日本の大学年表と女権と日英関係2(敗戦から昭和終焉まで)

これ以前の年表は、上代から敗戦まで( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline1 )へ。イギリスの大学年表についてはウェブページ6種( https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline1 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline2 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline3 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline4 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline5 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline6 )を参照のこと。

ここから米国主導の戦後民主主義体制、アメリカ文化の流入、受験競争の激化と収束、大学の大衆化・レジャーランド化

1945年(昭和20年)9月11日(火) 元首相・元陸相の東條英機(とうでう ひでき; とうじょう ひでき, 1884-1948; 陸軍大學校卒)が、自分を逮捕拘禁に来た米軍憲兵(MP: military police)に東京都世田谷區用賀の私邸を包囲された16:17頃、拳銃自殺を図ったが失敗し、マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)総司令官の指示の下で米軍による最善を尽くした輸血手術と看護を施(ほどこ)されて九死に一生を得る。

1945年同月同日(火)(資料によっては9月12日(水)) 降伏文書調印式から九日後のこの日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)元帥(げんすい)が記者会見で「日本はこの大戦の結果によって四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である。」と述べる。この「四等国」(a fourth-rate nation)という言葉が直後に日本で流行語と成る。

1945年9月15日(土)(但し、奥付では1945年10月3日(水)) この日に発売された1冊80銭の『日米會話手帳 Anglo-Japanese Conversation Manual』(科學敎材社, 1945年)が僅か3ヶ月間で360万部も売れ、戦後初のミリオンセラー(a million seller: 「百万部売り上げ」の意)書籍と成る。

1945年9月16日(日) 三年九ヶ月前の1941年12月25日(木)以来、軍事占領・統治を続けてきた香港駐留日本軍の岡田梅吉(おかだ うめきち, 生歿年不詳)陸軍少将と藤田類太郎(ふじた るいたらう, 生歿年不詳)海軍中将が香港総督府(Government House)にて降伏文書に署名し、英国海軍(Royal Navy)のハーコート少将(Rear-Admiral Sir Cecil Harcourt, 1892-1959; 中文名 夏慤)へ提出。これ以後、英国による香港統治は1997年6月30日(月)まで続くことになる。

(外部サイト)当時の映像

Hong Kong Surrender 1945

https://www.youtube.com/watch?v=V8_G5ECDTUs

1945年9月19日(水) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)がプレスコードを発令。以後は連合軍(the Allied Powers)を批判的に扱う記事は一切報道されなくなる。

1945年9月20日(木) 文部省(現在の文部科学省の前身)が日本全国の小中高に教科書から軍国色・戦時色の強い箇所を墨で塗るよう指導。「墨塗り教科書」の始まり。

1945年9月27日(木) 最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)元帥が、臨時の宿舎にしていた赤坂の在京米国大使館(US Embassy in Tokyo, Japan)に昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)を召還して初会談を行なう。昭和天皇はマッカーサー元帥に「私はどうなってもいいから、どうか日本国民を助けてください。」と言ったとされ、きっと命乞いするに違いないと踏んでいたマッカーサーを大いに感動させたとする美談がある。ところが客観的な証拠が何も残っていないことから、日本の統治に天皇の存在をうまく利用しようという米本国の思惑ではないのかとする穿(うが)った見方もある。

1945年9月29日(土) 略装でリラックスしているマッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)元帥と、西洋式の礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が写された二日前(同年9月27日(木))の写真が新聞各紙の一面トップで掲載され、多くの日本国民に衝撃を与える。今やマッカーサーが天皇よりも偉い人物であることが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の意を受けた日本マスコミによって巧妙に印象づけられた。

1945年10月9日(火) 二ヶ月足らず前の1945年8月17日(金)に組閣していた東久邇宮稔彦王(ひがしくに の みや なるひこ わう; ひがしくに の みや なるひこ おう, 1887-1990; 首相在任1945; 陸軍士官學校卒、陸軍大學校卒、仏サン・シール陸軍士官学校留学、仏エコール・ポリテクニーク留学; 興亞工業大學=現在の千葉工業大学の創設者)内閣が総辞職。後継には幣原喜重郎(しではら きぢゆぅらう; しではら きじゅうろう, 1872-1951; 首相在任1945-46; 東京帝國大學法科大學卒)内閣。なお、東久邇宮は二年後の1947年10月14日(火)に皇籍離脱を余儀なくされ、一平民の東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ, 1887-1990)と成り、様々な事業に乗り出すも悉(ことごと)く失敗し、1950年には新興宗教団体「ひがしくに教」の教祖に成ったりと、波乱万丈の人生を歩む。 1990年(平成2年)1月20日(土)に102歳という長寿を全うし、世界の首相経験者中で最長寿者というギネス記録を保持。

1945年10月 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の指導により日本女性の国政参加を日本史上初めて認める方向を示す(選挙に於ける男女平等)。投票可能の年齢も従来までの満25歳以上から満20歳以上に引き下げられることになる(実際の法改正は同年(1945年)12月17日(月)のこと)。

1945年11月 自由主義的または左翼的な思想を帝國政府に睨まれ、教壇を追われていた教授たちが、終戦とともに続々学園に戻る。全国大学教授の復職のさきがけ、東京帝國大學(略称 東大; 英称 Tokyo Imperial University)の統計学担当の有澤廣巳(ありさわ ひろみ, 1896-1988; 東京帝國大學卒)教授、農業政策担当の山田盛太郎(やまだ もりたらう; やまだ もりたろう, 1897-1980; 東京帝國大學卒)教授・經濟學博士、日本経済史の土屋喬雄(つちや たかを; つちや たかお, 1896-1988; 東京帝國大學卒)教授・經濟學博士、財政学の大内兵衛(おほうち へうゑ; おおうち ひょうえ, 1888-1980; 東京帝國大學卒)教授がニュース映画で紹介される。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300577_00000&seg_number=006

1945年11月9日(金) 昭和女子大学の前身である日本女子高等學院が、同年(1945年)4月12日(木)に全校舎を、同年(1945年)5月に寮舎を米軍機による空襲で焼かれてしまったことから、東京都中野區上高田の校地から引っ越し。同学園史上4番目の校地として、米進駐軍(US Occupation Forces in Japan)が接収していた東京都世田谷區三宿町(現在の東京都世田谷区太子堂一丁目)の旧大日本帝國陸軍東部第十二部隊近衞野戰重砲兵聯隊の跡地の一部を購入し(他は東京都や日本国政府などが入手)、その地に校舎及び寮舎を移転。日清戦争(First Sino-Japanese War, 1894-95)当時に建てられた木造バラック兵舎を、教室や寮室や事務室や研究室として再利用。

1945年11月18日(日) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)が皇室財産の凍結指令を発令。

1945年同月同日(日) 終戦後初の大学野球の早稲田大学対慶應義塾大学の試合(早慶戦)が明治神宮野球場で開催される。6対3で慶應の勝ち。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300577_00000&seg_number=006

1945年11月21日(水) 勅令(Imperial edict)により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められる。

1945年12月2日(日) 梨本宮守正王(なしもと の みや もりまさ わう; なしもと の みや もりまさ おう; Prince Nashimoto Morimasa, 1874-1951; 陸軍士官學校卒、フランス陸軍大学卒)元帥陸軍大將・伊勢神宮祭主・皇典講究所第六代總裁が、A級戦犯容疑で逮捕される。皇族として唯一の戦犯逮捕者と成るも半年後に不起訴で釈放されることになる。編集者・著述家の浅見雅男(あさみ まさお, b.1947; 慶應義塾大学卒)によると、戦勝国による皇室への恫喝の可能性がある。

1945年12月4日(火) 幣原喜重郎(しではら きぢゆぅらう; しではら きじゅうろう, 1872-1951; 首相在任1945-46; 東京帝國大學法科大學卒)内閣が、大学等の高等教育機関の男女共学化と、女子大学の設立推進を閣議決定。これを受け、これまで男子しか入学できなかった東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学)などが男女共学(co-education)と成る

1945年12月9日(金) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)が日本国政府に農地改革(land reform; farmland reform; agrarian reform)を指示。

1945年12月15日(土) 「國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保證、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廢止ニ關スル件」(Abolition of Governmental Sponsorship, Support, Perpetuation, Control, and Dissemination of State Shinto (Kokka Shinto, Jinja Shinto))、通称 「神道指令」(Shinto Directive)という名の覚書(おぼえがき: memorandum)が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)によって日本国政府に手交される。覚書は信教の自由の確立、軍国主義の排除、国家神道の廃止、神祇院(じんぎ いん: 内務省=現在の総務省・警察庁・国土交通省・厚生労働省に相当する省庁の外局)の解体、政教分離の実施を日本政府に指令。この指令によって「大東亞戰争」の呼称や「八紘一宇(はっこう いちう)」の用語の使用も禁止され、1941年12月8日(月)(米国時間では1941年12月7日(日))から1945年8月15日(水)(米側にとっては1945年9月2日(日))までの日本対英語圏諸国の戦争はこれ以後、アメリカ英語の Pacific War を直訳した「太平洋戦争」と呼ぶことを強制される。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300578_00000&seg_number=001

1945年12月17日(月) 二ヶ月前の同年(1945年)10月に方針を示した通り、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の指導による法改正(改正衆議院議員選挙法の公布)で、日本女性の国政参加が日本史上初めて認める(選挙に於ける男女平等)。投票可能の年齢も従来までの満25歳以上から満20歳以上に引き下げられる。

1945年12月29日(土) 二十日前の同年(1945年)12月9日(金)に日本国政府が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)から指示されたことを受け、農地改革に着手。この改革により地主、特に不在地主(absentee landowners)は多くの土地を失って没落し、代わりに小作人(peasants)の生活は以前よりも楽になる。戦後日本の平等化・平準化が進むことになるが、後に受験競争の過熱化・苛烈化を招く遠因の一つにも成る。

1946年(昭和21年)1月1日(火・祝) 天皇の人間宣言。官報により発布された昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の 詔書『新年(しんねん)ニ(に)當(あた)リ(り)誓(ちかひ)ヲ(を)新(あらた)ニシテ(にして)國運(こくうん)ヲ(を)開(ひら)カント(かん と)欲(ほつ)ス(す。)國民(こくみん)ハ(は)朕(ちん)ト(と)心(こゝろ)ヲ(を)一(いつ)ニシテ(にして)此(こ)ノ(の)大業(たいげふ)ヲ(を)成就(ぜうじゆ)センコトヲ(せんことを)庶幾(こひねが)フ(ふ)』の後半部に天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される部分があるため、マスコミによって「天皇の人間宣言」と呼ばれる。

1946年1月31日(木) 八年以上前の1937年10月1日(金)に施行された防空法が廃止になる。

1946年2月1日(金) 「女子敎育刷新要綱」により女子にも東京帝國大學(現在の国立大学法人東京大学の前身)の門戸が開放される。これは前年(1945年)12月4日(火)に幣原喜重郎(しではら きぢゆぅらう, 1872-1951; 首相在任1945-46; 東京帝國大學法科大學卒)内閣が男女共学(co-educational)を閣議決定したことを受けてのこと。東大への最初の女子受験生は108名で合格者19名。女子合格率17.6%。東大の入学者1,026名の内、女子の占める割合は1.9%(50人に1人弱)だった。二十一世紀の現在は約20%(5人に1人程度)の女子学生が在学している。

1946年同月同日(金) ポツダム宣言(Potsdam Declaration)に署名して日本占領に参加する英連邦軍の先遣隊として豪州戦艦ホバート(HMAS Hobart)ほか3隻が呉軍港に入港。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310006_00000&seg_number=001

1946年3月3日(日) 約六年半前の1939年10月18日(水)に公布、同年10月20日(金)施行されていた價格(価格)等統制令に代わる新たな勅令として物價(物価)統制令が公布・施行される。戦前基準年(1934年から1936年の平均)に対して、物価が10倍、賃金が5倍のバランスで算定されたため、都市居住者は生活難に陥(おちい)った。この法令は二十一世紀(2001-2100年)の現在も効力を持つため、現在では人気チケットを法外な価格で売りつける所謂(いわゆる)「ダフ屋」を同法違反で警察が逮捕する事例がある。

1946年3月 旧敵国と講和条約を結ぶにあたり(五年後の1951年サンフランシスコ講和条約)、米ソを中心とする東西冷戦が熾烈化する中で日本国は米国を中心とする資本主義陣営とのみ講和を結ぶ方向に舵(かじ)を切ることになるが、南原繁(なんばら しげる, 1889-1974)東京帝國大學總長・貴族院議員はソ連を中心とする社会主義陣営とも講和を結ぶべきだとして、「全面講和論」を提唱。これに対して吉田茂(よしだ しげる, 1878-1967; 首相在任1946-47 & 1948-54; 東京帝國大學卒)内閣総理大臣が激怒し、南原を名指しで「曲學阿世(きょくがく あせい)の徒(と)」と激しく罵(ののし)る。なお、「曲学阿世」とは読んで字の如(ごと)く、「学(がく)を曲(ま)げて世(よ)に阿(おもね)ること」の意。

1946年3月14日(木) 神道指令に基づく「神宮皇學館大學官制」廃止の勅令(昭和21年勅令第135号)が公布され、官立神宮皇學館大學(現在の皇學館大学の前身)が同年(1946年)3月31日(日)付で廃学・解散となる。職員は希望調査の上での転任となり、卒業生以外の学生は他大学や高等学校・専門学校へ移動。校地は宇治山田市(現在の三重県伊勢市の一部)が購入し、蔵書は官立名古屋帝國大學などに移管される。皇學館の歴史は一時的に途絶える。

1946年3月18日(月) 日本史上初の婦人警察官63名が任官。倍率にして約25倍の熾烈な競争を勝ち抜いての任官だったという。

1946年4月1日(月) 昭和女子大学の前身である日本女子髙等學院が財團法人東邦學園を設立し、日本女子專門學校を設置し、日本女子髙等學院の課程を引き継ぐ。

1946年4月10日(水) 戦後初の総選挙(第22回衆議院議員総選挙)で女性が初めて国政選挙に参加

1946年4月11日(木) 前日(1946年4月10日(水))実施された総選挙(第22回衆議院議員総選挙)の結果が判明し、39人の女性議員が男性議員と肩を並べて選出される。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300575_00000&seg_number=006

1946年4月29日(月・祝) 昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)45歳の誕生日に元首相・元陸相の東條英機(とうでう ひでき; とうじょう ひでき, 1884-1948)らがA級戦犯の容疑で起訴される。

1946年5月3日(金) 連合国軍による所謂(いわゆる)「東京裁判」こと極東軍事裁判がが開廷。結審は二年七ヶ月後の1948年11月12日(金)。

1946年8月12日(月) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)所管のアーニー・パイル劇場(Ernie Pyle Theatre: 東京都麴町區有樂町一丁目、現在の東京都千代田区有楽町1丁目1番3号)にて占領軍関係者による自主公演として、英国のギルバート&サリヴァン(W. S. Gilbert, or Sir William Schwenck Gilbert, 1836–1911 and Sir Arthur Sullivan, 1842–1900)作の喜歌劇 『ミカド、或いはティティプーの町』(The Mikado; or, the Town of Titipu, 1885)が日本で初演される。日付は倉田嘉弘[他] 『近代日本芸能年表 上巻』(ゆまに書房, 2013年) p.323 に依拠。なお、アーニー・パイル劇場とは1934年1月1日(月・祝)に開場した東京寶塚劇場(英称 Tokyo Takarazuka Theatre)が戦時中に風船爆弾製造工場に転用されたのを経て、敗戦後の占領下(1945年9月2日(日)~1952年4月27日(日))で一転して、沖縄戦で殉職した故アーニー・パイル(Ernest Taylor “Ernie” Pyle, 1900-45)というピューリッツァー賞(Pulitzer Prize)受賞記者に敬意を表した名となった。そこでは日本人の観劇は禁止され、主に米軍関係者が利用したが、シアター(劇場)の綴りは芝居好きの人が好む英式になっていた。現在では2001年1月1日(月・祝)に建替開場した東京宝塚劇場(米称 Tokyo Takarazuka Theater)となっている。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310033_00000&seg_number=003

1946年10月~’50年12月 昭和天皇(せうわ てんのう; しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の「英語や西洋の思想や習慣を学ばせる」という希望に沿って、皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)=後の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 天皇としての在位1989-2019; 学習院大学中退)の家庭教師に、アメリカ児童文学作家で敬虔(けいけん)なクエーカー信徒のヴァイニング夫人(Elizabeth Vining, 1902-99)が就任。ヴァイニング夫人は皇太子をアメリカ式にジミー(Jimmy)と呼ぶが、皇太子はその殖民地主義的なやり方に一旦抵抗しつつも服従。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310041_00000&seg_number=002

1946年11月3日(日・祝) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の指導により戦前の大日本帝國憲法に代わる日本國憲法が公布される。第一條の条文には、「天皇は日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」(The Emperor is the symbol of the State and of the unity of the people.)とある。

1946年12月21日(土) 未明4時19分過ぎ 紀伊半島沖でマグニチュード8.0の昭和南海地震が発生。死者1,330人。

1947年(昭和22年)2月1日(土) 「二・一ゼネスト」の不発。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の命令により、全面ストライキ(ゼネスト: general strike)が禁止に追い込まれる。全官公庁共闘議長の伊井彌四郎(いい やしろう, 1905-71; 法政大學卒)がラジオで涙ながらにゼネストの停止を指令する。

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1947年3月24日(月) 二年半前の1944年9月に文部省(現在の文部科学省)の命令で東京產業大學に改称させられた大学が、元の東京商科大學(現在の国立大学法人一橋大学の前身)に再度改称。

1947年3月31日(月) 五十六年半前の1890年10月30日(木)に明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)によって発布された敎育ニ關スル勅語(通称 敎育勅語)に代わる教育基本法が公布・施行される。同時に学校教育法も公布されるも施行は翌日(1947年4月1日(火))のこと。旧七帝大(旧九帝大の内、韓国領に取り残された京城帝大と、中華民国領に取り残された台北帝大を除く 国内の旧帝大全部)が東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学の新制大学として新たなスタートを切る。學習院が官立学校としては廃止され、私立学校として再出発。

1947年4月1日(火) 前日(1947年3月31日(月))に公布された学校教育法が施行される。

1947年4月 四十七年前の1900年に東京女醫學校として創立されていた東京女子醫學專門學校(通称「東京女子醫專」)が大學令により東京女子醫科大學豫科を開設。

1947年5月3日(土) 日本國憲法の施行(憲法記念日)。特筆すべきは第九条で戦力不保持を明記。条文に「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。[改行] 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。(英文 Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. [New paragraph] In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.)」とある。これにより、日本国は機雷除去のための掃海艇を数隻残すのみとなる。また、新憲法の施行に伴ない、913家もあった華族は全て平民家系(但し、一般には旧華族の言われ方)と成る。

1947年6月8日(日) 「民主主義教育の推進と教職員の大同団結」を謳(うた)った日本教職員組合(通称 日教組(にっきょうそ); 英称 JTU: Japan Teachers’ Union)が組織される。

1947年6月14日(土) 「日本アルプス」(the Japanese Alps)の名付け親である聖公会宣教師の英人ウォルター・ウェストン師(The Reverend Walter Weston, 1860-1940; ケイムブリヂ大学クレア学寮卒)の円型レリーフ像(relief plaque)の除幕式が長野県内の上高地(かみこうち)の梓川(あずさがわ)の畔(ほとり)の清水屋ホテルの北東近くで開かれる。ウェストン師は従来まで山岳信仰の対象だった山々に対しスポーツ登山(mountaineering; mountain climbing)という概念を日本人に教えたことで知られることから、「日本山岳登山の父」「日本近代登山の父」という異名(いみょう)を持つ。このレリーフ像そのものは、十年前の1937年8月26日(木)に設置された物だが、その五年後の1942年、英国を敵国とした戦争の中で撤去されてしまい、日本山岳會(現在の公益財団法人日本山岳会; 英称 The Japan Alpine Club)に保管されていた際に米軍による空襲で一部が焼損していた。レリーフの修復が終わり、除幕式を伴う再設置は五年後(初回の設置から十年後)で敗戦を経ていたこの日まで待たねばならなかったのだった。但し、現在の円型レリーフ像は1965年に再制作された物である。これ以降毎年6月第一日曜日(the first Sunday of June)にウェストン祭が開催されるようになる( https://www.kamikochi.or.jp/learn/spot/ウェストン碑 )。

1947年10月14日(火) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の指導により、秩父宮家、高松宮家、三笠宮家の3直宮家(昭和天皇の弟宮家)を除く、東久邇宮(ひがしくに の みや)家や竹田宮(たけだ の みや)家をはじめとする11宮家が皇籍を離脱して平民家系(但し、一般には旧宮家の言われ方)と成る。

1948年(昭和23年)1月26日(月) 15:03の閉店直後の時間帯に、帝國銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店(現在の東京都豊島区長崎一丁目7-15 「グランフォース西池袋」)に50代と見られる東京都職員を名乗る男が現れ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)のお達しで「集団赤痢の消毒薬」を飲んでもらうと称し、その場に居た行員と用務員とその子供計16人に青酸化合物(異説あり)の液体を二度に分けて飲ませる。うち12人が死亡、4人が重篤に陥(おちい)る。犯人は現金と小切手を盗んで立ち去る。世に言う「帝銀事件」。同年(1948年)8月21日(土)に北海道で日本画家の平沢貞通(ひらさわ さだみち, 1892-1987; 旧制小樽中学校=現在の北海道立北海道小樽潮陵高等学校卒)容疑者が警視庁に逮捕される。類似の未遂事件で使用された名刺を受け取っていたが、紛失していたこと(平沢氏は財布ごと掏摸(スリ)に遭(あ)ったと主張)、平沢氏が過去に銀行相手の詐欺事件を4回も起こしていたり、出所不明の現金(春画を描いて稼いだ金銭をひどく恥じたことがあらぬ疑いを招いたと冤罪説派は主張)を持っていたのが決め手とされる。平沢氏は七年後の1955年に死刑判決が確定してから32年間(逮捕から数えて39年間)無実を叫び続けるも死刑判決は覆(くつがえ)らず。歴代の法務大臣が死刑命令の書類に署名捺印を拒否したため刑は執行されず、1987年5月10日(日)、平沢死刑囚は満95歳で獄死。

1948年4月 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の指導により学制改革(小中高の単線式6・3・3制と医学部を除く大学の四年制が確立)が断行されるが、1950年までの移行期間を設けたため、この間には旧制と新制の学校が混在する状態となった。この改革は従来の帝國大學(帝大)と(私塾や私設法律学校や宗教学校から発展した私立の)大學と旧制髙等學校と大學豫科と旧制專門學校と髙等師範學校と女子髙等師範學校と師範學校と青年師範學校と髙等女學校の大部分を新制四年制大学(但し、一部には短期大学=短大と高等専門学校=高専と専修学校)に一元化するアメリカ式の平準化政策だった。学制改革により津田塾專門學校が新制大学として認可され津田塾大学に改称日本女子大學校が新制大学として認可され日本女子大学に改称。学制改革により獨逸學協會學校が獨協中学校・高等学校として発足。もはや敗戦国ドイツの学問は時代に合わないとして、「獨協とは獨立協和のことだ」などと強弁する。

1948年4月28日(水) 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の指導により夏時刻法が公布される(日本の再独立が十七日後に迫った1952年4月11日(金)に廃止)。

1948年5月1日(土) 三日前の1948年4月28日(水)に公布された夏時刻法に則(のっと)り、5月第一土曜日24時(=日曜日0時)から9月第二土曜日25時(=日曜日0時)までの夏時間(Summer Time: 当時の表記は「サンマータイム」)を実施し、日本標準時(JST: Japan Standard Time)よりも時計の針を1時間進める。以後、1949年、’50年、’51年と計4シーズンに亘(わた)って実施されることになるが、1949年だけは4月第一土曜日24時(=日曜日0時)から9月第二土曜日25時(=日曜日0時)までの実施となった。

1948年6月14日(月) 横浜ゲーリック球場(Lou Gehrig Memorial Stadium; 在神奈川県横浜市中区)にて日本初の公式戦の夜間試合(night game)が実施される。東京六大学野球の立教大学対慶應義塾大学の試合である。「ナイター」という表現は二年後の1950年『週刊ベースボール』誌上が初出。なお、既に十五年前の1933年7月10日(月)に早稲田大學戸塚球場(現存せず)にて日本初の野球(baseball)の夜間試合「早大二軍対早大新人戦」が実施されている。

1948年6月19日(土) 五十六年半前の1890年10月30日(木)に明治天皇(めいじ てんのう; Emperor Mutsuhito; the Meiji Emperor, 1852-1912; 在位1867-1912)によって発布された敎育ニ關スル勅語(通称 敎育勅語)が衆参両議院の議決により廃止

1948年6月28日(月) 16時13分29秒 都市直下型マグニチュード7.1の福井地震が発生。死者・行方不明者3,769人の大惨事。

1948年7月8日(木) 三笠宮崇仁親王(みかさ の みや たかひと しんのう, 1915-2016; 陸軍大學校卒)の妻、百合子(ゆりこ, b.1923; 女子学習院本科=現在の学習院女子中等科・高等科卒)妃の父である昆虫学者 高木正得(たかぎ まさなり, 1894-1948; 東京帝國大學卒)元子爵・元貴族院議員・元司法參與官が「呉れゞゝも捜してはいけません。無駄です。自然に融合して還元するのみ。」とのメモ書きを残し、昆虫採集用の青酸カリを持ち出して失踪。四ヶ月近くが経過した同年(1948年)11月1日(月)、東京都奥多摩地域の雲取山中にて白骨死体となって発見される。縊死(いし: hanging)と考えられている。奥多摩は、かつて足繁く昆虫採集に通った思い出の地だった。敗戦後の窮乏と華族制度の廃止を苦にし、貴重な蔵書や昆虫標本を戦災で失った心痛による自殺と考えられ、旧華族の没落が話題となる。

1948年8月15日(日) 敗戦から三年のこの日、二代目の忠犬ハチ公像が渋谷駅前広場に建立設置され、除幕式が執り行なわれる。初代忠犬ハチ公像を制作した故安藤照(あんどう てる, 1892-1945; 東京美術學校=現在の東京藝術大学美術学部卒)の息子である安藤士(あんどう たけし, 1923-2019; 東京美術學校=現在の東京藝術大学美術学部卒)の制作。当時日本を占領していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)にも愛犬家がいたため、速やかに許可され、しかも除幕式にはGHQ高官も参列したという。再建から僅か15日後の同年(1948年)8月30日(月)には、アメリカから来日中の視覚聴覚重複障害者で社会福祉活動家のヘレン・ケラー(Helen Keller, 1880-1968)女史が渋谷駅前を訪れてハチ公像に触れている。なお、ヘレン・ケラー女史は十一年前の1937年4月15日(木)~8月10日(火)にも訪日しており、「奇跡の人の來日」ということで行く先々で大歓迎されている。

1948年8月17日(火) 横浜ゲーリック球場(Lou Gehrig Memorial Stadium; 在神奈川県横浜市中区)にて日本初のプロ野球(Japan professional baseball)公式戦の東京巨人軍対中日ドラゴンズ(Tokyo Giants vs. Chunichi Dragons)戦で夜間試合(night game)が実施される。「ナイター」という表現は二年後の1950年『週刊ベースボール』誌上が初出。8月17日はプロ野球ナイター記念日と成る。なお、既に十五年前の1933年7月10日(月)に早稲田大學戸塚球場(現存せず)にて日本初の野球(baseball)の夜間試合「早大二軍対早大新人戦」が実施されている。

1948年11月12日(金) 二年七ヶ月前の1946年5月3日(金)に開廷していた連合国軍による所謂(いわゆる)「東京裁判」こと極東軍事裁判が結審。日本の戦争指導者7人に死刑判決が言い渡される。有罪ながら死刑を逃れた者(終身刑16名+有期禁錮刑2名; 他に判決前に病歿が2名、訴追免除が1名)もいた。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001830052_00000&seg_number=001

1948年12月23日(木) 皇太子明仁親王(あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)、後の平成時代の天皇(きんじょう てんのう; Emperor Akihito, b.1933; 在位1989-2019; 学習院大学中退)=更に後の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933)の十五歳の誕生日の深夜零時台に米軍管理下の巣鴨プリズン(現在の東京メトロ東池袋駅近くの池袋サンシャインシティ)にてA級戦犯として有罪になり死刑判決が下った元首相・元陸相の東條英機(とうでう ひでき; とうじょう ひでき, 1884-1948; 陸軍大學校卒)陸軍大将、元首相・元外相の廣田弘毅(ひろた こうき, 1878-1948; 東京帝國大学卒)、元陸相の板垣征四郎(いたがき せいしろう, 1885-1948; 陸軍大學校卒)陸軍大将、元ビルマ方面軍司令官の木村兵太郎(きむら へいたらう; きむら へいたろう, 1888-1948; 陸軍大學校卒)陸軍大将、元奉天特務機關長の土肥原賢二(どいはら けんじ, 1883-1948; 陸軍大學校卒)陸軍大将、元中支那方面軍司令官の松井石根(まつゐ いはね; まつい いわね, 1878-1948; 陸軍大學校卒)陸軍大将、元陸軍省軍務局長の武藤章(むとう あきら, 1892-1948; 陸軍大學校卒)陸軍中将の七人の絞首刑が執行される。なお、これらの七人は、他に獄死したパク・ムドク(朴茂德; 박무덕; Pak Mudǒk, 1882-1950)こと、東鄕茂德(とうごう しげのり, 1882-1950; 東京帝國大学卒)元日本国外務大臣や、同じく元外務大臣の松岡洋右(まつおか ようすけ, 1880-1946; 米オレゴン大学卒)らとともに、三十年後の昭和五十三年=1978年10月17日(火)、靖國神社(在東京都千代田区九段)によって「昭和殉難者」として合祀(ごうし)され、今日(こんにち)に至っている。

1949年(昭和24年)4月1日(金) 前年(1948年)4月に断行された学制改革を受け、東京商科大學が学生の公募で一橋大学(現在の国立大学法人一橋大学)に改称。明治学院大学、青山学院大学、立教大学の設置が新制大学として認可される。この中でも青山学院は1874年(明治7年)を創立年とすることからも分かるように、1881年(明治14年)創立の明治大学や、1882年(明治15年)創立の早稲田大学よりも古く、日本の私立大学でも最古参の部類に入るが、大学への昇格は遅れに遅れていた。その最大の理由は五十年前の1899年8月3日(木)に公布された私立學校令である。靑山學院も大學昇格を企図したが、この法令は宗教教育を実質的に禁止し、キリスト教系私立学校を抑圧するものであった。靑山學院は建学の精神を優先し、文部省(現在の文部科学省の前身)の公認には拘泥(こうでい)せず大學昇格を見送っていた。その後、1918年12月6日(金)に大學令が公布されたのを機に靑山學院理事會も1920年に大學設置を目指す計画を進めたが、翌’19年の院長急逝という不運に見舞われ、さらに関東大震災という未曽有の大惨事も重なり、昇格は見送られていた。学習院大学が新制大学として認可され、皇族や旧華族の通う大学として生き残る。日本女子髙等學院の課程を引き継いでいた日本女子專門學校が新制大学として認可され昭和女子大学と改称。波多腰ヤス(はたごし やす, 1893-1972; 奈良女子髙等師範學校=現在の国立大学法人奈良女子大学卒)教授(後に名誉教授)・農学博士(京都帝國大學)が国立奈良女子大学理家政学部長に就任。日本の大学では女性として初めて学部長を務める。

1949年 江戸時代後期の1838年(天保9年)に中山みき(なかやま みき, b.1798-1887)が起こした新興宗教団体「天理教」(在奈良県天理市)が、二十四年前の1925年に開学していた専門学校を大学に昇格させることで学校法人天理大学(Tenri University)を創立。前年(1948年)に断行された学制改革を受け、キリスト教や仏教などの既成宗教のみならず新興宗教までもが大学を設立できるようになる。

1949年 1米ドル=360円、1英ポンド=1,008円に固定され、以後1971年まで二十二年間も固定相場制が続く。

1949年5月31日(火) 前年(1948年)の学制改革による国立学校設置法(昭和24年法律第150号)の公布施行に伴い、「一県一国立大学化」が実現され、全国各地(主に県庁所 在地)に国立新制大学が急増。たとえば埼玉大学は埼玉師範學校(1873年創立)と旧制浦和髙等學校(1921年創立)と埼玉青年師範學校(1922年創 立)の三校を統合して組織。乱造された地方国大を東京帝大中退の評論家大宅壮一(おおや そういち, 1900-70)が「駅弁大学」と揶揄(やゆ)。学制改革により東京女子師範学校の流れを汲むお茶の水女子大学(お茶大)が新制大学として認可される。東京美術學校と東京音樂學校が統合され、東京藝術大学(藝大)として設立される。学制改革の前の日本には、国立19大学+公立2大学+私立28大学=計49大学しか存在しなかったが、1949年の時点では国立70大学+公立18大学+私立92大学=計180大学という具合に一挙に3.67倍も増加した。

1949年6月15日(水) 靜岡縣御殿場町(現在の静岡県御殿場市)の基督敎靑年會(YMCA: Young Men’s Christian Association)東山荘で開催された大學組織協議會に集まった日本と北米のキリスト教界の指導者たちによって国際基督教大学(英称 International Christian University; 英略称 ICU; 在東京都三鷹市)の創設が決議される。昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の弟である高松宮宣仁親王(たかまつ の みや のぶひと しんのう; Nobuhito, Prince Takamatsu, 1905-87; 海軍大學校卒)が設立準備委員會の名誉総裁に就任し、日本銀行(略称 日銀; 英称 Bank of Japan; 英略称 BOJ)総裁の一萬田尚登(いちまだ ひさと, 1893-1984; 東京帝國大學法科大學卒)が設立のための募金運動に奔走。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)元帥(げんすい)も大学設置に際し財団の名誉理事長として米国での募金運動に務める。日本YMCA理事長で国際基督教大学の評議委員会会長となった山本忠興(やまもと ただおき; 1881-1951; 東京帝國大學工科大學卒)も設立に尽力。開学に先立って1952年に語学研修所が開設された後、1953年に初代学長として、京都帝國大學元教授で同志社前総長の湯淺八郎(ゆあさ はちろう, 1890-1981; 米カンザス農科大卒、イリノイ大学大学院修了)教授・哲学博士(イリノイ大学)を迎える。

1949年8月6日(土)深夜 青森県弘前市在府町の寄宿先で弘前大学教授夫人殺人事件(略称 弘前事件)が発生。松永藤雄(まつなが ふじお, 1911-97)医学博士・弘前医科大学(現在の国立大学法人弘前大学の前身)教授・後に弘前大学名誉教授の妻、松永すず子(まつなが すずこ, 1919?-49)夫人=30歳が何者かによって喉を刃物で突かれて刺殺される。事件から十六日後の同年(1949年)8月22日(月)、青森県警察は近隣住民の無職(失業中)の男性、那須隆(なす たかし, 1923-2008)氏=25歳を逮捕する。那須氏は下野國(しもつけ の くに: 現在の栃木県)を治めていた戦国大名、那須與一(なす の よいち, 1169?-89?)直系の家系の次男(長兄が夭折(ようせつ)したため実質的な長男=36代目当主)として生まれたが、戦後の混乱期に那須家は没落していた。当時の警察は勾留延長や別件逮捕を利用して那須氏を厳しく追及し、弁護士への接見も一切許されず、殴る蹴る、便所に行かせないといった拷問を用いたという。那須氏は一貫して無実を主張するもアリバイはなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、精神鑑定でも那須は変態性欲者(ヘンタイ)であるとの結果が出される。二ヶ月後の同年(1949年)10月に那須氏は殺人罪で再逮捕される。一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室の古畑種基(ふるはた たねもと, 1891-1975)教授・後に同大学名誉教授が数学を援用したと称して那須氏の衣服の出鱈目(デタラメ)な鑑定を行ない、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論。これに対し那須氏の弁護人は、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造(ねつぞう)されたものであると主張。1951年に下った一審判決では那須氏は殺人罪については無罪とされたが、裁判長はその理由を一切説明していない。仙台高裁で開かれた控訴審では那須氏が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果が出されるも、1952年の控訴審判決は古畑教授の鑑定を始めとしてほぼ全面的に検察側の主張を容(い)れ、那須氏は懲役15年の有罪判決を受ける。この事件は法医学(forensic science)が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになる。刑務所での態度が良く、模範囚となっていた那須氏は事件について否認し続けたが、遂に1962年、末弟が亡くなったことをきっかけに更生保護審議会の面接で「やったことを認めます。」と虚偽の自白をしてしまう。その結果として1963年1月18日(金)、那須氏は39歳で宮城刑務所から仮釈放される。獄中で10年間貯め続けた作業賃金は、滞納していた訴訟費用の支払いに消えたという。事件から二十二年後の1971年になって、事件当時弘前在住で那須氏の知人であった男、滝谷福松(たきたに or たきや? ふくまつ, b.1930)が、自らが事件の真犯人であると名乗り出る。前年(1970年)11月25日(水)に起きた三島事件に感銘を受けての自首だという。那須氏は日本弁護士連合会や讀賣新聞などの協力を得て再審を請求し、その後に行なわれた物証の再鑑定でも、過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられる。那須氏は自分を陥れた真犯人の滝谷、しかも公訴時効が成立したことを確認した上で自首してきた真犯人の滝谷について、「むしろ感謝している」「人間の偽りの無い心に触れた気がします。」と語り、決して恨みごとを述べなかったという。1974年に請求は一度棄却されたが、翌年(1975年)に下された白鳥事件再審決定(「疑わしきは被告人の利益に」; 羅典(ラテン)語 in dubio pro reo)により再審の門戸が拡げられたことにより間もなく再審の開始が決定される。事件から実に二十七年半後の1977年2月16日(水)、仙台高等裁判所(仙台高裁)は物証の捏造(ねつぞう)を強く示唆して那須氏に対する殺人の罪を撤回し、事件は冤罪(えんざい)と認められる。しかしながら、その後の国家賠償請求訴訟では国側の過失責任(警察が故意に那須氏に罪を着せたこと)は否定され、那須氏の全面敗訴となる。真犯人の滝谷は公訴時効の壁に守られ、氏名や顔写真の報道を逃れ、妻と共に廃品回収で生活したが、那須氏の冤罪認定から七年後の1984年に女子中学生に対する猥褻(わいせつ)事件で逮捕され、その際に性犯罪の常習犯として過去に起こした弘前大学教授夫人殺人事件(略称 弘前事件)の真犯人として氏名と顔写真が初めて公開された。したがってこのウェブページでも実名入りとする。

1949年10月 敗戦と外国軍による占領で打ちひしがれている日本に明るいニュース。湯川秀樹(ゆかは ひでき; ゆかわ ひでき, 1907-81; 京都帝國大學卒)東京大学教授(後に京都大学・大阪大学名誉教授)・理学博士(京都帝國大學)が同年(1949年)12月にノーベル物理学賞(瑞 Nobelpriset i fysik; 英 Nobel Prize in Physics)を受賞することが決定。日本人としては初のノーベル賞受賞者。十四年前の1935年、大阪帝國大学(現在の国立大学法人大阪大学の前身)講師時代に発表していた「素粒子 の相互作用について」の中で中間子(現在のパイ中間子 π–meson)の存在を予言していたが、1947年にイギリスのセシル・パウエル(Cecil Powell, 1903-69)博士らが発見したことで、その存在が実証された。なお、パウエル博士も翌’50年に同じノーベル物理学賞を受賞している。アジア人としては、1913年ノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur 1913; 英 Nobel Prize in Literature 1913)を受賞した印度詩人・作家タゴール(Rabindranath Tagore, 1861-1941; ロンドン大学ユーネヴアセティ学寮中退)や、1930年ノーベル物理学賞(典 Nobelpriset i fysik 1930; 英 Nobel Prize in Physics 1930)を受賞した英領印度の物理学者の C. V. ラーマン(C. V. Raman, 1888-1970)こと、チャンドラセカール・ラーマン(Sir Chandrasekhara Venkata Raman, 1888-1970; マドラス管区大学卒)カルカッタ大学教授に次ぐ三人目の受賞者。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001830081_00000&seg_number=001

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001830082_00000&seg_number=001

1950年(昭和25年)4月 学校法人青山学院(在東京都渋谷区)が青山学院女子短期大学(略称 青短; 英称 Aoyama Gakuin Junior College)を設置(2018年度を最後に学生募集を停止予定)、学校法人昭和女子大学(在東京都世田谷区)が昭和女子大学短期大学部(英称 Showa Women’s Junior College)を設置(六十四年後の2014年3月末に廃部)するなど短期大学(短大)の設置が相次ぐ。この年(1950年)に設置された日本の短大は公立17校・私立132校で合計149校となる。三年前の1947年4月1日(火)に施行された学校教育法に基づき、戦前からの旧制專門學校が新制大学に移行する際に大学設置基準に満たない学校が出ることが問題視されたため、その解決のために新設されたのが短期大学の制度であり、当初は暫定の制度とされ、1950年に「当分の間」という語が含まれた制度が作られたのだった。ところが1990年代になって「当分の間」という語がなくなり、恒久化されるも、2010年代には短大の閉校が相次ぐ。

1950年同月 五十年前の1900年に東京女醫學校として創立されていた東京女子醫學專門學校(通称「東京女子醫專」)が大学令により東京女子医科大学医学部を開設。

1950年 一年前の1949年に設置されていた久我山大学(くがやま だいがく: 在東京都杉並区)が経営難のため一人も卒業生を出せずに廃校。

1950年6月25日(日) ソ連の独裁者ヨシフ・スターリン(Иосиф Виссарионович Сталин = Yosif Vissarionovich Stalin; Joseph Stalin, 1878-1953; 連邦共産党書記長在任1922-53)の許可を受けた金日成(Kim Il-sung, 1912-94; 最高指導者在任1948-94)率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発。日本は朝鮮特需で好景気に。1953年に停戦合意するが、公式には現在も交戦状態が続く。

1950年7月2日(日)未明3:00前 臨済宗相国寺派の鹿苑寺(ろくおん じ)、通称 金閣寺(在京都府京都市北区)の国宝に指定登録されていた舎利殿(しゃり でん)、通称 金閣が炎上。大谷大学(在京都府京都市北区)1年生(関西の言い回しでは1回生)で同寺の徒弟僧(とてい そう)だった林承賢(はやし しょうけん, 1929? - 56)、本名 林養賢(はやし ようけん, 1929? - 56)21歳による放火が出火原因。林徒弟僧が行方不明であることが判明し、周辺の捜索が行なわれた。同日夕方になり、林徒弟僧が寺の裏にある左大文字山の山中で睡眠薬のカルモチンこと、ブロムワレリル尿素(bromisoval; bromovalerylurea; 化学式 C6H11BrN2O2)を飲み、短刀で胸を突き、その場に蹲(うずくま)っているところを発見され、救命処置により一命を取り留めた。そして林徒弟僧は放火の容疑で逮捕された。逮捕当初の京都府警西陣署の取調べに対し、林従弟僧は動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などと供述していたが、やがて「美に対する嫉妬と、自分の環境が悪いのに金閣という美しいところに来る有閑(ゆうかん)的な人に対する反感からやった」と供述内容を変えた。林従弟僧の父親は結核で既にこの世になく、母親が西陣署に呼ばれ、捜査官から事件の顛末(てんまつ)を聞かされたが、その衝撃を受けた様子から不吉な予感を得た警察は実弟を電話で呼び出して付き添わせた。しかしながら、実弟の実家がある京都府大江町(おおえ ちょう: 現在の京都府福知山市)への帰途、犯人の母親は山陰本線の列車から保津峡(ほづきょう)へ飛び込んで自殺した。林従弟僧は裁判で懲役7年の刑が確定して服役したが、1955年10月30日(日)に恩赦を得て加古川刑務所から出獄。奇(く)しくも創建当時の状態で復原・再建された新金閣の落慶法要(1955年10月10日(月))から二十日後のことだった。服役中に結核と精神分裂症(現代で言う統合失調症)が進行していた林元受刑者は京都府立洛南病院に入院し、翌年(1956年)3月7日(水)に病歿した。この事件を題材に、三島由紀夫(みしま ゆきお, 1925-70)、本名 平岡公威(ひらおか きみたけ; 有職読みで「こうい」, 1925-70; 東京帝國大學卒)は長篇小説 『金閣寺』(1956年)を、そして水上勉(みずかみ つとむ; 通称 みなかみ つとむ, 1919-2004; 立命館大学中退)は長篇小説 『五番町夕霧楼』(1962年)とノンフィクション 『金閣炎上』(1979年)をそれぞれ上梓(じょうし)した。

1951年(昭和26年)3月14日(水) 一年前の1950年に設置されていた湘南工業短期大学(しょうなん こうぎょう たんき だいがく: 在神奈川県横浜市戸塚区)がこの日付で正式に廃校。なお、湘南工科大学(しょうなん こうか だいがく: 英称 Shonan Institute of Technology; 在神奈川県藤沢市)との関連はない。

1951年4月11日(水) トゥルーマン(Harry S. Truman, 1884-72; 大統領在任1945-53; ミズーリ大学カンザス市法科学院中退)米大統領がマッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)総司令官の更迭(こうてつ)・解任を発表。朝鮮戦争で敵に核兵器を用いようとするマッカーサーはソ連を刺激して第三次世界大戦を起こそうとしているとするトゥルーマンの判断があった。「天皇より偉いマッカーサー」よりも更(さら)に上には米大統領の存在があることを日本国民は衝撃とともに思い知る。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001830075_00000&seg_number=001

1951年4月16日(月) 総司令官の職を更迭(こうてつ)・解任されたマッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964; アメリカ陸軍士官学校卒)元帥が東京の羽田空港から離日、帰国の途に就く。羽田空港までの沿道には20万人もの日本人の人だかりができ、マッカーサーへの感謝を表明。

1951年9月8日(土) 米国カリフォルニア州サンフランシスコ市(San Francisco, California, USA)内の歌劇場(San Francisco Opera)にて日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan: 通称「サンフランシスコ平和条約」)に日本国を含む52ヶ国が署名。

1951年11月12日(月) 関西巡幸途上の昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が「ご進講」を受けるため京都大学(本部在京都府京都市左京区)を訪問した折、多数の学生が正門付近に押し掛け、「同学会」なる学生組織が5ヶ条から成る「公開質問状」の提出を試みたり、群衆が反戦歌を合唱したり、京都府警察の警官隊との間で小競り合いが生じる。世に言う「京大天皇事件」。事件の翌日(1951年11月13日(火))、衆議院文部委員会の大学管理法案審議の過程で天野貞祐(あまの ていゆう, 1884-1980; 京都帝國大學卒、独ハイデルベルク大学留学)文部大臣(現在で言う文部科学大臣に相当)、京都帝國大學名誉教授・博士(京都帝國大學)、同大學元學生課長、旧制第一高等學校(現在の国立大学法人東京大学教養部駒場地区キャンパスの前身)元校長(後に獨協大学初代学長)が、この事件に言及。大学当局はその二日後の同年(1951年)11月15日(木)に「同学会」の解散命令を発し、更に二日後の同年(1951年)11月17日(土)には「同学会」幹部8名の無期限停学処分を発表。事件からちょうど二週間後の同年(1951年)11月26日(月)には衆議院法務委員会に服部峻治郎(はっとり しゅんじろう, 1890-1983; 京都帝國大學卒; 京都大学総長在任1951-53)京都大学総長・教授(後に名誉教授)・医学博士(京都帝國大學)と、京大「同学会」委員長が喚問される事態となる。また、服部総長は翌月(1951年12月)には事件の責任を取っての辞任に追い込まれる。

1952年(昭和27年)1月18日(金) 韓国の独裁者、李承晩(り しょうばん; イ・スンマン, 1875-1965; ラテン文字表記 Yi Sungman; 英名 Syngman Rhee; 大統領在任1948-60)が日本海(韓国では「日本」の名称を嫌って「東海; 동해; Donghae; 英称 East Sea」と呼ぶ)と東シナ海に「李承晩ライン」(the Syngman Rhee line)なる韓国側水域線を設定することを一方的に宣言。それまで日本漁船の活動可能領域として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)が定めていた「マッカーサー・ライン」(the McArthur line)が来(きた)る日本独立(1952年4月28日(月))によって廃止される直前に、韓国が島根県の竹島(国際名称 Liancourt Rocks; 韓国名 獨島; 독도; Dokdo)を自国側に取り込んで盗み取る形で勝手に公海上に引いた境界線だった。

1952年2月20日(水) 東京大学(通称 東大; 英称 University of Tokyo; 英通称 Todai; 本部在東京都文京区)本郷キャンパス法文経25番教室で学生サークル「ポポロ劇団」が大学当局の許可を得た上で公演を行なっていたところ、観客の中に本富士警察署の私服警官4名が居ることに学生が気づく。3人の身柄を拘束して、警察手帳を奪い、謝罪文を書かせ、学生らが暴行を加える。奪った警察手帳は東京大学の決議によって警察に返還されるが、警察手帳のメモから少なくとも約一年半前の1950年7月から警察が東大内を張込・尾行をして学生の思想動向等の調査を行なっていたことが発覚。私服警官に暴行を加えた学生2人が暴力行為等処罰ニ関スル法律により起訴される。このうちの一人は後に秋田県横手市の市長を務めることになる千田謙蔵(ちだ けんぞう, b.1931; 官立弘前高等學校=現在の弘前大学卒、後に東京大学卒)=20歳である。世に言う「東大ポポロ事件」。日本國憲法「第二十三条 学問の自由は、これを保障する。」(英文 Article 23. Academic freedom is guaranteed.)に保障する学問の自由とそこに含まれる大学の自治が論争の的になる。一審の東京地方裁判所(東京地裁)と二審の東京高等裁判所(東京高裁)は、「大学の自治を守るため正当」と、被告人に無罪を言い渡す。ところが1963年5月22日(水)に最高裁判所(最高裁)大法廷は、「実社会の政治的社会的活動にほかならない。劇団の集会は真に学問的な研究と発表のためのものでなく、大学の学問の自由と自治を享有しない」として一・二審判決を破棄して地裁に差し戻す。その後は控訴・上告も棄却され、それぞれ懲役六月(ろくげつ)と四月(よんげつ)、執行猶予2年の有罪判決が確定。(2020年10月9日(金)付のヤフーニュース個人に掲載された木村正人(きむら まさと, b.1961)署名コラムに依拠した上で加筆)

1952年3月19日(水) 一年前の1950年に設置されていた農科のみの中部短期大学(ちゅうぶ たんき だいがく: 在愛知県東春日井郡篠岡村)は1951年度には既に学生募集を停止していたが、この日付で正式に廃校。なお、中部大学(ちゅうぶ だいがく: 英称 Chubu University: 在愛知県春日井市)や中部学院大学(ちゅうぶ がくいん だいがく: 英称 Chubu Gakuin University: 在岐阜県関市)とは何ら関係ない。

1952年4月 皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)、後の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Akihito, b.1933; 在位1989-)が学習院大学に入学。日本の皇位継承者が大学に正規入学した史上初めてのケース(但し、後に自主退学)。

1952年同月 五十二年前の1900年に東京女醫學校として創立されていた東京女子醫學專門學校(通称「東京女子醫專」)が学校教育法により新制大学となり、東京女子医科大学(通称「女子医大」)に改称。

1952年4月11日(金) 日本の再独立が十七日後に迫ったこの日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)の指導により四年前の1948年4月28日(水)に公布されていた夏時刻法が廃止となる。1948年、’49年、’50年、’51年と4シーズンに亘(わた)って続いてきた夏時間(Summer Time: 当時の表記は「サンマータイム」)は、当時の日本国民には「GHQの占領の産物」と考えられており、占領状態から解かれるのであれば、サンマータイムも終わるのが当然とされた。残業が増えて労働条件が悪化したり、交通機関が殺人的に混雑するなど、欧米では考えられないような日本ならではの問題が生じていたため、サンマータイムは非常に不人気だったという。

1952年4月28日(月) 日本国との平和条約の効力発生により、日本が主権を回復し、再び独立国に。六年半に及ぶ連合国軍(事実上は米軍)の占領状態を解かれる。国際社会に復帰。但し、沖縄ではその後も米軍による占領統治が続く(沖縄県は1972年5月15日(月)に日本に復帰)。

1952年5月1日(木) 連合国軍(事実上は米軍)の占領状態を解かれてから僅(わず)か三日後のこの日、木村篤太郎(きむら とくたろう, 1886-1982; 東京帝國大學卒)法務総裁が戦争犯罪受刑者(戦犯)の国内法上の解釈についての変更を通達し、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われるとした。これは同年に当時の成人のほぼ全員である4000万人(当時の日本国の人口は8454万人)もの署名が集まったことを受けてのこと。続いて同年6月9日(月)参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、同年12月9日(火)衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、翌’53年8月3日(月)衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」、1955年7月19日(土)衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」という各国家決議が採択されている。「サンフランシスコ平和条約」との整合性の問題があり、「戦犯の名誉回復」という踏み込んだ言葉を日本国政府は使っていないが、戦犯は事実上の名誉回復が為されたと考えられる。

1953年(昭和28年)1月4日(日) 昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の弟3人の内で最も年齢が近かった秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひと しんのう; Prince Chichibu, 1902-53; オクスフオッド大学モードレン学寮遊学)が満50歳半の若さで当時は「不治(ふじ)の病(やまい)」と見做(みな)されていた結核(TB: tuberculosis)のため薨去(こうきょ)。

1953年1月12日(月) 韓国の独裁者、李承晩(り しょうばん; イ・スンマン, 1875-1965; ラテン文字表記 Yi Sungman; 英名 Syngman Rhee; 大統領在任1948-60)が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示したため、「韓国の海域を侵犯した」「李ライン侵犯だ」という不当な理由で計328隻の日本漁船が拿捕(だほ)され、計3,929人もの日本人漁民が韓国当局に強制連行された。日本人漁民抑留者たちは六畳ほどの板の間に30人も押し込められ、僅(わず)かな食料と、 30人が桶(おけ)1杯の水で1日を過ごさねばならなかった。韓国官憲によって殴る蹴るの暴行を受けて負傷した者は44名に上り、それら44名中、5名が命を落とした。韓国海軍は日本国海上保安庁の巡視船16隻をも銃撃した。敗戦後間もない日本国は巡視船に機関砲を搭載することを禁じられていたのを知っての上での犯罪行為であった。 日本漁民の家族・遺族の中には生活苦や精神的負担で発狂する者や自殺する者も出た。不法侵略国家である韓国は今日(こんにち)に至るまで一連の犯罪行為について日本国に対して一言の謝罪も賠償も補償もしていないどころか、竹島の帰属について国際法廷で決着をつけることも拒否している。それにも拘(かか)わらず日本国政府は韓国による国家ぐるみの犯罪行為に対して何の抗議もせず、自国民を見殺しにしてきた。

1953年2月27日(金) アメリカが韓国の抗議を受け、自国軍の演習地から島根県の竹島(国際名称 Liancourt Rocks; 韓国名 獨島; 독도; Dokdo)周辺の海域を除くと発表。

1953年 四年前の1949年の時点で日本全国に180大学だったのが、国立72大学+公立34大学+私立120大学=計226大学にまで増える。

1953年3月30日(月)~10月12日(月) 学習院大学の満18歳の正規学生だった皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)=後の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 天皇としての在位1989-2019; 学習院大学中退)が、横浜港の大桟橋から米国の客船 President Wilson 号で約半年の外遊に出る。吉田茂(よしだ しげる, 1878-1967; 首相在任1946-47 & 1948-54; 東京帝國大學法科大學卒)内閣総理大臣以下、日本の要人が大桟橋で見送り。明仁親王は外遊により留年を余儀なくされ学習院附属時代の学友たちよりも一学年遅れてしまうため、宮内庁(Imperial Household Agency)が退学手続きを進め、学習院大学聴講生となる。皇太子の外遊には、同年(1953年)1月に薨去(こうきょ)したばかりの叔父である秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひと しんのう; Prince Chichibu, 1902-53; オクスフオッド大学モードレン学寮遊学)の強い働きかけがあったために実現したという。

1953年4月20日(月) 韓国の「獨島義勇守備隊」が島根県の竹島(国際名称 Liancourt Rocks; 韓国名 獨島; 독도; Dokdo)に不法上陸して駐屯を開始。

1953年4月27日(月) 皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)=後の平成時代の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor,, b.1933; 在位1989-2019)=後の令和時代の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)が、米領ハワイ=後のハワイ州と、カナダ横断鉄道と、米東海岸ニューヨーク港を経由して、イングランド南部のサウサンプトン(Southampton, Hampshire, England)港に到着。現地メディアの前で英語による声明文を読み上げる。第二次世界大戦中に日本軍によって虐待された元捕虜たちが抗議運動を展開。

(動画)当時のニュース映像「明仁親王到着」

https://sites.google.com/site/xapaga/home/akihitopathe1953

http://www.britishpathe.com/video/prince-akihito-arrives

1953年4月30日(木) 英国内の反日感情(anti-Japanese sentiments; Japanophobia)に苦慮するチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)英首相=78歳が、ダウニング街10番地(10 Downing Street)の首相官邸での非公式な昼食会(luncheon)に、満19歳の皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)=後の平成時代の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor,, b.1933; 在位1989-2019)=後の令和時代の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)を招待。同時に招かれたのは、野党労働党(Labour Party)の党首(Head)、労働組合幹部(trades union leaders)ら、新聞社主(newspaper company owners)たちといった反日強硬派の面々だったが、これら反日強硬派も明仁親王も、同じ場に引き合わされることは事前に知らされておらず、チャーチル首相の計略だったという。チャーチルはここでスピーチをし、それは「英国人は激しく意見を戦わせるが、最終的にはどんな違いも乗り越えて合意に達する。英国らしさの根底にあるのが立憲民主制(constitutional democracy)です。」という主旨だったという。この言葉に感銘を受けた明仁親王は翌日(1953年5月1日(金))側近を通じてチャーチル首相への感謝の言葉を伝えたという。

【外部サイト】

ぼやきくっくり時事ネタぼやきと番組書き起こし

両陛下ご訪英と日英友好秘話(チャーチル首相とフォール卿の尽力)

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1194.html

なお、上記の「フォール卿」は、英勲爵士サム・フォール氏(Sir Sam Falle, 1919-2014)の誤記。

1953年6月2日(火) ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)にて女王エリザベス二世(Queen Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)の戴冠式(たいかん しき: Coronation)が挙行され、日本からは当時まだ満19歳半だった皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933)=後の平成時代の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor,, b.1933; 在位1989-2019)=後の令和時代の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 学習院大学中退)が、昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89) の名代(みょうだい)として出席。当時イギリスでは第二次世界大戦で残忍な敵国だった日本国の記憶が根強くあり、対日感情が頗(すこぶ)る悪かったため、 戴冠式に於いて13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられ、女王との対面まで長時間待たされた。女王は明仁親王と握手は交わしたが視線は交わさなかったという。西川恵(にしかわ めぐみ, b.1947)著 『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮社, 2019年)によると、当時敗戦国の日本に対する英国社会のまなざしは厳しく、明仁親王に用意されたのは末席だったが、それを見かねて最前列の自分の席の近くに呼び寄せたのが、後にサウジアラビア王国のファイサル(فيصل بن عبد العزيز آل سعود‎ = Faisal bin Abdulaziz Al Saud, 1906-75; 在位1963-75)国王となるファイサル王子(Prince Faisal)だったという。その十八年後の1971年にファイサル国王は国賓(State Guest)として日本に招かれている。

1953年10月12日(月) 東京都港区新橋の西洋風酒場「メッカ」で証券ブローカーの男性を殺害し、現金を奪って78日(約2ヶ月半)逃亡していた正田昭(しょうだ あきら, 1929-69; 慶應義塾大学卒)=24歳が、潜伏先の京都府京都市内で逮捕される。世に言う「バー・メッカ殺人事件」。国鉄(現在のJRグループの前身)急行「明星」で移送される際に新聞各紙の記者たちが犯人に直接一問一答を挑む。その中で犯人の正田は心境を訊かれ、「ただ申し訳ありません。母や兄たちにも随分迷惑を掛けたり、特に母校慶應の名誉を傷つけたことに対して非常に責任を感じている。卒業生名簿から名前を消してもらいたい。」と回答する。正田は後に裁判で死刑判決が確定し、獄中で死刑囚として書いた小説が文壇で高く評価される。そして逮捕から約十六年と二ヶ月後の1969年12月9日(火)に東京拘置所(在東京都葛飾区)内でひっそりと死刑執行が為されている。(2021年7月25日(日)付のヤフーニュース転載された共同通信元編集委員 小池新(こいけ あたらし, b.1947)署名コラム「「母校慶応の名誉を傷つけたことに責任を感じている」“残忍で鬼畜”といわれた殺人事件…エリート美男子の「あまりに軽すぎる弁明」」に依拠)

1954年(昭和29年)3月16日(火) 木下惠介(きのした けいすけ, 1912-98; 濱松工業學校=現在の浜松工業高等学校卒)監督の映画 『女の園』が封切られる。原作は当時の著名作家・翻訳家で明治大学教授(英文学)でもあった阿部知二(あべ ともじ, 1903-73; 東京帝國大學卒)が文藝誌 『群像』1953年8月号に発表し、翌’54年に大日本雄弁会講談社(現在の講談社)が単行本として刊行した小説 『人工庭園』。京都市郊外にある「正倫女子大学」なる架空の私立女子大が話の舞台だが、実際に在京都市東山区の京都女子大学(1899年に「親鸞聖人(しんらん しやぅにん, 1173-1263)の體(たい)せられた佛敎精神に基づく人間敎育」を建学の精神とする顕道女學院として創立され、1949年に新制大学として認可された私立女子大) で起きた事件を扱った作品だと言われている。しかしどこまでが事実(fact)で、どこからが虚構(fiction)なのかは不明。作中この女子大は、厳格な規律で良妻賢母の育成に邁進(まいしん)し、自由恋愛を抑圧する封建的な全寮制女子大学として描かれる。新入生の出石芳江は東京の大学に学ぶ恋人との文通を禁じられ、滝岡富子はテニス友達の男子大学生との交際が発覚し、冬休み前に停学処分となってしまう。しかし上級生の林野明子だけは学園の有力な後援者(スポンサー)の娘であるため、学校当局から特別に優遇されていた。遂(つい)に女子学生たちの自由を求める声は爆発して騒動となり、学生たちは罰を受けるが、芳江だけは親が後援者(スポンサー)であるわけでもないのに、なぜか軽い処分で済んだ。この罰の不均等は学生たちの団結を崩そうとする学校側の策略だった。芳江は学校側の巧妙な切崩工作の対象となって他の学生たちの反感を買ってしまう。精神的ショックに耐え切れなくなった芳江は、寮を飛び出して一時は東京の恋人の許に身を寄せるが、責任感に悩んで再び京都の学校に戻り、人気(ひとけ)のない夜の教室で自殺する。この事件は校内に激しい波乱を呼び、学校側も学生側もそれぞれの立場で感情を相手にぶちまけ、混乱は一層烈しくなって行くという内容。

(参照外部サイト)

コトバンク

https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E5%BA%AD%E5%9C%92%E3%80%8B-1343374

個人ブログ「第二京都主義」

http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/?tag=人口庭園

オールシネマ

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=136275

キネノート

http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=23953

1954年6月2日(水) 国会で防衛庁(現在の防衛省の前身)設置と自衛隊法が成立。

1954年 朝鮮戦争(1950年6月25日(日)勃発、1953年7月27日(月)停戦合意ながら、公式には現在も交戦状態が続く韓国と北朝鮮の間の戦争)特需で日本経済が戦前の水準まで復旧。

1954年7月1日(木) 同年6月2日(水)に成立した自衛隊法に基づき総理府(現在の内閣府の前身)の外局として防衛庁(現在の防衛省の前身)が発足。背景には朝鮮戦争(Korean War, 1950-53)中に朝鮮半島へ出兵した米軍の留守を預かる日本側が極左過激派勢力の動きを抑える必要があったが、この時点では朝鮮半島で既に停戦合意が成立していた。

1954年11月28日(日) 東京大学(東大)、慶應義塾大学(慶大)、日本大学(日大)の学生計30人が富士登山中に表層雪崩(ひょうそう なだれ; surface avalanche)に巻き込まれ、15人が遭難死。

1954年12月~1957年(昭和32年)6月 日本の景気拡大「神武景気」が31ヶ月(2年7ヶ月)も続く。背景には朝鮮戦争(Korean War, 1950-53)中に朝鮮半島へ出兵した米軍への補給物資の支援や破損した戦車や戦闘機の修理などを日本国内の業者が大々的に請け負ったことで発生した「朝鮮特需」の影響がある。

1955年(昭和30年)1月2日(日)~3日(月) 1920年2月14日(土)から続く(但し、戦時中から終戦直後にかけての一時期は一度のみ変則的に開催)関東大学駅伝競走大会(通称 箱根駅伝)が、この第31回大会から交通事情を考慮して1月2日往路と同月3日復路の開催に変更され、現在に至る。

1955年3月1日(火) 近隣火災の飛火とも不審火とも言われる大火災で昭和女子大学(在東京都世田谷区太子堂)が当時木造だった全校舎(最古の物では十九世紀末の建築)の3分の1を焼失。

1955年3月31日(木) 前年(1954年)に創立されたばかりの商科のみの浦和商業短期大学(うらわ しょうぎょう たんき だいがく: 在埼玉県浦和市領家=現埼玉県さいたま市浦和区領家)が廃校。その時点での在学者数は10名(うち女子1名)。

1955年7月9日(土) ロンドンに於(お)いて、1950年ノーベル文学賞受賞者の英人バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)こと第3代ラッセル伯爵バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell, 1872-1970; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)と、1921年ノーベル物理学賞受賞者でドイツ生まれのユダヤ系帰化米人アインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955; チューリッヒ工科大学卒)博士(チューリッヒ大学)と連名で「ラッセル=アインシュタイン宣言」(Russell-Einstein Manifesto)を発表し、核兵器廃絶と科学技術の平和利用を訴える。アインシュタイン自身は同年(1955年)4月18日(月)に既に死去していたので、アインシュタイン博士の遺言とも見做(みな)された。この宣言に日本からも1949年ノーベル物理学賞受賞者で京都大学基礎物理学研究所初代所長の湯川秀樹(ゆかわ ひでき, 1907-81; 京都帝國大學卒)博士が署名。

1955年11月15日(火) 自由党と民主党が合同(保守合同)して自由民主党(自民党)を結党。僅かな空白を除いてその後半世紀以上に亘(わた)って日本政治を支配(所謂(いわゆる)「55年体制」)。

1956年(昭和31年) 在日北朝鮮人のための高等教育機関である朝鮮大學校(조선대학교 チョソン デハッキョ; 略称 조대 チョデ; ちょうせん だいがっこう; 略称 朝大; 英 Korea University; 英略称 KU)が東京朝鮮中高級学校(在東京都北区)の敷地内に取り敢えず二年制で創立される。なお、韓国の朝鮮大學校(조선대학교 チョソン デハッキョ; 英称 Chosun University; 在大韓民國光州広域市東區)や高麗大學校(고려대학교 コリョ デハッキョ; 英称 Korea University; 在大韓民國ソウル特別市城北區)との関連性は無い。

1956年4月~’57年1月 東京新聞社会部記者(当時)の藤島泰輔(ふじしま たいすけ, 1933-97; 学習院大学卒)が、学習院高等科時代の実体験に基(もとづ)いて皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう, b.1933)=後の平成時代の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019; 学習院大学中退)=更に後の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933; 在位2019-)とその「ご学友」たちを題材にした長篇小説『孤獨の人』(三笠書房, 1956年; 岩波書店 岩波現代文庫, 2012年)で作家デビュー。同作には米人英語教師ヴァイニング(Elizabeth Janet Gray Vining, 1902-99; ドレクセル大学卒)夫人への「御学友」たちの反撥心や、その他の知られざるエピソード(その白眉(はくび)は、「御学友」なる悪友たちが東宮侍従の目を盗んで皇太子を銀座の水商売の店に連れ出した「銀ブラ事件」)が盛り込まれている。旧制學習院中等科(現在の学習院中・高等科の前身)卒業者として先輩筋に当たる作家の三島由紀夫(みしま ゆきお, 1925-70)こと、本名 平岡公威(ひらおか きみたけ, 1925-70; 東京帝國大學法學部卒)が本作単行本に「序」(序文)を寄せ、「週刊朝日」1956年4月15日(日)号にも「うますぎて心配」という短文を寄稿し、学習院に於ける生徒から先生へのいじめを「『暴力教室』学習院版」と評し、本作で描かれたような先生いじめは「昔から」だったとしている。本作は大きな反響を呼び、原作刊行の翌年(1957年)1月15日(火・祝)には西河克己(にしかは かつみ; にしかわ かつみ, 1918-2010; 日本大學藝術學部卒)監督の映画版『孤獨の人』(日活, 1957年)が公開される( https://www.nikkatsu.com/movie/20171.html )。皇太子の周辺を描いた映画ということで、制作時には日活株式会社に右翼団体から脅迫状が届き、西河監督宅にピストル弾が届き、出演者の自宅が右翼団体に囲まれるなどの事件・騒動が起きている。作品の舞台になっている学校法人学習院(在東京都豊島区)は、皇室を利用しての金儲けや実在する皇太子をテーマにすることを批判し、「学習院が一般にゆがめられて印象づけられるおそれがある」として映画制作への協力を断固拒否し、学生・生徒にも関わらないよう指示。学習院大学(在東京都豊島区)在学中の三谷礼二(みたに れいじ, 1934-91; 学習院大学中退または除籍?)が秋津禮二(あきつ れいじ)の偽名(にわか芸名)で脇役生徒「舟山」役を演じたが、出演を取りやめるように同大学から勧告を受けるも従わなかったため、学習院の安倍能成(あべ よししげ; 有職読みで「あべ のうせい」, 1883-1966; 東京帝國大學文科大學卒)院長、京城帝國大學(現在の大韓民國國立ソウル大學校の前身)元教授、旧制第一高等學校(現在の国立大学法人東京大学教養部駒場地区キャンパスの前身)元校長、元文部大臣(現在で言う文部科学大臣に相当)から退学処分(もっと重い「除籍」とする説もあり)を受ける。この退学処分をめぐっては、評論家としても名高い法政大学(本部在東京都千代田区)の本多顕彰(ほんだ あきら; 有職読みで「ほんだ けんしょう」, 1898-1978; 東京帝國大學卒)教授が「重すぎる」、「戦後自由だった学習院が社会の風潮により復古調に戻っている」として批判。当該映画の西河監督は責任を感じて三谷を日活俳優部に就職させる。

1956年5月15日(火) 東京大学(略称 東大; 本部在東京都文京区)の尾高朝雄(おたか ともお, 1899-1956; 東京帝國大學法學部卒、京都帝國大學文學部卒、同大學大学院退学)教授・法学部長が、歯の治療中にペニシリン注射(penicillin injection)でアナフィラキシー・ショック(anaphylactic shock)を起こし、東京都立駒込病院(在東京都文京区)に入院後に死亡。尾高教授の突然死は「ペニシリン・ショック」としてマスコミが大きく報道したため、日本の薬害問題の嚆矢(こうし)として有名になる。この報道を契機として、ペニシリンによるショック死が既に100名にも及んでいたことが明るみに出て社会問題となる。

1956年5月24日(木) 売春防止法(略称 売防法)が公布される。これまで黙認されてきた売春行為を禁止する法律であるが、戦後日本の悲願だった国連加盟のためには売春を禁止する必要があったからである。国連は七年前の1949年に「人身売買及び売春行為の搾取禁止のための条約」を決議していた。売春が禁止されれば売春婦たちは生きる術(すべ)を失うことになるにも拘(かか)わらず政府は生活保障や仕事の斡旋はしてくれないため、東京都区内では「東京都女子従業員組合連合会」が結成され、売春婦たちは売防法に反対するビラ撒(ま)きを行なって政府に抗議した。

1956年12月18日(火) 日本国が国際連合(UN: United Nations; 本部在米国ニューヨーク州ニューヨーク市; 但し、公用語の一つである中文では聯合國)に加盟。1935年3月27日(水)に國際聯盟(こくさい れんめい: League of Nations; 在スイス連邦ジュネーヴ市)を正式脱退していた日本は二十一年余りの時を経て国際社会に復帰。

1957年(昭和32年)3月13日(水) 七年近く前の1950年4月に亡き英国作家 D.H.ロレンス(D. H. Lawrence; David Herbert Richards Lawrence, 1885-1930; ロンドン大学分校時代のノッティンガム大学の前身で教員資格取得)の長篇小説 Lady Chatterley’s Lover (1928) = 直訳『チャッタリ卿夫人の情夫』)を無修正版『チャタレイ夫人の恋人』(小山書店, 1950年)として日本語に訳した作家伊藤整(いとう せい; 本名読み「いとう ひとし」, 1905-69; 小樽高等商業學校=現在の小樽商科大学卒、東京商科大學=現在の一橋大学中退)と、版元の小山書店社長小山久二郎(おやま ひさじろう, 1905-84; 法政大學中退)に対して刑法第175条の猥褻(わいせつ)物頒布罪が問われた所謂(いわゆる)「チャタレー事件」で、最高裁判所(最高裁)大法廷判決は、「猥褻(わいせつ)の三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却。被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する四年四ヶ月前の1952年12月10日(水)の東京高等裁判所(東京高裁)の有罪判決が確定。「猥褻(わいせつ)の三要素」とは、「1. 徒(いたず)らに性欲を興奮又は刺戟(しげき)せしめ、2. 通常人の正常な性的羞恥心を害し 3. 善良な性的道義観念に反するものをいう」としている。日本國憲法「第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。[改行] 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」= 英文 Article 21. Freedom of assembly and association as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed. [改行] No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated. で保障する表現の自由に反しないかが論点となったが、結局は刑法第175条「わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。」(平成23年=2011年改正前の条文)が優先された。

1957年4月1日(月) 一年近く前の1956年5月24日(木)に公布された売春防止法(略称 売防法)が部分施行される。刑事処分については一年間の猶予期間が設けられた。この間に日本全国約3万7000軒(当時の人口10万人当たり約41軒に相当)あった旧遊廓(ゆうかく)=終戦直後に赤線(英語の red light district =「紅燈街」を参照した名称)に改名=内の娼家(brothels)は違法(illegal)になったため消滅させられる。

1957年4月 上智大学が女子学生の入学を許可し、男女共学へ。

1958年(昭和33年)4月1日(火) 二年近く前の1956年に公布された売春防止法(略称 売防法)が完全施行される。一年間の猶予期間が設けられていた刑事処分がこれ以降は実施されるようになる。日本全国約3万7000軒(当時の人口10万人当たり約41軒に相当)あった旧遊廓(ゆうかく)=終戦直後に赤線(英語の red light district =「紅燈街」を参照した名称)に改名=内の娼家(brothels)は違法(illegal)になったため消滅し、旅館や連れ込み宿(後にラブホテル)や一般民家などに転用。人口10万人当たり約41軒とは2019年時点での「日本のコンビニ密度44軒」(人口10万人当たりコンビニ約44軒)にも匹敵する数である。敗戦直後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)によって公娼制度が完全廃止されていたが(戦前にも29県で既に廃止または廃止決議済)、赤線として再編された遊廓=娼街は、戦前の2.5倍にも増加し、敗戦の混乱による生活苦から娼婦は2倍に増加していたのだった。(2020年7月3日(金)掲載のデイリー新潮のオンライン記事と、同記事中の(株)カストリ出版代表でカストリ書房経営者の渡辺豪(わたなべ ごう, b.1977)氏談話に依拠)

1958年 二年前の1956年に二年制で創立されていた朝鮮大學校(在東京都北区)が四年制になる。

1958年7月~1961年(昭和36年)12月 日本の景気拡大「岩戸景気」が42ヶ月間(3年半)も続く。

1958年11月27日(木)、皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう, b.1933; 学習院大学中退)=後の平成天皇(へいせい てんのう; Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019)=更に後の上皇明仁(Emperor Emeritus Akihito, b.1933)の結婚相手が皇室会議に於いて満場一致で可決される。相手に決まったのは日清製粉グループ本社社長令嬢で正田美智子(しょうだ みちこ, b.1934; 聖心女子大学卒)嬢=後の皇后美智子(こうごう みちこ; Empress Michiko, b.1934)=更に後の上皇后美智子(じょうこうごう みちこ; Empress Emerita Michiko, b.1934)であった。同日記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われた美智子嬢は、「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました。」と回答。婚約発表の奉祝ムードの中でミッチー・ブームが起こる。

1959年 三年前の1956年に東京都北区に創立されていた朝鮮大學校が東京都小平市小川町一丁目の広大な敷地へ移転。敷地は武蔵野美術大学と隣接し、近所には白梅学園大学、創価中学校・高等学校が在る。なお、朝鮮大學校の新校舎は1962年度日本建築年鑑賞を受賞することになる。

1959年(昭和34年)1月14日(水) 皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう, b.1933; 学習院大学中退)=後の平成天皇(へいせい てんのう; Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019)=更に後の上皇明仁(Emperor Emeritus Akihito, b.1933)と正田美智子(しょうだ みちこ, b.1934; 聖心女子大学卒)嬢=後の皇后美智子(こうごう みちこ; Empress Michiko, b.1934)=更に後の上皇后美智子(じょうこうごう みちこ; Empress Emerita Michiko, b.1934)の「納采の儀」(一般の神前結婚式に相当)が執り行なわれる。

1959年3月10日(火) 7:40頃、大宮八幡宮(在東京都杉並区)近くの一級河川、善福寺川の宮下橋から下流へ約50メートルの地点で、英国海外航空(British Overseas Airways Corporation: 現在の BA こと、英国航空 British Airways の前身)日本人スチュワーデス(a stewardess: 現在の言葉で a female [cabin] crew member; a female flight attendant; a female cabin attendant 「女性客室乗務員」)の武川知子(たけかわ ともこ, 1931?-59; 聖母女子短期大学卒)嬢=27歳の遺体が浮いているのが発見される。事件当時東京都世田谷区松原町在住の被害者、武川嬢は兵庫県芦屋市出身で、BOACに採用された最初の日本人スチュワーデス8人(9人説もあり)のうちの一人だった。ロンドン本社での研修を終えて十一日前の同年(1959年)2月27日(金)に帰国したばかりで、三日後の同年(1959年)3月13日(金)に「英領香港啓徳~東京羽田」間の国際線に勤務する直前での惨劇だった。遺体が発見される二日前の同年(1959年)3月8日(日)、武川嬢は杉並ドン・ボスコ修道院(Don Bosco Home Suginami: 現在のカトリック下井草教会 Shimoigusa Catholic Church)で日曜ミサに参列した後、近在に住む伯父(または叔父)宅に立ち寄り、牛込(駒込とする説もあり)の「誕生祝いの会に出席する」と言って出て行ったのが15:00頃のことだが、その後の消息は不明で、「誕生祝いの会」の事実も確認されず。当初は自殺と認定されるも、翌日(1959年3月11日(水))慶應義塾大学病院(在東京都新宿区)で司法解剖の結果、他殺(homicidal)、おそらくは扼殺(やくさつ: strangled)の疑いが濃厚として警視庁が捜査を開始。遺体の膣内と下着からは2人の男の精液(英 semen; 独 Samen)も検出されている。被害者の遺留品から、カトリック教会サレジオ会(Salesian Order, or the Society of St. Francis de Sales)の杉並ドン・ボスコ修道院の会計主任でベルギー出身のルイ・シャルル・フェルメールシュ(Louis Charles Vermeersch, 1920-2017; 当時の報道ではベルメルシュ・ルイズで、英語読みだとルイ・チャールズ・ヴァミーアシュ)神父=38歳が捜査線上に浮かぶも、警視庁は国際問題に発展することを恐れ、消極的な捜査をする。それでも警視庁は同年(1959年)5月5日(火・祝)から神父の任意同行を要請するも、本人も教会もこれを拒否。日本の世論から批判の声が上がったため、同神父は同年(1959年)5月12日(火)から13日(水)のまでの二日間と20日(水)から21日(木)までの二日間の計30時間に及ぶ尋問に応じてヴァティカン(バチカン)市国大使館一等書記官と弁護士の立会いのもとで出頭し、警視庁の名物刑事平塚八兵衛(ひらつか はちべい, 1913-79; 旧制私立常総學院中学校卒)警部補(後に警視)の尋問を受ける。ところが「過労による胃病と神経衰弱」を理由に同年(1959年)5月22日(金)にカトリック系の社会福祉法人聖母会が運営する聖母病院(在東京都新宿区)に入院してしまう。尋問の過程で同神父は武川嬢を原宿(東京都渋谷区)のホテルに「相談のために」連れ出したことは認めるも男女の関係は否定。菊富士ホテルなる連れ込み宿であることが判明し、警察でも確認が取れる。そして重要参考人の神父は「ローマに転属になった」という理由で、同年(1959年)6月11日(木) 19:30発のエールフランス(Air France)機で東京国際空港(羽田空港)から日本を出国する。フェルメールシュ神父はベルギーに帰国し、事件は未解決となる。警視庁は、「全然連絡を受けなかった。ベルメルシュさん(フェルメールシュ神父)の帰国は誠に遺憾である。しかし参考人であるが、逮捕状が出ているわけではないので、これを止める方法が無かった。」とコメントするも、実は警視庁の上層部は出国を黙認していたと『週刊現代』1974年5月16日(木)号の記事は伝える。ヴァティカン(バチカン)の外交的圧力があったと推定される。同神父の出国は一週間後の同年(1959年)6月18日(木)の衆議院法務委員会( https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103105206X02419590618&current=1 )でも冒頭(委員会の大部分)の議題になる。渦中のフェルメールシュ神父は、1920年7月17日(土)にベルギー王国オランダ語圏の西フランダース州アウデンブルフ(「古城」の意)市郊外のヴェストケルケ(「西教会堂」の意)集落(Westkerke, Oudenburg, West-Vlaanderen, België)に生まれ、事件の十一年前の1948年5月8日(土)に来日し、1953年5月14日(木)に東京で司祭(カトリック神父)の資格を得ていた。東京での事件の翌年(1960年)、サレジオ会は同神父をカナダのフランス語圏最大都市モントリオール(Montreal, Quebec, Canada)に異動させる。そのすぐ後に同神父はカナダのニューブランズウィック州(New Brunswick, Canada)に在ったドン・ボスコ神学校(Don Bosco College)=現在のサセックス郡地域短大(Sussex County Community College)の一部=で教鞭を取り、1990年には特にフランス語話者への長年の奉仕活動が評価され、ニューブランズウィック大学(UNB: University of New Brunswick)から名誉博士号を授与され、その直後に満70歳にして引退した。サレジオ会とドンボスコ修道院は戦後の闇の経済事件に大きく関わっていたと言われる。傘下の社会事業団を利用してララ(LARA, or the Licensed Agencies for Relief in Asia:「アジア救援公認団体」の意)物資やサレジオ会からの救援物資を横流ししたという八年前の1951年の闇砂糖事件や、日本に運んできた米ドルを公定為替レート「1ドル=360円」を無視して400円で換金し、巨額の利益を得たという七年前の1952年の闇ドル事件に関与していた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)のベルギー人将校との繋がりや、GHQの高級将校への医薬品・酒・たばこの密輸も手掛けていたと言われる。BOACの香港回りの極東航路がカトリック教会日本布教団の資金輸送ルートになっており、ララ物資や闇ドルもこのルートで持ち込まれていたと考えられる。被害者の武川嬢は、BOACのスチュワーデスになる直前にカトリック系の聖オディリアホーム乳児院(英称 St. Odilia Nursery; 在東京都中野区)で住み込み看護婦(現在の言葉で女性看護師)として働いていた。松本清張(まつもと せいちょう; 本名の読み「まつもと きよはる」, 1909-92; 板櫃尋常高等小學校=現在の北九州市立清水小学校卒)は自身の長篇小説『黒い福音』(中央公論社, 1961; 新潮社 新潮文庫, 1970)の中で、武川嬢はフェルメールシュ神父から密輸の話を持ち掛けられたのを拒否し、口封じのために殺害されたのだと推理している。というのも、現にこの事件の半年後の同年(1959年)10月にはBOAC香港人スチュワーデス、王メアリー(Mary Wang, 生年不詳)による密輸事件が発覚し、殺人事件から一年後の1960年3月にはBOAC社のスチュワーデスやパイロットが麻薬や宝石・金の密輸で計127人が解雇されている。十五年後の1974年3月10日(日) 0:00に一人の逮捕者も出さぬまま公訴時効(statute of limitation)が成立し、未解決事件となる。世に言う「BOACスチュワーデス殺人事件(The BOAC Stewardess Murder)」「ベルメルシュ事件」。渦中のフェルメールシュ(ベルメルシュ)神父は事件から五十八年後の2017年3月17日(金)に移住先のカナダのニューブランズウィック州セントジョン(Saint John, New Brunswick, Canada)市内の自宅にて満96歳で大往生した。(大橋義輝(おおはし よしてる, 生年非公開)著 『消えた神父を追え!』 (共栄書房, 2014年)と、dorosuki氏の個人サイト「未解決事件」内の「ベルメルシュ事件・杉並スチュワーデス怪死」の項目と、個人サイト「無限回廊」内の「スチュワーデス怪死事件」の項目と、2017年3月24日(金)付のカナダのカトリック教会ニュースレター The New Freeman Vol.117, No.12 http://newfreeman.ca/wp-content/uploads/2018/10/March-24.pdf の p.9 of 12 pages と、2020年5月23日(土)付の英字紙 Tokyo Reporter のオンライン記事に依拠)

1959年4月10日(金) 「納采の儀」(一般の神前結婚式に相当)から約三ヶ月後のこの日、皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう, b.1933; 学習院大学中退)=後の平成天皇(へいせい てんのう; Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019)=更に後の上皇明仁(Emperor Emeritus Akihito, b.1933)と正田美智子(しょうだ みちこ, b.1934; 聖心女子大学卒)嬢=後の皇后美智子(こうごう みちこ; Empress Michiko, b.1934)=更に後の上皇后美智子(じょうこうごう みちこ; Empress Emerita Michiko, b.1934)の「結婚の儀」(一般の披露宴に相当)が執り行なわれる。この奉祝行事のお蔭で白黒テレビ受像機が一般家庭にも普及するようになる(なお、カラーテレビ受像機の普及は五年半後の1964年10月に開催された東京オリンピックを契機とする)。欧風馬車による絢爛豪華なパレードの中、一青年が皇太子夫妻に投石する事件が起きるも石は命中せず、犯人は皇太子夫妻の乗る馬車に飛び上がろうとするも厳重警戒中の警視庁に現行犯逮捕される。この投石事件は国を挙げての祝賀ムードに水を差すものとして、同志社大学(在京都府京都市上京区)に落ちた浪人生という身分の犯人、中山建設(なかやま けんせつ, b.1939?)=19歳とその家族は、長野県の田舎で村八分とも言える扱いを受け、世間から隠れるようにして暮らようになる。「建設」の名は支那事變(日中戦争, 1937-45)初期の頃に流布(るふ)された標語(slogan)「大東亞建設」に由来する。

(外部サイト)日本ニュースの報道

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831056_00000&seg_number=001

(外部サイト)イギリスの報道

Japanese Royal Wedding (1959)

https://www.youtube.com/watch?v=JPIBGRwRDx0

1959年11月27日(金) 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(通称 日米安保条約; 英称 Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan)に反対するデモ隊が国会議事堂(在東京都知矢田区永田町)の構内に乱入し、警官隊とデモ隊の双方に約三百人の負傷者を出すも死者は皆無。

1960年代(昭和30年代後半~同40年代前半) ベトナム戦争(1955-75 or 1960-75年)特需や東京オリンピック(1964年)特需や大阪万博(1970年)特需で日本経済が高度成長。戦前の身分制度の崩壊と急激な経済成長に伴い大学受験競争(受験戦争)が激化。学歴社会に。

1960年(昭和35年)6月1日(水) 日本国有鉄道(国鉄: 現在のJRグループの前身)が1872年10月14日(月)=和曆明治5年9月12日以来続いてきた従来の3等級制(1872年から’97年11月迄は上等、中等、下等の3等級、1897年11月から1960年迄は一等、二等、三等の3等級)をやめる。一等は廃止し、従前の二等を「一等」とし、従前の三等を「二等」と詐称(さしょう)的に改称。九年後の1969年5月10日(土)には一等(かつての二等)を「グリーン車」とし、二等(かつての三等)を「普通車」と呼び換える。

1960年6月15日(水) 日米安全保障条約(日米安保)反対闘争のための国会へのデモで、全日本学生自治会総連合(全学連)主流派が国会に突入した際、東京大学の当時二十二歳の女子学生 樺美智子(かんば みちこ, 1937-60)が警官隊と衝突して転倒・圧死。安保闘争のデモで唯一の死者。

1960年7月19日(火) 自由民主党(自民党)の第一次池田勇人(いけだ はやと, 1899-65; 首相在任1960-64; 京都帝國大學卒)内閣が組閣。日本史上初の女性大臣として中山マサ(なかやま まさ, 1891-1976; 米オハイオ・ウェスリアン大学卒)が厚生大臣として入閣。中山女史の大臣在任期間は僅か五ヶ月と短かったが、母子家庭への児童扶助手当支給を実現した。なお、中山女史の父親はパワーズ(Rodney H. Powers, 生歿年不詳)という長崎在住の英国人(一部の資料では米国人)商人だった。

(参考)長崎おもてなしの心と人

http://www.nagasaki-cci.or.jp/nagasaki/josei/ijinden_nakayamamasa.html

1960年12月8日(木) 自由民主党(自民党)の第二次池田勇人(いけだ はやと, 1899-65; 首相在任1960-64; 京都帝國大學卒)内閣が組閣。日本史上初の女性大臣として注目を集めた中山マサ(なかやま まさ, 1891-1976; 米オハイオ・ウェスリアン大学卒)は大臣職を解かれ、男性議員である古井喜実(ふるい よしみ, 1903-95; 東京帝國大學卒)が派閥の論理で入閣。

1961年(昭和36年) 十三年前の1948年にイギリスで始まった国民健康保険(NHS: National Health Service)を参考に、日本でも国民皆保険制度が開始。

1962年(昭和37年)2月12日(月)~1974年(昭和49年)7月19日(金) 昭和女子大事件。昭和女子大学(在東京都世田谷区)文家政学部の学生2名が同大学への事前の届け出なしに左翼的な政治団体である日本民主青年同盟(略称 民青)に加入・所属し、届け出なしに学内で政治的暴力行為防止法案反対のための署名活動を行なったことが発覚し、大学当局の補導を受けたが、その際に補導主任から受けた取り調べ状況を記した日記をマスコミを通じて公表したり、「荒れる女の園」と題する民放の報道番組に出演して、その取り調べ状況を公表したことが同大学当局の逆鱗(げきりん)に触れ、学則に定められた「学生の本分に反した者」に該当する案件として退学処分を受けた。これに対し元学生2名は、本件退学処分が日本國憲法の「第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」(英文 Article 19. Freedom of thought and conscience shall not be violated.)と「第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(英文 Article 21. Freedom of assembly and association as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed.)に違反し、懲戒権の濫用として無効であると主張して争ったという事案である。事件発生から一年十ヶ月後の1963年11月30日(土)に第1審の東京地裁民事3部・昭和38年11月30日判決(白石健三裁判長)が下る。私学であっても教育基本法、学校教育法、私立学校法の適用を受ける「公的教育機関」であるから、思想問題では憲法原則(特に第十九条と第二十一条)が公序として尊重されるべきであり、学校は「寛容であること」が法的義務として要求され、この寛容の基準に反した本件退学処分は無効と判断された。これに対して更に約三年五ヶ月後の1967年4月20日(木)に控訴審(第2審)の東京高等裁判所(東京高裁)民事9部・昭和42年4月20日判決(毛利野富治郎裁判長)の判決が下る。私立大学の場合、学生の本分に反するか否かの判断について大学当局に広範な自由裁量権があり、教育機関に相応しい手続・方法によって学生に反省を促す過程を経由すべき法的義務はなく、本件退学処分についても社会観念上著しく不当とまでは言えないことから、懲戒権の濫用とは解されないとした。更に七年三ヶ月後の1974年7月19日(金)には最高裁判所第三小法廷で最終判決が下るが、これについては下記当該の年月日へ。(北口雅章法律事務所「弁護士のブログ」 https://www.kitaguchilaw.jp/blog/?p=6352 に依拠)

1962年3月23日(金) 昭和女子大事件を受け、第四十回国会で衆議院法務・文教委員会連合審査会が、昭和女子大学の責任者である当時の文家政学部長 坂本由五郎(さかもと よしごろう, 1895-1984; 早稲田大學卒)、当時の学長(第2代学長)玉井幸助(たまい こうすけ, 1882-1962; 東京髙等師範學校=現在の国立大学法人筑波大学卒)、当時の大学幹事(後の第2代理事長・第5代学長)人見楠郎(ひとみ くすお, 1916-2000; 東京帝國大學=現在の国立大学法人東京大学卒)の計3名を参考人招致

(参考)当時の国会速記録

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/040/0504/04003230504001a.html

1962年4月25日(水) 十六年前の1946年3月31日(日)付で廃学・解散していた神宮皇學館大学の再興された形である私立新制大学としての皇學館大学が完成し、開学式が挙行される。

1963年(昭和38年)11月19日(火) 女性週刊誌 『女性自身』昭和三十八年=1963年11月25日(月)号が、BG (business girl を略した和製英語)に代わる語として OL (office lady を略した和製英語)を発表し、およそ十年後には日本語として完全に定着。ビジネス・ガール(business girl)は「商売女=売春婦」を意味してしまうことから、東京オリンピックを翌年に控え、訪日外国人にあらぬ誤解を与えぬよう一般公募され、見事採用された用語(但し、和製英語)が OL であったが、公募の得票数では7位であり、実際の1位は OG (office girl)だったという。しかし OG は一般に old girl (女子卒業生)に解釈されるため、採用されずに済んで良かったと言える。

1964年(昭和39年)4月 旧制獨逸學協會學校中學校卒業生で元文部大臣の天野貞祐(あまの ていゆう, 1884-1980; 京都帝國大學卒)が獨協学園の高等教育部門として獨協大学を創立。

1964年3月24日(火) 駐日アメリカ大使のライシャワー(Edwin O. Reischauer, 1910-90)が襲撃され太腿(ふともも)をナイフで刺される。病院に運ばれ一命を取りとめたが、輸血された血液が肝炎ウイルス(hepatitis virus)に汚染された所謂(いわゆる)「黄色い血液」(貧民の売血によって集められた血液)だったため、ライシャワーは血清肝炎(serum hepatitis)で長らく苦しむことになる。当時は日本の輸血用血液の9割(90%)は売血によって集められたものであり、その2割(20%)はウイルスに汚染されていた。

1964年10月1日(木) 九日後の東京オリンピックに間に合わせる形で東京~新大阪間に東海道新幹線が開通。英語では「弾丸列車」を意味する Bullet Train (レットゥれイン)と紹介されるも、後には The Shinkansen Super Express の英称に変更される。

1964年10月10日(土)~24日(土) 幻(まぼろし)に終わった「1940年東京オリンピック」から二十四年後にして、悲願だったアジア初のオリンピック大会が、昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の開会宣言で以(もっ)て国立霞ヶ丘陸上競技場(在東京都新宿区)、通称 国立競技場で開幕する。参加国・地域数は93。日本ではこれを機にカラーテレビ受像機が一般家庭に一気に普及する。開会式が行なわれた10月10日は二年後の1966年から「体育の日」(英称 Health and Sports Day)という祝日になり、西暦2000年からは移動祝日として10月の第二日曜日に替えられたため、奇(く)しくもアメリカ合衆国の「コロンブスの日」(Columbus Day)と同じになったが、こちらは元来10月12日であったものが1970年に現行の10月の第二日曜日に替えられたのであった。

1964年11月8日(日)~12日(木) 後に第二回パラリンピック夏季競技大会(II Paralympic Games)と呼ばれることになる第13回国際ストーク・マンドヴィル大会(The Thirteenth International Stoke Mandeville Games for the Paralysed)が東京で開催される。

1965年(昭和40年)1月 慶應義塾大学(慶大)の大学評議会が学費値上げ案を発表すると、抗議集会に約3,000人の学生が集まり、値上げ決定の一週間後には学生集会に約 8,000人の学生が授業をボイコットして参加し、その後も一万人を超える全学集会が開かれる。バリケードで占拠された校舎は自主管理状態となり、学生たちは夜を徹して討論し合ったという。

1965年10月 朝永振一郎(ともなが しんいちらう; ともなが しんいちろう, 1906-79; 京都帝國大學卒)東京教育大学(現在の国立大学法人筑波大学の前身)元学長・理学博士(東京帝國大學)がノーベル物理学賞(瑞 Nobelpriset i fysik; 英 Nobel Prize in Physics)を受賞することが決定。日本人としては二人目のノーベル賞受賞者。ところが朝永自身は後に骨折してしまい、同年(1965年)12月の授賞式に参列できず、在京スウェーデン大使館(在東京都港区)にて同国大使から同年(1965年)12月10日(金)に同賞を受ける。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831093_00000&seg_number=001

1965年(昭和40年)11月~1970年(昭和45年)7月 日本の景気拡大「いざなぎ景気」が57ヶ月(4年9ヶ月)間も続く。

1966年(昭和41年)3月5日(土) 14:15頃 英国海外航空(BOAC: British Overseas Airways Corporation)、現在の英国航空(BA: British Airways)の世界周遊便であるボーイング707型機を使った911便(BOAC Flight 911)が、東京国際空港(羽田空港)を発って英領香港に向かうも、富士山(Mount Fuji)附近の上空約4,500メートルで乱気流(air turbulance)に巻き込まれて空中分解。乗客113人+乗員11人=計124人全員が死亡。世界の航空史(world aviation history)に残る大惨事となる。なお、前日(1966年3月4日(金))にはカナダ太平洋航空402便(Canadian Pacific Air Lines Flight 402)着陸失敗事故により東京国際空港(羽田空港)で64人の死者が出ていて(生存者は8人のみ)、その更に一ヶ月前の同年(1966年)2月4日(金)には全日空60便(All Nippon Airways Flight 60)羽田沖墜落事故で乗客126人+乗員7人=計133人全員が死亡している。

1966年 早稲田大学(早大)でも前年(1965年)末に経営陣が学費値上げを決定したことを受けて、大濱信泉(おおはま のぶもと, 1891-1976)総長の独裁的経営と、一向に改善されない量産(マスプロ: mass production)教育に対して鬱積(うっせき)していた学生たちの不満が爆発し、全学での長期ストライキ(スト)に突入。学生たちは大規模な人数で 泊まり込み、キャンプファイヤーなどして連帯感を高揚させたという。理事会は総長を含めて全員が辞任。

1966年 大学闘争・大学紛争が早慶の他、横浜国立大学(横国大)や中央大学(中大)や明治大学(明大)などにも飛び火。

1966年6月29日(水)~7月3日(日) イギリスの人気バンド、ザ・ビートルズ(The Beatles)が最初で最後の来日公演のために東京国際空港(羽田空港)に到着。6月30日(木)、7月1日(金)、同2日(土)に日本武道館(在東京都千代田区)にて三日連続の公演を行ない、7月3日(日)に東京国際空港から香港経由でフィリピンに向けて離日。当時多くの中学校や高等学校ではビートルズは「不良の聴く音楽」とされ、武道館に行かないよう教員たちが生徒を指導していたが、学校に隠れてこっそり聞きに行った生徒もいたし、発覚すれば停学等の処分が加えられた。武道の聖地とされた日本武道館を外国の大衆音楽バンドの公演に貸すことについて、国内では議論が沸き起こり、右翼団体を中心とする脅迫事件もあったため、警視庁は「ザ・ビートルズ総合対策本部」を設置して最大の警戒態勢で臨んだが、大事には至らず、ビートルズは四泊五日の滞日を終えて去っていった。

1967年(昭和42年) 東京都が学校群制度を導入。「詰め込み教育」批判への対応から、都立各校の学力格差を無くし均質化を実現。これにより都立名 門高校が凋落(ちょうらく)し、都立高校全体の難関大学進学実績は長期低落。他の府県もこれに追従。結局は私立高校の台頭を招き、金持ちばかりが良い教育を受けられる格差社会が進行。

1968年(昭和43年)3月27日(水) 東大安田講堂一時占拠事件。青年医師連合(青医連)が同年1月から続く東京大学(東大)執行部への叛乱(はんらん)の中で、東京大学本部が置かれていた安田講堂を一時占拠。翌日(3月28日(木))に予定されていた卒業式は中止となる。

1968年 大学職員から叩(たた)き上げでトップに上り詰め「日大帝王」と呼ばれた古田重二良(ふるた じゅうじろう, 1901-70; 日本大学卒)第4代理事長率いる日本大学(日大)が昼間11学部、夜間5学部、通信教育4学部の計20学部体制で拡大路線をひた走り、とうとう早慶を追い越し、約300億円の予算を計上。入学金と学費と寄附金の獲得に躍起になり、営利目的で定員の数倍の学生を入学させ、人件費や施設費を極力安く抑え、新たに土地を取得して事業拡大に邁進(まいしん)。教育そっちのけの徹底した利潤追求の体制に対して、学生たちが叛乱(はんらん)を開始。

1968年 十二年前の1956年に創立されていた朝鮮大學校が、東京都によって各種学校として認可され補助金を貰うようになる。前年(1967年)に就任したばかりの美濃部亮吉(みのべ りょうきち, 1904-84; 都知事在任1967-79; 東京帝國大學卒)東京都知事・東京教育大学(現在の筑波大学)元教授と、安江良介(やすえ りょうすけ, 1935-98; 金沢大学卒)特別秘書・後の株式会社岩波書店社長の二人が結託した結果である。これに続いて日本全国の朝鮮学校が補助金を受け取る契機となる。なお、美濃部都知事の父親は1935年に「天皇機關說」で突如渦中の人となった美濃部達吉(みのべ たつきち, 1873-1948; 東京帝國大學卒)貴族院議員・東京帝國大學名譽敎授・帝國學士院會員である。美濃部都知事は三年後の1971年には「都市外交の一環」と称して現職知事としては唯一の北朝鮮訪問を強行し、同地の独裁者金日成(김일성 キム・イルソン; きん にっせい; Kim Il-sung, 1912-94; 初代最高指導者在任1948-94; 初代首相在任1948-72; 初代国家主席在任1972-94)と会談した。また、安江特別秘書は生涯5度に亘って北朝鮮を訪問した

1968年5月27日(月) 日本大学(日大)で20億円を越える経理不正問題が発覚。当時同大学4年生だった秋田明大(あきた あけひろ; 通称 あきた めいだい, b.1947)議長率いる全学共闘会議が教職員組合や父兄会をも巻き込んで運動を開始。日大では18才人口の急増と大学進学率向上の潮流に乗り、1955 年には約3万人だった学生数を1968年には三倍弱の8万5000人まで急増させ、日本一のマンモス大学になっていた。その一方で、学習環境や福利厚生や 教職員数は急速な規模拡大に追いついておらず、教育条件の劣悪さに学生の不満が高まっていた。授業料は毎年のように値上げされ(十年で九倍)、講義は 500人から2000人程度の学生を収容した大教室で教員がマイクロフォン(マイク)で話す量産(マスプロ: mass production)教育が中心だった。こうした日大の金儲け主義・利益第一主義に対して学生たちが反旗を翻(ひるがえ)したのだった。

1968年6月2日(日) 九州大学電算センターファントム墜落事故。福岡県福岡市の米空軍板付基地(United States Air Force Itazuke Air Base: 現j福岡空港 FUK)で夜間離着陸訓練中だった米空軍のF-4ファントム戦闘爆撃機が、九州大学に建設中の大型電算機センターに墜落。

1968年6月15日(土) 東京大学(東大)本部が置かれていた安田講堂をこの日の早朝に全学共闘会議(全共闘)が不法占拠する。これは、医学部卒業生の無給医局員問題や医学系大学院生や若手研究者の研究室体制に不満を募らせていた青年医師連合(青医連)の学生多数に対して医学部教授会が退学等の厳しい処分を下したことに端を発する。

1968年6月17日(月) 東京大学(東大)の大河内一男(おおこうち かずお, 1905-84; 東京帝國大學卒)総長は学生への説得工作や調停などを一切拒否して警視庁機動隊を安田講堂に送り込む。このことが更(さら)に学生たちの怒りに火をつけ、約3,000人の学生が安田講堂前に集結する。

1968年6月20日(木) 東京大学(東大)で約7,000人の学生が安田講堂前に集結する。

1968年7月2日(火) 同年6月15日(土)の機動隊による抗議学生排除が更(さら)なる反撥を生み、安田講堂はバリケード封鎖される。

1968年7月5日(金) 東大闘争全学共闘会議(全共闘)が結成される。

1968年8月8日(木) 和田心臓移植事件。北海道立札幌医科大学(在北海道札幌市中央区; 現北海道公立大学法人札幌医科大学)で日本初(世界30例目)の心臓移植が和田寿郎(わだ じゅろう, 1922-2011; 北海道帝國大學=現北海道大学卒)医師(後に札幌医科大学名誉教授)によって実現。ドナー(donor: 臓器提供者)は21歳で溺死した男子大学生。レシピエント(recipient: 臓器受取人)は18歳の男子高校生。手術には約三時間半かけて明け方に終了した。レシピエントは手術後八十三日目の10月29日(火)、食後に痰を詰まらせ呼吸不全で死亡した。レシピエントの死後、胸部外科医師団が溺水患者に対して不適切な処置をしていた疑いが持たれる。レシピエントの死後、元の心臓が3ヶ月以上にも亘(わた)って行方不明になり、病理解剖学者の手元に渡ったときには、何者かが心臓中央部から切断しており、4つの弁もばらばらに摘出されていて、他人の心臓である疑惑も生じる。同年12月には和田心臓移植ティームは大阪の漢方医らによって刑事告発される。1970年夏に捜査が終了し、告発された殺人罪、業務上過失致死罪、死体損壊罪の全てで嫌疑不十分で不起訴となる。その後、日本では三十一年後の1999年2月28日(日)に大阪大学ティームによる心臓移植が実現するまで心臓移植が事実上封印されたが、これは和田心臓移植が却(かえ)って日本の心臓移植の発展を遅らせたことを意味する。

1968年10月17日(木) 川端康成(かわばた やすなり, 1899-1972; 東京帝國大學卒)にノーベル文学賞(典 Nobelpriset i litteratur; 英 Nobel Prize in Literature)を授与すると瑞典アカデミー(典 Svenska Akademien; 英 Swedish Academy)が発表。授賞式は同年(2020年)12月。川端は日本人初のノーベル文学賞と成る。ノーベル賞(典 Nobelpriset; 英 Nobel Prize)受賞者としては湯川秀樹(ゆかは ひでき; ゆかわ ひでき, 1907-81; 京都帝國大學卒)東京大学教授(後に京都大学・大阪大学名誉教授)・理学博士(京都帝國大學)と朝永振一郎(ともなが しんいちろう, 1906-79; 京都帝國大學卒)東京教育大学(現在の国立大学法人筑波大学の前身)元学長・理学博士(東京帝國大學)に次ぐ三人目の日本人。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831106_00000&seg_number=001

1968年10月21日(月) 「国際反戦デー」と称する日本だけの似非(えせ)国際イベントで、76万人がストライキ(スト)に参加。集会に456万人。全国46都道府県(当時沖縄県だけは米軍統治下だったため)560ヶ所で集会とデモ。反日本共産党系学生ら、国会と防衛庁(現防衛省)に侵入、国鉄(現JR東日本)新宿駅構内を占拠して放火。逮捕者745人(うち騒乱罪適用450人、13人起訴)。

1968年11月1日(金) 東京大学(東大)の大河内一男(おおこうち かずお, 1905-84; 東京帝國大學卒)総長が、東大紛争の責任をとって全学部長と全評議員とともに辞任。

1968年 日本の国民総生産(GNP: gross national product)が西ドイツを抜き、資本主義諸国中でアメリカに次ぐ第2位(事実上の世界第2位)に。

1968年12月29日(日) 学生運動(大学紛争)の激化により、東京大学(東大)が来春の入学試験を断念すると発表。東大始まって以来の事態。

1969年(昭和44年)1月18日(土)~19日(日) 東京大学(本部在東京都文京区)を不法占拠していた東大闘争全学共闘会議(全共闘)の叛乱学生たちが、8,500人規模から成る警視庁機動隊と激しく衝突し、強制排除される。35時間にも及ぶ攻防戦の様子の一部が全国テレビ中継される。警察側の負傷者710人(うち重傷31人)、全共闘側の負傷者47人(うち重傷1人)、逮捕者457人。東大の状況について文部省(現在の文部科学省の前身)は、「物心が荒廃」しており、すぐには教育・研究機能などの原状回復が難しい、入試ができる状況ではないと判断。こうして東大入試中止が決定。前年(1968年)から政権与党=自由民主党(自民党)から入試中止論が高まっており、文部省は東大と調整を進めていた。東大OBで後に内閣総理大臣を務めることになる中曽根康弘(なかそね やすひろ, 1918-2019; 首相在任1982-87; 東京帝國大学法学部卒)は、「大学の本質的条件や、社会公共的使命を逸脱してまでも、東大を維持してゆく必要は毛頭ない、入試中止も留年も辞するべきではない」(1969年1月16日(木)付の毎日新聞)という談話を寄せている。このとき東京外国語大学(当時は在東京都北区)と東京教育大学(現在の国立大学法人筑波大学の前身で当時は本部在東京都文京区)も学生運動激化を理由に入試中止が議論されていたが、後者(東京教育大学)は体育学部を除き中止とし、前者(東京外国語大学)は実施することとなる。(2020年8月27日(木)付の朝日新聞社 AERAdot.の教育ジャーナリスト小林哲夫(こばやし てつお, b.1960)署名オンライン記事に依拠)

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831110_00000&seg_number=001

1969年2月 前年(1968年)12月29日(日)に発表した通り、東京大学(本部在東京都文京区)がこの年の入学試験を断念。同年4月の東大入学者がゼロ人という前代未聞の事態に陥る。また、国立京都大学(本部在京都府京都市左京区)では、入試が京都市内の大学施設では行なわれず、多くの学部は予備校や高校に会場を借りて試験を実施。工学部は宇治市内のキャンパスに急造したプレハブ校舎で試験を行なう。それでも警戒を緩めず、京大の奥田東(おくだ あずま, 1905-99; 京都帝國大學卒)総長・教授・農学博士(京都大学)は入試妨害に備えていた。後に次のようにふり返る。「京大は幸い学部別に合格を決めておりますのでね、つぶされたら、つぶされた学部は、試験をやりなおすんだというんで、試験問題を全部二重につくっておきましてやったんです。(中略)試験場にあらかじめ入って阻止する、反対学生が教室に入って阻害するってこともありうるわけです。だから、各試験場でね、全部宿直したわけです。教授が分散して宿直をやりました」(大崎仁編『「大学紛争」を語る』有信堂高文社, 1991年)と。入試の前日に雪の中を京大構内に入るや、京大全共闘の者たちが火炎瓶(Molotov cocktails)を投げていて、それが雪の降りしきる時計台の前をオレンジ色の弧を描いて飛んで行った。「バスの行先がわからないために、報道関係の車が、このバスを追おうと待機する。やがてバスが出発。付き添いの父兄の同乗は禁止されており、また行く先もわからないとあって、父兄はバスの外から激励のことばを、自分の子どもや兄弟にかけていた。行先も知らない受験生を乗せたバスは走りつづけて、たどりついたのは私立京都商業高校。車でここまで追ってきた父兄も、この門前でシャット・アウト。」(旺文社『螢雪時代』1969年4月号)とのこと。国立九州大学(本部在福岡県福岡市西区)では入試を阻止されるという事態が起こる。試験は二日間に亘(わた)って行なわれたが、荒れ模様だった。大学本部の屋上スピーカーから「九州帝国大学破壊、民青打倒!」とがなりたてる声が響く。一方で大学側は、「入試実施、中核派は出ていけ!」とシュプレヒコールで応戦。受験生にすればやかましくてたまったものではない。大学教職員は「受験生に心理的な影響を与えるからやめるよう」に説得するが、聞き入れられず、入試が無事にできるか、不安になる。そして試験2日目、試験会場が「粉砕」されてしまう。「ついに、不安が現実となった。教養部本館が反日共系中核派約二〇人に封鎖され、法・経両学部の午前の入試は中止、翌五日の午後に延期となった。(中略)約千七百人の両学部の受験生は九大当局が、あらかじめ用意しておいた、予備校九州英数学館に、三十台のバスでおもむき、午後から、理科の試験を受けた。」(旺文社『螢雪時代』1969年4月号)。東京外国語大学(当時は在東京都北区)では一次試験・二次試験に分かれていたが、一次試験は学生活動家の妨害を恐れて中止となる。二次試験では外国語、数学、国語、社会の4教科を僅か3時間で行なうという荒業を使った。試験所要時間は例年の半分以下である。私立関東学院大学(本部在神奈川県横浜市金沢区)工学部は活動家が試験会場に乱入し、試験が「粉砕」されてしまう。入試は中止となり、高校の内申書で合否が判定された。国立東京工業大学(本部在東京都目黒区)は東急目蒲線(現在の東急目黒線)大岡山駅近くのキャンパスで入試を行うことを断念し、山手線の原宿駅、代々木駅、新宿駅、池袋駅近辺の予備校を会場に設定。代々木ゼミナール原宿校・代々木校、代々木学院、新宿高等予備校、新宿セミナ-、英進予備校である。当時は浪人生が全盛の時代であったが、2020年までにこれらの予備校の多くは廃業または規模縮小に追い込まれている。国立大阪大学(本部在大阪府吹田市)も入試前日になって急遽試験会場を予備校などに変更。どこも厳戒態勢を敷いており、大阪府警察の警官・機動隊員を併せて3,900人が各会場に待機した。その一つ、天王寺予備校の様子は、「入口は正門と裏門の二つしかないが、両方とも緊張した表情の警官が警備にあたっている。(中略)ひとりひとり、受験票をチェックされ、教室にはいる。トランシーバーで、連絡をし合う職員の姿があわただしい。警戒体制の警官たちの顔がひきしまる。」(旺文社『螢雪時代』1969年4月号)とのこと。私立日本大学(本部在東京都千代田区)では試験会場前にはジュラルミンの盾がズラリと並び、学生活動家を絶対に紛れ込ませないという、強い意志を示す。「とくに主会場の両国・日大講堂付近は機動隊員六百名のほか大学職員が要所要所に配置され、受験生は会場にはいるまで三か所でチェックを受けるというものものしさに、受験生や父兄は不安顔をみせていた」(旺文社『螢雪時代』1969年4月号)とのこと。1970年代の大学入試では試験会場への通路の両脇に警官隊と機動隊がズラリと並ぶという光景が見られた。一部の大学では1980年代に入ってからも同様の光景が見られたが、それはまだ燻(くすぶ)っていた過激派対策だった。1990年代になると平和になり、大学入試で警察の出番がなくなっていった。また、東大ほどには話題にならなかったが、他に東京教育大学(現在の筑波大学の前身)の入試も体育学部を除き中止になる。(2020年8月28日(金)付のヤフーニュースに転載された朝日新聞社 AERAdot.の教育ジャーナリスト小林哲夫(こばやし てつお, b.1960)署名オンライン記事に依拠)

1969年3月12日(水) 前年(1968年)5月から日大闘争・日大紛争を率いていた秋田明大(あきた あけひろ; 通称 あきた めいだい, b.1947; 日本大学除籍)全学共闘会議議長が公務執行妨害の容疑で警視庁に逮捕される。これ以降、全共闘運動は急速に衰退。機動隊に向かって重さ約16キロのコンクリートの塊が校舎の4階から落とされ、頭に直撃させられた機動隊員の西条秀雄(さいじょう ひでお, 19??-69)巡査部長が殉職する事件(日大生による傷害致死事件)が起こっているが、そのような暴力的な姿勢から全学共闘会議は一般学生や父兄会の支持を失っていった。

1969年4月23日(水) 16:20頃、私立サレジオ学院高等学校(在神奈川県川崎市宮前区)=現在のサレジオ学院中学校・高等学校(在神奈川県横浜市都筑区)高等部=1年次在学中の加賀美洋(かがみ ひろし, 1953-69)少年=15歳が学校の校庭の裏にあるツツジ畑で首を切られたと、加賀美少年と一緒に居たという同校1年在学中のМ少年(b.1953)=15歳=後に改名してI氏(b.1953)が学校に訴え出る。М少年も二ヶ所を怪我(けが)しており、3~4人の男に襲われたと証言。被害者は47ヶ所を滅多刺しにされて発見され、首は死後に切断された様子で、兇器のジャックナイフが現場で見つかる。同校では神奈川県警察の捜査員が校内に立ち入る際にもヨハネ・ペトゥ校長自ら一人ひとり首実検(くび じっけん: identification of a suspect)してから通すという対応で、М少年の取り調べにも校長と同少年の父親M氏を立ち会いのもとで行なうよう警察に要求する。受け入れないと取り調べはさせられないとする状況もあり、遅々として捜査が進まないでいたが、同年(1969年)4月25日(金) 6:15頃、警察署内での取り調べに切り替えたところ、М少年は犯行を自供。М少年は弁護士に成るのが夢で、中学時代から六法全書を読んでいたという。また、М少年はかねてから被害者加賀美少年の見下げた物の言い方が鼻についており、表面上は親しく付き合いながらも不満が鬱積していたという。背中に毛虫を入れられるなどの仕打ちも、ひどく不快に思っていた。М少年の父親M氏はセミナー会社社長で、母親のM夫人は病弱だったという。父方の祖父M氏は樺太(現在のロシア極東部サハリン島の南半分)帰りで銀座でかつて貸金業をしていたが、息子(М少年の父親M氏)は親の稼業を嫌って貸金事業は受け継いでいなかった。М少年の父親は加賀美少年の遺族に対し、和解金720万円を毎月2万円ずつ支払うとの示談書を交わすも40万円ほどを払って以降は支払いを滞らせ、1998年に死亡した際には680万円が未払いの儘(まま)であった。М少年は法務省矯正局東京矯正管区関東医療少年院(在東京都府中市)=現在は同局同管区の国際法務総合センター(在東京都昭島市)に収容される。息子の洋君(加賀美少年)を突然残虐に奪われた母親(加賀美夫人)は二年近くも寝込み、髪が真白になり、自殺未遂まで企てる。妹(加賀美嬢)は凍りついた家庭の中で、無感情になり、自分が身代りになるべきだったと親に反抗し、自傷行為を繰り返す。被害者の父親(加賀美氏)は亡き息子の四十九日に聖書を学び始め、「人を憎みたくない。ただ平和でいたいだけ。」と語ってキリスト教の洗礼を受け、壊れそうな家族のために必死に働き続ける。母娘(被害者の母親と妹)は自分達を回復させることに精一杯で、М少年を恨むような余裕が無かったという。一方のМ少年は父親の愛人の苗字「I」を採ってI氏(b.1953; 慶應義塾大学卒、学習院大学大学院修士)に改名し、事件から十三年後の1982年に司法試験に合格し、その三年後の1985年に司法修習を終了して晴れて弁護士と成った。2003年に満49歳に成っていたI弁護士は顔面モザイク処理と音声処理が施(ほどこ)された状態でテレビ朝日系列のニュースステーションに出演してフリーランスの久米宏(くめ ひろし, b.1944; 早稲田大学卒)キャスターと対談し、「謝罪も賠償金の支払いも一切してないし、するつもりも無い。未成年でしたから、前科なんて付きませんよ。私が弁護士をしてるのは私の能力だし、その収入は私と家族のために使います。法的に見て、全く何の問題もありません。幸せに暮らしてます。少年事件は匿名性が極めて高いので、誰も知りませんしね。」と嘯(うそぶ)き、殺した加賀美少年と遺族の加賀美家に対する思いについて聞かれても、「何の思いも無い」と語る。この事件について、奥野修司(おくの しゅうじ, b.1948)氏がノンフィクション長篇『心にナイフをしのばせて』(文藝春秋, 2006年; 文藝春秋 文春文庫, 2009年)を刊行し、ノンフィクションとしては異例の8万部余りを売り上げる。I弁護士は自身の個人情報(特に15歳時に犯した殺人の件や、現在は法律事務所を経営している件)がインターネット上で実名と共に流布(るふ)されて困窮し、同年(2006年)10月に遺族へ謝罪の手紙を送り、残された和解金を支払う意思があることを伝える。手紙には、遺族に面会して直接詫びたい旨が書かれていたという。しかしながら、I弁護士からの連絡はその後に途絶える。ノンフィクション本刊行の翌年(2007年)には弁護士稼業を廃業し、行方をくらました。世に言う「サレジオ学園首切り事件」。なお、サレジオ会(羅 Societas Sancti Francisci Salesii; 英 Society of Saint Francis de Sales, or Salesians of Don Bosco)絡みの事件といえば、十年前の1959年3月10日(火)に遺体が発見された未解決事件「BOACスチュワーデス殺人事件」が悪名(あくみょう)高い。(個人サイト「いいものをあなたに」内の「1969年「川崎市高校生首切り事件」犯人のその後」と、奥野修司(おくの しゅうじ, b.1948)著 『心にナイフをしのばせて』(文藝春秋, 2006年; 文藝春秋 文春文庫, 2009年)に依拠)

1969年5月10日(土) グリーン車(英称 Green Car)の初登場。日本国有鉄道(国鉄: 現在のJRグループの前身)が運賃改定の際に従来の等級制(1872年から’97年11月迄は上等、中等、下等の3等級、1897年11月から1960年迄は一等、二等、三等の3等級、1960年から’69年迄は一等=従前の二等に相当、二等=従前の三等に相当の2等級)を廃止する。これにより従前の一等(3等級制時代の二等)が「グリーン車」となり、従前の二等(3等級制時代の三等)が「普通車」となる。

1969年7月1日(火) 日本國憲法の「第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(英文 Article 89. No public money or other property shall be expended or appropriated for the use, benefit or maintenance of any religious institution or association, or for any charitable, educational or benevolent enterprises not under the control of public authority.)という条文に違反する可能性、つまり国や地方自治体が宗教法人や私学に公金を与えて補助すること(私学助成)は憲法違反ではないのかという論争に関して、参議院文教委員会で文部省管理局長が答弁してこう述べた。「私立学校につきましては、設置とか、廃止とか、それから教職員の資格、教育内容等につきまして公の規制を設けております。また、私立学校の設置主体でございます学校法人につきましても、その設立、それから解散、役員、寄付行為の変更等につきまして認可を行なうというふうな規制が加えられております。それからさらに、ただいま御指摘のございました私立学校法第五十九条以下におきまして、国が助成をいたします場合の私立学校あるいは学校法人に対する規制をいたしておりまして、ただいまのところでは、私どものほうは、これだけの規制を行なっておればこれは公の支配に属しておるというふうに考えてよろしいんじゃないかということでまいっておるわけでございます。」と。

1970年(昭和45年)3月15日(日)~9月13日(日) 大阪府吹田市の千里丘陵で183日間に亘(わた)る日本万国博覧会(にっぽん ばんこく はくらん かい; Japan World Exposition, Osaka 1970; 英略称 Expo ’70)=通称「大阪万博」が開催される。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王(こうたいし あきひと しんのう; Crown Prince Akihito, b.1933; 学習院大学中退)=後の平成時代の天皇(Emperor Akihito; the Heisei Emperor, b.1933; 在位1989-2019)=更に後の上皇(Emperor Emeritus Akihito, b.1933)で、名誉会長は佐藤榮作(さとう えいさく, 1901-75; 首相在任1964-72; 東京帝國大學卒)内閣総理大臣だった。アジア初の万国博(万博)で、当時としては史上最大規模の世界77ヶ国が参加。183日間の会期中、当時の日本の総人口の半分を大きく上回る6400万人超(64,218,770人)が詰めかけ、展示館への行列が延々と続く混雑ぶりから、「残酷博」と揶揄(やゆ)される。116のパビリオンの中で最大の人気を集めたのはアメリカ館であり、前年(1969年)7月20日(日)=日本時間では21日(月)=に有人の月面着陸を成功させたアポロ11号(Apollo 11)が月面から持ち帰ったとされる「月の石」を一目見ようと見物人が詰めかけたという。万博テーマソングとして早くも三年前の1967年に島田陽子(しまだ ようこ, 1929-2011; 大阪府立豊中高等女学校=現在の大阪府立桜塚高等学校卒)作詞、中村八大(なかむら はちだい, 1931-92; 早稲田大学卒)作曲の「世界の国からこんにちは」が複数の歌手による競作で各社からレコードが発売され、総売り上げは300万枚を超えたが、後に語り継がれるのは三波春夫(みなみ はるお, 1923-2001)こと、本名 北詰文司(きたづめ ぶんじ, 1923-2001; 日本浪曲学校卒)のバージョンである。

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831113_00000&seg_number=001

1970年3月31日(火)~4月5日(日) よど号ハイジャック事件(よど号事件)。羽田空港発板付空港(現在の福岡空港)行きの日本航空351便「よど号」(ボーイング727-89型機)が富士山上空を飛行中の7:33に、左翼系の赤軍派を名乗る犯人グループ(マスコミからは「よど号グループ」と呼ばれる)9人によってハイジャックされる。9人の内訳は、当時27歳で大阪市立大学二部在学中の田宮高麿(たみや たかまろ, 1943-95)、当時26歳で東京大学医学部中退の小西隆裕(こにし たかひろ, b.1944)、当時25歳で京都大学農学部中退の岡本武(おかもと たけし, 1945-88?)、当時22歳で明治大学政経学部Ⅱ部在学中の田中義三(たなか よしぞう, 1948-2007)、当時22歳で関西大学を除籍された魚本公博(うおもと きみひろ, b.1948)、当時23歳で同志社大学を除籍された若林盛亮(わかばやし もりあき, b.1947)、当時23歳で大阪市立大学を除籍された赤木志郎(あかぎ しろう, b.1947)、当時20歳で 京都市立堀川高等学校卒の吉田金太郎(よしだ けんたろう, 1950-85?)、当時17歳で神戸市立須磨高等学校在学中の柴田泰弘(しばた やすひろ, 1953-2011)だった。拳銃と爆弾で武装し、日本刀(すべて模造品)を振りかざしてコクピットに乱入した犯人グループは、日本国と国交の無い朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ向かうよう要求した。「よど号」は機長が主張する「燃料不足」を理由に一旦は板付空港(現在の福岡空港)に着陸し、13:35分に女性・子供・病人・高齢者を含む人質23人が解放された。警察による捕縛作戦は失敗し、「よど号」は一路朝鮮半島へ向かう。大韓民国(韓国)首都ソウルの空の玄関口である金浦国際空港(GMP: Seoul Gimpo International Airport)では、韓国軍兵士が北朝鮮人民軍兵士の服装で偽装し、「平壤到着歡迎」のプラカードを掲げるなどの偽装工作を行なっていたが、空港内に米国のノースウエスト航空(現在のデルタ航空)機などが駐機しているのが犯人グループの目に触れたため、彼らを騙(だま)す作戦は不首尾に終わる。他にもウィキペディア日本語版には、「航空燃料タンクの商標」、「シェル石油のロゴのついた給油トラック」、「犯人グループが持っていたラジオをつけたらジャズやロックが流れた」、「ジープに乗った黒人兵がいる」、「米国フォード社の車が走っている」、「北朝鮮の職員に偽装した韓国の警官が、(国交の無い筈(はず)の)日本の大使が待っています。と発言した」など、諸説あるという。犯人たちを騙すことには失敗したものの、金浦空港への着陸では、運航乗務員を除く乗員と乗客の残り全員が解放され、その中には後に聖路加国際病院(St. Luke’s International Hospital)名誉院長に就任することになり、事件から四十七年後の2017年7月18日(火)朝に満105歳で歿するまで生涯現役医師を貫いた当時58歳の日野原重明(ひのはら しげあき, 1911-2017; 京都帝國大學卒)医学博士(京都帝國大學)がいた。日野原博士は、乗客がハイジャック事件に巻き込まれた事実を理解せず、ハイジャック犯たちですら説明に窮(きゅう)する中、声を上げて「人質を取る乗っ取り!」と説明し、続けて「ハイジャックする人が説明できないのはおかしい。」とマイクで語り、緊張する機内を痛烈な皮肉とユーモアで和(なご)ませたという。2017年7月18日(火)の日野原博士の訃報(ふほう)を受け、犯行グループの一員で北朝鮮に亡命した70歳の若林盛亮(わかばやし もりあき, b.1947)容疑者・逃亡者は、產經新聞の取材に応じ、「(日野原先生は)我々の思い上がりを気づかせてくれた恩人。できれば会って直接お詫(わ)びしたかった。」と述べた。死の六年近く前の2011年10月4日(火)の百歳の誕生日に合わせ、若林容疑者ら北朝鮮在住の犯行グループは日野原博士に手紙を送り、祝意とお詫(わ)びを伝えていた。人質の身代わりに運輸政務次官山村新治郎(やまむら しんじろう, 1933-92; 学習院大学中退)氏が韓国の金浦空港で搭乗した後、1970年4月3日(金)に北朝鮮の平壤美林飛行場(Pyongyang Mirim Airfield)に到着。犯人グループはそのまま同国に亡命した。運航乗務員と山村政務次官は、北朝鮮まで犯行グループに同行させられた後、羽田空港(HND: Tokyo Haneda International Airport)に無事に帰国したのは同年(1970年)4月5日(日)のこと。(日野原重明博士に関しては2017年7月18日(火)付のヤフーニュースに転載された產經新聞のオンライン記事に部分的に依拠)

(外部サイト)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831112_00000&seg_number=001

1970年4月13日(月) 国立九州大学(本部在福岡県福岡市)はこの日の9:30から本部の記念講堂で入学式を挙行する予定だったが、「自主入学式」を叫ぶヘルメット姿の全共闘系左翼学生約250人が「入学式粉砕」と称し、式の一時間前の8:30頃から開場前に9:55に開始され、僅か15分ほどで切り上げられる。(同日付の朝日新聞夕刊の記事に依拠)

1970年6月 約五十九年前の1911年9月に女性による女性のための月刊誌 『靑鞜(せいたふ)』を創刊しながら約四年半後の1916年2月に六巻二號を以(もっ)て廃刊に追い込まれていた晩年の平塚らいてう(ひらつか らいちょう, 1886-1971; 日本女子大學校=現在の日本女子大学卒)が、日米安全保障条約(日米安保)の廃棄を訴え、御年満八十四歳で東京都世田谷区成城の自宅周辺を示威(デモ)行進する。

1970年7月7日(火) 日比谷公園(在東京都千代田区)で開かれた学生運動の集会で、華僑(ethnic Chinese residents)の若者たちによる華僑青年闘争委員会(華青闘)と日本の左翼学生セクト群が対立し、華青闘が決別のメッセージを送るという事態に発展。「我々は戦前・戦後、日本人民が権力に屈服した後、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。我々は言葉に於いては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。実践が無いかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。」という主旨だった。この告発に日本の各セクトは動揺し、総じて自己批判したとされる。これは日本の学生運動に深い影響を与え、アジアへの日本の戦争責任問題を前景化させる原動力の一つとなる。世に言う意「七七告発」。(2020年8月9日(日)付のヤフーニュースに転載された現代ビジネスの佐々木俊尚(ささき としなお, b.1961)毎日新聞元記者署名オンライン記事に依拠)

1970年7月 北海道の日高山脈で私立福岡大学(本部在福岡県福岡市城南区)ワンダーフォーゲル(Wandervogel: ドイツ語で「放浪鳥」の意)同好会の5人が、日高山脈北端の芽室岳(標高1,754メートル)から山脈中部のペテガリ岳(標高1,736メートル)までを、十三日間かけて縦走する予定で夏季合宿を実施。5人は同年(1970年)7月14日(火)に北海道上川郡清水町の芽室岳登山口から入山し、芽室岳を経てルベシベ山(標高1,740メートル)、ピパイロ岳(標高1,916メートル)、戸蔦別岳(標高1,959メートル)、幌尻岳(標高2,053メートル)という具合に主脈を南へ向かって辿(たど)る。同年(1970年)7月25日(土)にはエサオマントッタベツ岳(標高1,902メートル)の山頂を踏み、春別岳(標高1,492メートル)南側の九ノ沢カール(Kar: 氷河地形の一種であり、ドイツ語で「圏谷」の意)にテントを張る。同日(1970年7月25日(土))16:30頃にワンゲル同好会の5人は初めて樋熊(ヒグマ)の姿を目撃。熊(クマ)は全長2メートルほどで、黄金色や白色が目立つ茶色の毛並みである。最初のうちはテントから6~7メートル離れた所でテントの様子を窺(うかが)うも、やがてだんだん接近してきて、テントの外に置いていたキスリング(主荷室の両サイドに大きなポケットを備えた横長のザックリュックサックの一種で、現在は死語と成ったドイツ語の Kislingssack キスリングスザックに由来)を破いて中の食料を漁(あさ)り始める。危機感を覚えた5人は隙(すき)を見てキスリングをすべてテントの中に入れ、クマを近付けないために火を起こし、ラジオの音量を上げて食器を打ち鳴らす。クマはいったん退散したものの、同夜21:00頃になって再び現れ、爪でテントに拳大の穴を開けたのち、またどこかへ去る。その夜はクマの襲来に備え、2人ずつ交代で見張りをする。翌日(1970年7月26日(日))4:30頃、再度姿を現したクマは前夜よりも大胆な行動に出る。テントのすぐそばまで近寄ってきて、入口を爪で引っ掻き始める。5人はテントが倒されないように中でしっかりポール(poles)を支えていたが、とうとうクマに破られてしまう。一斉に外に飛び出して逃げた5人が、50メートルほど離れた場所から振り返ってみると、クマは倒れたテントの近くに居座ってキスリングの中の食料を漁っている。再三にわたる襲撃に、リーダーの太田氏は自分たちだけでは対処しかねると判断し、ハンターの出動を要請してくるよう辻隊員と杉村隊員に言付けて山を下らせる。九ノ沢カールを下っていった2人は、途中で私立北海道学園大学(本部在北海道札幌市豊平区)体育会登山部員たちと出会う。彼らもまたクマに襲われたため、ザックを放棄して下山する最中だった。辻と杉村の両氏は、登山部員らに猟師(hunter)の出動を要請する伝言を依頼し、再び引き返して、同日(1970年7月26日(日))13:00頃、太田隊長ら3人と合流。この間、稜線に残っていた3人は交代で仮眠を取りながらクマの監視を続け、クマの姿が見えなくなった隙に全員のキスリングを奪い返していた。そこに国立鳥取大学(本部在鳥取県鳥取市)体育会登山部員が通りかかった際、太田氏は「クマがうろついているから危ない」と注意を促す。合流した福岡大学ワンゲル同好会の全5人は、1時間ほど稜線を辿(たど)ったところで同日(1970年7月26日(日))の行動を打ち切り、テントの設営に取り掛かる。同日(1970年7月26日(日))17:10頃、またしてもクマが出没。靴を履く暇もなく慌ててテントから逃げ出した5人は、しばらく様子を窺(うかが)うも、クマはテントに居座っていて動く気配は無い。そこで先ほど出会った鳥取大学登山部が幕営している八ノ沢カールまで下りていって、助けを求める手筈とする。稜線から50~70メートルほど下ったときに、あとを追ってくるクマの姿に気づく。クマは最後尾を歩く辻隊員の後方10メートルにまで迫り来る。一斉に駆け出した5人はハイマツ林の中で散り散りになってしまうが、間もなく太田隊長と辻隊員と坂口隊員の3人は合流でき、岩場の影に隠れて一夜を明かすことにする。平野隊員は鳥取大学登山部の幕営地を目指して下りて行くも、途中でクマに追い駆けられたため必死で逃げ回り、張ってあったテントを見つけてその中に逃げ込む。テントの中には誰も居らず、そこで救助を待つと決める。杉村隊員はクマに追いかけられているのを目撃されていたが、その後の消息は途絶える。夜が明けた同年(1970年)7月27日(月)の朝はガスが濃く、視界は5メートルほどしかなかった。岩場に避難していた太田隊長ら3人は、8:00から行動を再開して下り始めるも、15分ほど移動したところで突如クマが現れて行く手を遮(さえぎ)る。咄嗟(とっさ)に辻隊員が「死んだ真似をしろ!」と声を上げ、3人は一旦地面に身を伏せたものの、クマが唸り声を発すると同時に太田隊長が立ち上がり、カールに向かって駆け下りる。クマはすぐにそのあとを追っていき、濃いガスのなか、太田隊長とクマの姿はたちまち見えなくなる。残された辻と坂口の両隊員は懸命に山を下り続け、なんとか無事に山麓まで辿り着く。その後の捜索・救助活動によって、消息不明となっていた太田隊長、杉村隊員、平野隊員の3人は八ノ沢カールで遺体となって発見される。遺体はいずれもクマの襲撃を受けて爪痕が残っており、損傷が激しかった。平野隊員の遺体の近くで見つかった手帳には、クマに襲われる寸前まで、一人テントの中で怯えながら救助を待つ、平野隊員の生々しい心境が綴られていたという。「(1970年7月27日(月)午前)4時頃目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時まで、テントの中にいることにする。(中略)もう5時20分である。またクマが出そうな予感がするのでまた、シュラフ(「寝袋」を意味する和製ドイツ語で、正しくは Schlafsack シュラーフザック)にもぐり込む。ああ、早く博多に帰りたい。(中略)7時 沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあった、シャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。(中略)3時頃まで…(判読不能)…他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WV(ワンダーフォーゲル部)は連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて、不安で恐ろしい。」とある。3人を襲ったと思われるヒグマは、1970年7月29日(水)夕刻、現場付近に姿を現したところを猟師によって射殺されたが、20発以上の弾丸を受けても倒れなかったと記録されている。クマは4歳の雌と推定され、体重は約130キロだった。当初のヒグマの狙いは学生たちが携行していた食料だった。それを取り返そうとしたために悲劇は起きた。クマに奪われたキスリングを取り返したことが最大の要因と考えられる。クマは執着心が非常に強く、一旦獲得した物は自分の所有物であると認識する。クマは嗅覚が優れているので、どこまでも追いかけて自分の所有物であると認識した食料を奪い返すという習性があるため、それを人間が奪い返すのは自殺行為に等しい。1970年当時は大学のワンダーフォーゲル部やワンダーフォーゲル同好会はまだ歴史が浅かったために、上級者の引率や、技術や知識の伝承も不足していた。また、九州にクマは棲息していないので、福岡大学の学生たちはクマの恐ろしさを充分に理解していなかったということもある。クマの生態を理解していたであろう北海道の学生は、食料を態々(わざわざ)取り返すような自殺行為をせずに下山したのだった。ヒグマは独占欲が強い動物で自分の物を取った者に激しい敵意を抱くという性質が当時はあまり周知されていなかった。直前に別のパーティー(party: 「一行」の意)がクマを見つけて荷物を囮(おとり)に放り出して逃げ、そこで熊が「背嚢(はいのう)=食料が入っている物」と認識してしまったと考えられる。安易に背嚢(リュックサック)を投げ出すと、自分は逃げられても別人が襲われる可能性が高くなる。世に言う「福岡大ワンゲル部ヒグマ事件」。(2020年9月15日(火)付のヤフーニュースに転載された現代ビジネスのフリーライター羽根田治(はねだ おさむ, b.1961)署名オンライン記事に依拠した上で加筆)

1970年7月18日(土) 東京で運動場に居た子供たちが体調不良を訴えて病院に搬送される。その原因として光化学スモッグ(photochemical smog)が日本で初めて特定される。

1970年11月25日(水) 「三島事件」の波紋。ノーベル文学賞候補にも名が挙がった世界的著名作家、三島由紀夫(みしま ゆきお, 1925-70)こと、本名 平岡公威(ひらおか きみたけ; 有職読みで「こうい」, 1925-70; 東京大学卒)が、自ら主宰する右翼系私設軍隊ごっこ組織「楯(たて)の會(くゎい)」の構成員4名とともに東京都新宿区内の生誕地から至近距離の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本省)を事前予約を取って訪問し(楯の会は事件を起こす前は自衛隊に体験入隊するなどして良好な関係にあった)、その際に態度を豹変(ひょうへん)させ、東部方面総監の益田兼利(ました かねとし, 1913-73; 陸軍大學校卒)陸将を縛り上げて監禁。事件の首謀者の三島はバルコニーに出て、日本國憲法の破棄と蹶起(けっき: coup d’état)を促(うなが)すアジ(agitation)演説を地上の自衛官たちに向けて行なう。「お前ら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここで以(もっ)て起(た)ち上がらねば、自衛隊が起(た)ち上がらなきゃ、憲法改正って物は無いんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略)俺は4年待ったんだ。自衛隊が起(た)ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして護(まも)るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にペコペコするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。(中略)今からでも共に起(た)ち、共に死のう。」という演説は若手自衛官の野次(ヤジ)に搔(か)き消されて、殆(ほとん)ど聞き取れない物だった。自分たちのクーデター要請が聞き入れられないことを悟った三島は、館内に戻り用意した日本刀で割腹自殺を遂げる。満四十五歳だった。三島を介錯(かいしゃく)した当時二十五歳の早稲田大学4年生の森田必勝(もりた まさかつ; 有職(ゆうそく)読みで「ひっしょう」, 1945-70)も三島に続いて切腹し、他の3人の構成員に介錯させる。三島の命令で生き残った3人は、益田(ました)総監の拘束を解いて、三島と森田の首の前で合掌する。黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け。」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ。」と正座して瞑目合掌する。総監は事件の四半世紀前の1945年8月15日(水)にも帝國陸軍軍人として同期の軍人の割腹自殺に立ち会っていたため、今回で二度目の立ち合いとなったという。益田(ました)総監は事件を起こさせてしまった責任を取って辞任し、事件から三年もしないうちに満五十九歳という短命で歿することになる。なお、三島は自決の四ヶ月以上前の昭和45年=1970年7月7日(火)付のサンケイ新聞(現在の產經新聞)夕刊に「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」と題して寄稿した随想の中で次のように書いていた。「二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」と。また、三島は死の四年以上前の昭和四十一年=1966年2月14日(月)から8月1日(月)にかけて女性週刊誌 『女性自身』で連載した「おわりの美学」(初稿の舊假名遣ひでは「をはりの美学」)の中でこうも述べていた。「はっきりいってしまうと、学校とは、だれしも少し気のヘンになる思春期の精神病院なのです。[改行] これは実に巧みに運営されていて、入院患者(学生)たちには、決して私は頭がヘンだなどと気づかせない仕組みになっている。[改行] 先生たちも何割か、学生時代のまま頭がヘンな人たちがそろっていて、こういう先生は学生たちとよくウマが合う。何千人という人間のいる学校のなかで、ほんの何人かの先生がこの秘密を知っていて、この秘密を決して洩らさぬように学校経営をやってゆく。」(佐藤秀明[編] 『三島由紀夫の言葉 人間の性』 新潮社 新潮新書, 2015年に依拠)と。生き残った楯の会の3人は逮捕され、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要の5つの罪状で起訴され、事件から十七ヶ月が経過した1972年4月27日(木)に懲役四年の実刑判決が下された。世界に衝撃を与えたこの事件は、「三島事件」または「楯の会事件」と呼ばれる。

(外部サイト)三島事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/三島事件

当時のニュース映像

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831114_00000&seg_number=001

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)制作ドキュメンタリー

BBC Arena—The Strange Case of Yukio Mishima (直訳 『BBCアリーナ—三島由紀夫の怪事件』 1985年)

https://www.youtube.com/watch?v=Ctufj50w9a0

米日合作・日本未公開映画 Mishima: A Life in Four Chapters (直訳 『三島: 全四章の一人生』 1985年)

https://www.youtube.com/watch?v=UtmNCXSIr-Q

https://en.wikipedia.org/wiki/Mishima:_A_Life_in_Four_Chapters

https://ja.wikipedia.org/wiki/ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ

https://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20101210/E1291922480631.html

https://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20101210/E1291922480631.html?_p=2

https://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20101210/E1291922480631.html?_p=3

1970年12月18日(金) 1:30頃、警視庁志村警察署上赤塚交番(在東京都練馬区)で勤務中の警察官に極左過激派「京浜安保共闘」の3人が銃を持って襲い掛かり、立番していた高橋巡査が重傷を負い、応戦した阿部巡査長が主犯格の横浜国立大学4年次在学中の柴野春彦(しばの はるひこ, 1946-70)容疑者=24歳を射殺。仲間2人(横浜国立大学生の渡辺正則、神奈川県立川崎高等学校生徒の佐藤隆信)は負傷し、逮捕される。世に言う「上赤塚交番襲撃事件」。事件後に行なわれた警視庁の記者会見で、佐々淳行(さっさ あつゆき, 1930-2018; 東京大学法学部卒)警視庁警務課長が、「警察官の拳銃使用は正当である」と主張して譲らず、遅れて会見場に現れた土田國保(つちだ くにやす, 1922-99; 警視総監在任1975-78; 東京帝國大學法學部卒)警視庁国家保安警務部長が記者に「佐々課長は強気の発言をしているが、それでいいんですか」と尋ねられ、佐々を庇(かば)う形で「佐々課長の言う通り。警察官の拳銃使用は正当である」と発言した。この発言が、当日の夕刊に土田警務部長の談話として掲載されたため、これに私怨を抱いた過激派グループが一年後にテロ事件を起こすことになる。事件から八日後の同年(1970年)12月26日(土)に日比谷野外音楽堂(在東京都千代田区)で、京浜安保共闘と新左翼諸派が共催した「柴野同志虐殺弾劾抗議追悼集会」が開催され、主催者発表によれば約1,000人が集まったという。

1971年(昭和46年)3月3日(水) 日本國憲法の「第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(英文 Article 89. No public money or other property shall be expended or appropriated for the use, benefit or maintenance of any religious institution or association, or for any charitable, educational or benevolent enterprises not under the control of public authority.)という条文に違反する可能性、つまり国や地方自治体が宗教法人や私学に公金を与えて補助すること(私学助成)は憲法違反ではないのかという論争に関して、参議院予算委員会で内閣法制局長官が答弁して次のように述べる。「憲法八十九条の問題は、確かに率直に言って実は弱る規定であります。・・・日本のような国において慈善、博愛、教育の問題について、国費が公の支配に属していないものには出せない。逆に言えば、公の支配に属させることによって国費が出せるというふうにも解される憲法の規定が、規定の真の精神がそこにあるかどうかはわかりませんけれども、実際の日本の国情に合わすようなことをするにはやはりそういう解釈もやむを得ないのではないかというようなふうに考えまして、いまの私立学校法あるいは学校教育法その他の規定には、そういう補助と監督の相関関係を規定したものがございます。まあ、そういうことで始末をしておるわけでありますけれども、国会でもそういう法律を御制定になっていただいておりますから、そういう解釈がいまや公定的に是認されていると思いますけれども、正直に憲法の規定に立ち返ってみますと、その辺はやや問題があるように思います。」と。

1971年3月10日(水) 大阪刑務所内で印刷していた国立大阪大学(通称 阪大(はんだい); 現在の国立大学法人大阪大学の前身)と大阪市立大学の入試問題が密売された事件が発覚。大阪刑務所で服役していた受刑者Aが、刑務所内の病棟で受刑者Bに計画を持ちかける。「私はここで金のなる木を見つけましてね、、、」と。それは当時、大阪刑務所内の印刷作業所で印刷されていた入試問題を盗み出し、息子を医学部へ入れたがっている医者に横流しして高額の報酬を得るという企てだった。大学入試問題の印刷は厳重な管理が為(な)されており、作業の前後には受刑者の身体検査が行なわれ、試験問題を外部に一人で持ち出すのは不可能だったので、受刑者Aは印刷の作業に当たっていた受刑者Bと手を組み、試験問題を盗み出す計画を立てる。受刑者Bは模範囚だったため印刷作業所内で行動の自由が許されていた。印刷ミスで破損した試験問題をゴミとして処分する際に、ソフトボールの中に埋め込んでは隠し、運動の時間にキャッチボールをしながら故意に刑務所の塀の外へ投げるという手を使った。受刑者Bは模範囚として用具係も任され、ボールに細工することが可能だった。塀の外では先に出所していた元受刑者Aがそのボールを回収。こうして元受刑者Aは大学入試問題の入手に成功し、入試問題を売って巨額の報酬を得た。受刑者Bは模範囚ということもあり、間もなく出所してしまったため、元受刑者Aは翌年の入試問題の入手に困りかけたが、実は元受刑者Bは出所前に受刑者Cという別の模範囚を仲間に引き入れていた。以前と同様に翌年も試験問題を入手し、巨額の報酬を元受刑者のAとBは手に入れた。しかしながら、その後は新たな仲間を作れず、この計画は頓挫しそうになる。そこで元受刑者のAとBは刑務所に不法侵入して大学入試問題を盗み出すという前代未聞の挙に出る。脱獄ならぬ「故意の入獄」であった。元受刑者のAとBはこれにも成功し、入試問題を売って巨額の報酬を得る。ところがその年に試験問題を買った医者どもの息子12名は全員が不合格となる。それは盗んだ科目が全5科目中3科目だけだったため、或(ある)いは模範回答として作ったものに誤答が多かったため、とも考えられている。こうして元受刑者のAとBの信用は失墜し、間(ま)もなく首謀者の元受刑者Aは他殺体となって発見される。犯人特定も犯行動機も謎の儘(まま)である。この事件は当時報道され大きな問題となり、不正合格が判明した者は合格取り消し処分になったが、どれだけの数の不正合格が行われたかは正確には把握できず、何食わぬ顔で医者になった者もいると噂(うわさ)される。(朝日新聞の過去記事を振り返るウェブサイト「週刊BEACON うぇーぶ!!トピックス」と、2009年1月15日(木)放送のフジテレビ「奇跡体験アンビリーバボー」番組紹介ウェブページに依拠)

1971年4月 日本最大級の新興宗教団体「創価学会」(在東京都新宿区)が東京都八王子市に学校法人創価大学(Soka University)を創立。なお、同大学創立者の池田大作(いけだ だいさく, b.1928)氏は、大世学院(在東京都新宿区: 現在の東京富士大学短期大学部)を中退した十九年後の1968年に富士短期大学(在東京都新宿区: 現在の東京富士大学短期大学部)に卒論を提出して卒業したのが最終学歴。

1971年9月27日(月)~10月14日(木) 昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が半世紀ぶりに(天皇即位後は初めてで、しかも在位中の天皇による外遊は歴史上初)西欧諸国7ヶ国を歴訪。皇后良子(こうごう ながこ; Empress Nagako, 1903-2000)、後の香淳皇太后(こうじゅん こうたいごう, 1903-2000)も同行。ベルギー王国、連合王国(イギリス)、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の3ヶ国は公式訪問で、デンマーク王国、フランス共和国、オランダ王国、スイス連邦の4ヶ国は非公式訪問。往路では米国時間の1971年9月26日(日)に米国アラスカ州アンカレッジ市(Anchorage, Alaska, USA)内のエルメンドルフ空軍基地(Elmendorf Air Force Base)アラスカ地区軍司令官邸に立ち寄り、首都ワシントン(Washington, District of Columbia, USA)から駆け付けたニクソン(Richard Nixon, 1913-94; 大統領在任1969-74; ウィッティア大学卒、デューク大学法科大学院博士課程修了)米大統領・法学博士(デューク大学)と面会。群衆の前で米大統領と天皇が交互にスピーチする。天皇は日本語でスピーチし、駐米日本大使が英訳版を読み上げる( https://www.youtube.com/watch?v=HbVWAjUPQDk )。英国では戦争の過去、特に日本軍の残虐行為を巡り議論が紛糾。半世紀前の1921年とは正反対に全体として冷淡な対応に終始。退役軍人の初代ビルマ伯爵マウントバッテン卿(Louis Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma, 1900-79; ケイムブリヂ大学基督学寮卒)は、チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948; ケイムブリヂ大学三位一体学寮卒)の大叔父(父方の祖母の弟)であり、同皇太子のメンター(mentor: 日本の辞書では通常「良き指導者」「恩師」と訳されるが、実際の意味合いは「魂の師匠であると同時に心の友で もある人物」)として知られた人物だが、1922年=大正十一年に英国皇太子(後の国王エドワード八世、退位後転じてウィンザー公)の随員として初来日を果たし、行く先々で大歓迎を受け、日本国皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)とも会見した。しかしその二十年後の1942年=昭和十七年には部下のパーシヴァル中将(Lieutenant-General Arthur Percival, 1887-1966)が英領シンガポールで日本軍に屈服して無条件降伏(英国史上最悪の敗北)したことを受けて、英領印度(British India)を拠点にビルマ戦線(1942-45年)で日本軍に対する反転攻勢に出て、最終的に勝利を収めた。マウントバッテン卿は昭和天皇との四十九年ぶりの会見の機会に際し、「部下を拷問し虐殺した日本軍の首謀者であるヒロヒトを歓迎することなど私にはできない。」としてバッキンガム宮殿での女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)主催天皇皇后両陛下歓迎晩餐会への招待を蹴った。マウントバッテン卿はそれまでは傲慢(ごうまん)な人物として英国民の受けは良くなかったが、晩餐会への招待を拒否したことで英国民は拍手喝采し、マウントバッテン人気が急上昇した。実はマウントバッテン卿はマスコミを遮断して秘密裡 (ひみつり)には昭和天皇と四十九年ぶりに会見したことが後に判明しているが、殆(ほとん)ど何も言葉を交わさない冷淡な会見に終始したと伝えられている。そして同年(1971年)10月5日(火)夜のバッキンガム宮殿での晩餐会の席で昭和天皇は、「私(わたくし)どもは、貴国の空港に到着以来、貴国民の心の温かさを身にしみて感じております。それは今より五十年前、イングランド及びスコットランドに滞在中私(わたくし)に示された豊かな温情と全く変りがありません。当時私(わたくし)は初めて貴国民の生活に触れ、この宮殿を知り、地方の村々を知ったのでありました。それ以来、私(わたくし)は、貴国の社会制度及び国民、殊に陛下の御英明な祖父君に対し常に敬意をもち続けております。ジョージ五世陛下は王者の威厳と親子の愛情をもって私(わたくし)を御引見下さいました。当時私(わたくし)は同陛下から戴いた慈父のようなお言葉を胸中深くおさめた次第でありました。」とお言葉を述べたが、戦争についての言及が皆無だったことから英国社会から激しい非難の声が飛んだ。そのため翌日(1971年10月6日(水))にロンドン郊外(現大ロンドン市内)の王立キュー植物園(Royal Botanic Gardens, Kew)=通称 キュー庭園(Kew Gardens)にて天皇は日光産の杉(スギ: Japanese cedar)を植樹したが、その翌日(1971年10月7日(木))には何者かによって根元から伐()り倒され、根元に劇物の塩素酸ナトリウム(NaClO3: sodium chlorate)がかけられ、「彼らは無意味に死んだのではない」という趣旨のプラカードが残されているのが発見される。日本のことが許せない退役軍人の仕業(しわざ)と考えられているが、植物園職員の協力があった可能性もある。旧敵国オランダ王国の事実上の首都ハーグ市(蘭 Den Haag, of ’s‑Gravenhage, Nederland; 英 The Hague, The Netherlands)では天皇の乗った車に液体入りの魔法瓶が投げつけられ、フロントガラスに亀裂を生じさせる事態となる。その胸中を昭和天皇は「戦(いくさ)にいたでをうけし諸人(もろびと)のうらむをおもひ深くつゝしむ」と御製(ぎょせい)の歌に詠む。最後の訪問国で旧同盟国だったドイツ(当時は西ドイツ)の当時の暫定首都ボン市(独 Bonn, Deutschland; 英 Bonn, Germany)では約300名の学生による「日本帝国主義反対」「天皇の戦争犯罪へ抗議」のデモが決行される。こうして史上初の在位中の天皇による外遊は大失敗に終わり、この反省を受けて四年後の1975年9月30日(火)~10月14日(火)の天皇訪米の大成功が齎(もたら)されることになる。(辻田真佐憲(つじた まさのり, b.1984; 慶應義塾大学卒、同大学大学院修士課程中退)『天皇のお言葉 明治・大正・昭和・平成』(幻冬舎新書, 2019年)に依拠した上で加筆)

【動画】 Queen Meets Emperor Hirohito In London (ロンドンにて英女王が昭和天皇を出迎え)

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1971年12月18日(土) 11:24、ちょうど一年前の1970年12月18日(金)に発生した警官による横浜国大過激派学生射殺事件の報復として要人テロ事件が発生。東京都豊島区雑司ケ谷(現在の雑司が谷)一丁目50-18の警視庁国家保安警務部長(後に警視総監)土田國保(つちだ くにやす, 1922-99; 警視総監在任1975-78; 東京帝國大學法學部卒)邸に南神保町郵便局経由で届けられたお歳暮の贈答品に擬装された小包爆弾が炸裂し、警務部長の妻、土田民子(つちだ たみこ, 1924?-71)夫人=47歳=野口明(のぐち あきら, 1895-79; 東京帝國大學法科大學=現在の東京大学法学部卒)お茶の水女子大学初代学長・白梅学園短期大学元学長の娘が、手足を吹き飛ばされて即死。学習院中等科1年次在学中の四男=13歳が火傷(やけど)の重傷を負う。土田警務部長は事件当日16:00、警視庁で記者会見し、「治安維持の一旦を担う者として、かねて覚悟していたというと大げさかもしれないが、あるいはこんなことがあるかもしれない、とは思っていた。だが、ひとりの人間としてこのような事件はこれで終わりにしてもらいたい。二度と繰り返してくれるな。私は犯人にに向かって叫びたい。君等は卑怯だ。家内に何の罪もない。家内の死が一線で働いている警察官の身代わりと思えば・・・二度とこんなことは起こしてほしくない。君等に一片の良心があるならば世の人の嘆きや悲しみに思いやりがあるなら凶行は今回限りでやめてほしい。」とコメント。二日後の1971年12月20日(月)に行なわれた葬儀には、佐藤榮作(さとう えいさく, 1901-75; 首相在任1964-72; 東京帝國大学法學部卒)総理大臣夫人の佐藤寛子(さとう ひろこ, 1907-87; 青山女学院卒)女史、石田和外(いしだ かずと, 1903-79; 最高裁長官在任1969-73; 東京帝國大学法學部卒)最高裁判所長官、竹下登(たけした のぼる, 1924-2000; 首相在任1987-89; 早稲田大学卒)内閣官房長官、中曾根康弘(なかそね やすひろ, 1918-2019; 首相在任1982-87; 東京帝國大学法學部卒)衆議院議員・防衛庁前長官など参列者7000人。世に言う「土田・日石・ピース缶爆弾事件」の中の一つで、計18人が逮捕・起訴されたが、全員が無罪になった事件でもある(但し、1人のみ別件微罪で有罪)。

1972年(昭和47年) 吉田工業株式会社(現YKK株式会社; 英称 YKK Corporation)が産業革命の中心地マンチェスターに日本企業として初の工場を操業開始。

1972年2月17日(木) 一連の「連合赤軍事件」の中でも最も凄惨な「山岳ベース事件」を前年(1971年)からこの年(1972年)の年初にかけて指揮して、左翼同志たち計12名を「総括」と称して惨殺したリーダー格の森恒夫(もり つねお, 1944-73; 大阪市立大学中退)と永田洋子(ながた ひろこ, 1945-2011; 共立薬科大学=現慶應義塾大学薬学部卒)が抵抗の末に逮捕される。なお、森は1973年1月1日(月・祝)に東京拘置所の独房で首吊り自殺し、永田は2011年2月5日(土)に東京拘置所内で病死した。リーダーの逮捕で追い詰められた連合赤軍は二日後の同年2月19日(土)に「浅間山荘事件」を起こすことになる。

1972年2月19日(土)~同28日(月) 一連の「連合赤軍事件」の中でも最大の山場である「浅間山荘事件」または「あさま山荘事件」が発生。河合楽器健康保険組合が長野県北佐久郡軽井沢町に所有する「軽井沢保養所浅間山荘」で連合赤軍を名乗る坂口弘(さかぐち ひろし, b.1946年; 東京水産大学=現東京海洋大学退学)、坂東國男(ばんどう くにお, b.1947; 京都大学退学)、吉野雅邦(よしの まさくに, b.1948; 横浜国立大学中退)、加藤倫教(かとう みちのり, b.1952; 私立東海高等学校中退)、その弟の加藤元久(かとう もとひさ, b.1956; 愛知県立東山工業高等学校=現愛知県立愛知総合工科高等学校中退)の5人が、当時36歳の山荘管理人である牟田郁男(むた いくお, b.1935?)さんの当時31歳の妻、牟田泰子(むた やすこ, b.1940?)さんを人質に取って立て籠もる。管理人の郁男さん自身は出かけていて難を逃れたが、妻が人質になっているため、警察の護衛つきで外部から山荘に呼びかけるも返答は無かった。東京から駆けつけ山荘を包囲した警視庁機動隊と、同じく応援に駆けつけた神奈川県警察機動隊と、現地の長野県警察機動隊が人質救出作戦を実行するが難航した。投入された機動隊員の総数は約1,500人にも及び、そこに群がったマスコミ関係者も約1,000人という前代未聞のスケールの事件となった。そのため宿泊所や食事やトイレの確保が喫緊の課題となった。長野県警はスケートセンターなど、あらゆる施設を応援部隊のために確保したが足りず、県警幹部には軽井沢署が臨時宿泊所となり、皮肉なことだが中でも人気の部屋は畳敷きの留置所だったという。籠城3日目の同年2月21日(月)夕刻には東京からヘリコプターで駆けつけて来た坂口と吉野の母親が口々にマイクで息子たちを説得したが、呼びかけに反応はなかった。籠城4日目の同年2月22日(火)に坂口と吉野の母親が二度目の説得にかかり、吉野の母は「マーちゃん、もし中にいたら聞いてちょうだい。私達はね。警察に呼ばれて来たのじゃないのよ。警察のためではないの。誤解しないで。親として見ておれないのよ。私は親だから、どうしても生きてもらいたいの。今のままじゃ、あんた達が浮かばれないと思うの。あんたたちにもプライドはあると思うのよ。格好悪いかもしれないけど、できにくいと思うけど、頼むから出てきて欲しいのよ、マーちゃん。私はあんたたちの一途な気持ちが誤解されるのが悔しいのよ。このままじゃ凶悪犯人と同じじゃないの。世の中、社会を思って、自分を犠牲にして一生懸命やってきたのじゃないの。世の中を良くするためにやってきたんじゃないですか。このままでは、あなたたちが浮かばれない気がするの。せめて最後は凶悪犯と違うところを見せて欲しいの。このままじゃ誤解されっぱなしよ。母親は子どもが生きてさえいればどこにいてもいいの。でもね、私はあきらめたわ。どうか最後は立派に死んでちょうだい。雅邦、私がこんなところで大きな声を出すのが、あなたのプライドを傷つけるかもしれない。かんべんしてちょうだい。でも、もう気が狂いそうなの。」と呼びかけた。坂口の母は、「申し上げます。これ以上、無理をなさらないで。みんな心配しています。命を大切にして下さい。いさぎよく武器を捨てて、奥さんを返して下さい。代わりが欲しければ、私が行きます。まわりはみんな囲まれているのよ。親はただ、子供の命さえ助かればいいいんですから。」と呼びかけた。これに対し、山荘から猟銃による2発の威嚇射撃があった。同日(2月22日(火))には連日加熱する報道で事件のことを知った無関係の民間人、田中保彦(たなか やすひこ, 1941?-72)氏が義憤(ぎふん: moral indignation)に駆られて誰にも頼まれもしないのに人質への果物差し入れを志願して、自分が人質の身代わりになると主張し、「赤軍さん、赤軍さん、私も左翼です。あなた方の気持ちは分かります。中へ入れてください。私も昨日まで留置場に入っていたんです。私も警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。私は医者をやっております。新潟から来たんです。」(犯人グループ最年少の加藤元久の証言)と話して近づいたが、犯人の1人に後頭部を狙撃され、病院に搬送された。籠城6日目の同年2月24日(木)、坂東の母(当時50歳)がマイクで息子らに呼びかけた。「国ちゃん、母ちゃん心配してやってきたで。(中略)みんな、みんな、いい子ばかりや。人を痛めたら自分も痛めつけられんならん。(中略)あんたらはエエ子ばっかりや。立派なところもあるし、けっして悪いことばかりしていたのではありません。みんなよくわかってるんやから。・・・・みんな良い人ばっかりです。悪くなったのも、ハタ(傍)が悪かったんです。政治が好きなら、世間を騒がせるようなことはやめ、政治家になればいいんや。あんた達が考えていたように、世の中も変わってきています。中国とアメリカのニクソンさんが握手してたんやから、あんたらの主張するようになった。あんたたちの役目は終わったんやから、早く家に帰ろう。あんたたちを温かく迎えるように警察の方々と約束できています。お母ちゃんと一緒に自動車で家に帰りましょう。ネコ、イヌ、タヌキ、クマのように、よく耐えて苦労したね。その勇気があれば世の中を渡っていける。鉄砲を撃つのは野蛮です。警察の人も、撃つのは野蛮な人です。両方が怒って喧嘩したら、喧嘩両成敗や。両方ともアホやなあと思います。アホなこと言うとると思ったら、見下してちょうだい。泣いたり、笑ったり、おかしいわ。」と。籠城9日目の同年2月27日(日)には吉野の母親と寺岡の父親が最後の訴えを息子たちに行なうも効果なし。籠城10日目の同年2月28日(月) 11:29、警察の決死隊が遂(つい)に猟銃の銃撃や手榴弾(しゅりゅうだん)の雨の中を強行突入し、8時間以上に及ぶ攻防戦の末、18時台に人質を無事救出した。犯人5名は全員生け捕りで逮捕されたが、警視庁特科車両隊の高見繁光警視と、警視庁第二機動隊隊長の内田尚孝警視の2人が殉職・死亡した。人的被害は死者3名(機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(機動隊員26名、報道関係者1名)となった。死亡した民間人とは上述の田中氏で、新潟市内の当時30歳のスナック経営者だった。病院に搬送された八日後(事件解決の翌日)の同年3月1日(火)に死亡した。滋賀県大津市に住む坂東国男の父(51歳)は自宅で視ていた中継のテレビを消すと、部屋から出て、裏庭の物置で首を吊って自殺した。一方、人質の牟田夫人の命に別条は無かったが、計219時間も監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録となった。牟田夫人は救出時の第一声が「苺(イチゴ)が食べたい。」だったので、「人が殺されてるのに何事か?!」とバッシングされ、マスコミ不信になったという。ところが一部の週刊誌や月刊誌によれば、真相は管理人になる前に九州地方の宮崎県で夫婦して公金を横領して逃亡生活をしていたという説がある。解放後に「(犯人の)五人はいい人だし、親切だった。」と発言したのが報道されたのを見て、警察側が慌てて、「あなたの過去の問題を全部消してあげるからあらゆる報道に一切出てはいけない。」と封じ込めたという。酷寒の軽井沢での機動隊と犯人グループとの緊迫した攻防戦、血まみれで搬送される機動隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な映像がカラーテレビで生中継され、日本中が固唾(かたず)を呑んで見守った。事件が漸(ようや)く解決した2月28日(月)の総世帯視聴率は調査開始以来最高値を記録し、ピーク時の18:26には日本放送協会(NHK)と民放を合わせた視聴率が89.7%(ビデオリサーチ関東地区調べ)という驚異的な数値に達したという。同日(月) 21:40~22:40に放映されたNHKの特別番組は平均視聴率50.8%(ビデオリサーチ関東地区調べ)を記録し、報道特別番組の視聴率としては日本最高記録である。凄惨な事件ではあったが、カラーテレビという新しいメディアが最も輝いた瞬間でもあった。また、視聴率とは別のエピソードとして、まだ売り出されたばかりの日清食品株式会社(英称 Nissin Food Products Co., Ltd.)のカップヌードル(Cup Noodle)を旨(うま)そうに啜(すす)る警視庁機動隊員の姿がブラウン管(テレビ画面)に映し出され、売り上げの急拡大に繋(つな)がったと言われている。酷寒の野外では通常の弁当や握り飯が凍って食用に適さないことから警視庁が考えた苦肉の策だったが、一緒に作戦に参加した現地の長野県警や神奈川県警の隊員には役所の縦割り行政のためカップヌードルが配布されず、「喰い物の恨み」という形で禍根を残した。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831125_00000&seg_number=001

1972年4月 イングランド教会=聖公会の米国版である米国聖公会が日本に設立した学校法人立教学院が、ロンドン南郊の西サセックス(West Sussex)州にマナーハウス(manor house: 領主館)を取得し、欧州初の在外邦人向け全寮制教育機関である立教英国学院(Rikkyo School in England)を開学。まずは小学部を19名の児童で開学し、中等部での教育の開始は翌年(1973年)4月となった。また、日本国文部省(現在の文部科学省)によって在外教育施設に指定されたのは1975年のこと。開学から四年が経過した1976年4月には高等部が開始され、その高等部が日本国文部省(現在の文部科学省)によって在外教育施設に指定されたのは1978年のこと。それと前後して1977年には英国の文部科学省(Department of Education and Science)、現在の教育省(Department for Education)によって私立学校(an independent school)として認可されている。

1972年5月15日(月) 二十七年近く前の1945年6月以来、米軍占領下にあった沖縄(米占領下琉球)が再び沖縄県として日本に復帰。しかしながら在日米軍が多数駐留し(今日に至る)、米国式の車輛右側通行もその儘(まま)残った(1978年7月29日(土)まで)。

1972年5月30日(火) テルアビブ空港乱射事件。イスラエルのテルアビブ近郊都市ロッド(Lod)に在るロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)で左翼系テロ組織の日本赤軍(JRA: Japanese Red Army)の幹部だった若者3名が無差別テロ事件を起こす。犯人は京都大学中退(当時27歳)の奥平剛士(おくだいら つよし, 1945-72)と、京都大学在学中(当時25歳)の安田安之(やすだ やすゆき, 1947?-1972)と、鹿児島大学在学中(当時25歳)の岡本公三(おかもと こうぞう, b.1947)の3名だった。フランスのパリ発ローマ経由のエールフランス機でロッド国際空港に着いた3人は、スーツケースで持ち込んだ自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて乱射し、加えてターミナル前に乗客を乗せて駐機していたエル・アル航空の旅客機に向けて手榴弾を2発投げつけた。この無差別乱射は死者26人と重軽傷73人を出した。死傷者の約8割が米領プエルトリコから来ていたカトリック信徒の巡礼者(スペイン語話者)だった。死者のうち17人が米国籍プエルトリコ人、8人が現地イスラエル人、1人はカナダ人だった。実行犯3人のうち2人はテロの最中に死んだが、イスラエル警備隊に射殺されたのか、それとも持っていた手榴弾で自殺したのかは今でも判明しておらず、「死亡」とのみ伝えられている。犯人のうち唯一生き残った岡本は警備隊に取り押さえられ、イスラエルで裁判にかけられたが、死刑判決は免(まぬが)れ終身刑が確定した。在学していた鹿児島大学からは除籍された。イスラエルの刑務所で服役したが、十三年後の1985年にイスラエルと敵対するパレスチナ系武装組織PFLP-GCとの捕虜交換により釈放された。その後はイスラエルと敵対するリビアとシリアを経由して、同様にイスラエルと敵対し、日本赤軍が本拠地としていたレバノンに渡り、現在も首都ベイルート郊外のアパートに暮らしている。テロ実行犯が日本国籍であったことを受け、日本国政府はイスラエル政府に対して公式に謝罪し、犠牲者に100万ドル(当時のレートで3億800万円)の賠償金を支払った。この事件を受けて世界中の空港で保安検査(security check)が強化され今日(こんにち)に至っている。

1972年7月1日(土) 勤労婦人福祉法(昭和47年7月1日法律第113号)が施行される。

1972年7月7日(金) 戦後初めて帝國大學(帝大)卒でも高級官僚出身でもない、二田(ふただ)高等小学校(在新潟縣刈羽郡西山町二田村、現新潟県柏崎市)卒の田中角榮(たなか かくえい, 1918-93; 首相在任1972-74)が内閣総理大臣になる。

1973年(昭和48年)3月3日(土) 青山学院大学の春木事件。法学博士(東北大学)で青山学院大学教授で学校法人青山学院常務理事の春木猛(はるき たけし, 1909-94; 靑山學院專門部卒業; 東北帝國大學博士課程修了; 米オクシデンタル大学卒業; 米ブラウン大学修士課程修了; 南カリフォルニア大学博士課程修了)が、教え子の女子学生を1973年2月11日(日・祝)に2回と、同年2月13日(火)に1回の、計3回にわたり自(みずか)らの研究室内で強姦したとして、強制猥褻(きょうせい わいせつ: indecent assault)ならびに強姦致傷(ごうかん ちしょう: rape resulting in injuries)の容疑により警視庁渋谷署に逮捕される。被害者は当時24歳の同大学文学部教育学科4年の女子学生で、週に一度、春木教授のスピーチクリニックを受講していた。春木教授は学生時代に英会話サークルである靑山學院ESS(English Speaking Society)の第六期部長を務め、昭和七年=1932年には新入生全員をESSに加入させ、数々のスピーチコンテストで優秀な成績を収めたという伝説の持ち主でもあった。春木教授は女子学生との性交渉(sexual intercourse)の事実は認めたものの、「彼女が私に接近し誘惑した。」、「私は糖尿病(diabetes)で数年前から正常な性能力がなかったので、最終的な性交には至っていない。従って、容疑のように処女膜(hymen)が破れることはない。」、「合意の上であり、私は陰謀に巻き込まれた。」と述べ、一貫して冤罪(えんざい)を主張した。しかし東京地方検察局(東京地検)は1973年3月24日(土)に春木教授を起訴。1974年3月28日(木)、東京地方裁判所(東京地裁)は春木教授に懲役3年の実刑判決を下した。但し、1973年2月13日(火)の件については「二度も陵辱(りょうじょく)を受けたところへ行った被害者の行動は慎重さを欠く。強姦成立は証拠不十分。」として無罪になった。春木教授は控訴したが、東京高等裁判所(東京高裁)でも原審の判決が支持され、事件から五年以上を経た1978年7月に最高裁判所(最高裁)で上告が棄却され懲役3年の実刑判決が確定し、春木教授は服役した。春木教授は1980年12月に八王子医療刑務所を仮出所した後は妻と別居し、新宿のアパートに独居。死の直前まで再審を要求していたが、再審の機会は与えられぬまま、出所から十三年余りが経過した1994年1月31日(月)に東京都渋谷区の知人宅で死去した。翌月(1994年2月)には無実を訴える本を出版する予定だったという。この事件には陰謀説(conspiracy theory)がある。被害者とされる女子学生は1973年2月11日(日・祝)の性行為の後、春木教授と二人連れ立ってレストランで食事を共にし、帰り際には自分から握手を求めていた。また、同年2月14日(水)のバレンタインデーには、自らチョコレートと手書きのカードを春木教授の研究室に持参しているが、同日の晩になってから母親に強姦の被害を訴えたという。同年2月15日(木)には、後に「地上げの帝王」と呼ばれた早坂太吉(はやさか たきち, 1935-2006)が春木教授の研究室に押しかけ、強姦の事実を認めるよう春木教授に要求した。早坂は当時、女子学生の父親が会長を務める「モガミ総業」の社長だった。同年2月17日(土)には、女子学生の側が「慰謝料1000万円の支払いと大学からの辞任」という条件を春木教授に提示している。週刊誌 『サンデー毎日』1980年5月25日号によれば、春木教授逮捕の約1ヶ月後、春木研究室の嘱託による「春木教授をスキャンダルに巻き込み、同教授を免職させ、(中略)同大卒業生の一掃を図る」、「もって大木青学院長体制を打破する」というメモが発見された。このメモは東京地検に提出されたが、1973年4月9日(月)、同嘱託は事件の真相の捏造を図った容疑により証拠隠滅罪で逮捕され、「催眠術師の暗示で嘘を書いた。」と供述した(『サンデー毎日』1980年6月8日号)。このため同メモは春木教授の一連の公判では証拠採用されなかった。ところが1990年には、地上げ屋早坂の元愛人がこの陰謀説を裏付ける証言を行なっている(『サンデー毎日』1990年4月22日号)。なお、被害者とされる女子学生は大学卒業後、自由民主党(自民党)の衆議院議員中尾栄一(なかお えいいち, b.1930; 青山学院大学文学部英米文学科卒;早稲田大学大学院修士課程修了; 2000年に受託収賄容疑で逮捕)氏の秘書になったが、中尾議員は青山学院大学出身で、反春木派の教授たちと親密な関係にあったという。

1973年3月~4月 国鉄(日本国有鉄道の略で現在のJRグループの前身)関係の暴動事件が相次ぐ。国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)の順法闘争(賃上げや労働条件改善を求める一連の労働運動)に乗客が反発した結果、同年(1973年)3月13日(火)に上尾事件、同年(1973年)4月24日(火)に首都圏国電暴動が発生。後者の事件では赤羽駅が端緒となり、上野駅、渋谷駅、秋葉原駅、有楽町駅等の計38駅で破壊・放火などが同時多発する。売店を除く損害額合計は9億6000万円。二階堂進(にかいどう すすむ, 1909-2000; 南カリフォルニア大学卒、同大学大学院修士)内閣官房長官は談話を発表し、「国民の迷惑を顧みない違法な争議行為に対する国民の批判はいまや明らかである」「民主主義体制そのものへの挑戦であり、政府として到底(とうてい)容認しない」と述べる。暴動収束四日後の同年(1973年)4月28日(土)午後(当時の土曜は午前中に会社や学校あり)から始まり同年(1973年)5月6日(日)まで続いたゴールデンウイーク(和製英語表現 Golden Week)では、事件の影響で列車運行本数が減らされ、旅行を中止する人も多く、行楽地は収入の減少に悩むことになる。

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1973年5月~6月 国士舘の暴力事件が相次ぐ。同年5月12日(土)、国士舘大学生2人が和光高校生数人を襲い重傷を負わせる。5月22日(火)、国士舘大学附属高校1年生(当時15才)が他校生に暴行を加え、「木につかまってミンミン蝉(ゼミ)の真似(マネ)をしろ!」と命じ、相手に屈辱を与える。6月2日(土)、国士舘大学1年生 2人(当時18歳と19歳)が小田急線電車内で東京藝術大学講師(当時32歳)にからんで重傷を負わせる。6月5日(火)、国士館大学1年生3人が小田急線電車内の吊革14本をナイフで切断して逮捕される。6月11日(月)、新宿駅(在東京都新宿区)のプラットフォームでラッシュ時の人混みの中、国士舘高校生20人と朝鮮中高級学校生20人が乱闘となり、駅内の喫茶店のガラスを割り、突き飛ばされた70歳の老女(平成日本語では高齢女性)が階段から転げ落 ちて2週間の怪我を負った。翌12日(火)には高田馬場駅(在東京都新宿区)で国士舘大学生20人が「朝鮮人をぶっ殺してやる!」と朝鮮中高級学校生を木刀で襲い、電車の窓ガラスを割って3人の逮捕者が出る。一連の事件を受けて、国士舘の右翼的教育方針に原因があるのではないかと国会でも取り上げられ大問題となる。

1973年7月20日(金) 23:55頃~23日(月) ドバイ(Dubai: 正確にはドゥバイ)事件、またはドバイ日航機ハイジャック事件が発生。当時22歳の丸岡修(まるおか おさむ, 1950-2011; 大阪府立清水谷高等学校卒)を中心とする日本赤軍(JRA: Japanese Red Army)とパレスチナ解放人民戦線(PFLP: Popular Front for the Liberation of Palestine)を名乗る国際テロ組織構成員計9名の合同作戦で、パリ発アムステルダム及びアンカレッヂ経由東京(羽田)行きの日本航空404便(Boeing 747-246B)が、飛行途中でハイジャックされる。事の発端は、航空機2階のファーストクラス・ラウンジに「エクアドル国籍の新婚夫婦」を装った男女がいて、経由地のアムステルダム離陸後にスチュワーデスからシャンパーニュ(champagne)のサービスを受けていたが、その直後にスチュワーデスが操縦室に入ろうとした際に新郎を演じていた男(氏名不詳)が押し入り、新妻を演じていた女(氏名不詳)が航空機2階のファーストクラス・ラウンジで誤って手榴弾を爆発させたことに始まる。女は即死し、近くで接客に当たっていたチーフパーサーが爆風で顔面に重傷を負う。これを機に同機はハイジャックされ、機長と副機長以外の乗客乗員計148名は両手を頭の上にかざした状態で犯人から飛行中監視され続ける。犯人グループは、一年以上前の1972年5月30日(火)に発生したテルアビブ空港乱射事件(死者26人・重軽傷73人)で拘束された犯行グループの唯一の生き残りである岡本公三(おかもと こうぞう, b.1947; 鹿児島大学除籍)の釈放と身代金500万ドル(当時の為替レートで約13億2500円)の支払いをイスラエル政府に要求し、レバノン共和国首都ベイルート(Beirut, Lebanon)またはシリア・アラブ共和国首都ダマスカス(Damascus, Syria)への着陸を求めるも、複雑な国際問題が生じるのを恐れたレバノンとシリアの両国政府はハイジャック機の着陸を承認せず、同機は已むを得ずアラブ首長国連邦(UAE: United Arab Emirates)のドバイ国際空港(DXB: Dubai International Airport )に着陸する。ドバイには3日間駐機し、その間に犯人グループから、身代金40億円の支払いと、逮捕されていた日本赤軍構成員2名の釈放を要求する脅迫状が日本航空に届く。これらを受けてドバイ首長の弟であるモハメッド・ラシッド(Mohammed bin Rashid Al Maktoum, b.1949)国防大臣や佐藤孝行(さとう こうこう; 本名 さとう たかゆき, 1928-2011)運輸政務次官らが犯人グループとの交渉に当たったが解決には至らず、7月23日(月)に同機はドバイ国際空港を離陸し、シリアのダマスカス国際空港(DAM: Damascus International Airport )で燃料の補給を行なった後、リビア・アラブ共和国のベンガジ(Benghazi, Libya)にあるベニナ空港(Benina Airport)に着陸させた。ここへ来て乗客乗員150人は、ハイジャック発生から89時間後に漸(ようや)く解放された。犯人グループは無人となった同機を爆破し、尾翼だけが残った。リビア当局に投降した。機体爆破に際し犯人グループは事前に乗務員に爆破を通知。着陸後乗務員は脱出用シュートを使って乗客を退避させたがこの際に数名の乗客が軽傷を負った。犯人グループは投降後、独裁者のカダフィ(Muammar Gaddafi, c.1942-2011; 最高指導者1969-2011)大佐率いるリビア政府の黙認と援助のもとでリビアの友好国を経由して国外逃亡した。主犯の丸岡は四年後の1977年9月28日(水)に発生したダッカ事件、またはダッカ日航機ハイジャック事件でも主犯格として関与し、その後も国際指名手配を掻(か)い潜(くぐ)って逃亡を続けたが、ドバイ事件から十四年後の1987年11月21日(土)に東京で潜伏中に偽造旅券を所持していた廉(かど)で別件逮捕され、一連のハイジャックやテロ事件に関与した罪で無期懲役の判決を受けて服役中の2011年5月28日(土)に八王子医療刑務所にて満60歳で持病の心臓病で歿す。

1973年7月20日(金)~1974年(昭和49年)3月26日(火) 立教大学の大場事件。

1973年9月6日(木) 午前4時頃、伊豆半島南端の石廊崎に近い静岡県賀茂郡南伊豆町池野原の奥石廊崎展望台(愛逢岬)下の海岸で一家4人と見られる水死体が浜辺に打ち上げられているのを釣り人が発見し、警察に通報。静岡県警下田署が現場検証した結果、近くの岩場から4人の物と思われる靴、ハンドバッグ、遺書が見つかる。遺書には「大変ご迷惑ですが、親子4人がこの下の淵で投身自殺しているのでお届けください。」と書いてあった。静岡県警察は、東京都豊島区南長崎在住の立教大学(在東京都豊島区)一般教育部の当時38歳の大場啓仁(おおば ひろよし, 1935-73; 同大学文学部英米文学科卒; 同大学院英米文学科修士課程修了)助教授(今で言う准教授)が、妻(当時33歳で大学の後輩)と幼い二人の娘(長女6歳、次女4歳)を道連れに静岡県南伊豆町奥石廊崎の崖から飛び降り自殺したものと断定。自殺の原因は、当時24歳の同大学大学院英米文学科修士課程の関京子(せき きょうこ, c.1949-73)嬢との不倫関係清算の失敗から、大場助教授が同院生絞殺後に死体遺棄していたからだった。なんと事もあろうに大場助教授は恩師の細入藤太郎(ほそいり とうたろう, 1911-93; 立教大学卒; カナダのカールトン大学卒; 米ハーヴァード大学大学院博士課程修了; 洗礼名 Kenneth)教授が八王子市鑓水(はちおうじし やりみず)に所有する一万平米の広大な別荘(多摩美術大学東側、現在の日本聖公会聖ケネス教会)の一角に遺体を埋めていた。事件への対応(隠蔽工作とも取られかねない対応振り)について立教大学が世間から批判を浴びる。

大場助教授は関京子嬢が学部生だった四年前の1969年から性的関係を持っていた。一方、関京子嬢も甲府市の資産家である両親からの早く地元に帰って見合い結婚をしてほしいとの要望に反し、大場助教授とつき合うために修士論文の提出を敢(あ)えて延期するほど大場助教授との関係にのめり込んでいた。既婚の男性教員が女子学生と愛人関係になるのは、当時の基準でも懲戒の対象となり得た。大場助教授は関京子嬢から「妊娠した」と告げられ、妻との離婚を迫られていた。一方、妻は大学の後輩でもある関京子嬢と夫の大場助教授との不倫を察知し、密会現場に踏み込んだり自殺未遂をするなど、夫に関京子嬢との関係清算を強く迫っていた。大場助教授としては、助教授の地位と妻子との家族関係を維持するための追い詰められての兇行だったが、あまりに短絡的で、殺害された関京子嬢と大場助教授本人、さらにはその家族3名の、合計5名が命を失うという陰惨な結末となった。

被害者の関京子嬢は大場助教授との愛人関係に悩み、さらにホジキンリンパ腫のため体調を崩し、静養のため甲府市で呉服店を営む実家にしばらく帰省していたが、1973年7月19日(木)に慶應義塾大学病院での定期治療のため上京した。当日午後、関京子嬢は新宿駅地下のダイアナ靴店新宿店で買い物をしたのち、獨協大学生の弟と一緒に下宿していた東京都北区十条の親戚宅に宿泊する。しかし「友達に会うので遅くなる」という伝言を残したまま、1973年7月20日(金)から連絡が途絶えた。両親は分別のある京子の行動としては不可解な上、健康状態も気懸(きがか)りだったが、同月23日(月)になって「二週間ほど旅行します。8月4日に帰ります。」という、1973年7月21日(土)新宿局消印の京子直筆の手紙が実家に届き、ひとまず安心した。また、1973年7月30日(月)には「大伴旅子」なる人物から、「遊覧船では厄介になりました。あなたの彼によろしく。」との礼状が、現金2万円を添えて郵送されてきた。このため両親は京子の音信不通は飽(あ)くまでも家出ではなく異性との長期旅行と信じ、また嫁入り前の娘に対する世評も懸念し、大学や警察への捜索願いの届け出が遅れた。しかし事件発覚後、二通の着信はすべて大場助教授の偽装工作だったことが判明する。一方、大場は「大伴旅子」の手紙が届いた1973年7月30日(月)に、「まだ帰りませんか?」と甲府まで京子の実家である関家を訪れ、両親からの相談に親身に対応して信頼関係を築くほどだった。

1973年7月20日(金)午後、研究室を離れた大場助教授は関京子嬢と新宿で合流した後、恩師の細入藤太郎(ほそいり とうたろう, 1911-93; 立教大学卒; カナダのカールトン大学卒; 米ハーヴァード大学大学院博士課程修了; 洗礼名 Kenneth)教授が所有する八王子市鑓水(はちおうじし やりみず)の別荘(多摩美術大学東側、現在の日本聖公会聖ケネス教会)に誘った上で絞殺し、遺体を付近の空き地に埋めた。その後、大場助教授は23時過ぎに立教大学アメリカ研究所の女性職員を池袋駅近くの料理店に呼び出した。女性職員は大場助教授が女子学生と問題を起こすたびに相談相手になっていた。大場助教授は女性職員に、関京子嬢との関係について「けりをつけた。君の想像以上の方法だよ。」と打ち明け、「自殺?」と尋ねる職員に対し、「もっと大変なんだ。」と殺人を示唆(しさ)した上で、「夕方5時から夜9時まで一緒にいたことにしてほしい」とアリバイ工作への協力を懇願した。

1973年7月21日(土)、大場助教授は細入教授が主催する囲碁同好会に参加するため静岡県熱海市に向かった。一方、大場助教授からアリバイ工作への協力を依頼されたものの殺人の可能性に困惑した女性職員は、1973年7月22日(日)に細入教授門下で大場助教授の八年先輩にあたる英米文学科助教授に事実を打ち明けた。驚愕した助教授は、細入教授の義弟で大場助教授とは立教大学の同期でもある専修大学助教授を自宅に呼び、徹夜で対策を協議する。1973年7月23日(月)午後に熱海から戻ってきた大場助教授を大学に呼び出し、女性職員から聞いた事実を確認したうえで自首するよう専修大学助教授とともに説得した。大場助教授は「やっちゃったもの、仕方がないじゃないか。残った者がどううまくやっていくか相談しよう。」と開き直り、立教大学の同僚助教授(部署は別)らは呆れ返ったが、夫の不倫に悩んで自殺未遂をしたことのある大場夫人(彼ら共通の後輩)への配慮から、大学および警察への通報を思いとどまる。1973年7月24日(火)も立教大学の同僚助教授は自首を勧めたが、大場助教授は「自分のことをあれだけ愛してくれた彼女なのだから、あんな扱いをされても、彼女は本望だろう。」と言い出し、「では君の娘が将来そんなことをされても構わないのか。」と迫られると「それは認めるわけにはいかん。」と答え、同僚助教授を啞然とさせた。こうした先輩や親友たちの苦悩をよそに、大場助教授は1973年7月25日(水)に何事も無かったかのように妻子を連れて千葉県の白浜まで海水浴に出かけた。しかし夫婦喧嘩の末に1973年7月26日(木)夜に一人で東京に戻り、東京都杉並区の高円寺駅近くのスナックに同僚助教授を呼び出す。相変わらず同僚の自首すべきだという説得に応じなかった。大場助教授は1973年7月29日(日)に八王子市鑓水(はちおうじし やりみず)に立ち寄り、関京子嬢の遺体を目に付きにくい地点に埋め直した。その後、大場助教授は専修大学助教授に会い、「絶対にわからない場所に埋めた。大丈夫だ。」と重ねて自首を拒否した。

関京子嬢(既に故人)が帰宅すると告げた筈(はず)の1973年8月4日(土)が過ぎ、さらに夏期休暇中とはいえ失踪から約1ヶ月も経過し、焦慮した京子嬢の母親は1973年8月18日(土)に立教大学を訪れて捜索を要請した。母親は大場助教授との不倫関係に悩んでいることを赤裸々に綴った娘の手記を彼女の部屋から発見し、失踪に大場助教授が何らかの形で関与していることを疑い始めていたが、この時点では飽(あ)くまでも家出と信じていた。一方、大学側は大場助教授と関京子嬢との不倫関係について或(あ)る程度は察知していたが、個人レベルの問題として外部には「ノー・コメント」で対応する方針を固める。

大場助教授は相変わらず隠蔽工作を続けた。1973年8月20日(月)には細入教授の家族らと八王子市鑓水(はちおうじし やりみず)の別荘に宿泊し、翌日は別荘敷地内(遺体を遺棄した土地)でテニスやバーベキューを楽しんだが、遺体を埋めた現場周辺の状況を確認したものと考えられる。帰宅途中には関京子嬢が通っていた都内の日本翻訳専門学校をわざわざ訪ね、「教え子が自分の責任で行方不明になり困っている。クラスメートの住所を教えてほしい。」と協力を依頼した。1973年8月21日(火)の読売新聞夕刊と1973年8月22日(水)朝刊には、「京子さん、連絡を待つ父病気、ひろよし」と大場啓仁助教授が依頼した三行広告も掲載されている。

関京子嬢失踪を告げられた大場夫人は、専修大学助教授らの説得で8月上旬から大阪に在る姉の嫁ぎ先に滞在していたが、19738月13日(月)に同助教授が面会した際、「京子さんが自殺している可能性があるのですね。そうなっても自分は大場と一緒にやっていくしかないと思います。」と答えている。しかしこの発言とは裏腹に、この頃に東京に戻って自殺未遂を起こした。当時、大場助教授は第四代ラグラン男爵(FitzRoy Somerset, 4th Baron Raglan, 1885-1964)著 『文化英雄 伝承・神話・劇』(太陽社 太陽選書, 1973; 原著 The Hero: A Study in Tradition, Myth and Drama, 1936)の翻訳原稿の最終校正を行なっていた。1973年8月25日(土)に太陽社(在神奈川県相模原市)で開かれた共同翻訳者たちとの検討会で、疲労のためか、あるいは教え子失踪の真相が発覚しつつあることへの心理的動揺のためか、何を問われても上(うわ)の空といった状態だった。このため、結局は会を中断せざるを得なくなったという。そして1973年8月26日(日)、遂(つい)に大場助教授は秋学期を前に自首を考えるようになり、1973年8月27日(月)に同僚助教授らと打ち合わせを始めた。

一方、関京子嬢の母親から捜索要請を受けた立教大学は、学生部を中心に内密に調査を進めていたが、1973年8月28日(火)になって同大学英米文学科助教授から大場助教授の1年後輩で一般教養部の学生副部長だった助教授に、女性職員が1ヶ月以上前に証言した関京子嬢失踪の真実が知らされる。醜聞(scandal)の情報は立教大学執行部に伝わり、ただちに一般教育部長の教授が大場助教授を呼び出した。さらに1973年8月30日(木)には学生副部長らが聞き取り調査を行なう。しかし大場助教授は関京子嬢失踪については「詳しいことは勘弁してくれ。」と、のらりくらりと黙秘し、大学執行部は云わば煙に巻まかれる形となった。執行部内では警察に即時通報すべきとの強い意見も出たが、英米文学科助教授は、「大場助教授を自首させるため最後の説得をするので、今しばらく待ってくれ。」と訴え、また大学側も立教のブランド・イメージへの影響や、万が一間違いだった場合は過激派から人権問題との糾弾を受けかねない上、警察官が大学構内に入ると沸騰している学生運動をさらに刺激する可能性があるとし、慎重に対応することとした。

1973年8月31日(金)、英米文学科助教授の説得に応じて大場助教授は遂(つい)に自首を決心し、一般教育部長宛に辞表を郵送するとともに研究室を整理した。1973年9月1日(土)、大場助教授は専修大学助教授と立教大学英米文学科助教授と最後の会食をした。その席で大場助教授と大場夫人を離婚させ、英米文学科助教授が夫人と2女児を自宅に匿(かくま)い、その上でマスコミの目に付きにくいだろう1週間後の土曜日に当たる1973年9月8日(土)に、大場助教授に弁護士をつけて自首させる手筈(てはず)が整えられた。当時の世間の耳目(じもく)は、1973年8月8日(水)にホテルグランドパレス(Hotel Grand Palace; 在東京都千代田区)で起きていた韓国の反体制活動家金大中(きん だいちゅう; Kim Dae-jung, 1924-2009; 大統領在任1998-2003)氏の拉致(らち)事件に集中していた。しかし肝心の大場助教授は1973年9月2日(日)に「義父の見舞いに行く。」と専修大学助教授に電話をかけて以降、妻子とともに消息を絶ってしまった。

大場助教授の一家は、自宅を去った1973年9月2日(日)の夜は帝国ホテル(Imperial Hotel, Tokyo; 在東京都千代田区)に宿泊し、ディナーを楽しんでいる。1973年9月3日(月)朝に東京を離れ、15:20頃に下田東急ホテルに到着した。伊豆は大場夫妻の新婚旅行の地であった。そして1973年9月4日(火) 午前10時頃にホテルをチェックアウトしている。

一方、大場助教授の妻子の隔離を引き受けたものの、大場助教授本人から数日に亘(わた)り一向に音信が無いことに不審を抱いた立教大学英米文学科助教授は、1973年9月5日(水)に大場助教授宅の鍵を持つ大場夫人の母親に声をかけ、豊島区南長崎に在(あ)る大場夫妻の自宅マンションを訪ねた。しかし内部は無人で家財道具の大半は整理されており、閑散とした室内には不吉にも喪服が整然と備えられていた。さらに大阪に居る大場夫人の姉から実家に、現金10万円を添えて大場一家が破滅した顛末(てんまつ)と形見分けなど事後の処理を細かく依頼した大場夫人直筆の遺書が届いたと連絡が入る。また、専修大学助教授の元にも「最後になって深い友情を裏切ってしまうことになりました。(中略)J子(=夫人の実名)には事実については最初から話しておりました。それで彼女には、以来死ぬことだけしか念頭になかったのですが、(中略)今はただ彼女の気持ちだけを最後には尊重してやりたいという気持ちだけが強いようです。」という遺書が届く。二通とも1973年9月3日(月)の下田郵便局消印が捺(お)されていた。ただちに大場夫人の目黒区大岡山に在(あ)る実家から所轄の碑文谷(ひもんや)警察署に、ノイローゼ気味の夫婦が娘2人を連れて下田方面に失踪したと捜索願いが出される。

自首を説得して奔走(ほんそう)したのに大場夫婦に「やられた」と思った専修大学助教授と立教大学英米文学科助教授は、1973年9月5日(水) 23:30頃に警視庁捜査一課の宿直室を訪問し、大場助教授による教え子殺害の可能性と一家失踪を伝える。そして、翌朝、1973年9月6日(木)に大場一家の遺体が伊豆の奥石廊崎で発見された。下田署による検視の結果、二日前の1973年9月4日(火)の夕刻に一家心中したものと推定されている。

失踪直後から真相をある程度は大学内の人間が把握していたにも拘(かか)わらず、事実を告げられずに娘の消息を求めて奔走していた被害者関京子嬢の両親は、当然ながら「大学による犯人隠しだ!」として激怒した。警視庁は大場助教授の自宅を所轄とする目白警察署に捜査本部を置き、専修大学助教授らから事情聴取しつつ本格的に捜査を開始する。犯人がすでに死亡しており、事件として立件するために被害者の死体を捜索することとなったが、こうした事案は警視庁でも前例がなかった。

大場助教授が専修大学助教授に「山かもしれないし海かもしれない。河口湖かもしれない。」と、遺体の処理についてはぐらかした発言をしていたため、一時は山梨県の河口湖の捜索も検討された。しかし1973年7月19日(木)に大場助教授が恩師の細入教授から八王子市鑓水(はちおうじし やりみず)に在(あ)る別荘の鍵を借りていたことが判明し、消息を絶った関京子嬢は大場助教授によって何度か逢引(あいびき)に使われた別荘内で殺害された可能性が強いと判断され、1973年9月12日(水)から周辺の捜索が開始された。その結果、泥のついたスコップが物置から発見されたほか、1973年9月19日(水)には別荘近くの茄子(ナス)畑からダイアナ靴店製の赤いサンダル式ハイヒールが左片方だけ発見されたが、失踪前日に関京子嬢が同店の紙袋を持っていたのを実弟が記憶していたのと、1973年7月19日(木)に都内で同じ型番が売られたのは新宿店の1足だけだったので、被害者の物と断定された。1973年9月20日(木)には200メートル離れた藪から右片方も発見されている。また聞き込み捜査の結果、1973年7月20日(金) 16:00頃に京王片倉駅付近の中華食堂で大場助教授と関京子嬢らしき女性が1時間ほど食事をしていたことが確認され、大場助教授のシャツや下着、軍手など遺留品も発見された。加えて、甲府の実家に届いた関京子嬢の手紙の下書きや、『万葉集』歌人の大伴旅人をもじったと思われる「大伴旅子」が使用したのと同じ「万葉」の題が入った便箋が別荘内の押し入れから見つかり、大場助教授が関京子嬢を殺害して周辺のどこかに埋めたのは確実と判断された。

しかし、殺人事件としての立件に不可欠な関京子嬢の遺体は、細入教授の別荘が雑木林や畑を含め敷地1万平米と非常に広かったうえ、大場助教授が1973年7月29日(日)に埋め直したこともあり、「絶対に分からない場所に埋めた。」との大場助教授の豪語を裏付けるかのように発見が難航した。実際には大場の犯行は無造作で短絡的だったが、野球やテニスを得意にしていたことから体力のあるスポーツマンと思われていた上、大学の助教授という肩書から知能犯というイメージもあり、警察内には大場助教授はよほど手の込んだ方法で遺体を処理したのだろうとの悲観的な雰囲気も漂った。

当初は300名態勢で警視庁航空隊や警察犬まで動員された捜索も、最終的には捜査一課と目白署の特別班7名に整理縮小され、「仏探し」が継続された。しかし別荘周辺の空き地や雑木林を農業用の検土杖で虱(しらみ)潰(つぶ)しに突き刺すという地道な捜索の結果、翌1974年2月28日(木) 14:30頃、別荘から50メートル離れた崖下にある造成予定地の藪(現在の鑓水板木の杜緑地の外側)から、洗濯用ロープにより両足で頭を抱え込むかたちで三重に縛られ50センチほど掘られた穴に無造作に埋められ、ミイラ化した無残な女性の遺体が発見された。僅(わず)かに残っていたオレンジ色のワンピースの柄や髪型の特徴から関京子嬢の物と特定された。司法解剖の結果、死因は絞殺と断定された。なお、関京子嬢が大場助教授に告げたという妊娠の事実は確定できなかった。関京子嬢が失踪して224日目、開始から190日間にわたった捜査はこの日で打ち切られる予定だったという。まさにギリギリでの遺体発見だった。1974年3月26日(火)、警視庁は大場助教授を被疑者死亡として殺人・死体遺棄容疑で書類送検した。(「NAVER まとめ」の特設記事及び「事件史探求」サイトに依拠し、一部加筆)

1974年(昭和49年)4月~1975年(昭和50年)11月 国会議員と大学教授の間に、そして数多(あまた)の野次馬論者の間に、英語教育大論争が起こる。平泉渉(ひらいずみ わたる, 1929-2015; 東京大学法学部卒、仏グルノーブル政治学院留学、仏エクス=マルセイユ大学留学)元外交官・元科学技術庁長官・参議院議員(後に衆議院議員)が自由民主党(自民党)政務調査会として「英語教育改革試案」を纏(まと)める。その要旨は、「一、世界の言語と文化についての常識を教える科目を中学課程に設ける。 二、すべての生徒に、英語についての常識を中学一年修了まで教える。 三、高校では英語は選択制とする。希望者のみを対象として、学習時間を増大し、毎年少なくとも一ヵ月の完全集中訓練も行う。志望者としては青年人口の5%程度(約600万人)を想定する。 四、大学入試から英語を外す。」などの具体的な改善案だった。これに対し、渡部昇一(わたなべ しょういち, 1930-2017; 上智大学卒、同大学大学院修士、独ミュンスター大学哲学博士、後に同大学名誉哲学博士)上智大学教授(後に同大学名誉教授)が月刊誌『諸君!』(株式会社文藝春秋)1975年4月号の誌上で「亡国の「英語教育改革試案」」と題して反論。「外国語学習の成果は、いずれ開花しうる「潜在的な」もので良いのであって、すぐに役立つような「顕在的な」ものではない。英文法、英文和訳、和文英訳の学習は、その意味では十分に役立っている。受験英語も同様である。母語の日本語と縁遠い英語と格闘することで姿勢が磨かれ、日本語についても深く理解できるようになる。」(要旨)とした。その後も双方が譲らず、鈴木孝夫(すずき たかお, b.1926)慶應義塾大学教授(後に同大学名誉教授)が司会を務め、『諸君!』1975年8月号で「激突対談・外国語教育大論争・終章」と題する誌上直接対決を実施。それでも双方譲らず、論争は『諸君!』1975年10月号まで続き、その論争の一部始終は1975年11月に平泉渉と渡部昇一の共著という形で『英語教育大論争』(文藝春秋, 1975年)の単行本として刊行され、同書は二十年後の1995年にも文藝春秋の文春文庫で再版された。しかしながら、平泉・渡部の両氏ともやや無関係な学習例などを幾度も持ち出して脱線するため、どこまでも議論は噛み合わず、最後には論争は立ち消えとなった。なお、平泉議員は仏英の二言語が非常に堪能で、独露の二言語も解したという。一方の渡部教授は英独の二言語に精通していて、漢文の素養もあった。平泉・渡部論争は、一般には実用英語と教養英語の闘いという位置づけで理解されがちであるが、必ずしもそれだけに割り切れない。

(参考外部サイト)

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https://www.msz.co.jp/topics/07847/

https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/8182/1/minamitani21_73-92.pdf

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https://languagevillage.co.jp/english_and_japanese/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A4%A7%E8%AB%96%E4%BA%89%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88/

1974年5月4日(土) ネパールのヒマラヤ山脈に属し、標高8,163メートルで世界8位の山であるマナスル(Manaslu)にて、中世古直子、内田昌子、 森美枝子の日本女性3名がシェルパのジャンブーとともに頂上に立つ。八千峰(8,000メートル級の山)の山頂に女性が立ったのは世界初の快挙。 ところが翌5日(日)に第二次アタックのために向かった鈴木貞子が行方不明となる。マナスルには槇有恒(まき ゆうこう or まき ありつね, 1894-1989)率いる日本男子登山隊が1956年に初登頂に成功している。なお、僅(わず)か一年後の1975年5月16日(金)には昭和女子大学文学部英米文学科(現在の国際学部英語コミュニケーション学科)卒業生の田部井淳子(たべい じゅんこ, 1939-2016; 昭和女子大学卒、後に九州大学大学院修士)=満35歳が、女性としては世界初の快挙を成し遂げる(詳細は1975年の当該月日へ)

1974年7月19日(金) 十二年半前に起こった昭和女子大事件について最高裁判所第三小法廷が原告の訴えを棄却し、被告学校法人昭和女子大学の勝訴が確定。「私学の独自性」を認めた判決内容が、「思想・良心の自由」を謳った日本國憲法の精神に反すると一部の憲法学者が批判。これ以降、この事件の判例が憲法の教科書の定番に。判決文は同大学の『学生便覧2000』と『学生便覧2001』の巻末に詳述。私立大学が学生の署名運動を届出制にしたり、学外団体への加入を許可制にしたりするなど政治活動を規則で規制することが「思想、表現の自由」を保障した日本國憲法15条と16条と26条に違反するか否かが十二年余りに亘(わた)って争われていた民事訴訟(身分確認)で、最高裁判所(最高裁)第三小法廷の坂本吉勝(さかもと よしかつ, 1906-89; 最高裁判事在任1971-76; 東北帝國大學卒)裁判長=68歳は、「特に私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによつて社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎり、かかる規律に服することを義務づけられるものといわなければならない。」( https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/112-3.html )として、大学側の退学処分を適法とする二審判決を支持し、訴えていた元学生、東京都豊島区巣鴨六丁目在住の甲野恵美子(ふくもり えみこ, b.1940?)女史=旧姓福森(ふくもり)=33歳と、東京都世田谷区下馬二丁目在住の原淳子(はら じゅんこ or あつこ, b.1940?)女史=33歳の上告を棄却する判決を言い渡す。私立大学での政治活動規制と学生の自由との関係について最高裁が正面から判断を示した最初の判決として、教育界のみならず法曹界でも注目された。二人は昭和女子大学文学部日本文学科(現在の人間文化学部日本語日本文学科)3年次在学中の1961年10月に学内で政治的暴力防止法案反対の署名を集め、左翼団体に関係したとして登校停止の処分を受けたのだった。処分の根拠は「署名運動をしようとするときは学生課に届け出、指示をうけなければならない」「許可なく学外団体に加入することはできない」と定めた「生活要録」に違反するというもので、二人は一旦「反省」を表明したが、同大学側の取り調べの厳しさに反発し、週刊誌に手記を発表したり、東京放送のラジオ(現在のTBSラジオ)の番組の取材に応じて自らの境遇を発信したところ、同大学側は翌年(1962年)2月、「学校の秩序を乱し学生の本分に反した」という学則違反で退学処分にしていた。このため二人は同大学を相手取り、身分確認の民事訴訟を東京地方裁判所(東京地裁)に起こしていた。今回の最高裁判決は私立大学の独自性を強調し、「もとより、学校当局の有する右の包括的権能は無制限なものではありえず、在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認されるものであるが、具体的に学生のいかなる行動についていかなる程度、方法の規制を加えることが適切であるとするかは、それが教育上の措置に関するものであるだけに、必ずしも画一的に決することはできず、各学校の伝統ないし校風や教育方針によつてもおのずから異なることを認めざるをえないのである。これを学生の政治的活動に関していえば、大学の学生は、その年令等からみて、一個の社会人として行動しうる面を有する者であり、政治的活動の自由はこのような社会人としての学生についても重要視されるべき法益であることは、いうまでもない。しかし、他方、学生の政治的活動を学の内外を問わず全く自由に放任するときは、あるいは学生が学業を疎かにし、あるいは学内における教育及び研究の環境を乱し、本人及び他の学生に対する教育目的の達成や研究の遂行をそこなう等大学の設置目的の実現を妨げるおそれがあるのであるから、大学当局がこれらの政治的活動に対してなんらかの規制を加えること自体は十分にその合理性を首肯しうるところであるとともに、私立大学のなかでも、学生の勉学専念を特に重視しあるいは比較的保守的な校風を有する大学がその教育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制限するのが教育上適当であるとの見地から、学内及び学外における学生の政治的活動につきかなり広範な規律を及ぼすこととしても、これをもつて直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制限であるということはできない。」( https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/112-3.html )とした。(1974年7月20日(土)付の朝日新聞東京本社朝刊3頁の記事「学生の政治活動制限 私大では違憲でない 最高裁判決」と、京都産業大学の須賀博志(すが ひろし, 生人非公開; 京都大学卒、同大学大学院修士)教授研究室「憲法学習用基本判例集」の中の「昭和女子大事件」の項目に依拠)

1975年(昭和50年)5月7日(水)~12日(月) 英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が夫のエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)とともに最初で最後の訪日を実現。東京で昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)と皇后良子(こうごう ながこ; Empress Nagako, or Empress Kōjun, 1903-2000)両陛下の歓待を受け、訪日初日に皇居宮殿で歓迎晩餐会が開かれる。ちなみに同宮殿では一ヶ月余り前の同年(1975年)4月4日(金)にルーマニア社会主義共和国(現在のルーマニア)の独裁者チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu, 1918-89; 大統領在任1974-89)大統領夫妻歓迎宮中午餐会が開かれている。その後、女王夫妻は京都と伊勢神宮と御木本(みきもと)真珠島(現在のミキモト真珠島)を訪問。5月12日(月)には国鉄(現在のJR東海)名古屋駅から国鉄(現在のJR東日本及びJR東海)東京駅まで新幹線ひかり100号の11号車に乗車し、当日は生憎(あいにく)の大雨で定刻より3分遅れて名古屋を11:58に発ったが、東京には13:56と30秒に着き、定刻通りの到着となった。英女王は「新幹線は時計より正確だと聞いています。」という名言を残す。なお、フィリップ殿下は九年後の1984年の鹿児島県奄美大島での自然環境調査と、十四年後の1989年に昭和天皇大喪の礼への出席のため、再来日を果たすことになる。

(外部サイト)

ニュース映像

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831142_00000&seg_number=001

連合王国エリザベス二世女王歓迎の宮中晩餐会のおことば(昭和50年5月7日)と連合王国エリザベス二世女王の答辞(和訳のみ)

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/nakanolib/choku/cs50.html#連合王国エリザベス二世女王歓迎の宮中晩餐会のおことば(昭和50年5月7日)

エリザベス二世女王の宮中晩餐会におけるスピーチ(原文)

http://sybrma.sakura.ne.jp/466queen.elizabeth.speech.html

1975年5月16日(金) 昭和女子大学文学部英米文学科(現在の国際学部英語コミュニケーション学科)卒業生の田部井淳子(たべい じゅんこ; Junko Tabei, 1939-2016; 昭和女子大学卒、後に九州大学大学院修士)女史=満35歳が、エヴェレスト日本女子登山隊の副隊長兼登攀隊長として、標高8,848メートルで世界一高いエヴェレスト山(Mount Everest)への登頂に成功女性としては世界初の快挙(同隊の隊長、久野英子は高所訓練中に一時帰国してしまったため女性初の栄冠を逃した)で、日本人としては6人目。田部井女史はその後も女性として初めて七大陸最高峰への登頂にすべて成功し、二十一世紀には母校の学校法人昭和女子大学の外部理事に就任した。2016年10月20日(木)に歿した(訃報が出たのは二日後の2016年10月22日(土))後は同学校法人名誉理事( https://univ.swu.ac.jp/topics/2019/05/15/32359/ )。

(外部サイト)

日本人のエベレスト(チョモランマ)登頂者一覧

http://www.everest.co.jp/everest95/summiter-j.htm (リンク切れ)

NHKアーカイブス 日本女子登山隊 エベレスト登頂

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030140_00000

NHK人物録 田部井淳子

https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010496_00000

Everest’s first woman climber Junko Tabei dies at 77

(エヴェレストに女性で初登頂したジュンコ・タベイが77歳で死去)

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2016年10月22日(土)

http://www.bbc.com/news/world-asia-37740382

女性で初めてエベレスト登頂 登山家・田部井さん死去

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)日本語版

2016年10月24日(月)

http://www.bbc.com/japanese/37748333

1975年8月4日(月)~8日(金) マレーシアの首都でクアラルンプール事件が発生。左翼系テロ組織の日本赤軍(JRA: Japanese Red Army)が在マレーシア米国大使館と同スウェーデン大使館を占拠して職員ら約50名を人質とし、日本国内の刑務所に収監中のテロリスト同志計7名の解放を要求。日本国政府の福田赳夫(ふくだ たけお, 1905-95; 首相在任1976-78; 東京帝國大學卒)内閣は犯行グループの要求に屈し、超法規的措置(ちょう ほうき てき そち: extra legal measures)として、囚人7名に日本赤軍への参加の意思を確認すると、2名がそれを断り、5名が応じたため、要求通りに5人を釈放・出国させた。これは反政府過激派(テロリスト)集団が日本国政府に対して勾留メンバーの釈放要求をして、実際に釈放させた初のケースであり、悪(あ)しき前例となり、テロ組織はこれに味を占めるようになる。両大使館占拠の犯行グループは同年(1975年)8月7日(木)に日本航空のダグラス DC-8型機でリビアに向け出国し、同8日(金)に独裁者のカダフィ(Muammar Gaddafi, c.1942-2011; 最高指導者1969-2011)大佐率いるリビア・アラブ共和国政府に投降した。

1975年9月30日(火)~10月14日(火) 昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が、フォード(Gerald Ford, 1913-2006; 大統領在任1974-77; ミシガン大学アナーバー校卒、イェイル大学法科大学院博士課程修了米大統領・法学博士(イェイル大学)の招きで最初で最後のアメリカ本土訪問を果たし、同大統領の歓待を受ける。但し、四年前の1971年9月26日(日)に欧州諸国歴訪途上の往路に米国アラスカ州アンカレッジ市(Anchorage, Alaska, USA)内のエルメンドルフ空軍基地(Elmendorf Air Force Base)アラスカ地区軍司令官邸に立ち寄り、首都ワシントン(Washington, District of Columbia, USA)から駆け付けたニクソン(Richard Nixon, 1913-94; 大統領在任1969-74; ウィッティア大学卒、デューク大学法科大学院博士課程修了)米大統領・法学博士(デューク大学)と会談したことを含めると二度目の訪米。同年(1975年)10月2日(木)にホワイトハウス(White House)で開かれた天皇皇后歓迎晩餐会の席で「私(わたくし)は多年、貴国訪問を念願にしておりましたが、もしそのことが叶えられた時には、次のことを是非貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が、我が国の再建のために、温かい好意と援助の手をさし延べられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、永く語り継がれて行くものと信じます。」というお言葉を日本語で述べ、通訳官によって即座に英訳される。なお、フォード大統領は前年(1974年)8月9日(金)のニクソン大統領辞任を受けて同日中に副大統領から大統領に自動的に昇格した人物であり、翌年(1976年)11月2日(火)の大統領選でカーター(Jimmy Carter, or James Earl Carter, Jr., b.1924; 大統領在任1977-81; ジョージア南西大学中退、ジョージア工科大学卒、アメリカ海軍兵学校卒)候補・ジョージア州元知事に負けたことから、大統領選挙に勝利して選出されたことのない米国史上最初で(今のところ)最後のアメリカ合衆国大統領である。(高橋紘(たかはし ひろし, 1941-2011; 早稲田大学卒)『昭和天皇発言録 大正9年~昭和64年の真実』(小学館, 1989年)に依拠した上で加筆)

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831141_00000&seg_number=001

1975年10月31日(金) 昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が訪米から帰国してから十七日が経過したこの日、日本記者クラブ主催の史上初の公式記者会見に臨む。記者会見は日本記者クラブの申し入れで行なわれ、同クラブ代表31人、宮内庁記者会常勤記者14人、日本駐在の海外マスコミ記者代表5人の計50人が出席。英タイムズ紙(The Times)日本人記者・東京特派員の中村康二(なかむら こうじ, 1918-82; Palmore Institute パルモア學院專門學校卒; 朝日新聞は「中村浩二」と誤記)氏の質問「天皇陛下のホワイトハウスに於(お)ける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下は、所謂(いわゆる)戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、お伺(うかが)い致(いた)します。」という質問に対し、「そういう言葉の綾(アヤ)については、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」と答えてはぐらかす。また、中国放送(英称 RCC Broadcasting; 本社在広島県広島市中区)の秋信利彦(あきのぶ としひこ, 1935-2010)記者の質問「天皇陛下にお伺(うかが)い致(いた)します。陛下は昭和二十二年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸(ぎょうこう)され、「廣島市の受けた災禍に対しては同情に堪()えない。我々はこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない。」と述べられ、以後昭和二十六年、四十六年と都合(つごう)三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられる訳(わけ)ですが、戦終終結に当たって、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか、お伺い致(いた)したいと思います。」に対しては、「この、えー、原子爆弾が、えー、投下されたことに対しては、えー、えー、遺憾には思ってますが、えー、こういう戦争中であることですから、どうも、えー、広島、市、市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」と答える。日本記者クラブ理事長で、この会見の司会進行役を務めた渡辺誠毅氏の質問「テレビなんかも、よく御覧になると思いますが、たとえばどういうふうな番組を御覧になりますでしょうか。色々そのお楽しみのことについても、ちょっとお伺いさせていただきたいと思いますけれども。」に対しては、「えー、テレビには、テレビに、は、色々、えー、視てはいますが、、、放送会社の競争が、甚(はなは)だ、えー、激しいので、えー、今どういう番組を視ているかというようなことは、答えられません。」と回答し、場内は爆笑の渦に包まれて閉会となる。(1975年11月1日(土)付の朝日新聞朝刊1面・4面と、2005年8月22日(月)付の慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス先端生命科学研究所荒川・生命情報科学研究グループ公式ウェブページ「1975年、天皇記者会見一問一答の中身」と、2014年10月14日(火)付の米ニューヨーク・タイムズ紙の加藤典洋(かとう のりひろ, b.1948; 東京大学卒)早稲田大学名誉教授執筆、マイケル・エメリッチ(Michael Emmerich, b.1975; プリンストン大学卒、立命館大学留学、コロンビア大学大学院博士課程修了)カリフォルニア大学ロサンジェルス校准教授・哲学博士(コロンビア大学)英訳意見コラム “The Journalist and the Emperor” =「ジャーナリストと皇帝=天皇」に依拠)

(会見全文)

http://www.jnpc.or.jp/img_activities/img_interview/img_specialreport/specialreport_19751031.pdf

(動画)

https://www.youtube.com/watch?v=4b6VuxlBUYI

https://www.youtube.com/watch?v=0fQsy4ul_m0

1976年(昭和51年)7月27日(火) 戦後初めて帝國大學(帝大)卒でも高級官僚出身でもない、二田(ふただ)高等小学校(在新潟縣刈羽郡西山町二田村、現新潟県柏崎市)卒でありながら四年前の1972年に内閣総理大臣にまで上り詰めた田中角榮(たなか かくえい, 1918-93; 首相在任1972-74)元首相が東京地方検察庁(東京地検)特捜部に逮捕される。米ロッキード(Lockheed)社の旅客機売り込みに端を発した事件で受託収賄罪などの廉(かど)で起訴された16人の内の一人が田中角榮だった。米上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)でロッキード社のコーチャン(Carl Kotchian, 1914-2008)副会長が「政財界の黒幕」と称された児玉誉士夫(兒玉譽志夫 こだま よしお, 1911-84)や、「政商」と呼ばれた国際興業株式会社(英称 Kokusai Kogyo Co., Ltd.)社主の小佐野賢治(おさの けんじ, 1917-86)や、総合商社の丸紅(英称 Marubeni Corporation)を通じ、複数の日本政府高官に工作資金を渡していたと証言したことで日本の検察庁と警視庁と国税庁は合同捜査態勢を採(と)り、特捜部が田中元首相らを逮捕したのだった。

1977年(昭和52年)3月3日(木) 経団連(Keidanren, or Japan Business Federation)襲撃事件が発生。右翼団体「憂國道志會」と、右翼系私設軍隊ごっこ組織「楯(たて)の會(くゎい)」と、右翼団体「大東塾」の関係者計4名がYP体制(ワイピー たいせい: 「1945年のヤルタ会談とポツダム会談で方向づけられた世界体制」の意で、別名「戦後レジーム」)を打倒し、「戦後体制の欺瞞(ぎまん)に鉄槌(てっつい)を下(くだ)す」という大義名分の下(もと)、ピストルと猟銃と日本刀を携(たずさ)えて経団連会館(在東京都千代田区)に侵入し、職員12名を人質に取って会長室に約11時間も監禁籠城。主犯の野村秋介(のむら しゅうすけ, 1935-93; 神奈川県立神奈川工業高校中退)は、約一年半前に左翼系テロ組織の日本赤軍(JRA: Japanese Red Army)が起こしたクアラルンプール事件で、日本国政府の福田赳夫(ふくだ たけお, 1905-95; 首相在任1976-78; 東京帝國大學卒)内閣が犯行グループの要求に屈して5人の獄中犯をやすやすと釈放してしまったことに対する憤(いきどお)りが、今回の事件を起こしたきっかけだと述べる。そして「メザシの土光さん」の異名(いみょう)を取った土光敏夫(どこう としお, 1896-1988; 東京髙等工業學校=現在の東京工業大学卒)経団連会長との面会を求めるも、会長は不在で目標を失ってしまう。犯人たちがノーベル文学賞候補にもなった世界的著名作家、三島由紀夫(みしま ゆきお, 1925-70)こと、本名 平岡公威(ひらおか きみたけ; 有職読みで「こうい」, 1925-70; 東京大学卒)を尊敬していたことから、三島未亡人の平岡瑤子(ひらおか ようこ, 1937-95; 日本女子大学卒)女史が事件現場に駈けつけて説得工作に当たった。これをきっかけに人質全員が解放され、篭城犯全員は逮捕される。刑事裁判で主犯の野村は懲役6年、他は懲役5年の判決となった。なお、犯人たちが尊敬していた三島は約六年半前の1970年11月25日(水)に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本省)に立て籠もって割腹自殺していた。

1977年4月 最大野党保守党の党首だったサッチャー(Margaret Thatcher; Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)が初来日して神奈川県座間市の日産自動車工場を視察。日産自動車はその十一年後の1986年にイングランド北西部のサンダーランドに工場を建設することになる。

1977年 受験競争の激化を憂えた文部省(現在の文部科学省)が、従来型の「詰め込み教育」とは正反対の「ゆとり教育」の方針を打ち出す。

1977年7月1日(金) 「勤労婦人福祉法」(1986年に通称「男女雇用機会均等法」として拡大発展)が施行される。

1977年9月28日(水)~10月3日(月) バングラデシュの首都でダッカ事件、またはダッカ日航機ハイジャック事件が発生。9月28日(水)にパリ発、アテネ及びカイロ及びカラチ及びボンベイ(現ムンバイ)及びバンコック及び香港経由、東京(羽田)行きの日本航空472便(Douglas DC-8-62)が、経由地のインド西部のボンベイを離陸直後に拳銃や手榴弾などで武装した左翼系テロ組織の日本赤軍(JRA: Japanese Red Army)構成員5名にハイジャックされる。同機はインド東部のカルカッタ(現コルカタ)方面に一旦向かった後、進路を若干変更してバングラデシュの首都ダッカのジア国際空港(DAC: Zia International Airport)=現在のシャージャラル国際空港(DAC: Shahjalal International Airport)に強行着陸する。犯行グループは人質の身代金として600万ドル(当時の為替レートで約16億円)と、日本で服役中または勾留中の9名の左翼テロリストを釈放するよう要求。これらが拒否された場合、または無回答の場合は、人質を順次殺害すると警告する。この際に犯人グループから「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられた影響を受けて、日本国政府はアメリカへの外交的配慮をせざるを得なくなる。折悪(おり あ)しくこの便にはジミー・カーター(Jimmy Carter, b.1924; 大統領在任1977-81)米大統領の友人の米人銀行家が乗っており、犯人たちはそのことを事前に知っていたという。同機はジェット燃料の消費を抑えるため、エンジンを停止させたことで機内の気温が摂氏45度以上に上昇し、熱中症(heat stroke)=当時の言葉で「熱射病」で倒れる者が続出した。しかし乗り合わせていた日本航空嘱託医師が手当てを行なったほか、機長が空港関係者にエアコンを作動させるための補助動力車と水を要求し、これが受け入れられたために機内の環境は改善された。同年(1977年)10月1日(土)に日本国政府の福田赳夫(ふくだ たけお, 1905-95; 首相在任1976-78; 東京帝國大學卒)内閣は犯行グループの要求に屈し、超法規的措置(ちょう ほうき てき そち: extra legal measures)として収監メンバーなどの引き渡しを決断する。釈放要求が出ていた9人のうち3人は日本赤軍への参加を拒否したため、6人の釈放の決定。日本国政府は同日(10月1日(土))朝に、運輸政務次官の石井一(いしい はじめ, b.1934; 甲南大学卒、米スタンフォード大学修士)を派遣団長とし、朝田静夫(あさだ しずお, 1911-96; 東京大学法学部卒)日本航空社長・元運輸事務次官ら同社の役員や運輸省幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と交代の客室乗務員、食糧6トン、身代金と釈放に応じた収監者6名を日本航空特別機(Douglas DC-8-62)でダッカへ輸送。日本国政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じるのは、二年前の1975年8月4日(月)~8日(金)に発生したクアラルンプール事件以来これで二度目となる。福田総理大臣は「一人の生命(いのち)は地球より重い。」(英マスコミ英訳: Human life outweighs the earth.)という迷言を吐いたが、テロリストに屈した姿は国際社会の不信感を招いた。また、日本國憲法改憲論者にとっては「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。[改行] 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」(英文 Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. [New paragraph] In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. the right of belligerency of the state will not be recognized.)という条文の足枷(あしかせ)がテロリストを利する結果になったと考えられる。バングラデシュ軍中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われ、空港の管制塔に集まっている間隙(かんげき)を衝(つ)いて、同年(1977年)10月2日(日)早朝に軍事クーデター(coup d’État)が発生。戒厳令(かいげん れい: martial law)が発令され、市内及び郊外の戦闘で政府軍の士官11名が戦死するなどしたが、最終的に2時間ほどで反乱軍は鎮圧される。犯行グループは日本側とは交渉せず、バングラデシュ当局とのみ交渉したが、結局ダッカでは乗客乗員118名が解放された。クーデター軍による身代金強奪を恐れたバングラデシュの大統領令により強制離陸命令が出され、乗務員と残りの人質を乗せたハイジャック機は救援機とともにダッカを発ち、日本国外務省が受け入れの交渉・手配をしていたアルジェリアへ向かう。同年(1977年)10月3日(月)に経由地のクウェートで人質7名が、シリアのダマスカスで人質10名(11名の説もあり)が解放され、最終目的地のアルジェリアで犯行グループはアルジェリア当局に投降し、残りの人質全員が解放される。

1978年(昭和53年)1月10日(火) 16:43、小田急小田原線経堂駅北口から約100メートルの距離にあるアパート「東荘」(在東京都世田谷区経堂二丁目)の四畳半一間の4号室で、この部屋に住む群馬県吾妻郡長野原町出身で、清泉女子大学(在東京都品川区)文学部キリスト教文化学科4年次在学中の長谷川優子(はせがわ ゆうこ, 1955?-78; 群馬県立渋川女子高等学校卒)嬢=22歳が殺害されたと家主の穂積武子(ほづみ たけこ, 1909?-歿年不詳)女史=68歳が通報。被害者は窓際のベッドの下にうずくまるように倒れていた。首にストッキングが巻かれ、性的に暴行された形跡もあった。タンスの引き出しが開いたままになっているなど、物色された形跡もあった。警視庁北沢署は殺人事件として特別捜査本部を設置する。家主の穂積女史によると、通報は第一発見者の若い警官に頼まれたのだという。その警官(鹿児島県指宿市出身)は捜査にも加わっていた北沢署経堂駅前派出所に勤務し、警視庁北沢署の独身寮「若竹寮」(在東京都世田谷区松原町)在住で、国士舘大学(本部在東京都世田谷区)夜間部1年次在学中の松山純弘(まつやま すみひろ, b.1957?)巡査=20歳である。北沢署での事情聴取によると、松山巡査は同日(1978年1月10日(火))午後に現場近くをパトロールしていた。16:30頃、現場のアパートでガラスの割れる音があったので、東荘4号室に駆けつけたのだと説明。しかしながら、松山巡査の話は時間の矛盾点があり、話を二転三転させ、同巡査の顔にひっかき傷があったことなどから捜査本部が厳しく追及したところ、同巡査は犯行を認め、事件当日(1978年1月10日(火))22:00過ぎの緊急逮捕に至る。事件の二日前の同年(1977年)1月8日(日)、同巡査は東京都新宿区歌舞伎町の映画館にポルノ映画を観に行き、その晩興奮から女子大生のことを思い出したことが犯行の動機となった。「ムラムラしてやった」と自供もしている。同巡査はパトロール中に住人不在の部屋を見つけると、侵入して現金などを盗む空き巣も数件行なっていた事実も今回の逮捕後に余罪として発覚している。同日(1978年1月10日(火))23:00と日付を跨(またが)った(1978年1月11日(水))0:00には警視庁に報道陣を集めて今泉正隆(いまいずみ まさたか, b.1926; 警視総監在任1980-82; 東京大学法学部卒)警視副総監と村上健(むらかみ けん or たけし, b.19-78; 京都大学法学部卒)警視庁刑事部長が、警視庁の一大不祥事について謝罪会見を開く。記者会見の場に警視総監が居ないことを記者団に問われると、その日は偶々(たまたま)風邪で寝込んでいると副総監が回答したが、翌日(1978年1月11日(水))11:00には土田國保(つちだ くにやす, 1922-99; 警視総監在任1975-78; 東京帝國大學法學部卒)警視総監が警視庁で記者会見を開く。その席で、「これまで4万4千人の警視庁警察官が築き上げてきた信頼が崩れ、、、その悔しさと無念さ、、、」と言って絶句し、テーブルを拳(こぶし)で二度も叩き、声を詰まらせる。土田警視総監はその足で同日(1978年1月11日(水))11:52、遺族(被害者の父母と妹ら計5人)が待機している旅館「晴光園」(在東京都世田谷区北沢一丁目)に到着。口をぎゅっと引き締め、報道陣には終始無言で警視庁北沢署長の池上氏と共に旅館に入る。土田総監は旅館の離れで遺族と対面し、正座をし、両手を畳について、「申し訳ありません!」と言って絶句。続けて「大切なお嬢さんを私の身内からこんなことにしてしまって申し訳ありません。」と漸(ようや)く言葉を繋(つな)ぐと、被害者の父親長谷川義男(はせがわ よしお, 生歿年不詳)氏が、「総監も奥さんを爆弾事件で亡くされ、身内を失った辛(つら)さがお分かりになると思うが、、、。これからこのようなことが無いようお願いします。」と語ったという。その瞬間、土田総監は両手をついたまま、ポロポロと涙をこぼし、遺族5人も全員泣いたと警視庁北沢署長の池上氏が朝日新聞の取材に語る。ここで遺族の長谷川氏が言及したのは、六年余り前の1971年12月18日(土)の「土田・日石・ピース缶爆弾事件」で土田民子(つちだ たみこ, 1924?-71)夫人=47歳が死亡し、四男が重傷を負った事件のことを指す。同年(1978年)1月11日(水)には安倍晋太郎(あべ しんたろう, 1924-91; 東京帝國大學法學部卒; 官房長官在任1977-78)内閣官房長官も記者会見でこの事件に言及し、「まさに前代未聞の不祥事であり、遺憾だ。この上は全警察が心を引き締め、厳正な規律のもとに国民の信頼回復に努力してもらいたい」と述べる。事件当日に記者会見した村上刑事部長は翌月(1978年2月)、自身の愛人である芸者宅で急病死(腹上死という説もあり)したのを警視庁は不憫に思ったのか、「公務多忙で自宅で病死」(後に「知人宅で」に訂正)と発表し、公葬(警視庁葬)にして勲章まで与えている。「ミスター警視庁」の異名(いみょう)をとった土田総監は松山巡査による事件で引責辞任に追い込まれるが、警視総監としての最後の公務が村上刑事部長公葬への葬儀委員長としての参列だった。その後、土田氏は第4代防衛大学校長の職に天(あま)下(くだ)りする。被害者の長谷川嬢は卒業を目前に控え、卒業論文の準備をしていて、私立大学院生の婚約者もいた。長谷川嬢は以前からその婚約者に、「若い警官にしょっちゅう部屋を覗(のぞ)かれている」と不安を訴えていた。松山被告は一審の東京地方裁判所(東京地裁)で無期懲役の判決(求刑死刑)を受け、事件から四年十ヶ月後の1982年11月に東京高等裁判所(東京高裁)で控訴が棄却され、無期懲役の刑が確定。東京都は国家賠償法に基づき、女子大生の遺族に4360万円余りの損害賠償金を支払った。世に言う「制服警官女子大生殺人事件」。(1978年1月11日(水)付の朝日新聞朝刊22頁と23頁の記事と、1978年1月11日(水)付の朝日新聞夕刊8頁と9頁の記事と、まとめサイト「【閲覧注意】日本で起こった凄惨な10の凶悪事件【戦慄記録】」と、西尾漠『日本の警察』(現代書館 For Beginnersシリーズ, 1984年)に依拠)

1978年4月 皇太孫(皇位継承順位第二位)浩宮(ひろ の みや; Prince Hiro, b.1960; 学習院大学卒)、後の皇太子徳仁親王(なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960)が学習院大学に入学。

1978年4月16日(日) 日本初の女性だけのフルマラソン(走行距離 42.195キロメートル)が滋賀県の琵琶湖畔で開催される。

1978年5月 国士舘大学焼身自殺事件。入部を断った新入生を国士舘大学(在東京都世田谷区世田谷)日本拳法部部員が暴行。これに抗議した新入生父親がキャンパス内で焼身自殺を図る。

1978年7月30日(日) 六年前の1972年5月15日(月)に本土に復帰していた沖縄県が米国式の車輛右側通行を止(や)め、本土と同じ左側通行に換える。現地沖縄県では日付に因(ちな)んで七三〇(ななさんまる)と呼ばれる。前日(1978年7月29日(土))から夜を徹して標識を付け替え、路上の白線を塗り替えるなどした。当時の沖縄は馬車が多数通行していたため、馬に左側通行を憶えさせることに苦慮したという。

1978年8月 国士舘大学二代目総長の偽博士号騒動。国士舘大学創立者である柴田徳次郎(しばた とくじろう, 1890-1973; 早稲田大学卒)の前妻の長男で二代目総長の柴田梵天(しばた ぼんてん, 1917-2012; 早稲田大学卒)氏の博士号が、米国の偽博士号製造会社(degree mill)から買った物であり、研究実体の無い称号だったことが同大学創立者一族の内紛劇の過程で暴露され、同大学は大きく揺れる。さらに追い打ちをかけるように柴田総長が息子で後の同大学教授の柴田徳文(しばた とくぶみ, b.1946)氏の米国留学資金に大学経費を私的に流用したことも発覚。創立者の後妻の嫁婿である安高武(あたか又はやすたか読み仮名不詳, c.1925-83)常務理事派との対立は決定的となるも総長辞任には至らず。同大学は柴田梵天「博士」の整合性を作り出すために四年前の1974年に「『共産党宣言』以後百二十五年」の論文で国士舘大学経済学博士号を授与されたこととした。

1978年10月17日(火) 三十年近く前の1948年12月23日(木)に米軍管理下の巣鴨プリズン(現在の東京メトロ東池袋駅近くの池袋サンシャインシティ)にてA級戦犯として米軍によって処刑されたA級戦犯七名と終身刑受刑者十六名と有期禁錮刑受刑者二名と判決前に病歿した二名の計二十七名を靖國神社(在東京都千代田区九段)が「昭和殉難者」として合祀(ごうし)。今日(こんにち)に至る。処刑された七名の内訳は、東條英機(とうでう ひでき, 1884-1948; 陸軍大學校卒)元首相・元陸相廣田弘毅(ひろた こうき, 1878-1948; 東京帝國大學卒)元首相・元外相板垣征四郎(いたがき せいしろう, 1885-1948; 陸軍大學校卒)元陸相、木村兵太郎(きむら へいたろう, 1888-1948; 陸軍大學校卒)元ビルマ方面軍司令官、土肥原賢二(どいはら けんじ, 1883-1948; 陸軍大學校卒)元奉天特務機關長、松井石根(まつゐ いはね, 1878-1948; 陸軍大學校卒)元中支那方面軍司令官、武藤章(むとう あきら, 1892-1948; 陸軍大學校卒)元陸軍省軍務局長。

1978年12月18日(月) 極端な貿易黒字(trade surplus)が欧米諸国の批判を浴びていた日本国が黒字削減(ドル減らし)のためと称し、同年(1978年)11月から12月にかけて西洋名画数点を前例の無い規模(約15億円)で購入すると発表していたが、ルーベンス(Pieter Pauwel Rubens; Sir Peter Paul Rubens, 1577-1640)の名画二点がこの日に届く。ところが一点は弟子の描いた模写であることが後に専門家による美術鑑定で判明したことで、日本国政府は面目丸潰れと成り、国内マスコミや一部国民からは税金の無駄遣いだと非難を浴びる。(2019年年12月18日(水)のNHKラジオ第1放送「マイあさ!」の「今日は何の日」の内容に依拠し、東京文化財研究所の公式ウェブサイトを参照した上で加筆)

1979年(昭和54年)1月13日(土) 奇問・難問や重箱の隅をつつくような問題をなくし、一定の学力基準を測ることを目的として、全国の国立大学に国語、数学、理科、社会、英語の5教科7科目(理科2科目・社会2科目は選択制)で合計1000点満点の大学共通第1次学力試験(通称 共通一次)が導入され、1990年(平成2年)に大学入試センター試験(通称 センター試験)が導入されるまで続く。導入までは8年間も延期に次ぐ延期だった。

1980年(昭和55年)1月16日(水) The Beatles (ザ・ビートルズ)の伝説的来日公演から約十三年半が経過した「成人の日」の翌日、自前のバンドWings(ウィングズ; 日本では誤って「ウイングス」; 直訳「翼たち」)を伴った来日公演のため、ポール・マッカートニー(Paul McCartney, b.1942)が新東京国際空港(現成田国際空港)に到着。しかしその荷物の中から大麻(cannabis)約200グラムを日本の税関職員が見つけ、マッカートニー氏は現行犯逮捕される。この逮捕により日本公演はすべてキャンセルとなる。日本の刑法では大麻の使用は禁止していないが、所持は禁止しているため、マッカートニー氏は大麻所持の罪状で逮捕された。マッカートニー氏は東京都内の府中刑務所に護送され、刑が確定しない儘(まま)10日間拘禁されたが、日英関係の悪化を懸念した日本国政府は超法規的に釈放し、国外追放処分とした。1970年代に大きな成功を収めたウィングズだったが、リーダーの逮捕の翌年に当たる1981年には自然消滅した。1980年12月8日(月)にジョン・レノン(John Lennon, 1940-80)がニューヨーク市マンハッタン島で自宅にしていたドイツ・ルネサンス様式の城を思わせる高級アパート(日本で言う「億ション」) The Dakota (通称 Dakota House)の前で熱狂的なファンに銃で撃たれて殺害されたこともあり、1980年はビートルズの信奉者にとって最悪の年となった。

1980年2月 昭和女子大学学園創立60周年を記念した昭和女子大学人見記念講堂(学内通称「創立者記念講堂」)が同大学キャンパス内に竣工。東京で初めて音響を計算した本格的な音楽ホールとしてマスコミ各社が大々的に報道。

1980年春 早稲田大学商学部事件。

1980年2月24日(日)、早稲田大学商学部の受験当日に試験官補助のアルバイトをしていた同大学の学生から「入試問題と全く同 じ問題の模範解答を作った」と報告があり、これを受けて同大学が内部調査したところ、全科目の入試問題が事前に漏れていたことが発覚。当時千百人の定員に 対し二万人以上の志願者がいた早稲田大学商学部では入試問題作成のために大学内に印刷所を設け、印刷所職員は万全の管理体制で厳しいチェックを受けながら 試験問題を印刷していた。商学部内では事件に関して極秘調査が進めらるも毎日新聞社への情報リークがあり、これを受けて毎日新聞も聞き込みや情報のウラ取りなど取材を開始。記者たちは漏洩事件に関わったと思われる会社員一名の存在をつきとめる。会社員は記者たちの十時間に及ぶ説得で自分の恩師である元高校教師をしていた男から入試問題を受け取って予備校へ持ち込んだと告白する。早稲田大学理事も漏洩の事実を認めた。

1980年3月6日(木)の合格発表当日、毎日新聞は入試問題漏洩を一面記事で発表し、教育界の一大スキャンダルに発展。早稲田大学は合格発表を通常通り行なったが、同大学には問い合わせが殺到。新聞記事を受け、警察も大学に対して事情聴取を開始。

数日後、商学部では入学手続きが開始されたが、同大学は合格者を一旦は入学させて、真相が分かり次第、取り消すことにしていた。毎日新聞の記者たちが元高校教師の家に通いつめて四日目のこと、遂(つい)に元高校教師は事件に関与する大学関係者の男の存在を明かす。翌日午後七時、記者と元高校教師はその大学関係者の男と対面し、記者との面会を約束した大学関係者は五時間後に共犯者二名と姿を見せる。この大学関係者は以前から元高校教師と一緒に不正入学の依頼を請け負っており、大学内に不正入学請負グループを作り、仲間の職員が採点済の答案用紙を差し替えるという方法で犯行を繰り返していた。しかし犯行を請け負っていた商学部の職員全員が人事異動してしまい、1980年春の入試ではこの方法が採れなくなった。それでも元高校教師は不正入学ビジネスを続けようとしたため、大学職員は一緒に不正入学を請け負ってきた仲間のナンバー2に相談。ナンバー2は印刷所職員の男に「姪の大学合格のために試験問題を盗んでほしい」と依頼し、印刷所の職員は姪にしか見せないという約束で依頼を引き受ける。入試問題を盗み出す者が見つかると、元高校教師とナンバー2が入試問題を買いたいという親を計八人見つけ、総額七千四百五十万円を受け取っていた。1980年2月5日(火)の印刷初日、依頼を受けた印刷所職員の男は問題用紙を抜き取って作業服の下に隠す方法で、社会科と数学の問題用紙を盗み、翌日国語と英語の問題用紙を盗んだ。 ナンバー2は謝礼金五百万円を印刷所職員に渡した。問題用紙は何枚もコピーされ、大学職員から元高校教師へ渡り、元高校教師から教え子だった会社員、会社員から予備校講師へと渡った。模範解答の作成に当たっては東大生に当初依頼したが多忙を理由に断られ、後に試験監督補助のアルバイトをすることになった早大生が何も知らずに模範解答を作成したことで事件が発覚した。その早大生にしてみれば、監督した際に何気なく捲(めく)った問題と、自分が解答を依頼された問題が同一であることに気づいて愕然(がくぜん)としたとのこと。警察は取り調べの結果、大学職員二名、元高校教師一名、印刷所職員一名を逮捕した。その後も遡(さかのぼ)って調査を進めた結果、1981年5月早稲田大学では卒業生42名、在校生13名、計55名の入学取り消し学籍抹消処分を行なった。(日本テレビ放送網「世界仰天ニュース」を一部改変)

1980年4月 文部省主導で「ゆとり教育」が開始される。一例として公立中学校の英語授業数を週4コマから3コマに削減。PTAが問題視。これ以降、公立学校離 れが進み、高額な私学や学習塾の教育を受けられる富める者と、そうでない者の格差が増大。昭和42年(1967年)以降の生まれを広義での「ゆとり教育世代」と位置づける。

1980年10月6日(月) 半年余り前の同年(1980年)2月に竣工していた昭和女子大学人見記念講堂(学内通称「創立者記念講堂」)の杮(こけら)落としに、往年の大指揮 者カール・ベーム(Karl Böhm, 1894-1981; ウィーン大学院卒)とウィーン・フィル(Wiener Philharmoniker)という当時世界最高の取り合わせが招聘(しょうへい)され、演奏会を実施。なお、老巨匠ベームは1年足らず後に故郷の墺太利で死去。NHK(日本放送協会)が全国放送で大きく取り上げ、同大学の宣伝効果も抜群。

1981年(昭和56年)2月23日(月)~26日(木) 聖ヨハネ・パウロ二世(羅 Papa Ioannes Paulus Secundus; 英 St John Paul II, 1920-2005; 教皇在位1978-2005)が、ローマ教皇として史上初の訪日を果たす。広島市と長崎市を訪れ、日本語で「戦争は人間の仕業(しわざ)です」「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴える。ローマ教皇の史上二度目の訪日は、三十八年と九ヶ月後の2019年11月23日(土・祝)まで待たねばならない。

1981年6月15日(月)夜 フランス共和国首都パリ市(Paris, France)内のパリ第三大学大学院比較文学専攻博士課程に私費留学中の佐川一政(さがわ いっせい, b.1949; 和光大学卒、関西学院大学大学院修士課程修了、パリ第三大学大学院修士課程修了)=32歳が、パリ警視庁に逮捕される。罪状は四日前の同年(1981年)6月11日(木)に自宅アパート(フランス語で appartement アパルトマン)へ招いたユダヤ系オランダ人女子学生ルネ・ハルテフェルト(Renée Hartevelt, 1956?-81)嬢=当時25歳を背後から22口径カービン銃(無許可で購入済)で撃って殺害し、その二日後の同年(1981年)6月13日(土)に切断した遺体をブゥローニュの森(Bois de Boulogne)に遺棄しようとしたとした廉(かど)。屍姦(しかん: 遺体への強姦)の後、遺体の一部を生の儘(まま)、或(ある)いは焼いて食べていたと供述して世間を騒がせる。ところが佐川は二年間公判前勾留された後、心神喪失状態だったとして保安処分となり、精神病院に入院したのち帰国し、1984年5月22日(火)から東京都立松沢病院(英称 Tokyo Metropolitan Matsuzawa Hospital; 在東京都世田谷区)に十四ヶ月(一年二ヶ月)間入院し、1985年8月に退院している。日本国内では自由の身となり、犯罪行為に対する大衆の下司(ゲス)な関心を逆手(さかて)にとりつつ主に執筆活動などで生計を立て、自称「画家」としている。2013年に脳梗塞(のう こうそく: cerebral infarction)で倒れて歩行が困難となり、実弟、佐川純(さがわ じゅん, b.1950; 慶應義塾大学卒、東京デザイナー学院卒)氏の介護を受けながら年金暮らしを送る。また、純氏の2019年の証言によると、佐川一政はパリで事件を起こす七年前の1974年には和光大学在学中だったが、東京都内で民家に侵入して在京ドイツ人女性強姦(人肉食目的とも)を企てたが未遂に終わり、父親の佐川明(さがわ あきら, 1914-2005; 東京商科大学=現在の一橋大学の前身卒)栗田工業株式会社(通称 クリタ; 英称 Kurita Water Industries Ltd.)社長がが支払った示談金により、告訴はされずに済んだとのこと。白人女性に惹(ひ)かれるのは、母方の遠縁(とおえん)にアイルランド人がいるからだと佐川本人が認めている。父親の明氏は今回のパリの事件では急遽渡仏して息子の後始末に奔走し、一ヶ月後に痩せ細って帰国したが、世間を騒がせた責任を取り会社を自主退職。佐川がラ・サンテ拘置所に居たころ、日本で事件の映画化を唐十郎(から じゅうろう, b.1940)=本名 大靏義英(おおつる よしひで, b.1940)に相談した大手映画会社があるというニュース記事について聞き及び、佐川は唐十郎に自己紹介の手紙を送る。思いもかけない手紙に唐は喜び、返事を書く。その後、何度かやり取りしていたものの突然音信不通となる。三ヶ月後、唐の書いた小説『佐川君からの手紙』が日本で発売され、発売わずか数週間で32万部を売り上げるベストセラーとなり、1982年度下期の芥川賞を受賞した。食人鬼(cannibalist)佐川一政という存在により、ただでさえも反日感情(Japanophobia; anti-Japanese feelings)が強い被害者の国オランダで対日イメージが更に悪化することになる。世に言う「パリ人肉殺人事件」。2017年には佐川一政を題材にした仏米合作ドキュメンタリー映画『カニバ パリ人肉事件38年目の真実』(Caniba)が第74回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門審査員特別賞している。(下記資料に依拠)

https://www.subculture.at/issei-sagawa/

1981年 藝大事件。1970年代後半に、東京藝術大学音楽学部の海野義雄(うんの よしお, b.1936)教授こと、本名 海野良夫(うんの よしお, b.1936; 東京藝術大学卒)氏が ヴァイオリンの購入を同大学と学生に斡旋(あっせん)し(それぞれ価格1600万円相当と880万円相当)、その見返りとして、楽器輸入販売業者の神田侑晃(かんだ ゆうこう, b.1945)氏から八十万円相当の弓と現金百万円を受け取っていた贈収賄(ぞうしゅうわい)事件が発覚。事件を受けて同大学学長(当時)で美術史家の山本正男(やま もと まさお, 1912-2007; 東京帝國大學卒)教授が国会に参考人招致されるなど楽壇や学界に留まらない醜聞(しゅうぶん: scandal)となる。海野教授は、四年後の1985年4月8日(月)に東京地方裁判所(東京地裁)で懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決が下り、同日中に同大学を懲戒解雇される。海野元教授は控訴するも同年10月に控訴を取り下げ、有罪判決が確定する。

1982年(昭和57年)2月8日(月)未明 死者33人(内13人は転落死)・負傷者34人を出したホテルニュージャパン火災(Hotel New Japan fire)が発生。死者33名の内訳は多い順に台湾人12名、日本人11名、韓国人8名、日系米人1名、英人1名である。この火災が起きた夜(1982年2月7日(日)から8日(月)にかけて)の宿泊客は計442人で、うち激しく燃えた9階と10階に宿泊していたのは103人で、その多くは台湾や韓国からの「さっぽろ雪まつりツアー」の宿泊者だったという。1982年2月8日(月) 3:24に東京都千代田区永田町二丁目13番8号に位置した地上10階建・地下2階のホテルニュージャパンで火災が発生し、発生から15分後の午前3:39に通りがかりのタクシー運転手から消防庁に119番通報が入る。麴町消防署永田町出張所第十一消防特別救助隊(通称 オレンジ)が5分後の3:44に到着した時にはホテルの9階と10階は巨大な炎に包まれていた。通報から遡(さかのぼ)ること4時間半ほど前である前日(1982年2月7日(日))23:00過ぎのこと、泥酔して938号室に戻ってきた英人男性宿泊客による寝タバコの不始末が火災の発端(ほったん)だった。英人は初期の小火(ボヤ)の段階で一旦目が覚め、毛布で覆って完全に消火したつもりで再び寝入ってしまったが、火は消えておらず覆った毛布に着火し部屋中に燃え広がったと見られている。そして火元の英人は部屋の前の通路の右手奥の行き止まりのところで焼死体となって発見されている。出火した未明の3:24から漸(ようや)く鎮火された昼の12:36まで9時間以上に亘(わた)って都心の空を真っ赤に染め上げて燃え続け、東京23区全域の消防車123台と消防士649人が営団地下鉄(現東京メトロ)赤坂見附駅附近に集結して消火活動に当たる。ちなみに翌日(1982年2月9日(火))には羽田空港で死者24人・負傷者149人を出した日本航空350便墜落事故(通称 日航逆噴射事故)があり、ここでも消防庁は対応に追われる。ホテルニュージャパン火災がこれほどの大惨事になったのは、英人の酔客(すいきゃく)の所為(せい)ばかりとは言えず、同ホテルを1979年に買収した、「乗っ取り屋」「昭和の買収王」の異名(いみょう)を持つ横井英樹(よこい ひでき, 1913-98)こと、生誕時の氏名 橫井千市(よこい せんいち, 1913-98; 愛知縣中島郡平和町=現在の愛知県稲沢市の地元の髙等小學校中退)社長が徹底的な支出の削減(和製英語で言うコストカット)によって利益を確保しようとしたことが主因であることが後に裁判で明らかになる。横井氏は消防庁から再三指導を受けていたにも拘(かか)わらず、高野甲子雄(たかの きねお, b.1948)救助隊長の談話によるとスプリンクラーは配水管を通していないダミーで、可燃材による内装や間仕切りの一部が木製など客室内の防火環境も不備が目立ち、電気代の節約のため加湿装置が止められていたため只(ただ)でさえ冬場の乾燥した空気が異常乾燥していて、火災を食い止める筈(はず)の防火扉(fire door)が絨毯(carpet)に引っかかり多数が作動しなかったり、火災報知機もホテル館内放送設備も故障した儘(まま)で放置されていて、尚且(なおか)つ従業員の教育不足で手動式の非常ベルについて従業員は操作法を知らず、従業員への給与遅配による士気の低下で緊急時の対応がとれなかった。火災はこれら多重の要因による人災そのものだった。こうした数々の違法運営により、横井社長は1987年に東京地方裁判所(東京地裁)で業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決を受け、火災から十一年以上が経過した1993年11月25日(木)に最高裁判所(最高裁)にて地裁の判決内容が確定。1994年から八王子医療刑務所に服役したが、1996年に仮釈放となり、1997年には刑期を終えている。そして横井氏は出所の翌年(1998年)に死去している。一方、焼け残ったホテルは放置され、横井元社長は敷地を担保に巨額の融資を引き出した。最大の債権者だった千代田生命がバブル崩壊後の1995年に自己競落し、火災から十四年後の1996年に漸(ようや)くビルを解体した。その四年後の2000年10月に千代田生命が経営破綻したため、米資本系のプルデンシャル生命保険株式会社(通称 プルデンシャル生命; 英称 The Prudential Life Insurance Co., Ltd.)が2001年に買収し、火災から二十年余りが経過した2002年12月16日(月)、ホテル跡地にオフィスと外国人向け高級賃貸住宅(condominiums)から成る地上38階建・地下3階のプルデンシャルタワー(Prudential Tower)が竣工。(2017年3月5日(金)付の週刊現代のオンライン座談記事に依拠しつつ加筆)

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831179_00000&seg_number=001

1982年2月9日(火) 8:44、羽田空港(在東京都大田区)で福岡発東京行きの日本航空350便DC8型機が墜落事故(通称 日航逆噴射事故)を起こす。死者24人、負傷者149人。前日のホテルニュージャパン火災に続く首都東京都区内の大惨事に消防庁は対応に追われる。ボイスレコーダー(voice recorder)に記録された石川幸史(いしかわ さちふみ, b.1948?; 中央大学卒)副操縦士=33歳の「キャプテン、やめてください!」は、「逆噴射」という用語と共に当時の流行語と成る。片桐清二(かたぎり せいじ, b.1946?; 岡山大学中退、航空大学校卒)機長=35歳は業務上過失致死の容疑で一旦は逮捕されるも、その後の精神鑑定により妄想性精神分裂病(現在の統合失調症)と診断され、心神喪失の状態にあったとして検察により不起訴処分となる。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831178_00000&seg_number=001

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030178_00000

1982年3月 日本国天皇の内孫で皇位継承順位第二位の浩宮(ひろ の みや; Prince Hiro, b.1960)=後の皇太子徳仁親王(なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960; 学習院大学卒)=更に後の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Naruhito, b.1960; 在位2019-; 学習院大学卒、同大学大学院修士、オクスフオッド大学マートン学寮留学)が学習院大学を卒業し、文学士の学位を授与される。

1983年(昭和58年)3月 お茶の水女子大学(お茶大)の外山滋比古(とやま しげひこ, 1923-2020; 筑波大学の前身の東京文理大学卒、同じく筑波大学の前身の東京教育大学文学博士)教授(後に名誉教授)が『思考の整理学』(筑摩書房 ちくまセミナー1, 1983年)を刊行し、一般社会で評判となる。三年後の1986年4月には文庫版(筑摩書房 ちくま文庫, 1986年)も刊行され、ロングセラーとなる。文庫版は三十年後の2016年11月までに111刷が世に出て累計211万部を売り上げる。これは二十一世紀(2001-2100年)初頭にベストセラーに成ることになる、同じお茶大の藤原正彦(ふじわら まさひこ, b.1943; 東京大学卒)教授(後に名誉教授)著 『国家の品格』(新潮社 新潮新書, 2005年)=刊行から1年で累計265万部の売り上げや、昭和女子大学の坂東眞理子(ばんどう まりこ, b.1946; 東京大学卒)教授・学長(2014年4月1日(火)から2016年3月31日(木)までは学校法人昭和女子大学理事長も兼務、2016年4月1日(金)からは同学校法人理事長・総長)が刊行した『女性の品格』(PHP研究所 PHP新書, 2006年)=1年足らずで累計300万部の売り上げの、両著書の先鞭(せんべん)をつける一般向け大学教授本と成った。なお、外山名誉教授は1989年にお茶大を退官後は十年間、昭和女子大学で教鞭(きょうべん)を執(と)ったが、2011年5月10日(火)付の朝日新聞夕刊の中で、「今日に至るまで外国の土は踏んでい」ないと語っている。

1983年6月 国士舘大学の柴田梵天(しばた ぼんてん, 1917-2012; 早稲田大学卒)二代目総長派OBらが学生部長を呼び出し、次長と評議員を辞任するよう迫り、無理やり辞表を書かせる。この席には柴田総長自身も同席していたとの証言もある。同大学は1973年に創立者の前妻の長男である柴田梵天氏と、後妻の嫁婿の安高武(あたか又はやすたか読み仮名不詳, c.1925-83)常務理事との間で総長の椅子を巡る熾烈な争いがあったが、柴田氏が勝利してその座に就いていた。

1983年7月4日(月) 国士舘大学常務理事刺殺事件。国士舘大学5号館2階の常務理事室で同大学OBの2名と面会中だった当時58歳の安高武(あたか又はやすたか読み仮名不詳, c.1925-83)常務理事が刺殺されるという事件が起こる。安高理事は国士舘大学創立者である柴田徳次郎(しばた とくじろう, 1890-1973; 早稲田大学卒)の後妻の娘の夫だった人物であるが、創立者の前妻の長男で二代目総長の柴田梵天(しばた ぼんてん, 1917-2012; 早稲田大学卒)氏とは険悪な関係にあったため、事件の裏で柴田総長が糸を引いていたのではないかという憶測も出た。警察が駆けつけたところ安高理事は既に死亡しており、常務理事室から逃げ出した男を警察が逮捕したところ、同大学中退の46歳会社員と判明。同人の自供で同大学卒の46歳も共犯として逮捕された。両人は当日午前7時20分に安高常務理事に面会を求めたが、常務理事が朝礼に出席中で会えず、隣室の秘書室で待っていた際に流し場の包丁に目が止まり、中村は脅すつもりで隠し持ったまま安高常務理事との面会に及んだ。しかしその後の供述では、包丁は1階の学生部室から持ち出したなどと前言を撤回している。2人は「最近の教育方針はなってない。国士舘は国を憂える国士を養成するところだ。」などと安高常務理事に難癖をつけ、安高常務理事が反論すると口論になり、1人が包丁で安高常務理事を刺殺したとの供述である。この頃の国士舘大学は柴田総長派と安高常務理事派との間で派閥抗争があり、逮捕された2人は以前から安高常務理事への妨害活動を執拗に繰り返していた。事件の1週間前の同年6月27日(月)のこと、安高常務理事は自分が四年近く前の1979年10月に柴田総長派OBらに監禁されて事務局長職を無理やり辞任させられた事件を公表しないのと引き換えに、柴田総長に同大学の海外での武道館建設の際の不正送金問題や柴田総長派OBらの学内人事への干渉について明らかにするよう迫っており、犯人らは安高常務理事に辞任を迫ったが断られたので刺殺したという見方が強まった。

1983年7月~1985年8月 皇太孫(皇位継承順位第二位)浩宮(ひろ の みや; Prince Hiro, b.1960)、後の皇太子徳仁親王(なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960)=後の今上天皇(きんじょう てんのう; Emperor Naruhito, b.1960; 在位2019-; 学習院大学卒、同大学大学院修士、オクスフオッド大学マートン学寮留学)がテムズ川(the River Thames)の水運史を研究するため英国オクスフオッド大学マートン学寮(Merton College, Oxford)に留学。最初の三ヶ月間(7月、8月、9月)は外国人向けの英語強化コースで学び、10月の新学年に間に合わせた。帰国の八年後に学習院創立125周年記念の一環として留学生活を回顧したエッセイ本 『テムズとともに 英国の二年間』(学習院総務部広報課, 1993年)を刊行し、さらにその十三年後には元駐日英国大使のコータッツィ(Sir Hugh Cortazzi, b.1924)氏によって The Thames and I: A Memoir of Two Years at Oxford (Folkestone, Kent, UK: Global Oriental, 2006) として英訳刊行された。

1984年(昭和59年) 六年前の1978年に起きた自身の「偽博士号」騒動と大学経費の私的流用事件が燻(くすぶ)り続け、国士舘大学の柴田梵天(しばた ぼんてん, 1917-2012; 早稲田大学卒)氏は二代目総長辞任に追い込まれたが、表向きは前年(1983年)7月に起きた常務理事刺殺事件の騒動の責任を取る形とした。

1985年(昭和60年)3月17日(日)~9月16日(月) 茨城県筑波郡谷田部町(現在の茨城県つくば市)にて国際科学技術博覧会(通称 つくば万博; 英称 The International Exposition, Tsukuba, Japan, 1985; 英略称 Tsukuba Expo ’85)が開催される。184日間に及ぶ開催中、日本を含む48ヶ国と37の国際機関が参加し、総入場者数は2033万人余り。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831198_00000&seg_number=001

1985年4月1日(月) 日本電信電話公社(通称 電電公社; 英称 Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation)が民営化し、日本電信電話株式会社(通称 NTT; 英称 Nippon Telegraph and Telephone Corporation)が発足。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831197_00000&seg_number=001

1985年同月同日(月) 四年前の1981年に開設され、二年後の1983年に認可されていた放送大学(旧英称 The University of the Air; 現英称 The Open University of Japan)が本放送を開始。従来までの大学と異なり、学生は専用のラジオ放送やテレビ放送を通じて受講し、学位が取得できる。これは十五年半前の1969年秋にイギリスに開設された公開大学(Open University)を手本にしている。

1985年5月17日(金) ほぼ十三年前の1972年7月1日(土)に施行されていた勤労婦人福祉法(昭和47年7月1日法律第113号)が、通称 「女子差別撤廃条約」の批准のため、「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」(通称 「男女雇用機会均等法」)と改称して法改正。施行は翌年(1986年)4月1日(火)。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831209_00000&seg_number=001

1985年7月25日(木) 五年半前の1979年末に国連(UN: United Nations)で採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women; 日本語通称 「女子差別撤廃条約」)が日本でも効力発生。

1985年8月12日(月) 18:56 日本航空123便墜落事故、通称 御巣鷹山(おすたか やま)事故が発生。東京(羽田)発、大阪(伊丹)行きの日本航空123便(Boeing 747SR-100)が、群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまが はら やま)の尾根(通称 御巣鷹の尾根)に墜落し、乗客乗員計520名が死亡。生存者は僅(わず)か4名。非搭乗員の死傷を除く単発の航空機事故としては史上最悪の規模の事故であるが、約八年半前の1977年3月27日(日)にスペイン領カナリア諸島のテネリフェ島で発生したテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故では2機の乗客乗員計583人が死亡している。死者の中には二十二年前の1963年に永六輔(えい ろくすけ, 1933-2016; 早稲田大学中退)作詞、中村八大(なかむら はちだい, 1931-92; 早稲田大学卒)作曲の「上を向いて歩こう」(英題 Sukiyaki)で日本人としては最初で最後の全米ナンバーワン・ヒットを放った歌手の坂本九(さかもと きゅう; Kyu Sakamoto, 1941-85)こと、本名 大島九(おおしま ひさし, 1941-85; 日本大学高等学校中退)がいた。作詞者・作曲者・歌手の三人の名、六輔・八大・九の数字を採って六八九トリオ(ろくはちきゅうトリオ; 6-8-9 Trio)と呼ばれた。なお、ネット上で実(まこと)しやかに囁(ささ)かれる陰謀論(conspiracy theory)として、翌月(1985年9月)のプラザ合意(Plaza Accord)の布石として米政府の命令を受けた在日米軍(the US Forces in Japan)が日本政府を脅す目的で民間航空機を撃ち落としたとする説がある。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831194_00000&seg_number=001

1985年9月21日(土)~22日(日) 米日独英仏(但し、独は統一前の西ドイツ)の世界五大経済大国(G5: the Group of Five)の蔵相と中央銀行総裁が米国ニューヨーク州ニューヨーク市(New York, NY, USA)に在るプラザホテル(Plaza Hotel)にて会合を持つ。そこで合意された所謂(いわゆる)プラザ合意(Plaza Accord)により円高(the stronger yen)が誘導されるようになる。当時は米国が巨額の貿易赤字に悩まされ、対照的に日本は貿易黒字を享受していた。米国はその原因が行きすぎたドル高・円安(the strong dollar and the weak yen)だと分析し、それまでの円安を円高に転換しようと画策(かくさく)し、日本もそれに同意せざるを得なくなる。1973年2月に1ドル=308円でスタートしたドル円の変動相場は、プラザ合意の前月(1985年8月)には1ドル=240円前後だったのが、同年(1985年)10月の米ドルの月平均は214.68円、同年(1985年)12月の月平均は202.786にまでドル急落・円急上昇となった。以後の日本のバブル景気の端緒となる。

1986年(昭和61年)4月1日(火) 1977年に施行されていた「勤労婦人福祉法」を拡大発展させた「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」(通称 「男女雇用機会均等法」)が、前年に効力を持った国連の「女子差別撤廃条約」と歩調を合わせる形で施行される。採用・昇進等での男女の機会均等は事業主の努力義務とされた(差別的取り扱いの禁止は十一年半後の1997年10月1日(水)の法改正を待たねばならない)。結果としてほんの一握りだが、一部の女性が「総合職」に就き男性と肩を並べて働ける社会に変化した。この時に22~24歳ぐらいで「総合職」として採用された女性たちは「均等法第一世代」として部長などの役職者を目指すようになった。しかし大部分の女性は相変わらず「一般職」で採用され、男性社員のためのお茶汲みやコピー取りや受付業務などを和製英語で言うOL(オフィス・レディー)として続けたため、女性会社員の二極化現象が起こった。

1986年5月8日(木)~13日(火) ウェールズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)がダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)とともに初訪日を実現。京都、大阪、神戸、東京を訪れ、行く先々でダイアナ旋風を巻き起こす。しかしチャールズ皇太子の長年の不倫と、ダイアナ妃の過食症や奔放な恋愛生活のため、夫婦関係は約五年で破綻(はたん)したと考えられているため、この訪日の辺りから皇太子夫妻の関係は険悪になったと思われる。来日中のエピソードとしては、ダイアナ妃が工場見学時にヘルメット着用を求められても「髪型が崩れるから」と拒否したことが知られている。伝統藝能(歌舞伎または能)の鑑賞でダイアナ妃は居眠りし、夫(当時)のチャールズ皇太子に突つかれて注意されている。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030206_00000

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831208_00000&seg_number=001

1986年9月22日(月) 日米関係を揺るがせた「知識水準」発言の波紋。中曽根康弘(なかそね やすひろ, b.1918; 首相在任1982-87; 東京帝國大學法學部卒、元拓殖大学総長・理事長、拓殖大学名誉総長)総理大臣は、静岡県函南町(かんなみ ちょう)で開催された自由民主党(自民党)全国研修会の講演の中で、日本と米国の社会を比較して次のように述べる。曰く、「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当インテリジェント(intelligent)なソサエティー(society)になって来ておる。アメリカなんかより遥(はる)かにそうだ。平均点から見たら、アメリカには黒人とかプエルトリコ人とかメキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的に見たら(アメリカの)知識水準はまだ非常に低い。」と。この首相発言は米国社会の禁忌(taboo)に触れるものだったばかりか、日米貿易摩擦によって反日感情(anti-Japanese sentiments; Japanophobia)が高まっていた時期だったこともあり、米マスコミがすぐに飛びつく。メキシコ系や黒人が多く居住するカリフォルニア州では、ロサンゼルスとサンフランシスコの日本領事館に抗議の電話が相次ぐ。首都ワシントン(Washington, DC)の米議会(United States Congress)もこの発言を問題視し、メキシコ系などのヒスパニック議員連盟の会長が発言の撤回を要求。黒人議員連盟も発言の真意の説明を求める緊急電報を在米日本国大使館(Embassy of Japan in the USA)に打つ。下院本会議では16人の議員が中曽根発言を糾弾する演説に立ち、「米国社会に対する重大な侮辱」と発言撤回や謝罪を求め、下院に「中曽根首相非難決議」が提出され、日米間の政治問題に発展。これに困り果てた中曽根首相は、「多くのアメリカ国民を傷つけ、心からお詫びします。」との陳謝のメッセージを松永信雄(まつなが のぶお, 1923-2011; 東京帝國大學法學部卒)駐米大使経由で米側に伝える。ヒスパニック議員連盟と黒人議員連盟が中曽根首相の陳謝を受け入れたことで、首相非難決議案は決議されずに廃案に終わる。(2018年1月27日(土) 6:00配信のダイヤモンド・オンラインの記事「女性蔑視から人種差別まで、昭和な政治家トンデモ発言集」に依拠)

1986年12月30日(火)または31日(水) 物理学者にして反原発活動家としても知られた芝浦工業大学(本部在東京都港区)の水戸巌(みと いわお, 1933-86; 東京大学理学部卒、同大学大学院博士課程修了)教授・理学博士(東京大学)=53歳が、双子の息子である水戸共生(みと きょうせい, 19??-86)氏=京都大学大学院在学中=と水戸徹(みと とおる, 19??-86)氏=大阪大学在学中=と共に、親子3人で北アルプスでも難峰として知られる剱岳(つるぎだけ: 標高2,999メートル)の冬季登頂を目指すも北方稜線(小窓尾根)の小窓付近で消息を絶つ。京都大学山岳部などの協力による捜索活動の結果、3人の遺体は翌年(1987年)夏までに順次発見され、水戸教授の死亡が確認される。生前は原子力推進に不都合な活動をしていたため原子力ムラからの嫌がらせや脅迫は日常茶飯事であり、自宅に切断された指が送られてきたり、「命があると思うな」という脅迫電話を受けることもあったという。未亡人となった水戸喜世子(みと きよこ, 生年不詳)夫人は2014年に「テントのファスナーは閉じていて、谷に向いた面だけにT字型の破れ目があって、そこから谷筋に向けて体が放り出されたと思われる。この破れ目は何が原因でできたものか、なぜ靴はテントに残したまま全員が寝袋と共に靴下姿で谷筋から発見されたのか、頭部の血痕の原因は何か…… 「気象遭難説」だけでは説明したことになっていない。」と書いている。冬山は人目が無く、事故に見せかけるのも簡単である。この冬山行は暗殺には絶好のチャンスだったと思われる。おそらく、登山者を装った暗殺集団が水戸親子の後を密かに追い、テントで寝ていた彼らを襲って殺し、遺体を谷底に落としたとする説もある。前述の喜世子夫人によれば、権力の監視は四六時中で、日常の動きもすべて把握されていたとのこと。剱岳への登山も事前に警察に登山ルートを届け出なければならないし、警察が遭難事件を起こすことは充分可能であったという。つまり水戸教授は権力に殺されたのではないかと喜世子夫人は疑っている。(同教授他著『原発は滅びゆく恐竜である』の著者略歴と教授未亡人による寄稿と、2021年4月17日()劇場公開の映画『きみが死んだあとで』に関する耶馬英彦(やま ひでひこ)=本名・生年ともに不詳=による映画.com内のオンラインレビューに依拠)

1986年12月~1991年2月 日本のバブル景気が51ヶ月(4年3ヶ月)間も続く。「財テク」が流行語になる。

1987年4月1日(水) 日本国有鉄道(国鉄)が分割民営化でされ、JRグループ発足。

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https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831213_00000&seg_number=001

1987年(昭和62年)同月同日(水) 大手予備校最古参の駿台予備校(1918年創設)が学校法人駿河台大学(在埼玉県飯能市)を設立。「予備校が大学を作った!」と話題に。

1987年 日本中が空前のバブル景気で株価や地価や給与所得が上昇し続ける。

1987年10月2日(金) 昭和女子大学(在東京都世田谷区)がホテルオークラ東京(在東京都港区)で文教担当の新聞記者を約70名ほど集めて電撃的に記者会見。会見には当時の理事長(第2代理事長)人見楠郎(ひとみ くすお, 1916-2000; 東京帝國大學卒)以下、当時の学園本部長、教務部長、昭和ボストン事務局長、ボストン市長代理の日米混成5名(日本3名、米国2名)が臨む。会見によると、米国ボストンで廃校になった私立カトリック系寄宿学校のナザレス学校(Nazareth School)の敷地を校舎ごと買収し、ボストン昭和女子大学(Showa Boston Institute for Language and Culture)を開学するとマスコミ発表。大学のカリキュラムに海外留学を組み込むのは日本で初めての試みとの由。日本のお嬢様大学の海外キャンパスとしてマスコミに大きく報じられる。(1987年10月3日(土)付の毎日新聞の記事を参照)

1988年(昭和63年)2月 東京大学(東大)が入試二次試験の英語でリスニング(但し、開始当時は昭和期の和製表現でヒヤリング)試験を実施。

1988年3月 日本国天皇の内孫で皇位継承順位第二位の浩宮(ひろ の みや; Prince Hiro, b.1960; 学習院大学卒)、後の皇太子徳仁親王(なるひと しんのう; Crown Prince Naruhito, b.1960)が学習院大学から人文科学修士の学位を授与される。

1988年4月 半年前の1987年10月2日(金)のマスコミ発表通り、昭和女子大学が折からのバブル景気の勢いに乗り、ボストン昭和女子大学(通称 昭和ボストン)を開学。

1988年9月19日(火) 昭和天皇(Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)の吐血・入院が報じられる。歌舞音曲、各種行事、祝賀イベントなどが自粛され、中止または規模縮小を余儀なくされ、お笑い芸人が生活苦に追い込まれる。自粛の動きは公的な物ばかりでなく、一般庶民の結婚式などの祝宴にも波及し、日産自動車のTVコマーシャルの中で井上陽水(いのうえ ようすい, b.1948)こと、本名 井上陽水(いのうえ あきみ, b.1948; 福岡県立西田川高等学校卒)が視聴者に呼びかける「皆さ~ん、お元気ですか~?」の台詞(セリフ)を無音化して放送する異常事態にまでなる。

1988年12月7日(木) 長崎県長崎市の本島等(もとしま ひとし, 1922-2014; 京都大学卒)市長が、国中に自粛ムードが漂っている中で、市議会で昭和天皇の戦争責任に関する意見を求める共産党市議の質問に対し、海外の記事や自分の従軍経験から考えて「戦後四十三年経って、あの戦争が何であったかという反省は十分にできたと思います。(中略)私が実際に軍隊生活を行ない、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います。」と答弁。同日の記者会見でも「天皇が重臣らの上奏に応じて終戦をもっと早く決断していれば沖縄戦も広島・長崎の原爆投下も無かったのは歴史の記述から見ても明らかです。」と重ねて発言した。その直後に自由民主党(自民党)長崎県連などが発言撤回を要求したが、本島市長は「自分の良心を裏切ることはできない。」として、撤回を拒否した。長崎新聞社によると、元々は「天皇にも戦争責任はあると思う。しかし、日本人の大多数と連合国軍の意志によって責任を免れ、新しい憲法の象徴になった。私どももそれに従わなければならないと解釈している。」という趣旨の発言だったが、マスコミ各社は「天皇の戦争責任はあると思う。」と言う部分だけを強調する形で報道した。多数の街宣右翼(多くは在日韓国朝鮮人)が長崎市役所に押しかけ、80台以上の街宣車を使用して市長への「天誅」(てんちゅう: 神などの人間を超越した存在が、悪行を行なった人間に対して誅伐・天罰を下すことから転じて、その代行として右翼団体構成員がテロ犯罪を行なうこと)を叫んだ。

1989年(昭和64年)1月7日(土) 前年(1988年)9月から入院闘病中だった昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)が崩御(ほうぎょ)。昭和最後の日となったことで、昭和64年は僅(わず)か1週間で終わる。ちなみに昭和元年も1926年の最後の1週間のみ。なお、2021年1月23日(土)付のヤフーニュースに転載された小学館のニュース・ポストセブンのオンライン記事(『女性セブン』2021年2月4日(木)号からの転載)に引き合いに出された歴史探訪家、竹内正浩(たけうち まさひろ, b.1963)氏によると、昭和天皇の生涯で列車での移動距離は24万キロメートル(240,000km)を超えたとのことである。晩年の1988年(昭和63年)歌会始(お題は「車」)で昭和天皇が詠んだ短歌「国鉄の車に乗りて おほちちの明治のみ世を おもひみにけり」には鉄道への愛着が表れている。これは昭和天皇生前の最後の歌会始でもあったが、前年(1987年)4月に分割民営化が断行され、明けて正月に「国鉄」の文言(もんごん)を入れたことが興味深い。

(外部サイト)

ニュース報道

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0001831222_00000&seg_number=001

昭和天皇崩御当日(昭和64年1月7日)の特別番組

https://www.youtube.com/watch?v=lK-3NrTJW8Y

(冒頭に1971年英国再訪)

平成以降の大学年表は続編( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline3 )へ。

https://dot.asahi.com/dot/2019052300011.html?page=5

【世界の殺人鬼】佐川一政「パリ人肉事件犯を起こした殺人犯」

佐川一政 / Issei Sagawa

パリ人肉事件犯を起こした殺人犯

邪知先鋒(EKS: Evil Knowledge Spearhead)

2020年6月24日(水)

https://bunshun.jp/articles/comment/12747#ulCommentWidget

パリ人肉事件・佐川一政を介護する弟が実名告白「バカな奴だけど、絶縁できなかった」

朝日新聞社 AERAdot.編集部

西岡千史(にしおか ゆきふみ, b.1979)記者署名記事

2019年5月23日(木)

(参考)外部サイト

「彼女がとてもおいしそうだったから」日本人留学生が女性の遺体を食べた“パリ人肉事件”とは何だったのか

文藝春秋 文春オンライン

「週刊文春」編集部

『週刊文春』 2014年3月20日(木)号掲載

2019年7月15日(月)