自転車を使った兵力が驚異的な速度で南下を開始。皮肉なことに英殖民地当局が戦前に敷設(ふせつ)していた良質な舗装道路が日本軍の進撃を助けてしまう。僅(わず)か二ヶ月と一週間後の1942年2月15日(日)には英帝国東亞の牙城で「極東のジブラルタル」とも称された英領シンガポールが日本軍の軍門に下ることになる。

1941年同月同日(月)未明の3:19=米領ハワイの現地時間では12月7日(日)朝の8:19=グリニッヂ標準時(GMT: Greenwich Mean Time)では12月7日(日) 18:19 大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)機動部隊が米領ハワイ(現在の米ハワイ州)ホノルル郊外の眞珠灣(しんじゅわん: Pearl Harbor)を奇襲攻撃(preemptive strike)。日本軍の航空機と潜航艇による攻撃で米軍人に死者2,345人に米民間人に死者68人を出す。米民間人の犠牲者は米軍の誤射によるものだったが、結果として民間人にも死者を出すことは日本軍の計画には入っていなかった。戦術(tactics)としては、日露戦争開戦時の旅順口攻撃(1904年2月8日(月)夜)と同様に、1807年9 月2日(水)~5日(土)の英国海軍(Royal Navy)によるコペンハーゲン市街艦砲射撃(Second Battle of Copenhagen)の真似であり、尚且(なおか)つ1940年11月11日(月)~12日(火)の同海軍による対イタリア海軍のターラントォ軍港空襲 (Battle of Taranto)をも模倣したものだった。米側は十九世紀中盤の米墨戦争(Mexican-American War, 1846-48)で叫ばれた「アラモ砦を忘れるな!」(Remember Alamo!)や十九世紀末の米西戦争(Spanish-American War, 1898)で叫ばれた「メイン号を忘れるな!」(Remember the Maine!)の捩(もじ)りで、「真珠湾を忘れるな!」(Remember Pearl Harbor!)の標語(slogan)で戦意高揚に成功。なお、毎年12月8日はカトリック教会で聖母の無原罪の御宿り(Immaculate Conception of the Virgin Mary)の日となっていて、後の終戦の日となる8月15日が聖母被昇天(Assumption (of the body and soul of the Virgin Mary into heaven))の日及びザビエルの日本上陸(Francisco Xavier’s landing in Japan)の日であることと並んでカトリックとの強い因縁を感じさせる。

1941年同月同日(月)(日本時間の12月9日(火)) 前日(1941年12月7日(日))の大日本帝國海軍による真珠湾の米海軍基地への奇襲攻撃を受け、米国議会が対日宣戦布告(declaration of war on Japan)を決議。それまで中立を宣言していたアメリカ合衆国(USA: United States of America)が、遂(つい)にイギリスの側で第二次世界大戦に参戦することになる。共和党(Republican Party; 俗称 GPO = Grand Old Party)所属でモンタナ州選出の女性議員ジャネット・ランキン(Jeannette Rankin, 1880-1973)女史がたった一人で宣戦布告法案に反対票を投じる。その直後ランキン女史はマスコミや怒り狂った群衆から逃れるために議会内の電話ボックスに避難し、警察に保護される。ランキン議員は二十四年半余り前の1917年4月6日(金)にも他の49人と共に対独宣戦布告法案に反対票を投じていた。とにかくこの宣戦布告がイギリスのチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)首相を大喜びさせる。

1941年12月10日(水) マレー沖海戦。大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)機動部隊(陸上攻撃機部隊)が84機の航空兵力を投入し、開戦三日目にして英海軍(Royal Navy)の1916年就役の旧型艦ながら高速で大口径の38.1センチ砲6門を搭載する巡洋戦艦(battlecruiser)レパルス(HMS Repulse)と、同年(1941年)1月に竣工したばかりの35.6センチ砲10門を搭載する新鋭戦艦(the latest battleship)ウェールズ大公(HMS Prince of Wales)を英領マレー半島東海岸クアンタン(Kuantan; 關丹)沖で撃沈。両艦あわせて840名の英軍将兵が艦と運命をともにする。英首脳部に衝撃が走る。対する日本側の損害は軽微で、3機撃墜、21名戦死。航空機の群れが魚雷や爆弾を投下しただけで巨大な戦艦が沈むことを実証したこの戦果は、世界の戦史(history of war)を塗り替えるような大事件だったが、当の日本軍はこの成功体験から何も学ばなかった。このマレー沖海戦の後、米英の戦艦は対空火器を強化し、機動部隊を航空機の攻撃から守ることに絶大な威力を発揮したため、日本軍の航空機が航行中の戦艦を撃沈できたのは、これが最初で最後の機会となる。この歴史的事件から最も多くを学んだのが米海軍(US Navy)であり、1944年10月24日(火)に航空機を徹底的に活用して日本海軍の誇る不沈戦艦「武藏(むさし)」をフィリピンのレイテ湾の海戦(Battle of Leyte Gulf)で、1945年4月7日(土)には同型艦「大和(やまと)」を鹿兒島縣(鹿児島県)沖で撃沈することに成功する。

(外部サイト)大本營海軍部發表

https://www.youtube.com/watch?v=vVDvVCeCO1s

(参考)高橋掬太郎作詞「英國東洋艦隊潰滅」對譯

https://sites.google.com/site/xapaga/home/horobitari

(外部サイト)もう一つの開戦 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog270.html

(外部サイト)

武田邦彦 音声:最期の一撃 第六話 大英帝国海軍旗艦プリンス・オブ・ウェールズ撃沈

https://www.youtube.com/watch?v=KVmCaDPCHCE

1941年12月11日(木) ナチス・ドイツとイタリアが日本に同調して対米宣戦布告(英国とは既に交戦中)。

1941年12月25日(木・祝) 日本軍によって英領香港が占領統治され、1945年9月16日(日)まで続くことになる。英首脳部に衝撃が走る。チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)首相曰く、「人生最悪のクリスマス」。皮肉なことにその僅(わず)か十一ヶ月前の同年(1941年)1月25日(土)にイギリスが香港(Hongkong or Hong Kong)進駐百周年を祝ったばかりだった。

(参考リンク)

戰時日本の國策映畫 『帝國海軍勝利の記錄』の中の「支那方面 香港攻略」10:28-14:24

https://www.youtube.com/watch?v=nabPH5DJlo0

1942年(昭和17年)1月8日(木) 十八日前の1941年12月21日(日)に日本と同盟条約を結んだ泰國(タイ王国)の首都バンコク(Bangkok, Thailand)を英軍が空爆。

1942年1月25日(日) 十七日前の同年(1942年)1月8日(木)に英軍の空爆を受けた泰國=タイ王国(Kingdom of Thailand)のピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram, 1897-1964; 首相在任1938-44 & 1948-1957)陸軍元帥(げんすい)・首相は、第二次世界大戦でのそれまでの中立政策を翻(ひるがえ)し、英米に対し宣戦布告。タイは日独伊と運命を共にする枢軸国と成る。しかしながら、三年半後の日本敗戦時にタイ王国新政府(ピブーンソン元首相は一時的に失脚)が日本國「タイ」國間同盟條約(通称 日泰攻守同盟條約; 通称英訳 Japan-Thailand Offence and Defence Alliance Pact)は「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた条約である」として、その違法性を連合国に訴える。その主張が連合国に認められ、タイ王国は連合国による「勝者の裁き」を免(のが)れることになる。

1942年2月15日(日) イギリス帝国の東南アジア方面軍のパーシヴァル(Arthur Percival, 1887-1966; 私立ラグビー校出)中将がシンガポールで日本軍の山下奉文(やました ともゆき; 有職読みで「やました ほうぶん」, 1885-1946; 陸軍士官學校卒)に無条件降伏。シンガポールは日本軍によって占領統治され、昭南特別市(せうなん とくべつ し; Syonan Tokubetu-si)と改称される。イギリス帝国東亜の牙城が瓦解。英首脳部に衝撃が走る。チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)首相曰く、「英国史上最大の惨事」。ここで捕虜となったイギリス帝国軍将兵約85,000名の内、日本主導の印度國民軍 (INA: Indian National Army)に加わった印度人将兵約22,000名を除く、白人将兵とイギリスに最後まで忠誠を誓った印度人将兵の合計約63,000人には終戦まで日本軍の残虐行為という過酷な運命が待ち受けた。

(参考動画リンク)

戰時下日本の國策映畫 『マレー戰記 進擊の記錄』

https://www.youtube.com/watch?v=EkkpA3EENuc

オーストラリア制作、シンガポールの陥落

https://www.youtube.com/watch?v=Dm6zNg0zY7I

1942年5月31日(日) この日までに日本軍は英領ビルマのほぼ全域を占領。

1942年10月23日(金)~11月4日(水) 北アフリカのエルアラメイン(El Alamein; Al ’Alameen; العلمين‎‎)の戦いで、英陸軍がドイツ陸軍に対して決定的な勝利を収(おさ)め、戦局が英国に有利になる。この勝利を受けて、チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)首相が「さてこれで終わりではない。終わりの始まりですらない。しかしおそらくは始まりの終わりだ。(Now this is not the end; it is not even the beginning of the end. But it is, perhaps, the end of the beginning.)」という談話を発表。

1942年11月 経済学者でオクスフオッド大学ユーネヴアセティ学寮長(Master of University College, Oxford)のベヴァリッジ(Sir William Beveridge, 1879-1963; オクスフオッド大学ベァリオル学寮卒)が、『社会保険と関連サービス』(Social Insurance and Allied Services)、通称『ベヴァリッジ報告書』(Beveridge Report)を発表。この中で英国社会の問題は、貧困(ひんこん: want)、疾病(しっぺい: disease)、無知(むち: ignorance)、汚辱(おじょく: squalor)、怠惰(たいだ: idleness)と定義し、それらを来(きた)るべき「戦後再建に立ち塞(ふさ)がる五体の巨人族(the five giants on the road to reconstruction)」、「五つの巨悪(five Giant Evils)」と形容する。これらを克服するには、社会保障(social security)、国民皆保険の医療保健(National Health Service)、教育制度(educational system)、住宅整備(housing developments)、雇用創出(job creation)が必要であるとする。

1943年8月19日(木) カナダ東部のケベック・シティー(Quebec City, Canada)で開かれたケベック会談(Quebec Conference, 1943)に於いて、「チューブ・アロイズに関する合衆国と連合王国の政府間の協力に関する合意条項」(Articles of Agreement governing collaboration between the authorities of the U.S.A. and U.K. in the matter of Tube Alloys)、通称「ケベック協定」(Quebec Agreement)が英国の戦争指導者チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)内閣総理大臣と、ロウザヴェルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945; 大統領在任1933-45; ハーヴァード大学卒; コロンビア大学法科大学院修了)米大統領により調印される。合意内容は、「 一、我々はこの兵器をお互いに対して決して使用しない。[改行] 二、我々はこの兵器を、第三の勢力に対して、お互いの同意なく使用しない。[改行] 三、我々はチューブ・アロイズに関する情報を第三者に対して、お互いの同意なく公表することはない。」(First, that we will never use this agency against each other. [New paragraph] Secondly, that we will not use it against third parties without each other’s consent. [New paragraph] Thirdly, that we will not either of us communicate any information about Tube Alloys to third parties except by mutual consent.)。「チューブ・アロイズ」(Tube Alloys)とは、イギリスの核兵器開発計画の秘匿名(code name)である。このケベック協定に基づいてイギリスはアメリカの核開発に全面協力し、その見返りとして米大統領へ提出されるアメリカの核兵器開発の進捗報告の共有を受けるようになる。イギリスとカナダの核開発研究は米国のマンハッタン計画に合流する。

1944年 戦時下の挙国一致内閣(national government)だったチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)内閣の下(もと)で1944年教育法(Education Act 1944)、通称バトラー法(Butler Act)が勅裁・施行される。この法律のお蔭で5歳から15歳まで(後に16歳まで)をカバーする初等教育と中等教育の全体が初めて義務化される。日本の公立中学・高校に相当する国立中等学校(state secondary schools)と、一部の富裕層(上流階級及び上層中産階級)のための私学(independent schools)とが共存したが、国立学校では三分割制度(Tripartite System トゥらイパータイト・スィステム)の下(もと)で11歳児は十一プラス試験(the Eleven Plus examinations or the eleven-plus exams)の受験が義務づけられた。その試験結果に基(もと)づき、11歳児は3種類の国立学校に振り分けられた。

1944年6月6日(火) Dの日の上陸(the D-Day landing)=日本では「ノルマンディー上陸作戦」。米英加豪NZと自由フランス亡命政府軍から成る連合軍がナチス・ドイツ占領下のフランス北部のノルマンディー(仏 Normandie; 英 Normandy)海岸に上陸。フランス北部を制圧し、パリ解放へ向けて進撃。

1944年8月25日(金) パリ解放。ノルマンディー上陸作戦から十一週間と三日後にして、フランス共和国首都パリ(Paris)が自由フランス軍と米軍の手でナチス・ドイツから解放される。

1945年3月22日(木) 二百八十五年前の1660年に創立された自然知識向上のためのロンドン王立協会の会長と委員会と研究員たち(The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)、通称 王立協会(Royal Society)が、初めて女性会員の入会を許可

1945年4月12日(木) 英国の戦争指導者チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)の盟友だったアメリカの戦争指導者ロウザヴェルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945; 大統領在任1933-45; ハーヴァード大学卒; コロンビア大学法科大学院修了)が大統領在任中に病死。合衆国憲法の規定に基づき、副大統領のトゥルーマン(Harry S. Truman, 1884-1972; 大統領在任1945-53)が大統領に就任。

1945年4月30日(月) ヒトラー自決。ドイツの首都ベルリンがソ連軍の猛攻を受けて陥落。ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945; 首相在任1933-45; 総統在任1934-45)総統は、前日に結婚したばかりの新妻エーファ(エーヴァ)・ブラウン(Eva Braun, 1912-45)とともにシアン化物(cyanide)と拳銃の併用によって自殺。ヒトラーの部下たちが両人の遺体にガソリンをかけて焼却したとされるが、実はナチス・ドイツ支配下の北欧ノルウェーへ潜水艦(独 U-Boot; 英 German U-Boat)で一旦逃亡し、その後は親ナチの傾向が強い南米の中立国アルゼンチンへ極秘裡に亡命したとする噂が絶えない。ヒトラー亡き後(或いは逃亡後)のナチス・ドイツ首脳部はデンマーク国境近くのフレンスブルク(Flensburg)市に移転。同盟国日本からドイツに派遣されていた邦人外交官(日本大使館員)や軍人(駐在武官)や民間人(在外勤務や留学生)は「ソ連軍に捕まるぐらいなら米軍に捕まった方が数倍ましだろう」という情勢判断から、米軍が侵攻中のドイツ南部へ既に疎開済。日本の朝日新聞は「ヒ總統薨去(こうきょ)」と報じる。ナチス・ドイツはその一週間後の同年(1945年)5月7日(月)に連合軍に無条件降伏することになる。

1945年5月4日(金) 米軍による沖縄攻略を助太刀(すけだち)すべく英国海軍(Royal Navy)の4隻の空母(four aircraft carriers)と4隻の巡洋艦(four cruisers)と10隻の駆逐艦(ten destroyers)に守られた英海軍艦国王ジョージ五世(HMS King George V)が、琉球諸島に在(あ)った日本の航空基地へ45分間の艦砲射撃を敢行。

1945年5月7日(月) ナチス・ドイツがデンマーク国境近くのフレンスブルク(Flensburg)市に移転した臨時首都にて連合軍に無条件降伏。

1945年5月8日(火) ヨーロッパ戦勝記念日(VE Day: Victory in Europe Day)。前日(1945年5月7日(月))にナチス・ドイツの西部方面軍が降伏したことを受けて西部戦線で停戦成る。英国の一般人の感覚では既に戦勝気分。なお、ソ連にとっての「大祖国戦争勝利記念日」こと、対独戦勝記念日は、翌日の5月9日。

当時のロンドンの様子(背景音楽としてエルガーの「威風堂々」行進曲)

VE Day Buckingham Palace (1945)

https://www.youtube.com/watch?v=fwxL0pk2A6s

チャーチル首相の戦勝演説

Churchill’s VE Day speech

https://www.youtube.com/watch?v=efvwJjzqKUk (動画付短縮版)

https://www.youtube.com/watch?v=JNTWyqVCBZc (ラジオ音声のみながら全文)

国王ジョージ六世の戦勝演説

King George VI’s VE Day speech

https://www.youtube.com/watch?v=v4l3aaL8Je4 (動画付短縮版)

https://www.youtube.com/watch?v=WwWvoVvk7IU (ラジオ音声のみながら全文)

2020年、欧州戦勝75周年に際して祖父で当時の国王のジョージ六世の日記を朗読するウェールズ大公チャールズ皇太子

Prince Charles reads George VI’s VE Day diary

https://www.youtube.com/watch?v=ZlreZBnwESk

1945年6月8日(金) バンカ海峡(Bangka Strait: 現インドネシア共和国領海)北側出口で英国海軍(Royal Navy)の潜水艦トレンチャント(HMS Trenchant)が大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)の重巡洋艦足柄 (Ashigara)に魚雷を撃ち込んで撃沈させる。なお、足柄は八年前の1937年5月20日(木)にイングランド南海岸スピットヘッド(Spithead)沖で挙行された英国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)戴冠記念観艦式(Coronation Naval Review for George VI)に特別招待されていた。

1945年7月1日(日) 英国の戦争指導者チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)内閣総理大臣は、英政府内で検討を重ねた結果、「チューブ・アロイズの作戦的使用」(Operational Use of Tube Alloys)という文書に署名。「チューブ・アロイズ」(Tube Alloys)とは、イギリスの核兵器開発計画の秘匿名(code name)である。翌日(1945年7月2日(月))付で英首相官邸はこの最終判断を公式覚書とする。

1945年7月5日(木) ナチス・ドイツを倒してからまだ二ヶ月も経ていないこの日、総選挙(general election)が実施されるが、海外に派兵されている有権者の票を回収し集計するのに三週間の時間を要した。

1945年7月中旬 米海軍(US Navy)による攻撃を助太刀(すけだち)すべく英国海軍(Royal Navy)の英海軍艦国王ジョージ五世(HMS King George V)が、茨城縣日立市へ14インチ砲(14-inch guns)から267発の砲弾を発射し、艦砲射撃を敢行。

1945年7月24日(火) 敗戦国ドイツの首都近郊で開かれていた欧州戦勝国のポツダム会談(Potsdam Conference)の席で、英国の戦争指導者チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)内閣総理大臣が、トゥルーマン(Harry S. Truman, 1884-72; 大統領在任1945-53; ミズーリ大学カンザス市法科学院中退)米大統領に「日本に対して警告なしで原子爆弾を使用すべきだ」と迫る。

1945年7月25日(水) トゥルーマン(Harry S. Truman, 1884-72; 大統領在任1945-53; ミズーリ大学カンザス市法科学院中退)米大統領が日本への原爆投下指令を承認し、自軍に投下命令を出す。

1945年7月26日(木) 三週間前の7月5日(木)に実施された総選挙の結果が発表される。国難を救った英雄チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)率いる保守党(Conservative Party)がまさかの敗北を喫し、アトリー、後の初代アトリー伯爵(Clement Attlee, 1st Earl Attlee; 首相在任1945-51; オクスフオッド大学ユーネヴアセティ学寮卒)による労働党(Labour Party)内閣が組閣(1951年10月26日(金)まで)。英国は福祉国家(welfare state)へと大きく舵を切り、1945-51年に石炭、電力、ガス、鉄鋼、鉄道、運輸の基幹産業を次々と国有化。英国民にとってチャーチルは戦争指導者であり、戦後再建の指導者ではないとされ、まだ日本の降伏が成立していないうちから早々とチャーチルに見切りをつけてしまったのである。

1945年7月29日(日)夜と30日(月)夜 米海軍(US Navy)による攻撃を助太刀(すけだち)すべく英国海軍(Royal Navy)の英海軍艦国王ジョージ五世(HMS King George V)が、靜岡縣濱松市(静岡県浜松市)へ14インチ砲(14-inch guns)から砲弾を発射し、夜間艦砲射撃を敢行。

1945年8月15日(水) 大日本帝國の降伏(ポツダム宣言受諾)により第二次世界大戦が終結。これ以後毎年8月15日はイギリスにとって対日戦勝記念日(VJ Day: Victory over Japan Day)となり、英国政府主催の式典が毎年挙行される。なお、米ソにとっての対日戦勝記念日は、東京湾上の米戦艦ミズーリ(USS Missouri)での調印式があった9月2日(日)。英国は戦勝国ながら食糧配給制度(food rationing)で国民のひもじい生活が戦後も1954年7月4日(日)まで続き、徴兵制(conscription)が男子にのみ戦後も1960年12月31日(土)まで続く。1815年のナポレオン戦争での勝利の時と同様に、イギリスは辛くも戦勝国にはなったが、過剰な戦費調達に疲弊(ひへい)し、政府債務が対GDP比で約230%に達した。同様に敗戦国の日本も政府債務が対GDP比で約230%に達した。戦歿者数はイギリス軍人27万1千(0.271 million)人+イギリス民間人6万1千(0.061 million)人=33万2千(0.332 million)人に対して、日本軍人230万(2.3 million)人+日本民間人80万(0.8 million)人=310万(3.1 million)人。(世界実情データ図録 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5227.html を参照)

1945年9月2日(日) 東京湾に現れた米海軍艦ミズーリ(USS Missouri)甲板上で日本側代表団が連合国に対する降伏文書に署名・調印。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)元帥(げんすい)が用意してきたスピーチの中で、「一つのより良い世界が過去の血と殺戮から姿を現すのです。信仰と理解の上に築かれた一つの世界で、人間の尊厳と人間の最も大切にしている望み、つまり自由と寛容と正義の達成に捧げられる一つの世界です。」(a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past — a world founded upon faith and understanding — a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish — for freedom, tolerance and justice.)と述べる。マッカーサー元帥の後ろには、1942年2月15日(日)のシンガポール防衛戦での英軍無条件降伏以来、日本の捕虜になっていた英国陸軍(British Army)のパーシヴァル(Arthur Percival, 1887-1966; 私立ラグビー校の出)中将と、1942年5月6日(水)のフィリピン防衛戦での米軍無条件降伏以来、マッカーサーの身代わりとなって日本の捕虜になっていたウェインライト(Jonathan M. Wainwright, 1883-1953)中将が立って見守る。ここに米軍による占領統治が正式に始まる。英海軍艦国王ジョージ五世(HMS King George V)なども米戦艦ミズーリに随行する。二年後の1947年11月20日(木)に英国王室(the British Royal Family)のエリザベス王女(Princess Elizabeth, b.1926)=後の英女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)の夫=後の王婿(お うせい: Prince Consort)に成るフィリップ殿下(Prince Philip, 1921-2021)=後のエディンバラ公(Duke of Edinburgh)も、英国海軍(Royal Navy)の職業軍人として同式典を米戦艦附近に停泊中の英海軍艦ウェルプ(HMS Whelp: 「仔狼」の意)から見守る( https://www.forces.net/news/vj-day-prince-philip-recalls-watching-japans-1945-surrenderこれにて天皇を名目上の中心・頂点とする大日本帝國が崩壊。(ダワー(John W. Dower, b.1938)マサチューセッツ工科大学名誉教授著、三浦陽一(みうら よういち, b.1955)中部大学教授他訳 『敗北を抱きしめて<上巻・下巻>』(岩波書店, 2001年)の原著 Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (New York City, NY: W.W. Norton & Co., 1999) に依拠した上で加筆)

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