専門英語(歴文)09(2014/ 7/10) グランドツアーから英国ゴシック文学へ

グランドツアー(英 grand tour)

敢(あ)えて訳せば、大周遊旅行。18世紀に流行した英国貴族の若旦那による欧州大陸周遊の大名旅行。坊ちゃんの勉強の面倒をみる個人教師(移動型家庭教師)や、坊ちゃんの心の面倒をみる司祭や、馬車を操る御者(ぎょしゃ)や、現在で言うツアーガイド(和製英語で「ツアコン」)のような案内人や、元軍人で腕っ節(ぷし)の強い用心棒や、身の回りの世話をする召使いなど沢山のお伴を引き連れて行った。彼らは文化・藝術の先進地帯であったフランスとイタリアを1~2年かけて旅した。

前世紀(17世紀)のイタリアには風景画を得意とするロラン(仏 Claude Lorrain, c.1600-82)というフランス系の名を持つ画家や、ローザ(伊 Salvator Rosa, 1615-73)という画家たちが活躍していた。ロランやローザの描いた風景画は ideal landscape(理想風景、観念的風景)、つまり頭の中で拵(こしら)えた風景と呼ばれた。その絵にはしばしば建造物の廃墟が登場し、不気味な雰囲気が漂う。これは当時のイングランド人に強い感動を与えた。ロランやローザはイングランドで高く評価され、現在では作品のかなりの部分がイングランドの城館や美術館にある。

グランドツアーでフランスからイタリアへはアルプス越えをした。地中海沿岸部はまともな道路が整備されておらず、海を船で行くとイスラム教徒の海賊に襲撃される可能性が高かったから、そうするしかなった。馬に乗るか、歩くなどして危険な思いをして山道を通った。イングランド最高峰のスコーフェル尖山(Scafell Pikes)が海抜978メートルしかなく、ウェールズのスノウドン山(Snowdon)で1,085メートル、スコットランドにあるブリテン島最高峰のネヴィス峰(Ben Nevis)ですら1,345メートル止まりである(箱根の山よりも低い)。したがってアルプスの3千メートル級、4千メートル級の山を初めて見たイングランド人は度肝を抜かれた。一つ間違えれば命を落としかねない場所で高い山や深い谷を見て恐れを感じる。その恐れこそが見る者に大きな感動を与える。畏怖(いふ)の気持ちの混じった美への感動である。こうした雰囲気のことを英語では sublime(英 サブライム = 崇高)といい、オクスフオッド大学出版局(OUP: Oxford University Press)が刊行している世界最大級の英英辞典である『オクスフオッド英語辞典』(OED: Oxford English Dictionary http://www.oed.com/view/Entry/192766?rskey=B5atJT&result=1#eid ) 12巻本では9番目の定義として次のように定義している。

Of things in nature and art: Affecting the mind with a sense of overwhelming grandeur or irresistible power; calculated to inspire awe, deep reverence, or lofty emotion, by reason of its beauty, vastness, or grandeur.

(自然や芸術に用いて)圧倒的な壮麗感や抗(あらが)い難(がた)い力の感覚で精神に作用し、美や広大さや壮大さでもって、畏怖、深い畏敬の念、高尚な気持ちを起こすようにできていること。

崇高(the sublime)

美(the beautiful)の対立概念である崇高(the sublime)を主張したのは、アイルランド生まれでイングランドのホイッグ党政治家兼著述家だったバーク(Edmund Burke, 1729-97)だった。バークは A Philosophical Enquiry into the Origin of Our Ideals of the Sublime and Beautiful(『崇高と美についての我々の観念の起源に関する哲学的一考察』1757年、邦題『崇高と美の観念の起源』)を著(あらわ)し、崇高(the sublime)を美(the beautiful)とは明確に区別した。バークによれば崇高の特徴は7つある。

1. Obscurity(暗さ・曖昧さ)。人間のもつ心の暗さや黒さ。人間の心に潜(ひそ)む悪魔性 。どちらともつかない曖昧性。明確には解決できない謎。

2. Power(力強さ)。暴力的な力。

3. Privation(欠乏・欠如)。例えば廃墟。建物がその機能を発揮していない点が却って魅力になる。

4. Vastness(広大さ)。イタリアの風景画に見られる。

5. Infinity(無限)。限界がなく、どこまでも広がっている。

6. Succession(連続・継続)。断絶しないで続いて行く。

7. Uniformity(均一・統一)。対象物全体が同じ一つの雰囲気で貫かれている。

ピクチャレスク(英 picturesque ピクチャスク; 仏 pittoresque ピットへスク; 伊 pittoresco ピットスコ)

1782年にイングランド人の聖職者・思想家のギルピン(William Gilpin, 1724–1804)がその著書Essays on the Picturesque(『ピクチャレスク試論』1794年)で持ち込んだ概念。18世紀に新たに出現しつつあったロマン主義的感性の一部。美(the beautiful)と崇高(the sublime)という、合理的に理念化された状態の間の中間的存在の可能性を示しつつ、なおかつ美と崇高という対立理念の調停者としての概念をピクチャレスク(the picturesque)とした。

この概念は英国式風景庭園に少なからず影響を及ぼした。川も池も不規則で粗削りで変化に富んで自然そのままのように見せかけて、道もわざと直線にしないで曲げたり遠回りさせて造った。また、バークの言う「崇高」も風景庭園の特徴の一部を示している。バークが定義の5番目に挙げた「限界がなく、どこまでも広がっている infinity(無限)」は、風景庭園が空濠(ha-ha または sunk fence)と言われる技巧を用いることで、囲われた自然を恰(あたか)も囲われていないかのように見せる手法を想起させる。

ゴシック小説の流行

こうした時代の流れの中で1749年、ホイッグ党政治家で英国初代首相ウォルポール(Sir Robert Walpole, 1676-1745)の道楽息子ホレス・ウォルポール(Horace Walpole, 1717-97)が、自らの邸宅を風変わりなゴシック風に改築させた。その15年後、豪奢な自宅で夢にうなされて、長篇小説 The Castle of Otranto: A Gothic Story(『オトラント城: 或るゴシック的物語』1764年)を書いた。1529年にイタリア人が出版した原本をイングランド人がオートラントォ城で発見して、それを英訳したという触れ込みだが、これは全くの出鱈目だ。しかし作品の成功に気を好くした覆面作家自身が後に本当の作者として名乗り出た。小説の舞台は11世紀か12世紀辺りのイタリアで、オートラントォは長靴型のイタリア半島の踵(かかと)の部分に実在する町で、小説はそのオートラントォの領主に纏(まつ)わる話である。

この小説の成功に触発されて、リーヴ嬢(Clara Reeve, 1729-1807)が The Champion of Virtue(『美徳の擁護者』1777年)を著(あらわ)し、翌年に改題して The Old English Baron(『イングランド人の老男爵』1778年)とした。また、ロンドン市長も務めた大商人の道楽息子ベックフオッド(William Beckford, 1760-1844)が Vathek(『ヴァテック』1786年)を刊行した。1790年代に入ると平凡な家庭の主婦ラドクリフ夫人(Ann Radcliffe, 1764-1823)が The Mysteries of Udolpho(『ユードルフォの謎』1794年)を著して大成功し、3年後には The Italian(『イタリア人』1797年、邦題『イタリアの惨劇』)を出している。また、ルイス(Matthew Gregory Lewis; “Monk” Lewis, 1775-1818)の Ambrosio, or the Monk(『アンブロシオ、或いは修道僧』1796年)、後に改題して単に The Monk(『修道僧』)が加わり、18世紀末にはゴシック小説が花盛りとなった。

メアリー・シェリーの両親

ゴシック小説の執筆・刊行は富裕な道楽息子や暇な主婦や未婚女性のお遊び的な要素が強かったが、異色作として社会の告発を含んだゴシック的な小説も表れた。プロテスタント信徒カルヴァン派の牧師から無神論者・革命思想家・社会改革者に転じたゴドウィン(William Godwin, 1756-1836)が刊行した Things as They Are, or The Adventure of Caleb Williams(『あるがままの物事、或いはケイレブ・ウィリアムズの冒険』1794年、邦題『ケイレブ・ウィリアムズ』)は、まさしく社会告発小説と言える。

ゴドウィンの主著は、An Enquiry Concerning Political Justice, and its Influence on General Virtue and Happiness(『政治的正義と一般的美徳と幸福へのその影響に関する一考察』1793年、邦題『政治的正義』)である。この『政治的正義』は立派な大論文だが、一般読者には難し過ぎて著者の思想がなかなか伝わらなかった。そこで小説なら解り易いだろうと考えて、ゴドウィンは『ケイレブ・ウィリアムズ』を書き、それが売れて評判にもなった。主人公のケイレブが警察や探偵に追われながらも本当の悪を追い詰めてゆくという、追いつ追われつの構造は読者にサスペンス(suspense =宙ぶらりんにされた心理・心情)を与える。

主人公ケイレブは、自分の元恩人でご主人様だった殺人犯のフォークランドという偽善的な地主を小説の最後近くになってとうとう追い詰めて、2人は法廷で対決する。しかしここからは2種類の原稿があり、2つの異なった結末が用意されている。最初の結末ではケイレブの正義は通用しない。地主のフォークランドは金持ち地主階級の一員として社会的に信用がある一方で、対するケイレブは脱獄囚だからだ。結局ケイレブは再び収監されてしまう。

2つ目の結末では、法廷でフォークランドが今まで犯してきた罪状を全て告白する。しかしあまりのショックで、本人はその晩心臓麻痺で死んでしまう。ケイレブは自分がフォークランドを殺したも同然だという自責の念に駆られる。自らの無実を晴らしたにもかかわらず苦い勝利だ。

この小説は遠い昔の話でもなく、遠い外国の城や修道院が舞台になっている訳でもなく、予言も幽霊も悪魔も登場しないので、厳密にはゴシック小説とは言えないだろう。作者ゴドウィンは遊びや金儲けでこの小説を書いたのではなく、階級制度の矛盾を一般読書人にも気づかせるために書いたのだったのだ。しかし迫り来る人間の残忍さ、無実にもかかわらず追われる人間が目にする恐ろしい悪の世界といい、当時流行のゴシック小説的な要素も盛り込まれている。

ところで後にゴドウィンの妻となるのは、フェミニスト(女権擁護論者・女権拡張運動家)の先駆的存在のウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft, 1759-97)である。Wollstonecraft は A Vindication of the Rights of Woman(『女性の権利の擁護』1792年)を刊行している。メアリーはこの頃、スイス出身の妻子持ちの帰化英国人画家フューズリ(Henry Fuseli, 1741-1825)、ドイツ語名フュースリ(Johann Heinrich Füssli)と不倫の関係に陥っていた。同’92年末、この画家フューズリとの道ならぬ関係を断ち切るため、「フランス革命の様子を観察するため」と称して、メアリーは単身パリに渡った。そこでイムレイ(Gilbert Imlay, 1754-1828)というアメリカ人実業家と知り合って同棲した。この同棲により、メアリーは王制国家グレートブリテンの臣民ではなく、新興共和制国家アメリカの市民として振る舞うことができたので、周囲のフランス人たちから反感を買わずに済んで好都合だったと言われている。1794年に女児を設けてファニー(Fanny Imlay, 1794-1816)と名付けた。しかし内縁の夫イムレイは他の女性と関係を持つようになり、ウルストンクラフトは絶望のあまりイングランドに戻り、2度も自殺を図ったが、2度とも未遂に終わった。そして思い直して子供の為に再び文筆業で生きていこうと決心した。

1796年に元カルヴァン派牧師で革命思想家・社会改革者のゴドウィン(William Godwin, 1756-1836)と知り合い、2人は同棲生活に入り、内縁の妻の連れ子ファニー・イムレイ(Fanny Imlay, 1794-1816)を育てた。結婚ではなく同棲を選んだのは、宗教権力や国家権力への服従を強要する結婚制度に叛意(はんい)を翻(ひるがえ)したからだった。当初はこのように権力に逆らっていたが、やがて生まれてくる子供が私生児として差別を受けるのは気の毒だと考え直して、1797年3月29日に正式に結婚した。この結婚によって多くの友人や支持者を失ったと言われる。

メアリー・シェリー(旧姓ゴドウィン)誕生

同年(1797年)8月30日には女児が生まれ、母親のファーストネームと旧姓そのままにメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン(Mary Wollstonecraft Godwin, 1797-1851)=後のメアリー・シェリー(Mary Shelley, 1797-1851)と名付けられた。このゴドウィン夫妻の間に生まれたメアリーは両親の知性を受け継ぎ、美貌にも恵まれた。ゴドウィン夫妻の結婚生活は幸せなものだったが、ゴドウィン夫人(旧姓ウルストンクラフト)はメアリーを生んでから僅か十日後の9月9日に感染症によって死亡した。

妻に死なれた思想家ゴドウィンは、妻の残した2人の娘を抱えて途方に暮れてしまった。そこで子供の面倒を見てくれる女性を求め続け、とうとう隣に住む7歳の男児と4歳の女児の母親であるクレアモント夫人(Mrs Clairmont)という未亡人と1801年に再婚した。この時ファニーは7歳で、メアリーは4歳だった。この新しいゴドウィン夫人はファニー(Fanny Imlay, 1794-1816)とメアリーには典型的な継母振りを発揮した。なお、ファニーはその後、1816年に22歳で自殺している。

1812年、ゴドウィンの思想に共鳴した若者で後の大詩人シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)がゴドウィンに手紙を送り、思想家と若者との文通が始まった。シェリーは元来富裕な田舎貴族の長男に生まれた読書好きな少年だった。やがて上流階級の子弟が集うイートン校(Eton College)に進んだ。そこでプラトン哲学の影響を強く受け、詩作にも手を染めるようになった。オクスフオッド大学ユーネヴアセティ学寮(University College, Oxford)に入学してからは化学、物理学、天文学に興味を抱き、当時最先端の学問だった電気学に熱中した。シェリーは社会意識の目覚めにも早かった。大学在学中に友人と宗教的懐疑(scepticism スプティシズム)の念の追求を説いたパンフレットを作って配布していたところ、無神論(atheism エイシ゜ィズム)を普及していた廉(かど)で保守的な大学当局から放校処分を受けてしまった。さらにこの件が元で家を勘当されてしまったが、妹の友人ハリエット(Harriet Westbrook, 1795-1816)に同情して衝動的に結婚してしまう。シェリーはゴドウィンに手紙を送った1812年の秋にはロンドンのゴドウィン家の常連客になっていたが、15歳のメアリーは厭な継母を逃れてスコットランドへ長期滞在に行っていたので、シェリーと邂逅(かいこう)することはなかった。

1814年5月、16歳のメアリーは滞在先のスコットランドから戻ると、またゴドウィン家に来ていた妻帯者のシェリーと道ならぬ恋に落ちた。シェリーは妻との結婚生活を放り出し、同年(1814年)7月28日に欧州大陸へ向けてメアリーと駆け落ちした。その際、継母の連れ子クレア・クレアモント(Claire Clairmont, 1798-1879)も性的冒険(アヴァンチュール)を求めて一緒に付いて来た。

三人は一旦はイングランドに帰り、1年余り逗留する。1816年5月に英国貴族で大詩人のバイロン卿(Lord Byron, or George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788-1824)と合流するため、スイスのジュネーヴ(仏 Genève ジュネッヴ; 伊 Ginevra ジネーヴラ; 独 Genf ゲンフ; 英 Geneva ジニーヴァ)郊外のコロニ村(Cologny)に在る(現在も残る)ディオダーティ荘(Villa Diodati)へ向けて出発した。メアリーはこのとき18歳だった。クレアも自分と肉体関係をもっていた詩人バイロン卿と縁(よ)りを戻そうと目論んで一緒に付いて来た。

1815年にナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-15)が片付いて欧州には漸(ようや)く平和が訪れたが、その喜びも束(つか)の間(ま)のことだった。翌年の1816年は「夏の無い年」(英 the Year Without a Summer; 仏 l’année sans été; 伊 l’anno senza estate; 独 das Jahr ohne Sommer; 中文 無夏之年)として後代に末永く語り継がれることになる特別な年であった。これは前年(1815年)に蘭印(オランダ領東インド諸島)=現在のインドネシア中南部のスンバワ島(Pulau Sumbawa; 英訳 Sumbawa Island)に在(あ)るタンボラ山(Gunung Tambora; 英訳 Mount Tambora)の大規模噴火が原因で、北半球一帯が異常低温に見舞われたことが原因である。1815年から翌’16年にかけて作物の不作や食糧不足が欧米諸国や淸國や德川期日本で深刻な問題となった。そして後述するように、タンボラ山の噴火こそがフランケンシュタインの怪物(Frankenstein’s monster)を産んだと言っても過言ではない( https://www.youtube.com/watch?v=LhSI-GYV5qQ 1:12-2:37 / https://www.youtube.com/watch?v=_2BmIhxfl_I 7:14-8:52 )

フランケンシュタイン物語の誕生

せっかく風光明媚なレマン湖畔に到着したはいいが連日雨に見舞われた3人は、バイロン卿(Lord Byron, or George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788-1824)とその若い主治医ポリドーリ(John Polidori, 1795-1821)と共にレマン湖畔にあるバイロン卿の別荘に篭(こも)って、ドイツの二流怪奇小説をフランス語訳で読んだ。そんな中でバイロン卿が怪奇小説の競作をしようと提案した。メアリーが1831年に序文として書いた回想によるとバイロン卿は ‘We will each write a ghost story.’ =「僕らは一人が一作短篇を書こう。」と言ったとのことである。しかし2人の大詩人、即ち提案者のバイロン卿も友人のシェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)も途中で投げ出してしまい、クレア(Claire Clairmont, 1798-1879)はバイロン卿との情交にのみ興味があり、最初から文学なんぞには興味がなく、ポリドーリが辛うじて吸血鬼譚の断片を書いたのみだった。

メアリーは何一つ書けず、毎朝のように何か話を思い付いたかどうか訊かれたが、いつも応えは ‘No.’ だった。メアリーはバイロン卿とシェリーの知的な会話を黙って聞いていることが多かったそんな折、2人の会話に出てきた生命の原理が発見される可能性、エラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin, 1731-1802)による生理学実験、「動物電気」の存在を主張したイタリアのガルヴァーニ(Luigi Galvani, 1737-98)による galvanism(ガルヴァーニ電流)、もしかしたら死体に息を吹き込んだり、死体の断片を集めて生命を吹き込むことが出来るかもしれないという内容に心引かれた。夜床に就くと青白い学生(学究)が自分で繋(つな)ぎ合わせた死体の傍らに跪(ひざまず)いている様子が心に浮かんできた。そして何らかの強力な engine(機械装置)の動力で生命が吹き込まれる姿を空想した。創造者たる神の業(わざ)を真似るという恐ろしい所業を https://www.youtube.com/watch?v=4vHVh9ajhs0 5:17-11:47end / 1935年公開米映画『フランケンシュタインの花嫁』 https://www.youtube.com/watch?v=_S62y9uaWRw 1:30-4:37)。

翌朝メアリーは話を思い付いたと宣言し、後に刊行されることになる『フランケンシュタイン』第1巻第5章に相当する ‘It was a dreary night of November’(11月の或る荒涼とした夜のことだった)から書き出した。これは主人公の孤独な科学者フランケンシュタイン(Victor Frankenstein)が、死体を集めて造った人造人間を遂に完成させる章である。当初は数頁で終わらせる積もりだったが、シェリーに勧められて長篇小説に仕立てた。出だしが一番遅かったメアリーが一番真剣に取り組んだことになり、別荘で作品の大部分を書き上げた。

メアリーが怪奇小説の執筆に取り組んだ1816年、詩人シェリーとメアリーとクレアの一行は9月にはイングランドに帰国した。同年(1816年)10月には、ゴドウィン家に馴染(なじ)めなかった異父姉(種違いの姉)のファニー(Fanny Imlay, 1794-1816)が自殺を遂げた。また、同年(1816年)12月、シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)の正妻ハリエット(Harriet Shelley, 1795-1816; 旧姓 Westbrook)が夫に捨てられたことを苦にして、シェリーの子供を身籠(みごも)った儘(まま)、入水(じゅすい)自殺を遂げた。常人の常識を超えたシェリーは、自分とハリエットとメアリーの3人の同居を提案していたのだった。しかも詩人シェリーは上記のクレア・クレアモント(Claire Clairmont, 1798-1879)とも肉体関係があったと考えられている。正妻のハリエットが死んでくれたお陰でメアリーは詩人シェリーと同年(1816年)12月30日に正式に結婚し、シェリー夫人(Mrs Shelley)こと、メアリー・ウルストンクラフト・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)となった。しかし自らの誕生により実母のウルストンクラフトを死なせてしまった罪悪感に加えて、ファニーやハリエットを死なせてしまった罪悪感もその後引きずることにもなる。

なお、小説の主人公フランケンシュタイン(Victor Frankenstein)の名は、ワシントン(George Washington, 1732-99; 初代大統領在任1789-97)やジェファソン(Thomas Jefferson, 1743-1826; 第三代大統領在任1801-09)と共にアメリカ独立(US independence from Great Britain)=アメリカ革命(American Revolution)を達成した立役者のうちの一人で科学者・発明家・印刷業者・外交官・政治家のフランクリン(Benjamin Franklin, 1706-90; 第六代大統領在任1785-88)に由来すると考えられている。メアリーたちが1814年に駆け落ちした際に旅したドイツにはフランケンシュタイン城(独 Burg Frankenstein ブるクフらンケンシュタイン; 英 Frankenstein Castle フらンケンスタインカースル=「フランク族の石」の意)が実在し、その附近一帯は様々な不気味な伝説に彩(いろど)られている。シェリー夫人はこのことを知っていたからこそ、主人公の科学者をフランケンシュタインと名づけた可能性が高い。

シェリー夫人こと、メアリー・シェリーはバイロン卿の別荘で書いた小説を書き直し、1817年5月14日に完成し、翌年(1818年)1月初旬に Frankenstein; or, The Modern Prometheus(『フランケンシュタイン、或いは現代のプロメーテウス』)と題して匿名(とくめい: anonymous アニマス)で初版を刊行した。匿名にしたのは、当時は女性の名で出版するのを良くないと見做(みな)す風潮があったからだった。ちなみにそれは現在にも続き、J. K. ローリング(J. K. Rowling, b.1960)女史が最初のハリー・ポッター(Harry Potter)本を刊行したのは二十世紀(1901-2000年)末の1997年のことだが、男の子にも本を手に取ってもらうため、すぐには女性作者とは気づかれないような J. K. という名を用いたのであった。

副題に使われているプロメーテウス(希 Προμηθεύς = Promētheús; 英 Prometheus)とは、「先見の明を持つ者」という意味を持つ、ギリシア神話に登場する神々のうちの一人で、天界から火を盗み人類に与えた恩人のような神である。また、一説には人間を創造(create)したとも言われている。プロメーテウスが人類に炎を与えたことで、人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、最高神ゼウス(希 Ζεύς = Zeus)の予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。ゼウスはこれに怒り、権力の神クラトス(希 Κράτος = Kratos)と暴力の神ビアー(希 Βία = Biā)に命じてプロメーテウスをカフカース山脈の山頂に磔(はりつけ)にさせ、生きながらにして毎日肝臓を鷲(ワシ)についばまれる責め苦を強(し)いた。プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、後(のち)に半神半人(demigod)の力持ちの勇者ヘーラクレース(希 Ηρακλής = Hēraklēs; 英 Heracles)により解放されるまで拷問(torture)が行なわれた。その刑期は三万年(thirty thousand years)であったとも言われるが、刑期については諸説ある。

『フランケンシュタイン』初版(1818年版)が好評を博したので、シェリー夫人は夫で詩人のシェリーの歿後二年の1824年には大きな異同の無い第2版をこれまた匿名で刊行した。日本語を含む各国語に訳された『フランケンシュタイン』の現在一般に普及している版は、1831年刊行の第3版であり、その内容は初版(1818年版)や第2版(1824年版)とは異なっている。そして第3版(1831年版)で初めて著者名を堂々と表に出したのだった。

シェリー夫人の人生は実に波乱に富んでいた。詩人シェリーとの間にもうけた子供たち4人のうちで、駆け落ち状態で1815年2月22日(水)に産んだ第一子の女児は早産のため生後数日で死亡した。イタリアのヴェネチアに移っていた英国貴族で大詩人のバイロン卿(Lord Byron, or George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788-1824)を訪ねて、2人の子連れのシェリー夫妻はイタリアを訪問したが、1818年9月にヴェネチア(伊 Venezia ヴェッツィヤ; 独 Venedig ヴェネーディッヒ; 仏 Venise ヴニーズ; 英 Venice ヴェニス)にて満1才の次女クラーラ(Clara Everina Shelley, 1817-18)を赤痢(dysentery)で亡くし、1819年6月にはローマ(伊 Roma; 独 Rom; 仏英 Rome)にて満3才5ヶ月の長男ウィリアム(William Shelley, 1816-19)をマラリア(malaria: イタリア語で「悪い空気」の意)で亡くした。シェリー夫人の不幸はそればかりではなく、『フランケンシュタイン』初版(1818年版)刊行の六年半後の1822年7月8日(月)には夫で詩人のシェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)がイタリアの海難事故で溺死(できし)した。結局シェリー夫妻の4人の子供たちの中で生き残ったのは、夫のファーストネームであるパーシー(Percy)と出生地フィレンツェ(伊 Firenze; 独 Florenz; 仏英 Florence)の英名フローレンス(Florence)に因(ちな)んで名づけられた末っ子で次男のパーシー・フローレンス(Sir Percy Florence Shelley, 3rd Baronet of Castle Goring, 1819-89)ただ一人だった。パーシー・フローレンスは両親(シェリー夫妻)や母方の祖父母(ゴドウィン夫妻)の才能を受け継がず、愚鈍な人物として一生を終えたが、母親のメアリー・シェリーは大いに失望したという。メアリー・シェリー自身はその後も今で言うSF小説(二十一世紀2001-2100年末に人類が滅亡するという内容の『最後の人間』)や歴史小説を発表し続けたが、1851年2月1日(土)に満53歳半で命を閉じた。当時としてはごくありふれた長さの人生だった。息子のパーシー・フローレンスは十九世紀(1801-1900年)の基準では長寿を全うし、1889年12月5日(木)に満70歳で大往生したが、子孫を残さなかったので、大詩人シェリーと『フランケンシュタイン』の作者シェリー夫人の遺伝子は永遠に途絶えてしまった。

【参考文献】

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・ 中村邦生(なかむら くにお, b.1946)他編著 『シリーズ文学ガイド① たのしく読めるイギリス文学』(ミネルヴァ書房, 1994年)

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・ 久守和子(ひさもり かずこ, b.1942)他編著 『シリーズ文学ガイド⑤ たのしく読める英米女性作家』(ミネルヴァ書房, 1998年)

・ 廣野由美子(ひろの ゆみこ, b.1958) 『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』(中央公論新社 中公新書 No.1790, 2005年)

・ メアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)著、山本政喜(やまもと まさき, 1899-1960)訳 『フランケンシュタイン』(角川書店 角川文庫, 1994年)= 『巨人の復讐 フランケンシュタイン』(新人社 世界大衆文学全集11, 1948年)の改版として の『フランケンシュタイン』(角川書店 角川文庫, 1968年)の復刻+風間賢二(かざま けんじ, b.1953)の新解説「モンスターとしての作品」付き

・ M・W・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)著、臼田昭(うすだ あきら, 1928-90)訳 『フランケンシュタイン』(国書刊行会 ゴシック叢書6, 1979年)

・ メアリ・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)著、森下弓子(もりした ゆみこ, 生年非公開)訳 『フランケンシュタイン』(東京創元社 創元推理文庫, 1984年)

・ シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)著、小林章夫(こばやし あきお, b.1949)訳 『フランケンシュタイン』(光文社 古典新訳文庫, 2010年)

・ メアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)著、 芹澤恵(せりざわ めぐみ, b.1960)訳 『フランケンシュタイン』(新潮社 新潮文庫, 2015年)

・ メアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)著、田内志文(たうち しもん, b.1974)訳 『新訳 フランケンシュタイン』(KADOKAWA 角川文庫, 2015年)