西曆2006年 6月10日(土) 「飜譯文學の愉しみ」授業資料(增補改訂濟)

1、翻訳は裏切り行為か

例1)イタリアの格言: Traduttore, traditore. (トらドゥットーれ、トらディトーれ: 「翻訳者、裏切り者」の意;

千野榮一(ちの えいいち, 1932-2002)訳では「翻訳者は文扼者(ぶんやくしゃ)」)、つまり「どんな翻訳も原文を忠実に伝えることはできず、どうしても原著者の意を裏切ってしまう」ということ。

例2)『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』

ロシア語同時通訳者・エッセイストの米原万里(よねはら まり, 1950-2006)のエッセイ本の題名

2、歌曲の翻訳に見る日本語の問題点

「西欧⇒日」の翻訳では原文の情報を削り落とす必要がある。日本語は音節(syllable)過多で発音に時間がかかるから。

例1)メリーさんの羊

Mary had a little lamb, little lamb, little lamb.

メアリーは飼っていた、小さな子羊を、小さな子羊を、小さな子羊を。

Mary had a little lamb.

メアリーは飼っていた、小さな子羊を。

Its fleece was white as snow.

その羊毛は雪のように白かった。

(日本語歌詞)

メリーさんの羊、羊、羊。

メリーさんの羊。

かわいいな。

例2)漕げ、漕げ、漕げよ

Row, row row your boat

漕げ、漕げ、漕げ、ボートを。

Gently down the stream

穏やかに川を下って

Merrily, merrily, merrily, merrily.

陽気に、陽気に、陽気に、陽気に。

Life is but a dream.

人生は夢に過ぎない。

(日本語歌詞)

漕げ、漕げ、漕げよ

ボート漕げよ。

ランランランラン。

川下り。

上記とは逆に「日⇒西欧」の翻訳では原文にはない情報を無理やり補うか、想像力を駆使して丁稚(でっち)上げる必要がある。西欧語は音節(syllable)が少なく、多くの情報が瞬時に伝わるから。

例3)土井晩翠(本名 つちゐ ばんすい; 通称 どゐ ばんすい, 1871-1952)作詞、瀧廉太郎(たき れんたらう, 1879-1903)作曲「荒城の月」(1901年=明治卅四年)第1連とドイツ語訳詩(村上紀子とマルグリット畑中による訳)

(日本語原文)

(ドイツ語訳詩)

(ドイツ語訳詩の実際の意味)

春(はる)高楼(かうろぅ)の花(はな)の宴(えん)

Burgeshöh’ in Frühlingsnacht.

ブルゲスヒュエー・インフリューリングスナハト

春の夜の城の頂(いただき)。

Trinken wir den Wein!

トリンケン・ヴィア・デンヴァイン

我々はワインを呑もうではないか!

めぐる盃(さかづき)かげさして

Schimmernd weiβ die Blütenpracht

シンメルント・ヴァイス・ディーブリューテンプラハト

ほのかに白く光りながら花の壮麗さが

Singt―und schenket ein!

ジングト・ウン・シェンケッタイン

歌い、お酌をする!

千代(ちよ)の松(まつ)が枝(え)わけいでし

Durch die alten Kiefern weit

ドゥルヒ・ディーアルテンキーフェルン・ヴァイト

遠く古い松の木々を

bricht das Mondeslicht.

ブリヒダスモンデスリヒト

突き通るは月あかりなり。

むかしの光(ひかり)いまいづこ

Mondeslicht aus alter Zeit

モンデスリヒト・アウスアルターツァイト

いにしえより来(きた)る月あかりを

such’ ich, find’ ich nicht.

ズーフイッヒ・フィントイッヒニヒト

我(われ)は探すも見つからず。

(ドイツ語からの逆翻訳: 原田俊明)

例4)三木露風(みき ろふう, 1889-1964)作詞、山田耕筰(やまだ こうさく; Kósçak Yamada, 1886-1965)作曲の童謡「赤とんぼ」(1927年=昭和二年)の日本語原詩と英訳(訳者不詳)

(日本語原文)

(英語訳詩)

(英語訳詩の実際の意味)

第一連

夕やけ小やけの 赤とんぼ

Dragonflies as red as sunset

トンボたち、夕焼けのように赤く

Back when I was young

僕が幼かった頃、

負はれて見たのは いつの日か

In twilight skies, there on her back I’d ride

黄昏(たそがれ)の空に抱かれて、その女(ひと)の背中に僕は乗ったものだ、

When the day was done.

日が暮れるときに。

第二連

山の畑の 桑(くは)に實(み)を

Mountain fields in late November

山の畑、十一月下旬に、

Long ago it seems.

昔のことのように今では思える。

小籠(こかご)に摘(つ)んだは まぼろしか

Mulberry trees and treasures we would gather,

桑の木々と僕らが集めた宝物たち、

Was it only just a dream?

それは単に夢だったのか。

第三連

十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き

Just fifteen she went away one day,

たったの十五でその女(ひと)は或(あ)る日去って行き、

Married then so young。

結婚したのだ当時そんなに若く。

お里のたよりも 絕へはてた

Like a sister lost, I loved and missed her.

姉のような人を失って、僕はいとしくて、不在を嘆いた。

Letters never seemed to come.

便りは来ないようだった。

第四連(英訳なし)

夕やけ小やけの 赤とんぼ

とまつてゐるよ 竿の先

(英語からの逆翻訳: 原田俊明)

【動画】

グレッグ・アーウィン(Greg Irwin, b.1956)歌唱英語版(録音データ不明)

http://www.youtube.com/watch?v=sVv7eCdDVHk

なお、この曲についてはドイツ浪漫派の大作曲家ローベルト・シューマン(Robert Schumann, 1810-56)作曲の序奏と協奏的アレグロ ニ短調 作品番号134(独原題 Concert-Allegro mit Introduction d-Moll: für Pianoforte und Orchester. op. 134; 現代独語表記 Konzert-Allegro mit Introduktion d-moll für Klavier und Orchester, op. 134; 英直訳 Concerto-Allegro with Introduction for Piano and Orchestra in D minor, Op. 134; 英題 Introduction and Allegro for Piano and Orchestra in D minor, Op. 134)(1853年)の中で18回繰り返される楽句(フレーズ)に酷似しているという盗作(パクリ)疑惑が山田耕筰の生前からあったが、山田自身は否定していた。

シューマンの原曲(オリジナル)を A. ヒューイット独奏、A. マンズ指揮BBCスコッティッシュ響(2011年8月19日(金)、BBCプロムズでライブ収録)問題のパクリ疑惑については2:40以降を参照

https://www.youtube.com/watch?v=1bk_vILdf_I

シューマンの原曲(オリジナル)を L. ビネッティ独奏、モノーポリ国立管(2013年頃のデジタル録音)問題のパクリ疑惑については3:42以降を参照

https://www.youtube.com/watch?v=TfwuLAbp2Bs

3、機械翻訳は可能か

例1)ワーズワースの名詩より

「喇叭水仙(らっぱずいせん)」(a)

「黄水仙」(b)

「水仙」(c)

「水仙」(d)

1st stanza from ‘The Daffodils’(第1連のみ)

by William Wordsworth (1770-1850)

I wander’d lonely as a cloud

我(われ)さまよふは獨(ひと)り雲(くも)の如(ごと)くに、(a)

谷また丘の空高く(b)

谷また丘のうえ高く漂う雲のごと、(c)

谷を越え山を越えて空高く流れてゆく(d)

That floats on high o’er vales and hills,

谷間(たにま)や低山(ていざん)に浮(う)かぶ雲(くも)の如(ごと)くに。(a)

ひとり漂う雲のごと(b)

われひとりさ迷い行けば、(c)

白い一片の雲のように、私は独り悄然(しょうぜん)としてさまよっていた。(d)

When all at once I saw a crowd,

と、そのとき我(われ)の目(め)にするは夥(おびただ)しく(a)

さまようわれのふと見しは(b)

折りしも見出でたる一群の(c)

すると、全く突如として、眼の前に花の群れが、(d)

A host of golden daffodils,

群(む)れ爲(な)す黃金(こがね)なる喇叭(らっぱ)水仙(ずいせん)、(a)

群れ集いたる黄水仙(b)

黄金(こがね)色に輝く水仙の花、(c)

黄金色に輝く夥(おびただ)しい水仙の花の群れが、現れた。(d)

Beside the lake, beneath the trees,

湖水(こすい)の畔(ほとり)、木々(きゞ)の下(した)、(a)

湖水のほとり木々の下(b)

湖のほとり、木立の下に、(c)

湖の岸辺に沿い、樹々の緑に映え、そよ風に(d)

Fluttering and dancing in the breeze.

ひら/\舞(ま)ふは微風(そよかぜ)の中(なか)。(a)

風にひらめき踊るなり(b)

微風に翻りつつ、はた、踊りつつ。(c)

吹かれながら、ゆらゆらと揺れ動き、踊っていたのだ。(d)

(a)原田俊明(はらだ としあき, b.1968)試譯

(b)上島建吉(かみじま けんきち, b.1931)訳

(c)田部重治(たなべ じゅうじ, 1884-1972)訳

(d)平井正穂(ひらい まさお, 1911-2005)訳

上記英詩原文を散文の形に加工した上で、

I wandered lonely as a cloud that floats on high over vales and hills, when all at once I saw a crowd, a host of golden daffodils, beside the lake, beneath the trees, fluttering and dancing in the breeze.

機械翻訳を施すと、、、

私は突然私が群集、金ラッパスイセンの多くに、湖の側で、微風でなびき、踊る木の下で会ったときに、valesおよび丘上の最高で浮かぶ雲として孤独さまよった。(グーグル翻訳、2006年6月9日)

私としてさまよい孤独な雲が上空で山車をvales丘陵と、一度にすべてを見たときに、群衆は、ホストのゴールデンdaffodils 、湖の横には、下の木は、そよ風になびかせと踊りました。(グーグル翻訳、2007年11月15日)

私がもうろうとして孤独に浮かぶ雲高さの丘のvalesと、一度にすべてを見たとき、群衆は、ホストの黄金色の水仙は、湖の横に、木々の下にある、と踊りは、風になびかせています。(グーグル翻訳、2008年4月18日)

私がひらひらと風に踊って、ヴェールズや丘、私は木の下で、湖の横にある群衆を、金色の水仙のホスト、見たすべて一度以上の高に浮かぶ雲のように孤独さまよっていた。(グーグル翻訳、2011年2月2日)

一度にすべて私は湖のそば群衆、黄金の水仙のホストを見たとき、私はひらひらと風に踊り、木々の下に、、valesと丘高に浮かぶ雲のように孤独なさまよった。(グーグル翻訳、2013年6月26日)

谷の上に高さに浮かぶ雲、そして、丘のように、私は孤独にぶらつきました。そのとき、突然、私は、木の下で、湖のそばの群衆(多数の金色のスイセン)がドタバタしていて、微風の中で踊っているのを見ました。(ヤフー翻訳及びWeblio翻訳1種目、2013年6月26日 & 2015年4月19日)

谷の上に高さに浮かぶ雲、そして、丘のように、私は孤独にぶらつきました。そのとき、突然、私は、木の下で、湖のそばの群衆(金色のスイセンのホスト)がドタバタしていて、微風の中で踊っているのを見ました。(Weblio翻訳2種目、2013年6月26日 & 2015年4月19日)

谷の上に高さに浮かぶ雲、そして、丘のように、私は孤独にぶらつきました。そのとき、突然、私は、木の下で、湖のそばの群衆(多数の金色のスイセン)がドタバタしていて、微風をダンスで迎えているのを見ました。(Weblio翻訳3種目、2013年6月26日 & 2015年4月19日)

私は高いバレスと丘の上に浮かぶ雲、として寂しいさまよったときに、すべてで、私は風で群衆、木々の下に湖の横に金色の水仙のホスト、、、ひらひらと踊りを見た後に。(グーグル翻訳、2015年4月19日(日))

谷の上に高さに浮かぶ雲、そして、丘のように、私は孤独にぶらつきました。そのとき、突然、私は、木の下で、湖のそばの群衆(多数の金色のスイセン)がドタバタしていて、微風の中で踊っているのを見ました。(ヤフー翻訳、2015年4月19日(日) & 2017年4月13日(木))

私は谷と丘の上に浮かぶ雲のように孤独にさまよいました。一瞬に一人の群衆、木々の下の湖のそばの金色の水仙の群れが、風に舞いながら踊っていました。(グーグル翻訳、2017年4月13日(木) & 2018年4月18日(水))

私が浮かぶ高値や丘のすべてを一度に群衆、木の下、ひらひらと風に舞う、湖のそばの水仙のホストを見たとき雲として孤独な放浪。(私は翻訳を愛する I Love Translation 結果1、2017年4月13日(木))

ときにすべての私は風になびくと踊って、木々の下に湖のそばに群衆、黄金の水仙のホストを、見た後で、私は、バレスと丘の上に高に浮かぶ雲のように孤独さまよいました。(私は翻訳を愛する I Love Translation 結果2、2017年4月13日(木))

結論: 文学作品に関しては機械翻訳はまだ使えない。

4、文化の置き換え

Sándor Hervey, Ian Higgins and Michael Loughridge (1995) による「文化の置き換え」(cultural transposition)の度合い(下へ行くほど翻訳から「外国臭さ」が取れる)

a) Exoticism 異国的雰囲気の醸し出し

例1)アルベール・カミュ『異邦人』 (Albert Camus, L’Etranger)の冒頭 仏 «Aujourd’hui maman est morte.» ⇒ 日「きょうママンが死んだ。」

例2)パウル・ツェランの詩「死のフーガ」 (Paul Celan, „Todesfuge“)中で繰り返される独 „Der Tod ist ein Meister aus Deutschland“ ⇒ 英 “death is a master from Deutschland”、日「死は獨逸(ドイチュラント)から来たマイスター」。

b) Cultural borrowing 文化の借用

例1)仏 langue(ラング)と parole(パロール)⇒英語も同じ、日本語(但し、カタカナ表記)も同じ

例2)露 гласность(グラスノスチ; 情報公開)と Перестройка(ペレストロイカ; 組織改革; 再構築)⇒英語でも同じように glasnost と perestroika、日本語(但し、カタカナ表記)も同じ

例3)独 Gastarbeiter(ガストアルバイター、外国人労働者)⇒英語も同じ、日本語(但し、カタカナ表記)も同じ

のような用語を概念そのままに輸入して使用する。

c) Calque 敷き写し、借入翻訳

原語句の統語的構造を維持しながら,それを構成する形態素を、既に自国語に存在する形態素を利用して翻訳すること。また、それによって作り出された語句。

例1)羅 peninsula ⇒ 独 Halbinsel ⇒日「半島」

例2)羅 duodenum ⇒ 独 Zwölffingerdarm ⇒蘭 Twaalffingerdaarm ⇒日「十二指腸」

例3)独 Schwarzwald ⇒ 英 Black Forest; 日「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」または「シュワルツワルト(黒い森)」

例4)仏 chemin de fer ⇒ 独 Eisenbahn ⇒日「鐵道; 鉄道」

例5)仏 beaux arts ⇒ 独 schöne Künste ⇒日「美術」

d) Communicative translation 伝達翻訳

原文の諺や慣用句を目標言語(翻訳の訳文の言語)の似たものに置き換えるか、意味を咀嚼(そしゃく)して別の言いまわしに変える。無理に直訳すると exoticism になる。

例1)ハンガリー “Nem baj! Reggeli vendég nem maradandó.” ⇒英 דNo problem! The morning guest never stays long.” ⇒日「問題ないわ、朝の客は長居しないって言うじゃない」⇒英 “Never mind! It’ll soon stop raining.” ⇒日「心配無用、すぐに止(や)むわ」

e) Cultural transplantation 文化移植、翻案

原文の時代背景や舞台を別のものに置き換えること。

例1)シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)作 Julius Caesar (1599) を翻案した初期坪内逍遥(つぼうち しょうよう, 1859-1935)譯の浄瑠璃體(じやうるり たい)沙翁劇(さおう げき)『該撒(しいざる)奇談(きだん)・自由太刀(じゆうのたち)餘波(なごりの)鋭鋒(きれあぢ)』(明治十七年=1884年)

例2)Hamlet (1600-01) を翻案した『甸國皇子(でんまるく おうじ)斑烈多(はむれツと)物語(ものがたり)』(明治十八年=1885年)

例3)King Lear (1604-06) を翻案した黒澤明(くろさわ あきら, 1910-98)監督の映画 『蜘蛛の巣城』 (昭和三十二年=1957年)

例4)Romeo and Juliet (1595) を翻案した R. Wise監督のミュージカル映画 West Side Story (1961)

例5)Macbeth (1605) を翻案した黒澤明監督の映画 『乱』 (昭和六十年=1985年)

5、固有名詞の翻訳の問題

a) 原文中の固有名詞を訳文でもそのまま使用する。独⇔英のような欧文同士の翻訳で概(おおむ)ね有効。

例1)英 Hamlet ⇒ 西欧諸国 Hamlet

例2)独 Tonio Kröger ⇒ 西欧諸国 Tonio Kröger; 日 トニオ・クレエゲル、トーニオ・クレーガー

b) 原文中の固有名詞を訳文では別のものに変える。独⇔英のような欧文同士の翻訳では主に地名で置き換えが必要。

例1)伊 Venezia ヴェツィア ⇒ 独 Venedig ヴェネーディッヒ; 仏 Venise ヴニーズ; 英 Venice ヴェニス; 日 ヴェネチア、ベネチア、ベニス、ヴェニス

例2)伊 Firenze フィれンツェ ⇒ 独 Florenz フローれンツ; 仏 Florence フロはォンス; 英 Florence フロウれンス; 日 フィレンツェ、フローレンス

例3)独 Wien ヴィーン ⇒ 伊 Vienna ヴィエンナ; 英 Vienna ヴィナ; 西 Viena ビナ; 仏 Vienne ヴィエンヌ; 日 ウィーン、ヴィーン

例4)独 München ミュンヒェン ⇒ 仏 Munich ミュニク; 英 Munich ミューニック; 伊 Monaco モーナコ; 日 ミュンヘン、ミュンヒェン

例5)露 Москва (Moskva) スクヴァー ⇒ 独 Moskau スカウ; 仏 Moscou モスクー; 英 Moscow スコウ; 日 モスクワ、モスコー

例6)ポーランド Warszawa ヴァるシャーヴァ ⇒ 独 Warschau ヴァるシャウ; 仏 Varsovie ヴァふソヴィ; 英 Warsaw ウォーソー; 日 ワルシャワ、ワルソー

6、Transliteration(字訳・転写)の問題

上記「固有名詞の翻訳」に関連して、日⇔英、韓⇔英、中⇔英、露⇔英、アラビア⇔英のような互いに文字の異なる言語間の翻訳ではtransliteration(字訳・転写)が必要。

しかし明確なルールも国際的な取り決めもない。慣用と個人の好み。日本ではヘボン式(the Hepburn system)と内閣訓令式(the Kunrei system)のローマ字の2つが主流だが、自己流も混在。

例)

・日通 ⇒ 英(旧)Nittu ⇒ 英(新)Nittsu(内閣訓令式からヘボン式へ)

・ツタヤ ⇒ 英(旧)Tutaya ⇒ 英(新)Tsutaya(内閣訓令式からヘボン式へ)

・秩父丸 ⇒ 英(旧)Titibumaru ⇒ 英(新)Chichibumaru(内閣訓令式からヘボン式へ)

・Хрушчёв ⇒ 英 Khrushchev; 東欧 Xruščev; 日 フルシチョフ

・Горбачёв ⇒英 Gorbachev; 独 Gorbatschow; Gorbatschoff; 日 ゴルバチョフ

・Яров ⇒英 Yarov; 仏 Iaroff; 独 Jaroff; Jarow; 日 ヤーロフ

・Чехов ⇒英 Chekhov; 日 チェーホフ

・Чайковский ⇒ 英 Tchaikovsky; 仏 Tchaïkovski; 独 Tschaikowsky; 蘭 Tsjaikowskij; 伊 Ciaikovski; ハンガリー Csajkovszkij; 日 チャイコフスキー

・Beethoven ⇒ 露 Беетховен ⇒ 独 *Beetchowen

・Heinrich Heine ⇒ 露 Геинрих Геине ⇒ 英 *Geinrikh Geine

・毛澤東(マオ ツェートング); 毛沢東(もう たくとう); 毛泽东 ⇒ 英 Mao Tse-tung (the Wade system) ⇒ 英 Mao Zedong (Pinyin)(ウェード式からピンインへ); 但し、通常、英米では Chairman Mao(マオ主席)と呼ばれる。

・横濱; 横浜 ⇒ 露 Иокогама ⇒ 英 *Iokogama

・昭和 ⇒ 英 Syowa(内閣訓令式) ⇒ 英 Showa(ヘボン式)

・橋本國彦(はしもと くにひこ) ⇒ 西欧 Qunihico Hashimoto(変則ヘボン式)

・山田耕筰(やまだ こうさく) ⇒ 西欧 Kósçak Yamada(自己流)

・佐藤陽子(さとう ようこ) ⇒ 露 *Ёко Сато ⇒ 日*サトウ・エイコ(正しくはИоко Сато)

・支倉常長(はせくら つねなが) ⇒ 西 Fascecura

・原田俊明(はらだ としあき) ⇒ 露 Харада Тосиаки ⇒ 英 *Kharada Tosiaki; 独 *Charada Tosiaki(正しくはHarada Toshiaki または Toshiaki Harada、ネット上の名前 xapaga は Харада の筆記体に由来)

7、トマス・ムーアの英語原詩とコズロフのロシア語訳詩

‘Those Evening Bells’

by Thomas Moore (1779-1852)

トマス・ムーア「あの夕べの鐘」

Those evening bells! those evening bells!

あの夕べの鐘よ。あの夕べの鐘よ。

How many a tale their music tells,

なんと多くの話をその音色はかたることか、

Of youth, and home, and that sweet time,

青春、ふるさと、あの甘美な時、

When last I heard their soothing chime.

心和ませる鐘の音を最後に聞いたときのこと。

Those joyous hours are past away;

あの幸せな時は過ぎ去り、

And many a heart, that then was gay,

当時元気だった者の多くは

Within the tomb now darkly dwells,

今や暗く墓に眠り、

And hears no more those evening bells.

あの鐘の音を聞くこともない。

And so ’twill be when I am gone;

そして私がこの世を去るときも

That tuneful peal will still ring on,

あの耳に心地よい音が響きわたるのだろう。

While other bards shall walk these dells,

そこでは私以外の詩人たちが谷間を歩き、

And sing your praise, sweet evening bells!

お前の美しい響きを謳い上げることだろう、夕べの鐘よ。(原田俊明訳)

(ロシア語キリル文字)

(ロシア語ラテン文字転写)

(和訳)

Иван Козлов

Ivan Kozlov

イヴァン・コズロフ

“Вечерний звон”

“Vyecherny zvon”

「夕べの鐘」

Вечерний звон, вечерний звон!

Vyecherny zvon, vyecherny zvon!

夕べの鐘よ、夕べの鐘よ!

Как много дум наводит он!

Kak mnoga dum navodit on!

なんと多くの思いをおまえは呼び起こすことか!

О юных днях в краю родном,

O yunikh dnyakh v krayu radnom,

そこで私が人を愛し、そこに父の家があった

Где я любил, где отий дом.

Gdje ya lyubil, gdje otchy dom.

あの故郷での若き日々についての思いを

И как я, с ним навек простясь,

I kak ya, s nim navyok prostyasi,

そしてその故郷に永遠の別れを告げて

Я слышал звон в последний раз!

Ya slishal zvon v paslyedny raz!

私が最後の鐘の音を聞いたときのことを!

И многих нет теперь в живых,

I mnagikh nyet tyepyeri v zhivikh,

そしてあの頃快活で若かった人々の多くは

Тогда весёлых, молодых!

Tagda vyesyolikh, malodikh!

今はもういないのだ!

И уж не я, а будет он

I uzh nye ya, a bulyet on

そして思いに沈んで夕べの鐘について歌うのは

В раздумье петь вечерний звон!

V razdumye pyeti vyecherny zvon!

もう私ではなく別の人となるだろう!

Вечерний звон, вечерний звон!

Vyecherny zvon, vyecherny zvon!

夕べの鐘よ、夕べの鐘よ!

Как много дум наводит он!

Kak mnoga dum navodit on!

なんと多くの思いをおまえは呼び起こすことか!(伊東一郎訳)

8、翻訳のおきて

翻訳家の河野一郎(こうの いちろう, b.1930)氏による翻訳法を3つ

英語原文: I was just like all the other men who used to sit in the coffee house talking nonsense. I had always wanted to get married but I had never been able to find a woman that I really love. (Jake Allsop)

a)「滝登り型」 原文の文脈を逆に遡(さかのぼ)る訳し方(通常の受験英語式)

(河野「書き手がわざといちばん最後に持ってきた結論を訳文で最初に持ってくるようなことは、極力避けなくてはなりません」)

訳例: 私はたわごとを言いながら喫茶店によく座っている他のあらゆる男たちのような感じだった。私はいつも結婚したかったのだが、本当に愛する女性を見つけることができなかった。(ジェイク・オルソップ)

b)「急流下り型」 同時通訳者が実践している原文の語順に従った訳し方

(通訳の現場では有効だが、英語と日本語では統語(syntax)が異なるので翻訳では無理がある)

訳例: 私はちょうどこんな感じだった。他のあらゆる男たちみたいな。よく座っている。喫茶店に。話しながら。たわごとを。私はいつもしたかった、結婚を。でも決して出来なかった、見つけることを、女性を、私が本当に愛する。(ジェイク・オルソップ)

c)「Uターン型」 上記2つの折衷型

(「急流下り型」で生じた不自然さを正す意味で効果的)

訳例: 私は世間の男たちと変わらなかった。喫茶店の席に座ってたわごとを言っている連中とね。私はいつでも結婚願望を抱いていたが、見つけることができなかった、本当に愛する女性を。(ジェイク・オルソップ)

英語原文: It is impossible for an Englishman to open his mouth without making some other Englishman hate or despise him.(George Bernard Shaw, 1856-1950)

a)「滝登り型」

訳例: 自分以外のイングランド人に憎まれたり蔑(さげす)まれたりすることなくイングランド人が口を開くことは不可能である。(ジョージ・バナード・ショー)

b)「急流下り型」

訳例: 不可能なのはイングランド人が口を開く際に自分以外のイングランド人に憎まれたり蔑(さげす)まれたりしないことである。(ジョージ・バナード・ショー)

c)「Uターン型」

訳例: イングランド人がひとたび口を開けば、必ずや誰か他のイングランド人に憎まれたり蔑(さげす)まれたりしてしまう。 (ジョージ・バナード・ショー)

9、ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine, 1844-96)の名詩から第1連のみ

Les sanglots longs

レッサングロロン

秋の日の(a)

むせび泣き 長い が(b)

秋の(c)

むせび泣きが、(d)

秋風の(e)

秋のヴィオロンが(f)

忍び泣き(g)

秋風の(h)

The long sobs of(i)

A voice that sings(j)

うた歌う声、(k)

Des violins

デヴィオロン

ヰ゛オロンの(a)

ヴァイオリン(複数)の(b)

(複数の)ヴァイオリンの(c)

秋の弦楽より出(い)でて(d)

ヴィオロンの(e)

いつまでも(f)

ながくひく(g)

ヴァイオリンの(h)

The violins(i)

Like viol strings(j)

ヴィオールの弦のように(k)

De l’automne

ドゥロトンム

ためいきの(a)

秋の(b)

長いむせび泣きが(c)

傷めつけるよ(d)

節(ふし)ながき啜(すすり)泣(なき)(e)

すすりあげている(f)

秋の ヴィオロン(g)

ながいすすり泣き(h)

Of autumn(i)

Through the wane(j)

蒼白き年の(k)

Blessent mon cœur

ブレッス・モンクーェ

身にしみて(a)

我が心を傷めつける(b)

単調な(c)

僕の心を(d)

もの憂き哀(かなし)みに(e)

身のおきどころのない(f)

ものうくも(g)

単調な(h)

Lay waste my heart(i)

Of the pale year(j)

終焉へと(k)

D’une langueur

デュヌランギューウ

ひたぶるに(a)

物憂さの(b)

物憂さの(c)

物憂い心を(d)

わが魂(たましひ)を(e)

さびしい僕には、(f)

単調に(g)

もの悲しさで、(h)

With monotones(i)

Lulleth me here(j)

我を眠らしむ、(k)

Monotone.(Paul Verlaine, “Chanson d’automne”から)

モノトヌ。

うら悲し。(a)

単調な(b)

我が心を傷めつける。(c)

ただひたすらに。(d)

痛ましむ。(e)

ひしひしとこたえるよ。(f)

ぼくの心を いたませる(g)

わたしの心を傷つける。(h)

Of boredom.(i)

With its strain.(j)

その楽節を帯びて。(k)

(a)上田敏(1874-1916)の譯詩集『海潮音』の「落葉(らくえふ)」第1連

(b)むちゃくちゃな原田俊明逐語訳

(c)滝登り型で原田俊明試訳

(d)改訂原田俊明訳

(e)堀口大學(1892-1981)譯「秋の歌」より

(f)金子光晴(1895-1975)訳「秋の唄」より

(g)橋本一明訳「秋の歌」より

(h)窪田般彌訳「秋の歌」より

(i)Martin Sorrell, ‘Autumn song’ より

(j)James Joyce, A Translation of Verlaine’s ‘Chanson d’automne’より

(k)ジョイス英訳からの重訳で原田俊明訳

【参考】

英語と仏語の統語(syntax)の違い

・英 EU (= European Union); 仏 UE (= Union européenne); 日「欧州連合」

・英 Nato; 米 NATO(= North Atlantic Treaty Organization); 仏 OTAN(= Organisation du traité de l’Atlantique nord); 日「北大西洋条約機構」

10、『徒然草』冒頭の訳

a)

つれづれなるままに、日ぐらし(日くらし)にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

(兼好法師(1283-1350)『徒然草』(1330?-31?)から冒頭)

b)

What a strange, demented feeling it gives me when I realize I have spent whole days before this inkstone, with nothing better to do, jotting down at random whatever nonsensical thoughts have entered my head.

なんと奇妙な狂った感覚を私に与えることか、私が気づくとき、まる一日を硯(すずり)に向かって費(つい)やし、ほかにもっとましなことをすることもなく、手当たり次第に書き付けながら、私の頭に入ってきたどんな馬鹿げた想念をも。(ドナルド・キーンによる英訳から原田試訳)

c)

Leisurely I face my inkstone all day long, and without any particular object jot down the odds and ends that pass through my mind, with a curious feeling that I am not sane.

悠々(ゆうゆう)と私は硯(すずり)に一日中対面し、なんら特定の目的もなく書き付けるのは頭によぎる種々雑多な事柄であるが、奇妙な感覚がよぎるのだ、私は正気ではないという。(ウィリアム・N・ポーターによる英訳から原田試訳)

d)

Au gré de mes heures oisives, du matin au soir, devant mon écritoire, je note sans dessein précis les bagatelles dont le reflet fugitif passe dans mon esprit. Étranges divagations.

自分の暇な時間に任せて、朝から晩まで、筆記具入れを前にして私は明確なもなく書きつけるのはののはかない照り返りや影が私の意識をるところの些事(さじ)。奇妙なたわ言よ(シャルル・グロボワと吉田とみ子による仏訳から原田試訳)。

e)

Wenn ich allein und in Muße bin, sitze ich den ganzen Tag vor meinem Tuschkasten und schreibe alles, was mir durch den Kopf geht, ohne Zusammenhang und ohne eine bestimmte Absicht auf. Dabei ist mir immer recht wunderlich zumute.

独りで暇なとき、私は一日中自分の硯箱(すずりばこ)の前に座り、自分の頭をることなら何でも書きつける。脈絡なく、明確なもなしに。そうして私はいつも相当に奇異な気分になる。(オスカル・ベンルによる独訳から原田試訳)

11、『吾輩は猫である』冒頭の訳

日本語の一人称は話者と聞き手の立場によって無限に存在する。単数に限っても、私(わたし)、私(わたくし)、わたくしめ、わし、あっし、あたし、あたい、僕、僕ちゃん、俺、俺様、おら、おいら、我(われ)、我が輩、吾輩、余(よ)、小生(しょうせい)、うち、、、など。これに対して英語には I しかない(但し、I, my, me, mine と活用する)。仏語には je しかない(但し、je, mon, ma, me, moi と活用する)。ドイツ語には ich しかない(但し、ich, mein-meines-meinem-meinen, meine-meiner-meiner-meine, mein-meines-meinem-mein, meine-meiner-meinen-meine, mir, mich と活用する)。

a)

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)作 『吾輩は猫である』(明治卅八年=1905年)から冒頭

b)

I am a cat but as yet I have no name.(柴田と甲斐(かい)英訳)

私は猫だが今のところ名前を持っていない。

C)

I am a cat. As yet I have no name.(伊藤愛子とグレイアム・ウィルソン英訳)

私は猫だ。今のところ名前を持っていない。

d)

Je suis un chat. Je n’ai pas encore de nom.(ジャン・ショイー仏訳)

私は猫だ。まだ名前を持っていない。

e)

Je suis un chat: l’auteur produit un effet comique par l’emploi d’un mot, sans équivalent exact en français, pour le pronom de première personne, qui était employé par les fonctionnaires, les militaires, les hommes politiques, etc., et donnait une impression d’arrogance.(ジャン・ショイー訳脚注より)

『吾輩は猫である』。作者は、フランス語にぴったり当てはまる訳語がなく、役人や軍人や政治家等によって用いられた一人称の代名詞を使うことで喜劇的な効果を作り出し、且つ傲慢な雰囲気をし出している。(原田試訳)

f)

Otto Putz, Ich der Kater(オットー・プッツ独訳の題名『我こその雄猫』)

g)

Gestatten, ich bin ein Kater! Unbenamst bislang.(オットー・プッツ独訳)

ちょっと失礼。僕は雄猫です。名前はついてません、今のところ。

h)

「ヤング」なるもの手紙をよこす。「ヤング」とは何者なるや知らず。亜米利加人のひま人なるべし。(漱石 明治42年(1909年)3月12日の日記)

i)

漱石の英文手紙

Herein, a cat speaks in the first person plural, we. Whether regal or editorial, it is beyond the ken of the author to see. Gargantua, Quixote and Tristram Shandy, each has had his day. It is high time this feline King lay in peace upon a shelf in Mr Young’s library. And may all his catspaw-philosophy as well as his quaint language, ever remain hieroglyphic in the eyes of the occidentals!

K. Natsume

Tokyo, Japan

17 May 1908

j)

本作品においては、一匹の猫が第一人称複数(we)で語ります。第一人称複数が君主の物言いであるのか、論説主幹の物言いであるのか、作者も知る由のないところでございます。かつてはそれぞれに時めいたガルガンチュア、ドン・キホーテ、トリストラム・シャンディーのいずれも、今や色褪せております。今こそこの猫界の王者が、ヤング氏の書棚に鎮座ましますことは、まことに時宜に叶っております。そして、風変わりな猫語とともに、猫足的哲学のすべてが、西洋の読者にとって、意味深長であり続けますようにと願っています。(山内久明訳『漱石全集』注釈)

k)

漱石の英文手紙の誤りを正すと、

To Mr Young:

Herein speaks a cat in the first person plural. Whether ’tis regal or editorial is a matter beyond the ken of the author. It would be a seasonable suggestion that this Rex felis should lie in your library, for Gargantua, Quixote and Tristram Shandy have all seen better days. May his cat’s-paw philosophy in his quaint language ever remain esoteric in Western eyes.

Kinnosuké Natsumé

17 May 1908

Tokyo, Japan

l)

We call ourself “the Cat”, with no name attached so far.

朕(ちん)は自(みずか)らを「猫」と称し、名は今のところ付随していない。(原田試訳)

12、参考文献

・米原万里『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』(新潮社新潮文庫, 1994年)

・キングレコード編『荒城の月のすべて』(キングレコード KICG 3133, 2003年)

・上島建吉解説注釈『ロマン派詩選』(研究社, 1982年)

・ウィリアム・ワーズワース(田部重治訳)『ワーズワース詩集』(岩波書店岩波文庫, 1966年)

・平井正穂編訳『イギリス名詩選』(岩波書店岩波文庫, 1990年)

・Sándor Hervey, Ian Higgins and Michael Loughridge. Thinking German Translation. (London: Routledge, 1995)

・アルベール・カミュ(窪田啓作訳)『異邦人』(新潮社新潮文庫, 1954年)

・Thomas Moore. Lyrics and Satires from Tom Moore. Selected by Seán O’Faoláin (Dublin: The Cuala Press, 1929)

・中村喜和他『ロシア文学案内』(朝日出版社 1977年)

・NHKテレビ「ロシア語講座テキスト」(NHK出版)

・原田俊明「文芸翻訳の一考察」(富士見言語文化研究会『ふじみ』第22号, 2000年)

・河野一郎『翻訳のおきて』(DHC, 1999年)

・Jake Allsop, Happy Days and Other Very Short Stories (Harmondsworth: Penguin, 1998)

・上田敏『海潮音』(1905年)

・『高等学校用 現代文 改訂版』(筑摩書房, 1985年)

・田辺保編『フランス名句辞典』(大修館書店, 1991年)

・野村喜和夫編『ヴェルレーヌ詩集』(思潮社, 1995年)

・Paul Verlaine. Selected Poems. New translation with parallel French text by Martin Sorrell (Oxford: OUP, 1999)

・James Joyce, Poems and Exiles. (Harmondsworth: Penguin, 1992)

・三木紀人『徒然草(一)全訳注』(講談社学術文庫, 1979年)

・Kenko. Essays in Idleness: The Tsurezuregusa of Kenko. Translated by Donald Keene (Tokyo: Charles E. Tuttle, 1967)

・Kenko Yoshida. The Miscellany of a Japanese Priest: Being a Translation of Tsure-zure Gusa. Translated by William N. Porter (London: Humphrey Milford, 1914). 復刻版 (Tokyo: Charles E. Tuttle, 1974)

・Urabe Kenkô. Les heures oisives (Tsurezure-gusa). Traduction de Charles Grosbois et Tomiko Yoshida (Paris: Éditions Gallimard, 1968)

・Yoshida Kenko. Betrachtungen aus der Stille: Tsurezuregusa. Aus dem Japanischen übertragen von Oscar Benl (Frankfurt am Main: Insel Verlag, 1963)

・夏目金之助 初版『漱石全集第二十巻』(漱石全集刊行会, 1929年)

・夏目金之助 昭和十年版『漱石全集第十四巻』(岩波書店, 1935年)

・最新版『漱石全集第二十六巻』(岩波書店, 1996年)

・Soseki Natsume. I Am a Cat: A Novel. Translated by Katsuei Shibata and Motonari Kai (Tokyo: Kenkyusha, 1961)

・Soseki Natsume. I Am a Cat. Translated by Aiko Ito and Graeme Wilson (Tokyo: Charles E. Tuttle, 1972)

・Natsumé Sôseki. Je suis un chat. Traduit du japonais par Jean Cholley (Paris: Éditions Gallimard, 1978)

・Natsume Soseki. Ich der Kater. Aus dem Japanischen übertragen von Otto Putz (Frankfurt am Main u. Leipzig: Insel Verlag, 1996)