西曆2019年 4月13日(土) 日本アマゾンのレビュー、『翻訳地獄へようこそ』

西脇孝雄(にしわき たかお, b.1954) 『翻訳地獄へようこそ』(アルク, 2018年6月)

レビュー題字: 弘法も筆の誤りか

投稿者 原田俊明

投稿日 2019/4/13

形式: ソフトカバー単行本

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4757430744/

英和翻訳に纏わる事象を取っ掛かりとして、様々な本の読書案内のような体裁になっていて、大いに楽しめた。アマゾンで注文したい洋書が一挙に増えたので散財が怖い(別段著者の所為(せい)ではないが)。

既存訳の誤りを具体的に指摘している点は、例のベック先生(別宮貞徳上智大学元教授)の『誤訳迷訳欠陥翻訳』(1981年)に始まる一連の痛烈な誤訳指摘本を髣髴とさせる。しかしながら、宮脇氏は心根がお優しいのか知らないが、誤訳の罪を犯した同業者の名を徹底的に避けんがために書名まで伏せてしまっているので、一読書子としては「何これ、使えねぇ!」となってしまうのが返す返すも残念だ。とは言え、英語原文をグーグル検索すれば或る程度は見つかるのが情報化社会の怖いところで、現に下記の誤訳例は特定できてしまった。東京創元社の所為だと思うが、「サラ・ウォーターズ」という原著者名までもが間違っていて、正しくはセァラ・ウォーターズである。

宮脇本第1章の終わり近くに、

【原文】[前略] the refreshment rooms were so bustling that it was possible to order a pot of tea, then sneak out a home-made bun to have with it. That was a spinsterish thing to do [後略](p.73)

出典: Sarah Waters, The Paying Guests (2014)

【既存訳】[前略] こういう場所のカフェはひとの出入りが激しいので、紅茶を一杯とそこで焼かれている菓子パン一つで、そそくさとすませることができるのだ。いかにもおひとり様のオールドミスらしい食事である[後略](p.73)

出典: サラ・ウォーターズ[著]、中村有希[訳] 『黄昏の彼女たち』(2016年)

【宮脇改良訳】[前略] そういう場所のカフェはひとの出入りが激しいので、紅茶だけを注文して、家で焼いてきた菓子パンをこっそり取り出し、お茶を飲みながら食べることができる。いかにもオールドミスがやりそうなことだが[後略](p.74)

とある。

宮脇訳は既存訳よりも確かに少しばかり良くなってはいるが、この訳文では及第点が取れない(失礼!)。「そこで焼かれている菓子パン一つ」(既存訳)を「家で焼いてきた菓子パン」(宮脇訳)としたのでは、まだまだ不十分な修正だからである。

原文にあるバン(bun)は、マクドナルドのハンバーガーの上下の麵麭(bread)に相当するが、なぜか日本マクドナルドではバンズ(buns)と複数形で呼んでいるようである。きっと北米の感覚では上下に分かれたバンは複数扱いなのだろうが、イギリスの感覚では単数である。これは日本で言えばさながらお握り(お結び)に近い代物だ。オニギリは通常は中心部に小さな具が入っていて、周りは海苔で巻かれている(尤も被災地などでは周りに食塩を軽く塗っただけの具なしオニギリというのもあるのだろうが)。バン(bun)をただそのまま食べるイギリス人はまず居らず、ナイフで上下半分にスライスして中にバターを塗り、甘辛いずれか具を挟むのが通常の食べ方だ。アメリカ人(特にユダヤ系)のベーグル(bagel)のような物と説明した方が、ニューヨークに住んでおられた著者には理解が早いかも知れない。具としてフライドポテト(イギリス英語でchips)を挟む英国労働者階級の習慣には驚きを禁じ得ないが、サンドイッチにポテトサラダを挟む日本人に英国人は驚嘆し、日本人の餃子の食べ方に中国人は驚愕する。「他の炭水化物(ラーメンやご飯)と一緒に餃子を食べるなんて!」と。食文化の違いは興味深い。

少し脱線したが、食に対して冷淡・無頓着なイギリスの国民性と相俟って、原文の home-made とて、「家で焼いてきた」(宮脇訳)のではなく、自宅でハムなどの具を挟んできただけのことだ。イギリスでの生活体験が無いと誤訳してしまう落とし穴だろう。そもそも原文の home-made は他動詞 make の過去分詞形に由来し、bake でも cook でもないのだ。

原文の a pot of tea の訳=「紅茶を一杯」(既存訳)=「紅茶だけを」(宮脇訳)=も少々いただけない。イギリスの飲食店のメニューを見ればすぐに気づくが、a pot of tea はその店で最安値のアイテムである。しかも量もたっぷりと、4~5杯ぐらい飲めるような大きなティーポットに入って来るため、これを注文すると必ず店のトイレを借りる羽目になる。紅茶に比してイギリスの珈琲はかなり割高で(しかも不味い!)、a cup of coffee (珈琲1杯)の価格が a pot of tea (紅茶4~5杯)の価格を大きく上回っているのが常である。なお、珈琲の持つ高級感(上流イメージ)と、紅茶の持つ低級感(下層イメージ)は、英仏海峡を越えてフランスへ行くと完全に反転する。

さらにダメ出しすると、原文の途中にある possible の和訳が、既存訳と宮脇訳では共に句点の直前までお預け状態になっているのが気に入らない。「ことができるのだ。」(既存訳)と、「ことができる。」(宮脇訳)と。そこで私は下記のような改訳を提唱したい。

【原文】[前略] the refreshment rooms were so bustling that it was possible to order a pot of tea, then sneak out a home-made bun to have with it. That was a spinsterish thing to do [後略]

【原田試訳】[前略] そういう場所の喫茶室では、賑わっていればこそ可能なこととして、何杯も飲める安いポット入り紅茶しか注文せず、自宅で作ってきた円形サンドイッチをこっそり取り出して紅茶のお供にしてしまう。妙齢の独身嬢がやりそうなこと[後略]

「読んでいてにわか校閲じいさんのアンテナに引っかかったのは『おひとり様のオールドミス』という表現。オールドミスならおひとり様に決まってるじゃないか。しかも歴史小説に現代語の『おひとり様』を使うのはまずくない?」(p.73)と宮脇氏。作品の舞台は1920年代のロンドンとのことなので、平成日本語の「おひとり様」のみならず、如何にも戦後昭和的な響きのする「オールドミス」という和製英語も避けたい。大正期でも通じそうな「妙齡(めうれい)の獨身孃(どくしんぢやぅ)」=「妙齢の独身嬢」の方がここでは好ましい。

全般的には非常に満足できるエッセイ本だが、弘法も筆の誤りなのか、小さな瑕疵(かし)があることを報告しておく。