08「イギリス文化論」(2021/10/26) イングランドの歴代支配者(古代から二十世紀中盤まで)

Historic rulers of England

イングランドの歴史上の支配者たち

(但し、1707年5月1日から1800年12月31日(水)はグレートブリテン王国の君主、1801年1月1日(木)以降は連合王国の君主を列挙)

西暦43年から450年ぐらいまで

Britannia, or Roman Britain

ローマ領ブリタンニア

ユリウス・カエサル(Julius Caesar, 100BC-44BC; 英式発音 ジューリアス・シーザー)が紀元前55年と翌54年にブリテン島侵攻を実施したが、平定するまでには至らず、西暦(紀元後)43年のクラウディウス (Claudius, AD10-54; 在位AD41-54; 英式発音 クローディアス)帝による併合によって初めてローマ帝国領となる。「ブリタンニア(Britannia); 英式発音 ブりニャ」という名にも拘(かか)わらず、実際にカバーしたのは今日(こんにち)のイングランドとウェールズのほぼ全域であり、今日のスコットランドを含まなかった。ローマ人はドーヴァー附近の白い断崖絶壁(the white cliffs of Dover)から、イングランドのことをアルビオン(Albion: 「白い国」の意)とも呼んだ。ラテン語話者のローマ兵と土着ケルト諸部族語話者(古代ブリトン人)とが混在して生活した。古代ローマ人は今日(こんにち)の大ロンドン市(Greater London)に取り囲まれたシティー特別区(City of London)にほぼ相当する殖民地都市ロンディニウム(Londinium)を築いた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Britain

ローマ支配下で起こったブーディカの乱

https://en.wikipedia.org/wiki/Boudica

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブーディカ

ローマ帝国支配下の紀元60年または61年、女王ブーディカ(Boudica, ? - AD60 or 61; 在位AD60/61前後)の叛乱が起こる。イングランド東部のイーストアングリア(East Anglia)地方ノーフォーク(Norfolk)州辺りに居住していたケルト系(Celtic)の古代ブリトン人(Britons)のイケニ族 (Iceni)という部族がいたが、そこはローマ帝国の直接の支配が及ばなかった。紀元43年にブリテン島に遠征・侵攻してきたロー マ軍と同盟関係を結ぶことでイケニ族は独立を維持していた。しかしイケニ族の王プラスータグス(Prasutagus, ? - c.AD60)が死去すると、イケニ族の領土や財産は有無を言わさずローマに没収された。ローマ帝国の法律では財産相続を男子のみに限り、女子には継承権 を持たせなかったため、寡婦(かふ)となったブーディカも遺された娘二人もイケニ族の土地や人民を継承する権利がないとされたのだった。イケニ族は重税を 課され、イケニ貴族たちは奴隷の身分にまで貶(おとし)められた。ローマの歴史家兼元老のタキトゥス(Tacitus, c.AD56-c.117)の記述によると、征服者となったローマ兵たちはブーディカを鞭打ち、娘二人を強姦したという。紀元60年または61年頃、ロー マ帝国領ブリタンニア総督スエトニウス(Gaius Suetonius Paulinus, c.11BC-c.AD69)が軍を率いて北ウェールズのモナ島(現在のアングルシー)の抵抗勢力を討ちに遠征していた間隙(かんげき)を衝()いて、 ブーディカ女王率いるイケニ族は近在のトリノヴァンテス族(Trinovantes)の協力を取り付けて武装蜂起した。叛乱軍はローマ殖民地カムロドゥヌ ム(現在のコルチェスター市)を破壊し、市制が敷かれて二十年しか経ていなかったロンディニウム市(現在の大ロンドン市シティー区)とローマ殖民地ウェルラミウム(現在のセント・オルバンズ市)を次々と破壊し、住民多数を殺害した。ローマの歴史家たちは叛乱軍の規模を兵力10万とも23万とも記述している が、対するローマ帝国軍は1万の兵力しか持たなかった。しかしワトリング街道の戦い(Battle of Watling Street)でローマ軍が最終的に勝利して叛乱は鎮圧された。ブーディカ女王は敵に捕まる前に服毒自殺したとする説や、叛乱途中で病死したとする説があるが、娘たち二人の消息は不明である。総督だったスエトニウスはローマ帝国第五代皇帝ネロ(Nero, AD37-68, 在位AD54-68)によって罷免(ひめん)された。なお、ブーディカの綴りには、現在定説とされる Boudica の他に Boudicca があり、過去にはボウディケア(Boadicea)またはボウディシア(綴りは同じBoadicea)と呼ばれたこともある。ブーディカの名がケルトの言語で「勝利」を意味することから、同じく「勝利」を意味するヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の治世に持て囃(はや)され、想像上の銅像が建てられ、これまた想像上の絵画が描かれた。日本で言えば、さながら日本武尊または倭建命(やまと たける の みこと; ヤマトタケルノミコト; Yamato Takeru, c.72-114)の想像画に近い。

五世紀中盤(西暦450年ぐらい)、年代記の記述によれば449年

The coming of the Anglo-Saxons

アングロ・サクソン人(古英語話者)の到来

https://www.royal.uk/english-monarchs-ad-400-1603

Angles

アングル人(狭い水辺の土地の人)

https://en.wikipedia.org/wiki/Angles

Saxons

サクソン人(ザクセン地方の人)

https://en.wikipedia.org/wiki/Saxons

Jutes

ジュート人(ユラン半島の人)

https://en.wikipedia.org/wiki/Jutes

上記3部族を総称して

Anglo-Saxons

アングロ・サクソン人

https://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Saxons

代表的文学作品として

Beowulf

『ベーオウルフ』

https://sites.google.com/site/xapaga/home/beowulf

500年ぐらいから800年ぐらいまで

Heptarchy

アングロ・サクソン七王国(古英語話者)時代

Kingdoms of Wessex, East Anglia, Mercia, Northumbria (divided by Bernicia and Deira), Kent, Sussex and Essex

ウェセックス王国(西サクソン人の王国)、イーストアングリア王国(東のアングル人の王国)、マーシア王国(アングル人の王国)、ノーサンブリア王国(ハンバー川の北に位置するアングル人の王国で、バーニシア小王国とデイラ小王国に二分)、ケント王国(ジュート人の王国)、サセックス王国(南のサクソン人の王国)、エセックス王国(東のサクソン人の王国)の7つ

https://en.wikipedia.org/wiki/Heptarchy

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Anglo-Saxon_Heptarchy.jpg

https://www.royal.uk/anglo-saxon-kings

チェルディッチから続くウェセックス王国の家系図

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_monarchs_of_Wessex#House_of_Wessex_family_tree

519年日付不明~534年日付不明

ウェセックス王国のチェルディッチ(Cerdic of Wessex, ??? - 534; 在位519-534)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Cerdic_of_Wessex

https://ja.wikipedia.org/wiki/チェルディッチ_(ウェセックス王)

ウェセックス(西サクソン人の国)王国の始祖とされるが何も資料が無い謎の国王。もし実在したとすれば、現在の英国王室の先祖とされる。

589年ぐらい日付不明~616年日付不明

ケント王国のエゼルベルト(Æthelberht, Æthelbert, Aethelberht, Aethelbert or Ethelbert of Kent, c.560–616; 在位589?-616)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelberht_of_Kent

六世紀末の西暦596年にローマ教皇グレオリウス一世(羅 Gregorius Magnus papa; 英 Pope Gregory I, c.540–604; 教皇在位590-604)の命によってブリテン島に派遣された修道士の聖アウグスティヌス(羅 Sanctus Augustinus Cantuariensis; 英 Saint Augustine of Canterbury, 5??-604?)が、翌年(597年)ケント王国(Kingdom of Kent: 現在のイングランド南東部のケント州)に到着。同国の国王エゼルベルトに布教の許可を求め、カンタベリー(Canterbury)に居住することと説教の自由を認められた。エゼルベルト王はフランク王国の国王カリベルト一世(Charibert I, c.517–567; 在位561–7)の娘ベルタ(Saint Bertha or Saint Aldeberge, c.565–601?)というキリスト教徒と結婚していたが、聖アウグスティヌスの到着後、王自身もすぐにキリスト教に入信した。聖アウグスティヌスは初代カンタベリー大教(Archbishop of Canterbury: 現在のカンタベリー大教)に任ぜられ、同年(597年)クリスマスまでに約1万人のイングランド人に洗礼を施した。これを以(もっ)てイングランドに於()けるキリスト教元年とされる。そしてケント王国の都だったカンタベリー(Canterbury, Kent, England)の地に聖アウグスティヌスが建設した修道院(St Augustine’s Abbey)に基づき後世に建設されたカンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral; 正式名称 Cathedral and Metropolitical Church of Christ at Canterbury)は、現在もイングランド教会(Church of England: 日本の世界史教科書では誤って「英国国教会」)の総本山のような存在である。

613年前後から973年前後まで

Division into kingdoms

複数のアングロ・サクソン王国(古英語話者)の群雄割拠時代

642年日付不明~670年2月15日

ノーサンブリア王国のオズウィ王(Ōswīg, Oswiu, Oswy or Oswig of Northumbria, c.612–670; 在位642-670)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Oswiu

https://en.wikipedia.org/wiki/Synod_of_Whitby

西隣のアイルランド島(Ireland)から伝わったケルト系キリスト教(Celtic Christianity)のケルト式典礼と、ローマ(現在のヴァティカン)の正統派とされたベネディクト会(羅 Ordō Sancti Benedicti; 英 Benedictine Order)則のローマ式典礼との対立を収拾すべく、664年にオズウィ王が自国内でウィットビー教会会議(Synod of Whitby)を召集した。この会議でローマ・カトリック(Roman Catholicism)が優位に立ったため、徐々にローマ・カトリックがイングランド各地に影響力を拡大していき、ケルト系キリスト教は非公認の地位に甘んじることになった。これによりケルト式典礼は廃され、ローマ式典礼が採用されるようなった。

716年日付不明~757年日付不明

マーシア王国のエゼルバルド王(Æthelbald, Ethelbald or Aethelbald of Mercia, 7??-757; 在位716-757)

https://en.wikipedia.org/wiki/Offa_of_Mercia

アングル人系の古英語話者。

757年日付不明~786年日付不明

ウェセックス王国のキュネウルフ王(Cynewulf of Wessex, 7??-786; 在位757-786)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Cynewulf_of_Wessex

サクソン人系の古英語話者。マーシア王国のエゼルバルド王(Æthelbald, or Ethelbald or Aethelbald of Mercia, 7??-757; 在位716-757)の支配下にあったが、757年に同王が暗殺されたのを機にウェセックス王国がマーシア王国から独立。779年の戦いでマーシア王国のオッファ王(Offa of Mercia, 7??-796; 在位757-796)に敗戦し、ロンドンやその西のバークシャーの領土を失う。

757年日付不明~796年7月29日

マーシア王国のオッファ王(Offa of Mercia, 7??-796; 在位757-796)

https://en.wikipedia.org/wiki/Offa_of_Mercia

https://www.royal.uk/offa-r-757-796

アングル人系の古英語話者。周囲の弱小国の王を従えたという意味で、英国王室公式ウェブサイト( https://www.royal.uk/ )は、そのウェブ百科事典にイングランド最古の王としてオッファ王を載せている。

786年日付不明~802年日付不明

ウェセックス王国のベオルトリッチ王(Beorhtric of Wessex, 7??-802; 在位786-802)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Beorhtric_of_Wessex

サクソン人系の古英語話者。この時期ウェセックス王国の大部分はマーシア王国のオッファ王(Offa of Mercia, 7??-796; 在位757-796)の支配下に入る。

802年日付不明~839年日付不明

ウェセックス王国のエグバート王(Egbert of Wessex, 769 or 771 - 839; 在位802-839)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Egbert_of_Wessex

https://www.royal.uk/egbert-king-wessex-r-802-839

サクソン人系の古英語話者。829年に隣接するマーシア(Mercia)王国の軍勢を倒し、北部のノーサンブリア(Northumbria)の王がエグバートに臣下の誓いを立てた。このことでイングランドは一時的に統一された。したがってエグバートを統一イングランド初代国王と見ることができる。出典は九世紀後半に古英語(OE: Old English)で書かれた『アングロ・サクソン年代記』(Anglo-Saxon Chronicle)。現在の英王室はこのエグバート王の子孫とされる。

(外部リンク)

英国政府観光庁(BTA: British Tourist Authority)の公式ウェブサイト Visit Britain(ヴィズィット・ブトゥン: 直訳「英国を訪問せよ」)による説明(英語版と日本語版)

https://www.visitbritain.com/en/About-Britain/Monarchy/ (リンク切れ)

https://www.visitbritain.com/ja/About-Britain/Monarchy/ (リンク切れ)

The monarchy is the oldest institution of government. Queen Elizabeth II is directly descended from King Egbert, who united England under his rule in 829.

君主制とは一君主によって統治されるという最も古い政府形態である。現在の女王、エリザベス2世は、西暦829年にイングランドを統一したエグバート国王の直系といわれる。

839年日付不明~858年日付不明

ウェセックス王国のエセルウルフ(Æthelwulf of Wessex, 8??-856; 在位839-856)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Æthelwulf,_King_of_Wessex

https://www.royal.uk/ethelwulf-r-839-856

エグバートの息子。サクソン人系の古英語話者。名前は「高貴な狼(オオカミ)」の意味であり、現代ドイツ語の Edelwolf (エーデルヴォルフ)に相当する。

855年日付不明~860年日付不明

ウェセックス王国のエセルボルド(Æthelbald of Wessex, 8??-860; 在位856-860)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Æthelbald,_King_of_Wessex

https://www.royal.uk/ethelbald-r856-860

エセルウルフの長男。サクソン人系の古英語話者。名前は「高貴にして大胆」の意味。前半部の Æthel のみ現代ドイツ語の Edel (エーデル)=「高貴」に対応するが、後半の bald は現代ドイツ語の mutig (ムーティッヒ)=「大胆」などとは対応せず、むしろ現代英語の bold (ボウルドゥ)=「大胆」に対応する。

860年日付不明~865年日付不明

ウェセックス王国のエセルベルト(Æthelberht of Wessex, c.836 - 865 or 866?; 在位860- 865 or 866)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Æthelberht,_King_of_Wessex

https://www.royal.uk/ethelbert-r-860-866

エセルウルフの三男でエセルボルドの弟。サクソン人系の古英語話者。名前は「高貴にして壮大な」の意味。

865年日付不明~871年日付不明

ウェセックス王国のエセルレッド、またはエセルレッド一世Æthelred of Wessex, or Æthelred I, c.847-871?; 在位865 or 866 - 871)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Æthelred_I,_King_of_Wessex

https://www.royal.uk/ethelred-r866-871

エセルウルフの四男でエセルボルドやエセルベルトの弟。サクソン人系の古英語話者。名前は「高貴な助言」の意味。

855年12月25日(?)~ 869年11月20日

エドマンド殉教王(Edmund the Martyr, c.841-869; 在位855?-869)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_the_Martyr

東アングリア(East Anglia)王国にはアングル人系の古英語話者、エドマンド殉教王(Edmund the Martyr, c.841-869; 在位c.855-869)が在位していたが、869年11月20日にデンマークから侵略してきた大邪教徒軍(Great Heathen Army; 古英語 mycel hæþen here)によって殺害された。この故事から東アングリア地方にベリーセントエドマンヅ(Bury St Edmunds: 「聖エドマンド塚」の意)市が築かれる。

【外部記事】

貴族の宴会場だと思われていた洞窟は、追放された王が隠棲した場所だった

ビジネスインサイダー日本版(Business Insider Japan

ベサニー・ドーソン(Bethany Dawson)記者署名記事

2021年8月1日(日)

https://www.businessinsider.jp/post-239039

https://news.yahoo.co.jp/articles/88c9df0386977fe6ab46c194783610b796e29bea

https://news.yahoo.co.jp/articles/88c9df0386977fe6ab46c194783610b796e29bea/comments

[もとの英語記事]

An exiled English king who became a hermit saint could have been the first resident of a 1,200-year-old cave house, archaeologists believe

(隠遁者にして聖者と成ったイングランド人亡命者としての元国王こそが千二百年前の洞窟家屋の最初の住人だった可能性があると考古学者たちが確信)

ビジネスインサイダー(Business Insider

ベサニー・ドーソン(Bethany Dawson)記者署名記事

2021年7月19日(月)

https://www.insider.com/england-exiled-hermit-king-lived-ancient-cave-house-experts-say-2021-7

886年~954年

Danelaw (Danish rule)

ヴァイキングのデーン人による支配

古ノース語話者がイングランドの約半分を支配。

https://en.wikipedia.org/wiki/Norse_activity_in_the_British_Isles

https://en.wikipedia.org/wiki/Viking_Age

https://en.wikipedia.org/wiki/Danelaw

https://en.wikipedia.org/wiki/Danelaw#/media/File:England_878.svg

アルフレッド大王から現在のエリザベス二世へ至る家系図

https://en.wikipedia.org/wiki/Family_tree_of_English_and_British_monarchs

871年4月日付不明(但し、イングランドの約半分の王としては886年辺りから)~899年10月26日

ウェセックス王国のアルフレッド大王(Ælfrǣd or Alfred the Great of Wessex, 849-899; 在位871-899)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_the_Great

https://www.royal.uk/alfred-great-r-871-899

サクソン系の古英語話者。古ノース語話者のデーン人との間に協定を結び、イングランドの約半分を割譲し、尚(なお)且()つ身代金=デインゲルト(Danegeld)を支払うことでイングランドに平和を齎(もたら)したため「大王」と呼ばれる。

899年10月26日~924年7月17日

ウェセックス王国のエドワード長兄王(Edward the Elder of Wessex, c.874-924; 在位899-924)

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_the_Elder

https://www.royal.uk/edward-elder-r-899-924

アルフレッド大王の長男。サクソン系の古英語話者。910年にイングランド最北部のテトゥノール(Tettenhall)の戦いでデーン人を打ち破る。

924年日付不明~939年日付不明

アゼルスタン王(Æðelstan or Æthelstan or Athelstan, c.894-939; 在位924-939)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Æthelstan

https://www.royal.uk/athelstan-r924-939

エドワード長兄王の長男。サクソン系の古英語話者。アングロ・サクソン人たちの王として、デーン人に支配された地域(デインロー地帯)の奪還を部分的に成功させ、イングランドの政治的統一を進めた。927年7月12日にイングランド北西部のエモン川(the River Eamont)の畔(ほとり)に集まった諸国の王たちがアゼルスタン王をイングランド人たち(the English)の王と認定した。したがって上記のエグバートではなくアゼルスタンこそが、在位途中の927年から統一イングランド初代国王とする見方が有力である。この日(927年7月12日)をイングランド王国(Kingdom of England)建国の日とする見方がある一方で、その後の体制は北欧ヴァイキングによる断続的な支配(886年~954年、1016年12月1日~1035年11月12日)や復位ウェセックス王朝(1042年6月8日~1066年12月10日)の崩壊が重なったこともあり、征服王朝であるノルマン朝(1066年12月25日~1135年12月1日)が成立した1066年12月25日こそが真の建国とする見方もある。

939年10月27日~946年5月26日

エドマンド一世(Edmund I, or Ēadmund I, 921-946; 在位939-946)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_I

https://www.royal.uk/edmund-i-r-939-946

サクソン系の古英語話者。アゼルスタン王は子を遺さずに世を去ったため、エドワード長兄王の息子でアゼルスタン王の腹違いの弟であるエドマンドが後を継いだ

946年5月26日~955年11月23日

エドレッド王(Edred, or Eadred, 923-955; 在位946-955)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Eadred

https://www.royal.uk/edred-r-946-55

エドマンド一世の弟。サクソン系の古英語話者。兄エドマンド一世の遺した男児エドウィーとエドガーの兄弟を王位継承者に育て上げる。

955年11月23日~959年10月1日

エドウィ王(Edwy, or Eadwig, c.940-959; 在位955-959)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Eadwig

https://www.royal.uk/edwy-r955-959

エドマンド一世の長男。サクソン系の古英語話者。在位四年で満19歳で夭折(ようせつ)。

959年10月1日~975年7月8日

エドガー平和王(Edgar the Peaceful, c.943-975; 在位959-975)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edgar_the_Peaceful

https://www.royal.uk/edgar-r-959-975

エドマンド一世の次男でエドウィ王の弟。サクソン系の古英語話者。兄の早すぎる死のお陰で内戦を回避。安定した統治を実現し、イングランドのほぼ隅々にまで王室による法を行き渡らせた。その意味では統一イングランド初の本格的国王とする見方もできるが、三十代前半で亡くなった。

975年7月8日~978年3月18日

エドワード殉教王(Edward the Martyr, c.962-978; 在位975-978)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_the_Martyr

https://www.royal.uk/edward-ii-martyr-r-975-978

エドガー平和王の長男。サクソン系の古英語話者。十代半ばの頃、7才ぐらいの弟エセルレッドの支持者に暗殺されて、後に殉教者(the Martyr)と呼ばれることになる。

978年3月18日~1013年日付不明、再び1014年日付不明~1016年4月23日

エセルレッド二世、またはエセルレッド無策王=無思慮王(Æthelred II, or Æthelred the Unready, c.966-1016; 在位978-1013 & 1014-16)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Æthelred_the_Unready

https://www.royal.uk/ethelred-ii-unready-r-978-1013-and-1014-1016

兄エドワード殉教王の暗殺を受けて7才ぐらいで王位に就く。サクソン系の古英語話者。暗殺された兄を殉教者に仕立て上げた教会勢力と折り合いが悪く、国内に敵が多すぎてうまく統治できなかった。古ノース語話者のデーン人による侵略を食い止めることに苦慮し、デインゲルト(Danegeld)と呼ばれる身代金を大量に支払うも効果は皆無で、特に1003年以降は好き放題に侵略された。遂には1013年から翌’14年にかけてデンマークのスヴェン一世(Svend I, c.960-1014; デンマーク王在位986-1014; ノルウェー王在位986-995 & 1000-14; イングランド王在位1013-14)、別名 スウェイン八の字髭王(Sweyn Forkbeard, c.960-1014)に国を乗っ取られ、妻=王妃の実家であるノルマンディー公国(現在のフランス北部)へ逃げていたがスヴェン一世の死去により再度王位に返り咲く

1016年4月23日~11月30日

エドマンド剛勇王(Edmund Ironside, 988 or 993? - 1016; 在位1016)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Ironside

https://www.royal.uk/edmund-ii-ironside-r-apr-nov-1016

エセルレッド無策王の三男。サクソン系の古英語話者。デンマーク軍の侵略に立ち向かった奮闘ぶりから「アイアンサイド」(剛勇)の異名(いみょう)が付く。イングランド南東部のアシンドン(Ashingdon)の戦いで、スヴェン一世(Svend I, c.960-1014; デンマーク王在位986-1014; ノルウェー王在位986-995 & 1000-14; イングランド王在位1013-14)の息子クヌーズ一世、別名 クヌート大帝(Canute or Cnut the Great, c.985-1035; イングランド王在位1016-35; デンマーク王在位1018-35; ノルウェー王在位1028-35)に敗れ、和平交渉の結果、エドマンド剛勇王はイングランド南西部の旧ウェセックス王国のみを、クヌーズ一世は残りを手にすることになるしかしながらエドマンド剛勇王の死去によって、クヌーズ一世は旧ウェセックス王国をも手中に入れる

1016年12月1日~1035年11月12日

North Sea Empire

(ヴァイキングのデーン人による)北海帝国

https://en.wikipedia.org/wiki/Cnut_the_Great#/media/File:Cnut_lands.svg

古ノース語(現代のデンマーク語やノルウェー語やスウェーデン語やフェロー諸島語やアイスランド語の基(もと)になった言語)話者がイングランド全土と今日のスウェーデン西部を含むノルウェーと今日のスウェーデン南部を含むデンマークに及ぶ大帝国を支配。しかしながら、クヌート大帝の死によって間もなく崩壊。

1016年12月1日~1035年11月12日(但し、デンマーク王在位は1018年日付不明~1035年11月12日で、ノルウェー王在位は1028年日付不明~1035年11月12日

クヌーズ一世、別名 クヌート大帝(Canute, or Cnut the Great, c.995-1035; 在位1016-35)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Cnut_the_Great

https://www.royal.uk/canute-great-r-1016-1035

デンマークからやって来た征服者で古ノース語話者の父親のスヴェン一世(Svend I, c.960-1014; デンマーク王在位986-1014; ノルウェー王在位986-995 & 1000-14; イングランド王在位1013-14)、別名 スウェイン八の字髭王(Sweyn Forkbeard, c.960-1014)の後を継ぎ、イングランドの支配権を要求。一代で北欧へ跨(またが)る大帝国を築くが歿後に帝国は瓦解(がかい)。長男の(Svein Knutsson, c.1016-35)も同年に死亡。

1035年11月12日~1040年3月17日

ハロルド兎足王(Harold Harefoot, c.1016-40; 在位1035-40)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Harold_Harefoot

https://www.royal.uk/harold-harefoot-r-1035-1040

クヌーズ一世、別名 クヌート大帝の次男ながら嫡男(ちゃくなん)でないため、本来は王位継承権は無い。古ノース語話者。腹違いの弟ハーデクヌーズまたはハーサクヌート(Hardeknud or Harthacnut, c.1018-42)が嫡男のため、本来なら王位継承権はそちらにあるが、ノルウェー王がデンマークを狙っていたためイングランドまで出て来ることができず、それをいいことに兄のハロルドは摂政(Regent りーヂェントゥ)の建て前でイングランドを統治した。ところが慾に目がくらんだ兄は、1037年に自(みずか)らイングランド王を名乗るようになった。1040年、ハーデクヌーズが遂に62隻の軍艦を率いてイングランドに平和裡に上陸したところ、兄のハロルド兎足王は死亡したため争いなくイングランドの王位に就いた。

1040年3月17日~1042年6月8日(但し、デンマーク王在位は1035年日付不明~1040年6月8日)

ハーサクヌート(Hardeknud or Harthacnut, c.1018-42; 在位1040-42)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Harthacnut

https://www.royal.uk/hardicanute-r-1035-1042

クヌーズ一世、別名 クヌート大帝の三男ながら嫡男としては長男で、ハロルド兎足王の腹違いの弟古ノース語話者。兄の死によっていち早くイングランドの王位を掌握。後継者に母方の従兄(いとこ)であるエドワード証聖王(Edward the Confessor, c.1004-66)を指定。これによってイングランド王位のヴァイキングによる支配は終わる。

1042年6月8日~1066年12月10日

House of Wessex (restored)

復位ウェセックス王朝(古英語話者)

1042年6月8日~1066年1月5日

エドワード証聖王(Edward the Confessor, c.1004-66; 在位1042-66)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_the_Confessor

https://www.royal.uk/edward-iii-confessor-r-1042-1066

以前は日本の世界史教科書や西洋史教科書で「懺悔王(ざんげ おう)」と誤訳されることが多かったが、近頃では一神教の神=創造主の偉大さを讃える「証聖王(しょうせい おう)」という訳語に直されている。

1066年1月5日~10月14日

ハロルド・ゴドウィンスン、またはハロルド二世(Harold Godwinson, or Harold II, 1022-66; 在位1066)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Harold_Godwinson

https://www.royal.uk/harold-ii-r-jan-oct-1066

9ヶ月と1週間ほどの王位。弟のトスティグ(Tostig Godwinson, 1026?-66)とノルウェー王ハーラル三世(諾 Harald III Hardråde; 英 Harald Hardrada, 1015-66; 在位1046-66)の軍勢を1066年9月25日にイングランド北部のスタムフオッド・ブリヂの合戦(Battle of Stamford Bridge)で破るも、その僅か十九日後の同年10月14日、イングランド南海岸に侵攻してきたノルマン人に天下分け目のヘイスティングズの合戦(Battle of Hastings)で敗北して戦死。

1066年10月15日~12月10日

エドガー・アシリング(Edgar Ætheling, c.1051-26; 在位1066)

https://en.wikipedia.org/wiki/Edgar_Ætheling

https://www.royal.uk/edgar-atheling-r-oct-dec-1066

1066年12月10日~24日

王位空白期間

1066年12月25日~1135年12月1日

House of Normandy or Norman dynasty

ノルマン王朝

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Normandy

https://en.wikipedia.org/wiki/Norman_conquest

https://www.royal.uk/normans

現王室の遠い先祖でフランス語話者でフランス北部に領地を所有。先祖を遡(さかのぼ)ると北欧のヴァイキングに行き着くが、フランス北部のノルマンディーに定住すると自分たちの古ノース語を捨ててフランス語を身に着け、土地に同化していった。所謂(いわゆる)ノルマン征服(Norman Conquest of 1066)によってイングランドを征服し、復位ウェセックス王朝に代わってイングランドの王位を奪取した。

ウィリアム征服王(William I of England, c.1028-87; 在位1066-87)は元来ノルマンディー公ギョームだったが、フランス語話者であってもフランス人ではなくノルマン人(北欧のヴァイキングを先祖にもちノルマンディーに定住した北方系ゲルマン民族)である。それ以後ウィリアム二世(William II of England, c.1056-11007; 在位1087-1100)、ヘンリー一世(Henry I, c.1168-1135; 在位1110-35)、ノルマン王朝ブロワ家(House of Blois)のスティーヴン王(King Stephen, c.1092-1154; 在位1135-54)、プランタジェネット朝(House of Plantagenet)のヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)、リチャード一世(Richard I, 1157-99; 在位1189-99)、ジョン王(King John, 1166-1216; 在位1199-1216)、ヘンリー三世(Henry III, 1207-72; 在位1216-72)、エドワード一世(Edward I, 1239-1307; 在位1272-1307)、エドワード二世(Edward II, 1284-1327; 在位1307-27)、エドワード三世(Edward III, 1312-77; 在位1327-77)、リチャード二世(Richard II, 1367-1400; 在位1377-99)と12人ものフランス語話者の治世が続いた。但し、上記のエドワード三世は、自身はフランス語話者ながら1362年にノルマン征服(Norman Conquest of 1066)以後に初めて裁判と政治の言語として英語を「唯一の公用語」に定めた国王として知られる。それ以後では、ヘンリー四世(Henry IV, 1367-1413; 在位1399-1413)が1399年の戴冠式(Coronation)に於いて、ノルマン征服以後に初めて公式の場で英語を用いた国王であり、且(か)つ1066年以後、英語を母語とした最初の国王とされる。次のヘンリー五世(Henry V, c.1386-1422; 在位1413-22)は1066年以後に初めて英語で公文書を書いた国王である。

また、力による王位簒奪(おうい さんだつ: usurpation ユザペイシュン)が頻繁に起こったのが中世イングランドの特徴である。イングランド征服=イングランド王室乗っ取りに成功したノルマン人のウィリアム一世(William I of England, c.1028-87; 在位1066-87)。兄ウィリアム二世(William II of England, c.1056-1100; 在位1087-1100)を暗殺して王位に就いた疑いのあるヘンリー一世(Henry I, c.1168-1135; 在位1100-35)。娘マティルダ(Matilda, 1102-67)が王位に就くことを願ったヘンリー一世の遺志を無視して即位を宣言した甥のスティーヴン(King Stephen, c.1092-1154; 在位1135-54)。マティルダの孫ジョン(King John, 1166-1216; 在位1199-1216)には、王位継承権を持つ甥を暗殺した疑いが囁(ささや)かれ、ジョンの曾孫エドワード二世(Edward II, 1284-1327; 在位1307-27)は王妃や皇太子エドワード=後の国王エドワード三世(Edward III, 1312-77; 在位1327-77)や貴族たちによって廃位された。エドワード二世の曾孫のリチャード二世(Richard II, 1367-1400; 在位1377-99)も従弟(いとこ)のヘンリー四世(Henry IV, 1367-1413; 在位1399-1413)によって廃位されて王位を奪われた。ヘンリー四世の孫ヘンリー六世(Henry VI, 1421-71; 在位1422-1461 & 1470-71)は、ヨーク家のエドワード四世(Edward IV, 1442-83; 在位1461-70 & 1471-83)によって廃位された。エドワード四世の息子エドワード五世(Edward V, 1470-83?; 在位1483)は叔父リチャード三世(Richard III, 1452-85; 在位1483-85)に廃位された。

ウィリアム征服王からヘンリー三世へ至るノルマン王朝の家系図

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Normandy

https://en.wikipedia.org/wiki/English_monarchs'_family_tree#Houses_of_Normandy_and_Blois (右端の [show] をクリック)

1066年12月25日~1187年9月9日

ウィリアム一世、またはウィリアム征服王(William I of England, or William the Conqueror, c.1028-87; 在位1066-87)=フランス名 イングランドのギョーム一世、またはギョーム征服王(Guillaume Ier d’Angleterre, ou Guillaume le Conquérant, c.1028-87; 在位1066-87)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/William_the_Conqueror

https://www.royal.uk/william-the-conqueror

フランス語話者。イングランドの王権を主張してフランス北部のノルマンディー公国から海を越えて乗り込んで来てイングランド制圧に成功した征服者。資料によっては「イングランド初代国王」と書かれているが、議論の余地がある。1066年10月14日、天下分け目のヘイスティングズの合戦(Battle of Hastings)でハロルド二世(Harold Godwinson or Harold II, 1022-66)を破ってイングランドの王位を得る。フランス語ではギョーム(Guillaume)の名。墓には羅典(ラテン)語表記で GUILLELMUS (グィルレルムス)と綴(つづ)られている。征服王はイングランド北部を服従させるために1069年から’70年にかけて北部の村々を焼き払い、村人を虐殺した。 生存者が生活苦に喘(あえ)いで死ぬようにと、穀物や家畜も破壊し、作物が育たぬように土地に塩を撒いた。結果として約十万人が死んだとされる。これを世に「北部侵略」(Harrying of the North)または「北部掠奪」(Harrowing of the North)と呼ぶ。イングランド全土の制圧は1072年で完成を見る。1085年から翌’86年にかけて征服王の命(めい)で Domesday Book (直訳 『最後の審判の書物』、邦題 『ドゥームズデイ・ブック』)という英国初の土地台帳が作成された。これにより家畜や財産などが細かく調査され、為政者による課税の基本が確立された。これは豊臣秀吉(とよとみ ひでよし, 1537-98; 太閤在任1591-98)が命じた所謂(いわゆる)「太閤檢地(たいこう けんち)」(1582-98年)より五世紀も先(さき)んじたことになる。

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https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/111000653/?P=3

https://news.yahoo.co.jp/articles/5f01612e36590b3634f7437dfa625722bc5ff0bf

https://news.yahoo.co.jp/articles/5f01612e36590b3634f7437dfa625722bc5ff0bf?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/5f01612e36590b3634f7437dfa625722bc5ff0bf?page=3

文中「懺悔王」とあるのは the Confessor の和訳として以前は定着していたが、現在は誤訳とされ、正しくは「証聖王」。

1187年9月9日~25日

王位空白期間

1087年9月26日~1100年8月2日

ウィリアム二世、または赤顔王(William II of England, or William Rufus, c.1056-1100; 在位1087-1100)=フランス名 イングランドのギョーム二世、または赤顔王(Guillaume II d’Angleterre, ou Guillaume le Roux, c.1056-1100; 在位1087-1100)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/William_II_of_England

https://www.royal.uk/william-rufus

フランス語話者。ウィリアム征服王の三男。征服王の次男は9歳ぐらいで死去していた。征服王の長男ロベール二世(Robert II, c.1054-1134)は父親に悉(ことごと)く反撥したが父の生前からノルマンディー公国を継承してノルマンディー公になっていた。父の死後、三男ウィリアム二世がいち早くイングランド国王を継いだが、兄のロベール二世と紛争になったため、「どちらか長生きした方が最終的に王位を得る」と取り決めて和解した。生涯独身で子なしだった。

1100年8月2日~4日

王位空白期間

1110年8月5日~1135年12月1日

ヘンリー一世またはヘンリー碩学王(せきがく おう)(Henry I, or Henry Beauclerc, c.1168-1135; 在位1110-35)=フランス名 イングランドのアンリ一世(Henri Ier d’Angleterre, c.1168-1135; 在位1110-35)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_I_of_England

https://www.royal.uk/henry-i

フランス語話者。ウィリアム征服王の四男。1100年に征服王の三男ウィリアム二世(William II of England, c.1056-1100; 在位1087-1100)が死去したため、生前の取り決め通り長兄(征服王の長男)でノルマンディー公のロベール二世が王位を主張してイングランドに侵攻したが、イングランド諸侯の支持が得られず、一旦は諦めるが、その後も叛乱を起こそうと企(くわだ)てたため、弟のヘンリー一世は1106年にノルマンディーで兄を捉(とら)え、その目を刳()り貫()き、ノルマンディー公位を奪い、当初はイングランドのディヴァイジス城に、後にウェールズのカーディフ城に死ぬまで幽閉した。兄ウィリアム二世の 急死を受けて即位した立場の弱さが、有力貴族への妥協を生み、対立を避ける協調的な政策へ向かわせた。王位継承権を持つ唯一の嫡男(ちゃくなん)で「国王 ウィリアム三世」候補だった王太子ウィリアム(William Adelin, 1103-20)を1120年に海難事故で失ったことが、ヘンリー一世死後の王位継承権争いの火種となった。

1135年12月1日~21日

王位空白期間

1135年12月22日~1154年10月25日

House of Blois

ノルマン王朝ブロワ家(フランス語話者でフランス北部に領土を所有)

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Blois

1135年12月22日~1154年10月25日

スティーヴン王(King Stephen of Blois, c.1092-1154; 在位1135-54)=フランス名 ブロワ家のエティエンヌ(Étienne de Blois, c.1092-1154; 在位1135-54)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Stephen,_King_of_England

https://www.royal.uk/stephen-and-matilda

フランス語話者。征服王ウィリアム一世の外孫で、先王ヘンリー一世の甥。ヘンリー一世の娘で神聖ローマ皇帝に嫁いでいた皇妃マティルダ(Empress Matilda, 1102-67)=ドイツ名 皇妃マティルデ(Kaiserin Matilde, 1102-67)とイングランドの王権を争って内戦状態(a state of civil war)に陥(おちい)ったため、イングランド王国が無政府時代(the Anarchy アェナキー)に突入し、国土も人心も大いに荒廃する。1141年の数ヶ月のみだが、前述のマティルダが一時的に勝者となり君臨したことがあるため、このマティルダを「英国史上初の女性君主(女王)」とする見方もある。しかしながら、歴史学の主流ではマティルダを女王には数えない

1154年10月25日~12月18日

王位空白期間

1154年12月19日~1485年9月29日

House of Plantagenet

プランタジェネット朝

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Plantagenet

https://www.royal.uk/plantagenets

https://www.royal.uk/angevins

女系の王家としてのフランス語話者でフランスのほぼ西半分に広大な領土 https://en.wikipedia.org/wiki/Duchy_of_Aquitaine#/media/File:France_1154-en.svg )を所有したが、ジョン王(King John, 1166-1216; 在位1199-1216)の代にフランスで敗退したことでイングランドの王族であるという意識が芽生え、英語話者になっていく。

スティーヴン王と王位を争ったマティルダから女系の王家としてリチャード二世へと至るプランタジェネット朝の家系図

https://en.wikipedia.org/wiki/English_monarchs%27_family_tree#House_of_Plantagenet(右端の [show] をクリック)

1154年12月19日~1189年7月6日

ヘンリー二世、または短いマントのヘンリー(Henry II, or Henry Curtmantle, 1133-89; 在位1154-89)=フランス名 イングランドのアンリ二世、または短いマントのアンリ(Henri II d’Angleterre, ou Henri Court-manteau, 1133-89; 在位1154-89)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_II_of_England

https://www.royal.uk/henry-ii

但し、途中の1170-83年には息子、若ヘンリー王またはヘンリー若王(英 Henry the Young King; 仏 Henri le Jeune, 1155-83; 在位1170-83)との共同統治期間もあり(下記参照)。

フランス語話者。ウィリアム征服王(William I of England or William the Conqueror, c.1028-87; 在位1066-87)の四男ヘンリー一世(Henry I, c.1168-1135; 在位1110-35)の外孫に当たる。父はフランス王国の有力貴族アンジュー伯ジョフロワ四世(Geoffroy IV, 1113-51)、母は神聖ローマ帝国のハインリヒ五世の皇后マティルダ(Matilda, 1102-67)。母マティルダ(Matilda, 1102-67)は上述したスティーヴン王(King Stephen, c.1092-1154; 在位1135-54)とイングランドの王位継承権を巡って争い、イングランド王国を荒廃させた。ウィリアム征服王子孫ながら、女系のプランタジェネット朝が成立したことになる。

父方と母方からの相続と、自身のアリエノール・ダキテーヌ(オック語 Aliénor d’Aquitaine; 仏 Éléonore d’Aquitaine; 英 Eleanor of Aquitaine, 1122-1204)との婚姻によりアキテーヌ公爵領(仏 Duché d’Aquitaine; 英 Duchy of Aquitaine)という広大な所領を獲得し当時のイングランド王室はフランスのほぼ西半分に広大な領土 https://en.wikipedia.org/wiki/Duchy_of_Aquitaine#/media/File:France_1154-en.svgを所有した。1155年には歴史上唯一のイングランド出身のローマ教皇ハドリアーヌス(英名 エイドリアン)四世(Hadrianus IV; Adrian IV, c.1100-59; 教皇在位1154-59)からアイルランド征服を承認する教皇勅書(Bulla apostolica)を受け取った。その勅書はカトリックの制度に基づいて教会の統治と改革を進め、アイルランド全島の教化を図るよう促(うなが)す内 容だった。教皇の承認を得たヘンリー二世だったが、ただちに行動を起こしたわけではなかった。アイルランド島で在地領主たちの間の抗争が続く中、1166 年にアイルランド島東部のレンスター(Leinster)王の地位を追われたダーモット・マクモロ(Diarmait Mac Murchada or Dermot MacMurrough, c.1100-71; レンスター王在位1126-66 & 1169-71)がヘンリー二世に軍事援助を求め、ヘンリー二世はイングランド王国内での募兵を許可した。ダーモット・マクモロは南ウェールズでストロン グボウ(Strongbow; 直訳「強弓」)の異名(いみょう)をもつ第二代ペンブルック伯リチャード・ド・クレア(Richard de Clare, 2nd Earl of Pembroke, 1130-76)と同盟関係を結んだ。ストロングボウはアイルランド侵攻に乗り出し、盟友ダーモット・マクモロの失地を回復してやり、ダーモット・マクモ ロの娘と結婚し、1171年に老王ダーモット・マクモロの死を受けてレンスターの地を継承した。こうしてイングランド、ウェールズ、フランスの領地に加えてアイルランドにも勢力を拡げたストロングボウのことをイングランド王ヘンリー二世は大いに警戒するに至った。危機感を強めたヘンリーは南ウェールズでストロングボウと会見した。この場でストロングボウは一切反抗することなく、ヘンリーへの忠誠をあっさり誓って、アイルランドで得た領地をヘンリー二世に献じ、その上でヘンリーは改めてこれを封土(fief)としてストロングボウに与えた。この後でヘンリー二世はアイルランド島に渡り、この島に実際に上陸した最初のイングランド王となった。これに対してアイルランド各地の領主たちはヘンリー二世への忠誠・臣従(しんじゅう)を誓った。1172年のことで、これがイングランド王ヘンリー二世による「アイルランド征服」とされているが、当時は中世の封建社会だったので、上の身分の者には簡単に屈する習わしがあり、外国から来た王への抵抗感はなかった。自身の在位中に嗣子(しし: 「跡取り」の意)であった若ヘンリー王またはヘンリー若王(英 Henry the Young King; 仏 Henri le Jeune, 1155-83; 在位1170-83)を王位(共同君主)に就けたため、対等の権力でこそなかったが、国家元首(Head of State)が二人いる状態が十三年間続いた。

1170年12月29日には、イングランド王国宗教界トップであるカンタベリー大司教(Archbishop of Canterbury)で、大法官(Lord Chancellor)のトマス・ベケット(Thomas Becket, 1119-70; カンタベリー大司教在任1162-70)が、教会の自由をめぐって国王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)と対立し、仕事場であったカンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral)内で、国王の意を汲んだ4人の騎士によって殺害される。ベケット最期の言葉は、「イエスの名に於いて、そして教会の保護の名に於いて、私は死を抱きしめる準備ができている。」(For the name of Jesus and the protection of the Church, I am ready to embrace death.)と伝えられる。なお、現在の自称プロテスタントのイングランド教会系の教会(聖公会や監督派教会)では、「アーチビショップ」を「大司教」ではなく「大主教」と和訳しているが、1170年のイングランド王国はカトリック国だったため、カトリック式に「大司教」とする。三年近く後の1173年にローマ教皇アレクサンデル三世(羅 Alexander III; 伊 Alessandro III; 英 Alexander III, c.1100/1105–1181)が故トマス・ベケットを列聖したため、以後はカンタベリーの聖トマス(Saint Thomas of Canterbury)と成る。2020年12月28日(月)にはベケット殉教850周年を翌日に控え、アメリカ合衆国(USA: United States of America)のトランプ(Donald J. Trump, b.1946; 大統領在任2017-21; 私立ペンシルヴェイニァ大学卒)大統領が声明文(proclamation)を発表し( https://www.whitehouse.gov/presidential-actions/proclamation-850th-anniversary-martyrdom-saint-thomas-becket/ )、「宗教的迫害からの自由は単なる贅沢や歴史の偶然ではなく、むしろ我々の自由の必要不可欠な構成要素である」(our freedom from religious persecution is not a mere luxury or accident of history, but rather an essential element of our liberty)、「暴君に対する反逆は神への服従である」(rebellion to tyrants is obedience to God)、「自由を護ることは生命そのものよりも重要である」(defending liberty is more important than life itself)とする。

1170年6月14日~1183年6月11日

若ヘンリー王またはヘンリー若王(Henry the Young King, 1155-83; 在位1170-83)=フランス名 イングランドの若アンリ(Henri le Jeune d’Angleterre, 1155-83; 在位1170-83)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_the_Young_King

但し、父王 ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)との共同統治で、政治の実権は父王が握っていた。

上記の国王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)と母親のアリエノール・ダキテーヌ(オック語 Aliénor d’Aquitaine; 仏 Éléonore d’Aquitaine; 英 Eleanor of Aquitaine, 1122-1204)の次男として生まれたが、長兄が夭折(ようせつ)したため事実上の長男として遇され、父親で国王のヘンリー二世の存命中満15才の若さにしてイングランド王国の共同君主に立てられて即位したため、英語で「若王」the Young King)またはフランス語で「若い者」(le Jeune ルジュウヌ)と呼ばれた。しかしながら、君主=国王としての実権を欠き、父王が自分の教育係であったトマス・ベケット(Thomas Becket, 1118-70)を1170年12月29日に殺害したことや、末弟ジョン=後のジョン王(King John, 1166-1216; 在位1199-1216)を偏愛することに反撥し、1173年に叛乱を起こすも、翌年(1174年)には父王と形の上では和解した。それでも父子の不和は続いた。叛乱の背後に母親のアリエノール・ダキテーヌがいることがほぼ明らかになったことから父王は王妃アリエノール・ダキテーヌを以後15年以上に亘って自宅軟禁処分とした1182年には弟のリチャード=後の国王リチャード一世(Richard I, 1157-99; 在位1189-99)が自分への臣従礼を拒否したことから、弟のブルターニュ公ジョフロワ二世(Geoffroy II, 1158-86)と組んでリチャードと交戦した。しかし翌年(1183年)、若ヘンリーは熱病に冒され、死の床で父に背いて争いの基(もと)となった罪を懺悔(ざんげ)し、軟禁中の母親で王妃のアリエノールの自由を願いつつ満28歳の若さで病死した。

1189年7月6日~9月2日

王位空白期間

1189年9月3日~1199年4月6日

リチャード一世、または獅子心王(Richard I, or Cœur de Lion, 1157-99; 在位1189-99)=フランス名 イングランドのリシャール一世、または獅子心王(Richard Ier d’Angleterre, ou le Cœur de Lion, 1157-99; 在位1189-99)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_I_of_England

https://www.royal.uk/richard-i

上記の国王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)母親のアリエノール・ダキテーヌ(オック語 Aliénor d’Aquitaine; 仏 Éléonore d’Aquitaine; 英 Eleanor of Aquitaine, 1122-1204)の三男として生まれたが、長兄と次兄(上記の若ヘンリー王)が夭折(ようせつ)したため事実上の長男として国王に即位した。フランス語話者で尚且(なおか)つフランス南部の言語であるオック語(Occitan)も操ったと考えられている。しかしながら、英語は(中英語・古英語とも)殆(ほとん)ど話せなかった。1190年夏に合流した第三回十字軍遠征(1189-92年)を皮切りに戦 争と冒険に明け暮れた。十字軍からの帰国途中の1192年12月下旬に神聖ローマ帝国内の有力貴族オーストリア公レオポルト五世 (Leopold V, 1157-94)の私怨(しえん)から捕縛(ほばく)され、ドナウ川を見下ろすデュルンシュタイン城(独 Burg Dürnstein; 英 Dürnstein Castle)=現在のデュルンシュタイン城廃墟(独 Burgruine Dürnstein; 英 Dürnstein Castle Ruinsに幽閉された。翌年(1193年)3月には同帝国内(現ドイツ西部)のトリーフェルス帝国城(独 Reichsburg Trifels; 英 Trifels Imperial Castle)に移送され神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世(1165-97; 在位1191-97)直々(じきじき)の虜囚(りょしゅう)となったが、皇帝が要求していた破格の身代金がイングランド王国から無事に届けられたため、1194年2月4日に約13ヶ月ぶりに釈放された。なお、リチャード一世に恨みを抱いて捕縛したレオポルト五世は馬上試合の事故で同年(1194年12月31日に死去した。不在地主ならぬ不在国王のリチャード一世が九年九ヶ月の在位中にイングランド本国に居たのは僅(わず)か半年だったが、「獅子心王」(仏 Cœur de Lion クェードゥリヨン; 英訳 Lionheart)として民衆の人気を博した。1199年4月6日、フランス南西部アキテーヌ(Aquitaine)地方のシャリュ=シャブロル城(仏 Château de Châlus-Chabrol; 英 Châlus-Chabrol Castle)を攻略中に満41歳で戦死。なお、リチャード一世は母親のアリエノール・ダキテーヌ(オック語 Aliénor d’Aquitaine; 仏 Éléonore d’Aquitaine; 英 Eleanor of Aquitaine, 1122-1204)からアキテーヌ公爵領(仏 Duché d’Aquitaine; 英 Duchy of Aquitaine)を受け継いでいたということもあり、自身の領地内で死んだことになる。そればかりか当時のイングランド王室はフランスのほぼ西半分に広大な領土 https://en.wikipedia.org/wiki/Duchy_of_Aquitaine#/media/File:France_1154-en.svgを所有していた。

1199年4月6日~5月27日

王位空白期間

1199年5月27日~1216年10月19日

ジョン王、またはジョン欠地王(King John, or John Lackland, 1166-1216; 在位1199-1216)=フランス名 イングランドのジャン王、またはジャン欠地王(Jean d’Angleterre, ou Jean sans Terre, 1166-1216; 在位1199-1216)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/John,_King_of_England

https://www.royal.uk/john-lackland

フランス語話者。上記の国王リチャード一世(Richard I, 1157-99; 在位1189-99)の弟。上記の国王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)母親のアリエノール・ダキテーヌ(オック語 Aliénor d’Aquitaine; 仏 Éléonore d’Aquitaine; 英 Eleanor of Aquitaine, 1122-1204)の五男として生まれたが、兄たちが諸般の事情で次々と亡くなり、1199年4月に思いがけず王位が転がり込んでくる。自らの失政でフランスのほぼ西半分に所有していた広大な領土 https://en.wikipedia.org/wiki/Duchy_of_Aquitaine#/media/File:France_1154-en.svgの多く(1204年に自分の家系のルーツであるノルマンディーとアンジュ―を失陥)を失い外交でも手痛い失敗(1205年から始めたローマ教皇インノケンティウス三世との叙任権闘争で1209年に破門=excommunicate=されたことから教皇に赦(ゆる)しを乞うて屈服)を喫する。1215年に貴族たちの反逆で大憲章(羅 Magna Carta; 英訳 Great Charter)=「貴族たちの同意なく勝手に徴税しません、法の適正な手続きをします、商業の自由を認めます」とする羅典(ラテン)語の書面への署名を余儀なくされる。これによって貴族の発言権が大いに強められた。なお、義賊ロビン・フッド(Robin Hood)の伝説では、ジョン王に仕(つか)えるノッティンガムの代官(Sheriff of Nottingham)、日本流には「悪代官」が敵ということになっている。

1216年10月19日~27日

王位空白期間

1216年10月28日~1272年11月16日

ヘンリー三世(Henry III, 1207-72; 在位1216-72)=フランス名 イングランドのアンリ三世(Henri III d’Angleterre, 1207-72; 在位1216-72)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_III_of_England

https://www.royal.uk/henry-iii

フランス語話者。フランス王太子ルイ(後のフランス国王ルイ八世)に首都ロンドンを占領されていた中で父ジョン王が亡くなり、僅(わず)か9歳で王位 に就いた。フランス王家と争っていた領土問題と、大憲章(Magna Carta)に象徴される国内の議会問題を解決しようとしたが、五十六年にも及ぶ当時としては異常に長い治世の中で目立った成果は上がらず。ブロワ家がフランスに持っていた領土を回復できなかったために、却(かえ)ってイングランドの国王という意識が芽生える。また、このヘンリー三世の治世の半ばからイングランド貴族はイングランド王国とフランス王国の両方の国王に忠誠を誓う「二重忠誠」(dual allegiance)の状態から解放され、以後はイングランド国王にのみ忠誠を誓うこととなる。そのため貴族がフランス語ではなく、庶民の言葉である英 語で話したり書いたりする機会が増える

1272年11月16日~19日

王位空白期間

1272年11月20日~1307年7月7日

エドワード一世、またはエドワード長脛王(Edward I, or Edward Longshanks, 1239-1307; 在位1272-1307)=フランス名 イングランドのエドゥアール一世、またはスコットランド人への鉄槌Édouard Ier d’Angleterre, ou le Malleus Scottorum, 1239-1307; 在位1272-1307)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_I_of_England

https://www.royal.uk/edward-i-longshanks

フランス語話者。1284年3月19日にリズラン法令(Statute of Rhuddlan)を発布し、イングランドの法令がウェールズにも及ぶと宣言することで、抵抗の激しかったウェールズを叩きのめして完全併合し、自身の王太子エドワード=後の国王エドワード二世(Edward II, 1284-1327; 在位1307-27)にウェールズ大公(仏 Prince de Galles; ウェールズ語 Tywysog Cymru; 英 Prince of Wales)の称号を授(さず)ける。爾来(じらい)イングランドの王太子(皇太子)は代々ウェールズ大公(Prince of Wales)と呼ばれることになる。ウェールズを併合した余力でエドワード一世は、今度はスコットランドへの侵略を繰り返した。そのためスコットランドでは今でも憎まれている。1295年、エドワード一世は上級聖職者、世俗貴族、地方の代表である騎士や市民、更(さら)には下級聖職者を召集し、模範議会を開く。宿敵であるフランス王国とスコットランド王国が「古き同盟」を結び、イングランド王国を挟み撃ちする可能性が出たため、対スコットランド戦争を起こすための税金を集めるべく、1215年の大憲章(羅 Magna Carta; 英訳 Great Charter)に則(のっと)ったわけである。

なお、米人メル・ギブソン(Mel Gibson, b.1956)主演・監督のハリウッド(Hollywood: 「ハリエニシダ林」を意味し、イギリス発音で「リウッド」)映画『ブレイブハート』(Braveheart, 1995: 直訳『勇敢心臓』)は侵略されるスコットランドの視点で描いているため、極悪人としてイングランド王エドワード一世が登場する。

1307年7月8日~1327年1月20日

エドワード二世、またはカナーヴォンのエドワード(Edward II, or Edward of Caernarfon, 1284-1327; 在位1307-27)=フランス名 イングランドのエドゥアール二世、またはカナーヴォンのエドゥアール(Édouard II d’Angleterre, ou Édouard de Carnarvon, 1284-1327; 在位1307-27)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_II_of_England

https://www.royal.uk/edward-ii

フランス語話者。王太子時代の1301年にウェールズを押さえる目的で父エドワード一世によって初めてウェールズ大公(仏 Prince de Galles; ウェールズ語 Tywysog Cymru; 英 Prince of Wales)の称号を授(さず)けられる。それ以後この称号はイングランドの皇太子に代々与えられるようになる。同性愛者ながら妻子がいた。王妃や皇太子 エドワード(後の国王エドワード三世)に追われて廃位させられ、幽閉先のバークリー城で謎の死を遂げる。

1327年1月20日~24日

王位空白期間

1327年1月25日~1377年6月21日

エドワード三世(Edward III, 1312-77; 在位1327-77)=フランス名 イングランドのエドゥアール三世Édouard III d’Angleterre, 1312-77; 在位1327-77)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_III_of_England

https://www.royal.uk/edward-iii

自身はフランス語話者ながら1362年に1066年のノルマン征服(Norman Conquest)以後に初めて裁判と政治の言語として英語を「唯一の公用語」に定めた国王。在位中の1337年にフランスとの間に以後百十六年間も断続的に続くことになる百年戦争(仏 Guerre de Cent Ans; 英 Hundred Years’ War, 1337-1453)が勃発。これはエドワード三世がフランス国王への臣下の礼の破棄宣告文を送り付けたことが発端(ほったん)であるが、フランス王シャルル四世(Charles IV, 1294-1328; 在位1322-28)が継承者を残さず歿したため、イングランド王エドワード三世が自らの母であるイザベラ(Isabella of France, c.1295-1358)がフランス王フィリップ四世(Philippe IV、1268-1314; 在位1285-1314)の娘であることを理由にフランス王位を要求したためでもある。百年戦争初期の1340年頃にイングランドの議会が上院=貴族院と下院=庶民院に分離したと考えられている。現在の英国国家元首(UK Head of State)及び英国政府(Her Majesty’s Government)の紋章(Coat of Arms)に書かれた呪いのようなフランス語、Honi soit qui mal y pense.(現代語表記 Honni soit qui mal y pense. オニソワ・キマルィプォーンス; 「思(おも)ひ邪(よこしま)なる者に禍(わざはひ)あれ」)は、エドワード三世の詞(ことば)に由来する。詳しくは本ウェブサイトの別ページ( https://sites.google.com/site/xapaga/home/coatofarms )を参照のこと。長男・王太子にエドワード黒太子(Edward, the Black Prince, 1330-76)がいて、百年戦争中の1356年には敵のフランス王ジャン二世(Jean II, 1319-64; 在位1350-64)を捕虜に取るなどして大活躍したが、父王の治世中、スペイン遠征中の1376年に歿しため国王「エドワード四世」になる計画が立ち消えた。

1377年6月22日~1399年9月29日

リチャード二世(Richard II, 1367-1400; 在位1377-99)=フランス名 イングランドのリシャール二世(Richard II d’Angleterre, 1367-1400; 在位1377-99)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_II_of_England

https://www.royal.uk/richard-ii

フランス語話者。エドワード三世の孫でエドワード黒太子の息子。従弟(いとこ)のヘンリー(後の国王ヘンリー四世)の反乱に敗れて廃位させられ、その4ヶ月後にイングランド北部の幽閉先のポンティフラクト城(Pontefract Castle)で死去したが、餓死させられたと伝えられている。

この時代の代表的文学作品として1386年にチョーサー(Geoffrey Chaucer, c.1332-1400)によって中英語(ME: Middle English)で書かれた

Canterbury Tales

https://ja.wikipedia.org/wiki/カンタベリー物語

https://www.youtube.com/watch?v=ahuT-JwxIa8 (0:13-1:29end)

上記のリチャード二世の親戚の間で王位を争ったランカスター家とヨーク家の家系図

https://en.wikipedia.org/wiki/English_monarchs'_family_tree#Houses_of_Lancaster_and_York (右端の [show] をクリック)

【動画】

When Did English Kings Stop Speaking French?

(イングランド国王たちはいつフランス語を話すのをやめたのか)

History With Hilbert (ヒルバートと歴史を)

2020年1月18日(土)公開

https://www.youtube.com/watch?v=Nzg9u-_J5CY

1399年9月30日~1471年4月11日

House of Lancaster

プランタジェネット朝ランカスター家

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Lancaster

https://www.royal.uk/lancastrians

古英語にフランス語の要素が混入した中英語の話者。

1399年9月30日~1413年3月20日

ヘンリー四世(Henry IV, 1367-1413; 在位1399-1413)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_IV_of_England

https://www.royal.uk/henry-iv

従兄(いとこ)のリチャード二世から武力で王位を奪い、ランカスター王家を興(おこ)す。1399年の戴冠式に於()いて、1066年のノルマン征服(Norman Conquest)以後に初めて公式の場で英語を用いた国王であり、且(か)つ1066年以後、英語を母語とした最初の国王。シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616) 作の史劇『ヘンリー四世』二部作(1596-99年頃の作と考えられる)があり、皇太子ハル(Prince Hal: 後の国王ヘンリー五世)とその遊び仲間で太っちょのフォルスタッフ(Sir John Falstaff)とのコミカルな遣()り取りで有名。

1413年3月21日~1422年8月31日

ヘンリー五世(Henry V, c.1386-1422; 在位1413-22)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_V_of_England

https://www.royal.uk/henry-v

1420年にフランス王シャルル六世(Charles VI, 1368-1422; 在位1380-1422)の娘と結婚し、トロワ条約を締結して自らのフランス王位継承権を認めさせ、ランカスター王家の絶頂期を築いたが二年後に急死。1066年のノルマン征服(Norman Conquest)以後に初めて英語で公文書を書いた国王。シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)作の史劇『ヘンリー五世』二部作(1599年頃の作と考えられる)があり、遊び人だった皇太子ハル(Prince Hal)が国王ヘンリー五世として突然豹変(ひょうへん)し、昔の遊び仲間フォルスタッフ(Sir John Falstaff)と縁を切って模範的な国王になる。急に真面目腐った新国王に捨てられるフォルスタッフは憎めない人物であり、上演当時から現代に至るまでファンが多い。

1422年9月1日~1461年3月4日、再び1470年10月3日~1471年4月11日

ヘンリー六世(Henry VI, 1421-71; 在位1422-61 & 1470-71)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VI_of_England

https://www.royal.uk/henry-vi

生後8ヶ月で王位に就き、満39歳のときに白バラのヨーク家に王位を一旦追われた。在位中の1453年にフランスからの撤収(てっしゅう)で百年戦争(Hundred Years’ War, 1337-1453)を終わらせたが、 今度は1455年に赤バラのランカスター家と白バラのヨーク家による薔薇(バラ)戦争(Wars of the Roses, 1455-87)が勃発してしまう。晩年の49歳のときに再び王位に返り咲くが、7ヶ月後、テュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury)でヨーク家に敗れ、その戦いで皇太子エドワードも戦死し、在位中ながらロンドン塔(Tower of London)に幽閉された状態で死亡した。ヨーク家のエドワード四世による暗殺と考えられるが証拠がなく、ヨーク家の側はテュークスベリーの戦いの結果に絶望して死んだのだとしている。後世には意志薄弱な王としてシェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)作の史劇『ヘンリー六世』三部作(1591年の作と考えられる)の中で描かれる。

1461年3月4日~1485年8月22日

House of York

プランタジェネット朝ヨーク家

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_York

https://www.royal.uk/yorkists

古英語にフランス語の要素が混入した中英語の話者。

1461年3月4日~1470年10月3日、再び1471年4月11日~1483年4月9日

エドワード四世(Edward IV, 1442-83; 在位1461-70 & 1471-83)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_IV_of_England

https://www.royal.uk/edward-iv

ヨーク家から出た初代国王。最初の九年間の在位中は1455年に勃発していた薔薇(バラ)戦争(Wars of the Roses, 1455-87)の影響で戦乱の世。ランカスター家のヘンリー六世の歿後に国王に返り咲いてからは自身の死まで平和が続く。

1483年4月9日~6月25日の十一週間のみ

エドワード五世(Edward V, 1470-83?; 在位1483)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_V_of_England

https://www.royal.uk/edward-v

12歳の少年王だったが、十一週間=77日間(異説では86日間)だけの王位(ジェイン・グレイの9日間を除外すれば英国最短記録)。叔父のリチャード三世によってロンドン塔(Tower of London)に幽閉の後、殺害されたが、死亡した正確な場所や厳密な年月日は今も謎。

1483年6月26日~1485年8月22日

リチャード三世(Richard III, 1452-85; 在位1483-85)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VI_of_England

https://www.royal.uk/richard-iii

醜悪(しゅうあく)な姿をした王位簒奪者(おうい さんだつ しゃ)で、歴史上の悪役。シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)劇に登場する劇中人物(dramatis personae)の中でも最も兇悪(きょうあく)とされる。なお、シェイクスピアが史劇『リチャード三世』(The Tragedy of King Richard the Third)を執筆したのは同国王の薨去(こうきょ)から百年余りが経過した1592-94年頃と考えられている。

現実の国王リチャード三世もシェイクスピア劇と同様に、その治世は長続きせず、1485年のボズワースの戦い(Battle of Bosworth)で、後述するヘンリー・テューダー(後の国王ヘンリー七世)の軍勢に敗れて戦死している。英国史ではリチャード三世の薨去(こうきょ)が「イングランドに於()ける中世の終 わり」(the end of the Middle Ages in England)とされる。ここにイングランドのルネッサンス(English Renaissance)が始まる。

2012年8月にイングランド中部地方(the Midlands)のレスター(Leicester)市内の元修道院・現駐車場の地下から掘り出された遺骨がカナダ在住の同国王子孫とDNAの型が一致したため、リチャード三世のものと確認された。2015年3月26日(木)の英新聞各紙報道によると、英人気俳優のカンバーバッチ(Benedict Cumberbatch, b.1976)氏がリチャード三世と血縁関係にあることがDNA鑑定で確認されたとのこと。

1485年8月22日~1603年3月24日

House of Tudor (Tudor dynasty)

テューダー朝

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Tudor

https://www.royal.uk/tudors

中英語から初期近代英語への過渡期の英語話者。薔薇(バラ)戦争で争っていたランカスター家とヨーク家を統合。ヘンリー七世(Henry VII, 1457-1509; 在位1485-1509)によるリチャード三世(Richard III, 1452-85; 在位1483-85)からの王位奪取(おうい さんだつ: usurpation ユザペイシュン)でテューダー朝が成立。権威を保証する正統性という点では、ヘンリー七世の王位主張の根拠は疑わしいものだった。母方のボーフォート家(the House of Beaufort)がエドワード三世(Edward III, 1312-77; 在位1327-77)の息子、初代ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt, 1st Duke of Lancaster, 1340-99)の血統であること、しかも一度は継承権を公式に否定された血統であるという根拠は国王たるに充分ではなく、議会は1485年のボズワースの戦い(Battle of Bosworth)でのヘンリーの勝利が神意の表れであるとして、ヘンリーの王位を認定。文化的にはこのテューダー朝の開始と共にイングランドのルネッサンス(English Renaissance)時代が始まったとされる。

ヘンリー七世からジェイムズ一世(スコットランドでは六世)に至るテューダー朝の家系図

https://en.wikipedia.org/wiki/English_monarchs'_family_tree#House_of_Tudor (右端の [show] をクリック)

https://www.kingandqueen.jp/family-tree.pdf

1485年8月22日~1509年4月21日

ヘンリー七世(Henry VII, 1457-1509; 在位1485-1509)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VII_of_England

https://www.royal.uk/henry-vii

ランカスター家の出身でウェールズ生まれ。王位簒奪(さんだつ)者リチャード三世(Richard III, 1452-85; 在位1483-85)を1485年にボズワースの戦い(Battle of Bosworth)で討ち取り、政略結婚で敵のヨーク家から妃(きさき)を迎えることで和解し、ヨーク家とランカスター家の両家を統合したテューダー朝を起こした。このことで薔薇(バラ)戦争(Wars of the Roses, 1455-87)を公式に終わらせたことになるが、まだ二年ほど火種が燻(くすぶ)り続けた。ヘンリー七世は上記の戦争で疲弊したイングランドの国内経済を立て直し、貴族への統制を強めた。対外的にはハプスブルク帝国(神聖ローマ帝国=現在のドイツ・墺太利その他とスペインの二重帝国)とフランス王国という大陸の二大強国の顔色を窺(うかが)いつつ、北の宿敵スコットランド王国の動きを警戒した。1494年にハプスブルクとフランスがイタリア半島を巡って戦争をしてくれたお蔭でイングランド王国は助かったが、ハプスブルク家(西 la Casa de Habsburgo; 独 das Haus Habsburg; 英 House of Habsburg)のマクシミリアン一世(Maximillian I, 1459-1519; ローマ王在位 1486-1519; 神聖ローマ皇帝在位1508-1519)に多額の貢物を捧げてイングランドの安全を保障してもらった。

また、ヘンリー七世は息子の王太子アーサー(Arthur, Prince of Wales, 1486-1502)の妃として、ハプスブルク家のスペイン国王フェルディナンド(西 Fernando el Católico; 英 Ferdinand II of Aragon, 1452–1516; カスティーリャ王フェルディナンド五世としての在位1475-1504; アラゴン王フェルディナンド二世としての在位1479-1516)と王妃イサベル(西 Isabel I de Castilla; 英 Isabella I of Castile, 1451-1504)の間の娘カタリナ=英名キャサリン(西 Catalina de Aragón; 英 Catherine of Aragon, 1485-1536)の婚姻を成立させたが、これもハプスブルク家と良好な関係を結ぶためだった。ところがアーサーが夭折(ようせつ)してしまったことから、キャサリンは新王太子ヘンリー(Henry, Prince of Wales, 1491-1547)=後の国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)の妃になり、世界史を塗り替えるような出来事(下記参照)に繋(つな)がるのであった。

1509年4月22日~1547年1月28日

ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_of_England

https://www.royal.uk/henry-viii

国王ヘンリー七世(上記参照)の次男として生まれたが、兄アーサー(Arthur, Prince of Wales, 1486-1502)の早すぎる死により満10才にしてスペイン王国のアラゴン王家の満16才の娘カタリナ=英名キャサリン(西 Catalina de Aragón; 英 Catherine of Aragon, 1485-1536)と婚約させられる。1509年に王位に就いた後、ヘンリー八世は上記のキャサリンと正式に結婚した。ヘンリー八世は、元来はドイツのルター(Martin Luther, 1483-1546)が1517年に起こした宗教改革(Reformation れッフォメイショ ン)に鋭く反発し、羅典(ラテン)語で反ルター論文を発表した功績で、1521年10月11日に教皇レオ十世(Leo X, 1475-1521; 教皇在位1513-21)に褒()められ、「信仰の擁護者(羅 Fidei Defensor; 英訳 Defender of the Faith)」の称号を授(さず)かって悦に入っていた。

ところが亡き兄の遺した嫁キャサリンとの婚姻状態の無効を1527年に教皇クレメンス七世(羅 Clemens VII; 英 Clement VII, 1478-1534; 教皇在位1523-34)に認めてもらう試みが、キャサリンの甥に当たり、当時ローマを占領中だった神聖ローマ皇帝カール五世(羅 Carlus V; 独 Karl V.; 英 Charles V, 1500-58; 在位1519-56)が教皇に圧力をかけ、叔母キャサリンの離婚を阻止した。キャサリンとの婚姻の無効を訴えた不真面目な理由としては、宮廷女官で愛人のアン・ブーリン(Anne Boleyn, 1501-36)と肉体関係を持っていたからという話が有名である。しかしながら、真面目で切実な理由もある。それは男の子の嗣(よつぎ)=世継ぎが生まれなかったことである。王妃キャサリンは五度の早産や流産の末に漸(ようや)く1516年2月18日に子を産んだが、ヘンリー八世が落胆したことに女児であった。これが後にイングランド史上で事実上初の女性君主と成り、「血まみれのメアリー」(Bloody Mary)の異名(いみょう)がついた女王メアリー一世(Mary I, 1516-58; 在位1553-58)である。ヘンリー八世としては女性君主の前例(precedence)が無いこと、女性だと外国の男性国王や国内外の貴族たちに舐()めてかかられ、イングランドの王家が危機に陥(おちい)ると信じていた。それは何もヘンリー八世だけが特別に保守的だったわけではなく、当時の当たり前の常識であった。

ヘンリー八世は1529年から1536年まで断続的に議会を召集して議員たちに宗教改革の議題を話し合わせた。そんな中、愛人のアン・ブーリン(Anne Boleyn, 1501-36)が妊娠していることが発覚した。私生児(an illegitimate child)として生まれてくると、その子に王位継承権(right of succession)が無くなってしまうため、ヘンリー八世は取り急ぎ1533年1月に秘密結婚(clandestine marriage)をする。同年(1533年)4月にはカンタベリー大教(現在のカンタベリー大教に相当)トマス・クランマー(Thomas Cranmer, 1489-1556)によってヘンリー八世とキャサリンの結婚がそもそも無効だったと認められ、同年(1533年)6月にはアン・ブーリンが正式に王妃(Queen)となった。新王妃は同年(1533年)9月7日に待望の赤ちゃんを産んだが、ヘンリー八世の期待もむなしく女児=後の女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)だった。そして同年(1533年)11月、ヘンリー八世は遂(つい)にローマのカトリックと袂(たもと)を分かって上訴禁止法(Statute in Restraint of Appeals)を成立させ、ローマ教皇庁への直訴を禁止した。このことでイングランド王国がローマの軍門に下ることのない主権国家(a sovereign state)であることが高らかに宣言された。ヘンリー八世はまた初めて公文書で自らを「陛下」(His Majesty)と呼ばせた最初のイングランド君主でもある。キャサリンとの婚約・結婚は過去に遡及(そきゅう)して無効であると宣言し、愛人のアン・ブーリン(Anne Boleyn, 1501-36)と秘密結婚した。1534年国王至上法(Act of Supremacy 1534)によりカトリックを捨ててプロテスタント派の国教をつくり、自らが教皇(ローマ法王)に代わり宗教界のトップに君臨した。

イングランドでは二院制(bicameral system)の議会が力を失わずに現在まで続いているが、ヘンリー八世は下院=庶民院と上院=貴族院にそれぞれ国王至上法の承認を得なければならなかった。しかしながら、議員の大半がカトリック信徒だったため、国王至上法の議会承認には困難が伴った。そこでヘンリー八世は当時絶大な経済力を誇っていたカトリック修道院を解散させ、下院の大半を占めるジェントリー(gentry)階級に元修道院の土地を安値で売り渡すことで下院議会の支持を取り付けた。反対する勢力を処刑するなど弾圧していき、上院議会の貴族たちは恐れて承認した。それに敢然(かんぜん)と反対したのが羅典(ラテン)語の著作 『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』(Libellus vere aureus, nec minus salutaris quam festivus, de optimo rei publicae statu deque nova insula Utopia, 1516)、通称 『ユートピア』(Utopia, 1516)の著者として今日では有名な人文主義者・聖職者の元大法官トマス・モア(Sir Thomas More, 1478-1535)であるが、国王ヘンリー八世はトマス・モアを含むカトリック信徒約300名を処刑した。

1538年12月には 教皇パウルス三世(羅 Paulus III; 英 Paul III, 1468-1549; 教皇在位1534-49)によって、ヘンリー八世は正式に破門され(excommunicated)た。愈々(いよいよ)教皇と対立を深めるヘンリー八世は、イングランド&ウェールズのカトリック修道会を殲滅(せんめつ)して修道院を破壊し、莫大な財産を没収した。これによってイングランドでは宗教勢力の権勢が衰え、代わって国王による世俗権力が強められた。

なお、二番目の妻で王妃のアン・ブーリンはヘンリー八世に飽きられて(生まれてきた一人目は女の子=後の女王エリザベス一世で、二人目は男の子だったが流産してしまったことにヘンリー八世が激怒したとも言われる)、姦通(かんつう: adultery)の容疑で1536年に斬首処刑された。三番目の妻で王妃ジェイン・シーモア(Jane Seymour, c.1508-37)は待望の男児=後の国王エドワード六世(Edward VI, 1537-53; 在位1547-53)を産むも産褥熱(postnatal complications)で満28歳の若さで死去し、ヘンリー八世と同じ霊廟に埋葬される許可が下りた。ジェイン・シーモアはヘンリー八世の六人の妻たちの中で王妃として埋葬された唯一の例である。四番目の妻(王妃になる間もなく離縁)クリーヴズのアン(Anne of Cleves, 1515-57)は1539年に結婚したものの僅(わず)か半年間で離縁されたが、肖像画と実物の違いがあり過ぎて、ヘンリー八世は一度も同衾(どうきん)=ベッドを共にしなかったと言われている。しかし処刑されなかっただけ幸運であった。五番目の妻(四番目の王妃)のキャサリン・ハワード(Catherine Howard, c.1523-42)もアン・ブーリンと同様に姦通(かんつう: adultery)の容疑で1542年に斬首処刑された。同年(1542年)にヘンリー八世は宿敵スコットランド王国に「婚姻を結んで同盟国になろう」と持ちかけるも断られた腹いせにスコットランドを侵略するが、却って返り討ちに遭い、「乱暴な求愛」と世間の笑い者になった。1543年には六番目の妻(五番目の王妃)にして金持ちの未亡人キャサリン・パー(Catherine Parr, 1512-48)と結婚し、ヘンリー八世が四年後に死ぬまで添い遂げる。

1547年1月28日~1553年7月6日

エドワード六世(Edward VI, 1537-53; 在位1547-53)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VI_of_England

https://www.royal.uk/edward-vi

国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)が三番目の妻ジェイン・シーモア(Jane Seymour, c.1508-37)に産ませた待望の男児にして、満9才3ヶ月で王位に就いた少年王。側近の助けを借りて父ヘンリー八世の築いた国教をカトリックから更(さら)に遠ざけ、よりプロテスタント的なものにした。二度にわたる礼拝統一法(Act of Uniformity of 1549 & Act of Uniformity 1552)の制定や英語による『一般祈祷書』(Book of Common Prayer, 1549)の発行により、イングランド国教会の脱カトリックが進んだ。

国王エドワード六世の母方の伯父であるエドワード・シーモア(Edward Seymour, 1st Duke of Somerset, c.1506-52)は幼い同国王の王位継承直前にサマセット公(Duke of Somerset)の位を創設し、自ら護国卿(Lord Protector)=事実上の摂政(Prine Regent)と成ってイングランドの事実上の支配者となった。ところが1552年1月22日に初代サマセット公エドワード・シーモアが大逆罪(high treason)で処刑されると、ノーサンバランド公ジョン・ダドリー(John Dudley, 1st Duke of Northumberland, 1502-53)が実権を握り、若き王に政治教育を行なったが、エドワードの病状から死期が近いと悟ったジョン・ダドリーは、エドワード亡き後について画策(かくさく)し、後述するジェイン・グレイ(Lady Jane Grey, 1537?-54; 在位1553年中の9日間)を次期国王(イングランド史上初の女王)に擁立することをエドワード六世に認めさせた。なお、ノーサンバランド公ジョン・ダドリー自身は、ジェイン・グレイの後にカトリック信徒の女王となったメアリー一世(Mary I, 1516-58; 在位1553-58)によって1553年8月22日に大逆罪(high treason)で処刑されてしまう。

この国王の治世で行なわれた国家的な事業としては、1549年に刊行された英語による『一般祈祷書』(Book of Common Prayer, 1549)が挙げられる。それまでの羅典(ラテン)語ではなく、自国語であるイングランド語(English: 今でいう英語)を用いて祈祷文の集大成を刊行したことがプロテスタント精神を体現した。しかしながら、エドワード六世は半年もの間、発熱と咳(せき)がおさまらず、満15歳9ヶ月にも満たずに薨去(こうきょ)してしまう。生涯独身で子なし。ほぼ同年代の従姉(いとこ)のジェイン・グレイ(下記参照)を跡継ぎに指名して死んでいき、メアリーやエリザベスといった異母姉妹を無視したために混乱が生じる。

1553年7月6日~9日

王位空白期間

1553年7月10日~19日の九日間のみ

ジェイン・グレイ(Lady Jane Grey, 1537?-54; 在位1553)

https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Jane_Grey

https://www.royal.uk/lady-jane-grey

亡き国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)の姪(niece)の娘(daughter)として生まれ、少年王エドワード六世(上記参照)が死の床で次期君主に指名したことでイングランド王国史上初の女王になったつもりだった。なお、北隣のスコットランド王国には既に悲劇の女王メアリー・スチュアート(Mary Stuart, or Mary, Queen of Scots, 1542-87; スコットランド君主在位1542-67 https://sites.google.com/site/xapaga/home/feminism )がいた。しかしながら、亡き国王エドワード六世の異母姉に当たるメアリー一世 (下記参照)が女王であることを宣言したために廃位させられた。1553年7月10日から同月19日までの名 ばかりの(nominal; titular)イングランド女王を務めた。英国最短記録の在位期間と言えるが、ジェイン・グレイを君主(女王)として公式にはカウントすべきでないとする学者もいるので(但し、英国王室公式ウェブサイトはジェイン・グレイを君主としてカウントしている)、その説に従えば86日間在 位したエドワード五世(Edward V, 1470-83?; 在位1483)が最短となる。同年(1553年)11月に夫のダドリー卿(Lord Guildford Dudley, c.1535-54)とともに女王メアリー一世に対する大逆罪(high treason)で有罪判決を受け、ロンドン塔(Tower of London)に幽閉され、翌年(1554年)2月12日にロンドン塔内の中庭で満16才の若さで斬首された。「血まみれのメアリー」(Bloody Mary)による最初の犠牲者とされる。三日天下ならぬ九日天下。

なお、夏目金之助(なつめ きんのすけ, 1867-1916)=後の作家、夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)=は、文部省(現在の文部科学省の前身)の命令で英語教育法研究のため派遣されていた英国留学中に(1900年9月8日(土)橫濱(横浜)港を出港、同年=1900年10月28日(日)英国着、1902年12月5日(金)英国出国、1903年1月下旬帰国)、英京倫敦(えいきょう ロンドン)にて国民絵画館(National Gallery)を訪れ、フランス画家ポール・ドゥラロシュ(Paul Delaroche, 1797-1856)による縦246cm×橫297cmの大作油彩画 『ジェイン・グレイの処刑』(The Execution of Lady Jane Grey, 1833)を見て大きな衝撃を受けた。その時の衝撃に基(もと)づいて書かれた短篇小説が、帰国後の1905年に発表した夏目漱石(なつめ そうせき, b.1867-1916)名義の「倫敦(ロンドン)塔(たふ)」である。その中に下記のような一段落がある。ちなみにドゥラロシュは恰(あたか)も処刑現場を見てきたかのように描いているが、ジェイン・グレイの処刑から二百四十三年後の生まれであり、この絵画の完成は実際の処刑から二百七十九年後のことである。したがって画家の創造の産物であり、個々の描写には様々な嘘(ウソ)が混じっている。

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Execution_of_Lady_Jane_Grey

始(はじめ)は兩方(りやぅほぅ)の眼()が霞(かす)んで物(もの)が見()えなくなる。やがて暗(くら)い中(なか)の一點(いつてん)にパツと火()が點(てん)ぜられる。其(その)火()が次第(しだい)/\に大(おほ)きくなつて內(うち)に人(ひと)が動(うご)いてゐる樣(やぅ)な心持(こゝろも)ちがする。次にそれが漸々(ぜん/\)(=徐々に)明(あか)るくなつて丁度(ちやぅど)雙眼鏡(さぅがんきやぅ)の度()を合(あは)せる樣(やぅ)に判然(はんぜん)と眼()に映(えい)じて來()る。次(つぎ)に其(その)景色(けしき)が段々(だん/\)大(おほ)きくなつて遠方(ゑんぽぅ)から近(ちか)づいて來()る。氣()がついて見()ると眞中(まなか)(=真ん中)に若(わか)い女(おんな)が坐(すわ)つて居()る、右(みぎ)の端()には男(おとこ)が立()つて居()る樣(やぅ)だ。兩方(りやぅほぅ)共(とも)どこかで見()た樣(やぅ)だなと考(かんが)へるうち瞬(また)たく間()にズツと近(ちか)づいて余()(=私)から五六間(ごろつけん)(=約9~10メートル)先(さき)で果(はた)と停(とま)る。男(おとこ)は前(まへ)に穴倉(あなぐら)の裏(うら)で歌(うた)をうたつて居()た眼()の凹(くぼ)んだ煤色(すゝいろ)をした、脊(せい)の低(ひく)い奴(やつ)だ。磨()ぎすました斧(おの)を左手(ひだりて)に突()いて腰(こし)に八寸(はつすん)(=約24センチ)程(ほど)の短刀(たんたぅ)をぶら下()げて身構(みがま)へて立()つて居()る。余()は覺(おぼ)えず(=思わず)ギヨツとする。女(おんな)は白(しろ)き手巾(しゆきん)(=ハンカチ)で目隱(めかく)しをして兩(りやぅ)の手()で首(くび)を載()せる臺(だい)を探(さが)す樣(やぅ)な風情(ふぜい)に見()える。首(くび)を載()せる臺(だい)は日本(につぽん)の薪割臺(まきわりだい)位(ぐらい)の大(おほ)きさで前(まへ)に鐵(てつ)の環()が着()いて居()る。臺(だい)の前部(ぜんぶ)に藁(わら)が散()らしてあるのは流(なが)れる血()を防(ふせ)ぐ要愼(よぅじん)(=用心)と見()えた。背後(はいご)の壁(かべ)にもたれて二三人(にさんにん)の女(おんな)が泣()き崩(くず)れて居()る、侍女(じじよ)でゞもあらうか。白(しろ)い毛裏(けうら)を折()り返(かへ)した法衣(ほふえ)を裾(すそ)長(なが)く引()く坊(ぼぅ)さんが、うつ向()いて女(おんな)の手()を臺(だい)の方角(ほぅがく)へ導(みちび)いてやる。女(おんな)は雪(ゆき)の如(ごと)く白(しろ)い服(ふく)を着()けて、肩(かた)にあまる金色(こんじき)の髪(かみ)を時々(とき/\゛)雲(くも)の樣(やぅ)に搖()らす。ふと其(その)顏(かほ)を見()ると驚(おどろ)いた。眼()こそ見()えぬ、眉(まゆ)の形(かたち)、細(ほそ)き面(おもて)、なよやかなる頸(くび)の邊(あた)りに至(いたる)迄(まで)、先刻(せんこく)見()た女(おんな)其儘(そのまゝ)である。思(おも)はず馳()け寄()らうとしたが足(あし)が縮(ちゞ)んで一歩(いつぽ)も前(まへ)へ出()る事(こと)が出來(でき)ぬ。女(おんな)は漸(よぅや)く首斬(くびき)り臺(だい)を探(さぐ)り當()てゝ兩(りやぅ)の手()をかける。唇(くちびる)がむつ/\と動(うご)く。最前(さいぜん)男(おとこ)の子()にダツドレー(= Dudley ダドリー)の紋章(もんしやぅ)を說明(せつめい)した時(とき)と寸分(すんぶん)違(たが)はぬ。やがて首(くび)を少(すこ)し傾(かたむ)けて「わが夫(おつと)ギルドフオード、ダツドレー(= Guildford Dudley ギルドフオッド・ダドリー)は旣(すで)に神(かみ)の國(くに)に行()つてか」と聞()く。肩(かた)を搖()り越(おこ)した一握(ひとにぎ)りの髪(かみ)が輕(かる)くうねりを打()つ。坊(ぼぅ)さんは「知()り申(まぅ)さぬ」と答(こた)へて「まだ眞(まこ)との道(みち)に入(いり)玉(たま)ふ(=給(たま)う)心(こゝろ)はなきか」と問()ふ。女(おんな)屹(きつ)として「まことゝは吾(われ)と吾夫(わがおつと)の信(しん)ずる道(みち)をこそ言()へ。御身達(おんみたち)の道(みち)は迷(まよ)ひの道(みち)、誤(あやま)りの道(みち)よ」と返(かへ)す。坊(ぼぅ)さんは何(なん)にも言()はずに居()る。女(おんな)は稍(やゝ)落()ち付()いた調子(てうし)で「吾夫(わがおつと)が先(さき)なら追付(おひつか)う、後(あと)ならば誘(いざな)ふて行()かう。正(たゞ)しき神(かみ)の國(くに)に、正(たゞ)しき道(みち)を踏()んで行()かう」と云(いひ)終(をは)つて落()つるが如(ごと)く首(くび)を臺(だい)の上(うへ)に投()げかける。眼()の凹(くぼ)んだ、煤色(すゝいろ)の、脊(せい)の低(ひく)い首斬(くびき)り役(やく)が重(おも)た氣()に斧(おの)をエイと取()り直(なほ)す。余()の洋袴(ズボン)の膝(ひざ)に二三(にさん)點(てん)の血()が迸(ほとば)しると思(おも)つたら、凡(すべ)ての光景(くゎうけい)が忽然(こつぜん)と消()え失()せた。

夏目漱石(なつめ そうせき, b.1867-1916)「倫敦塔」(1905年)

国立国会図書館(NDL: National Diet Gallery)デジタルコレクション(Digital Collection)より

(一部ルビを追加)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889302

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936189

目隠しをされた16歳の少女は――想像すると「怖い絵」5選

朝日新聞 AERAdot.

2017年9月16日(土)

https://dot.asahi.com/wa/2017091400024.html?page=1

https://dot.asahi.com/wa/2017091400024.html?page=2

https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2017091400077.html

https://dot.asahi.com/print_image/index.html?photo=2017091400024_1

https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2017091400077/1/

〝ブラッディ・マリー〟が最初に処刑した「イングランド初の女王」

劇的、謎深まる悲劇のヒロイン…「レディ・ジェーン・グレイの処刑」

産経ニュース

2017年10月5日(木) 8:48

https://www.sankei.com/life/news/171005/lif1710050015-n1.html

https://www.sankei.com/life/news/171005/lif1710050015-n2.html

https://www.sankei.com/life/news/171005/lif1710050015-n3.html

怖い絵展(Fear in Painting)

上野の森美術館(The Ueno Royal Museum)

2017年10月7日(土)~12月17日(日)

https://www.ueno-mori.org/exhibitions/article.cgi?id=226

http://www.kowaie.com/ (リンク切れ)

話題の「怖い絵展」。ほとんどの人が音声ガイド(有料)を使う理由

【のぞき見!リアルとくキュウ】「恐怖」をテーマに約80点が展示

ホウドウキョク

2017年10月28日(土)

https://www.houdoukyoku.jp/posts/20421 (リンク切れ)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171028-00010002-houdouk-cul (リンク切れ)

「怖い絵展」空前人気3時間半待ち 30代以下多数

日刊スポーツ

2017年11月20日(月) 9:51配信

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201711200000146.html

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171120-00057366-nksports-soci (リンク切れ)

『ジェーングレイの処刑』の意味〜悲劇のイングランド女王〜

美術系YouTuberいとはる

2019年10月24日(木) 公開

https://www.youtube.com/watch?v=1bfSXIcg1Ks

1553年7月19日~23日

王位空白期間

1553年7月24日~1558年11月17日

メアリー一世(Mary I, 1516-58; 在位1553-58)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England

https://www.royal.uk/mary-i

国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)とスペイン王国アラゴン王家出身のカタリナ=英名キャサリン(西 Catalina de Aragón; 英 Catherine of Aragon, 1485-1536)の娘だが、母親が五度の早産や流産の末に漸(ようや)く産んだ子がメアリー一世だった。

名目上イングランド初の女王に成ったジェイン・グレイの九日天下の後、名実ともにイングランド初の女王に成ったメアリー一世は独身で君主に成ったが、1554年にカトリックの強国スペインの十一歳も年下の皇太子で後の国王フェリペ二世(西 Felipe II; 英 Philip II of Spain, 1527-98; イングランド及びアイルランド王在位1554-58; スペイン王在位1556-98; ポルトガル王在位1581-98)と結婚した。夫のスペイン皇太子フェリペ(1556年の父王の死後はスペイン王フェリペ二世)は女王メアリー一世と結婚したと同時に、イングランド王国の共同統治者・国王フィリップ一世(King Philip I of England, 1527-98; 在位1554-58)をも名乗ったが、このことが外国のカトリック勢力を警戒する者たちの不信感・嫌悪感を招く。

父ヘンリー八世や異母弟エドワード六世(Edward VI, 1537-53; 在位1547-53)の政策に反し、母キャサリンのカトリック信仰を守り通した。イングランド王国を元のカトリック国家に戻して280名を超える(約290名とも言われる)プロテスタント信徒を火刑に処したことで国を混乱に陥(おとしい)れた。そのため「血まみれのメアリー」(Bloody Mary)の異名(いみょう)がつく。犠牲者の中にはヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)の国教樹立を強力に支えたカンタベリー大教(現在のカンタベリー大教に相当)トマス・クランマー(Thomas Cranmer, 1489-1556)もいた。満42歳で卵巣癌(ovarian cancer)で死去。結婚していたが子供はいなかった。

1558年11月17日~1603年3月24日

エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_I

https://www.royal.uk/elizabeth-i

国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)が元愛人にして二番目の妻アン・ブーリン(Anne Boleyn, 1501-36)に産ませた子がエリザベスである。当時男児の誕生を心待ちにしていたヘンリー八世は、またしても女児が誕生してしまったことに心を痛めた。

それでもエリザベス一世は父の意を汲()んで再びプロテスタント派の国教に戻し、カトリック信徒約200名を処刑した。ところが先代の姉メアリー一世(Mary I, 1516-58; 在位1553-58)のような “Bloody” の異名(いみょう)がつくことはなかった。これはエリザベス一世の側のイメージ戦略の勝利である。エリザベス一世は1558年11月17日に王位に就くや、早くもその翌年の1559年には礼拝統一法(Act of Uniformity 1559)の再宣言を行なってイングランド教会(Church of England: ウィキペディア日本語版では「イングランド国教会」の訳語で、日本の世界史教科書では伝統的に「英国国教会」の訳語)を国教(国の宗教)と定めた。1570年2月25日にエリザベス一世はローマ教皇ピウス五世(Pius V, 1504-72; 在位1566-72)から正式に破門され(excommunicated)た。1576年4月、エリザベス一世は礼拝統一法の徹底を強化する委員会を組織させ、翌年(1577年)にはカトリック取り締まりが田舎にまで及ぶようになった。そしてカトリックに対する残虐な仕打ちが続いた。たとえば1582年5月30日にはイエズス会修道士トマス・コタム(Thomas Cottam, 1549–82)が首吊(くびつ)り・内臓抉(えぐ)り・四つ裂き(hanged, drawn and quartered)の刑を受けた。すなわち、首吊り台にかけ、息のあるうちに降ろして生殖器を切り落とし、腹を切り裂き、死にかけた本人の目の前で引きずり出した内臓を燃やしてみせ、それから首を切り落とし、遺体をひきちぎり、ばらばらの手足等をあちこちの獄門にさらされる刑である。1583年にはカトリックのエドワード・アーデン(Edward Arden, c.1542-83)が女婿(むすめむこ)のジョン・サマヴィル(John Somerville, 1560-83)と共に捕らえられ、同年(1853年)12月に同様の刑を受けている。欧州大陸でカトリック神父となってイングランドに帰国したロバート・ディブデイル(Robert Dibdale, c.1556-86)=別名 ロバート・デブデイル(Robert Debdale, c.1556-86)は逮捕され、1586年に同様の刑を受けた。1591年12月には、かつてサウサンプトン伯(Earl Southampton)の家庭教師を務めていたカトリック信徒の学者スウィザン・ウェルズ(Swithun Wells, c.1536-91)が同様の刑を受けている。1593年にはカトリック取締法が議会を通過し、カトリック信徒をいとも容易(たやす)く逮捕・処刑できるようなった。カトリックに対する差別や弾圧がほぼ無くなるのは、1828年聖礼典審査法(Sacramental Test Act 1828)と1829年ローマ・カトリック信徒救済法(Roman Catholic Relief Act 1829)の施行以降である。

なお、宗教的な理由ではないが、1587年にはイングランド国内で自宅軟禁状態(house arrest)にしていたスコットランドの元女王メアリー・スチュアート(Mary Stuart, or Mary, Queen of Scots, 1542-87; スコットランド君主在位1542-67)がイングランド女王エリザベス殺害計画を立てたという罪状で首を刈られて処刑されている。メアリー・スチュアートについて詳細は、前期授業資料( https://sites.google.com/site/xapaga/home/feminism )を参照されたし。

しかしながら、エリザベス一世はイングランド教会にカトリック的な性格を残した妥協的な「中庸の道(via media)」を選択することで国の混乱を最小限に食い止めた。

女王エリザベス一世の支援の下(もと)、イングランドはポルトガルに倣(なら)ってアフリカ大陸に進出し、地元の王族や首長から黒人奴隷を買い集め、カリブ海の砂糖黍(サトウキビ)農園の白人農園主に売り渡すという奴隷貿易を始める(1807年まで)。

また、同女王は新大陸(南北アメリカ大陸)から略奪した財宝を積んだスペイン船を襲撃して宝を横取りするライセンスを私掠船(しりゃくせん privateers = 事実上の海賊船 pirate ships)に与え、豪商や貴族に出資させ、現在の感覚で言うベンチャー企業への億単位の投資のような経済活動を奨励した。これは同時にスペイン船の乗組員の皆殺しをも意味した。

イングランド王国による北米大陸への本格的な殖民が始まったのもエリザベス一世の治世下である。ウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh, 1552?-1618)により、1585年と1587年にロアノーク島(Roanoke Island)=現在の米国ノースカロライナ州(North Carolina, USA)の一部=への殖民の試みられた。ローリーは北米殖民地を建設する計画を宣言し、エリザベス一世から土地を与えられたため、未婚の女王(Virgin Queen)エリザベス一世に因(ちな)んでヴァージニア(Virginia)殖民地と名づけられた。

1587年11月4日には記録で確認できる日英の初接触があった。スペイン領カリフォルニア半島(現在のメキシコ合衆国の下(バハ)カリフォルニア半島)の聖ルカ岬(西 Cabo San Lucas, Península de Baja California; 英 Cape of St Luke, Lower California Peninsula)でイングランド人キャヴェンディッシュ(Sir Thomas Cavendish, 1560-92; ケイムブリヂ大学基督聖体学寮中退)船長の率いるイングランド私掠船「欲望」(Desire)号と同「満足」(Content)がスペインのガレオン船の聖アナ号(Santa Ana)=英訳 St Anne を襲撃略奪した際、20歳ぐらいのスペイン名クリスバル(Cristóbal)=ポルトガル名クリストヴァン(Cristóvão)=英名クリストファー(Christopher)と、16歳のスペイン名コスメ(Cosme)=ポルトガル名グスマン(Gusmão)=英名コスマス(Cosmas)と名乗る日本人切支丹(キリシタン)男性2名を保護し(スペイン側から見ると拉致し)、その後雇用した(スペイン側から見ると強制労働させた)という記録が残っている。この日本人男性2名は読み書きや計算の能力に長()けていたとも伝えられている。二人の日本人はキャヴェンディッシュ船長のもとで私掠船「欲望」の船員として働き、おそらくは日本人として史上初めて世界一周をし、記録は残っていないが、これまた日本人として史上初めてイングランドに上陸して三年程住んだ可能性がある。四年半後の1592年5月にキャヴェンディッシュ船長は南大西洋(South Atlantic)を航海中に31歳の若さで原因不明の死を迎えるが、日本人男性2名の消息もその辺りから不明となる。

エリザベス一世の治世下の1588年7月~8月、イングランド王国は迫りくるスペイン無敵艦隊(西 Grande y Felicísima Armada ; 英 Spanish Armada)を打ち破り(悪天候が防御のイングランド側に味方)、その後は海外進出して国力を高めた。シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)をはじめとした演劇が盛んになり、文化の華が咲いた。エリザベス一世は生涯独身で(但し、恋人はいた)、子供がなかったため処女王(Virgin Queen)の異名(いみょう)を取った。

エリザベス一世は治世末期の1600年12月31日にアジア貿易を独占する合本会社(joint stock company)としての東インド会社(英 EIC: East India Company)を勅許した。1874年に解散するまで二百七十余年間も存続することになる。

エリザベス一世自身は当時としては異様なほどの長寿を全(まっと)うし、満69歳半で薨去(こうきょ)した。長生きしたため、その治世も長く、四十四年四ヶ月にも及んだ。

1603年3月24日~1714年5月1日(1649年1月30日~1660年5月28日と、1688年12月23日~1689年2月12日の王位空白期間を除く)

House of Stuart

ステュアート朝

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Stuart

https://www.royal.uk/stewarts

https://www.royal.uk/united-kingdom-monarchs-1603-present

エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)が夫も子供もなく世を去ったため百十八年前の1485年から続いてきたテューダー朝(House of Tudor; Tudor dynasty)は御家断絶となる。国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)の姉マーガレット(Margaret Tudor, 1489-1541)の嫁ぎ先であるスコットランド王国のステュアート家(House of Stuart)が、今後はイングランドの王家をも兼ねることになる。ロンドンのイングランド議会によってスコットランドから招かれてロンドンに南下して来たので征服王朝ではない。1603年(慶長8年)2月12日に後陽成天皇(ごやうぜい てんのう; ごようぜい てんのう, 1571-1617; 在位1586-1611)の朝廷から征夷大將軍に任命されて江戸に幕府を開いた德川家康(とくがは いへやす; とくがわ いえやす, 1543-1616; 征夷大將軍在任1603-05)と時代が重なる。

ジェイムズ一世(スコットランドでは六世)からジョージ一世に至るステュアート朝の家系図

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/6/6e/House_of_Stuart.png

https://www.kingandqueen.jp/family-tree.pdf

1603年3月24日(但し、スコットランド王としては1567年7月24日)~1625年3月27日

ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; スコットランド国王在位1567-1625; イングランド国王在位1603-1625)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I

https://www.royal.uk/james-i

悲劇のスコットランド女王メアリー・スチュアート(Mary Stuart, or Mary, Queen of Scots, 1542-87; スコットランド君主在位1542-67; 前期資料 https://sites.google.com/site/xapaga/home/feminism1 参照)の一人息子で、イングランド国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)の姉マーガレット(Margaret Tudor, 1489-1541)の曾孫(ひまご)に相当する。1567年からスコットランド国王だったが、1603年3月24日からはイングランドの国王を兼務。スコットランド本国ではジェイムズ六世(James VI of Scotland, 1566-1625; 在位1567-25)と呼ばれ、プロテスタントの厳格なカルヴァン派のスコットランド教会(Church of Scotland)信徒だったが、イングランドに来てからは緩(ゆる)いプロテスタントのイングランド教会(Church of England)信徒となった。1605年11月5日には現在でも有名なカトリック信徒ガイ・フォークス(Guy Fawkes, 1570-1606; https://sites.google.com/site/xapaga/home/guyfawkes 参照)らによるテロ計画が事前に発覚して命拾いした。

1604年1月14日に国王ジェイムズ一世がハンプトン宮殿会議(Hampton Court Conference)にイングランド教会指導者たちとピューリタン指導者を招集し、彼らの間で英訳聖書の決定版を出すことを決議した。ジェイムズ一世は学者を集めて『旧約聖書』(The Old Testament)をヘブライ語原典から、そして『新約聖書』(The New Testament)をギリシア語原典から七年越しで訳させ、1611年5月2日に『欽定訳聖書』(The Authorised Version, or The King James Version)として出版させた。

1606年4月12日に国王ジェイムズ一世は、イングランド国旗「聖ゲオルギオスの十字」(St George’s Cross: https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_George's_Cross#/media/File:St_George's_Cross.svg )とスコットランド国旗「聖アンデレの十字」(St Andrew’s Cross: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/10/Flag_of_Scotland.svg )を組み合わせた初代ユニオンフラッグ(Union Flag: 「統合旗」の意 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Flag_of_Great_Britain_(1707–1800).svg )=通称ユニオンジャック(Union Jack: 「統合船首旗」の意)=を制定した。この国旗は後にアン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-1714)の治世(reign)の1707年5月1日にイングランド王国(Kingdom of England)とスコットランド王国(Kingdom of Scotland)が正式に合併してグ レートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)が成立した際に正式な国旗と成るが、更に後のジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)の治世の1801年1月1日(木)にグレートブリテン王国が西隣のアイルランド島を併合してグレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)が成立した際に若干(じゃっかん)のデザイン変更が為()され( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/a/ae/Flag_of_the_United_Kingdom.svg )、現在に至っている。

1607年5月14日には前年(1606年)に設立されたロンドン・ヴァージニア会社(Virginia Company of London)が会社定款(かいしゃ ていかん: articles of association)に基(もと)づき初の北米大陸英領殖民地であるジェイムズタウン(Jamestown)を築いた。町の名は時の英国王で殖民地の所有権を有する国王ジェイムズ一世の名に因(ちな)む。

1613年にはオランダ東インド会社(蘭 VOC: Vereenigde Oostindische Compagnie; 英訳名 Dutch East India Company, 1602-1799)に遅れること四年にして、イングランドの東インド会社(EIC: East India Company)が九州の平戸(現在の長崎県平戸市)に商館を設置した。二年後の1615年に同社はインド西部のカリカット(Calicut)=現在のコーリコード(Kozhikode)に根拠地を設けている。ところが1623年に平戸のイギリス(当時はまだイングランド)商館がオランダとの競合に敗れ、僅か十年の業務を終えて閉鎖してしまう。日本から一方的な撤退であり、以後は二百三十一年間も日英間の交易は途絶える。

1620年には十年以上前の1607年または1608年頃から宗教的信念の相違からイングランドに居づらくなってオランダ(カルヴァン主義の強い国)に移住していたた宗教的狂信者ピューリタン信徒たち(Puritans)102名が1620年7月にオランダを出港し、メイフラワー号(the Mayflower)で北米の英国殖民地ニューイングランド(New England: 現在の米国北東部マサチューセッツ州沿海部)に同年(1611年)11月に到達する。彼らをピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers: 直訳「巡礼者の父祖たち」)と呼ぶ。

1625年3月27日~1649年1月30日

チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_I_of_England

https://www.royal.uk/charles-i

先代の国王ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; 在位1603-25)の次男(第四子)として生まれたが、兄であるウェールズ大公ヘンリー・フレデリック(Henry Frederick, Prince of Wales, 1594-1612)が満18歳の若さで病歿したため国王と成る。

一応は国教(イングランド教会)の信徒だったが、フランス王家から嫁いできた王妃はカトリック信徒だった。絶対王政を敷こうとして議会と激しく対立した。1628年6月7日に議会では「権利の請願(Petition of Right)」が批准され、今後は国王が議会の承認なしに課税できなくなった。

1642年1月4日には議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(the House of Commons: 日本で言う衆議院)の議場に国王自らが乗り込んで、「5名の議員を国王に対する大逆罪(high treason)で逮捕するので引き渡せ」と下院議長(Speaker of the Lower House; Speaker of the House of Commons)に迫ったところ、議長は命がけでそれを阻止し、国王は何の成果もなく帰って行った。国王のこの行ないは、議会に対する重大な越権行為として末永く語り継がれ、それ以来歴代の国家元首は誰一人として議会下院=庶民院に足を踏み入れていない。

プロテスタント派のイングランド教会の信徒ながらカトリックにも融和的だったため、同年(1642年)8月22日にプロテスタント原理主義者ピューリタンに革命と内戦を起こされ、六年半後の1649年1月30日に処刑された。

過去には「血まみれのメアリー」(Bloody Mary)こと、メアリー一世(Mary I, 1516-58; 在位1553-58)に処刑された元イングランド女王ジェイン・グレイ(Lady Jane Grey, 1537?-54; 在位1553)の前例や、女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)に対する反逆罪で処刑された元スコットランド女王メアリー・スチュアート(Mary Stuart, or Mary, Queen of Scots, 1542-87; スコットランド君主在位1542-67; 前期資料 https://sites.google.com/site/xapaga/home/feminism 参照)の前例はあったが、在位中に処刑された国王としてはチャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)こそが英国史上最初で最後のケースである。

1649年5月19日~1660年4月4日

Commonwealth of England

イングランド共和国

https://en.wikipedia.org/wiki/Commonwealth_of_England

https://en.wikipedia.org/wiki/Oliver_Cromwell

https://www.royal.uk/interregnum-1649-1660

ピューリタン革命(Puritan Revolution)の勃発でプロテスタント原理主義者ピューリタンが天下をとる。最初で最後の共和制国家(君主なき国家)となる。クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)が独裁を強め、アイルランド島への本格的な侵略に乗り出す。三男のリチャード(Richard Cromwell, 1626-1712; 護国卿在任1658-59)も父亡きあと護国卿(Lord Protector)の地位を世襲するが、父ほどの器量や才能がなく、議会を解散して父以上の独裁政治を行なおうとして議会の反発を買い、就任から僅か八ヶ月で辞任を余儀なくされ、フランスに亡命した。その後、王政復古したイギリスに1680年頃に帰国し、満八十六歳近く(当時としては異様なほどの長命)まで静かな余生を送った。

1660年4月4日~5月28日

準備期間

1660年5月29日~1714年5月1日

House of Stuart (restored)

復位ステュアート朝

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Stuart

https://www.royal.uk/stewarts

スコットランドの王家がイングランドの王家を再び兼ねる。

1660年5月29日~1685年2月6日

チャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_II_of_England

https://www.royal.uk/charles-ii

十一年前の1649年に処刑されたチャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の次男(実質的な長男)。欧州大陸の亡命先(当初はフランス、後にオランダ)から帰還して王位に就いた。プロテスタント派の国教(イングランド教会)の信徒だったが、王政復古後の1661年6月、チャールズ二世とポルトガル王家ブラガンサ家の王女カタリーナ=英名キャサリン(葡 Catarina de Bragança; 英 Catherine of Braganza, 1638-1705)との結婚交渉が纏(まと)まる。持参金(dowry)としてイングランド王家がポルトガルからインド西部のボンベイ(Bombay)=現在のムンバイ(Mumbai)の一部と、北アフリカ(現在のモロッコ王国)の港町タンジェ(Tangier)に拠点を獲得。実際の成婚は翌年(1662年)5月21日のこと。キャサリンはイングランド王家(スコットランド王家も兼務)に嫁いでからも熱心なカトリック信徒であり続けた。

チャールズ二世の治世では、飽()くまでも国内的な意味で非常に重大な歴史的事件が2つも立て続けに起こっている。一つ目は1665年4月12日に初めて報告され、翌年(1666年)1月末にかけて続いたロンドン大ペスト(Great Plague of London, 1665-66)である。これによってロンドンで記録されているだけで68,596人が命を落とし(実際には10万人超とも言われる)、イングランド中部地方 (Midlands)のダービー(Derby)市にまでペストは拡散した。

もう一つは1666年9月2日(日)~5日(水)のロンドン大火(Great Fire of London)である。日曜日にロンドン橋(London Bridge)の近所のプディング小路(Pudding Lane)のパン屋の竈(かまど)から燃え広がった火は、日月火水の4日間に亘(わた)って燃え続け、ロンドン市内(現在の大ロンドン市シティ特別区)の家屋の約85%に相当する一万三千二百 (13,200)戸を焼失させた。死者数は不明で、記録されているのは6名しかいない。同年ロンドンで流行 したペストの菌が、この大火のお蔭で死滅し、結果として感染者低減に貢献したとする皮肉な説もある。三百五十年後の2016年9月には Great Fire 350 のイベントが首都ロンドンで開催された。

1673年3月29日にロンドンのイングランド議会が1673年審査法(Test Act of 1673)を制定し、カトリック信徒(Roman Catholics; papists)及び非国教徒(non-conformists)は公職(public office)に就けなくなる。この状態が1828年に審査法が廃止されるまで続くことになる

五十年前の1623年に日本市場から完全撤退していたイングランドが、その名もリターン号(the Return: 直訳「帰還」) という通商船を日本に派遣し、1673年7月9日から約二ヶ月間も長崎港で粘り続け、日英間の貿易再開を求めた。しかし幕府は十一年前の1662年に提出された『阿蘭陀(オランダ)風説書(ふうせつがき)』などからイングランドの国王が切支丹(キリシタン)=カトリック国であるポルトガル王国(三十四年前の1639年に日本から追放された国)の王女と結婚しているという聞き捨てならない情報を得ており、これを問題視した。また、五十年前に一方的に日本から撤退したことも併(あわ)せて非難し、イングランド側の要求を断固拒否した。そのためイングランドの通商船は成果なく撤退。そして1665年2月6日、国王チャールズ二世はこともあろうに死の床でカトリック(イングランド王国にとっては敵対勢力)に改宗し、宮廷は大騒動になる。

1685年2月6日~1688年12月23日

ジェイムズ二世(James II of England and Ireland or James VII of Scotland, 1633-1701; 在位1685-88)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/James_II_of_England

https://www.royal.uk/james-ii

スコットランドではジェイムズ七世と呼ばれる。1660年にアン・ハイド(Anne Hyde, 1637-71)という庶民(a commoner)女性と今で言うデキチャッタ婚または授かり婚(shotgun marriage)をして、8人の子をもうけたが6人は幼少期に死んでしまった。生き残った2人の娘のうちの姉の方は後の女王メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)であり、妹の方は後の女王アン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-14)である。庶民出身の妻は結婚から十年半後の1671年3月に早くも死去してしまったため、国王としての夫ジェイムズの姿を見ておらず、庶民出身の王妃(a commoner-turned-queen)に成ることは叶(かな)わなかった

二年半以上後の1673年11月にジェイムズはイタリア貴族令嬢と再婚した。ジェイムズは1685年に王位に就くと、フランス亡命中の1668年頃カトリック(イングランド王国にとっては敵対勢力に改宗していたことが発覚して問題になり、三年後の1688年には無血革命にまで発展した。流血沙汰なしで革命を達成できたので名誉革命(Glorious Revolution: 「栄()えある革命」の意)と呼ばれる。

革命を起こされてしまった元国王ジェイムズ二世は、五十五歳でフランスに再度亡命したが、イングランドの王位に復帰する夢を諦(あきら)めきれず、1689年3月にフランス軍と共謀してアイルランド島に上陸し、現地のカトリック勢力を焚(た)き付けてアイルランド島北部のアルスター地方のプロテスタント勢力を攻撃した。当初は成功したが、同年(1689年)8月12日にはロンドンデリーでオランダから来た新国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)の軍勢に対して敗走。翌年(1690年)7月12日にはボイン川の戦い(Battle of the Boyne)でウィリアム三世軍に決定的な敗北を喫し、1691年7月にも愛仏(アイルランド・フランス)同盟軍はイングランド軍によってとどめの最終敗北を喫し、約一万四千(14,000)人の軍勢でフランスへ逃げて行った。

結局元国王ジェイムズ二世は三度目のフランス亡命生活を余儀なくされ、フランスの五歳年少の「太陽王」(« le Roi-Soleil »)こと、国王ルイ十四世(Louis XIV, 1638-1715; 在位1643-1715)の庇護の下でカトリック信徒として十二年九ヶ月後の1701年9月16日に六十七年の生涯を閉じた。

Glorious Revolution

名誉革命

https://en.wikipedia.org/wiki/Glorious_Revolution

流血沙汰を避けることができたため、Glorious Revolution(直訳「栄()えある革命」、通常意訳「名誉革命」)と呼ばれる。これ以後はプロテスタント派の国教(イングランド教会)の者のみが王位に就くことができると規定された。1688年12月23日から1689年2月12日までの約一ヶ月間半は準備期間として王位不在。名誉革命(Glorious Revolution, 1688)の結果やって来たウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)の治世(reign)は、德川綱吉(とくがは つなよし; とくがわ つなよし, 1646-1709; 第五代征夷大將軍在任1680-1709)の時代に文化が爛熟した元祿(げんろく, 1688年10月23日~1704年4月16日)年間と重なる。

1688年12月23日~1689年2月12日

王位空白期間

1689年2月13日~1694年12月28日

メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)と夫ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)との共同統治

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_II_of_England

https://en.wikipedia.org/wiki/William_III_of_England

https://www.royal.uk/william-and-mary

夫のウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)との共同統治。男性国王と女王の二人(いとこ同士の夫婦)が国王を務めるという、今のところ英国史上最初で最後の対等の権力による「共同統治」が認められた状態と多くの資料に書いてあるが、上記の女王メアリー一世(1516-58; 在位1553-58)との名ばかり共同統治者・国王フィリップ一世(King Philip I of England, 1527-98; 在位1554-58)を名乗った夫のスペイン皇太子フェリペ=1556年の父王の死後はスペイン王フェリペ二世(西 Felipe II; 英 Philip II of Spain, 1527-98; イングランド及びアイルランド王在位1554-58; スペイン王在位1556-98; ポルトガル王在位1581-98)の先例もある。

いずれにせよ、ウィリアム三世もメアリー二世もともにステュアート家(スコットランドの王家)の血を引き、1649年にピューリタン革命で処刑されたチャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の孫であり、プロテスタント信徒だったので夫も妻と同等の国家元首(Head of State)の扱いを受けた。この時代のことを「ウィリアムとメアリー(William and Mary)」とも呼ぶ。アメリカでは1636年創立のハーヴァード大学(Harvard University)に次いで二番目に古い歴史を誇る1693年創立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)は、ウィリアム三世とメアリー二世による認可に基づき、イングランド王国領北米ヴァージニア殖民地(現米国ヴァージニア州)に創設された。

なお、国王が二人いる状態は、スコットランド王国では1094-97年に、イングランド王国では1170-83年に前例があったが、二人の王が対等の権力を有したわけではなかったため、今回のメアリー二世とウィリアム三世という2人の対等な国王が君臨したケースは英国史上唯一の例である(但し、上述したように女王メアリー一世と夫のスペイン国王フェリペ二世の名ばかり共同統治の先例も有る)。

1694年12月28日~1702年3月8日

ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)の単独統治

https://en.wikipedia.org/wiki/William_III_of_England

https://www.royal.uk/william-and-mary

上記のチャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の外孫。元来(がんらい)はオランダ貴族ヴィレム三世(Willem III, 1650-1702だったがプロテスタント信徒であることから、妻であり上記のチャールズ一世の孫であり、尚且(なおか)つ元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-88)の長女であるメアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)とともに英国議会によって国王として招かれた。1694年に妻のメアリー二世に先立たれてからは単独で国王になった。その間には先の名誉革命でカトリック国フランスに亡命した元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-88)の長男で、亡き女王メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)の弟でもあるスチュアート家のジェイムズ(James Francis Edward Stuart, 1688-1766)が、亡命先のフランスで1701年に自称「国王ジェイムズ三世」としてイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の王位を主張し、1766年元日に満七十七歳で亡くなるまで実に六十五年以上も主張し続けたが、カトリック信徒として議会に疎(うと)まれたため実際に王位に就くことはなかった。ウィリアム三世はオランダ出身ながら死ぬまで国王を続けることができた。

1701年には、二年前の1689年12月16日にイングランド議会で批准された「権利の章典」(Bill of Rights 1689)に基(もと)づき、同国王が「1701年王位継承法(Act of Settlement 1701)」を制定する。自身と共同統治だった亡き妻メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)の間に子供がなく、王位を継ぐ義妹(亡き妻の妹)であるアン(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-14)=後の女王にも後継者がいなかったこと、名誉革命によって国を追われたカトリック信徒の元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)の子孫が王位を主張することなどが危惧されたため制定された。この王位継承法の最重要事項は次の四点である。「王位継承者はステュアート家の血統であること」と「イングランド教会信徒のみが王位継承権を持つこと」と「カトリック信徒を配偶者とした者は王位継承権を失うこと」と「カトリック信徒は王位継承権を失うこと」である。これらは2015年3月26日(木)に「2013年王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)」が施行されるまで実に三百十四年間も有効だったし、2015年以降も相変わらず「イングランド教会信徒のみが王位継承権を持つこと」と「カトリック信徒は王位継承権を失うこと」は残された儘(まま)である。

ウィリアム三世は敵国フランスの経済を破綻させるために同国産のコニャック(cognac)とワイン(仏 vin; 英 wine)の酒税をつり上げ、イングランド国産の蒸留酒であるジン(gin)には減税を行なったことで、ジンの価格はビール(beer)よりも安くなった。ウィリアム三世の薨去(こうきょ)から半世紀が経過した十八世紀(1701-1800年)中盤のジョージ二世(George II, 1683-1760; 在位1727-60)の治世になると、イングランド労働者階級のジン摂取量が増え過ぎたことで、公衆衛生上の危機にまで発展した。ジンによる人々の退廃を描いた画家ウィリアム・ホガース(William Hogarth, 1697-1764)による1751年の絵画「ジン横丁」(Gin Lane: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d0/William_Hogarth_-_Gin_Lane.jpg / https://www.youtube.com/watch?v=B6J03q3t9ao / https://www.youtube.com/watch?v=UMPN7AM8N08 / https://www.youtube.com/watch?v=FZoJo8Iby0M )が注目を集めたことで、「ジン法」が制定されることになる。同法により蒸留酒の価格は引き上げられ、ジンの消費が減ったことで、以降はビールが主流になった。

ウィリアム三世の治世(reign)の終り頃の1700年前後にイングランド人作曲家ジェレミア・クラーク(Jeremiah Clarke, c.1674-1707)によって作曲された「デンマーク王子行進曲」(“Prince of Denmark’s March”)=通称「トランペット義勇軍」(“Trumpet Voluntary”)は現在も人気があり、1981年7月29日(水)に大ロンドン市に囲まれたシティー特別区(City of London)の聖パウロ主教座聖堂(St Paul’s Cathedral)にて執り行なわれたウェールズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)とスペンサー伯爵令嬢ダイアナ(Lady Diana Spencer, 1961-97)=後のウェールズ大公妃ダイアナ(Diana, Princess of Wales, 1961-97)の結婚式でも使われた。おめでたい場面だけでなく、戦歿者追悼式典でも使われる。

(動画)

2020年11月8日(日)の2020年戦歿者追悼式典(Remembrance Sunday 2020)

https://www.youtube.com/watch?v=jNAq3oQPwGQ (43:25-46:00 of 1:09:00)

1702年3月8日~1714年5月1日

アン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-1714)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Anne,_Queen_of_Great_Britain

https://www.royal.uk/queen-anne

上記のチャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の孫娘で、元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-88)の次女で、メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)の妹。在位開始時はイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の女王だったが、1707年5月1日にイングランド王国(Kingdom of England)とスコットランド王国(Kingdom of Scotland)が正式に合併してグ レートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)が成立したため、その王国の初代国王となる。そのため九十六年前の1606年4月12日に国王ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; スコットランド国王在位1567-1625; イングランド国王在位1603-1625)によって制定されていた初代ユニオンフラッグ(Union Flag: 「統合旗」の意 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Flag_of_Great_Britain_(1707–1800).svg )=通称ユニオンジャック(Union Jack: 「統合船首旗」の意)が正式な国旗と成った。

夫であるデンマークの王子との間に17回もの妊娠を経験しながら、成人にまで至った子が一人 もいなかった(一番長生きでも満11歳まで)。

アン女王の薨去(こうきょ)によってステュアート家(House of Stuart)は王家としては御家断絶となる。但し、アン女王の弟でカトリックの信仰を捨てないスチュアート家のジェイムズ(James Francis Edward Stuart, 1688-1766)が、亡命先のフランスで1701年に自称「国王ジェイムズ三世」としてイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の王位を主張し、1766年元日に満七十七歳で亡くなるまで実に六十五年以上も主張し続け、また自称「国王ジェイムズ三世」の死を受けて、息子のイケメン王子チャーリー(Bonnie Prince Charlie)こと、スチュアート家のチャールズ(Charles Edward Stuart, 1720-88)が1766年1月1日(水)からイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の王位を主張し、自身が歿する1788年1月31日(木)まで二十二年間も主張し続けたたため、ステュアート家が完全に消え去ったわけではなかった。

ちなみに日本への影響としては、第一次世界大戦(World War I; the First World War; the Great War, 1914-18)中の1914年12月18日(金)に営業を開始した東京驛の赤煉瓦驛舍が有名である。「コンドルさん」と呼ばれた在日英国人建築家ジョサイア・コンダー(Josiah Conder, 1852-1920)の教えを受けた日本人建築家、辰野金吾(たつの きんご, 1854-1919)と葛西萬司(かさい まんじ, 1863-1942)によるネオ・ルネサンス(neo-Rennaisance)の英国アン女王様式(Queen Anne style)である。約三十年半後の1945年5月25日(金)、米軍による猛爆で駅舎は炎上し、ドーム型天井屋根が吹き飛ばされたが、幸い全焼には至らずに済んだ。戦前の瀟洒(しょうしゃ)な外観が甦(よみがえ)るには、爆撃から約六十七年半後の2012年10月1日(月)の復原工事完成を待たねばならなかった。

1714年5月1日~7月31日

王位空白期間

1714年8月1日~1840年2月10日(月)

House of Hanover

ハノーヴァー朝

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Hanover

https://www.royal.uk/hanoverians

現王室の直接の先祖。ドイツのハノーファー(独 Hannover ノーファー ; 英 Hanover ハェノウヴァ)から来たが、英国議会の招きで来たので征服王朝ではない。1714年8月1日のジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)の治世(reign)開始から1830年6月26日(土)のジョージ四世(George IV, 1762-1830; 在位1820-30)薨去(こうきょ)までの116年間は「ジョージ時代」(Georgian period)である。しかし日本では屡々(しばしば)誤って「ジョージ王朝」と呼ばれる。この時代には産業革命(Industrial Revolution)が起こり文化が花開いた。ジョージ時代建築(Georgian architecture)は二十一世紀の現在も人気が高く、不動産物件としても庶民の憧れの的(まと)である。

ジョージ一世からヴィクトリア女王へ至るハノーヴァー朝の家系図

https://en.wikipedia.org/wiki/Family_tree_of_the_British_royal_family#House_of_Hanover (右端の [show] をクリック)

https://www.kingandqueen.jp/family-tree.pdf

1714年8月1日~1727年6月11日

ジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/George_I_of_Great_Britain

https://www.royal.uk/george-i

元来はドイツ貴族ゲーオルク・ルートヴィッヒ(Georg Ludwig, 1660-1727)であり、ドイツ語話者。スコットランド王家であるステュアート家の国王ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; 在位1603-25)の娘で、神聖ローマ帝国の一部であるボヘミア王国の王家に嫁(とつ)いだエリザベス(英 Elizabeth Stuart, Queen of Bohemia; 独 Elisabeth Stuart, Königin von Böhmen, 1596-1662)の娘で、ハノーファー(独 Hannover ノーファー; 英 Hanover ハェノウヴァ)選帝侯に嫁いだゾフィー(独 Sophie von der Pfalz; 英 Sophia of the Palatinate or Sophia of Hanover, 1630-1717)の長男。本来なら王位継承順位が50位よりも下位だったにも拘(かか)わらず、傍系ながらウィリアム征服王(William I of England or William the Conqueror, c.1028-87; 在位1066-87)の血を引くスコットランドのスチュアート家の国王ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; 在位1603-25)の子孫(曾孫)でプロテスタント信徒だからという理由で、1701年王位継承法(Act of Settlement 1701)に則(のっと)り英国議会に招かれた。英国王に加え、ドイツ中北部のハノーファー選帝侯(独 Kurfürst von Hannover; 英 Elector of Hanover)も兼務し続けた。

1714年8月1日にグレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)の新国王になったときは満54歳で、今さら英語を覚える気もさらさらなく、英国の政治家との話し合いには学校ラテン語(school Latin)やフランス語(French)を用いた。英語が苦手だからという理由で国王の政務が滞(とどこお)るといけないので、1721年に総理大臣(Prime Minister)という役職が新たにつくられて今日(こんにち)に至っている。初代総理大臣に抜擢されたのは、初代オーフオッド伯爵ロバート・ウォルポール(Robert Walpole, 1st Earl of Orford)だった。このためジョージ一世の治世に国王(国家元首)の権限が大いに弱められた。

なお、ジョージ一世のお抱え音楽家として音楽史に名を残すのがヘンデルである。この作曲家は元来ゲーオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel, 1685-1759)としてドイツで生を受けた。1710年にハノーファー選帝侯(独 Kurfürst von Hannover; 英 Elector of Hanover)のゲーオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig, 1660-1727; 在位1698-1727)=後の英国王ジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)の下(もと)で宮廷楽長(独 Hofkapellmeister ホーフカペルマイスター; 英訳 Court Band Master コートゥバェンドゥマースタ)の地位を得た。ところが宮廷楽長の地位はその儘(まま)にして職場放棄し、1712年には当時のグレートブリテン王国の首都ロンドンが気に入って移住してしまった。1714年にはグレートブリテン王国のアン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-14)の薨去(こうきょ)に伴ない、亡き女王の親戚筋に当たるハノーファー選帝侯が「ドイツから来た英会話の出来ない英国王」ジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)として英国に迎えられた。ドイツでの職場放棄の罪状を持つヘンデルは困り果てるが、うまく立ち回ってジョージ一世(出身国のドイツではゲーオルク・ルートヴィヒ選帝侯)との和解に成功する。ヘンデルは1727年に正式に英国に帰化してジョージ・フデリック・ハェンドゥル(George Frideric Handel, 1685-1759)となった。二十一世紀の現在でも彼の音楽は人気があり、昔も今も英独双方の音楽愛好家たちが「自国の作曲家だ!」と主張している。英人指揮者チャールズ・ヘイズルウッド(Charles Hazlewood, b.1966)氏が解説する The Birth of British Music: Handel - The Conquering Hero (直訳 「英国音楽の誕生: ヘンデル、勝利のヒーロー」)という題名の番組が2015年に英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)によって制作・放映された( https://www.youtube.com/watch?v=WYR5TP_Y_JA )。

話は前後するが、1715年8月27日にスコットランドの貴族が中心になって「ジェイムズ派の乱(Jacobite rising)」を起こし、イングランド北西部を侵略した。そこにカトリック信徒の自称「国王ジェイムズ三世」ことジェイムズ・エドワード・ステュワート(James Edward Stuart, 1688-1766)が亡命先のフランスから同年(1715年)12月22日にスコットランドに上陸し、戦線に加わった。しかしジェイムズは翌月(1716年1月)には病気のため戦線を離脱し、2月5日には再びスコットランドを離れてフランスに亡命した。このため、ハノーヴァー朝には暫(しば)しの平和が訪れた。

1727年6月11日~1760年10月25日(土)

ジョージ二世(George II, 1683-1760; 在位1727-60)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/George_II_of_Great_Britain

https://www.royal.uk/george-ii

先代の国王ジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)の長男。英国王に加え、ドイツ中北部のハノーファー選帝侯(独 Kurfürst von Hannover; 英 Elector of Hanover)も兼務し続けた。

ドイツ語話者ながら英語も多少こなした。十才の時の母の不倫と父の激怒による母の永久幽閉というトラウマ(trauma)から父ジョージ一世を憎み続けた。1714年、三十歳になる直前に突如(とつじょ)英国皇太子になってからも父=国王との不仲が続き、皇太子の居城は時の政府に不満を抱く野党勢力のたまり場になった。

その間には先の名誉革命(1688年)でフランスに亡命したカトリック信徒の元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-88)の孫で、亡き女王メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)や亡き女王アン(Queen Anne, 1665-1714; 1702-14) の甥に当たるカトリック信徒であり、三十年前の1715年に「ジェイムズ派の乱(Jacobite rising)」を起こした自称「国王ジェイムズ三世」ことジェイムズ・エドワード・スチュアート(James Edward Stuart, 1688-1766)の長男で「イケメン王子チャーリー(Bonnie Prince Charlie)」として知られるステュアート家のチャールズ(Charles Edward Stuart, 1720-88)が、父親の遺志を継いで1745年8月16日に「ジェイムズ派の乱(Jacobite rising)」を起こした。チャーリー王子はスコットランド軍を指揮して同年(1745年)11月にはイングランド北西部を侵略し、占領したランカスター(Lancaster)の中心に在()る市場広場(Market Square)で自称「国王チャールズ三世」を宣言したが、翌1746年4月にはジョージ二世のイングランド軍が反乱を鎮圧した。チャールズは以前に居た亡命先のカトリック国フランスに再び逃亡した。1740年代に成立したとされる国歌(The National Anthem)=通称「神よ國王を護り給へ」(“God Save the King”)=現在の通称「神よ女王を護り給へ」(“God Save the Queen”)は、最終連(6番)の歌詞( https://sites.google.com/site/xapaga/home/nationalanthems-1 )の中に「謀叛(むほん)を爲()す蘇格蘭人(スコットランドじん)を破(やぶ)らしめむ。」(Rebellious Scots to crush.)と出てくるが、まさにこの時代にスコットランドをあからさまに敵視して作られた歌だからである。

1751年5月22日に国王ジョージ二世は1750年暦(新方式)法(Calendar (New Style) Act 1750)を勅裁し、その法律に基づいて北米殖民地を含むグレートブリテン王国(英国)が 従来までのユリウス暦(羅 calendarium Iulianum; 英 Julian calendar)をやめて1752年9月14日(木)からグレゴリオ暦(羅 calendarium Gregorianum; 英 Gregorian calendar)を採用した。その際に11日間のズレが生じ、同年(1752年)9月2日(水)の翌日が9月14日(木)となった。なお、日本がグレゴリオ暦を採用するのは1873年(明治6年)1月1日(水・祝)のことであり、その前日は和曆明治5年12月2日(火)=西暦1872年12月31日(火)であった。

なお、ジョージ二世が愛人に産ませた子の子孫に、EU離脱推進派のジョンソン(Boris Johnson, b.1964; 首相在任2019-)内閣総理大臣がいる。

(動画)

ドイツ生まれのヘンデル(Georg Friedrich Händel, 1685-1759)がグレートブリテン王国に帰化してハェンドゥル(George Frederic Handel, 1685-1759)と成った作曲家が、ジョージ二世の1727年の戴冠式(たいかん しき)のために作曲した頌歌 『祭司ツァドク』(Zadok the Priest ゼイドック・ザプりースト)が、その後の戴冠式でも使い回されて必ず歌われる。

https://www.youtube.com/watch?v=zj65u_VY0uM

1760年10月25日(土)~1820年1月29日(土)

ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/George_III

https://www.royal.uk/george-iii

先代の国王ジョージ二世(George II, 1683-1760; 在位1727-60)の孫であり、先々代のジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)から見れば曾孫である。ジョージ二世在位中の1751年3月31日にウェールズ大公フレデリック皇太子(Frederick, Prince of Wales, 1707-51)が満44歳で病歿していたため、その長男であるジョージ三世が九年後の1760年10月25日(土)に満22歳で国王になった。英国王に加え、ドイツ中北部のハノーファー選帝侯(独 Kurfürst von Hannover; 英 Elector of Hanover)も兼務し続けた。ハノーヴァー朝(House of Hanover)の国王としては最初の英国生まれの王であり、英語話者でもある

ジョージ三世が王位に就いた翌年の1761年9月8日(火)にドイツ貴族令嬢のゾフィー・シャルロッテこと、英語名 シャーロット(独 Sophie Charlotte zu Mecklenburg-Strelitz; 英 Charlotte of Mecklenburg-Strelitz, 1744-1818)と結婚し、この新妻(王妃)のための居城としてロンドン西郊のウェストミンスター市(City of Westminster: 現在はロンドン中心部のウェストミンスター区)に在るバッキンガム館(Buckingham House)をバッキンガム公(Duke of Buckingham)の末裔(まつえい)から21,000ポンド(異説では28,000ポンド)で買い取った。以来七十年以上に亘(わた)って改装・増築を続け、その館は1837年のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の即位からバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)と名を変え今日(こんにち)に至っている。なお、室内にクリスマスツリー(独 Weihnachtsbaum ヴァイナハツバウ; 英 Christmas tree: 「聖誕祭樹木」の意)を飾る習慣は、この王妃が祖国ドイツから齎(もたら)した物であり、孫のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の夫アルバート公(Albert, Prince Consort, 1819-61)が1840年2月10日(月)の結婚で祖国ドイツから齎(もたら)したとする俗説は誤りである。

ジョージ三世は在位開始時、グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)の国王だったが、1801年1月1日(木)にグレートブリテン王国が西隣のアイルランド島を併合してグレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)が成立したため、連合王国(UK: United Kingdom)の初代国王となる。その際に初代ユニオンフラッグ(Union Flag: 「統合旗」の意 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Flag_of_Great_Britain_(1707–1800).svg )=通称ユニオンジャック(Union Jack: 「統合船首旗」の意)に若干(じゃっかん)のデザイン変更が為()され( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/a/ae/Flag_of_the_United_Kingdom.svg )、現在に至っている。

この国王の六十年にも及ぶ治世(reign)には様々なことがあった。「1759年=奇跡の年」(Annus Mirabilis of 1759)には南部担当国務大臣(Secretary of State for the Southern Department)として活躍する大ピット(William Pitt the Elder)こと、ウィリアム・ピット(William Pitt, 1708-78; 首相在任1766-68)=後の初代チャタム伯ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, 1708-78)が進める海外進出(悪く言うと侵略)で、欧州大陸、北米大陸、カリブ海、印度亜大陸、印度洋の全方面でグレートブリテン王国がフランス王国の軍勢に勝利した。これによりフランスの翳(かげ)りが濃厚となり、この弱体化が三十年後の1789年に勃発(ぼっぱつ)するフランス革命へと繋(つな)がった。逆に英国は地球を支配するような超大国(the dominant global superpower)と成った。

ところがアメリカ革命戦争(American Revolutionary War, 1775-83)=日本の世界史教科書で言う「アメリカ独立戦争」=で英国(グレートブリテン王国)は北米カナダを除くアメリカの13殖民地を喪失した。1783年9月3日(水)に締結されたパリ条約(Treaty of Paris, 1783)で決定したことだが、アメリカ側は自分たちが独立宣言を出した1776年7月4日(木)を「独立の日」(Independence Day)=日本のマスコミでは「アメリカ独立記念日」=と今でも主張している。そして英国の隣国では1789年にフランス革命(French Revolution, 1789-99)が起こり、益々不穏な時代に突入した。そして次にはほぼ間髪を入れずにナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821; 皇帝在位1804-14 & 1815)の擡頭(たいとう)と対ナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-15)があり、混迷の時代となった。

文化面では 『ブリタニカ百科事典』(Encyclopædia Britannica, 1768-71)の初版本や、トマス・ペイン(Thomas Paine, 1737-1809)著 『人間の権利』(Right of Man, 1791)や、それに対抗するメアリー・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft, 1759-97)著 『女性の権利の擁護』(A Vindication of the Rights of Woman, 1792)が刊行された。産業・経済面ではジェイムズ・ワット(James Watt, 1736-1819)が旧来の蒸気機関(steam engine)を大幅に改良して産業革命を推し進め、英国政府は所得税(income tax)を初めて導入した。

学問を奨励し、自らも蔵書や読書を好んだ開明的な国王ジョージ三世だったが、治世(reign)途中で発狂したため、国民からは狂王(the mad king)の印象が強くなってしまった。但し、後の研究によるとポルフィリン症(porphyria)の発作だったため、現代で言う発狂(insanity; madness)とは違うとのこと。ジョージ三世の治世最後の1811年6月19日(水)~1820年1月29日(土)の約八年半の間はウェールズ大公ジョージ皇太子=後の国王ジョージ四世(George IV, 1762-1830; 在位1820-30)が摂政(せっしょう: Prince Regent りンス・ゥりーヂェントゥ)として国事行為を執り行なった。先代のジョージ二世(George II, 1683-1760; 在位1727-60)の治世中1745年のジェイムズ派の乱(Jacobite rising)に失敗してフランスに亡命中のイケメン王子チャーリー(Bonnie Prince Charlie)こと、ステュアート家のチャールズ(Charles Edward Stuart, 1720-88)が、父親で自称「国王ジェイムズ三世」の死を受けて、1766年1月1日(水)からイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の王位を主張し、自身が歿する1788年1月31日(木)まで二十二年間も主張し続けたが、カトリック信徒として議会に疎(うと)まれたため実際に王位に就くことはなかった。

1820年1月29日(土)に満82歳で大往生したジョージ三世は、当時としては最長の六十年間も王位に就いていたが、その在位記録は孫のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の六十三年七ヶ月に抜かれることになる。

1820年1月29日(土)~1830年6月26日(土)

ジョージ四世(George IV, 1762-1830; 在位1820-30)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/George_IV

https://en.wikipedia.org/wiki/Caroline_of_Brunswick

https://en.wikipedia.org/wiki/Princess_Charlotte_of_Wales

https://www.royal.uk/george-iv

http://www.princemichaelschronicles.com/the-wife-of-george-iv/

先代の国王ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)の長男であり、1762年8月12日(木)に生まれた時から皇太子(王太子)だった。父ジョージ三世の発狂により(但し、後の研究によるとポルフィリン症の発作だったとのこと)、1811年6月19日(水)~1820年1月29日(土)の約八年半の間は摂政(せっしょう: Prince Regent りンス・ゥりーヂェントゥ)として父に代わって国事行為を執り行なった。そしてこの文化が爛熟(らんじゅく)した時代のことを摂政時代(せっしょう じだい: Regency era りーヂェンスィイァら)と呼ぶ。摂政時代に対ナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-15)を父王から引き継ぎ、1815年6月にナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821; 皇帝在位1804-14 & 1815)に対して最終的な勝利を収めた。

父王の治世があまりにも長かったため、王位に就いた時には満57歳5ヶ月になっていた。英国王に加え、ドイツ中北部のハノーファー選帝侯(独 Kurfürst von Hannover; 英 Elector of Hanover)も兼務し続けた。

摂政時代の1814年に画家ローレンス(Sir Thomas Lawrence, 1769-1830)によって描かれた肖像画( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/George_IV_by_Sir_Thomas_Lawrence.jpg )や、1816年に来(きた)るべき戴冠式(たいかん しき: Coronation コろネイション)用に同じくローレンスによって描かれた肖像画( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/George_IV_1821_color.jpg )では、肥満(obese)を隠して非常に美化されていた。しかしながら、現実にはウェールズ大公(Prince of Wales)を捩(もじ)った=パロった=「鯨(クジラ)の王子」(Prince of Whales)と揶揄(やゆ)されるような極度の肥満体であった。もっと若い頃の1792年に描かれた「消化の恐怖の下(もと)で酒色に耽(ふけ)る者」(“A Voluptuary under the horrors of Digestion”)と題された諷刺画(caricature)としての銅板画(engraving)( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/A-voluptuary.jpg )で、作者のギルレイ(James Gillray, 1756-1815)は皇太子時代のジョージ四世のだらしない肥満体を情け容赦なく描いている。この諷刺画で皇太子(後に国王)の頭上に、禁欲生活で百歳近くまで生きたヴェネチア共和国(現在のイタリア共和国の一部)の貴族コルナーロ(Luigi Cornaro, or Alvise Cornaro, 1467-1566)の肖像画が掛かっているのは見事な皮肉である。国王即位後の1821年には「最も秀逸なる国王ジョージ四世陛下」“His Most Excellent Majesty George the Fourth”)と題された横顔(profile)の銅板画(engraving)( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/His_Most_Excellent_Majesty_George_the_Fourth%2C_lithograph_by_T.C.P.%2C_from_the_original_by_George_Atkinson%2C_profile_artist_to_His_Majesty%2C_printed_by_C._Hullmandel%2C_published_by_G._Atkinson%2C_Brighton%2C_November_15%2C_1821.jpgが描かれ、ここでも作者のハルマンドゥル(Charles Joseph Hullmandel, 1789-1850)=ドイツ移民の父親の苗字はヒュルマンデル(Hüllmandel)=は、情け容赦なくジョージ四世の肥満体を描いている。

若き皇太子時代の1785年に愛人で未亡人のフィッツハーバート(Maria Anne Fitzherbert, 1756-1837)夫人(旧姓 Smythe スマイズ)と極秘に結婚しようと企(くわだ)てるも、カトリック信徒との結婚は王位継承権の剝奪を意味し、そのため父親の国王ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)の許可が得られなかった。ウェールズ大公ジョージ(後の国王ジョージ四世)はその後も金銭や女性関係や飲食にだらしなく遊び歩いていたが、秘密結婚計画から十年後の1795年4月8日(水)にドイツのブラウンシュヴァイク公爵令嬢カロリーネ(独 Caroline von Braunschweig-Wolfenbüttel; 英 Caroline of Brunswick, 1768-1821)=英語名 キャロライン=と政略結婚させられた。それは自身の膨大な借金を英国議会が肩代わりしてくれるという交換条件での結婚だった。結婚したその日からジョージは新妻キャロラインの体臭(おそらく腋臭(わきが))が嫌で嫌で堪(たま)らなく、キャロラインもジョージの肥満体に大いに失望し、二人が同衾(どうきん)した=ベッドを共にした=のは最初の二晩だけだったと伝えられている。翌年(1796年)に皇太子夫妻は別居した。キャロラインは「皇太子に迫害された被害者」というイメージを国民に植え付けることに成功し、一部の政治家も味方に付け、対ナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-15)がほぼ収束しつつあった1814年に欧州大陸への出国を議会から許可され、その後は自由に振舞った。不仲の夫妻にも1796年1月7日(木)にシャーロット王女(Princess Charlotte of Wales, 1796-1817)が生まれた。この国民に愛された可憐な王女は1816年5月2日(木)にドイツのザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵令息レオポルト(独 Prinz Leopold von Sachsen-Coburg-Saalfeld; 英 Prince Leopold of Saxe-Coburg-Saalfeld, 1790-1865)=後のベルギー国王レオポルド一世(Leopold I, 1790-1865; 在位1831-65)と結婚したが、1817年11月5日(水)に55時間に及ぶ難産の末に男児を死産し、翌日(1817年11月6日(木))には自身も産褥熱で死んでしまった。満21歳の若さだった。「歴史にもし(If)は無い」と言うが、もしシャーロット王女が死んでいなければ、1830年6月26日(土)からはシャーロット女王(Queen Charlotte)の治世(reign)になっていた筈(はず)であり、後述するヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の治世やその王統(her royal line of succession)=サックス=コーバーグ・アンド・ゴーサ家(the House of Saxe-Coburg and Gotha)及び現在にも続くウィンザー家(House of Windsor)=にはならなかった筈である

1821年5月の或()る朝のこと、ウィンザー城(Windsor Castle)内のジョージ四世の執務室(office)に侍従武官(aide-de-camp to His Majesty)が入ってくるなり、こう述べた。「光栄にも陛下にお知らせ申し上げます。陛下の最大の敵が死にました。」(I have the honour to inform your Majesty that your worst enemy is dead.)と。するとジョージ四世は即座に立ち上がり、武官の両手を握り、興奮した様子で、「妻がか?」(My wife?)と尋ねると、武官が「いいえ、陛下。皇帝ナポレオンです。」(No, your Majesty. Emperor Napoleon.)と答えたという逸話は有名である。なお、ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821; 皇帝在位1804-14 & 1815)が流刑先の英領聖ヘレナ島(Saint Helena)の長木館(Longwood House)にて胃癌(stomach cancer)のため満51歳で病歿したのは、1821年5月5日(土)のことである。また、四半世紀に亘(わた)って別居中の妻キャロラインが死んだのが同年(1821年)8月7日(火)のことである。そして両者とも(ナポレオンもキャロラインも)毒殺されたという憶測がある。

1830年6月26日(土)にジョージ四世の薨去(こうきょ)によって1714年8月1日から百十六年(a hundred and sixteen years)も続いたジョージアン(Georgian)と呼ばれる華やかな時代が終焉(しゅうえん)した。日本の歴史書に屡々(しばしば)書かれている「ジョージ王朝」は誤りであり、正しくはハノーヴァー朝(the House of Hanover; the Hanoverians)の大部分である。そしてハノーヴァー朝は十年足らず後の1840年2月10日(月)に姪(めい)のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)が結婚するまで続く。

ジョージ四世の突飛な贅沢さを示すのに格好な一例として、イングランド南部海岸沿いの街ブライトン(Brighton)市内に1787年から建築が着手され、国王即位後の1823年になって漸(ようや)く最後の内装が完成したロイヤル・パヴィリオン(Royal Pavilion; 中文表記で英皇閣)が有名である( https://ja.wikipedia.org/wiki/ロイヤル・パビリオン / https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Pavilion / https://brightonmuseums.org.uk/royalpavilion/virtual-tour/ )。印度サラセン復興様式(Indo-Saracenic Revival style)という、英領印度(British India)の役所などに用いられる堂々たる一種のゴシック様式(Gothic style)がそこには用いられていて、遠く支那(China チャイナ)を強く意識した長回廊(Long Gallery)などもつくった https://brightonmuseums.org.uk/royalpavilion/whattosee/reception-rooms/ / https://brightonmuseums.org.uk/royalpavilion/wp-content/uploads/sites/2/2014/10/RP-Long-gallery-.jpg )。皮肉なことに最後の内装が完成した1823年以降で国王ジョージ四世は病状の悪化(食べ過ぎによる消化不良と痛風)により、たったの二回(1824年と1827年)しかロイヤル・パヴィリオンを訪れていない。ジョージ四世の歿後二十年に当たる1850年、姪の女王ヴィクトリア(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)がロイヤル・パヴィリオンをブライトン市に売り払い、その後は同市が一般人から入場料を取って管理・公開し、今日に至(いた)っている。1872年後半には新生明治政府の岩倉使節團がこのロイヤル・パヴィリオンを訪れている。そのため日本の上流階級に影響を与え、神奈川縣(神奈川県)の大磯海岸などが海濱(浜)保養地として注目されるようになり、富裕層が別荘を建てるようになったのだと考えられている。また、第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)前半の1914~’16年にロイヤル・パヴィリオンは野戦病院(a military hospital)として機能した。

1830年6月26日(土)~1837年6月20日(火)

ウィリアム四世(William IV, 1765-1837; 在位1830-37)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/William_IV

https://www.royal.uk/william-iv

https://www.royal.uk/georgian-papers-released-prince-william-future-william-iv-writes-home-his-father-his-16th-birthday

先々代の国王ジョージ三世(上記参照)の三男(次男は1827年に死去)で、先代の国王ジョージ四世(上記参照)の弟に当たる。兄の薨去(こうきょ)により国王の座が回ってきたとき、ウィリアム四世は既に満64歳10ヶ月という高齢だったので、その治世が長続きすることがないことは誰でも想像できた。ウィリアム四世もご多分に漏れず英国王に加え、ドイツ中北部のハノーファー選帝侯(独 Kurfürst von Hannover; 英 Elector of Hanover)も兼務し続けた。在位中に1832年人民代表法(Representation of the People Act 1832)を勅裁したことで、中産階級にも選挙権が与えられた。ウィリアム四世は明るい楽し気な性格で、国民から人気があったという。

ウィリアム四世は15人もの子(但し、そのうちの10人は愛人の子)をもうけたが、正妻の産んだ5人の子は最長でも2ヶ月22日しか生き延びなかったため、1837年6月20日(火)にウィリアム四世が薨去(こうきょ)した後は、姪(めい)で満18歳のヴィクトリア王女(Princess Victoria, 1819-1901)がヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)として王位を継承することになる。1714年8月1日に薨去したスチュアート朝(House of Stuart)のアン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-1714)以来、実に123年ぶりの女性君主時代の到来である。

なお、ウィリアム四世が愛人に生ませた子の子孫に、首相を務めたデイヴィッド・キャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)氏がいる。

1837年6月20日(火)~1901年1月22日(火)

ヴィクトリア女王の治世(下記参照)

ヴィクトリア女王の在位期間を日本では屡々(しばしば)誤って「ヴィクトリア朝」と呼んでいる。

ヴィクトリア女王からエリザベス二世へ至るハノーヴァー朝ウィンザー家(旧家名 サックス・コーバーグ・ゴーサ家)の家系図

https://en.wikipedia.org/wiki/Family_tree_of_the_British_royal_family#House_of_Windsor (右端の [show] をクリック)

https://www.kingandqueen.jp/family-tree.pdf

エリザベス女王の曽曽祖母が始めた「英国王室の公式写真」の歴史

ハーパーズ バザー(Harpers Bazzar)日本版

2020年7月24日(金)

https://news.yahoo.co.jp/articles/0da091499a8da115b4144622b6b8521625f578bb

https://headlines.yahoo.co.jp/cm/articlemain?d=20200724-00010001-bazaar-life

1840年2月10日(月)から1917年7月17日(火)

House of Saxe-Coburg and Gotha

ハノーヴァー朝サックス・コーバーグ・アンド・ゴーサ家

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Saxe-Coburg_and_Gotha

https://www.royal.uk/hanoverians

現王室の直接の先祖

1837年6月20日(火)~1901年1月22日(火)

ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Victoria

https://www.royal.uk/queen-victoria

ヴィクトリアは、先々々代の国王ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)の四男にして1820年1月23日(日)に満52歳で歿していたケント及びストラサーン公エドワード王子(Prince Edward, Duke of Kent and Strathearn, 1767-1820)の一人娘(一人っ子)である。先代の国王ウィリアム四世や先々代の国王ジョージ四世(George IV, 1762-1830; 在位1820-30)の姪(めい)に当たり、先々々代の国王ジョージ三世の孫でもある。1714年に薨去したスチュアート朝(House of Stuart)のアン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-1714)以来、実に123年ぶりの女性君主時代の到来となる。

1837年6月20日(火) 午前11時に満18歳(同年5月24日(水)に18歳になったばかり)のヴィクトリアは、当時住まいにしていたロンドン市内のケンジントン宮殿(Kensington Palace)に集結した約百人から成る枢密院(Privy Council)に呼び出され、国王ウィリアム四世(William IV, 1765-1837; 在位1830-37)の薨去(こうきょ)と王位継承(accession to the Throne)について聞かされた。そこで新女王ヴィクトリアは用意してきた声明文を朗々と読み上げた。

曰く、「我が国が私の愛する伯父でもある国王陛下を失ったことで受けている過酷にして苦しい喪失感は、この帝国政府を行政執行する責務となって私の身にのしかかってきております。この恐るべき責任は、あまりにも唐突に、そして我が人生の中でもあまりにも早い時期に私に課されているため、私はこの重荷に完全に押し潰されてしまうことでしょう、もし私が希望に支えられていなければです。私をこの仕事へと召喚した神(=唯一絶対の創造神、天主)の摂理が私にそれを遂行するだけの力を与えてくださるだろうという希望、そして私が我が意図の純粋さと公共の福祉のための我が熱意の中に、通常であればもっと成熟した年代と長い人生経験の中に属しているあの支援と力量を見出すであろうという希望です。[改行] 私は我が強固なる信頼を議会の叡智と、我が人民の忠誠心と愛情に置きます。私がまた特別な利点として見做(みな)すのは、臣民(しんみん)たちの権利と自由を絶えず尊重してきて、国の法律や行政機関の改善を促進してきたことが、一般からの愛着と敬意を醸成してきた元首の位を私が継承することです。[改行] イングランドにて教育を受け、非常に愛情深い母の優しく開明的な庇護を受けた私は、幼少の頃より故国の憲法を尊重し、愛するようにと学習してきました。[改行] 私の止むことない勉学となりますのは、現行法によって定められた改革宗教(=新教プロテスタント)を護り、同時に信教の自由を万人が完全に享受できるよう保証することです。そして私は着実に諸権利を保護し、我が力の及ぶ限り我が臣民たちのあらゆる階級の幸福と福祉を促進して参ります。」(The severe and afflicting loss which the nation has sustained by the death of His Majesty, my beloved uncle, has devolved upon me the duty of administering the government of this Empire. This awful responsibility is imposed upon me so suddenly, and at so early a period in my life, that I should feel myself utterly oppressed by the burden, were I not sustained by the hope that Divine Providence, which has called me to this work, will give me strength for the performance of it, and that I shall find in the purity of my intentions, and in my zeal for the public welfare, that support and those resources which usually belong to a more mature age and to long experience. [改行] I place my firm reliance upon the wisdom of Parliament, and upon the loyalty and affection of my people. I esteem it also a peculiar advantage, that I succeed to a Sovereign whose constant regard for the rights and liberties of his subjects, and whose desire to promote the amelioration of the laws and institutions of the country, have rendered his name the object of general attachment and veneration. [改行] Educated in England, under the tender and enlightened care of a most affectionate mother, I have learnt from my infancy to respect and love the Constitution of my native country. [改行] It will be my unceasing study to maintain the Reformed religion as by law established, securing at the same time to all the full enjoyment of religious liberty; and I shall steadily protect the rights, and promote to the utmost of my power the happiness and welfare of all classes of my subjects.)と(G. A. Henty (1832-02), Queen Victoria: Scenes and Incidents of Her Life and Reign (Simon & Schuster, 1901: https://books.google.co.jp/books?id=qmaCDwAAQBAJ&pg=PT27&lpg=PT27&dq=Victoria+I+esteem+it+also+a+peculiar+advantage,+that+I+succeed+to+a+Sovereign+whose+constant+regard+for+the+rights+and+liberties+of+his+subjects,+and+whose+desire+to+promote+the+amelioration+of+the+laws+and+institutions+of+the+country,+have+rendered+his+name+the+object+of+general+attachment+and+veneration.&source=bl&ots=u2XdqQeadk&sig=ACfU3U1MKXUADcVIRL8Toa_TDrIYUZJigA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjzg7GXoPDsAhWBfd4KHcI3D3gQ6AEwAHoECAcQAg#v=onepage&q=Victoria%20I%20esteem%20it%20also%20a%20peculiar%20advantage%2C%20that%20I%20succeed%20to%20a%20Sovereign%20whose%20constant%20regard%20for%20the%20rights%20and%20liberties%20of%20his%20subjects%2C%20and%20whose%20desire%20to%20promote%20the%20amelioration%20of%20the%20laws%20and%20institutions%20of%20the%20country%2C%20have%20rendered%20his%20name%20the%20object%20of%20general%20attachment%20and%20veneration.&f=false ) より/ 他に http://www.avictorian.com/victoria_accession.html / https://www.historyofroyalwomen.com/the-year-of-queen-victoria-2019/the-year-of-queen-victoria-becoming-queen/ )。比較参考として令和第一日目である2019年(令和元年)5月1日(水・祝)の新天皇のおことば( https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/show/37#156 / https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/showEn/37 )も興味深い。

ヴィクトリアの言う「非常に愛情深い母」(a most affectionate mother)とは、ドイツのザクセン=コーブルク=ザールフェルト公爵令嬢にして、最初の結婚で夫のライニンゲン侯エミッヒ・カール(独 Emich Carl Fürst zu Leiningen; 英 Emich Carl, Prince of Leiningen, 1763-1814)と死別し、その四年近く後の1818年5月29日(金)に英国王室に嫁いできたマリー・ルイーゼ・ヴィクトワール(独 Prinzessin Marie Louise Victoire von Sachsen-Coburg-Saalfeld; 英 Princess Victoria of Saxe-Coburg-Saalfeld, 1786-1861)のことである。上述の父親ケント及びストラサーン公エドワード王子(Prince Edward, Duke of Kent and Strathearn, 1767-1820)はヴィクトリアが生後8ヶ月の時に歿しているため、ヴィクトリアは父の顔も覚えていない。

先々々代のジョージ三世がバッキンガム公(Duke of Buckingham)の末裔(まつえい)から1761年に買い取り、以後七十年以上も改装・増築を続けてきたバッキンガム館(Buckingham House)が遂(つい)にバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)と名を変えた1837年にヴィクトリアは王位に就いた。そしてヴィクトリア女王以後は代々このバッキンガム宮殿が王室の本部になり、今日(こんにち)に至っている

ハノーヴァー朝の英国王は代々ドイツ中北部のハノーファー選帝侯(独 Kurfürst von Hannover; 英 Elector of Hanover)も兼務していたが、ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の治世が開始された際、羅典(ラテン)語で書かれたサリカ法典(羅 Lex Salica; 仏 Loi salique; 独 Salisches Recht; 英 Salic law)を根拠にドイツの一地方と英国との同君連合(personal union; alliance of two countries under one ruler)が解消となった。サリカ法典とは、フランク王国(羅 Regnum Francorum; 仏 Royaumes francs; 独 Fränkisches Reich; 英 Kingdom of the Franks)建国の中心となったフランク人サリ族(羅 Salii; 仏 Francs saliens; 独 Salfranken; 英 Salian Franks)という部族(a tribe)の出身で後に国王クローヴィス一世(Clovis I, c.466-511; 在位c.509-511)となる者によって西暦500年頃、サリー族の慣習法やローマ法などを基(もと)にして編纂された法典である。この法典は、「女性は土地を相続できない」と規定していたため、サリカ法が適用されるフランスやドイツなどの旧フランク王国を継承した国々では女性の王位継承に否定的だった。このサリカ法の所為(せい)でヴィクトリア女王は「女だから」という理由でドイツ中北部のハノーファーの領地を失ってしまった。「歴史にもし(If)は無い」と言うが、もしも英国王が代々ドイツ中北部のハノーファー(独 Hannover ノーファー; 英 Hanover ハェノウヴァ)の領地を相続できていたら二十世紀の世界史は全く異なるものとなったであろう。

1840年2月10日(月)に同年齢(厳密には3ヶ月ほど若い)のドイツ貴族ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ家のアルバート殿下(独 Albert von Sachsen-Coburg und Gotha; 英 Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha, 1819-61)と結婚し、自分の家名もザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ家(das Haus Sachsen-Coburg und Gotha)をやや英語風にしたサックス=コーバーグ・アンド・ゴーサ家(the House of Saxe-Coburg and Gotha)に変えた。これは日本人にも分かり易く譬(たと)えると、漫画のサザエさんが磯野家に残りながらマスオさんと結婚してから「フグ田」の家名を名乗っていること、長男で一人っ子のタラちゃんも磯野家の屋根の下で生育していながら苗字はフグ田であることに似ている。ただ、その場合、カツオに相当する磯野家の長男(サザエさんの弟) は最初から存在せず、波平に相当する父親は既に他界していることとする。女王夫妻はその生い立ちから親独派であり、1871年1月18日(水)のプロイセン王国によるドイツ統一とドイツ帝国(独 Deutsches Reich; 英 German Empire)成立を支持した。また、夫婦間ではドイツ語で会話することが多かった。

ヴィクトリア女王は英国王室史上初めて理想的な家族像を国民にアピールすることに成功した。クリスマスツリー(独 Weihnachtsbaum ヴァイナハツバウ; 英 Christmas tree: 「聖誕祭樹木」の意)をバッキンガム宮殿内に飾り、ツリーを囲む王族一家団欒(だんらん)の絵( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c4/Christmas_Tree_1848.jpg / https://historymyths.files.wordpress.com/2011/12/christmas_tree_albert2_747156.jpg / https://www.google.co.jp/search?q=picture+of+christmas+tree+prince+albert+%26+queen+victoria&hl=ja&tbm=isch&imgil=7JbuxfkGpKxe-M%253A%253BkLCzn_1J5b462M%253Bhttps%25253A%25252F%25252Fhistorymyths.wordpress.com%25252Ftag%25252Fqueen-victorias-christmas-tree%25252F&source=iu&pf=m&fir=7JbuxfkGpKxe-M%253A%252CkLCzn_1J5b462M%252C_&biw=1280&bih=891&usg=__zasXBvKMwyQIzn7gdyeP6KNM6Pc%3D#imgrc=7JbuxfkGpKxe-M%3A&usg=__zasXBvKMwyQIzn7gdyeP6KNM6Pc%3D )が公開されると、いみじくも現女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が2015年聖誕祭メッセージ( https://sites.google.com/site/xapaga/home/xmasmessage2015 )で述べているように、一般庶民が真似するようになったという。なお、室内にクリスマスツリーを飾る習慣はアルバート公(Albert, Prince Consort, 1819-61)がドイツから持ち込んだように一般には誤解されることが多いが、実際には1761年9月8日(火)にヴィクトリア女王の祖父に当たる国王ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)のもとにドイツから嫁入りした王妃ゾフィー・シャルロッテこと、英語名 シャーロット(独 Sophie Charlotte zu Mecklenburg-Strelitz; 英 Charlotte of Mecklenburg-Strelitz, 1744-1818)が祖国ドイツから齎(もたら)した文化である。一般に七十九年もの時差をもって誤解されているのは、ヴィクトリア女王とアルバート公の王族一家が取り囲むクリスマスツリーの絵が有名になり、毎年12月初旬から翌年1月5日まで自宅内にクリスマスツリーを飾るというドイツ的な習慣が瞬(またた)く間にイギリスの一般庶民に広まったからである。

ヴィクトリア女王とそのドイツ出身の夫アルバート公(Albert, Prince Consort, 1819-61)は、元ユダヤ教徒・改宗プロテスタント・ルター派のドイツ人作曲家メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809-47)の音楽が大好きで、一度ならずバッキンガム宮殿に招いて直接会見したほどだった。ヴィクトリア女王夫妻は日頃からドイツ語で会話することが多かったことから、メンデルスゾーンともドイツ語で会話した可能性が高い。メンデルスゾーンは英国と相性が良く、人生で十回も訪英していて、十回の滞在期間を合計すると20ヶ月にも及ぶ。20歳で英国を初訪問する前の17歳の時点でメンデルスゾーンは既に、シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)の喜劇 A Midsummer Night’s Dream (邦題 『真夏の夜の夢』または『夏の夜の夢』, 1595年か’96年頃の執筆)への序曲ホ長調 作品番号21 (A Midsummer Night’s Dream Overture in E major, Op.21)を作曲している( https://www.youtube.com/watch?v=Rrq9rrlC2bQ )。その十六年後の1842年にはメンデルスゾーン33歳で同喜劇への付随音楽 作品番号61 (Incidental Music, Op.61, for A Midsummer Night’s Dream )を作曲し、演奏会や録音藝術では上記の序曲の直後に演奏される( https://www.youtube.com/watch?v=njdTB6HxTj8 / 0:27序曲開始 / 13:23諧謔(るツォ)開始 / 27:15夜想曲(ノットゥノ)開始 / 33:05結婚行進曲開始 / 38:07道化師たちの踊り開始 / 39:44ドイツ語歌唱付フィナーレ開始)。その中でも「結婚行進曲」(独 „Hochzeitsmarsch“ ホーホツァイツるシュ; 英 “Wedding March” ウェディングマー)は大きな人気を博した( https://www.youtube.com/watch?v=0Oo4z37OUEI )が、メンデルスゾーン歿後十年二ヶ月三週間の1858年1月25日(月)にはヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の長女ヴィクトリア王女(Victoria, Princess Royal, 1840-1901)の結婚式(プロイセン王室 = 後のドイツ帝室への嫁入り)でメンデルスゾーンの「結婚行進曲」が使用された。その八十九年後、メンデルスゾーン歿後百年でもある1947年11月20日(木)にはウェールズ女大公エリザベス王女(Elizabeth, Princess of Wales, b.1926)= 後の女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)の結婚式でも件(くだん)の「結婚行進曲」が使用された。メンデルスゾーンはスコットランド滞在中に着想を得て、有名な「フィンガルの洞窟」作品番号26 (Fingal’s Cave, Op.26)=別名 ヘブリディーズ序曲 作品番号26 (The Hebrides Overture, Op.26)( https://www.youtube.com/watch?v=GVhmZUdETDo )や、交響曲第三番イ短調 作品番号56 (Symphony No.3 in A minor, Op.56)=通称「スコットランド」交響曲(“Scottish” Symphony)全四楽章( https://www.youtube.com/watch?v=PoHooMaTZcU )という傑作を作曲した。他に交響曲第四番イ長調 作品番号90 (Symphony No.4 in A major, Op.90)=通称「イタリア」交響曲(“Italian” Symphony)全四楽章( https://www.youtube.com/watch?v=_HX_jF1_Tgc )やヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品番号64(Violin Concerto in E minor, Op.64)全三楽章( https://www.youtube.com/watch?v=Pmj7nCRYNs4 / 0:32第一楽章開始 / 13:18第二楽章開始 / 21:13第三楽章開始)も非常に人気が高い。メンデルスゾーン最後の大作であるオラトリオ 『エリヤ』 作品番号70 (Elijah, Op.70; 英 ライジャ; 独 リアース)は、バーミンガム三年毎音楽祭(Birmingham Triennial Music Festival)の一環としてバーミンガム市庁舎(Birmingham City Hall)で1846年8月26日(水)午前に初演された。メンデルスゾーンは1847年11月4日(木)に満38歳と9ヶ月の若さで病死したが、生前ユダヤ教からプロテスタントのルター派に改宗していたので、当人の感覚では普通のドイツ人だった。ところが歿後八十六年の1933年に天下を取った国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei; 英訳 National Socialist German Workers’ Party)=蔑称(べっしょう)「ナーツィース」(Nazis)=日本語で「ナチス」から見て、メンデルスゾーンは「ユダヤ人」(独 ein Jude アインユー; 英 a Jew ジュウ)だった。改宗しようがしまいが、ナチスから見ればユダヤ人なのである。ドイツ音楽史からメンデルスゾーンの名が消し去られ、その楽譜は焚書(ふんしょ: 独 Bücherverbrennung ビュッヒャーフェアブれンヌング; 英 book burning ブクブァーニング)の被害に遭った。1933年5月10日(水)の首都ベルリン中心部の歌劇場広場(独 Opernplatz オーペるンプラッ; 英 Opera Square オップらスクウェー)に於()ける焚書(ふんしょ)が特に悪名(あくみょう)高い。ナチス時代(1933-45年)のドイツでメンデルスゾーンの曲は演奏禁止・放送禁止となった。1945年にナチス・ドイツが僅(わず)か十二年で崩壊したため、メンデルスゾーンの名は再びドイツ音楽史に復活したが、メンデルスゾーンはそのような断絶が無い英国でこそ愛されている作曲家である。英人指揮者チャールズ・ヘイズルウッド(Charles Hazlewood, b.1966)氏が解説する The Birth of British Music: Mendelssohn The Prophet (直訳 「英国音楽の誕生: 預言者メンデルスゾーン」)という題名の番組が2015年に英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)によって制作・放映された( https://www.youtube.com/watch?v=CP_Q0B9d32I )。つまりメンデルスゾーンは今や恰(あたか)も英国の作曲家のような位置づけなのである。

最愛の夫アルバート公とは実に9人の子宝に恵まれたが、夫は1861年12月14日(土)に満42歳(ともに1819年生まれのためヴィクトリア女王も当時42歳)の若さで病歿してしまい、遺(のこ)されたヴィクトリア女王は以後四十年近くも寡婦(かふ: a widow)として喪に服して過ごした。夏にはスコットランドの別宅、バルモラル城(Balmoral Castle)に籠(こも)ったが、同城館の七歳年下の召使いジョン・ブラウン(John Brown, 1826-83)を殊(こと)の外(ほか)可愛がり、ブラウン自身もヴィクトリア女王のことを「俺の女」(my woman)と呼んでいたとも言われ、二人は秘かに結婚したのではないかとまで噂(うわさ)された。しかしそんなブラウンも1883年3月27日(火)に満56歳にして丹毒(erysipelas)で病歿してしまう。このときヴィクトリア女王は満63歳だった。その際すっかり意気消沈したヴィクトリア女王の手紙が百二十一年後の2004年に見つかっている。また、1892年1月14日(木)には更(さら)なる不幸がヴィクトリア女王を襲った。素行不良ながら将来の国王に成ることが決まっていた孫(皇太子の長男)のクラレンス&アヴォンデイル公アルバート・ヴィクター王子(Prince Albert Victor, Duke of Clarence and Avondale, 1864-92)=愛称 エディー(Eddy)が、ロシア・インフルエンザ(Russian influenza)を発端(ほったん)とする肺炎(pneumonia)を併発して満28歳の若さで歿してしまった( https://sites.google.com/site/xapaga/home/churchillinfluenza1890 )。このときヴィクトリア女王は満72歳だった。

ヴィクトリア女王は当時勃興してきた女権拡張(feminism)の思想は受け付けなかった。1870年5月29日(日)付の手紙( http://www.vam.ac.uk/content/articles/g/gender-ideology-and-separate-spheres-19th-century/ )にこうある。曰く、「女王は、この「女の權利」なる狂つた邪惡な愚言を、その附随する慘事、女といふ哀れな、か弱き性(セックス)があらゆる意味に於(おひ)て女性的な感覺と嗜(たしな)みの良さを忘れて傾注して仕舞ふ慘事と共に阻止することに加はる可()く、口頭乃至(ないし)は文書で述べることの出來る者なら誰にでも協力を要請し度()いと强く切望してゐる。[中略] 其()は女王をして激怒せしむる主題にして、感情を抑へること能(あた)はず。神(=唯一絕對の創造神、天主)は男女を異(こと)なる者(もの)として創造された。然(しか)らば男女をして互(たが)ひに其(その)立場の儘(まゝ)に留(とゞ)まらせよ。」(The Queen is most anxious to enlist every one who can speak or write to join in checking this mad, wicked folly of “Woman’s Rights”, with all its attendant horrors, on which her poor feeble sex is bent, forgetting every sense of womanly feeling and propriety... It is a subject which makes the Queen so furious that she cannot contain herself. God created men and women different—then let them remain each in their own position.)と。

1876年5月1日(月)からは英領印度帝国が成立し、ヴィクトリア女王は印度女帝(Empress of India)も兼務した。エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)の治世(reign)にイングランド王国(Kingdom of England)がスペイン無敵艦隊(西 Grande y Felicísima Armada; 英 Spanish Armada)を打ち破り(1588年)、海外進出して国力を高めたが、ヴィクトリア女王の時代には国内の産業革命と世界各地の英国殖民地化が進行し、イギリス帝国(British Empire)は当時世界最大で最強の大帝国に成長した。

二十世紀が始まったばかりの1901年1月22日(火)に満81歳で大往生したヴィクトリア女王の在位期間は六十三年七ヶ月にも及び、長らく英国史上最長在位記録だった。ところが2015年9月9日(水)に玄孫(やしゃご)である女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)に破られることになる。ヴィクトリア女王の六十三年余りの治世(reign)は、日本では屡々(しばしば)誤って「ヴィクトリア朝」と称される。女性君主としては、英国のみならず世界最長記録の保持者でもあったが、この記録も2015年9月9日(水)に女王エリザベス二世に破られた。なお、昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の在位期間は六十二年と二週間だった。その死の床でヴィクトリア女王の手を握っていたのが、約十三年後の1914年夏に第一次世界大戦(World War I; the First World War; the Great War, 1914-18)を事実上引き起こし、イギリスに弓(ゆみ)引くことになる外孫のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世(Kaiser Wilhelm II., 1859-1941; 在位1888-1918)だったのは歴史の皮肉である。

【参考1】

エルガー(Sir Edward Elgar, 1857-1934)作曲

“Imperial March”, Op. 32 for the Diamond Jubilee of the Queen Victoria’s accession (1897)

ヴィクトリア女王在位60年記念「帝國(イムピーりォウ)行進曲」作品番号32(1897年)

ハースト指揮BBCフィル(年代不詳のデジタル録音)

http://www.youtube.com/watch?v=adNk7S4j8GA

1940年(昭和15年)6月11日(火)公開の「日本ニユース」第1號の冒頭近くの「君が代」の直後の「天皇陛下関西御巡幸」でエルガー作曲「帝国行進曲」がかかる。

https://www.youtube.com/watch?v=ok7hI_UnQ8w

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300386_00000&seg_number=001

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009180001_00000

【参考2】

[ドキュメンタリー] 女王の最長君臨記録: エリザベスとヴィクトリア(BBC, 2015)

https://www.youtube.com/watch?v=Nbb3Kpvbo80

【参考3a】

名画は語る! 王と女王の英国史

新潮社 フォーサイト(Foresight)

君塚直隆(きみづか なおたか, b.1967)関東学院大学教授

2020年10月11日(日)

https://www.fsight.jp/articles/-/47406

https://news.yahoo.co.jp/articles/f323d89d67e3c7061dc861f81d4887abaec6fbfc (リンク切れ)

【参考3b】

ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵 KING&QUEEN展―名画で読み解く 英国王室物語―

上野の森美術館(The Ueno Royal Museum)

2020年10月10日(土)~2021年1月11日(月・祝)

https://www.kingandqueen.jp/

https://www.kingandqueen.jp/flyer.pdf

https://www.kingandqueen.jp/list.pdf

https://www.ueno-mori.org/exhibitions/article.cgi?id=974794

https://www.ueno-mori.org/

https://eplus.jp/sf/word/0000144265

https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/22838

1901年1月22日(火)~1910年5月6日(金)

エドワード七世(Edward VII, 1841-1910; 在位1901-10)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VII

https://www.royal.uk/edward-vii

先代のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の長男。生まれた時から皇太子で、万年皇太子(a perpetual crown prince)の生活が長かった遊び人。1901年1月22日(火)に満59歳で王位に就き、1910年5月6日(金)に満68歳半で歿するまでの九年余り国王を務めた。二代目の英領印度皇帝(Emperor of India)を兼務。

万年皇太子だった頃は自由奔放な生活で知られており、良き国王になることは期待されていなかった。しかしながら、ひとたび王位に就くや国外交渉に力を入れたため、和平推進者(a peace maker)と評価された。それまでの「栄光ある孤立」(Splendid Isolation)の英国外交政策を見直し、1902年1月30日(木)に明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)が君臨する大日本帝國(Empire of Japan)と日英同盟(Anglo-Japanese Alliance, 1902-23)を結んだ時の国王である。その二年後の1904年4月8日(金)にはフランス語で「友好的な相互理解」を意味する Entente Cordiale (アォンタント・コふディアル)という事実上の同盟条約をフランス共和国との間に締結している。これを日本の歴史教科書では「英仏協商」と称する。更(さら)には日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)から二年後の1907年8月31日(土)に「英露相互理解」(英 Anglo-Russian Entente; 露 Англо-русское соглашение = Anglo-russkoye soglasheniye)という名の事実上の同盟条約をロシア帝国(帝政ロシア)との間に締結している。これを日本の歴史教科書では「英露協商」と称する。日露戦争では帝政ロシア海軍バルト海艦隊(the Baltic Fleet of the Tsarist Russian Navy)に対し行く先々で徹底的な嫌がらせをすることで日本を助けたイギリスだったが、もはやロシアの脅威はなくなり、ロシアを敵視する必要もなくなったため、代わってドイツの脅威に対処することになる。既に以前から仏露間に同盟関係があったため、これを以(もっ)て三国間の相互理解(Triple Entente: 日本の歴史教科書では「三国協商」)が成立し、独墺伊(但し、イタリア王国は第一次世界大戦時に独墺を裏切り英仏側に寝返ることになる)の三国同盟と対立することになる。

エドワード七世はまだ皇太子だった1898年から薨去(こうきょ)した1910年までの十二年間もアリス・ケッペル(Alice Keppel, 1868-1947; https://en.wikipedia.org/wiki/Alice_Keppel )=旧姓エドモンストン(Edmonstone)=という愛人と懇(ねんご)ろな関係になっていた。そしてこの愛人の曾孫(ひまご)が元パーカー・ボウルズ夫人(Camilla Parker Bowles, b.1947)=旧姓シャンド(Shand)=こと、コーンウォール公爵夫人カミラ(Camilla, Duchess of Cornwall, b.1947)であり、ウェールズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)の元愛人・不倫相手にして二番目の妻である。そしてチャールズ皇太子はエドワード七世の玄孫(やしゃご)に当たる。

在位期間は九年三ヶ月と二週間という具合に短かったが、エドゥウォーディアン・ピァりオッドゥ(Edwardian period: 「エドワード時代」)と呼ばれることになる二十世紀初頭の文化が爛熟(らんじゅく)した日々は後世の人々に一種の懐古趣味を呼び起こす。厳密には1901年1月22日(火)~1910年5月6日(金)を指すが、文化的には1901年1月22日(火)のヴィクトリア女王 (Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の薨去(こうきょ)から1914年8月4日(火)の第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)への英国参戦までを指す。当時世界一の軍事力と経済力を持ちながら、軍事ではドイツの、経済ではアメリカの激しい追い上げを受けて不安を抱えていたが、文化は大きく花開いた。第一次世界大戦前の優美で贅沢(せいたく) な時代を懐(なつ)かしむ懐古趣味が流行することが度々(たびたび)あり、1910年にエドワード七世が薨去(こうきょ)してから半世紀が経過した1960年代の音楽シーンにザ・ビートルズ(The Beatles)が颯爽(さっそう)と登場すると、エドゥウォーディアン・ラレススーツ(Edwardian collarless suits: 「エドワード七世時代の襟(えり)なしスーツ」の意)が世間の耳目(じもく)を集めた( https://d2dzp1iimffyb3.cloudfront.net/wp-content/uploads/2018/11/beatles-suits4.jpgi / https://www.gentlemansgazette.com/wp-content/uploads/2013/09/Beatles-in-Chelsea-Boots.jpg / https://thebeatles483.wordpress.com/2016/03/29/the-beatles/ )。

【参考1】

エルガー(Sir Edward Elgar, 1857-1934)作曲

Coronation Ode, Op. 44 for King Edward VII (1902)

国王エドワード七世のための『戴冠式頌歌』 作品番号44(1902年)

ガードナー指揮BBC響を2012年BBCプロムズでライブ収録(第1番)

http://www.youtube.com/watch?v=Cw6_NjPP4vE

同上(第2番)

http://www.youtube.com/watch?v=3EGV1fhfyaU

同上(第3番)

http://www.youtube.com/watch?v=rtj9yJ8s-uE

同上(第4番)

http://www.youtube.com/watch?v=AyGLMrV5yU8

同上(第5番)

http://www.youtube.com/watch?v=2LAiS2UU2kk

同上(第6番)

http://www.youtube.com/watch?v=3QysIbmSZB8

【参考2】

英国王エドワード7世の愛人でカミラ夫人の先祖、アリス・ケッペルってどんな人?

つまり、チャールズ皇太子の高祖父の愛人が、カミラ夫人の高祖母だったということ

ハーパーズバザー(Harper’s Bazaar)日本版

オリヴィア・ホスケン(Olivia Hosken)記者署名記事

日本語訳: Mitsuko Kanno (漢字名不明)

2020年11月26日(木)

https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/celebrity-buzz/g34793270/alicekeppel-camilla-ancestor-201126-hns/

1910年5月6日~1936年1月20日

ジョージ五世の治世(下記参照)

1917年7月17日(火)~現在

House of Windsor

ハノーヴァー朝ウィンザー家(現王室の最新の名前)

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Windsor

https://www.royal.uk/hanoverians

https://www.kingandqueen.jp/family-tree.pdf

1910年5月6日(金)~1936年1月20日(月)

ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/George_V

https://www.royal.uk/george-v

エドワード七世(Edward VII, 1841-1910; 在位1901-10)の次男で、ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の孫。

1892年1月14日(木)に一年半足らず年上の兄で素行不良ながら将来の国王に成ることが決まっていたクラレンス&アヴォンデイル公アルバート・ヴィクター王子(Prince Albert Victor, Duke of Clarence and Avondale, 1864-92)=愛称 エディー(Eddy)が、ロシア・インフルエンザ(Russian influenza)を発端(ほったん)とする肺炎(pneumonia)を併発して満28歳の若さで歿してしまい( https://sites.google.com/site/xapaga/home/churchillinfluenza1890 )、そのため弟のヨーク公ジョージ・フレデリック王子(Prince George Frederick, Duke of York, 1865-1936)=後の国王ジョージ五世(King George V, 1865-1936; 在位1910-36)が、九年後の1901年1月22日(火)のヴィクトリア女王の薨去(こうきょ)に伴いウェールズ大公ジョージ・フレデリック皇太子(George Frederick, Prince of Wales, 1865-1936)に成ったという経緯がある。兄のエディーは死の直前に英国生まれのドイツ貴族令嬢で、英国王ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)の曾孫に当たるテックのメアリー(Mary of Teck, 1867-53)=愛称 メイ(May)と婚約していたが、代わりに弟のジョージと結婚することになったのである。また、王位も弟のジョージが引き継いだことから、メイ自身は将来の国王候補と結婚したことに変わりはない。

ジョージ五世も三代目の英領印度帝国皇帝(Emperor of India)を兼務した。第一次世界大戦(World War I; the First World War; the Great War, 1914-18)を事実上引き起こすことになるドイツ皇帝ヴィルヘルム二世(Kaiser Wilhelm II., 1859-1941; 在位1888-1918)とは従兄弟(いとこ)同士。また、1917年11月7日(水)に始まるロシア革命(Russian Revolution, 1917; 当時ロシアで使われていたユリウス暦ではまだ10月だったため「十月革命」とも呼ばれている)の混乱の中で1918年に一家もろとも惨殺されることになるロシア皇帝ニコライ二世(Николай II; Nikolai II or Nicholas II of Russia, 1868-1918; 在位1894-1917)とも従兄弟(いとこ)同士で尚且(なおか)つ外見がほぼそっくり( https://ichef.bbci.co.uk/images/ic/976x549_b/p01qts7p.jpg )だった。

ニコライ二世はヴィクトリア女王の孫ではなかったが、英国王ジョージ五世とは母方のデンマーク王家の血筋で従兄弟(いとこ)同士だった(https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_descendants_of_Queen_Victoria_and_King_Christian_IX#Family_tree_of_sovereign_and_consort_grandchildren )。また、英国王ジョージ五世は父方の英国王室の血筋でドイツ皇帝ヴィルヘルム二世と従兄弟(いとこ)同士だった。ところがドイツ皇帝とロシア皇帝は従兄弟(いとこ)同士ではなく、ロシア皇帝パヴェル一世(露 Па́вел I Петро́вич = Pavel Petrovich; 英 Paul I of Russia, 1754-1801; 在位1796-1801)の玄孫(やしゃご)ということで三従兄弟(みつ いとこ: third cousins)同士だった。そうは言っても大変な仲良しで、互いをヴィリー(Willy)、ニッキー(Nicky)と呼び合い、なんとこの時代のドイツ帝国とロシア帝国のトップ同士が英語で文通(correspondence)していたことは有名な話である( https://en.wikipedia.org/wiki/Willy–Nicky_correspondence )。

ジョージ五世は第一次世界大戦で英国を勝利に導いた国王だが、その大戦中の1917年7月17日(火)に国民の反独感情(anti-German sentiments; Germanophobia)を考慮して家名をドイツ的なサックス=コーバーグ・アンド・ゴーサ家(the House of Saxe-Coburg and Gotha)=ドイツ語のザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ家(das Haus Sachsen-Coburg und Gotha)の英訳=から、王室所有の城の名をとってウィンザー家(the House of Windsor)に改名した。

上記でも言及した従弟(いとこ)でロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世(Николай II; Nikolai II or Nicholas II of Russia, 1868-1918; 在位1894-1917)の救出について真剣に考えたが、ドイツ軍との死闘を繰り広げる英国にロシア皇帝を助ける余力は無く、ニコライ二世はレーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин = Vladimir Ilyich Lenin, 1870-1924; ソ連人民委員会議議長在任1917-24)こと、本名 ヴラディーミル・イリイッチ・ウリヤーノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов = Vladimir Ilyich Ulyanov, 1870-1924)率いるボリシェヴィキ(большевики; bol'sheviki: 「多数派」を意味する革命派)によって、1917年11月7日(水)に始まるロシア革命勃発から八ヶ月余りが経過した1918年7月17日(水)に一家もろとも惨殺されてしまう。なお、ロシア皇帝ニコライ二世はまだ皇太子だった頃、両親(先代の皇帝夫妻)の勧めで1890年10月から翌年(1891年)8月にかけてユーラシア各地(墺太利帝国、ギリシャ、エジプト、英領印度、英領セイロン=現在のスリランカ、英領シンガポール、仏領インドシナ=現在のベトナム、蘭領東印度=蘭印=現在のインドネシア、シャム=現在のタイ王国、英領香港=現在の中国特別行政区、清国=現在の中国、日本、ロシア極東部)を周遊旅行したが、惨殺される二十七年前の1891年5月11日(月)に日本を訪問中のこと、滋賀縣滋賀郡大津町(現在の滋賀県大津市)で人力車(rickshaw)に乗っていたところ、警備に当たっていた滋賀縣警察の津田三藏(つだ さんぞぅ, 1855-91)巡査にサーベル(sabre)で斬りつけられ、頭蓋骨に裂傷が入ったが、脳には届かず一命を取りとめた。これ以降ニコライ二世は終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになったという。今や犯人となった津田巡査を捕捉した人力車夫2名(the two rickshaw drivers)は後にロシア帝国政府から勲章を贈られた。

ジョージ五世は賢明な国王として記憶されている。1911年8月18日(金)にはジョージ五世が「1911年議会法」(Parliament Act 1911)を勅裁したことで、議会上院(the Upper House of Parliament)=貴族院(the House of Lords)に対する議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(the House of Commons)の優位の原則が確立された。また、ジョージ五世は1921年に英領(当時)アイルランド島の反英活動家(アイルランド独立派)と英国政府との間の和平交渉を進めるよう介入し、暴力の続く膠着状態に終止符を打ってアイルランド独立(Irish independence)に道を開いた。

第一次世界大戦がまだ終結していなかった1918年2月には全階級の男子と有産階級の女性に選挙権(男性のみにとっての普通選挙制度で女性にとっての制限選挙)が与えられ、1928年には男女同権(equal franchise イークウォルフらンチャイズ)の選挙権(男女双方にとっての普通選挙)が与えられたが、これらを勅裁したのが国王ジョージ五世である。

フランス共和国首都パリ市8区(8e arrondissement, Paris, France: https://www.google.com/maps/place/Avenue+George+V,+75008+Paris,+France/ / https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Paris_department_land_cover_location_map.jpg?uselang=fr )にジョージ五世大通り(avenue George-V アヴニュ・ジョジュ・サォーンク)という名の通りがある。元の名はアルマ大通り(avenue de l’Alma アヴニュ・ドゥラルマ)だったが、第一次世界大戦末期の1918年7月14日(日)のフランス革命記念日(但し、フランス本国では単に le Quatorze Juillet ルカトズ・ジュイエ=「7月14日」の意で、昭和期の日本語では誤って「パリ祭」)=つまりバスティーユ監獄襲撃129年目の日=に同盟国イギリスの国家元首に敬意を表して改名した。第一次世界大戦は四ヶ月近く後の同年(1918年)11月11日(月) 午前11時に英仏連合軍とドイツ軍の間の停戦合意(Armistice)が成され、事実上終結した。十年後の1928年にはこの大通りの西側にジョージ五世ホテル(Hôtel George V オテル・ジョジュ・サォーンク)が開業し、後にフォーシーズンズ傘下(さんか)に入り、フォーシーズンズホテル・ジョージ五世(Four Seasons Hotel George V フォーシーズンズホテル・ジョジュ・サォーンク)の名で現在も営業している。この南北に走るジョージ五世大通りを南下すると、大通りの改名から七十九年後の1997年8月31日(日)にダイアナ妃がその地下トンネルで亡くなることになるアルマ橋(Pont de l’Alma ポン・ドゥラルマ)がある。逆にこの通りを北上すると観光客にお馴染(なじ)みのシャンゼリゼ大通り(avenue des Champs-Élysées アヴニュ・デシャォーンゼリゼ: 「楽園ヶ原の大通り」の意)にぶつかり、そこにはジョージ五世駅(Station George V スタシヨン・ジョジュ・サォーンク)という名の地下鉄駅がある。

第一次世界大戦中に日本が英国の戦争遂行(war efforts)に協力してくれたことへの返礼として、ジョージ五世はまだ戦争が終結していない1918年(大正7年)1月1日(火・祝)に同盟国である日本の大正天皇(たいしやう てんのう; たいしょう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)に英国陸軍元帥(Field Marshall of the British Army)の名誉称号を贈った。そして同大戦後には日本の皇太子(Crown Prince of Japan)の史上初の外遊を後押しした。1921年に20歳の皇太子裕仁親王(こうたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito of Japan, 1901-89)=後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)を英国に迎えて心から歓待した( https://www.youtube.com/watch?v=tbIvEuqksSI / https://www.youtube.com/watch?v=QMGmi7GLro0 / https://www.youtube.com/watch?v=rBeElh81rBQ )ばかりか、同年(1921年)5月9日(月)には英国陸軍大将(General of the British Army)の名誉称号を贈っている( https://www.thegazette.co.uk/London/issue/32324/supplement/3917 )。

昭和天皇にとって英国王ジョージ五世は理想の父親像・君主像として終生記憶された。したがって五十年後の1971年10月5日(火)夜に同国王の孫に当たる女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)主催の天皇皇后両陛下歓迎晩餐会(the palace banquet welcoming Their Imperial Majesties, Emperor Hirohito and Empress Nagako of Japan hosted by Her Majesty Queen Elizabeth II)の席で昭和天皇は、「私(わたくし)どもは、貴国の空港に到着以来、貴国民の心の温かさを身にしみて感じております。それは今より五十年前、イングランド及びスコットランドに滞在中私(わたくし)に示された豊かな温情と全く変りがありません。当時私(わたくし)は初めて貴国民の生活に触れ、この宮殿を知り、地方の村々を知ったのでありました。それ以来、私(わたくし)は、貴国の社会制度及び国民、殊に陛下の御英明な祖父君に対し常に敬意をもち続けております。ジョージ五世陛下王者の威厳と親子の愛情をもって私(わたくし)を御引見下さいました。当時私(わたくし)は同陛下から戴いた慈父のようなお言葉を胸中深くおさめた次第でありました。」と日本語でお言葉を述べ、その場で日本国政府役人によって公式英訳が朗読された。しかしながら、日英で殺しあったあの不幸な戦争について反省はおろか言及すら皆無だったことから英国社会から激しい非難の声が飛んだ。日本の宮内庁(Imperial Household Agency of Japan)と外務省(MOFA: Ministry of Foreign Affairs of Japan)はこの苦い失敗を生かし、四年後の1975年9月30日(火)~10月14日(火)の天皇皇后両陛下アメリカ公式訪問を成功に導くことになる。

日本国皇太子による史上初の訪英の翌年(1922年)にジョージ五世は長男であるウェールズ大公エドワード皇太子(Edward, Prince of Wales, 1894-1972)=後の国王エドワード八世(Edward VIII, 1894-1972; 在位1936)=更に後のウィンザー公(Duke of Windsor, 1894-1972)を日本に派遣して日英友好を演出し( https://www.alamy.de/prinz-edward-der-prinz-von-wales-in-uniform-salutierte-mit-kaiserin-teimei-und-prinzregent-hirohito-von-japan-image239038975.html?pv=1&stamp=2&imageid=3F3816BA-960C-431B-BAEE-6F42A832F7F2&p=82140&n=0&orientation=0&pn=1&searchtype=0&IsFromSearch=1&srch=foo%3dbar%26st%3d0%26pn%3d1%26ps%3d100%26sortby%3d2%26resultview%3dsortbyPopular%26npgs%3d0%26qt%3d(hirohito)%26qt_raw%3d(hirohito)%26lic%3d3%26mr%3d0%26pr%3d0%26ot%3d0%26creative%3d%26ag%3d0%26hc%3d0%26pc%3d%26blackwhite%3d%26cutout%3d%26tbar%3d1%26et%3d0x000000000000000000000%26vp%3d0%26loc%3d0%26imgt%3d0%26dtfr%3d%26dtto%3d%26size%3d0xFF%26archive%3d1%26groupid%3d%26pseudoid%3d%26a%3d%26cdid%3d%26cdsrt%3d%26name%3d%26qn%3d%26apalib%3d%26apalic%3d%26lightbox%3d%26gname%3d%26gtype%3d%26xstx%3d0%26simid%3d%26saveQry%3d%26editorial%3d1%26nu%3d%26t%3d%26edoptin%3d%26customgeoip%3d%26cap%3d1%26cbstore%3d1%26vd%3d0%26lb%3d%26fi%3d2%26edrf%3d%26ispremium%3d1%26flip%3d0%26pl%3d / https://www.agefotostock.com/age/en/Stock-Images/Rights-Managed/IAM-WHA_171_0517 / https://theimperialcourt.tumblr.com/post/162227508308/edward-prince-of-wales-future-king-edward-viii / https://imgur.com/gallery/auouUrO / https://www.gettyimages.ae/detail/news-photo/the-prince-of-wales-lord-louis-mountbatten-and-captain-news-photo/661366366 / https://www.gettyimages.coニュース写真/4th-june-1924-hrh-edward-prince-of-wales-pictured-on-his-tour-ニュース写真/78950407 )、実際に日英の友好関係はこのとき最高潮に達する。

ところが皮肉なことにアメリカ合衆国の介入により更に翌年(1923年)8月17日(金)に日英同盟(Anglo-Japanese Alliance, 1902-23)は失効することになる(失効十五日後の1923年9月1日(土)には関東大震災が発生)。当時のアメリカはまだ軍事大国には程遠く、世界一の海軍国である連合王国(UK: United Kingdom)に東の大西洋(the Atlantic)から、そして今や世界第二位の海軍国にまで急成長した大日本帝國(Empire of Japan)に西の太平洋(the Pacific)から挟み撃ちされることを極度に恐れていたのだった。

アメリカの介入のみならず、第一次世界大戦の終結で日英で共有する目下(もっか)の課題がなくなったことで、日英同盟は失効してしまったが、それでも日英の友好関係は維持された。たとえば1929年にはジョージ五世の第三王子(三男)であるグロウスター公ヘンリー王子(Prince Henry, Duke of Gloucester, 1900-74)が英国最高位のガーター勲章(Order of the Garter)を昭和天皇に届けるために国賓(state guest)として訪日した。また、1930年6月26日(木)にジョージ五世は昭和天皇に英国陸軍元帥(Field Marshall of the British Army)の名誉称号を贈っている( https://www.thegazette.co.uk/London/issue/33619/page/4028 )。同年(1930年)7月には英国ドーヴァー港(Dover, Kent)、続いて鉄道で英京倫敦ヴィクトリア駅(Victoria Station, London, UK)に昭和天皇の弟、高松宮宣仁親王(たかまつ の みや のぶひと しんのう; Nobuhito, Prince Takamatsu, 1905-87)=25歳が天皇の名代(みょうだい)として、同年(1930年)2月に結婚したばかりの新妻、喜久子(きくこ, 1911-2004)妃=20歳を連れて到着した( https://www.youtube.com/watch?v=EoLLrDo4z_U / https://www.youtube.com/watch?v=7UPAoI20Pt0 )。プラットフォームで待ち受けていたのは、ジョージ五世の第二王子(次男)ヨーク公アルバート王子(Prince Albert, Duke of York, 1895-1952)=後の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)と、国王の第一王女(長女)メアリー王女(Mary, Princess Royal and Countess of Harewood, 1897-1965)と、国王の第四王子(四男)ケント公ジョージ王子(Prince George, Duke of Kent, 1902-42)である。前年(1929年)に上記のグロウスター公ヘンリー王子が英国最高位のガーター勲章(Order of the Garter)を昭和天皇に届けるためにわざわざ訪日したことに対する返礼の意味もあった。高松宮殿下夫妻(Their Imperial Highnesses Prince and Princess Takamatsu)の訪英は国賓訪問(state visit)とされ、英王族や英軍から最大級の歓待を受けた。なお、喜久子妃は德川慶久(とくがは よしひさ; とくがわ よしひさ, 有職(ゆうしょく)読みで「けいきゅう」, 1884-1922; 東京帝國大學法科大學卒)公爵・貴族院議員の令嬢。つまりは十五代將軍德川慶喜(とくがは よしのぶ; とくがわ よしのぶ, 有職(ゆうしょく)読みで「けいき」, 1837-1913; 征夷大將軍在任1867-68)の孫娘が明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)の孫に当たる宮様に嫁入りしたということで、当時の日本では「公武合體(こぅぶ がつたい)」として話題になった結婚である。

1922年12月6日(水)にアイルランドの大部分が連合王国から離脱したが、その四年四ヶ月後の1927年4月12日(火)に国号が少しだけ変更され、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)と成った。したがってジョージ五世はこの国号の王国の初代国王ということになる。

1924年1月22日(火)には国王ジョージ五世による議会開会宣言(King’s Speech at the State Opening of Parliament)が議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(House of Commons)で否決される。スピーチは保守党(Conservative Party; 別称・蔑称 Tories)のボールドウィン(Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, KG, PC, JP, FRS, 1867-1947; 首相在任1923-24, 1924-29 & 1935-37)内閣が書いたものであるため、この否決を受けてボールドウィン内閣は即時総辞職する。そしてボールドウィンの推挙を受け、国王ジョージ五世は二十四年前の1900年に結党された比較的新しい党である労働党(Labour Party; 略称 Labour)のマクドナルド(Ramsay MacDonald, 1866-1937; 首相在任1924 & 1929-35)党首に組閣を要請した。ここに英国憲政史上初の労働党内閣(Labour government)が組閣した。

1931年にはマクドナルド(Ramsay MacDonald, 1866-1937; 首相在任1924 & 1929-35)首相とその側近閣僚たちが世界恐慌(Great Depression)の処理をめぐり、自らが所属する労働党(Labour Party; 略称 Labour)と対立を起こす。そして同年(1931年)8月24日(月)に辞任。マクドナルドと側近閣僚たちはすぐさま労働党から除名される。ところが国王ジョージ五世が間に入り、野党だった保守党(Conservative Party; 別称・蔑称 Tories)と自由党(Liberal Party; 通称 Liberals)に協力を要請したことから、マクドナルド内閣は連立内閣(coalition government)・挙国一致内閣(national cabinet)として維持される。マクドナルド内閣は次に議会下院(Lower House of Parliament)=庶民院(House of Commons)を解散して国民に信を問い、同年(1931年)10月27日(火)に実施された総選挙(general election)で連立与党は圧勝し、中でも連立内の保守党は単独で過半数を制す。これまでの慣習通りなら保守党の党首ボールドウィン(Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, KG, PC, JP, FRS, 1867-1947; 首相在任1923-24, 1924-29 & 1935-37)が首相に任命されるべきだが、国王ジョージ五世は独自の判断でマクドナルド内閣の継続を指示。世論も国王の判断を支持。マクドナルド自身は四年後の1935年まで内閣を維持した上で、本来の第一党である保守党に政権を返上することになる。

1922年10月18日(水)に設立されて間もない英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)が翌年(1923年)の聖誕祭祝日(Christmas Day)=1923年12月25日(火・祝)に国王の肉声を英国内及び全英領殖民地の臣民(しんみん: subjects)に向けて放送しましょうと提案したものの、当の国王自身の反対に遭い実現せず、九年後に同国王の側が折れたことで1932年12月25日(日・祝)に漸(ようや)く聖誕祭メッセージ(Christmas message)の第一回放送( https://sites.google.com/site/xapaga/home/xmasmessage1932 )が始まる。なお、日本の一般国民が天皇の声=「玉音(ぎょくおん)」をラジオで初めて耳にしたのは、イギリスより十三年近く遅れた1945年8月15日(水) 正午の所謂(いわゆる)「玉音(ぎょくおん)放送」である。

日英友好を演出したジョージ五世だったが、同国王の薨去(こうきょ)から僅(わず)か九年半後の1945年7月中旬には英国海軍(Royal Navy)の戦艦キング・ジョージ五世(HMS King George V)が、茨城縣日立市へ14インチ砲(14-inch guns)から267発の砲弾を発射して艦砲射撃を敢行している。また、同年(1945年)7月29日(日)夜と同30日(月)夜にも同戦艦が靜岡縣濱松市(静岡県浜松市)へ14インチ砲から砲弾を発射し、夜間艦砲射撃を敢行しているのは運命の皮肉な巡り合わせであった。

【参考】

エルガー(Sir Edward Elgar, 1857-1934)作曲

Coronation March, Op. 65 for King George V (1911)

国王ジョージ五世のための戴冠式行進曲 作品番号65(1911年)

ジャッド指揮ニュージーランド響(2003年デジタル録音)

https://www.youtube.com/watch?v=q6LgCbJUzRk

(参考)

エルガーの音楽が気に入られた向きは、下記ウェブページをご堪能されたし。

https://sites.google.com/site/xapaga/home/elgar-1

1936年1月20日(月)~同年12月11日(金)の326日間

エドワード八世(Edward VIII, 1894-1972; 在位1936)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VIII

https://www.royal.uk/edward-viii

ジョージ五世の長男で、ヴィクトリア女王の曾孫(ひまご)。皇太子時代の1922年(大正11年)に訪日し( https://www.alamy.de/prinz-edward-der-prinz-von-wales-in-uniform-salutierte-mit-kaiserin-teimei-und-prinzregent-hirohito-von-japan-image239038975.html?pv=1&stamp=2&imageid=3F3816BA-960C-431B-BAEE-6F42A832F7F2&p=82140&n=0&orientation=0&pn=1&searchtype=0&IsFromSearch=1&srch=foo%3dbar%26st%3d0%26pn%3d1%26ps%3d100%26sortby%3d2%26resultview%3dsortbyPopular%26npgs%3d0%26qt%3d(hirohito)%26qt_raw%3d(hirohito)%26lic%3d3%26mr%3d0%26pr%3d0%26ot%3d0%26creative%3d%26ag%3d0%26hc%3d0%26pc%3d%26blackwhite%3d%26cutout%3d%26tbar%3d1%26et%3d0x000000000000000000000%26vp%3d0%26loc%3d0%26imgt%3d0%26dtfr%3d%26dtto%3d%26size%3d0xFF%26archive%3d1%26groupid%3d%26pseudoid%3d%26a%3d%26cdid%3d%26cdsrt%3d%26name%3d%26qn%3d%26apalib%3d%26apalic%3d%26lightbox%3d%26gname%3d%26gtype%3d%26xstx%3d0%26simid%3d%26saveQry%3d%26editorial%3d1%26nu%3d%26t%3d%26edoptin%3d%26customgeoip%3d%26cap%3d1%26cbstore%3d1%26vd%3d0%26lb%3d%26fi%3d2%26edrf%3d%26ispremium%3d1%26flip%3d0%26pl%3d / https://www.agefotostock.com/age/en/Stock-Images/Rights-Managed/IAM-WHA_171_0517 / https://theimperialcourt.tumblr.com/post/162227508308/edward-prince-of-wales-future-king-edward-viii / https://imgur.com/gallery/auouUrO / https://www.gettyimages.ae/detail/news-photo/the-prince-of-wales-lord-louis-mountbatten-and-captain-news-photo/661366366 / https://www.gettyimages.coニュース写真/4th-june-1924-hrh-edward-prince-of-wales-pictured-on-his-tour-ニュース写真/78950407 )、行く先々で大歓迎を受けた。東京ゴルフ倶樂部(Tokyo Golf Club)=現在の都立駒沢オリンピック公園(在東京都世田谷区・目黒区)にては、日本の皇太子裕仁親王(こうたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito, 1901-89)=後の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)との史上初の日英親善ゴルフ対決も実施された( https://www.allposters.com/-sp/Edward-VIII-in-Japan-Posters_i12746141_.htm )。

元の名はデイヴィッド(David)だったが、『旧約聖書』(Old Testament)に登場する古代イスラエル・ユダ列王国の第二代国王であるダヴィデ王(King David)を連想されてしまうため、皇太子時代に英国の王たるにふさわしい名であるエドワード(Edward)に改名させられたが、その後も親族からは 「デイヴィッド」と呼ばれ続けた。四代目の英領印度帝国皇帝(Emperor of India)を兼務。1936年1月20日(月)に王位に就いたかと思うと、翌年5月に予定されていた戴冠式(たいかんしき: Coronation コロネイション)も挙行しないうちに、同年12月11日(金)には自(みずか)ら退位してしまったことで悪名(あくみょう)高い。在位期間は325日。

四半世紀に及んだ皇太子時代に多くの既婚女性(人妻)との間に浮名を流す遊び人(a playboy)だったが、そのような女性慣れした筈(はず)のエドワード皇太子が自(みずか)ら結婚相手に選んだのは、事もあろうに英国社交界で最悪の噂(うわさ)にまみれたアメリカ女シンプソン夫人(Wallis Simpson, 1896-1986)=後のウィンザー公爵夫人ウォリス(Wallis, Duchess of Windsor, 1896-1986)だった。夫人は離婚経験が一度あり、今は二度目の夫との婚姻状態を保っていたが、仮面夫婦状態を続けながら英国皇太子をフェロモンの毒牙(どくが)にかけることに成功した。アメリカ出身でありながら、あわ良くば英国王妃の地位が手に入ると皮算用(かわざんよう)し、これから二度目の夫との離婚訴訟を起こそうとしていた。皇太子と結婚して英国の特権を手に入れるためだった。エドワードの父親である国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)と母親である王妃メアリー(Queen Mary, 1867-1953)は結婚に反対し、シンプソン夫人との面会を拒否した。

「王族は国家元首の許可がないと結婚できない」という規則が皇太子の結婚を阻止(そし)したが、1936年1月20日(月)に国王ジョージ五世が歿すると危機が訪れた。それまでこの結婚に反対していた国家元首が他界して、結婚希望者のエドワード自身が新国王として国家元首になってしまった。ボールドウィン(Stanley Baldwin, 1st Earl Baldwin of Bewdley, 1867-1947; 首相在任1923-24; 1924-29; 1935-37)内閣総理大臣はエドワード八世に対して、英国政府、国内世論、自治領(現英連邦諸国)の世論のいずれも、新国王エドワードがシンプソン夫人と結婚することを望まないと、きっぱりと申し入れた。また、当時のイングランド教会(Church of England)は離婚経験者の再婚を認めない立場だった。英国を含む当時の西洋社会では、離婚や、ましてや三度目の夫と結婚する女はスキャンダル以外の 何者でもないことになっており、もし仮に新国王がそれでも内閣の助言を無視して結婚を強行するとなると、内閣は総辞職せざるを得なくなり、英国は政務停止状態に陥(おちい)る可能性があった。

しかしすべてを悟ったエドワードは同年(1936年)12月10日(木)に3人の弟たち(ヨーク公アルバート、グロウスター公ヘンリー、ケント公ジョージ)の見守る中、退位文書に署名し、同年(1936年)12月11日(金)に自(みずか)らの退位(abdication アブディケイショ ン)を規定した法令を自(みずか)ら勅裁(ちょくさい)した。これが国王として最後の国事行為だった。同日(1936年12月11日(金))夜に元国王のエドワードは国民や海外領土の臣民に向けてラジオでスピーチを行ない( https://www.youtube.com/watch?v=wBn06A-sdok 1:54-2:20 of 7:20)、王位を弟のヨーク公アルバート=新国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)に譲位すると宣言した。その時の言葉「しかし私を信じてください、私が次のように言う際に、私は不可能だと悟りました、責務の重荷を背負い、且()つ国王としての務めを自分の望むように遂行するのが、私の愛する女性の助けと支援なしでは、と。」(But you must believe me when I tell you that I have found it impossible to carry the heavy burden of responsibility and to discharge my duties as king as I would wish to do without the help and support of the woman I love.)はあまりにも有名である。この話は「王冠(わぅくゎん)を賭()けた戀(こひ)」として当時世界中の女性の心をときめかせた。同年(1936年)12月12日(土)にはエドワード元王にウィンザー公(Duke of Windsor)という新しい身分が与えられることが決まった。ここで兄から王位を受け継いだ弟とは、現女王の父親であり、英国映画 The King’s Speech(直訳 『国王の演説』2010年、邦題 『英国王のスピーチ』)でもお馴染(なじ)みの言語障碍(げんご しょうがい)の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)だった。なお、この1936年という年は、「三人の国王の年」(the year of three kings)と屡々(しばしば)呼ばれている。

ウィンザー公となったエドワード(デイヴィッド)は、翌年(1937年)6月3日(木)にフランス中部の都市トゥール(Tours)近郊のカンデ城 (Château de Candé)でウォリス(元シンプソン夫人)と晴れて希望通り結婚することができたが、弟の新国王は英国王族が結婚式に参列することを禁じた。ウィンザー公夫妻は当初はフランスで2~3年程度の自主的亡命生活(voluntary exile)をして、ほとぼりが冷めたら英国に戻る計画だったが、これも実母(皇太后)と弟嫁(新国王妃)に頑(かたく)なに反対され、新国王による英国復帰禁止に遭()った。英国上流社会からすっかり見放されたウィンザー公夫妻はフランスの首都パリ(Paris)の屋敷に住みながら孤立して行った。そんな中、同年(1937年)10月に事もあろうに仮想敵国だったナチス・ドイツのヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945; 首相在任1933-34; 総統在任1934-45)の招きで訪独を決行した。英国政府の忠告も聞かずに行動してしまった。ウィンザー公夫妻はドイツ各地で大歓迎を受け( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/b/b8/Duke_and_Duchess_of_Windsor_meet_Adolf_Hitler_1937.jpg / https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Bundesarchiv_Bild_102-17964%2C_Ordensburg_Krössinsee%2C_Herzog_von_Windsor.jpgi / https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5c/Duc_et_duchesse_de_Windsor_avec_Hitler_%281937%29.jpg )、すっかりナチス贔屓(びいき)になってパリに戻った。

第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)中の1940年5月にナチス・ドイツ軍がフランス北部への進撃を開始すると(パリ陥落は同年=1940年6月14日 (金)のこと)、交戦国イギリスの国籍を持つウィンザー公と中立国アメリカ(但し、裏ではイギリス寄りで、対独参戦したのは翌年=1941年12月11日(木)のこと)の国籍を持つウィンザー公爵夫人は、フランス南西部へと逃避行を開始した。同年(1940年)6月19日(水)にフランスを出国し、翌日(1940年6月20日(木))に中立国(但し、裏ではドイツ寄り)のスペイン領東部のカタルーニャ州州都バルセロナ(Barcelona)に到着。同年(1940年)7月には中立国(但し、裏ではイギリス寄り)のポルトガルに入国し、首都リスボン(葡 Lisboa; 英 Lisbon)に落ち着いた。ナチスが公爵夫妻を政治的に利用しようとして誘拐を計画したが、未遂に終わり、しびれを切らした英国のチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55)内閣総理大臣は同年(1940年)8月に英国軍艦をリスボン港へ派遣して、夫妻を半(なか)ば無理やりに米国フロリダ州沖の英領バハマ諸島(The Bahamas)=現在のバハマ国(Commonwealth of The Bahamas)まで連行し、現地の総督(Governor)に任官した。その状況がナチス・ドイツ無条件降伏(1945年5月8日(火))よりも七週間余り前の1945年3月16日(金)まで続いた。

第二次世界大戦(1939-45)後にウィンザー公爵夫妻はパリ近郊のブーローニュの森(Bois de Boulogne)の中の屋敷に住み、亡くなるまで子供もなく、その地に暮らした。1971年10月には昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が人生二度目のヨーロッパ歴訪の際にその屋敷に立ち寄り、ウィンザー公との四十九年ぶりの再会を喜んだ( https://www.gettyimages.co.jp/detail/ニュース写真/emperor-meets-duke-paris-france-emperor-hirohito-of-japan-the-ニュース写真/515420940i / https://www.gettyimages.co.jp/detail/ニュース写真/emperor-and-ex-king-paris-emperor-hirohito-and-his-wife-empress-ニュース写真/515421472 / https://www.gettyimages.co.jp/detail/ニュース写真/emperor-hirohito-and-empress-nagako-pose-with-prince-edward-ニュース写真/1219900930 )。それから七ヶ月後の翌年(1972年)5月に女王エリザベス二世 (Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)がフランスを公式訪問した際、同年(1972年)5月18日(木)にブーローニュの森の屋敷を訪問し、末期の食道癌 (esophageal cancer)で重体の伯父(おじ)ウィンザー公を見舞った。そして十日後の同年(1972年)5月28日(日)午前2時25分にウィンザー公(元国王エドワード八世)は他界した。

【参考コラム】

「王冠をかけた恋」英ウィンザー公 20世紀のファッションリーダーが衝動買いしたコート

日本經濟新聞 Nikkei Style

服飾評論家 出石尚三(いずいし しょうぞう, b.1944)署名コラム

2020年11月22日(日)

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO6604219010112020000000

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO6604219010112020000000?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/a81fc198384e22bc6e0d844f333f15b66faea03b

https://news.yahoo.co.jp/articles/a81fc198384e22bc6e0d844f333f15b66faea03b?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/a81fc198384e22bc6e0d844f333f15b66faea03b/comments

1936年12月11日(金)~1952年2月6日(水)

ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)の治世

https://en.wikipedia.org/wiki/George_VI

https://www.royal.uk/george-vi

1936年という年は、「三人の国王の年」(the Year of the Three Kings)と呼ばれる。英国史上(今のところ)最後の珍事である。まず同年(1936年)1月20日(月)に国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)が歿し、同日(1936年1月20日(月))中に長男のエドワード八世(Edward VIII, 1894-1972; 在位1936)の治世が始まるも、同年(1936年)12月11日(金)には退位(abdicate)してしまう。そして同日(1936年12月11日(金))中に弟(亡き国王の次男)のジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)の治世が始まったのである。

先代の国王エドワード八世の一歳半違いの弟で、ジョージ五世の次男で、ヴィクトリア女王の曾孫(ひまご)にして、ヨーク公アルバート王子(Prince Albert, Duke of York, 1895-1952)という肩書だったが、1936年12月11日(金)に兄エドワード八世の突然の退位(abdication)を受けて急拵(きゅう ごしら)えで王位に就いた。元の名はアルバート(Albert)で、綽名(あだな)がバーティー(Bertie)だったが、アルバートという名はヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の王婿(おうせい: Prince Consort)で新国王から見ると父方の曽祖父であるアルバート公(Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha, 1819-61)を連想させるので、王位に就くと同時に王たるにふさわしい名であるジョージ(George)に改名させられた。しかし親族(王族)はバーティー(Bertie)という綽名(あだな)で呼び続けた。まだヨーク公(Duke of York: つまり国王の次男)だった時代に1919年10月から1920年6月にかけてケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)に遊学した(その四十八年後の1967年10月には孫のチャールズ皇太子が同学寮に正規入学することになる)。

ジョージ六世は極度のドモリ(吃音)を伴う言語障碍(げんご しょうがい: speech impediments)を抱(かか)えており、国王に成って一年半と、まだ日が浅かった1938年5月3日(火)のスコットランド帝国博覧会(Empire Exhibition, Scotland 1938)開会宣言の映像( https://www.youtube.com/watch?v=p1TubkzxPFY )は見るも痛々しい。ドモリの事実は英国映画 The King’s Speech(直訳 『国王の演説』2010年、邦題 『英国王のスピーチ』)でも描かれた。映画のクライマックスには1939年9月3日(日)の対独宣戦布告(declaration of war on Germany)に際しての国王のラジオ演説が登場する。ジョージ六世としては最大の努力を払い、実際まずまずの成功を収めている( https://www.youtube.com/watch?v=NbJ8QfDqrN8 )が、コリン・ファース(Colin Firth, b.1960)がジョージ六世を演じた映画『英国王のスピーチ』ではもっと美化されていて( https://www.youtube.com/watch?v=zxew7HJS_Zo )、なぜか背景にベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770-1827: ドイツ語発音でベートホーフェン、英語発音でベイトウヴェン)の交響曲第7番 イ長調 作品番号92(独 Symphonie Nr.7 in A-Dur op.92, od. 7. Sinfonie in A-Dur op.92; 英 Symphony No.7 in A major, Op.92)の第二楽章(独 Zweiter Satz; 英 Second Movement)が流れる。しかしこの映画とは違い、ドモリは生涯克服できなかった。

第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)ではバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)がドイツ空軍(Luftwaffe トゥヴァッフェ)の空襲に遭っても同宮殿を離れず、ロンドン市民たちと共に苦難を耐え忍んだことから、ナチス・ドイツに敢然(かんぜん)と立ち向かう国家元首(Head of State)として国民の敬愛を集めた。1945年5月8日(火)のナチス・ドイツ無条件降伏を受けた戦勝演説が白黒映像と共に残されている( https://www.youtube.com/watch?v=v4l3aaL8Je4 )。スピーチ冒頭で「我々はまだ日本軍と対峙(たいじ)しているようであります。しぶとい残虐な敵です。」(We have yet to deal with the Japanese, a determined and cruel foe.)と国民に語り、まだ極東の戦線で日本軍を倒していない事実に釘(くぎ)を刺しているのが印象的である。また、ラジオでの演説全体も残っていて( https://www.youtube.com/watch?v=WwWvoVvk7IU )、冒頭近く0:57の箇所で上記の日本軍への言及がある。この戦勝演説については、ジョージ六世の長女で現女王でもあるエリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が2020年5月8日(金)に戦勝75周年演説( https://sites.google.com/site/xapaga/home/queen75thveday )の中で言及しているが、後に和解した交戦国日本については言及していない。

1947年8月15日(金)=対日戦勝記念二周年の日に、英領印度(British India)がインドとパキスタン(後にパキスタンとバングラデシュに分離)に分かれてイギリスから独立するまで英領印度の皇帝を兼務した。最後の印度皇帝(Emperor of India)だったことからラスト・エンペラー(the Last Emperor)の異名(いみょう)で呼ばれることもある。子供は娘しかおらず、長女のウェールズ女大公エリザベス皇太女(Princess Elizabeth, or Elizabeth, Princess of Wales, b.1926)=後の女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)=と次女マーガレット王女(Princess Margaret, 1930-2002)=後に結婚してスノウドン伯爵夫人(Princess Margaret, Countess of Snowdon, 1930-2002)=の2人だったので、次代は女王の治世(reign)になることが分かっていた。度重なる心労が祟(たた)って国王ジョージ六世は1952年2月6日(水)に満56歳の若さで薨去(こうきょ)した。故ジョージ六世の妃(きさき)=エリザベス皇太后(Queen Elizabeth The Queen Mother, 1900-2002)は満101歳まで長生きしたこともあり以後半世紀も寡婦(かふ: a widow)として過ごすことになるが、簡単に王位を投げ出した義理の兄(brother-in-law)ウィンザー公夫妻(Duke and Duchess of Windsor)を終生許さなかった。

【参考】

ウォルトン(Sir William Walton, 1902-83)作曲

“Crown Imperial” Coronation March for George VI (1937)

国王ジョージ六世のための戴冠式行進曲「帝王の冠(らウン・イムピーりオゥ)」(1937年)

https://en.wikipedia.org/wiki/Crown_Imperial_(march)

https://ja.wikipedia.org/wiki/王冠_(戴冠行進曲)

https://zh.wikipedia.org/wiki/帝王的冠冕

1953年6月2日(火)の長女(女王エリザベス二世)の戴冠式でも、そして2011年4月29日(金)の曾孫(ウィリアム王子)とキャサリン・ミドルトン嬢(現在のケイムブリヂ公爵夫人)の婚礼でも再演されるほどの人気曲。

録音

ボウルト指揮BBC響で途中まで(1937年当時のモノラル音源)

https://www.youtube.com/watch?v=ODwl7dUj7pM (リンク切れ)

作曲者ウォルトン自身の指揮するフィルハーモニア管(録音年代不明のステレオ音源)

https://www.youtube.com/watch?v=gL8gAFHsBA4

2011年4月29日(金)、大ロンドン市ウェストミンスター区(City of Westminster)のウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)に於けるウィリアム王子(Prince William of Windsor, or William, Duke of Cambridge, b.1982)とキャサリン嬢(Catherine or “Kate” Middleton, or Catherine, Duchess of Cambridge, b.1982)のロイヤル・ウェディング動画

https://www.youtube.com/watch?v=schQZY3QjCw (2:04:30-2:10:36 of 3:37:50)

Tragic News of King George VI's Death - 1952

(ジョージ六世の訃報 1952年)

https://www.youtube.com/watch?v=DT3gbtJIt4w

(参考)

ウォルトンの音楽が気に入られた向きは、下記ウェブページをご堪能されたし。

https://sites.google.com/site/xapaga/home/walton

現女王エリザベス二世以降は続編( https://sites.google.com/site/xapaga/home/historicrulers2 )へ。