前期30「イギリス文化論」(2021/ 7/ 8) 1990年代以降イギリスが騒然となった事件・事故(前篇)

ジェイムズ・バルジャーちゃん殺害事件

(The murder of James Bulger, 1993)

ウィキペディア日本語版では誤って「ジェームス・バルガー事件」だが、正しくはバルヂャーとボールヂャーのほぼ中間の発音

https://en.wikipedia.org/wiki/Murder_of_James_Bulger

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジェームス・バルガー事件

1993年2月12日(金)にイングランド北西部リヴァプール郊外のショッピングセンターで起こった少年犯罪・殺人(撲殺)事件。被害者は2才11ヶ月のよちよち 歩きの男の子(a male toddler)、ジェイムズ・バルジャー(James Bulger, 1990-93)ちゃん。加害者は10才の少年2人。当時はまだ他国では珍しかった防犯カメラの映像( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/6/62/Bulger_cctv.jpg )が事件解決の決め手となった(なお、英国は世界一の防犯カメ ラ大国)。

犯行動機については今でも謎が残る。犯人の少年たちは崩壊した家庭の出身で、小さい頃から暴力的なビデオを家で見せられていたと言われる。また、性的な動機、つまり同性愛(homosexuality)と小児性愛(英 paedophilia; 米 pedophilia ピドォフィーリア)が絡(から)んだ性犯罪(sex offense)の可能性を示唆()する一部報道もあったが、あまりにもおぞましい話なので、やがて立ち消えになった。しかし犯人のうちの一人が大人に成ってから逮捕された事件(下記参照)のことを考え合わせれば、同性愛と小児性愛が絡んでいたであろうことは容易に想像できる。

事件を受けて、英国で最も重い刑罰である終身刑(life imprisonment)に処すよう30万人もの署名が集まる。英国法務省(Home Office)は、事件の重大性を鑑(かんが)みて、少年犯2名、ロバート・トンプソン(Robert Thompson, b.1982)とジョン・ヴェナブルズ(Jon Venables, b.1982)の氏名と顔写真公開( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/d/de/ThompsonVenables.jpg )に踏み切った。

事件から八年後の2001年、件(くだん)の受刑者たちは「もはや公衆の安全にとって脅威にはならない(no longer a threat to public safety)」と英国法務省によって判断され、新しい身元(new identities)を与えられて出獄した。国は「女王陛下の思し召しによって(at Her Majesty’s pleasure)」人生を再出発させる目的で、元少年たちに新しい氏名、社会保険番号(social security number: 日本で言う「マイナンバー」に相当)、出生証明、パスポートを用意することで、まったく新しい身元を与 えた。これは終身匿名性(lifetime anonymity)と呼ばれる。

一方で殺害されたジェイムズちゃんの両親(既に離婚済)は不快感を抱いている。その後は英国の内外で銃乱射などの凶悪事件が起きると、「あの時の少年犯が大人になって起こした事件ではないか」という憶測が流れては、そのたびに否定される。

それから更に九年後の2010年7月、元ヴェナブルズ(現在の氏名は不詳)=28歳は児童ポルノ法違反に関連する3件で有罪となり、再び収監された。同人は児童ポルノ写真57枚を自分のパソコンにダウンロードし、児童の猥褻画像(わいせつ がぞう: obscene and/or indecent pictures)を配信していたという。更に七年半後の2018年2月にも元ヴェナブルズ(現在の氏名は不詳)=35歳は同様の罪状で逮捕された。これを受け、被害者の父親と叔父は犯人の終身匿名性の解除を求める訴えを起こした( https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/29-3.php / https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/29-3_2.php / https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180827-00010007-newsweek-int リンク切れ )。同年(2018年)12月に公判が始まる。

【関連動画】

ジェームス・バルガー君事件

(バルガーは誤りで、正しくはバルヂャーとボールヂャーのほぼ中間の発音)

クリミナル(Criminal)

2020年10月31日(土)

https://www.youtube.com/watch?v=OXFtMC1WDdQ

上記の事件を受けての東京弁護士会の記事・見解(質疑応答形式)

https://www.toben.or.jp/know/iinkai/children/syonenhou/koukai_qa.html#id9

Q9

アメリカやイギリスでは10歳くらいの少年でも凶悪で残忍な事件を起こした場合は、顔も名前も公表されています。国際的動向から見ても日本の少年法は問題があるのではないでしょうか。

バルジャー事件と実名・顔写真報道

凶悪で残忍な事件を起こしたとされる10歳の少年の顔や名前が公表されたケースとして非常に有名になった事件としては、イギリスのいわゆるバルジャー事件 のことを思い出します。この事件は、1993年2月、イギリスのリバプールで2歳の幼児が白昼誘拐され、レンガ等で殴打されて死亡し、列車に切断された状 態で2日後に発見されるという事件でした。被疑者として当時10歳の少年2名が逮捕されました。

確かに、この事件では、連日連夜にわたって少年や家族に関し膨大な量の報道がなされ、その結果、少年たちの家族は逮捕後に転居を余儀なくされています。

ところで、イギリスにおいても、日本でいう少年法と同じような法律(児童青少年法)が存在し、現在は、10歳から18歳未満の者は青少年裁判所 (Youth Court)で非公開で審理されるのが原則です。しかし、これらの年齢の子どもでも殺人を犯した場合等は、刑事法院(Crown Court)で成人と同じ正式裁判(公開裁判・陪審裁判)を受けます。この場合は、裁判官の報道禁止命令をまって初めて報道規制が実施されますが、実際に はこれまで裁判官が報道禁止を命じなかったケースはないとのことです。

したがって、イギリスにおいても、「少年であっても、残忍で凶悪な犯罪を犯した容疑で逮捕されれば、直ちに氏名や顔写真が公表される」ということが認められているわけでは決してありません。

実際、バルジャー事件においても、当初は裁判所が報道を規制して少年たちの匿名報道が維持され、後に少年たちの氏名・顔写真が掲載されるようになったのですが、これは有罪評決が出された後、裁判所自ら、報道規制を解き、少年の氏名・顔写真の公表を許可したからでした。また、この報道規制解除は無限定なものではなく、掲載される少年達の写真は過去に1回使われた写真だけで、裁判そのものや少年達の居場所を報道することも禁じるとの条件付でした。

この条件は少年達が18歳になるまでと期間が限定されていましたが、終了直前の2000年7月、当時の少年達の写真と成長振りについての報道を禁止する仮差 止命令が出され、イギリス政府は、本案命令に先立ち、少年達の社会保険番号、出生証明、パスポート等を変更するなどして全く新しいアイデンティティを与え ました。そして、翌2001年1月9日、高等法院によって、新聞、 ラジオ・テレビ放送、コンピューターネットワークがこの少年達の新しいアイデンティティと居場所を報道することを終身禁止する命令が出され、実質的に終身 の匿名が認められました。バルジャー事件がこうした経緯を辿ったのは、氏名や顔写真が公表されたことの弊害を是正するための後始末と言えるでしょう。

また、アメリカでは、少年審判の公開が拡大され、本人特定事実の公表制限も大きく緩和される傾向がみられますが、福祉・教育理念を尊重しつつ少年司法の運営に携わっている実務家のあいだには、少年審判の公開と並んで、少年の氏名、顔写真などを公表することに対する根強い批判があります。

このように、一概に「国際的動向から見て、日本の少年法に問題がある」などと言える状況にはありません。

国際準則まで視野に入れた、より広範な議論が必要です。

今後、日本において少年事件報道の在り方が議論される場合、各国の諸状況についても議論されると思いますが、その際、重要なことは、子どもの権利条約をは じめとするその他の国際準則(北京ルール)についても視野に入れて検討することだと思います。特に子どもの権利条約は、司法手続のすべての段階において子どものプライバシーは十分に尊重されなければならないと規定しており(40条2項(b)-VII、Q1で述べたように、この条約は日本でも94年に批准さ れています。一般に条約は、憲法に次ぐ、法律よりも上位の法規範とされていますので、我が国でもこのような子どもの権利条約が尊重されなければならないの は当然のことです。このような条約や国際準則に照らして考えてみれば、我が国の少年法61条は「国際的動向から見ても問題はない」と考えられます。

(引用終わり)

原田註: 2016年4月(日付不明)にイングランド北東部のリンカン州スポールディング(Spalding, Lincolnshire)町で発生した事件(Spalding murders)では、犯行当時14歳の少女が当時14歳の彼氏(boyfriend)と共謀して自分の母親で給食のおばさん(a school dinner lady)をしていたシングルマザー(当時49歳)と実の妹(当時13歳)を自宅で殺害した事件が起こっている。二被告に17年半の留置刑(custodial sentence)が確定すると、弁護側の主張を高等法院(High Court: 日本で言う最高裁判所)が却下し、2017年6月9日(金)に氏名・顔写真が英マスコミ各社によって公開された。

https://thelincolnite.co.uk/2017/06/spalding-killer-teen-lovers-murdered-mum-daughter-named-court-ruling/

https://www.telegraph.co.uk/news/2017/06/09/spalding-murders-judge-names-teenage-sweathearts-killed-mother/

https://www.independent.co.uk/news/uk/crime/spalding-murders-teenagers-named-killing-mother-daughter-kim-edwards-lucas-markham-elizabeth-katie-a7781246.html

https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/first-picture-uks-youngest-double-9068027

https://www.bbc.com/news/uk-england-lincolnshire-37648194

https://www.bbc.com/news/uk-england-lincolnshire-37907410

【関連記事】

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

英幼児惨殺事件、犯人の元少年が仮釈放に

2013年7月5日(金) 16:07

発信地:ロンドン/英国

https://www.afpbb.com/articles/-/2954404

1993年に英リバプール(Liverpool)で10歳の少年2人が2歳の男児を殺害した事件で、英国史上、最も残忍な殺人犯の1人とされるジョン・ベナブルズ(Jon Venables)受刑者(29)が仮釈放される見通しが4日、明らかになった。

(改行・中略)

2人は無期懲役を言い渡され服役していたが、少年犯だったことが考慮され2001年、改名などされた上で仮釈放された。

だが2010年7月、ベナブルズ受刑者は児童ポルノ法違反に関連する3件で有罪となり、再び収監された。同受刑者は児童ポルノ写真57枚を自分のパソコンにダウンロードしたり、児童のわいせつ画像を配信していたことを認めた。

(改行・後略)

【#実名報道】「オオカミの餌」にされても受け入れるイギリス市民 日本との違いは?

ヤフーニュース(Yahoo! Japan News)個人

在英ジャーナリスト 小林恭子(こばやし ぎんこ, b.1958)署名コラム

2020年1月20日(月)

https://news.yahoo.co.jp/byline/kobayashiginko/20200120-00159199/

【#実名報道】日本メディアの落とし所は? 欧州では「匿名」のあり方に逆風も

ヤフーニュース(Yahoo! Japan News)個人

在英ジャーナリスト 小林恭子(こばやし ぎんこ, b.1958)署名コラム

2020年1月23日(木)

https://news.yahoo.co.jp/byline/kobayashiginko/20200123-00159202/

[上記の事件の四半世紀前の1968年5月25日(土)に起きたメアリー・ベル事件]

「人を傷つけるのが大好きなの」イギリス全土が恐怖した「11歳の快楽殺人者」

講談社現代メディア

マネー現代編集部

2020年9月11日(金)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75563

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75563?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75563?page=3

https://news.yahoo.co.jp/articles/4a5c76fc123474ce80b3a822b882756e891b7ed3 (リンク切れ)

「人を傷つけるのが大好きなの」イギリス全土が恐怖した「11歳の快楽殺人者」の正体

少女の名は、メアリー・ベル

講談社現代名ディア

現代ビジネス編集部

2021年7月8日(木)

2021年7月9日(金) ヤフーニュース転載

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84941

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84941?page=2

https://www.youtube.com/watch?v=qnelxnNeUs4

https://news.yahoo.co.jp/articles/4a9c80dee51a0aaee30fe43895980b1e258a90c0

https://news.yahoo.co.jp/articles/4a9c80dee51a0aaee30fe43895980b1e258a90c0/comments

[またしても類似事件が、、、]

12歳少年殺害の疑いで14歳を逮捕、英国の小さな村で

女性自身

2020年12月14日(月)

https://jisin.jp/international/international-news/1925350/

https://news.yahoo.co.jp/articles/d1969b864daca1b2f4197f3cb0d755d0fed15001

https://news.yahoo.co.jp/articles/d1969b864daca1b2f4197f3cb0d755d0fed15001/comments

Fishtoft death: Boy, 14, charged with murdering 12-year-old

(フィッシュトフト村の死: 14歳の少年が12才児の殺人で起訴される)

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2020年12月14日(月)

https://www.bbc.com/news/uk-england-lincolnshire-55299952

スティーヴン・ロレンスさん殺害事件

(The murder of Stephen Lawrence, 1993)

https://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_Lawrence

1993年4月22日(木)に起こった殺人事件。大学で建築学を専攻することになっていた前途有望な18歳の黒人青年スティーヴン・ロレンス(Stephen Lawrence, 1974-93)さんが、人種的憎悪から白人青年グループに路上で言いがかりをつけられ取り囲まれ、ナイフで刺されて死亡。黒人一般に対して日頃から人種的偏見を抱いていたロンドン警視庁(the Metropolitan Police Service; 略称 the Met Police; 通称 Scotland Yard)はロレンスさんの友人(黒人)の必死の懇願を無視。警察の初動捜査の失態が明らかになると、マスコミや国民の非難が集中。警察が公式に謝罪する事態に発展した。

日頃は有色人種に批判的なタブロイド紙の日刊メイル(Daily Mail) が、黒人被害者の遺族のために立ち上がり(この新聞の社主が偶然かつて被害者の両親を使用人として雇っていた縁があるので親分肌を見せてのこと)、容疑者(但し、警察の怠慢で自由の身)の白人少年グループの主犯格のゲァリー・ドブソン(Gary Dobson, 生年不詳)とデイヴィッド・ノリス(David Norris, 生年不詳)の2名などの氏名と顔写真を一面トップで掲載した。

事件の波紋は、日本放送協会(NHK)記者で同協会元ロンドン特派員の山本浩(やまもと ひろし, b.1963)氏が刊行した『仁義なき英国タブロイド伝説』(新潮新書, 2004年)にも詳述される。本学図書館でも所蔵。但し、同書は発行年が2004年と古いので、2005年に法改正された一事不再理の原則 (prohibition against double jeopardy)の撤回(つまり、従来までは一度無罪になった事件では新証拠が出てきても二度と被告になることはないとした法律が改正されて、再度被告になることも有りとした)を盛り込めず、主犯格2名の逮捕起訴と2012年1月4日(水)に下った有罪判決(ドブソンに禁固15年2月、ノリスに禁固14年3月)について記述がない。犯行時に少年だったという理由で最高刑(終身刑)にはならず、英国刑法に対する不満も募る。

事件から四半世紀が経過した2018年4月25日(水)の議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(the House of Commons)での首相質疑応答(Prime Minster’s Question Time)の冒頭で、テリーザ・メイ(Theresa May, b.1956; 首相在任2016-19)内閣総理大臣がケイムブリヂ公ウィリアム王子(Prince William, Duke of Cambridge, b.1982)とケイムブリヂ公爵夫人キャサリン(Catherine, Duchess of Cambridge, b.1982)さんの殿下夫妻(Royal Highnesses)の間に男児(三人目の子)が生まれたことに軽く祝辞を述べた上で、スティーヴン・ロレンスさんの殺害から二十五年が経過したことにつき、議会全員で追悼しようと呼びかけた( https://www.youtube.com/watch?v=-p3bGPebr_E )。

フレッドとローズのウェスト夫妻による連続女性監禁虐待強姦拷問殺人事件

(The serial illegal confinement, rape and torture murder by Fred and Rosemary West, 1964-92)

https://www.biography.com/crime-figure/fred-west

https://en.wikipedia.org/wiki/Fred_West

https://ja.wikipedia.org/wiki/フレデリック・ウェスト

https://en.wikipedia.org/wiki/Rosemary_West

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj74vO4sfHqAhUWIIgKHZxADOMQFjAAegQIBBAB&url=https%3A%2F%2Fijcst.journals.yorku.ca%2Findex.php%2Fijcst%2Farticle%2Fdownload%2F35161%2F31901&usg=AOvVaw2DJKL34-56YCAfZskH-6Tg からPDF文書を自動ダウンロード

https://www.biography.com/crime-figure/fred-west

https://www.studocu.com/en-au/document/griffith-university/psychology-of-crime/essays/s5056119-fred-west-grade-67100/3819904/view

https://www.devonlive.com/news/celebs-tv/gruesome-details-fred-rose-west-2491388

https://www.gloucestershirelive.co.uk/news/gloucester-news/fred-rose-west-house-gloucester-2479066

https://www.dailymail.co.uk/femail/article-7970001/Psychologist-claims-years-sexual-abuse-turned-Rose-West-psychopath-no-conscience.html

フレッド・ウェスト(Fred West, or Frederick Walter Stephen West, 1941-95)は妻のローズ(Rose West, or Rosemary Pauline West, b.1953)=旧姓レッツ(Letts)と共に若い女性を自宅に監禁し、性的虐待の限りを尽くし、手足の指を切り落とす、手首を切り落とす、膝を叩き切る、膝蓋骨を抜く、肋骨と 胸骨を取り除く、首と胴体を切り離すなどの猟奇的な残虐行為を行なった。夫のフレッドは遺体を好んで徹底的に解体し、自宅の庭などに埋めた。夫のフレッドに限れば犯行期間は1964年から’92年までの三十年近くにも及んだが、ウェスト夫妻の犯行としては1971年から’92年までの約二十年である。

1992年8月にフレッド・ウェストは実の娘たちに対する強姦3件、獣姦1件の容疑で逮捕され た。妻のローズも「残虐行為」及び「児童に対する不法性交の奨励」で逮捕された。1993年6月、ウェスト夫妻は法廷に立たされるが、証人である彼らの子供が証言を拒んだため夫妻は無罪になった。

しかし1994年2月の再逮捕後、3月上旬にかけてフレッド・ウェストは12件の殺害を自供し た。ウェスト夫妻のグロウスター市クロムウェル通り25番地(25 Cromwell Street, Gloucester, England)の自宅からは殺害された女性たち(ウェスト夫妻の実の娘ヘザー16歳と、フレッドの前妻の娘シャーメイン8歳を含む若い女性たち10人)の人骨が続々と発掘され、「恐怖の館」(House of Horrors)として世界中にセンセーショナルに報道された。夫のフレッドは取り調べの中で12件(自宅で見つかった人骨以外にも殺害)だけ殺人を認めたが、それらは実際の数のほんの一部と考えられている。殺害された女性の正確な総数は闇の中であり、英国犯罪史上最悪の連続強姦殺人鬼として記憶されている。

1995年1月1日(日)、フレッド・ウェストは裁判にかけられる前に独房で妻への短い新年の挨拶のメモを残して首つり自殺を果たした。夫フレッド自殺後のローズは、犯行がフレッド単独によるもので自身は無罪だと裁判で主張したが、その理屈が通ることはなかった。共犯の妻ローズは終身刑の判決を受けて現在も服役中である。

なお、ローズの母親デイジー・レッツ(Daisy Letts, 生歿年不詳)がローズを身籠っていた際に重度神経衰弱(a severe breakdown)に罹(かか)り、電気ショック治療(electric shock treatment)の一種である電気痙攣療法(ECT: electro-convulsive therapy)を受けたことが胎児(=ローズ)の精神に悪影響を及ぼしたと考えられている。また、ローズの父親ビル・レッツ(Bill Letts, 生歿年不詳)は妄想分裂病患者(a paranoid schizophrenic)=妄想型統合失調症患者で、家庭内暴力(DV: domestic violence)が絶えず、娘のローズに性的虐待をする時だけは優しかったので、ローズもそれによく応じ、13歳になる頃にはローズ自身も弟たちに性的虐待をしていたという。フレッドと結婚したからも売春をして小遣いを稼いだが、夫のフレッドはドアノブから妻と客との性行為を覗いて楽しんだという。このような生い立ちがあったローズだったが、そのことで減刑されることはなかった。

他方、フレッドは12歳の頃には母親から性的虐待を受けていて、父親は娘たち(フレッドの姉妹たち)と近親相姦(incestual relations)をしていたというが、これらが事実であるという証明は無い。父親の口癖は、「やりたいことをやれ、だけど捕まらないようにやれ。」(Do what you want, just don’t get caught doing it.)だった。フレッドは17歳時にオートバイ事故(a motorcycle accident)で脳に損傷を受け、八日間も昏睡状態(a coma)にあったが、頭に金属板(a metal plate)を埋め込む手術を施(ほどこ)され、(このことはフレッドの後年の犠牲者たちにとっては不幸なことだが)奇跡的に一命を取りとめた。しかしこの大手術以来、フレッドは人が変わったように怒りを爆発させることが多くなった。二年後には青年クラブ(a youth club)の火災時非常出口(a fire escape)から地面に落ちるという自損事故に遭い、またしても脳に損傷を受けたため、更に怒りを爆発させることが多くなった。1961年にフレッドは20歳前後だったが、13歳の少女(ウェスト家の友人一家の娘)を妊娠させ、家を勘当されてしまう。その後は工事現場作業員やアイスクリーム販売ヴァン運転手兼販売員や食肉処理場の解体作業員など職を転々としたが、哺乳動物の解体作業がフレッドの犯行に影響を及ぼすことになったとされる。

【動画】

【恐怖の館】フレッド&ローズウエスト

クリミナル

2020年1月1日(水・祝) 公開

https://www.youtube.com/watch?v=F3KNTOJ6L2c

https://www.youtube.com/watch?v=JXEUF-GxlRE

【動画2】

テムズ川で見つかった少年の胴体「アダム事件」とは?後編

Mysteries You Didn’t know

2021年7月17日(土) 公開

https://www.youtube.com/watch?v=8blaKm6dRg8

ダンブレイン小学校事件

(Dunblane school massacre, 1996)

https://en.wikipedia.org/wiki/Dunblane_school_massacre

1996年3月13日(水)にスコットランドの普段は長閑(のどか)な田舎町で起こった小学校銃乱射事件。死者18名(5歳児の児童15名、6歳児の児童1名、45歳の女性教師1名、自殺した43歳の犯人1名)、負傷者15名。

元小売店主で失業中だったトマス・ハミルトン(Thomas Hamilton, 1952-96)が、合法的に所持していた9ミリ・ブラウニングHPピストル2丁と、スミス&ウェッソンM19の357口径マグナム回転式拳銃(リヴォルヴァー)2丁と、743発の弾丸を持ってダンブレイン小学校(Dunblane Primary School)に乱入。児童に向けて合計109発を撃ったとされる。犯人は最後に体育館(gym)で自らの口に回転式拳銃2丁を突っ込んで自分の脳に向けて発射することで自殺を果たした。

ハミルトンは過去に青少年クラブを主宰していたが、そこで親の許可も得ずに少年たちのセミ・ヌード写真を撮っているとの苦情があったため、解散を余儀なくさ れた。ハミルトンは既に1974年の段階でボーイ・スカウトの指導者をしていた際に、キャンプで少年たちと同じベッドで寝ることを強要し、資格停止になった過去があった。1993年に自分の経営する店がつぶれたのは、人々が流す悪い噂(うわさ)の所為(せい)だとして、ハミルトンは地域社会を逆(さか)恨みするようになった。ボーイ・スカウトや青少年クラブに復帰したがったが、それをすると起訴されると地元の議員などから警告され、恨みは募るばかりだった。少年に対する異常な性的関心と、彼らに近づけない欲求不満から残虐な犯行に走ったと考えられている。

この事件を受けて、拳銃の規制を求める国民の声が高まり、「1997年銃火器(修正条項)法(Firearms (Amendment) Act 1997)」及び「1997年銃火器(修正条項)(第二)法(Firearms (Amendment) (No. 2) Act 1997)」が施行され、拳銃の個人所有が禁止されるようになった。

なお、この事件から五年余り後の2001年6月8日(金)、大阪教育大学附属池田小学校(在大阪府池田市)で発生した包丁による児童無差別殺人事件(死者8名)はイギリスでも大きく報道され、「日本のダンブレイン」と称された。犯人の宅間守(たくま まもる, 1963-2004)、後に改姓して吉岡守(よしおか まもる, 1963-2004)は事件から三年後の2004年にまるで本人の希望を叶えるかのように死刑執行された。2021年6月8日(火)には事件から二十年の節目ということでNHKのニュースでも再び大きく取り上げられた。

マンチェスター商業地区爆弾テロ事件

(1996 Manchester bombing)

https://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/june/15/newsid_2527000/2527009.stm

https://en.wikipedia.org/wiki/1996_Manchester_bombing

https://www.manchestereveningnews.co.uk/news/greater-manchester-news/manchester-ira-bomb-20-years-11425324

https://www.telegraph.co.uk/news/2017/05/23/manchester-terror-attack-comes-21-years-ira-bombed-arndale-shopping/

https://www.bbc.com/news/uk-england-manchester-36474535

英国夏時間の1996年6月15日(土) 11:20 BST、アイルランド・カトリック系のテロ組織であるIRA暫定派(Provisional IRA)が、英国で3番目に大きな都市(但し、日本の福岡都市圏程度の規模)大マンチェスター市(Greater Manchester)中心街のアーンデイル・センター(Arndale Centre)という名のショッピングセンターに横付けして路上駐車したヴァン(van)に仕掛けた3,300ポンド(約1.5トン)の時限爆弾(a time bomb)でテロ事件を起こし、商業地区を壊滅させた。これは第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)後としては英国史上最大の爆弾炸裂事件となった

英国政府と結んでいた停戦合意を同年(1996年)2月に一方的に破棄していた同テロ組織は、その後4ヶ月の間に6回もの小さな爆弾テロ事件を起こしていたが、今回の7番目の炸裂(さくれつ)は、それらと比較にならないほど大規模だった。事件直後の保険会社の見積もりで7億ポンド(£700m = seven hundred million pounds: 当時の為替レートで約1190億円)もの損害が出た。

商業地区で店のショーウィンドー(イギリス英語で shop windows)が多く存在する地区であることから、爆風は半径半マイル(約800メートル)に砕(くだ)け散ったガラスの雨を降らせた。1996年前半のイギリスは異常気象に見舞われ、記録的な低温と日照不足が続いていたが、事件当日は突然夏がやって来た感があり、週末ということもあって多くの人々が半袖などの薄着で街に繰り出していたため、腕に多くのガラスの切り傷を負うことになった。

爆発の90分前に同テロ組織は現地警察に電話を入れ、いつものアイルランド訛りの暗号のような警告を与えていたため、警察はそのメッセージを正しく解読し、少なくとも7万5千人の一般人を中心街から退避させていた。しかしながら1分1秒を争う時間との闘いの中で爆発物の特定には間に合わなかったため、事件そのものを防ぐことはできなかった。幸いにも死者は皆無(ゼロ)だったが、1.5トンという爆発の規模からすれば奇跡のようなものだった。

マンチェスター商業地区では事件後に再開発が進み、イギリスにしては近代的な趣(おもむき)の繁華街に生まれ変わった。

なお、同じ大マンチェスター市では二十一年後の2017年5月22日(月)夜、22人が死亡(実行犯1名を含めれば23人)、59人が負傷するというマンチェスター・アリーナ爆破事件(2017 Manchester Arena incident)が起きている( https://sites.google.com/site/xapaga/home/shockingcrimes2 )。

名作? 目障り? マンチェスター版“ベルリンの壁”解体

安藤忠雄、イギリス唯一の作品が「クソみたいな扱い」で解体決定

クーリエ日本版(Courrier Japon)

2020年11月25日(水)

https://courrier.jp/news/archives/220596/

https://news.yahoo.co.jp/articles/2c8ca8a2edee536db3c83e318a6d3e41454ba302?page=1

https://news.yahoo.co.jp/articles/2c8ca8a2edee536db3c83e318a6d3e41454ba302?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/2c8ca8a2edee536db3c83e318a6d3e41454ba302/images/000

https://news.yahoo.co.jp/articles/2c8ca8a2edee536db3c83e318a6d3e41454ba302/comments

https://kaigainoomaera.com/blog-entry-13156.html

(前略・改行)

壁とパビリオンは、1996年に起きたアイルランド共和軍(IRA)の爆弾事件の後に、国際コンペを経て、2002年のコモンウェルスゲームズ(註:イギリス連邦に属する国や地域が参加して4年ごとに開催される総合競技大会)に間に合うように完成された。

だが市を二分する論争を引き起こし、2014年に同紙は読者数千人を対象に世論調査を行い、犯罪率や殺伐とした雰囲気に対する不満を理由として、4人のうち3人がこの庭園を「嫌っている」との結果を得た。

2年後、壁を取り壊して庭園を「素晴らしき1950年代の状態」に戻すことを求める同紙の請願書に2万人以上が署名。そして今年8月、広場を改善し、反社会的行動を取り締まるための計画の一環として承認され、11月初めに解体日時が決まった。

(改行・後略)

Work to demolish ‘monstrous’ city wall begins

(「怪物的」都市壁の解体作業開始)

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2020年11月16日(月)

https://www.bbc.com/news/uk-england-manchester-54960088

Tadao Ando’s Only UK Project to be Demolished

(安藤忠雄の英国唯一のプロジェクト解体へ)

アーチ・トゥデイ(Arch Today: 「今日の懸け橋」と「今日の建築」の両義)

2016年11月8日(火)

https://www.archdaily.com/799034/tadao-andos-only-uk-project-to-be-demolished

日本人女子学生強姦事件と悪徳弁護士による卑劣なセカンド・レイプ的な裁判進行に怒り

(The rape of a female Japanese student and the outrage over the trial involving the defence council aiming at ‘second rape’, 1996)

https://sites.google.com/site/xapaga/home/thetimes19960725thu

1996年7月、ロンドン南部で2日間にわたって6人の若者に監禁され、立て続けに強姦(rape)された20歳の日本人女子留学生(報道では常に匿名)が証人台で12日間に亘(わた)って計31時間も弁護側の反対尋問に耐え忍び、6人の弁護人によって代わる代わる何度も何度も屈辱的な質問をされた。この案件について聞き及んだ被害者支援(Victim Support)という団体の代表(当時)であるヘレン・リーヴズ(Helen Reeves, b.1945)女史が、同月下旬に日本人女子留学生に支援の手を差し伸べた。

同年9月6日(金) 、オウルド・ベイリー(Old Bailey: ロンドン刑事裁判所)で判決が下る。ジェラード・モロイ(Gerrard Molloy)被告(16歳、犯行当時は15歳)が主犯格として特定され氏名と顔写真が公表された。モロイは今回の強姦事件を起こした時点では、強盗の罪で服役していたところを保釈中の身であり、数々の前科もあった。今回は2つの強姦罪で10年の刑2つに処された。 他にも仲間による強姦の現場幇助(げんば ほうじょ)の罪で6年の禁錮刑2つに処され、3件の強制猥褻罪(きょうせい わいせつざい)で4年の禁錮刑に処された(10×2+6×2+4=合計36年の禁錮刑)。

ジェイソン・バクシュ(Jason Baksh)被告(18歳)は2件の強姦罪で7年の禁錮刑2つに処された(7×2=合計14年 の禁錮刑)。エイントン・ウェイト(Aynton Waite)被告(20歳)は強姦罪で6年の禁錮刑と強制猥褻罪で3年の禁錮刑に処された(6+3=合計9年の禁錮刑)。ロヂャー・レズリー(Roger Leslie)被告 (19歳)は2件の強制猥褻罪で3年の禁錮刑と2年の禁錮刑に処された(3+2=合計5年の禁錮刑)。マーク・バクシュ(Mark Baksh)被告(23歳)は強姦罪で4年の禁錮刑に処された。 最後にアントニー・バクシュ(Anthony Baksh)被告(15歳)は強姦罪で30月(さんじゅうげつ)=2年6月(にねん ろくげつ)の禁錮刑に処された。被告人全員が荒廃したロンドン南部のストリーサム(Streatham)とタルズ・ヒル(Tulse Hill)とブリクストン(Brixton)の出身だった。

ダイアナ妃事故死(それとも暗殺か)

(Princess Diana killed in accident in 1997, or was she murdered?)

https://en.wikipedia.org/wiki/Princess_diana

https://ja.wikipedia.org/wiki/ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)

https://en.wikipedia.org/wiki/Death_of_Diana,_Princess_of_Wales

https://en.wikipedia.org/wiki/Death_of_Diana,_Princess_of_Wales_conspiracy_theories

https://en.wikipedia.org/wiki/Funeral_of_Diana,_Princess_of_Wales

https://www.youtube.com/watch?v=OpQrgA-PJ-E

https://www.youtube.com/watch?v=JvQP3jop8r4

https://www.larouchepub.com/other/2000/steinberg_diana_2727.html

https://www.dailymail.co.uk/news/article-512872/Photographer-accused-helping-MI6-kill-Diana-dead-burnt-BMW-hole-head.html

https://www.express.co.uk/news/uk/12839/Diana-Fiat-driver-shot-in-the-head

https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/princess-diana-crash-limo-death-10531823

https://www.thesun.co.uk/news/3685760/car-which-princess-diana-died-in-was-dangerous-write-off-that-flipped-ten-times-in-earlier-crash/

https://www.dailymail.co.uk/news/article-4556606/Diana-s-Paris-crash-car-death-trap.html

1997年8月31日(日)未明、隣国フランスの首都パリで、ダイアナ妃(Princess Diana or Diana, Princess of Wales, 1961-97)が恋人のエジプト人大富豪の御曹司(おんぞうし)の遊び人(playboy)であるドディ・アルファイド(Dodi Fayed, 1955-97)氏とともに36歳の若さで事故死。「パパラッチ(paparazzi パパらッツィ、つまりpaparazzo (パパらッツォ) の複数形)」と呼ばれるスキャンダル写真撮影・販売業者たちに追跡された果てに、パリのリッツ・ホテル(Hôtel Ritz Paris)から乗車したメルセデス・ベンツ(Mercedes-Benz W140 S-Class)が、パリ市内を流れるセーヌ川に架かるアルマ橋(Ponte de l’Alma ポント・ドゥ・ラルマ)下のトンネル内で速度の出しすぎ(時速160キロ超)による交通事故を起こしたことが直接の原因だった。フランス人運転手アンリ・ ポール(Henri Paul, 1956–97)氏も一緒に事故死したが、ドディの身辺警護(bodyguard)を担当していた英国ウェールズ人のトレヴァー・リーズ=ジョーンズ (Trevor Rees-Jones, b.1968)氏だけは命が助かった。当初はシートベルトを締めていたから1人だけ助かったという報道がなされたが、実際には4人のうち誰もシートベルト を締めていなかった。

ダイアナ妃は事故直後は生存しており、駆けつけた救急隊員に上(うわ)の空ながら対応できるほどの意識があったとされるが、現場に居合わせた9人ものパパラッチは救助活動に手も貸さずダイアナのスクープ写真を金銭目的で撮り続けた。

ダイアナ妃は事故に先立つ五年前の1992年12月9日(水)に夫のチャールズ皇太子(Prince Charles or Charles, Prince of Wales, b.1948)と別居し、事故の僅(わず)か一年前の1996年8月28日(水)に正式離婚していた。離婚の際にダイアナ妃の側が条件として王室に要求し たことが認められていた。即(すなわ)ち離婚後もケンジントン宮殿(Kensington Palace)に居住する権利と、息子たち2人と会う権利、そしてウェールズ大公妃(Princess of Wales)の肩書きを名乗り続ける権利であった。したがって日本のマスコミの言う「ダイアナ元妃」という呼び方は誤りであり、亡くなった今となっては 「故ダイアナ妃(the late Princess Diana)」とするのが正しい。

離婚後のダイアナは自由奔放に様々な男性との性的冒険(アヴァンチュール)に走る一方で、対人地雷廃止運動やエイズ啓発活動などに関わっていき、五十一も年上のマザー・テレサ(Mother Teresa or Blessed Teresa of Calcutta, 1910-97)との親交を深めた。マザー・テレサは奇()しくもダイアナ妃の死後五日後の同年(1997年)9月5日(金)に満87歳で世を去った。

ダイアナ妃急死のニュースは世界中を駆け巡り、多くの人々に衝撃を与えた。事故から一日経過し、訃報が知れ渡った1997年9月1日(月)には、ダイア ナ妃の居住していたケンジントン宮殿の門前には嘆き悲しんで涙を流す多数の人々が訪れ、献花や死を悼(いた)むカードが捧げられた。日本を含む世界各地の 英国大使館や英国領事館(British Embassies and Consulates)には記帳台が設置された。ダイアナ妃の遺体をフランスまで小型飛行機で引き取りに行ったのは、元夫チャールズ皇太子だった。

当時44歳だった首相ブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)氏は、首相になってからまだ4ヶ月弱だったが、ダイアナ妃事故死の第一報を受けて選挙区の小さな教会前でカメラに向かって声明(a statement)を発表した( https://www.youtube.com/watch?v=yX8nuyI9WJY )。如何(いか)にもその場で即興(ad lib)で考えて話しているように見えるが、実は徹夜で考えた原稿通りだったとも言われている。「私は今日(きょう)この国の他の皆さんと同じ気持ちです。完全に打ちのめされています。私たちの心と祈りはダイアナ妃のご遺族とともに、特に2人の息子さんたち、男の子2人とともにあり、心からお悔やみ申し上げます。今日(きょう)私たちは英国で国を挙げて衝撃を受け、喪()に服し、悲嘆に暮れており、あまりにも痛々しいものがあります。彼女は素晴らしく暖かい人間でした。ご自身の人生は屡々(しばしば)悲しいことに悲劇に見舞われましたが、彼女は喜びと慰(なぐさ)めとともに英国、世界中の人々の心の琴線(きんせん)に触れました。私たちはこれから何度彼女のことを思い出すのでしょうか。そして何通りの方法で病(やまい)に苦しむ人々や死にそうな人々や子供たちや貧乏のどん底にいる人々に寄り添っている彼女のことを思い出すのでしょうか。言葉よりも多くを語る顔つきや身振りだけで、彼女は自(みずか)らが持つ憐(あわれ)みの心と人間愛の深さを私たちに示してくれました。私たちは彼女の人生が時折(ときおり)如何(いか)に大変だったのかについては想像するしかありませんが、どこの人でも、それはここ英国のみならず世界中どこでも、ダイアナ妃に信頼を置いていたのです。人々は彼女に好意を抱き、彼女を愛しました。人々は彼女を人民の一人と見做(みな)しました。彼女は人民の妃でありました。そして彼女はそのようにあり続け、その儘(まま)にあり続けるのです、私たちの心の中で、私たちの記憶の中で永遠に。」(原文 I feel like everyone else in this country today, utterly devastated. Our thoughts and prayers are with Princess Diana’s family, in particular her two sons, the two boys. Our hearts go out to them. We are today a nation in Britain in a state of shock, in mourning, in grief that is so deeply painful for us. She was a wonderful and a warm human being. Though her own life was often sadly touched by tragedy, she touched the lives of so many others in Britain [and] throughout the world with joy and with comfort. How many times shall we remember her in how many different ways, with the sick, the dying, with children, with the needy? When with just a look or a gesture that spoke so much more than words, she would reveal to all of us the depth of her compassion and her humanity. We know how difficult things were for her from time to time, and surely we can only guess that, but the people everywhere, not just here in Britain but everywhere, they kept faith with Princess Diana. They liked her, they loved her. They regarded her as one of the people. She was the People’s Princess. And that’s how she will stay, how she will remain, in our hearts, in our memories for ever.)。特に「人民の妃」(the People’s Princess)という表現が時代の空気にマッチして、多くの国民の共感を呼び、ブレア人気がこれまで以上に高まった。

葬儀は国葬(a state funeral)にすべしとの世論がイギリス国内で高まったが、ブレア首相は王室の伝統に鑑(かんが)みて、「国葬は無理」と判断し、妥協案(a compromise コンプロマイス)として国民葬(a national public funeral)にすると発表した。9月6日(土)、ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)で国葬に準じた盛大な葬儀が執り行われた。

将来国王になるべき王室メンバーの元妻にして母親でもある人物が死んだのに、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)に半旗が掲げられないこと(not to fly the Royal Standard at half-mast)から「王室はダイアナの死を悼(いた)んでいない」との非難が沸き上がった。そしてこのとき初めて世論調査で王室廃止意見が存続意見を上回った。それまでバッキンガム宮殿には半旗を掲げる伝統は無く、そもそもバッキンガム宮殿の王室旗の掲揚は国王が宮殿に居ることを示すものであった。 ダイアナ事故死の際、女王(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)は夏休み中でスコットランドのバルモラル城(Balmoral Castle)に滞在していたことから、王室の伝統に従えばバッキンガム宮殿に旗を掲げないのは当然だった。しかし「冷たい王室」への世論の風当たりが強 まる中で伝統は覆(くつがえ)された。女王が葬儀に出発し宮殿を出て、掲揚していた王室旗を下ろしたあとに英国旗(Union Flag; 通称 Union Jack)が半旗として掲げられた。

葬儀の前日の同年9月5日(金)まで国民の前に姿を現さなかった女王にはマスコミや国民の敵意が向けられた。英国最大の発行部数を誇るタブロイド紙のサン紙(The Sun)の見出し「我らの女王はどこだ、女王の旗はどこだ(Where is our Queen? Where is her Flag?)」は当時の国民感情をよく伝えている。また、このときの王室最大の危機の模様は、映画『クィーン(The Queen)』(2006年)が、部分的に憶測を交えながらも詳細にわたって描いている。

ウェストミンスター寺院での葬儀には2千人(two thousand people)が参列し、沿道では百万人以上(more than one million people)が、棺を運ぶ英国陸軍(British Army)の行進を直接見送った。葬儀の模様をテレビで視聴した人は、英国内だけで総人口6300万人(63 million)の過半数に相当する3278万人(32.78 million)にも達し、全世界では20億人(two billion people)が視たとされる。首相就任から僅か4ヶ月の若きブレアは、この葬儀の成功によって内外のメディアから注目を浴び、一躍時の人となった。故ダイアナ妃と親しかったとされる同性愛者でポップ・ミュージシャンのエルトン・ジョン(Elton John, b.1947)などが呼ばれて参列し、尚且(なおか)つ自作の歌(但し、二十四年前の1973年に米女優の故マリリン・モンロー(Marilyn Monroe, 1926-62)こと、本名 ノーマ・ジーン・モーテンソン(Norma Jeane Mortenson, 1926-62)に宛てて書いた自作曲のリサイクル・リメイク版)まで披露するという前代未聞の展開に、良識ある人は眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。また、ダイアナ妃の実弟の第九代スペンサー伯爵(Charles Spencer, 9th Earl Spencer, b.1964)が弔辞(ちょうじ)を述べたが、その中に王室に対するあからさまな敵意や批判があり、多くの人々を啞然とさせた。

ダイアナ妃とともに死んだ愛人ドディの父親モハメッド・アルファイド(Mohamed Al-Fayed, b.1929)氏と英大衆紙「日刊エクスプレス(Daily Express)」は、ダイアナ妃暗殺説に固執している。アルファイド氏は英国上流階級に対する怒りを表明して、自身の経営するロンドンのケンジントン地区に在る老舗(しにせ)のハロッヅ(Harrods)百貨店に掲げていた4種類の王室御用達(Royal Warrants)、つまり女王陛下御用達(By Appointment to Her Majesty Queen Elizabeth II)と皇太后陛下御用達(By Appointment to Her Majesty Queen Elizabeth the Queen Mother)と皇太子殿下御用達(By Appointment to His Royal Highness The Prince of Wales)とエディンバラ公御用達(By Appointment to His Royal Highness The Duke of Edinburgh)を王室に返上した。

特にエジプトを中心としたアラブ世界ではダイアナ暗殺説の勢いが強い。ダイアナ妃は情夫ドディの子供を身籠っていて、その不都合な真実(inconvenient truth インコンヴィーニェントるー)を隠す目的で英国諜報機関 MI6 (エマイ・シックス)が偽装事故を仕組んだという実(まこと)しやかな噂がある。仮に妊娠の件が事実だとすれば、確かにダイアナ妃は英国上流階級にとって胎児もろとも即座に消さねばならない存在だっ たと言える。将来の国王の種違いの弟または妹がイスラム教徒になってしまうからである(父親がイスラム教徒の子供は何が何でもイスラム教徒にならねばならないため)。イスラム教の影響力を排除せねばと焦(あせ)り、そこに国家的な危機を感じた英国支配層が、王室の一時的な危機というリスク(現に王室危機は起こった)を背負い込んだ上で、この非情な手段に出たとする考え方もできる。ダイアナ妃事故死の数ヶ月前には、「元夫のチャールズによって自動車に細工がされ、事故死に見せかけた方法で殺されるかもしれない」という内容の手紙をダイアナ妃が友人に書き送っていたことも判明している。

国際ジャーナリストの大野和基(おおの かずもと, b.1955)氏によると、事故を起こしたとされるメルセデス・ベンツ(Mercedes-Benz W140 S-Class)を所有していたのはジェイムズ・アンダンソン(Jean-Paul “James” Andanson, 1946?-2000)なる人物で、彼はまたダイアナ妃をオートバイで追い駆けまわしていたパパラッツィの一人でもあった。しかし英マスコミ各社の報道では、アンダンソン氏は事故直後にパリのアルマ橋下の地下トンネルから猛スピードで逃げて行った白いフィアット(Fiat Uno)の所有者兼運転者だった可能性が高いとのことであり、大野氏はメルセデス・ベンツとフィアットを混同しているか、英文を誤読した可能性がある。白いフィアットはメルセデス・ベンツに対して当て逃げしたと考えられている。噂(うわさ)では英国諜報機関 MI6 (エマイ・シックス)の工作員2名がパパラッツィの一群に混じっていたともいう。アンダンソン氏は「事故後のダイアナを写したもっとすごい未公開写真を保管している」と友人たちに吹聴(ふいちょう)していたが、ダイアナ妃事故死から三年足らずの2000年5月5日(金)、南仏モンペリエ市郊外(仏西部のナント市郊外という一部報道もあり)の森の中で車中焼身自殺した状態で発見された。上記の大野氏によると、よく調べてみると頭部が完全に切り離された状態だったという。これが何を意味するかというと、諜報機関による警告とのこと。「事情を知っている者がこれ以上余計なことを話すと、こうなるぞ!」という意味で首を刎(は)ねたとのこと。しかし英マスコミ各社の報道では、左こめかみに2インチ(≒約5センチ)程度の2発の弾痕(だんこん)があったとのこと。それでもフランスの警察は自殺と断定した。アンダンソン氏は亡くなる直前にフランスのミステリー作家フレデリック・ダール(Frédéric Dard, 1921-2000)氏と会い、ダイアナ妃の事故の際、警察が来る前に現場写真を撮影していたと語った。その面談から数週間も経たないうちにダール氏も満78歳で死亡した。

上記の大野氏は首謀者としてイスラエルの諜報機関、通称 モサド(Mossad)の存在を挙げている。モサドが英国諜報機関の対外部門 MI6 (エマイ・シックス)の協力を得て事故を演出したとのことである。イスラエル政府はダイアナ妃のパレスティナ入りを警戒していた。イスラエル軍によるパレスティナ系住民に対する残虐非道をダイアナ妃が世界に訴えれば、国際世論が反イスラエル一色になってしまうことを警戒したイスラエル政府がダイアナ妃の暗殺を企図(きと)したとしても不思議ではない。また、晩年に対人地雷の廃絶を訴えていたダイアナ妃の存在を疎(うと)ましく思っていたのが兵器産業や武器商人たちであったので、軍産複合体による協力も指摘されている。

2003年10月20日(月)、ダイアナ妃の執事(butler)だったポール・バレル(Paul Burrell, b.1958)氏が、死の10ヶ月前にダイアナ妃から受け取った手紙を公開し、そこには「誰かが私の乗る車に細工をして、ブレーキの故障と見せかけて事故を起こそうとしている」と書かれていた。その前日にはブ レア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)首相が胸の痛みと動悸を訴えて病院に担ぎ込まれていた。ブレア氏が何かを知っているのではないかという憶測を呼んだ。

ダイアナ妃の暗殺計画を指示したのではないかと疑惑を持たれた1997年の事故当時の外務大臣クック(Robin Cook, 1946-2005; 外相在任1997-2001)氏も2005年8月6日(土) 14:20頃、スコットランドの山中を元秘書兼元愛人の若妻ゲイナー(Gaynor Cook, 生年不詳)夫人とウォーキング中に心臓発作を起こして山から8フィート(≒約2.7メートル)転げ落ち、首の骨を折った。若妻は携帯電話で救急ヘリ(air ambulance)を呼び、クック氏は病院に運ばれたが、若妻はヘリコプターに乗せてもらえず、歩いて下山した。クック氏は病院で同日16:05に死亡した。満59歳だったが、クック氏の場合は2003年のイラク戦争絡(がら)みの陰謀で暗殺されたとする疑惑もある。

ダイアナ妃の事故死から約九年半が経った2007年1月8日(月)には、ロンドンにてダイアナ妃とドディの死因審問(inquest)の準備が開始されたが、重要参考人が既に全員他界していた。同年(2007年)10月2日(火)に公式な審問が進められ、翌年(2008年)4月7日(月)に結論に達した。結論は1997年の死因特定と変わらず、フランス人運転手の故アンリ・ポール(Henri Paul, 1956–97)氏による業務上過失致死とされた。ここで暗殺説は公式に封印された。しかしインターネット・ベースの市場調査会社ユーガヴ(YouGov: 「あんたが大将」の意)の調査では、英国民の40%超がダイアナ妃の死に不信感を抱いているとのことである。

事故から二十年近くが経った2017年5月31日(水)には、ダイアナ妃が死亡した際に乗っていたメルセデス・ベンツ(Mercedes-Benz W140 S-Class)についての新たな情報を英マスコミの日刊ミラー紙(The Daily Mirror)とサン紙(The Sun)と日刊メイル紙(The Daily Mail)が一斉に報じた。その自動車は車体が転げ回って大破した過去があり、それを修理した物だったとのことである。ダイアナ妃とドディが宿泊していたホテル(Paris Ritz)に雇われた或()る運転手が事故の2ヶ月前に警告したところでは、その車は時速60キロ(60km/h ≒ 37mph)以上で走るとコントロールが利かなくなるので廃車すべきということだった。

2021年7月1日(木)、ダイアナ妃が生きていれば満60歳の誕生日となる筈(はず)だったこの日、生前のダイアナ妃が暮らしたケンジントン宮殿(Kensington Palace)東側のダイアナ妃記念庭園(Princess Diana Memorial Garden)内の中央に位置する沈床園(Sunken Garden https://www.google.com/maps/place/Princess+Diana+Memorial+Garden/@51.5055261,-0.1857646,18.04z )にダイアナ像(the Statue of Princess Diana)が設置され、その除幕式(the unveiling ceremony)が執り行なわれた。実際に除幕したのは、故ダイアナ妃の二人の息子であるケイムブリヂ公ウィリアム王子(Prince William, Duke of Cambridge, b.1982)と、居住先の米国カリフォルニア州から一時帰国したサセックス公ハリー王子(Prince Harry, Duke of Sussex, b.1984)であるが、英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)はニュース番組で兄弟の不仲を強調した( https://www.youtube.com/watch?v=iV8-BBBLJ04 )。他にこの場にやってきたのは、このブロンズ像を制作した彫刻家イアン・ランク=ブロードリー(Ian Rank-Broadley, b.1952)氏と、故ダイアナ妃の二人の姉と、実弟の第九代スペンサー伯爵(Charles Edward Maurice Spencer, 9th Earl Spencer, b.1964)であり、彫刻家を除いてはウィリアムとハリーの二王子にとっての母方の家系に限られた。ブロンズ像の出来栄えについて世評は芳(かんば)しくなく、しかもダイアナ像が連れている三人の名もなき子(一見すると二人に見えるが実は三人)がウィリアムとハリーの二王子でないことにも大衆は「意味不明」と首を傾(かし)げている。

シップマン医師による患者連続殺人事件

(The serial murder by Dr Shipman, 1975-98)

https://en.wikipedia.org/wiki/Dr_Shipman

https://ja.wikipedia.org/wiki/ハロルド・シップマン

国民健保(NHS: National Health Service)の一般医(GP: general practitioner)、ハロルド・シップマン(Harold Shipman, 1946-2004)容疑者が1975年から’98年にかけて二十三年間に亘(わた)って続けてきた連続患者殺害。警察と検察と裁判所の努力で有罪認定できた被 害者は15名だが、2004年に容疑者が獄中で首吊(くびつ)り自殺を果たしたため、実際の総数は闇の中。推定240人を超える数の犠牲者を出したと見られている。これが事実だとすれば、被害者の数の上ではシップマン医師の事件は英国犯罪史上最悪の連続殺人事件ということになる。

犯行動機についても謎が残るが、被害者の多くは老婦人だった。性犯罪(sex offense)としての動機は考えにくく、金銭的な動機もほんの一部の事件には見られるが、付随的な(ついでの)動機とされ、これも弱い。一番考えられる理由として、自分が医者として人の命を自由に左右する、謂(い)わば「神の領域」(the domain of God)に入ったような万能感、言い換えれば生殺与奪(せいさつ よだつ)の権(the power of life and death)に酔ってしまったことが指摘されている。

斯(か)くも長きに亘(わた)り、斯くも多くの患者の殺害が可能だったのは、1948年以来続く英国の医療制度である国民健康保険(NHS: National Health Service)に原因があるとされた。NHSでは、患者は歯科と目の検診と眼鏡作成を除く全ての治療を無料で受診できるが、不慮の事故を除くどんな病気や怪我(けが)の場合でも、まずは事前に登録した近所の一般医(GP: general practitioner)の診察を受け、「必要あり」とGPに認められた場合に限り大病院の専門医に診てもらえる制度である。専門医での受診や手術等も無料である。この制度だとGPの診療所(イギリス英語で surgery または practice; アメリカ英語で clinic)で医師と患者の密室状態ができてしまい、外部の目が入りにくい。そこに目をつけたのがシップマン医師だった。

この事件への反省を受け、NHSはGPの仕事内容を外部の目がチェッ クできる体制に改革した。しかしNHS制度そのものは予算不足や人員不足から崩壊寸前と言われている。英語という言語は多くの国々で通じるため、本気でカネを稼ぎたい有能な医師は、給与の良いアメリカやアラブ諸国などの先進的な総合病院へ転職してしまう。反対にイギリスの病院の医療関係者は看護師も含めて、旧英国殖民地からの流入組が多く、白人が少なくなってきている(白人が医療関係者全体の約3分の2を占め、残り3分の1が非白人)。ちなみに日本では医師や看護師の多くが英会話を苦手としているので、国外に流出しないで済んでいる。日本の患者としては有り難い。

予算不足と人員不足は患者に皺(しわ)寄せが来る。そのためGPの診察後に専門医の診察に行きつくのはハードルが高い。腰骨の手術を受けるのに2年間も待たされたお婆さんの例などを、医療崩壊の端的(たんてき)な例として時々マスコミが報道するが、なかなか改善されない。

【参考】戦前には東京でも、近年ではアメリカでも、2016年には横浜でも、そして2018年には再びイギリスで明るみに

昭和10年(1935年)12月10日(火)付の讀賣新聞の記事及び大倉幸宏 『「昔はよかった」と言うけれど 戦前のマナー・モラルから考える』(新評論, 2013年)によると、1935年の東京府豐多摩郡中野町(現東京都中野区中野)で一人の開業医が過去三年間に亘(わた)り患者にモルヒネ(morphine モーフィーン; 化学式 C17H19NO3)を注射し、合計87人が死亡した事件が発覚。検挙された医師自身もモルヒネ中毒だった。患者の一人だった陸軍中野無線學校生徒(当時29歳)が同年11月2日(土)にこの医院で死亡したが、その死因に不審を抱いた遺族から警視庁中野署に照会があったので、この学生の死因について調べてみると、ビタミンB1欠乏症の脚気(かっけ: beriberi)であったにも拘(かか)わらず禁じ手のモルヒネ注射をしたことが判明したため、この医師と代診を中野署に留置した。警察は診療報酬明細書を押収し、これまで同医院にかかっていた患者について洗いざらい調べると、昭和8年(1933年)1月に開業して以来、1,400人の患者のうち実に87名もの死因不審の患者のケースが浮上した。さらに近在の五十嵐(いがらし)警察署が死因不明者について調べてみると、ほぼ全員がモルヒネ注射で命を落としていたことが判明した。

一方、米国テキサス州(Texas, USA)では、収監中の女性看護師がかつて60人前後の乳児を殺害していたという新たな疑いが持たれていると、2017年5月27日(土)にフランス通信社(AFP: Agence France-Presse)が報道している( https://www.afpbb.com/articles/-/3129778?act=all / https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1495845761/ )。

記憶に新しいところでは、2016年7月から9月にかけて神奈川県横浜市神奈川区内の大口病院で推定50人の患者が相次いで消毒液の体内への混入で中毒死する「大口病院連続点滴中毒死事件」が発生している。事件から二年近くが経過した2018年7月7日(土)に当時の女性看護師、久保木愛弓(くぼき あゆみ, b.1987?)容疑者=31歳が逮捕された。

また、2018年夏には英マスコミ各社が事件性を疑う報道をしているにも拘(かか)わらず逮捕者が出ていない案件が浮上した。ジェイン・バートン(Jane Barton, b.1947?)医師=退職済が主に1990年代に(厳密には1989年から2000年にかけて)推定656人(控えめな推定で456人、疑わしいとして再調査の対象になったのは833人)に対して医療行為として不必要な分量のオピオイド(opioid)という痛み止め(painkiller)を投与してその死期を早めたことが2018年6月に明るみに出たことで、医療業界を巻き込んだ一大醜聞(しゅうぶん: scandal)となっている ( https://www.bbc.com/news/uk-england-hampshire-44547471 / https://www.bbc.com/news/blogs-the-papers-44556747 / https://www.theguardian.com/society/2018/jun/20/gosport-war-memorial-hospital-opioid-drugs-policy-inquiry / https://www.theguardian.com/society/2018/jun/20/profile-dr-jane-barton-gp-gosport-hospital-scandal-gmc-panel-2010 / https://www.independent.co.uk/news/health/gosport-patient-deaths-jane-barton-opiates-war-memorial-hospital-inquiry-a8408736.html / https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/gosport-hospital-deaths-dr-jane-barton-independent-inquiry-gmc-a8408886.html / https://inews.co.uk/news/health/gosport-war-memorial-hospital-inquiry-statement-bishop-james-jones/ / https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/they-killing-me-son-demand-12755720 / https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/voice-mirror-bring-book-gosport-12776144 / https://www.portsmouth.co.uk/news/health/families-demand-criminal-convictions-after-scandalous-gosport-hospital-report-1-8541152 / https://www.thesun.co.uk/news/6560353/dr-jane-barton-investigation-deaths-gosport-hospital/ / https://www.telegraph.co.uk/news/2018/06/20/dr-jane-barton-oxford-educated-gp-responsibility-48-beds/ / https://www.thetimes.co.uk/edition/comment/hospital-of-death-0slwn75hx / https://en.wikipedia.org/wiki/Gosport_War_Memorial_Hospital )。

[ドイツでも男性看護師による同種の事件が発覚]

世界戦慄!ドイツ史上最悪の連続殺人犯は看護師だった|少なくとも100人殺害、その動機

英ガーディアン紙(The Guardian)から翻訳転載

クーリエ日本版(Courrier Japon)

2017年11月25日(土)

https://courrier.jp/news/archives/103300/

[上記の続報]

世界を震撼させる独史上最悪の連続殺人事件

ドイツ「殺人鬼」看護師が薬の過剰投与で300人が犠牲か…

クーリエ日本版(Courrier Japon)

メリッサ・エディー(Melissa Eddy)米ニューヨーク・タイムズ紙記者署名記事、訳者不詳

2019年5月26日(日)

https://courrier.jp/news/archives/162270/

ヤフーニュース転載

2019年6月9日(日)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190609-00000002-courrier-eurp (リンク切れ)

トウニィ・マーティン事件

(Tony Martin incident, 1999-2001)

https://en.wikipedia.org/wiki/Tony_Martin_(farmer)

https://en.wikipedia.org/wiki/Brendon_Fearon

https://www.bailii.org/ew/cases/EWCA/Crim/2001/2245.html

https://www.thesun.co.uk/news/5977731/tony-martin-shooting-fred-barras-norfolk-farmer/

https://www.dailymail.co.uk/news/article-7365233/Tony-Martin-admits-raging-burglars-targeted-home-20-years-ago.html

https://www.bbc.com/news/uk-england-norfolk-49355814

イングランド東部のノーフォーク州エムネス・ハンゲイト集落(Emneth Hungate, Norfolk, England)という片田舎で起こったトウニィ・マーティン事件(Tony Martin incident)の刑事裁判(criminal trial)が、2000年に世間の大きな注目を集め、イギリスの国論を二分する大問題となった。

事の発端は1999年8月20日(金)深夜、様々な犯罪の常習者であるブレンドン・フィアロン(Brendon Fearon, b.1970)=29歳とフレッド・バラス(Fred Barras, c.1983-99)=16歳の2人が、盗みの目的で独身の農夫トウニィ・マーティン(Tony Martin, b.1944) こと、アントニー・エドワード・マーティン(Anthony Edward Martin, b.1944; アメリカ発音ではアンソニー)氏=54歳の自宅「荒涼館」(Bleak House)に押し入った。しかしそれまで計10回も賊(ぞく)に不法侵入され、計6千ポンド(£6,000≒当時のレートで約100万円)相当の家具類を盗まれて頭にきていた家主のマーティン氏が賊の存在に気づき(但し、地元警察はマーティン氏の盗難被害の真偽については不確かとしている)、自宅に不法所持していた米国製のウンチェスターM1200(Winchester Model 1200)という散弾銃(pump-action shotgun)を用いて逃げる2人の賊を背後から狙い撃ちした。この事件の際には不当所持だったが、事件に先立つ五年前の1994年に自宅の庭から林檎(リンゴ)を盗んでいた犯人の車に銃弾を浴びせたことで免許(英 licence; 米 license)を剝奪(はくだつ)されるまでは合法的に所持していた散弾銃である。時代が下った現在、この型の散弾銃は所持が完全に禁止されている。

年上のフィアロンは大怪我をしながらも命からがら逃げおおせたが、年少のバラスは当たり所が悪く、マーティン家の敷地内で即死した。なお、犯人は2人ともアイリッシュ・トラヴェラーズ(英 Irish Travellers; 愛 an lucht siúil)と呼ばれるアイルランド系の漂泊民(移動型民族集団)だった。

侵入者を銃で撃ったマーティン氏は逮捕され、事件から三日後の同年(1999年)8月23日(月)に検察(prosecution)に起訴(prosecute)された。罪状は、バラスへの謀殺(ぼうさつ: murder (ムォーダ) の訳語で日本で言う「計画性の高い殺人」に相当)罪と、フィアロンへの謀殺未遂(attempted murder)罪と、それに銃器の不当所持(illegal possession of a firearm)の罪だった。マーティン被告を裁く刑事裁判では、一般人からの抽選で召集された陪審(ばいしん: jury (ジュゥりィ) の訳語で12人の陪審員で構成され、6人の一般人で構成される日本の裁判員制度と似ているが少し異なる)が10対2の多数決(10 to 2 majority)で有罪判決(guilty verdict)を下した。そして終身刑(life imprisonment)が科された。死刑制度を廃止したイギリスで、終身刑は最も重い量刑である。なお、日本の裁判員裁判とは異なり、イギリスの陪審員たち(jurors)は有罪か無罪か(guilty or not guilty)のみ多数決で評決し、その後でプロの判事(judge)が量刑を決めて言い渡す。マーティン被告側の弁護人は防衛の権利(right of self-defence: 日本で言う「正当防衛」)を主張するも認められなかった。

弁護側はそこでマーティン被告の妄想性人格障碍(paranoid personality disorder)を根拠に責任能力の欠如(diminished responsibility)を主張するという奇策に転じて上訴裁判所(Appeal Court or Court of Appeals: 他国で言う「控訴裁判所」、日本で言う「高等裁判所」=高裁)に訴えた。これは2001年10月30日(火)に弁護側の思惑通り法廷で認められ、マーティン被告は故殺(こさつ: manslaughter (マンスロータ) の訳語で日本で言う「過失致死」にほぼ相当)で禁錮5年と、傷害(bodily harm)で禁錮3年の刑が下った。刑期は合算されず、同時進行する(run concurrently)ため、実際には5年間のみの服役を意味し、結果的に量刑は大幅に引き下げられた。弁護側の戦略(strategy)が功を奏したと言えよう。

なお、マーティン被告(当時)の刑が確定した2001年10月30日(火)時点ではイギリスに最高裁判所(最高裁)は存在しなかった。2009年10月1日(木)に組織された連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom; 略称 UKSC or SCOTUK)は、全国民に影響を及ぼすような最大級の公衆的重要性または憲法上の重要性を帯びた案件(cases of the greatest public or constitutional importance affecting the whole population)のみを取り扱うため、通常の刑事裁判では出番が無い。かつては議会上院(the Upper House of Parliament)=貴族院(the House of Lords)の常任上訴貴族(Lords of Appeal in Ordinary)=通称 法律貴族(Law Lords)の司法機能(judicial functions)と枢密院司法委員会(Judicial Committee of the Privy Council)の機能が合同で最高裁の役割を果たしてきた。ところが三権分立(separation of powers)の中の司法権の独立(judicial independence)が守られていないとする声が高まり、労働党(Labour Party; 略称 Labour)のトウニィ・ブレア(Tony Blair, or Anthony Charles Lynton Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)内閣総理大臣による一連の改革の一環として、ブレア退任後のブラウン(Gordon Brown, b.1951; 首相在任2007-10)内閣の時代になって漸(ようや)く組織されたのだった。

一方、フィアロンと、実行犯の運転手を務めたダレン・バーク(Darren Bark, b.1966?)=犯行当時33歳は、事件から年が明けた2000年1月に有罪判決(guilty verdict)が下り、前者(フィアロン)は禁錮36月(きんこ さんじゅうろくげつ: 36 months in prison)=禁錮三年(きんこ さんねん: three years in prison)に処され、後者(バーク)は禁錮30月(きんこ さんじゅうげつ: 30 months in prison)=禁錮2年6月(きんこ にねん ろくげつ: two years and six months in prison)に処されたが、前者は2001年8月10日(金)にほぼ半分の刑期で早期釈放された。なお、農夫マーティンに撃たれて満16歳で絶命したバラスは、既に前科29犯の常習犯であり、死んだその日も保釈されたばかり(had just been released on bail)だった。

個人宅に盗みに入った常習的犯罪者が堂々と被害者面(ひがいしゃづら)をしていて、盗みに入られた被害者マーティン氏が恰(あたか)も犯罪者として処遇され、刑事裁判の被告人を演じる羽目になるという奇妙な逆転現象が一部の国民の反発を招いた。特に保守系マスコミや英国国民党(BNP: British National Party)や、ユーキップこと、連合王国独立党(UKIP: United Kingdom Independence Party)や連合王国国民戦線(National Front (United Kingdom))といった極右系ミニ政党(右翼団体)が、「イングランド人男性の自宅は、もはやその人の城館ではない。」(An Englishman’s home is no longer his castle.)と嘆き、国民を煽(あお)った。これはかつて日本の英語教科書にも載っていた「イングランド人男性の自宅は、その人の城館である」(An Englishman’s home is his castle.)という古い格言・箴言(しんげん: maxim)を捩(もじ)った言葉=パロディー(parody)である。イングランド人は自宅では何をしても自由で、国家権力の干渉を受けないとされたのである。

世間の耳目(じもく)を集めたマーティン受刑者(当時)は刑務所内で模範囚(an exemplary prisoner; a model inmate; a model prisoner; a well‐behaved prisoner)となり、それがために2003年7月28日(月)に刑期を短縮されて出所している。服役期間は結局3年間だった。16歳で命を絶たれた犯人バラスに同情するあまり、マーティン氏の行ない(特に不法所持していた散弾銃でコソ泥=窃盗犯を狙い撃ちした行為)については非難する声もあり、国論を二分している。マーティン氏は出所後もバラスの関係者と思しき者や、バラスに同情する者から脅迫を受けていて、その意味で盗難とは別の犯罪の被害者になっている。

ローラ・スペンス事件

(The Laura Spence affair, 2000)またはローラ・スペンス騒動(the Laura Spence row, 2000)

https://en.wikipedia.org/wiki/Laura_Spence_affair

2000年6月、当時18歳でイングランド北東部に在る国立モンクシートン共同体ハイスクール(Monkseaton Community High School)の二年制 Sixth Form (直訳: 「第六学年」)の生徒だったローラ・スペンス(Laura Spence, b.1982?)嬢が、他の生徒同様に全国大学入学資格試験であるA-Levelsを三科目受験したところ、結果はstraight A(和製英語で言う「オールA」)だった。イギリスのSixth Formの生徒が大学に出願するのはA-Levelsを受験する一年半前、つまり Sixth Form に入った最初の学期のことである。スペンス嬢はオクスフオッド大学モードレン学寮(Magdalen College, Oxford)に医学部志望で出願したが不合格となり、代わりに米私学名門ハーヴァード大学(Harvard University)には奨学金付で合格した。オクスブリヂ(Oxbridge = Oxford + Cambridge)の両大学に出願して不合格になる生徒は毎年数千人いるが、スペンス嬢のケースが話題になったのは、ブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007; オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮卒)内閣の財務大臣(後に首相)であるブラウン(Gordon Brown, b.1951; 首相在任2007-10; エディンバラ大学歴史学博士)氏が労働党お得意のストーリーに仕立て上げ、政争の具とした(=政治問題化した)ことに原因がある。ブラウン氏によると、スペンス嬢が国立学校(state school: 国民の約93%が通う学校)の出身であり、特権階級の集まりであるオクスフオッド大学モードレン学寮が私学(independent schools)出身者を贔屓(ひいき)したからとのことである。なお、この事件の三年近く後の2003年3月にはブリストル大学(University of Bristol; 通称 Bristol University)の入学考査でも似たような騒動が起きることになるが、その場合は私学出身者に厳しく国立出身者を贔屓(ひいき)したのではないかという逆差別が槍玉に挙がった。A-Levelsの成績がすべてAの生徒をアメリカの大学に取られるようではイギリスの先行きは暗いという意味の発言をブラウン氏はラジオやテレビで盛んに繰り返し、オクスフオッド大学の入試システムを調査すべきだとも言い放つ。英マスコミはスペンス嬢にインタビューし、アメリカのハーヴァード大学から奨学金の申し出があったことを大々的に報道。しかしオクスフオッド大学にしてみれば、「A-Levelsの成績がすべてAの生徒」は出願者の90%近くいるとのことであり、国立校の出身だから落としたわけではないと反論。しかしオクスブリヂ両大学に対する偏見に満ちたマスコミ各社は、オクスフオッド叩(たた)きの手を緩(ゆる)めず。期せずして騒動の中心になってしまったスペンス嬢は、ハーヴァード大学で生化学(biochemistry)の学士号を取得した後、ケイムブリヂ大学ウルフソン学寮(Wolfson College, Cambridge)大学院で、この騒動から八年後の2008年に医学(medicine; medical studies)を修め、医師免許を取得した。この際も英マスコミ各社は「スペンス嬢がオクスフオッドに復讐(revenge)を果たした」と書き立てた。

ルーシー・ブラックマンさん強姦殺人事件(日本で起きた事件)

(The rape and murder of Lucie Blackman in Japan, 2000)

https://en.wikipedia.org/wiki/Lucie_Blackman

https://en.wikipedia.org/wiki/Joji_Obara

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルーシー・ブラックマンさん事件

https://www.telegraph.co.uk/news/uknews/3792078/Lucie-Blackman-murder-case-Timeline.html

2000年7月1日(土)、英国航空(BA: British Airways)の元客室乗務員で、六本木の外人ホステスクラブ(一種のキャバクラ)、「カサブランカ(Casablanca)」(現存せず)のホステス をしていた当時21歳の英国人ルーシー・ブラックマン(Lucie Jane Blackman, 1978-2000)嬢が、同年齢の同国人の友人で、都内のアパートに同居していたルイーズ・フィリップス(Louise Phillips, b.1978?)嬢に、「クラブの客とドーハンに行く」と電話で言い残した後に行方不明になる。なお、「ドーハン」とは水商売の世界でいう「同伴(どうはん)デート」のことであり、男性客がホステスにカネを払って連れ出す店外デートを意味する。

同年7月3日(月)、身元不明の男の声でルイーズ嬢のアパート(同居していたルーシー嬢のアパートでもある)に電話があり、ルーシー嬢がカルト教団に入信したことを仄(ほの)めかすような内容を下手な英語で述べた。不審に思ったルイーズ嬢が日本の警察に捜索願を出した。

同年7月13日(木)、被害者の父親で不動産開発業者のティム・ブラックマン(Tim Blackman, b.1953)氏が初来日し、偶然訪日中だったクック(Robin Cook, 1946-2005; 外務大臣在任1997-2001)英外相に接触。在京英国大使館(British Embassy in Tokyo)の全面的な協力を得て東京都内で大々的な記者会見(press conference)を行なった。事件は国際問題にまで発展し、英国の各メディアの報道合戦が開始された。

同年7月18日(火)、父親のブラックマン氏が私費で愛娘の捜索センターを東京の都心に設置し、電話のホットラインを開設。匿名の在日英国人実業家による10万ポンド(当時の為替レートで約1633万円)の懸賞金拠出を発表。

同年7月21日(金)、G8主要国サミットのために訪日中のブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)英首相が東京都内でブラックマン家の人々との会見に応じ、沖縄サミットの場で日本の森喜朗(もり よしろう, b.1937; 首相在任2000-01)首相に捜査の進展を要請することを約束し、沖縄で実際に実行に移す。森首相は約束の手前、警視庁を叱咤激励(しった げきれい)する。

同年8月1日(火)、警視庁にブラックマン嬢を名乗る者からの手紙が届き、そこには「私はしたいことをしているの、だからどうか私をほっといて(I am doing what I want so please leave me alone.)」と書かれていた。警察がブラックマン家にも手紙を見せるが、偽物(fake)と一蹴(いっしゅう)される。

同年8月22日(火)、ルーシー・ブラックマン嬢の妹ソフィー・ブラックマン(Sophie Blackman, b.1980)嬢が東京都内で記者会見を開き、有力情報に対して1万ポンド(当時の為替レートで約163万円)の謝礼金を支払うことを約束。

同年9月20日(水)、愛娘の捜索に数万ポンド(数百万円から一千万円超)を費やした父親のブラックマン氏が成果なく虚(むな)しく離日して帰国の途に。

同年9月下旬、ブラックマン氏の離日直後に急展開があり、ブラックマン嬢の勤めていたクラブの常連客で不動産管理会社社長の男を警視庁捜査一課と麻布署が調査していることが報じられる。被害者の周辺で新たに外国人女性2名が行方不明になっていることも判明する。

同年10月11日(水)、警視庁が当時48歳の織原城二(おばら じょうじ, b.1952)の事情聴取を開始。織原は在日朝鮮人のパチンコ経営者、金敎鶴(김교학; Kim Gyo-hak, 1925?-69)の次男、金聖鐘(김성종; Kim Sung-jong, b.1952) として生を受け、星山(ほしやま)の通名を名乗って幼稚舎から慶應ボーイとして特権階級的に振る舞ってきたが、慶應義塾大学卒業後に帰化して法的には日本人に成っていた。バブル崩壊で金策に困ってからは暴力団住吉会のフロント企業として人知れず資金洗浄(money laundering)の犯行に携(たずさ)わっていた。

同年10月12日(木)、警視庁が織原城二(元キム・ソンジョン)を準強制猥褻(わいせつ)容疑で取り敢(あ)えず別件逮捕することで身柄を確保。ブラックマン嬢が失跡した直後の同年7月5日(水)頃、織原(元キム)容疑者が所有する神奈川県三浦市内のコンドミニアム(別荘としての高級マンション)附近で織原がスコップを持って海岸を歩いているのが目撃されており、その状況証拠が逮捕の決め手となった。

同年10月中旬、神奈川県三浦市内に織原城二(元キム・ソンジョン)が所有するコンドミニアムの部屋や附近の海岸などを警察が捜索。警察は織原(元キム)容疑者の所持品から約4,800本の自家製猥褻(わいせつ)ビデオを押収し、織原(元キム)による強姦(rape)の被害者と思しき昏睡(こんすい)状態の白人女性や東洋人女性たちがその中に映っていることを確認した。少なくとも1983年頃からビデオ撮影をしており、織原(元キム)はそうした行為を「征服プレイ」と称して自(みずか)ら克明に記録を付けていた。 但し、ビデオの本数については諸説あり、1,000本とする報道があるかと思えば、警視庁捜査一課理事官(後に課長)の有働俊明(うどう としあき, 1946?-2009)警視は170本だとインタビューの中で語り、裁判資料では40本とされ、被疑者(現受刑者)の織原は9本だけだとしている。警察の推測によると、少なく見積もっても150人、多くければ400人の女性が織原(元キム)容疑者によって薬物で意識を朦朧(もうろう)とさせられた上で強姦されたと考えられる。ビデオに映っている被害者の約半数が白人女性で、残り半数が日本人女性だったという。これが事実だとすれば日本犯罪史上最悪の連続強姦魔ということになるが、被害者たちの多くが短期の観光ヴィザなどで来日し、六本木等の繁華街で不法就労していた外国人女性ということもあり、彼女たちの身元も、その後の消息も不明なため、警察による立件は不可能だった。英国の各メディアは「日本は白人女性にとって危険な国で、痴漢や変態の国」と仄(ほの)めかす内容で報道合戦を繰り広げた。

同年11月17日(金)、警察が織原(元キム)容疑者を再逮捕。東京地検は同日、ブラックマン嬢に対する準強姦罪で織原容疑者を追起訴した。警視庁はDNA鑑定のため、ルーシーさんの遺族に毛髪の提供を要請した。

2001年1月26日(金)、九年前の1992年に薬物過剰強制摂取で死亡した豪州人女性カリタ・リッヂウェイ(Carita Simone Ridgway, 1970-92)嬢に対する強姦致死容疑で織原(元キム)容疑者を警視庁が再逮捕。

同年2月9日(金) 警視庁が神奈川県三浦市内の織原城二(元キム・ソンジョン)容疑者のコンドミニアム(別荘としての高級集合住宅)附近の海岸の洞窟内で、地面に埋められた浴槽内にルーシー嬢の切断された遺体を遂(つい)に発見。

同年7月4日(水)、織原城二(元キム・ソンジョン)被告への刑事裁判が東京地方裁判所(東京地裁)で開始。

2006年5月、未決囚として東京拘置所(在東京都葛飾区小菅)に収監されている織原城二(元キム・ソンジョン)被告が、英高級紙タイムズ(The Times)の東京特派員(Tokyo correspondent)であり、五年後の2011年にルーシー・ブラックマン事件の詳細を著書(下記参照)に纏(まと)めることになるパリー(Richard Lloyd Parry, b.1969)氏個人を名誉毀損で訴える。被害者の母親ジェイン(Jane Steare, b.1952?)女史が前月(2006年4月)に意見陳述のため東京地裁に出廷した際、織原(元キム)被告が出廷を拒否したしたときの様子を「服を脱ぎ、独房の洗面台にしがみついて出頭を拒否した。」と記事に書いたことが名誉を毀損するものであり、損害賠償として3000万円を要求するという訴えだった。しかしこれは裁判長の言葉をその儘(まま)英訳して載せただけであり、他紙も同様に報道していた。あまりにも馬鹿げた民事裁判であり、先進各国で社会問題になっているスラップ(SLAPP: strategic lawsuit against public participation; 直訳 「一般人の参加に対する戦略的訴訟(せんりゃくてき そしょう)」、意訳 「威圧訴訟」、「恫喝(どうかつ)訴訟」)の典型例だったが、裁判自体は開廷した。もちろん織原(元キム)の要求は最終的に却下されたが、それは翌年(2007年)9月のことだった。織原は懲(こ)りずに東京高等裁判所(東京高裁)に控訴(こうそ)したが、それも8ヶ月後に控訴棄却となった。民事裁判の被告人となってしまった上記のパリー記者は勝訴したものの、弁護士費用に1200万円もの大金を費(つい)やす羽目になった。しかしこれはすべてロンドンのタイムズ社が肩代わりしてくれたと、パリー氏自身が後に著書の中で明かしている。

同年9月、公判の中で、織原(元キム)被告が弁護人を通じてティム・ブラックマン氏に1億円の見舞金を支払っていたことが明かされる。被告人の織原はこれらの見舞金を「お悔やみ金」と称しており、英国女性に対する殺害についてはこの期()に及んでも無実であると主張し、賠償金や慰謝料ではないとした。裁判途中で被告人から大金を受け取ったブラックマン氏は英マスコミ各社から大々的なバッシングを受ける。

2007年4月、被害者の故ルーシー・ブラックマン嬢の離婚した両親の関係が最悪に。母親のジェイン(Jane Steare, b.1952?)女史と再婚した倫理学者・企業哲学者のロヂャー・スティア(Roger Steare, b.1958)氏が敏腕弁護士を味方につけ、織原(元キム)から1億円を受け取ったとされるティム・ブラックマン氏を詐欺罪で刑事告発。スティア氏によれば、故ルーシー嬢の遺産管理を任されているのは母親のジェイン女史であり、ブラックマン氏が「ルーシーの遺族を代表して」1億円を受け取ったことが詐欺行為に当たるとのこと。ブラックマン氏が五年前の2002年に設立していた「ルーシー・ブラックマン基金」(Lucie Blackman Trust, https://www.lbtrust.org/ )の唯一の専従スタッフが逮捕され、五週間に及ぶ捜査が続いた。しかし結局スタッフは無罪放免となり、ブラックマン氏の慈善(charity)事業にも不正を示す証拠は発見されなかった。スティア氏とジェイン女史の夫妻による前夫ブラックマン氏への執拗な法的攻撃は失敗に終わったが、この訴訟沙汰はマスコミの恰好(かっこう)の餌食になり、元家族間の、まるで昼ドラ(soap opera)のようなドロドロした人間関係が世間の耳目(じもく)を集めた。

同年7月、判決が出る数日前(但し、奥付上は2007年5月の刊行)に真実究明班と称する謎の出版社からルーシー事件真実究明班[著] 『ドキュメンタリー ルーシー事件の真実 近年この事件ほど事実と報道が違う事件はない』(真実究明班, 2007年)が刊行される。厚さ4センチ、全796ページで、重さが1キログラム近くあり、織原(元キム)被告が飼っていた愛犬(シェットランド・シープドッグ)の死骸の顔写真が表紙を飾った。これは実は織原自身による自費出版本であり、私財を投じて弁護士やフリー編集者を雇って書かせた本である。「明らかにされた検察官の証拠隠滅・公文書偽造」などと惹句(じゃっく)・宣伝文句にあるが、それ自体が事実無根であるため、裁判所はまともに取り合わなかった。

同年7月24日(火)、一審の判決公判が東京地方裁判所(東京地裁)で結審し、東京地裁は外国人女性9人に対する準強姦罪や強制猥褻(わいせつ)罪とその内の1人に対して準強姦致死罪を認定して被告人に無期懲役を言い渡した。しかしブラックマン嬢が殺害された事件については、関与した疑い有りとしながら も、遺体から薬物や被疑者(織原)のDNAが検出されなかったことから、これについては証拠不十分として無罪を言い渡した。検察側・弁護側ともに判決内容を不服とし、東京高等裁判所(東京高裁)に控訴(こうそ)した。

2008年3月25日(火)、控訴審(二審)初公判が東京高等裁判所(東京高裁)で開かれた。弁護人は、当事件の被害者に関する全ての罪と豪州人女性カリタ・リッヂウェイ(Carita Simone Ridgway, 1970-92)嬢の致死罪に関して無罪を主張したが、検察側は有罪判決を求めた。

同年7月、十六年前の1992年に織原に殺された豪州人女性リッヂウェイ嬢の遺族もティム・ブラックマン氏同様に織原から1億円の見舞金を受け取ることに同意。それまでは頑(かたく)なに拒否していたが、犯罪被害者として何の補償も受けられない苛(いら)立ちから承諾したという。それまで犯罪被害者として一家と親しくしていたジェイン(Jane Steare, b.1952?)女史はリッヂウェイ家と絶交した。

同年12月17日(水)、判決公判で東京高等裁判所(東京高裁)は一審判決を棄却。ブラックマン事件については検察側の証拠にやや弱い点が見られ、準強姦致死罪を認めなかったが、準強姦未遂罪と死体損壊罪と死体遺棄罪を認め、一部有罪とした上で被告人に一審と同じ無期懲役の刑を言い渡した。

2010年12月7日(火)、最高裁判所(最高裁)は最終審で被告人の織原(元キム)の上告を棄却。9事件の準強姦罪や強制猥褻(わいせつ)罪とその内の1人に対しての準強姦致死罪、ブラックマン事件の準強姦未遂罪と死体損壊罪と死体遺棄罪について織原(元キム)被告の有罪・無期懲役が確定した。

織原城二(元キム・ソンジョン)受刑者は現在も服役中である。

(参考文献)

パリー(Richard Lloyd Parry)[著], 濱野大道[訳] 『黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』(早川書房 ハヤカワ・ノンフィクション, 2015年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4152095342/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1

(原著)

Richard Lloyd Parry, People Who Eat Darkness: The True Story of a Young Woman Who Vanished from the Streets of Tokyo—And the Evil That Swallowed Her Up (Farrar Straus Giroux, 2011)

https://www.amazon.co.uk/People-Who-Eat-Darkness-Tokyo--/dp/0374230595/ref=sr_1_2

(原著再販版)

Richard Lloyd Parry, People Who Eat Darkness: Love, Grief and a Journey into Japan’s Shadows (Vintage, 2012)

https://www.amazon.co.uk/product-reviews/0099502550/ref=cm_cr_dp_see_all_summary

アメリカ同時多発テロ事件(米同時多発テロ、乃至(ないし)は911事件)

(September 11 attacks, or “9/11”, 2001)

https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ同時多発テロ事件

https://en.wikipedia.org/wiki/September_11_attacks

https://archive.org/details/bbc200109111654-1736

https://www.bbc.co.uk/blogs/theeditors/2007/02/part_of_the_conspiracy.html

https://www.webcitation.org/5N3RMBXIV?url=https://www.bbc.co.uk/blogs/theeditors/2007/03/part_of_the_conspiracy_2.html

2001年9月11日(火)、米国東部の現地時間午前8時台から9時台にかけて4機の民間航空機(アメリカン航空AA11便、ユナイテッド航空UA175便、アメリカン航空AA77便、ユナイテッド航空UA93便)が相次いでイスラム過激派テロリストたちにハイジャックされた。そのうちAA11便は8:46にアメリカ東海岸のニューヨーク市(New York City)に在()る世界貿易センター(WTC: World Trade Center)のツインタワー北棟(North Tower)に激突・炎上した。UA175便は9:03に同センターのツインタワー南棟(South Tower)に激突・炎上した。AA77便は9:38に首都ワシントン(Washington, D.C.)郊外の米国防総省(US Department of Defense; 通称 Pentagon; 直訳「五角形」)に激突・炎上した。UA93便は10:03にペンシルヴェイニア州シャンクスヴィル(Shanksville, Pennsylvania)に墜落した。これは乗客らがハイジャック犯に立ち向かったものの操縦室に進入できず、テロリストの操縦により機体を墜落させたのだと考えられている。世界貿易センターでは110階建ての高層ビル2棟が崩落したこともあり、ニューヨーク市消防隊員の二次災害を含め合計2,977人の死者(時間を置いて粉塵(ふんじん)などで死んだ犠牲者は含めず)を出した。これは米本土が突如として攻撃された史上初の事件だったが、外国の勢力から不意打ちに遭い、全国民が怒りと悲しみで動揺しているという事態は、1941年12月7日(日) 朝(日本時間では同年12月8日(月) 未明)の大日本帝國海軍(IJN: Imperial Japanese Navy)による眞珠灣攻擊(the attack on Pearl Harbor)に準(なぞら)えられ、「第二の真珠湾」(the second Pearl Harbor)と呼ばれた。日本軍の攻撃では2,335人の米軍人が殺害され、64人の日本軍人が(当時の価値観では)名誉の戦死を遂げ、68人の米民間人が米軍による防戦の流れ弾に当たって死亡したため、死者の合計は2,467人である。

米同時多発テロ事件については、不可解な点、解明されない点が多々あることから、様々な陰謀説(conspiracy theories)がインターネット上に蔓延(まんえん)し、正確な情報を摑(つか)むのは今のところ不可能である。世界貿易センター(WTC)への航空機の衝突とは別に、現地時間の17:20(英国夏時間の22:20)に近在の47階建てのソロモン兄弟ビル(Solomon Brothers Building)、別名 世界貿易センター7号棟(7 World Trade Center)が原因不明の崩落事故を起こした。その原因については、火災の熱で鉄骨の強度が落ちていたのに加えて、上記ツインタワーの崩落による破片の直撃や、大地震を上回る規模の猛烈な縦揺れの影響で崩落したという、尤(もっと)もらしい説明も有る。崩落の約27分前の16:53(英国夏時間の21:53)に英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)の英国内向けBBCラジオ第5放送(BBC Radio 5)が「25分前(現地時間16:28、英国夏時間の21:28)のグレッグ・バロウ特派員からの報告によると、1時間以上前に別の大きなビルが崩落したとのことです。」(Twenty-five minutes ago we had reports from Greg Barrow that another large building has collapsed just over an hour ago.)と、うっかり報道してしまっている。また、16:54(英国夏時間の21:54)には英国内向けのBBCニュース24(BBC News 24)というテレビ放送が「また別の巨大な建物が崩落したと聞かされたところです、、、 それは47階建てのソロモン兄弟ビルです。」(We’re now being told that yet another enormous building has collapsed... it is the 47-storey Salomon Brothers Building.)と報道。続けて16:57(英国夏時間の21:57)にはBBCテレビ国際放送(BBC World)が、「今入って来たニュースでは、ニューヨークのマンハッタン島のド真ん中のソロモン兄弟ビルも崩落したとのことです。」(We’ve got some news just coming in actually that the Salomon Brothers Building in New York, right in the heart of Manhattan, has also collapsed.)と報道。上記のBBCニュース24(BBC News 24)は17:00(英国夏時間の22:00)と17:10(英国夏時間の22:10)にもソロモン兄弟ビルの崩落について繰り返し報道した。上述したように、同ビルの実際の崩落は17:20(英国夏時間の22:20)のことである。これらの「フライング報道」について、BBCは満足な説明をしていないため、米国支配層による911自作自演の陰謀にBBCも組織的に関与しているのではないかという、ネット市民たち(netizens)の憶測を呼んでいる。

事件では合計2,977人の直接の死者を出したが、その中には372名の外国籍の市民が含まれ、英国人が67名、日本人が24名とされる。つまり外国人犠牲者の約18%を英国人が占めていたことになる(日本人は約6.5%のみ)。これを受けて英軍は米軍とともにアフガン戦争(War in Afghanistan, 2001-14)、次いでイラク戦争(Iraq War, 2003-11)の泥沼へ突入した。

[関連動画]

日本テレビ放送網『世界まる見え!テレビ特捜部 World Great TV』

911事件の謎

2007年10月15日(月)放映

https://www.youtube.com/watch?v=WHI28jM1mKg (BBCに関することは、16:37-17:46 of 18:42)

[関連ブログ]

NHKと911テロ

https://60265724.at.webry.info/

https://60265724.at.webry.info/201204/article_4.html

一方、米国911事件の騒ぎの陰で、ロンドンでは西アフリカ起源の奇妙な事件が発生。

【動画1】

テムズ川で見つかった少年の胴体「アダム事件」とは?前編

Mysteries You Didn’t know

2021年7月17日(土) 公開

鉱石作戦(オペレイションー)の波紋

(Far-reaching repercussion of Operation Ore, 2002)

https://ja.wikipedia.org/wiki/オペレーション・オー

https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Ore

https://www.alphr.com/features/74690/operation-ore-exposed

2002年3月20日(水)、英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)が 「ネット上の児童ポルノに関する大量逮捕(mass arrests over online child porn)」を報じたことで、一連の騒動が始まる。英国警察は手始めに36人を逮捕し、数千人の逮捕がそれに続くとされた。米国テキサス州(Texas, USA)に本拠を置いていたランドスライド・プロダクションズ・インコーポレイテッド(Landslide Productions Inc.: 直訳「地滑り制作株式会社」) のポルノサイトにアクセスし、児童ポルノを閲覧またはダウンロードする目的でクレジットカード情報を入力した容疑での逮捕だった。最終的にはイギリス国内で7,250名の容疑者を特定、4,283件の家宅捜索が実施され、逮捕者3,744名、起訴1,848名、有罪判決1,451名、戒告493名、捜査継続879名の成果を上げるとともに、危険な状況下にあるとされた児童140名に保護処置がとられた。

クレジットカードを利用して児童ポルノへアクセスしたことが疑われる者の情報数千名分が集められ、これに基づく検挙が行なわれ、児童ポルノサイトへのアクセスが疑われた者が相次いで逮捕された。捜査対象は、まともな定職に就き(警察官や判事も含まれた)、犯罪歴の無い中産階級の男性が圧倒的多数だった。有名人も逮捕され、その中にはロックバンドのザ・フー(The Who)のピート・タウンゼント(Pete Townshend, b.1945: 戒告処分を受けたものの、児童ポルノとは無関係なサイトへのアクセスであったことが後に判明し処分は無し)、マッシヴ・アタック(Massive Attack)のロバート・デル・ナジャ(Robert Del Naja, b.1965 or ’66: 児童ポルノと無関係なサイトへのアクセスであったことが後に判明し処分は無し)、俳優で作家のクリス・ランガム(Chris Langham, b.1949)が含まれる。

本作戦は多数の性犯罪者の検挙という成果を挙げたことは評価できる。しかしながら、そもそも誤りを含んだアクセスデータに基づいて多くの不当捜査が実施されたことが問題視された。そのため前代未聞な規模で誤認逮捕・冤罪(えんざい)が相次いだ。最もひどいケースでは、部下が故意に上司のパソコンに児童ポルノ画像を仕掛け、警察に逮捕させる案件まで生じている。誤って捜査対象となった多くの者の生活が破壊されたが、無実であるにも拘(かか)わらず自白を強要されたり、性犯罪者リストに一生掲載されることに耐え切れずに自殺した人を多数出した。この状況はまさに二十一世紀の異端審問(21st century inquisition)または現代の魔女狩り(modern witch-hunt)といった様相を呈している。イギリスの警察権力が「児童ポルノ忌避(きひ)」という集団ヒステリー(mass hysteria)の方向に流れたことは不吉な前例を作り出した。また、2014年夏に発覚することになるロザラム事件(このウェブページの最下部で詳述)をはじめとする一連の深刻な事件を放置しながら、児童ポルノの単純所持の方ばかりに気を取られ、結果として子供たちの安全が蔑(ないがし)ろにされたことについて、英国の警察は後に大きな非難を浴びることになる。「小さな蠅(=街の小物犯罪者)は捕(つか)まえるが、スズメ蜂(=大物犯罪者)は突き破って逃げてしまう蜘蛛(クモ)の巣」という状態は大抵の国で見られるが、イギリスに於ける児童に対する性犯罪では、この状態(症状)が突出してしまった。

なお、世界の主要国の中では日本国とロシア連邦だけが児童ポルノの単純所持を処罰する法律が無い状況が続いていたが、2015年7月15日(水)に改正児童買春・ポルノ禁止法が施行され、遂(つい)に日本でも単純所持が処罰対象となった。実際に同年(2015年)9月8日(火)には沖縄県那覇市で国内初の見せしめ・一罰百戒(いちばつ ひゃっかい)的な摘発・書類送検があった。

イラク戦争に絡(から)んだケリー博士の自殺事件

(The suicide of Dr Kelly, 2003)

https://en.wikipedia.org/wiki/David_Kelly_(weapons_expert)

2003年5月22日(木)、英国国防省(MoD: Ministry of Defence)の顧問だった兵器専門家のケリー(David Kelly, 1944-2003)博士が、英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)の著名記者ギリガン(Andrew Gilligan, b.1968)氏とロンドンのチャリング・クロス・ホテル(Charing Cross Hotel)で極秘に会見。ケリー博士はイラクへの軍事攻撃を正当化する根拠になったイラクの大量破壊兵器(WMD: weapons of mass destruction)の報告書(dossier)作成に於()いて英国政府、特にブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)内閣の渉外・戦略担当官(Director of Communications and Strategy)のキャンベル(Alastair Campbell, b.1957)氏の指示で、その内容を脚色(BBCの言葉で sexed up)したことをBBCに告発した。BBC側は情報源を秘匿(ひとく)することを約束した。

ギリガン氏は一週間後の5月29日(木)にBBCラジオ第四放送(BBC Radio 4)の「今日(Today)」という番組の中で、政府による脚色を非難した。ギリガン氏は更(さら)に同年6月1日(日)付のメイル紙日曜版(The Mail on Sunday)の中で、報告書の中の「イラクは45分で核兵器を用意できる」とした箇所はキャンベル担当官が圧力をかけて無理やり書き加えさせたのだと断じた。

これを受けてロンドンの政界は大混乱した。困窮した労働党(Labour Party)のブレア内閣はBBCに圧力をかけて、キャンベル担当官の名を出した人物名を出すように要求した。ケリー博士は国防省の上司と話をする中で徐々にギリガン氏との会見について話し始めた。国防省はマスコミの質問に答える形でケリー博士の名前を出した。

ケリー博士は議会下院(庶民院)の特別委員会2種への召喚を受け、その内の片方はテレビ公開されると聞かされ、大いに動揺した。テレビ公開された2003年7月15日(火)の下院外交特別委員会では、博士の声がか細くて聴き取り困難なため、暑い最中でエアコンを切る羽目になった。特に一部の与党労働党議員から罵倒(ばとう)され厳しい審問を受け、博士は精神的にすっかり参ってしまった。翌16日(水)には下院の諜報・保安委員会に非公開で召喚され、証言を求められた。

二日間も下院の委員会2種で証言させられたケリー博士は議会を出ると、非常に落ち込んでいたという。長年に亘(わた)って築き上げてきた名声を失ったと感じていた。7月17日(木)15:00頃、博士は日課にしている散歩に出かけると妻に言い残して自宅を出た。しかし自宅には戻らず、自宅から1マイル(≒約1.6キロ)ほど離れたハロウダウンの丘(Harrowdown Hill)で翌朝早く遺体で発見された。29錠の鎮痛剤を服用し、左手首を自ら刃物(若い頃から愛用してきたナイフ)で切っていたという。

同年8月1日(金)に通称ハットン委員会(Hutton Inquiry)が調査を開始し、翌年(2004年)1月28日(水)に調査結果を発表した。それによると、ケリー博士の死は手首を自ら切ったことによる 出血多量で死んだ自殺であるという結論に達した。それでいながら博士の検死関連の書類を向こう七十年間は非公開としたことが憶測を呼んだ。

この結論に疑念を抱いた野党自由民主党(LibDem, or Liberal Democrats)下院議員(an MP, or a member of Parliament)のベイカー(Norman Baker, b.1957)氏は、この件について一年をかけて独自に調査し、博士の死が他殺であり、英国諜報機関の国内部門 MI5 (エマイファイヴ)として知られる保安局(Security Service)が隠蔽(いんぺい)したことを告発した。そして2007年10月に著書 『デイヴィッド・ケリーの怪死』(The Strange Death of David Kelly, 2007)を発表した。

なお、1997年にダイアナ妃暗殺(上記参照)を指示したという憶測が一部で持たれていたクック(Robin Cook, 1946-2005; 外相在任1997-2001)氏が、ケリー博士の自殺(または他殺)の二年後に突然事故死している。クック氏は2001年6月に意見の相違から外務大臣の職をブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)首相によって解任されていたが、その後は米国ブッシュ政権に追随(ついずい)するブレア内閣に反対し、とりわけ大量破壊兵器(WMD: weapons of mass destruction)が発見されない状況でのイラクへの軍事攻撃に反対していた。2005年8月6日(土) 14時20分頃、スコットランドの山中を元秘書兼元愛人の若妻ゲイナー(Gaynor Cook, 生年不詳)夫人とウォーキング中に心臓発作を起こして山から8フィート(≒約2.7メートル)転げ落ち、首の骨を折った。若妻は携帯電話で救急ヘリ(air ambulance: 和製英語で言う「ドクターヘリ」)を呼び、クック氏は病院に運ばれたが、若妻はヘリコプターに乗せてもらえず、歩いて下山した。クック氏は病院で同日16時05分に満59歳で死亡した。クック氏の場合、二年前の2003年のケリー博士絡(がら)みの陰謀で暗殺されたとする疑惑と、八年前の1997年のダイアナ妃事故死(または暗殺)絡(がら)みの陰謀で暗殺されたとする疑惑が交錯(こうさく)している。

【関連記事】

「誤ったインテリジェンスで参戦」

ブレア政権の判断を正当化できず 英独立調査委、イラク参戦の経緯を検証

産経ニュース

2016年7月6日(水) 20:22配信

https://www.sankei.com/world/news/160706/wor1607060044-n1.html

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160706-00000553-san-eurp (リンク切れ)

【ロンドン=岡部伸】2003年3月にブッシュ米政権が主導して始めたイラク戦争に、ブレア英政権が「フセイン大統領が大量破壊兵器を持っている」との 誤ったインテリジェンス(諜報情報)を根拠に世論の反対を押し切って参戦した経緯を調べた独立調査委員会は6日、「誤ったインテリジェンスで参戦判断した 政府の決定は法的に十分でなかった」とブレア政権の判断を正当化できないとする報告書を発表した。

調査委員会は7年間の調査に基づく260万語 に及ぶ最終報告書の中で、「平和的な手段によるイラクの武装解除の努力は尽くされておらず、軍事侵攻は最後の手段でなかった。大量破壊兵器の誤った情報に よる参戦判断は法的に正当化されず、軍事侵攻がもたらす結果も過小評価され、フセイン政権打倒後の計画も不十分で政権の見立ては甘かった」と結論づけた。

(改行・後略)

ハッピースラッピングの事件が相次ぎ社会問題に

(A teenage fad by the name of “happy slapping” since around 2004)

https://en.wikipedia.org/wiki/Happy_slapping

https://ja.wikipedia.org/wiki/ハッピー・スラッピング

2004年頃からロンドンで社会問題化したハッピースラッピング(happy slapping: 直訳「幸せな引っぱたき」)というティーンエイジャー(teenagers: 十三歳から十九歳までの男女)の悪ふざけが横行している。彼らは動画も撮れるカメラ付き携帯電話を駆使し、愉快犯的な暴力映像を撮って楽しむ。ハッピースラッピングの定義(definition)は、「悪ふざけとして無作為に行なわれる暴力で、街中や路線バスや電車の中で無作為に人を選び、暴力をしかける行為」である。多くの場合は集団で実行され、一人もしくは数名の実行者が通りがかりの通行人等を殴るなどし、被害者の反応の一部始終を別の者が携帯電話に付いている動画機能で記録し、友人の間でシェアして楽しむが、時にはネット上にアップロード(upload)して悪行を誇示することもある。

英国の著名作家・作曲家・言語学者のアントニー・バージェス(Anthony Burgess, 1917-93; 米音ではアンソニー)の長篇小説 『時計じかけのオレンジ』(A Clockwork Orange, 1962)と、それに基づくユダヤ系米人スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick, 1928-99)監督の英米合作映画 『時計じかけのオレンジ』(A Clockwork Orange, 1971)が描いて見せたディストピア(dystopia: 「どこにも無い国」を意味する理想郷である utopia の反対語)的な世界観が、二十一世紀の若者の暴力を恰(あたか)も予見していたと言えるが、愉快犯的な暴力の様子を自撮りする若者たち(youth taking selfies)については、さしものバージェスもキューブリックも想定していなかったようである。

ハッピー・スラッピングの多くは当初ふざけ半分で後ろから頭をはたく、すれ違いざまに引っぱたくといった軽いノリのものだったが、その「面白さ」を競い合う内に徐々にエスカレートし、やがて鈍器で人を殴る、人を殴り倒してリンチする、といった過激な暴力犯罪に走る若者まで現われた。

2004年10月には、とうとう女子を含むティーンエイジャー4人が無作為に選んだ三十七歳の男性をリンチして殺害するという事件が発生した。手前の女子が携帯電話で撮影したが、犯行の一部始終を客観的に撮影していたのは、税金で設置された街頭の監視カメラ(CCTV: closed-circuit television or surveillance camera)だった。それもまた示唆(しさ)的であり、二十一世紀の英国社会を象徴している。

2005年4月25日(月)には十四歳の少年4名が十一才の少女を強姦(rape)し、その様子を携帯電話で撮影したことが発覚し、逮捕される事件も起きている。

2012年頃には米国ニューヨークにもノックアウトゲーム(knockout game)という名でブームは飛び火し、社会問題になっている。

【関連記事】

暴行中に「自撮り」、女性を殺害した2少女に終身刑 英国

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

2016年4月8日(金) 13:30

発信地:ロンドン/英国

https://www.afpbb.com/articles/-/3083352

https://www.afpbb.com/articles/-/3083352?page=2

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160408-00000022-jij_afp-int (リンク切れ)

【比較参考記事】

レイプ写真を綿々とシェアするデジタル・ネイティブ世代の闇

米ニューズウィーク誌(Newsweek)日本版

瀧口範子(たきぐち のりこ)記者署名記事

2013年4月19日(金) 14:03

https://www.newsweekjapan.jp/column/takiguchi/2013/04/post-668.php

ロンドン同時多発テロ事件

(7/7 London bombings, 2005)

https://en.wikipedia.org/wiki/7_July_2005_London_bombings

https://ja.wikipedia.org/wiki/ロンドン同時爆破事件

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3c/7_July_London_bombings_locations.png

2005年7月6日(水)にシンガポールで開かれた国際オリンピック委員会(IOC: International Olympic Committee)総会に於()いて七年後の2012年夏季オリンピック大会にロンドンが選出されたことで歓喜に沸いた首都ロンドンだったが、その翌日に当たる同年(2005年)7月7日(木) 朝のラッシュ時間帯に公共交通機関を狙ったテロ事件が発生。地下鉄の3ヶ所がほぼ同時に、その約1時間後に二階建バスが爆破され、合計56名(自爆テロ実行犯4名を含む) の死者を出した。

前日(2005年7月6日(水))からスコットランドの片田舎で第31回主要国首脳会議(通称グレンイーグルズ・サミット)が開催されており、このテロは首都ロンドンでの警備が手薄になった間隙(かんげき)=スキを衝()いたものと考えられる。サミットはテロの翌日(2005年7月8日(金))に終了したが、予定を変更して最後に「テロには屈しない!」とする対テロ声明を採択した。

テロを実行した4名は英国生まれでイングランド北部のヨークシヤ(Yorkshire)地方の産業都市リーヅ市(Leeds)在住のイスラム教徒の若者だった(自爆テロのため全員が事件で死亡)。「国内育ちのテロリストたち(home grown terrorists)」として英国社会に衝撃を与えた。ロンドン警視庁(the Metropolitan Police Service; 略称 the Met Police; 通称 Scotland Yard)は、リーヅ大学(University of Leeds; 通称 Leeds University)で生化学(biochemistry)を学んでいて、アメリカへの留学経験もあり、事件1週間前からエジプトに帰国していたエジプト人男性を共犯者として逮捕したが、これは後に誤認逮捕と判明する。また、事件から2年近くが経過した2007年3月に3名を、同年5月に4名を共犯として逮捕している。

社会に不穏な空気が流れる中、ロンドン警視庁はテロを警戒して過剰反応し、誤射事件を起こしてしまった。2005年7月23日(土)に特別警戒中の警察官が地下鉄車内でブラジル人男性をテロ実行犯と誤認して射殺した。イギリスの警察官は普段は武器として警棒しか持たないが、この時は特別警戒中だったため、珍しく拳銃を所持していた。

警察は当初、「地下鉄駅構内で男性が不審な動きをしていたため呼び止めたところ、走って改札を飛び越え、地下鉄へ逃げるように飛び乗った。追いかけて確保しようとしたところ、抵抗した為に(自爆するのではと)危険を感じて発砲した」(ウィキペディア日本語版より)という旨の発表をした。

しかし実はこのブラジル人は不法滞在の配管工(a plumber アプマー)で、テロとは無関係だった。なお、イギリスで配管工は実(み)入りの多い=儲(もう)かる職種(a lucrative job)である。また、地下鉄の座席に腰掛けていたブラジル人男性を私服警官数名で取り囲み、至近距離から何発もの銃弾を撃ち込んだことも判明した。ロンドン警視庁は非難に晒(さら)され、英国政府は被害者の遺族とブラジル政府に謝罪した。

王室直轄検察庁(Crown Prosecution Service)は、誤射事件から1年近くが経過した2006年7月17日(月)、ロンドン警視庁の組織としての責任を問うとしながらも、射殺事件を起こ した警官や、最高責任者のブレア警視総監(当時の首相と偶然同じ苗字)の訴追を退けた。遺族や支援者は検察庁の判断を非難した。

なお、前年(2004年)3月11日(木)にはスペインの首都マドリッドの通勤列車を狙った同時多発爆弾テロ事件である「マドリード列車爆破テロ事件」(西 Atentados del 11 de marzo de 2004; 英 2004 Madrid train bombings)が起きていて、17国籍の191名(その内スペイン人は142名)もの人々が死亡した。当初はバスク地方の分離独立を目指すテロ組織 ETA ()の犯行と見られたが、その後、イスラム過激派の犯行と特定された。事件の三日後の同年3月14日(日)にスペインでは総選挙が予定されていた。選挙は予定通り実施されたが、事件前までは勝利すると見られていた与党人民党(PP: Partido Popular)が野党に転落し、代わってスペイン社会主義労働者党(PSOE: Partido Socialista Obrero Español)という左派政党が政権を取り、イラク派遣多国籍軍からスペイン軍が離脱することになった。

ロシアの元スパイ暗殺事件と暗殺未遂事件

(The murder of Alexander Litvinenko in 2006 & the murder attempt of Sergei Skripal in 2018)

https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Litvinenko

https://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンドル・リトビネンコ

https://en.wikipedia.org/wiki/Sergei_Skripal

https://www.bbc.com/news/uk-43326734

https://www.dailymail.co.uk/news/article-5468291/Mysterious-deaths-Sergei-Skripals-wife-son.html

https://www.dailymail.co.uk/news/article-5471659/Detectives-investigate-deaths-Russian-spys-wife-son.html

ロシア連邦のプーティン大統領(Влади́мир Влади́мирович Пу́тин = Vladimir Vladimirovich Putin, b.1952; 首相在任1999-2000 & 2008-12; 大統領在任2000-08 & 2012-)の反対派の力になろうとしたロシアの元スパイ、アレクサンドル・リトヴィネンコ(Александр Вальтерович Литвиненко = Aleksandr Val’terovich Litvinenko, 1962-2006)氏が2006年11月1日(水)、ロンドンに在る英国人経営の高級日本料理店 Itsu(「何時(いつ)」なのか「逸(いつ)」なのか単に平仮名で「いつ」なのか和文名不明)で自称イタリア人教授の男(後に別の重大な罪状でイタリア当局に逮捕される人物)と会食した際に何者かに放射性毒物のポロニウム210(polonium-210)を盛られ、内臓系疾患が原因で二十二日後の同年11月23日(木)に満四十四歳で死亡。ふさふさした頭髪は死亡時には全部抜けてつるつるの禿()げ頭になっていた。事件は現在も未解決。

2018年3月4日(日)にも、英国側に寝返っていたロシア人の元二重スパイ(a former Russian double agent)のセルゲイ・スクリパリ(Серге́й Ви́кторович Скрипаль = Sergej Viktorovich Skripal’; 英 Sergei Skripal, b.1951)氏=66歳の暗殺未遂事件が発生。ロシア連邦首都モスクワ市から英国を訪問していた33歳の長女ユリヤ(Юлия Сергеевна Скрипаль = Yuliya Sergeyevna Skripal’; 英 Yulia Skripal, b.1985)嬢と共にイングランド西部のソールズベリー(Salisbury, Wiltshire)市内のレストランで食事をしたところ、何者かによって旧ソ連で開発された猛毒の神経剤「ノヴィチョク」(nerve agent ‘Novichok’)を浴びせられる。ソールズベリー地方病院(Salisbury District Hospital)に親子(父娘)で搬送されるも意識は回復せず。ところが娘のユリヤ嬢だけは同年(2018年)4月初旬に一ヶ月強の入院を経て退院。後遺症に悩まされているというが、命には別条ない。2012年に59歳で死んだスクリパリ夫人(死亡証明書には「癌(がん)」とあるが隣人の話では自動車事故)と、2017年に47歳で死んだ長男(ロシアを訪問中に交通事故で死んだとされるが実際には肝臓の障碍(しょうがい)で死んだとする話が浮上)についても、その早すぎた死について不審な点があるとして捜査が開始される。英国政府はロシアの仕業だと断定し、外交ルートを通じてロシア政府に厳重抗議し、尚且(なおか)つ同年(2018年)3月14日(土)には英国内のロシア人外交官23人の国外追放処分を発表。ロシアも外交的報復措置(diplomatic retaliation)としてロシア国内の英国人外交官23人を国外追放処分とした。英国に同調する28ヶ国(主にEU諸国)も英国に倣ったため、同年(2018年)3月末までに追放されたロシア人外交官の数は世界各国で総計153人にも上ったが、ロシア連邦政府は関与を否定し続けている。

同年(2018年)6月30日(土)には新展開あり。今回の事件が起きたソールズベリー(Salisbury, Wiltshire)市から7マイル=約11キロしか離れていないエイムズベリー(Amesbury, Wiltshire)市内の民家で猛毒の神経剤「ノヴィチョク」(nerve agent ‘Novichok’)が使用された事件が発生。午前中にドーン・スタージェス(Dawn Sturgess, b.1974?)女史=44歳が自宅で倒れたため救急車(ambulance)が呼ばれた。同日(2018年6月30日(土))午後、内縁の夫チャーリー・ロウリー(Charlie Rowley, b.1973)氏=45歳が体調不良を訴えたため再度救急車が呼ばれた。ウィルト州警察(Wiltshire Police)によると、「当初は汚染されたヘロイン(heroine)かクラック・コカイン(crack cocaine)か何かが両人の体調悪化の原因ではないかと思われていた」というが、神経剤「ノヴィチョク」が検出されたことで事件は急展開を迎える。二人には諜報機関との関りは確認されておらず、不法投棄された神経剤「ノヴィチョク」に偶然触れてしまったために意識を失ったものと考えられている。同州警察は、エイムズベリーとソールズベリーの両市内で二人が訪れた場所を、念のための措置として立入禁止にした。同年(2018年)3月のスクリパリ父娘の事件後に除染対象となった場所を今回の二人が訪れたという情報は無い。同年(2018年)7月8日(日)には危篤状態だったスタージェス女史が死亡した。ロウリー氏の容態についてもほぼ絶望的であったが、同年(2018年)7月20日(金)に退院した。英民放最大手のITVがロウリー氏の独占インタビューに成功し、同年(2018年)7月24日(火)に放映したところでは、意識不明になる同年(2018年)6月30日(土)よりも数日前、セロハンで包装された箱を拾った。中には「香水の瓶」が入っていた。エイムズベリー(Amesbury, Wiltshire)市内の(Amesbury, Wiltshire)市内の自宅に持ち帰り、後日、内縁の妻ドーン・スタージェス(Dawn Sturgess, b.1974?)女史=44歳にプレゼントしたという。スタージェス女史は被害に遭った同年(2018年)6月30日(土)、瓶の液体を両手首に吹き付け、しばらくして頭痛を訴え、風呂場で倒れたという。病院に搬送されたが、上述したように同年(2018年)7月8日(日)に死亡した。内縁の夫ロウリー氏も瓶をスタージェス女史に手渡す前、液体が両手にかかった。「香水の匂いはしなかった。油のような感触ですぐに洗い落とした。」と言い、スタージェス女史から数時間遅れで倒れたが、その時の様子は覚えていないという。瓶を拾った場所を思い出そうと努めているとするが、暫(しばら)く意識が無かったこともあり、困難な様子である。ウィルト州警察(Wiltshire Police)は瓶の入手経路について捜査を続ける。

2019年6月28日(金)には、20カ国・地域首脳会議(G20サミット)で来日していたロシア連邦のプーティン(Влади́мир Влади́мирович Пу́тин; Vladimir Putin, b.1952; 首相在任1999-2000 & 2008-12; 大統領在任2000-08 & 2012-)大統領と連合王国のテリーザ・メイ(Theresa May, b.1956; 首相在任2016-19)暫定首相が大阪市内で会談し、メイ夫人はロシアが他国への干渉や、他国に居てロシアから寝返った元スパイ(裏切者)の暗殺や、他国へのサイバー攻撃といった「無責任かつ安定を脅かす行動」(the irresponsible and destabilizing activity)をやめない限り、英ロ関係の「正常化」(normalisation)はあり得ないと断じた。なお、メイ夫人は2019年5月24日(金)に辞任表明の記者会見を開き、その時の約束通り同年(2019年)6月7日(金)に保守党党首と内閣総理大臣の職を辞したが、後継の保守党党首・総理大臣が決まるまでは暫定首相(acting Prime Minister)として職務を遂行中である。同年(2019年)7月23日(火)に与党保守党の新党首=英国の新首相が選出され、翌日(2019年7月24日(水))午後=日本時間では同日夜または更に翌日の未明にも就任する予定。

ロシアをめぐってはウェールズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)が2014年5月19日(月)、英連邦カナダ東部のハリファクス市内の移民博物館を訪問した際にホロコースト(Holocaust: ユダヤ人大量虐殺)で親族を失ったユダヤ系カナダ女性と話す中で、ウクライナのクリミア半島を併合したロシア連邦のプーティン(Влади́мир Влади́мирович Пу́тин; Vladimir Putin, b.1952; 首相在任1999-2000 & 2008-12; 大統領在任2000-08 & 2012-)氏のことを「ヒトラーと同じだ」と発言し、英露関係に緊張が走った。

【関連記事】

プーチンの闇に消えた死屍累々

デイリー新潮

2016年12月16日(金) 7:00

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/12160700/?all=1

https://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161216-00515723-shincho-int (リンク切れ)

リンジー・ホーカーさん強姦殺人事件(またしても日本で起きた事件)

(The rape and murder of Lindsay Hawker in Japan, 2007)

https://en.wikipedia.org/wiki/Tatsuya_Ichihashi

https://ja.wikipedia.org/wiki/リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件

https://www.bbc.co.uk/news/uk-england-14226859

https://www.theguardian.com/world/video/2011/jul/21/lindsay-hawker-family-murder-video

https://www.dailymail.co.uk/news/article-2013013/Lindsay-Hawkers-killer-Tatsuya-Ichihashi-sentenced-life-guilty-murder-verdict.html

https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/japan/8652571/Manga-obsessed-loner-Tatsuya-Ichihashi-sentenced-for-Lindsay-Hawker-murder.html

2005年3月、勤務医の両親(父親が外科医、母親が歯科医)を持つ市橋達也(いちはし たつや, b.1979)が国立千葉大学を卒業。大学では園芸(horticulture)を専攻し、公園デザインなどについて学んだが、卒業後は就職せず海外の大学院に進学するためとして、事件まで2年間ほど独り暮らしの自宅マンションで英語の勉強をしていた。「父親が朝鮮民族で、市橋姓は母親の物である」とする 噂(うわさ)やネット上の書き込みもあるが、真偽のほどは不明。五年前の2000年に起きた同様の事件の犯人が元在日朝鮮人の帰化人だったことから、今回の事件でもそのような憶測(または邪推)を呼んだ可能性がある。

2007年3月20日(火)、当時28歳の市橋達也が千葉県船橋市のJR西船橋駅前広場で、リーヅ大学(University of Leeds)化学科卒の当時22歳の英国人でNOVA英会話講師をしていたリンジー・ホーカー(Lindsay Ann Hawker, 1984–2007)嬢(但し、日本のマスコミではリンゼイ・アン・ホーカーさん)に声をかけ、ホーカー嬢宅まで押しかけて、似顔絵を書いたり、メールアドレスを聞くなどした。その後数回のメール交換を行ない、その週末の25日(日)に英会話レッスンを1回3,500円でしてもらう約束を取りつける。

同年3月25日(日)朝の9:00、市橋とホーカー嬢が東京メトロ東西線行徳駅前の喫茶店に来店した様子が防犯カメラに映っている。レッスンの終盤、市橋はレッスン代金を忘れたと言い、2人はタクシーで市橋の住む市川市内の集合住宅「行徳サンライズ」の自室にお金を取りに行くために移動した。9:54、「行徳サンライズ」のエレベーターの監視カメラに2人が映っている。市橋は4階の自宅に入ったところでホーカー嬢を押し倒し、結束バンドなどで拘束して性的暴行を加えた。その後、着脱可能な浴槽(バスタブ)を和室に置き、まだ生きていたホーカー嬢を押し込んで監禁した。監禁中には拘束を解くように要求するホーカー嬢を市橋は無惨にも殴りつけた。深夜24:00頃には、市橋は当時交際中の女性に「1週間ほど会えない」とメール連絡した。

同年3月26日 (月)未明の2:00~3:00頃、手の拘束を解いてホーカー嬢が逃亡しようとしたため市橋は頚部(けいぶ)を圧迫して窒息死させた。被害者の死亡後、市橋はホーム センターで赤玉土56リットル、園芸土50リットル、シャベル1個、発酵促進脱臭剤2個、脱臭剤2個、苗木1本を購入した。ベランダに浴槽と遺体を移動さ せて、購入した土を投入した。

同日、ホーカー嬢と同居していたカナダ人女性から捜索依頼を受けた千葉県警船橋警察署員がホーカー嬢宅を捜索。市橋の電話番号とメールアドレスと被害者の似顔絵を描いたと思われるメモを発見し、市橋宅の家宅捜査に急行したのは、その日の夜のことだった。21時40分 頃、「行徳サンライズ」4階に在(あ)った市橋宅に生活安全課と刑事課の署員数人が到着。市橋は部屋から出てきたが、捜査員が部屋に入ろうとすると、市橋は靴下の儘(まま)非常階段を駆け下りて「行徳サンライズ」裏の駐車場を経て東京メトロ東西線行徳駅方面にまんまと逃走した。逃走を防ぐべく非常階段にも 捜査員が配置されていたにも拘(かか)わらず、市橋を取り逃がした。千葉県警の大失態だった。その日の22時頃、捜査員は容疑者不在の儘(まま)、市橋宅 のベランダに置かれていた浴槽内に全裸の前傾座位で土に完全に埋められたホーカー嬢の遺体を発見。司法解剖の結果、死因は頚部を圧迫されたことによる窒息 死と判断された。圧迫の際に舌骨を2箇所骨折していた。右眼窩下と左頬部には殴打痕とみられる皮下出血も確認された。部屋のゴミ袋からは、市橋のDNAと一致する体液が入った避妊具が発見され、避妊具の外側には被害者ホーカー嬢の細胞が認められた。

同年3月27日(火)、千葉県警行徳警察署は警察犬を投入して臭覚追跡を行なったが、東京メトロ行徳駅附近で警察犬が感知し得る市橋の臭気が途絶するとと もに、同駅附近で市橋が着用していたと見られる靴下が落ちているのを確認。市橋は死体遺棄容疑で全国指名手配された。千葉県警行徳署捜査本部の捜査によ り、市橋とホーカー嬢の両名は語学学校NOVAのプログラムとは無関係な個人レッスンに合意していたことが判明した。

同年4月1日(日)、当時のグレアム・フライ(Sir Graham Fry, b.1949)駐日英大使が東京都内で記者会見(press conference)を開き、市橋逮捕への協力を求め、遺族のホーカー家の活動への支援を約束。

同年6月27日(水)、遺族のホーカー家が専用ウェブサイトを立ち上げ、市橋の指名手配の顔を印刷したTシャツをネット販売するとともに、事件の風化を防ぐため繰りかえしマスコミへの出演を行なった。捜査協力はあらゆる方面に及び、英タブロイド新聞の日刊メイル紙(Daily Mail) は、被害者の父親で、自動車教習所教官のビル・ホーカー(Bill Hawker, 生年不詳)氏が日本のマフィアに相当するヤクザにも接触し、市橋探しの捜査を依頼していたと報じた。英国の各メディアは「日本は白人女性にとって危険な国で、痴漢や変態の国」と仄(ほの)めかす内容で報道合戦を繰り広げる。

同年6月29日(金)、被害者遺族のホーカー家の4名が在京英国大使館 (British Embassy in Tokyo)に於(お)いて記者会見を開き、市橋逮捕とその契機となる情報提供を広く訴求するとともに、新たに製作された指名手配ポスター約6,000枚を配布し、その後も市橋の捜索に関してしばしばコメントを寄せた。後に、報奨金額は1千万円まで引き上げられた。こうした中、日本の一部女性たちが逃亡者市橋のファンクラブを作り、遺族の感情を逆(さか)撫(な)でし、英国大使館や英国民の心証を悪くした。

同年6月30日(土)、テレビ朝日が「奇跡の扉 TV(テレビ)のチカラ」で特別番組を編成し、来日中の被害者両親も出演して、日本国内に広く情報提供を求めた。

2008年2月29日(金)、逃亡者(a fugitive)の市橋は偽名を使って神戸市内の建設会社に勤務して肉体労働に従事し始め、会社の寮で生活した。

同年3月13日(木)、千葉県警行徳署捜査本部は、市橋が茶髪で眼鏡をかけた姿と女装姿の2つのイメージ画像を掲載した指名手配ポスターを新たに公開し、A3版を約4千枚掲示するとともに、A4判チラシ約3万枚をホテルや駅などで配布した。

同年3月18日(火)、市橋が記した被害者の似顔絵つきのメモと、市橋の遺留品であるリュックサックと靴と靴下の写真を千葉県警が公開した。

同年6月26日(木)、市橋が神戸市内の建設会社の寮を無断で退去して行方をくらました。

同年8月20日(水)、逃亡者の市橋は大阪府茨木市内の建設会社に勤務して肉体労働に従事し始め、会社の寮で生活した。同建設会社は市橋を雇用する際に、 あいりん地区に社有車を派遣して求職者を募集し、その場で雇用したという経緯から、当初は同事件の市橋であるとは気づかなかったとしている。

同年10月10日(金)、市橋が大阪府茨木市内の建設会社の寮を無断で退去して行方をくらました。

同年10月23日(木)~24日(金)、逃亡者の市橋は名古屋市内の美容形成外科医院にて眉間(みけん)の形成手術を受けた。

同10月24日(金)、保守系の英高級紙タイムズ(The Times)が「日本の警察は市橋が自殺したと断定した」という記事を掲載したが、同日、佐藤勉(さとう つとむ, b.1952)国家公安委員長が記者会見の席上で市橋自殺について否定した。しかしその後は市橋についての消息が一年以上も途絶え、自殺の可能性も憶測された。

2009年11月5日(木)、名古屋市内の美容形成外科医院が、過去に美容形成術を行なった患者カルテの顔写真を整理していたところ、男性には珍しい黒子(ほくろ)の除去をした元患者のことを不審に思い、報道されていた市橋達也との一致部分を確認した上で病院職員が警察に通報した。千葉県警は写真に写った骨格などから市橋と断定。顔写真を公開した。市橋は整形で一重(ひとえ)だった瞼(まぶた)を二重(ふたえ)にしていたほか、鼻を高くしていて、下唇は薄くしていた。指名手配の顔写真は整形後の同病院提供の顔写真に差替えられた。なお、同院は手術前に既(すで)に市橋が顔を整形していた模様であったた め、実際の施術の際には逃亡中の強姦殺人犯だと気づかなかったとしている。

同年11月10日(火)、神戸市東灘区の六甲船客ターミナルにて沖縄行き航路に搭乗しようとしていた乗客の中に市橋に似た不審な男を船便運行会社の従業員が発見した。当日は神戸発・沖縄行きの航路は欠航であったため、同日 も同航路に就航していた大阪南港発の沖縄行き便を案内すると、市橋と思われる人物が乗船のため大阪南港に向かう旨の発言をしたことから、不審に思った同港 担当者は警察当局と大阪南港担当者に通報した。大阪南港フェリーターミナルに先回りし待機していた警察官により市橋の身柄は確保された。そして移送された 大阪府警住之江署にて市橋はホーカー嬢の死体遺棄容疑で逮捕された。市橋は署員によって東海道新幹線に乗せられて千葉県警行徳署まで移送された。逮捕後の市橋は暫(しばら)く絶食して、黙秘権を行使しようとした。また、留置場からイギリスの被害者家族に向けて英語と日本語で手書きの4ページの謝罪文を送ったが、被害者家族は「これは裁判対策に違いない」として受け取りを拒否した。謝罪文については翌年(2010年)10月5日(火)付の保守系の英高級紙タイムズ(The Times)がその英文の一部を掲載した。

同年12月2日(水)、千葉地方検察庁(千葉地検)は死体遺棄罪で市橋を起訴。

同年12月3日(木)、現場に残された体液と市橋容疑者のDNAの一致が確認されたことから、千葉県警行徳署は殺人並びに強姦致死容疑で市橋を再逮捕した。

同年12月4日(金)、千葉県警は市橋容疑者を千葉地方検察庁(千葉地検)に送検。

同年12月23日(水)、千葉地方検察庁(千葉地検)は殺人と強姦致死の罪で市橋を追起訴。裁判員裁判で審理される。

2010年10月5日(火)、保守系の英高級紙タイムズ(The Times)が、市橋被告(後の受刑者)による英語版謝罪文の一部を掲載。

2011年7月4日(月)、千葉地方裁判所(千葉地裁)に於()ける初公判が開始される。起訴状の公訴事実は、殺人罪・強姦致死罪・死体遺棄罪。被害者 の両親と姉妹の計4人が被害者参加制度を利用して裁判に参加した。検察側は市橋が事件の発覚を恐れて殺害に至ったとしたが、被告・弁護側は強姦と監禁、死に至らせた事実は認めたが、殺意については否認し、殺人罪と強姦致死罪ではなく、傷害致死罪と強姦罪だと主張した。検察側は、市橋は非常に強い力で3分以上に亘(わた)って頚部を絞めており殺意は明らかで、蘇生措置をしたというのは被害者の肋骨に損傷がないことから信用できないと主張した。被害者の遺族 は、市橋の発言は減刑を意識したパフォーマンスであり、反省が見られないとして「可能な限りの極刑」(日本の刑法では死刑)を求めたが、検察は市橋に前科 がなく犠牲者が1人であるから死刑は躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないとして無期懲役を求刑した。

同年7月21日(木)、千葉地方裁判所(千葉地裁)は検察側の求刑通り市橋に無期懲役の判決を言い渡した。検察の主張する殺人罪と死体遺棄罪は認定したが、「首の圧迫は強姦後に相当の時間が経()った後で、時間的に接着していない」として、強姦致死罪ではなく、弁護側が主張する強姦罪にとどまるとした。また遺族が死刑を求めた点について触れ、「計画性がなく、更生可能性が無いとは言えない」と無期懲役とした理由を説明した。地裁の判決に対し、被害者の遺族は「四年半の間、リンジーのために 正義が下される日を待っていた。今日それに到達できた。とても満足している。」とコメントした。しかし市橋の弁護側は「刑を確定させるのは反対」と反発し た。

同年8月2日(火)、市橋の弁護側は事実認定の誤りと量刑不当などを理由に東京高等裁判所(東京高裁)に控訴した。弁護団と接見した市橋は「自分の言っていることは事実である。どうして信頼できないと言われるのか。」とあからさまに不満な表情で話した。

2012年3月15日(木)、東京高等裁判所(東京高裁)で控訴審初公判が開廷され、被告人側が殺意を否認する弁論を行なったのに対し、検察側は一審の無期懲役判決を維持して控訴を棄却するよう求める陳述を行なった。控訴審審理はこの一日のみで終結した。

同年4月11日(水)、東京高等裁判所は「被告人に真摯(しんし)な悔恨(かいこん)が見られない」として、一審の千葉地方裁判所(千葉地裁)の無期懲役判決を支持して被告人の控訴を棄却した。

同年4月25日(水)、十四日間の上告期限までに検察・弁護側の双方が上告せず、無期懲役の判決が確定した。弁護団は市橋に対しこれ以上証拠を見出せないので上告しない方針を伝えると、市橋も上告しない意思を示した。

市橋達也受刑者は現在も服役中である。

なお、2016年3月末に二年間に及ぶ中学生少女監禁事件が解決( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline3 )した際には、自殺未遂した容疑者が千葉大学の学生だったこともあり、その先輩に当たる市橋受刑者のことが再び人々の記憶に去来した。

【比較参考】

2021年7月にも同様の事件が再発したかと英マスコミが大々的に報道

Police search for British woman, 28, who vanished four days ago in Japan: Family say language teacher’s disappearance is ‘completely out of character’

(警察が英国女性=28歳を捜索 四日前に日本で失踪 家族は語学教師の失踪が「完全に普段の振る舞いと違う」と言う)

日刊メイル紙(Daily Mail)

クリス・プレザンス(Chris Pleasance)記者署名記事

2021年7月5日(月)

https://www.dailymail.co.uk/news/article-9757021/British-teacher-Alice-Hodginson-missing-Japan-police-search-her.html

Alice Hodgkinson: Family launch desperate appeal for British woman missing in Japan

(アリス・ホッヂキンソンさん: 日本で行方不明になった英国女性を捜す必死の訴えを家族が開始)

英スカイニューズ(Sky News)

2021年7月5日(月)

https://news.sky.com/story/alice-hodgkinson-family-launch-desperate-appeal-for-british-woman-missing-in-japan-12349319

28歳のイギリス人女性が横浜で行方不明…友人らが情報提供を呼びかける

Flash (フラッシュ)

2021年7月5日(月)

https://news.yahoo.co.jp/articles/89db4e5432592f021504b7287fe197e5ed158b0f

https://news.yahoo.co.jp/articles/89db4e5432592f021504b7287fe197e5ed158b0f/comments

Desperate hunt for Brit teacher, 28, who vanished in Japan almost one week ago

(一週間近く前に日本で行方不明になった英国人教師=28歳を捜す必至の捜索)

日刊ミラー紙(Daily Mirror)

ウィリアム・ウォーカー(William Walker)記者署名記事

2021年7月5日(月)

https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/desperate-hunt-brit-teacher-28-24467204

神奈川在住のイギリス人英語教師、連絡つかず

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)日本語版

2021年7月8日(木)

https://www.bbc.com/japanese/57759032

https://news.yahoo.co.jp/articles/9c78e8878bd1dc1c1979a80ecd025ae4d5da643f

https://news.yahoo.co.jp/articles/9c78e8878bd1dc1c1979a80ecd025ae4d5da643f/comments

[もとの英語記事]

Alice Hodgkinson: English teacher reported missing in Japan

(アリス・ホッヂキンソンさん: イングランド人教師が日本で行方不明と報道される)

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2021年7月8日(木)

https://www.bbc.com/news/uk-england-nottinghamshire-57729272

マドレン・マカンちゃん失踪事件

(The disappearance of Madeleine McCann, from 2007 to the present)

https://en.wikipedia.org/wiki/Disappearance_of_Madeleine_McCann

https://ja.wikipedia.org/wiki/マデリン・マクカーン失踪事件

https://allabout.co.jp/gm/gc/293119/

https://findmadeleine.com/

https://content.met.police.uk/Article/Operation-Grange/1400005508791/35434

https://www.bbc.com/news/uk-england-52910472

2007年5月3日(木)、ポルトガル南海岸のリゾート地、プヤ・ダ・シュ(Praia da Luz: ポルトガル語で「光の海岸」の意)にて休暇を過ごしていたスコットランド人心臓外科医のジェリー(Gerald “Gerry” Patrick McCann, b.1968)さんと、女医(産婦人科から麻酔科へ一旦転向したが事件当時はGPという一般医)のケイト(Kate Marie McCann, b.1968)さんのマカン夫妻(Mr and Mrs McCann)の長女で、九日後の5月12日(土)に四歳の誕生日を迎えることになっていたマドレン(Madeleine McCann, b.2003)ちゃん、愛称 マディー(Maddie)が何者かによって連れ去られ失踪した。

ウィキペディア日本語版では「マデリン・マクカーン」という誤ったカタカナ表記になっているが、正しくはマドレン・マカンである。マドレンとはフランス語のマドレーヌ(Madeleine)の英語読みだが、両親のマカン夫妻(Mr and Mrs McCann)は医師であるとともに敬虔なカトリック信徒でもあるため、『新約聖書』(The New Testament)に登場するマグダラのマリア(英 Mary Magdalene)のフランス語名マドレーヌ(Madeleine)の名を娘に付けていた。

マカン夫妻はマドレンちゃんと幼い次女と長男(マドレンちゃんの妹と弟)をホテルの自室に残して毎晩のように英国人仲間と食事に出かけていたが、5月3日(木)の夜に部屋に戻ると妹と弟は無事だったが、一番上のマドレンちゃんだけが居なくなっていた。

英マスコミ報道は過熱し、乳母(nanny)もベビーシッター(babysitter)も付けずに幼い三人の子供たちを部屋に残して毎晩外出していたマカン夫妻を非難した。英マスコミはマカン夫妻とその飲み食い仲間五人に対してタパス・セヴン(Tapas Seven: 「南欧一品料理を食べに出かける七人組」の意であり、2001年公開の米犯罪喜劇映画 Ocean’s Eleven の捩(もじ)り=パロディー)という綽名(あだな)を付け、彼ら一人一人の身元を恰(あたか)も共犯者であるかのように暴(あば)き立てた。ポルトガルの現地警察がマカン夫妻に疑いの目を向け始めると、英マスコミ各社もマカン夫妻を恰(あたか)も娘殺しと死体遺棄の犯人であるかのように書き立てた。

マカン夫妻が嫌疑を晴らして英国に帰国できたのは同年9月9日(日)のことであり、事件後五ヶ月間もポルトガルに留め置かれたことになる。共稼ぎの医師で財力があるマカン夫妻は「マドレンを見つけよ・ドット・コム」( findmadeleine.com )というウェブサイトを帰国後に立ち上げた。ポルトガルのサッカー選手ロナウド(Cristiano Ronaldo, b.1985)氏や、サッカー界のスーパースターであるベッカム(David Beckham, b.1975)氏や、ハリー・ポッター(Harry Potter)連作小説の作者ローリング(J. K. Rowling, b.1965)女史などの著名人が次々とマドレンちゃん捜索への支持を表明し、有力情報の提供者に莫大な懸賞金を出すと約束した。しかしそれでも有力情報は上がって来ていない。

同年(2007年)9月下旬にはモロッコ王国(ポルトガルの対岸の北アフリカに位置する国)で、マドレンちゃんとよく似た金髪の少女をおんぶする現地農婦の写真が英タブロイド各紙の一面トップにデカデカと載り、「そのモロッコ女が犯人だ!」と決めつける論調が沸き起こった。しかし程なくして、それがモロッコ女性の実の娘だと判明したことで事態は沈静化した。モロッコでは頭髪が黒く肌が浅黒い親から白人的な特徴を持った子が生まれることが屡々(しばしば)あるが、英マスコミは当初そうした民族的・遺伝的な事実を知らずに犯人扱いしてしまったのであった。

ロンドン警視庁(the Metropolitan Police Service; 略称 the Met Police; 通称 Scotland Yard)は事件から四年が経過したマドレンちゃんの八歳の誕生日に当たる2011年5月12日(木)に Operation Grange (オペれイション・グれイン: 「豪農屋敷作戦」の意)と銘(めい)打った作戦を立ち上げ、本腰を入れたかのように見えたが、捜査の主導権はポルトガル警察にある。

マディー(Maddie)ちゃんの愛称でも知られるマドレン(Madeleine)ちゃんは未(いま)だ発見されず、事件は現在も未解決である。この女の子の捜索に10年間で1100万ポンド(£11million: 約15億3千万円)の税金が投入されたが、全く成果が上がっていない。しかも2017年3月に英国政府が更に8万5千ポンド(£85,000: 約120万円)を投入すると発表したことで批判が起きた。そもそも子供たち3人だけをホテルの部屋に残した状態で毎晩食事に出かけいたマカン夫妻(Mr and Mrs McCann)に対する批判の声が絶えない。マカン夫妻を激しく批判する有名人がいる中で擁護する有名人もいて論争になっている。

【関連記事・ブログ・動画集】

マデリンちゃん事件の経過と背景

小林恭子(こばやし ぎんこ, b.1958)の英国メディア・ウオッチ

2007年9月27日(木)

https://ukmedia.exblog.jp/7058870/

『マデリンちゃん失踪の真実』予告編 - Netflix [HD]

Netflix Japan

2019年3月14日(木) ウェブ公開

https://www.youtube.com/watch?v=ay9G0MuZ6yk

Madeleine McCann ‘assumed dead’ by German prosecutors

(マデリン・マカンちゃんは「推定死亡」とドイツ検察)

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2020年6月4日(木)

https://www.bbc.com/news/uk-52916137

2007年のマデリンちゃん失踪事件で新容疑者、ドイツ警察

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

2020年6月4日(木)

https://news.yahoo.co.jp/articles/5a3d1828d21ea13032520d92541e3cbbdfb02ea6 (リンク切れ)

13年前の英少女失踪事件で有力容疑者浮上、ついに逮捕か

女性自身

2020年6月4日(木)

https://news.yahoo.co.jp/articles/5e62fdbfd64be57e2f5dc4f74cf77cc4363516c7 (リンク切れ)

https://www.bbc.com/news/10259982

2010年6月2日(水)、デリック・バード(Derrick Bird, 1957-2010)=52歳が。

十一年後の2021年8月12日(木)にプリマス銃撃事件(2021 Plymouth shooting)が発生すると、このカンブリア銃撃事件のことが改めて話題に上るようになる。

2011年イングランド暫時多発暴動

(2011 England riots)

https://en.wikipedia.org/wiki/London_riots_2011

https://ja.wikipedia.org/wiki/イギリス暴動

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3c/Carpetright_store_after_Tottenham_riots.jpg

2011年8月4日(木)、オリンピック開催を1年後に控えた首都ロンドン北部(North London)のトットナム(Tottenham)地区で拳銃を手にした当時29歳の黒人男性で麻薬の売人である可能性が高いマーク・ダガン(Mark Duggan, 1982?-2011)が警察に射殺された。警官がダガンの遺体を踏みつけている写真(まるで猛獣狩りのハンターのような写真)が事件後すぐにフェイスブック(Facebook)に載って拡散された。これによって警察と黒人住民の緊張が高まった。

同年8月6日(土) 17:30頃、トットナム地区に住む黒人たちがトットナム警察署(Tottenham Police Station)に抗議しに行き、警部が対応するが、黒人たちはもっと地位の高い警察官僚に会わせるよう要求し、警察署で膠着(こうちゃく)状態が続いた。黒人たちは射殺されたダガンを追悼(ついとう)して、警察署前で寝ずの番(vigil)をする用意があった。同日20:00頃、16歳の黒人少女が警察署の人だかりに何かを投げ入れた。文字が書かれた紙だったという説と、石を投げたという相反する説がある。警察は楯(shields)と警棒 (batons; clubs)で少女に圧(の)し掛かり、頭部を負傷させたと言われている。20:20頃、黒人集団の一部が近在のパトカー2台(two police cars)に放火したところで暴動が開始された。

騒動はトットナム地区に留(とど)まらず、ロンドン中心部でも暴動が発生した。そして同11日 (木)までの六日間で首都ロンドンのみならずバーミンガム(Birmingham)、マンチェスター(Manchester)、リヴァプール(Liverpool)、 ノッティンガム(Nottingham)、ブリストル(Bristol)などイングランドの地方都市へ飛び火し、合計5名が死亡した。同13日(土)までに暴動・放火・略奪の容疑で1,600人以上が逮捕され、さらに同25日(木)までに合計2,000人超が逮捕された。逮捕者の過半数は18歳未満だった。従来までの暴動との相違点は、参加者が携帯電話を使って、ソーシャル・メディアなどを悪用して暴動を煽(あお)った点にある。そのため当時流行していたカナダの携帯電話の名を取ってブラックベリー暴動(BlackBerry riots)と呼ばれることもある。

暴動の中心になっていたのは最下層階級向け公営団地で育ったチャヴ(本来は昔で言うジプシー、今で言うロマ族の言語で「子供」を意味する chav に由来するが、近年の俗説では council housed and violent 「公営団地住まいで暴力的」の頭文字を略した物と解釈される)と呼ばれる無職の若者達だった。しかし貧困層とは無関係のロンドンオリンピックのボランティア登録者、バレリーナ、 教員、大富豪の令嬢、11歳の少女といった雑多な者たちも面白半分で暴動に参加し、商店の窓ガラスを割ったり、そこから商品を掠奪(りゃくだつ)したりし た。

この暴動による経済的損失は莫大な額に及び、暴動がやっと収束した8月11日(木)時点に於(お)いて保険会社の蒙(こうむ)った損失だけでも2億ポンド(当時のレートで約252億円)超と推定された。

ロザラム町の児童・生徒1,400人の十六年に及ぶ性的虐待が発覚

(Rotherham child sexual exploitation scandal, 1997-2013)

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2014/09/1400.php

https://jp.wsj.com/articles/SB12219608320597343816204581008943104598916

https://www.bbc.com/news/uk-england-south-yorkshire-28934963

https://en.wikipedia.org/wiki/Rotherham_child_sexual_exploitation_scandal

https://ja.wikipedia.org/wiki/ロザラム児童性的搾取事件

イングランド北部の南ヨーク州(South Yorkshire)の大都市シェフィールド市の中心部から10キロ弱の場所に在るロザラム町(Rotherham: 人口約25万8千人)で、1997年から2013年までの十六年間に1,400人を超える児童・生徒が性奴隷の扱いを受けていた実態の詳細が2014年8月になって明るみに出た。被害者には男児もいるが、大半は白人の女児・女子生徒だった。最年少は11歳の女児(複数)で、大勢の男に強姦(rape)されたという。

地元議員や町役場職員は2004年と’05年に虐待の通報を受けていて、2010年にはパキスタン系の男5名が逮捕され有罪判決を受けていた。加害者の大半がパキスタン系だったため、地元議会や警察の上層部は「人種差別だ!」という批判を過度に恐れて事件を深く追及せず、小規模な逮捕起訴でお茶を濁(にご)していた事実が、2014年8月から9月にかけて発覚した。英国警察による白人に対する逆人種差別(reverse racism ゥりヴァース・ゥれイシズム)に英国民の怒りはおさまらない。

被害者の児童・生徒たちがパキスタン男たちから受けた仕打ちはこうである。複数の男たちに強姦(rape)されたり、イングランド北部の別の町に売り飛ばされたり、 強制売春させられたり、誘拐・人身売買されたり、暴力や脅迫を受けたりした。ガソリンをかけられて火をつけると脅されたり、銃を突き付けられたり、他の子供が手荒く強姦される様子を見せられ、「告げ口をしたらお前もこうなるぞ!」と脅されたり、家族に危害を加えると脅された児童・生徒もいる。

2011年に実施された最新国勢調査によれば、ロザラム町の民族的少数派が人口に占める割合は8%ほどで、その多くはパキスタン系や印パ国境附近のカシミール系とのこと。

ロザラム町で児童の性的虐待に関する調査が2002年以降4回行われたが、当局は「パキスタン人に対する人種差別だ!」とする非難の声を過度に恐れるあまり、白人児童・生徒に対する逆差別を行ない、第1回調査の時点から事態を放置していた。

被害者1,400人超という前代未聞のスケールにまで発展した白人児童・生徒への性的虐待は、それだけでも充分ショッキングなことだったが、ロザラム町以外でもイスラム教徒らによる似たような白人性奴隷被害が多発している。英国民の警察当局への不信感は募る一方であり、移民反対・EU離脱を訴える右派政党である「ユーキップ」こと英国独立党(UKIP: UK Independence Party)の地方議会での躍進を許す根拠にもなっている。

こうなると前述した鉱石作戦(Operation Ore オペレイションノー)で児童ポルノの単純所持の方ばかりに気を取られ、結果として子供たちの安全が蔑(ないがし)ろにされたことについて、英国の警察は大きな非難を浴びた。「小さな蠅(=街の小物犯罪者)は捕(つか)まえるが、スズメ蜂(=大物犯罪者)は突き破って逃げてしまう蜘蛛(クモ)の巣」という状態は大抵の国で見られるが、イギリスに於ける児童に対する性犯罪では、この状態(症状)が突出してしまった。

(日本のマスコミでは2014年8月28日(木)付のTBSニュースと、同年8月31日(日)付と同年12月24日(水)付と同年12月26日(金)付の産經新聞電子版が、この事件を詳しく報道)

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2284427.html (リンク切れ)

https://anago.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1409152234/

https://www.sankei.com/world/news/140831/wor1408310040-n1.html

https://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1409547796/

https://www.sankei.com/premium/news/141224/prm1412240005-n1.html

https://www.sankei.com/premium/news/141224/prm1412240005-n2.html

https://www.sankei.com/premium/news/141224/prm1412240005-n3.html

https://www.sankei.com/premium/news/141224/prm1412240005-n4.html

https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/141226/wor14122620000001-n1.html

https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/141226/wor14122620000001-n2.html

https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/141226/wor14122620000001-n3.html

https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/141226/wor14122620000001-n4.html

【2018年になってもロザラム事件続報】

Rotherham sex abuse scandal grows as police ID 110 ‘designated suspects’ who they fear abused more than 1,500 children aged mainly 11-18

(ロザラム性虐待醜聞(しゅうぶん)が拡大 警察の「容疑者認定」を受けて 千五百人超に及ぶ11~18才の児童が虐待を受けた恐れ)

日刊メイル紙(Daily Mail

ガレス・デイヴィーズ(Gareth Davies)記者署名記事

2018年2月21日(水) 2:00 GMT

https://www.dailymail.co.uk/news/article-5415637/Rotherham-sex-abuse-scandal-grows.html

・ Initial figure of 1,400 victims sparked a national outrage, but it has now grown

(当初の千四百人という被害者数は全英に憤怒(ふんぬ)を炊()きつけたが、今や更(さら)に拡大)

・ National Crime Agency conducting huge investigation in South Yorkshire town

(全国犯罪局が南ヨーク州の町=ロザラムで大規模調査を実施)

・ Eighty percent of suspects said to be Pakistani, 90 percent of victims white girls

(容疑者の八割がパキスタン系で、被害者の九割が白人少女とされる)

(以下、詳細は記事本文へ)

(参考)同様の性犯罪がイングランド各地で続々と発覚

2006から’13年にかけてイングランド南東部のオクスフオッド市で373人が性的被害に遭ったパキスタン人イスラム教徒による事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Oxford_sex_gang

https://www.bbc.com/news/uk-england-oxfordshire-31643791

2008から’10年にかけてイングランド中部のダービー市で約100人が性的被害に遭ったパキスタン人イスラム教徒による事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Derby_sex_gang

https://www.bbc.com/news/uk-england-derbyshire-11799797

2008から’10年にかけてイングランド北西部の大マンチェスター市ロチデイル地区で少なくとも47人が性的被害に遭ったパキスタン人イスラム教徒(推定300人の加害者)による事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Rochdale_sex_trafficking_gang

https://www.bbc.com/news/uk-england-17989463

https://uk.news.yahoo.com/members-rochdale-child-sex-grooming-gang-facing-deportation-130500857.html

2010から’12年にかけてイングランド西部のテルフオッド町で約100人が性的被害に遭った南アジア系イスラム教徒による事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Telford_sex_gang

https://www.shropshirestar.com/news/crime/2013/05/10/horror-of-telford-girls-sex-abuse-ordeal/

https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/channel-4s-dispatches-reveals-horrific-1905374

2010から’14年にかけてイングランド北東部のニューカッスル市で100人超が性的被害に遭ったパキスタン人、バングラデシュ人、インド人、イラン人、イラク人のグループによる事件では22歳の白人女も協力者として有罪に

https://en.wikipedia.org/wiki/Newcastle_sex_abuse_ring

https://www.bbc.com/news/uk-england-40879427

https://www.theguardian.com/uk-news/2017/aug/09/newcastle-sex-grooming-network-operation-shelter

https://www.telegraph.co.uk/news/2017/09/05/asian-grooming-gangs-rape-white-girls-not-racist-rules-judge/

https://www.telegraph.co.uk/news/2017/08/09/communities-not-enough-tackle-asian-grooming-gangs-warns-chief/

https://www.dailymail.co.uk/news/article-4775164/Police-paid-child-rapist-10k-spy-sex-parties.html

2012年にイングランド東部のピータバラ市で15人が性的被害に遭ったパキスタン人イスラム教徒とイラク・クルド人イスラム教徒と東欧ロマ=ジプシー族による事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Peterborough_sex_abuse_case

https://www.bbc.com/news/uk-england-cambridgeshire-32282850

2014年にイングランド西部のブリストル市で少なくとも48人が性的被害に遭ったソマリア人イスラム教徒による事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Bristol_sex_gang

https://www.theguardian.com/uk-news/2014/nov/27/guilty-prostitution-bristol-rape-girls-sex-abuse-somali

2017年7月にはイングランド西中部地方バーミンガム(Birmingham, West Midlands)で15歳の少女が一夜にして二度もアジア系(=イギリスではインド・パキスタン系を指す)の男に別々の案件で強姦される事件が発生

https://www.cnn.co.jp/world/35104989.html

2018年3月に発覚したイングランド西部のテルフオッド(Telford, Shropshire)の事件では、 一千人の女子児童が四十年以上に亘って性的な被害に遭っていた。これは英国史上最悪の児童に対する性虐待であるとされる( 人口規模26万のロッチデイルでは一千五百人が十六年に亘って被害に遭ったのに対し、人口規模が17万しかないテルフオッドで一千人が四十年にも亘って被害に遭ったから)。

https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/britains-worst-ever-child-grooming-12165527

【イギリスと比較して日本でも在日の問題が、、、】

(外部サイト)

マスコミが報道できないニュース 女性のための治安・在日問題

https://www.geocities.jp/tokua33/ (事実が列挙されていたにも拘(かか)わらず「ヘイトスピーチ=憎悪言論だ!」と難癖をつけられリンク切れ)

(外部サイト)

日本人はどこまでお気楽なのか? 「在日特権と犯罪」の現実を知れ

外国人犯罪対策講師 坂東忠信(ばんどう ただのぶ, b.1967)

https://ironna.jp/article/5970?p=1

https://ironna.jp/article/5970?p=2

https://ironna.jp/article/5970?p=3

https://ironna.jp/article/5970?p=4

ランベス監禁奴隷事件

(Lambeth slavery case, 1976-2013)

https://en.wikipedia.org/wiki/Lambeth_slavery_case

https://www.theguardian.com/uk-news/2015/dec/04/commune-leader-aravindan-balakrishnan-guilty-of-child-cruelty

https://www.independent.co.uk/news/uk/maoist-cult-leader-aravindan-balakrishnan-jailed-for-23-years-a6841866.html

https://www.thesun.co.uk/news/2641654/who-is-aravindan-balakrishnan-maoist-cult-comrade-bala-brainwashed-daughter/

インド南部のケーララ州(Kerala, India)生まれ、インド系の元シンガポール人で、毛沢東主義新興宗教教祖(Maoist cult leader)のアラビンダン・バラクリシュナン(Aravindan Balakrishnan, b.1940?)は、1976年に英ロンドンで自ら立ち上げた政治思想系の新興宗教(カルト)のコミューン(commune)で「神」として君臨し、そこに集まった10人程の女性信者たちに共産主義者流に「バーラ同志」(Comrade Bala ムれイドゥバーラ)と呼ばせ、実に三十七年間にも亘(わた)って暴力や絶対的支配や性的暴行でマインドコントロール(mind control)していた。

信者のシアン・デイヴィーズ(Sian Davies, ?-1997)嬢に産ませた娘、ケイティ・モーガン=デイヴィーズ(Katy Morgan-Davies, b.1983)嬢を三十年間も監禁していたが、2013年10月25日(金)に当時30歳のその娘が当時69歳のマレーシア人女性アイシャン・ワハーブ(Aishah Wahab. b.1944?)女史と当時57歳のアイルランド人女性ジョセフィン・ヘリヴェル(Josephine “Josie” Herivel, b.1956?)女史と一緒に脱走したことで監禁奴隷事件が明るみに出た。娘は命の危険を感じてコミューン(commune)から脱出したが、それまで外の世界に出たことが一度も無かったという。

2013年11月21日(木)、「バーラ同志」こと、当時73歳のバラクリシュナンは、当時67歳のインド系タンザニア人の妻チャンダ・パットニ(Chanda Pattni, b.1946?)と共に大ロンドン市ランベス地区(London Borough of Lambeth)で逮捕されたが、妻は後に不起訴となり釈放された。

バラクリシュナンに対しては、2015年12月4日(金)に児童虐待と監禁と4件の強姦と6件の強制猥褻(わいせつ)と2件の暴行(child cruelty, false imprisonment, four counts of rape, six counts of indecent assault and two counts of assault)の罪状で有罪判決が言い渡され、2016年1月29日(金)に禁錮23年の刑罰が言い渡された。

(関連記事)

監禁される子どもたち、世界で起きた非道な事件

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

2018年1月17日(水) 16:39

発信地:パリ/フランス

https://www.afpbb.com/articles/-/3158902

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1516199767/

つづきは後篇(https://sites.google.com/site/xapaga/home/shockingcrimes2 )へ。

カンブリア銃撃事件

(Cumbria shootings)

https://en.wikipedia.org/wiki/Cumbria_shootings