日本の大学年表と女権と日英関係3(平成元年~二十五年)

これ以前の年表は、敗戦から昭和終焉まで( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline2 )へ。イギリスの大学年表についてはウェブページ6種( https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline1 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline2 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline3 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline4 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline5 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline6 )を参照のこと。

1989年(平成元年)1月8日(日) 前日(1989年1月7日(土))の昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の崩御(ほうぎょ)を受け、平成に改元。当時満55歳の皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933: 学習院大学中退)が天皇に即位。平成最初の日。三十年後の2019年(平成31年)4月30日(火・祝)の退位後は上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 天皇としての在位1989-2019; 学習院大学中退)と呼ばれることになる。

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1989年1月18日(木) 前年(1988年)12月7日(木)の長崎市議会で「戦後四十三年経って、あの戦争が何であったかという反省は十分にできたと思います。(中略)私が実際に軍隊生活を行ない、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います。」と答弁していた本島等(もとしま ひとし, 1922-2014; 京都大学卒)市長に対して多数の街宣右翼(多くは在日韓国朝鮮人)が80台以上の街宣車を使用して市長への「天誅」(てんちゅう: 神などの人間を超越した存在が、悪行を行なった人間に対して誅伐・天罰を下すことから転じて、その代行として右翼団体構成員がテロ犯罪を行なうこと)を叫んでいたが、警備費用がかかりすぎるとの自民党在籍市議会議員(自民市議)の批判を受けて警察が警備を緩和したときに、右翼団体「正氣塾(せいき じゅく)」の田尻和美(たじり かずみ, b.1949)、後に改姓して若島和美(わかしま かずみ, b.1949)が、その日の15:00頃、本島市長を背後から銃撃して暗殺未遂事件を起こす。本島市長は奇跡的に一命を取り留め、隠れキリシタンの末裔(まつえい)としてのカトリック信徒として「犯人を赦(ゆる)す。」と発言している。銃撃犯の田尻(後の若島)は市長に全治一ヶ月の重傷を負わせた殺人未遂罪により懲役十二年が確定。

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1989年1月22日(日) 東京都足立区竹の塚の木造アパート2階の家賃3万円の6畳一間の自室にて、松浦董子(まつら ただこ, 1908-89)女史=80歳が虚血性心不全で死去。「苦しい!」と老女から訴えられた1階の住人はすぐに救急車を呼んだが、救急隊員よりも先にやって来たのは創価学会の信者たちだったという。この生活保護受給者にして創価学会信者は、大正天皇(たいしやう てんのう; たいしょう てんのう; Emperor Yoshihito, the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)の侍従、松浦靖(まつら はかる, 1866-1943; 陸軍士官學校卒)子爵・陸軍中佐の娘にして、久邇邦久(くに くにひさ, 1902-35; 陸軍士官學校卒)侯爵・貴族院侯爵議員の元妻(二番目の妻)だった人物。六歳年上の夫が1935年に自邸の風呂場で32歳の若さで急逝(きゅうせい)した後(のち)は、子が無かった董子(ただこ)は翌年(1936年)久邇侯爵家を離籍して実家の松浦子爵家での暮らしを再開した。離籍に当たっては約25萬圓(現在の貨幣価値に換算すると数億円)分の南滿洲鐵道(滿鐵)株券を手切金の代わりに与えられたが、1945年の敗戦で株券は紙くずと化していた。戦後の1956年に岩手県選出の衆議院議員(日本民主党所属)山本猛夫(やまもと たけお, 1903-89; 日本大学卒)と再婚するも、夫婦間に愛情は皆無で、猛夫(たけお)議員の不倫関係に悩まされる日々だった。1958年、結核(TB: tuberculosis)で入院した折に創価学会の熱心な信者だった付添婦から勧誘を受け、創価学会に入信。1966年、董子(ただこ)の側から申し出て猛夫と離婚すると、董子(ただこ)は家政婦や病院の付添婦として働き始めたが、65歳のとき体に無理が利かなくなって退職し、生活保護を受ける身となる。1976年に母親の松浦節子(まつら さだこ, 18??-1976)=旧姓 久我(こが)が死去すると実家と疎遠になり、天涯孤独の身となった董子(ただこ)は、ますます創価学会への信仰にのめり込むようになったという。なお、二度目の夫は董子(ただこ)の死の約半年後の同年(1989年)7月26日(水)に満86歳で歿している。(皇室ジャーナリスト河原敏明(かわはら としあき, b.1921)拓殖大学元客員教授著 『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』(講談社, 2004年)に依拠)

1989年2月9日(木) 拓殖大学紅陵高等学校(在千葉県木更津市)で500人以上の欠番がある受験番号を割り振るなど志願者水増しして競争率を高く装っていたことが発覚し、千葉県から聴取を受ける。(1989年2月10日(金)付と同11日(土・祝)の讀賣新聞の記事に依拠)

1989年2月18日(土) 東京大学(略称 東大; 英称 University of Tokyo; 本部在東京都文京区)の総長選で籤(くじ)引きが実施され、世間の耳目(じもく)を集める。総長選挙の投票で同数だったため決戦投票にまで縺(もつ)れ、それでも同数だったため、規定により籤(くじ)引きで第24代総長が決定。その結果、有馬朗人(ありま あきと, 1930-2020; 東京大学理学部卒、同大学大学院修了)教授(後に名誉教授)・理学博士(東京大学)が同年(1989年)4月1日(土)から同大学の第24代総長を務めることになる。有馬教授は1993年3月31日(水)に退任した後には、第7代理化学研究所(理研)理事長、自由民主党(自民党)所属の参議院議員、第125代文部大臣、第58代科学技術庁長官を歴任することになる。一方、籤(くじ)引きで負けたのは、本間長世(ほんま ながよ, 1929-2012; 東京大学卒、米アマースト大学留学、コロンビア大学大学院留学)教授(後に名誉教授)であり、本間教授は二度と同大学総長選に立候補しなかったが、定年退官直後の1990年4月には東京女子大学(俗称 トンジョ; 英称 Tokyo Woman’s Christian University; 在東京都杉並区)に移り、次いで1995年4月から2003年3月まで成城学園(在東京都世田谷区)学園長を務めた。

1989年2月24日(金) 昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の「大喪(たいそう)の礼(れい)」にベルギー王国、スウェーデン王国、スペイン王国といった一部の君主国から国家元首(国王)が参列し、米仏独伊といった共和制国家から国家元首(大統領)が参列したにも拘(かか)わらず、英国内に沸(わ)き起こった戦争の過去を巡る反日感情(anti-Japanese sentiments)を考慮して英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)は出席を断念。英国王室(the British Royal Family)としては代わりに夫のエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)を派遣するにとどめる。なお、英国政府(Her Majesty’s Government)としては首相の代わりにハード外相(Douglas Hurd, or Douglas Richard Hurd, Baron Hurd of Westwell CH, CBE, PC, b.1930)を派遣。ちなみにオランダ王室は、やはりオランダ国内の反日感情を考慮して誰ひとりとして「大喪の礼」には出席しなかった。

1989年4月1日(土) 消費税が3%で初めて導入される(八年後の1997年4月1日(火)に5%、その十七年後の2014年4月1日(火)に8%に増税)。

1989年4月20日(木)~5月20日(土) 「朝日新聞 KY事件」。1989年4月20日(木)付の夕刊一面の連載企画「写’89『地球は何色?』」の中で沖縄県西表島の薊(アザミ)珊瑚(サンゴ)が傷つけられたとする六段抜きの大きなカラー写真を掲載したが、地元から疑いの声が上がり、朝日新聞社内で調査したところ、同社の本田嘉郎(ほんだ よしろう, b.1948)カメラマンが無傷の状態であったサンゴに文字を刻み付けたとの社内判断から虚偽報道であったことを認め、同年(1989年)5月20日(土)付の朝刊で謝罪。四半世紀後の2014年に一大騒動になる慰安婦誤報(実際には虚報・捏造報道)訂正の布石となる。

1989年6月3日(土) 自由民主党(自民党)の宇野宗佑(うの そうすけ, 1922-98; 首相在任1989; 神戸商業大学=現在の神戸大学中退)内閣が組閣(二ヶ月と一週間の短命内閣)。

1989年6月4日(日) 中華人民共和国首都北京(Beijing, China)で六四天安門事件(通称 天安門事件; 英称 Tiannanmen Square Incident)が発生。民主化を求める学生を中心とする若者たちに対し、中国共産党(中共)の暴力装置である人民解放軍(PLA: People’s Liberation Army)が戦車や装甲車といった軍事車輛で武力鎮圧し、多数の死傷者を出す。死者は数百から数千とされるも推測にはバラツキがある。翌月の同年(1989年)7月14日(金)から16日(日)までフランス共和国首都パリ市(Paris, France)西郊のラ・デファンス(La Défense)地区で開催された第15回先進国首脳会議(英 15th G7 summit; 仏 Sommet du G7 1989, ou la 15e réunion du G7)=通称 アルシュ・サミット(英 Summit of the Arch; 仏 Sommet de l’Arche)で議長国フランスをはじめ欧米先進各国は中国政府に対する制裁を検討するも、日本国の宇野宗佑(うの そうすけ, 1922-98; 首相在任1989; 神戸商業大学=現在の神戸大学中退)内閣総理大臣は事前に閣議決定していたように「中国の孤立化は避けるべきだ」と主張し、実際に日本の主張が通ってしまう。

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1989年8月10日(木) 二ヶ月と一週間前に組閣したばかりの宇野宗佑(うの そうすけ, 1922-98; 首相在任1989; 神戸商業大学=現在の神戸大学中退)内閣が同年6月6日(火)(首相就任から僅(わず)か三日後)発売の週刊誌『サンデー毎日』(発行元: 毎日新聞社)に載った宇野首相の人となりに関する神楽坂の藝妓中西ミツ子(なかにし みつこ, 生年不詳)女史による自称「告発記事」が発端(ほったん)となり総辞職。その記事によると、宇野氏が「もし自分の愛人になってくれたらこれだけ出す。」と言って自分の指を三本出した(「月額三十万円で愛人になれ。」という意味)とのこと。中西女史は「このような人物が日本の総理大臣であってはいけない。」と考え、マスコミにこの事実をリーク(leak)したという。「自民党の大物政治家がたったの三十万円とは、なんとケチな!」とは巷間(こうかん)の声である。それまでの日本マスコミはフランス同様に政治家の下半身問題は知っていても報じないのが不文律(ふぶんりつ)だったが、『サンデー毎日』はアメリカ流に堂々と報じる姿勢に転じたのだった。この件は海外でも「Uno ウーノォ: 偶然にもイタリア語やスペイン語で数字の「一(いち)」を意味する)とかいう日本のエロ政治家による geisha sex scandal (ゲイシャ・セックス・スキャンダル)」として面白おかしく報道された。事実関係の検証は一切されず、批判だけが先行したが、宇野首相(当時)自身はノーコメントを貫(つらぬ)いた。結果として女性票が離れ、同年7月23日(日)に実施された第十五回参議院議員通常選挙で自由民主党(自民党)が大敗したことを受けて宇野内閣は引責辞任という形で総辞職した。後任には同じく自民党の海部俊樹(かいふ としき; 首相在任1989-91; 中央大学専門部法科卒業; 早稲田大学夜間部卒)内閣が組閣。なお、事件の火付け役の中西女史はその後、出家して尼僧になったという。また、週刊誌『サンデー毎日』編集長としてこの騒動を起こして選挙結果に大きな影響を与えた当時四十九歳のジャーナリスト、鳥越俊太郎(とりごえ しゅんたろう , b.1940; 京都大学卒)氏は、この騒動の二十七年後の平成28年=2016年7月31日(日)実施の東京都知事選挙に民進党・日本共産党・社会民主党・生活の党と山本太郎となかまたち・緑の党・東京生活者ネットワーク推薦、新社会党支援の野党連合推薦で同年7月12日(火)に齢(よわい)七十六歳にして立候補を表明したが、その九日後の2016年7月21日(木)発売の雑誌『週刊文春』7月28日号(発行元: 文藝春秋)に女子大生への淫行疑惑を報じられた。報道によれば、都知事選立候補の十四年前の2002年に、当時六十二歳の鳥越氏は当時大学2年生だった二十歳の女性を富士山麓の別荘に連れ込み、拒(こば)む女性に「いつまでもバージンじゃ恥ずかしいよ。」と言いつつ無理やりキスして肉体関係に至ろうとするも女性の抵抗で未遂に終わったとされ、この件が発覚して鳥越氏は客員教授を務めていた私立関西大学への出入りを禁止されたという。但し、この記事は被害女性の直接の言葉に依拠せず、その夫への取材で記事を書いている。鳥越氏側は週刊誌発売前日の2016年7月20日(水)に「事実無根である」として文藝春秋に抗議文を送付し、翌21日(木)には名誉毀損及び公職選挙法違反の廉(かど)で東京地方裁判所(東京地検)に刑事告訴した。しかし選挙運動に集中するため詳細は弁護人に任せ、記者会見は開かないと発表した。一方の『週刊文春』側は「記事には十分自信を持っている。」と述べて受けて立つ姿勢を示した。また、2016年7月28日(木)発売の雑誌『週刊新潮』8月4日号(発行元: 新潮社)では件(くだん)の被害女性が「鳥越氏に半ば強制的に全裸にされた」と発言した記事が掲載された。夫からの伝聞(でんぶん)ではなく被害者とされる女性からの直接の聞き取りに依拠しているため、『週刊文春』の記事よりも信憑性(しんぴょうせい)が増したと言える。そして鳥越氏は新潮社にも抗議文を送ったが、新潮社側は「記事には明確な根拠があり、選挙妨害や名誉毀損には当たらないと考える。」とコメントし、自信のほどを窺(うかが)わせた。鳥越氏は『週刊新潮』についても東京地検に刑事告訴した。ネット上では「二十七年後に自分に返って来たブーメラン効果」などと鳥越氏を揶揄(やゆ)する論調が目立ち、都知事選での女性票の獲得は絶望的となった。そして現に2016年7月31日(日)に投開票が行なわれた東京都知事選挙では事前の予測通りに落選した。

1989年12月3日(日) 米ソ首脳会談を開催中の地中海の真ん中に位置する旧英領マルタ島(マルタ共和国)にて冷戦終結が宣言される。第二次世界大戦(Second World War; World War II, 1939-45)末期から続いていた米ソ両陣営による「冷たい戦争」こと、冷戦(Cold War, 1945-89)の終結をアメリカ合衆国(USA: United States of America)のブッシュ(George H. W. Bush, 1924-2018; 大統領在任1989-93)大統領=通称 パパ・ブッシュ(Papa Bush)と、ソヴィエト連邦(ソ連)のゴルバチョフ(Михаил Сергеевич Горбачёв = Mikhail Sergeyevich Gorbachov; 英 Mikhail Gorbachev, b.1931; ソ連最高指導者・ソ連共産党中央委員会書記長在任1985-91; 大統領在任1990-91)書記長=通称 ゴルビー(Gorby)が高らかに宣言。世界のマスコミは「ヤルタからマルタへ」(From Yalta to Malta)という語呂合わせで、1945年2月4日(日)から11日(日)にかけて開催されたヤルタ会談(Yalta Conference)で冷戦が開始されたが、四十五年近く後のマルタ会談(Malta Conference)で冷戦が終結したことを祝福した。

1989年12月上旬 「セクシャル・ハラスメント」(sexual harassment: 「性的嫌がらせ」の意)が、その年の新語・流行語大賞で新語部門・金賞に選ばれる。これは同年(1989年)に福岡県福岡市内の出版社を退社した31歳の元女性社員が、上司だった37歳の男性編集長と元勤務先の会社を相手に起こした民事裁判が世間の注目を集めたことに由来する。三年後の1992年に原告女性が勝訴し、男性編集長と会社は165万円の支払いを命じられることになる。

1989年12月15日(金) 国際連合(国連)総会で多国間条約「市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書」(Second Optional Protocol to the International Covenant on Civil and Political Rights)=日本での通称「死刑廃止条約」が、59対26の賛成多数で採択される。賛成に回ったのは英仏等の欧州諸国が目立ち、日米は先進国としては珍しく反対に回る。効力の発生は1991年7月11日(木)。二十年後の2009年12月15日(火)時点での加盟国数は72ヶ国。日本国は署名も批准もしていない。

1989年12月29日(金) 平成元年=1989年内最終営業日となったこの日、東京証券取引所で大納会。日経平均株価が過去最高の3万8915円87銭(JPY38,915.87)を記録。一年後の1900年末には4万8千円(JPY48,000)の大台に乗るとする強気の見方も出る。しかしながら、これをピークに1990年代に入ると株価は一転大幅下落に転じることとなる。

1990年(平成2年)1月13日(土) 十一年前の1979年1月13日(土)に全国の国公立大学に導入された大学共通第一次学力試験(共通一次)の発展型としての大学入試センター試験(略称 センター試験 or センター入試)が始まる。国公立大学のみならず私立大学も試験成績を利用できるよう制度が改められたため、慶應義塾大学(略称 慶大; 本部在東京都港区)など16校のみが参加。ところが件(くだん)の慶大は2012年(平成24年)1月のセンター試験から撤退し、2021年(令和3年)1月の第1回共通テストにも参加していない。初年度のセンター試験は約43万人が受験。また、この年は空前の大学入試志願者増が見られ、国士舘大学(本部在東京都世田谷区)が前年比51%増、亜細亜大学(本部在東京都武蔵野市)は前年比31%増、そして立正大学(本部在東京都品川区)は東京ドーム(在東京都文京区)を連日借り切って受験会場としたことで話題をさらう。

1990年 日本の経済バブルが崩壊。同年3月、社会問題化した土地価格の高騰を抑制するために大蔵省(現在の財務省の前身)が金融機関に通達した不動産向け融資の総量規制を契機として、当時31,000円台だった日経平均は半年で10,000円以上も下落。株価急落に慌てた政府は同年10月、株式など有価証券を担保とする取引の規制緩和を発表するなど梃(てこ)入れを図(はか)ったが、バブルの破裂を回避することはできず。(2015年6月9日(火)付の時事通信の回顧記事「日本中が酔ったバブル=リスク見失った株式市場【戦後70年】」 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201506/2015060900385 に依拠)

1990年11月12日(月) 平成天皇(へいせい てんのう; Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019; 学習院大学中退)=後の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)の即位の礼(英国の戴冠式 たいかんしき = Coronation コロネイション に相当)に出席するため、関係の冷え切ったウェールズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)とダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)の仮面夫婦が二度目の訪日。なお、平成天皇は即位の礼を東京で執り行なった史上初の天皇。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831232_00000&seg_number=001

1991年(平成3年) 文部省(現在の文部科学省)が「優れた研究者や高度な専門能力を持った職業人を養成する」ことを目的に「大学院重点化政策」を打ち出す。この政策の狙いは、大学院と院生の数を国策として増やすことで、当時見通されていた「18歳人口の大幅な減少によって起こる学生数の減少」を補おうとするものだった。大学側からすれば、少子化によって入学希望者が減る中で大学経営を安定させ、教員の身分を保証するためには好都合だったが、大学教員の求人はむしろ減少したため、せっかく博士号を取得しても研究者・大学教員として就職できない状況が続くことになる。企業側も「高度な専門能力を持った博士」などよりも若くて元気で頭もまっさらな学部新卒を求める状況は変わらずにある。高学歴ワーキングプアが大量生産された元凶が文部省の大学院重点化政策である。

1991年 バブル崩壊で日本経済が失速。これ以降、「失われた20年」。

1991年3月 明治大学大量留年事件。同大学法学部法律学科の卒業予定者1,024人のうち、257人が留年することがマスコミに報じられ社会的な注目を集める。同大学では1980年代から1990年にかけて例年100人程度の者が卒業予定者でありながら留年しているが、この1991年にはその数が約2.5倍になったことで騒動になる。それだけ増えたのは必修科目「債券法」の未履修者(単位未修得の者)が148人もいたことが原因だという。そもそもこの「債券法」は2年次から3年次にかけて履修する科目だが、そこで単位を落とした場合は4年次に再試験のチャンスが与えられ、しかも卒業直前の3月には特別試験も実施されている。この時に実施された特別試験は資料の持込可で、「わが民放のもとで、契約を破る自由は、どのように理解されるべきか。参考文献を掲げて論ぜよ。」という一問だけだったとのこと。担当教授によると、例年通りの基準で採点したが、学生の質が落ちてしまったため、例年以上の不合格者を出してしまったとのこと。(サラセツチャンネル https://www.youtube.com/watch?v=3JeqI1utomA

1991年4月1日(月)~同月29日(月・祝) 明治大学替え玉受験事件。明治大学商学部二部(夜間部)の入学手続きで、受験票の人物顔写真と学生証の本人顔写真が明らかに異なる学生 が1名見つかり、替え玉受験が発覚。同大学は4月29日(月・祝)までに不正入学と判断して入学を取り消す。しかし替え玉受験は1人だけではなかった。不正入学の1人が有名タレントで同大学OB、なべおさみ(本名 渡辺修三, b.1939)の子息で当時は一般人だった、なべやかん(本名 渡辺心(わたなべ しん), b.1970)だったこと、また仲介役の中心人物がアマチュア野球で名を馳せた同大学野球部の元監督でもあった会社役員、光沢毅(みつざわ たけし, b.1936)容疑者と、同大学相撲部の元監督で同大学研究所職員、滝沢憲太郎(たきざわ けんたろう, b.1942?)容疑者だったことから、一層注目を集めた。光沢容疑者からの依頼で滝沢容疑者や同大学教務事務部の下原卓(当時56歳)容疑者らが動き (3人とも有印私文書偽造・行使で実刑判決)、同大学の在学生(当時22歳)の調達役が替え玉の学生らを手配していた。判明した替え玉受験は、政経学部、 経営学部、二部法学部、二部商学部の4学部を合わせて20名、そのうち合格者は14名で、入学手続きをした者は7名だった。替え玉役は明治大学のみならず、早稲田大学、慶應義塾大学、立教大学の計4大学の在学生13名(そのうち1名は事件発覚直前の1991年3月に卒業済)であり、1人で4学部を替え玉受験した者もいた。依頼した親は13人で、動いた現金は総額一億二千万円を上回り、依頼者の謝礼は九百万円から一千五百万円だった。芸能人、なべおさみ (渡辺修三)は謝礼はなかったと主張し、頑強に否定したが、逮捕された関係者は仲介者を通して、替え玉受験の依頼者から多額の現金を受け取っていたことも裁判で明 らかになった。当初は「楽屋を訪ねて来た見知らぬ紳士から話を持ちかけられた」「特別な推薦枠があると言われた」などと否定していたが、最終的には「知人に話を持ちかけられた」と不正を認め謝罪したが、「推薦入学の話だと思っていた」として、「替え玉であったことまでは知らなかった」という苦しい弁解をし た。しかしこのような荒唐無稽な言い訳を信じる者はおらず、なべ(渡辺)は日本テレビ系列局のワイドショー「ルックルックこんにちは」を降板するなど、芸能活動を自粛するに至った。過去にワイドショーなどで、なべが度々「教育評論家」的な発言をしており、あまりの言行不一致によりマスコミの格好の餌食に なった。明治大学の不正入学は1981年から続けられ、1991年春のような替え玉受験は1984年から、滝沢容疑者らが受験票の顔写真を張り替えて、 1990年までに20人超を合格させていた。替え玉受験した大学生12名は起訴猶予処分になったものの、各大学は厳しい処分を下し、8名が退学処分、4名が停学処分となった。彼らは合格点を取った場合は三十万円、不合格でも十万円の報酬を受け取っていた。金銭欲とゲーム感覚で犯罪に加担するような非常識や倫理欠如が世間の耳目(じもく)を集めた。(自由国民社『現代用語の基礎知識 1992年版』と、ウィキペディア日本語版と、個人サイト「戦後史の激動」の中の「なべやかん、明治大学替え玉受験事件を振り返る」 http://sengoshi.blog.so-net.ne.jp/2014-03-12 に依拠)

1991年7月11日(木) 『悪魔の詩』訳者殺人事件。筑波大学構内のエレベーターホールで当時四十四歳の助教授(現在で言う准教授)の五十嵐一(いがらし ひとし, 1947-91)氏が何者かによって首を斬りつけられて刺殺される。五十嵐助教授は1976年から’79年までパフラヴィー(Mohammad Rezā Shāh Pahlavi, 1919-80; 在位1941-79)皇帝の帝政時代のイランに留学してイラン王立哲学アカデミー研究員を務め、帰国後は1986年から筑波大学で助教授として勤務していた。在職中の1990年にはインド生まれの英国作家サルマン・ラシュディ(Sir Salman Rushdie, b.1947)の小説『悪魔の詩(The Satanic Verses)』 (1988年)を日本語に翻訳刊行していた。この小説については1989年2月14日(火)にイラン革命政府の最高指導者ルーホッラー・ホメイニー師 (Āyatollāh Rūhollāh Khomeinī, 1902-89; 最高指導者在任1979-89)が反イスラム的で冒瀆(ぼうとく)的だという理由で、著者のラシュディ氏及びその 発行に関わった者に対する死刑宣告をイスラム法の解釈であるファトワー(fatwa)として宣告し、「処刑」を実行した者に懸賞金を出すとしていた。それから四ヶ月も経ていない同年6月3日(土) に当のホメイニーが心臓発作で死去したが、ファトワーは発した本人以外は撤回できないので、撤回は永久に不可能となった。同年にはイタリアやノルウェーで も襲撃事件があり、翻訳者が重傷を負っていた。二年後の1993年にはトルコ語翻訳者の集会が襲撃され、37人が死亡するという陰惨な事件も起きている。筑波大学の事件直後からイラン革命政府との関係が取り沙汰されたが、茨城県警の捜査には何ら進展が見られず、事件は迷宮入りした。但し、文藝春秋発行の『週刊文春』 1998年4月30日(木)号は治安当局の極秘報告書を同誌が独自に入手したとのことで、それによると東京入国管理局は筑波大学に短期留学していたバングラデシュ人学生を容疑者としてマークしていたが、この学生は事件当日昼過ぎに新東京国際空港(現在の成田国際空港)からバングラデシュに帰国したとのこと。しかしイスラム教の国々との関係悪化を恐れる日本国政府は及び腰となり、茨城県警に捜査の打ち切りを命じたとのこと。その後、1998年にイラン革命政府はファトワーを撤回することはできないが、今後一切関与せず、懸賞金も支持しないとの立場を表明した。事件から十五年後の2006年7月11日(火)に公訴時効が成立し、五十嵐助教授殺害事件は未解決事件となった。2012年9月16日(日)にはイラン国内のイスラム強硬派宗教財団が著者ラシュディ氏らへの処刑実行者に対する懸賞金を上積みしたと報じられた。(ウィキペディア日本語版を参照した上で加筆修正)

1991年10月28日(月) その年(1991年)3月に四年制大学を卒業した男女の就職状況に関する統計が発表され、女子の就職率81.8%が初めて男子の81.1%を上回る。

1992年(平成4年)2月25日(火) 東京大学(東大)の国立大学入試二次試験の「国語」現代文の第二問に、山田洋次(やまだ ようじ, b.1931; 東京大学法学部卒)原作・脚本・監督、渥美清(あつみ きよし, 1928-96; 旧制私立巢鴨中學校=現在の巣鴨中学校・高等学校中退)主演の連作映画 『男はつらいよ』(1969-2019年)の主人公、「フーテンの寅(とら)さん」こと車寅次郎(くるま とらじろう)に関する設問が出題され、東大の大衆迎合的な姿勢が話題になる。それは下記のような問題だった。[改行] 次のア・イ・ウは、同じ主人公が登場するシリーズものの映画のせりふである。ア・イ・ウのいずれかを選び、それを手掛かりとして、感じたこと、考えたことを、一六〇字以上二〇〇字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、手掛かりとして選んだものの記号を記入せよ。[改行] 注意 採点に際しては、表記についても考慮する。[改行] ア 「インテリというのは自分で考えすぎますからね、そのうち俺(おれ)は何を考えていただろうって、分かんなくなってくるんです。つまり、このテレビの裏っ方でいいますと、配線がガチャガチャにこみ入っているわけなんですよね、ええ、その点私なんか線が一本だけですから、まァ、いってみりゃ空っポといいましょうか、叩(たた)けばコーンと澄んだ音がしますよ、なぐってみましょうか」[改行] イ 「寅さん、人間はなぜ死ぬのでしょうね」[改行] 「人間? そうねえ、まァ、なんて言うかな、結局あれじゃないですかね、人間が、いつまでも生きていると、陸(おか)の上がね、人間ばかりになっちゃう—うじゃうじゃ、うじゃうじゃメンセキが決まっているから、みんなでもって、こうやって満員になって押しくらマンジュウしているうちに、足の置く場がなくなっちゃって、隅っこに居るやつが、アアなんて海の中へ、パチャンと落っこって、アップ、アップして 『助けてくれ! 助けてくれ!』 なんてね、死んじゃう。結局、そういうことになってるんじゃないですか、昔から。そういうことは深く考えないほうがいいですよ」[改行] ウ 「梅の花がさいております。どこからともなく聞こえてくる谷川のせせらぎの音も、何か春近きを思わせる今日この頃(ごろ)でございます。旅から旅へのしがない渡世の私共が、粋(いき)がってオーバーも着ずに歩いておりますが、本当のところ、あの春を待ちわびて鳴く小鳥のように、暖かい陽(ひ)ざしのさす季節に、恋い焦がれているのでございます」[改行] (出典 山田洋次監督 『男はつらいよ』)[改行] 竹内康浩 『東大入試 至高の国語「第二問」』(朝日新聞出版 朝日選書 No.846, 2008年)に依拠。

1992年10月17日(土) 米国ルイジアナ州州都バトンルージュ市(Baton Rouge, Louisiana)の民家で16歳の服部剛丈(はっとり よしひろ, 1975-92)君射殺事件が発生。留学先の地元のハロウィーン・パーティー(Halloween party)に出席するため1970年代のディスコ風の仮装をした日本人男子の高校交換留学生が米人同級生と共に訪問する家を間違え、咄嗟(とっさ)の時に相手の英語の詞(ことば)「フりーズ」(“Freeze!”: 直訳「凍(こお)れ」、意訳「動くな!」)が理解できなかったため(一説には “Please.” と聞き間違えたとも言われる)、その家の当時30歳の家主(Winn-Dixie スーパーマーケット店員)、ロドニー・ピアーズ(Rodney Peairs, b.1962?)に強盗と誤認され、服部君1人のみ44口径マグナム回転式拳銃(.44 Magnum revolver)で射殺された。一緒に居た米人同級生は “Freeze!” の意味を理解して無事だった。家主ピアーズは刑事裁判で正当防衛を主張し、事件の翌年(1993年)5月に無罪判決を勝ち取った。しかしながら、その後、遺族(犠牲者の両親)が起こした損害賠償を求める民事裁判では刑事裁判とは正反対の結果となり、正当防衛ではなく殺意を持って射殺したとして65万3000米ドル(当時の為替レートで約7000万円)を支払うよう命令する判決が確定した。ところが被告のピアーズ及びその妻は、裁判所に命じられた賠償金65万3000ドルのうち、現在に至るまでその一切を支払わずに自己破産して街を出た。遺族(犠牲者の両親側)に支払われたのは、家主ピアーズが自宅にかけていた保険により保険会社から直接支払われた10万ドル(裁判所に命じられた金額の約15.3%)のみである。犠牲者の両親である服部夫妻は保険金を基(もと)にして「Yoshi の会」を立ち上げ、交換留学生や友人たちの協力で「アメリカの家庭からの銃の撤去を求める請願書」に署名を求める活動を開始し、1年余で170万人分を超える署名を集めた。1993年11月には当時のクリントン(Bill Clinton, b.1946; 大統領在任1993-2001)米大統領に署名を届けるために面会した。「フりーズ」というサヴァイヴァル英語は日本で有名になる。ハロウィーンは当時一部の企業が日本でも流行させようと画策(かくさく)していたが、この事件で染みついた暗いイメージにより以後二十年程度は封印され、日の目を見ることがなかった。なお、似たような事件は約十五ヶ月後の1994年1月7日(金)夜に米国テキサス州ヒューストン(Houston, Texas)でも起きていて、道に迷ったスコットランド人男性が道を訊こうと民家の玄関ドアを叩いただけで強盗と誤認されて射殺された。

1993年(平成5年) この年の高卒者のうち、それまでトップだった「就職」が「大学等進学(現役)」に取って代わる。進学率34.5%、就職率33.1%という具合に進学率が初めて就職率を抜く。

1993年1月19日(火) 皇太子徳仁親王(こうたいし なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960)=後の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Naruhito, b.1960; 学習院大学卒、オクスフオッド大学マートン学寮留学、学習院大学大学院修士)と、外務次官小和田恆(おわだ ひさし, b.1932; 東京大学卒; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)氏の長女で外務省(MOFA: Ministry of Foreign Affairs)の女性キャリア外交官、小和田雅子(おわだ まさこ; Masako Owada, later Princess Masako; even later Empress Masako, b.1963; ハーヴァード大学卒、東京大学中退、オクスフオッド大学ベァリオル学寮留学)嬢との婚約が皇室会議で認可され、内定したことを受け、二人が合同記者会見に応じる。その席で雅子嬢の「こう言ってはちょっと失礼かも知れませんが、(皇太子殿下は)とても人間のできた方でいらっしゃるということに敬服いたしました。」や「私(わたくし)で出来ることでしたら、殿下のことを幸せにさして、あのー、さして、幸せにして差し上げたいというふうにお受けしました。」という上から目線の言葉に宮内庁(くない ちょう: 英称 Imperial Household Agency)の役人は唖然。

(婚約会見の動画)

https://www.youtube.com/watch?v=TMBFa7fL0zU

1993年4月1日(木) 四十二年前の1951年に創立されていた会津短期大学(在福島県会津若松市)を母体として日本初のコンピュータ専門大学として会津大学(在福島県会津若松市)が開学。元からあった会津短大は会津大学短期大学部へ組織変更。

1993年4月12日(月) 皇室の「納采の儀」により、皇太子徳仁親王(こうたいし なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960)=後の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Naruhito, b.1960; 学習院大学卒、オクスフオッド大学マートン学寮留学、学習院大学大学院修士)と、小和田雅子(おわだ まさこ; Masako Owada, later Princess Masako; even later Empress Masako, b.1963; ハーヴァード大学卒、東京大学中退、オクスフオッド大学ベァリオル学寮留学)嬢の婚約が正式に成立。

1993年6月9日(水) 皇太子徳仁親王(こうたいし なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960)=後の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Naruhito, b.1960; 学習院大学卒、オクスフオッド大学マートン学寮留学、学習院大学大学院修士)が、外務次官小和田恆(おわだ ひさし, b.1932; 東京大学卒; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)氏の長女で外務省(MOFA: Ministry of Foreign Affairs)の女性キャリア外交官、小和田雅子(おわだ まさこ; Masako Owada, later Princess Masako; even later Empress Masako, b.1963; ハーヴァード大学卒、東京大学中退、オクスフオッド大学ベァリオル学寮留学)嬢とご成婚。二人は皇居から東宮仮御所までオープンカーでパレードし、沿道には約19万人が詰めかける。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831253_00000&seg_number=001

1993年8月9日(月) 三十八年前の1955年に結党して以来一貫して政権を維持してきた自由民主党(自民党)が初めて最大野党に転落。日本新党党首で肥後藩外様大名細川家の当主で元熊本県知事の細川護煕(ほそかわ もりひろ, b.1938; 首相在任1993-94; 上智大学卒)が総理大臣となり、日本新党、新生党、公明党、日本社会党(社会党、後の社民党)、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の非自民・非共産八党連立内閣を組閣(八ヶ月半の短命内閣)。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831251_00000&seg_number=001

1993年 幕末期の1864年と1865年に長州藩と薩摩藩から派遣された日本人19名全員を顕彰する記念碑がロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(UCL: University College London)の中庭に建立(こんりゅう)される。

1994年(平成6年)4月23日(土) 11:00頃、女性清掃員(氏名非公開)が井の頭恩賜公園=通称 井の頭公園(在東京都三鷹市・武蔵野市)野外ステージ脇のゴミ集積所のごみ箱内に、ポリ袋に入れられた人間の切断遺体の一部(左足首)が入っているのを偶然に発見。遺体が入れられた袋は、穴が開いた水切り用の黒いポリ袋と東京都推奨の炭酸カルシウム混入半透明ゴミ袋の二重構造で、きつく縛られていた。結び目でひっくり返してもう一度同じ袋で包むという特殊なやり方での梱包が、調理人・釣り人・漁師など魚を扱う人が内容物の水や臭いを外に漏らさないための方法と言われ、病院の汚物処理と同じ方法ともされる。袋の結び目は「団子状に重ねられて」おり、非常に固かった(何重にも結び目を作っていた、ということかと思われる)。第一発見者の女性が袋を手で開けようとしたが、結び目がほどけず、やむなく竹串で破くようにして中身を改めたという。警視庁三鷹署と警視庁捜査一課で捜査が進められ、公園のごみ箱の中から合計27個(33個という情報もあり)の人体の一部が発見され、バラバラ殺人事件であることが判明。それらのゴミ箱は中が見えない郵便ポスト型で、投入口のサイズは20センチ×30センチだった。しかし見つかった部分は足と腕、胴体の一部でしかなく、胴体の大部分と頭部は見つかっていない。三日後の同年(1994年)4月26日(火)、DNA型や僅かに残っていた真皮の指紋や傷つけられた掌紋の一部によって遺体の身元が特定され、被害者は同公園近く(同公園内の井の頭池の東端から北へ約100メートル)の東京都武蔵野市吉祥寺南町一丁目在住で、大手建築事務所(本社在東京都港区新橋)勤務の一級建築士川村誠一(かわむら せいいち, 1958?-94; 東洋大学卒)氏=35歳と判明。二日前の1994年4月21日(木) にかつての職場に近い高田馬場駅附近で、かつての同僚6人に昇進祝いをやってもらった後で同日23:30頃JR新宿駅にて乗り換えのためかつての同僚1人と別れたのを最後に行方不明となり、妻から捜索願が出されていた。遺体の指紋は入念に刃物で削ぎ落されていた。通常のバラバラ殺人の場合、遺体は切断しやすい関節部分を中心に切り離されることが多いが、今回の遺体の部位はどれも寸法22センチのブロック状に切り分けられ、血をほぼ完全に抜かれて公園内の7ヶ所のごみ箱に投入されていた。ごみ箱はすべて井の頭池の周辺に設置されたもので、事件発生後に撤去されてしまった。川村誠一氏と二世帯住宅で一緒に暮らしていた父親の川村誠蔵(かわむら せいぞう, 1927?-97; 東京大学卒)氏は、「風化させたくない」との思いから、事件から約十ヶ月後の1995年2月、息子の思い出や事件のことを綴った手記『心事の軌跡』(創英社, 1995年)を、他の遺族の反対を押し切り、「創英社」なる出版社まで立ち上げて67歳にして自費出版し、その二年後の1997年に満69歳で歿している。2009年4月23日(木) 0:00に公訴時効が成立し、未解決事件となる。世に言う「井の頭公園バラバラ殺人事件」。なお、遺体の部位が発見された日は、日本の大学の英文科では「人殺し色々」の語呂合わせで生歿年を覚える慣習があるシェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)の生誕四百三十年、歿後三百七十八年の日である。事件発覚から三日後の同年(1994年)4月26日(火)に中華航空140便墜落事故が起こり、報道と世間の目はそちらへ向けられてしまう。そして十一ヶ月後の1995年3月20日(月)には東京都心部で地下鉄サリン事件が起こったことで捜査一課が招集され、井の頭公園バラバラ殺人事件の捜査本部は解散してしまう。井の頭公園で回収された遺体は、三鷹市内の杏林大学(本部在東京都三鷹市)病院へ送られ司法解剖されている。27個のパーツに分かれた遺体は全部合わせても体全体の三分の一程度、20数キロ程度しかなかった。解剖を担当した佐藤喜宣(さとう よしのぶ, b.1949; 日本大学卒、同大学大学院修了)教授(後に名誉教授)・医学博士(日本大学)が最初に気づいたのはビニール袋の遺体のそれぞれが同じ長さで切断されていたことだった。長さだけではなく、肉を削ぐなど太さも揃えられていた。従来のバラバラ殺人の場合、遺体の切断は思った以上に時間がかかる。また切断も大変なため、切りやすい関節あたりを切断するのだが、この事件の遺体は関節など関係なく、時間をかけて均一の大きさに切断されていた。死因については遂(つい)に確定することはできなかった。毒物で殺害された場合、骨髄に何かしらの物質が発見されるはずだが、それらは検出されなかった。交通事故などの場合、手足にも傷が残るだろうが、発見された遺体には傷らしいものはなかった。そうなると頭部損傷や窒息死が考えられるが、頭部が発見されなかったので特定できなかった。デイリーニュースオンライン(Daily News Online)が興味深い説を提唱していて、被害者の川村一級建築士は露天商との人違いで殺害された可能性が高いとのこと。1994年当時、日本全国の繁華街にヒッピー風の観光客を装った外国人露店商が急増しており、母国での兵役が始まるまでの間の休暇中に、世界を旅しては現地で露天商をして旅費を稼いでいた。「外国人」は北朝鮮人なのか、韓国人なのか、はたまたイスラエル人なのか諸説あるが、その国の特務機関に属する工作員であることは確かだという。事件現場付近の露天商仲間の顔役にA氏がいたが、外国人露天商との縄張り争いが起こり、暴力団関係者の協力を得て外国人の締め出しを画策するも、特務機関工作員らの逆鱗(げきりん)に触れてしまい、命を狙われる。その事実を知ったA氏は活動拠点としていた吉祥寺付近には近寄らないようにし、都内のビジネスホテルを転々としながら工作員に見つからないように逃げ回る生活を余儀なくされていた矢先に、このバラバラ殺人事件が起こったとのこと。A氏はかねてから被害者の川村誠一氏の知人らに人違いで声をかけられており、「井の頭公園バラバラ殺人事件」が起きて川村誠一氏の写真を見た時に、あまりに酷似していたことに驚いたと明かす。「ワイドショーか何かで見て、私が事務所として使っていた家のすぐ近くが画面には映っていて……被害者の方の映像を見たときは、背筋が凍る思いだったよ。そして、“あぁ、この人は私と間違われて殺された”と確信しました。」とのこと。殺害された川村氏の自宅と、A氏が倉庫代わりに借りていた物件は目と鼻の先でもあった。(yabusaka氏の個人サイト「事件録」と、2008年2月2日(土)付の個人サイト「沸騰する人たち・煮えたぎるモンスターたち」と、2015年3月19日(木)付のデイリーニュースオンラインの猪俣進次郎記者署名記事「時効から6年「井の頭公園バラバラ殺人」の驚くべき真相【前編】」と、2018年1月25日(金)付の個人サイト「ピグの部屋」の項目「井の頭公園バラバラ殺人事件・その3」と、2020年9月18日(金)付のヤフーニュースに転載された現代ビジネスのオンライン記事に依拠)

1994年4月25日(月) 八ヶ月半前の1993年8月9日(月)に組閣していた細川護煕(ほそかわ もりひろ, b.1938; 首相在任1993-94; 上智大学卒)内閣が佐川急便からの違法献金を巡る問題で総辞職。肥後藩外様大名細川家の当主であることから、マスコミは「細川バカ殿」と揶揄(やゆ)する。日本新党と新生党と民社党と自由党と改革の会が衆院会派「改新」を結成。

1994年4月26日(火) 日本社会党(社会党、後の社民党)が連立政権から離脱。

1994年4月28日(木) 小田急バス元社員で新生党党首の羽田孜(はた つとむ, b.1935; 首相在任1994; 成城大学卒)内閣が発足(二ヶ月の短命内閣)。日本新党は連立与党に留(とど)まる。

1994年6月25日(土) 二ヶ月前の4月28日(木)に組閣したばかりの羽田孜(はた つとむ, b.1935; 首相在任1994; 成城大学卒)内閣が総辞職。

1994年6月30日(木) 自由民主党(自民党)が日本社会党(社会党)と新党さきがけと連立(自社さ連立)を組み、僅(わず)か十一ヶ月足らずで政権与党に返り咲くが、社会党から村山富市(むらやま とみいち, b.1924; 首相在任1994-96; 明治大学夜間部卒)を総理大臣に擁立(ようりつ)したため、自民総理はお預け状態となる。日本新党は下野(げや)する。「自社さ」三党連立の枠組は、第二次橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう, 1937-2006; 首相在任1996-98; 慶應義塾大学卒)改造内閣が終了する1998年中盤まで引き継がれる。

1994年10月 大江健三郎(おおえ けんざぶろう, b.1935; 東京大学卒)にノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur; 英 Nobel Prize in Literature)を授与すると瑞典アカデミー(典 Svenska Akademien; 英 Swedish Academy)が発表。授賞式は同年(2020年)12月。日本人としては1968年ノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur 1968; 英 Nobel Prize in Literature 1968)を受賞した川端康成(かわばた やすなり, 1899-1972)に次ぐ二人目のノーベル文学賞受賞者と成る。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831260_00000&seg_number=001

1994年12月9日(金) 同年6月30日(木)に下野(げや)していた日本新党が解党。

1994年12月10日(土) 元自民党員で新生党の小沢一郎(おざわ いちろう, b.1942; 慶應義塾大学卒)議員を中心とした新進党が結党。

1995年(平成7年)1月17日(火) 戦後五十年の節目の年が明けて間もなく、阪神淡路大震災(神戸大地震)で5千人余りが死亡(地震関連死を含めると最終的に6,434人)。大学・短大の学生では計111人が死去(なお、十六年後の2011年3月11日(金)の東日本大震災では48人)。最多は国立神戸大学(在兵庫県神戸市灘区)で39人。同大学からは教職員からも2人の死者を出す。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831036_00000&seg_number=001

1995年3月20日(月) カルト教団「オウム真理教」による東京営団地下鉄(現在の東京メトロの前身)へのサリンばら撒き行為で14人が死亡。負傷者は6,300人にものぼる。世に言う「地下鉄サリン事件」。一連の「オウム事件」では一流大学の卒業生たちがカルトに入信して次々と凶悪犯罪を引き起こしていたことが社会に衝撃を与える。オウム幹部上祐史浩(じょうゆう ふみひろ, b.1962; 早稲田大学大学院修士課程修了)の恋人で、オウム真理教西信徒庁長官だった都沢和子(みやこざわ かずこ, b.1965; 昭和女子大学短期大学部卒)も事件に連座して逮捕され、有罪判決を受ける。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831266_00000&seg_number=001

1995年 英王室のダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)が英国赤十字社(British Red Cross)副会長として訪日。ダイアナ妃にとっては三度目(そして最後)の訪日であり、平成天皇(へいせい てんのう; Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019)=後の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)と皇后美智子(こうごう みちこ; Empress Michiko, b.1934)=後の上皇后美智子(じょうこうごう みちこ; Empress Emerita Michiko, b.1934; 聖心女子大学卒)の両陛下を皇居に、そして皇太子徳仁親王 (こうたいし なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960)=後の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Naruhito, b.1960; 学習院大学卒、オクスフオッド大学マートン学寮留学、学習院大学大学院修士)と、雅子妃(まさこ ひ; Princess Masako, b.1963)=後の皇后雅子(こうごう まさこ; Empress Masako, b.1963; ハーヴァード大学卒、東京大学中退、オクスフオッド大学ベァリオル学寮留学)を東宮御所に、それぞれ表敬訪問する。なお、別居中のウェールズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)は日本へ同行せず。

1995年3月~12月 拓殖大学紅陵高等学校(在千葉県木更津市)で「体罰受けた」と民事裁判で訴えられたことを受けて、同高校の体育館で異例の現場検証が行なわれたほか、私立高校としては異例となる千葉県の公文書公開条例に基づいて体罰報告書が部分開示される。千葉県が体罰などがないか指導方法について実態調査を行ない、指導方法の改善を図ることになる。(1995年3月31日(金)付と同年8月30日(水)付と同年9月9日(土)付と同年12月25日(月)付と同年12月26日(火)付の毎日新聞の記事に依拠)

1995年6月 国立熊本大学医学部で一気飲み死亡事件が発生。飲み会には卒業生(OB)の医師たちも参加していて、居酒屋の近所に住む学生の部屋には用意周到に段ボールを敷いて「つぶれ部屋」としていて、酔い潰れた学生を運ぶ手筈まで整えていたという。1年生は先輩と一対一で焼酎の早飲みバトルを強(し)いられ、負けると別の先輩と早飲みバトルを連続して行なわねばならないという伝統のルールがあった。件(くだん)の「つぶれ部屋」に運ばれた1年生のうちの一人が翌朝には急性アルコール中毒で死亡していた。病院に連れて行くべきではないのかと何人かのOBや先輩の脳裏を過(よぎ)るが、大事(おおごと)に成れば今後の活動に響くだろうと考え、「つぶれ部屋」で済ませてしまったのが死に至った。医師も絡んだ一気飲み死亡事件として世間は衝撃を受ける。遺族が立ち上がり、飲み会に参加したOB医師や先輩たちを告訴するも、検察は嫌疑不十分で不起訴とする。遺族は検察審議会を通じて強制起訴に持ち込もうとするも、ここでも不起訴処分となる。今度は遺族が民事訴訟を起こし、熊本地方裁判所(熊本地裁)では遺族が敗訴するも、福岡高等裁判所(福岡高裁)で遺族が逆転勝訴し、最終的には最高裁判所(最高裁)が高裁の判決を支持。

1996年(平成8年)1月11日(木) 自由民主党(自民党)党首の橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう, 1937-2006; 首相在任1996-98; 慶應義塾大学卒)が総理大臣に就任することで、二年五ヶ月ぶりに自民総理が誕生するが、1994年6月末以来続く「自社さ連立」(自由民主党と日本社会党と新党さきがけの連立)は1998年中盤まで維持。

1996年3月 ドイツ連邦議会で新興宗教監視法人である「精神的・心理的自由のための活動 社団法人新興宗教・心理マーケティング連邦連盟」(AGPF: Aktion für Geistige und Psychische Freiheit—Bundesverband Sekten- und Psychomarktberatung e.V.)が提案し、同議会と各州政府での協力の下(もと)で、日本最大級の新興宗教団体「創価学会」(在東京都新宿区)が「危険なカルト・セクト団体」 に指定される。創価学会側は反撥(はんぱつ)するも、二十五年前の1971年創立の創価大学へのドイツ人留学生ゼロの状態が続く。

(外部サイト: ドイツ語のみ)

http://www.agpf.de/Bundestag-Enquete-Bericht-1998.pdf

1996年4月11日(木) 23:30頃、JR池袋駅の山手線外回り7・8番線ホームで立教大学4年次在学中の小林悟(こばやし さとる)氏=21歳がサラリーマン風のスーツ姿の男に絡まれ、顔を殴られ転倒した際に後頭部を強打し、五日後の同年(1996年)4月16日(火)に収容先の病院で死亡。目撃者の証言によると、犯人は事件後、山手線で日暮里駅方面に向かったというが、その後の足取りは不明。被害者は帰宅途中で、犯人の男との何らかのトラブルに巻き込まれたと見られている。当初は傷害致死事件として扱われていたが、2002年7月に被害者の父親である小林邦三郎(こばやし くにさぶろう, 生年非公開)氏が35,000人分の署名と公訴時効延長を求める嘆願書を法務省(英称 Ministry of Justice)に提出した結果、傷害致死罪の公訴時効(7年)成立直前の2003年3月に容疑が殺人罪(当時15年)に切り替えられる。2010年4月に殺人罪の時効が撤廃されると同時に警察庁の捜査特別報奨金制度対象事件となったが、二年後の2012年度に遺族が同指定を辞退。辞退の理由については警視庁の片桐裕(かたぎり ゆたか, b.1951; 長官在任2011-13; 東京大学法学部卒)長官への要望書( http://www.ll.em-net.ne.jp/~deguchi/action/doc/2012_04_16.pdf )の中で理路整然と説明。世に言う「池袋駅構内大学生殺人事件」または「立教大生殺人事件」。事件から二十四年半余りが経過した2020年12月11日(金)に警視庁が容疑者不詳で書類送検する方針を固めたことが、2020年12月8日(火)に判明する。警視庁は今後も情報提供は求めるとしていますが、事実上の捜査終結となる。(犯罪被害者家族の会 Poena(ポエナ)の公式サイトと、警視庁の特設ウェブページ「JR池袋駅山手線ホーム上立教大生殺人事件」と、2020年12月8日(火)付のヤフーニュースに転載された産經新聞のオンライン記事と、同転載のテレビ朝日系ANNニュースのオンライン記事に依拠)

1996年5月4日(土) 祝日「子供の日」を翌日に控え、総務庁統計局(現在の総務省統計局)が十五歳以下の子供人口を発表。大正九年=1920年に統計を取り始めて以来初めて子供人口が二千万人(20 million)の大台を割り込んだことが各界に衝撃を与える。

1996年5月10日(金) 二十一年前の1975年5月16日(金)に田部井淳子(たべい じゅんこ, 1939-2016; 昭和女子大学卒、後に九州大学大学院修士)が、標高8,848メートルで世界一高いエヴェレスト山(Mount Everest)への登頂に成功して以来、日本人女性としては2人目(全世界女性としては7人目)として難波康子(なんば やすこ, 1949-96; 早稲田大学卒)が登頂に成功。ところが、翌日(1996年5月11日(土))に下山中の猛吹雪で遭難死。47歳だった。

1996年9月9日(月) 15:50分~16:40頃、東京都葛飾区柴又の自宅2階に一人で居た上智大学外国語学部英語学科4年次在学中の小林順子(こばやし じゅんこ, 1975?-96)嬢=21歳が首を刃物で刺されて殺害される。犯人(身許不明)はその後1階で放火し自宅を全焼させる。現場に残された血液から犯人の血液型はA型と見られる。犯行時間帯、玄関前で雨の中を傘を差さずに立ち、自宅を見つめる不審な男が目撃されている。身長約160センチで、黄土色っぽいコートを着ていたという。警視庁亀有署が捜査本部を設置して捜査するも未解決。世に言う「柴又女子大生放火殺人事件」または「上智大生殺害放火事件」。(2020年9月4日(金)付のヤフーニュースに転載された毎日新聞の土江洋範記者署名オンライン記事に依拠)

1997年(平成9年)4月1日(火) 八年前の1989年4月1日(土)に3%で導入されていた消費税が5%に増税される。これを機に日本経済は益々(ますます)低迷し、増税を実行した橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう, 1937-2006; 首相在任1996-98; 慶應義塾大学卒)首相の綽名(あだな)を取って、「橋龍不況(はしりゅう ふきょう)」と呼ばれた。

1997年同月同日(火) 日本の国立大学における初の女性学長として、丹羽雅子(にわ まさこ, 1933-2019; 奈良女子大学卒)教授(後に名誉教授)・工学博士(京都大学)が、国立奈良女子大学第8代学長に就任。2003年3月31日(月)まで六年間学長を務めることになる。

1997年6月23日(月) 橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう, 1937-2006; 首相在任1996-98; 慶應義塾大学卒)日本国内閣総理大臣がニューヨーク市内の有名私大であるコロンビア大学(Columbia University)で講演をし、その中で「私は何回か日本政府が持っている財務省証券(米国債)を大幅に売りたいという誘惑に駆られたことがある。」と爆弾発言。翌日(1997年6月24日(火))、橋本首相の発言の余波は株価下落に直結し、ウォール街(Wall Street, New York, NY)のニューヨーク証券取引所(NYSE: New York Stock Exchange)では株式と米国債が急落した。1987年の「暗黒の月曜日(Black Monday)」以来最大の192ポイントの下げ幅を記録し、米国のクリントン(Bill Clinton, b.1946; 大統領在任1993-2001; ジョージタウン大学卒、オクスフオッド大学ユーネヴアセティ学寮留学、イェイル大学法科大学院博士課程修了)政権はこれに激怒した。アメリカ株の急落は、日本株の急落にも連鎖的に繋(つな)がった。

1997年10月1日(水) 十一年半前の1986年4月1日(火)に施行されていた「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」(通称 「男女雇用機会均等法」)が、改正施行される。採用・昇進等での男女の機会均等は事業主の努力義務とされていた点が、今回の改正で差別的取り扱いの禁止が定められる。

1997年10月16日(木) 日本長期信用銀行(略称「長銀(ちょうぎん)」; 英称 LTCBJ: Long-Term Credit Bank of Japan)の早期健全化法が国会で可決成立し、同銀行の破産申請が即日認可され、破綻(はたん)。

1997年10月28日(火) 厚生省(現在の厚生労働省)・中央薬事審議会・医薬品特別部会が避妊目的の低用量経口避妊薬(ピル; COCP: combined oral contraceptive pills)を医薬品として承認する見解をまとめる(但し、実際の認可は1999年)。中高年男性が性生活(sex life)を謳歌(おうか)するための医薬品バイアグラ(Viagra)が、あまりにも唐突に認可されたことへの女性団体からの批判を受けて、厚生省が遂に重い腰を上げた。

1997年11月24日(月・祝) 勤労感謝の日の振替休日で祝日だったが、大手証券会社の山一證券が午前6:00から臨時取締役会議を開き、創業百年の節目の年で自主廃業を決定。午前11:30に開かれた記者会見の席で社長(当時)の野澤正平(のざわ しょうへい, b.1938; 法政大学卒)氏は「これだけ言いたいのは…私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから!どうか社員の皆さんに応援をしてやってください、お願いします! 私らが悪いんです、社員は悪くございません! 善良で、能力ある、本当に私と一緒になってやろうとして誓った社員の皆に申し訳なく思っています! ですから、一人でも二人でも、皆さんが力を貸していただいて、再就職できるように、この場を借りまして、私からもお願い致します!」と頭を下げて泣き喚(わめ)く映像が全世界を駆け巡る。前月(1997年10月)16日(木)の長銀の破綻に続き、老舗(しにせ)の山一證券が倒産したことで、日本のバブル崩壊に深刻さが増し、「バブル敗戦」や「第二の敗戦」という物騒な用語もマスコミに登場した。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831277_00000&seg_number=001

1997年12月1日(月)~11日(木) 日本国京都府京都市(Kyoto, Japan)で第3回国連気候変動枠組条約締約国会議(1997 United Nations Climate Change Conference of the Parties; 通称 COP3)が開催され、気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書(The Kyoto Protocol to the United Nations Framework Convention on Climate Change (UNFCCC))が締結される。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831279_00000&seg_number=001

1998年(平成10年)4月 前年(1997年)の法改正を受け、千葉大学(在千葉県千葉市稲毛区)が理学部と工学部の数学と物理の専攻に限り大学「飛び級」入学制度を開始。二十年後の2018年6月6月(水)付の『週刊現代』のオンライン記事「15歳で司法試験に合格した中学生も!天才少年「その後の人生」」によると、日本初の飛び級制度で千葉大学工学部物質工学科に17歳で入学を果たした佐藤和俊(さとう かずとし, b.1981?)氏は、その後は同大学大学院修士課程を出て宮城県内の財団法人の研究所で1年契約の研究職に就くも、不安定な職に嫌気が差し、1年で退職してしまう。トラック野郎に憧れた佐藤氏は学生時代に結婚し、教習所に通わず独学で試験を受けて大型免許、大型特殊免許、牽引免許を取得していた。佐藤氏はすぐに大型トラックの運転手の職を得るもその半年後から1年半のあいだ古巣の千葉大学で特任研究員を務めながら、妻子を養うために予備校講師のアルバイトもする。予備校講師としては約3年半働いた。現在では本業として長距離トラックの運転手をし、副業としての家庭教師では医学部を目指す高校生を教えているという。研究職は捨て、妻子との時間や安定した収入を得られるトラック運転手を選んだとのこと。なお、同雑誌見出しにある「15歳で司法試験に合格した中学生」とは、1991年に司法試験一次を史上最年少の中学3年生=15歳で合格した三好正記(みよし まさき, b.1976?)氏のことを指す。三好氏は法曹の仕事には進まず、高校でコンピュータに興味を持つようになり、高校卒業後(1994年?)にIT企業を起業したが、2016年に解散している。その後、三好家は転居してしまい、一族の消息は不明とのこと。

1998年5月26日(火)~29日(金) 当時(平成時代)の天皇(へいせい てんのう; Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019)=後(令和時代)の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)が皇后美智子(こうごう みちこ; Empress Michiko, b.1934; 聖心女子大学卒)を伴って国賓として英国を公式訪問。但し、英国到着は5月25日(月)ながら、公式訪問の開始が26日(火)。 戦争の過去、特に日本軍の残虐行為を巡る日本たたき(Japan bashing)が英マスコミで相次ぎ、元捕虜や元民間人抑留者の団体が連日大規模な抗議運動を展開。

1998年7月30日(木) 橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう, 1937-2006; 首相在任1996-98; 慶應義塾大学卒)内閣に代わって小渕恵三(おぶち けいぞう, 1937-2000; 首相在任1998-2000; 早稲田大学卒; 同大学大学院修士課程修了)内閣が組閣。自由民主党(自民党)・日本社会党(社会党)・新党さきがけの所謂(いわゆる)「自社さ」体制が終わり、自由民主党単独与党の内閣が五年ぶりに発足。当初、小渕氏に決まったときは、米有力紙ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)が新味のない「冷めたピザ」と酷評し、日本のマスコミをそれを垂れ流したが、小渕氏自身は「冷めたピザなら温めれば良い。」と開き直った。末端の関係者にでも「首相の小渕です。」と突然電話を入れる小渕氏の癖が「ブッチホン」という流行語になり、気さくな人柄と相俟(あいま)って意外にも人気が上昇した。

1999年(平成11年)3月 「君が代」をめぐる文部省と日本教職員組合(日教組)系教職員との間の論争が益々激しくなる中で、翌月(4月)23日(金)に東京都知事に就任することになる石原慎太郎(いしはら しんたろう, b.1932; 都知事在任1999-2012; 一橋大学卒)氏は、同年3月13日(土)付の毎日新聞の単独インタビューに答えて、「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と述べる。

1999年4月1日(木) 十三年前の1986年4月1日(火)に施行され、その十一年半後の1997年10月1日(水)に改正施行されていた「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」(通称 「男女雇用機会均等法」)が改正されて、「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」(通称は変わらず、「改正男女雇用機会均等法」)に拡大発展。この改正により、募集・採用、配置・昇進、教育訓練、福利厚生、定年・退職・解雇に於(お)いて男女差をつけることが禁止された。しかしながら男性差別を禁止していなかったため、「男性だから」という不当な理由での不採用事例もあり、問題視される(性別による差別禁止の範囲を拡大し、男性に対する性差別も対象になるのは八年後の2007年4月1日(日)まで待たねばならない)。

1999年同月同日(木) 西武文理大学(せいぶ ぶんり だいがく: 英称 Bunri University of Hospitality; 在埼玉県狭山市)がサービス経営学部サービス経営学科の単科大学(後に3学科制、そのうち1学科は別学部)として開学。開学から数年間に亘(わた)ってバーベキュー入試という入試を行なったことで話題になる。バーベキュー入試とは、受験生と大学教員による共同作業でバーベキューを実行し、終了後に作文を書くという形式であった。その際に焼いたバーベキューは昼食として受験生に食べてもらっていた。共同作業での貢献度や作文の出来で合否を判断したという。なお、この大学は西武鉄道グループやセゾングループとは無関係であり、単に舊武藏國の西部に所在するという意味で西武とした。この大学の経営母体である文理佐藤学園は十六年半後の2015年9月2日(水)に一大醜聞(scandal)に見舞われることになる。

1999年4月 女優・歌手の広末涼子(ひろすえ りょうこ, b.1980)こと、本名 廣末涼子(ひろすえ りょうこ, b.1980; 品川女子学院高等部卒)が俗に「一芸入試」と呼ばれる自己推薦入試で前年(1998年)11月25日(水)に合格したとして、早稲田大学(本部在東京都新宿区)教育学部国語国文学科に入学(後に退学)するも当初3ヶ月間も全く登校せず学内外から批判される。同年(1999年)7月に初登校するとマスコミが100人以上集まる騒動となり、広末嬢本人は集まった野次馬やファンらに揉(も)みくちゃにされるという前代未聞の事態となる。当初はそれらの群衆が同大学の学生であるかのような報道がされたため、同大学の評判が下落。当の広末嬢は四年以上後の2003年10月6日(月)に「女優業に専念したい」という理由で同大学を退学している。

1999年6月2日(水) 一年八ヶ月前の1997年10月28日(火)に厚生省(現在の厚生労働省の前身)・中央薬事審議会・常任部会が承認する方向を決めていた避妊目的の低用量経口避妊薬(ピル; COCP: combined oral contraceptive pills)の医薬品としての承認を「可」とする答申を出す。

1999年6月16日(水) 厚生省(現在の厚生労働省の前身)が遂(つい)に避妊目的の低用量経口避妊薬(ピル; COCP: combined oral contraceptive pills)を認可

1999年7月 慶應義塾大学(英称 Keio University; 本部在東京都港区)医学部の医学生5人が20歳の女子大生を集団強姦(gang rape)した事件が発覚。結局、被害女性との間に示談が成立し、主犯格の男=23歳は実名報道もされず、不起訴処分となる。この学生は慶應義塾大学を退学したものの、国立大学医学部に再入学し、その後は医師として働いているという。(上昌広(かみ まさひろ, b.1968; 東京大学医学部医学科卒)著 『ヤバい医学部』(日本評論社, 2019年)に依拠した2021年2月28日(日)付のヤフーニュースに転載された幻冬舎ゴールドオンラインの記事に依拠)

1999年8月13日(金) 国旗及び国歌に関する法律、通称 国旗国歌法が公布され、即時施行されたことで、「日の丸」が初めて正式な国旗に、そして「君が代」が初めて正式な国歌になる。これは半年近く前の同年2月28日(日)、卒業式を翌日(3月1日(月))に控え、式典での「君が代」斉唱に拘(こだわ)る文部省(現在の文部科学省)とそれに断固反対する日本教職員組合(日教組)系教職員との板挟みになった広島県立世羅(せら)高等学校の石川敏浩(いしかわ としひろ, 1940 or ’41 - 99)校長(当時五十八歳)が、「何が正しいのかわからない [句読点なし・改行] 管理能力はないこと [改行] かも知れないが、[改行] 自分の選ぶ道が [改行] どこにもない。」という縦書きの手書きメモを私物の乗用車に遺した状態で自宅内にて首吊り自殺した事件を機に小渕恵三(おぶち けいぞう, 1937-2000; 首相在任1998-2000; 早稲田大学卒、同大学院修了)内閣が、明治期以来慣用的に用(もち)いられてきた「日の丸」と「君が代」の法制化を急いだからだった。同年6月11日(金)にはその法案が国会に提出され、7月22日(木)に衆議院で、8月9日(月)に参議院で、それぞれ可決され、8月13日(金)の公布・施行に至った。

1999年9月 避妊目的の低用量経口避妊薬(ピル; COCP: combined oral contraceptive pills)が漸(ようや)く解禁され、一般利用可能になる。イギリスに遅れること三十八年にして、日本女性の性解放が実現。女性が自分で使えて、避妊成功率が高い経口避妊薬が開発・発表されたのは、四十四年前の1955年だった。この薬は「女性解放の印」として世界中の女性たちに歓迎されたが、日本の厚生省(現在の厚生労働省の前身)は健康リスクを理由に承認を渋り続けた。確かに1950年代や60年代の時点で経口避妊薬はホルモン含量が高く、副作用が多いことが問題視されていた。ところが1970年代に入ると、日常的に使っても副作用が少ない低用量ピルが開発され、流通した。主に高齢男性が性生活を楽しむための勃起不全治療薬シルデナフィル(Sildenafil)= 通称 バイアグラ(Viagra)が1998年12月に厚生省中央薬事審議会常任部会で僅(わず)か半年でスピード承認されたことに対する批判をかわすために、低用量ピルも厚生省がついでに承認したという経緯がある。これは日本が「子どもを産むか産まないか、産むならいつ産むのか」を妊娠する張本人の女性が決められない、決めにくい社会であることも表している。低用量ピルの認可がないのは、「世界で北朝鮮と日本のみ」という驚くべき状況があった。この件に関して厚労省は、「バイアグラは治療薬で、生命に関わる疾患ではないが、患者さんにとっては深刻なことで他に治療薬がないから」というコメントを出す一方で、承認が進まなかった低用量ピルは、「健康人が服用する薬で、副作用の懸念は勿論、低用量ピルが避妊薬として使われることでエイズなど性感染症が蔓延する恐れもある」と説明した。五年前の1994年に国連総会で採択された「セクシュアル・リプロダクティブヘルス・ライツ」「近代的避妊法の入手、使用の権利」の成果を1999年6月の国連総会で確認を求められるという外圧があったことも低用量ピルの承認に繋(つな)がった。(2020年9月29日(火)付のヤフーニュースに転載された現代ビジネスの#なんでないの プロジェクトの福田和子代表署名オンライン記事に依拠した上で加筆)

2020年5月13日(水)

https://www.bbc.co.uk/sounds/play/w3cszmrl (英語吹替版、音声のみ)

1999年9月9日(木) 同年4月23日(金)に東京都知事に就任して半年弱だった石原慎太郎(いしはら しんたろう, b.1932; 都知事在任1999-2012; 一橋大学卒)氏が全国都道府県知事会議で「私学助成という、どう考えても憲法違反の制度がとられている。」と発言したことが波紋を呼ぶ。 この発言は、日本國憲法の「第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(英文 Article 89. No public money or other property shall be expended or appropriated for the use, benefit or maintenance of any religious institution or association, or for any charitable, educational or benevolent enterprises not under the control of public authority. ⇒ 英文憲法をxapagaが試し訳: 第八十九条 公金及びその他の財源は、次の組織や事業が使用したり利益を得たり維持存続するのに支出・拠出してはならない。それに該当するのは公的機関の管理下に置かれていない宗教組織・団体、慈善事業、教育事業、博愛事業である。[xapaga試訳終わり])という条文に違反する可能性、つまり国や地方自治体が宗教法人や私学に公金を与えて補助することは憲法違反である可能性(石原氏にとっては確実性)を指摘してのことだった。しかし日本国文部省(現、文部科学省)の公式見解では私学助成が合憲とされてきた。私立学校は教育基本法、学校教育法、私立学校法、私立学校振興助成法な ど各種の教育関係法規のもとにあり、公の支配に属しているため、公教育を担(にな)っていると考えられるというのが日本国政府の立場である。石原都知事(当時)のような考え方は少数派だが、事の本質を衝(つ)いているとも言える。

1999年9月30日(木) 東海村JCO臨界事故(INESレベル4)。裏マニュアルによるステンレス製バケツを用いた手順と、これをさらに改悪した冷却水ジャケットに包まれた沈殿槽を使用したのが原因。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831037_00000&seg_number=001

1999年10月5日(火) 自由民主党(自民党)党首の小渕恵三(早稲田大学卒)総理大臣率いる小渕第2次改造内閣に新興宗教創価学会系の公明党が連立与党として初参加。

2000年(平成12年) 大卒者の就職率が統計を取り始めてから初めて60%の大台を下回る。

2000年3月 学校法人晴川学舎奥羽大学(英称 Ohu University; 在福島県郡山市)歯学部の歯科医師国家試験問題漏洩事件が発覚し、大きな社会問題と成る。事の発端は、前年(1999年)11月、当時国家試験委員だった学校法人日本歯科大学(英称 Nippon Dental University; 在東京都千代田区)の丹羽源男(にわ もとお, b.1944?)教授と、学校法人東日本学園北海道医療大学(英称 Health Sciences University of Hokkaido; 英略称 HSUH ; 本部在北海道石狩郡当別町)の上田五男(うえだ いつお, b.1941?)教授が、奥羽大学歯学部の楠憲治(くすのき けんじ, b.1947?)教授の依頼で試験問題を漏洩したことに始まる。2000年2月、楠教授は漏洩した問題を奥羽大学歯学部の卒業試験問題に出題し、翌月(2000年3月)に国家試験を控えた学生約100人に問題を解かせた上で解説した。ところが国家試験直前に在学生からの内部告発があり事件が発覚し、事件に関与した教授3名は逮捕・起訴される事態となる。事件を受け、厚生省(現在の厚生労働省)は2000年の国家試験については当初予定していた問題とは差し替えて実施する羽目になる。口腔衛生分野の奥羽大受験生の平均点は、受験大学中で最低だったという。歯科医学界ではかねてから試験問題漏洩は「常識」とされ、恒常的に行なわれてきたという指摘もある。この事件は私立歯科大学廃止論まで出るほどの大きな社会問題と成る。(2002年10月23日(水)付の朝日新聞と讀賣新聞と、歯科医院の「価値」を伝える株式会社コムネットの会員向け情報誌 Together 掲載の菊池恩恵社長執筆・掲載日不詳のコラム「TRIANGLE」に依拠)

2000年7月1日(土)~2010年12月7日(火) 英国人ルーシー・ブラックマンさん強姦殺人事件

2000年7月1日(土)、英国航空(BA: British Airways)の元客室乗務員で、六本木の外人ホステスクラブ(一種のキャバクラ)、「カサブランカ(Casablanca)」(現存せず)のホステス をしていた当時21歳の英国人ルーシー・ブラックマン(Lucie Jane Blackman, 1978-2000)嬢が、同年齢の同国人の友人で、都内のアパートに同居していたルイーズ・フィリップス(Louise Phillips, b.1978?)嬢に、「クラブの客とドーハンに行く」と電話で言い残した後に行方不明になる。なお、「ドーハン」とは水商売の世界でいう「同伴デート」のことであり、男性客がホステスにカネを払って連れ出す店外デートを意味する。

2000年7月3日(月)、Akira Takagi を名乗る身元不明の男の声でルイーズ嬢のアパート(同居していたルーシー嬢のアパートでもある)に電話があり、ルーシー嬢が「彼女は千葉の新興宗教団体で修行している」などと、恰(あたか)もカルト教団に入信したことを仄(ほの)めかすような内容を下手な英語で述べた。不審に思ったルイーズ嬢が日本の警視庁麻布署に捜索願を出した。

同年7月13日(木)、被害者の父親で不動産開発業者のティム・ブラックマン(Tim Blackman, b.1953)氏が初来日し、偶然訪日中だったクック(Robin Cook, 1946-2005; 外務大臣在任1997-2001)英外相に接触。在京英国大使館(British Embassy in Tokyo)の全面的な協力を得て東京都内で大々的な記者会見(press conference)を行なった。事件は国際問題にまで発展し、英国の各メディアの報道合戦が開始された。

2000年7月18日(火)、父親のブラックマン氏が私費で愛娘の捜索センターを東京の都心に設置し、電話のホットラインを開設。匿名の在日英国人実業家による10万ポンド(当時の為替レートで約1633万円)の懸賞金拠出を発表。

2000年7月21日(金)、G8主要国サミットのために訪日中のブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)英首相が東京都内でブラックマン家の人々との会見に応じ、沖縄サミットの場で日本の森喜朗(もり よしろう, b.1937; 首相在任2000-01)首相に捜査の進展を要請することを約束し、沖縄で実際に実行に移す。森首相は警視庁を叱咤激励(しった げきれい)せざるを得ない羽目に。

2000年7月21日(金)、当時48歳の元在日朝鮮人の帰化日本人、織原城二(おばら じょうじ, b.1952)の名が捜査線上に浮かぶ。『週刊新潮』編集部が入手した当時の捜査資料によると、「六本木管内で働く外国人ホステスに甘言をかけ現金を与える等して、ドライブ等に誘っては薬を飲ませていかがわしい写真を撮ってホステスをゆすり、犯行を重ねている男が居る。(中略)通称「ユージ」と言う日本人で(中略)外国人女性2人が同種の被害にあっているもので、(中略)今回のルーシー事件に深く関与しているとの噂が流れている。」としている。

2000年8月1日(火)、警視庁にブラックマン嬢を名乗る者からの手紙が届き、そこには「私はしたいことをしているの、だからどうか私をほっといて(I am doing what I want so please leave me alone.)」と書かれていた。警察がブラックマン家にも手紙を見せるが、偽物(fake)と一蹴(いっしゅう)される。

2000年8月22日(火)、ルーシー・ブラックマン嬢の妹ソフィー・ブラックマン(Sophie Blackman, b.1980)嬢が東京都内で記者会見を開き、有力情報に対して1万ポンド(当時の為替レートで約163万円)の謝礼金を支払うことを約束。

2000年9月20日(水)、愛娘の捜索に数万ポンド(数百万円から一千万円超)を費やした父親のブラックマン氏が成果なく虚(むな)しく離日して帰国の途に。

2000年9月下旬、ブラックマン氏の離日直後に急展開があり、ブラックマン嬢の勤めていたクラブの常連客で不動産管理会社社長の男を警視庁捜査一課と麻布署が調査していることが報じられる。被害者の周辺で新たに外国人女性2名が行方不明になっていることも判明する。

2000年10月11日(水)、警視庁が当時48歳の織原城二(おばら じょうじ, b.1952)の事情聴取を開始。織原は在日朝鮮人のパチンコ経営者、金敎鶴(김교학; Kim Gyo-hak, 1925?-69)の次男、金聖鐘(김성종; Kim Sung-jong, b.1952) として生を受け、星山(ほしやま)の通名を名乗って幼稚舎から慶應ボーイとして特権階級的に振る舞ってきたが、慶應義塾大学卒業後に帰化して法的には日本 人に成っていた。バブル崩壊で金策に困ってからは暴力団住吉会のフロント企業として人知れず資金洗浄(money laundering)の犯行に携(たずさ)わっていた。

2000年10月12日(木)、警視庁が織原城二(元キム・ソンジョン)を別のカナダ人女性に対する準強制猥褻(わいせつ)容疑で取り敢(あ)えず別件逮捕することで身柄を確保。ブラックマン嬢が失跡した直後の同年7月5日(水)頃、織原(元キム)容疑者が所有する神奈川県三浦市内のコンドミニアム(別荘としての高級マンション)附近で織原がスコップを持って海岸を歩いているのが目撃されており、その状況証拠が逮捕の決め手となった。

2000年10月中旬、神奈川県三浦市内に織原城二(元キム・ソンジョン)が所有するコンドミニアムの部屋や附近の海岸などを警察が捜索。警察は織原(元キム)容疑者の所持品から約4,800本の自家製猥褻(わいせつ)ビデオを押収し、織原(元キム)による強姦(rape)の被害者と思しき昏睡(こんすい)状態の白人女性や東洋人女性たちがその中に映っていることを確認した。少なくとも1983年頃からビデオ撮影をしており、織原(元キム)はそうした行為を「征服プレイ」と称して自(みずか)ら克明に記録を付けていた。 但し、ビデオの本数については諸説あり、1,000本とする報道があるかと思えば、警視庁捜査一課理事官(後に課長)の有働俊明(うどう としあき, 1946?-2009)警視は170本だとインタビューの中で語り、裁判資料では40本とされ、被疑者(現受刑者)の織原は9本だけだとしている。警察の 推測によると、少なく見積もっても150人、多くければ400人の女性が織原(元キム)によるクロロホルムや睡眠薬の使用によって意識を朦朧(もうろう)とさせられた上で強姦されたと考えられる。織原(元キム)は自らの昏睡レイプを誇るかのように、1995年まで209人の女性に対する性的暴行をノートに記録していたともいう。警察に押収されたビデオに映っている被害者の約半数が白人女性で、残り半数が日本人女性だったという。これが事実だとすれば日本犯罪史上最悪の連続強姦魔ということになるが、被害者たちの多くが短期の観光ヴィザなどで来日し、六本木等の繁華街で不法就労していた外国人女性ということもあり、彼女たちの身元も、その後の消息も不明なため、警察による立件は不可能だった。英国の各メディアは「日本は白人女性にとって危険な国で、痴漢や変態の国」と仄(ほの)めかす内容で報道合戦を繰り広げた。

2000年11月17日(金)、警察が織原(元キム)容疑者を再逮捕。東京地検は同日、ブラックマン嬢に対する準強姦罪で織原容疑者を追起訴した。警視庁はDNA鑑定のため、ルーシーさんの遺族に毛髪の提供を要請した。

2001年1月26日(金)、九年前の1992年に薬物過剰強制摂取で死亡した豪州人女性カリタ・リッヂウェイ(Carita Simone Ridgway, 1970-92)嬢に対する強姦致死容疑で織原(元キム)容疑者を警視庁が再逮捕。

2001年2月9日(金) 警視庁が神奈川県三浦市内の織原城二(元キム・ソンジョン)容疑者のコンドミニアム(別荘としての高級集合住宅)から約200メートル離れた海岸の洞窟内で、地面に埋められた浴槽内にルーシー嬢の切断されてコンクリートで固められた遺体を遂(つい)に発見。

2001年7月4日(水)、織原城二(元キム・ソンジョン)被告への刑事裁判が東京地方裁判所(東京地裁)で開始。

2006年5月、未決囚として東京拘置所(在東京都葛飾区小菅)に収監されている織原城二(元キム・ソンジョン)被告が、英高級紙タイムズ(The Times)の東京特派員(Tokyo correspondent)であり、五年後の2011年にルーシー・ブラックマン事件の詳細を著書(下記参照)に纏(まと)めることになるパリー(Richard Lloyd Parry, b.1969)氏個人を名誉毀損で訴える。被害者の母親ジェイン(Jane Steare, b.1952?)女史が前月(2006年4月)に意見陳述のため東京地裁に出廷した際、織原(元キム)被告が出廷を拒否したしたときの様子を「服を脱ぎ、独房の洗面台にしがみついて出頭を拒否した」と記事に書いたことが名誉を毀損するものであり、損 害賠償として3000万円を要求するという訴えだった。しかしこれは裁判長の言葉をその儘(まま)英訳して載せただけであり、他紙も同様に報道していた。あまりにも馬鹿げた民事裁判であるが、裁判自体は開廷した。もちろん織原の要求は最終的に却下されたが、それは翌年(2007年)9月のことだった。織原は懲りずに東京高等裁判所(東京高裁)に控訴(こうそ)したが、それも八ヶ月後に控訴棄却となった。民事裁判の被告人となってしまった上記のパリー記者は勝訴したものの、弁護士費用に1200万円もの大金を費(つい)やす羽目になった。しかしこれはすべてロンドンのタイムズ社が肩代わりしてくれたと、パリー氏自身が後に著書の中で明かしている。

2006年9月、公判の中で、織原(元キム)被告が弁護人を通じてティム・ブラックマン氏に1億円の見舞金を支払っていたことが明かされる。被告人の織原はこれらの見舞金を「お悔やみ金」と称しており、英国女性に対する殺害についてはこの期(ご)に及んでも無実であると主張し、賠償金や慰謝料ではないとした。裁判途中で被告人から大金を受け取ったブラックマン氏は英マスコミから大々的なバッシングを受ける。

2007年4月、被害者の故ルーシー・ブラックマン嬢の離婚した両親の関係が最悪に。母親のジェイン(Jane Steare, b.1952?)女史と再婚した倫理学者・企業哲学者のロヂャー・スティア(Roger Steare, b.1958)氏が敏腕弁護士を味方につけ、織原(元キム)から1億円を受け取ったとされるティム・ブラックマン氏を詐欺罪で刑事告発。スティア氏によれば、故ルーシー嬢の遺産管理を任されているのは母親のジェイン女史であり、ブラックマン氏が「ルーシーの遺族を代表して」1億円を受け取ったことが詐欺行為に当たるとのこと。ブラックマン氏が五年前の2002年に設立していた「ルーシー・ブラックマン基金」(Lucie Blackman Trust, http://www.lbtrust.org/ )の唯一の専従スタッフが逮捕され、五週間に及ぶ捜査が続いた。しかし結局スタッフは無罪放免となり、ブラックマン氏の慈善(charity)事業にも不正を示す証拠は発見されなかった。スティア氏とジェイン女史の夫妻による前夫ブラックマン氏への執拗な法的攻撃は失敗に終わったが、この訴訟沙汰はマスコミの恰好(かっこう)の餌食になり、元家族間の昼ドラのようなドロドロした人間関係が世間の耳目(じもく)を集めた。

2007年7月、判決が出る数日前(但し、奥付上は2007年5月の刊行)に真実究明班と称する謎の出版社からルーシー事件真実究明班[著] 『ドキュメンタリー ルーシー事件の真実 近年この事件ほど事実と報道が違う事件はない』(真実究明班, 2007年)が刊行される。厚さ4センチ、全796ページで、重さが1キロ近くあり、織原(元キム)被告が飼っていた愛犬(シェットランド・シープドッグ)の死骸の顔写真が表紙を飾った。これは実は織原自身による自費出版本であり、私財を投じて弁護士やフリー編集者を雇って書かせた本である。「明らかにされた検察官の証拠隠滅・公文書偽造」などと惹句(じゃっく)・宣伝文句にあるが、それ自体が事実無根であるため、公判の中でまともに取り合ってもらえなかった。

2007年7月24日(火)、一審の判決公判が東京地方裁判所(東京地裁)で結審し、東京地裁は外国人女性9人に対する準強姦罪や強制猥褻(わいせつ)罪とその 内の1人に対して準強姦致死罪を認定して被告人に無期懲役を言い渡した。しかしブラックマン嬢が殺害された事件については、関与した疑い有りとしながら も、遺体から薬物や被疑者(織原)のDNAが検出されなかったことから、これについては証拠不十分として無罪を言い渡した。検察側・弁護側ともに判決内容 を不服とし、東京高等裁判所(東京高裁)に控訴(こうそ)した。

2008年3月25日(火)、控訴審(二審)初公判が東京高等裁判所(東京高裁)で開かれた。弁護人は、当事件の被害者に関する全ての罪と豪州人女性リッヂウェイ嬢の致死罪に関して無罪を主張したが、検察側は有罪判決を求めた。

同年7月、十六年前の1992年に織原に殺された豪州人女性カリタ・リッヂウェイ(Carita Simone Ridgway, 1970-92)嬢の遺族もティム・ブラックマン氏同様に織原から1億円の見舞金を受け取ることに同意。それまでは頑(かたく)なに拒否していたが、犯罪被害者として何の補償も受けられない苛(いら)立ちから承諾したという。それまで犯罪被害者として一家と親しくしていたジェイン(Jane Steare, b.1952?)女史はリッヂウェイ家と絶交した。

2008年12月17日(水)、判決公判で東京高等裁判所(東京高裁)は一審判決を棄却。ブラックマン事件については検察側の証拠にやや弱い点が見られ、準強姦 致死罪を認めなかったが、準強姦未遂罪と死体損壊罪と死体遺棄罪を認め、一部有罪とした上で被告人に一審と同じ無期懲役の刑を言い渡した。

2010年12月7日(火)、最高裁判所(最高裁)は最終審で被告人の織原(元キム)の上告を棄却。9事件の準強姦罪や強制猥褻(わいせつ)罪とその内の1人に対しての準強姦致死罪、ブラックマン事件の準強姦未遂罪と死体損壊罪と死体遺棄罪について織原(元キム)被告の有罪・無期懲役が確定した。

織原城二(元キム・ソンジョン)受刑者は現在も服役中である。この事件自体は日本でも大々的に報道されたが、犯人の在日としての出自が分かると日本マスコミは急に及び腰になり、出身地や同級生のコメントや卒業アルバムなどを報道することもなく、写真もかなり古い学生時代のものしか使わなかった。一般日本人が犯人の正体(在日としての出自)を知ったのは英マスコミによる報道が翻訳され掲載されてからだった。(下記参考文献と『週刊新潮』2018年12月27日号の内容に基づく2019年1月4日 (金)付のデイリー新潮のオンライン記事を参照した上で大幅加筆)

(参考文献)

パリー(Richard Lloyd Parry)[著], 濱野大道[訳] 『黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』(早川書房 ハヤカワ・ノンフィクション, 2015年)

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4152095342/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1

(原著)

Richard Lloyd Parry, People Who Eat Darkness: The True Story of a Young Woman Who Vanished from the Streets of Tokyo—And the Evil That Swallowed Her Up (Farrar Straus Giroux, 2011)

http://www.amazon.co.uk/People-Who-Eat-Darkness-Tokyo--/dp/0374230595/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1441353234&sr=8-2&keywords=people+who+eat+darkness

(原著再販版)

Richard Lloyd Parry, People Who Eat Darkness: Love, Grief and a Journey into Japan’s Shadows (Vintage, 2012)

http://www.amazon.co.uk/product-reviews/0099502550/ref=cm_cr_dp_see_all_summary?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=byRankDescending

2000年10月 昭和女子大学(在東京都世田谷区)の学園創立80周年記念式典に、自由民主党(自民党)の文部族議員で総理大臣の森喜朗(もり よしろう; 有職読みで「しんきろう」, b.1937; 首相在任2000-01; 早稲田大学卒)氏が来賓として来校。「ここに居られる理事長、人見楠郎(ひとみ くすお, 1916-2000; 東京帝國大学卒)は私の先生だ!」と語りかけ祝辞を述べる。現職の総理大臣が一私学の式典で祝辞を述べるのはきわめて異例のこと。時の理事長兼学長兼附属小中高校長兼附属幼稚園園長はその翌月(2000年11月)に他界。

2000年11月5日(日) 毎日新聞が一面トップで「旧石器発掘ねつ造」と題し、「上高森遺跡と北海道新十津川町の総進不動坂遺跡から発掘していた旧石器は事前に埋められていた」とする衝撃のスクープ記事を掲載。捏造(ねつぞう)の単独犯(但し、刑法に抵触したわけではないため世に言う犯罪者ではない)で考古学会の「ゴッドハンド」(God hand: 和製英語で「神の手」の意)こと、藤村新一(ふじむら しんいち, b.1950; 私立仙台育英高等学校卒)氏が、世間に引きずり出され、マスコミの前で糾弾会の如く叩きのめされることになる。自身が団長として調査中の宮城県上高森遺跡に、当地とは全く無関係の石器を秘かに持参し、事前にそれを発掘現場に埋め、実際の発掘時間に偶然を装い、新発見物として掘返すという手法がとうとう発覚したのだった。当該スクープ記事には、昔のアニメーション映画さながらの連続写真が添えられ、動かぬ証拠とされる。発掘現場での藤村氏の不審な行動に疑念を持った人からの情報提供に基づき、毎日新聞北海道支社がチームを編成して発掘現場に張り込み、藤村氏が予(あらかじ)め石器を遺跡に埋め込んでいる様子の写真・ビデオ撮影に成功したのだった。前代未聞の騒動となった考古学界が再検証し、発掘された石器を調べてみると、後世でしか存在しない鉄で引っ掻いた痕跡が見つかるなど、藤村氏の関与した日本全国42ヶ所の遺跡から出土されたとした旧石器の殆(ほとん)どが捏造と判明。遡(さかのぼ)れば十九年前の1981年、宮城県岩出山町の座散乱木遺跡で、東北旧石器文化研究所所属の民間考古学研究者だった藤村氏が4万数千年前の地層の旧石器を発見して脚光を浴びていた。それまで3万年前までしか遡れなかった「日本人の痕跡」が一挙に遡れることになった。3万年余り前に日本人が生活していたかどうかの「前期旧石器時代存否論争」は決着したように見えた。その十二年後の1993年には藤村氏が手掛けた宮城県築館町(現在の宮城県栗原市)の高森遺跡で50万年前に遡り、その後は北海道や埼玉県でも旧石器が発掘され、「日本人の痕跡」は次々と古くなっていった。藤村氏は全国各地の数々の古代遺跡を発掘し、前期(13万年以前)・中期(3万年~13万年前)旧石器時代の地層から次々と石器を発見したことになっていた。精巧な作りの石器が前期・中期旧石器時代にもあったとされたことで、「日本の原人の文化レベルは外国に比べて高かったのではないか」という説が生まれ、日本列島に関する教科書の記述も書き換えられていった。藤村氏の発見効率が高すぎることや出土状況への疑念等から、「神の手」を疑問視する者もいたが、そうした声は無視された。同じ築館町の上高森遺跡では遂に70万年前とされた。「北京原人より日本原人がいた可能性」が高校歴史教科書に記述され、日本列島は空前の「原人ブーム」に沸いたのだった。東北の小さな町は「旧石器遺跡の町」として町興しも一挙に活気づいた。藤村氏は三十年近くの間に186遺跡を捏造し、そのうち33ヶ所の発掘現場で石器を事前に埋めていた。毎日新聞のスクープ記事で原人ブームもあっという間に去り、考古学界は大混乱となる。藤村氏が関連した遺跡は史跡指定から外され、日本列島に人が居た痕跡は結局3万年前ほどに戻されてしまう。捏造発覚は学校教科書を書き替える事態にも成る。藤村氏に対する告発も検討されたが、現行法では罪に問うのは難しいとして見送られる。スクープの三年後の2003年に福岡県の考古学者が偽計業務妨害の疑いで告発したが、仙台地方検察庁は証拠不十分として不起訴処分にする。捏造発覚直後に藤村氏は瑞巌寺の修行専門道場に同年(2000年)11月末まで数週間滞在した後、福島県内の精神病院(病院名非公開)に入院。入院中に裏山で自傷行為としてナタを30回叩きつけ、かつて「ゴッドハンド」と呼ばれた右手の人差し指と中指を自ら切断したことを、文化庁主任文化財調査官から奈良文化財研究所を経て2008年に退官した岡村道雄(おかむら みちお, b.1948; 東北大学卒)氏に明かしている。捏造発覚から三ヶ月後の翌年(2001年)2月に藤村氏は公務員(当時)の妻(氏名非公開)と離婚し、その二年後の2003年に入院先で知り合った女性(氏名非公開)と再婚する。件(くだん)の岡村氏は藤村氏との親密な関係が指摘され、捏造に協力していたのではないかという疑惑の目を向けられ、当時勤務していた文化庁文化財部記念物課埋蔵文化財部門から独立行政法人文化財研究所(現在の独立行政法人国立文化財機構の前身)に異動(事実上の左遷)となった。当の藤村氏は福島県内の障害者就労支援のNPOで勤務した後は、苗字を妻の姓に変え、世捨て人の如(ごと)くにひっそりと福島県南相馬市で暮らしているという。(上原善広(うえはら よしひろ, b.1973)著 『発掘狂騒史 「岩宿」から「神の手」まで』(新潮社 新潮文庫, 2017年1月)と、2012年6月21日(金)付のBlogosに掲載された橘玲(たちばな あきら, b.1959)署名コラム「アカデミズムという虚構 旧石器遺跡捏造事件 (『(日本人)』未公開原稿2)」と、2020年9月21日(月・祝)付のヤフーニュースに転載されたデイリー新潮の粟野仁雄(あわの まさお, b.1956)署名オンライン記事と、一般財団法人公正研究推進協会(英称 Association for the Promotion of Research Integrity; 英略称 APRIN; 本部在東京都新宿区)監修による2016年7月29日(金)作成、2018年10月12日(金)最終修正の研究倫理関連eラーニングプログラム「eAPRIN(イーエイプリン)」に依拠)

2000年11月8日(水) 赤軍派の国際テロリストである重信房子(しげのぶ ふさこ, b.1945; 明治大学中退)が潜伏先の大阪府高槻市で大阪府警察に逮捕される。二十六年前の1974年9月13日(金)にオランダ王国の事実上の首都ハーグ市内のフランス大使館で日本赤軍が人質を取って立て籠もった事件の共謀共同正犯として有罪が確定し、懲役20年の刑に服すも体調を崩し、八王子医療刑務所に収監される。

2001年3月2日(金) 東京女子医科大学(英称 Tokyo Women’s Medical University; 本部在東京都新宿区)病院で患者の心臓手術中に人工心肺装置の事故が起こり、患者は二日後(2001年3月4日(日))に死亡。脱血不良で患者に脳障害が生じたとする告発文書が遺族に届いたため、遺族が病院に調査を申し出て、警視庁が捜査を開始。翌年(2002年)6月28日(金)、人工心肺装置の操作を担当した同大学助手が業務上過失致死容疑で逮捕され、同時に患者のカルテを改竄(かいざん)したとして同大学専任講師が証拠隠滅容疑で逮捕される。この事件を受け、同年7月に厚生労働省(英称 Ministry of Health, Labour and Welfare; 英略称 MHLW)は、同大学病院の特定機能病院の承認を取り消し。同大学はこの醜聞(しゅうぶん: scandal)を境に見る影もなく凋落。世に言う東京女子医大事件(2014年にも再発)。

2001年(平成13年)4月 四年前の1997年の法改正により1998年度から数学と物理の専攻に限り解禁されていた大学飛び入学が全分野で解禁。大学院のある大学のみ飛び入学の実施が可能。千葉大学(在千葉県千葉市稲毛区)が理学部と工学部に加えて文学部でも実施。他に名城大学(在愛知県名古屋市天白区)と会津大学(在福島県会津若松市)も名乗りを上げる。

2001年4月26日(木)~’06年9月26日(火) 小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう, b.1942; 首相在任2001-06; 慶應義塾大学卒; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮遊学)内閣の推し進める構造改革で貧富の格差が増大(小泉・竹中路線)。格差議論へ発展。

2001年5月1日(火)~同4日(金・祝) 北朝鮮の独裁者金正日(김정일; Kim Jong-il, 1942-2011; 第2代最高指導者在任1994-2011)の長男である金正男(김정남; Kim Jong-nam, 1970 or ’71 - 2017)が新東京国際空港(現成田国際空港)で東京入国管理局成田空港支局に身柄を拘束される事件が発生。金正男は女性2人(うち1人は内縁の妻と目される)と実子1人を連れており、ドミニカ共和国の偽造パスポートを使用して中国人名の胖熊(Pàng Xióng パンシオン: 「太った熊」の意)という偽名で入国を図(はか)ったところ偽装がバレて拘束・収容された。これは事前に英国の対外諜報機関 MI6 (エマイシックス)から日本の官憲に情報が齎(もたら)され日英連係プレイが功を奏したのだった。捕まった当人は密入国の目的を「東京ディズニーランド(TDL: Tokyo Disneyland)を訪れたかっただけ」としたが、闇資金の回収という目的があったとする説も存在する。二日後の同年5月3日(木・祝)に「金正男と見られる男性とその妻子の身柄拘束」という大ニュースがマスコミ各社によって報道された。日本国政府の組閣して間もない小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう, b.1942; 首相在任2001-06; 慶應義塾大学卒、ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮遊学)内閣は、この事件が日朝間の外交問題に発展することと、当時北朝鮮を訪れていた日本人観光客の人命を危険に晒(さら)すことを恐れるあまり、政治的判断を余儀(よぎ)なくされ、金正男の一行に超法規的な強制国外退去処分を下した。その翌日(5月4日(金・祝))、二階席を貸し切り状態にした全日本空輸(ANA: All Nippon Airways) NH905便のボーイング(Boeing)747-400型機で金正男の一行は中華人民共和国の首都北京市に向けて出国した。日本側が金正男に対して危害を加えず穏便(おんびん)な幕引きを図ったことで、北朝鮮の独裁者金正日は大いに感謝し、日本側に大きな借りを作ってしまったことを認める。これが翌年(2002年)9月17日(火)に初めて実現することになる小泉純一郎首相と安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-; 成蹊大学卒、カリフォルニア州立大学ヘイワード校遊学、南カリフォルニア大学中退)内閣官房副長官による北朝鮮の首都平壤(Pyongyang)への電撃訪問と、その場で独裁者金正日が「我が共和国(北朝鮮)は日本人を拉致していた」という事実を遂(つい)に正式に認める道筋と、同年(2002年)10月15日(火)の拉致被害者5名の帰国への伏線(ふくせん)となるのであるなお、金正男は十年後の2011年12月17日(土)に父親の金正日が歿したあと後継者にはしてもらえず、中華人民共和國澳門(Macau)特別行政區で主に暮らしていたが、2017年2月13日(月)にマレーシアのクアラルンプール国際空港(KUL; KLIA; Kuala Lumpur International Airport)で国際線に搭乗しようとしたところ、腹違いの末弟で現独裁者の金正恩(김정은; Kim Jong-un, b.1984; 第3代最高指導者在任2011-)の差し向けた北朝鮮工作員の下請けとして「日本のおバカなドッキリカメラのテレビ番組の撮影のため」と騙されて雇われた2人の東南アジア女(インドネシア人とベトナム人)に危害を加えられ、搬送先の現地病院で死亡が確認された。下手人(げしゅにん)となった2人とそれを操った北朝鮮人の化学者は現地警察に逮捕されたが、その上役として関わった現地北朝鮮大使館の外交官を含む5人の男たちは出国していて、その足取りは攫(つか)めていない。当初は女たちが毒針を使ったと報道されていたが、同年2月24日(金)朝には現地警察の暫定分析結果として、猛毒のVXガスの液体が使われた可能性が高いことが報道された。しかしながら、VXガスで金正男のみを“殺害”し、周囲の人間(航空会社チェックインカウンター職員や他の旅客たち)に被害を出していないこと、犯人とされる女2人が同空港内公衆トイレの洗面台で手を水洗いしただけでピンピンしているという事実から、軍事専門家ならずとも「VXガスの使用」とやらが最初から茶番劇であることは明白である。液体VXガスとされた黒いドロドロの液体は、墨汁、黒絵具、イカ墨ソース、或(ある)いはそれらの混合物であろう。そして三年後の2020年、世界中が新型コロナウイルス(novel coronavirus; new coronavirus; WHO国際名称 Covid-19)騒動に明け暮れている中で犯人とされた女2人はひっそりとマレーシア当局から釈放されている。これが何を意味するかというと、現独裁者の金正恩と腹違いの兄の金正男は裏取引が出来ていて、弟に「暫(しばら)く死んだことにして隠れていてくれ」と頼まれた兄が茶番劇に応じただけのことである。

2001年5月18日(金) 翌日(2001年5月19日(土))から始まる日英親善文化交流イベント Japan 2001 のためのハイド公園(Hyde Park, London, UK)に於ける翌々日(2001年5月20日(日))の開会式(Opening Ceremony)に出席するため、日本国皇太子徳仁親王(こうたいし なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito of Japan, b.1960)=後の令和時代の天皇(Emperor Naruhito, b.1960; 在位2019-; 学習院大学大学卒、同大学大学院修了、オクスフオッド大学マートン学寮留学)が、ロンドン西郊のヒースロウ空港(LHR: London Heathrow Airport)に到着後、車列を組んで英女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)夫妻の待つロンドン西郊のウィンザー城(Windsor Castle)を訪問。同親王はその足で金曜と土曜は同城で英女王の賓客として過ごす。

(外部サイト)ウィンザー城内でのやり取り

https://www.youtube.com/watch?v=Ui4dzTnqObA

2001年6月8日(金) 附属池田小事件。大阪教育大学附属池田小学校(在大阪府池田市)で小学生の児童を包丁で無差別に殺傷する事件が発生。犯人は、犯行時 37歳だった元用務員の宅間守(たくま まもる, 1963-2004)、後に獄中で改姓して吉岡守(よしおか まもる, 1963-2004)。宅間は十六年前の1984年に強姦事件を起こし懲役3年の実刑判決を受けて服役した前科があった。初犯の強姦事件を除くすべての暴力事件15件に於(お)いて、宅間は自身の精神障碍(せいしん しょうがい)の偽装を楯に、不起訴処分を経験していた。今回の附属池田小事件では、8人(内2年生7名、1年生1名) が死亡し、15人(児童13名、教諭2名)が負傷した事実が、日本社会に大きな衝撃を与えた。イギリスでも大きく報じられ、この事件の五年以上前の 1996年3月13日(水)にスコットランドの長閑(のどか)な田舎町の小学校で起こった無差別殺人事件「ダンブレイン小学校虐殺事件(Dunblane Primary School Massacre)」に準(なぞら)えて「日本のダンブレイン(Japan’s Dunblane)」などと呼ばれた。この事件を契機として、日本全国の幼稚園・保育園、小中高は防犯意識が高まり、すべての門を閉ざすようになり、監視 カメラの設置や警備員の配置が進んだ。同じ校地に幼 稚園から大学院までを抱えている昭和女子大学(在東京都世田谷区)でも特に幼稚園の父母からの強い要望があり、正門・西門での所謂(いわゆる)「顔パス」 が禁止となり、これ以後、教職員証や学生証を携行していない者は守衛室での氏名の登録が義務づけられるようになる。吉岡(旧姓 宅間)守は2003年8月28日(木)に死刑が確定し、翌年(2004年)9月14日(火)にまるで本人の希望を叶えるかのように死刑執行された。

2002年(平成14年)2月~2008年(平成20年)3月 日本の戦後最長の景気回復が73ヶ月(6年1ヶ月)間も続く。

2002年4月 1980年以来、文部省(現在の文部科学省)が段階的に進めてきた「ゆとり教育」が、文部科学省の主導で本格開始される。

2002年4月1日(月) 国立山梨大学と国立山梨医科大学が統合。統合後の名称は国立山梨大学。二年後の2004年4月1日(木)以降は国立大学法人山梨大学。

2002年4月~2006年8月 世に言う「船橋市西図書館蔵書破棄事件」。2002年4月12日(金)付の產經新聞の紙面第一面の記事により、2001年8月10日(金)から26日(日)にかけて六回に亘(わた)って船橋市西図書館にて、司書で絵本作家の土橋悦子(どばし えつこ, b.1948)女史が中心となって自らの政治思想に基づき、本来は廃棄基準に該当しない蔵書107点を勝手に除籍・廃棄していた事件が発覚。被害に遭った書籍は、右派の論客として知られる西部邁(にしべ すすむ, b.1939)元東京大学教授や、保守系作家の井沢元彦(いざわ もとひこ, b.1954)元TBS報道記者や、「新しい歴史教科書をつくる会」の設立人である藤岡信勝(ふじおか のぶかつ, b.1943)元東京大学教授や西尾幹二(にしお かんじ, b.1935)電気通信大学(電通大)名誉教授の著書だった。報道を受けて船橋市教育委員会が調査に動き、同年5月に関係者の処分が実行された。同教育委員会は廃棄された図書107点のうち103点を、廃棄した当の女性司書ら5人によって寄付という形で弁償させたが、4点は入手不能で弁償できず、同著者の別の書籍を寄付させている。被害を受けた「新しい歴史教科書をつくる会」は表現の自由を侵害されたとして提訴に踏み切った。一審の東京地方裁判所(東京地裁)と二審の東京高等裁判所(東京高裁)は、廃棄の違法性を認定しつつも、蔵書の管理は船橋市の自由裁量とし、著者の権利を侵害したとは言えないとして請求をすべて棄却した。しかし最高裁判所(最高裁)は2005年7月14日(木)、廃棄は著者の人格的利益を侵害する違法行為と認定し、二審の東京高裁判決を破棄し、審理を同高裁に差し戻した。差戻し控訴審判決は同年11月24日(木)に下され、「廃棄されたのと同じ本が再び図書館に備えられている」などとして、賠償金は計24,000円、一人当たり3,000円とした。2006年4月7日(金)、最高裁は上告を棄却。同年8月9日(水)、船橋市は国家賠償法第1条2項に基づき、この不法行為を実行した職員に求めていた賠償金の全額補填が完了したと発表。この事件は「現代の焚書(ふんしょ)」として大きな問題になる。しかも事件の中心人物である土橋女史が自著の『ぬい針だんなとまち針おくさん』(福音館創作童話シリーズ, 1999年)を船橋市西図書館に35部も市民の税金で購入させていたことが発覚し、その厚顔無恥(こうがん むち)ぶりに驚きの声が上がっている。なお、事件の現場となった同図書館は2011年3月11日(金)の東日本大震災で大きな損傷を受け、再開の目途(めど)が立たないことから、別の場所の代替施設で業務を行なっている。

(外部サイト)

https://ja.wikipedia.org/wiki/船橋市西図書館蔵書破棄事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/土橋悦子

http://www.gyakusetsu-j.com/column/data/003.html

http://web.archive.org/web/20070326033401/http://www.city.funabashi.chiba.jp/giji/honkaigikiroku/h14/14y2r/day4/day4_0606_3.html

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4834016218/ref=cm_cr_dp_see_all_summary?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=byRankDescending

2002年5月31日(金)~6月30日(日) 史上初のアジア地域に於ける2002年FIFAワールドカップ(2002 FIFA World Cup)が、これまた前例の無い二ヶ国共催の形で日本と韓国を舞台に開催される。開会式はアジア初に拘(こだわ)った韓国の首都ソウル特別市で、決勝は日本の横浜スタジアムで行なわれた。イングランド・サポーターは殺人を含む暴力沙汰で世界各国で嫌われていたが、日本に来てみると行く先々で大歓迎され、しかも日本の観客がイングランドを応援している様子に、英国人たちは当初は意味が分からず当惑した。しかしながら応援されて嫌な気がするわけはなく、英国内のそれまでの反日感情(anti-Japanese sentiments; Japanophobia)が著(いちじる)しく緩和され、日本に対して好意的な見方が拡がった。英国政府(Her Majesty’s Government)が危険なフーリガンども(hooligans)から事前にパスポートを取り上げて日本への渡航を阻止(そし)したことも功(こう)を奏(そう)した。この年(2002年)は奇(く)しくも日英同盟(Anglo-Japanese Alliance, 1902-23)締結百周年だった。

2002年6月 近畿大学(在大阪府東大阪市)が従来は不可能とされていた鮪(マグロ)の完全養殖に成功し、「近大(きんだい)マグロ」と名づける。「近大」の知名度が急上昇。しかしながら、北陸地方で「きんだい」(金大)と言えば、金沢大学を指す。

2002年9月17日(火) 小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう, b.1942; 首相在任2001-06; 慶應義塾大学卒、ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮遊学)首相と安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-; 成蹊大学卒、カリフォルニア州立大学ヘイワード校遊学、南カリフォルニア大学中退)内閣官房副長官が北朝鮮の首都平壤(Pyongyang)を電撃訪問。その場で独裁者金正日(김정일; Kim Jong-il, 1942-2011; 第2代最高指導者在任1994-2011)が「我が共和国(北朝鮮)は日本人を拉致していた」という事実を遂(つい)に正式に認め、同年(2002年)10月15日(火)には拉致被害者5名の帰国が実現。ここに至るには約一年四ヶ月前の事件が伏線(ふくせん)としてあった。2001年5月1日(火)、北朝鮮の独裁者金正日の長男である金正男(김정남; Kim Jong-nam, 1970 or ’71 - 2017)が新東京国際空港(現成田国際空港)で東京入国管理局成田空港支局に身柄を拘束される事件が発生した。金正男は女性2人(うち1人は内縁の妻と目される)と実子1人を連れており、ドミニカ共和国の偽造パスポートを使用して中国人名の胖熊(Pàng Xióng パン・シオン: 「太った熊」の意)という偽名で入国を図(はか)ったところ偽装がバレて拘束・収容された。これは事前に英国の対外諜報機関 MI6 (エマイシックス)から日本の官憲に情報が齎(もたら)され日英連係プレイが功を奏したのだった。二日後の同年5月3日(木・祝)に「金正男と見られる男性とその妻子の身柄拘束」という大ニュースがマスコミ各社によって報道された。日本国政府の発足(ほっそく)して間もない小泉内閣は、この事件が日朝間の外交問題に発展することと、当時北朝鮮を訪れていた日本人観光客の人命を危険に晒(さら)すことを恐れるあまり、政治的判断を余儀(よぎ)なくされ、金正男の一行に超法規的な強制国外退去処分を下した。その翌日(5月4日(金・祝))、二階席を貸し切り状態にした全日本空輸(ANA: All Nippon Airways) NH905便のボーイング(Boeing)747-400型機で金正男の一行は中華人民共和国の首都北京市に向けて出国した。日本側が金正男に対して危害を加えず穏便(おんびん)な幕引きを図ったことで、北朝鮮の独裁者金正日は大いに感謝し、日本側に大きな借りを作ってしまったことを認めたのだった。日朝首脳会談の翌月の2002年10月15日(火)には拉致被害者のうち5名の帰国が実現した。なお、金正男は十年後の2011年12月17日(土)に父親の金正日が歿したあと後継者にはしてもらえず、中華人民共和國澳門(Macau)特別行政區で主に暮らしていたが、2017年2月13日(月)にマレーシアのクアラルンプール国際空港(KUL; KLIA; Kuala Lumpur International Airport)で国際線に搭乗しようとしたところ、腹違いの末弟で現独裁者の金正恩(김정은; Kim Jong-un, b.1984; 第3代最高指導者在任2011-)の差し向けた北朝鮮工作員の下請けとして「日本のおバカなドッキリカメラのテレビ番組の撮影のため」と騙されて雇われた2人の東南アジア女(インドネシア人とベトナム人)に危害を加えられ、搬送先の現地病院で死亡が確認された。下手人(げしゅにん)となった2人とそれを操った北朝鮮人の化学者は現地警察に逮捕されたが、その上役として関わった現地北朝鮮大使館の外交官を含む5人の男たちは出国していて、その足取りは攫(つか)めていない。当初は女たちが毒針を使ったと報道されていたが、同年2月24日(金)朝には現地警察の暫定分析結果として、猛毒のVXガスの液体が使われた可能性が高いことが報道された。しかしながら、VXガスで金正男のみを“殺害”し、周囲の人間(航空会社チェックインカウンター職員や他の旅客たち)に被害を出していないこと、犯人とされる女2人が同空港内公衆トイレの洗面台で手を水洗いしただけでピンピンしているという事実から、軍事専門家ならずとも「VXガスの使用」とやらが最初から茶番劇であることは明白である。液体VXガスとされた黒いドロドロの液体は、墨汁、黒絵具、イカ墨ソース、或(ある)いはそれらの混合物であろう。そして三年後の2020年、世界中が新型コロナウイルス(novel coronavirus; new coronavirus; WHO国際名称 Covid-19)騒動に明け暮れている中で犯人とされた女2人はひっそりとマレーシア当局から釈放されている。これが何を意味するかというと、現独裁者の金正恩と腹違いの兄の金正男は裏取引が出来ていて、弟に「暫(しばら)く死んだことにして隠れていてくれ」と頼まれた兄が茶番劇に応じただけのことである

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831302_00000&seg_number=001

2002年10月 東京大学の小柴昌俊(こしば まさとし, 1926-2020; 東京大学卒、同大学大学院修了、米ロチェスター大学大学院修了)名誉教授(後に特別栄誉教授)・哲学博士(ロチェスター大学)・理学博士(東京大学)に対し、米人2名と共にノーベル物理学賞(典 Nobelpriset i fysik; 英 Nobel Prize in Physics)を授与すると瑞典アカデミー(典 Svenska Akademien; 英 Swedish Academy)が発表。また、同アカデミーは、米人1人とスイス人1人と共に島津製作所(英称 Shimadzu Corporation; 本社在京都府京都市中京区)社員の田中耕一(たなか こういち, b.1959; 東北大学卒)氏にノーベル化学賞(典 Nobelpriset i kemi; 英 Nobel Prize in Chemistry)を授与すると発表。日本人のダブル受賞ということで日本マスコミが騒ぐ。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831304_00000&seg_number=001

2003年(平成15年)3月31日(月) 立志舘大学(りっしかん だいがく: 在広島県安芸郡坂町)に名を変えていた私立大学が廃校。この大学は、学校法人広島女子商学園が経営する広島女子商短期大学を母体として、三年前の2000年4月に広島安芸女子大学(ひろしま あき じょし だいがく)として開校し、開校当初より定員割れで経営難に陥り、2001年にジェイク医療福祉技術専門学校(現 郡山健康科学専門学校)などを運営する学校法人佐久間学園が経営支援を表明。2002年4月に男女共学になり立志舘大学と改称。佐久間学園の地元である郡山市への福祉系学部の新設等も計画したが、理事長による資金横領が発覚し、同年10月に理事長が辞職し、佐久間学園が支援から撤退。その結果、経営に行き詰まり、一度も卒業生を出さずに廃校となった。廃校時点で在籍していた学生は呉大学(2009年4月より広島文化学園大学に名称変更)が継承した。立志舘大学の元キャンパスは現在、広島文化学園大学坂キャンパスとして再利用されている。

2003年4月1日(火) 百二十八年前の1875年に私立三菱商船学校として創立され、その僅か七年後の1882年に官立東京商船學校と改称した国立東京商船大学と、百十五年前の1888年に大日本水產會水產傳習所として創立され、戦後の1949年に国立東京水産大学と改称した大学を統合し、国立東京海洋大学(本部在東京都港区)が発足。一年後の2004年4月1日(木)には国立大学法人東京海洋大学と成る。

2003年4月10日(木) 東京大学(東大)の養老孟司(ようろう たけし, b.1937; 東京大学卒)名誉教授の『バカの壁』(新潮社 新潮新書, 2003年)が刊行され、計400万部を超えるベストセラーとなる。毎日出版文化賞特別賞を受賞し、さらに題名の「バカの壁」は新語・流行語大賞を受賞した。三年後の2006年8月時点での発行部数は419万部。なお、本書刊行時の著者肩書は北里大学教授だった。この年(2003年)の4月に創刊されたばかりの新潮新書にとっては最初の大ヒット作となったが、本書は著者が語る談話を編集部が文章化したものであり、著者の書き下ろしではない。

2003年4月23日(水) 同年4月13日(日)執行の2003年東京都知事選挙で「まったく新しい大学を作る」という公約を掲げた石原慎太郎(いしはら しんたろう, b.1932; 都知事在任1999-2012; 一橋大学卒)氏が二期目当選を果たし、従来までの東京都立大学(都立大)を核とし、東京都立科学技術大学と東京都立保健科学大学と東京都立短期大学を統合した新大学(後の首都大学東京)を建学する構想を発表。しかしこれに不満や反発を感じた多数の教員が都立大を去って他大へ流出し、大きな混乱が生じる。

2003年6月19日(木) スーパーフリー事件(略してスーフリ事件)。早稲田大学公認サークル(当時)「スーパーフリー」(Super Free: 直訳「超自由」)のメンバーである大学生らが女子大生 を常習的に集団強姦した事件が発覚。主犯格はサークル代表の当時28歳の早稲田大学2年生の和田真一郎(わだ しんいちろう, b.1975?)。複数の有名大学から凶悪犯罪の逮捕者が出たことが社会に衝撃を与える。この事件をきっかけに「集団強姦罪」が施行された。

2003年6月26日(木) 鹿児島県鹿児島市内で全国私立幼稚園連合会九州地区討論会が開かれ、少子化問題や青少年の残虐な犯罪が増えていることが議論の焦点となる。出席していた自由民主党(自民党)行政改革(行革)推進本部長の太田誠一(おおた せいいち, b.1945; 私立慶應義塾大学経済学博士、私立福岡大学元助教授=現在で言う准教授、米私立ブラウン大学元客員准教授)元総務庁長官は、この討論会が行われる直前に起きた早稲田大学の学生サークル「スーパーフリー」(Super Free: 直訳「超自由」)の集団強姦(gang rape)事件の話題になると、「プロポーズする勇気のない若い男性が、最近は増えている。」と発言。この発言に対して、司会を務めていたジャーナリストの田原総一朗(たはら そういちろう, b.1934; 早稲田大学卒)氏が「プロポーズできないから、集団レイプするんですか。」と質問すると、太田元長官はこう述べる。曰く、「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか。」と。討論会終了後、太田元長官は記者団から発言の真意を問われると、「『レイプは重大な犯罪であり、従来以上に厳しく罰するべきだ』と言おうとしたが、タイミングが無かったことが残念だ。男性が配偶者を求める覇気に欠けている。それほど強く異性を求めているのであれば、きちんと結婚する相手を求めるべきだ、ということを言いたかった。」と弁明するも、強姦(rape)と結婚がなぜ関係あるのか意味不明である。この発言は大問題となり、発言の翌日(2003年6月27日(金))には英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)も取り上げる事態となる。太田元長官は国会内で謝罪するも、国民(特に女性)からの激しい批判が続き、直後の同年(2003年)11月9日(日)に実施された第43回衆議院議員総選挙で落選。(2018年1月27日(土) 6:00配信のダイヤモンド・オンラインの記事「女性蔑視から人種差別まで、昭和な政治家トンデモ発言集」に依拠)

2003年7月16日(水) 国立大学法人法が施行される。

2003年8月7日(木) 12世帯22人の高齢者が暮らす小さな集落である福井県福井市五太子町にて、千乃正法会(ちの しょうほう かい; 本部在東京都渋谷区)の下部組織であるパナウェーブ研究所(Pana-Wave Laboratory)施設内で、反共産主義(anti-communism)の論文執筆を行なうなど、集団の中枢メンバーであった国立福岡教育大学(英称 University of Teacher Education Fukuoka; 在福岡県宗像市)の千草聡(ちぐさ さとし, 1963?-2003; 筑波大学卒、同大学大学院修了)助教授(現在で言う准教授)=40歳が変死した状態で発見される。福井県警察の調べで死因は背中の打撲による外傷性ショックと熱中症によるものと判明。同年(2003年)12月5日(金)、パナウェーブ研究所メンバー5人が傷害容疑で逮捕される。同県警は5人のうち数人が5~6時間に亘(わた)り、千草助教授に約百回の暴行を加えていたと見ている。なお、千乃正法会もパナウェーブ研究所も客観的に見れば明らかにカルト集団だが、当人たちはその事実を否定している。当時はマスコミから「謎の白装束の団体」と報道されていた。(2003年8月8日(金)付の共同通信社のオンライン記事と、2003年8月9日(土)付の讀賣新聞東京朝刊の記事と、2003年12月5日(金)付の共同通信社のオンライン記事に依拠)

2004年(平成16年)2月6日(金) 東京都庁が新大学の名称を一般公募したところ、従来通りの「東京都立大学」が最多票を得ていたが、管理本部は公募結果を無視して新大学名として「首都大学東京」を発表。

2004年4月 前年に施行された国立大学法人法により、日本全国の国立大学が独立行政法人(国立大学法人)になったことで、私立大学との競争が熾烈に。

2004年同月 アメリカのロースクール(law school)を模した法科大学院なる専門職大学院が全国各地で授業を開始。しかし新司法試験における合格率の低迷で入学希望者が減少し、定員割れの法科大学院が増え続け、十一年後の2015年6月2日(火)の時点で全国27校が学生募集を停止。

2004年同月 小泉内閣の進める規制緩和・構造改革特区により日本初の株式会社立大学としてLEC東京リーガルマインド大学が設置される。他に同年開設のサイバー大学とデジタルハリウッド大学、2006年開設のLCA大学院大学の3株式会社立大学がこれに続く。昭和ボストンがThe British Schools of America傘下のBritish School of Boston (BSB) の誘致に成功。

2004年5月10日(月) 二年前の2002年にブロックチェーンの先駆けであるP2P(peer to peer; ピア・トゥ・ピア)技術を用いたWinny(ウィニー)というファイル共有ソフトを開発していた東京大学(東大)大学院情報理工学系研究科の金子勇(かねこ いさむ, b.1970-2013)特任助手(現在で言う特任助教)が、サイバー犯罪対策に力を入れ出した京都府警察に逮捕される。一部のユーザーがWinnyを利用して映画や音楽などの違法送信を行なっていたことから、開発者である金子氏が著作権法違反幇助の罪に問われる。北尻総合法律事務所所属の壇俊光(だん としみつ, 生年非公開)弁護士が刑事弁護人を引き受ける。同弁護士は法廷弁護人の目を通して描いた小説 『Winny 天才プログラマー金子勇との7年半』(インプレスR&D, 2020年)を2020年4月に出版。「テレビでは東京で逮捕された彼が京都まで新幹線に乗せて連れて行かれる最中の映像が映されていた。釣り用のベストを着てダサいにもほどがある姿である。」と描写する。弁護側証人として登場するのが、「日本のインターネットの父」として知られる慶應義塾大学大学院の村井純(むらい じゅん, b.1955; 慶應義塾大学卒、同大学大学院博士課程修了)教授(当時)・工学博士(慶應義塾大学)。2006年12月13日(水)、京都地方裁判所(京都地裁)は金子氏に対して有罪判決を下し、罰金150万円(求刑懲役1年)の有罪判決が言い渡すが、2009年10月8日(木)には大阪高等裁判所(大阪高裁)で金子氏は逆転無罪の判決を勝ち取る。その後、検察が上告したものの、2011年12月20日(火)に最高裁判所(最高裁)第三小法廷が上告を棄却し、裁判は終わる。名誉を取り戻した金子氏は、東京大学情報基盤センタースーパーコンピューティング研究部門特任講師に就任するも、2013年7月6日(土)に急性心筋梗塞のため満42歳の若さで死去。(2020年6月21日(日)付のヤフーニュースに転載された弁護士ドットコムのオンライン記事に依拠)

2004年6月 東北文化学園大学(在宮城県仙台市)が民事再生法を申請。虚偽申請による大学開設認可が発覚したことが脆弱(ぜいじゃく)な経営を直撃したため、企業スポンサーが民事再生法を根拠に学園の再生に着手。

2004年6月23日、首都大学東京非就任者の一部(19名)によって「首大非就任者の会(くびだい ひしゅうにんしゃ の かい)」の公式ウェブサイト( http://www.kubidai.com/ )」が開設される。特に積極的に活動したのは、岡本順治(おかもと じゅんじ b.1954)、水林彪(みずばやし たけし, b.1947)、人見剛(ひとみ たけし, b.1959)、戸田裕之(とだ ひろゆき、英称: Hiro Y. Toda, b.1961)、高村学人(たかむら がくと, b.1973)の五氏。

2004年7月20日(火) 三十八年前の1966年に設置されていた酒田短期大学(さかた たんき だいがく: 英称 Sakata Junior College: 在山形県酒田市)では、三年前の2001年に中国人留学生の不法就労事件(酒田短大事件)が発覚し、学生募集は2002年度迄で打ち切られていたが、2002年10月に資金難で全教職員を解雇し、開店休業状態になっていた。そして2004年のこの日付で正式に廃校。2008年頃までは使われなくなった校舎の一部が有料老人ホーム「シルバーホームコスモス」として再利用された。

2004年8月13日(金) 沖国大米軍ヘリ墜落事件。在日米軍普天間基地所属の海兵隊大型輸送ヘリコプターCH-53Dが訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学(在沖縄県宜野湾市)1号館北側に接触し、墜落・炎上。米海兵隊の搭乗員3名が負傷しただけで、大学側の死者・負傷者は出なかった。同大学1号館の損傷は激しく、同館は翌年 (2005年)7月30日(土)までに取り壊され、その後、汚染土壌も除去され、更(さら)に翌年(2006年)11月11日(土)に再建工事が竣工し た。

2004年9月12日(日) 1ヶ月前に発生した沖国大米軍ヘリ墜落事件を受けて、現場となった沖縄国際大学(在沖縄県宜野湾市)で大規模な抗議集会が開かれる。

2004年9月29日(水) 国立大学法人埼玉大学(在埼玉県さいたま市桜区)と埼玉りそな銀行が研究や経営面で互いの連携を強める協定を結ぶ。700億円にのぼる同大学の資産の運用方法などを同銀行がアドバイスし、人事交流も図るという。(2004年9月30日(木)付の朝日新聞埼玉版と毎日新聞埼玉版と、2004年10月2日(土)付のNHK総合テレビ「おはよう日本」関東甲信越地域ニュースに依拠)

2004年10月19日(火) 都庁内で開かれた首都大学東京支援組織設立総会の席で、当時の東京都知事石原慎太郎(いしはら しんたろう, b.1932; 都知事在任1999-2012)氏が、「フランス文学が好きで若い頃フランス語を勉強した。」と述べた上で、「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。」、「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない。」と放言。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表。

2004年10月22日(金) 1967年に設置されたが財政状況の悪化により1977年度から学生募集を停止した儘(まま)、資産が競売にかけられ、二十七年にも亘(わた)って校舎や校地もなく休眠状態が続いていた北九州短期大学(在福岡県北九州市)が遂に正式に閉校。

2005年(平成17年) 中国政府教育部が管轄する孔子学院(英称 Confucius Institute)が国内初のケースとして立命館大学内に設置される。なお、孔子学院はその後、世界各国の大学と軋轢(あつれき)や問題を起こしている。

2005年4月1日(金) 東京都立大学と東京都立科学技術大学と東京都立保健科学大学と東京都立短期大学の都立4大学を統合した4学部7学科21コース・6研究 科36専攻から成る総合大学である公立大学法人首都大学東京(英称 Tokyo Metropolitan University)が開学。国公私立を通し「大学」の語が末尾に付かない日本では唯一の大学であるが、英称は東京都立大学(都立大)と同じ物を踏襲 (とうしゅう)。

2005年7月13日(水) フランス語学校経営者らが、前年(2004年)10月の東京都知事石原慎太郎(いしはら しんたろう, b.1932; 都知事在任1999-2012)氏の発言(上記2004年10月19日(火)の項を参照)に対して謝罪広告と損害賠償を求める訴えを東京地方裁判所(東京地裁)に起こし、フランス語教育関係者らによる訴訟に発展。しかし同地裁は訴えを却下。

2005年 本業は数学者でありながら、既に『若き数学者のアメリカ』(1977年)や『遥かなるケンブリッジ』(1991年)の随筆本で知られるお茶の水女子大学の藤原正彦(ふじわら まさひこ, b.1943; 東京大学卒)教授(後に名誉教授)が『国家の品格』(新潮社 新潮新書, 2005年)を刊行。翌’06年5月までに発行部数265万部を超えるベストセラーに。後に続く「品格」本の先鞭(せんべん)をつける。なお、藤原名誉教授の父親は、著名な山岳小説家として知られた新田次郎(にった じろう, 1912-80)、本名 藤原寛人(ふじわら ひろと, 1912-80; 神田電機学校=現在の東京電機大学卒)。母親の藤原てい(ふじわら てい, 1918-2016)は、終戦直後の滿洲から日本への帰還について遺書のつもりで書いた長編小説 『流れる星は生きている』(日比谷出版社, 1949年)が戦後のベストセラーになり、映画も制作・公開された。

2005年10月1日(土) JR九州がグリーン席よりさらに上等な座席という理由で接頭語としての Deluxe (デラックス)を略した DX を冠したDXグリーン席を導入。格差社会の進行で、1960年6月1日(水)に廃止された一等車が遂に復活したと話題になる。

2005年12月 京都大学アメ フト部レイプ事件が発覚。京都大学のアメリカンフットボール部京都大学ギャングスターズ(Gangsters: 「暴力団員ら」「チンピラたち」の意)の部員3名が酒に酔った女性2人を集団強姦した容疑で逮捕された。彼らはいずれも同大学4年生(関西弁で「四回生」)で当時アメフト部員だった、当時22歳で工学部在学の白井淳平(しらい じゅんぺい, b.1983?)、当時23歳で農学部在学の池口亮(いけぐち りょう, b.1982?)、当時22歳で経済学部在学の木戸晶裕(きど あきひろ, b.1983?)の3容疑者。調べによると3人は前年(2004年)12月22日(水) 21:00頃から京都市左京区内の木戸容疑者のマンションで鍋パーティー を開催して焼酎などを一気飲みさせる「焼酎ルーレット」で酩酊状態となった女子学生2名を強姦したとのこと。被告3名は集団準強姦罪で有罪となり、一審の京都地方裁判所(京都地裁)で主犯1名は「懲役5年6月、執行猶予なし」の有罪判決、共犯2名はそれぞれ「懲役3年、執行猶予5年」と「懲役2年6月、執行猶予5年」の有罪判決を受けた。京都大学は加害学生を放校処分とし、ギャングスターズは同年春の競技会の出場を辞退した。二審の大阪高等裁判所(大阪高裁)では主犯に対し「懲役4年6月」に減刑された判決が出て、最高裁判所(最高裁)は2007年11月12日(月)までに上告を棄却した。(2006年1月27日(金)付の日刊スポーツの記事とウィキペディア日本語版の項目を参照)

2006年(平成18年)1月14日(土) 十六年前の1990年1月に開始された大学入試センター試験(略称 センター試験 or センター入試)の第1日「外国語(英語)」の試験で初めてリスニング試験が導入される。ここでは従来型(昭和期型)の会場スピーカー放送とはせず、公平性を担保するためとして受験生個人個人への機材配布が実施される。実施初年度となったこの日は全国各地の会場で機材の不具合または受験生本人による「不具合」の申し出が相次ぎ、試験会場は混乱する。機材は各自で持ち帰る方式でスタートしたが、後年には会場で一括回収する方式に改められることになる。日本人の英語リスニング力が飛躍的に向上することが期待されたが、何の効果も上がっていないとする有識者もいる。

2006年2月 和光大学(在東京都町田市)が二年前の2004年2月18日(水)に松本麗華(まつもと りか, b.1983)嬢の入学を一旦許可しながら、同年(2004年)3月1日(月)に麗華嬢が送付した入学手続書類によって一連のオウム事件を引き起こしたオウム真理教の教祖 麻原彰晃(あさはら しょうこう, 1955-2018)こと、本名 松本智津夫(まつもと ちづお, 1955-2018)未決囚(後に死刑が確定して死刑執行)の三女であることが分かると入学を拒否したことを受け、麗華嬢が同大学を提訴していた裁判で東京地方裁判所(東京地裁)は「入学拒否は違法」と認定、同大学に30万円の慰謝料支払を命じる。この入学拒否をめぐっては、作家・評論家の大塚英志(おおつか えいじ, b.1958; 筑波大学卒、神戸芸術工科大学博士)=後の国際日本文化研究センター教授・東京藝術大学大学院兼任講師が抗議の意志から和光大学の非常勤講師を辞職していた。皮肉なことに当時の和光大学は『差別論ノート』()など差別問題の著書で知られる三橋修(みはし おさむ, 1936-2015; 東京大学卒)教授=後に名誉教授が学長を務めていて、差別はあってはならないとホームページにも理念として掲げていた。そうした大学だからこそ麗華嬢は入学を拒否された時には許せないと考え、提訴に踏み切ったという 。実は麗華嬢は2003年にも武蔵野女子大学=後の武蔵野大学(本部在東京都江東区、事実上の所在地在東京都西東京市)に合格していたが、入学式の2日前の2003年4月1日(火)に「入学を許可いたしませんのでお知らせします。」という電報が届いたという。そして和光大学に拒否された2004年には文教大学(本部在東京都品川区、事実上の所在地在在埼玉県越谷市及び神奈川県茅ケ崎市)にも入学を拒否されていた。そこで麗華嬢は文教大学に対する地位保全を求める仮処分を東京地方裁判所(東京地裁)に申請し、それが認められて文教大学越谷校に入学し、後には卒業している。 他に松本死刑囚の子女としては2006年に松本某(下の名前非公開, b.1994)氏が春日部共栄中学高等学校(在埼玉県春日部市)中等部に合格したものの、麻原彰晃こと本名 松本智津夫の次男であるという理由で入学を拒否されたことを受け、同校に損害賠償を求める訴えをさいたま地方裁判所(さいたま地裁)に起こしたが、十三年後の2019年になっても係争中である。(2015年10月17日(土)付のヤフーニュース記事篠田博之 (しのだ ひろゆき, b.1951; 一橋大学卒) 月刊『創』編集長署名・日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長・東京経済大学大学院非常勤講師記事「オウム麻原三女「入学拒否事件」初の手記。和光大での討論は実現するか」に依拠し、ウィキペディア日本語版の関連項目を参考にした上で加筆)

2006年2月15日(水) 大阪大学(阪大)大学院医学系研究科などの論文データ捏造問題で、同大学は論文の共同執筆者の下村伊一郎(しもむら いいちろう, 生年不詳)教授(当時42歳)を停職14日、竹田潤二(たけだ じゅんじ, 生年不詳)教授(当時53歳)を停職1ヶ月、特任研究員(姓名非公開・当時36歳)を戒告とする懲戒処分を発表した。約一年半前の2004年10月の米医学誌 Nature Medicine 電子版に掲載された、たくさん食べても太らない酵素をマウス実験で見つけたとする論文など複数の論文で、学生が作成した捏造(ねつぞう)データや改竄(かいざん) データが使用されたとのこと。(2006年2月16日(木)付の讀賣新聞の記事を一部改変)。事件の後日談(ごじつだん)として、下村教授・医師は2012年以来、大阪大学大学院栄養マネジメント部長を兼任、竹田教授は2011年以来、大阪大学医学系研究科環境・生体機能学専攻教授を務めている。

2006年3月 東京大学大学院工学系研究科の多比良和誠(たいら かずなり, b.1952)教授らが発表した論文4本について「裏付けるデータがない」として同大学が前年から調査していた問題で、「再現性、信頼性はない」と発表。 これを受け同大学は教授と研究グループの処分へと動く。多比良教授は、蛋白(タンパク)質合成にかかわるリボ核酸(RNA: ribonucleic acid)研究の第一人者とされる。問題となったのは、2003年6月に英科学誌 Nature などに掲載された4本の論文で、ヒトのRNAの一種が神経細胞形成にかかわる遺伝子を制御しているという内容など。2005年4月、日本RNA学会からこの 4本を含む多比良教授らの論文12本について、「実験結果の再現性に疑義がある」として、同大学に調査を依頼。これを受け多比良教授が所属する工学系研究 科では調査委員会を設置していた。多比良教授はこれを受けて問題の4本を撤回。(共同通信の報道を一部改変)

2006年5月、調査委員会は、上記の多比良和誠教授及び上記の4件の論文の筆頭著者である川崎広明(かわさき ひろあき, 生年不詳)助手について、「大学の名誉と信頼を著(いちじる)しく傷つけ、懲戒解雇が相当」とした報告書を小宮山宏(こみやま ひろし, b.1944)教授・総長へ提出。2006年12月、同大学は多比良教授と川崎助手を「論文に信憑性(しんぴょうせい)や再現性がない」「大学の名誉と信 頼を著しく傷つけた」として懲戒解雇したと発表。その後は多比良元教授による法廷闘争へと発展。(共同通信の報道を一部改変)

2006年6月 山陰地方初の四年制私大として七年前の1999年に萩国際大学として開学していた山口福祉文化大学(在山口県萩市)が廃校。同大学は初年度から入学者が定員300人の7割と苦戦していたが、一年前の2005年度には在学生者が42人にまで落ち込み、同年(2005年)6月に民事再生法の適用を申請し、建設関連の塩見ホールディングス(在広島県広島市)をスポンサーに2006年4月山口福祉文化大学として再出発したが、新設したライフデザイン学部の入学者は僅(わず)か24人で、定員140人の2割にも満たなかった。(2007年5月7日(月)付の朝日新聞デジタルの記事に依拠)

2006年8月 学校法人小樽昭和学園が経営する小樽短期大学(在北海道小樽市)が民事再生法を申請。入学者数の減少が脆弱(ぜいじゃく)な経営を直撃したため、予備校運営企業が民事再生法を根拠に同学校法人の再生に着手。しかしながら、同短大は約一年半後の2008年3月に閉校。

2006年8月28日(月) 学校法人昭和女子大学(在東京都世田谷区)が British School in Tokyo (略称 BST)の誘致に成功。British School in Tokyo Showa が同大学内に開学。

2006年12月 近畿大学(本部在大阪府東大阪市)体育会レスリング部員と元部員など計4名がタクシーの乗車順をめぐって男性2人と口論になり、2週間から1ヶ月の怪我(けが)を負わせた傷害容疑で大阪府警察堺南署に逮捕される。(2009年6月18日(木)付の讀賣新聞のオンライン記事に依拠)

2006年12月20日(水) 大阪大学大学院生命機能研究科の杉野明雄(すぎの あきお, 生年不詳)教授(当時63歳)が米国の科学誌にデータを捏造・改竄した論文を発表した問題で、同大学は杉野教授を懲戒解雇したと発表。阪大によると、杉野 教授は米国の生化学専門誌に同年7月に発表した2論文の8ヶ所の図について、画像データをパソコンを使って捏造し、実験データを改竄した。また、共著者か ら内容の確認や同意を取らずに投稿した。(同日付の讀賣新聞の記事を一部改変)

2006年12月22日(金) 五十九年前の1947年3月31日(月)に公布・施行された旧法に代わる教育基本法の新法が公布・施行される。

2007年(平成19年)1月25日(木) 杉並親子殺害事件が発生。東京都杉並区の閑静な住宅街に在る民家で、無職の野元富恵(のもと とみえ, 1921?-2007)さん=85歳(報道によっては85歳)と、その長男で建築設計会社社員、野元新一郎(のもと しんいちろう, 1940?-2007)さん=61歳が殺害され、現金約四万七千円(JPY47,000)やクレジットカードやキャッシュカードなど複数のカードと免許証が奪われる事件が発生。事件の発覚は三日後のこと。

同年(2007年)1月28(日) 14:30頃、東京都杉並区桃井二丁目の閑静な住宅街で住民から、「野元さん宅の郵便受けに新聞が溜(たま)っているので様子を見てほしい」との110番通報あり。警察が民家に踏み込むと、1階寝室で老婦人がパジャマ姿で死亡し、2階寝室で長男の61歳男性が死亡しているのが発見される。両人とも左胸などを刃物で刺されており、室内が物色され、現金などが無くなっていたことから、強盗殺人事件として捜査が開始される。

同年(2007年)2月10日(土)、殺人の起きた1月25日(木)に被害者のカードを使って杉並区内の複数のコンビニ店の現金自動預払機(ATM: automated teller machine)で現金を引き出そうとしながら暗証番号が違っていたため引き出せなかった日本大学(日大)理工学部機械工学科3年次在籍の志村裕史(しむら ひろし, b.1995?)=21歳(報道によっては22歳)が警視庁荻窪署捜査本部に逮捕される。一緒に盗んだ免許証の生年月日から推測した暗証番号を数通り打ち込んだと見られるが、いずれも間違っていたため、引き出せなかった。

この容疑者(後に被告人、更に後に受刑者)志村は被害者宅の斜め裏手(北西約20メートル)に位置する豪邸に両親と姉・弟の5人暮らしをしていたが、事件後も現場近くを屡々(しばしば)徘徊(はいかい)している姿が目撃されていた。父親は地元では地主として知られ、不動産会社を経営し、集合住宅を数棟所有している。志村は隣人親子の殺害を認め、「親が金銭に厳しく、カネが無かった」と供述。サバイバルナイフを購入し、黒い戦闘服に目出し帽、黒の登山靴で侵入し、強盗殺人に及んだという。盗んだ金は遊興費に消えていた。

志村は事件発生直後から「奇妙な言動」が取材陣の間でも話題となっていた。遠くからでも目立つ白いコートに咥(くわ)えタバコという出(い)で立ちで被害者親子の献花に訪れていた。志村は被害者親子の遺体が見つかった三日後(犯行から六日後)の1月31日(水)昼、被害者宅前を訪れ、花束と洋酒をお供えしていた。事件現場に酒類を供える人は珍しく、警備に当たっていた警察官の印象に残ったという。別の日にも、近所の人に混じって被害者宅を見ている姿が目撃されていた。志村容疑者は、花束とたばこ、ウイスキーの小瓶を手にし、咥(くわ)えタバコで規制線を潜(くぐ)ると、警察官に案内され、タバコの煙を吐きながら殺害現場へと近づいて行き、被害者宅の入口に花を手向けた。最後にウイスキーの小瓶をお供えすると、タバコを咥(くわ)えたまま、胸に右手を当てて浅く一礼し、深く煙を吐き出したという。志村は瞬(まばた)きを幾度も繰り返しながら現場を後(あと)にしたが、その僅(わず)か10分後、志村は竹刀(しない)のようなものを持って再び姿を現し、自宅で不審なことがあると警察官に訴えた。「不審な物音がする」「昨夜から自転車がない。盗まれた」「ガラスを割られた。空き巣に入られたようだ」と、再三にわたって警察官に被害を訴え、その検証のために警察を自宅へ招き入れたりという言動を繰り返していた。

日本大学第二中学校・高等学校(在東京都杉並区; 略称 日大二高)を経て、2004年4月に日本大学(日大)理工学部機械工学科に推薦で入学した。中学校の同級生は「頭が良いという印象はあるが、影の薄い目立たない存在だった」と話す。日大関係者によると、機械工学が専攻だが、ほとんど授業には姿を見せなかったという。2005年4月から2006年3月までの一年間を本人の申し出により病気で休学していたが、卒業に必要な130単位のうち4科目7単位しか修得できていなかった。「卒業への必要数には全く足りない状況」(同大学広報課)という。サークル活動もしておらず、クラス担任も「印象に残る学生ではない」としている。

検察は死刑を求刑したが、事件から二年半後の2009年7月15日(水)に東京地方裁判所(東京地裁)は男に無期懲役判決を言い渡す。検察側・弁護側共に控訴するも二審の東京高等裁判所(東京高裁)も無期懲役判決を支持。検察は上告を断念し、被告も自ら上告を取り下げて判決が確定。

なお、志村の父親は被害者遺族に対して8千万円を支払い、それを遺族側が受け取ったという。

警視庁荻窪署特捜本部の調べに、2人の殺害を認めた上で、ていることが分かった。志村裕史は現在も服役中である。

(ウィキペディア日本語版の「杉並親子殺害事件」の記述と、2007年2月14日(水)付の毎日新聞と時事通信のオンライン記事と、2007年2月15日(木)付のフジテレビ系FNNと産経新聞と讀賣新聞のオンライン記事と、2007年2月15日(木)付の朝日新聞のオンライン記事と、2018年12月30日(日)付の WJN 週間実話ニュースのオンライン記事に依拠)

2007年2月 日本大学(日大)体育会サッカー部とラグビー部の部員ら計61名が、不正に入手した通学定期券で京王線やJR線に常習的に乗車していたことが発覚。日大側は両社から請求されていた不正乗車による割り増し罰則金642万円を納付。また、日大は不正に関与した61人全員を学則に基づき処分した。サッカーとラグビーの両部は2006年度中の公式試合出場を辞退。

2007年3月20日(火)~2011年4月25日(水) 英国人リンジー・ホーカーさん強姦殺人事件

2005年3月、勤務医の両親(父親が外科医、母親が歯科医)を持つ市橋達也(いちはし たつや, b.1979)が国立千葉大学を卒業。大学では園芸(horticulture)を専攻し、公園デザインなどについて学んだが、卒業後は就職せず海外の大 学院に進学するためとして、事件まで2年間ほど独り暮らしの自宅マンションで英語の勉強をしていた。「父親が朝鮮民族で、市橋姓は母親の物である」とする 噂(うわさ)やネット上の書き込みもあるが、真偽のほどは不明。五年前の2000年に起きた同様の事件の犯人が元在日朝鮮人の帰化人だったことから、今回 の事件でもそのような憶測(または邪推)を呼んだ可能性がある。

2007年3月20日(火)、当時28歳の市橋達也が千葉県船橋市のJR西船橋駅前広場で、リーヅ大学(University of Leeds)化学科卒の当時22歳の英国人でNOVA英会話講師をしていたリンジー・ホーカー(Lindsay Ann Hawker, 1984–2007)嬢(但し、日本のマスコミではリンゼイ・アン・ホーカーさん)に声をかけ、ホーカー嬢宅まで押しかけて、似顔絵を書いたり、メールアドレスを聞くなどした。その後数回のメール交換を行ない、その週末の25日(日)に英会話レッスンを1回3,500円でしてもらう約束を取りつける。

2007年3月25日(日)午前9時に市橋とホーカー嬢が東京メトロ東西線行徳駅前の喫茶店に来店した様子が防犯カメラに映っている。レッスンの終盤、市橋は レッスン代金を忘れたと言い、2人はタクシーで市橋の住む市川市内の集合住宅「行徳サンライズ」の自室にお金を取りに行くために移動した。午前9時54 分、「行徳サンライズ」のエレベーターの監視カメラに2人が映っている。市橋は4階の自宅に入ったところでホーカー嬢を押し倒し、結束バンドなどで拘束し て性的暴行を加えた。その後、着脱可能な浴槽(バスタブ)を和室に置き、まだ生きていたホーカー嬢を押し込んで監禁した。監禁中には拘束を解くように要求 するホーカー嬢を市橋は無惨にも殴りつけた。24時頃には、市橋は当時交際中の女性に「1週間ほど会えない」とメール連絡した。

2007年3月26日 (月)深夜2~3時頃、手の拘束を解いてホーカー嬢が逃亡しようとしたため市橋は頚部(けいぶ)を圧迫して窒息死させた。被害者の死亡後、市橋はホーム センターで赤玉土56リットル、園芸土50リットル、シャベル1個、発酵促進脱臭剤2個、脱臭剤2個、苗木1本を購入した。ベランダに浴槽と遺体を移動さ せて、購入した土を投入した。

同日、ホーカー嬢と同居していたカナダ人女性から捜索依頼を受けた千葉県警船橋警察署員がホーカー嬢宅を捜索。市 橋の電話番号とメールアドレスと被害者の似顔絵を描いたと思われるメモを発見し、市橋宅の家宅捜査に急行したのは、その日の夜のことだった。21時40分 頃、「行徳サンライズ」4階に在(あ)った市橋宅に生活安全課と刑事課の署員数人が到着。市橋は部屋から出てきたが、捜査員が部屋に入ろうとすると、市橋 は靴下の儘(まま)非常階段を駆け下りて「行徳サンライズ」裏の駐車場を経て東京メトロ東西線行徳駅方面にまんまと逃走した。逃走を防ぐべく非常階段にも 捜査員が配置されていたにも拘(かか)わらず、市橋を取り逃がした。千葉県警の大失態だった。その日の22時頃、捜査員は容疑者不在の儘(まま)、市橋宅 のベランダに置かれていた浴槽内に全裸の前傾座位で土に完全に埋められたホーカー嬢の遺体を発見。司法解剖の結果、死因は頚部を圧迫されたことによる窒息 死と判断された。圧迫の際に舌骨を2箇所骨折していた。右眼窩下と左頬部には殴打痕とみられる皮下出血も確認された。部屋のゴミ袋からは、市橋のDNAと一致する体液が入った避妊具が発見され、避妊具の外側には被害者ホーカー嬢の細胞が認められた。

2007年3月27日(火)、千葉県警行徳警察署は警察犬を投入して臭覚追跡を行なったが、東京メトロ行徳駅附近で警察犬が感知し得る市橋の臭気が途絶するとと もに、同駅附近で市橋が着用していたと見られる靴下が落ちているのを確認。市橋は死体遺棄容疑で全国指名手配された。千葉県警行徳署捜査本部の捜査によ り、市橋とホーカー嬢の両名は語学学校NOVAのプログラムとは無関係な個人レッスンに合意していたことが判明した。

2007年4月1日(日)、当時のグレアム・フライ(Sir Graham Fry, b.1949)駐日英大使が東京都内で記者会見(press conference)を開き、市橋逮捕への協力を求め、遺族のホーカー家の活動への支援を約束。

2007年6月27日(水)、遺族のホーカー家が専用ウェブサイトを立ち上げ、市橋の指名手配の顔を印刷したTシャツをネット販売するとともに、事件の風化を防ぐため繰りかえしマスコミへの出演を行なった。捜査協力はあらゆる方面に及び、英タブロイド新聞の日刊メイル紙(Daily Mail) は、被害者の父親で、自動車教習所教官のビル・ホーカー(Bill Hawker, 生年不詳)氏が日本のマフィアに相当するヤクザにも接触し、市橋探しの捜査を依頼していたと報じた。英国の各メディアは「日本は白人女性にとって危険な国で、痴漢や変態の国」と仄(ほの)めかす内容で報道合戦を繰り広げる。

2007年6月29日(金)、被害者遺族のホーカー家の4名が在京英国大使館 (British Embassy in Tokyo)に於(お)いて記者会見を開き、市橋逮捕とその契機となる情報提供を広く訴求するとともに、新たに製作された指名手配ポスター約6,000枚 を配布し、その後も市橋の捜索に関してしばしばコメントを寄せた。後に、報奨金額は1千万円まで引き上げられた。こうした中、日本の一部女性たちが逃亡者 市橋のファンクラブを作り、遺族の感情を逆(さか)撫(な)でし、英国大使館や英国民の心証を悪くした。

2007年6月30日(土)、テレビ朝日が「奇跡の扉 TV(テレビ)のチカラ」で特別番組を編成し、来日中の被害者両親も出演して、日本国内に広く情報提供を求めた。

2008年2月29日(金)、逃亡者(a fugitive)の市橋は偽名を使って神戸市内の建設会社に勤務して肉体労働に従事し始め、会社の寮で生活した。

2008年3月13日(木)、千葉県警行徳署捜査本部は、市橋が茶髪で眼鏡をかけた姿と女装姿の2つのイメージ画像を掲載した指名手配ポスターを新たに公開し、A3版を約4千枚掲示するとともに、A4判チラシ約3万枚をホテルや駅などで配布した。

2008年3月18日(火)、市橋が記した被害者の似顔絵つきのメモと、市橋の遺留品であるリュックサックと靴と靴下の写真を千葉県警が公開した。

2008年6月26日(木)、市橋が神戸市内の建設会社の寮を無断で退去して行方をくらました。

2008年8月20日(水)、逃亡者の市橋は大阪府茨木市内の建設会社に勤務して肉体労働に従事し始め、会社の寮で生活した。同建設会社は市橋を雇用する際に、 あいりん地区に社有車を派遣して求職者を募集し、その場で雇用したという経緯から、当初は同事件の市橋であるとは気づかなかったとしている。

2008年10月10日(金)、市橋が大阪府茨木市内の建設会社の寮を無断で退去して行方をくらました。

2008年10月23日(木)~24日(金)、逃亡者の市橋は名古屋市内の美容形成外科医院にて眉間(みけん)の形成手術を受けた。

2008年10月24日(金)、保守系の英高級紙タイムズ(The Times)が「日本の警察は市橋が自殺したと断定した」という記事を掲載したが、同日、佐藤勉(さとう つとむ, b.1952)国家公安委員長が記者会見の席上で市橋自殺について否定した。しかしその後は市橋についての消息が一年以上も途絶え、自殺の可能性も憶測された。

2009年11月5日(木)、名古屋市内の美容形成外科医院が、過去に美容形成術を行なった患者カルテの顔写真を整理していたところ、男性には珍しい黒子 (ほくろ)の除去をした元患者のことを不審に思い、報道されていた市橋達也との一致部分を確認した上で病院職員が警察に通報した。千葉県警は写真に写った 骨格などから市橋と断定。顔写真を公開した。市橋は整形で一重(ひとえ)だった瞼(まぶた)を二重(ふたえ)にしていたほか、鼻が高くなっていて、下唇は 薄くなっていた。指名手配の顔写真は整形後の同病院提供の顔写真に差替えられた。なお、同院は手術前に既(すで)に市橋が顔を整形していた模様であったた め、実際の施術の際には逃亡中の強姦殺人犯だと気づかなかったとしている。

2009年11月10日(火)、神戸市東灘区の六甲船客ターミナルにて沖縄行き航路に搭乗しようとしていた乗客の中に市橋に似た不審な男を船便運行会社の従業員が発見した。当日は神戸発・沖縄行きの航路は欠航であったため、同日 も同航路に就航していた大阪南港発の沖縄行き便を案内すると、市橋と思われる人物が乗船のため大阪南港に向かう旨の発言をしたことから、不審に思った同港 担当者は警察当局と大阪南港担当者に通報した。大阪南港フェリーターミナルに先回りし待機していた警察官により市橋の身柄は確保された。そして移送された 大阪府警住之江署にて市橋はホーカー嬢の死体遺棄容疑で逮捕された。市橋は署員によって東海道新幹線に乗せられて千葉県警行徳署まで移送された。逮捕後の市橋は暫(しばら)く絶食して、黙秘権を行使しようとした。また、留置場からイギリスの被害者家族に向けて英語と日本語で手書きの4ページの謝罪文を送ったが、被害者家族は「これは裁判対策に違いない」として受け取りを拒否した。謝罪文は翌’10年10月5日(火)付の保守系の英高級紙タイムズ(The Times)がその英文の一部を掲載した。

2009年12月2日(水)、千葉地方検察庁(千葉地検)は死体遺棄罪で市橋を起訴。

2009年12月3日(木)、現場に残された体液と市橋容疑者のDNAの一致が確認されたことから、千葉県警行徳署は殺人並びに強姦致死容疑で市橋を再逮捕した。

2009年12月4日(金)、千葉県警は市橋容疑者を千葉地方検察庁(千葉地検)に送検。

2009年12月23日(水)、千葉地方検察庁(千葉地検)は殺人と強姦致死の罪で市橋を追起訴。裁判員裁判で審理される。

2011年7月4日(月)、千葉地方裁判所(千葉地裁)に於(お)ける初公判が開始される。起訴状の公訴事実は、殺人罪・強姦致死罪・死体遺棄罪。被害者 の両親と姉妹の計4人が被害者参加制度を利用して裁判に参加した。検察側は市橋が事件の発覚を恐れて殺害に至ったとしたが、被告・弁護側は強姦と監禁、死 に至らせた事実は認めたが、殺意については否認し、殺人罪と強姦致死罪ではなく、傷害致死罪と強姦罪だと主張した。検察側は、市橋は非常に強い力で3分以 上に亘(わた)って頚部を絞めており殺意は明らかで、蘇生措置をしたというのは被害者の肋骨に損傷がないことから信用できないと主張した。被害者の遺族 は、市橋の発言は減刑を意識したパフォーマンスであり、反省が見られないとして「可能な限りの極刑」(日本の刑法では死刑)を求めたが、検察は市橋に前科 がなく犠牲者が1人であるから死刑は躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないとして無期懲役を求刑した。

2011年7月21日(木)、千葉地方裁判所(千葉 地裁)は検察側の求刑通り市橋に無期懲役の判決を言い渡した。検察の主張する殺人罪と死体遺棄罪は認定したが、「首の圧迫は強姦後に相当の時間が経 (た)った後で、時間的に接着していない」として、強姦致死罪ではなく、弁護側が主張する強姦罪にとどまるとした。また遺族が死刑を求めた点について触 れ、「計画性がなく、更生可能性が無いとは言えない」と無期懲役とした理由を説明した。地裁の判決に対し、被害者の遺族は「四年半の間、リンジーのために 正義が下される日を待っていた。今日それに到達できた。とても満足している。」とコメントした。しかし市橋の弁護側は「刑を確定させるのは反対」と反発し た。

2011年8月2日(火)、市橋の弁護側は事実認定の誤りと量刑不当などを理由に東京高等裁判所(東京高裁)に控訴した。弁護団と接見した市橋は「自分の言っていることは事実である。どうして信頼できないと言われるのか。」とあからさまに不満な表情で話した。

2012年3月15日(木)、東京高等裁判所(東京高裁)で控訴審初公判が開廷され、被告人側が殺意を否認する弁論を行なったのに対し、検察側は一審の無期懲役判決を維持して控訴を棄却するよう求める陳述を行なった。控訴審審理はこの一日のみで終結した。

2012年4月11日(水)、東京高等裁判所は「被告人に真摯(しんし)な悔恨(かいこん)が見られない」として、一審の千葉地方裁判所(千葉地裁)の無期懲役判決を支持して被告人の控訴を棄却した。

2012年4月25日(水)、十四日間の上告期限までに検察・弁護側の双方が上告せず、無期懲役の判決が確定した。弁護団は市橋に対しこれ以上証拠を見出せないので上告しない方針を伝えると、市橋も上告しない意思を示した。

市橋達也受刑者は現在も服役中である。

なお、2016年3月末に二年間に及ぶ中学生少女監禁事件が解決( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline3 )した際には、自殺未遂した容疑者が千葉大学の学生だったこともあり、その先輩に当たる市橋受刑者のことが再び人々の記憶に去来した。

2007年4月1日(日) 八年前の1999年4月1日(木)に改正施行されていた「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」(通称 「改正男女雇用機会均等法」)が更(さら)に改正施行され、性別による差別禁止の範囲を拡大され、男性に対する性差別も対象になる。

2007年4月 中国政府教育部が管轄する孔子学院(英称 Confucius Institute)が東京都区内の大手大学では初のケースとして早稲田大学内に4月開設。実際の開講は5月。

2007年5月~夏 首都圏の大学生の間で麻疹(はしか)が空前の大流行。大学では休講が相次ぎ、大きな社会問題に。

2007年夏 総務庁(現在の総務省)統計局消費統計課長、総理府(現在の内閣府)男女共同参画室長、埼玉県副知事を歴任した後、2003年埼玉県知事選挙で落選し、在豪州ブリスベン日本国総領事を務めた昭和女子大学の坂東眞理子(ばんどう まりこ, b.1946; 東京大学卒)教授・学長(2014年4月1日(火)から2016年3月31日(木)までは学校法人昭和女子大学理事長も兼務、2016年4月1日(金)からは学長を兼務しない同学校法人理事長・総長)が前年(2006年)9月に刊行した『女性の品格』(PHP研究所 PHP新書, 2006年)が累計300万部を超える空前のベストセラーに成る。当初著者が頭に抱いていた仮題 『上品な女性、下品な女性』では売れそうもないというPHP研究所側の判断で、同業他社によって2005年に出版され、翌’06年5月までに発行部数265万部を超えるベストセラーになっていたお茶の水女子大学(お茶大)の藤原正彦(ふじわら まさひこ, b.1943; 東京大学卒)教授(後に名誉教授)著 『国家の品格』(新潮社 新潮新書, 2005年)の題名の一部を拝借することとなる。坂東学長は一躍「時の人」としてマスコミの常連となり、昭和女子大学の人気と知名度が急上昇。

2007年10月1日(月) 八十五年半前の1922年4月1日(土)に大阪外國語學校として創立された国立大学法人大阪外国語大学(略称 阪外大(はんがいだい); 英称 Osaka University of Foreign Studies; 英略称 OUFS; 在大阪府箕面市)が、国立大学法人大阪大学(略称 阪大(はんだい); 英称 Osaka University; 在大阪府吹田市)に吸収合併される。阪大は外国語学部を新たに設置。

2007年10月21日(日) 明治十五年=1882年創立の早稲田大学が創立125周年を盛大に祝う(創立者大隈重信が25の5倍=5の3乗の数字である人生125年論を提唱していたため)。同大学の教職員は大学から1人125万円の寄付を執拗に迫られる。

2007年 文部科学省平成19年度学校基本調査報告書によると、日本の大学数は756校(内、私立大学580校)。

2008年(平成20年) 日本の児童・生徒の学力低下の傾向に歯止めがかからず、文部科学省はついに「ゆとり教育」の見直しに着手。

2008年3月6日(木)~2011年8月31日(水) 筑波大学論文データ改竄(かいざん)事件の波紋

2008年3月6日(木)、国立大学法人筑波大学(本部在茨城県つくば市)大学院の長照二(ちょう てるじ, 1953; 京都大学卒、同大学理学博士)教授・同大学プラズマ研究センター長=55歳が約一年半前の2006年8月4日(金)発行のアメリカ物理学会(APS: American Physical Society)の専門誌 Physical Review Letter (直訳 『物理学批評文』)に発表したプラズマ理論の磁気ミラー型理論に関する論文に「データの改竄(かいざん)」があったという退学済の元大学院生からの告発を受け、同大学は外部の専門家を含む調査委員会に調査を委託していたが、ここで調査報告を公表。それによると、長教授らが都合の良いデータを使って作図する改竄があり、「不適切なデータ解析の程度が著しい」とのこと。同大学は併(あわ)せて、「本学教員が発表した論文における不適切なデータ解析について」( http://www.tsukuba.ac.jp/public/press/080306.html )と題するウェブページをも特設し、「資料1 本事案の詳細について」、「資料2 説明資料」、「資料3 本事案発覚後の経過」、「資料4 研究公正委員会調査委員会調査結果」の4種のPDFファイルで詳報。件(くだん)の論文のオーサーズ(authors)としては、筆頭著者の長教授以下27人が名を連ねているが、データ改竄に関与したとされるのは筆頭著者の長教授と共同研究者の大学講師3名の計4名だった。データ精度を上げる手間を惜しみ、一発データを市販ソフトウェア Kaleida (カレイダ)に丸投げして処理させる手順だったという。

同年(2008年)8月29日(金)、筑波大学側の当初の処分は2008年3月31日(月)を以(もっ)てプラズマ研究センター長の職を解くものであったが、長教授側が処分に不服を申し立てたことから、2008年8月27日(水)付で長教授を懲戒解雇処分にしたことを発表( https://www.tsukuba.ac.jp/public/press/080829press_Pmondai_kouhyou.pdf )。

同年(2008年)下半期月日不明、長元教授は筑波大学の処分に反論するため、疑念を抱かれた論文データを科学的に検証した論文を Physics of Plasmas に発表。

同年(2008年)10月16日(木)、筑波大学は長元教授の研究グループに居た平田真史(ひらた まふみ)講師と小波藏純子(こはぐら じゅんこ)講師と沼倉友晴(ぬまくら ともはる)講師の停職(それぞれ4月(よんげつ)、3月(さんげつ)、1月(いちげつ))の懲戒処分を下す( http://www.tsukuba.ac.jp/public/press/081017press.pdf )。

同年(2008年)10月下旬、長元教授が筑波大学による懲戒解雇は無効として地位確認と損害賠償を求める訴訟を、国立大学法人筑波大学を相手取って水戸地方裁判所(水戸地裁)土浦支部に起こすと、一躍時の人と成る。テレビ画面にその異様な髪形をした人物像が映し出され、ネット上で「あれはカツラか?」「あの頭はプラズマか?」などと話題になる( http://livedoor.blogimg.jp/aaaaazuki21/imgs/4/2/4208ed33.jpg / http://f.hatena.ne.jp/youtube_girls/20091025023126 )。

同年(2008年)12月、国内外の科学者が実名で長元教授の処分を不当とする声明を出す。

2009年2月、研究者有志らが「長教授らを支援する会」( https://cho2.jimdo.com/ )を結成。

2010年4月19日(月)、長元教授が筑波大学等に対して、懲戒解雇は無効として地位確認と損害賠償を求めた訴訟で、水戸地方裁判所(水戸地裁)土浦支部で原告側の訴えを棄却する判決が下される。

2011年8月31日(水)、二審の東京高等裁判所(東京高裁)も一審判決を支持し、原告側の訴えの全てを棄却。国内の科学者5名が、「大学側はただ裁判に勝つためだけに科学や数理統計の常識を敢えて無視している」と大学の姿勢に強く憤り、「学問的真実と学術研究の自由を守るため」として、東京高裁に対して意見書を作成していたが、意見書の内容は判決に採用されなかった。科学者5名の内訳は、長谷川晃(はせがわ あきら, b.1934; 大阪大学卒、同大学修士、カリフォルニア大学バークリー校哲学博士、名古屋大学理学博士)大阪大学名誉教授と、宮本健郎(みやもと けんろう, b.1931)成蹊大学教授・東京大学名誉教授と、巽友正(たつみ ともまさ)京都工芸繊維大学元学長・京都大学名誉教授と、前澤秀樹(まえざわ ひでき)高エネルギー加速器研究機構教授と、宮原恒昱(みやはら つねあき)日本女子大学教授という錚々(そうそう)たる顔ぶれだった。

(2008年3月7日(金)付の東京新聞の記事と、個人ブログ「日々是好日」の記事3本と、ウィキペディア日本語版の「長照二」の項目と、2010年4月19日(月)付の時事ドットコムの記事に依拠)

2008年4月1日(火) 日本で唯一、男子のみのための高等教育機関だった1961年開学の東洋食品工業短期大学(英称 Toyo College of Food Technology; 在兵庫県川西市)が男女共学に。日本に男子大学はゼロ校となる。

2008年同月同日(火) 制度改正により、複数大学による学部・大学院の共同設置が可能になる。

2008年同月同日(火) この日に始まる平成20年度(2008年4月1日(火)~2009年3月31日(火))から私立順天堂大学(在東京都文京区)が入学金・授業料を大幅に下げ、入試偏差値が急上昇。次年度=平成21年度(2009年4月1日(水)~2010年3月31日(水))以降に他の私立医科大学・私立大学医学部も順天堂に追随。

2008年7月14日(月) 日本大学(日大)体育会スキー部に所属する18歳の部員(氏名非公開, b.1990?)が強姦致傷事件を起こす。これについて日大スキー部は虚偽報告をしたため、インカレ(Inter-College)出場停止処分を受ける。(同日付の讀賣新聞のオンライン記事に依拠)

2008年9月 米大手証券会社リーマン・ブラザーズの倒産(和製英語でリーマン・ショック)に端を発する世界同時不況。景気が回復しつつあった日本でも雇用環境 が悪化し、就職難に。私立大学の大手が軒並み投資に失敗と報じられる。マスコミ報道で一番巨額の損失を出したとされたのは駒澤大学であったが、実際には慶 應義塾大学が断トツで大きな損失を出していた。

2008年10月 日本人4人(但し、うち1名は米国籍)がノーベル賞(典 Nobelpriset; 英 Nobel Prize)を受賞するというニュースが日本中を駆け巡る。ノーベル物理学賞(典 Nobelpriset i fysik; 英 Nobel Prize in Physics)が、京都大学の益川敏英(ますかわ としひで, b.1940; 名古屋大学卒、同大学大学院修了)名誉教授・理学博士(名古屋大学)と、名古屋大学の小林誠(こばやし まこと, b.1944; 名古屋大学卒、同大学大学院修了)特別招へい教授・理学博士(名古屋大学)と、米国籍で大阪大学の南部陽一郎(なんぶ よういちろう, 1921-2015; 東京帝國大学卒)招聘教授・理学博士(東京大学)の3名に、そしてノーベル化学賞(典 Nobelpriset i kemi; 英 Nobel Prize in Chemistry)が米人2名と共に米ボストン大学の下村脩(しもむら おさむ, 1928-2018; 長崎医科大学附属薬学専門部=現在の長崎大学薬学部卒、名古屋大学大学院研究生、米プリンストン大学留学)名誉教授・理学博士(名古屋大学)に授与されることが決定。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831336_00000&seg_number=001

2008年11月 愛知学院大学(在愛知県日進市)体育会男子バレーボール部の元部員2名が部所属中に後輩に暴行を加え、計25回に亘(わた)って約150万円を脅し取ったとして恐喝容疑で逮捕される。(2009年6月18日(木)付の讀賣新聞のオンライン記事に依拠)

2008年12月18日(木) 岐阜大学は地域科学部の竹原健二(たけはら けんじ, 生年不詳)教授(当時58歳)が2007年10月に学術誌に発表したベトナムの福祉に関する論文に、他人の論文から多数の記述をほぼ丸写しする盗用があっ たとして、同教授を停職3ヶ月の懲戒処分にした。岐阜大によると、竹原教授が盗用していたのは他の国立大学の准教授が2006年までに発表した3論文の計 31ヶ所の記述で、引用文献を明示せず、ほぼそのままの表現で記述していた。(同日付の47NEWSの記事を一部改変)

2008年12月25日 (木) 鹿児島大学は医学部・歯学部付属病院の松山航准教授(当時38歳、2007年11月に自殺)による論文のデータ改竄(かいざん)問題で、上司で論文共著者だっ た同大学院医歯学総合研究科の有村公良准教授(生年不詳、後に教授)を戒告の懲戒処分にしたと発表した。(2008年12月26日(金)付の毎日新聞の記 事を一部改変)。事件後の有村公良教授は2011年以来、医療法人三州会大勝病院院長。

2009年(平成21年)1月14日(水) 中央大学教授刺殺事件。中央大学理工学部電気電子情報通信工学科(在東京都文京区)の髙窪統(たかくぼ はじめ, 1963-2009; 上智大学卒; 同大学大学院修了)教授・工学博士(上智大学)が、午前10:15頃(午前10:25頃とするウェブサイトもあり)、卒業論文ゼミナール(卒論ゼミ)の元教え子でフリーターの山本竜太(やまもと りゅうた, b.1981?)容疑者=28歳によって同大学後楽園キャンパス(在東京都文京区)1号館4階の男子トイレ内で背中を複数回に亘って刺される。兇器は園芸用の刃渡り約27センチの枝切鋏を分解して殺傷能力を高めた刃物だった。山本容疑者は約五年前の2004年3月に中央大学理工学部を卒業して大手食品製造会社に就職したが、職場に馴染(なじ)めず、わずか一ヶ月半で退職。その八ヶ月後にはハローワーク(旧称 職業安定所)で見つけた電子機器製造の中小企業に技術者として再就職するも、試用期間中に解雇されてしまう。その後も別の電子機器製造会社に就職するが長続きせず、ホームセンター(英 DIY store)やパン製造工場などでのアルバイト生活を送っていたという。髙窪教授は山本容疑者の就職に関する相談に応じていたが、「教授の自分に対する扱いが不満」とばかりに理不尽なまでに教授を逆恨みした山本によって惨殺されたのだった。捜査関係者によれば、山本容疑者は、「卒業前の忘年会で高窪教授に話しかけられず、寂しかった。自分は隅でひとりで酒を飲んでいた。疎外されていると感じた。」と供述しているとのこと。希望していた電気関係の職に就けなかったことや、転職を繰り返したことも高窪教授の所為(せい)だと勝手に思い込んだことが犯行動機だとのこと。しかしながら、同大学のゼミ生は講談社の週刊誌『フライデー』の取材に対して次のように話す。「山本は極端なほど周囲とのコミュニケーションが苦手だったので、高窪先生は彼のことをかなり心配していました。」と。髙窪教授は直ちに病院へ救急搬送されたが、搬送先の病院で同日11:30に死亡が確認された。満45歳だった。死因は背中、胸、腹の刺し傷による失血死。傷は体の上半身を中心に40箇所余りに上り、両腕には攻撃を防ぐ際についたとみられる傷もあったという。事件との関与は不明とされているが、高窪教授の自宅に近い小田急電鉄成城学園前駅周辺では「殺」「呪殺」「死」と書かれた落書きが電柱に7箇所も見つかっている。山本容疑者の逮捕は同年(2009年)5月21日(木)のこと。遺体の第一発見者となったスイス人元留学生は、3月に留学を終えてスイスに帰国していたが、5月初旬に日本の警察から、渡航費や滞在費を支払うから日本に来て協力してほしいと言われ、訪日したのだった。山本容疑者は精神鑑定の末、責任能力が認められ、東京地方検察庁(東京地裁)によって起訴され、東京地方裁判所(東京地裁)は翌年(2010年)12月に懲役18年(求刑懲役20年)の判決を下した。検察側と弁護側の双方から控訴がなかったことから刑が確定し、山本竜太受刑者は現在も服役中である。(2019年11月13日(水)付のヤフーニュースに転載されたFRIDAYデジタルの小野一光記者の署名記事に依拠した上で加筆)

2009年1月 東京慈恵会医科大学(英称 Jikei University School of Medicine; 本部在東京都港区)で36歳の内科医がビタミン剤と偽り、妊娠した交際中の女性看護師(二十世紀の日本語で「看護婦」)に子宮収縮剤を飲ませ、さらに「水分と栄養を補給するため」と称し、陣痛促進剤を点滴する事件が発覚。この件は妊娠した女性看護師の知るところとなり、この医師は不同意堕胎罪で逮捕され、懲役3年執行猶予5年の判決を受け、厚生労働省(略称 厚労省; 英称 Ministry of Health, Labour and Welfare; 英略称 MHLW)から医師免許を取り消される。(上昌広(かみ まさひろ, b.1968; 東京大学医学部医学科卒)著 『ヤバい医学部』(日本評論社, 2019年)に依拠した2021年2月28日(日)付のヤフーニュースに転載された幻冬舎ゴールドオンラインの記事に依拠)

2009年2月23日(月) 関東リーグ戦で二年続けてナンバー2だった東洋大学(本部在東京都文京区)体育会ボクシング部のスポーツ推薦元部員で同大学経済学部2年生(20歳)の渡辺恭(わたなべ きょう, b.1989?)容疑者と東京都武蔵野市の無職(25歳)大阪紘史(おおさか ひろし, b.1984?)容疑者の2名が覚せい剤の密輸バイトで逮捕されたことを受け、同大学同部は2009年シーズンの活動を自粛し、リーグ戦出場を辞退。(同日付の朝日新聞と2009年7月15日(水)付の文春 Number Web のオンライン記事に依拠)

2009年3月 日経平均がバブル後最安値となる7,054円98銭まで沈む。

2009年3月23日(月) 日本体育大学(在東京都世田谷区)陸上競技部所属の学生が横浜市青葉区内にある同部跳躍ブロック合宿所内のベランダで大麻を栽培し、 吸引していた容疑で同月2日(月)に関東信越厚生局麻薬取締部から取り調べを受けていたことが発覚。捜索を受けた際、カラーコピー機で製造した偽札数枚が 見つかったことを受けて神奈川県警が通貨偽造容疑で捜査を開始したことも同25日(水)になって発覚。大学は捜索を受けた男子部員を退学処分とし、陸上部の部長、監督、コーチの三人を同5日(木)付で解任したとのこと。(2009年3月26日(木)付の共同通信のオンライン記事と同27日(金)付のJ-CASTニュースに依拠)

2009年5月17日(日) 昭和女子大学(英称 Showa Women’s University; 英略称 SWU; 在東京都世田谷区)の事務職に採用されなかったことを逆恨みし、同大学に脅迫電話をかけ続けた男が警視庁に逮捕される。逮捕されたのは、東京都世田谷区三軒茶屋1丁目在住の会社員、渡辺至(わたなべ いたる, b.1974 or ’75?)容疑者=34歳。渡辺容疑者は三年以上前の2006年1月に同大学の事務職員として採用が内定しかかっていたが、最終段階で「適正を欠く行動があった」として採用には至らなかったという。斯様(かよう)な犯罪者を採用していたら取り返しのつかないことになっていたと考えられ、同学校法人学園本部人事部の目は確かだったと言える。逮捕容疑は2009年2月初旬から4月初旬にかけて三回に亘(わた)り新宿区内の公衆電話から同大学に「これからお前のとこの生徒に事件が起きるかも知れない。」「爆弾投げてやるからな。」「職員殺していい。」と脅迫電話した威力業務妨害(いりょく ぎょうむ ぼうがい: forcible obstruction of business; obstruction of business by force)の疑い。渡辺容疑者本人は「一昨年(2007年)から五十回ぐらい電話した」と、犯行を認める供述をしている。当初は警視庁世田谷署が捜査に当たっていたが、解決には至らず、警視庁捜査一課が本気で取り組み、新宿区内の公衆電話の特定に成功したことで逮捕に繋(つな)がったという。(2009年5月18日(月)付のヤフーニュースに転載された讀賣新聞のオンライン記事に依拠した上で加筆)

2009年6月18日(木) 戦時中の1943年(昭和18年)に拳闘部として創部され、1968年メキシコ五輪の銅メダリストや、アマ・プロともに日本王者に君臨した名選手を何人も輩出してきた近畿大学(本部在大阪府東大阪市)体育会ボクシング部が廃部を決定。同部の19歳の部員2名(未成年者のため氏名・顔写真は非公開)がパチンコ・スロット(パチスロ)で遊ぶカネ欲しさを動機とした強盗容疑で前日(2009年6月17日(水))に逮捕され、その逮捕容疑の他にも多くの余罪がある常習犯の可能性まで出てきたことを受けての措置である。同大学の周辺では歩行中の男性に「ヤクザや」、「メンチを切った」、「肩が当たった。慰謝料を出せ」などと因縁を付ける古典的な手口で暴行し、カネを奪う事件が連続して発生していて、一部の犯行で防犯カメラに残っていた映像から今回の2人が関与した疑いが浮上したという。塩谷立(しおのや りゅう, b.1950; 慶應義塾大学卒)文部科学大臣が「廃部までしなくても、、、」という異例のコメントを出すほどの騒ぎになるも、同部OB会などからの復活の嘆願の声の声と四万人もの署名を受け、三年後の2012年10月には再度創部することになる。(同日付の讀賣新聞と、2009年7月15日(水)付の文春 Number Web と2017年7月11日(火)付のヤフーニュースに転載された毎日新聞のオンライン記事に依拠)

2009年7月 昭和大学女子大学経歴詐称事件(一部では「N氏事件」とも呼ばれる)。昭和女子大学(在東京都世田谷区)は同年7月16日(木)付でN(氏名非公開, b.1952 or ’53: 旧東京教育大学、現筑波大学卒)准教授=56歳を懲戒解雇。教育界に大きな波紋を呼ぶ。全国初のケースとして注目されていた都内の5女子大(昭和女子大学、大妻女子大学、実践女子大学、東京家政大学、日本女子大学)による2010年4月開設予定の共同教職大学院構想が、この事件を受けて白紙撤回。 申請取り下げは同年7月21日(火)付。大学院認可申請書にN氏が記載した内容が虚偽であることが判明。N氏はこともあろうにトップの「教職研究科長」に就任する予定だった。 職歴に書かれた「岐阜県教育委員会指導主事(1997年~)」「同研修課長・教育センター第2研修部長(2002年~)」「同県立高校長 (2003年~)」などの経歴がいずれも虚偽だった。N氏は岐阜県立高校教諭の経験はあったが、管理職を務めたことはなく、文部科学省(文科省)の指摘を受けて昭和女子大学側が確認。岐阜県教委でもN氏が県立高校教諭時代に東京大学大学院博士課程を修了したとする記録について改めて東京大学に照会し、事実ではないことが判明。五年前の2004年4月に昭和女子大学が助教授として採用した際もN氏は同大学に虚偽の経歴を伝えていたが、同大学はチェックが甘く 気づかなかった。事件を重く見た文部科学省は、同大学には向こう二年半の新学科・新研究科の開設も、既存学科の定員数の増減も認めず、助成金を約5億円カッ トするという罰則(penalty)を科すことに。事件を受けて同大学は専任教員全員の学歴・職歴を初めて厳しくチェック。結局経歴詐称の者はN氏のみだったことが判明。刑事事件ではないため、N氏は逮捕を免れる。同大学はN氏に対して損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所(東京地裁)に起こし、その 後、同地裁は被告人N氏が原告学校法人昭和女子大学に対して約3千万円を支払うよう命じる判決を下すも、N氏の支払い能力の有無や、同氏が支払いに応じたか否かは定かではない。(毎日新聞の記事を一部改変・ 加筆)

2009年7月30日(木) 国立大学法人東北大学(在宮城県仙台市青葉区)の原子力工学の三村均(みむら ひとし, b.1950; 山形大学卒、東北大学大学院修了)教授・工学博士(東北大学)の研究室が、経済産業省が核兵器開発への関与の疑いがあるとして規制リストに掲載したイラン・イスラム共和国国立ジャッベル・イブン・ハヤーン研究所(英称 Jaber Ibn Hayan, or Jaber Ibn Hayan Research Department, or Jabir bin al-Hayyan Laboratory, or Jabr Ibn Hayan Multipurpose Laboratories, or Jaber Ibn Hayan Research Laboratories, or Jaber Ibn Hayan Laboratories, or Jaber ibn Hayyan Laboratory; 英略称 JIHRD or JHL)から留学生を受け入れた上、使用済核燃料の再処理についての研究の指導を行なっていたことが発覚。経済産業省(略称 経産省; 英称 Ministry of Economy, Trade and Industy; 英略称 METI)は、同大学に対し、核開発の疑惑がある機関として指定された規制リストに当該研究機関が掲載されていることを三年前の2006年7月に説明したものの、三村教授は説明会には出席しておらず、リストの存在をも知らなかったといい、規制についての説明後もイラン人留学生に指導を行なっていたという。国際社会が核拡散に神経を尖(とが)らせる中、軍事開発にも転用できる日本の先端技術(technology)の流出を防ぐ法規制の不備や、同大学によるチェック機能の甘さが問題になり、批判を受けている。留学生は既(すで)に帰国しているという。同省は、外国為替及び外国貿易法(外為法)に基づいて「外国ユーザーリスト」を七年前の2002年から作成し、大量破壊兵器(WMD: weapons of mass destruction)の開発が疑われるイランや北朝鮮などの約250機関を掲載している。リストに載った研究機関から留学生を受け入れる際には、大量破壊兵器開発への関与の有無などを「判定」することが求められている。問題の留学生は七年近く前の2002年9月に来日し、同年(2002年)10月に東北大学大学院量子エネルギー工学専攻に入学した。2004年3月になっ、留学生が来日直前に所属していたジャッベル・イブン・ハヤーン研究所が「外国ユーザーリスト」に載ったという。当該留学生の研究内容は、使用済み核燃料の再処理で発生する放射性廃液から銀などの有用金属を回収する技術であり、プルトニウム抽出には直結しないものの、核爆弾製造のために再処理システムを構築する際、重要な役割を果たす可能性があるとのこと。しかしながら、外為法は自由な貿易や技術提供の確保を目指す法令で、来日から半年が経過した外国人を日本人と同等に扱う規定があるため、リスト掲載時には留学生は「白黒」の判定の対象外となっていた。留学生は研究を続け、二年半後の2006年9月に博士号を取得して帰国したとのこと。経産省は「東北大学から事情を聞きたい」としている。米国は1998年以降、大量破壊兵器の開発が懸念される国からの留学生に対してビザ発給を規制している。早稲田大学の山本武彦(やまもと たけひこ, b.1943; 早稲田大学卒、同大学大学院修了)教授(国際政治、特に安全保障論、後に名誉教授)・政治学博士(早稲田大学)は、「米国では、リストに載った研究機関出身の留学生が入国することは考えられない。日本も法的な入国規制の仕組みが必要」と指摘する。これに対し、東北大学大学院量子エネルギー工学専攻の長谷川晃(はせがわ あきら, 生年非公開; 東北大学卒、同大学大学院修了)専攻長・教授・工学博士(東北大学)は、「留学生の研究課題は、核物質を使わないので問題がないと判断した」と話している。同大学は、「入学時の審査で内容が核兵器開発に関係ないことを確認し、問題はないと判断している」と説明している。経産省は「(今回のケースは)法令違反には当たらないが、留学生の経歴の調査など、受け入れる側の危機管理意識を高めてもらいたい」としている。(2009年7月31日(金)付と同年8月9日(日)付の讀賣新聞のオンライン記事と、MSN産経ニュースのオンライン記事に依拠)

2009年9月 中国政府教育部が管轄する孔子学院(英称 Confucius Institute)が国内の外国語大学としては初のケースとして関西外国語大学内に開設。なお、孔子学院はその後、世界各国の大学と軋轢(あつれき)や問題を起こしている。

2009年9月13日(日) 麻生太郎(あそう たろう, b.1940; 首相在任2008-09; 学習院大学卒、スタンフォード大学遊学、ロンドン経済政治学院遊学)総理大臣率いる自由民主党(自民党)が総選挙で大敗して野党に転落することが確定。

2009年9月16日(水) 非自民の民主党党首の鳩山由紀夫(はとやま ゆきお, b.1947; 首相在任2009-10; 東京大学工学部卒、米スタンフォード大学大学院修了)専修大学元助教授・哲学博士(スタンフォード大学)=四年後の2013年に祖父鳩山一郎(はとやま いちろう, 1883-1959; 首相在任1954-56; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)の代から座右の銘である「友愛」にかこつけて鳩山紀夫(はとやま ゆきお, b.1947)と改名=を総理大臣とする連立内閣が発足(九ヶ月足らずの短命内閣)。昭和三十年=1955年の自由民主党(自民党)の結党から数えて、1993年8月9日(月)以来史上二度目の非自民政権。歴代の総理では宮澤喜一まで東京帝國大學(東京帝大)卒だったため、戦後の新制東京大学(東大)卒の総理は鳩山由紀夫が初(現在のところ最初で最後)。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831337_00000&seg_number=001

2009年11月6日(金) 広島県と島根県の県境に近い広島県北広島町の臥龍山(がりゅうざん; 標高約1,223メートル)山頂付近で、茸(キノコ)狩りに来ていた男性によって女性の頭部が発見される。警察のDNA鑑定の結果、島根県浜田市で十一日前の同年(2009年)10月26日(月)から行方不明になっていた公立大学法人島根県立大学(英称 University of Shimane; 本部在島根県浜田市)1年次在学中の平岡都(ひらおか みやこ, 1990?-2009; 香川県立高松商業高等学校卒)嬢=19歳と身許が特定される。死亡時期は約1週間前から2週間前と推定される。広島県警・島根県警は合同捜査本部を設置して残りの遺体発見、被疑者特定などの捜査を開始し、翌日(2009年11月7日(土))に左大腿骨の一部、翌々日(2009年11月8日(日))に両手足の無い胴体部分、更に次の日(2009年11月9日(月))に左足首、そして同年(2009年)11月19日(木)に爪が発見される。世に言う「島根女子大生バラバラ殺人事件」「島根女子大生死体遺棄事件」。捜査は難航するも、六年余り後の2016年の初頭から性犯罪歴を有する人物を捜査し直していたところ、事件当時島根県益田市在住だった会社員矢野富栄(やの よしはる, 1976?-2009)=犯行当時33歳(故人)が浮上。矢野容疑者はこの事件より五年前の2004年に東京都杉並区で通りかかった女性に強制猥褻未遂や致傷事件など3つの事件を起こし、懲役三年六月(さんねん ろくげつ)の実刑判決を受けていた。矢野容疑者と被害者平岡嬢との間に接点は無かった。矢野容疑者の遺品であるデジタルカメラとUSBメモリーから死亡直前に削除されていた画像を復元し、行方不明後の被害者の遺体や包丁など57枚の画像が確認されたことが決定的な証拠になり、事件から十七年以上が経過した2016年12月20日(火)、島根県警察・広島県警察合同捜査本部は、被疑者(故人)を殺人・死体損壊・死体遺棄罪で、松江地方検察庁(松江地検)に書類送検するも、翌年(2017年)1月31日(火)、松江地検は被疑者死亡で不起訴処分とする。矢野容疑者は遺体発見の二日後の2009年11月8日(日)に山口県内の中国自動車道でガードレールに衝突する単独事故を起こし、車が炎上し、同乗の母親(氏名非公開)=58歳と共に死亡している。自殺だった可能性が高いが、遺書は見つかっておらず、事故か自殺かは分かっていない。警察は殺人容疑での書類送検に至った経緯について、画像以外の物証や証言から総合的に判断したと説明しつつも、その具体的な内容に関しては、「捜査に支障が出る」「遺族の尊厳と関係者のプライバシーに関わる」として開示していない。(2013年12月18日(水)付の産經新聞イザのオンライン記事と、2016年12月20日(火)付の産經新聞WESTのオンライン記事と、2016年12月21日(水)付のサンスポのオンライン記事と、2017年1月31日(火)付の讀賣新聞のオンライン記事と、2021年8月18日(水)付のヤフーニュースに転載された文春オンラインの2021年4月29日(木・祝)公開の北芝健(きたしば けん, 生年非公開)署名オンライン記事に依拠)

2010年(平成22年) 国内総生産(GDP: gross domestic product)で日本は中国に抜かれ世界第3位に後退。

2010年3月2日(火) 東大セルカン事件。東京大学はドイツ生まれのトルコ人で論文盗用が発覚した同大学院工学系研究科のアニリール・セルカン(Serkan Anilir, b.1973)助教に授与していた博士号について、他人の論文やウェブサイトからの盗用を認定し、学位を取り消したと発表。セルカン助教は学歴・経歴を全 て偽って同大学大学院工学系研究科建築学専攻の博士課程に入学し、博士号取得後は助教にまでなっていた。セルカン助教は採用選考で東京大学に提出した履歴 書に、卒業した事実がない米国などの大学の学位を記載していた。また、「トルコ初の宇宙飛行士候補」も自称しており、それを示すとするトルコ政府や米航空 宇宙局(NASA: National Aeronautics and Space Administration)の偽造書類を提出していた。宇宙物理学者・建築家・パイロット候補生・文筆家を名乗り、著明人とも派手に交流し、自分の名 を冠した市民講座で荒稼ぎをしたが、研究成果は嘘だらけだった。博士論文のうち全体の4割はコピペ(copy and paste; cut and paste)だったことと、全ての経歴・業績が虚偽であることが判明し、これによりセルカン助教は東京大学創立以来初の学位取り消し処分を受けた。 (2010年3月6日(土)付の朝日新聞と讀賣新聞の記事を一部改変・加筆)。事件後、セルカン元助教は「トルコで軍役に就く」と言い残して失踪した。東大は3月31日(水)付で懲戒解雇相当と決定したと発表したが、本人は同月15日(月)に辞表を提出し、同月29日(月)付で退職したため、処分はできな かった。セルカン元助教の指導教官を担当し、博士論文の主査も務めた松村秀一(むらまつ しゅういち, 生年不詳)教授は軽度に懲戒されたが、同大学で研究室を主宰し続けている。

2010年4月 秋篠宮文仁親王(あきしの の みや ふみひと しんのう, b.1965; 学習院大学卒、オクスフオッド大学聖ヨハネ学寮留学、総合研究大学院大学理学博士)の長男・末っ子の悠仁親王(ひさひと しんのう; Prince Hisahito, b.2006)がお茶の水女子大学附属幼稚園に入園。秋篠宮の妻である文仁親王妃紀子(ふみひと しんのう ひ きこ, b.1966; 学習院大学卒、同大学大学院修士、お茶の水女子大学人文科学博士)がお茶の水女子大学を拠点に研究活動を行なっていることから、女性研究者を支援するために同大学が創設した特別入園制度での合格によるもので、悠仁親王が適用第一号であるという。三年後の2013年(平成25年)4月7日(日)にはお茶の水女子大学附属小学校へ入学することになる。1945年の敗戦後、皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは初の珍事。更に六年後の2019年(平成31年)4月8日(月)にはお茶の水女子大学附属中学校へ入学することになる。

2010年同月 日本經濟新聞(日経)の客員コラムニストとして知られた当時65歳の早稲田大学大学院客員教授の田勢康弘(たせ やすひろ, b.1944)氏が、セクハラ問題で同大学を解職になったことが判明。週刊誌にも報道され、同大学が調査してセクハラと認めたが、田勢氏本人は「セクハラではない」と反論。田勢氏は政治部記者、ワシントン支局長として活躍し、退職後も同紙の客員コラムニストとして定期的に寄稿した。テレビ出演も多く、テレビ東京(テレ東)の番組「田勢康弘の週刊ニュース新書」を受け持っていた。(2010年4月8日(木)付のJ-castニュースの記事に依拠)

2010年6月 首都大学東京の学生たちが面識のない一般女性を動画で隠し撮りし、「ドブスを守る会」と称して、その容姿を侮辱する内容の動画をユーチューブ (YouTube)で一般公開していたことが発覚。この事件を受けて同大学の教育研究審議会は、動画制作に関与したシステムデザイン学部4年生2名を退学 処分とし、同2名を指導して面白がっていた准教授1名を諭旨解雇処分とする。

2010年 早稲田大学法学部・同大学院法学研究科の紀要『早稲田法学会誌』に掲載された同大学大学院博士課程学生の論文で、中央大学教授の論文からの41箇所の盗用と4ページまるごとコピペ(copy & paste; cut & paste)が発覚。中央大学からの抗議を受けて早稲田大学はこの論文を削除・撤回したが、この院生が以前に同大学に提出していた修士論文の内容が、この掲載論文と全く同じであったにも拘(かか)わらず、同大学は1年以上も放置し続け、告発によって漸(ようや)く修士の学位取り消しと院生の退学処分となった。問題の修士論文の主査は同大学法学学術院長の岩志和一郎(いわし わいちろう, 生年不詳)教授であり、早稲田法学のトップであるにも拘(かか)わ らずコピペ論文を「最優秀」と判定していた。副査は近江幸治(おうみ こうじ, b.1948)教授だったが、同教授は告発を受けたにも拘(かか)わらず論文撤回には抵抗した。もう1人の副査は棚村政行(たなむら まさゆき, 生年不詳)教授だった。これら三教授は真っ当な指導も論文審査も行なっていなかった疑いがありながら、同大学からは軽い叱責(しっせき)を受けただけで何一つ責任を取らないまま、早稲田法学のトップに居座り続ける。

2011年(平成23年)3月上旬 京都大学の入試でインターネット・サイト「ヤフー知恵袋」を使った新手のカンニング事件が発覚。河合塾仙台校の予備校生(氏名非公開、当時19歳)がJR仙台駅構内で京都府警によって偽計業務妨害容疑で逮捕される。これは試験での不正行為を理由とした日本史上初の逮捕者となった。しかし後に不起訴処分・釈放。

2011年3月5日(土) JR東日本が東京駅-新青森駅間で運行されるE5系「はやぶさ」にグランクラス(Gran Class: スペイン語で「大」を意味する単語と、英語で「等級」を意味する単語を連結)を導入。格差社会の進行で、1960年6月1日(水)に廃止された一等車が遂に復活した(但し、五年半前の2005年10月1日(土)にJR九州がDXグリーン席を導入した例もあり)と話題になる。

2011年3月11日(金) 14:46と18秒 東日本大震災が起き、東北地方の太平洋側を中心に四年後(2015年=平成27年)3月10日(火)の時点で、死者・行方不明者18,475人が確認される。地震と津波とINESレベル7の福島原発事故まで発生。当時の駐日英国大使ウォレン(Sir David Alexander Warren, b.1952)閣下は震災2日後の同年3月13日(日)に支援物資を積んだ車を連ねて仙台市入りし、同16日(水)まで四日間に亘(わた)り宮城県南三陸 町や同県多賀城市などの避難所を回って、自国民(英国人)の安否を確認すると同時に被災者には食糧などの物資を配って回った。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831040_00000&seg_number=001

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831041_00000&seg_number=001

2011年3月中旬 九州大学理学部数学科が来年度(2012年度)入試から後期日程で女性枠を設けることを発表。同学科の後期募集の定員は僅(わず)か9名だが、そのうち一般枠の4名分は従来通り男女いずれの性別にも開放し、5名分は女子枠にするとのこと。数理学研究院長の金子昌信(かねこ まさのぶ, 生年不詳)教授・理学博士(東京大学)は導入の理由として、「他大学、一般企業を見渡してみても、女性の数学者の割合は非常に少ないのが現状。本学の数理学研究院でも、女性教員の在職比率は3%に過ぎません。国が進める男女共同参画の精神に則って、将来的に教育や研究に多様性を齎(もたら)すため、数学を学ぶ女子学生が増えてほしいと考えたのです。」と語る。国立名古屋工業大学、金沢工業大学、福井工業大学、愛知工科大学自動車短期大学、倉敷芸術科学大学など理 系大学が既(すで)に女性枠を発表していたが、遂(つい)に旧帝大の名門が参入したことで話題になった。(2011年3月16日(水)更新の週刊ポスト電子版2011年3月25日(金)号の記事に依拠)

2011年3月16日(水)~現在に至る 国立大学法人旭川医科大学(略称 旭医; 在北海道旭川市)が旭川地方裁判所(旭川地裁)にNTT東日本を被告とする民事訴訟を提起し、新システム導入失敗に伴う逸失利益として約19億4000万円を請求。他方、NTT東日本は同大学を被告とする民事訴訟を提起し、不当な受領拒絶でリース料を受け取れなくなったとして約2億8000万円を請求。五年後の2016年3月29日(火)、同地裁は両請求とも一部認容し(過失割合2対8)、実質的には旭川医科大学からNTT東日本へ約1800万円の支払いを命じる判決を下す。双方ともに控訴し、舞台は札幌高等裁判所(札幌高裁)に移る。更に約一年半後の2017年8月31日(木)、札幌高裁はNTT側の請求を認容し、旭川医科大学の請求を棄却し、旭川医科大学からNTT東日本へ約14億円の支払いを命じる判決を下す(過失割合0対10)。これを不服とする同大学が上告し、最高裁で審理が続く。(2018年2月28日(水)付のSTORIA法律事務所ブログに依拠)

2011年3月31日(木) 日本中が東日本大震災と福島原発事故の話題に沸く中で、東京都立大学(都立大)の在学生がいなくなったことで閉学となり、公立大学法人首都大学東京所管の東京都立大学が廃止される。これにて六年前の2005年に開学していた首都大学東京へ完全吸収される。

2011年同月同日(木) 三年前の2008年5月12日(月)に閉学が決定され、2009年度以降の募集を取りやめていた山脇学園短期大学(やまわき がくえん たんき だいがく: 在東京都港区)の在学生がいなくなったことで閉校。1950年以来六十一年続いた歴史に幕。

2011年4月 文部科学省(文科省)主導で脱ゆとり教育開始。教科書のページ数を増やして知識重視へのゆり戻しを計る。

2011年初夏 東日本大震災と原発停止に伴う電力不足で、東日本の各大学は文部科学省の指導により授業回数削減(時間短縮)の異例の措置。たとえば昭和女子大学(在東京都世田谷区)では全ての前期授業を 7月15日(金)に終了すると発表(在京他大学も似た措置)。

2011年夏 二年前の2009年7月に発覚した昭和女子大学経歴詐称事件をめぐる民事訴訟の判決で、東京地裁は原告学校法人昭和女子大学の訴え(損害賠償の請求)をほぼ全面的に認め、被告人N元准教授に約3千万円の支払いを命じる。

2011年6月6日(月) 大阪府警察吹田署は関西大学(在大阪府吹田市)体育会レスリング部の部員に熱した焼き肉用のトングを押し付けてやけどを負わせたとして、傷害容疑で元主将(21歳)の浜田周平(はまだ しゅうへい, b.1990?)容疑者(恐喝罪などで起訴済)を再逮捕する。他に窃盗容疑で元副将(21歳)の中村淳一(なかむら じゅんいち, b.1990?)容疑者を再逮捕した。浜田容疑者の再逮捕容疑は前年(2010年)9月から11月にかけて吹田市内の焼き肉店で、トングを22歳の男子部員の左腕に押し付けやけどを負わせた容疑。中村容疑者は前年(2010年)6月25日(金)、大学の部室でこの部員のバッグから自宅の鍵を盗んだ容疑。吹田署によると、浜田容疑者は容疑を認め、中村容疑者は「覚えがない」と否認している。2人は同年(2011年)4月にも部員の自宅から携帯音楽プレーヤーを盗んだとして窃盗容疑で逮捕され、同年(2011年)5月には、賭けトランプで故意に部員を負けさせ現金を脅し取ったとして、恐喝容疑などで再逮捕されていた。(同日付の日刊スポーツのオンライン記事に依拠)

2011年6月9日(木) 小中学校に設置された発電用の風車が計画通りに回らなかったとして、茨城県つくば市が風車を設計した早稲田大学と製造業者に設置費用約3億円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁判所(最高裁)第一小法廷(桜井龍子裁判長)は、つくば市と同大学の双方の上告を退ける決定をしたため、約9千万 円を支払うよう同大学に命じた二審の東京高等裁判所(東京高裁)の判決が確定。二審判決は「つくば市への説明を怠った」として早大側の3割の過失を認 めた一方、同市についても「計画通りに実現するか容易に疑問を抱けた」と7割の過失を認定していた。製造業者の賠償責任は認めず、最高裁も同市の上告を退けた。(同年6月10日(金)付の朝日新聞電子版を参照)

2011年6月~7月 学長選考会議(同年6月)の結果、同年10月から東京工業大学(東工大)の次期学長に内定していた大倉一郎(おおくら いちろう, b.1944年; 東京工業大学卒、同大学工学博士)教授(2007年から副学長)が学長就任を突如辞退。同年7月29日(金)、同大学の公式発表により、大倉教授が余った研究費を返還せず、取引業者にプールする手口で不正使用していた疑いがあることが明らかとなる。但し、私的流用はなかったので逮捕起訴にまでは至らず。事件後には退職して同大学名誉教授の称号を得る。

2011年6月21日(火) 警視庁捜査2課が不正請求事件で大東文化大学(在東京都板橋区)環境創造学部の元学部長、篠原章(しのはら あきら, b.1956; 成城大学卒、同大学経済学博士)元教授・被告(詐欺罪で起訴済)を詐欺容疑で再逮捕。逮捕容疑は2006年4月から’08年10月に教材用パソコンソフトなどの購入名目で領収書を偽造して大学に経費を請求し、30数回に亘(わた)って現金約700万円を詐取(さしゅ)した廉(かど)。篠原元教授は2005年4月から同年10月にかけて約250万円を詐取したとして起訴されていた。警視庁捜査2課は同容疑者が2001年から’08年の間に計約2000万円を不正受給したと見て追及。大東文化大学は同年(2011年)1月には同容疑者を懲戒解雇している。同年(2011年)11月10日(木)、東京地方裁判所(東京地裁)は篠原元教授が同大学から計930万円を詐取したことを認定し、懲役3年、執行猶予4年の有罪判決を言い渡す。(2011年6月22日(水)付の毎日新聞東京地方版と、ウィキペディア日本語版の「篠原章」の項目に依拠)

2011年7月 秋入学の提案の波紋。国立大学法人東京大学(略称 東大; 英称 University of Tokyo; 英俗称 Todai)の濱田純一(はまだ じゅんいち, b.1950; 東京大学卒)総長・法学博士(東京大学)が、世界標準となっている9月入学に合わせることで、日本の留学希望者や海外からの留学生、研究者の受け入れの 障壁をなくし、海外トップ校との交流を促進し、グローバル化に対応できる人材を育成するため、2015年度までに同 大学の入学時期を9月へ全面移行することを目指すと発表し、教育界のみならず各界から波紋を呼ぶ。同大学の構想では、入試の日程は変更せず、イギリスの ギャップ・イヤー(Gap Year)を模したギャップ・ターム(Gap Term)を設け、高校卒業から入学までの半年間を留学、語学研修、インターンシップ、ボランティアなど、知識習得や社会体験に充てさせたいとのことだっ た。その空白期間の身分は、大学生ではなく「大学入学予定者」になるという。実は9月入学は同大学創立当初から大正十年=1921年まで実施していたが、 国の会計年度に合わせるため、大正十一年=1922年から現行の4月入学に変わったのだという。百年近い時を経て、いざ再び9月入学に戻すとなると、制度改変に伴う国の負担増や、「大学入学予定者」やその保護者の負担増や、就活・採用の時期の混乱や、医師国家試験や教員採用試験の時期の混乱が想定され、奨 学金制度の見直しも必要になるため、変更は困難とされる。その一方で、海外留学などの問題は、セメスター制(米独型の年間二学期制度)の本格導入など、現 行制度の微調整で解決可能という指摘があるため、9月入学への移行は必要なしとする見方もある。(朝日新聞社 『知恵蔵2015』、大迫秀樹(おおさこ ひでき, b.1961)2012年執筆の「秋入学」の項目に依拠)

2011年10月31日(月) 国立大学法人山形大学医学部2年次在学中の大久保祐映(おおくぼ ゆうは, 1992?-2011)氏=19歳が、早朝5:00過ぎに山形市内の一人暮らしの自宅アパートから119番通報して救急車の出動を要請するも同市消防本部の通信員は自力で病院に行けると判断し、救急車を出動させず。大久保氏は九日後の同年(2011年)11月9日(水)、自宅アパート居室にて遺体で発見される。アパートの大家からの通報で埼玉県の自宅から駆け付けた母親が電話機に録音されていた救急通報の音声に気づき、山形市消防本部通信員の対応に問題があったとして山形市を相手取り慰謝料1億5千万円(JPY150,000,000)と謝罪を求める民事訴訟を山形地方裁判所(山形地裁)に起こす。約三年五ヶ月後の2015年3月30日(月)に原告(遺族)と被告(山形市)の両者が正式に和解し、被告が原告に和解金1500万円(JPY15,000,000)を支払うことで合意。(2015年3月18日(水)付の産經新聞のオンライン記事と、2016年2月26日(金)付の河北新報のオンライン記事と、朝日新聞の戸松康雄記者署名 オンライン記事と、2016年6月10日(金)付の産経新聞のオンライン記事に依拠)

2011年10月17日(月) 四十四年前の1967年に設置され、学校法人純真学園が経営していた工学部のみの東和大学(英称 Tohwa University: 在福岡県福岡市南区)は、既に四年半前の2007年度に学生募集を停止していたが、2011年のこの日付で正式に廃校。工学部を廃止して代わりに文系学部を設置する計画があったが、申請が間に合わず、運営母体の理事会が学生募集停止と大学の廃校を決めた。なお、附属中学校も2007年度に生徒募集を停止し、2012年に廃校した。運営母体の学校法人純真学園は東和大学を閉学するとともに、2011年度に医療・看護系大学である純真学園大学を設置し、同大学の施設には東和大学の建物が転用されている。

2011年12月9日(水) 東京大学は博士号取得論文など4つの論文・著書で盗用をしたとして、同大学社会科学研究所の安藤理(あんどう さとる, 生年不詳)助教=33歳の博士号(教育学)を取り消したと発表。同大学が博士号を取り消すのは、前年に論文盗用が発覚したトルコ人のセルカン元助教 に次いで2人目。(同日付の朝日新聞の記事を一部改変。同大学公式ウェブサイトにも掲載: http://www.u-tokyo.ac.jp/public/pdf/public01_231209_01.pdf

2011年12月16日(金) 十一年前の西暦2000年4月に開学したばかりの東京福祉大学(英称 Tokyo University of Social Welfare: 本部在東京都豊島区東池袋)で、複数の教職員に対する強制猥褻(きょうせい わいせつ: indecent assault)の容疑で2008年に逮捕され、同年(2008年)6月に有罪判決を受けて服役していた創立者の中島恒雄(なかじま つねお, b.1947; 学習院大学卒、米フォーダム大学教育学博士)元理事長・元総長が、今度は出所後の2010年7月に同大学の事務総長に就任し、理事長・総長時代と同額の給与を受け取っていたことが問題視され、同年(2010年)9月には辞任したが、更(さら)に中島氏が在籍する企業に業務を委託するとの名目で、中島氏個人の銀行口座に約2000万円が支払われていたことも発覚。管理運営体制を問題視した文部科学省(文科省)大学設置・学校法人審議会は、「文部科学省への報告や社会への説明に反して元理事長を法人運営に関与させてきていることや、本設置認可申請後に及んで学校法人として不適切な管理運営が行われていたことが確認された。」とし、同大学による経営学部と大学院経営学研究科の設置申請を却下。管理運営体制を理由とした学部新設の却下は、日本の大学としては史上初のケース。(同日付のNHKオンラインの記事と、ウィキペディア日本語版の「東京福祉大学」の項目に依拠)

2011年12月19日(月) 東京地方裁判所(東京地裁)は、イラン人の入学を許可しなかった国立大学法人東京工業大学(略称 東工大; 英称 Tokyo Institute of Technology; 英略称 Tokyo Tech)の決定を違憲・違法とする判決を下す。判決によると、このイラン人は2003年に来日し2008年に難民認定を受けた43歳の男性で、2010年6月に東京工業大学原子炉工学研究所に入学願書を提出したが、同大学は、「イラン人への核開発関連分野の教育が行われないよう要請する国連安全保障理事会決議や文部科学省の指導を踏まえ」入学を拒否したという。東京地裁の小林久起裁判長は、「(イラン人男性が)難民であるという事実を容易に確認できたのに調査せず、国籍を不当に重視し、不合理な差別をした」と述べている。上記の国連安全保障理事会決議とは、2006年に為(な)された国連安保理決議第1737号(UN Security Council Resolution No.1737)のことであり、正式には (The UN Security Council) calls upon all States to exercise vigilance and prevent specialized teaching or training of Iranian nationals, within their territories or by their nationals, of disciplines which would contribute to Iran’s proliferation sensitive nuclear activities and development of nuclear weapon delivery systems.(官報和訳: (安全保障理事会は)すべての加盟国に対し、イランの拡散上機微名核活動及び核兵器運搬システムの開発に寄与するであろう分野の、自国の領域内における若しくは自国民によるイラン国民に対する専門教育又は訓練を監視し防止することを要請する。)とある。安保理決議を受けて2007年2月20日(火)に外務省(英称 Ministry of Foreign Affairs; 英略称 MOFA)から文部科学省(略称 文科省; 英称 Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology; 英略称 MEXT)に対して、「イラン人研究者及び学生との交流における不拡散上の防止の徹底につき」協力要請があり、これを受けて同年(2007年)4月26日(木)、文科省大臣官房より国立大学長(大学によっては総長)らに対して「国際連合安全保障理事会決議第1737号を受けたイラン人研究者及び学生との交流における不拡散上の留意点について(依頼)」と題した通知が為(な)されていた。これは、前年(2006年)3月24日(金)付で発出された文科省事務次官の国立大学長宛「大学及び公的研究機関における輸出管理体制の強化について(依頼)」の徹底を求めるものであり、ここでは「(安全保障上ゆるがせにできない外為法違反容疑事案が続いている)情勢に鑑み(中略)技術提供が不用意に行われることがないよう、輸出管理の徹底」と、「教育・研究活動を行う上では、貨物の輸出及び非居住者に対する技術の提供等につき規制している外為法の趣旨を十分踏まえる必要がある」として、留学生に対する技術情報提供等への注意、つまり外為法の遵守を呼びかけている。外為法「25条1項 特定技術を特定国の非居住者に提供することを目的とする取引を行おうとする居住者は、政令で定めるところにより、当該取引について、経済産業大臣の許可を受けなければならない。」とある。問題となった原子炉工学研究所の取り扱う技術が政令の定める「特定技術」に該当するなら、問題は当該イラン人学生が「特定国の非居住者」に該当するか否かという点になる。「特定国」には外国為替令17条1項によりイランも含まれる。「非居住者」の定義は外為法によると、「第6条1項6号 居住者以外の自然人及び法人」と規定されている。逆に「居住者」の定義は、「第6条1項5号 本邦内に住所又は居所を有する自然人及び本邦内に主たる事務所を有する法人」と定めるから、当該イラン人が「本邦内に住所又は居所を有する」かが問題となるものの、外為法に住所や居所の定義規定はなく、「6条2項 居住者又は非居住者の区別が明白でない場合については、財務大臣の定めるところによる。」とある。ところが居住者・非居住者の区別を定める財務省令(それ以前の大蔵省令を含む)は存在しない。民法は、「22条 各人の生活の本拠をその者の住所とする。」「23条1項 住所が知れない場合には、居所を住所とみなす」と定めている。この規定と、外為法第6条をあわせて読むと、「生活の本拠」が日本にある者は、国籍を問わず「居住者」になるし、そうでない者は「非居住者」となる。当該イラン人は、2003年に来日し、2008年に難民認定を受けて、2010年に東工大に入学申請をしたというのだから、「生活の本拠」は日本にあると考えるのが妥当である。そうだとすると、当該イラン人は「居住者」に該当する。だから、「特定国の非居住者」に対する技術情報提供を禁止する外為法の規定は、当該イラン人には適用されないため、東工大が当該イラン人の入学を拒否する理由は無いとするのが裁判所の判断である。入学拒否のの背景には、この判決の二年半近く前の2009年7月30日(木)に発覚した国立大学法人東北大学(在宮城県仙台市青葉区)の核開発疑惑留学生指導問題があると考えられる。東北大学大学院工学研究科量子エネルギー工学専攻研究室が2002年から2006年までイラン人留学生を受け入れたところ、この留学生が来日直前まで所属していたイラン・イスラム共和国国立ジャッベル・イブン・ハヤーン研究所(英称 Jaber Ibn Hayan, or Jaber Ibn Hayan Research Department, or Jabir bin al-Hayyan Laboratory, or Jabr Ibn Hayan Multipurpose Laboratories, or Jaber Ibn Hayan Research Laboratories, or Jaber Ibn Hayan Laboratories, or Jaber ibn Hayyan Laboratory; 英略称 JIHRD or JHL)が2004年に核兵器開発疑惑があるとして経済産業省(略称 経産省; 英称 Ministry of Economy, Trade and Industy; 英略称 METI)の規制リストに載ったのに、留学生はその後も東北大学で研究を続けたという。この学生は帰国後はイラン・イスラム共和国国立シャリフ工科大学(英称 Sharif University of Technology)の教官となり、東北大学の指導教授と共同で米国学会誌に論文を発表するなどしていた。このイラン人留学生に核兵器開発に繋(つな)がる技術が供与されたか否かは定かではないが、この一件は他大学にも多大な萎縮効果を及ぼしたと考えられる。(2011年12月26日(月)付と同27日(火)付と同28日(水)付の花水木法律事務所公式ブログに依拠)

2012年(平成24年)2月 当時(平成時代)の天皇(へいせい てんのう; Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019)=後(令和時代)の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)の冠動脈バイパス手術を東京大学医学部附属病院(在東京都文京区)でやることになったが、東大医学部出身者には適任者がおらず、順天堂大学心臓血管外科の天野篤(あまの あつし, b.1955; 日本大学卒)教授・医学博士(東邦大学)=後に2016年4月から2019年3月まで順天堂大学医学部附属順天堂医院院長=を東大病院に呼んで執刀してもらう。東大病院が私大医学部出身者を呼ぶのは異例中の異例。(2021年3月2日(火)付のヤフーニュースに転載された幻冬舎ゴールドオンラインの精神科医の和田秀樹(わだ ひでき, b.1960; 東京大学卒)氏と医療ジャーナリストの鳥集徹(とりだまり とおる, b.1966; 同志社大学卒、同大学大学院修士)氏のインタビュー記事に依拠)

2012年2月~6月29日(金) 私立東邦大学(本部在東京都大田区)医学部第一麻酔科の藤井善隆(ふじい よしたか, b.1960; 東海大学卒、東京医科歯科大学大学院修了)准教授・医学博士(東京医科歯科大学)=52歳が1993年から執筆してきた投稿学術論文のうち少なくとも172本にデータの捏造(ねつぞう)が発覚し、不名誉な世界記録保持者となる。東邦大学は2月の時点で諭旨退職処分を下す。公益社団法人日本麻酔科学会(米称 Japanese Society of Anesthesiologists; 英略称 JSA; 事務局在東京都千代田区及び兵庫県神戸市中央区)は藤井元准教授の除名処分を検討したが、同人は退会届を提出し、法律及び定款上、学会はこれを拒むことができず、同人を除名処分することはできなかった。「藤井善隆氏論文調査特別委員会」委員長で国立大学法人長崎大学(在長崎県長崎市)の澄川耕二(すみかわ こうじ, b.1947; 大阪大学卒)教授(後に名誉教授)・医学博士(大阪大学)は記者会見で、「海外を含め例のない数の不正で、医療機関や専門家同士のチェック機能が全く働かなかったのは問題だ。学術雑誌に論文の抹消を求めるとともに、国にも報告する。学会でガイドラインを作るとともに告発しやすい態勢を整えるなど、再発防止に努めたい。」と述べる。また、国立大学法人東京医科歯科大学と国立大学法人筑波大学で上司として指導する立場にあり、1990年代以来113本の論文を共著していた豊岡秀訓(とよおか ひでのり, b.1941; 東京大学卒)帝京大学医学部麻酔科教授について、日本麻酔科学会「藤井善隆氏論文調査特別委員会」の報告書が、「捏造に関与しなかったとはいえその責任は重大である」と名指しで批判する。(2012年6月29日(金)付のNHKオンラインの記事と、2012年6月30日(土)付の朝日新聞デジタルの記事と、2012年10月16日(火)付のJ-Castニュースのオンライン記事と、個人ブログ「世界変動展望」の2017年3月15日(木)付と6月29日(金)付のエントリーに依拠)

2012年(月日不明) 慶應義塾大学(英称 Keio University; 本部在東京都港区)医学部呼吸器外科の野守裕明(のもり ひろあき, 生年非公開; 出身大学不詳)教授が、自らが主導する臨床研究のため、26人の肺がん患者の手術中に無許可で骨髄液を採取していたことが明らかとなる。傷害罪で刑事罰を受けてもおかしくない案件だったが、同大学は野守教授と専任講師を停職1ヶ月にしただけで、厚生労働省(略称 厚労省; 英称 Ministry of Health, Labour and Welfare; 英略称 MHLW)も刑事告発を見送る。(上昌広(かみ まさひろ, b.1968; 東京大学医学部医学科卒)著 『ヤバい医学部』(日本評論社, 2019年)に依拠した2021年2月28日(日)付のヤフーニュースに転載された幻冬舎ゴールドオンラインの記事に依拠)

2012年4月 昭和女子大学が短期大学部(1950年設置)の募集停止を発表。実際に廃部されたのは、二年後の2014年3月31日(月)。

2012年4月6日(金)未明4:00頃 明治大学(本部在東京都千代田区)体育会柔道部の部員で同大学3年生(20歳)の重松賢太郎(しげまつ けんたろう, b.1992?)容疑者が東京都港区六本木の飲食店で口論となった男性従業員の首を腕で絞め、投げ飛ばすなどした傷害容疑で警視庁麻布署に逮捕される。同大学によると、重松容疑者は高校時代に全国大会に出場するなどしていた。同大学広報課は、「事実関係を確認し、厳正に対処したい。」とした。(2012年4月11日(水)付の産経新聞のオンライン記事に依拠)

2012年4月25日(水) ノートルダム清心学園理事長でキリスト教カトリック修道女の渡辺和子(わたなべ かずこ, 1927-2016; 聖心女子大学卒、上智大学大学院修士、米ボストン・カレッヂ哲学博士)女史の『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎, 2012年)が刊行される。じわじわと人気を博し、四年後の2016年4月までに200万部を超えるベストセラーとなる。著者の渡辺和子は成蹊小学校3年生で満九才の時、1936年(昭和11年)2月26日(水)に発生した二・二六事件に遭遇し、満六十一歳の父、渡辺錠太郎(わたなべ ぢやぅたらぅ, 1874-1934; 陸軍大學校卒)陸軍大將・陸軍敎育總監が東京府東京市杉並區上荻窪(かみ おぎくぼ)=現在の東京都杉並区上荻(かみおぎ)二丁目に在った自宅の居間で青年将校たちに襲撃され、43発の銃弾で命を落とすのを、僅(わず)か1メートルほどの距離から目()の当たりにしたと、『文藝春秋』2012年9月号(pp.320-323)に寄せた渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記で証言している。渡辺和子女史自身は2016年12月30日(金)に膵臓癌(すいぞう がん: pancreatic cancer)により歿している。六週間後に満九十歳の誕生日を迎えるところだった。

2012年5月 前年(2011年)7月に東京大学(東大)の濱田純一(はまだ じゅんいち, b.1950; 東京大学卒)総長・法学博士(東京大学)が、2015年度までに世界標準となっている9月入学に合わせると発表した内容を受けて、東大の呼びかけに応じた旧帝大や早慶など11大学が協議を開始。

2012年5月7日(月) 17:00頃 国立大学法人小樽商科大学(在北海道小樽市)で飲酒していた75名のアメリカンフットボール(アメフト)部員のうち一部が体調を崩し、男女9人が病院に運ばれたが、7人は未成年で、1年生の19歳男子学生が心肺停止状態となり入院し、重体となった。急性アルコール中毒とみられる。同大学によると、搬送時は男子学生ら4人が意識がなかったり話せなかったりした。マネジャーが119番通報する19:45までの間、9人のうち男子学生を含む3人は介抱されずグラウンドに寝かされていたという。山本眞樹夫(やまもと まきお, b.1949; 東北大学経済学博士)学長らは翌日(5月8日(火))、記者会見し「さまざまな指導、注意喚起をしてきた。9人が搬送されるという状況は想像を絶する。本当に申し訳ない。」と謝罪。同大学や北海道警察小樽署によると、アメフト部は同年5月5日(土)から合宿中で1年生から4年生の部員約60人が7日(月) 15:00頃から大学のグラウンドでバーベキューをして、飲酒していた。17:00頃に一部の部員の具合が悪くなった。顧問は同席していなかったという。北海道警察(道警)などによると、心肺停止となっていた19歳の木戸圭司(きど けいじ, 1993-2012)さんが24日(木)夜に死亡した。これを受け、アメフト部は廃部となった。(2012年5月25日(金)付の共同通信と同年5月26日(土)付のスポニチこと、スポーツニッポンのオンライ記事に依拠)

2012年5月27日(日) 韓国生まれで慶應義塾大学の金正勳(Kim Jung-Hoon, b.1973; 英名 John Kim)特任准教授の経歴詐称問題が、個人ブロガーのやまもといちろう(漢字表記 山本一郎; 生年不詳)氏のブログ( http://lineblog.me/yamamotoichiro/archives/2998867.html )で明らかになり、キム特任准教授は経歴を訂正。「インディアナ大学博士課程修了」(全くの虚偽)、「欧州連合標準化戦略専門委員」(全くの虚偽)、「ハーヴァード大学法科大学院客員教授」(正しくは無給・私費で学位が与えられない訪問研究員)、「ドイツ連邦国防大学上席研究員」(正しくは短期学術訪問)、「オックスフォード大学上席研究員」(正しくは訪問上席研究員)という肩書の削除または訂正を余儀なくされたキム特任准教授は慶應義塾大学を辞職するも大学側からの処分としては「厳重注意」以上のものは無し。

2012年6月 東邦大学医学部第一麻酔科の藤井善隆(ふじい よしたか, b.1966?; 東海大学卒、東京医科歯科大学医学博士)准教授が、1993年辺りから少なくとも172本の学術論文に於いてデータを捏造していたことが発覚。単一著者の論文撤回としては、それまでの90本捏造・撤回の記録を抜いて不名誉な世界新記録を樹立。東邦大学は同年2月の時点で不正行為の告発について最初の検証を行ない、8本の論文に関して倫理規範違反があったとして、藤井准教授に諭旨退職処分を既に下していた。(2012年6月29日(金)付 の毎日新聞と同月30日(土)付の朝日新聞の記事を一部改変)

2012年9月5日(水) 早稲田大学が文部科学省の委託で実施した大学院教育に 関する調査研究の報告書に他の文献からの盗用が複数見つかっていたことが判明。同大学の調査に研究の代表者だった松居辰則(まつい たつのり, b.1964; 早稲田大学卒、同大学修士)人間科学学術院教授が関与を認める。同大学の理事を含む約10人が研究実施者として名を連ね、松居教授が代表者となっていた。同大学や関係者の話によると、2011年夏に学内から指摘があり、学生の論文などの盗用を見つけるために大学が導入したソフトウェアで調べたところ、8ヶ所で盗用が見つかったという。(同日付の朝日新聞の記事を一部改変)

2012年10月1日(月) 約九十八年前の1914年12月18日(金)に営業を開始しながら、約三十年半後の1945年5月25日(金)に米軍によ る猛爆で駅舎は炎上し、ドーム型天井屋根が吹き飛ばされた東京駅の赤煉瓦駅舎の復原工事の完成。約六十七年半後に戦前の瀟洒(しょうしゃ)なネオ・ルネサンスの英国アン女王様式(アン女王の治世は1702-14年)の外観が甦(よみがえ)る。

2012年10月8日(月) スウェーデンのカロリンスカ研究所ノーベル賞委員会(典 Nobelförsamlingen vid Karolinska Institutet; 英 Nobel Assembly at Karolinska Institutet)がノーベル生理学・医学賞(典 Nobelpriset i fysiologi eller medicin; 英 Nobel Prize in Physiology or Medicine)の受賞者として、英ケイムブリヂ大学ガードン研究所(Gurdon Institute, University of Cambridge)のジョン・B・ガードン(Sir John B. Gurdon, b.1933)博士と京都大学教授の山中伸弥(やまなか しんや, b.1962; 神戸大学卒、大阪市立大学大学院修了)博士の名を全世界に発表。両博士の選考理由はiPS 細胞、つまり成熟した細胞に対してリプログラミングにより多能性を持たせられることを発見した功績による。

2012年10月19日(金) 東京大学病院特任研究員の森口尚史(もりぐち ひさし, b.1964; 東京医科歯科大学医学部保健衛生学科看護学専攻卒、東京大学医学博士)氏が人工多能性幹細胞(iPS細胞)の臨床研究をしたと虚偽の発表をして讀賣新聞をまんまと騙(だま)していた問題で、同大学は森口博士 を懲戒解雇。森口氏が当初6回実施したとしていたiPS細胞の移植手術のうち、少なくとも5回について虚偽と認定。(同日付の日本経済新聞の記事を一部改変)。また、翌’13年9月20日(金)には森口氏が関わった論文や投稿など68本のうち、14本で不正があったとの調査結果を同大学が発表。(同日付の MSN産経ニュースの報道に依拠)

2012年10月24日(水) 私立神戸学院大学(在兵庫県神戸市中央区)の上脇博之(かみわき ひろし, b.1958; 関西大学卒、神戸大学大学院修士、同大学大学院博士課程単位取得退学)教授・法学博士(神戸大学)が、松井一郎(まつい いちろう, b.1964; 大阪府知事在任2011-19; 大阪市長在任2019-; 福岡工業大学卒)大阪府知事を政治資金規正法違反容疑で大阪地方検察庁(大阪地検)に告発。政治家秘書給与を同知事自身が経営する企業に肩代わりさせたのに政治資金収支報告書に記載していない点を指摘した前年(2011年)11月29日(火)付の讀賣新聞その他の報道を受けての動き。松井知事は反論。(同日付のMSN産経ニュースのオンライン記事に依拠)

2012年10月31日(水) 自称「中国で一番有名な日本人」こと加藤嘉一(かとう よしかず, b.1984; 北京大学卒、同大学大学院修士)氏が、「合格していた東京大学法学部を蹴って北京大学に留学した。」と発言するなど複数の経歴詐称を行なっていた事実が『週刊文春』誌上で報じられる。「自らの虚栄心のため」と詐称の事実を認めるが、中国共産党(中共)のスパイ疑惑は否定。訪問学者として所属していた慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(Keio SFC)を辞職し、無給・私費で学位が与えられないハーヴァード大学(Harvard University)訪問研究員と成るべく渡米。

2012年11月2日(金) 民主党政権末期の3大学不認可騒動。大学設置・学校法人審議会が文部科学省に答申していた新設大学の許認可に関して、同年10月1日(月)に就任して間もない田中眞紀子(たなか まきこ, b.1944; 早稲田大学卒)文部科学大臣が3つの大学(学校法人吉田学園が運営する札幌保健医療大学と、秋田市が設立した秋田公立美術大学と、学校法人清光学園が運営する岡崎女子大学)を不認可とすることを公表した。田中大臣曰(いわ)く、「大学が多すぎ、質が低下している」ので、「到底承服できない」とのことだっ た。不認可決定はそのような理由だったが、実は3校に特に落ち度はなかった。これに対する当該(とうがい)大学関係者や世論やマスコミの反発は、田中大臣の予想に反して大きく、多くの関係者が手順を踏んで積み上げてきたものを突如として覆(くつがえ)したのは大臣としての裁量権を踏み越えた職権濫用である として大騒動になった。そのため田中大臣は同月8日(木)に不認可決定の撤回を余儀なくされた。一国の大臣の方針が右往左往(うおう さおう)するような朝令暮改(ちょうれい ぼかい)ぶりに、田中女史は大臣としての資質に欠けるとして非難された。そうした中、田中大臣は「就任間もない大臣が大学の認可・不認可という重要事項を自分の一存で決められるものではなく、事務方の意向に沿っただけのものである。」と釈明した。田中大臣の釈明に呼応するかのように、大学の過剰設置を嫌った文部官僚が田中大臣を一種の汚れ役として利用したとする説があるが、真偽のほどは不明。なお、田中大臣は民主党が総選挙で負けたため、同年12月26日(水) には大臣を辞めることになり、結果として僅(わず)か3ヶ月足らずの在任期間だった。(同年11月3日(土祝)付の讀賣新聞の記事に依拠)

2012年12月26日(水) 安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-20; 成蹊大学卒、カリフォルニア州立大学ヘイワード校遊学、南カリフォルニア大学中退)党首率いる自由民主党(自民党)が十日前の同年12月16日(日)に投開票された第46回衆議院議員総選挙で圧勝し、与党に返り咲いたことで3年3ヶ月続いた民主党政権が崩壊。新興宗教創価学会系の公明党も連立与党に復帰。自公(自民党と公明党)の連立政権が復活。2007年9月26日(水)に第一次安倍内閣が僅か一年で総辞職したこともあり、この時点で第二次安倍内閣がその後七年九ヶ月も続く日本史上最長の内閣になることは誰も想像できなかった。

2013年(平成25年)3月 上智短大学長セクハラ・ストーカー事件。上智大学短期大学部(旧上智短期大学)の髙野敏樹(たかの としき, b.1950; 中央大学卒、上智大学法学博士)学長が2012年8月中旬から9月末にかけ、女子学生(当時18歳)に携帯メールを約60通送信。名前で呼び捨てにするなど好意を抱いてい ると受け取れる内容だったという。2013年2月、女子学生からの申告で発覚。髙野教授は「懇切丁寧な指導の一環のつもりだった」と釈明した上で、「この ような形を招き申し訳ない」としたが、2013年3月に学長を解任された。上智学院理事会は2013年5月22日(水)、髙野教授を諭旨解雇処分とする旨を決定し、同月24日(金)に発表した。それに対し髙野教授は退職願を提出し、5月23日(木)付で上智大学短期大学部を退職。

2013年同月 ノバルティス事件。スイス連邦バーゼル市に本部を置く多国籍製薬会社ノヴァルティス国際株式会社(Novartis International AG)の子会社で日本法人のノバルティスファーマ株式会社(Novartis Pharma K.K.)の社員が身分を秘匿したまま同社治療薬の統計解析者として関与した利益相反行為(COI: conflict of interest)隠蔽事件が発覚。高血圧の治療薬である「ディオバン」の臨床研究にノバルティスファーマの社員が京都府立医科大学と東京慈恵会医科大学 と滋賀医科大学と千葉大学と名古屋大学の計5大学に研究員として入り込み、自社に都合の良いデータを捏造していた。日本の医学界や学界や大学を巻き込んだ 一大騒動に発展。(ウィキペディア日本語版「ノバルティス社ディオバンの臨床研究不正事件」の項目を参照)。同月11日(月)には同事件に連座して、京都 府立医科大学は同年2月28日(木)に退職していた循環器内科学の松原弘明(まつばら ひろあき, 生年不詳)元教授(当時56歳)が関与した論文計14本で52件のデータの捏造や改竄があったと発表。退職金全額返納の処分も下った。(2013年4月2 日(火)付の讀賣新聞の記事を一部改変)。また、翌2014年4月2日(水)には同社の社員が不正に取得した患者の個人情報の中から、重い副作用があった ことを把握しながら国への報告義務を怠っていたことが分かった。問題の発覚を恐れた営業担当社員が、証拠になる資料を会社から自宅に持ち帰ったり、シュ レッダーにかけたり、電子データを削除したりする隠蔽工作をしていたことも判明。(同日付の毎日新聞の記事に依拠)

2013年同月 井上明久(いのうえ あきひさ, b.1947; 兵庫県立姫路工業大学卒、東北大学工学博士)東北大学第二十代総長による一連の論文不正行為疑惑。井上総長(当時)は一部の論文に関して二重投稿やその他の不正行為の疑いを受けた。 2007年5月、井上教授の実験結果の一部に再現性がないと主張する匿名の告発文が文部科学省に送付され、同省は東北大学に調査を求めた。東北大学は同大学理事の庄子哲雄(しょうじ てつお, 生年不詳)教授を長とする委員会を設置して調査を行ない、再現性があることを確認した。2009年に日野秀逸(ひの しゅういつ, b.1945)同大学名誉教授、大村泉(おおむら いずみ, b.1948)同大学名誉教授、高橋禮二郎(たかはし れいじろう, b.1944)同大学元教授、そして同大学卒業生の松井恵(まつい めぐむ, b.1961?)弁護士の計4名が、井上教授の実験結果の捏造の可能性を指摘したが、検討に当たった東北大学の外部委員らは「不正を疑うべき根拠がない」 と回答し、井上教授は2010年7月までに名誉毀損で日野名誉教授らを提訴し、日野名誉教授らは反訴した。ところが2011年6月、井上教授がApplied Physics Letters(英 語版)誌に投稿した論文が二重投稿に当たるとして同誌から取り下げられた。それを含む井上教授を著者・共著者とする計7報が二重投稿だったとして2012 年までに取り下げられた。これらの二重投稿について調査するため東北大学は2010年12月に有馬朗人(ありま あきと, b.1930)東京大学名誉教授・元総長・元文部大臣・科学技術庁元長官を長とする調査委員会を設置した。同委員会は2012年1月の報告書で二重投稿の 事実を認めて井上教授に反省を求め、井上教授はこれに従った。御園生誠(みそのう まこと, b.1938?)東京大学名誉教授を長とする科学技術振興機構の調査委員会は、不適切な二重投稿の存在を認定した一方で、同機構が助成した「井上過冷金属 プロジェクト」の成果の主要な部分には影響しないと2012年3月に報告した。井上教授はデータの捏造については2011年までに否定し、二重投稿については事故や共著者との行き違いが原因だったと2012年に説明した。井上教授の複数の論文にわたる同一資料写真の不自然な使い回しなどに関して科学技術振興機構が2012年までに調査を求めていたのに応じて、東北大学が調査委員会の設置を決めたことが2013年3月に報じられた。

2013年4月13日(土) 島田聡一郎(しまだ そういちろう, 1974-2013; 東京大学法学部卒、ミュンヘン大学留学)早稲田大学大学院教授(刑事法学)=39歳が勤務先に程近い自宅附近を自動車で単独走行中に自損事故を起こし死亡。葬儀・告別式は近親者のみで執り行なったという。遺族の意向があり、事故状況の詳細については公表されていないが、他人を巻き込んでの人身事故の可能性は低い。喪主は父親で米文学者の島田太郎(しまだ たろう, b.1937; 東京大学卒)東京大学名誉教授・昭和女子大学教授名誉教授。喪主の弟(個人の叔父)に法曹界の大物、島田仁郎(しまだ にろう, b.1938; 最高裁判所長官在任2006-08; 東京大学法学部卒、ロンドン大学哲学修士)氏がいる。亡くなった島田教授は1995年3月20日(月)に発生した地下鉄サリン事件の後遺症に苦しむ茨城県土浦市在住の友人を見舞うため月に一度ぐらいの頻度で土浦市まで単独で自家用車を運転する習慣があったという。弁護士業の妻がいたが既に離婚している。子供の有無については確認されていない。(2013年4月23日(火)付の東京新聞のオンライン記事に依拠した上で加筆)

2013年6月下旬 二年前の2011年7月に東京大学(東大)の濱田純一(はまだ じゅんいち, b.1950; 東京大学卒)総長・法学博士(東京大学)が、2015年度までに世界標準となっている9月入学に合わせると発表した内容を撤回。代わりに四学期 (quarter)制を導入するとした。振り回された他大学の執行部や文部科学省は困惑。明治・大正から百年近い時を経て、 いざ再び9月入学に戻すとなると、制度改変に伴う国の負担増や、「大学入学予定者」やその保護者の負担増や、就活・採用の時期の混乱や、医師国家試験や教 員採用試験の時期の混乱が想定され、奨学金制度の見直しも必要になるため、変更は困難とされる。その一方で、海外留学などの問題は、セメスター制(独米型の年間二学期制度)の本格導入など、現行制度の微調整で解決可能という指摘があるため、9月入学への移行は必要なしとする見方もあった。(朝日新聞社 『知恵蔵2015』、大迫秀樹(おおさこ ひでき, b.1961)2012年執筆の「秋入学」の項目に依拠)

2013年7月25日(木) 東京大学分子細胞生物学研究所の加藤茂明(かとう しげあき, 1960?; 東京大学卒、同大学農学博士)元教授=54歳が率い、研究室メンバーら20人以上が共著者として名を連ねた論文43本について捏造(ねつぞう)・改竄(かいざん)の 疑いがあると、東京大学の調査委員会が認定し、「撤回が妥当」と判断。その一年半程前の2012年1月に学外からの指摘を受け、同大学が調査委を設置して いた。研究所に加藤元教授が着任した1996年以後の論文全165本を精査した結果、画像の合成や一部消去など、データの捏造(ねつぞう)・改竄(かいざ ん)が判明。43本は「撤回が妥当」としたほか10本は「訂正が必要」と結論づけた。加藤元教授は関与を否定したが、研究グループによる不正自体は認め、 「調査委の判断を受け入れる」と話した。加藤元教授は分子生物学、とりわけ細胞核内で遺伝情報を管理する蛋白(タンパク)質などの研究の世界的権威とさ れ、2004年から’09年にかけて予算20億円に上る国の大型研究プロジェクトの代表を務め、それまで有名雑誌に多数の論文を発表していた。不正論文 は、肥満の原因となる脂肪細胞が増える仕組みや細胞分裂に伴うデオキシリボ核酸(DNA: deoxyribonucleic acid) 複製の仕組みの解明など多岐にわたる。実験データ画像に別の実験画像を切り貼りし、一部を消去していた。加藤元教授は監督責任を取って2012年3月に既 に辞職している。加藤元教授は「(メンバーが)功を焦ったのだと思う。大学、研究所、学会に甚大な迷惑をかけてしまい、申し訳ない。指摘された論文の撤回 手続きを進めている。」と陳謝した。(同日付の朝日新聞と同日付の毎日新聞夕刊の記事を一部改変)

2013年同月同日 東京大学政策ビジョン研究センターの秋山昌範(あきやま まさのり, b.1957?; 徳島大学医学部卒)教授=55歳が本務校などから研究費を騙し取った詐欺容疑で東京地検特捜部に逮捕される。詐取金を親族が経営する会社に移していたことが判明。IT関連業者6社と共謀し、研究事業に使うデータベース作成を業者に発注したように装うなどして、同大学と岡山大学に虚偽の納品書や請求書を提出 し、約二千百八十万円を詐取した疑い。秋山容疑者は詐取した研究費を東京都杉並区の自宅と同じ住所にあり、親族が取締役を務める医療情報コンサルティング会社に移動。同社の運転資金としてカネを使い、一部の現金は自身の飲食費としても支出していた。秋山容疑者が詐取した研究費は、厚生労働省の科学研究費補 助金や国立長寿医療センターの委託研究費など、すべて公的資金が支給された研究事業だった。東京大学などによると、秋山容疑者は2012年度までの四年間 で、外部から計約二億一千五百万円の研究費を受け取っていた。2015年3月6日()付で勤務先の東京大学から懲戒解雇処分。2016年6月28日()、東京地方裁判所(東京地裁)にて詐欺罪で懲役3年の実刑判決。2017年12月13日()、東京高等裁判所(東京高裁)が、詐欺罪で懲役3年とした1審判決を破棄し、懲役3年、執行猶予5年の判決を下す。検察・弁護側の双方とも控訴せず、判決が確定。(2013年7月26日(金)付の產經新聞の記事と、ウィキペディア日本語版の「秋山昌範」の項目に依拠)

2013年7月 作家や弁護士や大学教授などで構成された「ブラック企業大賞企画委員会」によって国立大学法人東北大学(本部在宮城県仙台市青葉区)がブラック企業大賞の候補としてノミネートされる。2007 年7月に同大学の助手が同大学病院の研究室から投身自殺。遺族側は自殺の原因が大学での過労であるとして、1億円の損害賠償を求める訴訟を2012年12 月に仙台地方裁判所(仙台地裁)に起こした。また、これとは別に東日本大震災による研究所全壊を理由に2年以内の研究室閉鎖を大学から一方的に告げられ、 精神を病んでいた同大学准教授が2012年1月に自殺。同年10月「過重労働の恣意(しい)的強制があった」として労災認定を受けた。ノミネートはこれらの結果を受けたもの。

2013年8月 ブラック企業大賞の候補としてノミネートされていた国立大学法人東北大学(本部在宮城県仙台市青葉区)がランキング第2位として「ブラック企業大賞企画委員会」によって認定される。2013年ブラック企業大賞ではノミネートされた企業8社のうち11%もの得票率を得て国立大学法人東北大学がランキング第2位となり、同時に特別賞も獲得。ちなみに1位はワタミグループ(居酒屋「和民」の運営企業)。受賞した各法人は授賞式を欠席している。

2013年9月2日(月) 公立大学法人横浜市立大学(英称 Yokohama City University; 英略称 YCU; 本部在神奈川県横浜市金沢区)は、児童買春・ポルノ禁止法違反の罪で罰金50万円の略式命令を受けた同大学国際総合科学部の男性准教授(氏名非公開)=39歳を停職6ヶ月の懲戒処分にしたと発表。当該准教授は同日付で依願退職したという。准教授(当時)は同年(2013年)7月、児童ポルノの画像をメールに添付して送信した容疑で滋賀県警察に逮捕され、その後、同法違反(児童ポルノの提供)の罪で、罰金50万円の略式命令を受け、支払ったという。同大学の布施勉(ふせ まなぶ, b.1941; 中央大学卒、中央大学大学院博士課程満期退学)学長・名誉教授は、「今回の件で失った信頼を取り戻せるよう職員の不祥事防止、学生教育へのサポートに全力で取り組む」とコメント、(同日付の神奈川大学のオンライン記事に依拠)

2013年9月20日(金) 前年(2012年)10月に人工多能性幹細胞(iPS細胞)を臨床応用したと虚偽発表して讀賣新聞をまんまと騙(だま)す事件を起こしていた東京大学病院特任研究員の森口尚史(もりぐち ひさし, b.1964; 東京医科歯科大学医学部保健衛生学科看護学専攻卒、東京大学医学博士)博士を雇用していた東京大学は、森口氏が関わった論文や投稿など68本のうち、14本で不正があったとの調査結果をまとめ発表。東大による と2012年に発表された論文に掲載された図が、米研究機関のホームページからの盗用だったことが確認された。他の13本の調査では森口氏がデータや実験 ノートなどの証拠を提出せず、証拠隠滅と立証妨害の不正に当たると判断した。14本のうち5本の論文は既に撤回された。東大は全て撤回するよう森口氏らに勧告するとのこと。2007年に東大から授与された博士(学術)の学位は剥奪(はくだつ)されていない模様。(同日付の共同通信の報道を一部改変)

2013年10月21日(月) 早稲田大学で博士学位取り消し処分。2010年9月15日(水)に大学院公共経営研究科から博士(公共経営)の学位を授与されていた中国人の晏英(Yàn Yīng, 生年不詳)氏の学位請求論文「近代立憲主義の原理から見た現行中国憲法―ソ連的マルクス主義の影響を踏まえて―」が、多数の文献やインターネット上の文章を巧妙に無断盗用したとして、学位が取り消された。(早稲田大学公式ウェブサイト http://www.waseda.jp/jp/news13/131021_degree.html 及び http://www.waseda-pse.jp/osp/jp/news/everyone/20131021.html を参照)

続きは、平成二十六年=2014年以降( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline4 )へ。

(外部サイト)

日本のピル事情を振り返る、国連加盟国で最も遅い承認だった

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2021年7月7日(水)

https://www.bbc.com/japanese/video-57744673 (日本語版、動画付)