前期14「イギリス文化論」(2021/ 6/10 + 6/17) 英国の大学年表と女権(十一世紀から十七世紀)

1066年以前の歴史については後期授業資料( https://sites.google.com/site/xapaga/home/historicrulers )を参照のこと。日本の大学年表についてはウェブページ6種( https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline1 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline2 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline3 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline4 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline5 / https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline6 )を参照のこと。

1066年10月14日 イングランドの王権を主張してフランス北部のノルマンディー公国から海を越えて乗り込んで来たノルマン人(北欧ヴァイキングの末裔(まつえい)ながらフランス語話者)のウィリアム一世またはウィリアム征服王(William I of England or William the Conqueror, c.1028-87; 在位1066-87)が、天下分け目のヘイスティングズの合戦(Battle of Hastings)で、イングランド国王ハロルド二世(Harold Godwinson or Harold II, 1022-66; 在位1066)の軍勢を破ってイングランドの王位を奪う。ハロルド王は戦死。

十一世紀終盤(年号不明の1090年代ぐらい) 1088年にイタリアで創立されたボローニャ大学(羅 Ūniversitās Bonōniensis; 伊 Università di Bologna; 英訳 University of Bologna)にやや遅れて、イングランドのカトリック教会の僧侶らによって、主に神学(theology)を羅典(ラテン)語で学ぶためのオクスフオッド大学(羅 Ūniversitās Oxoniensis; 英 University of Oxford; 通称 Oxford University)が創立される。当時の大学(羅 ūniversitās ウーニウェるシタース; 英 university ユーネヴアセティ)とは、教員と学生たちが移動式に学ぶ、特定の建物を持たない集団を指した。国王の勅許状(Royal Charter)を得たのはずっと後の1248年のこと。

1096年 上記のオクスフオッド大学(羅 Ūniversitās Oxoniensis; 英 University of Oxford; 通称 Oxford University)で教育が始まる

1166-72年 イングランド王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)の軍勢がアイルランド島に侵攻。

1167年 イングランド人学生が1150年頃にフランスの首都に創立されたパリ大学(羅 Ūniversitās magistrōrum et scholārium Parisiensis; 仏 l’Université de Paris; 英訳 University of Paris)、通称ソルボンヌ(la Sorbonne)で学ぶことをイングランド国王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)が禁止したことで、オクスフオッド大学(羅 Ūniversitās Oxoniensis; 英 University of Oxford; 通称 Oxford University)での勉学が本格的に始まる。この年(1167年)をオクスフオッド大学の創立年と見做(みな)す説があるため、1150年頃に創立されたパリ大学の方がオクスフオッド大学より古いとする資料も存在する。

1170年12月29日 イングランド王国宗教界トップであるカンタベリー大司教(Archbishop of Canterbury)で、大法官(Lord Chancellor)のトマス・ベケット(Thomas Becket, 1119-70; カンタベリー大司教在任1162-70)が、教会の自由をめぐって国王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)と対立し、仕事場であったカンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral)内で、国王の意を汲んだ4人の騎士によって殺害される。ベケット最期の言葉は、「イエスの名に於いて、そして教会の保護の名に於いて、私は死を抱きしめる準備ができている。」(For the name of Jesus and the protection of the Church, I am ready to embrace death.)と伝えられる。なお、現在の自称プロテスタントのイングランド教会系の教会(聖公会や監督派教会)では、「アーチビショップ」を「大司教」ではなく「大主教」と和訳しているが、1170年のイングランド王国はカトリック国だったため、カトリック式に「大司教」とする。三年近く後の1173年にローマ教皇アレクサンデル三世(羅 Alexander III; 伊 Alessandro III; 英 Alexander III, c.1100/1105–1181)が故トマス・ベケットを列聖したため、以後はカンタベリーの聖トマス(Saint Thomas of Canterbury)と成る。2020年12月28日(月)にはベケット殉教850周年を翌日に控え、アメリカ合衆国(USA: United States of America)のトランプ(Donald J. Trump, b.1946; 大統領在任2017-21; 私立ペンシルヴェイニァ大学卒)大統領が声明文(proclamation)を発表し( https://www.whitehouse.gov/presidential-actions/proclamation-850th-anniversary-martyrdom-saint-thomas-becket/ )、「宗教的迫害からの自由は単なる贅沢や歴史の偶然ではなく、むしろ我々の自由の必要不可欠な構成要素である」(our freedom from religious persecution is not a mere luxury or accident of history, but rather an essential element of our liberty)、「暴君に対する反逆は神への服従である」(rebellion to tyrants is obedience to God)、「自由を護ることは生命そのものよりも重要である」(defending liberty is more important than life itself)とする。

1209年 オクスフオッド大学(羅 Ūniversitās Oxoniensis; 英 University of Oxford; 通称 Oxford University)の学生2名が、オクスフオッドの街の女性1名を死なせる事件が発生。意図的な殺害なのか、過失で死なせたのかは不明だが、街の住人が怒りを爆発させ、その学生2名(一説には視界に入った最初の学生を手当たり次第に2人集めただけとも言われる)を自分たちで私刑として絞首刑に処す。オクスフオッドの街は不穏な雰囲気に包まれ、タウン&ガウン(town and gown: 「町 の住民と大学関係者とのいざこざ」の意)が激化する。そこでオクスフオッド大学の一部関係者は海を越えてパリ大学(羅 Ūniversitās magistrōrum et scholārium Parisiensis; 仏 l’Université de Paris; 英訳 University of Paris)に逃れたり、ケイムブリヂに引っ越したりした。こうして新たに大学を作ったことで英国で二番目に古いケイムブリヂ大学(羅 Ūniversitās Cantabrigiensis; 英 University of Cambridge; 通称 Cambridge University)が創立される。但し、国王の勅許状(Royal Charter)を得たのは二十二年後の1231年のこと。現在ではノーベル賞(典 Nobelpriset; 英 Nobel Prize)の世界最多受賞記録を持つ大学として名高いケイムブリヂ大学だが、建学の経緯(いきさつ)が犯罪絡みだったとは興味深い。スペインで1130年までには教育が始まっていたとされ、1218年に正式に認可されたサラマンカ大学(羅 Ūniversitās Studiī Salamanticensis; 西 Universidad de Salamanca; 英訳 University of Salamanca)や、フランスで1150年頃に創立されたパリ大学にやや遅れて創立となる。

1215年6月15日 ジョン王(King John, 1166-1216; 在位1199-1216)が対外政策の失敗や徴税をめぐって貴族や聖職者から成る上流階級と対立。結果として国王が折れて、貴族や聖職者の権利を認めた63箇 条から成る羅典(ラテン)語の「大憲章」(羅 Magna Carta; 英訳 Great Charter)を承認する。これは後の西欧民主統治の基礎とされ、教会や市民の権利、国王が封建制を悪用しないようにするための条件が綴(つづ)られて いる。ちなみに日本では、イングランドに遅れること十七年後に鎌倉幕府の執權 北條泰時(ほうじやう やすとき, 1183-1242; 執權在任1224-42)によって全五十一条(十七條憲法の三倍)から成る日本最初の武家法である御成敗式目(ごせいばい しきもく)、後の名称として貞永式目(ぜうゑい しきもく)が制定されている。

1231年 二十二年前の1209年に創立されていたケイムブリヂ大学(羅 Ūniversitās Cantabrigiensis; 英 University of Cambridge; 通称 Cambridge University)が国王ヘンリー三世(Henry III, 1207-72; 在位1216-72)の勅許状(Royal Charter)を得て正式に大学として認可される。

1248年 百五十二年前の1096年に教育が始まっていたオクスフオッド大学(羅 Ūniversitās Oxoniensis; 英 University of Oxford; 通称 Oxford University)が国王ヘンリー三世(Henry III, 1207-72; 在位1216-72)の勅許状(Royal Charter)を得て正式に大学として認可される。正式な認可ではケイムブリヂ大学より十七年も遅れる。

1249年 オクスフオッド大学に最古の学寮としてユーネヴアセティ・コレッヂ(University College, Oxford)が開寮。

1258年 ウェールズ公国(Principality of Wales)が成立。

1261年 ノーサンプトン大学(羅 Ūniversitās Northamptoniensis; 英 University of Northampton)がオクスブリヂ両大学に続く第三の大学(the third university)として創立される(四年後に廃校)。二十一世紀の現在、同名大学が存在するが、これは1975年に創立され、2005年に大学として 正式に認可された新大学(a new university)であるため無関係。

1265年 僅か四年前の1261年に創立されたばかりのノーサンプトン大学が廃校。

1275年 六十年前の1215年に開催された第四ラテラノ公会議(羅 Concilium Lateranense Quartum; 英訳 Fourth Council of the Lateran)でのユダヤ教徒(Jews)に対する4つの決定事項、すなわち一目でそれと分かる身なりの義務づけ、ユダヤ教徒の通商活動の制限、ユダヤ教徒がキリスト教徒(Christians)を使用人として雇うことの禁止、ユダヤ教徒がキリスト教徒の女性(Christian women)を家庭や組織に雇い入れることの禁止に基づき、イングランド王国がユダヤ人指導者に貸金業を営むことを禁じる。

1282年 イングランド王国がウェールズ公国を事実上併合。イングランドからの圧力に加えてウェールズ国内での権力闘争の結果として、事実上の併合が成ったが、直接の契機はウェールズ大公(Prince of Wales)であるルウェリン・アプ・グリフィズ(Llywelyn ap Gruffydd, c.1228-82)がイングランド王のエドワード一世(Edward I, 1239-1307; 在位1272-1307)に敗れ、ウェールズがイングランドの支配下に置かれたことである。この併合以来、イングランドの歴代皇太子(王太子)はウェールズ大公(Prince of Wales)と呼ばれることになる(ちなみに日本の皇太子の別名は「東宮(とうぐう)」)。なお、二百五十四年後の1536年には正式にイングランドに併合されることになる。

1284年 ケイムブリヂ大学で最古の学寮(コレッヂ)として、ペテロの家(Peterhouse, Cambridge)が開寮。学寮でありながらコレッヂ(College)の名を含まない。

1290年 イングランド王国がユダヤ人追放令を発布し、ユダヤ教徒を国外追放へ。以後三百六十七年後の1657年まで追放令は解除されず。

1326年 ケイムブリヂ大学で現存する学寮としては二番目に古いクレア学寮(Clare College, Cambridge)が開寮。1972年に初の女子学生が入ってくるまで男子専用の学寮。

1337年11月1日 国王エドワード三世(Edward III, 1312-77; 在位1327-77)によるフランスへの挑戦状送付により、フランス王国との間に百年戦争(仏 Guerre de Cent Ans; 英 Hundred Years’ War, 1337-1453)が勃発。

1348-50年 イングランドに於(お)ける最初の黒死病(Black Death)、またはペスト(plague)の蔓延(まんえん)が記録される。1348年夏にイングランド南部を襲ったペストが同年9月に首都ロンドン(London)を襲い、同年中にイングランド東部を侵蝕(しんしょく)。翌’49年春にはイングランド中部(ミドランヅ)地方とウェールズをも侵蝕した。同年晩夏にペストの猛威はアイリッシュ海を越えてアイルランド島をも侵蝕した。イングランドの苦しみをチャンスと見たスコットランドはイングランド北部を侵略し、ダラム(Durham)市を占領するも、ペストの怖さを知って撤退。同年冬にペストはスコットランドの冬を乗り越えることができず、死に絶えたかに見えたが、翌’50年春にペストが 再発。スコットランドにとっては手痛い失敗だった。ペストはその後も1361-64年、1368年、1371年、1373-75年、1390年、1405 年、1665-65年に猛威を振るうことになる。

(外部サイト)BBC History: Black Death

http://www.bbc.co.uk/history/british/middle_ages/black_01.shtml

1355年2月10日(火)~12日(木) 聖スコラスティカの日の暴動(St Scholastica Day Riot)が人口約5,000人(現在の人口は当時の34倍で約17万=170,000人)のオクスフオッド(Oxford)の町で勃発。タウン&ガウン(town and gown: 「町 の住民と大学関係者とのいざこざ」の意)が嵩(こう)じて暴動にまで発展。2人(数人とする資料もあり)のオクスフオッド大学(羅 Ūniversitās Oxoniensis; 英 University of Oxford; 通称 Oxford University)の学生と大学付僧侶らが街中のスウィンドルストック(Swindlestock)という、百五年前の1250年に創業されていた旅籠屋(はたご や: tavern)でワインを注文したが、「質が悪いぞ」と店主に文句を言う。それに対し店主は汚い言葉を浴びせたため、怒った学生たちは店主の顔にワインをぶっかけ、頭に1クォート杯(a quart pot: 2パイント=約1.136リットルの容器)を投げつける。大学当局は学生への懲罰を拒否したため、店側に加担する町の住人が弓矢を持って大挙して大学に押し掛け、これに対し一部の学生たちも弓矢で応戦する。大学関係 者の多くはオクスフオッドから逃げ出したが、63人の学生と推定30人の住人が暴動で死亡したとされる。暴動の二日目(1355年2月11日(水))には近郊のウドストック村(Woodstock, Oxfordshire)に滞在していた国王エドワード三 世(Edward III, 1312-77; 在位1327-77)のもとに、オクスフオッド市長(Mayor of Oxford)のジョン・ドゥ・ベレフオッド(John de Bereford, 13?? - 61; 無選挙のオクスフオッド市長在任1348-52 & 1354-55)が馬で乗りつけ、市側の味方について欲しいと国王に懇願。一部のウェブ資料は旅籠屋の店主と市長は同一人物であるとしているが、信憑性は薄い。暴動の三日目(1355年2月12日(木))には近在の村々から市側を応援する民衆約2千人が街に駆けつけ、大学の建物を破壊し、大学関係者を殺害する。ここに至って国王の裁定を仰ぐことになるが、大学側と住民側の双方が自分らの側が正しいと主張。これに対して国王は家来に捜査(investigation)を命じた結果、きっぱりと「大学側が正しい」という勅令(ちょくれい: an edict)を出す。こ うして大学側は処罰を免れ、逆に住民の代表者たちは罰せられた。以後、毎年2月10日の「聖スコラスティカの日」にはオクスフオッドの市長と市議会の幹部が懺悔のミサに出席し、大学側に計63ペンス(63 pence)=5シリング3ペンス(5s 3d: five shillings and three pence)、つまり1ポンドの80分の21に固定されていて、この金額の寄付をすることとされた。これは死亡した学生1人につき1ペンスという計算である。寄付額は時代が下るに連れて物価の上昇があったため有名無実化し、市が大学に屈服する象徴的な意味合いだけが残された。この伝統は1825年に当時のオクスフオッドの市長が寄付を拒否するまで四百七十年も続いた。寄付の拒否について大学側は何の行動も起こさなかったため、この時点からオクスフオッド市は屈辱的な寄付金を支払わずに済んでいる。なお、シリング(shilling)という補助通貨は1971年2月14日(日)深夜24時に廃止されるまで使われていて、12ペンス=1シリング(12 pence = 1 shilling)で、240ペンス=20シリング=1ポンド(240 pence = 20 shillings = 1 pound)という非英国人には大変分かりにくい制度だった。同年(1971年)2月15日(月)深夜零時からは100ペンス=1ポンド(100 pence = 1 pound)という現行の分かり易いシステム(アメリカや欧州大陸諸国のような合理的なシステム)になり、シリングが廃止された。また、事件の発端(ほったん)となった旅籠屋は、事件の三百五十四年後の1709年に廃業したという。事件の六百周年記念日の1955年2月10日(木)、ロンドンの英国議会はエドワード三 世の勅令を撤廃(rescind)し、同時に大学側と市側は漸(ようや)く和解する。大学は市長(Mayor)に名誉博士号(an honorary doctorate)を授与し、市側は大学の副学長(Vice-Chancellor: イギリスの学長は名ばかりの名誉職のため、副学長が事実上のトップ)に名誉自由市民(an Honorary Freeman)の資格を付与する。この暴動については、2018年2月4日(日)実施の昭和女子大学(英称 Showa Women’s University; 英略称 SWU)平成30年度B日程試験(入試)の3時間目「英語」の問題文として出題されたが、本ウェブサイトの管理人 xapaga は作問に関与していない。

1379年 オクスフオッド大学に新学寮(New College, Oxford)が開寮。以後も変わらずこの名称ながら、皮肉にもオクスフオッドで最古参の学寮(コレッヂ)の一つ。

1399年 三百年以上も前の1066年のノルマン征服以来、フランス語話者として振る舞ってきたイングランド王家だったが、ランカスター家を興した新国王ヘンリー四世(Henry IV, 1367-1413; 在位)が自身の戴冠式に於(お)いて初めて公式の場で英語を用いる。

1410年 スコットランド初の大学としてセンタンドルーズ大学(University of St Andrews: 直訳「聖アンデレ大学」)が創立される。

1428年 ケイムブリヂ大学に『新約聖書』のマグダラのマリア(St Mary Magdalene)から名づけられたモードレン学寮(Magdalene College, Cambridge)が開寮。1988年まで最後の男子専用学寮として女子学生を拒み続けたケイムブリヂの中でも悪名(あくみょう)高い学寮。

1441年 ケイムブリヂ大学に国王学寮(King’s College, Cambridge)が開寮。ケイムブリヂで最も見栄えが良く堂々とした学寮であるため、ケイムブリヂの写真と言えば、国王学寮が選ばれることが多い。1972年に初の女子学生が入ってくるまで男子専用の学寮。

1451年 スコットランドに二番目の大学としてグラーズゴウ大学(University of Glasgow)が創立される。この時点でイングランドとスコットランドの大学数が同数(各2大学)になる。

1453年 百年戦争(仏 Guerre de Cent Ans; 英 Hundred Years’ War, 1337-1453)が終結。イングランドは拠点としていたボルドー(Bordeaux)を失い、フランスから撤退。

1455年 イングランド王国の王冠を巡って赤バラのランカスター家(House of Lancaster)と白バラのヨーク家(House of York)による薔薇(バラ)戦争(Wars of the Roses, 1455-87)が勃発して内戦状態に。

1428年 ケイムブリヂ大学に続いてオクスフオッド大学にも『新約聖書』のマグダラのマリア(St Mary Magdalene)から名づけられたモードレン学寮(Magdalen College, Oxford)が開寮。ケイムブリヂの学寮との差別化を図るべく、綴(つづ)り(spelling)を微妙に違えている。

1485年8月22日 ランカスター家出身のヘンリー・テューダー(Henry Tudor, 1457-1509)、後の国王ヘンリー七世(Henry VII, 1457-1509; 在位1485-1509)が、ボズワースの戦い(Battle of Bosworth)で王位簒奪(さんだつ)者リチャード三世(Richard III, 1452-85; 在位1483-85)を討ち取り、政略結婚によって敵のヨーク家から妃(きさき)を迎えることで和解し、ヨーク家とランカスター家の両家を統合したテューダー朝を起こす。このことで薔薇(バラ)戦争(Wars of the Roses, 1455-87)を公式に終わらせたことになるが、まだ二年ほど火種が燻(くすぶ)り続けた。

1494年 イングランド王ヘンリー七世(Henry VII, 1457-1509; 在位1485-1509)がアイルアンド人のアイルランド総督を罷免(ひめん)し、新たにイングランド人のアイルランド総督を派遣。土着のケルト文化を否定し、アイルランド全島をイングランド化(anglicise)しようとする。

1495年 スコットランドに三番目の大学としてアバディーン大学(University of Aberdeen)が創立される。この時点でスコットランドの大学数(3大学)がイングランド(オクスブリヂの2大学のみ)を超える。

16世紀(1501-1600年) 前世紀(15世紀)にドイツのグーテンベルク(Johannes Gutenberg, c.1398-1468)が発明した活版印刷により、出版革命が起こり、中世以来の大学が知の中心から転落。

1534年 国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)が、亡き兄嫁との婚姻状態の無効を教皇クレメンス七世(羅 Clemens VII; 英 Clement VII, 1478-1534; 教皇在位1523-34)に認めてもらう試みが失敗したため、1534年国王至上法(Act of Supremacy 1534)を制定し、ローマのカトリックを捨ててプロテスタント派の国教をつくり、自らが教皇(ローマ法王)に代わり宗教界のトップに君臨。以後、イングランド&ウェールズのカトリック修道会を殲滅(せんめつ)して修道院を破壊し、莫大な財産を没収。

1536年 二百五十四年前の1282年にイングランドによるウェールズの事実上の併合が成立していたが、この年には「イングランド王國で施行されてゐる樣な形態でウェールズでも施行される法律・司法の爲の法」(An Acte for Laws & Justice to be ministred in Wales in like fourme as it is in this Realme)という長い名前の法令によってウェールズの正式な併合が完成する。また、同年にイングランド王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)がアイルランド王の称号を得てアイルランド島を統治。二年前の1534年国王至上法(Act of Supremacy 1534)によりカトリックを捨ててプロテスタント派の国教をつくり、自らが教皇(ローマ法王)に代わり宗教界のトップに君臨していたため、アイルランドにも宗教改革を強要する。カトリック信仰の強固なアイルランド人やイングランドから渡って来たアングロ・ノルマンの領主たちはヘンリー八世に反撥。

1538年12月 ローマ教皇パウルス三世(羅 Paulus III; 英 Paul III, 1468-1549; 教皇在位1534-49)がイングランド国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)を正式に破門(excommunicated)。

1547-53年 九才三ヶ月で王位に就いた少年王エドワード六世(Edward VI, 1537-53; 在位1547-53)が側近の助けを借りて父ヘンリー八世の築いた国教をカトリックからさらに遠ざけ、よりプロテスタント的なものにするが、弱冠十五歳九ヶ月で歿。

1553年7月24日~’58年11月17日 女王メアリー一世(Mary I of England, 1516-58; 在位1553-58)が父ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)や異母弟エドワード六世(Edward VI, 1537-53; 在位1547-53)の政策に反し、イングランド王国を元のカトリック国家に戻して280名を超えるプロテスタント信徒を火刑に処したことで国を混乱に陥(おとしい)れたため、「血まみれのメアリー(Bloody Mary)」の異名がつく。

1558年1月1日~8日 女王メアリー一世(Mary I of England, 1516-58; 在位1553-58)の治世末期、イングランド王国が大陸に残した最後の土地でカレー攻防戦(Siege of Calais)が戦われ、攻略側のフランス王国軍が勝利。イングランド軍の撤退により、イングランド王国はフランスに於ける根拠地を全て失う。

1558年11月17日~1603年3月24日 女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)が父ヘンリー八世の意を汲(く)んで再びプロテスタント派の国教に戻すが、カトリック的な性格をも残した妥協的な「中庸の道(via media)」を選択することで国の混乱を最小限に食い止め。女王エリザベス一世の支援の下(もと)、イングランドはポルトガルに倣(なら)ってアフリカ大陸に進出し、地元の王族や首長から黒人奴隷を買い集め、カリブ海の砂糖黍(サトウキビ)農園の白人農園主に売り渡すと いう奴隷貿易を始める(1807年まで)。また、新大陸(南北アメリカ大陸)から略奪した財宝を積んだスペイン船を襲撃して宝を横取りするライセンスを私掠船(しりゃくせん privateers = 事実上の海賊船 pirate ships)に与え、豪商や貴族に出資させ、現在の感覚で言うベンチャー企業への億単位の投資のような経済活動を奨励。これは同時にスペイン船の乗組員の皆殺しをも意味した。

1570年2月25日 ローマ教皇ピウス五世(Pius V, 1504-72; 在位1566-72)がイングランド女王エリザベス一世(Elizabeth I, 15-1603; 在位1558-1603)を正式に破門(excommunicated)。

1582年 スコットランドの都にエディンバラ大学(University of Edinburgh)が創立される。イングランド2大学に対してスコットランド4大学体制の確立。この時点でスコットランドの大学数(4大学)がイングランド(オクスブリヂの2大学のみ)を突き放し、その状態は1829年まで二百四十七年間も続く。

1587年11月4日 記録で確認できる日英の初接触。スペイン領カリフォルニア半島(現在のメキシコ合衆国の下(バハ)カリフォルニア半島)の聖ルカ岬(西 Cabo San Lucas, Península de Baja California; 英 Cape of St Luke, Lower California Peninsula)でイングランド人キャヴェンディッシュ(Sir Thomas Cavendish, 1560-92; ケイムブリヂ大学基督聖体学寮中退)船長の率いるイングランド私掠船「欲望」(Desire)号と同「満足」(Content)がスペインのガレオン船の聖アナ号(Santa Ana)=英訳 St Anne を襲撃略奪した際、20歳ぐらいのスペイン名クリスバル(Cristóbal)=ポルトガル名クリストヴァン(Cristóvão)=英名クリストファー(Christopher)と、16歳のスペイン名コスメ(Cosme)=ポルトガル名グスマン(Gusmão)=英名コスマス(Cosmas)と名乗る日本人切支丹(キリシタン)男性2名を保護し(スペイン側から見ると拉致し)、その後雇用した(スペイン側から見ると強制労働させた)という記録が残っている。この日本人男性2名は読み書きや計算の能力に長()けていたとも伝えられている。二人の日本人はキャヴェンディッシュ船長のもとで私掠船「欲望」の船員として働き、おそらくは日本人として史上初めて世界一周をし、記録は残っていないが、これまた日本人として史上初めてイングランドに上陸して三年程住んだ可能性がある。四年半後の1592年5月にキャヴェンディッシュ船長は南大西洋(South Atlantic)を航海中に31歳の若さで原因不明の死を迎えるが、日本人男性2名の消息もその辺りから不明となる。

1588年 三年前の1585年から断続的に起こっていた英西戦争(英 Anglo-Spanish War; 西 Guerra anglo-española, 1585-1604)の一環として、イングランド海軍がスペイン無敵艦隊をイングランド近海で撃退。以後、イギリス(厳密には当時のイングランド王国、後のグレートブリテン王国、そして現在に至る連合王国)が大国に伸(の)し上がる礎(いしずえ)となる。

1592年 イングランド王国の事実上の属国だったアイルランド島にダブリン大学(University of Dublin)が創立され、同時にアイランド最古の学寮としてダブリン大学三位一体学寮(Trinity College, Dublin)が開寮する。イングランド2大学、スコットランド4大学、アイルランド1大学の英国諸島古き七大学体制(the seven ancient universities of the British Isles)の確立

1594年4月~1603年3月31日 第2代ティロン伯ヒュー・オニール(Hugh O’Neill, 2nd Earl of Tyrone, c.1565-1616)率いるアイルランド人領主連合(Confederation of Irish Lords)がカトリック国のスペイン王国を味方につけた上でアイルランド九年戦争(Nine Years’ War in Ireland)を起こし、イングランド女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)の軍勢に抗して戦うも負け戦となる。新国王ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; 在位1603-25)との和平交渉にロンドンへ赴(おもむ)くも欧州大陸へ逃走し、カトリックの総本山ローマに亡命する。叛乱が収まった後、ジェイムズ一世はアルスター地方(今日の北アイルランドと一部の隣接地)にイングランド教会やスコットランド教会(長老派教会)の信徒を次々と入殖させ、地主にする。アルスター地方に居たカトリック信徒は追放されるか、小作農に身を落とす。

ここまでが狭義(狭い厳密な意味)での古き大学(ancient universities)の時代、恵まれた生まれの特権階級(男子のみ)が進学

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十七世紀(1601-1700年)は一校の大学も設立されず、内戦、革命、王政復古、対外戦争、ペスト禍、ロンドン大火に明け暮れる

1600年12月31日 イングランド女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)が、アジア貿易を独占する合本会社(joint stock company)としての東インド会社(英 EIC: East India Company)を勅許。1874年に解散するまで二百七十余年間も存続。イングランドの二年後の1602年にはネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)も連合東インド会社(蘭 VOC: Vereenigde Oostindische Compagnie; 英直訳 United East India Company; 英通常訳 Dutch East India Company)を設立し、1799年に解散するまで百九十七年間存続。オランダの二年後の1604年にはフランス王国(現在のフランス共和国)が国王の勅許の下(もと)でフランス東インド会社(仏 Compagnie française des Indes Orientales; 英直訳 French Company of the East Indies; 英通常訳 French East India Company)を設立し、その後三度に亘(わた)り解散するが、1789年のフランス革命後の四度目の解散で1795年に最終的に消滅するまで断続的に百九十一年間も存続した。フランスの八年後の1612年にはデンマーク王国が国王の勅許の下(もと)で東インド会社(丁 Ostindisk Kompagni; 英直訳 East India Company; 英通常訳 Danish East India Company)を設立し、1616年から1650年の間(第一次)と1670年から1729年の間(第二次)と1730年から1779年の間(第三次ながら名を変えてアジア会社)存在した。遅れて1731年にはスウェーデン王国も小規模で軍隊を持たないスウェーデン東インド会社(典 SOIC: Svenska Ostindiska Companiet; 英訳 Swedish East India Company)を設立し、ナポレオン戦争(Napoleonic Wars, 1803-15)中の1813年に閉鎖されるまで八十二年間存続した。

1603年3月24日 女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)の薨去(こうきょ)を受けて、嗣(よつぎ)=世継(よつ)ぎがいなかったテューダー朝(the House of Tudor)はお家断絶となる。そこでステュアート家(the House of Stuart)のスコットランド王ジェイムズ六世(James VI, 1566-1625; 在位1567-1625)がイングランド王ジェイムズ一世(James I, 1566-1625; 在位1603-25)を兼任する同君体制が成立。

1604年1月14日 国王ジェイムズ一世(James I, 1566-1625; スコットランド国王在位1567-1625; イングランド国王在位1603-1625)がハンプトン宮殿会議(Hampton Court Conference)にイングランド教会指導者たちとピューリタン指導者を招集し、英訳聖書の決定版を出すことを決議。ジェイムズ一世は学者を集めて『旧約聖書』(The Old Testament)をヘブライ語原典から、そして『新約聖書』(The New Testament)をギリシア語原典から七年越しで訳させる。

1606年4月10日 ロンドンの富裕な商人らが、大西洋の向こうの新大陸から富と利益を得ようと国王ジェイムズ一世(James I, 1566-1625; スコットランド国王在位1567-1625; イングランド国王在位1603-1625)から勅許(Royal Charter)を得て、ロンドン・ヴァージニア会社(Virginia Company of London)という名の株式会社を設立。英領ヴァージニア殖民地の出発と成る。同社は北米大陸の北緯34度から41度までの地域内に100平方マイル(約260平方キロ)の広さの殖民地を築くことを許されたが、その所有権は国王に在り、同社は国王の許可のもとで土地を開発した。

1606年4月12日 国王ジェイムズ一世(James I, 1566-1625; スコットランド国王在位1567-1625; イングランド国王在位1603-1625)が、イングランド国旗「聖ゲオルギオスの十字」(St George’s Cross: https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_George's_Cross#/media/File:St_George's_Cross.svg )とスコットランド国旗「聖アンデレの十字」(St Andrew’s Cross: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/10/Flag_of_Scotland.svg )を組み合わせた初代ユニオンフラッグ(Union Flag: 「統合旗」の意 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Flag_of_Great_Britain_(1707–1800).svg )=通称ユニオンジャック(Union Jack: 「統合船首旗」の意)を制定。

1607年5月14日 前年(1606年)に設立されたロンドン・ヴァージニア会社(Virginia Company of London)が会社定款(かいしゃ ていかん: articles of association)に基(もと)づき初の北米大陸英領殖民地であるジェイムズタウン(Jamestown)を築く。町の名は時の英国王で殖民地の所有権を有するジェイムズ一世(James I, 1566-1625; スコットランド国王在位1567-1625; イングランド国王在位1603-1625)の名に因(ちな)む。

1608年 イングランドの商船隊がインド西部のスーラト(Surat)に寄港を開始。

1611年5月2日 国王ジェイムズ一世(James VI, 1566-1625; スコットランド国王在位1567-1625; イングランド国王在位1603-1625)が七年越しで学者たちに訳させた英訳聖書『欽定訳聖書』(The Authorised Version, or The King James Version)として出版される。

1612年 イングランドの東インド会社(EIC: East India Company, 1600-1874)がインド西部のスーラト(Surat)港に商館を築く。

1613年(慶長18年) 三浦按針(みうら あんじん, 1564-1620)ことウィリアム・アダムズ(William Adams, 1564-1620)の尽力でイングランドの東インド会社(EIC: East India Company)が九州の平戸(現在の長崎県平戸市)に商館を設置。オランダ東インド会社(蘭 VOC: Vereenigde Oostindische Compagnie; 英訳名 Dutch East India Company, 1602-1799)に遅れること4年。

1615年 イングランドの東インド会社(EIC: East India Company)がインド西部のカリカット(Calicut)=現在のコーリコード(Kozhikode)に到達し、現地有力者と条約を結ぶ。

1620年 十年以上前の1607年または1608年頃から宗教的信念の相違からイングランドに居づらくなってオランダ(カルヴァン主義の強い国)に移住していたた宗教的狂信者ピューリタン信徒たち(Puritans)102名が1620年7月にオランダを出港し、メイフラワー号(the Mayflower)で北米の英国殖民地ニューイングランド(New England: 現在の米国北東部マサチューセッツ州沿海部)に同年(1611年)11月に到達する。彼らをピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers: 直訳「巡礼者の父祖たち」)と呼ぶ。そして同年(1611年)11月21日に北米大陸初の成文憲法であるメイフラワー誓約(Mayflower Compact)が締結される。

1623年2月23日~3月9日 現在のインドネシアの小島であるアンボイナ島(現在のアンボン島)でオランダ当局によるイングランド人と日本人傭兵たちの拷問・斬首・虐殺事件が勃発(ぼっぱつ)。世に言うアンボイナ事件(Amboyna Massacre)。2月23日の夜、イギリス側の日本人傭兵だった七藏(しちぞう, ? -1623)がオランダの衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねているのを不審に思ったオランダ当局が、七藏を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長ゲイブリエル・タワーソン(Gabriel Towerson, ? -1623)ら30余名を捕らえたオランダ当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、占領計画を企(くわだ)てていたことを自白させた。同年3月9日、オランダ当局はタワーソンをはじめイングランド人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島のイングランド勢力を排除。事件当時オランダの東インド総督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen, 1587-1629)は、オランダの東インド貿易独占を主張し、自国政府の対応を弱腰と非難していたため、事件はクーンの仕組んだ陰謀であるとする説もある。事件発生から三十一年後の1654年にオランダ政府が85,000ポンドの賠償金をイングランドに支払うことで決着。虐殺された日本人たちは德川幕府にとっては棄民(きみん)であったため、オランダ政府は日本には賠償金を払っていない。この事件をきっかけに、東南アジアでのイングランドの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めたが、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった東南アジア産香料の価格は次第に下落し、オランダの国力も下がって行った。反対に新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させたのは歴史の皮肉である。

1623年(元和9年) 三浦按針(みうら あんじん, 1564-1620)ことウィリアム・アダムズ(William Adams, 1564-1620)の死後3年で平戸のイギリス(当時はまだイングランド)商館が閉鎖。オランダとの競合に敗れ、僅か十年の業務を終えて日本から一方的に撤退。以後、二百三十一年間も日英間の交易は途絶える。

1624年3月 スペイン王国による支配を脱して1568年に八十年戦争(英 Eighty Years’ War; 蘭 Tachtigjarige Oorlog; 西 Guerra de los Ochenta Años, 1568-1748)ことオランダ独立戦争を起こし、1580年頃にネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)を組織していたオランダに加勢してイ ングランド国王ジェイムズ一世(James I, 1566-1625; 在位1603-25)が議会の同意を取り付け、スペイン王国に宣戦布告。英西戦争(英 Anglo-Spanish War; 西 Guerra anglo-española, 1625-30)が正式に勃発するも翌’25年になってから実際の戦闘開始。

1628年6月7日 国王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の治世で「権利の請願」(Petition of Right)が批准され、今後は国王が議会の承認なしに課税できなくなる。これは四百十三年前の1215年6月15日にジョン王(King John, 1166-1216; 在位1199-1216)によって承認された「大憲章」(羅 Magna Carta; 英訳 Great Charter)と、六十年後の1688年12月11日に発生した名誉革命(Glorious Revolution)によってイングランド議会が国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)を追放・廃位した翌年(1689年)12月16日に成立した「権利の章典」(Bill of Rights)と並んで、イギリスの不文憲法(unwritten constitution)を構成する重要な基本法として今日でも位置づけられている。

1629年 国王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)が北米大陸にマサチューセッツ湾会社(Massachusetts Bay Company)を設立する勅許(Royal Charter)を関係者に与える。

1630年 上記のマサチューセッツ湾会社(Massachusetts Bay Company)が北米大陸に入殖後、自分たちの会社定款(かいしゃ ていかん: articles of association)を殖民地憲法とする。

1630年11月15日 マドリッド条約(仏 Traité de Madrid; 英 Treaty of Madrid; 西 Tratado de Madrid)の締結で英西戦争(英 Anglo-Spanish War; 西 Guerra anglo-española, 1625-30)が正式に終結。イングランド王国の得るところは無く、事実上の敗戦となったが、ネー デルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)は十八年後の1648年にウェストファリア条約・ヴェストファーレン条約(仏 Traités de Westphalie; 英 Peace of Westphalia; 蘭 Vrede van Westfalen; 西 Paz de Westfalia)の締結で独立を達成。

1632年 国王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)による最初の封土(ほうど: dominion)型英領殖民地としてメリーランド(Maryland)殖民地が設立される。

1636年 ケイムブリヂ大学イマニュエル学寮(Emmanuel College, Cambridge)の卒業生でピューリタン牧師のジョン・ハーヴァード(John Harvard, 1607-38)たちが、北米の英国殖民地ニューイングランドのニュータウン(Newtowne, New England)に北米最古の大学ハーヴァード・コレッヂ(Harvard College)=現在のハーヴァード大学(Harvard University)の前身を創立。しかし創立にハーヴァード自身がどれほど関与したのかは議論の余地があり、実際にはハーヴァードが1638年9月14日に満30歳の若さで歿した後に遺贈された蔵書を基(もと)に、その翌年(1639年)に本格始動したため、大学名にハーヴァードの名が冠されるようになったという。

1638年 ニューイングランド殖民地のマサチューセッツ湾のボストン(Boston)市の隣町ニュータウン(Newtowne)は、イギリス本土の大学町にあやかってケイムブリヂ(Cambridge)と改名。ハーヴァード・コレッヂ(Harvard College)=現在のハーヴァード大学(Harvard University)の前身を創立したとされるジョン・ハーヴァード(John Harvard, 1607-38)がケイムブリヂ大学イマニュエル学寮(Emmanuel College, Cambridge)の卒業生だったことに由来する。

1639年8月22日 オランダとの競争に負けたイングランドの東インド会社(EIC: East India Company)はインドに後退し、インド南東部のマドラス(Madras)=現在のチェンナイ(Chennai)に拠点を獲得。

1640年 イングランドの東インド会社(EIC: East India Company)がインド南東部のマドラス(Madras)=現在のチェンナイ(Chennai)に聖ゲオルギオス要塞(Fort St. George)を築く。

1641-53年 アイルランド同盟戦争(Irish Confederate Wars)=別名 アイルランド十一年戦争(Eleven Years’ War in Ireland)と呼ばれる叛乱で数千人のプロテスタント入殖者が虐殺される。

1642年1月4日 七年後の1649年1月に処刑されることになる国王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)が、議会下院の議場に自ら乗り込んで、「5名の議員を国王に対する大逆罪(high treason)で逮捕するので引き渡せ」と下院議長に迫ったところ、議長は命がけでそれを阻止し、国王は何の成果もなく帰って行った。国王のこの行ない は、議会に対する重大な越権行為として末永く語り継がれ、それ以来ひとりの国家元首も下院に足を踏み入れていない。

1642年8月22日 議会派(Parliamentarians)と王党派(Royalists)によるイングランド内戦(English Civil War, 1642-51)が勃発。

1647-51年 ピューリタン革命で王制を倒すことになるクロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)の軍勢がアイルランドを侵略し、アイルランドを事実上の殖民地とする。

1647年 アイルランド島南部のカッシェル(Cashel)の町をイングラ ンド議会派軍が攻め落とし、約600人の兵士と数百人の民間人を虐殺。

1649年1月30日 ピューリタン革命により国王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)が処刑され、イングランド王国(Kingdom of England)がイングランド共和国(Commonwealth of England)という名の共和制国家になる(最初で最後)が、イングランド内戦が勃発。

1649年9月3日~11日 アイルランド島東部のドロヘダまたはドロイーダ(Drogheda)の町をクロムウェル軍が攻め落とし、敗軍(イングランド王党派)の兵士、捕虜、アイルランドの民間人を合わせて3,000人近くを虐殺。その一ヶ月後には同島南東部の ウェクスフオッド(Wexford)の町をクロムウェル軍が攻め落とし、敗軍(アイルランド・カトリック同盟軍とイングランド王党派)の兵士と捕虜を合わせた約2,000人と民間人約1,500人を虐殺し、町に火を放って破壊。クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)は庶民院議長への書簡の中で、「私はこれ(=ドロヘダの虐殺)が、夥(おびただ)しい血で手を汚してきたこれら野蛮なクズどもに対する神の正義の判断であると確信する者であります。[後略]」(I am persuaded that this is a righteous judgement of God on these barbarous wretches, who have imbrued their hands with so much innocent blood; [後略])と書いて、自分たちの残虐行為を神(一神教の絶対者)の名に於(お)いて正当化した。

1651年3月30日 シリー諸島(Isles of Scilly)=現在の連合王国の一部とネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)との間に三百三十五年戦争(英 Three Hundred and Thirty Five Years’ War; 蘭 Driehonderdvijfendertigjarige Oorlog)が勃発(ぼっぱつ)。シリー諸島議会(Isles of Scilly Council)は駐英オランダ大使のレイン・ハウデコペル准爵(Jonkheer Rein Huydecoper, 生歿年不詳)をシリー諸島へ招き、1986年4月17日(木)付で平和条約を締結。三百三十五年間も締結されず、法的には戦争状態だったことから、「一発の銃も撃たれることなく、最も犠牲者が少ない、世界で最も長く続いた戦争」(the world’s longest and least bloody war, without a single shot being fired)であると言われている。

1651年9月3日 イングランド内戦(English Civil War, 1642-51)の終結。

1652年 東インドなどから東洋の富を満載して帰国するオランダ船団を英仏海峡(English Channel)でイングランドが襲撃して拿捕(だほ)するという海賊行為を行なうことで、イングランド共和国とネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)との間に第一次英蘭戦争(英 First Anglo-Dutch War; 蘭 Eerste Engelse Oorlog, 1652-54)が勃発(ぼっぱつ)。

1653年 クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)がイングランド共和国の護国卿(Lord Protector)に就任。

1654年4月5日 ウェストミンスター条約(仏 Traité de Westminster; 英 Treaty of Westminster; 蘭 Vrede van Westminster)が調印され、第一次英蘭戦争(英 First Anglo-Dutch War; 蘭 Eerste Engelse Oorlog, 1652-54)が終結。

1654年4月12日 イングランド共和国の護国卿クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)がスコットランドを連合(union)として併合。それ以降はスコットランドの議員がイングランド議会に議席を持つ。

1654年12月 イングランド共和国の護国卿クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)が「西方への意図(Western Design)」と称してスペイン人が支配するカリブ海へ艦隊を送り込み、翌’55年1月には西インド諸島に到達。

1655年 ニューカースル・アポン・タイン公爵夫人マーガレット・キャヴェンディッシュ(Margaret Cavendish, Duchess of Newcastle-upon-Tyne, c.1623-74)が『哲学的及び物理的意見』(Philosophical and Physical Opinions, 1655)を刊行し、その中で「イングランドの二大名門大学へ(To the Two Most Famous Universities of England)」と題した項目を立て、女性が教育の機会から疎外されている当時の現状について異議申し立てをする。

1655年5月 イングランド共和国海軍がスペイン王国領西インド諸島へ侵攻し、英西戦争(英 Anglo-Spanish War; 西 Guerra anglo-española, 1654-60)が本格的に勃発。戦いの舞台は西インド諸島のみならず、スペイン王国領ネーデルラント(現在のベルギー王国)にも及んだ。

1657年 イングランド共和国(Commonwealth of England)の独裁者クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)が、1290年に発布されたユダヤ人追放令を三百六十七年ぶりに解除。この決定により、欧州大陸のユダヤ教徒たちがロンドンへ集住するようになる。

1660年1月~5月 イングランド共和国(Commonwealth of England)が段階的に解体されて崩壊。

1660年5月29日 イングランドが王政復古(restoration)し、イングランド王国(Kingdom of England)が復活(これ以降ずっと王制)。十一年前に処刑されたステュアート朝(the House of Stuart)の国王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の次男(実質的な長男)が欧州大陸の亡命先(当初はフランス、後にオランダ)から帰還してチャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)として王位に就く。

1660年6月1日 王政復古したイングランド王国政府に南部担当国務大臣(Secretary of State for the Southern Department)という役職が設けられ、初代大臣に騎士エドワード・ニコラス(Sir Edward Nicholas, 1593-1669)。なお、この役職は南部省(Southern Department)が1782年3月27日(水)の省庁再編で廃止され、外務省(Foreign Office)と法務省(Home Office: 「内務省」とも訳される)にその職務が引き渡されることになる。

1660年9月 王政復古されたばかりのイングランド王国がスペイン王国との間に1654年以来続いていた交戦状態(英西戦争)を終結させる。

1660年11月28日 週一回の頻度で科学を論じ、科学実験をする目的で、物理・数学実験学習促進コレッヂ(College for the Promoting of Physico-Mathematical Experimental Learning)、現在の通称 王立協会(Royal Society)の前身が組織される。

1661年6月 イングランド国王チャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)とポルトガル王家ブラガンサ家の王女カタリーナ=英名キャサリン(葡 Catarina de Bragança; 英 Catherine of Braganza, 1638-1705)との結婚交渉が纏(まと)まる。持参金(dowry)としてイングランド王家がポルトガルからインド西部のボンベイ(Bombay)=現在のムンバイ(Mumbai)の一部に拠点を獲得。実際の結婚は翌年(1662年)5月21日のこと。

1662年7月15 日 二年近く前に組織された物理・数学実験学習促進コレッヂ(College for the Promoting of Physico-Mathematical Experimental Learning)が国王の勅許状(Royal Charter)を授かり、ロンドン王立協会(Royal Society of London)となる。

1663年4月23日 ロンドン王立協会(Royal Society of London)が二回目の勅許状(Royal Charter)を授かり、自然知識向上のためのロンドン王立協会(the Royal Society of London for the Improvement of Natural Knowledge)となる。

1664年 インド西部のカリカット(Calicut)=現在のコーリコード(Kozhikode)の有力者がイングランドの東インド会社(EIC: East India Company)に商館開設を許可。

1664年8月27日 イングランド王国軍が4隻の艦船に450名の兵士を載せ、北米のオランダ殖民地であるニューアムステルダム(Nieuw-Amsterdam; 英 New Amsterdam: 現在の米国ニューヨーク州ニューヨーク市)を含むニューネーデルラント(蘭 Nieuw-Nederland; 英 New Netherlands: 現在のニューヨーク州、ニュージャージー州、コネチカット州、デラウェア州、ペンシルヴェニア州、ロードアイランド州の一部に跨(またが)る地域)への侵攻を開始。

1664年9月8日 勝ち誇るイングランド王国軍がオランダ領ニューアムステルダム(蘭 Nieuw-Amsterdam; 英 New Amsterdam)をニューヨーク(New York)と勝手に改称。イングランド国王チャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)が実弟のヨーク公ジェイムズ(James Stuart, Duke of York, 1633-1701)、後の国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)に与えたためにこの名称となった。

1664年9月9日 北米のオランダ殖民地であるニューネーデルラントのオランダ総督ストイフェサント(Pieter Stuyvesant, 1612-72)はイングランド王国軍に対して無抵抗で降伏。市民権と信教の自由を認めさせる条件付き降伏だった。オランダ殖民地当局の正式な降伏を受けて、前日(9月8日)に決めたようにイングランド王国領ニューヨーク(New York)に正式に改称。

1665年1月 約三年半前の1661年6月にイングランドがポルトガル王家から平和裡に手に入れたインド西部のボンベイ(Bombay)=現在のムンバイ(Mumbai)の拠点を拡げるべくポルトガルと交渉。

1665年3月4日 第二次英蘭戦争(英 Second Anglo-Dutch War; 蘭 Tweede Engelse Oorlog, 1665-67)が勃発(ぼっぱつ)。

1665年3月6日 約四年半前の1660年11月28日に創立されたロンドン王立協会(Royal Society of London)の初代事務局長ヘンリー・オウルデンバーグ(Henry Oldenburg, 1619?-77; ドイツ時代はハインリッヒ・オルデンブルク Heinrich Oldenburg)が、研究成果を発表する場として機関誌 『王立協会哲学紀要』(Philosophical Transactions of the Royal Society)を創刊し、投稿された論文を選別して掲載することを開始。この当時フランスとイギリスの科学アカデミーが学術誌の発行を始めるも論文の質の差が大きく、似非(えせ)科学の論文も含まれていた。そこでオウルデンバーグ事務局長は投稿論文について、その著者の競争相手となる研究者を含む周囲の専門家に依頼し、論文掲載の是非に関する意見を求めるようになり、これがピア・レビュー(peer review: 「同業者による査読」の意)の始まりとされる。(一般財団法人公正研究推進協会(英称 Association for the Promotion of Research Integrity; 英略称 APRIN; 本部在東京都新宿区)監修による2016年7月29日(金)作成、2018年5月7日(月)最終修正の研究倫理関連eラーニングプログラム「eAPRIN(イーエイプリン)」に依拠した上で加筆)

1665年4月12日 ロンドン大ペスト(Great Plague of London, 1665-66)の最初の報告例。これ以後、翌’66年の年初にかけてロンドンで記録されているだけで68,596人が命を落とし(実際には10万人超とも言う)イングランド中部地方 (Midlands)のダービー(Derby)市にまでペストは拡散。ケイムブリヂ大学(University of Cambridge)が一時的に閉鎖されたため、自然哲学者・数学者のニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)はイングランド北東部の故郷リンカン州(Lincolnshire)に戻って微積分法(calculus)や万有引力の法則(law of universal gravitation)などの研究を進める。主要物資はすべて首都ロンドンに集められ、地方経済を疲弊させることになる。

1666年1月26日 フランス王国(現在のフランス共和国)がネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)と同盟を結んでイングランド王国に宣戦布告。イングランド王国は対蘭・対仏に戦力を分散する羽目になり、苦戦を強(し)いられる。

1666年2月1日 前年の4月から続いていたロンドン大ペストが収まったため、イングランド王室が疎開先からロンドンに戻る。

1666年9月2日(日)~5日(水) ロンドン大火(Great Fire of London)。日曜日にロンドン橋(London Bridge)の近所のプディング小路(Pudding Lane)のパン屋(a bakery)の竈(かまど)から燃え広がった火は日月火水の4日間に亘(わた)って燃え続け、ロンドン市内(現在の大ロンドン市シティ特別区)の家屋の約85%に相当する一万三千二百 (13,200)戸を焼失させる。死者数は不明で、記録されているのは6名しかいない。前年(1665年)から同年(1666年)にかけてロンドンで流行した大ペスト(Great Plague of London)の菌が、この大火のお蔭で死滅し、結果として感染者低減に貢献したとする皮肉な説もある。また、ロンドン大ペストの結果として主要物資がすべて首都ロンドンに集められ、地方経済は疲弊していたが、今回のロンドン大火により、地方から集められていた物資もすべてが灰燼(かいじん)に帰す。しかしながら、これが新たな需要を生み、地方経済が活性化し、イングランド中が生産と取引に沸き立つことになる。海外との交易も再開され、ロンドン大火後の七年間は英国史上屈指の経済活況を生む。三百五十年後の2016年9月には Great Fire 350 のイベントが首都ロンドンで開催されることになる。ロンドンの街が燃え続けた大惨事だったにも拘(かか)わらず、ウェブサイトを始め、関連グッズなどのデザインがポップな仕上がりになっている。

1667年6月9日~14日 前年のロンドン大ペストとロンドン大火による財政難でイングランド艦隊はチャタム市近郊のメドウェイ川に停泊した儘(まま)の状態が続いていたが、ネーデルラント(オランダ)海軍がこれを絶好の好機と捉(とら)え、メドウェイ川襲撃(英 Raid on the Medway)またはチャタム近郊への遠征(蘭 Tocht naar Chatham)を敢行(かんこう)し、停泊中のイングランド軍艦を焼き討ちにし、イングランド艦隊総旗艦ロイヤル・チャールズ(HMS Royal Charles)を含めた数隻を捕獲して持ち去った。イングランドはオランダに一時的に海上封鎖までされ、莫大な経済的打撃を受ける。

1667年7月31日 前月にメドウェイ川で手痛い敗北を喫していたイングランド王国は和平を急ぎ、ブレダの和約(仏 Traité de Bréda; 英 Treaty of Breda; 蘭 Vrede van Breda)を結んで第二次英蘭戦争(英 Second Anglo-Dutch War; 蘭 Tweede Engelse Oorlog, 1665-67)が終結。イングランド王国は北米の旧蘭領ニューネーデルラント(現在のニューヨーク州、ニュージャージー州、コネチカット州、デラウェア州、ペンシルヴェニア州、ロードアイランド州の一部に跨(またが)る地域)を正式に獲得。一方のオランダも占領した南米大陸の北岸(ギニアとスリナム)を獲得。

1668年9月21日 七年以上前の1661年6月にイングランド王室がポルトガルの王家から入手し、その後も規模を拡大していたインド西部のボンベイ(Bombay)=現在のムンバイ(Mumbai)殖民地を東インド会社(EIC: East India Company)に年間10ポンドで貸与。これ以後はボンベイが英領印度の一大拠点となる。そのため五十六年前の1612年に東インド会社が商館を築いていたインド西部のスーラト(Surat)は衰退する。

1672年3月12日 フランスの「太陽王」(« le Roi-Soleil »)こと、国王ルイ十四世(Louis XIV, 1638-1715; 在位1643-1715)が始めていたオランダ侵略戦争(仏 Guerre de Hollande; 蘭 Hollandse Oorlog; 英 Franco-Dutch War, 1672-78)に、イングランド国王チャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)が予定通り協力する形で第三次英蘭戦争(英 Third Anglo-Dutch War; 蘭 Derde Engelse Oorlog, 1672-74; 仏 Troisième guerre anglo-néerlandaise)が勃発。

1673年3月29日 カトリック勢力の巻き返しを恐れたロンドンのイングランド議会は1673年審査法(Test Act of 1673)を制定。これ以後、カトリック信徒(Roman Catholics; papists)及び非国教徒(non-conformists)は公職(public office)に就けなくなる。この状態が1828年に審査法が廃止されるまで続くことになる。

1674年2月19日 イングランド王国とネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)との間にウェストミンスター条約(仏 Traité de Westminster; 英 Treaty of Westminster; 蘭 Vrede van Westminster)が調印され、第三次英蘭戦争(英 Third Anglo-Dutch War; 蘭 Derde Engelse Oorlog, 1672-74)が終結し、イングランド王国がオランダ侵略戦争(仏 Guerre de Hollande; 蘭 Hollandse Oorlog; 英 Franco-Dutch War, 1672-78)から戦線離脱。しかしフランス王国は翌’75年まで戦争を継続。

1674年11月10日 同年2月に調印したウェストミンスター条約(仏 Traité de Westminster; 英 Treaty of Westminster; 蘭 Vrede van Westminster)に基づき、イングランド王国がネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国)からニューネーデルラント(蘭 Nieuw-Nederland; 英 New Netherlands: 現在のニューヨーク州、ニュージャージー州、コネチカット州、デラウェア州、ペンシルヴェニア州、ロードアイランド州の一部に跨(またが)る地域)を獲得し、反対にネーデルラントがイングランドからTobago, Saba, St Eustatius and Tortolaを二年ぶりに返還される。

1679年5月27日 「1679年人身保護法」(Habeas Corpus Act 1679)を国王チャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)が勅裁し、国民が不当に逮捕されないことが保証される。なお、羅典(ラテン)語の Habeās corpus. (ハベアース・コるプス; 英式発音 ヘイビアーズ・コーパス)を英語に直訳すると、Thou shouldst have the body. = You should have the body. (お前は体を持つべきだ)となる。

1680~82年 イングランドの海賊バーソロミュー・シャープ(Bartholomew Sharp, c.1650-1702)と300人の部下たちが中南米の海域で財宝を積んだスペイン船を次々と襲い、200人以上を殺害。シャープは1682年にロンドンに戻ったが、駐イングランド王国スペイン王国大使が1681年7月29日のスペイン船ロサリオ号の船長殺害に大いに腹を立て、シャープを海賊行為で裁判にかけて絞首刑にせよと要求したため、刑事裁判が開始されるもシャープは無罪を勝ち取る。英国に戻ったシャープは、当時貴重だった南海(South Sea: 現在の言葉で Pacific Ocean =太平洋のこと)が描かれたスペイン海図集の英語版複製をいくつか作らせてイングランド王チャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)に献呈していたことが功を奏し、無罪放免になったばかりかイングランド海軍で船長の地位を与えられる。(2020年9月13日(日)付のヤフーニュースに転載されたナショナルジオグラフィック日本版のオンライン記事に依拠)

1681年 十五年前に起こったロンドン大火(Great Fire of London)の結果として世界初の火災保険(fire insurance)がロンドンで生まれる。

1685年2月6日 死の床でカトリックに改宗したチャールズ二世(Charles II, 1630-85; 在位1660-85)の薨去(こうきょ)を受けて弟のジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)が王位に就く。

1688年6月10日 国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)の嗣(よつぎ)=世継ぎとなるべく男児ジェイムズ・フランシス(James Francis Edward Stuart, 1688–1766)がイタリアのデステ(d’Este)家出身のカトリック信徒の母親メアリー(英 Mary of Modena; 伊 Maria di Modena, 1658–1718)に生まれ、イングランドのプロテスタント主流派に衝撃が走る。

1688年11月5日 四十年近く前の1649年1月30日に処刑されたイングランド王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の外孫であるオランダのオラニエ公爵ウィレム(Willem III van Oranje, 1650-1702)=後のイングランド国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)が、イングランドの王位継承権を要求すべくオランダ兵を率いてイングランド南西部のブリクサム(Brixham)に上陸。妻のメアリー=後のイングランド女王メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)の父親はイングランド王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)であり、祖父はイングランド王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)であることから、夫のウィレム=ウィリアム三世とはいとこ同士(cousins)だった。

1688年12月11日 国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)がフランス亡命中(1651-60年)にカトリックに改宗していたことが発覚して問題になり、無血革命によって王位を追われる。流血沙汰なしで革命を達成できたので名誉革命(Glorious Revolution)と呼ばれる。ジェイムズ二世は再びフランスに亡命し、死ぬまでフランスの「太陽王」(« le Roi-Soleil »)こと、国王ルイ十四世の庇護の下でカトリック信徒として十二年九ヶ月後の1701年9月16日に六十七年の生涯を閉じることになる。

1688年12月12日~1689年2月12日 準備期間として3ヶ月間の国王不在状態が続く。

1689年1月28日 ロンドンのイングランド議会が、オランダのオラニエ公爵ウィレム(Willem III van Oranje, 1650-1702)を国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)として、その妻のメアリーを女王メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)として迎え入れ、「共同統治」とすることを宣言。

1689年2月13日 メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)と夫ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)との共同統治時代が始まる。男性国王と女王の二人(いとこ同士の夫婦)が国王を務めるという、今のところ英国史上最初で最後の対等の権力による「共同統治」が認められた状態と多くの資料に書いてあるが、上記の女王メアリー一世(1516-58; 在位1553-58)との名ばかり共同統治者・国王フィリップ一世(King Philip I of England, 1527-98; 在位1554-58)を名乗った夫のスペイン皇太子フェリペ=1556年の父王の死後はスペイン王フェリペ二世(西 Felipe II; 英 Philip II of Spain, 1527-98; イングランド及びアイルランド王在位1554-58; スペイン王在位1556-98; ポルトガル王在位1581-98)の先例もある。ともにスコットランド王家であるスチュアート家の血を引き、1649年にピューリタン革命で処刑されたチャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の孫であり、プロテスタント信徒だったので夫も妻と同等の国家元首(Head of State)の扱いを受けた。この1689-94年の時代のことを「ウィリアムとメアリー(William and Mary)」とも呼ぶ。

1689年3月 フランスに亡命中の元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)がフランス軍と共謀してアイルランド島南西部のリメリックに上陸。アイルランドのカトリック勢力と合流して、アイルランド島北部のアルスター地方のプロテスタント勢力を攻略。

1689年6月 イングランドから派遣された新国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)のプロテスタント軍勢がアイルランド島北部のアルスター地方の大部分を掌握。ロンドンデリー(頭に「ロンドン」の付くこの名を嫌うカトリック 信徒が単に「デリー」と呼んでいる北アイルランドの都市)を攻撃したが、手中に収めるのは失敗。

1689年7月 プロテスタントの軍勢がアイルランド島北部のアルスター地方を奪還。

1689年8月12日 プロテスタントの軍勢はロンドンデリーで十五週間にも及ぶ籠城戦を続け、カトリックの軍勢の攻撃に耐えていたが、新国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)の軍勢(プロテスタント)が駆けつけて町を解放。カトリックの軍勢は敗走。

1689年12月16日 「権利の章典」(Bill of Rights 1689)がイングランド議会で批准されたことで、臣民(国民)の権利と自由が定められる。この法典は現在も有効であり、1215年6月15日の「大憲章」(羅 Magna Carta; 英訳 Great Charter)と、1628年6月7日の「権利の請願」(Petition of Right)と並んで、イギリスの不文憲法(unwritten constitution)を構成する重要な基本法として今日でも位置づけられている。

1690年 イングランドの東インド会社(EIC: East India Company)がインド東部のカルカッタ(Calcutta)=現在のコルカタ(Kolkata)に商館を開設。

1690年7月10日 イングランド王国とオランダ共和国(現在のオランダ王国)の海軍(両国で合計56隻)が、フランス王国(現在のフランス共和国)の海軍(75隻)とイングランド南岸沖のビーチーヘッドの海戦(Battle of Beachy Head)で戦闘。フランス側は1隻の船舶も失わず、逆に英蘭側が少なくとも7隻(11隻の説もあり)の艦船を失い大敗北。

1690年7月12日 新国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)のプロテスタント軍勢が元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-1688)のカトリック軍勢をボイン川の戦い(Battle of the Boyne)で破る。なお、北アイルランドのプロテスタント信徒「オレンジマンたち(Orangemen)」は三百年以上経過した今でも、戦勝の記念に毎年夏(7月12日と8月12日)に凱旋行進する。記念行進は戦いの翌年からすぐに始まったわけではなく、合戦から百年ほど経過した18世紀末のオレンジ団(Orange Order or Orange Institution)の結成に端を発していると考えられる。これに対してカトリック信徒たちは行進を忌み嫌って大抵は家に籠るが、それに耐えられなくなった一部の者が反撃に出るため、毎年暴力沙汰などのトラブルが絶えない。

1690年代 イングランドは北米の新大陸へ毛織物を輸出し、その代金で金、銀、銅の金属を手に入れ、それをインド産の綿製品の支払いに充てていたが、インドの綿製品、特にキャラコ(calico)という薄手の綿製品が手織物よりも軽く、様々な色と模様に仕上げられるという理由でイングランドにて大きな人気を博す。インド木綿の大流行は毛織物産業に大打撃を与え、イングランドの毛織物は危機に陥(おちい)る。

1691年7月 アイルランド・フランス同盟軍はイングランドのウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)の軍勢に最終敗北し、14,000人の軍勢でフランスへ敗走。結局ジェイムズ二世は三度目のフランス亡命生活を余儀なくされ、「太陽王」ことフランス国王ルイ十四世(Louis XIV, 1638-1715; 在位1643-1715)の庇護の下でカトリック信徒として1701年に六十七年の生涯を閉じることになる。アイルランドの全島はイングランド王国によって完全殖民地化される。

1693年 時の国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)と女王メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)という、いとこ同士の夫婦君主による認可に基づき、イングランド王国領北米ヴァージニア殖民地(現在の合衆国東部のヴァージニア州)にウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)が創立される。この大学はアメリカでは1636年創立のハーヴァード大学(Harvard University)に次いで二番目に古い。

1694年7月27日 国王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)が、四年前の1690年にフランスに対して大敗した自国の海軍の再建のため、「イングランド銀行総裁と仲間たち」(Governor and Company of the Bank of England)という名の私企業=現在のイングランド銀行(Bank of England)の前身を設立。資本金はイングランド王家が20%、複数の銀行家が80%を出す。これが今日の通貨発行権と信用創造権を有する英国の中央銀行(日本で言えば1882年設立の日銀=日本銀行)の起こり。なお、中央銀行の成立史では1668年に設立されたスウェーデン国立銀行(典 Sveriges Riksbank; 英訳 Sweden’s State Bank)が史上初の中央銀行であり、イングランド銀行は二番手ということになるが、スウェーデン議会(Riksdag)がスウェーデン国立銀行に通貨発行権を許可したのは1701年のことなので、通貨発行権と信用創造権を有する中央銀行としては、イングランド銀行が史上初である。

1698年 イングランドの東インド会社(EIC: East India Company)がインド東部のカルカッタ(Calcutta)=現在のコルカタ(Kolkata)の徴税権(the tax collection rights; the power to levy taxes; the authority of tax collection)を購入。

1698年 キリスト教知識普及協会(Society for Promoting Christian Knowledge)が創設され、慈善学校の事業を開始。

1700年 疲弊・衰退していく毛織物産業の圧力がイングランド議会を動かし、議会は保護貿易政策を模索した結果、キャラコ法(Calico Act 1700: 日本の歴史教科書では「キャラコ輸入禁止法」)を可決。印度(インド)のみならずシナ(現在の中国)や波斯(ペルシア: 現在のイラン)のキャラコ布地の輸入・着用・使用が禁止となる。しかしながら、綿糸の輸入は許可し、再輸出用に輸入することも認められ、しかも無地のキャラコは禁止対象外となったため、毛織物産業の危機は収束せず。向こう二十年間はイギリスで無地のキャラコを輸入し、染色することで輸入禁止法を潜(くぐ)り抜ける産業が急成長。

次の年表( https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline2 )へ続く。