前期15「イギリス文化論」(2021/ 6/17) 英国の大学年表と女権(十八世紀からナポレオン戦争まで)

これ以前の年表は前編( https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline1 )へ。日本の大学年表についてはウェブページ6種( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline1 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline2 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline3 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline4 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline5 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline6 )を参照のこと。

1701年 二年前の1689年12月16日にイングランド議会で批准された「権利の章典」(Bill of Rights 1689)に基(もと)づき、国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)が「1701年王位継承法(Act of Settlement 1701)」を制定する。自身と共同統治だった亡き妻メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)の間に子供がなく、王位を継ぐ義妹(亡き妻の妹)であるアン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-14)にも後継者がいなかったこと、名誉革命によって国を追われたカトリック信徒の元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)の子孫が王位を主張することなどを危惧したため制定された。この王位継承法の最重要事項は次の四点である。「王位継承者はステュアート家の血統であること」と「イングランド教会信徒のみが王位継承権を持つこと」と「カトリック信徒を配偶者とした者は王位継承権を失うこと」と「カトリック信徒は王位継承権を失うこと」である。これらは2015年3月26日(木)に「2013年王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)」施行されるまで実に三百十四年間も有効だったし、2015年以降も「イングランド教会信徒のみが王位継承権を持つこと」と「カトリック信徒は王位継承権を失うこと」の条項は残された儘(まま)である。

1701年7月9日~’14年9月7日 スペイン王位の継承者を巡って欧州の多国間で戦われたスペイン継承戦争(西 Guerra de Sucesión Española; 仏 Guerre de succession d’Espagne; 英 War of the Spanish Succession, 1701-14)が勃発。イングランド王国はプロテスタント国やハプスブルク家の墺太利など一部のカトリック国が野合した大連合(英 Grand Alliance; 仏 Grande Alliance)側で参戦。敵は太陽王ルイ十四世(Louis XIV, 1638-1715; 在位1643-1715)率いるフランス王国を中心とした一部のカトリック国で組織された二冠党(仏 Parti des deux couronnes; 英 Party of the Two Crowns)。戦闘の舞台は欧州大陸と大西洋を越えた欧州諸国の北米殖民地・西インド諸島殖民地・南米殖民地にまで及び、戦闘期間は亡き女王メアリー二 世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)の妹に当たるアン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-14)の治世とほぼ重なることから、この間に北米で戦われた戦争をアン女王戦争(Queen Anne’s War, 1702-13)と呼ぶ。なお、この戦争で軍才を発揮して公爵(Duke)にまで上り詰めた初代マールバラ公爵ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 1650-1722)は、故ウィンストン・チャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)元首相の先祖に当たる。また、故ダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)こと、旧姓スペンサー伯爵令嬢(Lady Diana Spencer, 1961-97)も初代マールバラ公爵の子孫に当たる。

1707年5月1日 イングランド王国(ウェールズを含む)がスコットランド王国と正式に統合し、グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)が成立し、アン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-14)がこの名の王国の初代君主となる。そのため九十六年前の1606年4月12日に国王ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; スコットランド国王在位1567-1625; イングランド国王在位1603-1625)によって制定されていた初代ユニオンフラッグ(Union Flag: 「統合旗」の意 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Flag_of_Great_Britain_(1707–1800).svg )=通称ユニオンジャック(Union Jack: 「統合船首旗」の意)が正式な国旗と成る。

1713年 ユトレヒト条約(仏 Traités d’Utrecht; 英; Treaty of Utrecht; 西 Tratado de Utrecht; 独 Friede von Utrecht; 蘭 Vrede van Utrecht)が結ばれたことで、グレートブリテン王国(英国)はスペイン継承戦争(西 Guerra de Sucesión Española; 仏 Guerre de succession d’Espagne; 英 War of the Spanish Succession, 1701-14)での事実上の戦勝国となり、スペイン王国が行なっていた奴隷貿易に参入する権利を得て、スペイン王国のジブラルタル(現在も英国海外領土)及びメノルカ島(但し、1802年のアミアンの和約でスペインに返還)を獲得し、またフランス王国からは北米殖民地のアカディアとニューファンドランド島とハドソン湾地方(三地方とも現在は英連邦カナダの一部)を獲得。墺太利とフランス王国との戦闘は翌’14年まで続く。

(参考)外部サイト

300年もの領土問題を抱える「欧州最後の植民地」のジレンマ

米ハーバービジネス オンライン(Harbor Business Online)日本版

白石和幸(しらいし かずゆき)在西貿易コンサルタント署名コラム

2020年8月13日(木)

https://hbol.jp/225876

https://hbol.jp/225876/2

https://news.yahoo.co.jp/articles/5349c8d99ad1f388ac12094c7022217899402b68

https://news.yahoo.co.jp/articles/5349c8d99ad1f388ac12094c7022217899402b68?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/5349c8d99ad1f388ac12094c7022217899402b68/comments

小見出し1: 3世紀に渡り英西で係争関係にあるジブラルタルのジレンマ

小見出し2: スペイン外相がジブラルタル首相と会談。猛批判される

小見出し3: イギリス側は「スペインからの帰国者への自主隔離」で報復⁉︎

1714年8月1日 十七回も妊娠しながら成人した子のいなかった(最長でも11歳で夭折(ようせつ))アン女王(Queen Anne, 1665-1714; 在位1702-14)の 薨去(こうきょ)に伴(ともな)い、スコットランド系のステュアート朝(the House of Stuart)が途絶え、亡き国王ジェイムズ一世(James I, 1566-1625; 在位1603-25)の外孫の長男に当たる五十四歳のドイツ貴族ゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig, 1660-1727)が英国議会に呼ばれて英国王を引き受け、国王ジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)となることでハノーヴァー朝(the House of Hanover)が始まる。なお、現王室はこの王の直系。

1715年8月27日 前年(1714年)発足(ほっそく)したハノーヴァー朝に不満を持つスコットランドの貴族が中心になって「ジェイムズ派の乱(Jacobite rising)」を起こし、イングランド北西部を侵略。

171512月22日 「ジェイムズ派の乱(Jacobite rising)」の中で、カトリック信徒の自称「国王ジェイムズ三世」ことジェイムズ・エドワード・ステュワート(James Edward Stuart, 1688-1766)が亡命先のフランスからスコットランドに上陸し、戦線に加わる。

1716年1月 「ジェイムズ派の乱」の中で、自称「国王ジェイムズ三世」ことジェイムズ・エドワード・ステュワート(James Edward Stuart, 1688-1766)が病気のため戦線を離脱。

1716年2月5日 「ジェイムズ派の乱」の中で、「ジェイムズ派の乱」の中で、自称「国王ジェイムズ三世」ことジェイムズ・エドワード・ステュワート(James Edward Stuart, 1688-1766)が再びスコットランドを離れてフランスに亡命。このため、ハノーヴァー朝には暫(しば)しの平和が訪れる。

1717年 ムガル帝国(Mughal Empire)第9代皇帝ファッルフシヤル(فرخ سیر‎; Furrukhsiyar, 1685-1719; 在位1713-19)が、英国東インド会社(EIC: East India Company)に対し、ベンガル地方に於ける関税免除特権(privilege of free trade)を与える。

1720年 イギリスの毛織物業社の圧力が再びグレートブリテン王国議会を動かし、二年後の1722年12月25日以降はキャラコを使用してはならないとするキャラコ使用禁止法が成立。

1720年9月 九年前の1711年に設立された南海会社(The South Sea Company)は、本業の奴隷貿易では振るわなかったが、英国政府の国債引き受け会社として成長し、わずか数ヶ月の間に同社の株価が十倍に高騰した。しかし過大評価されたその株価はあっけなく暴落し、多くの破産者が自殺したという。世に言う南海泡沫事件(South Sea Bubble)。ここで使われた泡沫(Bubble)という用語が、後世のバブル経済(bubble economy)の語源になった。この事件の混乱を収拾したのが、財政の専門家として名高い元財務卿(在任1715-17年)の初代オーフオッド伯爵ロバート・ウォルポール(Robert Walpole, 1st Earl of Orford, 1676-1745; 首相在任1721-42)だった。事件の反省から世界初の会計監査制度が始まった。

1721年 前年(1720年)の南海泡沫事件の混乱を収拾した初代オーフオッド伯爵ロバート・ウォルポール(Robert Walpole, 1st Earl of Orford, 1676-1745; 首相在任1721-42)が初代の総理大臣(Prime Minister)に抜擢される(1885年の日本國初代総理大臣伊藤博文に先立つこと百六十四年)。英国議会から呼ばれてドイツからやって来て五十四歳で英国王になったジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)の英会話に問題があったため、実務を司(つかさど)る大臣が必要となり、1715-17年に財務卿を務めていたウォルポールが総理大臣を務めることになった。そして実に十九年と十ヶ月も同職に収まった。国王ジョージ一世との意思疎通には学校ラテン語やフランス語を用いたという。

1721年 保護貿易政策を進めるグレートブリテン王国議会が二十一年前の1700年の法律よりもっと厳格なキャラコ輸入禁止法(Calico Act 1721)を成立させ、大半の木綿製品の輸入を禁止。

1727年 英西戦争(英 Anglo-Spanish War; 西 Guerra anglo-española, 1727-29)が勃発。グレートブリテン王国(英国)は中米に於(お)けるスペイン王国の軍事拠点だったポルトォ・ベリョ(Porto Bello: 「美港」の意)港、現在のパナマ共和国ポルトォベーロ(Portobelo: 「美港」の意)港を包囲するが、英国海軍(Royal Navy)の水兵たちは熱帯病に罹患して四千人も病死したため何もできなかった。スペインも十四年前の1713年にイギリスに取られたジブラルタルを奪還しようと2月11日(火)から6月12日(木)まで四ヶ月にも亘(わた)ってジブラルタル要塞を攻めたが遂に陥落せず諦めた。

1729年 セビリア条約(仏 Traité de Séville; 英 Treaty of Seville; 西 Tratado de Sevilla)の締結で英西戦争(英 Anglo-Spanish War; 西 Guerra anglo-española, 1727-29)が終結。両者とも得るところは何も無く、開戦前の状態が維持される。

1733年 百四十一年前の1592年にアイルランド島に開学したダブリン大学(University of Dublin)以来初となる高等教育機関、聖ゲオルギオス学院(St George’s College)が首都ロンドンに開学。オクスフオッド大学医学部に次ぐ英国第二の医学専門機関となる。同学院は1836年にロンドン大学(University of London)に統合され、ロンドン大学聖ゲオルギオス(St George’s, University of London)という名の五年制の医学部となる(なお、日本の医学部は六年制)。

1745年8月16日 先の名誉革命(1688年)でフランスに亡命したカトリック信徒の元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-88)の孫で、亡き女王メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)や亡き女王アン(Queen Anne, 1665-1714; 1702-14) の甥に当たるカトリック信徒であり、三十年前の1715年に「ジェイムズ派の乱(Jacobite rising)」を起こした自称「国王ジェイムズ三世」ことジェイムズ・エドワード・ステュワート(James Edward Stuart, 1688-1766)の長男で「イケメン王子チャーリー(Bonnie Prince Charlie)」として知られるステュアート家のチャールズ(Charles Edward Stuart, 1720-88)が、存命中の父親の志を継いで亡命先のフランスからスコットランドに上陸し、「ジェイムズ派の乱(Jacobite rising)」を起こす。

1745年11月 「ジェイムズ派の乱」の中で、「ジェイムズ派の乱」の中で、チャーリー王子はスコットランド軍を指揮してイングランド北西部を侵略し、占領したランカスター(Lancaster)の中心に在(あ)る市場広場(Market Square)で自称「国王チャールズ三世」を宣言。この頃にスコットランド軍をあからさまに敵視して作られたのが、英国国歌「神よ国王を護り給へ(God Save the King)」(現在の「神よ女王を護り給へ(God Save the Queen)」)である。

1746年4月 ジョージ二世(George II, 1683-1760; 在位1727-60)のイングランド軍が「ジェイムズ派の乱」を鎮圧。チャールズは以前に居た亡命先のカトリック国フランスに再び逃亡。

1746年9月9日 仏領モーリシャス(Mauritius)の総督であったフランス海軍のラブルドネ伯爵・大佐(Bertrand-François Mahé, comte de La Bourdonnais, Capitaine de frégate, 1699-1753)の軍勢がインド南部に侵攻し、僅(わず)か三日間の戦闘を経て、グレートブリテン王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)が拠点としていた聖ゲオルギオス要塞(Fort St. George)とマドラス(Madras)=現在のチェンナイ(Chennai)市街と周辺村落を三年近くも占領。

1749年8月 前年(1748年)にオーストリア継承戦争(独 Österreichischer Erbfolgekrieg; 仏 Guerre de Succession d’Autriche; 英 War of the Austrian Succession, 1740-48)の結果結ばれたアーヘン和約(仏 Traité d'Aix-la-Chapelle; 独 Frieden von Aachen; 英 Treaty of Aix-la-Chapelle, 1748)に基づき、フランスは三年前の1746年から軍事占領していたインド南部のマドラス(Madras)=現在のチェンナイ(Chennai)を、グレートブリテン王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)に返還。

1752年9月14日(木) 前年(1751年)5月22日に勅裁された1750年暦(新方式)法(Calendar (New Style) Act 1750)に基づき、北米殖民地を含むグレートブリテン王国(英国)が 従来までのユリウス暦(羅 calendarium Iulianum; 英 Julian calendar)をやめてグレゴリオ暦(羅 calendarium Gregorianum; 英 Gregorian calendar)を採用。その際に11日間のズレが生じ、同年(1752年)9月2日(水)の翌日が9月14日(木)となった。なお、日本がグレゴリオ暦を採用するのは1873年(明治6年)1月1日(水・祝)のことであり、その前日は和曆明治5年12月2日(火)=西暦1872年12月31日(火)であった

1753年6月7日(木) 医師で古美術収集家だったスローン(Sir Hans Sloane, 1660–1753)の遺志により英国博物館(British Museum; 漢字文化圏では大英博物館)がロンドンのブルームズベリー地区のモンタギューハウス (Montagu House, Bloomsbury)に組織として設立される。但し、一般公開は約五年半後の1759年1月15日(月)のこと。

1755年11月1日(土) ポルトガル王国(現在のポルトガル共和国)首都でリスボン大地震が発生。死者数は6~9万人とされる。この大地震がヨーロッパ社会に精神的ダメージを与え、当時の啓蒙思想にも大きな影響を与え、三十四年後の1789年フランス革命の遠因となる。

1756年 グ レートブリテン王国(英国)とフランス王国(現在のフランス共和国)が互いに宣戦布告し、欧州大陸と北米大陸とインド亜大陸を舞台とする七年戦争(仏 Guerre de Sept Ans; 英 Seven Years War; 西 Guerra de los Siete Años, 1756-63)が勃発。英仏西の三大君主国同士の世界規模の(globalな)戦闘が展開されることから、事実上の「第0次世界大戦」とも言える。当初スペイン王国は中立を宣言。

1757年6月23日(木) プラッシーの戦い(Battle of Plassey)で英国東インド会社(EIC: East India Company)がフランス王国の支援を受けたベンガル太守軍(Nawab of Bengal army)を破る。こうして英国東インド会社はベンガル地方に於ける自由通商権(free trade rights)を獲得。

1757年 マドラス(Madras)=現在のチェンナイ(Chennai)を拠点とした英国東インド会社(EIC: East India Company)軍がカルカッタ(Calcutta)=現在のコルカタ(Kolkata)に到着し、前年(1756年)からベンガル太守(Nawab of Bengal)に占領されていたカルカッタを奪回した上でフランスの拠点だったシャンデルナゴル(仏 Chandernagor; 英 Chandannagar)も占領し、フランス勢力をインドから追放。

1759年1月15日(月) 約五年半の1753年6月7日(木)にロンドンのブルームズベリー地区のモンタギューハウス (Montagu House, Bloomsbury)に組織として設立されていた英国博物館(British Museum; 漢字文化圏では大英博物館)が初めて一般公開される。

1759年 南部担当国務大臣(Secretary of State for the Southern Department)として活躍する大ピット(William Pitt the Elder)こと、ウィリアム・ピット(William Pitt, 1708-78; 首相在任1766-68)=後の初代チャタム伯ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, 1708-78)が進める海外進出(悪く言うと侵略)で、欧州大陸、北米大陸、カリブ海、印度亜大陸、印度洋の全方面でグレートブリテン王国がフランス王国の軍勢に勝利。フランスの翳(かげ)りが濃厚となり、この弱体化が三十年後の1789年に勃発(ぼっぱつ)するフランス革命へと繋(つな)がってゆく。逆に英国は地球を支配するような超大国(the dominant global superpower)と成り、この年をして「1759年=奇跡の年」(Annus Mirabilis of 1759)と呼ぶ。

1762年1月 六年前の1756年から始まっていた七年戦争(仏 Guerre de Sept Ans; 英 Seven Years War; 西 Guerra de los Siete Años, 1756-63)で、これまで中立だったスペイン王国がフランス王国(現在のフランス共和国)の側で参戦し、自称「中立国」ながら裏でイギリスとつながっている隣国ポルトガル王国に侵攻。グレートブリテン王国(英国)は欧州大陸のポルトガルに応援部隊を派遣し、遠くカリブ海や南米やフィリピンを舞台にスペインと戦闘。世界規模の(globalな)戦闘が展開されたことから、事実上の「第0次世界大戦」と成る。

1762年8月 同年3月から五ヶ月続いた攻防戦で、グレートブリテン王国(英国)はカリブ海のスペイン(スペイン領西印度)の拠点であるキューバのハバナ港を占領。スペイン側に大打撃。

1762年10月6日(水) 同年9月24日(金)から二週間続いた攻防戦で、グレートブリテン王国(英国)は極東に於けるスペイン(スペイン領東インド)の拠点であるフィリピンのマニラ港を占領。またもスペイン側に大打撃。この1762年を第二の奇跡の年(Second Annus Mirabilis)と称する場合がある。

1763年2月10日(木) パリ条約(仏 Traité de Paris; 英 Treaty of Paris; 西 Tratado de París; 歴史上数あるパリ条約の1つ)が締結される。この条約により七年戦争(仏 Guerre de Sept Ans; 英 Seven Years War; 西 Guerra de los Siete Años, 1756-63)が終結。グレートブリテン王国(英国)が事実上の戦勝国となる。英国はスペイン領キューバのハバナをスペイン王国に返還するも、北米大陸のフロリダ州(現在の米国フロリダ州)とスペイン沖の地中海に在るミノルカ島をスペインから獲得。フランス王国はフランス領ルイジアナ(現在の米国ルイジアナ州のみならず、米国中西部の広大な土地)をスペインと英国に割譲。

1764年4月 前年のパリ条約と賠償金の支払いに基づき、グレートブリテン王国(英国)がスペイン領フィリピンのマニラをスペイン王国に返還。

1764年 イングランド北西部はランカシヤ(Lancashire)の発明家ハーグリーヴズ(James Hargreaves, c.1720–78)がジェニー紡績機(spinning jenny)を発明。1人の職人が一度に8個以上の糸を同時に撚る(=細長くねじる)よう工夫され、紡績糸(yarn)製造の時間短縮に成功。

1764年10月23日(水) ブクサールの戦い(Battle of Buxar)で英国東インド会社(EIC: East India Company)がムガル帝国(Mughal Empire)のアワド太守(Nawab of Awadh)と前ベンガル太守(former Nawab of Bengal)の連合軍を破る。こうして英国東インド会社はベンガル地方に於ける徴税権(the tax collection rights; the power to levy taxes; the authority of tax collection)を獲得。

1767-69年 グレートブリテン王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインド南部のマイソール王国との間に第一次マイソール戦争(First Anglo-Mysore War, 1767-69)が勃発するが、英国側の不首尾に終わり、英軍撤退。

1767-69年 イングランド北西部はランカシヤ(Lancashire)の発明家アークライト(Sir Richard Arkwright, 1732–92)が水力紡績機(water frame)を発明し、特許(patent)を取得し、二年後に実用化する。従来品のジェニー紡績機に比べて丈夫な紡績糸(yarn)を作ることが可能になる。

1770年 約六年前の1764年頃にハーグリーヴズ(James Hargreaves, 1720-78)が発明したジェニー紡績機(a spinning jenny)の特許(patent)を取得。

1773年 五十二年前の1721年にキャラコ輸入禁止法(Calico Act 1721)が成立していた英国で、初めて純綿の自国製キャラコの製造に成功。

1774年 北米の英領殖民地で第一次大陸議会(First Continental Congress)が開催され、殖民地代表たちが共同で印紙税(stamp duty)の撤廃をグレートブリテン(英国)国王ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)に要求。翌年(1775年)に勃発(ぼっぱつ)することになるアメリカ独立戦争(American War of Independence, 1775-83)の伏線(ふくせん)となる。

1775年3月 グレートブリテン王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインドのマラーター同盟との間でインドのデカン地方などを舞台に第一次マラーター戦争(First Anglo-Maratha War, 1775-82)が勃発。両者互角。

1775-79年 イングランド北西部はランカシヤ(Lancashire)の発明家クロンプトン(Samuel Crompton, 1753-1827)がミュール紡績機(spinning mule)を発明。先行のアークライトの紡績機の欠点をジェニー紡績機の仕組みで補おうとしたのであるが、ミュール(mule)は英語でウマ(horse)とロバ(donkey)の合いの子(hybrid: ハイブリッド)である「ラバ」を意味する。この機械が2つの機械の合いの子であることから名付けられた。クロンプトンはこの発明の特許を取得できず、発明の権利をデイル(David Dale, 1739–1806)に売り、デイルは装置を更に改良して特許を取得した。

1775年4月19日(水) グレートブリテン王国(英国)領北米殖民地のニューイングランドでアメリカ独立戦争、別名 アメリカ革命戦争(American War of Independence or American Revolutionary War, 1775-83)が勃発(ぼっぱつ)。

1776年7月4日(木) 前年(1775年)4月19日(水)から続いているアメリカ独立戦争の最中(さなか)、ニューイングランドの13殖民地(マサチューセッツ湾直轄地、ニューハンプシャー直轄殖民地、ロードアイランド直轄殖民地、コネティカット殖民地、ニューヨーク直轄殖民地、ニュージャージー直轄殖民地、ペンシルヴェイニア直轄殖民地、デラウェア殖民地、メリーランド直轄殖民地、ヴァージニア殖民地、ノースカロライナ直轄殖民地、サウスカロライナ直轄殖民地、ジョージア直轄殖民地)がイギリスに反発して独立を宣言。アメリカの言い分では、この時点でアメリカ合衆国が成立したことになるもイギリス側は認めず。

1780年 グレートブリテン王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインド南部のマイソール王国との間に第二次マイソール戦争(Second Anglo-Mysore War, 1780-84)が勃発。今回はマイソール側にフランス王国(現在のフランス共和国)とネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)が加勢し、英国側は苦戦を強いられる。

1780年 五年前の1775年から続いているアメリカ独立戦争の最中(さなか)、マサチューセッツ州憲法によって、1636年創立のハーヴァード・コレッヂ(Harvard College)がハーヴァード大学(Harvard University)に昇格。

1780年12月 五年八ヶ月前の1775年4月19日(水)から続いているアメリカ独立戦争の最中(さなか)、グレートブリテン王国(英国)はネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)が敵アメリカの側についていると難癖をつけて宣戦布告。第四次英蘭戦争(英 Fourth Anglo-Dutch War; 蘭 Vierde Engelse Oorlog, 1780-84)が勃発。

1780年代 日曜学校の運動が開始される。教育目的は主としてキリスト教の教議(dogma)を教えることにあった。

1781年 ワット(James Watt, 1736-1819)が旧来の蒸気機関(steam engine)を大幅に改良した製品の特許(patent)を取得。織物の大量生産が可能になる。ワットの改良型蒸気機関は紡績のみならず製鉄にも使われるようになり、産業革命(Industrial Revolution)を推し進めることになる。

1782年1月5日(土) 五年八ヶ月以上前の1775年4月19日(水)から続いているアメリカ独立戦争のドサクサに、スペイン王国がフランス王国(現在のフランス共和国)と結託し、自国の近海の英領(元スペイン領)ミノルカ島を奪取することに成功。それ以後ミノルカ島は1798年のグレートブリテン王国(英国)による一時的な侵略を除いて永続的にスペイン領となる。そして二十一世紀(2001-2100年)の現在、ミノルカ島は多くの英国人観光客や永住者(British tourists and expats)の目的地(destination)となる。

1782年5月17日(金) 七年前の1775年から続いていた第一次マラーター戦争(First Anglo-Maratha War, 1775-82)が終結。以後二十一年後の1803年までは両者の間に平和が保たれる。

1783年6月8日(日) アイスランド中南部のラキ火山(氷国語 Lakagígar; 英 Laki volcano)が大噴火。続いてグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)も噴火。これらの噴火では、火山噴出物に加え、大量のフッ素水素ガスと二酸化硫黄ガスが噴出し、ガス中毒で多くの人や家畜が死亡。大量の噴出物によって北半球で猛暑、寒冷化、旱魃(かんばつ)、洪水、嵐などの異常気象が向こう五年に亘(わた)って続き、農作物が不作となって、貧困と飢饉が拡大。なお、同年(1783年)8月5日には、日本でも浅間山の天明大噴火が発生。

1783年9月3日(水) パリ条約(仏 Traité de Paris; 英 Treaty of Paris; 歴史上数あるパリ条約の1つ)でグレートブリテン王国(英国)が事実上の敗戦国となり、共和制国家アメリカの独立を承認して撤退。この時点でアメリカ合衆国が事実上成立したことになる。しかしながら、イギリスは英領北アメリカ(British North America: 現在の英連邦カナダ)には相変わらず軍隊を残し、これが二十九年後の米英戦争(the War of 1812)に繋(つな)がることになる。

1784年3月11日(木) イギリスとマイソール王国の双方が和約し、第二次マイソール戦争(Second Anglo-Mysore War, 1780-84)が終結。

1784年5月12日(水) 半年前の1783年9月3日(水)に締結されたパリ条約(仏 Traité de Paris; 英 Treaty of Paris; 歴史上数あるパリ条約の1つ)が発効し、この日からアメリカが正式に独立。イギリスの言い分では、この時点でアメリカ合衆国が正式に成立したことになるため、アメリカ側の主張する1776年7月4日(木)の建国とは約八年近くもの時間差が生じている。

1784年5月20日(木) パリ条約(仏 Traité de Paris; 英 Treaty of Paris; 蘭 Vrede van Parijs; 歴史上数あるパリ条約の1つ)でグレートブリテン王国(英国)とネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)が和約し、第四次英蘭戦争(英 Fourth Anglo-Dutch War; 蘭 Vierde Engelse Oorlog, 1780-84)が終結。これ以後イギリスがインドの南東、マレー半島、シンガポール、豪州大陸へと進出する足掛かりとなる。

1785年 カートライト(Edmund Cartwright, 1743-1823)が力織機(a power loom)を発明。

1785年 ロンドン病院医学院(London Hospital Medical College)が開学。 同学院は1995年に、1123年に開院した現存する最古の病院が所有する聖バルトロメオ病院医学院(Medical College of St Bartholomew’s Hospital)と合併し、バーツ及びロンドン医科歯科学院(Barts and The London School of Medicine and Dentistry)となる。

1785年 フランスで以後数年に亘(わた)って凶作となり、食糧不足によって飢饉や貧困が拡大。これが急進的な思想の土台となり、四年後の1789年フランス革命の原因となる。

1789年7月14日(火) パリのバスティーユ牢獄襲撃事件に端を発するフランス革命が勃発。7月14日は革命記念日となる(日本では勝手に「パリ祭」と称するが、革命記念祭はフランス全土で実行される)。英国の保守派は、1688年の名誉革命(Glorious Revolution)の精神を体現する革命だと当初は勘違いして支持を表明するも、後に血で血を洗う暴力革命だと気づいて支持を撤回することになる。

1789年12月 グレートブリテン王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインド南部のマイソール王国との間に第三次マイソール戦争(Third Anglo-Mysore War, 1789-92)が勃発。英国側はマラーター王国とニザーム王国と組み、マイソール王国は再びフランスと組む。

1791年 王立獣医学院(Royal Veterinary College)が開学。同学院は第二次世界大戦後(1939-45年)の1949年にロンドン大学(University of London)に統合され、ロンドン大学王立獣医学院(Royal Veterinary College, University of London)と改称。

1792年3月18日(日) イギリスとマイソール王国の双方が和約し、第三次マイソール戦争(Third Anglo-Mysore War, 1789-92)が終結。英国が勝利し、マイソール王国の領土は半減。

1792年 英国フェミニスト思想家の始祖とされるメアリー・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft, 1759-97)が『女性の権利の擁護(A Vindication of the Rights of Woman)』を刊行。 ウルストンクラフトは一躍有名になり、革命派から歓迎された。他方、敵方の保守派はメアリーの説く女性の性的自由は道徳の頽廃(たいはい)だとして非難した。後にメアリー自身の恋愛関係などが明るみに出ると、性的奔放さをネタにゴシップ(gossip)をばら撒(ばら)まかれ、メアリー個人の品性が攻撃された。なお、ウルストンクラフトはこの本の出版の五年後の1797年8月30日に革命思想家・社会改革者のゴドウィン(William Godwin, 1756-1836)との間に女児を生んだ。女児は母親のファーストネームと旧姓その儘(まま)にメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン(Mary Wollstonecraft Godwin)と名付けられたが、ゴドウィン夫人(旧姓ウルストンクラフト)はメアリーを生んでから僅(わず)か十日後の9月9日に感染症によって死亡した。そのとき生んだ娘(ウルストンクラフトにとっては2人目の娘)が小説 『フランケンシュタイン、或(あるひ)は現代のプロメテウス(Frankenstein; or, The Modern Prometheus)』の著者、シェリー夫人ことメアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)である。

1793年 隣国フランスで革命政府が元国王ルイ十六世(Louis XVI, 1754-93; 在位1774-92)とその妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette, 1755-93)を別々の日程(1月21日(月)と10月16日(水))でギロチンを使って公開処刑。ロベスピエール(Maximilien de Robespierre, 1758-94)による恐怖政治が続く。

1794年7月28日(月) フランス革命でのし上がってきた独裁者ロベスピエール(Maximilien de Robespierre, 1758-94)が処刑される。

1795年 グレートブリテン王国がケープ殖民地(Cape Colony)=現在の南アフリカ共和国を領有。

1796年3月27日(日)~1797年10月17日(火) ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)がフランス帝国軍を率い、イタリア遠征で勝利。

1798年5月24日(木)~9月24日(月) 連合アイルランド人の会(Society of United Irishmen)による武装蜂起が四ヶ月で鎮圧される。

1798年7月1日(日)~1801年9月2日(水) ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)がフランス帝国軍を率い、エジプト遠征(エジプト・シリア戦役)で勝利したかのように見えるも、余勢をかって出た中東シリアへの遠征に失敗し、オスマン帝国(現在のトルコ共和国)と連合王国(英国)の対仏同盟軍が勝利。ナポレオンはエジプトをも失うことになる。

1799年2月3日(日) グレートブリテン王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインド南部のマイソール王国との間に第四次マイソール戦争(Fourth Anglo-Mysore War of 1799)が勃発。

1799年5月13日(月) マイソール王国軍は英国側に降伏を申し出て、和訳が結ばれ、三十二年にも及んだマイソール戦争(Anglo-Mysore Wars, 1767-99)が終結。結果は英国の大勝利で、マイソール王国の領土はさらに半減。

1799年11月9日(土) コルシカ島出身の軍人ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)がフランスの政権を奪取。世に言う「ブリュメール18日のクーデター」(Coup d’État du 18 Brumaire)。

1801年1月1日(木) グレートブリテン王国がアイルランド島全土を併合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(UK: United Kingdom of Great Britain and Ireland)が成立。そのためジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)が連合王国(UK: United Kingdom)の初代国王となる。その際に初代ユニオンフラッグ(Union Flag: 「統合旗」の意 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Flag_of_Great_Britain_(1707–1800).svg )=通称ユニオンジャック(Union Jack: 「統合船首旗」の意)に若干(じゃっかん)のデザイン変更が為()され( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/a/ae/Flag_of_the_United_Kingdom.svg )、現在に至る。ダブリン(Dublin)のアイルランド議会(Irish Parliament)は解散させられ、アイルランドのプロテスタント系議員はロンドンの英国議会(UK Parliament)に議席を持つことになるが、カトリック系議員は議席を失う。

1803年 欧州の多国間でナポレオン戦争(仏 Guerres napoléoniennes; 英 Napoleonic Wars, 1803-15)が勃発。連合王国(英国)はハプスブルク家の墺太利などとともに対ナポレオン同盟を組む。

1803年7月23日(土) 英領アイルランドでの武装蜂起(Irish Rebellion of 1803)が鎮圧される。首謀者のエメット(Robert Emmet, 1778–1803)は捉えられ、同年9月19日(月)に大逆罪(high treason)で有罪判決を受け、同年9月20日(火)に公開処刑される。当局は絞首刑の後に胴体から頭部を切り落としたという。満25歳だった。

1803-05年 連合王国(英国)の東インド会社(EIC: East India Company)とインドのマラーター同盟との間でインドのデカン地方などを舞台に第二次マラーター戦争(Second Anglo-Maratha War)が勃発。今回も両者互角。以後十二年後の1817年まで両者の間に平和が保たれる。

1804年2月21日(火) イングランド人発明家・鉱山技師のトレヴィシック(Richard Trevithick, 1771-1833)の設計による蒸気機関車(steam locomotive)の運行が、ウェールズ南東部の鉄鉱石採石場にて史上初めて実現。

1804年5月18日(金) コルシカ島出身の軍人ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)が元老院決議によってフランス皇帝に即位。フランス第一帝政(仏 le Premier Empire français; 英 the First French Empire)開始。

1804年12月2日(日) 半年以上前の同年(1804年)5月18日(金)にフランス皇帝に即位していたナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)の戴冠式(仏 Sacre; cérémonie d’intronisation; 英 Coronation)がパリ市内ド真ん中のノートルダム寺院(Notre-Dame de Paris)で挙行される。

1805年10月21日(月) 連合王国(英国)はスペイン近海のトラファルガーの海戦(英 Battle of Trafalgar; 仏 Bataille de Trafalgar; 西 Batalla de Trafalgar)でナポレオン軍とスペイン軍の連合艦隊に勝利するも英国海軍(Royal Navy)の初代ネルソン子爵ホレイショ・ネルソン提督(Admiral Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson, 1758-1805)は戦死。

1807年3月25日(水) 英国議会で1807年奴隷貿易法(Slave Trade Act 1807)の勅裁・施行で、英帝国全体での奴隷貿易を違法と定める。イギリス船で奴隷が見つかった場合の科料は一人あたり100ポンドとされる。人道的な見地ではなく主に経済的な見地からの法制定である。ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)はフランス革命時に廃止されていた奴隷制度を復活させる後ろ向きの決断を下し、フランス領カリブ海諸島に黒人を奴隷にするべく軍隊を派遣したのに対し、英帝国は奴隷貿易を禁じる法によって高い道徳的立場に立つことになる。連合王国(英国)は約二世紀半に亘(わた)って続けてきた奴隷貿易から足を洗う。「英国が世界で初めて奴隷貿易を廃止した」と自慢する英国人がいるが、誤りである。十五年前の1792年にデンマーク王国が奴隷貿易を廃止しているし、その二年後の1794年にフランスの革命政権が一時的に廃止していた。

1807年9月2日(水)~5日(土) ナポレオン戦争の一環として英国海軍(Royal Navy)が、14,000発を超える各種投射物を使用し、その内300発は燐(リン: phosphorus; 元素記号ではP)を含み、水(water; 元素記号ではH2O)では鎮火できない新兵器コングリーヴ・ロケット弾(Congreve rocket)を用いて艦砲射撃を行ない、デンマーク王国の首都コペンハーゲン市街を焼打ち。市民の多くは事前に避難していて生命は助かったが、逃げ遅れた市民約二千人 は命を落とした。近代市民社会を狙った史上初のテロ行為だとする歴史家もいる。この英国海軍による奇襲攻撃(preemptive strike)は、後の大日本帝國海軍が対ロシア太平洋艦隊の旅順口攻撃(1904年2月8日(月)夜)や、対アメリカ太平洋艦隊の真珠湾攻撃(現地時間1941年12月7日(日)朝、日本時間では同月8日(月)未明) の際に模倣することになる。首都を焼き尽くされた苦い記憶がデンマーク政府や国民の脳裏に深く刻まれ、第二次世界大戦(1939-45年)では強大な敵に 抵抗するのを最初から諦(あきら)めて早々と降伏することになる。1940年4月9日(火)から’45年5月4日(金)までデンマーク王国の他の地域と同 様に首都コペンハーゲン市はナチス・ドイツ占領軍の支配下に置かれた。

1807年10月 二年前の1805年10月にケイムブリヂ大学三位一体学寮(Trinity College, Cambridge)に入学した後のアイドル的人気詩人バイロン卿(Lord Byron, 1788-1824)こと第六代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788-1824)は、犬を飼うことを禁止した学寮の校則を忌(い)み嫌い、熊(クマ)を飼い出す。同年10月26日(月)付の女友達エリザベス・ピゴー(Elizabeth Pigot, 1783-1866)宛の手紙に「僕は新たな友を手に入れた。世界一良質な、人に馴(な)れた熊だよ。ここ(三位一体学寮)に連れて来たら、そいつをどうするのかって訊(き)かれたんで、僕の答えはこうさ。『(学寮の)研究員に成るために受験すべきだ。』とね。」(I have got a new friend, the finest in the world, a tame bear. When I brought him here, they asked me what to do with him, and my reply was, ‘he should sit for a fellowship’.)と書いている。

(参考)ケイムブリヂ大学公式ウェブサイト

http://www.cam.ac.uk/research/features/lord-byron-and-the-bears-beneath-cambridge

1808年10月4日(火)~17日(月)(和曆文化五年葉月十五日から同廿八日) 世に言う「フェートン号事件」または「長崎湾事件(Nagasaki Harbour Incident)」が発生。ナポレオン戦争(Napoleonic Wars)の一環として英国海軍(Royal Navy)の木造フリゲート艦フィートン(HMS Phaeton: 日本の歴史教科書では転訛してフェートン)が国際法に違反してオランダ国旗を掲げて長崎湾に不法侵入。ナポレオン戦争(オランダが宿敵ナポレオンのフランスに屈服済)を口実に出島(当時のオランダ語の綴りで Decima)で突如海賊行為を働き、オランダ人商館員2名を拉致(らち)して人質に取り、薪水(しんすい)と食料(米・野菜・肉)の提供を要求。供給がない場合は長崎港内の和船を焼き払うと脅迫。長崎奉行所は地元の飲料水や、オランダ商館が長崎唐人屋敷から買い付けた生きた豚や牛を提供しつつも、戦艦フィートンを抑留もしくは焼き討ちするための準備を進め、援軍の到着を待つが、その間に戦艦フィートンは碇(いかり)を上げて長崎港外に逃げ去る。日本側に人的被害も物損もなく、人質にされたオランダ人2名も無事に解放されて事件は解決したが、侵入異国船の要求に応じざるを得なかったのは国辱的事態と見做(みな)された。英国艦が去った10月17日(月)、海防を怠った責任を取って長崎奉行松平康英(まつだいら やすひで, 1768-1808)が切腹。ほかに平和ボケして海防兵力を幕府の許可なく十分の一にまで減らしていた佐賀藩(鍋島藩)の家老ら数人も責任を取って切腹した。翌月には江戸幕府が肥前國佐賀藩第九代藩主鍋島斉直(なべしま なりなお, 1780-1839)に閉門(へいもん: 逼塞(ひっそく)より重く、蟄居(ちっきょ)より軽い刑罰で、門扉や窓を閉ざし、昼夜ともに出入りを許されない自宅軟禁刑)百日を命じた。

1811年~’17年頃 工業機械に職を奪われた労働者たちが工場や機械を破壊するラッダイト(Luddite)運動を起こすことに苦慮した資本家からの圧力で、機械破壊を死罪とする法律が成立。

1812年6月18日(木) ナポレオン戦争の一環として北米大陸を舞台に、アメリカ合衆国と英領北米(後の英連邦カナダ)との間に米英戦争(War of 1812)が勃発。

1812年6月24日(水)~12月14日(月) ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)がフランス帝国軍を率いてロシア戦役(仏 Campagne de Russie)=1812年祖国戦争(露 Отечественная война тысяча восемьсот двенадцать года = Otyechestvyennaya voyna tysyacha vosem'sot dvenadtsat' goda)=フランスによるロシア侵攻(英 French invasion of Russia)を敢行するも帝政ロシアの焦土戦術によって勝てず敗走。

1813年 二年前の1811年から始まっていたラッダイト(Luddite)運動の指導者たち15名が見せしめに処刑される。

1813年4月27日(火) 米英戦争(War of 1812)で交戦中のアメリカ軍が英領北アメリカ(現英連邦カナダ)のヨーク市(現トロント市)に在(あ)った英殖民地政府庁舎を焼き討ち。庁舎はその後数度の再建を経て、現在ではロマネスク風のオンタリオ州政府庁舎になっている。

1814年3月30日(水) 首都パリ陥落で連合王国(英国)を主力とし、墺太利帝国(現オーストリア共和国)、プロイセン王国(現ドイツ連邦共和国)、ロシア帝国(現ロシア連邦)、スウェーデン王 国、ライン同盟諸邦(現ドイツ連邦共和国)から成る第六次対仏大同盟軍(the Sixth Coalition forces)がナポレオン軍に完勝。英軍をはじめとする諸国の軍隊はパリ市内に凱旋入城。パリは外国軍の占領下に置かれる。

1814年4月11日(月) ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)はフランス皇帝からの退位に追い込まれる。

1814年5月4日(水) 元皇帝ナポレオンは故郷コルシカ島(仏 Corse; 英伊 Corsica)に近い当時フランス領だった(現イタリア領)エルバ島(Elba)に追放され、二百九十九日(資料によっては三百日)間を過ごし、太守として島民の生活向上に尽力したとされる。

1814年8月24日(水) 米英戦争(War of 1812)で交戦中の連合王国(英国)軍が、前年(1813年)4月27日(火)の報復として、アメリカの首都ワシントンを焼き討ち。十四年程前の1800年11月に完成したばかりの大統領官邸は石積みの外壁を残して全てが灰燼(かいじん)に帰すも、米当局は焼け残った外壁を使って焼失前とほぼ変わらない官邸を再建し、三年後の1817年には完成。その際に焼け焦げた外壁を白く塗装したことから大統領官邸は現在のように「白い館」(the White House)と呼ばれるようになったとする通説があるが、それ以前の1811年からそう呼ばれていたとする説もある。

1815年2月17日(金) 米英戦争(1812年戦争)の終結。両者互角で勝者なし。

1815年3月20日(月) エルバ島で島流しの日々を送っていたナポレオンが英国海軍(Royal Navy)の目を盗んでフランスへの帰還に成功してフランス皇帝の地位に復帰。世に言う百日天下(仏 Cent-Jours; 英 Hundred Days of Napoleon)の始まり。

1815年6月18日(日) ネーデルラント連合王国(現ベルギー王国)のヴァーテルロー(Waterloo; 英音 ウォタルー; 和名 ワーテルロー)の戦いで連合王国(英国)とプロイセン王国(現ドイツ連邦共和国)と墺太利帝国(現オーストリア共和国)とロシア帝国(現ロシア連邦)を中心とする第七次対仏大同盟軍(the Seventh Coalition forces)が、帝政フランスのナポレオン軍に完全勝利。ナポレオン戦争(仏 Guerres napoléoniennes; 英 Napoleonic Wars, 1803-15)の終結。ヨーロッパにしばしの平和が訪れる。イギリスは戦勝国にはなったが、過剰な戦費調達に疲弊し、政府債務が対GDP比で約230%に達した。

1815年6月22日(木) 上記の戦争で敗れたナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821, 皇帝在位1804-14 & 1815)は首都パリに逃げ帰るも、議会も人民も敵意に満ちていることを悟り、フランス皇帝からの二度目の退位を決断。百日天下(仏 Cent-Jours; 英 Hundred Days of Napoleon)の終焉(しゅうえん)。

1815年7月15日(土) ナポレオンはフランス西岸の軍港ロシュフォール(Rochefort)からアメリカ合衆国への逃亡を図(はか)るも英国海軍(Royal Navy)に行く手を阻(はば)まれ、四日間の交渉の後、同国海軍のメイトランド少将(Rear Admiral Sir Frederick Lewis Maitland, 1777-1839)に投降して身柄を拘束される。

1815年7月24日(月) ナポレオンを載せた英軍艦ベルロフォン(HMS Bellerophon)がイングランドに帰還するが、英国議会でナポレオンの処遇が決議されるまでプリマス港(Plymouth, Devon)に泊め置かれる。

1815年8月4日(金) ナポレオンの英国上陸は許可されず、英戦艦ベルロフォンはナポレオンを載せた儘(まま)プリマス港を出港。

1815年8月7日(月) 英国ベリーヘッド(Berry Head, Devon: 「苺頭」の意)沖でナポレオンの身柄が、老朽化した英軍艦ベルロフォン(HMS Bellerophon)から英軍艦ノーサンバーランド(HMS Northumberland)に移される。

1815年10月 フランスの元皇帝ナポレオンは、英軍艦ノーサンバーランドに載せられて南太平洋の英領聖ヘレナ(Saint Helena)島に到着。その地で惨(みじ)めな島流しの晩年を過ごす。

1815年12月10日(日) ナポレオンは英領聖ヘレナ島の仮住まい先から終(つい)の棲家(すみか)となる長木館(Longwood House)へ引越し。

次の年表( https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline3 )へ続く。